K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(12月)月次掲示板
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今回の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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本年も十二月、最終となりました。
泣いても笑っても「師走」の到来です。
 葦べ行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・・志貴皇子
 ゆく秋のわが身せつなく儚くて樹に登りゆさゆさ紅葉散らす・・・・・・・・・・・・・・・前川佐美雄
 奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり・・・・・・・・・・葛原妙子
 たましいの伸縮しつつ白鳥は前世の姿見せて飛びゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉井清弘
 からみつくことばの奥の俗のひとほむらだちゐるひとすぢの青・・・・・・・・・・・・・・・三井ゆき
 目つむればへんろ路が見ゆ目ひらけばへんろ路ゆきし母もはるけし・・・・・・・・・・高野公彦
 おのづから学芸はあれ念ずれど老いてあらそふ皆ほほゑみて・・・・・・・・・・・・・・・坂井修一
 年々の花よりまぼろし歳々を生死のことにほうとしわれは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・成瀬有
 ぬば玉のまよのまんなかともされて繭のやうなるこころ繕ふ・・・・・・・・・・・・・・・馬場あき子
 羽衣を取られたをんなとして暮らす記憶かへらむ今朝霜の花・・・・・・・・・・・・・・米川千嘉子
 大つごもりというひびきよしそりゃーまー柳家権太楼言訳座頭・・・・・・・・・・・・・佐佐木幸綱
 亡き母を知る人来たり十二月・・・・・・・・・・・・長谷川かな女
 落ちてゐるからたちの実や十二月・・・・・・・・・・吉岡禅寺洞
 武蔵野は青空がよし十二月・・・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子
 わが生死食思にかかる十二月・・・・・・・・・・・・・・・相馬遷子
 御岳に雲の荒ぶる 十二月・・・・・・・・・・・・・ ・・伊丹三樹彦
 ぼんやりと枕を抱いて十二月・・・・・・・・・・・・・・今井杏太郎
 火をはらみ雑木林の十二月・・・・・・・・・・・・・・・・・坪内稔典
 極月の三日月寒し葱畑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大谷句仏
 ソムリエの金のカフスや師走の夜・・・・・・・・・・・深田やすお
 自転車よりもの転げ落ち師走かな・・・・・・・・D・J・リンズィー
 関所めく募金の立ちし街師走・・・・・・・・・・・・・・・・杉村凡栽
 山眠る等高線を緩めつつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・広渡敬雄
 しぐるるや電車停りて何も言わず・・・・・・・・・・・・・菊地麻美
 風邪ひきのくちびるのいろ野蛮なり・・・・・・・・・・・・山下彩乃
 寝過ごして積木の惨につきあたる・・・・・・・・・・・林田紀音夫
 初霜や独といふ字にけもの偏・・・・・・・・・・・・・・・・・・四 童
 濾過紙をくぐり抜けたんだから意でしょう・・・・・・原田否可立
 鍋一つ遺書のかたちに置くときも・・・・・・・・・・・・村井見也子
 スナックに煮凝りのあるママの過去・・・・・・・・・・・・小沢昭一
 冬銀河青春容赦なく流れ・・・・・・・・・・・・・・・・・・上田五千石
 すれちがふ少女寒気のつぶてめく・・・・・・・・・・・・・・・今井豊
 炬燵にて帽子あれこれ被りみる・・・・・・・・・・・・・波多野爽波
 冬帽子とれば絶壁名にし負ふ・・・・・・・・・・・・・・・・中原道夫
 三島忌の帽子の中のうどんかな・・・・・・・・・・・・・・摂津幸彦
 医者の手の冷たさ胸をさぐられる・・・・・・・・・・・・・岩井三窓
 実のあるカツサンドなり冬の雲・・・・・・・・・・・・・・・小川軽舟
 ご意見はともかく灰が落ちますよ・・・・・・・・・・・・・野里猪突
 寒の耳ひとつひとつが右の耳・・・・・・・・・・・・・・中村光三郎
 ダミア虚し明日も素足南無阿弥陀(回文)・・・・・・・井口吾郎
 電熱器にこつと笑ふやうにつき・・・・・・・・・・・・・・・椙元紋太
 夜の果の旅の記憶や干布団・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

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 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
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木村草弥─Wikipedia

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枯野起伏明日と云ふ語のかなしさよ・・・・・・・・・・・加藤楸邨
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    枯野起伏明日と云ふ語のかなしさよ・・・・・・・・・・・加藤楸邨

「枯野」とは、草木の枯れた、蕭条とした野っぱらのことだが、場所や配合などによっては、さまざまな趣のものとなる。
何となく、わびしい枯野の起伏を見ながら、楸邨は、ふと「明日」という言葉の持つ「かなしさ」を感じたのである。
「かなしさ」というのが、漢字でなく、ひらがなで書かれているところに句のふくらみがあるのである。
つまり、「いとしい」の意味の「かなしさ」であり、「悲しさ」と同義ではないのである。
それが「自然」と「人事」との配合ということである。
同じ楸邨の句に

   わが垂るるふぐりに枯野重畳す

というのがある。
ふぐり(睾丸)というのは、青年、壮年の時期には、キリリと股の肌に張り付いているもので、だらりと垂れるという感じはしないが、老年期になると、だらりと垂れる感じになる。
楸邨は、そういう自分の身体的な衰えと枯野が重畳と連なる様を「配合」して一句に仕立て上げたのである。

   旅に病んで夢は枯野をかけ廻る・・・・・・・・松尾芭蕉

という「辞世」の句があるが、この句こそが枯野のイメージそのものだと言われている。
いかにも一生を「漂泊」にかけた芭蕉ならではの句である。
この句などは「巨人」の句という感じで、われわれ下々の者が、あれこれ言うのは気が咎めるものである。
いずれにしろ、枯野のイメージというものは冬の季節とともに、日本人の精神性に大きな翳(かげ)を落としてきたと言えるだろう。

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以下、枯野を詠んだ句を引く。

 戸口までづいと枯れ込む野原かな・・・・・・・・小林一茶

 旅人の蜜柑くひ行く枯野かな・・・・・・・・正岡子規

 遠山に日の当りたる枯野かな・・・・・・・・高浜虚子

 吾が影の吹かれて長き枯野かな・・・・・・・・夏目漱石

 枯野はも縁の下までつづきをり・・・・・・・・久保田万太郎

 掌に枯野の低き日を愛づる・・・・・・・・山口誓子

 土堤を外れ枯野の犬となりゆけり・・・・・・・・山口誓子

 赤きもの甘きもの恋ひ枯野行く・・・・・・・・中村草田男

 また雨の枯野の音となりしかな・・・・・・・・安住敦

 大いなる枯野に堪へて画家ゐたり・・・・・・・・大野林火

 つひに吾も枯野の遠き樹となるか・・・・・・・・野見山朱鳥

 枯野ゆく人みなうしろ姿なり・・・・・・・・石井几与子

 いつ尽きし町ぞ枯野にふりかへり・・・・・・・・木下夕爾

 枯野行き橋渡りまた枯野行く・・・・・・・・富安風生
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もうすぐ、「年が改まる」。
楸邨の句ではないが、「明日」という言葉に込められた、さまざまな「かなしさ」=愛しさ、いとしさ、哀しさ、を噛みしめて来年を迎えたい。
特に、今年は東日本大震災・大津波が襲来し、おまけに東電福島原発が爆発事故を起こし、多大の大被害を与えた。
その事後処理も遅々として進まないが、来年は良い方に向かって歩みが前進することを祈りたい。

この私のブログは毎月最終の日付は「月次掲示板」としているので、これ以外の記事を書くことはない。
更新する日付としては、今日が終わりということになる。
「喪中」方もいらっしゃるが、無事ご越年なさるようお祈りしたい。 では来年、また。


しんしんと雪ふりし夜にその指のあな冷たよと言ひて寄りしか・・・・・・・・・・・・斎藤茂吉
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──冬の愛欲5態──

  ■しんしんと雪ふりし夜にその指の
   あな冷(つめ)たよと言ひて寄りしか・・・・・・・・・・・・斎藤茂吉


斎藤茂吉の妻は輝子というが、輝子は斎藤精神病院の跡取り娘で、茂吉は養子である。
北杜夫などの子供をもうけているが、輝子の恋愛事件などがあって一時別居生活などをしていた。
これらのことは「アララギ」の弟子たちの伝記などで詳しく伝えられている。
この歌がいつ頃のものかなども同定されているが、いま私の手元にはないので詳しくは書けない。
今の時代となっては女性からの反発もあるが、昔は遊郭なども公認であるから「女買い」は男性の常識であって、男どもは独り身の場合は、
そういうところで性の発散をしていたのである。
赤線廃止は昭和20何年かのことである。
茂吉が、そんな赤線地帯に入り浸っていたのも実証されていることで、茂吉は日記を克明に付けることでも有名で、彼自身の手でもいろいろ書かれているらしい。

この歌の対象が誰であるかの詮索は別にして「ああ、冷たい指をしているね」なんとか言いながら、女の指を暖め、愛撫しながら、愛欲の渦に入ってゆく、という情景が、
よく詠まれている。

  ■火を産まんためいましがた触れあえる
    雌雄にて雪のなか遠ざかる・・・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆


この歌の作者・岡井隆は、ひところ前衛歌人の一翼を塚本邦雄と共に担った人である。
が、私生活では度々離婚騒動を起こしている人で、最近では、数年前に妻子と別れて自分の年齢とは半分も年下の30代なかばの画家の人と結婚したことで有名である。
この歌は若い頃の歌集『土地よ、痛みを負え』(昭和36年刊)に載るものである。
いきなり読んで誰の心にもすんなり入ってくる、という歌ではない。
二人の性的接触が精神的側面と不可分のものとして捉えられているため、歌の中で「比喩」の占める比重が、ひときわ大きくなっているからである。
「火を産まんため」とは、まさに激しい性の焔を意味すると同時に、精神的な意味での、ある創造的な焔をも意味しているだろう。
しかも作者は肉体的・官能的側面に、むしろ固執しており、そこから「雌雄」という語も出てくる。
内から突き上げる官能の衝動への賛美の念が根底にあるのだ。

  ■目瞑(つむ)りてひたぶるにありきほひつつ
   憑(たの)みし汝(なれ)はすでに人の妻・・・・・・・・・・・・宮柊二


この人も北原白秋門下にあって、のち白秋亡きあと独立して短歌結社「コスモス」を興して大きな組織に育てあげた人である。
この歌も若い頃のことを詠ったものである。はじめの恋人との交流を詠っている。
その君は、今や他人の妻となってしまった、という歌である。
「ひたぶるにあり」「きほひつつ」というくだりに、若い恋人どうしのひたむきな愛欲が詠まれている。

  ■夢のなかといへども髪をふりみだし
   人を追ひゐきながく忘れず・・・・・・・・・・・・・・・大西民子


この歌も有名な歌であり、彼女の場合は、夫が彼女を捨てて他の女に走った。
彼女は彼のことが忘れられず、数々の歌を詠っているが、この歌は、その中のひとつ。
彼女は奈良女子高等師範の出身で、卒業後東京近郊で教師をしていた。
木俣修門下の重鎮として大きな結社を支えていた。
木俣修も北原白秋門下であった。白秋亡きあと結社「形成」を主宰していた。

  ■わがためにひたぶるなりし女ありき
    髪うつくしく夜にはみだれき・・・・・・・・・・・・・・岡野弘彦


この人も現代歌壇を担っているひとりである。国学院大学で釈迢空(折口信夫)の門下として晩年の彼に身近に仕えた人である。
この人には、こういう女人のことを詠った歌が多い。齢80を超えた歳になっても、若い乙女との愛欲にまつわる幻影的な歌を作っている。
「夜にはみだれき」というくだりなどは、かなり際どい表現と言えるだろう。

ここに挙げた人たちは、現代歌人として著名な人たちであるが、文人らしく、赤裸々とも思える表現で「愛欲」を詠んでいる。
これこそ文学の徒として必須の態度であろう。


夜の書庫にユトリロ返す雪明り・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦
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     夜の書庫にユトリロ返す雪明り・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦

モーリス・ユトリロMaurice Utrilloは1883年12月26日にパリのモンマルトルに生まれた。母はスザーヌ・ヴァラドン、父のボァシヨーはアル中患者で、モーリスを認知しなかった。
1891年、スペインの美術評論家ミゲル・ユトリロの養子となった。
その後、母の住んでいたモンマニーで学校教育を受け、ロラン・カレッジに学んだ。
17、8歳の頃から飲酒癖が始まり、1901年にはアル中症状を起こして医療を受けた。
母は、その治療目的で彼に絵を描くことを教えた。初めは母の画風の影響を受け、その後ピサロのあとを追って印象画派に入った。
1907年に彼のいわゆる「白の時代」が始まることになる。
サロン・ドートンヌに出品したのは1909年が最初である。
年譜を見ると、その後、アル中毒症状で精神に錯乱をきたしたりして、精神病院に入れられたりして、その都度、母ヴァラドンは苦労したらしい。
51歳のとき、リュシーという年上の裕福な未亡人と結婚したが、これも母の肝いりであるが、ユトリロは年上の妻を母のように慕い、酒に溺れることもなく、ひたすら絵を描いて、しかも絵は高い値で売れたので、心身ともに安定した。
レジオン・ドヌール勲章という最高の栄誉まで貰って1955年に亡くなったが、72歳という若い頃や中年のアル中の時期には考えられないような歳まで生きたのだった。
ユトリロの絵は、今でも結構人気があるらしい。

私はユトリロには詳しくないので、掲出した絵がどこの風景なのか判らないが、見えているのは、モンマルトルの「サクレクール」寺院ではなかろうか。とすれば、モンマルトル風景ということになる。
安住敦の句は、おそらく「ユトリロ画集」かなんかだろう、見ていた画集を書庫に仕舞いにゆく景だろう。
明治以後の「雪」を詠んだ句を引いて終わりたい。

 舞ふ雪や一痕の星残しつつ・・・・・・・・藤森成吉

 降る雪や玉のごとくにランプ拭く・・・・・・・・飯田蛇笏

 外套の裏は緋なりき明治の雪・・・・・・・・山口青邨

 雪に来て美事な鳥のだまりゐる・・・・・・・・原石鼎

 落葉松はいつめざめても雪降りをり・・・・・・・・加藤楸邨

 みづからを問ひつめゐしが牡丹雪・・・・・・・・上田五千石

 馬の眼に遠き馬ゐて雪降れり・・・・・・・・中条明

 雪の水車ごつとんことりもう止むか・・・・・・・・大野林火

 牡丹雪その夜の妻のにほふかな・・・・・・・・石田波郷

 病む夫にはげしき雪を見せんとす・・・・・・・・山口波津女

 深雪に入る犬の垂れ乳紅きかな・・・・・・・・原子公平

 狂へるは世かはたわれか雪無限・・・・・・・・目迫秩父

 雪あかり胸にわきくるロシヤ文字・・・・・・・・古沢太穂

 雪国に子を生んでこの深まなざし・・・・・・・・森澄雄

 雪明りゆらりとむかし近づきぬ・・・・・・・・堤白雨

 雪片と耶蘇名ルカとを身に着けし・・・・・・・・平畑静塔


雪の日の浴身一指一趾愛し・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
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──冬の浴女三題──

     ■雪の日の浴身一指一趾愛(いと)し・・・・・・・・・・橋本多佳子

橋本多佳子は東京生まれだが、九州出身の橋本豊次郎と結婚して小倉に住んだ。
早くに夫と死別して、晩年は奈良に住まいした。
昭和38年に死去したが、晩年の多佳子をよく知る近藤英男先生によると、きれいな人であったという。
平井照敏の書くところによると多佳子は「命に触れたものを的確な構成によって詠いあげ、独自の句境に至っている」という。
「指」は手の指のこと、「趾」とは足の指、のことである。
この句は、女の「ナルシスム」とも言うべき艶やかなリリシスムに満ちている。
こういう表現は、それまでの女流俳句にも無かった句境であった。女の「命」の美しさ、はかなさ、いとほしさ、などをみづみづしく詠いあげた絶唱と言える。
この句は晩年の句集『命終』(昭和40年刊)所収。

図版①はオーギュスト・ルノワールの「横たわる浴女」(1904年)である。

   ■雪はげし抱かれて息のつまりしこと・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

この句も、有名な句で多佳子の代表作として、よく引用されるものである。
この句も、死別した夫との愛欲の日を思い出して作られた句だと言われている。
多佳子の句は、このように愛欲に満ちた日々を回想しながらも、赤裸々な表現ではなく、控えめな、抑制された句作りであるから、読者にほのぼのとした読後感を与えて、すがすがしい。
この句は『紅糸』(昭和26年刊)の作で、この頃、すでに夫は死去している。同じ句集に

   ■雄鹿の前吾もあらあらしき息す

という句があり、この句なども「いのち」「生命」「エロチスム」というものを読後感として感得することが出来る。
こういう句作りこそ、多佳子の真骨頂だった。


  ■窓の雪女体にて湯をあふれしむ・・・・・・・・・・・・・・・・桂信子

桂信子は大阪の人。
この人も早くに夫を亡くしている。多佳子とは違った面からだが、女体の「艶やかさ」を詠い上げた人であった。つい先年お亡くなりになった。
この句は句集『女身』(昭和30年刊)に載るもので、橋本多佳子辺りが先鞭をつけた「女の命」を詠う軌跡に則した流れというべきか。

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図版②は同じくルノワールの「岩の上に座る浴女」(1882年)である。

桂信子の、この頃の句に

 ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ

 ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜

 やはらかき身を月光のなかに容れ

 ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき


などの句があり、いずれも女の命のリリシスムを詠いあげている。


降る雪や明治は遠くなりにけり・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
001冬景色本命

    降る雪や明治は遠くなりにけり・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男

この句は草田男の数多い句の中でも、とりわけ有名な作品である。
今では作者名さえ知らずに、この句を口にしている人も多いだろう。
この句の由来は、昭和6年、草田男が20年ぶりに東京で小学校上級生当時通学した母校・青南小学校(東京、青山高樹町在住当時)を訪ね、往時を回想して作ったものという。
初案は「雪は降り」だった。
しかし、推敲された「降る雪や」の方が、ずっといい。
「雪は降り」では、雪の降る動きは示せても、下の句につながるだけで趣は出ない。
「降る雪や」と切れ字「や」と置いて、一旦ここで一拍おいたために、中7下5の叙述の印象が一段と深くなる作用をしている。
「降る雪や」という上句が「明治は遠く」という中7に、離れつつ大きく転じてゆくところに、この句の秘密というか工夫があり、有名になり過ぎたにもかかわらず、或るういういしい感慨の所在が紛れずに保たれているのも、その所為だろう。(昭和11年刊『長子』所載)

「明治は遠く」に関していうと、句が作られたのが昭和6年ということは、大正15年プラス5年(大正15年と昭和元年は重なる)で、合計20年である。
「一昔」という年月の区切りはほぼ10年と言われているから、まさに「二昔」(ふたむかし)と言えるだろう。
今年、「平成23年」は、昭和の年号が終ってほぼ二昔になるので、この頃では「昭和は遠くなりにけり」などと言われるようになってきた。歳月の経つのは早いものである。

今年は早くから本格的な冬が来て北国では、大雪になっている。
しかし本格的な寒波は、これから始まるのである。
ただ雪の降り方には、北と南では、全くちがうのである。
北国では西からの低気圧と寒気によって降雪が起こるのに対して、太平洋岸に雪が降るのは、俗に「台湾坊主」という低気圧が南岸を東進するときに、北から寒気が進入して雪を降らせるのである。
雪片も大きく、水分をたっぷり含んだ重い雪でベタ雪であって送電線などの倒壊などの被害をもたらす。
そんな時期は真冬というより晩冬、春先に多い。2.26事件の日の大雪などが、そうである。

日本の古来の美意識では「雪・月・花」と言って、文芸における三大季題となっている。
言うまでもないが「花」=「桜」であることを指摘しておきたい。
そんな訳で「雪」を詠んだ句も多い。

 馬をさへながむる雪の朝かな・・・・・・・・芭蕉

 市人よ此の笠売らう雪の傘・・・・・・・・芭蕉

 撓みては雪待つ竹のけしきかな・・・・・・・・芭蕉

 箱根越す人も有るらし今朝の雪・・・・・・・・芭蕉

 我がものとおもへばかろし笠の上・・・・・・・・其角

 下京や雪つむ上の夜の雨・・・・・・・・凡兆

 心からしなのの雪に降られけり・・・・・・・・一茶

 むまさうな雪がふうはりふはりかな・・・・・・・・一茶

 是がまあつひの栖か雪五尺・・・・・・・・一茶

 雪ちらりちらり見事な月夜かな・・・・・・・・一茶

などの名句がある。明治以後の句は、また後日。


黄落を振り返り見る野のたひら野はゆく年の影曳くばかり・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     黄落を振り返り見る野のたひら
        野はゆく年の影曳くばかり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
本年も師走終盤に突入して、はや旬の半ばを越えた。
辺りを見回してみると、落葉樹の木々はあらかた葉を落とし、先日までは赤や黄の「紅葉」をつけて照り映えていたのが、足もとにたっぷりと落葉の絨緞を敷き詰めたようになっている。
おかげで、野末は見晴らしがよくなって木々の根元まで陽が射すようになった。
「冬至」も先日22日に済んで、一年中で一番昼が短く、夜が長い頃である。

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「紅葉散る」というのが「冬」の季語である。
紅葉し、かつ散り始める晩秋から、紅葉散るの冬へ、季節は確実に動いてゆく。美しく散り敷くこともあり、土まみれになって貼りついていることもあり、
紅葉の在りようも、人生に似て、さまざまである。
写真は「散り敷く」紅葉である。これらはネット上で、piita3氏のページから拝借したものであり、場所は京都郊外の「勧修寺」である。
ここに名を記して御礼申し上げる。

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『夫木和歌抄』に

  秋暮れし紅葉の色に重ねても衣かへうき今日の空かな

という歌があるが、これは初冬の紅葉を詠ったものである。秋用の衣から、冬用の着物に「衣替え」するのも、憂いことである、と詠まれている。
昔の人は、こういう「痛ましい」感じのもの、「あわれ」の思いの強いものに拘ったのであった。
『古今集』に

  山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり・・・・・・躬恒

という歌があるが、落葉となる紅葉のはかなさが中心のイメージと言える。

 夕映に何の水輪や冬紅葉・・・・・・・・渡辺水巴

 冬紅葉冬のひかりをあつめけり・・・・・・・久保田万太郎

 美しく老ゆるも死ぬも冬紅葉・・・・・・・松井草一路

などの句は「冬紅葉」という季語の名句といえるだろう。
以下、「紅葉散る」「木の葉」などの句を引いて終る。

 紅葉散るや筧の中を水は行き・・・・・・・・尾崎迷堂

 尽大地燃ゆるがごとき散紅葉・・・・・・・・赤星水竹居

 紅葉散るしづけさに耳塞がれつ・・・・・・・・岡田貞峰

 今日ありてかたみに紅葉ちるを踏む・・・・・・・・藤野基一

 木の葉ふりやまずいそぐなよいそぐなよ・・・・・・・・加藤楸邨

 木の葉散るわれ生涯に何為せし・・・・・・・・相馬遷子


木村太郎『ディア・グロリア』─戦争で投函されなかった250通の手紙・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

  木村太郎『ディア・グロリア』―戦争で投函されなかった250通の手紙―・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・・新潮社2011/11/18刊・・・・・・・・・・・・

      戦時下で揺れ動く心情を語れるのは、アメリカ人の親友への手紙だけだった。
      日米開戦から70年の時を経て、80歳の姉の家から見つかった45冊のノート。
      それは幼少期を過ごした米国での友人グロリアへ向けて書き続けた、手紙仕立ての日記だった。
      自由を満喫できた「敵国」に思いを馳せつつも連日の空襲に苦しむ日々……。
      戦後は戦犯裁判の通訳を務めた姉の人生をジャーナリストの著者が綴った感動の記録。

新潮社の読書誌「波」12月号に載る書評を引いておく。
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       真に強い、勇気の女性       安藤優子

 ニュース番組でコンビを組んで二十年をゆうに超えた。にもかかわらず、未だ解けぬ「出生のナゾ」につつまれているのが木村太郎さんである。何かの拍子に福岡県の飯塚の話になると「ああ、川筋モンね、あそこは……」などとまるで自分がそこで生まれたかのような口ぶりになる。そして、またあるときは「生まれたのはサンフランシスコだから、日米両方のパスポートあるし……」ともいう。しかもニューヨークの話になれば「ロングアイランドにガキのころ住んでいたし」となる。じゃあ本籍は? と聞けば「麻布・龍土町」だというのだ。まさか『時をかける少女』じゃあるまいし、いったい子供のころの木村さんは飯塚やサンフランシスコ、ロングアイランドに六本木と、複数・分割に存在したとでもいうのだろうか。それが木村さんの近著『ディア・グロリア』によって解き明かされた。なんのことはない、木村さんのおじいさんは飯塚の造り酒屋で、お父さんの仕事の関係でサンフランシスコで生まれて、ロングアイランドに引っ越して、でも帰国後は龍土町(現・六本木七丁目)に住んでいたのだ。それにしても生まれてから五~六年でそんなにあちこちに存在し、海まで渡ってしまったのだから、木村さんというのは生まれながらに波乱万丈、八面六臂に報道の現場で生きることが決まっていたとしか思えない。
 しかし、『ディア・グロリア』の主人公はそんな木村さんではなく、十歳年上のお姉さん、利根子さんだ。日本で生まれて後に満州に暮らし、その後六歳から七年をアメリカで暮らし、帰国。戦争中はアメリカ向けの宣伝放送に英語の話せる子役として駆り出され、戦後は戦争犯罪人を裁く法廷通訳として米軍のために働いたという、あまりにもドラマティックな日々を送ってきた女性だ。その利根子さんが高齢になって病に倒れ入院、退院後のためにいちばん身近な木村さんがお姉さんの部屋を片付けたときに、二百五十通にのぼる古い手紙や日記が見つかり、この『ディア・グロリア』が生まれた。手紙はさまざまな大きさの古いノートにびっしりと流麗な筆記体の英語で書かれており、どの手紙も「ディア・グロリア」、「グロリアさま」で始まっていた。決して投函されることのなかったそれらの手紙は、利根子さんがアメリカから帰国した十三歳のときから九年間にわたって書き続けた日記の一部であった。宛名のグロリアは、利根子さんがニューヨークに住んでいたときの親友である。アメリカ人の友達に、しかも英語でしか自由に思いを語ることができなかった利根子さん。彼女は帰国後の母国の印象を次のように書いている。『私が船を降りた時、一人の男が間違いなく悪意をもって私を蹴った。(中略)私は、いい子であるように努力してきた。穏やかであるよう努め、完璧であるようにしてきた。それも今日までのことだ。こんな環境の中で、私の忍耐は限度に達している。』当時いわゆる贅沢禁止令が出されていた日本では女性はモンペ姿が当たり前で、美しいアメリカ製のドレスを着ているだけで、むき出しの敵意に出会ったことは想像に難くない。そんななかで戦争が始まり、利根子さんが愛するアメリカは敵国となる。それでもグロリアへの手紙は綴られた。やがて敗戦。玉音放送を聞いた利根子さんは『これを最後に貴方にはもう手紙を書かないわ。でも貴方を怒っているわけではないのよ。誰も責めているわけではないの』とグロリアに決別宣言をし、以降、日本語で日記を書こうとする。しかし、日本語より英語を得意とする利根子さんは、アメリカへの無理やりの決別に疑問を感じ、再び英語で綴るようになる。そのときの彼女の日記は感動的だ。『戦争は終わり、アメリカは私たちを負かした。アメリカが勝ち、私たちが負けたのだ。でも、それはどういうことなのだろう。私たちは負けたから彼らを憎まなければならないのだろうか。』そして、利根子さんは憎むことをやめ、自分を解放することで自由な心を取り戻していく。真に強く、勇気に満ちた女性だ。彼女の日記に綴られた率直きわまりない言葉の数々が、日本とアメリカの愚かな過去を見事に浮かび上がらせている。少女にとって親友が敵になるほど、醜い現実はないのだから。
 (あんどう・ゆうこ ニュースキャスター)
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1326木村太郎
木村太郎/キムラ・タロウ

1938年米国カリフォルニア州生まれ。1964年慶應義塾大学法学部卒業後、NHKに入局。ジュネーブ支局、ワシントン支局特派員などをつとめた後、「ニュースセンター9時」のメインキャスターに。1988年にフリーとなり、現在はフジテレビ「スーパーニュース」のコメンテイターをつとめる。

「立ち読み」も出来る。お試しあれ。

ひともとの八つ手の花の咲きいでて霊媒の家に灯りつき初む・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    ひともとの八つ手の花の咲きいでて
        霊媒(れいばい)の家に灯りつき初む・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、この歌の続きには

  霊(たま)よせの家のひそけきたまゆらを呼びいださるる幼な子の頃・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているが、この「霊媒」とか「霊よせ」ということについては、少し説明が必要だろう。
今では青森県の下北半島の「恐山」のイタコなどに、その名残りをとどめるに過ぎないが、昔と言えば昭和初年の頃までは、
こういう「霊媒」「霊よせ」というのが、まだ伝統的に各地に残っていたのである。
大都市では、いざ知らず、私の生れたのは純農村であったから、「あの家は霊媒の家だ」という風に職業としてやっている人がいたのである。
もっとも当時は「神さん」とか「お稲荷さん」とかいう名で呼ばれていた。「コックリさん」という呼び名もあった。
科学的な解明というよりも、神がかりな「加持、祈祷」が幅を利かせていた時代である。

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「八つ手」の木というのは家の裏の日蔭の「鬼門」とかに、ひそやかに植えられているもので、八つ手の花はちょうど今頃12月頃に咲くのである。
そういう冬のさむざむとした風景の中に咲く八つ手の花と「霊よせ」の家というのが合うのではないかと思って、これらの歌が出来上がった、ということである。

八つ手の葉は文字通り八つ前後に裂けていて「天狗のうちわ」という別名もある。
八つ手の花を詠んだ句を引いて終りにしたい。八ツ手の花言葉は「分別」

 たんねんに八手の花を虻舐めて・・・・・・・・山口青邨

 八ッ手咲け若き妻ある愉しさに・・・・・・・・中村草田男

 一ト時代八つ手の花に了りけり・・・・・・・・久保田万太郎

 遺書未だ寸伸ばしきて花八つ手・・・・・・・・石田波郷

 八ッ手散る楽譜の音符散るごとく・・・・・・・・竹下しづの女

 花八つ手貧しさおなじなれば安し・・・・・・・・大野林火

 踏みこんでもはやもどれず花八ツ手・・・・・・・・加藤楸邨

 花八つ手日蔭は空の藍浸みて・・・・・・・・馬場移公子

 寒くなる八ッ手の花のうすみどり・・・・・・・・甲田鐘一路

 すり硝子に女は翳のみ花八つ手・・・・・・・・中村石秋

 かなり倖せかなり不幸に花八ツ手・・・・・・・・相馬遷子

 みづからの光りをたのみ八ツ手咲く・・・・・・・・飯田龍太

 花八つ手生き残りしはみな老いて・・・・・・・・草間時彦

 花八ッ手さみしき礼を深くせり・・・・・・・・簱こと

 どの路地のどこ曲つても花八ッ手・・・・・・・・菖蒲あや

 人に和すことの淋しさ花八つ手・・・・・・・・大木あまり


冬薔薇を剪るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    冬薔薇を剪(き)るためらひは何事ぞ
       貴きものを奪ふここちす・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので小項目名「薔薇」というところに、バラを詠った歌をまとめてあるものの一つである。

バラは何と言っても「花の女王」であることは間違いない。
在来種の野バラから、さまざまな改良が加えられて、今ではハイブリッドや遺伝子レベルの技術を駆使して新品種が産出されている。

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写真②も「レッドヒロシマ」というハイブリッドによる品種物である。
バラには痛い棘(とげ)があるのが難点だが、今ではトゲのない品種もあるのではないか。
バラの中でも、人それぞれ好みがあろうが、私は写真②のような「真紅」のバラが好きである。豪華なレディーという印象である。
バラについては、つい先日にも記事を載せたのだが、掲出歌を変えて書いてみる。
妻の入院中にはあちこちからバラの花束をいただいたことがある。妻の大学の時の友人の某大学教授N女史から、お見舞いの花のアレンジが贈られてきたことがある。
また私からも病床にある妻にオランダ直輸入のバラを贈ったこともあった。
その他、前にもさまざまの記事を載せたこともある、思い出のある花なのである。

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写真③もハイブリッドものの新品種である。なんとも色合いが華麗である。ついでに、写真④にもハイブリッドもののバラを掲出しておく。

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これも色合いが鮮やかな花である。
このバラには「ジーナ・ロロブリジーダ」の名がついている。そう言えばロロブリジーダの雰囲気が出ているバラである。
書き遅れたが写真③のバラの名は「マダム・ビオーレ」とある。N女史などは、まさに、そういう雰囲気にふさわしいとも言える。
そのN女史だが、先年、急性の脳梗塞に罹り半身不随で闘病の末、いまは車椅子の生活を余儀なくされている。

長年、歌作りをやっているとバラを詠み込んで、あちこちに歌を発表しているもので、歌集にする場合には、それらを「薔薇」という項目にまとめる、というようなことをする。
以下、ここにまとめた「バラ」の歌一連を引いておきたい。
掲出した歌の主旨は「冬薔薇」を剪る時には、万物の命の休止している冬の季節に、せっかく咲いた花を切り取るということに、極端にいうと「生き物の命」を奪うような気が一瞬した、ということである。

     薔 薇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  キーボード打てるをみなの傍(かた)へにはコップに挿せる紅薔薇にほふ

  老いびとにも狂気のやうな恋あれと黒薔薇みつつ思ふさびしさ

  飲みあけしミニチュア瓶に薔薇挿せばそこより漂ふスコッチの香り

  鬱屈のなきにもあらず夕つかた何もなきごとく薔薇に水やる

  喪に服し静もる館は薔薇垣を結界として何をか拒む

  冬薔薇を剪るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす

  冬薔薇を剪る妻の手に創(きず)ありぬ薔薇のいのちの棘の逆襲

  ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇にそそのかさるる恋よあれかし

  薔薇図鑑見つつし思ふ園生には緋の花責めの少女ゐたりき

  たまさかに鋏を持てばことごとく刺す意あらはに薔薇は棘見す

  言へばわが心さびしもしろたへに薔薇咲き初めて冬に入りたり


以下、「冬薔薇」を詠んだ句を引いて終る。薔薇は「さうび」(そうび)とも発音する。
先日引用したものと一部重複するかも知れない。お許しを。

 尼僧は剪る冬のさうびをただ一輪・・・・・・・・・・・・山口青邨

 冬薔薇(さうび)石の天使に石の羽根・・・・・・・・・・・・中村草田男

 冬の薔薇すさまじきまで向うむき・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 冬ばら抱き男ざかりを棺に寝て・・・・・・・・・・・・中尾寿美子

 冬さうび咲くに力の限りあり・・・・・・・・・・・・上野章子

 冬薔薇や賞与劣りし一詩人・・・・・・・・・・・・草間時彦

 ぎりぎりの省略冬薔薇蕾残す・・・・・・・・・・・・津田清子

 夫とゐて冬薔薇に唇つけし罪・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 孤高とはくれなゐ深き冬の薔薇・・・・・・・・・・・・金久美智子

 冬薔薇や聖書に多き科の文字・・・・・・・・・・・・原田青児

 リルケ死にし日なりき冬の薔薇の辺に・・・・・・・・・・・・脇村禎徳

 ふと笑ふ君の寝顔や冬の薔薇・・・・・・・・・・・・マブソン青眼


ひととせを描ける艶の花画集ポインセチアで終りとなりぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    ひととせを描ける艶(ゑん)の花画集
       ポインセチアで終りとなりぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌のつづきには

  ポインセチアの一鉢に似て口紅を濃くひく妻は外出もせず

  あかあかと机辺を光(て)らすポインセチア冬の夜長を緋に疲れをり


という歌が載っている。
ポインセチアは学名をEuphorbia pulcherrima というが、原産地は中央アメリカ──メキシコである。赤い花の部分は正確には苞(ほう)である。

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品種改良がすすみ、多くの花があるが写真②は2003年に産出されたばかりの「アヴァンギャルド」という新品種。
あと二つほど色違いをお見せするが、私などにはポインセチアと言えば、やはり「真紅」のものが好ましい。
すっかりクリスマスのシンボルのように扱われているポインセチアだが、その歴史は、こんな経緯である。

むかし、メキシコにアズテク族というインディアンが住んでいて、生活の中で、この植物を上手に利用していた。苞から赤紫色の色素を採り、切った時に出る白い樹液からは解熱作用のある調剤が作られた。現在のタスコ(Taxco)付近の地域を起源地とするポインセチアはインディアンにCuetlaxochitlと呼ばれて、その輝くような花は「純粋性のシンボル」とされていた。
17世紀に入り、フランシスコ修道会の僧たちが、この辺りに住み着き、その花の色と咲く時期から「赤はピュアなキリストの血」「緑は農作物の生長」を表していると祭に使われるようになった。
1825年、メキシコ駐在のアメリカ大使Joel Robert Poinsett氏(1779-1851)は優れた植物学者でもあったため、アメリカの自宅の温室から植物園などへポインセチアが配られた。「ボインセチア」の名はポインセット氏の名前に由来する。
1900年代はじめから、ドイツ系の育種家アルバート・エッケ氏などの尽力で、市場向けの生産などがはじまった。
ポインセチアは「短日性」の植物で、1日のうちで夜のように暗い状態が13時間以上になると開花する。
写真③④はマーブルとピンクの改良種である。

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歳時記に載る句を少し引いて終りにしたい。

 小書斎もポインセチアを得て聖夜・・・・・・・・富安風生

 ポインセチア教へ子の来て愛質(ただ)され・・・・・・・・星野麦丘子

 時計鳴り猩々木の緋が静か・・・・・・・・阿部筲人

 ポインセチア愉しき日のみ夫婦和す・・・・・・・・草間時彦

 ポインセチアの色溢れゐる夜の花舗・・・・・・・・宮南幸恵

 ポインセチアや聖書は黒き表紙かな・・・・・・・・三宅絹子

 ポインセチア愛の一語の虚実かな・・・・・・・・角川源義

 ポインセチア独りになれ過ぎてはならず・・・・・・・・鈴木栄子

 ポインセチアその名を思ひ出せずゐる・・・・・・・・辻田克己

 ポインセチアどの窓からも港の灯・・・・・・・・古賀まり子

 星の座の定まりポインセチアかな・・・・・・・・奥坂まや

 ポインセチア画中に暗き聖家族・・・・・・・・上田日差子

 寝化粧の鏡にポインセチア燃ゆ・・・・・・・・小路智寿子

 休日をポインセチアの緋と暮るる・・・・・・・・遠藤恵美子

 ポインセチア抱いて真赤なハイヒール・・・・・・・・西坂三穂子


鹿島茂『 蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝 』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   鹿島茂『 蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝 』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・・・新潮選書2011/11/25刊・・・・・・・・・・・・・

↓ はじめに新潮社のHPに載る、この本に関する「編集者のことば」を引いておく。
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 クラシックカーにも高級車と大衆車があったことを御存知ですか。たとえば、車の大量生産方式を確立したフォード、今でもアメリカ自動車業界でビッグスリー2位のメーカーですが、1908年から販売開始、1910年代から20年代にかけて国民車「T型フォード」を生産していました。その数は1927年までに1500万台。安価に買えるよう、部品を統一化し、形は直線的、つまり、板をはり合わせたようなデザインで、外装もペンキの乾きがいい、黒のエナメル仕立ての一色だけでした。一方、同じビッグスリーの一角を占めるクライスラーは、当初から先進的エンジンシステムを導入し、のちに流線的なボディーを取り入れるなど、高級車メーカーとして、フォードの対極にあるような自動車ブランドの名声を誇っていました。そのクライスラーのボディーを純銀製に仕立てて、1928年、カンヌの自動車エレガンス・コンクールでグランプリを獲得した日本人がいました。薩摩治郎八とその妻、千代子です。木綿で巨利を得た貿易商の家に生まれた治郎八は、ロンドンに留学した後、全盛期のパリに移り、正真正銘の「セレブ」として、パリの社交界で夫人とともに注目の存在となります。グランプリの後、この「純銀の車体に淡紫の塗り」を施した特製自動車を駆ってパリ市内を凱旋した二人の誇らしげな表情が今も目に浮かぶようです。「生活と美を一致させようとした」人生を送った一代の蕩児・薩摩治郎八の人生をこの本でたどって、節約とかエコとかとは無縁の「散財の美学」に、たまにはあなたも浸ってみませんか?
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     金は使うためにある! 大富豪の華麗にして波乱万丈の生涯

     昭和初期、正真正銘の「セレブ」として、パリの社交界で輝いた日本人がいた。
     木綿で巨利を得た貿易商家に生まれ、ロンドンに留学。
     コナン・ドイルや「アラビアのロレンス」、イサドラ・ダンカン、藤田嗣治といった著名文化人と交流し、
     自分の財布からフランス政府にパリ日本館を寄贈した「東洋のロックフェラー」の決定的評伝。

↓ 新潮社の読書誌「波」2011年12月号より 書評を引いておく。
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      ロンドンでコナン・ドイルと出会った日本人     新井清司

 シャーロック・ホームズ、コナン・ドイルの書誌を作り始めていたとき、神田神保町の古本屋の店頭で薩摩治郎八『ぶどう酒物語』(村山書店)という本に出会った。この中で薩摩治郎八は、ロンドンのサヴェージ・クラブでコナン・ドイルに会ったと書いていた。それまでは、ドイルに会った日本人について触れている文献を見たことがなかったが、ドイルと直接会った日本人がいたのだ。これがきっかけで薩摩治郎八について調べ始めることになった。1974~1975(昭和49~50)年のことである。
 薩摩治郎八は1920(大正9)年、19歳でロンドンに渡り生活を始める。その後パリに生活の拠点を移して活躍をしているのだが、資料が限られているため調査は一向にはかどらず今に至っている。ロンドン時代を調べるためにも薩摩治郎八の全体像を知らなくてはならないだろう。薩摩治郎八の全体像を知ることは、不明な点も多く難しいものと思われるが、とりあえず、薩摩治郎八書誌を作成しようと考えた理由である。
 薩摩治郎八は1901(明治34)年4月13日に神田駿河台鈴木町で生まれた。この頃、駿河台の家の東隣は加藤高明邸(岩崎家別邸)、西隣は原田男爵邸であった。1920年10月、19歳のときロンドンに向けて旅立った。一応、オックスフォード大学への留学が目的である。その後、予定していたハンプシャー州ホイットチャーチのハービー老牧師邸に移ったが、ここでの生活は、若い治郎八にはあまりにも退屈だったようだ。治郎八本人によると、田舎の生活に耐えられず、ロンドン日本協会の創設者の一人、アーサー・ディオシーの紹介で、リッチモンドのノックス博士邸に移ることになったという。
 薩摩治郎八をコナン・ドイルに紹介したのは、このアーサー・ディオシーである。ディオシーの足跡を知ることが、治郎八とドイルの関係を探ることになると思われる。ディオシーは1920年のクリスマスから翌年3月頃まではフランスのニース、4月~5月は日本から皇太子(後の昭和天皇)の訪英がありロンドンに、6月には静養のためハンプシャー州リスに滞在していることが分かっている。薩摩治郎八の業績については、遺品の整理が進んだこと、そして最近は、村上紀史郎『「バロン・サツマ」と呼ばれた男』(藤原書店)、小林茂『薩摩治郎八』(ミネルヴァ書房)などが出版され研究が一段と進んできているが、薩摩治郎八とドイルの邂逅の日時はまだ特定されていない。コナン・ドイルとの関連に限れば、薩摩治郎八のロンドン時代については、ディオシーの足跡を含めさらに調査が必要であるといえるだろう。本書は、「歴史探偵」の立場からドイルと薩摩の邂逅の可能性を多面的に分析する新たな試みといえよう。  (あらい・せいじ コナン・ドイル研究家)
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鹿島茂/カシマ・シゲル

1949年横浜市生れ。1973年東京大学仏文科卒業。1978年同大学大学院人文科学研究科博士課程修了。現在明治大学国際日本学部教授。19世紀フランスの社会・小説が専門。古書コレクターとしても知られる。1991年『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞、1996年『子供より古書が大事と思いたい』で講談社エッセイ賞、1999年『愛書狂』でゲスナー賞、『職業別パリ風俗』で読売文学賞評論・伝記賞を受賞。近刊に『パリが愛した娼婦』『渋沢栄一』。

「立ち読み」もできるので、お試しあれ。

勝山海百合『さざなみの国』第23回 日本ファンタジーノベル大賞受賞作・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート── 

 勝山海百合『さざなみの国』第23回 日本ファンタジーノベル大賞受賞作・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・・・・新潮社2011/11/22 刊・・・・・・・・・・・

      運命を変えるのは、澄みきった心――傷ついた世界を再生させる傑作中国冒険奇譚!
      このままでは愛する村が滅ぶ。未来を悟った時、少年さざなみは旅立った。
      一匹の猫と共に……執拗に続く謎の襲撃、馬を愛する王女・甘橘との遭遇、剣の使い手の美少女・桑折との奇縁。
      やがて巷に死病が流行した時、さざなみの身体に潜む不思議な力が運命を一変させていく。
      古代中国を舞台に、癒しの極致を描く志怪ファンタジー!

この賞の受賞作については発足いらい何冊も読んできた。
この本について、新潮社の読書誌「波」2011年12月号より 書評を引いておく。
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        芳香を放つ「中心」なき物語       平山瑞穂

 人は物語に触れるときに、おのずと「中心」を求めてしまう傾向がある。山場、あるいはクライマックスと呼んでもいい。いずれにせよ、多くの人は、そこを目がけて物語が大きく隆起していき、通過することで収束に向かう、力学上の特異点のようなものが、物語には必ず組み込まれているはずだということを暗黙の前提にしている。ところが稀に、そういう意味での「中心」を欠いた物語というものが存在する。
 ここで言っているのは、「盛り上がりに乏しい、退屈な物語」のことではない。「中心」らしい「中心」が欠如しているにもかかわらず、作中の諸要素が有機的に結びつき合い、全体としては安定した統合体を形成しながら独特の芳香を放っているような作品のことだ。第23回日本ファンタジーノベル大賞の大賞を受賞した勝山海百合さんの『さざなみの国』は、「中心」なき物語として実に端整きわまりないたたずまいを呈している稀有な作品であると言うことができる。
 より正確に言うなら、「中心」は欠けているのではなく、作中の随所に分散しているのだ。本作は一応、ある時代の中国を舞台に、さまざまな異風を持つ辺境の孤立した「むら」から街に出てきた少年「さざなみ」が辿った数奇な半生を追う体裁を取っているが、さざなみをいわゆる「主人公」と見なすことには抵抗を覚える。この少年と関わりを持つ周囲の人物たちについても、均等に紙幅が割かれ、視点が与えられ、それぞれが「主人公」であるかのようにふるまうからである。
 さざなみと許嫁の関係にある、零落した名家の娘・桑折。その幼なじみとして、桑折との間にほのかな恋情を漂わせる病弱な青年・欧相岩。今上帝の妾腹にして乗馬を好み、さざなみが仕える遊馬城にちょくちょくお忍びでやって来る甘橘姫。それぞれの境遇がそれぞれの視点で詳しく語られ、次の者にゆるやかにバトンが手渡されることによって、全体としての物語が紡がれてゆく。それでいて群像劇のような騒々しさや密度も感じさせず、すべてがさらさらと流れていくかのように見えるのは、勝山さん特有の恬淡とした筆致のなせる業だろう。
 今回、日本ファンタジーノベル大賞を受賞するまでに、勝山さんはすでに三冊の本をものしているが、最初の二作は短篇集であり、いずれも志怪小説的な趣のある小品を中心に編まれたものである。三作目『玉工乙女』は初の長篇だが、長篇でありながら、短篇が淡々と連鎖していく中で知らぬ間に結末へと連れていかれるような、不思議な読後感を残す作品だ。そして本作『さざなみの国』で勝山さんは、その不思議な書き味をいっそう洗練させ、自家薬籠中のものとして使いこなしているように見える。
 くだくだしい心情描写を大胆に捨象した歯切れのよい文体は、どこか簡潔な漢文で書かれた「記録」を思わせる。志怪小説風の味わいは、ここでもやはり生きているのだ。そもそも、中国六朝時代に流行した志怪小説には「記録」としての意味合いが強く、書き手にも歴史家が多かったという。勝山さん自身がおそらくそれを意識しており、ところどころで、「その子どもが成長した記録は残っていない」といった一文を不意打ちのように挿入するあたりは、心憎いと言うよりほかにない。
 ただ、あっさりした「記録」風のサブプロットが幾重にも均等に折り重なっているように見える中にも、実はドラマツルギー上ひとつの「中心」をなしているエピソードがある。それが一見したところ「中心」に見えない理由は自明だ。甘橘姫が、病に冒されたわが身を救うために、臣下であるさざなみに要求する献身――この非常に残酷なくだりさえ、勝山さんは情緒を排した同じ文体でさらりと描き出しているのである。
 しかしそうであるが故になおのこと、その場面は残虐にして、いささかエロティックにすら見える。書かれていない部分、「記録」風の文面のそっけなさにマスキングされている部分を、想像で補おうとせずにはいられないからである。そして物語は、同じ温度の低さを保ちながら、寂寥感溢れる結末へとシームレスに読者を導いていく。
 説明過剰な小説、起承転結にメリハリをつけすぎて、かえってげんなりさせる既視感を煽ってしまう「ベタな」物語も世に多く出回っている中で、絶妙な抑制を利かせながらこうした複雑な余韻を残す小説を書ける作家の存在は貴重だろう。今後のご活躍にもおおいに期待したいところだ。 (ひらやま・みずほ 作家)
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また新しいノベラーの誕生である。今後に期待したい。

勝山海百合/カツヤマ・ウミユリ

1967年、岩手県出身。2006年、「軍馬の帰還」で第4回ビーケーワン怪談大賞受賞。2007年、「竜岩石」で第2回『幽』怪談文学賞短篇部門優秀賞受賞。著書に『竜岩石とただならぬ娘』(MF文庫ダ・ヴィンチ)、『玉工乙女』(早川書房)など。

「立ち読み」も出来るので、お試しあれ。

松竹映画『RAILWAYS2』を観てきた・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──映画鑑賞──

    松竹映画『RAILWAYS2』を観てきた・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この映画のパンフレットもないので公式ホームページを見てもらいたい。
このページの中の各サイトからストーリーや出演者なども詳しく見られる。
舞台は富山県の私鉄・富山地方鉄道に働く三浦友和、余喜美子夫婦をめぐる物語である。

三浦は、この電鉄で42年間無事故、無違反過してきた定年間近の運転手であり、余はその妻である。
突然、妻から看護師としての資格を生かして働きたい、と言われ、意見が対立したまま、妻は家を出て「緩和ケア」の訪問看護師として働きはじめる。
「離婚届」を提出するなどゴタゴタする。
娘・小池栄子は結婚して家を出ているが妊娠して臨月である。
ホームページ冒頭に載る車体に赤いラインの入った車両は、元西武鉄道の所沢線を走っていた「レッドアロー」という、かつての花形車両が都落ちしたもの。
この車両に憧れて、ここ富山に運転士としてやってきたという若者にまつわるエピソードなどが物語を彩る。
妻の担当する終末期のがん患者を吉行和子が演じている。
吉行が死のうと家出して宇奈月温泉行きの電車に乗るが、この電車に三浦が乗務している。
激しい雷雨のため停電して電車はトンネルの手前で停車。その車内で吉行が発作を起して倒れる。
救急車が要請されるが、崖上の電車には近づけない。所持品から罹りつけの病院と妻の担当であることがわかり、三浦がケータイで妻に連絡する。
妻が崖をよじ登ってきて三浦が助け電車内に上げて介抱、手当てする。
停電が復旧し動き始めるので救急車には一駅先で待機してもらい吉行を収容してもらう。
そんな夫の運転士としての姿と、妻の看護師としてのかいがいしい働きを双方が認識し思いを新たにするという設定である。
定年になる「最後の乗務の日」に妻が見送りに電車に乗るシーンは感動的なもの。
三浦が余に新しいエンゲージリングを差し出して、改めて「結婚してください」というシーン。娘・小池栄子が出産して幼子を親子であやすシーンの結末も、
ハッピーエンドで爽やかなプロットである。

この電車には、かの地に行ったときに乗ったこともあり、砺波のチューリップ畑も曾遊の地だし、また私の三女が医学者の妻として富山に居るので親近感があった。
ほのぼのとした佳い作品だった。老人なので「シルバー割引」で1000円である。

「予告編の動画」を見られるようにしておく。埋め込みが出来ないので悪しからず。

この映画は名前の通り「2」となっているが、前作を私は見ていないが、数十万人を動員する話題の映画だったらしい。前作の鉄道は島根県のものだったらしい。

五味文彦『西行と清盛─時代を拓いた二人』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     五味文彦『西行と清盛─時代を拓いた二人』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・新潮選書2011/11/25刊・・・・・・・・・・

     遁世か? 武断か? 同い年の二人の足跡を辿り、中世日本人の生き方に迫る。

     1118年生まれの二人の男。片や二十三歳で出家し、中世を代表する歌僧となって往生し、
     片や十代から出世街道を走り、武者の世の栄華を極めたすえに滅亡した。
     文と武、聖と俗――いかにも対照的な彼らは十二世紀の日本をいかに生き、
     新たな時代の文化と政治をどう拓こうとしたのか? 
     中世史研究の泰斗、渾身の書下ろし七〇〇枚。

↓ 新潮社の新刊のHPに載る「編集者のことば」を引いておく。
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       中世日本人のふたつの生き方

 西行と清盛。この二人にはいくつか共通点があるのですが、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。
 後世の日本文化と政治のありように多大な影響をあたえた。――ちょっと大づかみな捉え方になりますが、たしかにこれは共通点といえそうです。西行は二十三歳で出家するまではれっきとした武士だったから、二人はともに武人として人生をスタートさせた。――これも正解。でも、西行と清盛には、ある意味でもっと単純な共通点がありました。どちらも一一一八年生まれの、同い年。
 本書はそんな二人の歩みを比較しながら、遁世と武断という中世日本人のふたつの生き方、ひいては十二世紀という時代のおおきな変わり目の空気を読み解こうとする意欲作です。
 いくつかの共通点があるとはいえ、二人の生き方は対照的なものでした。片や世俗の生活を捨てて中世を代表する歌人となり、片や孫を天皇にすえて栄華をきわめ中世を代表する武士となったすえに滅亡する。また、西行には『山家集』『残集』などの歌集があって、その内面を物語る主観的な資料には事欠かないものの、人生の足跡をきちんと辿れるような客観的史料には乏しい。一方、清盛にはその心情をみずから吐露したような資料は乏しいけれども、何年何月に何をしたかを伝える史料は豊富に残されています。
 そこで、著者は、西行の内面と清盛の外面をいわば合せ鏡のように対照するという極めてユニークな手法を考案し、二人の人生の節目を十年ごとに区切りながら、その足取りと時代の動きをていねいに活写していきます。来年のNHK大河ドラマは『平清盛』。その前に、日本中世史の泰斗によるこの渾身の書き下ろしをご堪能ください。
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↓ 以下は、新潮社の読書誌「波」12月号に載る著者本人の解説文である。

       西行の身体      五味文彦

 文学作品から歴史を読み解こうという私の試みは『平家物語、史と説話』(平凡社ライブラリー)に始まり、『「徒然草」の歴史学』(朝日選書)・『梁塵秘抄のうたと絵』(文春新書)を著したあと、いよいよ和歌について考える段になって大きな壁に直面した。
 藤原定家の日記『明月記』を読んでいても、なかなか定家の和歌の世界に入ってゆけないのに、どうして文献史料の少ない歌人たちの和歌を歴史学的に取り扱えるのであろうか、という壁である。そこで注目したのは和歌に添えられた詞書である。絵巻を詞書から探った試みと同様に、和歌を詞書から探ってみたらどうか。いわば「詞書の歴史学」を試みればよいと思った。
 その面から見渡したところ、詞書の多い作品として西行の『山家集』が目に入ってきたが、この試みを後押ししてくれたのが、西行学会からの講演依頼である。その要請に応じて詞書を整理し、歴史的に位置づけてゆくなか、しだいに和歌の内容もわかるようになってきた。分析の柱となったのは、かつて『中世の身体』(角川学芸出版)で探った身体という考え方と、『平清盛』(吉川弘文館)・『後白河院――王の歌』(山川出版社)で探った人物史の方法である。
 西行の身体に即してその和歌を読むうちにしだいに輪郭が見えてきた。西行は何度も自らの身体を変換させ、また移動させて新たな地平を手に入れてきた。すなわち遁世聖にはじまって高野聖、西方修行僧、勧進聖、歌僧などへの変換、そして平泉・厳島・高野山・吉野・大峯・熊野・讃岐、伊勢といった移動である。その身体から和歌がいかに詠まれたのかを考えたのである。
 とはいえ和歌以外の文献史料が数少なく、その生涯を時代とともに探るのは容易ではない。そうした時に気がついたのが、西行が平清盛と同じ年に生まれたことである。二人を比較して探ってゆけば、おのずから時代が見えてくることになるであろう、という目論見により、人物史の方法に沿って二人の動きを十年刻みで考えてゆくことにした。
 その結果、二人は微妙に交錯しながら時代を生きてきたことがわかった。西行がこの時代を文化の面で拓いていったのに対し、清盛は政治の面で拓いていった。そこでタイトルも「西行と清盛 時代を拓いた二人」となった。二人の動きは、今の時代にも通じるものが少なからずある、そんな思いを込めての副題である。
 こうして本書は成ったのだが、ここまで来ると、その次が欲しくなる。西行の大きな影響を受けた後鳥羽院が視野に入ってきたが、ここでは「詞書の歴史学」は通じない。どう攻めるか、また課題を負った。(ごみ・ふみひこ 放送大学教授)
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五味文彦/ゴミ・フミヒコ

1946年生まれ。東京大学文学部教授を経て、現在は放送大学教授。東大名誉教授。『中世のことばと絵』でサントリー学芸賞を、『書物の中世史』で角川源義賞を受賞し、以後、日本中世史研究をリードして来た。近年の著書に『後白河院―王の歌―』(山川出版社)、『日本の中世を歩く』(岩波新書)、『躍動する中世』(小学館)などがあり、同じく共編著に『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)などがある。

「立ち読み」も出来るのでアクセスされたい。

帚木蓬生『蛍の航跡―軍医たちの黙示録』・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     帚木蓬生『蛍の航跡―軍医たちの黙示録』・・・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・・・・新潮社 2011/11/22刊・・・・・・・・・・・

     もう二度と、祖国の地を踏むことはできないのだろうか――。
     将官の精神鑑定を行った「私」も、密林を彷徨い逃げる「私」も、
     抑留され疑心に囚われた「私」も、元はただの医学生だった。
     マニラ、ラバウル、ビルマ、ニューギニア、そしてシベリア――。
     故郷から遠く離れた戦地で、若き十五人の軍医たちが見た「あの戦争」の深遠なる真実。
     現役医師の著者、入魂の「戦争黙示録」ここに堂堂完結!

このブログでも何回も採り上げてきた著者の本である。
先ず、新潮社の読書誌「波」2011年12月号より、下記の記事を引いておく。
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     帚木蓬生『蛍の航跡―軍医たちの黙示録―』刊行記念特集
            【インタビュー】「遺言三部作」を書き終えて・・・・・・・・・・帚木蓬生

『蠅の帝国』と『蛍の航跡』あわせて千八百枚で、三十人の軍医が体験した「あの戦争」を描けたことは、貴重な体験でした。もし軍医を主人公にした長編小説を書いていたら、これほどたくさんの戦地を取り上げることはできなかっただろうし、私の体ももたなかったのではないかと思います。短編の集積だったからこそ、一編書き終えるたびに、気持ちを切りかえて、書き続けることができました。
 すべてを書き終えたあとで、地域ごとに作品を分類しました。七月に刊行した『蠅の帝国』には、主に日本国内と満州の軍医を描いた作品が収められており、『蛍の航跡』には、南方諸島、シベリアなど故国から遠く離れた戦地が舞台のものが入っています。
 三十編のなかで、最初に書き上げたのは「抗命」です。「震える月」(『風花病棟』所収)を書くときにインパール作戦について調べた経験があり、主人公が私と同じ精神科医でもあるので、書きやすいかもしれないと感じたのです。最後に書いたのは「下痢」でした。二編とも『蛍の航跡』に収録されています。
 三人称や神の視点ではなく、一人称の「私」という視点を採用したのは、現在進行形で戦地の状況を描写できると思ったからです。登場する軍医は、教育の背景も出身地も違う別人格ですが、全員に、自分だったらどう選択し、行動しただろうかという私自身の思いが投影されているといってもいいでしょう。
 状況の悲惨さという意味では、『蛍の航跡』の方が『蠅の帝国』を上回るかもしれません。シベリアで、自分がどこにいるのか判らないまま家畜同然に扱われたり、参謀が部屋の中で練り上げた作戦に従って不毛な行軍をさせられたり。そして、熱帯の厳しい気候、マラリア、餓死への恐怖。ニューギニアに派遣された軍医の記録を読み、「地獄」以外の言葉が思い浮かびませんでした。さきほど名前をあげた「下痢」は、ニューギニアの山中行軍を描いた作品です。
『蠅の帝国』刊行後、先輩医師や東大剣道部時代の同期、読者の方からもたくさんのお手紙をいただきました。長くお付き合いをしていたにもかかわらず、その先生が海軍依託学生であったことを初めて知ったり、作中のエピソードを補完する情報を教えられたりして、驚きました。「蠅の街」で、京都帝国大学原子爆弾症調査班が広島県で遭難したことを書いたのですが、いまも現地では慰霊祭が催されており、参拝しているOBの方もいらっしゃるそうです。埋もれかけていた記憶を掘り起こすことができたのかなあと、それだけでも書いた意義があったのかもしれないと、胸が熱くなりました。
「若い先輩医師」たちが、徒手空拳で患者を治療しなければならなかったときに感じたに違いない苦悩と辛酸はどれほどのものだっただろうか。戦争さえなければ、教育、研究、臨床の場で、どれだけの成果を上げることができたのか。そのふたつを考えながら、書き進めていきました。記録を残すことができなかった軍医たちもたくさんいたわけです。墓場まで自分の見たことを持っていこうと決め、口をつぐまれた方。そして、日本に戻ってくることもできず、戦死した方。そういった方たちが感じた無念はいかばかりだったのかを、執筆中、何度も想像しました。
 もうひとつ頭の中にあったのが、「医学史」で取り上げられることのない普通の医者たちが、命令によって送り込まれた場所で、いかにして全力を尽くしたのか。それを書き残しておかなければならないという使命感です。その意味でこの二作は、軍医たちに捧げた「鎮魂記」であると同時に「医学史外伝」でもある。そう自負しています。
 白血病の闘病中に書きあげた『水神』、病床で書き始め退院後に脱稿した『ソルハ』、そして再発を恐れながら執筆を進めた『蠅の帝国』と『蛍の航跡』の「軍医たちの黙示録」。これだけは残しておかなければならないと、祈りながら書いたこの「遺言三部作」を完結させることができ、素直に嬉しく思っています。退院して三年経ちました。これからはもう遺言ではなく、一年一年、生きられたことを記念する意味で、新しい小説を紡いでいきたいと思っています。書きたいテーマは、たくさんありますから。 (ははきぎ・ほうせい 小説家)
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前著『蝿の帝国』について、「波」2011年8月号より 引く。

       【インタビュー】軍医たちに捧げるレクイエム      帚木蓬生

「軍医」に関する資料を集め始めたのは、九大精神科で医局長をしていた一九八七年頃からです。大学の図書館にある医学専門誌のエッセイ欄を調べて、そこに元軍医たちが「戦争」について書いたものを見つけるとコピーをとって段ボール箱に入れていきました。いつか何かの役に立つかもしれない、という程度の動機からです。翌年大学を去ってからも、週に一度は大学に通っていたので、収集を続けました。元軍医たちの書き遺した文章は、職業柄か、ディテイルまでしっかりと書きこまれた客観的なものが多く、資料としての強度がありました。
 二〇〇八年の五月から六月にかけて、一メートルほどの高さになっていた資料を、満州、樺太、インパール、フィリピン、広島、沖縄など地域別や、陸軍、海軍、陸海軍の航空隊など軍の編制別に分類したんです。その作業中に、「あの戦争」を軍医たちの目を通して、戦地別に描いていく短編群が書けるかもしれないと思い始めました。七月に白血病に罹患していることが分かり、実際に『蠅の帝国―軍医たちの黙示録―』の執筆を始めたのは入院生活が終わった二〇〇九年からです。
 調べる前は私もそうでしたが、どういう人間が軍医になったのかも、育成過程も、戦争中に軍医が果たさざるを得なかった役割も、いま知っている人はほとんどいないのではないでしょうか。おそらく、現役の医師たちも知らない。膨大な数の普通のお医者さんたちがあの戦争に駆り出されたにもかかわらず、医学史で取り上げられる軍医関連の題材は、慰安婦問題に関することか七三一部隊についてのものがほとんどです。生きてさえいれば、研究や地域の医療現場で元々志していた仕事を全うできたに違いない若い医師たちが、戦場で何を見て何を感じたのかを、医学者としての後輩である私が、人々の記憶から消え失せてしまわないように書き残しておかねばならない。そんな義務感が、書いているときにずっと心の中にありました。
 命令ひとつでどこへでも飛ばされるし、与えられた状況下で全力を尽くし続けても、補給が絶たれ薬も医療器具もなくなれば、何もすることができなくなる。兵站病院をたたみ撤退しなければならないときには、連れて逃げることのできない傷病兵に、手榴弾や毒薬を与えなければならない。亡くなった将兵の記録もとらなければいけない。もちろん軍医たちが死ぬことだってある。自殺をした軍医の記録もたくさんありました。どうして彼らは死ななければならなかったのかと、涙が出たこともあります。敗戦後に「軍医」からただの「医師」に戻った人たちも、自分だけが生き残ったことについての罪悪感なり、責任なりを背負って、医療に関わり続けたわけです。戦争で散った軍医たちの無念さとともに、生き残った軍医たちの複雑な感情にも思いを馳せながら書いたこの小説は、軍医たちに対するレクイエムでもあったのかもしれません。三十年を超える作家生活で、おそらく初めて「献辞」を入れました。捧げたのは、陸海軍の軍医たちに対してです。
 私自身が戦争を経験していないからこそ書けた、という側面もあるでしょう。資料に書かれた事実のひとつひとつが目新しく感じられました。ですから、書くときにも、読者もこのことは知っているだろうと筆を省くことができないんです。自分が知らなかった事実については、丁寧に描写してあります。戦争を知らない読者の方たちにも、この本に登場する十五人の軍医たちの目を通して、あの戦争の質がどういうものであったのかを感じ取っていただけるのではないかと思っています。
 今作で取り上げた戦地は、広島や沖縄、東京のほか、満州、樺太などいわゆる外地が主です。十一月には、同じく『軍医たちの黙示録』というサブタイトルがついた作品集を刊行する予定で、そちらでは、南洋諸島やシベリアなどに行った十五人の軍医を描きました。
 いまはふた月に一度、白血病が再発していないかどうか検査し、免疫力が落ちないよう、日々気を付けて生活しています。日本にいるお医者さんの半分でもこの本を買ってくださったら、軽く十万部突破しますから、そうなると私の免疫力もあがって、長生きできるんじゃないでしょうか(笑)。

帚木蓬生/ハハキギ・ホウセイ

1947年、福岡県生れ。東京大学仏文科卒業後、TBSに勤務。退職後、九州大学医学部に学び、現在は精神科医。1979年に『白い夏の墓標』を発表し直木賞候補となった。『三たびの海峡』で吉川英治文学新人賞、『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、『逃亡』で柴田錬三郎賞、『水神』で新田次郎文学賞、『ソルハ』で小学館児童出版文化賞など数多くの文学賞を受賞。他に『臓器農場』『安楽病棟』『国銅』『千日紅の恋人』『インターセックス』『風花病棟』『やめられない―ギャンブル地獄からの生還―』『蠅の帝国―軍医たちの黙示録―』など多数の著作がある。

「立ち読み」も出来るので、お試しあれ。

詩人たちの詠った3.11──アンソロジー詩篇・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 東電・福島第一原発3号機の爆発の写真。

     詩人たちの詠った3.11──アンソロジー詩篇・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

世界を震撼させた東日本大震災・大津波は九ヶ月経った今でも大きな傷痕を私たちの心の中に残している。
今回の事件に際して詩人たちは、どう詠ったのか。
現代詩手帖「現代詩年鑑2012」に載る作品からアトランダムに引いてみた。 ご覧ください。

     言葉・・・・・・・・・・・谷川俊太郎 

    何もかも失って
    言葉まで失ったが
    言葉は壊れなかった
    流されなかった
    ひとりひとりの心の底で

    言葉は発芽する
    瓦礫の下の大地から
    昔ながらの訛り
    走り書きの文字
    途切れがちな意味

    言い古された言葉が
    苦しみゆえに甦る
    哀しみゆえに深まる
    新たな意味へと
    沈黙に裏打ちされて
    ──「朝日新聞」5月2日 

     死者にことばをあてがえ・・・・・・・・・・逸見庸 

    わたしの死者ひとりびとりの肺に
    ことなる それだけの歌をあてがえ
    死者の唇ひとつひとつに
    他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
    類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
    百年かけて
    海とその影から掬(すく)え
    砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
    水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
    石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
    夜ふけの浜辺にあおむいて
    わたしの死者よ
    どうかひとりでうたえ
    浜菊はまだ咲くな
    畦唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むな
    わたしの死者ひとりびとりの肺に
    ことなる それだけにふさわしいことばが
    あてがわれるまで
    ──「文学界」6月号

     短い暮らし・・・・・・・・・・・和合亮一

    二時間だけの帰宅が許されるなら
    私は何をするだろう

    玄関先の靴をそろえる
    茶の間で泣く
    祖母の写真を鞄に入れる
    持って行きたい本を選んでやめる
    パソコンのスイッチを入れてみる

    洗面所の鏡に顔を映す
    汗と涙で目元が濡れている
    お風呂場に
    お湯を溜めてみようか
    トイレの水を流してみようか
    冷蔵庫を開けてみると
    いろんなものが冷たくなっている

    電話 通じる
    父と母に電話したくなる

    寝室では 布団に寝転がる
    目を閉じる 放射能の吐息

    風
    潮鳴り
    窓 雲間に光
    普通の暮らし

     二時間の終わり
    ──詩集『詩の邂逅』6月

      地上・・・・・・・・・・・・渋谷卓男

     その眼は
     国が廃墟に変わるのを見た人の眼だ
     地平を埋める瓦礫の上に立ち
     くりかえされる復興と破壊とを
     すべて見届ける人の眼だ

     その眼は
     故郷に無数の亡骸を埋めた人の眼だ
     一人の喜びと悲しみとを
     誰もが忘れたあとも
     みな記憶し続ける人の眼だ

      泣け
      なぜと問うな
      足もとの土に手を置き
      赤子となって涙を流せ

     その人は一輪の花を捧げ持つ
     未だ咲かぬ
     咲くべき時を待ち
     永遠にふくらみつづける一輪のつぼみ
     その花だけを灯りのように掲げ
     眼を上げた人がいま
     ひとけの絶えた地上を歩きはじめる
     名は知らない けれど
     少し前を行くうしろすがたを
     私たちは生まれる前から知っている
     ──「冊」43号 6月     

     記憶の目印 四編 ・・・・・・・・・安水稔和

      声──気仙沼 おなり穴

     揺れて崩れて燃えて流れて
     波とともに押し入ってきたもろもろ
     家も車も船までも。
     闇の奥から聞えてくるのは
     せめぎあう水の声
     水底を漂い歩く人の声。
      *神明崎五十鈴神社下の岩屋。

      岩の根──唐桑半島 折石

     折れて立つ岩が
     ふたたび折れて
     折れてそれでも。
     それでも立っているかしら
     泡立つ波のあいだに
     波の下から直に。
      *明治二十九年三陸大津波で折れた柱状の岩。

      一本の木──陸前高田 高田松原

     押し倒されて
     引きちぎられて根こそぎ
     なにもなくなった浜に。
     それでも立っている
     人のねがいの一言のように
     たったひとりで。
      *長さ二キロの浜に七万本の松が続く名勝。

      波のむこうに──広田半島 椿島

     風の日には波をかぶり
     霧の日には姿を消し
     凪の日にはぽっかりと
     岬の先に浮いていた島よ。
     椿咲くあの小さな島は
     今。
      *太平洋岸の椿の自生地の北限。
     ──「詩人会議」7月号

      わが亡霊たち・・・・・・・・・・・平林敏彦

     水のなかでむすばれた手が
     ふいに ほどけていく
     あれはだれの指
     声をあげる
     すでにこの世のことではなく

     ひとは
     ながく みじかい一期を生き
     かすかな水しぶきをあげ
     ゆくえも知れず消えていく
     死の影をつれ
     寄るべないその場所へ
     ほの暗い水路を浮き沈みしながら
     亡霊たちがながされている
     あとになり さきになり
     ただ生きさらばえた傷あとを
     さらになぶり

     ときにはにぎやかに
     ひしめき 通りすぎていく
     青ざめたうなじや二の腕に
     怨みつらみの痣をつけ
     いぎたなく重なり合って
   
     日はすでに落ち
     暮した町も 家族の名も
     塵にまみれたくさくざの記憶
     かわした言葉の一片すら
     あらまし忘れかけて

     だが亡霊たちはながれていく
     死ぬためについやした生涯の
     そのときどきの いじましい善意や
     まぎれもない殺意の
     後始末もつけられずに
     
     むなしいあらがいに生きはぐれ
     まれには死がかがやいて見えたあの日
     荒磯にくくられ
     いのちのきわでふるえていた生身を
     息がとまるまで抱きしめてくれたのは
     だれだったのか

     還るべきその場所へ
     亡霊はながされ
     水のなかでふれていた手が
     ふいにほどけ
     中有につながれた糸も断たれて
     生死のあわいをつたい
     さきになり あとになり
     未明の河口にむかって

     亡霊たちよ
     はげしく打ち寄せる波
     その深みにおちてむらがり
     すべてが終わるたまゆらのとき
    
     ひとかげもない
     冥い水辺にほのめく   
     あえかな
     火薬のけむり
     ──「火の鳥」24号、9月
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なるべく判りやすい、現実感のある作品を選んでみたが、いかがだろうか。
未曾有の、こんな惨禍を前にしては、私たちは言葉を失うが、それでも詩人たちは黙っていることが出来ずに、また「機会詩」としても詠ってきたのである。
映像として圧倒的な迫力のある「悲惨」を目の前にしては「言葉」は、とかく色あせる。
「機会詩」として掲げる所以である。


     
  
冬海へ落ちもせざりし千枚田・・・・・・・・・・・・・・・津久井進子
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  冬海へ落ちもせざりし千枚田・・・・・・・・・・・・・・・津久井進子

掲出した句に合わせて「千枚田」の写真を載せる。これは石川県能登の輪島市にある「白米千枚田」のものである。
写真中にも明記されているようにKENJI AOYAGI 氏が著作権をお持ちの作品である。
拝借した御礼に、ここに明らかにしておきたい。

句に合わせて冬の棚田の写真を出したかったが、残念ながら冬田のものはなかった。
ここで「白米千枚田」の紹介をしておきたい。ここは輪島市内から東へ車で15分のところ。
104枚の田があるそうである。海原へ向かう斜面に、これだけの田が広がると圧巻であろう。

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千枚田、棚田というのは全国各地にあり、なかでも三重県紀和町の「丸山千枚田」は丸山地区の斜面に2200枚余の田を数える日本でも最大規模の棚田だが、残念ながら、ここは山に囲まれた山地で海に面していないから、掲出した句には合わないので見送った。

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写真③は秋の千枚田の稲刈の頃の様子である。

棚田は、土地の有効利用として、斜面に石垣を築いて狭い面積の田を層状に積み上げた、ものすごい手間の要るものである。
米余りの時代になって、かつ農耕の担い手がなくなり、棚田は荒廃する一方であり、今ではボランティアを募って棚田のオーナーになってもらい、その資金で地元の農家が維持管理するという苦肉の策で運営されているというのが実情である。
棚田協議会のようなものが組織されて、全国的な連携を図ってやられている。

今日は、たまたま千枚田を詠んだ句を引いたので、千枚田のことを先に書いたが、本来は「冬の海」「冬の波」あるいは「寒潮」のことを書くのが主旨であるので、以下、冬の海のことと、それを詠んだ句を引きたい。
「冬の海」と言えば、暗く、荒涼として、時化ていることが多い。これは主として北国の海のことで、南国の海は冬でも明るく、凪いでいることも多い。
しかし、冬の海と言えば、語感からして、やはり北国の海を連想することが多いだろう。

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写真④は瀬戸内の牛窓の冬の海である。OCEAN2氏の撮られたものである。
借用した御礼を申し上げておきたい。
暗いが凪いだ瀬戸内の冬景色が、よく表れている。
以下、冬の海、冬の波、寒潮を詠んだ句を引いて終る。

 灯台のまたたき長し冬の海・・・・・・・・富安風生

 冬浜に老婆ちぢまりゆきて消ゆ・・・・・・・・西東三鬼

 鷺とんで白を彩とす冬の海・・・・・・・・山口誓子

 冬浜に人現れて消えにけり・・・・・・・・池内たけし

 一望の冬海金粉打ちたしや・・・・・・・・中村草田男

 喪の家に冬海月をあげにけり・・・・・・・・大野林火

 ひとり帰すうしろに夜の冬の海・・・・・・・・篠田悌二郎

 冬の海てらりとあそぶ死も逃げて・・・・・・・・飯田龍太

 一瞬の紅刷き冬の海昏るる・・・・・・・・逸見嘉子

 立ちあがる浪の後の冬の海・・・・・・・・平野吉美

冬波の百千万の皆起伏・・・・・・・・高野素十

 玄海の冬浪を大と見て寝ねき・・・・・・・・山口誓子

 冬の涛あらがふものを怒り搏つ・・・・・・・・富安風生

 冬波をおそれに来しか見に来しか・・・・・・・・谷野予志

 天垂れて冬浪これをもてあそぶ・・・・・・・・木下夕爾

 胸先に冬涛ひかり暮れゆけり・・・・・・・・角川源義

 立ち上りくる冬涛を闇に見し・・・・・・・・清崎敏郎

 冬浪のひかり鴎となりてたつ・・・・・・・・桑原志朗

 寒潮の涛の水玉まろびけり・・・・・・・・飯田蛇笏

 寒潮に少女の赤き櫛が沈む・・・・・・・・秋元不死男

 流人墓地寒潮の日のたかかりき・・・・・・・・石原八束

 冬潮といへどもぬくし岬の果て・・・・・・・・鈴木真砂女

 ただ寒潮灯台チヨークほどに立つ・・・・・・・・保坂春苺


秋の子のわたし真つ赤な彼岸花の野をするすると過ぎゆかむもの・・・・・・・・・・・村島典子
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──村島典子の歌──(10)

     秋の子のわたし真つ赤な彼岸花の
          野をするすると過ぎゆかむもの・・・・・・・・・・・村島典子


          蛇を踏む犬・・・・・・・・・村島典子

 尾根道の木の根の陰に潜まりし縞へびをわが犬は踏みたる

 思ひきや蛇の愕きはいかならむ悠然と崖くだりゆきしを

 このごろは蛇に遇はずと言ひし日に蛇を踏みたるわたくしの犬

 その死より幾日すぎける道端の鼬のむくろ、毛の裘(かはごろも)

 ファンタジーの世界なりけり竹林はクローン竹のしづけさに満つ

 音楽の響りやみしとき静寂を待ちうけしごと鳥鳴きいだす

 鳥たちはとほくへ合図をおくるらし人はもむかし袖振りにけり

 灼けつちを喘ぎながらに帰りつく我が家といふを犬認識す

 蛇の頭を踏みしわが犬炎天の庭に伸びをり目を瞑りをり

 犬といへど瞑想いなりふかぶかと夕暮はきぬ犬のかたへに

 老びとは幼きものの傍らに、山の広場にブランコを漕ぐ

 天国の余り風なり風の漕ぐぶらんこはもう夕雲のなか

 かんぷーは髪むすぶ紐とりどりの色ゴムさげて女童来り

 六歳の少女のももいろワンピース竿に揺れをりうれしきごとし

 ママゴトのやうなお盆のお供へをけふはせりけり手を合せけり

 仏壇も位牌もなけれど父母は帰りきませりこの数日を

 戒名を称ふることのたいせつさ私の中へ死者を呼び出す

 『左岸だより』巻末にきて作者なる玉城徹の死のとき迫る

 夜の窓あけて呼ぶなり月明に赤のワインを供せむとして

 大水にことしの蛍は流されぬ吉野、黒滝、天川、熊野

 去年(こぞ)雨の黒滝川に明滅せし吉野のひとのたましひ、ほたる

 一年は人を老いしむ大津波、台風いはむや原発惨事

 花の壺と呼ばれし果実いちじくを二つに割りて朝の食卓

 白き汁に口をぬらして食(たう)べたりたちまち秋の野の広がれり

 まんまんと晩夏のみづは流れをり宇治川を越ゆ大和へ入りぬ

 黄金に田畑実れるたたなづく青垣やまとへひと日たびびと

 台風に伏す稲の辺に跪く農夫ありけり見て過りたり

 みつみつと菱の葉しげる沼の面の白鷺はそのうへに佇ちをり

 厳(いつか)しきこゑ荒らげる婦人あり後部座席に子を叱るらし

 阿房列車にあらねどわれは百のたのしみすこし味はひにけり

 秋の子のわたし真つ赤な彼岸花の野をするすると過ぎゆかむもの
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この歌群は「晶」76号に載るものである。
愛犬の散歩の途中で犬が縞蛇を踏んだことを契機として、この一連は構成された。
真ん中すぎのところには、この前の号で紹介した奈良は吉野の、先師・前登志夫の死にまつわる「黒滝村」の一連を曳いて詠われている。
一連は、東日本大震災にも思いは巡って、沈潜した情趣ふかい歌群として終始していて、好ましい。

     
ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇にそそのかさるる恋よあれかし・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇に
       そそのかさるる恋よあれかし・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌の前後に

  冬薔薇を剪(き)るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす

  言へばわが心さびしもしろたへに薔薇咲き初めて冬に入りたり


などの歌が載っているが、いずれも、四季咲きの薔薇のうち、初冬に咲く薔薇の命の貴重さを詠っている。

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近代バラの代表格である大輪四季咲きは、暖地では12月まで咲きつづく。
この冬バラは比較的寒さには強く、霜いたみすることもないが、剪ればもう咲いてくれない、という儚さがある。
露にしっとりと濡れた冬バラを切るときは、この地上の最も貴いものを奪うという思いのためらいがあるのである。
これらの歌は、そういう気分を表現している。
もちろん、この露地栽培のものに拘らず、温室栽培のものは季節を問わず出荷されていて、それも冬バラには相違はないが、冬薔薇(そうび)の持つ風情には及ばない。

バラと言えば思い出すのは、オランダの花の取り扱い会社「東インド会社」だが、数年前にオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの、いわゆるベネルックス三ケ国を歴遊した際に、この会社からオランダ直送の「カサブランカ」という百合を家に留守する妻と、妻と私との共通の女の友に送ってもらった。黙っていたので、妻も友人も驚いていたが、いい花で喜んでもらった。
その後、何回かバラを直送してもらってプレゼントしたことがあった。
妻亡き今となっては、いい思い出になってしまった。

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以下、冬薔薇を詠んだ句を引いて終る。薔薇は「そうび」と音読することもあるので一言。

 尼僧は剪る冬のさうびをただ一輪・・・・・・・・山口青邨

 冬ばらの蕾の日数重ねをり・・・・・・・・星野立子

 ケロイド無く聖母美し冬薔薇・・・・・・・・阿波野青畝

 しろたへに鵜匠の門の冬薔薇・・・・・・・・石原八束

 冬薔薇日の金色を分ちくるる・・・・・・・・細見綾子

 冬薔薇やわが掌が握るわが生涯・・・・・・・・野沢節子

 冬薔薇の花弁の渇き神学校・・・・・・・・上田五千石

 山国のわづかにひらく霜の薔薇・・・・・・・・福田甲子雄

 四季咲きの薔薇の小さき冬の色・・・・・・・・今井千鶴子

 冬薔薇咲きためらひて十日ほど・・・・・・・・木村有恒

 冬薔薇一輪にしてまくれなゐ・・・・・・・・吉田悠紀

 火の色に冬薔薇凍てし爆心地・・・・・・・・山田春生

垢じみたこころ洗ひたし 冴えわたる極月の夜に月の利鎌だ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    垢じみたこころ洗ひたし 冴えわたる
       極月の夜に月の利鎌(とがま)だ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
ご存知のように「月」にはほぼ29日周期で満ち欠けがあるが、写真のような「利鎌」の形をするのは月齢の中で2回ある。
新月から満ちはじめ上弦の月から満月に至る途中の利鎌と、写真のような下弦の月から欠けが更に進んだ利鎌、である。この二つの場合には「弧」の向きが逆になる。
詳しくは「下弦の月」というのをご覧いただきたい。

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写真②は上弦の月である。↑

予めお断りしておく。はじめに掲出したのは今日の月齢の月ではない。私の歌に合わせた月齢の画像を掲げたものである。
写真①のような月は「有明月」というが、これは月齢でいうと26日頃の月である。
「有明の空」というのは夜明けの空のことで、そこに昇る月が有明月ということである。
今年でいうと12月21日頃が、ほぼこんな形の月になるだろう。
これは本来は十六夜(いざよい)以降の月の総称だが、この時期に限定すれば「暁月」と呼ぶ方が正確であろう。
古くは「二十六夜講」などの風習があった。
「新月」からはじまって月には月齢のそれぞれの時点で呼び名がある。これも詳しくは先に紹介したサイトでご覧いただきたい。
「三十日月」というのは、もうすぐ「新月」になって消えてしまうという頃の月の姿である。

先日、十日夜には「皆既月食」が久しぶりにあったのだが、あいにく雲がかかったり時たま雲が晴れたりとかの天気で、詳しく見ることはしなかった。
今朝6時すぎに起きてカーテンを開けたら、夜明け前の薄暗い西の空に、満月を過ぎた月齢17.9の月が光っていた。

私が懇意にお付き合いしていただいた 高島征夫さんのサイトには毎日の「暦」─その日の日の出、月の出などのデータが載っていたが、
京都府の場合、今日の月の出は19:19、南中時は01:34、月の入りは8:43。月齢は17.9 あたりではないかと思う。
まさに今朝、夜明けまえに私の見たのは、そういうタイミングだったのであろうと思う。
高島さん亡き今となっては、聞くことは出来ないが、詳しくは、ネット上の国立天文台の「こよみの計算」にアクセスすれば簡単に知ることができる。

「利鎌」の説明をしていて、つい月の話になったが、本来、話題にすべきは「垢じみた心」を洗いたい、ということであろうか。
私のように長い年月を生きて来ると、体も心も、すっかり「垢」じみたものになってしまっている。
「冴えわたる」極月(12月の異称)の夜の月の「利鎌」を見ていると、それで自分の心の垢を削ぎ落したい、という想いに捕われるというのである。
これらは「比喩」表現であるから、言葉のあれこれの詮索は無用である。

俳句には「寒月」「冬の月」「月冴ゆる」「月氷る」「寒三日月」などの季語が見られる。
さむざむとした青白い月で、毎月見られる月ではあるが、この時期に見ると、厳冬を思わせる月の凄まじさがある。透徹した空気のため、研ぎ澄まされたような、刺すような寒さが感じられて、美しい。「寒月」と言えば、特に冷厳な凍りついたような月を言い、氷輪というようで、人を離れて寂として輝いている。「冬三日月」は仰向きはじめた形で、ひえびえと利鎌のように鋭くかかる。
『枕草子』には「すさまじきもの、おうなのけさう、しはすの月」と書かれている。
『源氏物語』朝顔の巻では「花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折りなれ。すさまじきためしに言ひ置きけむ人の、心浅さよ」とある。

 寒月や僧に行き合ふ橋の上・・・・・・・・与謝蕪村

の句は、そういう雰囲気を、よく表現し尽している。

以下、冬の月を詠んだ句を引いて終る。

 我影の崖に落ちけり冬の月・・・・・・・・柳原極堂

 冬の月をみなの髪の匂ひかな・・・・・・・・野村喜舟

 吹雪やみ木の葉の如き月あがる・・・・・・・・前田普羅

 冬三日月羽毛の如く粧ひ出づ・・・・・・・・原ヨウ子

 寝ぬる子が青しといひし冬の月・・・・・・・・中村汀女

 あたたかき冬月幸を賜はるや・・・・・・・・石田波郷

 寒月に大いに怒る轍あり・・・・・・・・秋元不死男

 人穴を掘れば寒月穴の上・・・・・・・・富沢赤黄男

 寒月や耳光らせて僧の群・・・・・・・・中川宋淵

 降りし汽車また寒月に発ちゆけり・・・・・・・・百合山羽公

 煙突と冬三日月と相寄りし・・・・・・・・岸風三楼

 寒の月酒にもまろみありとせり・・・・・・・・相生垣瓜人

 寒三日月不敵な翳を抱きすすむ・・・・・・・・野沢節子

 寒月光いつか一人となるこの家・・・・・・・・古賀まり子

 寒月の作れる陰につまづける・・・・・・・・高木貞子

 寒月にまぶたを青く鶏ねむる・・・・・・・・田中祐三郎


山茶花のくれなゐひとに訪はれずに・・・・・・・・・・・橋本多佳子
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    山茶花のくれなゐひとに訪はれずに・・・・・・・・・・・橋本多佳子

山茶花さざんかはツバキ科の常緑の小高木で、葉に光沢があり、初冬に椿に似た、一回り小型の五弁の花を開く。
この花の咲く期間は長くて11月から咲きはじめて、次々に咲きつぎ、12月中旬の今もなお咲いている。
この木にも早咲き、仲咲き、遅咲きなどの種類がある。
木の下にはハラハラと落ちた花びらが一杯散り敷いている。
色には白、淡紅のほか、しぼりなどさまざまな品種改良されたものがある。
原産地は日本だが、園芸品種として改良され、庭に植えたり、盆栽にしたりする。正しくは「茶梅」というらしい。
山茶花を音読みするとサンザカとなるが、言いにくいので語順が入れ替わって「サザンカ」となったものである。
サザンカについては先にも書いたが、掲出の橋本多佳子の句が引きたくて、出してみた。

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写真②は昔、肥後熊本城主・細川家で改良された「肥後山茶花」である。
「肥後六花」のうちの一つ。

掲出した橋本多佳子の句は、「サザンカが紅ふかく咲いたが、訪う人もなく淋しい」という意味の、老いの寂寥感のただよう作品である。
若くして夫に先立たれ、晩年は奈良で暮らした多佳子の佳品である。
図版③に多佳子の写真を出しておく。

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以下、山茶花を詠んだ句を引いて終る。

 山茶花のここを書斎と定めたり・・・・・・・・正岡子規

 霜を掃き山茶花を掃くばかりかな・・・・・・・・高浜虚子

 無始無終山茶花ただに開落す・・・・・・・・寒川鼠骨

 山茶花のみだれやうすき天の川・・・・・・・・渡辺水巴

さざんくわにあかつき闇のありにけり・・・・・・・・久保田万太郎

 山茶花の散りゆきすでに月夜なる・・・・・・・・水原秋桜子

 山茶花の長き盛りのはじまりぬ・・・・・・・・富安風生

 山茶花の貝の如くに散りにけり・・・・・・・・山口青邨

 山茶花の散るにまかせて晴れ渡り・・・・・・・・永井龍男

 花まれに白山茶花の月夜かな・・・・・・・・原石鼎

 山茶花やいくさに敗れたる国の・・・・・・・・日野草城

 山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ・・・・・・・・加藤楸邨

 山茶花の日和に翳のあるごとく・・・・・・・・西島麦南

 山茶花の咲きためらへる朝かな・・・・・・・・渡辺桂子

 山茶花の散り重なり土濡れぬ・・・・・・・・原田種茅

 山茶花の咲く淋しさと気付きたる・・・・・・・・栗原米作

 山茶花にたまさかさせる日なりけり・・・・・・・・望月健

 白山茶花地獄絵のごと蜂群るる・・・・・・・・高木雨路


ひひらぎの秘かにこぼす白花は鋭き鋸歯の蔭なるゆふべ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    ひひらぎの秘かにこぼす白花は
      鋭き鋸歯(きょし)の蔭なるゆふべ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

柊(ひいらぎ)は、悪魔を祓うとかいう言い伝えで、家の玄関脇に植えられていたりする地味な木だが、鋭いノコギリ状の葉を持っている。
この木は初冬に、その鋸歯の葉の蔭に小さな白花をつける。季節が寒い冬であり、しかも皆いそがしい12月だから、この花に気づく人も少ないだろう。
今この花の花盛りで11月下旬から咲きはじめた。、傍を通ると、すずやかな佳い香りがする。人によってはスズランに似た香りだという。花言葉は「用心」「歓迎」

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結構かわいらしい清楚な花である。図鑑を見るとモクセイ科の常緑小高木と書いてある。
柊という名前の由来は疼(ひいらぐ)で「痛む」という意味である。
疒(やまいだれ)に旁(つくり)に冬と書く。
熟語に「疼痛」(とうつう)があるのをご存じだろう。
葉の棘に触れると疼痛を起こすことから言う。「いら」とは「苛」で棘を意味する。
本来、この木は関西以西の山地に自生する暖地性の木らしい。
この頃に咲く花としては「枇杷」の花などもある。さざんか、茶の花などは、よく知られているものである。この頃に咲く花は初夏の頃に実をつける習性がある。
年が代って節分になると、この木の小枝に鰯の頭を刺して魔除けの縁起かつぎをする木として、一般に知られているが、この頃では家が小さくなって、この木が植えられる家が見られなくなって、この風習も廃れる一方であろう。
以下、この花を詠んだ句を引いて終る。

 柊の花一本の香かな・・・・・・・・・・・・・高野素十

 柊の花と思へど夕まぐれ・・・・・・・・・・・・・富安風生

 柊の花多ければ喜びぬ・・・・・・・・・・・・・中村草田男

 柊の花のともしき深みどり・・・・・・・・・・・・・松本たかし

 粥すくふ匙の眩しく柊咲く・・・・・・・・・・・・・長谷川かな女

 花柊母の伝言短くて・・・・・・・・・・・・・小西敬次郎

 柊の香がする夜昼田がねむり・・・・・・・・・・・・・森澄雄

 柊の花を見し日や眼帯す・・・・・・・・・・・・・細見綾子

 父とありし日の短さよ花柊・・・・・・・・・・・・・野沢節子

 柊の花音もなく海は夜に・・・・・・・・・・・・・村田脩

 花柊袖通すものひやひやと・・・・・・・・・・・・・永方裕子

 弥陀の扉を花柊の香へひらく・・・・・・・・・・・・・吉野義子

 花柊一つぶ髪に真野間来て・・・・・・・・・・・・・中村明子


明日のため今日の願いがありましてハナカタバミの葉のやすむ宵・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
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     明日のため今日の願いがありまして
       ハナカタバミの葉のやすむ宵・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


ハナカタバミ
花片喰(ハナカタバミ)はカタバミ科カタバミ属の多年草である。
学名:Oxalis bowiei
和名でなく学名のオキザリス・ボーウィと呼ばれることも多い。
原産地は南アフリカのケープ地方である。日本へは観賞用として江戸時代に渡来した。
暖地では野生化しているものも見られる。
草丈は5~30センチくらいである。
葉は3出複葉(1枚の葉が3つの小さな葉に分かれた形)である。
小葉は丸みのある倒心形で、細かな毛が生えている。
開花時期は10~11月である。
葉の間から花茎を伸ばし、散形花序を出して濃い桃色の花をつける。
散形花序というのは、茎先からたくさん枝が出て、その先に1個つずつ花がつく花序のことである。
花径は3~5センチと大きく、花の真ん中は黄色い。
日当たりがよい場所を好み、曇っていたり日陰になったりすると花を閉じる。
写真は晩秋の一日、大阪へ注ぎ込む淀川の土堤に野生化したものが撮られた。
さまざまの色の園芸種があるらしい。
鳥海さんが歌に添えられたコメントによると

<夜になると、ハナカタバミは祈るように葉を閉じます。病と闘っていたころ、また葉を開くあしたを思い、希望を感じたものです>

という。私は、そういう現象をまだ観察する機会を得なかった。花言葉は「決してあなたを捨てない」

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ネット上では下記のような記事も見える。

<ムラサキカタバミ(紫片喰)の園芸種で、カタバミ属の植物のうち球根性の種類を園芸上はオキザリスと呼んでいるようです。葉はクローバー形で、色彩の変化に富んでおり、赤紫を始め斑入りなどいろんなのが有るようです。
花色も紅、紫紅、桃、藤、黄、白に複色など多彩です。夏植えで秋咲きの種類が多いのですが、冬~春咲き、夏咲きの種類もあります。球根は指先ほどの小型で、無霜地帯では庭植えもできます。
秋に咲いた花と春に咲く花では、微妙に違うような感じでした。>

歳時記を当ってみたが、句は載っていないようである。ご了承を。


水昏れて石蕗の黄も昏れゆけり誰よりもこの女のかたはら・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    水昏(く)れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり
      誰よりもこの女(ひと)のかたはら・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、巻末の締めくくりをする歌で、私自身でも感慨ふかいものである。
自選60首にも採っているので、Web上のHPでもご覧いただける。

ツワブキは晩秋から初冬にかけて咲く花であり、今の時期の貴重な草花である。
先日採り上げた「アゼトウナ」と同じような色と季節の花である。
四国遍路の路傍にもしきりに咲いていた。
私自身は、格別に愛妻家とも思わないが、振り返ってみると、4冊の歌集の中で、数多くの「妻恋」の歌を詠ってきたことに、改めて気付くのである。
掲出した歌は、何も難しいものではないので、解説は控えるが、歌集『嬬恋』の巻末の一連の歌を引いて終りにしたい。
「石蕗」ツワブキの花は、木蔭に咲く、ひっそりとした花だが、そのイメージを妻に重ねていることを言っておきたい。
花言葉は「困難に負けない」

   嬬恋(つまごひ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  嬬恋を下りて行けば吾妻(あがつま)とふ村に遇ひたり いとしき名なり

  吾妻(あがつま)氏拠りたるところ今はただキャベツ畑が野づらを埋む

  視(み)のかぎり高原野菜まつ黒な土のおもてにひしめきゐたり

  黒土に映ゆるレタスがみづみづし高原の風にぎしぎしと生ふ

  草津なる白濁の湯にひたるときしらじらと硫黄の霧ながれ来る

  ゆるやかに解(ほど)かれてゆく衣(きぬ)の紐はらりと妻のゐさらひの辺に

  睦みたる昨夜(きぞ)のうつしみ思ひをりあかときの湯を浴めるたまゆら

  柔毛(にこげ)なる草生の湿り白根山の夕茜空汝(なれ)を染めゆく

  朱しるく落ちゆく夕日ゆゑもなく「叱られて・・・」の唄くちずさみゐつ

  本白根と地の人呼びぬしんかんとエメラルド湛(たた)ふ白根の火口湖

  水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら

「嬬恋」は長野県から入ってすぐの群馬県の地名である。また「吾妻」というのも、その近辺の地名である。
有名な草津温泉も、この一画にある。私の嬬恋の思いを、これらの地名によせて、一連の作品として綴ったものである。
嬬バカとお取りいただいても、結構である。私は「嬬恋」を宣言することに、何の衒いもない。
「おのろけ」という謗りにも敢えて甘受する。

なお、歌集『嬬恋』は2003年いい時期に上梓できたと思っている。
妻が死んだ後では、「レクイエム」になってしまうので、まだ元気なうちに、妻に捧げることが出来たのを、
妻亡き今になると切実に、いい時期に出せたと、つくづく思い知るのである。

ツワブキの花を詠んだ句も多いので、少し引く。

 石蕗黄なり文学の血を画才に承け・・・・・・・・富安風生

 けふの晴れ狭庭は既に石蕗のもの・・・・・・・・及川貞

 母我をわれ子を思ふ石蕗の花・・・・・・・・中村汀女

 石蕗咲けりいつも泥靴と並びたる・・・・・・・・加藤楸邨

 病まぬ生より病める生ながし石蕗の花・・・・・・・・石田波郷

 石蕗咲いていよいよ海の紺たしか・・・・・・・・鈴木真砂女

 讃歌(ほめうた)や地に沈金の石蕗の花・・・・・・・・文挟夫佐恵

 日もすがら碧空を恋ひ石蕗の花・・・・・・・・飯田龍太

 黄八丈色に石蕗咲き妻が着て・・・・・・・・草間時彦

 そこに日を集めて庭の石蕗明り・・・・・・・・稲畑汀子

 一隅を一切とせり石蕗の花・・・・・・・・和田悟朗

 花石蕗につねのたそがれ誕生日・・・・・・・・きくちつねこ

 大津絵の鬼が杖つく石蕗日和・・・・・・・・谷中隆子

 一族はすぐ縦列に石蕗の花・・・・・・・・坪内稔典

 石蕗咲くや沖はいちにち鉛色・・・・・・・・森田たみ

 一病が老いを早めし石蕗の花・・・・・・・・山本白雲

 野生馬に岬の断崖石蕗咲けり・・・・・・・・波江野霧石

 石蕗咲いて身になじみたる黄八丈・・・・・・・・鈴木みや子



幼児が顔近づけて呼びかける「セントポーリア、セントポーリア」・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
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     幼児が顔近づけて呼びかける
       「セントポーリア、セントポーリア」・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


セントポーリア イワタバコ科 

 学名:Saintpaulia(イワタバコ科セントポーリア属の総称)
 和名:アフリカスミレ(アフリカ菫)
セントポーリアの学名は、この植物の発見者であるサン・ポーリーレール氏の名に由来する。英名はアフリカン・バイオレット。

<一応,四季咲きです。和名は「アフリカスミレ(アフリカ菫)」ですが,いわゆる菫とは違います。ビロードのような毛の生えた丸い葉が特徴で,この葉を葉柄から切り取り挿し木をしておくと繁殖することができます。>

ネット上を見ると、こんな説明がしてあるが、この花は暑さ、寒さには弱い草で、原則として室内栽培の花である。色はいろいろある。花言葉は「小さな愛」「深窓の美女」。

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<室内で育てることを前提とした植物です。花色は豊富で、小型の植物なので場所をとらず鉢花として人気があります。空中の湿度が高い方が好みますが、土が湿った状態にしておくと根が腐りやすい性質があるので注意が必要です。寒さ、暑さに弱く初心者の方は品種を十分に選んだ方がよいでしょう。普通に出回っているものは比較的丈夫なものが多いです。最近は小型のミニ種の人気が高い。>

育て方については、以下のような記事がある。

●空中の湿度が高いのを好みます
●暑さ、寒さに弱い性質があります
●一年を通して室内で栽培する

 <室内向きの植物で、全体的に小型で場所をとらないので鉢植えとして人気があります。花の色はピンク、赤、紫などがあり、特に紫は濃いものから淡い色のものまであります。フチどりが入ったり、しま模様になるものもあります。普通種、ミニ種、茎が伸びるトレイル種などがありますが、初心者は普通種の「オプチマラ」が花つきもよく比較的育てやすい。温度と日当たりが充分あれば一年中咲きます。品種もバラエティーが多く、セントポーリアだけを集めて栽培している栽培家もたくさんいます>

 <室内で一年中育てることになるので結構、葉の上などにホコリがたまりやすい。ときどき葉を痛めないようにホコリを軽くふき取りましょう。また、花や葉に傷が付くとそこから傷みやすいので、咲き終わりの花や枯れかけた花はこまめに取り除くようにしましょう>

 <がんがんの直射日光は葉が焼けただれてしまうのでヤバイ。一年を通してやわらかい光が必要です。レースのカーテン越しの日光がちょうどよいでしょう。もともと弱い光の下でも充分育つ植物で、セントポーリア専門で育てている方は、植物育成用の蛍光灯を用いて栽培する方も多い。これなら室内の窓から離れた暗めの場所でも育つからです
普通は窓際で管理することになりますが、寒さに弱く気温が5℃切るとを枯れてしまいますので、冬場は夜には室内の奥に移動させましょう。暑すぎるのも良くないので、夏場は風通しを良くしましょう。北向きのベランダなども案外よく育ちます(夏場だけ)>

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 <4月から10月は生育が旺盛な時期です。指で鉢土の表面を触ってみて湿り気を感じないくらいになったらたっぷりと与えましょう。冬の時期はあまり育たないのでそれよりは水やりの回数を減らしましょう。水をやりすぎると腐りますので注意。水やりの際、葉に水がかかるとそこだけ葉の色がぬけてしまったり病気にかかる原因にもなりますので、株元からそっとじょうろなどで与えます。
 肥料は薄めた液体肥料を月に1から2回与えます。室温が20から30℃を保てる時期には通常通り肥料を与えましょう。それ以外の時期は必要ありません。やりすぎると花つきが悪くなることがあります>

 <室内で栽培することを前提としているのでにおいがなく軽いものがよい。バーミキュライト5:パーライト5の割合で混ぜた土か、セントポーリア専用培養土を買い求めましょう。>

 <根がよく伸びて鉢の中がいっぱいになるので、1年に1回は植え替えが必要です。適期はだいたい6月下旬がよいでしょう。土は、上の項のものを使用します>

 <葉ざしでふやすのが一番ポピュラーです。根が出るには20℃以上の気温が必要です。温室などの加温設備があれば別ですが、普通は6月から10月の間におこないます。表面に傷の付いていない元気な葉を、3から4cm軸を付けて切り取り、用土の項で説明した土に斜めに差します。土が乾いたら水をやるようにします。ずっと湿った状態にしておくと葉の切り口から腐ることがあります。発根して芽が出てきますので、芽が大きく(2~3枚の葉がでてきたら)小さな鉢に植え替えます。
葉ざしした株はだいたい花が咲くまで、半年から8ヶ月くらいかかります。>



がんがんと鉄筋のびる師走かな・・・・・・・・・・・・高柳重信
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──師走の句態──

  ■がんがんと鉄筋のびる師走かな・・・・・・・・・・・・高柳重信

師走も一週間を過ぎて、いよいよ歳末のあわただしさが本格的になってきた。
今日は「師走」に因む句を採り上げる。

この句は、いかにも前衛俳句の作者としての面目躍如という句であるが、しばらく前は首都圏などでは建築ラッシュで、たとえば東京駅周辺などは様変わりしてきた。
まさに重信の詠んだような光景そのものである。
ただ金融不安から不動産市況も急ブレーキがかかっているが。。。。
もっとも今では「高層建築」は「鉄筋コンクリート」ではなく「鉄骨」作りである。鉄骨を組み上げて外側に外壁パネルを組み付ける工法である。
何階から高層建築というか、など私は知らない。

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  ■極月の三日月寒し葱畑・・・・・・・・・・・・・・大谷句仏

大谷句佛(1875~1943) 明治~昭和期の真宗大谷派僧、東本願寺23世、京都生、法名・彰如、諱・光演、号・愚峰、俳号・句佛、現如上人の次男、地方各地を巡錫、門徒を督励し親鸞650回忌を勤修、画を竹内栖鳳に学び、俳句を子規・虚子らに私淑、書画・俳句に通じる風流人としても知られた。昭和18年歿67才。

十二月の呼び方としては「師走」のほかに、ここに出した「極月」「臘月」など、いろいろあるが、いずれも一年の終りとしての月の意味を孕んでいる。

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  ■極月の人々人々道にあり・・・・・・・・・・・・・・・山口青邨

写真は渋谷のスクランブル交差点である。
この青邨の句は単純でありながら、せせこましい師走の情景を捉えて過不足がない。

  ■師走もつともスクランブル交叉点・・・・・・・・・岩岡中正

という、そのものずばりの句もある。
通行人の懐がぬくいのか、金欠か、さまざまの人々が往来する。
円高と株安で大分損をした人も居ることだろう。

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  ■法善寺横丁一軒づつ師走・・・・・・・・・・・・稲畑汀子

ここらで関西の師走の句も採り上げないと不公平だろう。

法善寺横丁
石畳が続く古い路地で、織田作之助の小説「夫婦善哉」の舞台としても有名。商売繁盛や恋愛成就を祈願した人がかけた水で、全身が苔むした水掛け不動がある。
写真④に見える「正弁丹吾亭」は大阪の文化人の溜り場で、今でも歌人の前登志夫や私の兄事する米満英男氏なども屯していたところである。
その前氏も亡くなって三年以上が経った。

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  ■臘月や錦市場に鯛の粗(あら)・・・・・・・・・・・・・・岡井省二

京の台所といえば、ここ錦市場である。

錦市場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

錦市場(にしき いちば)は、京都市街ほぼ中央に位置する錦小路通のうち「寺町通 - 高倉通」間の商店街で、魚・京野菜などの生鮮食材や、乾物・漬物・おばんざい(京都言葉で日常の惣菜)などの加工食品を商う老舗・専門店が集まる市場。京都独特の食材は、ほぼここで揃う。

鮮魚店400年の歴史を持ち、京都市民からは「にしき」という愛称で呼び親しまれ、「京の台所」として地元の市民はもとより、新京極商店街や寺町京極商店街とともに、観光客や修学旅行生も訪れる観光名所として活気のある市場として賑わう。

スーパーマーケットや百貨店と違い、ここでは新鮮な旬の食材の品質のよさや豊富な品揃えが支持されて市民生活と密着しているところが最大の特徴となっている。そのため価格を高めに設定する店もあるが、高品質や豊富さから「ほんまもん」(本物)を扱っていると信頼し、納得する市民は少なくない。他地域で「錦市場」を銘打つ店が増え、品質を維持するためにも京都府内の商店街で初めて「錦市場」の商標登録を取得している[1]。一方、臨時に「にしき」と銘打った食品コーナーを設ける百貨店も登場している。
京都の目抜き通り四条通の一本北の錦小路通に位置し、赤緑黄の色鮮やかなアーケードにおおわれた石畳の道の距離は、東西390メートル。商店街振興組合に所属する店は約130店舗、道幅は3.2 - 5メートル、道に迫り出して商品や商品棚を並べる店舗が少なくなく実際はもっと狭い。東の端は、新京極と交差し、その先に錦天満宮がある。

ここで業務用の食材を仕入れる割烹、料亭、旅館なども多く[2]、一般向けには京都名物の鱧など鮮魚を扱う店が20店舗以上と一番多い。そのほか伝統野菜とも呼ばれる京野菜、京漬物・豆腐や湯葉・麩・鰻・佃煮・蒲鉾・干物・乾物などから茶・菓子・パン・寿司まで京料理の食材はほとんどここで揃うといっても過言ではない。

年の暮れには正月用の食材を求める客であふれ、上野のアメ横同様の混雑となる。店舗の営業時間は、店にもよるが、おおむね午前九時から午後五時までが目安となっている。水曜日と日曜日に休業する店が多い。


蜂のみが知る香放てり枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・右城暮石
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  蜂のみが知る香放てり枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・右城暮石

「枇杷」はバラ科の常緑高木で、初冬に枝先に三角形総状の花序の花を咲かせる。花は白く香りがよい。庭木としては極めて少なくなった。
実は初夏に熟する。甘くて香りのよい果実である。
枇杷の木は葉が大きくて長楕円形で、葉の裏に毛がびっしりと生えている。葉の表面の色は暗緑色である。
『滑稽雑談』という本に「枇杷の木、高さ丈余、肥枝長葉、大いさ驢の耳のごとし。背に黄毛あり。陰密婆娑として愛すべし。四時凋れず。盛冬、白花を開き、三四月に至りて実をなす」とある。簡潔にして要を得た記事だ。
冬に咲く珍しい植物のひとつである。寒い時期であり、この花をじっくりと眺める人は多くはない。
こんな句がある。

■十人の一人が気付き枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・高田風人子

この句などは、先に書いたことを、よく観察して句に仕上げている。こんな句はどうか。

■だんだんと無口が好きに枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・三並富美

■一語づつ呟いて咲く枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・西美知子

■咲くとなく咲いてゐたりし枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・大橋麻沙子

いずれも「枇杷の花」の、ひっそりと咲く様子を的確に捉えている。

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写真②にビワの実を載せる。このブログ2009/06/26にビワの実の記事を書いた。果実として品種改良され、「茂木ビワ」が有名である。
以下、枇杷の花を詠んだ句を引いて終る。

 枇杷の花霰はげしく降る中に・・・・・・・・野村喜舟

 死ぬやうに思ふ病や枇杷咲けり・・・・・・・・塩谷鵜平

 枇杷咲いて長き留守なる館かな・・・・・・・・松本たかし

 花枇杷や一日暗き庭の隅・・・・・・・・岡田耿陽

 故郷に墓のみ待てり枇杷の花・・・・・・・・福田蓼汀

 枇杷の花子を貰はんと思ひつむ・・・・・・・・原田種茅

 枇杷の花母に会ひしを妻に秘む・・・・・・・・永野鼎衣

 枇杷の花くりやの石に日がさして・・・・・・・・古沢太穂

 枇杷の花妻のみに母残りけり・・・・・・・・本宮銑太郎

 枇杷の花柩送りしあとを掃く・・・・・・・・・庄田春子

 枇杷の花暮れて忘れし文を出す・・・・・・・・塩谷はつ枝

 病む窓に日の来ずなりぬ枇杷の花・・・・・・・・大下紫水

 花枇杷に暗く灯せり歓喜天・・・・・・・・岸川素粒子

 雪嶺より来る風に耐へ枇杷の花・・・・・・・・福田甲子雄

 枇杷の花散るや微熱の去るやうに・・・・・・・・東浦六代

 訃を告げる先は老人枇杷の花・・・・・・・・古賀まり子

 贋作に歳月の艶枇杷の花・・・・・・・・中戸川朝人

 伊勢からの恋文めいて枇杷の花・・・・・・・・坪内稔典


思ふ人の側へ割り込む炬燵かな・・・・・・・・・・・小林一茶
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  思ふ人の側へ割り込む炬燵かな・・・・・・・・・・・小林一茶

もう、この時季になれば、どこの家でも「炬燵」(こたつ)を出しただろう。
もっとも、この頃では全くの洋風暮らしをしている家もあり、また「床暖房」も急速に普及してきたので一概には言えない。
炬燵には「置き炬燵」と「掘り炬燵」の二種類があるが、床板をくりぬいた「掘り炬燵」の方が、絶対に足が楽だ。
この頃では和風料理屋などでも年中、掘り炬燵式のものにテーブルを置いてあるのが増えてきた。
正座をしたり、アグラをかくのに苦手な外人などにも好評である。
わが家でも10数年前に家を建て替えた時に、座敷に「掘り炬燵」を設置した。
夏も天板を、そのまま座卓にして、足は下に垂らせるようにした。
天板も和風に合うように、落ち着いた、少し立派なものにした。
冬には下半身を暖めると全身が、ほっこりする。
もっとも「床暖房」など便利だが「文化生活」をすると経費がかかって仕方がない。
「炬燵」くらいが丁度いい。
「書斎」にも、三面が天井までとどく万冊に及ぶ本に囲まれているが、冬になると真ん中に「置き炬燵」を据えて、そこからテレビを見たりする。
書斎は椅子式の部屋だが、出入りの大工さんに頼んで椅子から足を伸ばせる台を特注で作ってもらい、その板の上に「置き炬燵」を乗せるので、一人かけのソファーから足が伸ばせるのである。
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写真②は昔の浮世絵の炬燵の図である。うら若い娘が仲良く炬燵を囲んで語らっているという構図である。
江戸の日常暦によると、神無月の行事として、上亥、中亥、下亥とある亥の日のうち、武家では上亥の日に、商家では二の亥(中亥)の日に「炬燵開き」をした、という。
コタツには蜜柑が、よく似合う。これは何と言っても季節の風物詩である。

掲出の一茶の句は、一茶らしい滑稽味と、ちょっぴりのエロスがあって面白い。
他に蕪村の句に

   腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな

というのがあるが、これは炬燵で温まった細君が腰抜けのようなしどけない状態になってしまった、という光景であろうか。
なお、掲出した炬燵の写真は、私宅のものではないので、念のため。
以下、コタツを詠んだ句を引いて終りにしたい。

 句を玉と暖めてをる炬燵かな・・・・・・・・高浜虚子

 炬燵の間母中心に父もあり・・・・・・・・星野立子

 横顔を炬燵にのせて日本の母・・・・・・・・中村草田男

 淋しくもなにもなけれど昼炬燵・・・・・・・・永井龍男

 編み飽いて炬燵の猫をつつき出す・・・・・・・・原田種茅

 炬燵出づればすつくと老爺峰に向ふ・・・・・・・・加藤知世子

 切炬燵夜も八方に雪嶺立つ・・・・・・・・森澄雄

 炬燵嫌ひながら夫倚る時は倚る・・・・・・・・及川貞

 世の中の炬燵の中という処・・・・・・・・池田澄子

 ばらばらに帰り炬燵の一家族・・・・・・・・山本美紗

 亡き夫の席そのままに掘炬燵・・・・・・・・佐々木ツタ子

 母のゐて集まりやすき炬燵の間・・・・・・・・沢村やな枝

 調法に散らかしてある炬燵の間・・・・・・・・小畑けい

 活断層の真上に住みて炬燵抱く・・・・・・・・安達光宏

 折鶴の嘴うつくしき炬燵かな・・・・・・・・馬場龍吉





ふりむけば障子の桟に夜の深さ・・・・・・・・・・・・・・・・長谷川素逝
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  ふりむけば障子の桟に夜の深さ・・・・・・・・・・・・・・・・長谷川素逝

障子というと、昔はもっと広い呼称であったが、今では「明り障子」のみを「障子」という。
掲出の写真は「雪見障子」と呼ぶもので、これにも、いろいろの形のものがある。
「明り障子」には美濃紙や半紙などを貼るが、やはり無地のものが佳い。
紙を越した光線はやわらかく、落ち着いた感じがして好ましい。
今風の家でも一部屋くらいは座敷があり、障子があるだろう。

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写真②は「葦簾障子」というもので、夏になると障子や襖を、この「よしず障子」に入れ替えたものである。
「よしず」の一本一本に隙間があり、夏の蒸し暑さから「通風」を保って、多少なりとも和らげようとの思惑の産物であった。
この頃では、よほどの古い家か大きな家でないとお目にかからない。
冬になれば外して収納しなければならないから、その収納スペースも大変である。
障子は、防寒、採光のための建具だが、また奥ゆかしい空間を作り出す用具でもあった。
一年に一度は、紙を張り替える「障子貼り」というのが年中行事として行なわれていた。
障子の枚数の多い家など大変である。
「障子紙」の用意からはじまり、糊を炊き、障子を外して古い紙の剥しと、水洗いが、また大変であった。

昔のわが家では「障子の張替え」は、専ら母の仕事だった。
父は仕事で忙しかったから、そういう家事は殆ど手伝わなかった。子供たちにも手伝わせなかった。
田舎の家だから障子の枚数も多かった。母は手際がよかったから、貼る障子紙も、「桟」の幅に合せて事前に剃刀で、きれいに切り揃えて用意してあった。
貼って糊が乾いてから、霧吹きで水を吹き付けると、乾いたときにピンと張ってきれいに仕上がるのだった。
今の我が家は、すっかり洋風になって「障子」は四枚だけになった。 夏用の「よしず障子」も無い。

以下、障子の句を引いて終わりにしたい。

 美しき鳥来といへど障子内・・・・・・・・原石鼎

 しづかなるいちにちなりし障子かな・・・・・・・・長谷川素逝

 死の如き障子あり灯のはつとつく・・・・・・・・松本たかし

 柔かき障子明りに観世音・・・・・・・・富安風生

 うすうすと日は荒海の障子かげ・・・・・・・・加藤楸邨

 われとわが閉めし障子の夕明り・・・・・・・・中村汀女

 涛うちし音かへりゆく障子かな・・・・・・・・橋本多佳子

 嵯峨絵図を乞へば障子の開きけり・・・・・・・・五十嵐播水

 枯色の明り障子となりにけり・・・・・・・・山口草堂

 煎薬の匂ひ来る障子閉ざしけり・・・・・・・・角川源義

以下ネット上に載る長谷川素逝の記事を転載しておく。
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写真は下の記事中にも書かれている句碑。
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津の生んだ俳人 長谷川素逝
俳誌『阿漕』
 阿漕浦の岩田川寄り、ヨットのマストが林立している伊勢湾海洋スポーッセンターの前の海岸堤防の所に、わりあい大きな石碑が立っている。これが津の生んだ、全国的にも有名な俳人長谷川素逝の句碑で、次の句が刻まれている。
 遠花火海の彼方にふと消えぬ
 この句は、昭和10年7月下旬に詠まれた。その当時、津中学校の国語教師をしていた素逝は、夕方から乙部の自宅に集まってきていた俳友たちと、夫人と妹さんを伴って、涼を求めて海の方へ散歩に出掛けた。贄崎海岸から新堀に出て、そこの渡しで岩田川を渡って、阿漕浦へ出た。浜辺を歩くうちに、暗い海の彼方に遠く花火の上がるのが見られた。音もなく、ふと消える遠花火の風情を素逝はそう詠んだ。このエピソードは、俳友七里夏生氏の直話による。

 素逝長谷川直次郎は、明治40(1907)年大阪に生まれた。父が大阪砲兵工廠の技師だったからで、本籍は津市。大正4(1915)年、父の退職によって津に帰り、養正小学校に転入。津中学校を経て、京都の第三高等学校文科入学、俳句を田中王城・鈴鹿野風呂に師事した。昭和4年、「京鹿子」(野風呂主宰)の同人となり、「ホトトギス」初入選は昭和5年。昭和7年、三島重砲連隊幹部候補生として入隊している。除隊後、津の自宅に帰り、母校の関係で「京大俳句」の創刊に参加し、一方地元三重の俳句の振興を目指して俳誌「阿漕」を昭和8年創刊、主宰した。昭和9年4月、京都伏見商業学校の教員となるが、その9月津中学校の教員となって津に帰った。ところが、昭和12年中国との戦争が始まると程なく砲兵少尉として応召。昭和13年12月、病を得て入院、内地送還となった。翌年、その間の句を収録した句集「砲車」を出版してその名をうたわれた。

 その後は、病をいやしながら句作に励み、句集「三十三才」「ふるさと」「村」「暦日」と編んでいく。その静寂な自然凝視の句は、「ホトトギス」を通じて全国の俳人たちに親しまれた。落葉を詠んだ句が多かったので、"落葉リリシズム"ともいわれた。一時、甲南高等学校教授となったこともあったが再入院し、戦後は各地に転地療養したが、ついに昭和21年10月10日、旧大里陸軍療養所で没した。享年わずかに40歳であった。

 高浜虚子は、その死をいたんで、「まっしぐら炉に飛び込みし如くなり」の句を寄せた。


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