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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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しらじらと貫井の水はおちながら日ねもす布袋草ふるふらん・・・・・・・・・・・・・片山貞美
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  しらじらと貫井の水はおちながら
       日ねもす布袋草ふるふらん・・・・・・・・・・・・・片山貞美


片山貞美は大正11年生まれの人だが、ネット上にも記載は極めて少なく資料に乏しい。
2008/12/4に酒を飲んだあと、歩行中に転倒して急死した。
伝統的な歌作りを尊重する人で、かなづかいなどでも歴史的かなづかいの誤用を厳しく指摘する人だが、いわゆる「前衛的」な歌には激しい拒否反応を示した人らしい。
私は、その運動の渦中には居なかったので、よく判らないが、記録に残るものには、それが書かれている。
角川書店「短歌」編集長、短歌結社「地中海」編集長などを勤めた。国学院大学出身。
彼についてのエピソードを二つ紹介する。
先ずは、彼の死に際しての福田龍生の追悼文から。福田は短歌結社「古今」を主宰する。

酔いどれ吹き溜り その14
超一流のバーで豆腐を食った男
................................................福田龍生

 栄一のエピソード(短歌往来)をかくならイントロには貞美のあれこれを出しにしてかいてみるかと思っていた。そして酔いどれ吹き溜りをかいていた十時二十分に電話が入り“貞美死す”との博子夫人の声。とにかく頭はまっ白、何がなんだか解からなくなり、貞美のことをかいてしまった。間を置かず、短歌往来からは「貞美の追悼特集をやるから何かかけ」と及川社主から云われた。悪口をかくならねえと考え込んでしまった。あげくが小声で「何も浮かばぬ、少しのばしてよ」とたのんだら「そうだろ、いいよ」と優しい声で快諾してくれた。やれやれの思いだった。

頑固にして固陋な酔いどれ貞美

 そこで普段着、つまりガンコな酔いどれ貞美をまとめてみる。今更のように酔いどれ先輩を考えてみたら、熊谷守一仙人をのぞいて「みんなオプティナスィ(ガンコ)な男ばかり」だった。が貞美は異質なガンコ者であった。岡山たづ子は「うちのガンコの巌は」といつも云っていたが、僕も貞美も巌センセの密造酒の試飲をさせられた。僕が今日のように酔いどれになったのはそれが原因。もちろんそれに拍車をかけたのが片山貞美であった。
 戦後の、目のつぶれそうなカストリからはじまって、何であるアイデアルの、メチールの入ったウィスキーまで飲まされた。よくぞ死ななかったもの。そんな貞美も年がたてば偉くなるもので貞美が角川の短歌の編集屋になったころ「オイ龍生ちゃん話がある」と社にやってきた。そこで神田三崎町の茶店エリカに入った。貞美はまずそうに珈琲を口にしながら「だーれも俺をバーに連れてってくれねえんだ。トリスバーじゃないぞ。ほんとのカクシキのあるところだ。みんな知らねえのじゃないかと疑ったよ。山本も白石も知ってると思うんだがな。いいとこないないか、たのむ連れてってくれ…」と云うのであった。
 僕は吹きだした。トウフの貞美と高級バーは似合わぬ。だから白石昴だって誘わないのは当然。白石とはサンスーシーにも行っているし「タンゴをくれ」なんて云って、カクテルを飲んでいたことを思いだしながら、貞美の顔をのぞきこんだ。確かにマジな面をみせていたが、オヤジと対峙して、歌の話をしているときの目をしていた。僕はちらっとツケのあまりない、銀座の馬車屋がいいと思った。ここのバーテンさんは、とびきり上等だった。
 日本バーテンダーの会長をしていたし、会報ドリンクスにカットなどかかせてくれ、ツケをパーにしてくれた。まあ僕にとっては神様のような人だった。ペイペイ時代はミソッカスで「八時までの男」だった。本番前までしか飲ませてくれなかった。だからゼニはただ同然だった。東郷青児、寺田竹雄、宮本三郎、西村愿定、大河内信敬など画家のよく集まる店だったが、やはり中心はバンカーや一流の商社マンだったがみんな紳士だった。
 こんなバーでは、まずカクテルを一杯たのむのがマナーなのだが、僕みたいなペイペイには必要なかった。その日は貞美でも飲めそうなジンリッキーをたのんだ。スピリッツの安いものである。このジンリッキーには思い出があった。ピッカピカの編集屋のころ、二科の寺田竹雄に連れられていったのだが、ある日「なに飲むんだ」と長谷川バーテンダーに云われ「ジンリッキーだ」と云うと、睨むような目をして、目の前に、十数種のカクテルグラスをずらりと並べた。なんだこれはと思った瞬間「みんなジンリッキーだ。えらそな言い方すんな、みんな飲め」と云われた。バーってのは、恐ろしいもんだなと、おずおずと僕は一杯ずつ飲み、味わったふりをしていた。
 さて、煙草を買いにいっている間に、貞美の前には、なんとなんとトウフがどんと置かれ、満足そうに箸で口に運んでいたのだ。最高級のバーでトウフを食ったのは、恐らく片山貞美が最初にして最後だったろう。「この人、歌人なんだね、それも偉い人。お前さんも歌をつくるんだってねえ」と云われた。幸か不幸か、長谷川さんもトウフが好きで、手前用の夜食のトウフを進呈したそうな。あげくが江戸切子のグラスで酒を飲んでいるのだった。いったい貞美は、どんなきっかけをつくり酒とトウフを手に入れたのだろう。このバーテンダーのボスは、本当に優しい人だったから、貞美のわがままをみんな聞いてやったのである。このにっくきわが先輩は、それこそもう大はしゃぎ。そのうちに「ここはいいなア」としきりに話してくるのだった。僕はただ憮然として杯をかさねていただけである。

貞美とかわいい呑兵衛たち

 新宿のとある露路の、とある二階に「あづま」という飲み屋があった。ここのオカミの主人は中央公論の編集屋。だから栄一の関係で、いろいろな人種がきていた。ある日の雨の夜に、貞美とノレンを分けたら一人だけ客がみえた。入ってみると阿部正路であった。僕をみた阿部は、止り木から慌てふためいて直立不動。そして深ぶかと頭を下げたのである。この男、信じられないだろうが、アルコールがまわらないときは、礼儀ただしい歌人であり国学院の教授であった。ある日オヤジが「龍生をよろしくな」と云ったところ彼は飛び上がって「龍生先生にぶんなぐられます」と云っていたと笑っていた。また短歌新聞社主の石黒清介は「あいつは頭はいいし、天才的なところがあるのにねえ、もう飲んだらいけねえなア」とうなずくように呟いていたことがある。まさに君子豹変というべき男であった。
 その日も嫌な予感が走った。うっかり貞美が迢空のことを洩らしたのが凶とでた。阿部迢空論がえんえんとはじまった。やがては壊れたレコードとなり、意味不明となった。とにかく話は噛みあわず、カンカンガクガクがつづいた。ただ一つ記憶にあるのは「歌がいい」ということだった。二人ともグデングデンのちょっと手前。なのにケンカにならなかったのが不思議。
  季(とき)は晩秋、うまいものがいくらでもあるのに、ボクの肴を「どうせ食わないんだから」と云って飲んでは食っていた。細い目はいよいよ細くなり、意味不明ではあったが「話しっぷりには味があった」し、なんとも云えぬ雰囲気があったのである。昔とは違い、ベロベロの阿部のグチグチを聞いてやっていた。
 泣きながら、栄一に反論していたころの貞美ではなかった。だから狂いはじめた阿部の言葉をかわしながら「いい子だから、少しぐらい黙って飲めよ」と云っているように僕にはみえた。老巧にして老実な貞美になっていたのであった。そのうち「先生の家に泊る泊る」と云いだし、やがてのち「いいでしょ、いいですよねぇ」と乞うている。つまりは国立の片山邸にとあいなる。水城春房もその一人だが、そんなのが沢山いたようだった。これは片山貞美の知られざる徳なのかも知れない。
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二番目は、最初に書いた「前衛狩り」云々を巡る記事である。

以下は「地中海」誌に載るもので筆者は前編集長の椎名恒治だと思う。
この「原文」には誤植が多いので念のため。
少し長いが途中で端折っては誤解を招きかねないので前後の記事もそのままにする。

<地中海でわたしが千勝重次に出会った頃、周辺はみな「千勝先生」と呼ぶ大家であったが、没年五十六歳であったとは、不思議な思いで略歴をたどっている。

・若き日におごりあそびしこともなし。いま無為にして四十ならむとす

・茫々と遠き夜の闇の底ひより澄みてきこゆるは何のこゑぞも

 こんな歌をつくられていた。精悍な風貌が今もおぽろにうかんでくる。没後三周忌に刊行された歌集「丘よりの風景」に添えられ年譜の一部を抜いたのだが、千勝二喜男(令弟)の記す、歌集『刊行記』の結びの部分を抄出しておきたい。

 昭和二十二年の冬だったと思う。その年の春から、「短歌研究」の編集にたずさわっていた故人は、当時私もともに仮寓していた世田谷上馬の家の二階に、香川さん、宮柊二さんを御案内申してきた。事の前後は、定かでないが、御自分をまはだかにしてぐいぐいと人に押し迫ってくるような気鋭の香川さんの語り口は、そのとき初対面の私に、強い畏怖を覚えさせた。私がそのとき感じた畏怖は、故人にとって深い友情として根づき、はぐくまれ、やがて「地中海」創刊に至ったことである。敗戦後の、暗い灯火の下の、それでいて妙に生き生きとした空気が、「新歌人集団」夜明け方の明るさを思わせるひと時であった。それは故人ごのみのことばでいえば「茫々」たる過去の日の断片である。

 香川進の姿が、簡明な文によくあらわれている。地中海の草創期に重く存在した千勝重次像がこの略年譜と、三善男氏の文章でいくらかでも理解できたであろうか。「編集長は地中海創立の事情から…」と『三十年記念号』に香川進が書いた真意もここで理解できたように思う。この千勝重次の推薦で片山貞美は地中海編集者となる。

 ここで話は一転飛躍する。昨年の「短歌往来」(ながらみ書房)二月号は香川進追悼特集であった。連載中の「挫折と再生の季節」(岡井隆)の文中に、雑誌「短歌」の編集者に片山貞美、石本隆一に変わったことにふれながら、香川進とのかかわりを述べて、更に三月号で補足的なことを記しているから興味深く読まれた人もあるだろう。地中海一月号で久我田鶴子も香川論の中で触れているが、それはそれとして、片山貞美、石本隆一が、角川書店の「短歌」編集者(石本は後に「俳句」の編集者)であったことをわが地中海の仲間はあまり知らないかも知れない。現に岡井隆のあの文章の内容が全くわからないという同人がいたので、参考のために記すのだが、わたしの主観で記すよりも、前田芳彦著「戦後の歌論」(短歌新聞社・平成三刊)から借用することにしたい。

 ――富士田(註・富士田元彦)の、いわば逸脱は角川幹部を極端に刺戟するもので、昭和三十七年にはそれが表面化するに至る.とくに十月三日の社内会議はあたかも彼に対する査問会であったと自ら書いている。以来、「短歌」の編集をおろされる翌年末まで、居直りといってもよいほど性急な問題提起を続けたのであった。担当は翌三十九年一月より神崎忠夫に、ついで片山貞美に移り、「前衛狩り」の季節に向うことになる。――「短歌」の編集は石本隆一(四十一年四月)を経て四十二年十月再び片山に戻り、四十五年十一月赤塚才一に渡った。片山によれば「伝統系短歌」の復活を図って前衛短歌偏向から転換したのだが、この方針はすくなくとも四十八年六月の秋山実編集まで続いた。――

 几帳面な前田芳彦はこのように穿って書いている。わたしたちは、総合誌の編集者が誰で、どんな人であるか殆どが知らないと共に、右のような歌壇の情勢と編集者との関わりなど知るよしもなく雑誌を買っている。ついでだから、前田芳彦の述べることをもう少し聞くこととする。『短歌往来』の岡井隆の言うことが理解出来ようではないか。

前田芳彦は前衛論争をさらにいろいろ解明したあとで次のように結論した。
 ――富士田は昭和三十九年六月から四十二年までの片山貞美および石本隆一編集の『短歌』は評論の上では不毛の時代であったと言う。彼がそれを言いたいのは分るが、非前衛の動きは新しい主張を盾とするものでなく、総合誌編集のあり方に対する批判から出たもので、評論の沈静は当然であったそれ故回顧的な特集や技術論・鑑賞論が誌面に復活したのを性急に負の面のみ此判するのは正しくない。戦後短歌のこのような転換期、敗戦より二十年経て“戦後”を問い直す傾向と奇しくも一致していた。――

 前田芳彦によって、総合雑誌「短歌」と、歌壇における前衛派との関わりがよく整理されている。このような歌壇の動きとは別に企業角川書店そのものの場合、この時期は拡大してゆく新しい出版物と、増大した社点数に社長角川源義は「組織と人事」に苦闘していたようだ。「経営者としての角川源義像を見てみると、源義は直感の人で、計数の人ではなかった。企画・宣伝・販売の戦略・戦術に卓抜なアイデアを出し、多くを的中させたが、データや数字を分析し合理的に詰めていくのは苦手というより嫌いだった。」(鎗田清太郎『角川源義の時代』)さらに、「足の角川」といわれ「この角川書店の人海作戦は定評があり、沖縄の離れ小島まで足を運ぶ」ほどであった、という。鎗田清太郎の同著によれば、山本友一は昭和三十八年七月から四十八年四月まで角川書店取締役をつとめている。町田市鶴川の山里のような地に「角川多摩文庫」の責任者の山本友一を訪ねたことがある。事務所の軒に燕が出入りしている、静かな環境であったことが思い出される。

 『角川源義の時代』は角川書店の五十年史でもある。波瀾万丈の角川源義の生涯と角川書店の推移が縦横に描かれていて興味深い本である。たとえば、昭和二十九年一月一日発行の「短歌」創刊に至るまでの、千勝重次、宮柊二、香川進と釈迢空、角川源義とに関わるエピソードの記録など興味津々である。角川源義と千勝重次は国学院大学の級友であった。
 なお、この著によると「ある期間、片山貞美が顧問という形で企画・編集に参画した」ごと記されてある。>

どこの世界にも「揺れ」というものはあるもので、物事は「あるがまま」に受容してゆきたいものである。
掲出歌の「貫井」は「うち抜き井戸」のことであろうか。「井筒」のことであろう。
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「布袋草」「ホテイアオイ」とも呼ばれる水草で、熱帯アメリカの原産だという。
今では世界中に広がって、たとえばナイル川にも上流からおびただしいものが流れているのを私も見たことがある。
葉柄の下がふくれて布袋腹のようなので、この名がついたという。水に浮きやすくなっている。
歳時記に載る句も多くはないので、少し引いて終る。夏の季語だ。

 布袋草美ししばし舟とめよ・・・・・・・・・・・・富安風生

 ほてい草月の面を流れ過ぐ・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 布袋草ほこりの道にすててあり・・・・・・・・・・・・星野立子

 布袋草一つはなれて花持たず・・・・・・・・・・・・山中石人

 布袋草ひつくりかへり堰越ゆる・・・・・・・・・・・・草野駝王

 汐入の水門しまり布袋草・・・・・・・・・・・・田川夏帆


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