K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(10月)月次掲示板
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今回の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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十月になりました。
の季節です。味覚の秋、体育の秋です。

 そよや風われはその声知らねども百舌鳴くやうな夕暮れ来たる・・・・・・・・・・・・・・内藤明
 ひと隅を占めて咲きいる慎ましさつゆの乾ぬまのむらさきしきぶ・・・・・・・・・・・・三枝浩樹
 青空のふかく澄む日は 聞こえるかきんもくせいの老人のこゑ・・・・・・・・・・・・小島ゆかり
 水流の底にしづめる落葉らの一つがくるり起きて流れぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤一彦
 柘榴六つすべて色づきたると見ぬ今年の秋にわれは立ち会ひ・・・・・・・・・・・・横山未来子
 誰の味にも似ないチキンを友とする子は育ちたり武蔵の国に・・・・・・・・・・・・・・・佐伯裕子
 左手にひなたの水の体温のしみじみと来て植物となる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・尾崎まゆみ
 からみつくことばの奥の俗のひとほむらだちゐるひとすぢの青・・・・・・・・・・・・・・・三井ゆき
 更けてなほ灯のまばゆかる秋の街オリオン座流星群ひそと降りゐむ・・・・・・・・・・石川恭子
 四十年農具のやうに働きし十指朝日に戦ぎはじめぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・時田則雄
 年々の花よりまぼろし歳々を生死のことにほうとしわれは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・成瀬有
 <うら>と読むときに心は緩びゆき 心(うら)せつなさに 心さびしかり・・・・・・・・・・松平盟子
 はるかなる星の火山を思ふかな尖りそめたる少女の乳房・・・・・・・・・・・・・・・・・秋山佐和子
 鬼やんま天井にとまり尾のぶらり垂るるを見しよしんとせる昼・・・・・・・・・・・・・・・・安田純生
 柳にも竹にもよらずあきのかぜ・・・・・・・・・・・・・・・・・三浦樗良
 十月や
顳顬さやに秋刀魚食ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
 地の底の秋見とどけし子芋かな・・・・・・・・・・・・・長谷川零余子
 秋の航一大紺円盤の中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
 蛇消えて唐招提寺裏秋暗し・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
 石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり・・・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男
 カステラが胃に落ちてゆく秋の昼・・・・・・・・・・・・・・・・大野林火
 秋暁や胸に明けゆくものの影・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
 山門をぎいと鎖すや秋の暮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・正岡子規
 足もとはもうまつくらや秋の暮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
 秋の夜や紅茶をくぐる銀の匙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城
 にせものときまりし壺の夜長かな・・・・・・・・・・・・・・・・・木下夕爾
 機関車の底まで月明か 馬盥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子
 生後死後栗の実甘く熟れにけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・三井葉子
 点鬼簿に入りしその名を虫のこゑ・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 柘榴打ちリリーマルレーン唄ふべし・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 新涼の
より遠く駝鳥二羽・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡田由季
 紙コップ抜く遠望の灯台に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・林田紀音夫
 あるはんぶらつく移動祝日晴れはれ・・・・・・・・・・・・・・加藤郁乎
 ティンガティンガ派として描く月の穴・・・・・・・・・・・・・・・佐山哲郎
 虫置きし土間のその窓子規惜しむ(回文)・・・・・・・・・・井口吾郎
 噴水の気高く上がり無惨に散る・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥坂まや
 太古より忘れしものや赤き月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湾夕彦
 星合や鏡の中を人よぎり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藺草慶子
 鯖缶を三つ並べる都市計画・・・・・・・・・・・・・・・・・・・樋口由紀子
 黒になる前のカラスに会ってきた・・・・・・・・・・・・・・・柴田夕起子
 折り鶴の向こうに続く背骨あり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・畑美樹
 光は線になりたくさんの線になり・・・・・・・・・・・・・・・・・徳永政二
 泣きながら歩いてどこにも着かない・・・・・・・・・・・・・・坂本きりり
 天神さんの裏のリビアが大騒ぎ・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田柊馬
 幾人も死児きて水位測りあう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石部明
 日の丸も君が代も尊大語だから・・・・・・・・・・・・・・・・原田否可立
 虫鳴いて人であること思ひだし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

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これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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ひともまた弧影曳きをり穴まどひ・・・・・・・・・・・・・・鈴木孝一
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  ひともまた弧影曳きをり穴まどひ・・・・・・・・・・・・・・鈴木孝一

夏の間活動してきた蛇は、「変温動物」なので、気温が低くなると活動が鈍くなる。
晩秋になると「冬眠」のために穴に入る。秋の彼岸頃と言われているが、実際にはもっと遅い。
数匹から数十匹がどこからともなく集まり一つ穴に入り、からみあって冬を過ごすという。
固まることによって、体温を維持し、体温の極端な低下を防ぐためである。
彼岸過ぎても穴に入らないものを俳句では「穴惑い」という。
沖縄では十二月まで活動するらしい。
写真①は「ジムグリ」というナミヘビ科の日本に棲む蛇である。

写真②は、シマヘビのうち、色が真っ黒に特化したものでカラスヘビ黒化型という。

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春の季語に「啓蟄」とか「蛇穴を出る」とかいうのがあるが、これらは蛇や爬虫類、両棲類、虫などが、暖かくなってぞろぞろ地中から這い出てくることをいうが、
秋になって冬眠のために穴探しをするのを「蛇穴に入る」という現象である。
蛇は自分では穴を掘ることが出来ないので、蟻などの掘った穴を利用するらしい。

世の中には蛇嫌いの人が多くて、見つけると狂気のように打ちのめしたりする人が居るが、マムシなどの毒蛇でない限りは、概して野ネズミなどを食べる有益な生物である。
古来、日本では「巳成金」と言って蛇は利殖の神様として扱われ、蛇の脱皮した「抜け殻」を財布などに仕舞う風習がある。

掲出句は、そんな秋の蛇の行動を、人の姿に引きつけて詠んでおり、面白いと思って、いただいた。

以下、冬眠前の秋の蛇、穴惑いを詠んだ句を引いて終る。

 穴撰みしてやのろのろ野らの蛇・・・・・・・・小林一茶

 今日も見る昨日の道の穴まどひ・・・・・・・・富安風生

 蹤き来る妹には告げぬ秋の蛇・・・・・・・・山口誓子

 身を結び身を解き孤り穴惑ひ・・・・・・・・中村草田男

 穴惑刃(やいば)の如く若かりき・・・・・・・・飯島晴子

 フォッサ・マグナの南端を秋の蛇・・・・・・・・原田喬

 穴惑ひ畦をまたぎてゆくところ・・・・・・・・清崎敏郎

 真二つに折れて息する秋の蛇・・・・・・・・宇多喜代子

 落胤のやうに去にけり秋の蛇・・・・・・・・伊藤白潮

 穴惑ばらの刺繍を身につけて・・・・・・・・田中裕明

 落日に影を曳きゆく穴まどひ・・・・・・・・秋篠光広

 耳遠き世はこともなし穴まどひ・・・・・・・・奥野桐花

 うろたへてあとはすらりと秋の蛇・・・・・・・・広瀬直人

 追はれては水を走れり穴まどひ・・・・・・・・岡村寿美

 身の丈に若さ残せり秋の蛇・・・・・・・・笠原興一

 百匹の蛇穴に入る楢木山・・・・・・・・御崎敏枝

 落日の刻はかりゐる穴まどひ・・・・・・・・松本節子



たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき・・・・・・・・・・・・近藤芳美
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    たちまちに君の姿を霧とざし
        或る楽章をわれは思ひき・・・・・・・・・・・・近藤芳美


この歌は近藤芳美の、戦後まもなくに発表した「相聞」の歌として有名なものである。
作られたのは戦前で、とし子夫人との甘やかな新婚時代あるいは婚約中の交際時期のものであろうか。
『早春歌』昭和23年刊所載。
近藤芳美は東京工業大学出の建築家が本職。建築技師や大学教授などを務めた。
広島高等学校在学中に中村憲吉について「アララギ」入会。
戦後は新風十人などとして嘱望され、アララギの若き俊英と呼ばれる。
昭和26年短歌結社「未来」創刊、30年より朝日歌壇選者。近年、「未来」編集を岡井隆に譲る。
この歌のように、いかにもインテリらしい作風と処世の態度を一貫させてきた。
左翼運動さかんな頃も、それに共感を寄せつつも、それに溺れることはなかった。
また前衛短歌運動の時期も、ある一定の距離を置いて接してきた。
それらの運動の退潮期を経た今は、むしろ近藤芳美の生き方、処し方が自由な姿勢として評価されている。
以下、近藤芳美の歌を少し引く。

  落ちて来し羽虫をつぶせる製図紙のよごれを麺麭で拭く明くる朝に

  国論の統制されて行くさまが水際立てりと語り合ふのみ

  送りかへされ来し履歴書の皺つきしに鏝あてて又封筒に入る

  果物皿かかげふたたび入り来たる靴下はかぬ脚稚(をさな)けれ

  コンクリートの面にひそかに刻みおきしイニシヤルも深く土おほはれつ

  あらはなるうなじに流れ雪ふればささやき告ぐる妹の如しと

  手を垂れてキスを待ち居し表情の幼きを恋ひ別れ来りぬ

  果てしなき彼方に向ひて手旗うつ万葉集をうち止まぬかも

  鴎らがいだける趾の紅色に恥(やさ)しきことを吾は思へる

  営庭は夕潮時の水たまり処女(をとめ)の如く妻かへりゆく

  売れ残る夕刊の上石置けり雨の匂ひの立つ宵にして

  耳のうら接吻すれば匂ひたる少女なりしより過ぎし十年

  生き死にの事を互ひに知れる時或るものは技術を捨てて党にあり

  乗りこえて君らが理解し行くものを吾は苦しむ民衆の一語

  帰り来て踏まれし靴を拭くときに吾が背に妻は抱かむとする

  傍観を良心として生きし日々青春と呼ぶときもなかりき

  講座捨て党に行く老いし教授一人小さき一日の記事となるのみ

  身をかはし身をかはしつつ生き行くに言葉は痣の如く残らむ

  離党せむ苦しみも今日君は告げ売れざる暗き絵を置きて行く

  反戦ビラ白く投げられて散りつづく声なき夜の群集の上

  森くらくからまる網を逃れのがれひとつまぼろしの吾の黒豹
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近藤芳美は90歳を越えても現役歌人として大きな地歩を占めてきたが、2006年6月21日に亡くなった。
作品数も膨大なものである。上には初期の歌集『早春歌』『埃吹く街』『静かなる意思』『歴史』から引いた。
これらを読むだけでも、先に書いた近藤芳美の生き方が作品の上にも反映していることが読み取れるだろう。
私としても一時は「未来短歌会」に席を置いたものとして無関心では居られない。
事典に載る記事を下記に引いておく。
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近藤芳美
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年5月5日 - 2006年6月21日)は、日本の歌人である。

本名は近藤 芳美(読みは同じ)。戦後の歌壇を牽引する歌人として活躍し、文化功労者に選ばれた。長年「朝日歌壇」(朝日新聞)の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持つ。

生涯
1913年、父の赴任先であった旧朝鮮(現・大韓民国)・慶尚南道の馬山で出生。12歳で帰国し、父の郷里・広島市鉄砲町(現・広島市中区鉄砲町)で育つ。広島二中(現・広島観音高)時代の教師に影響を受け、短歌に関心を抱いた。旧制広島高校(現広島大学)在学中に、広島市近郊で療養中の歌人中村憲吉を訪ね、「アララギ」に入会、本格的に作歌を始めた。以後、中村及び土屋文明に師事した。

東京工業大学卒業後、清水建設に入社。設計技師として勤務する傍ら、アララギ同人としての活動を継続した。戦時中は中国戦線に召集された。終戦後の1947年、加藤克巳、宮柊二ら当時の若手歌人と「新歌人集団」を結成。同年、評論『新しき短歌の規定』を発表した。またこの頃、鹿児島寿蔵や山口茂吉、佐藤佐太郎らと共に「関東アララギ会」を結成している。

1948年、妻で歌人のとし子(本名=年子)への愛情などを綴った処女歌集『早春歌』を上梓。同年刊行の歌集『埃吹く街』と共に注目を集め、戦後派歌人の旗手としてのデビューを飾った。

1951年、岡井隆、吉田漱、細川謙三らと共にアララギ系短歌結社「未来短歌会」を結成、同時に歌誌『未来』を創刊し、これを主宰。石田比呂志、大田美和、道浦母都子など多くの歌人を育成した。また、現代歌人協会の設立に尽力し、1977年以来約15年に亘って同協会の理事長の任にあり続けた。神奈川大学の教授も務めた。

このほか、朝日新聞をはじめ、中国新聞、信濃毎日新聞などの短歌欄の選者として、市井の人々による短歌に対し積極的な評価を行った。殊に朝日新聞の「朝日歌壇」では、1955年から2005年1月まで約半世紀に亘って選者を務めた。

2000年から2001年にかけて、これまでの歌集や評論をまとめた『近藤芳美集』(全10巻、岩波書店)が刊行された。

2006年6月21日午前10時1分、心不全(毎日新聞によれば、前立腺癌)のため、東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去。93歳。遺志により、葬儀・告別式は親族のみで行い、後日未来短歌会主催による「しのぶ会」を開く予定。

思想
芯からの反戦主義者として知られる。自らの戦争体験から、平和を強く希求するようになった近藤は、終戦記念日に日本戦歿学生記念会(わだつみ会)が開催した反戦集会に参加するなど、戦争に反対する主張を一貫して展開した。その姿勢は自らの評論や短歌のみならず、新聞の短歌欄における選歌にも反映されており、「朝日歌壇」で彼が選ぶ歌の中には、反戦に関する作品が必ずといって良いほど含まれていた。教育現場での日の丸・君が代強制問題が浮上した時期には、強制に反対する立場から詠まれた歌を複数回採用している。 そのためか、朝日歌壇は一部の愛国者から「時事詠が多すぎる」と批判されている事もある。

年表
1913年 出生
1932年 「アララギ」に入会
1947年 「新歌人集団」を結成
評論『新しき短歌の規定』発表
1948年 歌集『早春歌』、『埃吹く街』を刊行
1951年 6月、歌誌『未来』を創刊、編集発行人に就任
1956年 現代歌人協会設立
1969年 『黒豹』(1968年)で第3回迢空賞を受賞
1977年 現代歌人協会理事長に就任(~1991年)
1986年 『祈念に』(1985年)で第1回詩歌文学館賞を受賞
1991年 『営為』(1990年)で第14回現代短歌大賞を受賞
「近藤芳美方」としていた『未来』発行所を、東京都中野区東中野に移転。同時に発行人名義を岡井隆に譲る
1994年 『希求』(1994年)で第6回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞
2006年 死去

近藤芳美の歌碑が此処にあるのでご覧あれ。彼の出身地である広島のことも書かれている。
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この掲出歌の対象と思われる「近藤とし子」夫人も、昨年秋に亡くなられた。
その件について、こんなツィッターがネット上に出ているので引いておく。

@caille2006
うずら

近藤年子氏、2日に死去。92歳。向山のご自宅によく芳美先生の原稿を頂きに伺った。
リリアン・ギッシュのような可憐な姿は「早春歌」の名歌「たちまちに君の姿を霧とざし」の「君」そのままだと思ったものだった。
06年に芳美先生が亡くなってからのお辛さが偲ばれる。楽になられただろうか。合掌。
11月4日 TweetMe for iPhoneから
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これによると2010/11/02に亡くなられたようだ。本名は年子だが、ペンネームは「とし子」だった。
ご夫妻の間には子供はなかったので、淋しい晩年だった、と思われる。ご冥福をお祈りする。

彼一語我一語秋深みかも・・・・・・・・・・・・・高浜虚子
05曽爾高原すすき

    彼一語我一語秋深みかも・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

「深み」の「み」は、形容詞の「深し(深い)」の末に添えて名詞化する接尾語で、「秋深み」は秋の深まった状態を言う。
天地の間に置かれた二人の人物。
一方がポツリと一語を発すると、もう一方も一語ポツリと返す。言うに言われぬ時が流れて、二人の男も、発した言葉も、深い秋のまつただなかにある。
『六百五十句』昭和30年刊所収。
高浜虚子は何と言っても俳句界の巨人であって、作句も多く、私も何回も採り上げてきた。
以下、重複しないように気をつけて虚子の句を少し引く。

    海に入りて生れかはらう朧月

    蚊帳越しに薬煮る母をかなしみつ

    ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
    ・・・・・9月14日。在修善寺。東洋城より電報あり。曰く、センセイノネコガシニタルヨサムカナ トヨ
         漱石の猫の訃を伝へたるものなり。返電。・・・・・(明治41年)

    春風や闘志いだきて丘に立つ

    露の幹静かに蝉の歩き居り

    冬帝先づ日をなげかけて駒ケ岳

    石ころも露けきものの一つかな

    道のべに阿波の遍路の墓あはれ

    鎌倉に実朝忌あり美しき

    我が生は淋しからずや日記買ふ

    風生と死の話して涼しさよ
芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ・・・・・・・・・・・・・・・長塚節
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    芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ
       子芋は白く凝りつつあらむ・・・・・・・・・・・・・・・長塚節


長塚節は正岡子規の高弟。
初期「アララギ」を伊藤左千夫とともに主導した歌人・小説家。茨城県に旧家の地主の長男として生まれ、育った。結核のため36歳で没。
写生の歌に独自の境地を開き、鋭い観察と冴えた感覚には完成された風格があった。

掲出の歌は里芋の葉から地面に落ちつづける夜の露。その白玉の露がしみて、地中の芋は白く輝きながら実りつつあるだろう、という。
地中を凝視する目と想像力がもたらした印象鮮やかな歌。
ただ「芋」というと里芋のことである。
里芋は学名を Colocasia antiquorum var. esculenta というが、インドからマレーシアにかけての南アジアが原産地。
ミクロネシアなど南方に広がったタロイモは、その野生種に近いと言われる。
サトイモの方は、寒さに適応してアジア北部まで広がった品種で、中国では紀元前から栽培の記録あり。
日本では稲作が始まった時期よりも古く、縄文中期から栽培されたと考えられる。
つまり古代日本では、サトイモ栽培が稲作と共存していたが、連作が効かないサトイモに対して、
一度田んぼを作ると毎年連作できる稲作の方が日本の国土に合っていたのだろう。稲作が出来ない畑地などに、ようやく生き残ってきた。
東北地方で河原などで開かれる「芋煮会」の芋というのもサトイモのこと。むかしはサトイモはよく食べられた。
種芋を植えて親芋として太らせ、子芋、孫芋を増殖させて10月に収穫する。

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地方によって呼び方は違うと思うが、関西では写真(2)を「子芋」と呼ぶ。

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写真(3)は子芋の味噌和えの煮付けだが、子芋自体は甘みもない淡白なものなので、どんな料理にも合う反面、特徴のある味ではないので、人すきずきである。
親芋は京都では「頭(かしら)芋」と言い、お正月の雑煮に入れて、一家の家長に「頭にふさわしく」と言って食べさせるが、余りうまいものではない。
「衣被(きぬかつぎ)」というのは皮のついたままの子芋を茹でたもの。
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写真(4)(5)にサトイモの調理例を出しておく。(4)はサトイモと鶏肉の煮付け、(5)は鶏肉ミンチとのそぼろあんかけである。
サトイモが調理上嫌われるのは手がかゆくなるヌルヌルのためだが、その正体は蓚酸カルシウムの針状結晶のしわざ。
皮をむくときに皮膚について刺激する。茹でれば問題ないが、防御としては芋をむくときに、手に酢か塩をつけること。
濡らしたキッチンタオルで皮ごと一つ一つくるんで電子レンジにかけてから皮をむくとよい。
この一見やっかいな里芋のヌルヌルにはガラクタンという脳細胞を活発にする物質や消化酵素が含まれているので体によいものであるから毛嫌いせずに使いたい。
電子レンジ調理が一番手軽である。

俳句にも古くは松尾芭蕉の

   芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

という有名な句があるが、現代俳句にも秀句があるので、それを引いておく。

 芋の露連山影を正しうす・・・・・・・・飯田蛇笏

 地の底の秋見届けし子芋かな・・・・・・・・長谷川零余子

 芋照りや一茶の蔵は肋あらは・・・・・・・・角川源義

 案山子翁あち見こち見や芋嵐・・・・・・・・阿波野青畝

 雀らの乗ってはしれり芋嵐・・・・・・・・石田波郷

 芋掘りし泥足脛は美しく・・・・・・・・平畑静塔

 箸先にまろぶ子芋め好みけり・・・・・・・・村山古郷

 風の神覚むるや芋の煮ころがし・・・・・・・・野中久美子

 芋の露天地玄黄粛然と・・・・・・・・平井照敏


十月二十六日午後十一時四十二分、私はなと書く。なの意味するところは、・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎
na0035「な」

    な・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

十月二十六日午後十一時四十二分、私はなと書く。なの意味するところ

は、一、日本語中のなというひらがな文字。二、なという音によって指示

可能な事、及び物の幻影及びそこからの連想の一切。即ちなにはなに始ま

り全世界に至る可能性が含まれている。三、私がなと書いた行為の記録。

四、及びそれらのすべてに共通して内在している無意味。

十月二十六日午後十一時四十五分、私は書いたなを消しゴムで消す。なの

あとの空白の意味するところは、前述の四項の否定、及びその否定の不可

能なる事。即ちなを書いた事並びに消した事を記述しなければ、それらは

他人にとって存在せず従ってその行為は失われる。が、もし記述すれば既

に私はなを如何なる行為によっても否定し得ない。

なはかくして存在してしまった。十月二十六日午後十一時四十七分、私は

私の生存の形式を裏切る事ができない。言語を超える事ができない。ただ

一個のなによってすら。
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日付と時間の入っている谷川俊太郎の詩なので、今日の日付で載せた。
これは『定義』という24篇の散文詩風の作品で構成される詩集で1975年思潮社刊に載るもの。
物事を「定義する」ということに拘って24もの詩をものした詩才に脱帽したい。
こういう詩の作り方は詩作りのトレーニングになる。


病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出・・・・・・・・・・・・・・・・・・北原白秋
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  病める児はハモニカを吹き夜に入りぬ
   もろこし畑の黄なる月の出・・・・・・・・・・・・・・・・・・北原白秋


私の子供の頃は「ハーモニカ」全盛の時代だった。
ハーモニカ演奏の名手だった宮田東峰という人がいて伝説的な話を聞かされたりした。
今でも「ミヤタ」ブランドのハーモニカがあると思うが、この名前は、この人に因んでいる。

掲出したハーモニカは今のもので「クロマチック・ハモニカ」というらしい。画面右側に見えるボタンを操作して半音とかの切り替えをするらしい。
私は楽器には素人なので間違っていたらゴメンなさい。昔は、こんな機能のあるハモニカはなかった。

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写真②はネット上で見つけたハーモニカのカタログからのもの。
私たちの子供の頃は原始的なハーモニカだったが、その頃からさまざまな、複雑な演奏のできるハーモニカがあったようだ。
吹く穴と吸う穴が同じなのは、今も同じだろうか。
私は音楽、楽器音痴だったので何も知らない。

この白秋の歌は、白秋の子供がまだ小さかった頃のものであろうか。
病んでいる子という人事と「もろこし畑の黄なる月の出」という叙景が、うまく一首のなかで溶け合っている。
その後どこかで読んだ文によると、この歌の「子供」というのは、フィクション上の子供だ、ということらしいので、ここに付記しておく。
「ハーモニカ」という季語はないし、短歌に詠われている作品も目下は見出せないので、この辺にしておく。以下は余談である。



だいぶ以前に、NHK-BSでマカロニウエスタンの、その名も「ウエスタン」という映画を視たことがある。
チャールズ・ブロンソンの吹くもの悲しげな「ハモニカ」が響いて、アメリカの西部劇とは一味違った佳い映画だった。
エンリコ・モリコーネの曲だということである。
↑ それに関連する動画を見つけたので埋め込んでおく。
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新潮社の読書誌『波』2004年10月号に庄野潤三の「けい子ちゃんのゆかた」連載10回のなかに、ハモニカに関連する次のような文章が載っていたので、紹介する。

ハーモニカ(2月4日)
夜のハーモニカは、昨日に続いて「どこかで春が」を吹く。一日の仕事が終り、あとはフロに入って寝るだけというときに、妻は書斎の本棚の前においたハーモニカの箱をとって来て、こたつの上におく。「夜のハーモニカ」の時間である。何にしようかといって、曲をきめ、私の吹くハーモニカに合せて妻が歌う。昔の唱歌や童謡のなかから選ぶ。これが私たちの大切な日課となってからどのくらいたつだろう?十年になるかも知れない。その季節の歌を吹く。二月の「早春賦」、九月ごろの「赤蜻蛉」は、二人のいちばんのお気に入りのレパートリーである。四月の「春の小川」も好きで、よく吹く。
「どこかで春が」もいい。「どこかで春が生れてる」で始まり、「どこかで水が流れ出す」と続くところがいい。「どこかで芽の出る音がする」というのもいい。百田宗治の作。この人のことはよくしらないが、「どこかで春が」一作で尊敬すべき詩人であることが分る。好きな童謡だ。
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この連載は「私小説」の作者らしく、日記風に身辺の雑事が描かれている。別の日付に「誕生日」という2月9日付けの記事があり、孫(次男の子)の文子ちゃんから82歳のお誕生日おめでとうございます、という手紙が来る、というのを見ると作者の年齢が判る。2004年に82歳だから2009年は87歳ということになるが、その庄野潤三さんは同年9/21に亡くなられた。
毎日新聞ネット版の記事を引いておく。

訃報:作家、庄野潤三さん死去 88歳

作家の庄野潤三さん=2004年4月 「静物」や「夕べの雲」など日常生活を静かな筆致で描き、「第三の新人」を代表する一人として活躍した作家、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)さんが21日、老衰のため死去した。88歳。葬儀は28日午後1時、川崎市多摩区南生田8の1の1の信行寺春秋苑。自宅は多摩区三田5の9088。喪主は妻千寿子(ちずこ)さん。

 大阪市生まれ。九州帝大東洋史学科卒業後、海軍予備学生として出征。復員後、島尾敏雄らと同人誌を創刊した。中高教師、朝日放送勤務などのかたわら「舞踏」「恋文」などを発表。1955年、平凡な暮らしにひそむ危機をとらえた「プールサイド小景」で芥川賞受賞。詩情豊かに生活の細部を描いて、安岡章太郎氏や吉行淳之介、遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれた。

 夫婦の亀裂を描いた「静物」(60年、新潮社文学賞)は戦後文学の名作に数えられる。その後も「夕べの雲」(65年、読売文学賞)、「絵合せ」(71年、野間文芸賞)、「明夫と良二」(72年、毎日出版文化賞)など人生の機微を追求する家庭小説を書いた。一方で「浮き燈台(とうだい)」「流れ藻」など見聞に基づいてストーリーを構成した作品も好評に迎えられた。

 「ガンビア滞在記」(59年)、ロンドン紀行「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」(84年)、脳内出血後の記録「世をへだてて」など、随想にも秀作が多い。90年代後半からは自身の日常生活を題材に「貝がらと海の音」「庭のつるばら」などを主要文芸誌に書き継ぎ、健在ぶりを示した。それは06年3月刊行の「星に願いを」に至っている。「庄野潤三全集」(全10巻・講談社)がある。

 父貞一さんは帝塚山学院を創設した教育者。児童文学作家の庄野英二さんは実兄。78年に日本芸術院会員になった。

 ▽作家、阿川弘之さんの話 従来の私小説とは微妙に異なる、清純な家庭小説を多く書いた。子や孫を大事にする作風が心に残っている。やるべき仕事をやり終えた一生だったと思う。

 ▽女優、大浦みずきさんの話 亡父(作家、阪田寛夫)とのご縁から公演を熱心にご覧くださり、もう一人の父親が見守ってくれているようで、心強く思っておりました。いつも優しく厳しい目で見てくださり、幸せでした。本名(なつめ)も芸名も付けていただき、名前に恥じないよう、一生懸命生きていこうと思います。心よりご冥福をお祈りします。

毎日新聞 2009年9月22日 15時29分(最終更新 9月23日 0時48分)

佐伯泰英『古着屋総兵衛影始末⑦~⑪』/『百年の呪い』・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

  佐伯泰英『古着屋総兵衛影始末─⑦雄飛⑧知略⑨難破⑩交趾⑪帰還』
              /新シリーズ第二巻『百年の呪い』・・・・・・・・・・・・木村草弥

                           ・・・・・・・・・・新潮文庫2011/05~09刊・・・・・・・・・・・・

このシリーズについては③④⑤⑥を2011/04/19に記事を書いて紹介した。
その後の文庫版が完結したのでネット書店から取り寄せて読んでみた。
今までと同様に、息もつかせぬ面白さで、連日、一日一巻のペースで読了した。

新シリーズ「新・古着屋総兵衛」第二巻『百年の呪い』も面白い。
前作『血に非ず』につづくが、この二冊でもって「古着屋総兵衛」シリーズとの関連づけが終わり次作からは、新シリーズの物語が本格的に進行するらしい。
乞う、ご期待というところである。
各冊について、「立ち読み」をそれぞれリンクできるようにしてあるので、アクセスされたい。
以下、各巻のあらすじの梗概である。

    雄飛──我が身を賭し花嫁を守れ! 総兵衛、悲壮な雪中奮戦。   「立ち読み」

      二千石を超える巨大船、大黒丸が完成した。
      執拗な与力の探索を躱し、極秘の任務を負った大黒丸は江戸湾を出航した。
      大目付本庄豊後守息女絵津は加賀藩重役の嫡男への輿入れで金沢を目指す。
      若年寄用人丹後賢吉は、円明流、林崎夢想流等の刺客団を遣って絵津殺害の挙に出た。
      雪の木曾路、塩津街道を辿る鳶沢一族が一人また一人と倒れていく。
      悲壮な奮戦が心を打つ堅忍不抜の第七巻。


    知略──総兵衛、京へ! 手に汗握る激闘。知略謀略大黒屋に交差す。   「立ち読み」

     “影”の指令は、将軍綱吉の側室へさる公卿の娘を送り込まんとする柳沢吉保の陰謀の阻止であった。
      吉保は甲賀の名門鵜飼家を召し抱え、忍者衆を手駒に加えた。
      総兵衛は襲撃に遭いながらも東海道を西上、京を目指す。
      一方、富沢町の大黒屋ではるりが忽然と消えた。
      美雪と笠蔵ら鳶沢一族の面々は決死の覚悟で救出に向かったが……。
      知略と謀略が複雑怪奇に絡み合う屍山血河の第八巻。


    難破──大黒丸に裏切り者が! シリーズ最高潮の大砲撃戦。   「立ち読み」

     巨大帆船大黒丸の乗組員だった船大工箕之吉に柳沢吉保一派が目をつけた。
     総兵衛、駒吉主従は伊香保、草津、小浜へと箕之吉を追う。
     幹部しか知り得ない渡航行程を何故、箕之吉は知っているのか。柳沢一派にも漏れているのか。
     裏切り者は誰なのか。やがて、琉球入港目前の大黒丸に南蛮の大型海賊船が立ちはだかる。
     大黒丸は海の藻屑と消えるのか、シリーズ最高潮、感慨悲慟の第九巻。


    交趾──総兵衛不在! 大黒屋が危ない。驚愕の新展開に大興奮。   「立ち読み」

     琉球沖の大黒丸遭難で総兵衛以下、又三郎、駒吉など主だった人材を欠いた富沢町大黒屋を
     柳沢吉保の魔の手が襲う。その陰湿残忍な手口に身重の美雪はある決断を下す。
     一方、総兵衛は南洋の孤島で大黒丸の改造を果たし、針路を交趾(ベトナム)へ取った。
     かの地には寛永以前に多くの和人が渡航し、日本人町の記録もあるというのだが……。
     驚愕の新展開に胸が高鳴る不撓不屈の第十巻。


    帰還──柳沢吉保との最終決戦へ! 新たに一章を書下ろし《決定版》全11巻完結。  「立ち読み」

     大黒丸は信之助の待つ琉球泊湊へ寄港した。
     薩摩・清の二重支配に喘ぐ琉球での自由な交易を目指す総兵衛に立ち塞がったのは、薩摩藩であった。
     総兵衛らは示現流の遣い手集団院外団を撃破し、六隻の軍船を連ねる十文字船団との海戦に勝利して、
     勇躍江戸帰還を果たす。そして遂に宿敵柳沢吉保との最終決戦に突入する──。
     感涙滂沱、破邪顕正の最終巻。新たに一章を加筆し堂々の完結。

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     百年の呪い―新・古着屋総兵衛シリーズ 第二巻―  「立ち読み」  

   「『血に非ず』と本書で二つのシリーズが一つの物語として合体した」。怨念一掃。新シリーズ初陣。

     今坂一族の卜師梅香林は、鳶沢一族に張り巡らされた闇祈祷を看破した。
     六義園を拠点とした闇四神の結界は、富沢町、さらに駿府鳶沢村をも包囲していた。
     幾重にも仕掛けられた柳沢吉保の百年の呪いに十代目総兵衛勝臣は敢然と立ち向かう。
     一方、闇祈祷の術者の一人李黒は、鳶沢一族と一心同体であるはずの影・本郷康秀の元に去ったという……。
     壮大な物語が動き始めた。渾身の第二巻。
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佐伯泰英/サエキ・ヤスヒデ

1942(昭和17)年、北九州市出身。日大芸術学部卒。映画・テレビCMの撮影助手を経て、1975年より、カメラマン、ノンフィクションライターとして活躍。1976年『闘牛』を発表。1981年『闘牛士エル・コルドベス 一九六九年の叛乱』でドキュメント・ファイル大賞を受賞。1987年、初の小説『殺戮の夏コンドルは翔ぶ』を発表。以降、多数の国際謀略小説、ミステリ小説を執筆。1999(平成11)年、初の時代小説『密命』を発表。以降、「夏目影二郎始末旅」「鎌倉河岸捕物控」「吉原裏同心」「古着屋総兵衛影始末」「居眠り磐音 江戸双紙」「酔いどれ小籐次」「交代寄合伊那衆異聞」等の人気シリーズを立ち上げる。人間味溢れる人物造形、豊かな物語性、迫力ある剣戟描写等いずれも高く評価され、広範な読者の熱狂的な支持を得ている。

溝口敦『暴力団』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     溝口敦『 暴力団』・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・・新潮新書2011/09/16刊・・・・・・・・・・・・

   高視聴率を誇っていたテレビ番組を降板してまで、島田紳助の芸能界引退は何が理由だったのか。
   なぜ暴力団はなくならないのか? 学歴、年収、出世の条件とは? 覚醒剤や野球賭博でどのように儲けるのか? 
   女はヤクザになれるのか? なぜヒモが多いのか? 刺青や指詰めのワケは? 警察との瘉着は?
   ヤクザが恐れる集団とは何か? 出会った時の対処法とは? 
   その筋をも唸らせた第一人者が、時代ごとに変化し、社会の裏で生き延びる「わるいやつら」を、
   やさしく解き明かす「現代極道の基礎知識」。

新潮社の読書誌「波」2011年10月号より 著者自身による紹介記事を引いておく。
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      今こそ知っておきたい「暴力団」・・・・・・・・・・・・溝口 敦

 島田紳助の芸能界引退は何が理由だったのか。
 経緯を辿ると――吉本興業が、紳助と暴力団幹部との親交を示す携帯メールを入手し、同社としては放置できないので、紳助を呼び出して事情を聞いた。
紳助はメールが事実だと認め、自らの引退を言い出し、結局、吉本興業は紳助の引退を受け入れた――という流れになる。
つまり紳助は暴力団幹部と交際を断つか、それとも吉本興業を辞めるかという選択を迫られ、結局、暴力団幹部との交際を選んだ、とこの騒動を解釈できよう。
 ここで疑問が起きる。高視聴率を誇る人気タレントに芸能界を捨てさせるほど、暴力団は魅力があるのか、と。
 次のようなことが、仮説として考えられる。今回の引退は魅力ゆえではなく、暴力団への恐怖からだった、と。
十数年前、紳助は右翼から街宣車動員の集中攻撃を受けた。それを収めてくれたのが件の暴力団幹部だった。大恩がある。足を向けて寝られない。
その幹部と絶交すると言い出せば、幹部は激昂し、命さえ狙われかねない。恐怖が紳助に芸能界を捨てさせた……と。
 紳助は暴力団の実態をある程度知っているだろう。今後も大けがをしないようにつかず離れず事業に専念していきたいと考えているかもしれない。
 だが、これは甘い。「つかず離れず」をやろうとした多くの者が、骨までしゃぶられてきた。
 暴力団について関心が高まる最中に、本書を出すことになった。
 芸能人と暴力団の交際は本書でも記している。
 今の暴力団は冬の時代というもおろか、お先真っ暗な状況に突入している。末端層は稼ぎのネタが見つからず、窃盗や強盗にまで手を染めている。
組事務所に納める月の会費さえ払えず、生活保護を受けた果て、組織からドロップアウトする組員も少なくない。
相変わらず上層部は贅沢に暮らしているが、その生活は下の組員が支えてこそ成立する。末端層が崩壊しているなら、上層部の将来が暗くなるのは当然である。
 自治体の暴力団排除条例、金融、不動産業に対する警察の行政指導などに追い詰められ、今や暴力団は崖っぷちにいる。飢えている者は手当たり次第に食える者を食う。
暴力団を牧歌的なヤクザや侠客と考えるのは、大けがの元なのだ。
 本書では、多くの人がイメージや風評でしか知らない暴力団について、正しい情報をふんだんに盛り込んだ。
暴力団の所在から組織の成り立ち、覚醒剤や闇賭博でのシノギ、学歴・年収・出世の条件、女とヤクザ、警察との癒着、出会った時の対処法など、
基礎的な知識から最新の実態までを「です・ます」調のやさしい文章で、わかりやすく書いた。日頃、暴力団に出会いそうにない人でも、知っておいた方がよい情報がある。
 恐いもの見たさの方や暴力団に興味のなかった女性読者も大歓迎である。 (みぞぐち・あつし ノンフィクション作家)

溝口敦/ミゾグチ・アツシ

1942(昭和17)年、東京生まれ。早稲田大学政経学部卒。ノンフィクション作家。ジャーナリスト。『食肉の帝王』で、2003年に第25回講談社ノンフィクション賞を受賞。著作に、『池田大作「権力者」の構造』『山口組動乱!!』『ヤクザ崩壊 侵食される六代目山口組』など多数。
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テレビ東京系列の長寿番組として、私もよく視聴していた番組だった。
「贋物」を摑まされる人間の心理などがよく判って面白かったのだが、島田紳助の突然の引退声明には驚いた。
もともと彼は少年の頃から「チンピラ」だったと言われていた。
テレビ出演のほかにも、沖縄の八重山の或る島で喫茶店を営んでいた(今年かの地に行ったときに、その店の横を通ったことがある)とか、
レーシングチームを持っているとか、私生活でも結構儲けていたようである。
結局、暴力団との「腐れ縁」を断ち切れなかったのであろう。日常から、彼らとは接触しないように気をつけたい。

「立ち読み」もできるのでアクセスされたい。


ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
ダ・ヴインチ・コード

──新・読書ノート──初出・Doblog2007/10/24

  ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』上・中・下三巻・・・・・・・・・・・木村草弥

昨日、イスラエル紀行の一環として「マグダラのマリア」について少し触れた。
その時、この本についても書いたが、今日は、この本について書いてみる。
下手な私の要約よりもWeb上に載る下記の記事を転載しておく。
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ダ・ヴィンチ・コード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目では小説版の『ダ・ヴィンチ・コード』について記述しています。映画版の『ダ・ヴィンチ・コード』についてはダ・ヴィンチ・コード (映画)をご覧ください。

『ダ・ヴィンチ・コード』(The Da Vinci Code)は、ダン・ブラウンの長編推理小説。
アメリカで2003年に出版された。『天使と悪魔』に次ぐ「ロバート・ラングドン」シリーズの第2作目。

レオナルド・ダ・ヴィンチ作品の謎にはじまり、多くの流説を結びつけた内容は世界的にヒットし、44言語に翻訳され7000万部の大ベストセラーとなった。
筆者が、事実に基づいているとしたため大衆に注目され、多くの研究者の議論が行われている。

日本では、2004年5月に角川書店から上下巻で刊行された(現在、角川文庫で上中下巻の廉価版が発売されている)。翻訳者は越前敏弥。
日本国内での単行本・文庫本の合計発行部数が1000万部を突破した。(角川書店の発表によると2006年5月24日現在、単行本が237万部、文庫本が770万部、計1007万部)

2006年、トム・ハンクス主演で映画化。
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注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
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あらすじ
深夜、パリのホテル・リッツに宿泊していたハーバード大学の宗教象徴学教授であるロバート・ラングドンの下に、フランス司法警察の警部補が訪ねてきた。急用による同行を請われ、到着した場所はルーヴル美術館だった。そこでラングドンは、ルーヴル美術館館長ジャック・ソニエールの遺体が猟奇殺人にも似たウィトルウィウス的人体図(右図)を模した形で発見されたと伝えられる。

警察は宗教象徴学者の立場から、ラングドンの事件に対する見解を聞きたいと協力を要請した。しかし、実際はソニエールと会う約束をしていたラングドンを第一容疑者として疑い、逮捕するために呼んだのである。

ラングドンはソニエールの孫娘にして司法警察の暗号解読官でもあるソフィー・ヌヴーの協力と機転により、その場を脱した。ソフィーは祖父の状態を祖父が自らに遺した、自分にしか解けない暗号であると見抜き、ラングドンの潔白に確信を持っていた。これを上に報告しても一笑に伏されると感じたソフィーはラングドンの協力を得るため、彼を逃がしたのだ。しかし彼はそのことによってソフィーともども司法警察に追われる事になってしまう。

一方でソニエールを殺した犯人とその黒幕は、かつてソニエールが秘匿したとされる聖杯の秘密を追っていた。それが「教会の名誉を守る」という狂信に踊らされて…。そして、その毒牙もまたラングドンたちを追い続ける事になる…。

登場人物
ロバート・ラングドン……ハーヴァード大学教授・宗教象徴学専門。
ソフィー・ヌヴー……フランス司法警察暗号解読官。ジャック・ソニエールの孫。
ジャック・ソニエール……ルーブル美術館館長。
アンドレ・ヴェルネ……チューリッヒ保管銀行パリ支店長。
リー・ティービング……イギリスの宗教史学者。ナイトの爵位を持っている。聖杯の探求に生涯をかけている。
レミー・ルガリュデ……ティーピングの執事。
マヌエル・アリンガローサ……オプス・デイの代表。司教。
シラス……オプス・デイの修行僧。色素欠乏症。
ジョナス・フォークマン……ニューヨークの編集者。
ベズ・ファーシュ……フランス司法警察中央局警部。
ジュローム・コレ……同警部補。

作品内に登場する観光名所
エッフェル塔
サン・シュルピス教会
ルーブル美術館
ウェストミンスター寺院
ナショナルギャラリー
キングズ・ガレッジ資料館
テンプル教会
ロスリン礼拝堂

その他
フィクションであるにもかかわらず、冒頭に実在の組織名[2]を挙げ、
「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。」と述べているために、扱われている内容の真偽について議論が起きた。
とりわけキリスト教、とくにカトリックの教義に深く関わる部分は大きな反響を巻き起こし、2006年3月には米国カトリック司教会議(USCCB)が、教義について反論するウェブサイト[4]を開設している。
プロットの下敷にアイデアが盗用されたとして、ノンフィクション、『レンヌ=ル=シャトーの謎』の著者たちから訴えられたが、ロンドンの高等法院は原告側の訴えを退ける判決を下している。
批判の一環として、特別番組『ダ・ヴィンチ・コードの嘘』が放送された。また、「日経エンタテインメント!」は『大名所で原作のウソを発見!』と題し原作で描かれている名所と実際の名所の相違点を挙げている。
作品内でドラクロワの壁画で知られるカトリックの教会、サン・シュルピス教会の中にある日時計(ローズライン)に秘密を解く鍵が隠されていると記されている。これを鵜呑みにしたメディアが押し寄せた為、教会側は入り口に「日時計はローズラインと呼ばれた事もなければ、異教徒の陣の名残でもない。」という張り紙を張った。サン・シュルピス教会は観光名所ということもあり、書かれている文字は何ヶ国語かに訳されている。(日経エンタテインメント)。
ルーブル美術館館長のジャックは殺されたとき76歳だが、フランスの定年は65歳である。

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注釈
『ウィトルウィウス的人体図』、『モナ・リザ』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』など
オプス・デイは実在する組織である。シオン修道会は「秘密結社」とされているのに、「実在する組織」というのは変である。「秘密儀式」も想像上のもの。『秘密文書』なるものについては「シオン修道会」の項を参照のこと。
レオナルド・ダ・ヴィンチ作品の謎、キリスト教における異説や、聖杯伝説に関する解釈、メロヴィング朝の由来など。多くは『レンヌ=ル=シャトーの謎』からの借用。
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以上の記事では、小説の「あらすじ」は、殆ど触れられていないことになる。
2004年5月に単行本として角川書店から出版されたときは2巻であり、私の買った文庫版は上・中・下3冊であって、結構よみごたえのあるものだが、
サスペンス仕立ての小説であり、面白くて途中で止められず、一日で読了した。
私も聖書や外典のいくつかは読んでいるが、資料には、よく当たっているようだ。
マグダラのマリアに触れた部分などは少ない。聖書の当該箇所などは、クリスチャンであれば周知のことなので敢えて改めて触れられていないものであろう。
図版③は、Jan van SCORELのマグダラのマリアの絵である。
mary_magdaleneマグダラのマリア

この翻訳本の「解説」で荒俣宏が書いていることだが、「聖杯伝説」が文献に残されるようになった中世から多くの研究がなされてきたが、
それはキリスト教の教義からのアプローチだったのに対して、現代のアプローチは「神秘学」「歴史学」「図像学」「語源学」
さらに「美術」や「科学」など多面的になっているところに特徴がある。
異端とされて徹底的に、むごたらしい惨劇のもとに抹殺された「カタリ派」のことなどもある。
帚木蓬生の『聖灰の暗号』などは、これを描いたものである。
ヴァチカン当局が、この本や映画を見ないように、との「触れ」を出したというのは当然であって、今まで「聖書」の記述してきたことが覆されるのだからである。
欧米で大ヒットした本書も、むしろキリスト教を知らない、あるいは信仰していない人間にとっては新鮮な面白さを十分に味わえるのではないか。
ただ、この小説は「聖杯」のミステリーと「争奪」についてサスペンスタッチで描くのに大半のエネルギーが費やされているので、その面の面白さが主になっているとは言えるだろう。
とにかく未読の人には、ぜひ読まれることをお勧めする。


娼婦たりしマグダラのマリア金色の教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・・・・・・・・・木村草弥
lrg_11707601マグラダのマリア教会

──イスラエル紀行(4)──

  娼婦たりしマグダラのマリア金色(こんじき)の
   教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「マグダラのマリア」については、ここに改めて書くまでもないが、リンクできるようにしてあるので、ご覧いただきたい。

「マグダラのマリア教会」は同じ名の教会が世界各地にいくつかあるが、もともとの物語の発祥の地であるイスラエルのエルサレムにある教会は、
1888年ロシア皇帝アレキサンダー3世が、マグダラのマリアと母后マリアの二人を記念して建てたものである。
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)には、掲出した歌につづいて

  「マリアよ」「先生(ラボニ)!」ヨハネ伝20章に描かるる美(は)しき復活の物語

という歌が載っている。
キリスト磔刑の死後3日目、復活したイエスをはじめて見たのはマグダラのマリアだった、と言われている。
キリストを深く、心から敬愛した彼女なればこそ、復活したイエスが誰よりも最初に「姿」を見せたのが彼女なのであった。
マグダラのマリアは「聖女」に列せられている。
キリストの聖母もマリアという名である。
そんなこともあって、キリスト教世界では女の子に「マリア」という名をつけるのが大変多いのである。
英語名では「メアリー」と発音される。
絵画の世界でもマグダラのマリアは、さまざまに描かれてきた。
一例として、ティツィアーノの描いた絵を挙げておく。
magdelene3ティツィアーノマグラダのマリア像

この絵については、こんなエピソードがある。

いろんな画家の伝記を書いたことで有名なヴァザーリ(いちおう本業は画家だが)
いわく
「髪が乱れほつれたマグダラのマリアの半身像で、
その髪は瀧のように肩、喉、胸にかかっている。
彼女は頭を上げ、その目はしっかりと天を見据えている。
その赤く泣きはらした目は悔悛の表れであり、
涙は犯した罪に対する悲しみの表れである。
このような絵であったから、それを見る者ははげしく心を動かされた。
さらに彼女の姿は非常に美しかったが、
その美は情欲をそそるものではなく、
むしろ深い哀れみの情を誘うものであった」
・・・と。
ここまで言われたら、画家冥利というものである。
あ、ここにもマグダラのマリアの象徴である香油の入った小瓶が描かれている。(左下)
膝の上の骸骨は「限りある命」の象徴なんだそうである。
「香油」というのは、死んだ人の体を香油で拭い、清めて「葬り」の儀式に備える聖なる儀式の一環なのである。
参考までに図版③に、カラヴァッジヨの同名の絵を載せておく。
carav028カラヴァッジョマグダラのマリア

この絵も、有名な画家であるから、よく採り上げられる絵ではあるが、題名がマグダラのマリアでなければ、どこかの庶民の女の午睡なんかと解されるのではないか。
だから宗教画としては二流だと言えるだろう。
この絵にはマグダラのマリアという歴史上の人物──それもキリスト教における重要人物を描くという必要条件を欠いている。
強いて言えば、椅子の下にこぼれている「小物」──切れたロザリオと香油瓶──がマグダラのマリアを描いた宗教画であることを、僅かに示唆するに過ぎない。
図版④はカルロ・クリヴェッリの描くマグダラのマリアである。
1354976クリヴェッリマグダラのマリア

こうなると、典型的な、というか、類型的なというか伝統的な宗教画を一歩もでていない。
こうして比較してみると、テイツィアーノの絵が、いかに優れているかが判る。
とは言っても、美術というものは各人さまざまに鑑賞されるものであるから、好き好きであっていいのである。

とにかく、オリーヴ山 というのは聖書あるいはキリスト教の世界では重要な歴史的場所なのである。
私が行ったときは、実は「マグダラのマリア教会」には立ち寄らなかった。
ネット上のイスラエル旅行記を見ても、ツアーでは、ここに立ち寄らなかったという記載が多い。マグダラのマリアに対する「偏見」が、あるいは関係しているのかも知れない。
したがって、この教会の写真が遠景からのもので小さいことをお詫びしたい。

オリーブ山麓には、
lrg_11707600万国民の教会

万国民の教会(写真⑤)─別名苦悶の教会と呼ばれ、最後の夜イエスが苦悶しながら過ごしたと言われている─がある。
この教会は新しいもので、聖書のエピソードに因んで、最近に建てられたものである。
この教会に隣接して ゲッセマネの園というのがある。
イエスが頻繁に訪れた場所で「最後の晩餐」のあとイエスは弟子とともに訪れ、受難を予言した場所。名前の通り、オリーヴの木が茂るところである。

ここから少し離れたところに金ピカの「マグダラのマリア教会」はある。
この教会は、見れば判るように典型的な「ロシア正教」の様式である。
玉ネギ坊主の屋根といい、ダブル十字架の下の段の横棒が「キ」の字にならずに、「斜め下」に傾いでいるのもロシア正教特有のものである。
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小説『ダ・ヴィンチ・コード』及び、これを原作にした映画は先年に大きな話題を呼んだ。
この本については明日10/23付けで記事を載せるので、よろしく。
キーパーソンとして「マグダラのマリア」が存在する。キリストが死んだとき、マリアは腹にキリストの子を宿していた、というフィクションが「キー」になっているのだ。
昔から聖書や福音書などには「外典」というものが存在し、小説は、それらを好んで題材にしてきた。
ローマ法王庁は、この本および映画を読んだり、見たりしないように信者に呼びかけた。

2010/09/06に、私の歌

   紺ふかき耳付の壺マグダラのマリアのやうに口づけにけり

を引いて、マグダラのマリアのことについて少し書いている。ご参考までに。
そこに載せたJan van SCORELのマグダラのマリアの絵の方が趣きがある。



終末に向き合ふものの愛しさかハル・メギドの野は花に満ちたり・・・・・・・・・・・木村草弥
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──イスラエル紀行(3)──

  終末に向き合ふものの愛(かな)しさか
   ハル・メギドの野は花に満ちたり・・・・・・・・・・・木村草弥


はじめに「ハル・メギド」の野ということについて少し説明しておく。
新約聖書の「ヨハネの黙示録」に「ハルマゲドン」の最終戦争、というようなくだりがあり、一般人にも、このハルマゲドンという言葉が知られるようになったのは、
サリン撒布事件などを起した麻原一派の恣意的な解釈、からである。
聖書の中の、この記述は邪悪な悪魔と、正しい信仰ないしは正しい人生との戦いを言ったものであり、本来的に「ハルマゲドン」とはイスラエルにある地名である。
紀元前何世紀かの戦場跡と言われている。現地の発音に忠実にいうと「ハル・メギド」と言うのが正しい。
「ハル」とは「丘」の意味である。今は草花の咲く草原である。


イスラエルで売られる本には、そのハル・メギドの草原の写真が載っている。
掲出の写真①はアネモネ属の花で、イスラエルでは、アネモネは「国花」になっている。
春になると野原一面に咲くアネモネ。
赤・白・黄色・紫・ピンク・青と、さまざまな美しい色で、気持ちを明るくさせてくれる。
イスラエルに行く機会のある人は、是非この季節のアネモネの一群を見てもらいたいものだ。

麻原一派の事件が起こった時、私は、すでにこういういきさつは知っていたので、こんな歌を作った。
第二歌集『嘉木』(角川書店)に載.る。

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   ハルマゲドンそは丘の名と知らざるや世紀末なる憂愁深く

   くるふ世とみな言ふべけれ僧兵が毒液ふりまく擾乱(ぜうらん)なれば

   ハルマゲドンかの丘原に展(ひら)けしは「たましひ救へ」の啓示ならずや


はじめに 掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも採っているのでWeb上でもご覧いただける。
top野の花④

イスラエルという土地は旧約聖書などを読んでも、昔から、川の流れる流域以外は砂漠の不毛の地だったらしい。
今でも農耕が行なわれ豊穣の土地と言われるのは「約束の地」と呼ばれる限られた地域だけである。
その風土的な極端な特徴がユダヤ教などの宗教が発生する精神的なものの基礎を形成したことは確かである。
だから、当然、その肥沃な土地をめぐる争奪戦が繰り返されたのも理解出来よう。
百聞は一見に如かず、であり、本で読んで知っていても、実際に現地を見てみると、十全に理解できる。
私は2000年5月に訪問して、このことをはっきりと知ったのである。
かの地ハル・メギドの野に咲く花のいくつかを写真にして掲出するが、詳しくは私は知らない。

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ハニタのアイリスという草花

私は、掲出した、この歌で「終末に向き合ふものの愛(かな)しさかーー」と呼びかけたが、
これには聖書の「ハルマゲドン」の記述や西洋のキリスト教会で見られるタペストリーの絵解き物語を踏まえている。
「哀しさ」「悲しさ」とは、私は言っていない。「愛(かな)しさ」と言っている。この言葉は「いとしさ」と言い換えてもよい。
その表現の中に、私は未来に対する希望を盛ったのである。
あと二、三イスラエルの野の花を載せておく。

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カルメラ

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ルリハコベ属の花

現地イスラエルに行くと、この歌の背景の豊穣の土地を外れると、砂ばかりの不毛の地が続く。
同じ歌集に載る私の歌の

   断念を繰り返しつつ生きゐるか左に死海、右にユダの沙(すな)

ガリラヤ湖周辺の肥沃な地を離れて、ヨルダン川沿いに南下してゆくと、上の歌のような風景が現出する。
ユダ沙漠は広大なもので、この沙漠を越えて西に行ったところにエルサレムの街がある。エルサレムの街は、東から入るにしても西から入るにしても、うねうねとした道を延々と登り下りした高い丘の上にある。
旧市街は高い城壁に囲まれている。新市街は、その城壁の外に広がっている。

   あたらしき千年紀(ミレニアム)に継ぐ風景は?パソコンカフェのメールひそかに

同じ歌集に載る私の歌のひとつである。ここにも私の問いかけと願いをこめてあるのは、勿論である。
イスラエル紀行の歌は、歌集に載せたものだけでも80首を越えるが、いずれも愛着のあるものだが、今日は、この辺でくぎりにする。
「細川家の至宝」─珠玉の永青文庫コレクション/「ルドンとその周辺」─夢見る世紀末展・・・・・・・・木村草弥
細川
細川0001

  「細川家の至宝」─珠玉の永青文庫コレクション/「ルドンとその周辺」─夢見る世紀末展・・・・・・・・木村草弥

秋晴れの一日、友人と二人で、標記の二つの展覧会を見に出かけた。開催場所は掲出のパンフレットを見られたい。

掲出したのは、同展のパンフレットだが、裏面には、その中の名品のいくつかが載っている。
詳しくは ↓『細川家の700年・永青文庫の至宝』(角川とんぼの本2008/10/25刊)などに詳しいので参照されたい。
細川とんぼの本
細川家の現当主は第18代細川護煕氏で熊本県知事、日本新党代表などを経て連立内閣の総理大臣を務めた人だが、目下は政界からも引退し、
湯河原「不東庵」で作陶、書、水墨画、茶杓作り、漆芸などに携わる悠々自適の生活を送っている。
細川家は初代を細川藤孝(幽斎)とされており、この文庫の中興の祖と言われるのは第16代・護立である。
大正末から昭和初期にかけて独特の審美眼と目利きによって中国の唐代などの逸品を収集したので知られる。
時代も逸品が世に出てくる時期でもあって幸運だったらしい。この時期に国宝などに指定されている名品を買っている。
現代画家としても菱田春草の「黒き猫」小林古径の「髪」「鶴と七面鳥」二曲一双屏風などの名品を収集している。
細川0002
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ルドン
ルドン0001

京都駅に移動して「ルドンとその周辺」─夢見る世紀末展 を見る。
ルドンについては、私の第二詩集『愛の寓意』(角川書店)で彼の絵「キュクロプス」を採り上げたので、その関連として関心があった。
参考までに、その絵を ↓ 出しておく。
7337060ルドン・キュクロプス

ただし、この展覧会は「岐阜県美術館」が所蔵する作品が主になっているので、サイズの小さい絵が多く、私が詩に採り上げた作品は展示されていない。
しかし、青年期から孤独な道を進んできたオディロン・ルドン(1840年~1916年)の十九世紀末の「象徴主義」世代の特徴を湛えた絵が並んでいた。

君とゆく曽爾高原の萱原の銀のたてがみ風吹きすぎぬ・・・・・・・・・・・木村草弥
susukiススキ
e0118641_1659595c曾爾高原

    君とゆく曽爾(そに)高原の萱原の
     銀のたてがみ風吹きすぎぬ・・・・・・・・・・・木村草弥


曽爾高原は奈良県宇陀郡曽爾村にあり、曽爾高原と言えばススキとハギが秋の草として有名である。春、すっかり焼き払われたあと、地中から芽を出す。
若い葉は、さほど剛くはなくチマキを包むのに適している。お月見の頃、平地より10日ほど早く紫の穂を出す。
すっかり出揃った穂は草原一面を紫に染め、風が起こると繊毛運動を見るように一斉に波打つ。
野分の吹く頃、実が出来て銀色の毛が逆光に美しい。実がとび去ると穂はほうけて、わびしくなる。
この頃から屋根葺き用に注文があれば地元の人によって刈り取られる。
ススキ──イネ科の多年草。カヤ(萱)、オバナ(尾花)とも呼ばれる秋の七草のひとつ。薄、芒など、さまざまの字が使われる。
写真③④に曽爾(そに)高原の遊歩道と地図を載せた。
b曽爾遊歩道

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ススキと共に高原の秋を代表する植物と言えば、ハギを挙げなければならない。
紫の小さな蝶形花が集って短い総状花序をなしている。花はやがて青紫色になってこぼれ落ちる。
茎は70~150cm、お箸か鉛筆ほどの太さだから、花時には花の重みで湾曲する。葉は互生し3枚の小葉に分かれている。
「萩」と書くように秋の花、秋の七草のひとつ。晩秋に刈って筆軸や柴垣に作られる。
写真⑤はハギである。
hagi_L4萩②

この高原には多くの植物と動物が生息しているが、例えば、キイチゴは5月~8月に遊歩道や草原周辺の道端に白い5弁の梅花形の花をつける。
茎や枝は細い蔓ののようで、鋭いトゲがある。花が終ると粒々した桑の実のような実が出来る。
実は小さい核果が集合したもので、赤く熟したものは甘い液を含み、おいしく食べられる。いわゆるベリーである。
木苺の仲間は落葉低木で茨(イバラ)とも言う。

掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたものである。
この歌の一連のはじめの部分を少し引いておく。

    土 偶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  君とゆく曽爾高原の萱原の銀のたてがみ風吹きすぎぬ

  この夏の終りに蜩(ひぐらし)鳴きいでてそぞろ歩きのうつせみの妻

  わがいのちいつ終るべきペルセウス流星群の夜にくちづける

  流砂のごと流るる銀河この夏の逝かむとしつつ霧たちのぼる

  みづがめ座われのうちらに魚(いを)がゐてしらしらと夏の夜を泳げり

  呼ばれしと思ひ振りむくたまゆらをはたと土偶の眼窩に遇ひぬ

  萱原に立てば顕ちくる物影のなべては人に似るはかなしも

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なお、万葉集には、ススキを詠んだものとして17首、をばなを詠んだものとして19首、萱を詠んだものとして10首、出てくるという。もっとも、私は全部をあたってみた訳ではない。


北天の雄「アテルイ、モレ」伝説・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 京都・東山 清水寺境内、音羽の滝近くに建つ顕彰碑
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 ↑ 同顕彰碑の裏面の銘文

    北天の雄「アテルイ、モレ」伝説・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

アテルイ(生年不詳 - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。
789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。
いま表題に「伝説」と書いたが、没年も史実に残るレッキとした実在の人物である。詳しい資料もないので伝説としたものである。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。
坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。フルネームは大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。
アテルイと共に処刑された母礼(モレ)についても史書に記載する。
以下、Wikipediaに載る記事の当該部分のみを引用しておく。
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史料にみるアテルイ
アテルイは、史料で2回現れる。一つは、衣川から巣伏にかけての戦い(巣伏の戦い)についての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。
もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。

史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。
802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。
「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。
「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。
確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。
しかしここにアテルイの名はない。

巣伏の戦い
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。
アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。
この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。
紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。
北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。
この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。
そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。
その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。
朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。
この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。
5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない。

朝廷軍の侵攻とアテルイの降伏
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたらしい。田村麻呂は、802年(延暦21年)に、胆沢の地に胆沢城を築いた。

『日本紀略』は、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことを記す。
2人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入った。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言した。
しかし、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決めた。アテルイとモレは、8月13日に河内国で処刑された。
処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない。
「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであり、比定地とみなす説があった。
しかし発掘調査の結果、宇山にあったマウンドは古墳であったことが判明し、「植山」=宇山説はなくなった。

現代のアテルイ像
評価 坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。
明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在であった。

再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。
学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めたことと、一般社会において地方の自立が肯定的に評価されるようになったことが、背景にある。
アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一躍歴史上の重要人物に伍することとなった。

これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。

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↑ 「伝 阿弖流為・母禮之塚」碑(枚方市・片埜神社)

石碑、顕彰碑
上述の枚方市宇山にかつて存在した塚と、その近くの片埜神社の旧社地(現在は牧野公園内)に存在する塚を、それぞれアテルイとモレの胴塚・首塚とする説があり、
1995年(平成7年)頃から毎年、岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社がその祭祀をしている。
但しこのうち「胴塚」については発掘の結果、アテルイの時代よりも200年近く古いものであることが判明している。
また枚方市藤阪にある王仁博士のものとされている墓は、元は「オニ墓」と呼ばれていたものであり、実はアテルイの墓であるとする説もある。

田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。
牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。

2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。
同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、
一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。

又、JR東日本は、東北本線の水沢駅 - 盛岡駅間で運行している朝間の快速列車1本に、彼の名前を与えている。

創作
1990年代からは、アテルイを題材とした様々な創作活動が起こった。
2000年(平成12年)吉川英治文学賞を受賞した高橋克彦著「火怨」や、これを原作としたミュージカル「アテルイ」(わらび座)などである。
後者は2004年(平成16年)『月刊ミュージカル』誌の作品部門で10位にランクイン。タキナ役の丸山有子は小田島雄志賞を受賞している。
他に高橋克彦原作による漫画「阿弖流為II世」(「火怨」とは無関係)や2002年(平成14年)新橋演舞場で公演された市川染五郎主演「アテルイ」(松竹株式会社)が有名である。
2002年(平成14年)には没後1200年を機に、長編アニメーション「アテルイ」が制作された。

モレ
モレ(母礼)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、上記のアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。フルネームは磐具公母礼(いわぐのきみもれ)。

参考文献
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀』五(新日本古典文学大系 10)、岩波書店、1998年。ISBN 4-00-240016-6
黒板勝美『新訂増補国史体系[普及版] 日本紀略』(第二)、吉川弘文館、1979年。ISBN 4-642-00062-3
大塚初重・岡田茂弘・工藤雅樹・佐原眞・新野直吉・豊田有恒『みちのく古代 蝦夷の世界』、山川出版社、1991年。ISBN 4-634-60260-1
新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年。ISBN 4-642-06627-6
新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』、吉川弘文館、1994年。ISBN 4-642-07425-2
細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏『岩手県の歴史』(県史3)、山川出版社、1999年。ISBN 4-634-32030-4
岡田桃子『神社若奥日記』、祥伝社、2003年。ISBN 4-396-31339-X
馬部隆弘「蝦夷の首長アテルイと枚方市」『史敏』2006春号、史敏刊行会、2006年。ISSN 1881-2066
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今までは一部の識者だけに知られていた蝦夷地──東北の地だが、今回の大震災・大津波などによって脚光を浴びることになり、
この地と人物についても見直されるようになってきた。
『続日本紀』と同様の古代の史書である『日本三代実録』に載る「貞観大津波」については先に触れた。
なぜ大和朝廷政権は、多大な人的損害を蒙りながら辺境の地である蝦夷地を攻めたのか。それには、かの地で「砂金」が採取されたからと言われている。
後の藤原氏三代の栄華も、この砂金の掌握によっていると、今では言われている。これについてはネット上にも記事があろうかと思うので検索されたい。

蝦夷地は「大和朝廷」政権に長らく反抗し、平定された後も、例えば明治維新の「戊辰戦争」の際には会津は抗戦し多大の損害を蒙った。
その記憶は「恨」となって、今も「東京」への反感となっているようである。特に福島では原発の爆発事故による放射能撒き散らしなど被害意識は物凄いものがある。
最近発行された角川書店月刊誌「短歌」十月号に載る、吉川宏志「何も見えない」30首の歌によると、こんな歌がある。

 とめどなく東京を怨む声を聞く干し魚のふくろを手に取りながら

 こだなことになったらわしらを差別して・・・・・・東京から来たのか 否と逃れつ


当然のことだろう。管轄する電力会社も違う土地にまで「越境」してきて「原発安全神話」を、さんざ撒き散らした挙句の、この大事故である。
因みに、この歌の作者・吉川宏志は京都在住の壮年の歌人で、今をときめく短歌結社「塔」の選者を務める人である。

今日は、吉川の歌から「北天の雄・アテルイ、モレ」のことを書いてみた。


水は水で、/そびえる樹を根もとから見あげるとき/手をかかげた精霊が高く嘯つてゐるのを見る。・・・・・・・・・・・大岡信
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    水樹府(すいじゅふ)・・・・・・・・・・・・大岡信

   樹は樹で、
   張りつめた水を足もとに見おろすとき
   よこたはる精霊が低く嘯(うた)つてゐるのを見る。

   水は水で、
   そびえる樹を根もとから見あげるとき
   手をかかげた精霊が高く嘯(うた)つてゐるのを見る。

   だが、心やすい挨拶をかつてかはさず
   夜が明ければ、水は水の、
   樹は樹の、別別の、唯一の朝に目覚める。

   根にすべらかな蛇を眠らせ
   ごつごつの樹皮の下には虫の卵、かすかな蛆(うじ)の糞。
   鬱勃と水を吸つて、樹はしげる。

   水は水で、樹のきららかな葉といふ葉に
   やがておのれが露となつて入つてゆく
   涯(は)てのすがたを見つめてゐる。

   だが、心やすい挨拶をかつて交さず、
   樹は樹の虚空をかぎりなく突き、
   水は水の充満にかぎりなく散り。

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この詩は、いかにも「現代詩」らしいもので、決して平易な詩ではない。暗喩を駆使して作られている。
しかも「旧なかづかい」になっている。
漢和辞典で「水樹府」を引いてみたが、
「水樹」というのが、水辺に建てられた「四阿(あずまや)」あるいは「水亭」という熟語が載っているのみであり、この言葉は大岡信の造語であると思われる。
この詩は1985年秋刊の学習研究社『大岡信・うたの歳時記』秋のうた、に載っているものである。
書き下ろしか旧作かは判らない。

じっくりと、この詩を眺めていると、水と樹との様態が、巧みに捉えられ、表現されているのを読み取れるだろう。
また、水と樹とに宿る「精霊」を縦糸にして、この詩が組み立てられているのを知るだろう。
アニミズムである。
そのようにして読み解くと、この詩も何となく親しめ、判ってくるというものである。
掲出写真には「四阿」(あずまや)を採り上げてみた。


「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」声高くイエス叫びて遂に息絶えぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──イスラエル紀行(2)──

   --------「わが神、わが神、いかで余を見捨てしや」
   ------------------------(マルコ伝15章33-39)
  「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」声高く
     イエス叫びて遂に息絶えぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


かぎ括弧内の言葉はイエスが息絶える最後の言葉として有名だ。
前書きの形で引用した部分が日本語にしたものである。
一般的には「エリ、エリーー」のように翻訳されているものが多いが、私がイスラエルから持ち帰った資料には「エロイ」の言葉が使われていたので、私はそれに従った。
この言葉はイエスの「人間的」な生の声として私たちの心を打つものがある。

写真①はゴルゴダの丘の「聖墳墓教会」の内部である。
写真②は聖墳墓教会内の、十字架から降ろされたイエスに葬りのための香油を塗ったとされる塗油台である。
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この歌の前に

  ゴルゴダは「されかうべ」の意なりイエスは衣を剥がれ真裸とされし

という歌を載せている。ゴルゴダの丘というのは、そういう意味を含んでいるのである。
10/15付けで載せたものに続くものとして私の第四歌集『嬬恋』からのものであるが、紀行文としての「ダビデの星」もお読みいただきたい。
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写真③はエルサレム近郊にある町・ベツレヘムの「聖生誕教会」の中のイエスが生まれた場所とされている所。今は銀の星型が地面にはめこまれている。
このベツレヘムの町はパレスチナ自治区の管轄下にありパレスチナ警察が厳重に固めている。
聖地巡礼のキリスト教徒の、凄い行列が出来ている。ガイドが警備員に便宜を図ってもらって、行列に並ばずに横から入れてもらった。
この教会も丘の上に位置している。

  主イエス、をとめマリアから生れしと生誕の地に銀の星形を嵌む

  一人では生きてゆけざる荒野なり飼葉桶には幼子入れて


私のベツレヘムでの歌である。
言いおくれたが、ゴルゴダの丘の聖墳墓教会は、キリスト教各派がそれぞれの管理権を主張する世俗的空間である。
ローマカトリックやギリシア正教、コプト派などが内部を分割管理している。詳しくは「ダビデの星」の解説文を読んでほしい。
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写真④はイスラエル北部にあるガリラヤ湖畔のナザレにある「受胎告知教会」の外観である。
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イエスの母マリアは、このナザレでイエスを身籠った啓示を受けたとされる。
なお「ナザレ」とは「守る」「信仰を守る」の意味である。
この教会は世界各地からの信徒の寄進で建てられた新しいモダンな教会で、内部には世界各地の信徒の画家が描いたいくつものイエス像のモザイクや絵が壁面を埋めている。
詳しくはリンクに貼った ↑ ところをクリックしてご覧ください。

  主イエスを日本の姿(なり)に描きたる長谷川ルカの真珠のモザイク

という私の歌にある通りである。つまりイエスを日本の着物姿で長谷川ルカは描いたのであった。
詳しくは、リンク設定したページにアクセスしてもらえば見られる。
イエスは伝承によれば、
ベツレヘムで生まれ、このナザレをはじめとするガリラヤ湖周辺で育ち、数々の説教と奇蹟を起したイエスは、次第に民心を捉え、一部で熱狂的な支持を得ていた。

  大き瓶(かめ)六つの水を葡萄酒に変へてイエスは村の婚礼祝ふ─カナ婚礼教会─

  サボテンと柘榴のみどり初めなる奇蹟にひたるカフル・カナ村


この地での私の歌である。

イエスはもともとユダヤ教徒である。しかしユダヤ教の律法学者はイエスの説く教義が律法をないがしろにするものだと考えた。
それはイエスが自分を「神の子」と称したからである。そして、人々の心を捉えたイエスの力を脅威と感じ、結果的に十字架磔刑へと導いて行ったのである。
ローマ提督ピラトから死刑の宣告を受けてから、
十字架を背負って歩くゴルゴダへの道はヴィア・ドロローサ Via Dolorosa 悲しみの道(正しくは痛みの道)と称する約1キロメートルである。
新約聖書の記述にしたがって道すじには、歴史的場所として「ポイント」(英語ではステーション)が置かれている。
毎週金曜日にはフランシスコ会の修道士が十字架を担ぎながらイエスの行進を再現する。詳しくは私の「ダビデの星」の叙事文を見られたい。

  異教徒われ巡礼の身にあらざるもヴィア・ドロローサ(痛みの道)の埃に塗(まみ)る

の私の歌の通りである。
今まではローマ提督ピラトはイエスを捕らえて磔刑に処した極悪人とされてきたが、
今日では、先に書いたようにユダヤ教の律法学者たちが、イエスを捕らえ、処刑するように仕向けた、というのがキリスト教内部での通説となっている。

  「視よ、この人なり」(エッケ・ホモ)ビラト言ひきユダヤの律法に盲(めし)ひし民に

だから私は、このように歌に詠んでみたのである。
今日はエルサレム及び近郊のキリスト教に因む聖地を辿りながら、少しキリストについて書いてみた。
エルサレムの地は一昨日にも書いた通り、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地である。
したがって、ユダヤ教の聖地も多いというより、ユダヤ教の聖地は最近のユダヤ迫害による歴史的事物の展示が主となつている。
ユダヤ教とキリスト教は切り離せない。新約聖書はキリスト教の聖典であるが、旧約聖書はユダヤ、キリスト教共通の聖典である。
更に言うと、イスラム教も、この旧約聖書は教典として認めているのである。こういうところから、これらの3つの宗教は「同根に発する」と言われる所以である。

  ------------母ラケルが難産の末いまはの際に、その子をベン・オニと名づけたが
  ------------------------父ヤコブは彼をベン・ヤミンと呼んだ(創世記35-18)
   行く末を誰にか問はむ生れきたる苦しみの子(ベン・オニ)はた幸ひの子(ベン・ヤミン)

私は、この歌で旧約聖書の創世記に載る、このエピソードを元に、現下のイスラエルの置かれている厳しい現実を、この歌の中に盛り込んだ。
それは「行く末を誰にか問はむ」という呼びかけの形である。こういうのを「比喩」表現と言える。

  「永遠に続く思ひ出」(ヤド・ヴェシェム)と名づけたるホロコースト記念館に「子の名」呼ばるる

現下のホロコーストの哀しい思い出の、「ホロコースト記念館」での歌である。スピーカーから幼くして虐殺された子供たちの名前が読み上げられて流される。

写真⑤は、ユダヤ教会──シナゴーグに掲げられる幕である。
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聖墳墓教会や聖生誕教会、聖受胎告知教会など「リンク」を貼ったページは、私の記事に不足する写真などを補足してくれると思う。
「前のページ」や「リンク」など、次々と検索できるので、ご覧になっていただきたい。


木犀の香や年々のきのふけふ・・・・・・・・・・・・・・・・西島麦南
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  木犀の香や年々のきのふけふ・・・・・・・・・・・・・・・・西島麦南

金木犀の爽やかな香りが漂う季節になった。例年、東京オリンピックを記念した「体育の日」前後というところである。日本は広いから地域によって異なるだろう。
関西では今頃である。私の父は10月14日に亡くなったが、金木犀の強く薫る頃であった。
写真は花を接写で撮ったもので、花は十字の形をしている。地面に散り敷いた時は一面金色で見事なものである。
掲出の句は、「年々のきのふけふ」と詠んで、歳月の無慈悲な推移を、情緒ふかく句にまとめた。

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キンモクセイは雌雄異株だが、日本には雄株しか入って来なかったと言われている。
キンモクセイは中国南部の桂林地方が原産地。中国語では「桂」は木犀のことを指し、「桂林」という地名も、木犀の木がたくさんあることに由来する。
有名な観光地である漓江下りの基地であり、現地に行ってみると、そのことがよく判る。
中国には「月には木犀の大木が茂っている」という伝説があるそうである。
夢見心地にさせてくれる花の香りが、地上のものとも思えなかったのであろう。
花言葉は「謙遜」。中国の酒に「桂花陳酒」というのがあり、木犀の香りのついた名物の酒である。

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写真③は和知小学校にあるキンモクセイの巨木である。キンモクセイの巨木では三嶋大社のものが有名で樹齢1200年と言い、天然記念物に指定されている。
キンモクセイは学名を Osmanthus fragrans var. aurantiacus というが、一番はじめのOsmanthus というのはモクセイ属というものだが、
このオスマンサスはギリシア語の「osme(香り)プラス anthos(花)」というのが語源。
因みに学名には末尾にMAKINO とついているものもあるが、それは牧野富太郎博士の命名か整理による故だろう。
ついでに言えば fragrans=芳香のある、 aurantiacus=橙黄色の、の意味である。
木犀には銀木犀というのもある。私の家の旧宅の庭にあったが、今の家に引っ越す時に庭に入り切らずに植木屋にもらわれていった。
木犀を詠んだ句を引いて終りにする。

 木犀や月明かに匂ひけり・・・・・・・・山口青邨

 浴後また木犀の香を浴びにけり・・・・・・・・相生垣瓜人

 沈黙は金なり金木犀の金・・・・・・・・有馬朗人

 夜露とも木犀の香の行方とも・・・・・・・・中村汀女

 木犀の香がしてひとの死ぬる際・・・・・・・・小寺正三

 金木犀手鞠全円子へ弾む・・・・・・・・野沢節子

 木犀が髪にこぼれてゐて知らず・・・・・・・・神戸はぎ

 富士に雪来にけり銀木犀匂ふ・・・・・・・・伊東余志子

 身の饐えるまで木犀の香に遊ぶ・・・・・・・・鷹羽狩行

 金木犀の香の中の一昇天者・・・・・・・・平井照敏

 妻あらずとおもふ木犀にほひけり・・・・・・・・森澄雄

 犬の睾丸ぶらぶらつやつやと金木犀・・・・・・・・金子兜太

 木犀や同棲二年目の畳・・・・・・・・高柳克弘


<国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ殺しあふなり 地球(テラ)はアポリア・・・・・・・・・・木村草弥
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──イスラエル紀行(1)──

  <国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ
   殺しあふなり 地球(テラ)はアポリア・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


2000年5月にミレニアム記念の年にエルサレムを訪問できたのは幸運だった。
その年の秋にはシャロン首相の「黄金のドーム」強行視察に反発してパレスチナ人との間に果てしない流血の衝突が起り、今日に至る泥沼化した紛争の起因となってしまった。

掲出した写真はオリーヴ山からの「黄金のドーム」の遠景である。
掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』((角川書店)に載せたもので、歌以外の叙事文はイスラエル紀行「ダビデの星」をWeb上で見ることが出来るのでアクセスしてもらいたい。
歌集には、この叙事文も全文収録してあるが、Webでは収録していないので、紀行文「ダビデの星」をみてもらいたい、という意味である。
短詩形としての短歌は事実を叙事するには適していないので、私は慣例を破って、この歌集の中で歌と叙事文を併用するという手段を採ったものである。
写真②はエルサレム旧市街を囲む城壁である。
028エルサレム旧市街城壁

写真③は、エルサレム旧市街の壁の中にある「嘆きの壁」と称されるところで、黒づくめの服と帽子に身を包んだユダヤ人がブツブツと経文を唱えながら壁に向かってお祈りする場所である。
この壁の上段にイスラム教の「黄金のドーム」がある。
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なぜエルサレムが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地として古来、たびたび争奪戦の対象になってきたのか、
などについて私の紀行文「ダビデの星」に詳しく書いてあるので、お読みいただきたい。

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写真④が「嘆きの壁」に向かうユダヤ人。立っている人もたくさん居る。ここには厳重なイスラエル警察の護衛と監視つきで短時間立ち入ることができる。
イスラエル国民にはユダヤ教徒だけではなく、イスラム教徒も、他の信徒も居るが圧倒的多数はユダヤ教徒であるが、
ユダヤ人が寛容の精神でエルサレム市を運営するかぎり、みな共存共栄の関係なのである。
パレスチナ人(イスラム教徒)も肉体労働や車の運転手などの仕事をユダヤ人からもらって生活しているのである。
暗殺されたラビン首相は穏健派だったので両者の関係は蜜月時代だった。
今では強硬派のシャロン首相が、そういう危うい両者の関係を破壊してしまい、果てしない殺戮と報復の泥沼に入ってしまった。
余談だが、そのアリエル・シャロンが2006年に病気で倒れ人事不省になり、今はどうしているのか、死んだという報道もないが、人騒がせな政治家であった。
今のネタニアフ首相も強硬派であり、事態は一向に進展しない。

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写真⑤は記念館に展示される「2000年前のエルサレムの街の模型」である。
エルサレムは東西の交易路の交わるところとして、古来、重要な位置を占めてきた。
そういう場所であるだけに、事がこじれてしまうと、血を血で洗う紛争の地と化してしまうのである。
私は歌集の中で

   山 翻 江 倒 海 巨 瀾 捲 奔 騰 急 萬 馬 戦 猶 酣─────毛沢東

という毛沢東の詩を「引用」の形で挿入した。これは私の友人・西辻明 が自作の詩の中に使ったのを了解を得て使わせてもらった。
全部は理解できなくても、漢字ひとつひとつの意味するところから何となく、現代を表現し得ていると思えるではないか。
毛沢東は晩年には文化大革命などの間違いを犯したが、間違いなく20世紀を代表する偉大な政治家・哲学者であった。

イスラエルやエルサレムについては、旅の途中にガイドのニムロード・ベソール君から色々話を聞いて、まだ書いていないこともあり、
いつか機会をみて書いてみたいと思うが、ユダヤ人の中でも人種の違いによって明らかな「差別」が存在するのである。
白人のユダヤ人が優位で、有色人のユダヤ人は差別されている。
また我々には理解しにくいことだが、ユダヤ教典の中では「働くな」と書かれているらしい。
だから現在のイスラエル国民のうちで、保守派の連中は、教典に集中するという名目で働かず、国家の助成で暮らしている、という。
これはガイドのベソール君から聞いた。
大体、保守派はヒゲを生やし、黒づくめの服装をしているから一見して判るが、湖水地方などの保養地でモーターホード遊びなどをして、はしゃいでいるのは、
そういう保守派の連中の子弟である。だから、ベソール君は「間違っていますね」と言うわけである。
ベソール君については私の紀行文を読んでもらいたいが、イスラエル国民は、決して強硬派一色ではない。
暗殺されたラビン首相のように平和裡にユダヤもパレスチナも共存する方策を模索した勢力が、今でも多数いるのである。
民族、国家の古さから言えば「ユダヤ人」「イスラエル」「ユダヤ教」は一番古いのである。

私の歌集では、この歌の後に

  夕暮は軋む言葉を伴ひて海沿ひに来るパレスチナまで

  目覚むるは絆あるいはパラドックス風哭きて神をほろほろこぼす

  何と明るい祈りのあとの雨の彩(いろ)、千年後ま昼の樹下に目覚めむ


と続けて、この歌集の「ダビデの星」の章を終っている。もちろん私の願望を込めてあるのは当然である。
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「エルサレム」や「嘆きの壁」「ダビデの星」など「リンク」を貼ったページは、私の記事に不足する写真などを補足してくれると思う。
「前のページ」や「リンク」など、次々と検索できるので、ご覧になっていただきたい。



木村草弥歌集『嬬恋』──感応・・・・・・・・・・・・・・・・米満英男
嬬恋

──書評・評論──初出・『霹靂』16号2004/05/01所載

     木村草弥歌集『嬬恋』──感応・・・・・・・・・・・・米満英男(黒曜座)
                 ──その多様な発想と表現に向けての恣意的鑑賞──

 今、眼前に、四八二首を収載した歌集『嬬恋』がある。まずその歌の抱える幅の広さと奥行の深さに圧倒された。
東はユカタン半島から、西はエーゲ海に到る<規模雄大> なる覊旅の歌にも目を瞠ったが、その現地体験もなく、宗教や風習にも全く疎いと気付き直し、
敢えてそれらの歌からは、紙数の関係もあって降りることにした。
 私が平素上げている専用のアンテナに、強く優しく伝わってくる歌からの電波をとらえて、私なりの気ままな読み取りを行い、それを返信の言葉に代えて述べてみることにする。

①目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を
②父を詠みし歌が少なし秋われは案山子(かかし)やうに立ちてゐたりき
③うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり
④夜の卓に土筆の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず
⑤石ひとつ投げし谺がかへりくる花の奈落の中に坐れば
⑥うつしみは欠けゆくばかり月光の藍なる影を曳きて歩まむ

 いずれの作品も、まさに現代短歌の本筋とも言うべき、肉眼と心眼、写実と抽象、正視と幻視が一元化した上で、さらに濃密性と透明感を秘めた歌に仕上がっている。
 一首ずつ、恣意的に味わってみる。
 ①の歌、目つむれば常に花の向うから現れる母の姿。おそらくは母が纏う甘い匂いも嗅ぎ分けていよう。
②の作品、父と同様、作者自身も、父となった以後は、子から見れば孤独な存在に過ぎない。
③真昼間の春爛漫のさくらではない。若気の至りを越えた後をふり返りつつ、その回想を子に聞かせている。
④上句にこめられている妖気が、下句の願望を妨げ作者の口を閉ざさしめる。
⑤花にかこまれて坐っている自分の姿を、奈落の中と観じた刹那、投げた石の谺のひびきがわが身を禊ぐ。
⑥の歌、白い月光の下、藍色の影を曳きゆくほどに、うつしみの欠落部分が、いよいよつよく感じられると詠じている。
 次に、上掲の歌とがらりとかわって、何とも言えぬユーモア、あるいは洒脱な語り口からくる、本音に近い発想の楽しさを湛えている作品を抜き出してみよう。

⑦重たげなピアスの光る老の耳<人を食った話> を聴きゐる
⑧手の傷を問ふ人あれば火遊びの恋の火傷と呵々大笑す
⑨クールベのゑがくヴァギナの題名は「源」(スールス)といふいみじくも言ふ
⑩春くれば田んぼの水に蝌蚪(おたまじやくし)の語尾活用を君は見るだらう
⑪園芸先進国オランダ開発のミディトマト「レンブラント」と名づけられた
 ⑦の作品、車内で見た<老婦人>であろう。隣の老人の語る<人を食った話>、つまり人を馬鹿にした話をじっと聴いている。
そしてその話をまた作者自身も、思わず聴いてしまう。
⑧は、これまた、何とも鮮やかな応答である。結句の<呵々大笑>の締めがよく効いている。
⑨読み下した瞬間に「なるほど」とうなずく外はない愉快な歌である。下句の<いふ><言ふ>の駄目押しが決まっている。
⑩さてさて、こういう発見もあったのかと頷き返す。<君> が何者かと思案する楽しさも残されている。
⑪<レンブラント>という重々しい命名のトマト─是非食べてみたい。
こういう、絶妙な軽みを持つ歌を随所に据え置いているのも、作者のすぐれた<芸> の内であろう。

 さて、ここら辺りで、題名の『嬬恋』にぴたりと即した作品をとり上げてみよう。
⑫雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)まぬがれがたく病む人のあり
⑬億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
⑭生き死にの病を超えて今あると妻言ひにけり、凭れてよいぞ
⑮ゆるやかに解(ほど)かれてゆく衣(きぬ)の紐はらりと妻のゐさらひの辺に
⑯水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら
ありきたりの感想など入れる隙間などない、まさに絶唱としか言いようのない作品である。が、それではいささかこちらが無様すぎるので、敢えてひとこと述べてみる。

 ⑫雷鳴が葵というはかない存在を経て、病む人につながるその緊迫感。
⑬永遠の時間に比べれば、人のみならずすべての生き物は瞬間の命しか持ち得ないという詠嘆。
⑭四句から結句に至るその間に付けられた<、>の重さによって、<凭れてよいぞ>という作者の肉声が何とも切なく伝わって来る。
⑮若かりしころの艶なる妻の姿態がふと浮かぶ。歳月の流れ。
⑯一歩踏み出せば一種の惚気とも取られかねない際どい線の手前に踏みとどまって、己れの身をその<女>(ひと)に委ねている。

 好き勝手な、自己流の鑑賞──というよりも、一方的な受容と合点を行って来た。そこであらためて気付いたのは、この歌集のもつ多様性であった。
しかもそれは、歌の表層部分の言葉の置き換えから来るものではなく、作者自身のその場その時における情念と直感が導き出す重厚にして膨みのある、ユニークな詠嘆であった。 
 その詩的詠嘆の、さらなる充溢と進展に向けて、惜しみなき拍手を送りたい。 (完)


「地球はアポリア」・・・・・・・・・・・・・・・秋山律子
嬬恋

──書評──木村草弥歌集『嬬恋』(角川書店)「未来」誌2004年1月号 所載


    地球(テラ)はアポリア・・・・・・・・・・・秋山律子

『嬬恋』は木村草弥氏の第四歌集にあたる。
その歌集名と響きあうようなスリランカの岩壁画という「シーギリア・レディ」のフレスコ画のカバーが印象的である。
十数年来の念願が叶って実際に見に行かれたそうだが、かすかに剥落しながら浮かび上がっている豊潤な像に女性への、妻への思いが象徴されているのだろう。
『嬬恋』は群馬県北西端の村の名に因んでいるが、それは二度の大患を乗りこえて戻ってきた吾が妻へのそのままの気持ちであると記す。

  ・妻病めばわれも衰ふる心地して南天の朱を眩しみをりぬ
  ・羽化したやうにフレアースカートに着替へる妻 春風が柔い
  ・壺に挿す白梅の枝のにほふ夜西班牙(スペイン)語の辞書を娘に借りにゆく
  ・嬬恋を下りて行けば吾妻とふ村に遇ひたり いとしき名なり
  ・睦みたる昨夜(きぞ)のうつしみ思ひをりあかときの湯を浴めるたまゆら

という風に、妻や娘を詠むときに匂うような視線がある。
そういった家族への濃い思いもこの歌集の特徴だが、一方でもう一つ大きなテーマとして、アジアや中東を旅し、
その土地から発信する幾つかの連作に、旅行詠を越えた力作が並ぶ。
その中の一つ「ダビデの星」というイスラエル、エルサレムを旅した時の散文を含んだ一連は、この歌集のもう一つの要であろう。

  ・今朝ふいに空の青さに気づきたりルストゥスの枝を頭(づ)に冠るとき

に始まる八十余首の連作は、イエスが十字架を背負って歩いたヴィア・ドロローサの歴史的場所の十四のポイント(ステーション)を辿るのも含めて、そのほとんどを叙事に徹しながら、自らの足を運び、自らの目で視ることの迫力で一首一首を刻んでゆく。

  ・主イエス、をとめマリアから生まれしと生誕の地に銀の星形を嵌む
  ・ほの赭きエルサレム・ストーン幾千年の喪ひし時が凝(こご)りてゐたる
  ・異教徒われ巡礼の身にあらざるもヴィア・ドロローサ(痛みの道)の埃に塗(まみ)る
  ・日本のシンドラー杉原千畝顕彰の記念樹いまだ若くて哀し
  ・「信じられるのは銃の引金だけ」そんな言葉を信じるな! 君よ
  ・<国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ殺しあふなり 地球(テラ)はアポリア

宗教、民族の紛争地のただ中を歩みながら事実のあるがままの呈示の中に、自分の思念を映し出す。
そして連作の最後に置く一首

  ・何と明るい祈りのあとの雨の彩、千年後ま昼の樹下に目覚めむ

その他風景を詠ったものなど詩情豊かだ。
  ・月光は清音(きよね) 輪唱とぎるれば沈黙の谷に罌粟(けし)がほころぶ
  ・睡蓮は小さき羽音をみごもれり蜂たちの影いくたびよぎる

そして、本歌集の最後に置かれた一首

  ・水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら

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秋山律子 ← Wikipediaにリンクあり。

中野雄『指揮者の役割―ヨーロッパ三大オーケストラ物語』・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

    中野雄『指揮者の役割―ヨーロッパ三大オーケストラ物語』・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・新潮選書2011/09/22刊・・・・・・・・・・・

      指揮者は音を出さない不思議な音楽家。では一体、何をしているのか?
      オーケストラにとって指揮者は不可欠のカリスマか、それとも単なる裸の王様か?
      どんな能力と資質が必要とされるのか?
      ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、コンセルトヘボー管弦楽団を舞台に、
      フルトヴェングラーからカラヤン・小澤をへてゲルギエフまで――
      巨匠たちの仕事と人間性の秘密に迫る。

新潮社の読書誌「波」2011年10月号より 書評を引いておく。
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       まことに内容充実の指揮者論・・・・・・・・・・・・宇野功芳

 中野雄さんの博識さには本当に頭が下がる。
本書は「指揮者の役割」、つまり指揮者とはいったいどのような存在なのかという問題を、誰にでも分るように事細かく説明している。
もともと文章の立つ方ではあるが、ここでは彼が長年蓄積した厖大な知識を駆使して、指揮者と、オーケストラにとって最も重要なコンサートマスター、
さらにはオーケストラそのものについて、かんでふくめるように親切に解説・解明してゆくのである。
 彼は実に多くのコンサートマスター、オーケストラの楽員、指揮者から多年にわたってあらゆる情報を得ている。
中野さんは年中、手当たり次第に質問している。誰彼となく絶えず質問している。その情熱は半端ではない。
だから、その人たち(多くはウィーン・フィルやアムステルダム・コンセルトヘボウのコンマスのような有名人の実力者)から極めて多くの言葉を引き出している。
その根気には圧倒されてしまう。
そういう足でかせぐ仕事を何十年もつづけているのだから、この本にこめられた豊かな情報量は、それを求めている人にとっては、
まことに内容の充実し切った、宝のようなものであるにちがいない。
 ヘルマン・クレッバースが述べた、「ユダヤ人音楽家は、手の指の第一関節より先の部分が標準サイズより長い。
しかもその多くの掌は肉付きがいいから、ヴィブラートが大きく、ゆったりとしていて、紡ぎ出されるヴァイオリンの音色が柔かく、濃密である」などの言葉は、中野さんだからこそ引き出せたものといえよう。
 N響のコンマス篠崎史紀の次のような主旨の言葉、「昔はレコードがなかったから、人の演奏も自分の演奏も聴けない。だから今から考えればとんでもない演奏もまかり通っていただろうけれど、一人ひとりの演奏は個性的にならざるを得ず、そういう土壌から巨匠の演奏が生まれたんじゃないか」も、日頃ぼくが考えていることに共通するものがあって興味深い。
 もっとも、中野さんの方法論はぼくとは正反対である。
ぼくは情報を決して求めない。情報は自分にとって有害だと思うからだ。でも必要な情報ならいつか必ず入ってくる。それを待っていれば良いのだ。
多くの人が絶讃する小澤征爾指揮のサイトウ・キネン・オーケストラも一度も生を聴いたことがない。
それを批評家として怠慢とは思わず、むしろ誇りに思っている。ぼくにとっていちばん重要なのは自分の耳だけである。
 というわけで、この本を読むと、自分もそう思うとか、そうは思わないとかの考えがつぎつぎと出て来て、原稿用紙二十枚や三十枚の原稿は簡単に書けてしまいそうだ。
いずれどこかに、ぜひ発表してみたいものだと楽しみにしている。
 中野さんの本はぼくの音楽観を大いに刺戟する。 (うの・こうほう 音楽評論家)
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中野雄/ナカノ・タケシ

1931年、長野県松本市生まれ。音楽プロデューサー。東京大学法学部を卒業後、日本開発銀行をへて、オーディオ・メーカー「ケンウッド」の代表取締役CFO、昭和音楽大学・津田塾大学講師を歴任。LP・CDの制作でウィーン・モーツァルト協会賞など受賞多数。著書に『丸山眞男 音楽の対話』『モーツァルト 天才の秘密』『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』(いずれも文春新書)がある。

目次

序章 指揮者の四つの条件
第一章 指揮者なんて要らない?――ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
絶美・陶酔のアンサンブル体験
ウィーン・フィルの恐るべき力量
コンサートマスターの身振り
小澤征爾という指揮者をどう思うか?
気に入らない指揮者には牙を剥く
二一世紀のウィーン・フィル

間奏曲その一 世界一のオーケストラはどこ?
第二章 カラヤンという時代――ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
凄腕揃いのチェロとコントラバス
カラヤンの残像
二人の先駆者――トスカニーニとフルトヴェングラー
鬼才が帝王となるまで
帝王の時代
頂点を極めた男の見果てぬ夢

間奏曲その二 コンサートマスターの仕事とは?
第三章 オーケストラが担う一国の文化――ロイヤル・コンセルトヘボー管弦楽団・アムステルダム
伝説の奏者ヘルマン・クレッバース
ピーツ・ランバーツの回想
救世主ベイヌムの死と後継者問題
名コンサートマスター誕生
ハイティンクの時代
歴代の指揮者をブラームスとマーラーで聴き比べる
終章 良い指揮者はどんな指示を出すのか?
あとがき
私の好きなCD&DVD30選

「立ち読み」もできる。 お試しあれ。

「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
img008エッサイの樹
 
   「はじめに言葉ありき」てふ以後われら
     混迷ふかく地に統べられつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「エッサイの樹」というのは、「旧約聖書」に基づいてキリストの系譜に連なるユダヤ教徒の系統図を一本の樹にして描いたものであり、
西欧のみならず中欧のルーマニアなどの教会や修道院にフレスコ画や細密画、ステンドグラスなど、さまざまな形で描かれている。
掲出の写真はブロワの聖堂の細密画である。

誤解のないように申し添えるが、「ユダヤ教」では一切「偶像」は描かない。
キリストは元ユダヤ教徒だが「キリスト教」の始祖でありカトリックでは偶像を描くから、エッサイの樹などの画があるのである。
偶像を描かないという伝統を、同根に発する一神教として「イスラム教」は継承していることになる。

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも収録したので、Web上でもご覧いただける。「エッサイの樹」と題する11首の歌からなる一連である。

p10-11エッサイ南面フレスコ

写真②はルーマニアのヴォロネッツ修道院の外壁の南面に描かれた「エッサイの樹」のフレスコ画である。
ルーマニア、ブルガリアでは、こういう風に修道院の外壁にフレスコ画が描かれることが多い。西欧では、先ずお目にかかれない。

「ステンドグラス」に描かれたものとしてシャルトルの大聖堂の写真を次に掲げておく。
右端のものが「エッサイの樹」。
f0095128_23431642シャルトル大聖堂エッサイの樹

img028今治教会のステンド
写真④に掲げたのは、今治教会のエッサイの樹で、シャルトルのブルーといわれるシャルトル大聖堂のエッサイの樹の複写である。細かいところが見てとれよう。

なお先に言っておくが「エッサイ」なる人物がキリストと如何なる関係なのか、ということは、後に引用する私の歌に詠みこんであるので、
それを見てもらえば判明するので、よろしく。
いずれにせよ、昔は文盲の人が多かったので、絵解きでキリストの一生などを描いたものなのである。
p03000エッサイの樹の祭壇

写真⑤はブラガ大聖堂の「エッサイの樹」の祭壇彫刻である。
こういう絵なり彫刻なり、ステンドグラスに制作されたキリストの家系樹などはカトリックのもので、プロテスタントの教会には見られない。
とにかく、こういう祭壇は豪華絢爛たるもので、この「エッサイの樹」以外にもキリストの十字架刑やキリスト生誕の図などとセットになっているのが多い。

私の一連の歌はフランスのオータンの聖堂で「エッサイの樹」を見て作ったものだが、ここでは写真は撮れなかったので、失礼する。
以下、『嬬恋』に載せた私の歌の一連を引用する。

  エッサイの樹・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「エッサイの樹から花咲き期(とき)くれば旗印とならむ」とイザヤ言ひけり

エッサイは古代の族長、キリストの祖なる家系図ゑがく聖堂

ダビデ王はエッサイの裔(すゑ)、マリアまたダビデの裔としキリストに継ぐ

その名はもインマヌエルと称さるる<神われらと共にいます>の意てふ

聖なる都(エルサレム)いのちの樹なる倚(よ)り座(くら)ぞ「予はアルパなりはたオメガなり」

樹冠にはキリストの載る家系樹の花咲きつづくブルゴーニュの春

オータンの御堂に仰ぐ「エッサイの樹」光を浴びて枝に花満つ

とみかうみ花のうてなを入り出でて蜜吸ふ蜂の働く真昼

大いなる月の暈(かさ)ある夕べにて梨の蕾は紅を刷きをり

月待ちの膝に頭(かうべ)をあづけてははらはら落つる花を見てゐし

「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ
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ここに掲出した歌の中の「はじめに言葉ありき」というのは、聖書の中の有名な一節である。あらゆるところで引き合いに出されたりする。
それが余りにも「規範的」である場合には、現在の地球上の混迷の原点が、ここから発しているのではないか、という気さえするのである。
だから、私は、敢えて、この言葉を歌の中に入れてみたのである。
前アメリカ大統領のブッシュが熱心なクリスチャンであったことは良く知られているが、彼は現代の「十字軍」派遣の使徒たらんとしているかのようであった。
中世の十字軍派遣によるキリスト世界とアラブ世界との対立と混迷は今に続いている。
はっきり言ってしまえば「十字軍派遣」は誤りだった。今ではバチカンも、そういう立場に至っている。
頑迷な使徒意識の除去なくしては、今後の世界平和はありえない、と私は考えるものであり、
この歌の制作は、ずっと以前のことではあるが、今日的意義を有しているのではないか、敢えて、ここに載せるものである。
2007年に起こったアフガニスタンでの韓国人「宣教団」の人質事件なども同様の短慮に基づくものと言える。
イスラム教徒はコーランに帰依して敬虔な信仰生活を営んでいるのであり、それを「改宗させよう」などという「宣教」など、思い上がりもいいところである。
誘拐、人質と騒ぐ前に、お互いの信仰を尊重しあうという共存の道を探りたいものである。


長山靖生『天皇はなぜ滅びないのか』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

       長山靖生『天皇はなぜ滅びないのか』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・・・新潮選書2011/09/22刊・・・・・・・・・・

   先鋭なる信長、奸智の秀吉、そして政・経・軍を司る最強の徳川家に、天皇家はいかに対峙し、生き残ってきたのか。
   神楽、和歌、書道など伝統諸芸を掌握し、圧倒的な「文化力」を育むとともに、お蔭参りや御所参詣の大流行を巷に起こす「ブランド力」を発揮し、
   庶民の人気を博した歴代天皇。近世の皇室史から皇統存続の謎を探る。

新潮社の読書誌「波」2011年10月号に載る著者の紹介記事を引いておく。
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       皇統存続と日本人・・・・・・・・・・・・・・・・長山靖生

 日本人は世襲が大好きだ。
歌舞伎や能狂言の世界は勿論、今の芸能人も世襲が多く、テレビを見ていると番組そっちのけで「この人、だれそれの子どもだよね」と盛り上がる。
政治家の世襲には批判も強いが、相変わらず当選するのは、選挙民がそういう選択をしているからだ。
ブランド品の人気は依然高いし、お稽古事などでは家元制度も健在だ(新しいお教室まで世襲化している)。
 日本一のブランドにして世襲体制といえば「天皇」である。なにしろ現在も継続している世界最古の皇室なのだ。
 だが、なぜ天皇が滅びることなく続いてきたのか、その理由はいまひとつ明確でない。
天皇が強大な権力を握っていたとされるのは遥か昔のことで、千年以上前から藤原摂関家や武家が政治の実権を握ってきた。
にもかかわらず皇位簒奪はなく、易姓革命は起こらず、それどころか国家統治の大権を手中に収めた権力者は、天皇から官位を授かることでその地位を世襲化した。
本来ならライバルであるはずの存在も取り込んでしまう天皇の魅力とは、いったいなんだろう。
 天皇は、政治的権力は早々に失ったものの、祭祀的権威は保持していたという説があるが、それも疑わしい。
天皇は時に陰陽師に吉凶を尋ね、僧侶に加持祈祷を依頼しており、宗教的な超越者とはいえない。
さらに王朝文学に登場する皇族は、恋をしたり煩悶したりと、きわめて人間的だ。
 中世には朝廷の衰微は甚だしく、御所の塀が崩れても直す金がなくてなかが丸見えだったとの風説さえあった。
それでも天皇は天皇であり、むしろ民は「宮中御衰微」の噂に「おいたわしい」という気持を懐き、天皇への親しみを育ててきた。
直接的な権力を持たず、宗教的な権威でもなく、衰微していることが明らかなのに、むしろその無力さが民衆を惹きつけたのだ。
江戸時代にも、天皇が登場する物語は、ほとんどすべて天皇を善者として描いた。
飢饉になると江戸や大坂では打毀しが起きたのに、京では庶民が御所周辺を祈りながら巡る「千度参り」が流行した。
 そんな不思議な希望を国民に与える天皇の力は、東日本大震災の直後にも発揮された。
現在の天皇は、政治的実権を持っていない。にもかかわらず、何も出来ない天皇が国民に語りかけ、被災地を訪れたことに癒された人は多い。
実は私も被災し、避難先で数日後に電気がついた際に天皇のお言葉を聞き、思わず涙が出た。
「続いていること」自体が、日本人には救いなのかもしれない。続いていれば、今はダメでも、未来に希望をつなげられる。
天皇は、そんな「続いている」ことの象徴であり、日本人であることの家元なのかもしれない。
日本中が閉塞感と衰退感に包まれている今、江戸時代の「権力を持たない弱い天皇」のありかたには、希望再生のヒントがある。
本書ではその皇統存続に深く迫ってみた。 (ながやま・やすお 思想史家、評論家)
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長山靖生/ナガヤマ・ヤスオ

1962年茨城県生まれ。評論家、歯学博士。鶴見大学歯学部卒業。
歯科医の傍ら、文芸評論、社会時評など幅広く執筆活動を行っている。
1996年『偽史冒険世界』(ちくま文庫)で、第10回大衆文学研究賞受賞。
2011年『日本SF精神史』(河出ブックス)で、第31回日本SF大賞受賞。
主な著作に、『人はなぜ歴史を偽造するのか』(新潮社)、『日露戦争』『大帝没後』(ともに新潮新書)、
『日本人の老後』『天下の副将軍』『テロとユートピア』(いずれも新潮選書)、
『日米相互誤解史』(中公文庫)などがある。

「立ち読み」もできる。 お試しあれ。

磬三たび打てど不在か師の寺を訪ふ門に紫式部のつぶら実が輝る・・・・・・・・・・木村草弥
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  磬(けい)三たび打てど不在か師の寺を
   訪ふ門に紫式部のつぶら実が輝(て)る・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


磬(けい)というのは、もともと中国の石製楽器で、それが青銅製のものに作られ、仏教の儀式などに使用されたものである。
上部の紐穴に紐を通し、木製の磬架につるして鳴らす。

掲出の私の歌は第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたものだが、この歌の場合は、この「ケイ」は宗教儀式用のものではなく、師が中国から新作ものだが、古代の石製楽器に模したものを買って帰り、
門に呼鈴かわりに吊るしてあるものである。石製なので、カンカンという甲高い澄んだ音がするものである。庫裏の入口に掲げてあった。

中国の石製「ケイ」の写真をbittercup氏から教えていただいたので、中国のオリジナルの虎纹石磬の写真を出しておく。↓
出所は中国の「国家博物馆馆藏精品特展」という簡略体のサイトである。(草弥注・今はこのサイトは削除された) 
御礼申し上げて、ここに追記しておく。
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この歌のつづきに

  紫を禁色(きんじき)と誰(た)がさだめけむ紫式部のむらさきの実よ

という歌が載っている。もちろん日本朝廷が権威の象徴として高貴な僧などに限って着用を許したことは知っている。しかし、それを「誰かさだめけむ」と、ぼかすところが詩なのである。

ムラサキシキブについては10/6に採り上げたので、それを参照されたい。
私としては「ケイ」を詠った歌を採り上げたかったので重複する部分があるが敢えてアップした。
収録してある歌集も違うからである。
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この楽器についての解説をネット上から引いておく。

磬(けい)は古代の打楽器であり、中国で最も古い民族楽器の一つでもあります。素朴で古風な感じのする楽器で、とても精巧に作られています。磬の歴史はとても古く、遠い昔の《母系社会》で、磬は「石」や「鳴る球」と呼ばれていました。当時、人々が漁や狩猟で生計を立てていた頃、一日の仕事が終わった後にこの石を叩きながら様々な獣を真似た踊りを踊ったということです。このとき叩かれていた石がその後、徐々に改良され打楽器の磬となりました。
磬は当初人々の踊りや歌の中で演奏されていましたが、その後は編鐘(へんしょう)と同じように、古代の権力者が戦や祭りなどの場面で使うようになりました。

磬は使われる場所や演奏法によって特磬と編磬の二種類に分けられます。特磬は皇帝が天地と祖先を祭祀する時に演奏され、編磬は主に宮廷音楽に使われるもので、幾つかの磬からなる楽器で木製の棚に並べて演奏します。2000年ほど前の戦国時代、楚の編磬製造技術は既に比較的高いレベルに達していました。

1978年8月、中国の考古学者が湖北省随県の擂鼓墩で2400年ほど前の古墳(曽侯乙墓)を発掘したとき、その古墳の中から古代・楚文化の特徴を表す編鐘、編磬、琴、瑟、簫、鼓など120点余りの古代楽器や多くの文化財が出土しました。そのなかに32枚の曽侯乙編磬があり、上下に配置された青銅製の磬が棚の上に並んでいます。これらの編磬は石灰石や玉などから作られていて、通常は澄んだ明るい音色を出しますが、残念なことに出土した大多数がボロボロでヒビが入っており、音が出ない状態でした。1980年に湖北省博物館と武漢物理研究所が協力して作成した曽侯乙編磬の複製品は、本来の編磬とほぼ同じ美しい音色を再現しました。

1983年、湖北省音楽団が十二平均律に従い32枚の石製編磬を作ったほか、1984年9月には蘇州の民族楽器工場と玉彫刻工場が碧玉で18枚の編磬を作りました。

鑑賞曲:『竹枝詞』(曽侯乙編磬の複製品での演奏) ←この部分はリンクになっていない(草弥・注)



玉の緒の花の珠ぼうと浮きいづるいで湯の朝をたれにみせばや・・・・・・・・・・・木村草弥
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    玉の緒の花の珠ぼうと浮きいづる
       いで湯の朝をたれにみせばや・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌のつづきに

   草むらにみせばやふかく生(お)ひにけり大きい月ののぼるゆふぐれ

という歌が載っている。私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に収録したものである。
「みせばや」=玉の緒は、原産地は昨日書いた「紫式部」と同様に、日本、朝鮮半島、など東アジアとモンゴルなどに産する。
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写真②は開花前の「みせばや」である。多肉植物である。ムラサキベンケイ草属の耐寒性の多年草。
学名は、学者によって分類が異なるが、今はHylotelephium sieboldii ということになっている。
日本では、小豆島の寒霞渓にしか自生しないと言われているが、栽培種としては一般家庭でも広く栽培されている。
写真③は紅葉したミセバヤである。
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ところで「玉の緒」という名前はともかく、「みせばや」という名前は何に由来するのだろうか。
これは言葉の「綾」からきたものである。
「みせばや」という古い表現は「誰かに見せたいな」という意味であり、私の歌も、その隠された意味を踏まえて作ってある。
掲出した私の歌に立ち戻ってもらえれば、よく判っていただけるものと思う。
私の歌は一時、花の歌を作るのに、まとめて凝っていた頃があり、その頃の歌の一連である。
温泉の朝湯に豊かな肢体をさらす女体に成り代わって詠んでいる。
女性のナルシスムである。
俳句にも詠われており、それらのいくつかを引いておきたい。

 たまのをの花を消したる湖のいろ・・・・・・・・森澄雄

 みせばやのありえぬ色を日にもらふ・・・・・・・・花谷和子

 みせばやの花を点在イスラム寺・・・・・・・・伊藤敬子

 みせばやの花のをさなき与謝郡・・・・・・・・鈴木太郎

 みせばやの洗ひ場に干す五升釜・・・・・・・・福沢登美子

 みせばやが大きな月を呼び出しぬ・・・・・・・・鈴木昌平

 老母のたまのをの花さかりなる・・・・・・・・西尾一

 みせばやの半ばこぼれて垣の裾・・・・・・・・沢村昭代

 みせばやに凝る千万の霧雫・・・・・・・・富安風生

 みせばやの珠なす花を机上にす・・・・・・・・和知清

 みせばやを愛でつつ貧の日々なりき・・・・・・・斎木百合子

 みせばやを咲かせて村の床屋かな・・・・・・・・古川芋蔓
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いま「みせばや」の学名を見ていて思いついたのだが、学名の中の sieboldii というのは、かのシーボルトが命名したか、あるいは標本を持ち帰ったかの、いずれかではないか、ということである。語尾の ii を除いた名前はシーボルトの綴りではないのか。植物の学名に詳しい方のコメントを待ちたい。


野町和嘉・写真集『ガンジス』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      野町和嘉・写真集『ガンジス』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・・新潮社刊:2011/09/22・・・・・・・・・・・・・

      ヒマラヤの氷河に発する源流からベンガル湾に注ぐまで、
      滔々と奔る大河の流域で、世俗を離れ聖水に身を捧げる修行僧、
      その水に身を浸し輪廻転生を願う何百万もの巡礼たちの恍惚の沐浴絵図……
      死を見つめ来世を想う“祈りの姿”をとらえた大河写真集。(定価6,300円)

野町和嘉は世界中を歩いて鮮烈な写真集を世に問うてきた。
この写真集も大部のもので本の値段も、ご覧のように高い。
新潮社の読書誌「波」2011年10月号より書評を引いておく。
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      死と再生のマンダラ空間を写す・・・・・・・・・・・山折哲雄

 ガンジスの流れはヒマラヤに源を発し、ベンガル湾にそそぐ。全長二五〇〇キロの長蛇が大地を這い、源流と河口部の高低差はおよそ四〇〇〇メートルだ。
その大蛇の流れを踏んで、数かぎりない巡礼と聖者が蟻のごとく押し寄せる。奇蹟を追い求める祈りの拠点が、姿をあらわす。
 本書は、その精神の心臓部にねらいを定め、喧騒と混濁のなかを歩いて撮りつづけた写真集である。
人間たちの赤裸な欲望が渦を巻いている。その間隙をぬうように至福の表情が浮かびあがる。
 ガンジスだけをねらっている。カメラの目はガンジスだけがインドだと主張し、ガンジス以外のいったいどこにインドの価値があるのかといっている。
その迫力は、やはり見上げたものというほかはない。
 3・11の大災害でわれわれを驚かした映像の数々が、あらためて蘇る。
猛スピードで浜に押し寄せる大津波のうねり、どこまでもつづく破壊の爪痕と瓦礫の山また山……。
けれどもそれらの映像は、どれもこれも空や高台から撮られた遠望であり、眺望だった。
しかしガンジスの長蛇は、いかに氾濫と逆流をくり返し、周辺の人家を打ち壊し押し流そうと、眺望や遠望の目によってはとらえることはできないだろう。
野町和嘉さんのカメラの目は、それらとは根本的に質を異にする。
 いまガンジスの全長はおよそ二五〇〇キロといったけれども、一枚一枚の写真をみていけばおのずからわかるが、
著者はほとんど同時にインド五〇〇〇年の歴史を歩いている。
つまり太古の神話時代から近代文明の現代にいたる人間たちの生と死の姿にカメラをむけている。
結果として天国の発見から地獄めぐりまで、野町さんの欲望がしだいに肥大化し膨脹していく。そのプロセスに立ち会わせられる。
 神話の核心をつかみだすところから仕事がはじまる。
ガンジス河は、昔から母なるガンガー(恒河)と呼ばれてきた。その上、ヒンドゥー教の神話では、天上界の女神として崇拝されてきた。
ガンジスはヒマラヤの娘として生まれ、天界で育てられた女神だったのだ。
やがてその女神にたいし、下界に天降りたまえと願う地上の王があらわれた。王は精進潔斎して祈ったのである。
そこでシヴァ神が呼びだされ、その大仕事を引き受けることになる。
この神は天上から降下するガンジスの流れを額で受けとめ、頭髪のあいだからすこしずつ地上に流出させたのだ。
 天孫降臨ならぬ、女神降臨の物語である。その場面で、シヴァ神がきわめて重要な役割をはたしていることに注目しなければならない。
この神はヒンドゥー教の主神の一つであるが、ガンジス河流域に点在する多彩な霊場を展望するとき、
この神がほとんど一神教的なカリスマ性を発揮する神であったことがわかる。
だから野町さんの旅も、ヒマラヤの氷河に発する源流に立つところからはじまる。
やがて悠久の輪廻転生に生きるサードゥー(修行僧)や巡礼たちの姿に焦点がしぼられていく。
 ガンジスは大小の河川を呑みこみ吐きだしながら流れていくが、その合流点や河口部に都市をつくり、霊地を生みだした。
巡礼たちが群集する祭りの舞台になっていった。
死と再生をめぐる万華鏡のようなマンダラ空間であるのだが、カメラはその一つひとつの混沌と静謐の瞬間をねばりづよく克明に写しとっている。
 ヒマラヤの神秘に包まれたカイラース山、アラハバードで六年ごとに催されるインド最大の沐浴祭クンブ・メーラ、
そしてヴァラナシのガート(沐浴場)で毎日のようにくりひろげられる火葬と再生の祈りの舞台などなど、迫力満点の現場に立ち合うことができるのもありがたい。
が、圧巻はやはり、いたるところに登場してくる裸身のサードゥーたち、その生きることの極北を行くような、確信にみちた人間たちの姿ではないだろうか。 (やまおり・てつお 宗教学者)
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野町和嘉/ノマチ・カズヨシ

1946年高知県生まれ。写真家・杵島隆氏に師事し、1971年にフリーの写真家となる。
1972年、20代半ばでサハラ砂漠に旅したことがきっかけとなって、極限の風土を生きる人々の精神世界に魅せられ、信仰、巡礼をテーマとして地球規模で描き続けてきた。
ナイル、エチオピア、グレート・リフト・ヴァレーといったアフリカの乾燥地帯の取材を経て、1980年代後半より舞台を中近東、アジアに移し、中国、チベット、サウジアラビア等での長期取材を経て、2002年以降アンデス、インドに取り組んでいる。
1984年『バハル』『サハラ悠遠』で土門拳賞、1990年『長征夢現』『ナイル』で芸術選奨文部大臣新人賞、日本写真協会年度賞、2002年に大同生命地域研究特別賞、ほかを受賞。2009年に紫綬褒章受章。
他の写真集に『メッカ巡礼』『チベット』『地球巡礼』『ペルシア』『サハラ、砂漠の画廊』など。これまで8冊の写真集が、英、仏、独、イタリア版などで国際共同出版されている。



春日真木子「自己存在の起源を求めて─木村草弥歌集『嘉木』書評」・・・・・・・・春日真木子
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──書評・評論──(角川書店「短歌」平成11年9月号所載)

        「自己存在の起源を求めて」・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
              ・・・・・・木村草弥歌集『嘉木』書評・・・・・・・・・・

『嘉木』は、木村草弥氏の第二歌集。
集名は、陸羽の『茶経』の「茶は南方の嘉木なり」によるもの。
表紙の「製茶の図」が格調を示すのも「生業である<茶>に対するこだわり」のあらわれであろう。

    ・汗あえて茶を刈る時にそぼつ身を女神のごとき風通るなり
    ・<汗匂ふゆゑにわれ在り>夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ
    ・立春の茶畑の土にくつきりと生命線のごと日脚のびたり
宇治茶問屋の経営主の木村氏が、自ら茶摘みに励まれる歌。
一、二首目のヨーロッパ的教養が、茶摘みにあらたな匂いを添え、
三首目、立春の日脚の伸びる茶畑は、次の芽生えを育む光を浴び明るく健やかである。

    ・山城の荘園領主に楯つけば「東大寺文書」に悪党と呼ぶ
    ・年貢帳にいみじくも記す八十六人、三石以下にて貧しさにじむ
    ・女の名は書かず女房、母とのみ宗旨人別帳は嘉永四年
氏の住む周辺は、玉つ岡、青谷の里、つぎねふ山城、と地名うつくしく、また豊かな歴史がある。
古典、古文書を身近に引き寄せ、その上に数十首の歴史詠があるが、
抄出のように弱い立場の階級に視点をとどめる歌に注目した。
古文書の謎めいた一行が明快に甦るのも韻律の働きであろうか。
実証的な内容に雰囲気が加わり、つぎねふ山城は生命ゆたかに、木村氏の精神風土となっている。
「自らのアイデンティティを求めたのか」と川口美根子氏の帯文にある。
まことに自己存在の源を求めて郷土への執着が窺われ、この上に茶園があり、氏の四季詠がしずかに光を放っている。

<ともしびが音もなく凍る冬の夜は書架こそわれの黄金郷(エルドラド)たれ>の一首もあるが、
旺盛な知識欲と博識は、自から一集に滲む。

    ・葡萄摘むアダムの裔(すゑ)の青くさき腋窩あらはに濃むらさきなす
    ・押し合ひて群集はときに暗愚なり群を離れて「岩うつモーゼ」
    ・ヘブライの筆記のごとく右から左へ「創造」の絵はブルーに染まる
海外詠も、キリスト教的起源に触れ、英知を求めての旅であったろうか。
旧約を力づよい詩魂で描いたシャガールの図像に、知識人らしい見方がもりこまれている。

    ・黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む
    ・サドを隠れ読みし罌粟畑均されて秋陽かがやく墓地となりたり
「死の書」もサドも、日常現実のなかでうまく溶けあい、言葉の繋りにより気配が生れ、雰囲気のひろがる歌。
「詩はダンスである」、氏の心得とされるヴァレリーの言葉を重ねて味わっている。

しらじらと貫井の水はおちながら日ねもす布袋草ふるふらん・・・・・・・・・・・・・片山貞美
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  しらじらと貫井の水はおちながら
       日ねもす布袋草ふるふらん・・・・・・・・・・・・・片山貞美


片山貞美は大正11年生まれの人だが、ネット上にも記載は極めて少なく資料に乏しい。
2008/12/4に酒を飲んだあと、歩行中に転倒して急死した。
伝統的な歌作りを尊重する人で、かなづかいなどでも歴史的かなづかいの誤用を厳しく指摘する人だが、いわゆる「前衛的」な歌には激しい拒否反応を示した人らしい。
私は、その運動の渦中には居なかったので、よく判らないが、記録に残るものには、それが書かれている。
角川書店「短歌」編集長、短歌結社「地中海」編集長などを勤めた。国学院大学出身。
彼についてのエピソードを二つ紹介する。
先ずは、彼の死に際しての福田龍生の追悼文から。福田は短歌結社「古今」を主宰する。

酔いどれ吹き溜り その14
超一流のバーで豆腐を食った男
................................................福田龍生

 栄一のエピソード(短歌往来)をかくならイントロには貞美のあれこれを出しにしてかいてみるかと思っていた。そして酔いどれ吹き溜りをかいていた十時二十分に電話が入り“貞美死す”との博子夫人の声。とにかく頭はまっ白、何がなんだか解からなくなり、貞美のことをかいてしまった。間を置かず、短歌往来からは「貞美の追悼特集をやるから何かかけ」と及川社主から云われた。悪口をかくならねえと考え込んでしまった。あげくが小声で「何も浮かばぬ、少しのばしてよ」とたのんだら「そうだろ、いいよ」と優しい声で快諾してくれた。やれやれの思いだった。

頑固にして固陋な酔いどれ貞美

 そこで普段着、つまりガンコな酔いどれ貞美をまとめてみる。今更のように酔いどれ先輩を考えてみたら、熊谷守一仙人をのぞいて「みんなオプティナスィ(ガンコ)な男ばかり」だった。が貞美は異質なガンコ者であった。岡山たづ子は「うちのガンコの巌は」といつも云っていたが、僕も貞美も巌センセの密造酒の試飲をさせられた。僕が今日のように酔いどれになったのはそれが原因。もちろんそれに拍車をかけたのが片山貞美であった。
 戦後の、目のつぶれそうなカストリからはじまって、何であるアイデアルの、メチールの入ったウィスキーまで飲まされた。よくぞ死ななかったもの。そんな貞美も年がたてば偉くなるもので貞美が角川の短歌の編集屋になったころ「オイ龍生ちゃん話がある」と社にやってきた。そこで神田三崎町の茶店エリカに入った。貞美はまずそうに珈琲を口にしながら「だーれも俺をバーに連れてってくれねえんだ。トリスバーじゃないぞ。ほんとのカクシキのあるところだ。みんな知らねえのじゃないかと疑ったよ。山本も白石も知ってると思うんだがな。いいとこないないか、たのむ連れてってくれ…」と云うのであった。
 僕は吹きだした。トウフの貞美と高級バーは似合わぬ。だから白石昴だって誘わないのは当然。白石とはサンスーシーにも行っているし「タンゴをくれ」なんて云って、カクテルを飲んでいたことを思いだしながら、貞美の顔をのぞきこんだ。確かにマジな面をみせていたが、オヤジと対峙して、歌の話をしているときの目をしていた。僕はちらっとツケのあまりない、銀座の馬車屋がいいと思った。ここのバーテンさんは、とびきり上等だった。
 日本バーテンダーの会長をしていたし、会報ドリンクスにカットなどかかせてくれ、ツケをパーにしてくれた。まあ僕にとっては神様のような人だった。ペイペイ時代はミソッカスで「八時までの男」だった。本番前までしか飲ませてくれなかった。だからゼニはただ同然だった。東郷青児、寺田竹雄、宮本三郎、西村愿定、大河内信敬など画家のよく集まる店だったが、やはり中心はバンカーや一流の商社マンだったがみんな紳士だった。
 こんなバーでは、まずカクテルを一杯たのむのがマナーなのだが、僕みたいなペイペイには必要なかった。その日は貞美でも飲めそうなジンリッキーをたのんだ。スピリッツの安いものである。このジンリッキーには思い出があった。ピッカピカの編集屋のころ、二科の寺田竹雄に連れられていったのだが、ある日「なに飲むんだ」と長谷川バーテンダーに云われ「ジンリッキーだ」と云うと、睨むような目をして、目の前に、十数種のカクテルグラスをずらりと並べた。なんだこれはと思った瞬間「みんなジンリッキーだ。えらそな言い方すんな、みんな飲め」と云われた。バーってのは、恐ろしいもんだなと、おずおずと僕は一杯ずつ飲み、味わったふりをしていた。
 さて、煙草を買いにいっている間に、貞美の前には、なんとなんとトウフがどんと置かれ、満足そうに箸で口に運んでいたのだ。最高級のバーでトウフを食ったのは、恐らく片山貞美が最初にして最後だったろう。「この人、歌人なんだね、それも偉い人。お前さんも歌をつくるんだってねえ」と云われた。幸か不幸か、長谷川さんもトウフが好きで、手前用の夜食のトウフを進呈したそうな。あげくが江戸切子のグラスで酒を飲んでいるのだった。いったい貞美は、どんなきっかけをつくり酒とトウフを手に入れたのだろう。このバーテンダーのボスは、本当に優しい人だったから、貞美のわがままをみんな聞いてやったのである。このにっくきわが先輩は、それこそもう大はしゃぎ。そのうちに「ここはいいなア」としきりに話してくるのだった。僕はただ憮然として杯をかさねていただけである。

貞美とかわいい呑兵衛たち

 新宿のとある露路の、とある二階に「あづま」という飲み屋があった。ここのオカミの主人は中央公論の編集屋。だから栄一の関係で、いろいろな人種がきていた。ある日の雨の夜に、貞美とノレンを分けたら一人だけ客がみえた。入ってみると阿部正路であった。僕をみた阿部は、止り木から慌てふためいて直立不動。そして深ぶかと頭を下げたのである。この男、信じられないだろうが、アルコールがまわらないときは、礼儀ただしい歌人であり国学院の教授であった。ある日オヤジが「龍生をよろしくな」と云ったところ彼は飛び上がって「龍生先生にぶんなぐられます」と云っていたと笑っていた。また短歌新聞社主の石黒清介は「あいつは頭はいいし、天才的なところがあるのにねえ、もう飲んだらいけねえなア」とうなずくように呟いていたことがある。まさに君子豹変というべき男であった。
 その日も嫌な予感が走った。うっかり貞美が迢空のことを洩らしたのが凶とでた。阿部迢空論がえんえんとはじまった。やがては壊れたレコードとなり、意味不明となった。とにかく話は噛みあわず、カンカンガクガクがつづいた。ただ一つ記憶にあるのは「歌がいい」ということだった。二人ともグデングデンのちょっと手前。なのにケンカにならなかったのが不思議。
  季(とき)は晩秋、うまいものがいくらでもあるのに、ボクの肴を「どうせ食わないんだから」と云って飲んでは食っていた。細い目はいよいよ細くなり、意味不明ではあったが「話しっぷりには味があった」し、なんとも云えぬ雰囲気があったのである。昔とは違い、ベロベロの阿部のグチグチを聞いてやっていた。
 泣きながら、栄一に反論していたころの貞美ではなかった。だから狂いはじめた阿部の言葉をかわしながら「いい子だから、少しぐらい黙って飲めよ」と云っているように僕にはみえた。老巧にして老実な貞美になっていたのであった。そのうち「先生の家に泊る泊る」と云いだし、やがてのち「いいでしょ、いいですよねぇ」と乞うている。つまりは国立の片山邸にとあいなる。水城春房もその一人だが、そんなのが沢山いたようだった。これは片山貞美の知られざる徳なのかも知れない。
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二番目は、最初に書いた「前衛狩り」云々を巡る記事である。

以下は「地中海」誌に載るもので筆者は前編集長の椎名恒治だと思う。
この「原文」には誤植が多いので念のため。
少し長いが途中で端折っては誤解を招きかねないので前後の記事もそのままにする。

<地中海でわたしが千勝重次に出会った頃、周辺はみな「千勝先生」と呼ぶ大家であったが、没年五十六歳であったとは、不思議な思いで略歴をたどっている。

・若き日におごりあそびしこともなし。いま無為にして四十ならむとす

・茫々と遠き夜の闇の底ひより澄みてきこゆるは何のこゑぞも

 こんな歌をつくられていた。精悍な風貌が今もおぽろにうかんでくる。没後三周忌に刊行された歌集「丘よりの風景」に添えられ年譜の一部を抜いたのだが、千勝二喜男(令弟)の記す、歌集『刊行記』の結びの部分を抄出しておきたい。

 昭和二十二年の冬だったと思う。その年の春から、「短歌研究」の編集にたずさわっていた故人は、当時私もともに仮寓していた世田谷上馬の家の二階に、香川さん、宮柊二さんを御案内申してきた。事の前後は、定かでないが、御自分をまはだかにしてぐいぐいと人に押し迫ってくるような気鋭の香川さんの語り口は、そのとき初対面の私に、強い畏怖を覚えさせた。私がそのとき感じた畏怖は、故人にとって深い友情として根づき、はぐくまれ、やがて「地中海」創刊に至ったことである。敗戦後の、暗い灯火の下の、それでいて妙に生き生きとした空気が、「新歌人集団」夜明け方の明るさを思わせるひと時であった。それは故人ごのみのことばでいえば「茫々」たる過去の日の断片である。

 香川進の姿が、簡明な文によくあらわれている。地中海の草創期に重く存在した千勝重次像がこの略年譜と、三善男氏の文章でいくらかでも理解できたであろうか。「編集長は地中海創立の事情から…」と『三十年記念号』に香川進が書いた真意もここで理解できたように思う。この千勝重次の推薦で片山貞美は地中海編集者となる。

 ここで話は一転飛躍する。昨年の「短歌往来」(ながらみ書房)二月号は香川進追悼特集であった。連載中の「挫折と再生の季節」(岡井隆)の文中に、雑誌「短歌」の編集者に片山貞美、石本隆一に変わったことにふれながら、香川進とのかかわりを述べて、更に三月号で補足的なことを記しているから興味深く読まれた人もあるだろう。地中海一月号で久我田鶴子も香川論の中で触れているが、それはそれとして、片山貞美、石本隆一が、角川書店の「短歌」編集者(石本は後に「俳句」の編集者)であったことをわが地中海の仲間はあまり知らないかも知れない。現に岡井隆のあの文章の内容が全くわからないという同人がいたので、参考のために記すのだが、わたしの主観で記すよりも、前田芳彦著「戦後の歌論」(短歌新聞社・平成三刊)から借用することにしたい。

 ――富士田(註・富士田元彦)の、いわば逸脱は角川幹部を極端に刺戟するもので、昭和三十七年にはそれが表面化するに至る.とくに十月三日の社内会議はあたかも彼に対する査問会であったと自ら書いている。以来、「短歌」の編集をおろされる翌年末まで、居直りといってもよいほど性急な問題提起を続けたのであった。担当は翌三十九年一月より神崎忠夫に、ついで片山貞美に移り、「前衛狩り」の季節に向うことになる。――「短歌」の編集は石本隆一(四十一年四月)を経て四十二年十月再び片山に戻り、四十五年十一月赤塚才一に渡った。片山によれば「伝統系短歌」の復活を図って前衛短歌偏向から転換したのだが、この方針はすくなくとも四十八年六月の秋山実編集まで続いた。――

 几帳面な前田芳彦はこのように穿って書いている。わたしたちは、総合誌の編集者が誰で、どんな人であるか殆どが知らないと共に、右のような歌壇の情勢と編集者との関わりなど知るよしもなく雑誌を買っている。ついでだから、前田芳彦の述べることをもう少し聞くこととする。『短歌往来』の岡井隆の言うことが理解出来ようではないか。

前田芳彦は前衛論争をさらにいろいろ解明したあとで次のように結論した。
 ――富士田は昭和三十九年六月から四十二年までの片山貞美および石本隆一編集の『短歌』は評論の上では不毛の時代であったと言う。彼がそれを言いたいのは分るが、非前衛の動きは新しい主張を盾とするものでなく、総合誌編集のあり方に対する批判から出たもので、評論の沈静は当然であったそれ故回顧的な特集や技術論・鑑賞論が誌面に復活したのを性急に負の面のみ此判するのは正しくない。戦後短歌のこのような転換期、敗戦より二十年経て“戦後”を問い直す傾向と奇しくも一致していた。――

 前田芳彦によって、総合雑誌「短歌」と、歌壇における前衛派との関わりがよく整理されている。このような歌壇の動きとは別に企業角川書店そのものの場合、この時期は拡大してゆく新しい出版物と、増大した社点数に社長角川源義は「組織と人事」に苦闘していたようだ。「経営者としての角川源義像を見てみると、源義は直感の人で、計数の人ではなかった。企画・宣伝・販売の戦略・戦術に卓抜なアイデアを出し、多くを的中させたが、データや数字を分析し合理的に詰めていくのは苦手というより嫌いだった。」(鎗田清太郎『角川源義の時代』)さらに、「足の角川」といわれ「この角川書店の人海作戦は定評があり、沖縄の離れ小島まで足を運ぶ」ほどであった、という。鎗田清太郎の同著によれば、山本友一は昭和三十八年七月から四十八年四月まで角川書店取締役をつとめている。町田市鶴川の山里のような地に「角川多摩文庫」の責任者の山本友一を訪ねたことがある。事務所の軒に燕が出入りしている、静かな環境であったことが思い出される。

 『角川源義の時代』は角川書店の五十年史でもある。波瀾万丈の角川源義の生涯と角川書店の推移が縦横に描かれていて興味深い本である。たとえば、昭和二十九年一月一日発行の「短歌」創刊に至るまでの、千勝重次、宮柊二、香川進と釈迢空、角川源義とに関わるエピソードの記録など興味津々である。角川源義と千勝重次は国学院大学の級友であった。
 なお、この著によると「ある期間、片山貞美が顧問という形で企画・編集に参画した」ごと記されてある。>

どこの世界にも「揺れ」というものはあるもので、物事は「あるがまま」に受容してゆきたいものである。
掲出歌の「貫井」は「うち抜き井戸」のことであろうか。「井筒」のことであろう。
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「布袋草」「ホテイアオイ」とも呼ばれる水草で、熱帯アメリカの原産だという。
今では世界中に広がって、たとえばナイル川にも上流からおびただしいものが流れているのを私も見たことがある。
葉柄の下がふくれて布袋腹のようなので、この名がついたという。水に浮きやすくなっている。
歳時記に載る句も多くはないので、少し引いて終る。夏の季語だ。

 布袋草美ししばし舟とめよ・・・・・・・・・・・・富安風生

 ほてい草月の面を流れ過ぐ・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 布袋草ほこりの道にすててあり・・・・・・・・・・・・星野立子

 布袋草一つはなれて花持たず・・・・・・・・・・・・山中石人

 布袋草ひつくりかへり堰越ゆる・・・・・・・・・・・・草野駝王

 汐入の水門しまり布袋草・・・・・・・・・・・・田川夏帆


「短歌以前─木村草弥の歌集のトポス(共通場)」・・・・・・・・・・・・・ 南日耿平
かむとき
 ↑ ──『霹靂』13号2001/09、題字は山中智恵子・筆

──書評・評論──『霹靂』13号2001/09掲載

      「短歌以前─木村草弥の歌集のトポス(共通場)」・・・・・・・・・・南日耿平

プロローグ
『霹靂』(かむとき)はもとの『鬼市』という名を変えて、その通巻として出発したが、
のちに短詩型文学全般にも通じる新しい視座へと拡大され、俳句の堀本吟さん、川柳Z
賞受賞の樋口由紀子さん、碧梧桐賞受賞の異色作家・森山光章さん、そして僅か十年の間
に三冊も歌集を出された木村草弥さんなど多彩な作家たちによって、新しくスタートが切
られたのです。
新世紀をむかえ、『霹靂』の天空での大音響の現出に、佐美雄、冬彦、赤黄男、重信など
の先駆者の方々の拍手喝采が聞こえそうであり、短歌一首も作っていない私にとっても新
しい<共時的詩的世界>への開眼の機をいただく思い。
何故私がこうした文芸の世界に興味をもったかは、五十年前、体育、スポーツの研究者と
して<愛と美と力>のデルタ構造で未来像をかかげ、<スポーツ美学論>を初めて講義題目と
して講じてきたこと。昨年、「新世紀スポーツ文化論」(タイムス社)で、<スポーツ曼荼
羅>の胎蔵部として、宗教・哲学・芸術。金剛界として体育学、スポーツ人約150名の方
々を五芒星形図として、図像学的(イコノグラフィー)手法で示し学会発表の機を得た。
本文の「短歌以前」の表題も、短歌音痴の私が、短歌の技法でなく、その深層部に秘めら
れた歌人・木村草弥さんの独自の境位を、私なりに楽曲分解(アナリーゼ)させていただい
たものとしてご笑覧いただければ幸いです。

(一) 木村さんの短歌作品の胎蔵部
木村さんとの出会いで驚いたのが、お住まいが山城の青谷村。私が三十代、三年も結核で
お世話になった国立の療養所のある茶処の問屋さんのお生まれで、また府立桃山中学校の
第23回卒。私が6回卒ということで二度びっくり。さらには長兄が、<兄の書きし日記を
もとに書かれたり太宰治の『パンドラの匣』>の作品にみられるよう夭折されたのも同じ
療養所だったと思われること。
早世の兄・木村庄助さんも弟の草弥さんが文学の血を引き継いでいることを喜んでおられ
るだろうと、「未来」の川口美根子さんが第一歌集の序で述べられるよう感性ゆたかな芸
術一家。兄上が京都大学に学ばれ、美術評論家・阪大教授でもあった木村重信先生(現在
兵庫県立近代美術館館長)がご生存とわかれば、世阿弥の<稽古の位>をこえた<生得の位>
にめぐまれた方、非凡な才能ゆたかな詩人・歌人・評論家。
先日、十年前『日本歌人』同人の横田利平さんの歌集『宇宙浪漫主義へ』での利平美学の
極みとしての<いまいまやいまいまいまやいまいまやいまいまいまやいまいまや我>をお送
りした所、これはセックスに於けるエクスタシーの瞬間(道元では<有事>(うじ)空海の<理
趣経>の十七清浄句の<妙適>の世界)と断じられ驚いた所。
一休の『狂雲集』におけるかずかずの作品は、第二歌集にはこれに関連十一首もあり、仏
典に関する御研鑽の広さと深さに驚くのみ。なるほどフランスの仏は仏教にも通じるかと
ほほえまれるしだい。
さらに、この「理趣経・十七清浄句」についての金岡秀友師とその弟子の論争の事も示さ
れた学識の深さに、長年空海の世界にあこがれ文献を集めていた老生とも照合するものと
先の七月の草田男をテーマとした短詩型文学を語る会に、横田さんの歌集への私の『日本
歌人』へ発表した感想文をお配りしたのです。その木村さんの冴えわたった感性・直感力
の非凡さには驚くのみです。
医学の近藤俊文博士の『天才の誕生-南方熊楠の人間学』にかかれた「ゲシュビント症候
群」とも照応、俳句の岡井省二先生と同じ天来の霊的人間(ホモ・スピリチュアーリス)の
天性。
第四にかかげたいのが木村さんが現代詩から短歌に転向されたこと。歌人・前登志夫さん
も私と共に敗戦後、奈良より詩誌《斜線》を出していましたが、詩集『宇宙駅』を残して
短歌に転じ、あっというまに歌壇に新風をおこされた吉野山住みの快男子。迢空賞受賞の
とき恩師代表で祝辞を求められたことが忘れられません。木村さんが文語定型、口語律、
定型、非定型にこだわらぬ自由多彩な韻律世界に遊んでおられるのもこの故と思います。
五番目にあげたいのは、木村さんが外語、京大の仏文科に学ばれたこと。九鬼周造の『い
きの構造』にも似てヨーロッパで一番あかぬけしているフランス語を学ばれ、更には全世
界を旅されたコスモポリタン。スケールの大きさは格別。やっておられないのは宇宙遊泳
のみ。この世界を埋めようと遊んでおられるのが木村さんの新しい短歌的世界。
先の短詩型の会に御来会の津田清子さんの句集『無方』で詠まれた<はじめに神砂漠を創
り私す><自らを墓標となせり砂漠の木><女には乳房が重し夜の砂漠>とも共鳴するコスモ
ロジーの世界が感じられてなりません。
木村さんは、一口で申せば静かな熱血漢。情感ゆたかなロマンと強力な実践力。只今は同
じ山城地区の法蓮寺にお住まいの山本空外先生の書法芸術に心酔。ハイデッガー、ベルグ
ソン、フッサールと共に学ばれた哲学者であり、その書は書家の書とは異なる<書法>とし
て出雲に<空外記念館>もある方。
幸い、黒谷住の戸川霊俊博士とは二十年前より御指導いただいているので空外先生につい
て御教示いただくよう予定している所。御年九十九歳。私も空外ファンの一人であり、偶
然の一致に驚いている所です。

(二) 木村さんの歌集について
第一歌集『茶の四季』(1995年)は、茶問屋の社長ながら、土耕、茶摘み、製茶などの実
務にたずさわり、茶道をたしなみながらの体験の中から生まれたもの。五章からなるが、
家族や山城の風光の他、海外旅行詠と多彩。<茶畑はしづかに白花昏れゆきていづくゆ鵙
の一声鋭し>の見事な序歌から始まる。好きな歌は、<茶に馴染む八十八夜のあとやさき緑
の闇に抱かれて寝る>、<茶の花を眩しと思ふ疲れあり冬木となりて黙す茶畑>
川口美根子さんの「俳諧的な魅力さえ感じさせる」の言葉に同感。
<兄の書きし日記を元に書かれたり太宰治の『パンドラの匣』>、<葬り終へ寝ねたる妻が
寝言にて姑との別れを嘆きて叫ぶ>、<汝が額の汗をガーゼでぬぐひつつ不意にいとしく掻
き抱きたし>、<原始の美を尋ね求めて駆けきたる兄は「大地の人(ホモ・フムス)たれ」と
唱ふ>の家族の歌につづいて、外国旅行の歌がうたわれている。中国での<ふたたびは訪ふ
こと無けむ竜門の石の洞をぞ振り返りみつ>は戦争で雲岡の石仏群近くまで行った私とし
てはなつかしい限り。<ワルシャワのショパンの館に来て聴くは祖国追はれし「別れの曲(し
らべ)」<さびしさを青衣にまとひエーゲ海の浜辺に惑ふ「沈思のアテナ」>なども四十年
前ヨーロツパで学んだことのある私としては感激ひとしお。<六人の乙女支ふる露台には
裳すそ引きたる腿のまぶしさ>。スペインで詠まれたフラメンコの踊り、ガウディの作っ
た教会の尖塔の歌など、さすが美の世界を一瞬につかまれる見事な「視覚構造」と嘆ずる
のみ。
第二歌集『嘉木』は、中国の古書の茶の木を詠まれたもの。『茶経』の出だしに「茶は南
方の嘉木なり」と記されているよう、日本の茶道の源流としての利休につらなる家元体制
であるとも記されているが、<明日のため見ておく初夏の夕焼は茶摘みの季の農夫の祈り>
にはじまり<汗あえて茶を刈る時にそぼつ身を女神のごとき風通るなり>とし、<茶の湯と
はただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなり>と詠じて、自らは「番茶道」を
提唱されているのも独自の木村さんの、形式化した家元を頂点とするヒエラルキー体制批
判として注目されます。
興味あるのは、一休(宗純)を詠んだ<夢に見て森女の陰に迷ひ入り水仙の香に花信を覚ゆ>
<風狂と女犯にふける宗純は妙適清浄これ菩薩なれ>と空海の理趣経につながっていると見
立てた眼力。
秘めごとめく吾-沓冠十五首-からは、現代短歌に未来はあるか、として展開。
<いなづまのびりりと裂きし樹の闇を殻もゆらさず蝸牛ゆく音>、<フランスのをみなが髪
をかきあぐる腋あらはにてむらさき匂ふ>、<場所(トポス)はもペロポネソスに満ち満てる
悦楽の言辞(トポス)に通ふと言へり>、<白桃に触れたる指をいとしみてしばらく宙にかざ
しゐる宵>、<汗匂ふゆゑにわれ在り夏草を刈りゐたるとき不意に思ひぬ>、<季節くれば
花を求めて飛んでゆく美しき翅よ うす青き蝶>、<失せもののいまだ出でざる夜のくだち
和紙の吸ひゆくあはき墨の色>、<牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさ
に見つ>、<病む妻のため娘らはひたすらに石切神社にお百度を踏む>、<人知りて四十年経
ぬ萌え立てる君は野の花ムラサキハナナ>、<引退はやがて来るものリラ咲けばパリの茶房
に行きて逢はなむ>など、心にしみこむ秀歌が、それぞれの韻律と木村さんのいう<幻の領
域(トポロジー)>として<ゆほびかに>展開されている。
第三歌集『樹々の記憶』は、序で宮崎信義さんが述べられているよう<定型の魔力>からの
脱皮・転進・挑戦。デリダ流に言えば「短歌の脱構築」新短歌への序曲と申せよう。
巻頭<茶どころに生まれ茶を離れられない 茶の樹の霜が朝日に白い>、<季節(シーズン)
は春から夏へ蒼ぐろい樹の場面転換(ディゾルブ)にいそしんでいる>、ルビが外国語にな
っている。
<わたくしが愛するものは仮借なき攪拌だとは挑発的(プロヴォカティヴ)ね>、<美しく老
いる そんな言葉は糞くらえだ 美しい老年などどこにある>
一字あけの三段構成に注目されたい。
<瞬間(とき)の迷路を辿れば ここは何処? 地平線まで歩いてゆこう>と<?>が入る。
<にじむ脂汗の不眠の夜 墓標の在処(ありか)は教えるな>の歌には高柳重信の俳句が思い
出される。俳諧の二段構成。<沈黙の中で長く枝分かれしてゆく夜の闇-それが時間>-----
断章(パガテル)への郷愁。<私は一つの場所を探している 墓をつくるばかりの広さの>、
<死は甘美か 生者と死者の間に月がのぼる 死は甘美だ>-------くりかえしの美学。
<そり うねり 巻き込み 波うち ちぢれ 花の肢体>六つのシラバス構成。<秋だ 鉄
道の白い柵に電車の音にみじろぎもせず野菊は咲いていた>自由律。メルヘン的な詩秋の
詩。
木村さんが、あとがきで申されるよう、この第三歌集は、自由律短歌へのかずかずの挑戦
の詩。現代語なりの韻律に<現代の非定型・自由律運動の目標>とされる<短歌的自由詩>と
しての新しいポエジーの波動を目指す絵画的な「コラージュ」あるいは「パロディ」と記
しておられるのも、あるいは兄上・木村重信先生の影法師かも知れない。
問屋を娘さん夫婦にまかされ、これからが自由の身で、「方円宙遊」の新しい詩(ポエジ
ー)の歌、つくって下さい。

コーダ
短歌の木村草弥さんとの奇しき邂逅は、俳句の岡井先生と共に、私にとってはまこと有難
い御縁と感謝しています。お二人とも、デリダの「脱構築」--------奇しくも道元の<身心
脱落>にも共響する自在自由な新天地めざされ、新風を目覚めさして下さいました。
益々の御活躍をお祈りしています。

(奈良教育大学名誉教授・近藤英男) ──「南日耿平」は詩歌に遊ぶときの近藤先生のペーンネーム。
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近藤英男氏死去 奈良教育大名誉教授

 近藤 英男氏(こんどう・ひでお=奈良教育大名誉教授、体育理論)
3月15日午後7時2分、肺炎のため京都府木津川市の病院で死去、94歳。京都府出身。自宅は木津川市木津大谷31。葬儀・告別式は既に営まれた。喪主は長女の東典子(あずま・のりこ)さん。
近藤氏は1990年勲三等旭日中綬章・受賞。「身体文化論」など専攻。1984/12:座長・「祭儀と芸能──身体文化の原点」(近藤英男),奈良体育学会定例会,於佐保女子短期大学 など。      2008/04/01 13:01 【共同通信】

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