K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(11月)月次掲示板
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今回の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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十一月になりました。
いよいよ冬に入ります。文化の香りも。

 一徹のをとこありけりひと言の気に喰はぬまま逝かしめて今・・・・・・・・・・・・・・塚本諄
 秋さればありふれた秋のむらさきの野菜ひともり いつぴきの魚・・・・・・・・・・西海隆子
 あれは秋の死のくるめきか澄みのぼる鳥を目守りき点となるまで・・・・・・・・・長岡千尋
 十歩ほど互みに過ぎて気づき合ふ秋の半ばのすずめいろどき・・・・・・・・・・・高旨清美
 しろがねのゆふぐれ近き雲の秋いづこかに水漬く鐘のあるべし・・・・・・・・・・・雨宮雅子
 涙もろくなりし秋かな耳もとに閑吟集の小歌ささめく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・島津忠夫
 球形はやさしき形果物屋の鏡の奥も累々と秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・井谷まさみち
 ゆく秋の川びんびんと冷え緊まる夕岸を行き鎮めがたきぞ・・・・・・・・・・・・佐佐木幸綱
 負け方も大事のひとつ風の尾が路上の落葉を攫いて行けり・・・・・・・・・・・・・・・三井修
 穂はうねり波打ちながらすすき原ゆふべの海のごとくかがやく・・・・・・・・・・・真鍋正男
 ふつくりと蕾を抱ける椿の木 よりゆく時し私の背丈・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・稲葉京子
 からすうりの赤きが枝に二つ三つ裏山の冬の木はやわらかし・・・・・・・・・・・・斎藤芳生
 十一月あつまつて濃くなつて村人・・・・・・・・・・・阿部完市
 十一月いづくともなき越天楽・・・・・・・・・・・・・・・滝沢和治
 山の子が独楽をつくるよ冬が来る・・・・・・・・・ 橋本多佳子
 難民はムンクの叫び冬が来る・・・・・・・・・・・・山上樹実雄
 冬がくるドレッシングの分離層・・・・・・・・・・・・・・ふけとしこ
 冬ざれや瀬音ま近く湯にひたる・・・・・・・・・・・・・角川源義
 くちづけも見慣れし駅の冬ざるる・・・・・・・・・・・・中西夕紀
 トラックの胴に歌麿冬ざるる・・・・・・・・・・・・・・・・山下和子
 雉子鳴いて冬はしづかに軽井沢・・・・・・・・・・・野見山朱鳥
 しらたきと豆腐を買ひて冬ざるる・・・・・・・・・久保田万太郎
 あかんぼの笑ひもなくて寒くなる・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 味噌包む青さの失せし朴落葉・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 栗食んで空の奥処に手の届く・・・・・・・・・・・・・・正木ゆう子
 戻るすべ知らず黄落踏んでゆく・・・・・・・・・・・・・・・・大高翔
 コルク栓揺れて止まりし秋思かな・・・・・・・・・・・・・石井浩美
 秋深し何か幸ある今日あした・・・・・・・・・・・・・・池内友次郎
 畳に薄日綾とりの影切々と・・・・・・・・・・・・・・・ 林田紀音夫
 遠近法もちひすはこそ天狗様・・・・・・・・・・・・・・三島ゆかり
 リンゴかじるひとりのときはこんな顔・・・・・・・・・・・岩井三窓
 星降る降る野淋しくなんかない野・・・・・・・・・・かまちよしろう
 補助席にはたたみこんである翼・・・・・・・・・・・・・・平賀
寿
 やがてポップコーンは途方に暮れる・・・・・・・・・・酒井かがり
 三分でチンやっぱりな弘法大師・・・・・・・・・・・・・小林満寿夫
 借景が牙剥く鳶から啓示・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岩根彰子
 夜もおしまい 反核から反格差・・・・・・・・・・・・・ 原田否可立
 食卓にまわりつづける木の実独楽・・・・・・・・・・・・・・ 七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
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──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
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詩の本の思潮社
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いくたびか冷たい朝の風をきって私は落ちた/雲海の中に・・・・・・・・・・・大岡信
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      さむい夜明け・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

     いくたびか冷たい朝の風をきって私は落ちた
     雲海の中に・・・・・・
     となかいたちは氷河地帯に追いやられ
     微光の中を静かな足で歩んでいた

     いくたびか古城をめぐる伝説に
     若い命がささげられ
     城壁は人血を吸ってくろぐろとさび
     人はそれを歴史と名づけ蔦で飾った

     いくたびか季節をめぐるうろこ雲に
     恋人たちは悲しくめざめ
     いく夜かは
     銀河にかれらの乳が流れた

     鳥たちは星から星へ
     おちていった
     無法にひろがる空を渡って
     心ばかりはあわれにちさくしぼんでいた

     ある朝は素足の女が馳けさった
     波止場の方へ
     ある朝は素足の男が引かれてきた
     波止場の方から

     空ばかり澄みきっていた
     溺れてしまう 溺れてしまうと
     波止場で女が
     うたっていた

     ものいわぬ靴下ばかり
     眼ざめるように美しかった
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この詩は、学習研究社『うたの歳時記』冬のうた(1985年12月刊)に載るものである。
「いくたびか」という詩句の3回のルフランなども詩作りの常套手段とも言えるが、この一篇で「初冬」の「さむい夜明け」の、さむざむしさを表現し得たと言えるだろう。

雑器の美はどこにでも転がつてゐる、もと溲瓶とは見えませんなあ・・・・・・・・・・木村草弥
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  雑器の美はどこにでも転がつてゐる、
   もと溲瓶(しびん)とは見えませんなあ・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
掲出の写真①は韓国の昔の「溲瓶」と言われるものである。私の歌に詠っている物も、まさに朝鮮の「尿瓶」からの歌である。

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写真②は「染付け古便器」(陶磁器製)である。写真に写っているものは男性の立ち小便用の便器で、古いものだが、収集されて展示されているもの。これらの展示の中に、問題の「シビン」があるのである。今では常用漢字に、この字がないので、先に書いたように「尿瓶」と書いて「シビン」と訓(よ)ませている。
写真③に、現在の「尿瓶」なるものを掲げておく。

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私が歌に詠んだ時の現物は写真に撮っていないので、代りに掲出した写真を掲げたものであることを、お断りしておきたい。
この写真は民間テレビの人気番組「お宝なんでも鑑定団」HPから見つけたものである。
このHPに載る記事をそのまま紹介する。

神奈川県の菊地広十志氏(35歳)の鑑定依頼である。
5、6年前に父が韓国に行った時、ホテルの骨董店で焼き物を物色中、あまり見たこともない焼き物に引かれ、店員に尋ねると「水などを入れて使っていたものです」とのこと。花瓶か水差しだと思い4万円で購入。帰国の際、空港の手荷物検査で一もんちゃく。係官がわんさか集り、サイズは測るは、焼き物の絵を描くは、何故か笑い出す人まで・・・・・。不安になった父が尋ねると「おそらく600年ほど前の文化遺産かも知れない」とのこと。驚く父に係官は「これは尿瓶です」。
現在、床の間にお気に入りの一品として飾っている父。なんとかやめさせたいのだが・・・・・、と息子が鑑定を依頼。本人鑑定額1000円。
鑑定結果は、1000年から900年前のもの。酒や液体を入れて使われていた。依頼品は日本人が好む形。鑑賞陶器としては評価されるもの。鑑定額は6万円。

この鑑定のように、この陶器は「酒」などを入れていたものだが、私も見た「シビン」は、実に、これに似た形をしているから、紛らわしいのである。
事実、中世の茶人たちは、これを「花器」として珍重し、花を生けて茶室に置いたりしたのである。私の歌は、そういうのを詠んでいるのである。お騒がせしました。
因みに、私の歌は「結界」という項目名のところに収録してあるが、長くなるので引用は控えておく。


妥協とは黙すことなり冬ざれのピラカンサなる朱痛々し・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  妥協とは黙(もだ)すことなり冬ざれの
   ピラカンサなる朱(あけ)痛々し・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

ピラカンサはPyracantha と言うが、誤ってピラカンサスと書かれているものもあり、私も原作はピラカンサスと間違って歌集にも載せたが、
塚本邦雄氏の文章を読んで、間違いに気付き、改作した。
ピラカンサは写真②のように5月はじめ頃、このように白い花をたくさんつける。

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ピラカンサは樹高せいぜい2メートルまでの低木で、枝にはバラのように鋭いトゲがたくさんついている。
写真のように晩秋になると真っ赤な実がびっしりと生るが、野鳥たちの冬の絶好の餌となり、冬中には、すっかり食べ尽くされてしまう。
補足して書いておくと、ピラカンサ=「火+トゲ」を意味するギリシア語からの造語、と言われている。
ピラカンサはバラ科の常緑低木。中国が原産地だが、日本へは明治中期に、フランスから輸入されたという。
高さ1、2メートルで刺のある枝を密生し、葉は革質で厚い。庭木としてよく見られるが、生垣になっている場合が多い。
晩秋に球状の実が黄橙色に色づいて枝上に固まって着く。だんだん赤橙色になり、冬になっても、その色を失わない。
南天なども、そうだが、冬ざれの中の「赤」は冬の一点景とは言え、却って「痛々しい」感じが、私には、するのである。
この歌の一つ前には

  沈黙は諾(うべな)ひしにはあらざるを言ひつのる男の唇(くち)の赤さよ・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているので、これと一体のものとして鑑賞してもらえば、ビジネスマンの人などにも、共感してもらえるのではないか。
そういう、生々しい「人事」の歌である。

いま歳時記を開いてみたが、ピラカンサの句は殆ど載っていない。
僅かに、次の一句だけが見つかったが、これも「ピラカンサス」と誤って使われている。

 界隈に言葉多さよピラカンサス・・・・・・・・・・・・森澄雄

楡周平『 虚空の冠』(上)(下)・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

楡周平『 虚空の冠』(上)(下)・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・新潮社2011/10/27刊・・・・・・・・・・・・・

     敗戦後、新聞記者となった純粋な青年は、ある事件を境に、上昇志向にまみれた“怪物”と化した。
     弱肉強食の激動の世を、下剋上を信条にのし上がり、メディア王として君臨し続けるその男に、
     通信業界の若き旗手が「電子書籍」で勝負を仕掛ける!
      時代を制するのは帝王の経験か、迸る情熱か? ありうべき未来を描く入魂の大作!

新潮社の読書誌「波」2011年11月号から書評を引いておく。
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     電子書籍普及への秘策あり!・・・・・・・・・・・・元木昌彦

 楡氏の新刊に触れる前に、私のささやかな失敗体験から始めることをお許しいただきたい。
 私が出版社に在籍していた一九九九年にインターネット週刊誌『Web現代』を創刊した。毎週十本程度の記事を無料配信する一方で、有料のグラビア、占い、各地の名産品や版画、工芸品などのネット通販、それに電子書籍など様々なことを手がけた。
 当初微々たる売り上げが三年を超える頃から月数千万円にまでなったが、プロバイダーに売り上げの35%を持っていかれるためにビジネスモデルにはなり得ず、女性誌テイストに変えてみたりしたが、数年前に“休刊”となり、社に新たにできたデジタル局までもがなくなってしまった。
 こうした体験から、電子書籍を普及させるためには越えなければならない三つのハードルがあることを学んだ。文庫本を凌駕する手軽で見やすい携帯端末の普及、コンテンツの充実、クレジットカードではない課金システムの構築である。
 楡氏の本に戻そう。今回の長編小説『虚空の冠』のテーマはメディアである。物語は昭和二十三年、極東日報の若い記者・渋沢大将が孤島で起きた大火事の取材に行く途中、船が米軍艦に衝突され、たった一人生き残るところから始まる。
 占領下である。日本人の反感と海軍の面子が潰れることを恐れた米側は、この事故を単なる海難事故として処理し、記事にしたいと訴える渋沢の言い分は社の上司から拒絶されてしまう。
 それでも反発する渋沢を上司はある人物のところへ連れて行く。占領政策をすみやかに行うための「終連」OBでGHQと太いパイプをもつこの男は、事故のことを一切他言しないのを条件に、渋沢の政治部への異動と、これ以降、政権中枢の極秘情報を彼に流すことを約束するのだ。
 スクープ記者として名を馳せた渋沢だが、彼の理解者だった社長の突然の死でその人生は暗転する。子会社に飛ばされるが、これからはテレビの時代が必ずくると先を見据えていた旧知の人間に誘われ、彼の会社へ移り、手腕を発揮して、ついには追い出された極東日報の社長として戻る。
 その後、非情な手段でテレビ会社まで乗っ取り、新聞、テレビ、出版を傘下に置くメディアの王として長きにわたって君臨する。
 しかし順調だった王国にも翳りが見え始める。八十三歳になった渋沢が直面するのは、部数減と広告収入の落ち込みにあえぐメディア王国崩壊の危機である。
 そこへベンチャーで業界第三位までのし上がった携帯電話会社の人間から、電子書籍ビジネスを始めるから渋沢の傘下にあるコンテンツを提供してくれないかという話が持ち込まれる。
 先に書いたように、電子書籍の専用携帯端末をどのように普及させるかは難問中の難問であった。それを解決するために、この携帯電話会社のトップは壮大な賭けに出るのだが、私は「この手があったか」と声を上げ膝を叩いた。
 彼の野心は、端末を普及させ電子書籍のプラットフォームを独占して電子活字メディアの世界を牛耳ろうというものだ。
 渋沢はコンテンツを提供するだけでは向こうにプラットフォームを握られてしまうことに気づき、最大手の通信キャリア、メーカー、大手出版社を巻き込み社運を賭けた電子化の覇権争いに打って出る。
 新聞の電子配信が進めば販売店は仕事を失い、出版界は書店が消え取次も危うくなる。
 しかし渋沢は、環境の激変を恐れ、既存流通に気兼ねをして何も決められないでいる出版業界を「俯瞰的戦略というものが全くない」と批判し、新聞の電子配信や電子書籍は活字産業に携わる人間にとってはパンドラの箱だ、開いてしまった以上、仕事が消滅するのは仕方ないと非情にいい切る。紙媒体の電子化は産業革命なのだ。
 この小説を、ネットの有料化で失敗を重ねている新聞社や、電子書籍化に及び腰の出版社の経営者たちに読んでもらいたい。すべての解決策が示されているわけではないが、これを読まずして電子書籍について語ることはできない。
 これは「覚悟をもって決断せよ」とメディアののど元へ楡氏が突きつけた匕首である。 (もとき・まさひこ 編集者)
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楡周平/ニレ・シュウヘイ

1957年生まれ。慶應義塾大学大学院修了。1996年、米国系企業在職中に書いた『Cの福音』でデビューし、翌年より専業作家になる。以降、『再生巨流』『異端の大義』『ラストワンマイル』『プラチナタウン』『骨の記憶』『介護退職』など、数々の話題作を発表し続けている。

目次

上巻
第一章 虚報の船
第二章 虚栄の糸
第三章 虚構の波

下巻
第四章 虚礼の煙
第五章 虚名の王
終章 虚空の冠

「立ち読み」(上巻) 「立ち読み」(下巻)も出来るのでトライされよ。
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この小説は、今はやりの「電子書籍」を採り上げたものである。
私のような「本」派の人間には「紙」媒体には限りない愛着があるが、出版の業態も、これから大きく変わって行くことだろう。
このブログでも採り上げたことがあるが、角川書店グループの統括体である「角川グループホールディングス」代表取締役会長兼CEOである角川歴彦が
『クラウド時代と<クール革命>』なる本を出しているような始末であるから、出版人たちの中でも、これらは深刻な現実なのである。

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴス「木村重信インタヴュー1」2010/05/29
木村重信著作集④

  日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴス「木村重信インタヴュー1」2010/05/29

暇にまかせてGoogleで「木村草弥」ネットサーフィンしていたら、こんな記事が載っていた。
これがリンク → 「木村重信インタヴュー1」2010/05/29

京都芸術大学で一緒に教師仲間でもあった梅原猛が言っていたことだが、「学会三大おしゃべり」のピカ一が木村重信だ、と。
そんな彼の面目躍如たるのが、このインタヴューである。
とても長いが、美術に関心のある人には面白いと思うので、読んでみてください。
とにかく多弁で博識で、かつ交友関係の広さが判るだろう。

T.F氏撮影「美山町・茅葺き集落放水訓練」ほか・・・・・・・・・・・・木村草弥
美山町・茅葺集落・放水訓練

   T.F氏撮影「美山町・茅葺き集落放水訓練」ほか・・・・・・・・・・・・木村草弥

私の敬愛する友人T・F氏から、京都府南丹市美山町にある「茅葺き集落」で先日行われた「放水訓練」の画像を頂いたので、ご紹介する。
元画像は大きいサイズなのだが、このブログに合うように縮小した。原画の迫力には欠けるが、お許しいただきたい。
 
以下は、同時に贈っていただいた美しい冬の花の画像である。
これは、また後日なにかの形で利用させてもらうつもりである。
この花は雪解けの後に咲く花なのだが、狂い咲き──正しくは「返り花」というが、丁度その日に咲いていたのだという。
ご紹介して御礼に替えたい。

美山町・頭巾山コイワカガミ
 ↑ 美山町・頭巾山 コイワカガミ

美山町・頭巾山コイワカガミ②
 ↑ 美山町・頭巾山 コイワカガミ②

また、後日こんな花の画像を贈っていただいた。 追加してアップしておく。 ↓

中国・太姑娘山ブルーポピー
 ↑ 中国四川省・太姑娘山 ブルーポピー(学名・メコノプシスホリドゥラ:ケシ科) (2004/7撮影)

念のためにネットを検索したところ、この山については下記のような記事があるので引いておく。 ↓

四姑娘山とは、四川省の省都、成都の西約230キロメートルに位置し、四つの峰(大姑娘山5025m、二姑娘山5276m、三姑娘山5355m、主峰・四姑娘山6250m)が連なる山々の(総称の)こと。この一帯は、1996年には中国国家級自然保護区に指定され、2006年7月にジャイアントパンダの自然保護区として、隣接する自然保護区とともに世界遺産に認定されました。

日本では一部の登山愛好家の方以外にはまだあまり知られていませんが、中国のアルプスとも呼ばれ、美しく雄大な自然による素晴らしい景観が来訪する人々を魅了して止まない、中国の秘宝とも言える場所なのです。

四姑娘山の一帯は、氷河期に形成された複雑な地形がそのまま残り、多種多様な動植物の生息地です。特に高山植物の豊富さは有名で、日本の登山・トレッキング愛好者の間では、幻のブルーポピー(青いケシ)の咲く場所として憧れの地と言われているそうです。

(注)T・F氏からもらった画像の説明では「太」姑娘山となっていたので、そのように表記したが、いま調べたものは皆「大」姑娘山となっている。
どちらが正しいのか判らないので、当面このままにしておくが教示ねがいたい。

草紅葉ひとのまなざし水に落つ・・・・・・・・・・・・桂信子
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     草紅葉ひとのまなざし水に落つ・・・・・・・・・・・・桂信子

草紅葉クサモミジは野草や低木が初冬になって色鮮やかに色づくことを、こう形容する。特別に「草紅葉」という名の草や木がある訳ではない。
写真①のような鮮やかな場所は、どこにでもあるものではない。オトギリソウ、オカトラノオ、トウダイグサなどは特に美しい。

草紅葉を、古くは「草の錦」と呼んだが、『栞草』には「草木の紅葉を錦にたとへていふなり」とある。
けだし、草紅葉の要約として的確なものである。
そして、その例として

  織り出だす錦とや見ん秋の野にとりどり咲ける花の千種は

という歌を挙げている。霜が降りはじめる晩秋の、冷えびえとした空気を感じさせる季語である。

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秋芳台のように草原と露出した岩石のコントラストが見られる所の草紅葉が趣があって面白い。(写真②③)
この季語は、小さく、地味で目立たない草が紅葉することによって、集団として錦を織り成す様子を表現しているのである。
その結果として、「荒れさびた」感じや「哀れさ」を表すのである。
古来、詩歌にたくさん詠まれてきたが、ここでは明治以降の句を引いておく。

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 猫そこにゐて耳動く草紅葉・・・・・・・・高浜虚子

 くもり日の水あかるさよ草紅葉・・・・・・・・寒川鼠骨

 帰る家あるが淋しき草紅葉・・・・・・・・永井東門居

 草紅葉へくそかつらももみぢせり・・・・・・・・村上鬼城

 大綿を逐うてひとりや草紅葉・・・・・・・・渡辺水巴

 内裏野の名に草紅葉敷けるのみ・・・・・・・・水原秋桜子

 たのしさや草の錦といふ言葉・・・・・・・・星野立子

 草紅葉磐城平へ雲流れ・・・・・・・・大野林火

 絵馬焚いて灰納めたり草紅葉・・・・・・・・吉田冬葉

 白根かなしもみづる草も木もなくて・・・・・・・・村上占魚

 山芋の黄葉慰めなき世なり・・・・・・・・百合山羽公

 鷹の声青天おつる草紅葉・・・・・・・・相馬遷子

 菜洗ひの立ちてよろめく草紅葉・・・・・・・・小野塚鈴

 草もみぢ縹渺としてみるものなし・・・・・・・・杉山岳陽

 酒浴びて死すこの墓の草紅葉・・・・・・・・古館曹人

 吾が影を踏めばつめたし草紅葉・・・・・・・・角川源義

 良寛の辿りし峠草紅葉・・・・・・・・沢木欣一

 屈み寄るほどの照りなり草紅葉・・・・・・・・及川貞

 学童の会釈優しく草紅葉・・・・・・・・杉田久女

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2008年初夏に旅した「能取湖畔のサンゴ草の紅葉」 ← も有名なところなので、ここにリンクに貼っておく。

あけび熟る鳥語に山日明るくて・・・・・・・・福川ゆう子
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  あけび熟る鳥語に山日明るくて・・・・・・・・・・・・・・・福川ゆう子

「あけび」は漢字では「通草」と書く。
雑木林などに生える落葉の蔓低木である。栽培のものもあるかも知れないが、野生のものであろう。
今ではアケビなんて言っても、知る人も少ないし、むかし食べたときは甘くておいしかったが、いまなら食べても美味とは思わないのではなかろうか。
写真①が熟して果皮が裂けた実である。黒い実のまわりの白い果肉を食べる。

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アケビは春4月に写真②のように花を咲かせる。
名前の由来は、裂けた「開け実」が転じてアケビになったと言われている。
果肉は甘くて、山の味覚として賞味されたが、果皮のことは、私は何も知らなかったが、干しアケビや塩漬けにしたりするらしい。
山形地方には春の彼岸の決まり料理として干しアケビを食べる習慣があるらしい。
また秋の彼岸には、先祖がアケビの船に乗って来るという言い伝えから仏壇に供え、あとキノコ類を詰めて焼いて食べるという。

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夏に写真③のように緑色の若い実になり、秋になって熟して、果皮は紫色に熟して、果皮が縦に裂けて果肉が見えるようになる。
茎は「木通」モクツウ、果実を「肉袋子」ニクタイシと言うらしい。漢方では生薬として使われるし、蔓は籠などを編み、葉や茎は草木染の染料となる。
俳句にも詠まれているが、カラスなどが食べているのを見て、そこにアケビがあることが判明したりするらしい。
写真④は果皮が裂ける前のアケビの実である。

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以下、俳句に詠まれる句を引いて終りたい。

 鳥飛んでそこに通草のありにけり・・・・・・・・高浜虚子

 むらさきは霜がながれし通草かな・・・・・・・・渡辺水巴

 主人より烏が知れる通草かな・・・・・・・・前田普羅

 垣通草盗られて僧の悲しめる・・・・・・・・高野素十

 通草食む烏の口の赤さかな・・・・・・・・小山白楢

 夕空の一角かつと通草熟れ・・・・・・・・飯田龍太

 滝へ行く山水迅き通草かな・・・・・・・・山口冬男

 採りたての通草を縁にぢかに置く・・・・・・・・辻田克己

 もらひ来し通草のむらさき雨となる・・・・・・・・横山由

 通草垂れ藤の棚にはあらざりし・・・・・・・・富安風生

 何の故ともなく揺るる通草かな・・・・・・・・清崎敏郎

 あけびの実軽しつぶてとして重し・・・・・・・・金子兜太

 通草熟れ消えんばかりに蔓細し・・・・・・・・橋本鶏二

 山の子に秋のはじまる青通草・・・・・・・・後藤比奈夫

 あけびの実親指人差指で喰ふ・・・・・・・・橋本美代子

 通草手に杣の子山の名を知らず・・・・・・・・南部憲吉

 口あけて通草のこぼす国訛・・・・・・・・角川照子

 山姥のさびしと見する通草かな・・・・・・・・川崎展宏

 のぞきたる通草の口や老ごころ・・・・・・・・石田勝彦

 八方に水の落ちゆく通草かな・・・・・・・・大嶽青児

 一つ採りあとみな高き通草かな・・・・・・・・嶋津香雪

 山の神留守のあけびを採りにけり・・・・・・・・浅井紀丈

 あけびなぞとりて遊びて長湯治・・・・・・・・阿久沢きよし
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この記事をご覧になった硯水亭歳時記Ⅱさんから、下記のようなコメントをいただいた。

<アケビは大好物です。実は甘味がありますが、皮の部分を使います。1cmずつ切り分けて、胡麻油で炒め、甘味噌を味付けにして食します。又別な方法ですが、房を残しておいて、その中に予め作っておいた甘味噌とひき肉と柚子の微塵切りをつめこむんです。そしてオーブンへ。たった10分もしないうちに完成です。お酒のアテには最高で、何とも言えない苦味が上品な味に引き立ててくれます。アケビは果樹ではなく、日本のハーブとして珍重し食しています。結構お薦めですが、いかがでしょう。>

いろんな食べ方があるものである。お礼申し上げて、ここに貼り付けておく。

国末憲人『サルコジ―─マーケティングで政治を変えた大統領』・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

  国末憲人『サルコジ―─マーケティングで政治を変えた大統領』・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・新潮選書2009/05/25刊・・・・・・・・・

     大柄な美男子でエリート、落ち着いた家父長で文化人、ワインの造詣も深い――。
     ニコラ・サルコジは、そんなフランス大統領イメージをことごとく覆す存在だ。
     すべてが型破りなこの男が、なぜ大統領に選ばれたのか。
     マーケティング技術を活用し、大衆の視線を常にひきつけるその政治手法を、
     気鋭のジャーナリストが解き明かす。

新潮社の読書誌「波」2009年6月号より書評を引いておく。
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    激変したフランス大統領のイメージ     西川 恵

 フランス大統領のサルコジは、同国の歴代指導者の中では突然変異ともいえる特異な人物である。
 現役の大統領で離婚・再婚を経験したのは彼だけで、恋人とのデートなどプライベートな姿をメディアに平気で晒す。公私混同が甚だしく自己顕示欲も強い。
友人の富豪の別荘でバカンスを過ごしたかと思うと、ジョギング姿でエリゼ宮(大統領官邸)を出入りするところを、構わずカメラマンに撮らせる。
 日常でも、せこせこと動き回り、あらゆることに口を出し、ひと時もじっとしていない。
ドゴールやミッテランなど、国民を束ねる落ち着いた国父的な指導者像に親しんできたフランス人はとまどいを隠さない。
 一昨年五月、「過去との断絶」を掲げて大統領に当選した背景には、エネルギッシュで、前例を覆すのを厭わない彼なら、閉塞状況を打破するのにはうってつけとの思いが有権者にあった。あれから二年。
私が知る大方のフランスのビジネスマンや官僚は「改革には彼のような人間も必要なのだろうが、個人的には好きではない」と異口同音に言う。
 著者も辛辣だ。「傲慢で、金満で、仕事一筋。しかも冗談が通じない。歴代フランス大統領でこれほどヤボな人物があっただろうか」。
しかし同時に、一見、わがままで、むら気の多い人間に見えながら、そこに周到な計算と策略を読む。
 例えばメディアに頻繁に露出し、次々に新しい政策を打ち出すやり方。これを単に「イメージ戦略」と捉えるのでは本質を見誤るという。
ブレア前英首相の右腕としてメディア戦略を取り仕切ったアラスター・キャンベル氏の「自分の手法の継承者はサルコジ」との言葉を引きながら、メディアから課題を設定される前に、自分から課題を繰り出し、主導権を握るサルコジの戦略をあぶりだす。
 これとの関連で興味深いのは、十八世紀のフランス啓蒙時代に使われ、今は死語となっている「ポピュラリズム」という言葉について、フランス知識人による理論化の試みが行われているとの指摘だ。われわれがよく使うポピュリズムは大衆迎合主義と訳され、移民や犯罪問題で恐怖感を煽る極右政党の専売特許になっている。
 しかしサルコジがポピュリスト的な性格を持ちつつも、極右政党などと異なるのは権力を実際に握っていることだ。
メディアや世論に先回りしてテーマを設定できるのもそのためで、ニュースを自ら作り出し、用意した回答に世論を誘導していく。
こうした政治手法をポピュラリズムと呼ぼうというのである。将来、一つの政治用語となるかも知れない。
 自ら土俵を設定し、仕切る。これはビジネスに取り組む経営者の感覚に近く、本著の「マーケティングで政治を変えた大統領」のサブタイトルもここからきている。
ビジネスは同業者との争いを制し、利益を上げるのが目的で、そのために手段を選ばず、有能な人物を登用し、無能な人間を切って捨てる。
サルコジはビジネスの論理を深く理解し、マーケティング理論を実践している国家経営者だと著者は言う。
 元妻セシリアとの出会い、W不倫、離婚と、スキャンダルを活用するサルコジ。エリゼ宮内のセシリア派と反セシリア派の側近たちの綱引き。
元モデルのカーラ・ブルーニとの再婚の裏話とメディア対策……。
本書はサルコジの周りに集う人間模様をも活写し、それがフランスの社会、内政、外交にどのように投影されているかを明らかにしていく。
 しかし本書がフランスものの枠を超えた広がりをもち得ているのは、「マーケティング政治」を昨今の世界の政治潮流のなかに位置づけているからだろう。
 著者は、ビジネスの世界で「商品からブランドへ」「ブランドからストーリーへ」という転換が起きているように、政治の世界でも「政策から人物へ」「人物からストーリーへ」といった流れがあると指摘する。冷戦終結でイデオロギーが意味をもち得なくなった今日、「大きな理想」に代わって人人を結集させるのが「ストーリー(物語)」で、「マーケティング政治」の内実がここにある。
 例えばアメリカのブッシュ前大統領が、ビンラディンを、世界征服を目論む邪悪な存在と描くことで自らの戦いを劇的にしようとしたように、サルコジも自らを主人公とするさまざまな「ストーリー」を紡ぐことに抜群の才を発揮してきた。パリ郊外のヌイイ市長のとき、幼稚園に立てこもった爆弾男を説得して解決に導いた武勇伝。セシリアとの離婚劇、カーラ・ブルーニとの恋愛劇も物語の一部にした。著者によると、最近はこの才に一層磨きがかかっているという。
 さて肝心の改革にサルコジは成功するのだろうか。これに関して著者は懐疑的だ。
「(ストーリーテリングは)政権が何かを成し遂げようとするための努力でなく、政権を存続させるという自己目的のための作業」と手厳しい。
サルコジという一個の人間を通して、現代政治と政治指導者のありようを考えさせる、見晴らしの利いた一冊である。(にしかわ・めぐみ 毎日新聞専門編集委員)
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国末憲人の、この本を読んでおきながら、当然このブログに載せたと思い込んでいたのだが、
今回、彼のミシュランの本を載せたので、「載せ忘れ」に気づき、急遽、載せておく。お許しあれ。

「立ち読み」も出来るのでお試しあれ。


京訛やさしき村の媼らは「おしまひやす」とゆふべの礼す・・・・・・・・・・・木村草弥
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     京訛やさしき村の媼(おうな)らは
         「おしまひやす」とゆふべの礼(ゐや)す・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選歌にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
「媼」(おうな)というのは、男の「翁」に対応する言葉で、「老婆」という意味である。
私の歌の中では、媼とは、私の母も含めた老婆の意味で使っている。
「おしまひやす」とは、夕闇が迫ってきて、道を行き交う時にかける当地の掛け声で、この頃では若い人たちは滅多に使わない言葉だが、
「お仕舞いになさってくださいよ」という、「方言」と言えるが、私は、これを愛でて「京訛やさしき」と表現してみた。
この掛け声は、やはり今の時期──秋か初冬の夕暮にふさわしい、と思う。 
「礼」(ゐや)という見慣れないフリガナが振ってあるが、日本の古語やまとことば、にはこんな呼びかたが存在するのである。
短歌は古くは「和歌」と称したが、「漢語」の固い言葉よりも、「やまとことば」の柔かさを尊びたい。
東北地方の田舎ならば、夕方の挨拶に「お晩です」と言うのを想像してもらえば、よい。

この歌の一連を引いておきたい。抄出である。

    母の世紀・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  この世紀はじまる年に生まれ来て戦(いくさ)も三たび経し我が母は

  田舎もんは田舎が良いといふ母は九十年をこの村に棲(す)む

  鼻眼鏡ずり落ちさうにかけゐつつ母はこくりと日向ぼこする

  筒鳥の遠音きこゆる木の下に九十の母はのど飴舐むる

  ちとばかり大事な客と老い母は乾山の鉢に粽(ちまき)を盛りぬ

  仏壇に供ふる花の絶えたりと母は茶花の露けきを挿す

  しぐれつつ十二月七日明け初めて母九十一、われ六十一

  九十を越えてうれしき誕生日祝の鯛を食みをり母は

  口あけて入歯はづして眠りゐる母は世紀末の夢を見てゐむ

  かさかさと葦の音させ粽食む九十の母の機嫌よき顔

  老い母は言葉しづかに煮わらびの淡煮の青を小鉢に盛りぬ

  到来の葛餅を食む老い母の唇(くち)べの皺の機嫌よきこと
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私の母は西暦1900年の生まれであり、93歳まで生きたから、文字通り二十世紀を生きたことになる。
歌集に収録するときに、この一連の歌の項目名に「母の世紀」と付けた所以である。

掲出の写真は熊本県に伝わる「桧垣の媼」の坐像である。蓮台寺に伝わるという。
「媼」という題なのだが、それにふさわしい写真がないのでWeb上から検索して拝借した。
そのゆかりについて少し長くなるが一筆しておく。

「桧垣」とは平安時代の延喜(901年)から寛和(986年)頃までの女流歌人である。
若い頃は京都や大宰府に住み、貴族と親交を結び、その美貌と文才で名声を得ていたが、藤原純友の乱の後、肥後白川のほとり、蓮台寺付近に辿りつく。
ここにささやかな庵を構えて住んだ。
ある日、時の肥後国司が通りかかり、媼に水を求めたところ、思いがけなくも、むかし都で鳴らした桧垣の老い果てた姿であることに気づく。
桧垣は純友の乱(939年)で家も焼け、一切の財産を失い落ちぶれていたのである。国司は着ていた自分の着物を脱いで桧垣にあたえたという。
その際、桧垣が詠んだのが

 年ふればわが黒髪も白川のみづはくむまで老いにけるかも

という歌である。
この国司こそ『後撰集』の選者で「梨壺の五人」の一人として有名な清原元輔──清少納言の父親であり、時の歌壇の大御所でもあった。
以後、桧垣は国司官邸に出入りし、任期が終って元輔が都に帰るとき、惜別の歌として桧垣は

  白川の底の水ひて塵立たむ時にぞ君を思ひ忘れむ

と詠んでいる。「媼」という字からの連想と言えようか。お許しあれ。
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この記事をご覧になった、私の敬愛する松本氏からコメントがあって、「能楽」に謡われる桧垣についてお知らせいただいた。
私は能楽には疎いので、ネット上で調べてみたところ「熊本雑学辞典」というサイトに載っていたので、ご参考までに見てください。
なお伝説には、いろいろの説があるらしく、ゆかりの寺の名前なんかも異同があるので、ご了承ください。

福永武彦『福永武彦戦後日記』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

    福永武彦『福永武彦戦後日記』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・・新潮社2011/10/31刊・・・・・・・・・

     妻と幼子との帯広での疎開生活から、作家として立つ道を探して一人東京へ。
     だが容易にはかなわず、結核は再発し、先の見えない不安から、
     詩人でもある妻は精神的に追い詰められてゆく。
     終戦まもない1945年9月1日から1949年7月31日まで、断続的に、きわめて克明に綴られた、
     作家・福永武彦誕生の日記。

新潮社の読書誌「波」2011年11月号より、彼の息子にあたる「池澤夏樹」の紹介記事を引いておく。
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       日記が文学になる時        池澤夏樹

 父、福永武彦が若い時に日記を書いていたことをぼくは知らなかった。
 随筆の中でそれに触れたところもあったのだが、深く気に留めなかった。あると知ったところで刊行されていない以上読めないわけだし、文書のままで残っていたとしてもどこにあるのか見当もつかない。
 一九七九年に福永が六十一歳で亡くなった後、相続が面倒なことになって、父が残したノート、メモ、生原稿、蔵書などはすべてぼくの手の届かないところに置かれた。しかもやがてそれらは実にだらしのない形で市場に流出し、多くが密かにコレクターの所有するところとなり、ぼくの目から見れば散逸してしまった。
 ところが二〇〇〇年になって、福永が一九四七年に書いていた日記のコピーが存在することが判明した。帯広に住む国文学の研究者田口耕平さんの手元に奇妙な形で届けられたという。彼はこれを活字にして注を施すという形で発表してもいいかとぼくに尋ねてきたのだった。一読したところ非常におもしろい。福永の人生における暗黒時代の始まりの時期で、彼と妻(すなわちぼくの母にして詩人の原條あき子)の悲嘆は察するに余りある。
 しかしこの時ぼくは田口さんにこの日記の公開を諦めてもらった。母にすれば辛い時期の思い出であって、そういうものがあるとわかっても見たくもないと言う。この気持ちは忖度しないわけにはいかない。
 その母は二〇〇三年に八十歳で穏やかに他界した。
 それから更に数年の後、ぼくはあの日記はもう世に出してもいいだろうと考え、田口さんに連絡を取った。そうすると、「一九四七年日記」だけでなく、「一九四五年日記」と「一九四六年日記」も存在することがわかった。それぞれ三坂剛さんと鈴木和子さんという研究者の手元にあって、お二人も翻刻と注によってこの計画に参加して下さるという。これで刊行計画がぐっと大きく具体的になった。
 この後、細かい経緯は略すが実にスリリングな探索を経て「一九四七年日記」の原本と更にずっと後の時期の日記二巻がぼくの手元に集まった。大量のノートやメモの類も見つかった。
 ぼくの個人的な関心を離れてもこれらの日記はおもしろい。まずは戦後すぐの時期の社会の雰囲気の証言として、また後に大成する若い文学者の苦闘の記録として、読むに値するものだとぼくは思う。彼は早く一人前の作家として世に出たいと願っているが、それが実現するのがずっと先のことであるのを後世のぼくたちは知っている。痛ましいアイロニーとしてぼくは彼の希望の言葉を読んだ。
 今回はまず初期の三巻の日記を一冊にまとめ、注と解説を付した形で刊行する。一九四九年から一九五三年までの日記は同じような形で来年刊行する予定でいる。
 文学者の日記がすべて文学ではないだろうが、福永の場合は充分に文学になっている。それは本人が(今回はまだ活字にしない)「一九五二年日記」でこう書いていることからもわかる――「作家にとつて一日一日は貴重であり喪はれたものは帰らないが、日記は書くことのメチエを自分にためす点に効用があるのではない。現実が一度しか生起せず、それを常に意識し、その一度を彼の眼から独自に眺めるために、小説家に日記は欠くべからざるものであるだらう。日々の記録として価値があるのではない。小説家の現実と彼が如何に闘ひまた如何に自己を豊にしたかにその効用があるのだ。」  (いけざわ・なつき 作家)
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私は福永武彦の忠実な読者ではないが、息子である池澤夏樹の小説は、いくつか読んだことがあるので、ここに採り上げてみた。
また私たち兄弟の長兄である「木村庄助」の、太宰治『パンドラの匣』の「底本」となった『木村庄助日誌』を発刊した当事者として関心があった。
因みに「福永武彦研究会」というのがあるが、私が畏敬する山田兼士先生が所属されているのは、文部科学省による科学研究補助費の研究チームで、名称は長いので「福永武彦研究プロジェクト」と自称されている。

そんなことで親近感があったので、採り上げてみた。
「立ち読み」もできるのでアクセスされたい。

福永武彦については、← のリンクに詳しい。
いずれにしても、この「日記」の発見によって、福永武彦の生涯が、一時期ではあるにせよ、現実味を帯びて解明されることになるのは事実であり喜ばしい。
これを機会に、研究者たちによって、彼の内面が、より深く耕されることを期待したい。


へそまがり曲りくねつてどこへゆく抜き差しならぬ杭の位置はも・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    へそまがり曲りくねつてどこへゆく
        抜き差しならぬ杭(くひ)の位置はも・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌も具体的な「杭」というのではなく、「抜き差しならぬ杭」という表現で、人生における「ままならぬ」ことどもを「心象」として表現したものとして受け取ってもらえば有難い。
この歌も私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
自選50首にも採っているので、WebのHPでも、ご覧いただける。
私の歌では単なる「杭」だが、そんな写真はないので南紀・串本の「立杭岩」を掲出しておく。

Web上で「杭」と検索すると、圧倒的に多いのが建設業界のサイトであり、その中でも「中国語」のサイトが多いのが目につく。
こういう「杭」のような単純な加工品では労賃の安い中国の優位が目立ち、売り込みのサイトなのであろうか。

「杭」というものは、例えば牧場などの境界を区切るものとして、また農作業では支柱を立てたりするときの「杭」として必要なものである。
そのような「杭」の置かれた立場として、時として「抜き差しならぬ」という場面が出てくるもので、昔の人も、そのような立場を「抜き差しならぬ」という慣用句として確立したのである。
それは、単なる「杭」の位置を離れて、人生一般についての「譬え」として広く用いられるに到るのである。
私の歌も、そういう類の「隠喩」として捉えていただくと有難い。


国末憲人『ミシュラン 三つ星と世界戦略』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

    国末憲人『ミシュラン 三つ星と世界戦略』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・新潮選書2011/10/27刊・・・・・・・・・・

     「グルメのバイブル」として圧倒的な影響力を誇ってきたミシュランガイド。
     しかし、その権威は「食の国際化」の中で揺らぎ始めている。
     近年、アメリカ・日本・香港とガイド発行国を増やしてきたのはなぜか。
     その背景には、どのような経営戦略があるのか。
     トヨタ自動車とも比せられる「偉大なる地方企業」の内幕を、関係者への徹底取材で詳細に描き出す。

新潮社の読書誌「波」2011年11月号より書評を引いておく。
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          食の国際化の中のミシュラン     辻 芳樹


 今から50年前、父・辻静雄がヨーロッパのレストラン料理の研究のため車を駆って食べ歩きの旅を始めた時、傍らにはミシュランの赤いガイドブックがあった。
 フランスのタイヤ会社、ミシュランのホテル・レストランガイドは20世紀初頭、モータリゼーションの時代の幕開けとともに生まれ、ヨーロッパを旅する人の頼りになる案内役となった。そして21世紀を迎え、100年の歴史を誇る赤いガイドは新たな美食の大地をめざして海を渡った。
 2005年刊行のニューヨーク版に続いて、サンフランシスコ版、東京版、京都・大阪版、香港・マカオ版とミシュランガイドの海外進出は続いている。道のあるところ津々浦々までミシュランの調査員が赴いて作り上げてきた美食地図は今や世界に広がり、美食大国フランスの覇権を窺うかのように、イギリス、アメリカ、デンマークに、そしてもちろん日本にも優れた料理人が現れている。ガイドの世界進出もそうした文脈の中に位置づけられる。
 2007年、東京版が初めて刊行された時に巻き起こった、ミシュランガイドの星をめぐる議論は記憶に新しい。料理とその評価について改めて考えるきっかけを与えてくれたわけだが、残念ながらそこには「ミシュランガイドとは何なのか、本国フランスでどんな役割を果たしてきたのか」という本質に迫る視点が欠けていたような気がする。本書『ミシュラン 三つ星と世界戦略』はその遺漏を見事に埋めてくれた。評価する側、される側、ガイドブックの読者など立場の異なる人々に取材して疑問をぶつけ、事実関係に矛盾があれば徹底的に資料を渉猟し、謎めいたガイドブックのベールを少しずつはがしていく手法は、ジャーナリストの著者ならではのものと言える。
 厳正公平な審査方法を誇るとはいえ、一企業の発意になるガイドブックの限界は当然ある。それぞれの土地の文化と時代を反映する料理を、常に的確に評価するのは決してたやすいことではない。ミシュランガイドの日本上陸がもたらしたものを、客観的かつ冷静に描いた本書は、翻って私たち自身の日本の食文化に対する向き合い方を静かに問うている。
 日本でこれまでほとんど語られることのなかった企業としてのミシュランの歩みとガイドブックの戦略的位置づけ、そして類稀な企業理念も否応なくグローバル化の波に洗われていく現実を浮き彫りにした部分は読みごたえ十分である。
 本書に登場するのは、どこか傲岸でしたたかな、あるいは謙虚で物静かな、あるいは夢見がちな、味のある人たちである。時には歓喜に涙し、時には失意を噛みしめながらもセラヴィー(仕方ない)とつぶやいて明日へと歩みだす。ユーモアとペーソスの中に軽い皮肉がきいた、フランス映画を思わせる読み心地が印象的な本だ。  (つじ・よしき 辻調理師専門学校校長)
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国末憲人/クニスエ・ノリト

1963年岡山県生まれ。1985年大阪大学卒。1987年パリ第二大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。富山、徳島、大阪、広島勤務を経て2001~2004年パリ支局員、2005~2007年外報部次長、2007~2010年パリ支局長。現在はGLOBE副編集長。著書に『サルコジ―マーケティングで政治を変えた大統領―』(新潮選書)、『自爆テロリストの正体』(新潮新書)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』(草思社)などがある。

「ミシュラン」のガイド本については、日本の老舗と言われるところはランクづけを拒否していると言われて、とかくマスコミの話題になっている。
この書評は「辻静雄」というグルメ界では一目置かれていた人の息子の書いたものである。
また「タイヤ」メーカーであるミシュラがなぜ発行するグルメ・ガイド本なのかという疑問が、タイヤ・メーカーとしての長期戦略であるということを考えると、
日本人には欠けている長期の視点というものに思いが至るのである。
「立ち読み」もできるので、試みられよ。
死後は火をくぐるべき我が躯にあれば副葬の鏡に映れ冥府の秋・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    死後は火をくぐるべき我が躯(み)にあれば
          副葬の鏡に映れ冥府(よみ)の秋・・・・・・・・・・・・・木村草弥


余り明るい、楽しい歌でなくて申訳ないが、この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので自選歌のなかにも収録しているのでWebのHPでもご覧いただける。
一般受けする歌ではないが、心ある人たちからは好評であった。私自身も好きな歌である。

写真①には私の住む近くの木津川市の椿井大塚山古墳出土の「三角縁神獣鏡」を掲げてみた。
我々が死ぬと日本では通常「火葬」いわゆる「荼毘」(だび)に付される。
これはインド伝来の死体の処理方法であるが、ここで「火」というものの「神聖さ」が表れているように思う。

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写真②は「那智の火祭り」であるが、これは神事に関係する「火」の浄らかさの表現である。
これに対する火葬の「火」もまた、人間の肉体処理についての「浄化」の思想の表現である、と言われている。
インドへ行ったことのある人なら、ガンジス川の畔での火葬の光景を目にしたことがあろう。
ここでは「火葬」を巡っても身分差別、貧富による死体の扱い、火の入れ方の違いに直面することになるが、今は、それは置いておこう。
シンボル、イメージの世界では、「骨」は死後も滅びないので復活の象徴とされている。
ローマ・カトリック教会(バチカン)が今なお火葬に反対しているのは、一つにはこのためであり、また原始的な社会の殆どでは、骨に同様な象徴的な意味を認めている。

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写真③はインドのクシーナガルの釈迦の入滅の地の「荼毘塚」と呼ばれるラマバル塔である。
写真④の説明を先にしておくと、ここでは線香、花など参拝のあとがうかがえる。

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お釈迦さまの最期だが、クシーナガルに着いた釈迦は、アーナンダに、こう言う。

さあ、アーナンダよ。私のために、2本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。私は疲れた。横になりたい。

いわゆる「北枕」で横たわるのだが、中村元先生が、インドの或る知識人から聞いたところ、頭を北にして寝るというのは、インドでは今日でも教養ある人の間では行なわれているという。
北枕で右脇を下にして西に向かって臥すというのは、インドでも最上の寝方とされるようである。
釈迦の最期の言葉は

<さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう。「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ」

この言葉には「万物流転」という真理が簡潔に表現されている。仏教のあまたの教義は、この単純な言葉に集約されている、と言っても過言ではないと思う。

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「荼毘」に関連するものとして写真⑤に大阪市浪速区元町1丁目にある「鉄眼禅師荼毘処地」の石碑を掲げておく。
鉄眼は寛永7年(1630年)肥後の生まれ。13歳で出家。明の僧「隠元」の来日に遇い、明暦元年(1655年)その門に入り黄檗宗の熱心な布教者となった。
また「一切経」の完全な開版を志し、喜捨を求めて全国を歴訪し、10年余の苦心の末、延宝6年(1678年)に版木6万枚の完成をみるが、その間、延宝2年の大坂の洪水、天和2年の全国的な飢饉の時など、折角の喜捨を全て、その救済にあてた。天和2年過労のために53歳で没した。
なお「一切経」の版木は本山の宇治の万福寺に収蔵されている。偉い人がいるものだ。

帚木蓬生『受命』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート・・・・初出Doblog2007/11/17──

     帚木蓬生『受命』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・角川書店2006年6月刊・・・・・・・・・・

今度は、集中的に読んでいる帚木の表題の小説である。
はじめにWebKADOKAWAに載る同社の紹介記事をそのまま転載しておく。
作者へのインタビューも載っている。
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日系ブラジル人医師、津村リカルド民男は、北京の国際学会で平壌産院の許日好(ホ・イルホ)と知り合い、北朝鮮に知識と技術を伝え、指導して欲しいと熱心に勧誘される。返事を保留した津村は、その後、旧友のいる延吉(イェンチー)を訪れる。そこは、中国東北部、豆満江(トマンガン)を境に北朝鮮と隣り合う朝鮮族自治州。旧友の車世奉(チャ・セボン)は脱北者を支援するNGO活動を行っていた。津村は、車世奉にガイドされ、川向こうの国を眺めているうちに、招聘医師として北朝鮮に行く決意を固める。北園舞子は、在日朝鮮人の平山会長が経営するスーパーの庶務課で働いていた。北朝鮮との強いパイプがある会長の目にとまった舞子は、万景峰(マンギョンボン)号に乗船して会長とともに元山(ウオンサン)に向かう。ツアー・コンダクターの寛順(カンスン)は、亡くなった恋人の弟・東源(ドン・ウオン)とともに、中国国境から北朝鮮への潜入を敢行する。三者三様の北朝鮮入国。だが、彼らの運命が交錯するとき、現代史を塗り替える事件が勃発する。国際サスペンス書き下ろし1000枚。
1947年、福岡県生まれ。東大仏文卒後、TBS勤務の後、九大医学部卒。現在、精神科医。93年「三たびの海峡」で吉川英治文学新人賞、95年「閉鎖病棟」で山本周五郎賞、97年「逃亡」で柴田錬三郎賞受賞。他に「受精」「国銅」「薔薇窓」「エンブリオ」「千日紅の恋人」などがある。

●日曜作家の平日
─このたび、新刊『受命』が刊行されました。昨年八月に『千日紅の恋人』を出されてから十カ月。平日は夕方まで精神科医としてのお仕事もありますし、また、一千枚強の枚数を考慮しますと、非常に速いペースではないかと思いますが、いかがでしょうか。
帚木 いえいえ。だいたい年に一作ですからね。枚数も一日四枚程度。例年一千枚ぐらいは書きますから、普通のペースではないでしょうか。

─ 一日の生活のリズムは、どんな感じでしょうか。
帚木 四時に起床して五時まで執筆して、その後、お風呂に入ったり、朝食をとったり、ジョギングしたりして、それから出勤するまでに、また一時間くらい執筆することが多いです。二時間ありますから、四枚は書けますね。

─クリニックを退勤した後、夕方から夜にかけてはいかがですか。
帚木 クリニックは五時に終わりますから、帰宅して夕食をとり、執筆はせいぜい一時間くらいです。疲れているときは、三十分くらいで、八時には寝るようにしています。本職はやっぱり精神科医ですから、まあ、日曜作家のように書いているというところでしょうか。

─この作品の構想から脱稿までは、どんな流れだったのでしょうか。
帚木 九二年に『三たびの海峡』で朝鮮半島のことを書いていましたし、いつかまた書かなければいけないという気持ちは、以前からありました。ただ、北朝鮮の傍若無人というか、言語道断で理不尽な国をきちんと取り上げる必要があるなという気持ちを持ったのは、もっと後のことでしたが。五年くらい前から資料集めを始めて、これなら行けるという感触があったのが三年くらい前でしょうか。また、『受命』は角川書店から刊行された『受精』のシリーズ作品ですから、シリーズとしての制約もあります。それと組み合わせてできるようになったのが二年前くらいです。執筆には、去年丸々一年間かけました。

●北朝鮮の取材旅行
─平壌の街の様子や田舎の自然描写など、読みながら眼前に映像が浮かんでくるようでしたが、北朝鮮に取材旅行はされたのでしょうか。
帚木 昨年、執筆している間は行けなかったのですが、北朝鮮には、この四年の間に三度行っています。もちろん作品に出てきたところ全部は歩けなかったですけど、平壌、元山、開城と見て回りましたので、行けなかったところも、だいたいこんな感じかなというイメージをつかむことはできました。

─北朝鮮には、どのようにして入られたのですか。
帚木 旅行会社のツアーに普通に申し込んで、北京から飛行機で入りました。その旅行会社に応募すれば、犯罪とか怪しい組織に加わってなければ行けるんじゃないんでしょうか(笑)。何も問題はなかったですから。しかし『受命』刊行後は、要注意人物となって入国できないでしょう。

─北朝鮮ツアーの印象はいかがでしたか。
帚木 一言で言うと、お仕着せの旅行ですね。観光バスに乗って、主体思想塔や革命博物館などお決まりの見せなければならないコースを回らせられるという感じです。街には看板が一切ないし、スケジュールが途中で変更されます。ツアーで実際に回るコースを最後まで観光客に知らせないというのも向こうの手ですね。そのため、こちらはずっとついていくしかない。写真を撮るのもダメです。ツアーガイドがどこへでも必ずついてきて、単独行動はできないですね。このあたりのことは『受命』に書いてある通りです。

●変化する日朝関係
─『受精』の刊行が一九九八年になります。それから八年の間、日朝関係が随分変わりましたが。
帚木 そうですよね。八年前は北朝鮮のことは、それほど頭にはなかったです。拉致が判明したのが四年前ですが、やっぱりあのあたりからですね。これはとんでもない国だということが分かってきた。そのうえ核査察も拒絶していた。さらに、だんだん脱北者が増えてきて、あの国が見え出してきたということもありますね。それでこれはもう放っておけない、これを題材にしなくては、作家としていけないんじゃないかという気がしました。それは前に『三たびの海峡』を書いているからではなくて、世界にとって北朝鮮の現状は最も憂慮すべき問題ですから。これが本当の意味での動機です。ただ、角川書店での発行ですし、前作『受精』との結びつきは、課題としてどこか頭の隅にはありました。ようやく結びつくと思ったのが二、三年前ですね。取材もそれで本格化してきました。

─拉致問題が明るみに出たのが二〇〇二年九月。このとき、小泉首相が訪朝し、北朝鮮の指導者が正式に認め、謝罪したわけですが。
帚木 そうですね。でも、拉致問題は昔から囁かれてはいましたよね。それを日本政府は否定してきた。被害者の家族たちの訴えはずっとあったのです。これは日本の暗部でもあるのです。この問題が出てはっきりしたことは、北朝鮮という国は、絶対に見過ごしてはいけない国だということです。ところが、韓国は北朝鮮のほうを見ないようにして生活していますし、中国は北朝鮮に存在してほしいという腹があります。それから、米国も強硬な態度を見せてはいますが、この地球上から北朝鮮がなくなっては困るというところもあるのではないでしょうか。そのへんの力学みたいなものも、小説の中でちゃんと整理したいという気持ちがありました。

─ここへきて、韓国政府もようやく動き出した様子です。横田めぐみさんの夫が韓国人拉致被害者かどうか、DNA鑑定を行い、きわめて可能性が高いと認めました。
帚木 韓国の拉致被害者は、五百人はいるといわれていますが、それがやっぱりうやむやにされてきました。いうなれば北朝鮮というライオンを前にして立ちすくんでいるネズミかなにかの状態が、韓国ではないでしょうか。強いことが言えないですしね。金大中前大統領の「太陽政策」もその表れで、聞こえはいいですが、要するにご機嫌取りだったということではないでしょうか。

●多角度からの視点
─さて、作品の内容にふれていただきますが、北京での国際医学会で津村が北朝鮮の平壌産院にスカウトされる冒頭のシーンに続いて、津村が延吉に赴きます。
帚木 北朝鮮と国境を接している中国のあのあたりは、延辺朝鮮族自治州といって六市二県から成っています。

─中国の東北部に日本の九州より大きな朝鮮族自治州があること自体、驚きでした。
帚木 中国には朝鮮族が二百万人いますが、そのうち半数近くがこの地域に集中しています。昔は国境もなかったに等しいわけで、脱北者が出始めて監視が厳しくなるまでは、自由に行き来していたのではないでしょうか。今はもう寸断されている形ですが。

─実際にご覧になられたのですか。
帚木 延吉には一度行きました。国を隔てる川の幅が狭いから、向こう側の建物も見えるぐらいです。

─作中でも津村が川の向こうにある北朝鮮を眺める場面がありました。
帚木 表向き、張りぼてを並べて、本当に劇場国家みたいです。ショーウィンドウだけを見てるという印象でした。

─津村は延吉に赴いて、脱北者を支援するNGO活動を行っている車世奉に案内されるのですが、この車世奉という人物は中国に対してものすごく批判的ですね。
帚木 作中にも書いてますが、中国と北朝鮮を隔てるあの壁さえなくせば、北朝鮮は間違いなく崩壊します。自由にあそこから出入りができるようになれば、かつての東欧がそうであったように、どんどんそこから人々が流出しますからね。ところが、中国はそうさせない。そして、難民を難民として認めていない。まったくとんでもない話ですが、そんな国が国連の安全保障理事会の常任理事国をやっているのです。それから、今年、北朝鮮の指導者が特別列車に乗って広東あたりまで行ったのを、中国は手厚くもてなしている。旧正月前の民衆が最も忙しい時期に、極悪非道の指導者をあんなふうに手厚くもてなすなんて、もう本当に狂気の沙汰だと思います。それぐらい、中国としては北朝鮮に、現体制のまま存続してほしいということではないでしょうか。

─脱北者を北朝鮮に引き渡す、その一点に中国の本質があると車世奉に言わせています。とても印象に残りました。
帚木 絶対にそうです。この一点をもって推して知るべしです。やっぱり真実というのは、そんなに複雑なことではない。一つのことが分かれば、あとは全体が見えてくるのではないでしょうか。韓国の立場もそうだし、中国の立場もそうだし、アメリカの立場もそうです。たとえば、北朝鮮がなくなれば、日本も韓国も脅威を感じなくなり、アメリカ軍は不要になってしまう。そうさせたくないのがアメリカの立場ではないでしょうか。そういう意味では、この小説を執筆しながら配慮したのは、いろんな視点から北朝鮮を見つめるということでした。一つは、今お話に出た車世奉。これは中国側からの視点。また東源と寛順は韓国側からの視点。朝鮮総連に尽くした平山会長は在日朝鮮人としての視点です。ブラジル国籍を持つ主人公の津村は、より第三者的な目で北朝鮮を観察しますし、平凡な日本人女性の舞子もそうです。

●地に落ちた理想主義
─北朝鮮の外部からもそうですが、内部からも観察者の目が光っていました。たとえば姜将軍は、生き証人のようにこの国の歴史を見続けてきました。
帚木 姜将軍は七十代で、やっぱり建国時の朝鮮のよさを知っている世代ですからね。新しい国が戦いの後に生まれるという期待を抱いて、エリートの軍人になっていったはずですけど、途中で変質してしまった。当初の理念はこんなふうではなかったという思いは強い。そして、だんだん世代を重ねるにつれて貧しくなってゆくのを感じ出した世代ですね。そのうえ知性もあるし、理性もあったから、このままではいけないということは、肌で感じていたはずです。

─建国時の朝鮮のよさという言葉が出てきましたが、作中では先代の指導者が政権の座に就いたときから、民衆を欺く虚偽があったと書かれておりましたが。
帚木 たしかにそうですが、そのこと自体はみんな最初は知らない。それに先代の指導者には、やはり初代なりの理想主義があったのではないでしょうかね。やっぱり初代ですから物笑いにはされたくない。そう思って必死にやってきた面はあるのではないでしょうか。ところが、二代目になると、それがもう上辺だけの、劇場だけの、少数生き残りの政策に、まさしく変質してしまったということですよね。

─食料の配給を止めたというのが象徴的です。
帚木 九〇年代に入った頃から、配給が止まり出したのではないでしょうか。二代目は現実的には八〇年代に実権を握っていましたから。もちろんそういう情報は父親には隠蔽していた。やはりこうなってしまったのは、失政が原因でしょうね。農業政策を後回しにして、工業一辺倒になりましたし、上辺の数字だけを合わせればいいような政策ですからね。配給をストップして自給しろと言われても工場の機械を売るしかない。売れば工場では何もできないですしね。

─北朝鮮に潜入した東源と寛順を誘導する康春花は、身分の低い一庶民の視点から北朝鮮の国情をつぶさに語っていますね。
帚木 生理用品もない、口紅もない、化粧品はイワシの臭いがするとかですね。女性が美しくありたいのに、スカーフもろくに手に入らない。靴だって。

─こんなのは国じゃないと、康春花に言わせています。
帚木 そのように多角的に、外側からも内側からも見て、やっぱり辻褄が合ってしまうということですね。その辻褄というのは、非道なことが行われている国だということです。それも一人の指導者によって。一般国民は自由を奪われ、何もできないようにされている国。これを書かずにはおられないですよ。やっぱり作家として。

─ともすると敬遠してしまいがちなテーマですが、まさに帚木さんならではのお仕事と感じました。
帚木 まあ、そんなことはないですが。ただ、家族とか恋愛とか、そういうものも大切ですが、私にとっては、このテーマを放置して、他のテーマというのはないですね。アメリカ人の作家には書けないし、ましてや韓国人の作家には書けない。また中国人の作家にもそこまでの資料調べはできないでしょうしね。そういう意味では日本人の作家が一番いい位置にありますしね。

●日本と韓国のヒロイン
─ところで、前作『受精』に登場したヒロイン、舞子と寛順が『受命』でも再登場します。彼女たちは恋人を失った後、ブラジルのサルバドールの病院に行って、非常に辛い思いをして帰国するという共通の過去を背負っています。舞子は、その後、在日朝鮮人の平山会長が経営するスーパーチェーン店の庶務課で働き、たまたま路上でうずくまっている会長を救護したことが縁で、万景峰号に乗船することになります。『受精』からの読者には待ちに待った舞子の登場という感がありますが。
帚木 私はいつも続編を書くときは、数年の間隔を経て書くわけですけど、前作の登場人物にまた会えたなという嬉しさはありますね。続編ですから、たしかに制約はありますけど。ただ、登場人物が、生きてたんだね、懐かしいねという感じで筆が進んでいく続編のよさというものを感じます。

─舞子は会長から一緒に北朝鮮に行かないかと誘われますが、一旦は迷います。彼女の背中を押したのは何だったのでしょうか。
帚木 やはり津村が平壌の病院にいるというのが大きかったですね。津村は『受精』でも助けてくれた恩人だし、恋人を失った傷はそう簡単には癒えないわけで、それがようやく四、五年経過して癒えてきて、二人が互いに接近してゆく素地が揃ってきたということでしょうね。

─寛順の場合は、いかがですか。
帚木 亡くなった恋人の弟が北朝鮮に潜入すると聞いて、寛順としては心が動かないわけはなかったでしょうね。恋人の面影を残してますし、自分の弟のように思って面倒を見てやりたいという気持ちがあった。東源と寛順は、いわば東振(東源の兄)という太い絆で結ばれています。

─今後、津村と舞子、寛順と東源の関係がどう進展していくか非常に興味深いです。
帚木 そうですね。ですが、今は全力投球を終えたところで、その先を思いやる元気はありません(笑)。また数年すると、力が湧いてくるかもしれません。
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私の下手な要約や解説よりも、作者じきじきの、この文章の方が、はるかに判りやすい。
ただ、この紹介記事には、読者に「結末」をさらけ出すことは避けているので、結末は判らない。
少しだけ書いておくと「将軍様」一家はボツリヌス菌を醤油に入れられて絶命する。
このプロットが、現実には、今後どう展開するか。小説と現実の政治の世界とは違うから誰にもわからないと思う。小説だから、サブの登場人物は、みな死んでしまった。
これが創作という「虚構」のいいところである。
ほぼ一日かけて読了したが、いつもながらお見事な文章力とプロットである。
ぜひ、ご一読を。


食むといふ営為はかなし今たべし蜜柑の香りををとめはまとふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     食(は)むといふ営為はかなし今たべし
         蜜柑の香りををとめはまとふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


早生みかんのシーズンが終って、本格的な「蜜柑」のおいしい頃となった。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、体に食べたばかりの蜜柑の香りを漂わせている少女の姿から
「食むといふ営為はかなし」という想いに至った心境を述べている。
この歌集を上梓して、すぐ親しい友人から、日野草城の句に

 をとめ今たべし蜜柑の香をまとひ

というのがあると言い、これは盗作とまぎらわしく、まずいのではないか、と言われた。
調べてみると歳時記の蜜柑の項に、確かに、この句が載っている。
以前にこの句を私が見て、それが私の頭の中に「フレーズ」として存在して、たまたま、この歌を作った時に浮かびあがってきて、私の歌の中のフレーズとなるに至ったのであろう。
短詩形の場合には、こういうことはあり得ることで、私自身では、仕方のないことだと思っている。
考えてみると、古来、こういうことは多々あったと思われ、自分独自の発想と思っていることが、すでに類型として存在する、ということはあり得ることである。
私の歌の弁明は、このくらいにして「蜜柑」の話題に戻る。

私の子供の頃、近在で栽培している蜜柑というのは秋の間は酸っぱくて、それをムシロなどで囲って寒い冬のさなかになると、
甘みが出てきて、おいしくなる、というような種類のものであった。
今は、皮が薄くて剥きやすく、中の皮も薄くて皮ごと食べられるような品種の蜜柑が多くなった。その代り保存は利かず、じきに腐ったりする。
蜜柑はリンゴなどのように包丁で皮を剥く必要もなく、手で簡単に剥けるので食べやすい果物である。
それに1個あたりの値段も高くなく手ごろである。今では愛媛県、福岡県などの大産地が出てきて和歌山県の有田ミカンなどの影は薄くなった。
しかし和歌山の「新堂」ミカンなどは、多少値は張るが、やはり美味である。

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蜜柑の句を引いて終りにしたい。

 蜜柑山の雨や蜜柑が顔照らす・・・・・・・・西東三鬼

 かの夫人蜜柑むく指の繊(ほそ)かりしが・・・・・・・・安住敦

 闇ふかく蜜柑をひとつ探りえつ・・・・・・・・加藤楸邨

 蜜柑吸ふ目の恍惚をともにせり・・・・・・・・加藤楸邨

 死後も日向たのしむ墓か蜜柑山・・・・・・・・篠田悌二郎

 蜜柑山の中に村あり海もあり・・・・・・・・藤後左右

 蜜柑ちぎり相模の海のあをきにくだる・・・・・・・・川島彷徨子

 蜜柑むいてそれから眩しい灯と思ふ・・・・・・・・原田種茅

 子の嘘のみづみづしさよみかんむく・・・・・・・・赤松憲子

 蜜柑摘み昔は唄をうたひしに・・・・・・・・山口波津女

 蜜柑むくはてこんなことしてゐては・・・・・・・・星野麦丘人

 子をなさずゆくてゆくての蜜柑山・・・・・・・・永島靖子

 蜜柑むくめくるめく思い鎮むまで・・・・・・・・豊口陽子

 蜜柑島夜は漁火もて囲む・・・・・・・・三好曲

 伊予の蜜柑花のかたちに剥きたまへ・・・・・・・・森賀まり

 みかん吸ふ袋かぞえをたのしみて・・・・・・・・小川恭生

 蜜柑捥ぎ海のきららを手で包む・・・・・・・・徳田千鶴子


帚木蓬生『臓器農場』・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート・・・初出・Doblog2007/11/16──

   帚木蓬生『臓器農場』・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・新潮文庫(初版1993年)・・・・・・・・・・

先日来、この著者の本を集中的に読んでいるので、今回は、これを採り上げる。
著者は、東大仏文科からTBS勤務ののち、九大医学部に転身し、精神科の医者のかたわら、医療を通して現代に生きるということを問う一連の小説を執筆している。
『臓器農場』は、九州のとある総合病院を舞台とした、臓器移植をめぐっての医者や看護婦、患者の葛藤を描き、医療の暗部を剔りだしたサスペンス小説である。無脳症の胎児から臓器を移植し、難病の子どもたちを救う。誰もが反論できないような人助けの医療行為。しかし、そこでは無脳症の胎児の「いのち」はまったく顧みられることはなかった。 この小説が書かれたのち、脳死は人の死という法案が国会を通過した。
私たちにとって親密な人の死を、国家によって、あるいは専門家によって一方的に線引きされることに、多くの人は違和感を覚えるだろう。この小説は、医学の専門家である著者の知見を生かしながら、人を救う努力が人を排除することにつながる現代の医療のアポリアを見事に描いている。

ここでネット上に載る或る読後記事を引いておく。
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主人公規子が、初めて勤めだした病院では、子供への臓器移植が盛んな病院。
その臓器が、どうしてこの病院に沢山集まってくるのか。
一方で、病院近くのレストランで、無脳症児を出産しようとしている女の声を聞く。
無脳症児、読んで字のごとく、先天的に脳を持たないという障害を持ち、出生後100%死ぬ運命。そんな子供を産もうとしている事と、臓器移植の臓器提供元に疑問を持った規子は、同僚の看護婦と、親しくなった医師と共に、調べ始める。
サスペンス長編と、裏表紙には書いているが、サスペンスな部分よりも、人として何処までいのちというものを、扱っていいのか。生きていないと、生きられないの差は何なのか。
考えても答えはあるのか。色々考えてしまう作品。
***
めちゃめちゃ簡単に説明すると、その病院では、胎児を無脳症児にする方法を発見したんで、無脳症児を産んでもいいっていう女の人を探してきては、妊娠させて、その無脳症児を買い取っていたんよね。でもって各臓器を、移植する家族に、寄付金という形で高値で売りつけ、儲けてたわけだ。
その真相を知った、同僚の看護婦と、親しくなった医師は、事故や自殺に見せかけて殺されてしまう。警察もどうもぐるになっているらしい中、規子は殺されそうになりながらも、真実を暴いていく。
結局最後には、2人の死を怪しんでいた刑事によって、めでたしめでたし。
(かなり簡単しすぎかも。だってこれ文庫本600ページ。厚さにして15ミリほどのかなりの長編。)
***
この臓器農場に関わっていた人の中で、ただ金儲けのための経営者たち、自分の研究のためだけの医師、純粋に子供のいのちを1つでも助けたいという気持ちの看護婦が出てくる。
(間島)看護婦は言う。
「無脳症児は神様の贈り物。それによって先天性の奇形を持った赤ん坊が全部救われる。」
赤ん坊だけではなく、無脳症児を身ごもった母親も、無意味な妊娠いやそれよりも天罰の妊娠(と、妊婦が思いこむ)から、重要な妊娠へとなり、救われることになる、という意志の元、臓器農場に取り組む。
ただ規子は、無脳症児を人工的に作り出すことや、それで私腹を肥やしていたことにではなく、無脳症児の臓器を移植に使うこと自体に疑問を抱く。脳死からの臓器移植だと本人の意思によって行われるが、無脳症児の場合本人の意思は無視される。いや無視しようにも最初から意志なんて存在しない。
もし私が、先天性の奇形を持った赤ん坊の母親、無脳症児を身ごもった母親、双方どちらの立場になったとしても、きっと疑問を持たずに移植を進めるだろう。もし持ったとしても、その後にあるいのちを取るに違いない。
上の看護婦の台詞に規子は言う。
「頭が無くても、心臓や手足が動いていれば、そこにいのちが宿っている気がします。いのちは脳にあるのではなく、全体にあるのです。考えることや感じることはできなくても、いのちはあります。」
じゃあ、いのちはいつから存在するのだろう。胎児にももちろん動く手足がある。でも、無脳症児の場合、無脳症と分かった時点で、人工流産させる。人工流産は許されて、臓器移植が許されないのは何故なのか。どちらもいのちを1つ消すということに、代わりはない。
本の最初の方で、臓器移植をしてまで生きたくない、と言った母親にある医師が反論する。
「あなたのお子さんがそうだったらどうしますか?」
「人間を冒涜するとか、天命に逆らう行為だとか言って非難する人は、自分がその渦中に身を置いていないからだ」と。
この台詞にさらに反論することは、私には、どうしてもできない。
***
えらい堅くなってしまったよう。うーん、でもこれは簡単に話をまとめられる内容じゃない。多分、読む人の立場や、生き方によって、どれが正しいのか別れる、もしくは、考えるほどに分かんなくなる小説。読み終わってから思ったことは
「ブラックジャックなら、どうするだろう?」だった。(笑)
「ふたり死ぬのがひとりになった。文句があるか?」
と一喝して去っていきそうなんやけど。どう思います?
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1995年10月に米国から、次いで同年12月には日本の厚生省から、女性が妊娠中にビタミンAを過剰に摂取すると「奇形児」を産むリスクが高くなるという警告が発表された。さかのぼって1980年代半ばには、やはり米国で、皮膚病治療の目的でビタミンAを大量に服用した婦人から「無脳症児」が生れて大きな社会問題になったという。ビタミンAは生命活動に必須の物質であるが、妊娠初期に大量に摂取すると胎児に奇形が誘発されるという事実は動物実験によって確認されている。ビタミンAは、生体にとって正に「両刃の剣」と言えるのである。
この小説は、この科学的事実をプロットとして取り込み、医学の今日的課題である臓器移植と巧みにリンクさせた。おまけに、この作品では「無脳症児」を人工的に妊娠中に作りだし、出産させ、病院の「隠し施設」で、移植可能時期まで「飼育」するというプロットを描き出してみせる。これが、この作品の一番の迫真部分である。
これが「犯罪」として小説の大きな筋書きとなるのだが、レシピエント(被移植患者)の家族から1500万円とか2000万円とかの大金が秘密裏に徴収され、そのうち三分の二くらいが「無脳症児」を分娩した女の家族に支払われる、という空恐ろしいことが描かれる。

「脳死」ないしは「脳死患者からの臓器摘出」にも異論を唱える人が居るが、私は、それには異議はない。
意識を失い、呼吸が停止すれば心臓もやがて止まる。それが「死」だった。
「脳死」という概念が出てくるのは「人工呼吸器」という過剰な「生命維持装置」が発明されてからのことなのである。生きている人の治療に「人工心肺」装置が操作されるのには誰も異論はなかろうが、もはや打つ手がない時期にさしかかってもなお、生命維持装置の作動が必要かどうか。いわゆる「尊厳死」の問題である。
私の母は93歳で亡くなったが、生前、その問題に触れて過剰な「生命維持」は不要という意思表示をしていたので、意識不明に陥ったとき私も妻も、医師と相談して過剰な処置はとらなかった。私の妻も死ぬときはあっけなかったが、常日頃、意識や呼吸のなくなったときの「人工呼吸器」などの処置は不要と言っていた。医師にも、それは伝えられていた。
お釈迦様は飢えた虎に自らの肉体を差し出して食べさせる、というエピソードがある(これを捨身と言う)ように、霊魂と肉体とを緊密不可分のものと考える意見を私は採っていないが、人工的に、しかも金銭的に、しかもそれによって利益を得て「命」を操作することには反対である。
主人公の看護婦・規子の言うように、無脳症児にも「命」はあるのである。
この小説も、いろいろ考えさせるが、ぜひ一読をお勧めする一冊である。
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    帚木蓬生『三たびの海峡』・・・・・・・・・・・木村草弥

この小説にひきつづいて私は同じ著者の『三たびの海峡』(新潮文庫・初版平成4年刊)を読んだ。
これは第二次世界大戦末期に日本体制側が朝鮮半島から人々を労働者として「徴用」してきて、過酷な労働やリンチによって死なせたことを生々しく描いたものである。
作者の筆致は誠実なもので、今の韓日関係を想起して、私は感銘を受けた。
これこそ「日韓史」の深部を誠実に描くものと言える。
なお、この本は平成5年に「吉川英治文学新人賞」を得ている。
「あらすじ」を辿るためにネット上から記事を引いておく。
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■ 内 容
一代で財を成し、釜山のスーパーマーケット・チェーンの会長となっていた河時根(ハー・シグン)は、昔の仲間で今も日本にいる徐鎮徹(ソ・ジンチョル)から山本三次がN市の市長になっており、再選のための公約として、いまだ手付かずのボタ山を取り払い商工業地に変えようとしているとの手紙をもらった。河時根は三たび海峡を渡る決意をする。1度目は病弱の父に代わり、山本三次に連行された強制労働者として、2度目は祖国解放後、父母の待つ故郷を目指して、そして3度目は・・・。長年、音信不通にしていた日本人妻との間に出来た息子・時郎との再会も目的の一つであったが、彼は他にも、大きな決意を抱いて海峡を渡る。海峡をフェリーで渡る彼の心に、50年前に地獄のような苦しみを味わいながら海峡を渡った日の想いが蘇る・・・。

■ 人間の本質について考えさせられる
河時根や同胞たちが落とされた境遇はあまりにも悲惨です。これはフィクションですが、同じ様な事が行われていただろう事は推察出来ます。
人間はこうも残酷になれるのか・・・現代の河時根は、「彼らも戦争と言う非常時が作り出した被害者だ。」との考えに至るのですが、そんな小心翼々たる小市民ばかりでない事は、河時根はちゃんと知っているのです。彼の恨みがそうでない者たちに向けられるのは当然です。
この事からは人間の本質ついて考えさせられます。
非常時だからこそ、人それぞれの本質が露呈するのでしょう。同じ境遇にいても、人間性を失う者と失わない者、屈しない強さを持つ者と屈してしまう者。この作品の中にも、その両者が描かれています。それは朝鮮人日本人に拘りません。民族の違いなど関係なく、人間の本質の違いなのだと作者は言いたかったのでは、と思います。

■ 執筆動機は
しかし、この作品を著者に書かせた一番の動機は、過去の日本の行状に対する現代の私たちの無理解、無関心に対する憤りだったのではないでしょうか。
私自身、強制連行問題、従軍慰安婦問題など、TV・新聞などで見聞きして、朝鮮の方たちに同情もし、当時の日本の悪辣さや今の政府の反応の悪さに怒りを覚えたりもしていましたが、朝鮮の方たちの怒りを実感として感じてはいなかったと思います。過去の国の過ち・・・と、どこか傍観し、知識として知っているだけという感じでした。しかし、当事者の方たちには今もなお続いている・・・いえ、死んでも忘れられない屈辱の体験で、怒り覚めやらぬのも無理のない事。また、政府を始めとした私たち戦後の日本人の問題に対する鈍感さに、その怒りは更に強くなったのではないかと感じました。

■ 結末について

<以下は重要な内容に触れています。構わない方のみ下の*をクリックしてお読みください。>
<*>

一度として侵略された事の無い国・日本に住み、また、民族問題に直面した事も無いから言えるのだ、と思いますし、だから説得力が無いのはわかっていますが・・・。
今起こっている民族紛争は、見え隠れしながらも昔から脈々と続いている恨みの連鎖の結果だと思います。報復が報復を呼び、果てしなく殺し合い、傷付け合っているように見えます。その悪しき連鎖を断ち切り、理性を持って事に当たらなければ、民族紛争は永遠に続くように思えます。

ですから、河時根には殺人と言う手段でだけは決着をつけてほしくありませんでした。
自分の所業に苦しみもせず、悔いてもいない者には、それなりの末路が用意されています。勧善懲悪的な結末ですが、納得は行きます。寧ろ、罰が与えられなければ、読んでいる方もスッキリしませんし、彼らの所業はそれに値するものだと思います。同胞でありながら彼らに最も残酷な仕打ちをし、祖国に対する愛着も誇りも持たない康元範(カン・ウォンボム)が、全く心の痛みも無く、いまだに山本とツルみ、甘い汁を吸いながら大きな顔をしているのですから、報いを受けるのは当然でしょう。殺す以外には晴らせないと思うほどに深く恨みを抱くのも無理のない事だとも思います。そして、河時根の決着の付け方を潔い、見事だ、と<他の小説だったら>感じると思います。
しかし、同胞同士とは言え、民族問題の絡む作品の主人公に暴力的な報復をさせるのは、どうでしょう。あれだけの恨みなら仕方が無い? 殺人と気付かれないから、自らも死ぬのだから良い? 他の作品ではご自分の理想に忠実な作者が、あの結末を書いたのは何故だろうかと不思議に感じます。心情を重視したという事なのでしょうか。河時根の心情は非常に良くわかりはするのですが・・・。

日本人の身でこの作品を書くには大変な勇気が要ったと思います。国のため、天皇のための美名の下、日本がどんな卑劣で残忍な事をして来たかを、日本人として反芻するのは辛い事です。また、このような内容を日本人が書く事に対する朝鮮の方たちの反応も気になったのではないでしょうか。しかし、日本人によって書かれた事がこの作品の重みを一層増していると思います。
(2004.7.28)
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   帚木蓬生『受精』・・・・・・・・・・・・木村草弥

ひきつづいて『受精』(角川文庫4版・初版1998年刊)を読んだ。
ここで、ストーリーを辿るために、ネット上に載る記事を引いておく。
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「受精」 帚木蓬生
 2001.9.25 角川文庫 1998.6単行本初版「受精-Conception」

 文庫本で723Pと分厚い本。

 読み始めて50Pほど進んだところで、あれっ、と気づいた。登場人物の名前をどこかで見たような。そうだ、昨年読んだ「受命ーCalling」と同じではないのか。そうか、この本は、「受命」の前編となる本だったんだ、と。

 舞子と寛順、2人がそろったところで気づき、あとで、DR.ツムラが登場して確信した。

 読んでいるうちに、何か引っかかるものがあり、212Pあたりで確信に変わった。

 舞子は、愛する明生を結婚を決めた矢先に交通事故で失う。自ら死を決意して、昔、明生といったあるお寺を訪れる。そこで、外人の僧に声をかけられ、不思議な体験(明生と出会う)をする。そして、明生の子供を産めると言われ、ブラジルへと旅立つ。

 ソウルで合流した寛順も、結婚前日に、東振がこれも交通事故で死亡、お寺で僧に声をかけられ、東振の子を産むため、ブラジルへと向かう途中だった。

 ブラジルの病院であったユゲットも、フランスの協会で同じような経験をし、ブラジルに来ていた。

 3人とも、お寺や教会に、以前に恋人と訪れている。そして、病院には、彼女たちの食べ物の好みから、家族構成まで、あらゆるデータが揃っているという。

 あまりにも共通したシチュエイション、何か仕組まれているのではないか?本はあと500Pもある。陰謀の匂いがしてくる。

 病院で、同じように入院していた女性バーバラが殺害される。たまたま、舞子と寛順は、殺害直後の彼女の死体を見てしまう。ところが、病院は、飛び降り自殺として処理してしまう。

 舞子の担当主治医で、殺された女性の主治医でもあった、日系3世のDR.ツムラも彼女の死に不審を抱き始める。

 バーバラの叔父に会いに行く舞子、寛順、ユゲット。死の直前の彼女の様子を聞き、自殺するような人間ではないこと、叔父に何かを告げたがっていたこと、などを知る。
叔父もバーバラの死に不審を抱き、患者として病院に入院する。

 徐々に、巨大な悪の組織の存在が明らかになって行く。

 著者は、精神科医であり、心理学的な要素、そして、1998年当時の遺伝子研究の到達点を元に、この物語を形作っている。その知識は、賞賛ものである。またご紹介しようと思うが、次作「受命」の発想と構成力には驚かされたが、どちらの物語も、ある種、現代への問題提起ではないかと感じる。
 また、海亀の産卵シーンや、豊かなブラジルの自然も、鮮やかに描き出している。分厚い本ではあったが。一気に読み通してしまった。
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この記事では結末を載せていないが、彼らは「ナチス・ドイツ」の生き残りの組織であり、この小説の中では「逆まんじ」と書かれているが「ハーケンクロイツ」というナチスのシンボルマークが「伏線」として小説の初期から出てくる。サスペンスたる所以である。
彼らの組織はドイツ民族の純血を守るために「ヒトラー総統」の「精液」を冷凍保存しておいたものを、これと目星をつけた女の子宮に注入して妊娠させ、その血統を後世に残す活動をしていたのだった。

私は『受命』という本を、まだ読んでいないが、上に引いた記事には、これは『受精』の前編にあたると書いてあるので、乞う、ご期待である。



菊の香のうごくと見えて白猫の音なくよぎる夕月夜なる・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    菊の香のうごくと見えて白猫(はくべう)の
       音なくよぎる夕月夜(ゆふづくよ)なる・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
今や「菊」真っ盛りのシーズンだが、あちこちで「菊花展」が盛んであるが、菊という花は、どことなく、うら淋しい気分がするものである。
私は第一歌集『茶の四季』(角川書店)に

   一の峯二の峯越えて詣づれば秋の奢りの菊花百鉢・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌を載せたが、これなども心底からの明るい歌とは言い難い。それは「秋」という季節の持つ性格から来るものであろう。
掲出の歌の前後の歌を引いておきたい。

         残 菊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  身めぐりに祝ふべきこと何もなし水引草の花あかけれど

  ひようろりと残んの菊と成り果てて庭のかたへに括られてゐつ

  菊の香はたまゆら乳の香に似ると言ひし人はも母ぞ恋しき

  菊の香のうごくと見えて白猫(はくべう)の音なくよぎる夕月夜なる

  白菊に対ひてをればわが心しづかなりけり夕茜して

  嵯峨菊が手花火のごと咲く庭に老年といふ早き日の昏(く)れ


「菊」というのは、春の桜と並びたつ秋の花とされる。中国から渡ってきたもので日本でさまざまに改良されてきた。
私は菊作りは、しない。春の挿し芽にはじまり、朝夕の水遣り、それも天候、降雨を勘案して、やらなければならないし、葉を虫に食われたり、欠いたりしてはならない。
茎立ちの寸法も重要な審査項目となる。
これでは、私のような旅行好きとは両立しない。以前は多い時には年間50日くらいは海外に出かけていたが、今では国内旅行が主で、こまぎれの旅をするばかりである。

十月末に近所に住む菊作りの友人が、見事な三本たちの菊二鉢を持ってきてくれた。
玄関に飾ってあるが、花も、もうそろそろ終りである。 有難いことである。

菊を詠んだ句を少し引いて終りたい。

 黄菊白菊其の外の名はなくもがな・・・・・・・・服部嵐雪

 有る程の菊なげ入れよ棺の中・・・・・・・・夏目漱石

 かにかくに明治は恋し菊膾・・・・・・・・富安風生

 国原や到るところの菊日和・・・・・・・・日野草城

 菊白く死の髪豊かなるかなし・・・・・・・・橋本多佳子

 白菊とわれ月光の底に冴ゆ・・・・・・・・桂信子

 白菊や暗闇にても帯むすぶ・・・・・・・・加藤知世子

 菊の棺とともに焼かれしわが句集・・・・・・・・平井照敏


甘谷の水は菊水『菊慈童』の七百歳のいのちこそ憶へ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    甘谷の水は菊水『菊慈童』の
        七百歳のいのちこそ憶(おも)へ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので「菊」の一連の中にある。

いま菊の花の真っ盛りであるので、菊の花に因んで書いてみる。
「菊慈童」については解説が必要だろう。
写真①は彦根の井伊家に伝わる能楽に使われる菊慈童の「能面」である。
写真②は菊慈童の能楽の一場面。
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「菊慈童」というのは中国の古典を題材にした能楽の作品。
お話は、こうである。

中国・魏の文帝は、山に薬の水が湧くと聞き、臣下に霊水の源を探れとの命令を下した。
臣下が秘境の奥深く入ってゆくと、菊の乱れ咲く里があり、慈童という仙人が薬小屋に住んでいた。
尋ねると、慈童は700年も昔、周の穆王に仕えていたが、ある日、王の枕をまたいだ罪で、この山に流されたという。
700年前ということを信じない臣下に対して、慈童は、流罪されるにあたり王は憐れみ、枕に法華経の偈を書いて与えた。
その経文を菊の葉に書くと葉の露が不老不死の霊薬となり、以来それを飲みつづけて齢を取らなくなった、と述べた。
そして慈童は勅使に菊の葉の酒を勧め、自分も飲むと喜びの舞楽を舞い、法華経の功徳と枕に感謝し、700年の長寿を文帝に捧げて祝福し、仙家の中に消えてゆく。
能楽では観世流のみが「菊慈童」という演名で演じるが、他流派は「枕慈童」という演目である。
能楽だけでなく、日本画にも度々描かれ、菱田春草のものなど有名である。
↓ 写真③が春草の絵の部分。(絵の全体は大きなもので、この部分は下の方に描かれている)
mir815-2菱田春草「菊慈童」
ご参考までに写真④に横山大観の同名の絵を出しておく。↓
皆さんは、どちらを選ばれるだろうか。
mir545-2横山大観「菊慈童」

また小説にも採り上げられ円地文子の作品などがある。芥川龍之介も書いている。

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写真⑤は熊本県八代市の「宮之町」の菊慈童の笠鉾である。立派なものである。。
京都の祇園祭に「菊水鉾」という大きな鉾があるが、この鉾も「菊慈童」から着想されたと言われている。写真⑥⑦に菊水鉾を載せる。
写真⑥は菊水鉾の全景である。とにかく背の高い鉾で全景となると絵が小さくなるのは、お許しいただきたい。写真⑦は「胴掛け」の部分である。
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すっかり「菊慈童」の話題だけになってしまったが仕方がない。
ここで歌集に載る前後の歌を抄出して、終りにしたい。他にも「菊」の歌があるので、それは次回にしたい。

     窯 元・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   しがらみの多き世の中たはやすく暮らすにあらね菊うつろひて

  はきだめといふ名の菊のありと聞く波郷一葉忌を隣りとし

  甘谷の水は菊水『菊慈童』の七百歳のいのちこそ憶(おも)へ

  をみなへしあまた剪りきて瓶に挿す蕪村ゆかりの商家の床の間

  <秋草をごつたにつかね供へけり>結びし紐を解くは悲しも
  *久保田万太郎

  秋草にまろべば空も海に似て泊り重ねし波止の宿おもふ

  秋草の波止場の旅籠(はたご)に蛸壺のセールスマンと泊りあはせし



返り咲く暴を老木も敢てせり・・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人
IMGP0388aシャクナゲ返り花

   返り咲く暴を老木も敢てせり・・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

「返り花」とは、小春日和に誘われて、春に咲く草木が季節はずれの花をつけることを言う。
主にサクラについて言うが、ツツジやヤマブキ、タンポポなどにも見られる。
掲出した写真は「シャクナゲ」の返り花である。
花がほとんど無い季節だけに、自然からの授かり物のように思える。
和歌、連歌の題にはないが、俳諧では盛んに詠まれたという。
この瓜人(くわじん)の句は「老木」の癖に「返り咲く」というような無謀(暴)なことをしたものだ、という意味だが、
この句を見つけたとき、わが身にひきつけて思わずドキリとした。
「返り花」は、はかないものであるが、それがまた文人たちに愛されたのだった。

私の敬愛する松本氏のサイト「硯水亭歳時記Ⅱ」2009/11/05付けに「冬の桜~妙見大悲は北の北」という記事が載っている。
この記事は「返り花」のことに直接言及しているものではないが、「冬桜」と「返り花」が混同されて誤解されている場合もあるようなので、ご参考までにアクセスされたし。

なお松本氏は桜に詳しいが、それは或る財団の理事長をしておられる故である。
日本中に、山櫻を植え廻ろうというNPOである。
ちょうど各地の櫻の名所では「補植」の時季になっている関係上、各地の行政庁中心に需要が来ているようである。
よく知られる財団法人日本さくらの会は半分以上は公的機関であるのに対して、「僕たちは故人である前理事長の残した資産だけで、すべて民間で管理運営しております。櫻山を造ることも夢の一つです。」とおっしゃっている。
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相生垣瓜人は1898年兵庫県高砂市生れ。本名は貫二。東京美術学校製版科を卒業。浜松工業学校教師となる。俳句は水原秋桜子に師事。
角川書店の第10回「蛇笏賞」を昭和51年に『明治草』他で受賞。百合山羽公と俳誌「海坂」を発行する。1985/02/07に死去している。

ネット上を見ていたら下記のようなcogito,ergo sumという面白いサイトを発見したので貼り付けておく。
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藤沢周平と海坂(うなさか)
「三屋清左衛門残日録」を読んで藤沢周平作品の虜になり、「蝉時雨」「暗殺の年輪」等々、10数編を次々と読んだ。
今から既に十年以上前のこと。時代小説作品の裏に潜む人間性がたまらなく好きだった。

その藤沢周平の作品の舞台になっているのが出羽の国海坂(うなさか)藩。海坂藩は勿論架空の藩ではあるが、周平の生地に当たる山形県庄内地方を領してきた庄内藩を母型として作られた名前で、周平自身が「海辺に立って一望の海を眺めると水平線は緩やかな弧を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である」と述べている。

しかし彼が海坂藩と名づけた由来はもっと単純で、その昔彼が会員の一人として投句していた俳句雑誌の誌名「海坂」からとってきていると言うのが本当の所である。

俳誌「海坂」は、水原秋桜子主宰の俳誌「馬酔木(あしび)」の同人で俳句界最高の賞と言われる蛇笏賞を共に受賞した、百合山羽公(うこう)、相生垣瓜人(あいおいがき かじん)が中心となって発行された俳誌で、その伝統が今も生き続け今年の6月号で通巻710号を数える。

藤沢周平の、「海坂」会員として活躍していた時代の作品の一つに、

 天の藍流して秋の川鳴れり

があり、きりりとして美しい作品だと思う。
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以下、「返り花」「帰り花」「返り咲き」「忘花」「狂花」「狂咲き」などの句を引いて終わる。

 凩に匂ひつけしや帰花・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

 かへり花暁の月にちりつくす・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

 あたら日のついと入りけり帰り花・・・・・・・・・・・・小林一茶

 真青な葉も二三枚返り花・・・・・・・・・・・・高野素十

 返り花三年教へし書にはさむ・・・・・・・・・・・・中村草田男

 返り花日輪さむく呆けたり・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 死神のへつらい笑う帰り花・・・・・・・・・・・・橋間石

 帰り花身は荒草(いらくさ)の花ながら・・・・・・・・・・・・中村苑子

 返り花咲けば小さな山のこゑ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 返り咲く花はさかりもなく散りぬ・・・・・・・・・・・・下村梅子

 いのちには終りあるべし帰り花・・・・・・・・・・・・加藤三七子

 帰り花空は風音もて応ふ・・・・・・・・・・・・広瀬直人

 一度しか死ねぬとこそ知れ返り花・・・・・・・・・・・・折笠美秋

 返り花知己のひとりは国の外・・・・・・・・・・・・友岡子郷

 約束のごとくに二つ返り花・・・・・・・・・・・・倉田紘文

 返り花そは一輪がよかりけり・・・・・・・・・・・・渡辺恭子

 雑言のなかの金言返り花・・・・・・・・・・・・木内彰志

 眉墨で書き留む一句帰り花・・・・・・・・・・・・宮下みさえ


ワシントン・ナショナル・ギャラリー展・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   ワシントン・ナショナル・ギャラリー展・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

立冬を過ぎた一日、京都市美術館に標記の美術展を見に行った。先日の「細川家の至宝」展と同様に、何だか空いていた。
展示は「印象派」「ポスト印象派」ということである。
ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、銀行家、実業家として財を成したメロン財閥のコレクションの寄贈をもとにして設立された。
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 ↑ クロード・モネ「日傘の女性、モネ夫人と息子」1875年
この絵は、よく知られる有名な絵だが、大きな画像が手に入ったので出してみた。

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↑ エドゥアール・マネ「鉄道」1873年
この絵は鉄道と題されているが、二人の背後の柵の後ろに蒸気機関車の吐く白い蒸気が、もうもうと出ているのと、鉄道線路がようやく見えるくらいで、
これがなければ駅風景とは見えないのだが、ここに描かれる女の人と子供の服装の色の対比が素晴らしい。

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 ↑ ルノワール「踊り子」1874年
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 ↑ ベルト・モリゾ「姉妹」1869年
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 ↑ ルノワール「アンリオ夫人」1876年

後の画像三枚は、美術館で買ってきたハガキをコピーしたもので画像が小さいが、お許しを。いずれもよく知られている作品である。
最初に掲出したパンフレットの絵はヴァン・ゴッホの自画像である。鏡に映して描いたもので、絵には写っていない耳は、この絵を描く前に自分で切り落とした。
その後に自殺するに至る時期の作品だと言われている。

秋暮れて歯冠の中に疼くもの我がなせざりし宿題ひとつ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     秋暮れて歯冠の中に疼くもの
        我がなせざりし宿題ひとつ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも入れているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌は、今からだと、もう十数年前の作品になるが、私の経て来た人生を溯ると、数々のやり残したこと、果たせなかったこと、などのもろもろが浮かんで来て、
それを「宿題」という言葉で表現したもので、作った頃から私自身の気に入った作品だった。
具象だけを詠う人には、判りにくいなどの批判も受けたが、歌というものは目につく具体だけを詠んだらいい、というものでもない。
この歌は以前から、ぜひ記事にしたいと思っていたが「秋暮れて」という季節の言葉が入っているので、今日まで時季を待っていたのである。
気がつくと、もう時雨の降る11月半ばになってしまったので、この時期を外すわけにはいかないので、今日づけで載せることにする。
この歌は「原風景」と題する章名のところに入っているもの。この歌の前後の歌を引いておく。

     寧楽(なら)山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  突き抜けるやうな青空秋ふかみ世渡り下手で六十路すぎゆく

  ねこじゃらし風の言葉にうなづきて白雲ひとつ遊ぶ秋の野

  淋しうて西へ歩けばいとほしきものの一つよ野菊咲きゐる

  老鹿がふぐりを垂れて歩みゐる寧楽山あたり秋澄みわたる

  秋暮れて歯冠の中に疼くもの我がなせざりし宿題ひとつ

  茶祭を終へ来て辿る琴坂の萩の白さよ秋も闌(た)けゆく

  私が死んでもやはり陽はのぼり地球の朝がきらきらはじまる

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私の歌だけでは芸がないので、もう立冬は済んだのだが「秋の暮れ」を詠んだ句を引いておく。

 誰彼もあらず一天自尊の秋・・・・・・・・飯田蛇笏

 彼の女今日も来て泣く堂の秋・・・・・・・・河野静雲

 鯉も老いこの寺も古り幾秋ぞ・・・・・・・・高浜年尾

 驚けば秋の鳥なる烏骨鶏・・・・・・・・加藤楸邨

 天を仰げば身の錆おつる秋なりけり・・・・・・・・高柳重信

 しとしては水足す秋のからだかな・・・・・・・・矢島渚男

 白樺や秋は風からかと思ふ・・・・・・・・高田風人子

 しみじみと共に老醜寺の秋・・・・・・・・石川風女

 星はみな女性名詞や羅馬の秋・・・・・・・・マブソン青眼

 ヴィクトリア駅より秋の終列車・・・・・・・・友田喜美子

 蛇の縞まで美しく見せて秋・・・・・・・・山下しげ人

 朝は鳥夕べはけもの啼きて秋・・・・・・・・和田耕三郎

 愉しまず晩秋黒き富士立つを・・・・・・・・山口誓子

 帰るのはそこ晩秋の大きな木・・・・・・・・坪内稔典

 残り時間気にしています晩秋です・・・・・・・・湯山珠子


小さき泉遺して神託絶えにつつデルポイの地は世界の臍ぞ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──ギリシア紀行(4)──

    小さき泉遺して神託絶えにつつ
        デルポイの地は世界の臍(へそ)ぞ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


先日来、3回に分けて書いたギリシアの記事の続編である。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、WebのHP「エーゲ海の午睡」の紀行文と一緒にご覧いただくと、よくご理解いただけよう。
「ギリシア(3)」に載せた地図を見てもらえばよく判るが、カランバカ──メテオラから南に戻る途中にデルフィの遺跡がある。
古代ギリシアでは、何か事を行なう際には、デルフィのアポロン神にお伺いをたてて、「神託」をいただいてから行動に移ったという。
だからデルフィは「世界の臍」と言われ、写真①の「臍石」というのが発掘されて「デルフィ神殿博物館」に陳列されている。
遺跡の野外には、その臍石が安置されていたという場所にはレプリカが置かれ、元の位置が示されている。

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写真②は「デルフィの聖域」と呼ばれる神殿跡である。世界遺産に指定されている。

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写真③はこの遺跡から発掘された「御者の像」という青銅製の彫刻である。
この「御者の像」は、もちろん紀元前数百年の制作になるもので、この博物館でも逸品と言われているもの。
他に神殿の「破風」とその下部に大理石に彫られた見事な彫刻の「ファサード」が展示されているが大き過ぎて写真に撮れなかった。
「博物館」に展示される遺品では、これらのものがめぼしいもので博物館としては簡素なものである。

アポロン神殿は紀元前850年に建造されたドーリス式の神殿。神託も、この神殿で行なわれた。
「ピュティア祭」というのが4年に1度開催されていた。
この大会は紀元前582年に始められ、当初は8年毎に「音楽と文芸の神アポロン」に因んで、詩、演劇、演説、音楽などのコンテストがメインに行なわれ、運動競技もあったという。
大きな競技場跡も見られる。

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写真④はアポロン神殿の遺跡に、ここにアポロン神殿のあった場所を示す石である。ギリシア語、フランス語、英語で書かれている。

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写真⑤は、デルフィの神託の書かれた宝物庫の壁の文字。

デルフィは山の中の岩山で、発掘された岩や石が散乱する、文字通りの遺跡である。
山の中のデルフィの遺跡からバスで20~30分戻ったところに小さなデルフィの集落がある。
私たちは、ここのヴーザスという崖に張り付いて建てられたホテルに泊った。
道路に面した一階がホテルの玄関で、客室はエレベータに乗って下に下ってゆく。5階ぐらいはあったと思う。
崖に張り付いているので、エレベータも客室の窓からも眺望は絶景である。ホテルの周りには土産物屋が軒を連ねている。
ここからは遥か先にギリシア本土とペロポネソス半島の間に挟まれた細長い水道──コリンティアコス湾が望める。

掲出した私の歌の「泉」について解説しておく。
この泉は「カスタリアの泉」と言い、アポロン神殿に参詣する人々も、お告げをする巫女たちも、まず、この泉で身を清めてから、聖域へと進んだという。
なお「デルフィ」というのは英語よみの発音であり、「デルポイ」というのは古代ギリシアの発音に近いということになっている。
掲出した歌の前後の私の歌をひいて終りにしたい。

    星の幾何学──MARE MEDITERRANEUM──・・・・・・・・木村草弥

  森羅いま息ひそめつつデルポイはみどりの芽吹き滴るばかり

  小さき泉遺して神託絶えにつつデルポイの地は世界の臍ぞ

  熟れたれば舗道に杏の実は落ちて乳暈(アレオラ)のごとく褐色(かちいろ)に乾く

  したたる緑、永遠の春、あくなき愛、浄福の地ぞアルカディーアは

  悦楽(ロクス・アモエヌス)の地と描かれて画布にあるそはアルカディーア場所(トポス)たり得し

  場所(トポス)はもペロポネソスに満ち満てる悦楽の言辞(トポス)に通ふと言へり

  曲線はなに狩る弓ぞキャンバスに強く張らるる弦画(か)かれゐき

  星に死のあると知る時、まして人に快楽(けらく)ののちの死、無花果(いちじく)熟す

  かの射手座海に墜ちゆく彼方にはわが銀河系の母胎あるといふ

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「デルフィまたはデルポイ」については、このWikipediaに詳しい。
なお「日刊ギリシャ檸檬の森」という実地踏破による詳しいサイトがあるので、ご覧いただきたい。


帚木蓬生『白い夏の墓標』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート・・・初出Doblog2007/11/11──

     帚木蓬生『白い夏の墓標』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
     ・・・・・・・・新潮文庫16刷・初版昭和54年・・・・・・・・・・・

先日、同じ作者の『聖灰の暗号』を採り上げたが、多くの小説が書かれているので、引き続いて読んでみたいと思い、bk1から十数冊取り寄せた。
この小説は帚木の初期の作品で昭和54年(1979年)に新潮社から発表されたが「直木賞」候補に挙げられ注目を浴びている。
サスペンスの体裁を取りながら、採り上げているテーマが、いわゆる「細菌兵器」開発にまつわるということで、今日的意義を持っている。
細菌兵器開発といえば、古くは旧関東軍731部隊が知られているが、今でもアメリカをはじめ先進国でも、ひそかに開発が進められているらしい。
この小説は、「遺伝子」操作のことにも触れているように、極めて「身近な」危険性について考えさせる。
現代科学は、一体、われわれ人類をどこに連れてゆこうとしているのか、という不安をかきたてるが、利用の仕方ひとつで救世主にも悪魔にもなり得る現代科学の両面性を、この本は気づかせてくれる。

筋書きは、肝炎ウィルス国際会議に出席すべくパリを訪れた北東大学の教授、佐伯をストーリー・テラーとして、フランスおよびピレネー山中の小国アンドールを舞台に展開してゆく。
主人公は、仙台型肺炎ウィルス、いわゆる「仙台ヴァイラス」の研究で、米軍にその能力を買われて渡米した若き細菌学徒「黒田武彦」である。彼は発表した英文の論文を米軍によって発見され、細菌兵器開発のために「仙台ヴァイラス」株と一緒に連れ去られ、ピレネー山中の小国「アンドール」にある研究所に詰め込まれる。
研究者が発見し開発した「培地」が、大学からも強引に持ち去られたのには、日本の敗戦後数年という時期が関係していて占領軍である米軍の「強権」によるものである。
米軍が目をつけたのは、黒田の開発した「細胞融合」という手法にあった。
そして黒田は、その地でいったい何を研究していたのか?その結果いかなる運命に巻き込まれたのか?彼の死をめぐる真相は?

興味津々たるそれらの謎を、作者は佐伯の目を通して一枚、一枚はぎとってゆく。パリにおける佐伯とベルナール(黒田の所属した研究所の所長だった)との邂逅、佐伯と黒田との学生時代へのフラッシュバック、次いで舞台は現代に戻り、佐伯のウスト(ピレネー山中の現地)行き、一転して「黒田の手記」という形で、謎の核心が語られてゆく。

見所は、何と言っても第4章に登場する「黒田の手記」だろう。そこでわれわれは、ウイルスに憑かれた一人の男の秘められた生い立ちを知ることになる。<ウイルスは人間よりもきれいだ>と言い切るまでに至った男の苦闘をかいまみることになる。そこで暴露される細菌兵器開発の実態は、人類に背を向けた「逆立ちした科学」の不条理を明瞭に物語っていると言える。現代科学の暗い狭間に身を置いた黒田の「煩悶」が描かれる。
『聖灰の暗号』でも「マルティの手稿」なるものが、重要なキーになっていたが、帚木は、こういう主人公の「手記」なるもののプロットという手法を得意としているようだ。

物語は後半、黒田の死をめぐる真相に焦点が絞られる。アンドールの病院における黒田とジゼル・ヴィヴの出会い、二人の恋、そして決死の脱出行、など。

帚木は東京大学文学部仏文科を出ているのでフランス語には堪能で、小説の舞台にもフランスは、先の『聖灰の暗号』同様たびたび出てくる。
この小説でもフランス南西部の、いわゆる「カタリ派」の舞台が登場し、カタリ派のことにも、さらっとだが触れられる。「モンセギュール」の山も出てくる。『聖灰の暗号』では重要な場所であるが、ほぼ30年のちに書かれる小説の素材というか、素地が、すでにこの小説に「芽生えて」いることは興味深い。
「アンドール」という国名は、「アンドラ公国」として私たちが知っている国であろうか、アンドールとは、この国のフランス語読みの発音であろう。

時代と切り結ぶ先鋭なテーマ、それを生かす緊密な「プロット」と、清冽な文体──欧米の優れたミステリーのように、プラス・アルファの面白さを備えた、知的なエンターテイメント・ノヴェルと言えるだろう。
先にも書いたが帚木は、フランス文学を専攻後にTBSに勤めたのち、九州大学医学部に入り直し、医学を修めているから医学の知識も豊富で、付け刃でない緊密性のある文体を書ける人である。今は「精神科医」として開業しているようだ。
一年に一作という節度のある執筆態度も、好ましい。 いい小説である。


わが泊る窓の向うにメテオラの奇岩の群のそそりたつ朝・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──ギリシア紀行(3)──

     わが泊る窓の向うにメテオラの
         奇岩の群のそそりたつ朝・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は先日から二回書いた私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたギリシア紀行の奇岩「メテオラ」の歌である。
WebのHP「エーゲ海の午睡」の紀行文と一緒にお読みいただくと、よく理解していただける。

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「メテオラ」と言っても関心のない人には、なじみのない地名だと思うので地図を掲げてみた。
 ↑ また「リンク」設定してあるので見られるとよい。
ギリシアの首都アテネからバスで北へ半日余り行ったところにカランバカという村がある。
そこまで行くとメテオラの奇岩が平地から、そそりたつように林立している。
その岩の頂に千年前から迫害を逃れたキリスト教徒の修道院がいくつも建っているのである。
写真①は「アギア・トリアダ修道院」である。
ギリシア正教管内では「アギア」とか「ハギア」とかの呼び方が教会の名前につくが、これは「聖なる」という意味の言葉である。
ギリシア、トルコなどのギリシア正教の地域に見られる。
イスタンブールの「アヤ・ソフィア」大聖堂の場合の「アヤ」も同じである。

先に書いたようにアテネを朝でて、バスで平地、山地、平地、山地と越えてゆくとカランバカ近郊に至ると、昼食の時間になるレストラン──もちろん田舎の粗末な食堂であるが、
そこの庭から突如としてメテオラの奇岩が眼前に屹立するのである。
行程としては、そこで期待に胸を高鳴らせながら昼食を摂り、やおら岩山の修道院見学に出立するという算段である。
平地から岩山は屹立しているのだが、裏側に廻り込むと尾根づたいに岩山の修道院に接近できるルートがあるのである。

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写真③は「メガロ・メテオロン修道院」の遠景である。「メテオロン」とは「中空の」という意味である。
写真左下に見える苦労して作られた岩道をあえぎながら登って修道院に至る、というものである。
崖の途中の塔のようなものは物資を吊り上げる滑車が設置してあるところ。
乗ってきたバスは、この岩山を望む手前の山の平たいところに駐車場があり、そこから歩く。

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写真④は岩山から見た平地のカランバカとカストラキの村の遠望である。
上からの俯瞰であるが、これらの岩山を平地から振り仰いだとすると、まさに奇岩の屹立という感じがするのである。
昔は修道院も、もっと数も多かったが、いまでは過酷な修行をする人も少なくなり、6カ所ほどに修道士あるいは修道女がいるに過ぎない。
詳しくは私のWeb上の紀行文「エーゲ海の午睡」をお読み願いたい。
「アギオス・ステファノス女子修道院」を見学したが、ここは元は男子修道院だったが最近(1950年)になって女子修道院として再開された。
以下に私の当該個所の歌を引いておくが、修道院の中は撮影禁止であり、したがって写真はないので、私の歌から推測していただきたい。

    メテオラ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  名を知らぬ村の教会の鐘の音が朝の七時を告げて鳴りいづ

  わが泊る窓の向うにメテオラの奇岩の群のそそりたつ朝

  峨々と立つ岩山にして奇景なり信を守りて一千年経ぬ

  中空の意なるメテオロン修道院すなはち岩は中空に架かる

  披かれて置かるる本は古(いにしへ)の朱の書き込みの見ゆる楽譜ぞ

  美貌なる修道女にてイコン売る黒き衣にうつしみ包みて

  携帯用イコンなる聖画ゑがけるは聖母とわらべ金泥の中

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補足的に書いておくと、
岩山の何カ所かの修道院の見学を終えて平地に下り、宿泊地のカランバカに帰り着き、夕食を摂ってしまうと、田舎のこととて、外は真っ暗である。
そのまま寝てしまい、翌朝、自室の窓を開けたら、眼前にメテオラの奇岩が屹立しており、ワッという感動のうちに作ったのが、掲出した歌、だということになる。
なお、これらの修道院は、もちろんギリシア正教徒のものであるから、ご存じのように「イコン」を制作して見学者に売る。
圧倒的に多いのが、私の歌にもある聖母マリアと幼子キリスト、という構図である。
女子修道院というのは2カ所だけである。




茶畑はしづかに白花昏れゆきていづくゆ鵙の一声鋭し・・・・・・・・・木村草弥
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──初出・Doblog2008/11/24を再編集──

  茶畑はしづかに白花昏れゆきて
   いづくゆ鵙の一声鋭し・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


昨日、十一月八日は二十四節季では「立冬」であった。
暦の上では、この日から「冬」ということになる。

今が茶の花の咲き始めるシーズンである。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の巻頭を飾る歌である。
WebのHPでも載せているのでご覧いただける。

私は半生を「茶」と共に過ごしてきたので、これに対する思いいれは尋常なものではない。
だから、第一歌集の名を「茶の四季」とした所以である。
茶の樹はツバキ科としてサザンカなどと同じ種類の木である。晩秋から初冬にかけて花をつける。
お茶の花は主に茶樹の下の方に咲く。茶の株の上部に花が咲くようだと、その茶園はあまり管理が良いとは言えない。
植物の花や実がつく状態とは葉や茎があまり育たない状態である。
お茶は「葉」を収穫する作物だから、花や実は、むしろ好ましくない。一般に「剪定」をすると花つきは良くない。

写真②の茶樹は、まだ幼木で仕立て中なので花が多くついている。
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茶の木はツバキ科の常緑低木で、原産地は中国南部の雲南省辺りと言われている。
今でも雲南省の奥地の西双版納(シーサンパンナ)に母木という巨木の茶の木があるという。
私は雲南省の昆明までは行ったことがあるが、奥地には行かなかったので、まだ見ていない。

茶の花は秋から初冬にかけて新梢の葉腋につく。白く五弁の香りの高い花で、花の中心に黄色の雄蕊がある。
受粉した雌蕊は果となり、一年がかりで翌年の秋に丸い種を包んだ実になるのである。
茶の木は古来、関東から九州にいたる山地に自生する山茶の木があったらしいが、葉を採って「茶」にして飲用することを知らなかったらしい。
中国の宋から茶の種と製法を持ち帰ったのは「栄西禅師」であると言われている。

私の歌集の巻頭の歌につづいて

  たはやすく茶の花咲くにあらざらめ酷暑凌ぎて金色の蘂(しべ)

というのがあるが、この金色の蘂が、とても印象的な花である。

  茶の花のわづかに黄なる夕べかな・・・・・・・・与謝蕪村

の句の描くところも、同じ風雅を伝えるものである。

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写真③は茶の実である。これは昨年の初冬に花が咲いて、一年かけて実になったもので植物の中でも息の長いものである。
この実を来春に蒔けば発芽して茶の木になる。
こういうのを「実生」(みしょう)というが、他の茶樹の花粉と交雑して雑種になるので、栽培的には「挿し木」で幼木を育てるのが一般的である。
今はやりの言葉で言えば「クローン」である。
写真の実の形からすると、実は4個入っている。この実の形が三角形なら実は3個ということになる。
初冬になると、外皮が割れて、中の実が地面に落ちる。
物を作るというのは生産的で、収穫の時期など心が浮き立つものである。
掲出した歌のつづきに以下のような歌がつづいているので引いてみる。

    茶の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  茶畑はしづかに白花昏(く)れゆきていづくゆ鵙の一声鋭し

  酷暑とて茶園に灌(そそ)ぎやる水を飲み干すごとく土は吸ひゆく

  たはやすく茶の花咲くにあらざらめ酷暑凌ぎて金色の蘂(しべ)

  ひととせの寒暖雨晴の巡り経て茶の実(さね)熟す白露の季に

  白露してみどりの萼(がく)に包まるる茶の樹の蕾いまだ固しも

  川霧の盛りあがり来てしとどにぞ茶の樹の葉末濡れそぼちゆく

  初霜を置きたる茶の樹に朝日さす葉蔭に白き花ひかりつつ


先にも書いたように私の半生をかけた「茶」のことでもあり、また第一歌集でもあるので「茶」についての歌は非常に多い。
また季節に合わせて私の「茶」にまつわる歌を採り上げたい。
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この記事をご覧になったbittercup氏から、地図の「植生記号」の「茶畑」の記号は、茶の実を横切りにしたものから採られた、とご教示いただいた。
詳しくは、「植生記号」を参照されたい。
この記号は、茶の実3個が入っているものから採られたらしいが、茶の実は一個だけのもの、二個、三個など、何でもありだが、五個というのは余り見かけないが、あるかも知れない。
記号に採られるということから3個の実が多いと言えるかも知れない。
こういう地図記号は、私も何度か目にしていると思うが、茶畑のものとして、しげしげと眺めたことがないので、忘れていたものである。ご教示に感謝したい。

茶の花を詠んだ句も古来多いが、明治以後の句を少し引いておく。

 茶の花に温かき日のしまひかな・・・・・・・・高浜虚子

 茶の花におのれ生れし日なりけり・・・・・・・・久保田万太郎

 こもり居や茶がひらきける金の蘂・・・・・・・・水原秋桜子

 茶の花のとぼしきままに愛でにけり・・・・・・・・松本たかし

 はるかなこゑ「茶の花がもう咲いてます」・・・・・・・・加藤楸邨

 茶の花やアトリエ占むる一家族・・・・・・・・石田波郷

 茶の花のほとりのいつも師の一語・・・・・・・・石田波郷

 お茶の花類句の如く咲きにけり・・・・・・・・佐野青陽人

 茶の花やさみしくなれば出てありく・・・・・・・・鈴木守箭

 茶の花をときに伏眼の香と思ふ・・・・・・・・飯田龍太

 茶が咲いて肩のほとりの日暮かな・・・・・・・・草間時彦

 茶の花を心に灯し帰郷せり・・・・・・・・村越化石

 お茶の花しあわせすぎてさみしくて・・・・・・・・北さとり

 茶の花や母の形見を着ず捨てず・・・・・・・・大石悦子

 茶が咲いて三年味噌の目覚めけり・・・・・・・・立川華子

 蕊含み切れず茶の花開きけり・・・・・・・・榑沼清子



小出裕章『原発のウソ』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     小出裕章『原発のウソ』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・・扶桑社新書2011/06刊・・・・・・・・・・・

この本は新刊ではなく、もう六月に出ている本であるが、今この人の言うことが一番信頼できると思うので採り上げた。
先ず、この人がどういう人か、下記のWikipediaの記事を見てもらいたい。ただし便宜上「原発や原発事故」に関するものに限って取捨した。
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小出裕章(こいで ひろあき、1949年8月- )は日本の科学者(原子力工学)。京都大学原子炉実験所助教 兼 京都大学大学院工学研究科都市環境工学専攻助教。研究分野は原子核物理学、原子力学、環境動態解析、原子力安全、放射性物質の環境動態。所属学会は日本保健物理学会、エントロピー学会。東京都台東区上野出身。熊取六人衆の1人。工学修士。

概略
東京出身。開成高等学校を経て、1972年に東北大学工学部原子核工学科卒業。1974年、東北大学大学院工学研究科修士課程修了(原子核工学)。1974年、文部教官に採用され、任京都大学原子炉実験所。

開成高校時代には「地質部」で、野外で岩石や地層を追い求めながら自然に親しんだ。大学入学時は「これからは石油・石炭でなく原子力の時代」と考え原子力工学を志したが、現代の原子力工学における放射線被害の実態を知ったことで、所属機関の趣旨と逆の、原子力発電に反対するスタンスをとるようになったとしている。以後現在まで一貫して「原子力をやめることに役に立つ研究」を行なっている。

人形峠における内部被曝の問題
原子燃料公社による鳥取県と岡山県の県境にある人形峠のウラン鉱床の開発に伴い、周辺民家近くに放置されたウラン残土による健康被害が問題となり、1963年に閉山後に癌の発症や体調を崩す人が続出し、公社を引き継いだ旧動燃に全面撤回を求める住民や市民団体の運動の支援に加わり、調査によって土壌、湧き水、稲などから放射性物質のラドンが検出された。

動燃側は坑内労働者の被曝量の推定値を公表したが、1958年11月以前はラドン濃度のデータがないため、被曝線量の評価はそれ以降のデータに基づいたとしており、さらに、坑内労働者の半数未満しか被曝線量を測るためのフィルムバッジが着用されていないなど、内部被曝の把握を不十分なままにして、被曝実態の過小評価に繋がる点がいくつかあったことを指摘している。残土の撤去を訴えた裁判では住民側の証人として意見書の提出を行った。

東京電力福島第一原子力発電所事故
東京電力福島第一原子力発電所事故‎を受けて、初期の段階で格納容器が破壊されている可能性について指摘し、警戒を行っている。放射能汚染に対する政府の対策に対して、「原発事故と今後を憂うるサイエンティスト有志」に加わり、原子力工学の専門家として内部被曝の問題を提起し、とくに幼児や妊婦などの置かれた状況を改善するよう提言を行なっており、2011年5月23日、参議院行政監視委員会の参考人として、政府のこれまでの原子力政策についての意見を開陳した。

福島第一原発の事故後も、政府・電力会社・経済界などから、定期検査などで止まっている各地の原発の安全性を確認した上で原発を再稼働しようという声が高まったことについて、著書「原発はいらない」のあとがきの中で、「安全な原発などはなく、安全性を確認できるようなことは金輪際ない」と述べている。また、政府・電力会社・経済界などが原発再稼働に向かおうとする理由を大きく四つ挙げている。「①独占企業である電力会社は、原発を作れば作るほど、稼働すればするほど儲かる仕組みになっている。」「②原子炉の製造を三菱重工、東芝、日立などの大企業が担い、そのまわりに「原子力村」の住人である政治家、官僚、地方自治体、関連企業が群れ集まり、原子力利権を分け合う構造を手放すことができない。」「③「原子力開発=核兵器開発」であり、日本の政府は一貫して核兵器をいつでも製造できる態勢を維持することに努めてきた。その国策を、「たかが原発事故」くらいで変更はできないと思っている。」「④悲しい事態だが、原発交付金、補助金などによって財政の首根っこを押さえられている地方自治体は、雇用の問題もあり再稼働を容認せざるを得ない。」と述べている。

エピソード
東北大学在学中、当時女川町に建設予定だった原子力発電所に対し地元住民が反対する現状を知る。このとき、彼らが主張する「(原発が)安全ならば、なぜ仙台市に建設しないのか」という問いに対する答えを見出さなければならないと考え、答えを導き出す。その答えとは、「(原子力とは)都会では引き受けられないリスクを持っている。したがって、電力消費地に近い都会では建設が困難なため、こうしたリスクを過疎の街に押し付けようとしている」というものであった。この答えに到達して以降、自らの原子力に対する考えと人生についての選択肢を180度転換させる。「この事実はとても認めることはできない、止めさせよう、これからは原子力を止めさせる方向へ自らの力を注いでいこうと決心した」
現在所属する京都大学原子炉実験所には反原発の研究者も共存していることについて「ここは基礎的な学問を研究する場であり、東大とは違った、京大の学風や気質である」と述べている。
福島原発に関して内閣官房参与を辞任した小佐古敏荘は、立場のまるで異なる論争相手であった。小佐古の内閣参与辞任について朝日ニュースターの番組でコメントを求められ、「なぜそうしたのか、いまだに理解できないのですが」と前置きしつつ、今回の行動については支持するとした。
「人が人を差別することは許せない」とし、社会に存在する差別の問題に対して否定的な立場をとっている。

福島原発事故以降、自著「原発のウソ」が売れている事に関し、みのもんたの朝ズバッ!のインタビューで「うれしくないです。売れているということは、原発の事故が起きてしまったから」と答えている。

著書
単著
『放射能汚染の現実を超えて』(1992年1月、北斗出版)ISBN 4-938427-57-5
『隠される原子力・核の真実 原子力の専門家が原発に反対するわけ』(2010年12月、発行:創史社 発売:八月書館)ISBN 978-4-915970-36-8
『放射能汚染の現実を超えて』(2011年5月、河出書房新社)ISBN 4309245528
『原発のウソ』(2011年6月、扶桑社新書)ISBN 4594064205
『原発はいらない』(2011年7月、幻冬舎ルネッサンス)ISBN 4779060486

共著
『原発の安全上欠陥』(1979年、第三書館)共著:小林圭二、久米三四郎、今中哲二ほか
『人形峠ウラン公害ドキュメント』(1995年4月、北斗出版)共著:榎本益美 ISBN 493842780X
『原発事故…その時、あなたは!』(1995年6月、風媒社)共著:瀬尾健 ISBN 4833110385
『原子力と共存できるか』(1997年11月、かもがわ出版)共著:足立明 ISBN 4-87699-339-4
『人形峠ウラン鉱害裁判』(2001年1月、批評社)共著:土井淑平 ISBN 4-8265-03211
『知ればなっとく脱原発』(2002年、七つ森書館)共著:高木仁三郎、西尾漠、久米三四郎ほか ISBN 4822802515
『imidas特別編集 完全版 放射能 地震 津波 正しく怖がる100知識』(2011年7月、集英社)監修:河田恵昭, 小出裕章, 坂本廣子 ISBN 4087814807
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長い引用になったが、原発の放射能の危険についての政府の報道や対応ぶり──マスコミの報道ぶりも「危険に関する真実」を正確に伝えるというものではなく、
なしくずし的に、小出しにという対応で、私は大不満である。
福島原発周辺の放射能の危険性についても、いつか時期が来れば「戻れる」かのごとき対応が取られているのは危ない。
この本で小出氏は「恐れずに現実を直視すれば、将来にわたって無人地帯とせざるをえない状況です。
大変言いにくいことですが、おそらく周辺住民の皆さんは元に戻れないでしょう」
と言っている。
なぜ政府や日本のマスコミは、このことを率直に国民に周知しようと努力しないのか。その神経を疑う。

この本を読んだ読者の「レビュー」の一部を下記に引いておく。
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恥ずかしながら、私はだまされていました 2011/6/3 By 0401(^^) ──Amazonより。
私は恥ずかしながら、小出裕章氏に出会うまで、電力会社のプロパガンダに長年だまされ続けていました。

原子力はクリーンなエネルギーだ。電気代も安い。世界は原子力が主流だ。
原油や石炭といった化石燃料は枯渇する。そして原発は安全だ。

電力会社をスポンサーとする、新聞、テレビは、長年それを垂れ流し続けました。

しかし、それは全てウソ、いや大ウソです。本書はそのウソを徹底的に暴きます。

いまだにテレビでは、原発避難民は明日でも帰れるかのように報道しています。

しかし小出氏は、はっきりとこう述べます。
「恐れずに現実を直視すれば、将来にわたって無人地帯とせざるをえない状況です。大変言いにくいことですが、
おそらく周辺住民の皆さんは元に戻れないでしょう」

さらに新聞では、原発を廃止すると電気料金が高騰すると私たちを脅します。

小出氏はこれに対してこう内情を暴露します。
「電力会社は原発を造れば造るほど電力料金を値上げできるシステムになっている。電力会社は「レートベース」
に「報酬率」という一定のパーセントを掛けて利潤を「決める」のです(略) 原発は建設費が膨大で、1基造ると
5000億円、6000億円。核燃料も備蓄できるし、研究開発などの「特定投資」も巨額です。それら全てが「資産」と
なって、利潤を決める際のベースをつり上げてくれます。とにかく巨費を投じれば投じるほど電力会社が儲かるシ
ステムです。」

それが私たちの電気料金に上乗せされ、日本の電気料金は世界一高くなってしまったとは、もう滅茶苦茶です。

本書には、電力会社、政財界、そしてマスコミにとって、即発禁にしたい内容が隠さずに堂々と書いてあります。

もう私たちは、だまさてはいけない。

そんな強い意志を感じる良書です。
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今回の震災・津波の当初から私の言い続けてきたことであるが、遅まきながら、ここに再び警告を繰り返す意味で敢えて採り上げた。ご了承されたい。

かなしめば鵙金色の日を負ひ来・・・・・・・・・・・加藤楸邨
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  かなしめば鵙(もず)金色の日を負ひ来(く)・・・・・・・・・・・加藤楸邨

モズは百舌とも書かれ、「留鳥」と言われるが晩秋から冬季以外に人の耳目にかかることは少ない、と思われる。
モズの存在に気づくのは木の先端などに止まって、ききききき、とけたたましく啼く冬季の「高鳴き」であろうか。これはモズの縄張り宣言だと言われている。写真①はモズの雄。

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写真②はモズの雌。
モズの学名はLanius bucephalus というが、雄は嘴から目を通る過眼線が黒く、嘴はカギ状で翼に白斑があり、雌は過眼線は茶色く、腹部に波模様がある。
中国東北部、朝鮮半島周辺部に分布し、日本でも北海道から九州まで広く分布して繁殖するという。
「留鳥」だが、楸邨の句のように俳句では「秋」の季語になっているように人の耳目に触れるのは「高鳴き」をする冬季になってからである。
昆虫、カエル、大型の虫など何でも食べるが、スズメを襲って食べることもあるという。
捕らえた獲物を小枝などに刺しておくことがあり「モズのはやにえ(早贄)」と呼ばれる。
写真③は、その一例でトカゲの串刺しである。
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モズは冬季になると一羽づつ縄張りを持つようになり、ききききき、あるいはギチギチギチギチギチ、と鳴くのは「警戒音」だと言われている。
他の鳥の鳴き真似をするのがうまいというので「百舌」と呼ばれる所以である。
2月中旬頃に雄の縄張りに雌が訪れて、雌の一方的選択で一夫一妻が成立する。
と見られてきたが、DNA指紋法によって「婚外交尾」があることが明らかにされた、という。
巣作り、子育ては夫婦で一緒にやる。
求愛ダンスの最中の囀りに、雄はウグイス、ヒバリ、ホオジロなどの他の鳥の鳴き真似を入れるらしい。
求愛給餌は、番いの成立から、巣立ちに至るすべての時期に見られるという。
私も長年、田園地帯に住んでいるが、モズの地鳴きがどんなものか、いまだによく判らない。
モズを詠んだ句を引いて終りたい。

 我が心今決しけり鵙高音・・・・・・・・高浜虚子

 われありと思ふ鵙啼き過ぐるたび・・・・・・・・山口誓子

 たばしるや鵙迸る野分かな・・・・・・・・石田波郷

 逢はざるを忘ぜしとせむ雨の鵙・・・・・・・・安住敦

 鵙鳴けり日は昏るるよりほかなきか・・・・・・・・片山桃史

 夕百舌やかがやくルオー観て来たり・・・・・・・・小池文子

 鵙高音死ぬまでをみな足袋を継ぐ・・・・・・・・渡辺桂子

 鵙鳴いて少年の日の空がある・・・・・・・・菊地麻風

 鵙の贄叫喚の口開きしまま・・・・・・・・佐野青陽人

 青年を呼びつつありき鵙の贄・・・・・・・・永田耕衣

 鵙の贄閉ぢし田小屋の戸の釘に・・・・・・・・太田嗟

 てつぺんはかわくかわくと鵙の贄・・・・・・・・小桧山繁子

 まだ乾びちぢむ余地あり鵙の贄・・・・・・・・寺島ただし

 鵙の贄思ひ出さねば過去は無し・・・・・・・・岡崎るり子

 いま沈む日輪を刺し鵙の贄・・・・・・・・星野衣子


驢馬の背に横座りしてゆく老婦大き乳房の山羊を牽きつつ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──ギリシア紀行(2)──

  驢馬の背に横座りしてゆく老婦
   大き乳房の山羊を牽きつつ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


昨日付けで載せたものの続きである。
繰り返しておくと私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に「エーゲ海」の一連15首として載せたものである。
この旅は2002年6/26から7/7に行ったものである。
私のWebのHP「エーゲ海の午睡」に詳しい。
この歌の前後の歌を引いておく。

  鄙びたる小さき教会と風車一基丘の高みの碧空に立つ

  どの家も真白にペンキ塗りあげて窓枠は青エーギアン・ブルー

  歩く我に気づきて「やあ」といふごとく片手を挙ぐる戸口の老は

  戸口の椅子二つに坐る老夫婦その顔の皺が語る年輪

  愛よ恋よといふ齢こえて枯淡の境地青い戸口の椅子に坐る二人


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掲出した写真二枚について、何も説明を要しないだろう。先に写真があって、それを見ながら、これらの歌が出来たということである。
この歌の場面は、ミコノス島で私ひとりで島の坂道を散歩したものである。

↓ その他のミコノス島の風景写真を出しておく。
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ミコノス島は、町の反対側が「ヌーディスト」の浜パラダイスビーチとしてヨーロッパに有名で、各国から裸を見せびらかしたい連中が、やって来る。
ただし、この写真は私の撮ったものではない。 ↓
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次の歌は2首だけだが、それを描いた歌である。

  ミコノスの浜べはヌーディスト陽を浴びる美女の乳房の白い双丘

  男も女も一糸まとはずとりどりの恥毛光らせ浜辺を歩く


残りのギリシア各地の歌と写真は、また折をみて載せたい。
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「ミコノス島」については、このWikipediaの記事を参照されたい。まだ書きかけの段階だが。。。


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