K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201201<<1234567891011121314151617181920212223242526272829>>201203
POSTE aux MEMORANDUM(2月)月次掲示板
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
2009.02.28ポンポン山の福寿草
  高槻ポンポン山の福寿草(藤目俊郎氏撮影)

今年も、はや二月になりました。今年は「閏年」です。 
「二月は逃げる」と言われて早く経ちます。

 新しい読みが一行を変へて、おおその瞬間に雪ふりはじむ・・・・・・・・・・・・・ 岡井隆
 啄木を思ひつつ来ればきさらぎの朝の渋谷に牡丹雪降る・・・・・・・・・・・・・ 来嶋靖生
 はるかなる冬のすばるに見透かされときに亀裂の走る母性よ・・・・・・・・・・ 大口玲子
 誰が前世あるいは後生 穏やかな冬日を浴びて目つむる老猿・・・・・・・・・・・ 三井修
 ほんのりと色さへ添へて花の野にいざなひくるる眠剤ひとつぶ・・・・・・・・秋山佐和子
 暁闇のもの音の無き真暗闇ひとり覚めゐついつもこのままよ・・・・・・・・・・・・・宮英子
 人間の命が海にかえるとき風が生まれる光をともない・・・・・・・・・・・・・・・・・沖ななも
 かすかなるわれのごときもこの現受け入れて日々罹災者とあり・・・・・・・・・ 秋葉四郎
 耐え切れぬ思い然れどもこの先の悲惨場面をもう少し見る・・・・・・・・・・・・・浜田康敬
 老体の一樹の方にめつむればその声透きて野末雪降る・・・・・・・・・・・・・ 百々登美子
 腸(はらわた)に春滴るや粥の味・・・・・・・・・・・・・ 夏目漱石
 雨の中に立春大吉の光りあり・・・・・・・・・・・・・・・・ 高浜虚子
 立春のどこも動かず仔鹿立つ・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
 われら一夜大いに飲めば寒明けぬ・・・・・・・・・・・・石田波郷
 早春の湾パスカルの青き眸よ・・・・・・・・・・・・・・・・多田裕計
 薄紙に大吉を刷る印刷所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤文香
 火宅無常へ赤煉瓦ひとつ足す・・・・・・・・・・・・・・林田紀音夫 
 渡良瀬は利根につづけり柚子は黄に・・・・・・・・・・・・・高島茂
 むめがかや昼寝の猫の耳たてて・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 人生に大寒小寒という睾丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 清水哲男
 待春や一樹せり出す水の上・・・・・・・・・・・・・・・・・ 松永浮堂
 出航のやうに雪折匂ひけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 野口る理
 ふりかけの魚の固きそぞろ寒・・・・・・・・・・・・・・・ 小野あらた
 用もなく人に生まれて春の風邪・・・・・・・・・・・・・・ 山田露結
 夕焼けやウイルスを美しく飼い・・・・・・・・・・・・・・・ 岡村知昭
 蝋製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ・・・・・・・・・・関悦史
 齎(たまもの)のごとく小雪や朝寝して・・・・・・・・・・高橋睦郎
 穴だって上半身があるばかりに・・・・・・・・・・・・・原田否可立
 江東区なれば冬草佳かりけり・・・・・・・・・・・・・・・・・依光陽子
 黒髪に触れ初雪となりにけり・・・・・・・・・・・・・・・・山下つばさ
 宇宙から来たような加湿器が噴く・・・・・・・・・・・・・・福田若之
 しほたれておでんの湯気の当たるまま・・・・・・・・・太田うさぎ
 生きのびてセーターやはり黒選ぶ・・・・・・・・・・・・・渋川京子
 冬の生まれ冬が大好き着ぶくれて・・・・・・・・・・・・・・ 原雅子
 枯原の中の灯台ならば抱く・・・・・・・・・・・・・・・・・・高勢祥子
 はるばると涸滝に来てしまうかな・・・・・・・・・・・・・ 岡野泰輔
 愛欲の温もりを帯び管楽器・・・・・・・・・・・・・・・・ 三島ゆかり
 凍蝶の波に呼ばれてゆらめきぬ・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」「CM」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。
ただしカレンダーの無いものもあります。
「月別アーカイブ」は30件表示するようになっています。30件以上ある場合は「NEXT」を押して進んでください。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の記事は、引用、リンク、転載フリーです。事後でもお知らせ下さると嬉しいです。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください。

私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

banner99条守ろう

  9条守ろう!ブロガーズ・リンクに参加しています(0215)
 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

Banner_125x125_0003_D.jpg

   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
  と想像してみてください。」
──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
土曜美術社出版販売「詩と思想」
文芸春秋社・書籍ショールーム
いのち噴く季の木ぐさのささやきをききてねむり合ふ野の仏たち・・・・・・・・・・・・・・・生方たつゑ
takisaka02滝坂地蔵拡大

    いのち噴く季(とき)の木ぐさのささやきを
         ききてねむり合ふ野の仏たち・・・・・・・・・・・・・・・生方たつゑ


冬の間の固い殻を破って、さまざまな木草が新たな命を噴きあげる春。
それを作者は「いのち噴く季」と表現する。
目覚めたのち、ささやき合う木草。その傍らに野仏が、風化して目鼻も定かでない顔だちで、うつらうつらと眠っている。
路傍に野仏をたてた昔の人は、悲しみや祈りをこめて石仏に手を合わせたことだろう。
野仏はそれらの時間を、すべて閉じ込めて、じっと動かずに立っている。
そこには、時の移ろいと、時の停止を同時に語るものがある。

この歌は生方たつゑさんの歌集『風化暦』(昭和49年刊)にあるもの。2000年1月18日に亡くなったが、歌集だけでも20冊に及ぶ。
少し歌を引用してみる。

  草の汁浸みてこはばる手をひたす清きまみづを犯すがごとく

  紅絹(もみ)裂けば紅絹のあやしさにほひ充つ透きとほるまでの嫉妬をもてば

  「平凡に生きよ」と母が言ひしこと朱の人参刻めば恋ふる

  北を指すものらよなべてかなしきにわれは狂はぬ磁石をもてり

  かかる夜ひそかに隕石の墜ちゐむかみづうみ濡らす冬の月かげ

  潮のいろ美しきかな痣のごとき珊瑚礁あるを原点として

  結氷の季も生きゐる魚(いを)のこと羨望しつつ雪の夜点(とも)す

作者は三重県宇治山田(今の伊勢市)生まれの人。「女人短歌」結成に参加した才媛。
家庭的にも育ちのよい境遇の人で、大らかな、女らしい情感のある歌を残す。

----------------------------------------------------------------------
私の住む南山城や奈良盆地は、大陸や朝鮮半島からの渡来人が、早くから住みついて、かの地の先進的な文化をもたらした。
掲出した写真のような野仏も多い。
こういう風物も、すっかり影をひそめて来たが、先人たちの、こういう自然に対する畏敬の念は尊っとんでゆきたいものである。

石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも・・・・・・・・・・・・・・・・志貴皇子
warabi17さわらび

     石(いは)ばしる垂水の上のさ蕨の
        萌え出づる春になりにけるかも・・・・・・・・・・・・・・・・志貴皇子


歌いぶりは率直、歌意も単純明快である。垂水=滝と言っても小さなものだろうか。
その滝の傍らに生えているわらびが、芽を出す春になった、という喜びを述べている。
立春から多少日を経たころの景色だろう、爽やかに、心のはずむ春の到来が、快い調べになっている。

この歌は「万葉集」巻8、春の雑歌の巻頭にある有名な歌だが、実景に即して、感動や情感を写し取るように描写する「万葉集」の表現方法は力づよい。
これ以上の余計な雑言は不要だろう。

わらび、ぜんまいの類は山野草摘みの代表的なもので、早春の風景と切り離せない。
地下茎から春に芽が出て、こぶしを丸めたような形をしている。この頃の若芽が食べ頃である。
「さわらび」の「さ」は「早い」という意味の「接頭語」である。わらび、ぜんまいの類は早春の今ごろに新芽が萌え出てくる。
昔の本には旧暦の一月の頃に出ると書かれているから、今の陽暦に直すと二月頃ということになる。

 みちのくのわらび真青に箸に沁む・・・・・・・・・・・・・ 島みえ

という句にもある通り、山里の季節のものとして珍重される。
「ぜんまい」(薇、狗背と書かれる)も同じ羊歯類の植物である。
以下、「わらび」「さわらび」「蕨狩」を詠んだ句を引いて終る。

 負ふた子に蕨をりては持せける・・・・・・・・・・・・暁台

 天城嶺の雨気に巻きあふ蕨かな・・・・・・・・・・・・渡辺水巴

 早蕨は愛(かな)しむゆゑに手折らざる・・・・・・・・・・・・富安風生

 道ばたに早蕨売るや御室道・・・・・・・・・・・・高野素十

 月日過ぐ蕨も長けしこと思へば・・・・・・・・・・・・山口誓子

 早蕨の青き一と皿幸とせん・・・・・・・・・・・・成田千空

 早蕨や地下錯綜の上に立ち・・・・・・・・・・・・和田悟朗

 良寛の天といふ字や蕨出づ・・・・・・・・・・・・宇佐美魚目

 落ちかけて日のとどまりし蕨かな・・・・・・・・・・・・藤田湘子

 早蕨や蔵王の見える厨窓・・・・・・・・・・・・星野椿

 早蕨や若狭を出でぬ仏たち・・・・・・・・・・・・上田五千石

 堰かれては水のはばたく初蕨・・・・・・・・・・・・三田きえ子

 早蕨や野川鳴りつつ光りつつ・・・・・・・・・・・・山田美保

 野に惚けゐるは吾とも蕨とも・・・・・・・・・・・・藤村瑞子

 窯焚きへ湯気あたたかき蕨飯・・・・・・・・・・・・武田稜子

 丘にきて風のうごかす蕨摘む・・・・・・・・・・・・秋元不死男

 八ヶ岳仰ぐやわらび手にあまり・・・・・・・・・・・・及川貞

 ぜんまいののの字ばかりの寂光土・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 ぜんまいの渦巻きて森ねむくなる・・・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 ぜんまいの渦の明るさ地をはなれ・・・・・・・・・・・・岸霜陰



白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう・・・・・・・・・・・・・・・斎藤史
keine20010101-img600x449-1134609932picture22.jpg

   白い手紙がとどいて明日は春となる
     うすいがらすも磨いて待たう・・・・・・・・・・・・・・・斎藤史


今日は2月26日である。昭和11年の、この日に、いわゆる2・26事件が起った。
掲出の歌は昭和15年刊行の第一歌集『魚歌』に載るものだが、初々しい感覚の春の歌である。

この『魚歌』の中に「二月廿六日、事あり、友ら、父、その事に関はる」の前書きで、次のような歌がある。

  春を断る白い弾道に飛び乗つて手など振つたがつひにかへらぬ

  濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ


これらの歌については後に

「意識してカモフラージュしたところがあるんです。そうしなきぁ発表できない情勢の中、苦しみを吐きたい。しかしリアリズムで書けば通るはずはありません。あの手法しかなかったのです」(「ひたくれなゐの生」樋口覚との対談)

という本人の談話がある。詩で多用する「暗喩」という手法である。
長くなるので、皆さんなりに読み解いて頂きたい。

2.26事件は陸軍の青年将校たち皇道派が、降りしきる豪雪の中、天皇親政を求めて決起して、歩兵第一、第三、近衛歩兵第三の各連隊の部下1400名を率い、内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡部錠太郎を殺し、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせた事件である。
昭和天皇が激怒し、徹底的な鎮圧を命じたため、彼らは「反徒」となり、首謀者は碌な弁護もなく、逮捕から僅か3か月で結審して、首謀者は死刑となった。
事件そのものについては、色々の著書があるので、ここで詳しくは書かない。

ただ斎藤史の父・斎藤劉予備少将も、心情的に彼らを支持したとして「禁固5年」の判決をうけた。
その上、死刑となった栗原安秀中尉や坂井直中尉は、史とは同年輩で、旭川師団長として劉が赴任していた頃から兄妹のように親しくしていた間柄であり、そんな諸々の関係が、斎藤親子のめぐりには存在したのである。
したがって、史には昭和天皇に対する「恨み」のような感情があり、昭和天皇生存中は、史の心は解けることはなかった。
歌集『渉りかゆかむ』に

  ある日より現神(あらひとがみ)は人間となりたまひ年号長く続ける昭和

という歌があるが、これは戦争中は「あらひとがみ」とされていた天皇が、敗戦後マックアーサーとの会見などを経て、詔書を出して、これを否定し、いわゆる人間宣言をされたこと、などへの痛烈な皮肉とも言えよう。

昭和天皇没後、平成の代になって一月の「歌会始」に召人として招かれ、ようやく心の箍が取れたのか、出席したが、

  「おかしな男です」といふほかはなし天皇は和(にこ)やかに父の名を言ひませり

という歌が残っている。宮中の歌会始の会場で天皇から声をかけられた時の情景である。
因みに、父・斎藤劉も若い頃からの歌人で結社「短歌人」に拠って活躍した人である。史は戦後、短歌結社「原型」を起して多くの歌人を育てた。

斎藤史の歌は晩年には自在な境地に達し、たとえば

  ぐじやぐじやのおじやなんどを朝餉とし何で残生が美しからう

  携帯電話持たず終らむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか


のような歌がある。

記憶の茂み

『斎藤文歌集・記憶の茂み』(和英対訳)選歌・英訳 ジェイムズ・カーカップ 玉城周(2002/01/25三輪書店刊) という本があり、斎藤文の珠玉の700首の歌が収録されている。
この本の中に、今回掲出した、この<白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう>があり、その英訳として次のように載っている。

  With arrival of

  the white letter, tomorrow

   will surely turn to

  spring ─ so I wait, and meanwhile

  polish my windows' frail glass.


この英訳が技術的に、どの程度のものか知らないが、日本の大学で長らく教鞭をとり日本語の生理に通暁し、詩人としてまた多くの翻訳を手がけてきたジェイムズ・カーカップと、その良き協力者である玉城周の努力の賜物である。
この本のはじめの部分で「五行31音節という短歌の形式には特にこだわることにした」と書かれている。
この部分は、斎藤文の良き理解者であり、インタヴュアーでもあった樋口覚が翻訳している。
拙速ではなく長年にわたって準備されてきたものと言うべく、相当のレベルの域には達しているだろう。
この本は最近になって私も知って取り寄せたものであり、急遽ここに披露することにした。

松岡正剛の「千夜千冊」の中に彼女に触れたものがあるので参照されたい。
---------------------------------------------------------------------
なお、2・26事件に駆り出された下級兵士の、その後だが、懲罰的に戦地の最前線に送られ、殆どが悲惨な最期を遂げた、という。澤地久枝さんの本など見てもらいたい。

東風ふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ・・・・・・・・・・・・・・・・・菅原道真
1202-5.jpg

     東風(こち)ふかばにほひおこせよ梅の花
         あるじなしとて春な忘れそ・・・・・・・・・・・・・・・・・菅原道真


今日は2月25日である。この日は菅原道真の命日として、古くは寺子屋などでも絵像を掲げて礼拝したという。
関西では、今も、この祥月命日だけでなく、毎月25日を「天神さん」の日として天満宮にお参りにゆくのは勿論、縁日が出て賑わうのである。
因みに、21日は「弘法さん」の日と言って、空海の忌日で京都の東寺境内ではお参りだけでなく、賑やかな縁日(露店)が出る。骨董品の掘り出し物があったりする。
毎年、1月には初天神、初弘法の日として、一段と混雑する。また12月は、終い(しまい)天神、終い弘法として、一年の無事を感謝し、来年への期待を願うのである。
しめ飾りなどの正月用品も、ここで買う人が多い。
---------------------------------------------------------------------------
mitizane2.jpg

Hyakuninisshu_024.jpg

菅原道真は平安初期の詩人、文章博士。右大臣の位にまで昇ったが、摂関家藤原一族の讒言に遭い(901年天皇の廃位をはかったという無実の讒言)、太宰権帥に左遷され、配所で死んだ。(845年-903年)
道真が梅を愛したことは有名で、この歌は太宰府の地に赴くとき、庭の梅に詠みかけた歌として『大鏡』の藤原時平伝に語られる道真失脚悲話と共に伝承する。

道真の死後、「たたり」と称する異変が相次いで起り、923年罪を取り消して本官に復し、のち993年には正一位太政大臣を贈られた。
その前から民間では祠を北野に建て、天満天神として祭られ、文道の神として今日まで崇敬を受けている。
道真は、行路の危険、唐の戦乱の様子などから「遣唐使」の派遣中止を進言し、以後遣唐使は遣わされないことになったのは、有名な話である。
--------------------------------------------------------------------------
w7Xw394TGiD4FcWulEWSpg8MVj_E0jqclr41g_2x4qT-i42X3DdARNtSIIJh0gN0gcki_uNHqRh4P7LGemmrlA__.jpg

ここは「梅」の名所としても有名で、神社の境内には何千本もの梅林がある。写真④は、その一例。
今しも梅の花が盛りの時期で、ここ北野天満宮には多くの人が探梅に訪れる。
この梅園で採れた梅は梅干にされて来年の正月に「大福梅」の縁起物としてお参りの人に授けられる。

掲出の「東風(こち)」のことだが、日本の気象は、台風などの特殊な時期でない限り、西から変化する。
「春一番」「春二番」などの時期は、北にある低気圧に向かって東南風が吹き込むことがある。これが「こち」であり、この歌は気象学的にも正しいと言われている。

sandou20usi.jpg

京都北野の北野天満宮だけでなく、大阪北野の天満宮など、天満宮、天神社は全国に5000余社に及ぶ。私の住む青谷村にも中天満宮、市辺天満宮と2社もある。
天満宮は、牛が神のお使いとして社頭にうずくまる。
---------------------------------------------------------------------
この歌の結びの「春な忘れそ」のことだが、ご存じのない方のために解説しておく。
「な・・・・そ」という文章の構成法があって、この場合の意味は「春を忘れてくれるな」ということである。
「な」と「そ」で或る動詞を挟むと、その動作を「禁止する」意味を表す。「どうか・・・してくれるな」という意味の強い「結び」の詩句が出来上がるのである。
だから、この歌のように、強いメッセージ性あふれる詩句となるのであった。
「な・・・そ」に挟む動詞は連用形(カ変、サ変動詞は未然形)にする必要がある。
応用として一例を挙げる。「私の傍を離れずにいてほしい」という意味の場合「わが傍な離れそ」というような具合になる。
ただし、これは「文語」の場合だけであって、現代の口語には一切使わない。


菜の花や月は東に日は西に・・・・・・・・・・・・・・・与謝蕪村
040207nanohana01菜の花

     菜の花や月は東に日は西に・・・・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

日本は春夏秋冬の四季が、はっきり分かれていて、季節の推移が日本人の心に大きく投影している、と思う。
ここに採りあげた蕪村の句は、よく知られた句である。
菜の花の季節は、ちょうど今ころと言えるだろう。
日本列島は南北に長いから、九州では、もう過ぎたかも知れないし、北国では、まだ雪も深い。
ここに書く感覚は、あくまでも京都に住む私の感覚とお許し願いたい。

「菜の花や」と季語と切れ字を冒頭に置いて、見渡す限りの一面の菜の花の姿を読者に想像させる。
そして「月は東に日は西に」である。
ちょうど夕暮れどきで、西に落ち行く日と、東に上る月が、同時に見られる、という場面設定である。
こういうのは、いつも見られるわけではない。
調べてみたわけではないが、興味のある方は、日没と月の出の時刻を調べて頂くと有難い。おそらく、この季節の中で二、三日もあれば、よい方であろう。


現代の我々は、物質文明に毒されて、自然を、ゆっくり見つめるということがない。
田舎に住む私としても、微妙な季節の移り変わりを、自然の風物や風のそよぎに身を任せて感じるという機会が少ない。
どうしても、頭の中で何事も処理し勝ちである。
この句を読むと、春の夕暮れの、のんどりとした田舎の景を目の辺りに、するようではないか。

蕪村は摂津国東成郡毛馬村(現・大阪市)の生れだが、毛馬の閘門と言われる堰のある辺りの生れである。
絵にも才能を持っていて、いわゆる俳画の面でも優れた作品を残している。
故郷の毛馬の辺りを詠った「春風馬堤曲」という連作もあるが、この題名自体が、そのことを、よく物語っている。
蕪村とて裕福な生活をしていたわけではなく、常に「旦那」という「贔屓筋」が必要だった。
私の住むところから数キロ行った宇治田原にも、商家の旦那衆がいたらしく、蕪村筆の作品があるらしい。
蕪村の年譜を覗いてみると、1783年(天明3年)8月風雨のなかを「太祇十三回忌追善俳諧」に出席し、晩秋、宇治奥田原の門人毛条に招かれてキノコ狩りにゆき、初冬から病に倒れた。

 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり・・・・・・・・・・・与謝蕪村

が最後の句と言われている。

池西言水という俳人に、

<菜の花や淀も桂も忘れ水>

という句があるが、「淀」というのは宇治川沿いの京都の南はずれ。現在、京都競馬場のあるところ。
「桂」というのは、どなたもご存知だろう。
京都の西郊外を流れて来た桂川と木津川と宇治川が三川合流して淀川となるが、その合流寸前の地が淀である。
豊臣秀吉の側室「淀君」の居城・淀城があったところである。

 菜の花の黄のひろごるにまかせけり・・・・・・・・・・・久保田万太郎

という句も、菜の花の咲く田園の様子を、よく観察して佳い句になっている。
私は久保田万太郎の句が好きである。
京都、滋賀の名産に「菜の花漬」というのがあり、菜の花を蕾のうちに摘み取り、浅い塩漬けにしたもの。
黄色の花の色と緑の葉や茎の配色が鮮やかで、見た目にも食欲をそそる。
季語では5音になるので「花菜漬」と詠まれることが多い。

 人の世をやさしと思ふ花菜漬・・・・・・・・・・・後藤比奈夫

という句もある。この漬物など、日本人の細やかな感性の賜物であろう。


心臓が「ぽっぺん」と鳴ればそれは恋・・・・・・・・・・・・・・・坂崎重盛
bidoro歌麿本命
──初出・Doblog2007年2/21──

    心臓が「ぽっぺん」と鳴ればそれは恋・・・・・・・・・・・・・・・坂崎重盛

「ぽっぺん」という長崎由来の玩具がある。「びーどろ」とも呼ばれる。
図版①は歌麿の「びいどろを吹く女」という浮世絵である。
この「ぽっぺん」は何と、俳句の世界では「新年」の季語として歳時記にも載っているのである。
「ポッペン」が、どうして「新年」の季語になったかの経緯は判らない。
角川俳句大歳時記には「正月に吹いて厄を祓う」とあるから、これが妥当な由来かも知れない。

掲出の坂崎重盛はエッセイストで、俳号を「露骨」というらしい。
私はまだ未見だが、石田千『ぽっぺん』という本が出て、その本の紹介記事として新潮社「波」2007年2月号に彼の「ぽっぺん讃句」というのが載って、私は見たのである。
「ぽっぺん」とは薄いガラス製で、細い管と、その先が、お尻の平たい丸い月。
管の先に唇をつけて、息を吹き入れると「ぽっぺん」と乾いたような、くすぐったいような音がする。
オランダかポルトガル由来の西洋のものらしい。
新潮社「波」の記事には、坂崎氏のぽっぺんの句が50近く載っている。
そのうちのいくつかと、歳時記に載る句とを引いておきたい。

img3b75be47xuzj2kビイドロ

写真②が「ぽっぺん」。
長崎みやげの郷土玩具として、いろいろの柄の「ポッペン」が見られる。
その中のいくつかを載せてみる。

■ぽっぺんの生まれは長崎ぶらぶら節・・・・・・・・・・・・・・・坂崎重盛

 ぽっぺんはタートルよりも鶴の首

 情無や指切りぽっぺん牛蒡切り

 「ぽっぺん」と時のめくれる音がする

 ぽっぺんと果報は寝て待て三日待て

 「今どこに?」ぽっぺん只今迷子中

 鈴は鳴るぽっぺんは吹く人は去る

■ぽっぺんを吹かずに包むたなごころ・・・・・・・・・・・・・・・坂崎重盛

 生き選ぶ、たとえばぽっぺん、無地、格子

 ぽっぺんを吹く瞬(ま)に大人になりにけり

 ぽっぺんのぺこんと凹む色気かな

 ぽっぺんや犬の鼻唄冬の歌

 ぽっぺんの一吹の間のセ・ラ・ヴィかな

以上、ここまでが坂崎氏の「川柳句」である。
「ぽっぺん」という季語は入ってはいるが、彼の句の場合、私はこれを季語だと思わない。
「俳句」ではなく「川柳」だろう。「川柳」には季語という拘束はない。
私が、こう言う根拠は、この坂崎の文章に「これがなぜか新年の季語らしい」とあるからである。
彼が「俳人」ならば、まさか、こういう書き方はしないだろうから。
-----------------------------------------------------------------------
2004.12popen三つ組

以下は、歳時記に載る俳句である。

 ぽつぺんは口より遠くにて鳴れり・・・・・・・・・・・・後藤比奈夫

 ぽつぺんを吹いて佳きことあるらしき・・・・・・・・・・・・松本旭

 やみつきのぽつぺんを吹くばかりかな・・・・・・・・・・・・岡井省二

 ぽつぺんの闇の深さを計りたる・・・・・・・・・・・・岡田史乃

 ぽつぺんを吹いて浮世絵いろの空・・・・・・・・・・・・中尾杏子

 ひとしきりぽつぺん吹いて母子眠し・・・・・・・・・・・・石垣青葙子

 ぽつぺんと鳴りぬ力を抜きしとき・・・・・・・・・・・・金田志津枝

 ぽつぺんを吹けば夢二の女に似・・・・・・・・・・・・大森扶起子
--------------------------------------------------------------------------
koubougiyaman2_1928_17077368三つ組

この記事を載せたら阿佐谷みなみ氏が「ポツペン」を詠んだ次のような漢詩があるとお知らせいただいた。
下記に載せておく。

「倒掖戯」・・・・・・・・・・・・太田玩鴎

玲瓏恰比水晶清。奇韻殊憐玉振声。豈啻揺唇呼吸巧。還縁合掌抑揚鳴。
春風未見携市遊。夏夜初聞吹満城。愛玩多親雛妓袂。涼棚月榭独縦横。

訓読すれば。

玲瓏あたかも比す 水晶の清/奇韻ことに憐れむ 玉振の声
あにただ揺唇 呼吸の巧のみならんや/また合掌 抑揚に縁りて鳴る
春風いまだ見ず 市に携へて遊ぶに/夏夜はじめて聞く 吹きて城に満つるを
愛玩おほく親しむ雛妓の袂/涼棚 月榭 ひとり縦横

鮮やかな美しさは水晶のように清らか。珍しい音は玉振のようで、とりわけ心を引かれる。
唇の呼吸の巧みさだけではなく、てのひらを合わせて抑揚によって音を立てる。
春風のころには街に携え遊ぶ人を見ることはないが、夏の夜になると町中に吹く音が聞こえる。
半玉がもっぱら愛玩し親しみ、涼み棚や月見台で吹くのはこれに限るよ。

詳しいことは阿佐谷みなみ「近代詩探偵の事件簿」の記事を見てください、とは言えない。
阿佐谷さんとは連絡がつかないし、Doblogはサービスを停止していて見られないからである。
ここに記して、御礼申し上げておく。


一二輪まことに紅濃き梅の花かなしきかなや若き死者のこゑ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
hana565_1_ume紅梅

  一二輪まことに紅濃き梅の花
    かなしきかなや若き死者のこゑ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


いよいよ梅の花が咲きはじめる季節になった。
「梅」の花の時期になると、私には忘れられない亡姉・登志子の忌日が巡ってくる。

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
この歌は私の亡長姉・登志子を詠んだもので『嬬恋』をはじめ、第一歌集『茶の四季』(角川書店)にも、姉のことを詠った歌がある。
先に、それらの歌を引用しておく。

  紅梅を見つつ独りの酒に酔ふけふは姉の忌と思ふたまゆら・・・・・・・・・・・・木村草弥

  紅梅が美しく咲けばよみがへる血喀(は)きしときの姉の悲鳴が

  めつむれば紅梅匂ひをしたたらす月に絹暈(けんうん)かかる夜明り

  一二輪まことに紅濃き梅の花さびしきかなや若き死者のこゑ

  梅の香に抱かれて死なむと言ひし姉いまだ寒さの厳しかりしを

  うら若き処女(をとめ)のままに姉逝きて忌日の二月十九日かなし

  満開の梅の下にてわれ死なむと言ひし姉逝き五十年過ぐ

姉・登志子とは私は十歳の年齢の開きがある。上の歌に詠んだように姉が結核で「喀血」したとき、私は同じ二階の部屋に寝ていたのである。
長兄・木村庄助が結核に感染して帰郷して来て以来、わが家は次々と結核に罹った。
長兄が昭和18年5月に死んで、姉は、その翌年19年2月19日に死んだ。
姉は喀血したとき、私にすぐに階下に降りるように悲痛な声をあげた。私は中学一年生であった。
そのような体験は私の少年期の記憶として鮮明に残ることになった。
これらのことは何度もあちこちに書いたので、ここでは詳しくは書かない。
ただ肉親として姉弟としての関係のほかに、上に書いたようなことがあるので私には忘れがたい悲痛な思い出として残っているのである。
念のために書いておくが、死んだのは庄助が先だが、私たち兄姉では、姉・登志子が一番上である。
5首目と7首目の歌については、もうあちこちに何度も書いたことだが、西行の有名な歌があり、それは「桜」を詠ったものだが、私の村は鎌倉時代以来、「梅」の名所でもあるので、姉は、明らかに西行の「ーー花のもとにてわれ死なむーー」の願望を踏まえた上で、「梅」に置き換えて言った心境だったのである。
引用した終りの歌では五十年となっているが、この歌を作ったときが五十年だったわけで、今では、もう六十年を過ぎてしまった。まさに、嗚呼というほかない歳月の速さである。
今日は登志子の祥月命日にあたるので、ここに記事を記して、姉に捧げるものである。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
梅の花は桜と並んで代表的な春の花だが、当地・青谷は鎌倉時代から梅林で有名なところであり、私たちには、ゆかりのある花なのである。
その所以については、上に書いた通りである。
梅は香気が高く、気品のある清楚な花であり、桜のようにわっと咲いて、わっと散ることもなく、まだ寒さの残る気候の中で、長く咲きつづけるから、私などは、どちらかというと、梅の方が好きである。
古くから日本人には親しまれ、「万葉集」では、花と言えば梅のことであった。
以下、梅を詠んだ句を引いておく。

 梅一輪踏まれて大地の紋章たり・・・・・・・・・・中村草田男

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・・・中村草田男

 悲しめば鱗のごとく梅散りしく・・・・・・・・・・原コウ子

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・・・石田波郷

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・・・星野立子

 梅が香に襲はれもする縋られも・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・・・西島麦南

 静けさのどこか揺れゐて梅白し・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 月光に花梅の紅触るるらし・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 うすきうすきうす紅梅によりそひぬ・・・・・・・・・・池内友次郎

 紅梅の燃えたつてをり風の中・・・・・・・・・・松本たかし

 紅梅や熱はしづかに身にまとふ・・・・・・・・・・中村汀女

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは・・・・・・・・・・永田耕衣

 白梅のあと紅梅の深空あり・・・・・・・・・・飯田龍太

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・・・古賀まり子


五木寛之『下山の思想』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
下山の思想

──新・読書ノート──

     五木寛之『下山の思想』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・・・・・・幻冬舎新書2012/02/15刊第七刷・・・・・・・・・・・・・・

いまベストセラーとなっている話題の本である。
私は本来「へそまがり」で、ベストセラーには飛びつかないが、知人から頼まれてネット書店から取り寄せた。
よく売れているので、在庫切れかで一週間以上、入荷が遅れた。

以下、アマゾンの書評欄に載っているコメントを引いておく。ただし、これが最適だというつもりはない。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
   実りの多い豊かな「下山」とは何かを考えるきっかけとなる 2011/12/18 By su_aik

レビュー対象商品: 下山の思想 (幻冬舎新書) (新書)

著者は2008年に「林住期」という本を書いているが、本書でも今の日本は、この古代インドの人生を「学生期(がくしょうき)」「家住期(かじゅうき)」「林住期(りんじゅうき)」「遊行期(ゆぎょうき)」に分ける思想の中の「林住期」にあたると言っている。人生ではなく山登りを例に取れば、前半が「登山」であり後半が「下山」ということになる。国や世界も同様で、成長期としての登山があれば必ず成熟期以降としての下山がある。登山をすれば必ず下山しなければならないのに、これまで下山が深く考慮されたことはない。登山以上に重要なものにもかかわらずだ。
日本は戦後著しい経済成長を遂げて世界第二の経済大国になった。これは成長期、すなわち「登山」であるが、すでに経済成長のピークは過ぎ成熟期すなわち「下山」のプロセスに入っているのである。「下る」という言葉にはネガティブなイメージがつきまとうが、下山はそういうことではなく、実りの多い豊かな下山を続けるということである。そして更なる再出発のための準備を整える時期である。日本にとって実りの多い豊かな「下山」とは何か、新たな目標とすべき国はどのようなものかをを考えるきっかけとなる。
また、日本は東日本大震災と原発事故に見舞われたが、下山の途中に雪崩に遭ったようなものだ。これからも立ち上がらなければならないが、目指すものはかっての経済大国ではないはずだ。このようにかつての経済成長を目指すべきではないとい主張は他書(「成熟ニッポン、もう経済成長はいらない」など)にも多く見られ賛同できるものだ。
「おわりに」には、必ずしも暗い気持ちで下山の時代を見ているわけではなく、むしろ必死で登山をしているときよりも、はるかに軽い気持ちで下山について語っているつもりだ。伸びやかに明るく下山していくというのがいつわらざる気持ちだと書かれている。
ただし、最終章「ノスタルジーのすすめ」はページを埋めるために無理矢理追加されたような内容で違和感がある。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
     第二の敗戦を迎えた後、国民はどうするべきか 2011/12/19 By Secondopinion (Japan)

本書を読んで最初に感じたのは、本書の根底に流れるものは、著者が15年前に著した「生きるヒント」と同様の、「一見すると逆説的であるが、実は紛れもない真理」である。「生きるヒント」の中の一節、「モノだけ豊かな冷たい家庭に育つよりも、物質的な豊かさは今ひとつでも、家族ぜんぶが楽しく、和やかに、笑いながら毎日を送っているような家庭のほうが「幸福」だという立場も成り立つのです」は、戦後、計算可能な経済的効率だけを優先し、不確かなものの大きさ恐ろしさを無視してきたと説く本書の主張と合致する。

著者は現在おかれている日本の状況を、第二の敗戦と呼ぶ。国対国の戦争ではない、別の戦いに敗れようとしているのではないかと。

太平洋戦争の時、国民はこの戦争は負けると薄々感じていた。この国はこのままでは破産するのではないかと今の国民は思っているが、国民はそれを見て見ぬふりをしている。著者は、この第二の敗戦を迎えた後、国民はどうするべきかという命題に一つのわかりやすい模索を明示している。一旦は頂点を昇りつめた国の「下山」の仕方である。もう一度、経済的効率を求める国にするのか、自然の大きさに畏怖し心のあり方をもう一度問い直す国にするのか、それはこれからの国民にかかっている。

ここまでは星5つであるが、後半の「ノスタルジーのすすめ」が、おそらくは本書の構想以前に草稿されたものであろう、本書の趣旨とは全く沿わない。従って最終的に星3つである。
---------------------------------------------------------------------
この本のカバーの裏に、こう書かれている。

<どんなに深い絶望からも人は起ちあがらざるを得ない。
 半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、
 それでも草木は根づき私たちは生きてきた。
 しかし、と著者はここで問う。
 再生の目標はどこにあるのか。
 再び世界の経済大国をめざす道はない。
 敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、
 実り多き「下山」を思い描くべきではないかと。
 「下山」とは諦めの行動でなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、
 という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。
 成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的思想。>

これは編集者の書いたことだが、要を得た「要約」と言えるだろう。

もう二年以上前になるが、この人の『親鸞』という小説が出た後に、京都市伏見区の龍谷大学で、
講演を聴いたことがある。
二時間近くの講演の間中、直立して、身じろぎもせず、雑談を交えることもなく、極めて「きまじめ」な姿で、
変に感心したことがある。
この人は浄土真宗の「門徒」であり、龍谷大学で聴講して学び直されたらしい。
「きまじめ」な人である。

この本の終り近くに「郷愁世界に遊ぶ楽しみ」という項目がある。

<「シャルル・トレネ、お好きですか」
 と、グラスをふきながら店のマスターがきく。
 「古いのが好きでね。ゲンスブールあたりになると、ちょっと──」
 「日本の歌手だとどの辺をきかれました?岸洋子とか──」
 「いや、そこまでメジャーじゃなくって、ちょこっとこぢんまりした店が似合いそうなシャンソン歌手が好きだったな」
 「たとえば?」
 「うーん、そうだね。小海智子とか、大木康子とか、そんな感じ」
 「しぶいなあ。」・・・・・・・・・・>

私は「下山の思想」とかいう話ではなく、こんな「くだり」の描写が好きである。
五木寛之が若い頃、PR誌編集者や作詞家などを遍歴していた頃の「郷愁」だろうが、ほのぼのしたものを感じて好きである。

この本は、折々に執筆されたエッセイを一冊にまとめたものである。
だから、首尾一貫した考えとして「下山の思想」ということになるが、一篇、一篇は独立して書かれたもので、
それが、それぞれとして面白い。
私は、バラバラに、それらのエッセイを堪能した、ことを書き添えておきたい。


     
はつとしてわれに返れば満目の冬草山をわが歩み居り・・・・・・・・・・・・・・・・・若山牧水
1536012枯野

     はつとしてわれに返れば満目の
        冬草山をわが歩み居り・・・・・・・・・・・・・・・・・若山牧水


若山牧水は「酒」と「旅」の詩人だと、よく言われる。確かにそうだったが、彼は今日さかんな観光旅行の旅人ではなかった。
思いつめて旅に飛び出し、山間を歩み、水辺をさまよい、常に何ものかを追いつつ、結局は「放心」の旅であるような、そういう旅をしつづけたように思われる。
「酒」にしても、ただ酒好きというだけではなく、のめり込むように酒を飲んだ人のようである。
心に何かしら満たされぬものを抱きつづけて「生き急いだ」人だったようだ。
この歌にも、そういう牧水が居る。
解題によると、この歌が作られた頃、牧水はまだ若かったが、苦しくてたまらない「恋」をしていたのだった。
妻・喜志子と知り合う前の園田小枝子との熱愛は有名なエピソードであるが、その恋の苦しみを詠ったものか。
詳しくはリンクに貼ったWikipediaをご覧いただきたい。

この歌は明治44年刊の歌集『路上』に載るものである。
初句の「はつとして」という個所など、何か思いつめて考え事をして周りの景色も目に入らなかった様子が表現されている。

photo01若山牧水

 幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く


この二つの歌は、掲出歌よりも3年前に出た処女歌集『海の声』に載るものだが、初期の歌集にも、すでに「寂しさ」に満ちた歌の調子なのである。
牧水の代表作として、よく引用されるのは

 白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり


などである。
牧水は「花鳥諷詠」のような景色を詠むことはしなかった。自分の「心象」にひびくものだけを詠んだと言える。
そして、前にも牧水についてはBLOGにも載せたが、圧倒的に多いのが「酒」にまつわる歌である。
彼は44歳で亡くなっているが、「酒」によって健康を害して医師からも酒を控えるように言われても、なお、意地汚く飲酒から足を洗えない様子が歌にも見てとれる。

 酒やめてかはりになにかたのしめといふ医者がつらに鼻あぐらかけり

というような歌がある。
彼の主宰した短歌結社「創作」は、孫か曾孫かの経営で、今もつづいている。
宮崎県の出身で、それを記念して「若山牧水文学賞」というものが先年創設された。


戸矢理衣奈『銀座と資生堂』日本をモダーンにした会社・・・・・・・・・・木村草弥
資生堂

──新・読書ノート──

  戸矢理衣奈『銀座と資生堂』日本をモダーンにした会社・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・・・・・新潮社2012/01/27刊・・・・・・・・・・  

新潮社のHPに載る「編集者の言葉」を引いておく。

           日本一華やかな街と企業を育てた男

 日本で第一位、世界でも第四位の売上げを誇る化粧品メーカー・資生堂は、日本を代表する企業のひとつ。
「東京銀座資生堂」として知られるように、銀座という特別な街とともに名声を高め、規模を拡大してきました。
 その華やかなブランドイメージの基礎を築いたのが、創業者の三男にして初代社長の福原信三(1883-1948)です。
この生粋の銀座っ子は、大正時代にコロンビア大学で薬学を学び、ヨーロッパ遊学を経て帰国。町の薬局にすぎなかった資生堂を、国際的な化粧品メーカーに育てあげました。
その一方で、寂れつつあった銀座の復興に力を注ぎ、日本に西洋風の生活習慣を根付かせるために奔走し、また一流の写真家として活躍するとともに、
同時代の芸術家たちのパトロンを務めるという、まさに異能の経営者です。
 これほどの魅力にもかかわらず、初期の資生堂や信三に関する本格的な論考は、これまで見られませんでした。
執筆に当たって著者は、同時代の文献にあたるのはもちろんのこと、数年にわたって資生堂に通い詰め、資料館の書庫で貴重な内部資料の山と格闘しました。本書には、こうした「蔵出し」の情報がふんだんに活かされています。
 信三が活躍した大正から昭和前期にかけては、関東大震災や世界恐慌、さらには世界大戦に見舞われた時代でもありました。
日本が似たような状況に置かれたいまこそ、彼の志と美学、経営哲学を再発見していただきたいと思います。

------------------------------------------------------------------
新潮社の読書誌「波」2012年2月号より 書評を引いておく。

     街と企業の切っても切れない関係         福原義春

 明治の新政府にとって首都東京には近代的な商業街が必要であった。
欧化政策を推進する大蔵大輔井上馨はロンドンのリージェントストリートを、東京府知事由利公正はパリのブールヴァール・オスマンをモデルに描いていた。
そして明治五年の大火を契機に、銀座から新橋にかけて煉瓦造りの西洋風商店街を造ることになった。
 それが海軍病院で薬局長をしていた福原有信にとって独立の契機となった。
西洋薬の調剤と医薬分業という大きな目的を達するためには民間で自由な活動をしなければ、というのがその理由であった。
しかもその「場」として新開の商店街である銀座の将来に賭けたのであった。
 創業者福原有信の妻とくは商売を切り盛りし、住み込み店員の食事まで指図するなど現代から見れば店長の仕事をして夫の仕事を助けた。
 かつて銀座の古老からエピソードを聞いたことがある。
晩年のとくは毎朝十時にお伴に手を引かれて銀座通りを散歩するのを日課にしていた。
十時になるとどの店も店先の歩道を掃除するのだが、その人たちに一々挨拶するのはいいとして、まだ戸の開いていない店の前でも立ち止まって
「お早うございます」と挨拶しているのを見た人が訝って尋ねると、とくは「皆様のおかげで銀座があり、銀座のおかげで資生堂があります」と答えたのだという。
 それほど資生堂は銀座とは一体となって発展し、他方ではその銀座のために尽くした。
 それを更に進めたのは後継者の福原信三であった。信三はもともと芸術家肌で気難しくはあったが、何かにつけて閃きのあった人だ。
コロンビア大学薬学部を卒業して米国での実務見習いを経てパリに遊学し、画家の川島理一郎や藤田嗣治との交友が始まった。
 帰国後に有信の跡を継いだ福原信三は化粧品事業に力を入れ、個人商店の薬局だった資生堂を会社組織にして初代社長となった。
 福原信三の時代に資生堂のブランドイメージは定着し、いくつもの代表的商品が時代を支えた。
 地元銀座とのつながりでは、商店会の運営にも関わったほか、大正の末に銀座を象徴する風景として馴染まれた並木の柳が撤去されるのを惜しみ、
当時の文人や五世中村歌右衛門丈などの随筆を一冊に編み『銀座』のタイトルで刊行した。
その反響は大きく、以後企業の文化的発信に力を注いだ。今日的に言えば文化と経営の融合である。
 化学知識をもとに写真芸術運動を起こした信三の、時には尖鋭的な美意識が、銀座という新興商店街に集った事業家たちの考え方や、
そこに集う客層のモダニズムへの欲求にマッチしたとも言えるのだ。
 銀座と資生堂という、切っても切れない関係が、経営者の姿を描くことでよく見えて来るのである。(ふくはら・よしはる 資生堂名誉会長)

戸矢理衣奈/トヤ・リイナ

1973年生まれ。東京大学文学部社会心理学科を卒業後、同大学院総合文化研究科、サセックス大学、国際日本文化研究センターなどに学ぶ。美意識の変容をテーマに、社会史から経営史まで幅広く研究。『銀座と資生堂―日本を「モダーン」にした会社―』の原型となる論文で2010年、博士号(学術)を取得。独立行政法人経済産業研究所などを経て、株式会社IRlS代表取締役。著書に『エルメス』(新潮新書)、『下着の誕生―ヴィクトリア朝の社会史―』(講談社選書メチエ)など。

目次

はじめに
第一章 「新橋」から「東京銀座」へ
資生堂の誕生/江戸に栄えずして、東京に繁昌する処/銀座のスポークスマンとして/衰退の三大要因/銀座改造計画/小売店の共存共栄/デパートにないものを売る街
第二章 「文明ノ程度」と西洋式空間
有信のソーダファウンテン/アメリカ式喫茶室からパリのカフェへ/「帝都の中心」の評判/パーラーという広告塔/二重生活の解消を目指して/空間がもたらす気分/景観問題と田園都市開発/首都の品格
第三章 社交界の誕生
国民外交のはじまり/帝劇・三越と社交の民主化/「午後の紅茶」のすすめ/茶の湯をめぐる世代間対立/変わる女性の美徳/外交官夫人への憧れ/開かれた社交場としてのパーラー
第四章 帰朝者たちの遊び場
信三の社交場/欧米遊学で得たもの/新進芸術家と若きパトロンたち/文化人のサロンとして/西洋風ライフスタイルの発信/「今の美術家」への反発/写真界の福原先生/遊びは勉強の半面なり/信三の弟たち/香水と遊び心/築かれた無形資産
第五章 商品をしてすべてを語らしめよ
草創期の広告界/意匠部の設立/芸術か商業美術か/花椿、書体、唐草/アート・ディレクターのさきがけ/広告の「格」
第六章 流行はいかに発信されたか
美白クリームと着色白粉/高級志向に応える/耳かくしの流行/転換期のファッションリーダー/銀座ガールの誕生/全国美粧講演会/頭の通らない子供服/引き抜かれた功労者たち
第七章 「人の和」による全国展開
東の価値観、西の商才/産業合理化運動の旗手/有機的連帯を求めて/チェインストアスクール/ショーウィンドウの中の銀座/ミス・シセイドウ来る/遠すぎるパリ、身近になった銀座
第八章 資生堂調の原点
個性の追求/「生命の躍動」/不易流行と俳句的写真観/洗練とコンプレックスの街
終章 銀座・東京・日本
エスカレートする街頭広告/リゾート地の実業家たち/信三、旅に出る/変わらぬ熱意
おわりに

主要参考文献
年表

「立ち読み」も出来る。 お試しあれ。

譚璐美『日中百年の群像 革命いまだ成らず(上)(下)』・・・・・・・・・木村草弥
517acQRJ-vL__SS500_.jpg

──新・読書ノート──

    譚璐美『日中百年の群像 革命いまだ成らず(上)(下)』・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・・・新潮社 2012/01/18刊・・・・・・・・・

     孫文、黄興、康有為、宮崎滔天、頭山満……。
     孤独と忍従、貧困と混乱に堪え、離合集散をくり返しながら革命を志した日中の志士の姿は、
     『水滸伝』か『三国志』さながらであった。
     国家の思惑を超え、友情と信義、侠気で結ばれた志士の群像を鮮やかに描き出す。
     新証言と発掘資料で書き換えられる、驚きの日中近代史。

新潮社の読書誌「波」 2012年2月号より 書評を引いておく。
---------------------------------------------------------------------
        『日中百年の群像 革命いまだ成らず』刊行記念特集

           立体的な「革命」の人物像     加藤 徹

 近代は革命の洗礼で始まる。
 支配されている人々のあいだに、ナショナリズムと民主化の意識が芽生える。流血の戦いの末、古い支配体制をひっくり返す。社会はがらりと変わる。アメリカ独立革命、フランス革命、日本の明治維新は、今もそれぞれの国民の原点だ。中国では、一九一一年十月から翌年二月にかけての辛亥革命が、これにあたる。今年はちょうど百年目である。
 中国は数千年にわたり帝政が続いた。最後の清朝は、最盛期には世界最強の帝国として栄華を誇った。アヘン戦争で敗れてから、列強の侵略を受け、国は傾いた。
 本書『日中百年の群像 革命いまだ成らず』の記述は、日清戦争の直後、広東省の広州で起きた爆破テロ未遂事件から始まる。テロ計画の首謀者は、アメリカ帰りの若い医師で、名は孫文。彼らは秘密結社を作り、清朝の役所である広東都督府の爆破を計画した。テロの目的は、清朝から広東省を独立させ、漢民族の主権を回復することだった。テロ計画は、イギリス領(当時)の香港政庁が清朝側に通報したため、未然に終わった。民族の分離独立のためのテロ計画。現代のチベットや新疆ウイグル自治区を連想させる。
 その後、本書は辛亥革命までの革命派と体制の戦い、革命の成功、革命後の理想の挫折を描く。最後は一九二五年の孫文の死で、筆が擱かれる。
 日清戦争で日本に敗れた後、心ある中国人は深刻な危機意識を懐いた。明治維新を手本に急速な近代化を推し進めようとした光緒帝は、保守派によって幽閉され、最後は毒殺される。改革派や革命派は弾圧され、多数の血が流れた。
 膨大な人口をもつ中国市場を狙っていた諸外国は、中国の体制派と革命派を常に秤にかけた。外国の政府は、経済進出のため、清朝政府との外交関係を優先した。一方、外国の民間人は、革命派の理想に共鳴した。孫文がロンドンで清朝の公使館に拉致されたときも、イギリス政府の対応は外交関係を考慮して及び腰だったが、イギリスの新聞は拉致事件を報道して世論を動かし、孫文を救った。
 日本も、政府は革命派に冷淡だったが、民間人は革命派を支えた。宮崎滔天、南方熊楠らは孫文と親交を結んだ。山田良政は、革命派とともに清朝政府と戦って戦死した。伊藤博文、犬養毅、桂太郎、渋沢栄一、萱野長知、頭山満らは、それぞれの立場の中で、最大限の援助をしようとした。かつての日本の存在感の大きさは、驚くべきものだった。
 著者は、客観的な論述のあいまに、当事者たちの回想という「肉声」を引用する。研究者の冷静な記述と、小説的な熱い直接話法の筆致が、心地よい対比をなしている。中国革命にかかわった中国人や日本人の群像が、生き生きと描き出される。若き日の蒋介石、汪兆銘、毛沢東など、次世代の中国の指導者たちも本書に登場する。
 著者が描く人物像は立体的だ。例えば、亡命時代の孫文は、後に首相となる犬養毅から「趣味は?」と聞かれ、顔を赤らめ小声で「ウーマン」と答えた。辛亥革命後に臨時大総統(中国語の「総統」は大統領の意)となった孫文は、南方出身者だったため、万里の長城以北の地域には冷淡で、満州の統治を日本に委託してもよいとさえ考えた。中国人が触れたがらない孫文の側面も、本書では描かれている。
 どこの国でも、革命の栄光は挫折と表裏一体だ。バスティーユ襲撃に始まったフランス革命は、人権宣言の理想を世界に輝かせたが、その後、ナポレオンの皇帝即位、敗戦、退位という挫折で終わった。武昌起義に始まる辛亥革命も、アジア最初の共和国樹立という偉業を成し遂げたものの、袁世凱の野心や、軍閥の割拠など挫折に終わった。孫文は死に際し「革命いまだ成らず」云々の遺言を残し、同志たちに中国革命の完遂のため奮闘努力することを求めた。
 今日の中国の躍進は目覚ましい。一方、中国は問題も抱えている。民主化、少数民族、ナショナリズム、民衆の生活格差。これらは、孫文ら革命派が解決に心を砕いた問題だ。百年後の今日も、中国革命は継続中なのかもしれない。
 著者の譚璐美タン・ロミ氏は、東京生まれだが、本籍は孫文と同じ広東省である。氏の父は、第二次大戦中に日本に駐在した国民政府の外交官。氏の大伯父の譚平山は、中華人民共和国の建国時に天安門の壇上で毛沢東と並んで立った創建メンバー。母方の祖父は、日本帝国陸軍の中将である。本書は、日中関係の申し子である譚璐美氏が、心血を注いで書き上げた大著である。日中関係の歴史と未来を語る上で、必読の書と言えよう。 (かとう・とおる 明治大学教授)
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
目次
(上巻)
序章 あの人のためなら命を捧げてもよい――孫文に心酔した会党の首領
第1章 支那のことはわかりません――伊藤博文の漫遊
日清戦争から四年、清国訪問の意図
老獪な政治家・李鴻章の落とし穴
光緒帝との異例の謁見、翌日の政変
第2章 干からびた食事――光緒帝の幼少時代
学問と政治に興味を持つ西太后
紫禁城の奥深くで折檻される五歳の皇帝
草堂につどう進取の気性に富んだ知識人
第3章 纏足をやめよ――康有為の主張と梁啓超の不纏足会
頭髪を巡る生死をかけた戦い
男を興奮させる先の尖った纏足靴
纒足しない女性の結婚相談所
第4章 「広州事件」の全貌――孫文の爆破テロ未遂事件
四人の無法者の政治談議
「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」
十月二十六日――重陽節、武装蜂起
第5章 ロンドン被難記――孫文のXデー
辮髪をばっさり切り落とし
ロンドン到着十日後、路上で
スクープ「革命家ロンドンにおいて誘拐監禁さる」
第6章 一生の所期はいかに――南方熊楠との出会い
大英博物館のオフィスにて面会す
熊楠は孫文をどう思ったのか
人の交わりにも季節あり
第7章 いざ、日本へ――孫文の上陸
アジアで最も早く近代化を成し遂げた国へ
処女から脱兎、ついには猛虎
早稲田鶴巻町に住まう
第8章 国是を定めよ――光緒帝の決意
康有為、ついに謁見
孤立無援で奮闘する青年皇帝
内密に袁世凱を召見すべし
第9章 やりすぎです――西太后の逆襲
光緒帝の死因
生者と死者の境界線
梁啓超、日本へ
第10章 侠士の同情を謝す――康有為の逃避行
強運の男を救った密詔
宮崎滔天の観察した読書人
西太后暗殺計画
第11章 保皇か革命か――康派と孫派の争い
冷淡な伊藤博文
孫文と康有為を隔てる溝
保皇会、カナダで創立
第12章 清朝を滅亡させよ――義和団事件と勤皇の役
キリスト教憎し、外国人憎し
南方に結集した「勤皇」派
宣戦布告後、北京脱出した西太后
第13章 義和団賠償金をむしり取れ――列強の争奪戦
清国を活かさず、殺さず三十九年分割払い
国際会議デビューの日本の成果
金で払うか、銀で払うか
第14章 広東を奪取せよ――恵州事件の顛末
日中合作革命
李鴻章の思惑と死
日本人最初の犠牲者
第15章 「死して悔いなし!」――黄興、長沙の義挙
五万元の賞金首
小国日本に学べ
玄洋社・末永節の証言
(下巻)
第16章 これは中国の薩長同盟だ――孫文・黄興の中国同盟会
「今度来た奴は面白いぞ」
満清転覆の予兆
孫文と宋教仁のすれ違い
第17章 百年後に悔いを残さないか――黄興、日本への警鐘
留学生二千人の集団帰国
国旗問題の後味の悪さ
日本政府の孫文追い出し
第18章 立憲や留学より、まず鉱山開発だ――袁世凱の長期ビジョン
西太后の死
アメリカの対中長期戦略
中国随一の名門・清華大学の源流
第19章 革命には金がいる――孫文、赤貧のシンガポール
孫文、東京からハノイへ
孫文を治療した日本人医師・西村竹四郎
軍資金が足りない
第20章 黄色い花咲く頃に――汪兆銘の暗殺計画と広州・黄花崗の役
武装蜂起失敗、そして、分裂と停滞
華僑子弟と日本留学生たちの愛国心
平均二十六・九歳の七十二烈士
第21章 武昌蜂起、ついに成功す――宋教仁の中部同盟会
「中部攻略大構想」
一九一一年十月十日、午後七時
中華民国の誕生
第22章 共和制などすぐに挫折する――講和する袁世凱の自信
天下分け目の南京決戦
宋教仁と東京帝国大学教授
破産寸前の清朝政府
第23章 一九一二年、中華民国の成立――孫文、臨時大総統に就任
「華僑は革命の母である」
孫文の帰国と宋教仁の葛藤
満州租借問題の真実
第24章 財政と金融政策こそ国家の要だ――袁世凱、梁啓超を起用
和袁、慰革、逼満、服漢
宋教仁の暗殺
国会消滅
第25章 兵をもって労働者となそう――孫文の鉄道大構想
中国鉄路総公司督弁
「鉄道の敷設は中国存亡の要である」
渋沢栄一の協力で会社設立
第26章 言論では駄目だ。威力を得ることだ――黄興と宋教仁の死
弔い合戦の「第二革命」
袁世凱のあっけない死
「支那の大西郷」
第27章 誰のための文化事業か――義和団返還金の使い道
第一次世界大戦で見えた光明
顧維鈞の活躍
文化事業と武力侵攻の抱き合わせ商法
第28章 北と南は同じ穴の狢だ――孫文が作った三つの広東政府
二転三転する日本政府の態度
孫文の疲労困憊
土地所有に関する重大な問題
終章 革命いまだ成らず――孫文の遺書
あとがき
主な参考文献
年表
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
51cq-izb7gL__SS500_.jpg

「波」 2012年2月号より著者による紹介文を引いておく。

      『日中百年の群像 革命いまだ成らず』刊行記念特集

         「暗黒の時代」へのヒント     譚璐美

 辛亥革命を成功させた孫文は魅力的な人だったと、つくづく思う。
 はじめて日本へ亡命した時、日本の政治家・犬養毅に「趣味はなにか」と問われて、即座に「革命です」と応じた。「いや、それは趣味ではないでしょう。もっと個人的に好きなことは何か?」と、重ねて聞かれると、急に顔を赤らめてモジモジして、「ウーマン」と答えたので、満座の人たちから歓声が沸いた。かくして孫文の趣味は、「第一に女性、第二に読書、第三に革命」に落ち着いたというエピソードが残っている。
 女性に関しては、知的で美しい富豪の娘でアメリカ留学帰りの宋慶齢を見初めた途端、親の決めた妻を広東から東京へ呼び寄せて協議離婚し、直後に再婚した。が、その前に横浜とハワイでも恋仲になった女性との間に子供をもうけていたから、やはり「第一の趣味」なのだろう。「第二」に挙げた読書は、暇さえあれば書斎に閉じこもり、ナポレオンの伝記だけでも十種類も耽読し、開戦図に没頭して戦略を練ったというほどの熱中ぶりだ。私が興味を引かれたのは「第三」である。孫文が十一回も革命に失敗したのにもめげず、十二回目の武昌蜂起で遂に辛亥革命を成功させた話は有名だ。その持久力と精神力はいったいどこから生まれるものなのかが不思議でならなかったのだが、なるほど「革命が趣味」だと即答するほど好きなのなら、大いに腑に落ちるのである。
 とはいえ、十二回目の武昌蜂起の成功は、直接的には孫文の手柄ではない。博識で理論家の宋教仁という生真面目な男が、孫文の失敗に嫌気がさして立てた別派の戦略が的中した結果だった。「中国版・西郷隆盛」と呼ばれた、こちらも生真面目な豪傑・黄興の勇敢な戦いぶりと指導力にも負うところが大きかった。その他にも、辛亥革命の時代には個性豊かで情熱的な男たち(女たちも)が大勢いて、中国ばかりか世界中を駆け巡りつつ戦う姿は「天空海闊」――天高く、海は限りなく広く、縦横無尽に翔けるが如くに活躍するさま――なのである。そして彼らは信義に厚く、人生意気に感じ、どん底生活を愉快に生き抜く。そんな人間味溢れる魅力的な姿を余さず読者にお伝えしたくて、拙著『日中百年の群像 革命いまだ成らず』(上・下)を執筆した。
 私が二十代で処女作『遥かなる広州』を上梓して以来、ずっと念願にしてきた人物伝による近代史なのだが、今回ようやく書き上げたものの、この長編でもまだ一九二〇年代までしか辿りつけず、「日中百年の群像」には遥かに及ばない。
 孫文の死後にも、魅力的な人物はいる。いや、もっと強烈な個性の持ち主たちがキラ星の如く現れて、野望を遂げようと死力を尽くして戦うのである。三つ巴、四つ巴の戦いの末に、最終的に勝ち残った者は、さしずめ毛沢東、蒋介石、汪兆銘の三人に代表される党派だろうか。時代は国際化が進み、第二次世界大戦の渦中にあって、三者三様にソ連、アメリカ、日本と結びつき、中国を舞台にした代理戦争にも突入してしまう。彼らは前後左右から取っ組み合い、なぎ倒し、のし上がろうと躍起になるのである。果たして彼らの「正義」とはどんなものだったのか。どんな悪辣な手を使って相手を潰しにかかったのか。具体的な行動をつぶさに追うことで、辛亥革命の次世代の生き様と本音を探っていきたいと思っている。
 今年二〇一二年は、辛亥革命の成功によって、中国の年号が「中華民国元年」に改まって百年目にあたる。近いところでは「日中国交正常化四十周年」の年でもある。日本では、世界的な経済不況に直面して「暗黒の時代」と表現されることが多いが、辛亥革命の時代にも、多くの人々が「暗黒の時代」だと悲観していたのである。その中で、孫文が人々に与えた光明と希望は、現代の我々にも勇気を与え、おおいに役立つヒントが盛り沢山である。例えば、人々を鼓舞してやる気にさせる情熱と話術、資金調達する時の説得方法、民主的な法制度による国家再建計画。また革命後の失業者対策として打ち出した大規模鉄道計画はアメリカの「ニューディール政策」にも匹敵し、第一次世界大戦後の「経済大恐慌」の時代に英仏両国と激しく渡り合った国際通貨の為替交渉は、矛盾をはらむ国際金融の根幹問題に触れて、現代の「リーマン・ショック」以後の世界経済の行方をも示唆している。これらの妙案が生まれた背景には、ハワイ育ちの国際人・孫文の「天下は公の為に」という無私の精神と百年後の繁栄を視野に入れた政治哲学があった。そういえば、孫文の口癖のひとつは「志あれば、事は成る」である。 (たん・ろみ ノンフィクション作家)

譚璐美/タン・ロミ

ノンフィクション作家。東京生まれ。本籍中国広東省高明県。慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学講師、中国広東省中山大学講師などを経て執筆に専念。『中国共産党を作った13人』『新華僑老華僑』『阿片の中国史』『中国共産党 葬られた歴史』『中華料理四千年』など著書多数。著者の父は、革命運動に参加し、日本へ亡命して早稲田大学に留学。帰国後は国民政府外交部に任官した後、日本に駐在。母方の祖父は日本陸軍中将で、インパール作戦の撤退を指揮した。大伯父の譚平山は中国共産党の創設者のひとりで、中華人民共和国の誕生時には、毛沢東とともに天安門の壇上に立った。『日中百年の群像 革命いまだ成らず』は、百年に及ぶ日本と中国の相克の歴史が自身の血に流れている氏にしか書けない物語である。

「立ち読み」上巻  「立ち読み」下巻も出来る。お試しあれ。
三田完『 モーニングサービス』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
519z9z-9QcL__SS500_.jpg

──新・読書ノート──

      三田完『 モーニングサービス』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・・・・新潮社2012/01/20刊・・・・・・・・・

      浅草は観音裏、昭和の香りを色濃く残す喫茶店「カサブランカ」。
      美味いコーヒーと亭主夫妻の人柄に惹かれ、今日もまた、風変わりな客たちがやってくる。
      芸者の大姐さん、吉原の泡姫、秘密を抱えた医大生……
      それぞれの複雑な事情がカップの湯気に溶け、そっと飲み干せば少し力が湧いてくる。
      疲れた心がじんわり温もる人情連作集。

この本は新潮社の読書誌「波」誌上に連載されたもので、毎号、私は 楽しく読んできた。その単行本化である。

「波」 2012年2月号より書評を引いておく。
-------------------------------------------------------------------
        生き生きと描かれた浅草の人情歳時記      やすみりえ

 物語の中心となるのは喫茶「カサブランカ」。
 常連さんが集い、現代の浅草の片隅でなんとかつぶれずに営業している古いお店である。ここに毎日集う顔ぶれは年齢も職業もさまざまで実に個性的な人ばかり。
 そんなお客達に毎日、五百円のモーニングセットを作っているのが親からこの店を譲り受けた富子。そして珈琲を淹れるのが夫の士郎。アラ還世代の夫婦で切り盛りしながら、この浅草でずっと暮らしている。
 それにしても今の世の中、毎朝どれくらいの数の人が喫茶店でモーニングセットを食べているのだろう。ちなみに「カサブランカ」では開店から朝十一時までオーダー可能。日頃モーニングサービスに縁の無い私は随分と朝が長いのだなあと感じてしまう。
 もちろん私にも家の近くにお気に入りのカフェはいくつかある。けれど、そこはどちらかというと「一人になるため」にお茶を飲みに来ているような客層だ。都会の気ままが席を埋めているような場所。そこでは「カサブランカ」のように入り口の扉が開いた瞬間、常連さん達がいっせいに振り向くことなんて一切無い。
 ゆっくりとモーニングサービスを楽しむお客同士の会話からは、下町ならではの雰囲気が生き生きと立ちのぼってきて読者はつい引き込まれてしまうだろう。カウンターでは挨拶がわりに満開の隅田川の桜や、初夏の三社祭の準備の話題が出てきて、それはまるで浅草の歳時記を眺めているようでもある。
 浅草というと私には、句の仲間と出掛けることの多い場所である。いわゆる吟行をしに行くのにちょうど良い場所とも言える。句の題材になりそうなものが溢れているから、吟行会に向いているのだと思う。外国人観光客、修学旅行生、下町グルメ、賑やかな通りや路地。その景色の向こうには東京スカイツリーもお目見えして新旧入り混じる面白いエリア。吟行途中、和装雑貨屋に紛れ込み、句を詠むよりも買い物に夢中になってしまう事もしばしばなのだけれど。
 さて小説に話を戻そう。喫茶「カサブランカ」のお客のひとり、芸歴四十五年の澄江姐さんの存在が特にいい。ユニクロのジャージを着てモーニングサービスを食べにくる、面倒見がよくて情の厚い女性だ。芸者であるこの人物にしてみても、普段着にユニクロを着ていてミスマッチなイマドキが織り交ぜられている。現代の浅草の町と同じなのである。
 彼女にはちょっと驚く色恋絡みの過去があるのだが……。
ひと夜の月の おぼろなここち
 愛想と知れば 袖の露
 こんなもんぢやい こんなもんぢやい
 浮世の風を ふうわりと
 鈴八節の家元でもある澄江姐さんが三味線に乗せて披露した古曲の文句がこれまた粋。登場人物それぞれの過去には、男女の巡り合わせや、縁の不思議が絡み合っていて切ない。
 若い世代の登場人物ではオネエ系の医大生、ヒカルがユニーク。心に闇を抱えながらも本来の純粋さのおかげで愛されるキャラクターだ。「カサブランカ」のお客となったばかりだが、面倒見の良い澄江姐さんに気に入られてオンナノコとして修業中なのだ。
 以前、三田完さんの『俳風三麗花』を読んだことがある。昭和初期の東京を背景に、俳句を通して友情を育む娘たちの恋模様が綴られた物語だった。「句会」というひとつの集いの場をふんだんに登場させ巡り合わせや縁の妙味を見事に描き切った作品で、これも私の好きな一冊である。  (やすみ・りえ 川柳作家)

三田完/ミタ・カン

1956(昭和31)年、埼玉県浦和市生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。2000(平成12)年「櫻川イワンの恋」で第80回オール讀物新人賞を受賞、デビュー。2007年『俳風三麗花』が第137回直木賞候補となる。その他の著書に『乾杯屋』『当マイクロフォン』『草の花』など。

「立ち読み」も出来る。 お試しあれ。


煮凝りの魚の眼玉も喰はれけり・・・・・・・・・・・・・・・・西島麦南
nikogori2ひらめのアラにこごり

   煮凝りの魚の眼玉も喰はれけり・・・・・・・・・・・・・・・・西島麦南

煮魚を汁とともに寒夜おいて置くと、汁がこごり固まる。これが煮凝(にこご)りである。特に骨にはゼラチンが多く含まれているのでよく凝る。
掲出の写真は、ひらめのアラを使った煮凝りだという。アラを、このように捨てずに有効利用するとおいしい食物になる。
適当な写真がないので出せないが、掲出句に詠まれる煮魚の煮凝りは冬には普通に見られるものであった。

nikogori1ふぐ煮こごり

写真②は、高級食材の「ふぐ」の皮などを煮詰めた「ふぐの煮凝り」であり、ふぐのセット料理の一品としてだされるもの。
こうなると、たかが煮凝りなどとは言えない、高級料理である。

煮凝りは、どちらかと言うと、大人向きの食事で、子供向きではない。掲出の句は、そういう機微もうまく捉えた、ほのぼのとした句である。
以下、煮凝りの句が多くあるので、それを引いて終りたい。

 煮凝を探し当てたる燭暗し・・・・・・・・高浜虚子

 煮凝や色あらはなる芹一片・・・・・・・・大谷碧雲居

 煮凝や親の代よりふしあはせ・・・・・・・・森川暁水

 寂寞と煮凝箸にかかりけり・・・・・・・・萩原麦草

 煮凝や父在りし日の宵に似て・・・・・・・・草間時彦

 煮凝りを箸にはさみて日本人・・・・・・・・山口波津女

 煮こごりや夫の象牙の箸づかひ・・・・・・・・及川貞

 煮凝や他郷のおもひしきりなり・・・・・・・・相馬遷子

 煮凝りのひえびえと夜のかなしけれ・・・・・・・・長谷川湖代

 煮凝りや母の白髪の翅のごと・・・・・・・・土橋璞人子

 煮凝や死後にも母の誕生日・・・・・・・・神蔵器

 煮凝や凝るてふことあはれなる・・・・・・・・轡田進

 煮凝りて眼鼻なほあり鮒の貌・・・・・・・・松本翠影

 煮凝やますます荒るる海の音・・・・・・・・佐藤漾人

 煮凝や若狭の入江深うして・・・・・・・・辻桃子

 居酒屋のいつもの席の凝鮒・・・・・・・・沖鴎潮

 煮くづれしまま煮凝となりにけり・・・・・・・・来栖恵通子

 煮凝の喉にとけゆく母国かな・・・・・・・・大屋達治

 さびしさの煮凝り売りし頃のこと・・・・・・・・高島征夫
-----------------------------------------------------------------------
わが敬愛する島本融氏がHPを更新されて作り溜めた俳句を、たくさんアップされた。
その中に

 仲直りよべの煮こごり食べようよ・・・・・・・・・・・・・・・島本融

という句を見つけたので、ここにご披露しておく。
氏には、句集『午後のメニスカス』があり、Web上の私のHPでご覧いただける。
島本融氏は、未知の人であったが、偶然に私のHPを見た、と言ってメールを送って来られて交友するようになった。
本人は何も仰言らないが、検索してみて、氏が河井酔茗、島本久恵氏のご次男であること、群馬県立女子大学教授であられたこと、東京工芸大学のことなどが、サーフィンの結果判った。美学者であられる。
島本氏には先年上梓された歌集『アルカディアの墓碑』もある。
ここに引いた句を含む新作については機会をみて載せたい。


原田マハ『楽園のカンヴァス』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
原田マハ

──新・読書ノート──

      原田マハ『楽園のカンヴァス』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・・・新潮社2012/01/20刊・・・・・・・・・・

     ニューヨーク近代美術館(MoMA)の学芸員ティム・ブラウンは、スイスの大邸宅でありえない絵を目にしていた。
     ルソーの名作『夢』とほとんど同じ構図、同じタッチ。持ち主の富豪は真贋を正しく判定した者に作品を譲ると告げる。
     好敵手(ライバル)は日本人研究者、早川織絵。リミットは七日間――。
     カンヴァスに塗り籠められた真実に迫る渾身の長編!

新潮社の読書誌「波」 2012年2月号より、著者のインタビュー記事を引いておく。
----------------------------------------------------------------------
     [原田マハ『楽園のカンヴァス』刊行記念特集インタビュー]

          二十五年間ずっと書きたかった小説       原田マハ

――このたび刊行される美術鑑定ミステリー『楽園のカンヴァス』は、なんと構想二十五年とうかがいました。構想のきっかけを教えてください。
 美術と私との関わりの最初は小学校二年生の時でした。この小説の舞台でもある倉敷の大原美術館で、ピカソの〈鳥籠〉を見たんです。衝撃的でした。「なんて下手なんだろう、これならあたしでも描ける!」って(笑)。巨匠の名画が一気に身近な存在になりました。その時から、ピカソとはもう四十年ぐらいのお付き合いがあることになります。
 作品そのものの構想が浮かんだのは大学三年生のころ。年上の友人からルソーの画集を見せてもらって、また思ったんです。「なんて下手なんだ」と。でも小学生のときとは全く違う感情でした。技術的には優れていないように見えるけれど、どうしても心にひっかかる。人間の感情に素手で触れるような、見てはいけないものを無理やり見せられたような、むずむずする感じを受けました。その画集にはピカソの言葉も書かれていました。二十世紀初頭の美術界を「今はすごく新しい時代だ」と語った、と。そこでずっと心の中にあったピカソとルソーが繋がり、彼らの時代をいつか書けるんじゃないか、と予感めいたことを思ったのです。当時はまだ自分が作家になるとは考えてもいませんでした。
――本書では、二人の若き研究者が名画の真贋論争とともに、ある物語を読み解いてピカソとルソーの生涯を追いかけます。
 ルソーの作品世界とミステリアスな人生を自分の手でつまびらかにしたいという欲望がずっとありました。革新的なものが生まれる瞬間に立ち会ってみたかったのです。主人公の二人が少しずつ読み解いていくルソーの謎は、私自身が知りたかったことでもあります。ただ、画家たちが生きた時代のどこを切り取るべきかとても迷いました。何よりもまず、小説として読んで面白くないといけない。二人の間に流れる温かい感情のやりとりを表現するため、キュレーターとしての自分は脇に置いて、一作家として思い切って書きました。
――その一方、有名美術館の裏側や大展覧会のからくりなど現代の美術界の様子が実に生々しく描かれています。
 美術界の描写については徹底的にリアルを追求しました。個人的にはニューヨーク近代美術館に勤務した経験が大きかった。同館はさすがに世界的な美術館だけあって、展覧会の完成度が素晴らしく、一キュレーターとしてはとてもかないません。でもその美の裏側にはドロドロした人間関係や、保守的でエリート主義の塊のような人たち、利権にからむ複雑な力学がうごめいていました。それはそれはショックでしたけれど、もしかしたら本書を書くために私はニューヨークに行ったのかも、と今はポジティブに考えています(笑)。
――主人公の一人、早川織絵は美術館の監視員を務めています。なぜこの職業を選ばれたのでしょうか。
 同じ美術に関わる仕事でも、作品を前にしたときの態度はそれぞれの立場で違います。コレクターはその作品をいかにして手に入れるかを考えるでしょうし、画商はいくらで売れるかを、キュレーターはまず展覧会のことを考えるでしょう。その中で、監視員は作品を守って伝えることをもっとも真摯に考えている職業だと思います。でもひょっとすると、一番幸せなのは、一人の観客として美術館を訪れる人かもしれませんね。
 私にとって美術品は決して研究対象ではなく、行けば何かを語りかけてくれる友達のようなものです。だから美術館は友達の家。旅をしていても、いつも世界中に友達の家があって、それぞれに違う物語を話してくれるのです。この小説を読んだ方が、私の友達の家を訪れて、絵画を、そしてルソーやピカソを友達のように親しく思ってくださるならば、それ以上の歓びはありません。    (はらだ・まは 作家)

原田マハ/ハラダ・マハ

1962年、東京都小平市生まれ。中学、高校時代を岡山市で過ごす。関西学院大学文学部日本文学科および早稲田大学第二文学部美術史科卒業。マリムラ美術館、伊藤忠商事、森ビル森美術館設立準備室にそれぞれ勤める。森ビル在籍時、ニューヨーク近代美術館に派遣され同館にて勤務。その後フリーのキュレーター、カルチャーライターに。2005年「カフーを待ちわびて」で第1回日本ラブストーリー大賞受賞、デビュー。同作は映画化され、35万部を超える大ヒットとなる。その他の著作に『一分間だけ』『さいはての彼女』『キネマの神様』『翼をください』『インディペンデンス・デイ』『星がひとつほしいとの祈り』『本日は、お日柄もよく』『風のマジム』『まぐだら屋のマリア』『でーれーガールズ』『永遠をさがしに』など。『楽園のカンヴァス』は著者の本領とも言うべき美術の分野に初めて真っ向から挑んだ長編小説。

目次
第一章 パンドラの箱 二〇〇〇年 倉敷
第二章 夢 一九八三年 ニューヨーク
第三章 秘宝 一九八三年 バーゼル
第四章 安息日 一九八三年 バーゼル/一九〇六年 パリ
第五章 破壊者 一九八三年 バーゼル/一九〇八年 パリ
第六章 予言 一九八三年 バーゼル/一九〇八年 パリ
第七章 訪問―夜会 一九八三年 バーゼル/一九〇八年 パリ
第八章 楽園 一九八三年 バーゼル/一九〇九年 パリ
第九章 天国の鍵 一九八三年 バーゼル/一九一〇年 パリ
第十章 夢をみた 一九八三年 バーゼル
最終章 再会 二〇〇〇年 ニューヨーク
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「波」 2012年2月号より

      [原田マハ『楽園のカンヴァス』刊行記念特集]

       前代未聞の“鑑定対決”エンターテインメント      大森 望

『楽園のカンヴァス』は、素朴派の巨匠、アンリ・ルソーの幻の名画が物語の焦点。「夢をみた」のタイトルで《小説新潮》連載が始まった当初から評判を呼んでいたそうですが、寡聞にして知らず、ゲラで読んで仰天した。原田マハがこんな堂々たるエンターテインメントを書こうとは……。
 絵画をネタにしたミステリーなら、それこそダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』から、一昨年の日本ミス>テリー文学大賞新人賞に輝く望月諒子『大絵画展』まで無数にある。贋作ネタも珍しくない。だがしかし! 本書の趣向は前代未聞。いやはや、こんな絵画ミステリーは初めてだ。
 ……と、興奮のあまり話が先走ったが、もう少し詳しく中身を紹介しよう。物語は二〇〇〇年の倉敷で幕を開ける。四十三歳の早川織絵は、若い頃、パリ在住の美術研究者だったが、日本に帰って、母親の住む岡山で未婚のまま子供を産み、いまは大原美術館の監視員をしながら、母と十六歳になる娘の真絵と平穏無事に暮らしている。そんなある日、思いがけない話が舞い込んだ。大手全国紙の文化事業部が大規模なアンリ・ルソー展を企画し、MoMA(ニューヨーク近代美術館)からルソー最晩年の代表作「夢」を借りようとしたところ、先方のチーフ・キュレーターのティム・ブラウンが、「オリエ・ハヤカワを交渉役にするなら考えよう」と返答したというのである。一介の監視員である織絵が、なぜそんな大役に指名されたのか?
 と、ここまでが第一章。わずか三十数ページのこの章を読むだけで小説世界に深く入り込み、抜けられなくなる。だがもちろん、本番はこのあと。第二章に入ると、物語は一九八三年のニューヨークに飛び、織絵にかわって、若き日のティム・ブラウンが主人公となる。当時の彼は、アシスタント・キュレーター五年目の三十歳。下っ端の雑用係だが、そん
なティムのもとに、ある日、伝説の大物コレクター、バイラーの代理人だという弁護士から、ルソーの知られざる名画
を調査してほしいとの手紙が届く。よく似た名前の上司トム・ブラウンと宛名を書き違えたのだろうが、ティムは千載一遇の好機とばかりに依頼を受け、スイスのバーゼルへ向かう。
 バイラー邸に着いたティムは、もうひとりの鑑定役と引き合わされる。二十六歳の若さでソルボンヌの博士号を取得したルソー研究者、オリエ・ハヤカワだ。そして、やがてふたりの眼前にあらわれた幻の名画とは、「夢」とほぼ同一のモチーフを描いた未発表の大作、「夢をみた」だった。はたしてこれは真作か贋作か。バイラーいわく、今日から七日間かけてこの絵を調べ、判定結果を発表してほしい。その勝者に、「夢をみた」の取り扱い権利を与えよう……。
 おお、まさかの鑑定対決! これだけでもわくわくしてきますが(「開運!なんでも鑑定団」の鑑定中BGMが頭の中で鳴りはじめるあたりが我ながら情けない)、本書の眼目はさらにその先。鑑定の材料として、ふたりは七章から成る物語を一日に一章ずつ読むことを求められる。作中に挿入されるその物語は、一九〇六年のパリに始まり、ルソーの晩年の日々を、まるで見てきたように綴ってゆく。いったいこの物語は何なのか? 「夢をみた」の正体とは? 謎が謎を呼ぶ展開が読者をつかまえて放さない。絵画に関する数々の蘊蓄や美術論も(奥泉光の『シューマンの指』が音楽論と小説をなめらかに融合させていたように)無理なく物語にとりこまれ、小説を読むだけでルソーに(ついでにピカソにも)どんどん詳しくなり、ルソーのことがどんどん好きになる。
 ご承知のとおり、著者は実際にMoMAに勤務し、その後フリーのキュレーターになったという経歴の持ち主。みずからの専門分野を初めて正面から題材に選び、同時にエンターテインメント作家として一大飛躍を果たしたことになる。
「眠れるジプシー女」や「戦争」に魅せられた人はもちろん、ルソーといえばジャン=ジャックでしょ、という人にも(美術の鑑定といえば「なんでも鑑定団」でしょ、という私みたいな人にも)ぜひ読んでほしい、年頭を飾る傑作だ。 (おおもり・のぞみ 書評家)

「立ち読み」も出来るので、アクセスされたい。


左能典代『青にまみえる』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
41COLjUVlaL__SS500_.jpg

──新・読書ノート──

    左能典代『青にまみえる』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・新潮社2012/01/31刊・・・・・・・・・・

      酒にではない、お茶に酔ったのだ。
      中国有史五千年のはるか以前より、福建省の深山に自生し続ける、
      大地自然の気をたっぷり吸い込んだ悠久の茶。
      この、水に次ぐ命の飲み物に酔った時から、「私」の運命はゆったりと動き始め……。
      混迷を深める人の世の底なしの泥沼に、疲れはてた心と体を温かくうるおす、大人のための小説。

新潮社の読書誌「波」 2012年2月号より 書評を引いておく。
---------------------------------------------------------------------

         さあ、永遠の話をしよう        村田喜代子

 いつだったか、中国は武夷山の岩茶を飲みながら、左能さんと夜更けの電話でとりとめのない話をしたことがある。
というのも岩茶はウーロン茶と呼ばれる青茶の一種だが、他の青茶と違って、飲んでいるとだんだんに酔ってくるのである。
面白いことにがぶがぶと飲んでいると酔わない。ちびりちびりと舌の味蕾に滴らせていると、酒酔いに似た陶酔感にからめとられる。
それに身をまかせながら、どちらからともなく、旅に出たい、という話になった。
 左能さんは東京で日中文化交流サロン岩茶房を主宰して独り行動のとれる時間はめったにない。叶わぬ夢は彼方の星のように光る。
そのときふと私は以前に行った中国の鳴沙山の情景を思い出した。日が落ちて長い急斜面の砂山の上に月が出る。
その黄色い月は〈永遠〉のマークみたいではないか。岩茶と〈永遠〉はセットになって、酔った脳みそに浮かんできた。
 すると左能さんが、昔、その敦煌の鳴沙山の天辺でお茶を点てて飲んだという話を始めたのだった。
旅で知り合った中国人が携行してきたポットの湯で、急須に岩茶を点て供してくれた。茶杯の中の液体の色も定かに見えない夜のことだ。
「お茶って何だろう」と左能さんは言った。いや、その上に「中国人にとって」という言葉をくっつけていたと思う。
なぜなら日本人にとってのお茶はもう、砂山を滑落しつつ砂まみれになって、持って行くほどの飲み物ではない。
 私はそのときの、急峻な砂山の絶頂にかかる月と、茶杯の底に湛えられた琥珀の液体の幻影を、その後もときどき思い出した。自分もそこに居たような錯覚さえ催した。
 それからまたしばらく経ったある夜。やっぱり岩茶をちびりちびり飲んでいると、コロッと酔っぱらって左能さんに電話をかけた。
再びどちからともなく、どこかへ行きたいという話の続きになったとき、ゴビ砂漠が出た。少数民族の砂塚のような墓と蜃気楼を思い出す。
あそこにも間違いなく〈永遠〉がある、なんてまたお茶の酔いに溜息をつきつつ私が言うと、左能さんはやはり以前そのゴビ砂漠で会った少数民族の青年のことを話し出した。
 旅のメンバーと訳あって別れ、一人で暮れ方の沙漠を彷徨うように歩いた。野宿を覚悟しかけたとき、ハミ瓜を積んだ荷車を牽く青年と行き会うのだ。
一杯の水を所望すると、青年は足元も見えなくなった暗い地面にしゃがんで、わずかな枯れ草で火を熾し、お茶を点ててくれた。美味くはない。
どろりとしたまるで毒薬のような液体。青年は自分のぶんの最後の一杯を供してくれた。
 本当にお茶って何だろうね、とその夜も行き着く先はその言葉になったものだ。

 左能さんは今まで何冊か本を出したがおもに中国茶に関するもので、小説でお茶を題材にしたのはこれが初めてだ。大丈夫だろうかとよそ事ながら思った。
〈永遠〉なんてものは書けない。それと同じで〈お茶〉なんてものも書けるものではないと……。
 いったい中国人にとってお茶とは何だろう。
今はその中国人もウーロン茶といえば、日本産のサントリーのウーロン茶によって初めて知ったという笑えない話もある。
中国人の大半は緑茶で、青茶や黒茶(プーアール茶等)を飲む人々は数パーセントに過ぎないという。
その点ではウーロン茶や岩茶はお茶の中の狭き門で、すでに国籍は取り払われたも同然だ。あるのは水とは違う人間の身体を潤す液体ということ。
そうしてそれは日本の茶の湯のような精神性と別の、究極の味と効能を求めるものだ。
 この小説の最初のほうの頁を開くと、いつか左能さんが語ったゴビ砂漠の夕闇がたちこめている。
オアシスから何キロも離れた、まったく水の匂いのない乾ききった大地。ハミ瓜を積んだ荷車の轍の音が近づいてくる。
ああ、こうやって〈永遠〉が登場するのだ、と私は思った。
一九八〇年代初め、まだ地球の自然がずっと長く保たれると、大方の人々が信じていた懐かしい時代の夏のことである。    (むらた・きよこ 作家)
--------------------------------------------------------------------
「立ち読み」もできる。 アクセスされたい。

↓ 武夷岩茶の一種、大紅袍の茶葉と水色
798px-Daikouhou_03.jpg

私は「お茶屋」なので、中国の古来の茶についても多少の薀蓄はある。
ここに書かれている「岩茶」なるものについて少し書いておこう。
これは中国茶の一種で、茶の名産地である武夷山で産出されるもの。
ひとつまみを湯呑に入れて熱湯を注ぎ、滲出した上澄みを葉っぱをよけながら呑むのである。急須に入れてから湯呑に注いでもよい。

「武夷岩茶」については ← Wikipedia に詳しい。

<明星の出でぬる方の東寺>などて迷ひを抱きませうぞ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
24最御崎寺
 ↑ 四国霊場第24番札所「最御崎寺」

  ■<明星(あかぼし)の出でぬる方の東(ひがし)寺>
     などて迷ひを抱きませうぞ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


昨日付けで玉井さんの本を採り上げた関連で私の「四国遍路」の歌を出しておく。
角川書店「短歌」2007年2月号に「艸木茂生」のペンネームで「明星の」14首の歌を編集部寄稿依頼として発表した。
全文は、詩集『免疫系』(角川書店)で読んでほしいが、「四国遍路」に関する部分を、今日は書いてみる。 
自歌解題の形になる。

先ず、掲出歌のことから。
高知県室戸岬の突端に、四国霊場第24番札所「最御崎寺」(ほつみさきじ)というのがある。
下記に、そのお寺の簡単な説明文を貼り付けておく。

本尊: 虚空蔵菩薩
真言: 「のぅぼう、 あきゃしゃ、 きゃらばや、 おん あり、きゃまり、 ぼり 、そわか」
詠歌: 「明星の 出でぬる方の 東寺 暗き迷いは などかあらまじ」
縁起: 正しくは最御崎寺と言うのですが、普通、東寺と呼ばれており、室戸岬の突端の山の上にあります。
弘法大師が19才の時、仏法の迷いを払わんとして、大和の国大峰山から高野山ヘ、更に阿波の太龍寺へ登り、命がけの難行苦行をされましたが、悟りを開くことができませんでした。そして次に来られたのが、この室戸だったのです。果てしなく広がる太平洋の自然を前にして、雨の日も風の日も勤行を続け、ついに悟りを開かれたのでした。「法性の 室戸と言えど 我住めば 有為の波風 立たぬ日ぞなし」と詠まれたように、東の空に光を放つ明星の暗示により悟りを開かれました。そこで山の上にお寺を建てられましたのが、この24番東寺で、本尊の虚空蔵菩薩はお寺の創建と共に大師が刻まれたものです。

この歌の前に

■最御崎(ほつみさき)いづれば虚空に風立ちて御厨人窟(みくろど)といふ洞の見えつつ・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。
私の歌は、上記の説明文にあるように、ご本尊の虚空蔵菩薩の名前をいただいて「虚空に風立ちて」と表現している。
<>の中には、ご詠歌にある「明星の出でぬる方の東寺」をコラージュとして引用させてもらい、かつ、「迷いはなどかあらまじ」を私なりに砕いて歌の中に取り込んだものである。
この辺りのくだりは千数百年の謂れのあるものであり、その謂れに素直に私の歌を添わせた方がいいと思って作ったのが私の表現になっている、と理解してほしい。

ここは、文字通り「室戸岬」の突端の岩の上にある寺で、いつ行っても風が強い。
ここには野生の椿の林があり、そのトンネルの中をくぐって室戸岬灯台に行けるようになっている。椿のトンネルが防風林となって、椿の林の中は風もなく穏やかである。
この寺を出て少し行くと、空海も籠ったという洞窟がある。
私の歌では「御厨人窟」としてあるが、これは現地での説明文によるものだが、こう書いてある。

800px-Mikurodo_01みくろど
↑ 御厨人窟 (みくろど) 

  <岬から1キロほど離れた海岸に、「御厨人窟 (みくろど) 」という海食洞穴があります。
  この洞穴にこもり、虚空蔵菩薩への祈りを唱え続けていた真魚の口に、ある日突然“光り”が
  飛び込みました。

  その瞬間、世界のすべてが輝いて見えたらしいのです。
  洞穴から見える外の風景は、「空」と「海」だけでしたが、その二つが、今までと全く違って、
  光り輝いて見えました。そのときから、真魚は「空海」を名乗るようになりました。

  「光り」が入ったときに、空海は“悟った”のでした。求聞持法を会得し、無限の智恵を手に
  入れたのです。 求聞持法会得に至るまで、空海は四国のけわしい山々で修行をするのですが、
  このとき修行したといわれるところが、「四国八十八ヶ所」のお寺になりました。>

玉井清弘さんの『時計回りの遊行』では「御蔵洞」(みくろど)と表記してあるが、玉井さんの本の記述の方が訓み方が自然であると思う。

26金剛頂寺
 ↑ 第26番札所「金剛頂寺」

  ■薬師(くすし)なる本尊いまし往生は
      <月の傾く西(にし)寺の空>・・・・・・・・・・木村草弥


掲出歌につづいて、この歌が載っている。室戸岬から少し戻ったところにあるのが第26番札所「金剛頂寺」である。

本尊: 薬師如来
真言: 「おん ころころ せんだり まとぅぎ そわか」
詠歌: 「往生に 望みをかくる 極楽は 月の傾く 西寺の空」
縁起: 大同二年(807年)、勅願により弘法大師が開基した寺です。本尊の薬師如来は弘法大師が刻まれたもので、現在まで一度も人の目に触れたことのない秘仏です。
海抜160mの山の上にありますが、室戸岬の最御崎寺と相対しているところから、最御崎寺を東寺、こちらを西寺と呼んでいます。昔は沢山の僧侶や修験者などがいた大きいお寺でした。
今から500年前の文明年間、火災のため焼け、再建されましたが、明治時代に再び火災に遭い、全焼しました。しかしすぐ又再建され、現在も諸堂備わる立派なお寺です。宝物館や鯨館も新しく建てられています。これらは西寺の檀家で、太洋漁業の南氷洋の捕鯨船の砲手となり、やがて会社の重役さんにまで出世した人が、鯨1万頭を捕った記念にこちらに寄贈したものです。
明治時代までは室戸沖でも沢山の鯨が捕れたそうです。よく、「鯨一頭、七浦栄える」と言われていますが、大漁の時には浜は大変な景気で、道行くお遍路さんにも鯨の肉を接待したそうです。ところがお遍路さんには肉類は禁物で、折角もらってもお大師様の手前食べるわけにいかず、民家に持って行ってお米と替えてもらったそうです。

上記の説明文にもある通り、ご本尊は薬師如来であり、私の歌は、ご詠歌の「往生」と「月の傾く西寺の空」のフレーズを借用している。
因みに、四国88ケ寺のうち、ご本尊が一番多いのが薬師さんであり、全部で23ケ所ある。これを見ても、昔は如何にも病気などが多かったので、その平癒のために「お薬師さま」を祀って祈願したかが判るのである。

henro遍路

これらの歌の前には

 ■渦潮を見つつ辿れる海道は落花しきりの鳴戸の春ぞ ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 ■さまざまの過去を抱きて来し人ら菜の花の黄に鈴鳴らしゆく

 ■鎮魂の念(おも)ひやまずも南(みんなみ)の里べの土を踏みて歩めば

などの歌が連なっているが、四国霊場巡りは阿波・徳島から始まるのだが、折しも桜の季節の終りで、菜の花の咲く頃だったということである。
一昨年にも書いたが、この千二百キロとも千四百キロとも言われる「四国遍路」は、阿波の「発心の道場」、土佐の「修業の道場」、伊予の「菩提の道場」、讃岐の「涅槃の道場」と繋がっている。
ここで「四国八十八箇所」のリンクを貼っておくので参照されたい。

私の行程は、2008年一月で伊予(愛媛県)を打ち終えて、二月からは最後の讃岐(香川県)を二回に分けて辿ることになった。
巡拝することを「打つ」というが、これは昔は「納め札」に「片木」を使っていたことに由来するという。
俳句の季語では遍路は「春」の季語だが、前にも書いたように、夏は梅雨の季節をはじめとして「降雨」に遭うのが巡礼には辛く、また夏の「酷暑」も苦しい。また冬も外歩きは寒くて辛いものである。私たちのようなバスによる略式の巡拝でも、一日中寒気の中を歩くのは身にしみるものがある。
今まで書いてきた中に「空海」「虚空蔵菩薩」などが出てきたが、仏教ないしは「密教」というのは深い智慧を有したものであり、軽々しく語ることは出来ないが、ネット上で見られる教義のさわりを、以下に貼り付けておく。

 虚空の音を聞く、虚空を見る

虚空蔵求聞持法

----「虚空蔵」とは

弘法大師空海は、若い時に「虚空蔵求聞持法」というマントラ・ヨーガの瞑想修行を
海辺の洞窟の中で体験しました。この修行により、彼は抜群の記憶力が得られ、
その後の成功につながったと信じられています。

この「虚空蔵」とは、サンスクリット語のアーカーシャガルバのことで、
神智学のブラバッキー女史や人智学のシュタイナーが「アーカーシャに参入する」
と語っているところでもあるのです。

「虚空」とはなんでしょうか? 一般的には空間には何もないと信じられています。
しかし、真言密教ではその
「虚空」にこそすべてのものが収められており、虚空蔵、虚空蔵菩薩がいる
と述べているのです。
 
----「求聞持(ぐもんじ)法」とは

ビックバンという宇宙創造の時は、何もない虚空から物質が産み出されたのです。
密教では物質の構成要素として地・水・火・風の物質性を考え、
そこに重々無尽(融通無碍)に浸透している、虚空(空・エーテル・氣)を考えました。

弘法大師空海は、その虚空の空間に入ると
「五大に響きあり、十界に言語を具す」
(物質と精神には響きがあって、それぞれに言葉を用意している。声字実相義)と述べています。

求聞持法とはアーカーシャの音を聞くという体験なのでしょう。
同じ体験をした行者(ヨギ)がインドにいます。
パラマハンサ・ヨガナンダは自署「あるヨギの自叙伝」の中で 
「創造の波動オームとして、宇宙に鳴り響いている宇宙原音に意識を合わせたヨギ(ヨガ行者)は、
 その音を直ちに自分の理解できる言葉として聞くことが出来るのである」と述べています。

虚空の音を聞く

あなたも雑踏の中でさまざまな音を聞いているうちに、自分の携帯電話の音が聞こえてきた経験はありませんか?
ケイタイを取り出すと鳴っていないのに、音が聞こえた経験です。
私たちの脳内には今までに記憶していた音が残っているのです。

この記憶が感覚器官に伝わることにより、音を聞いたという意識になるのです。
つまり耳の記憶を引き出して来ることができれば、音がなくても音を聞いたという体験が得られるのです。

臨済宗を復興した白隠禅師は、隻手(せきしゅ)の声という公案を考えました。
隻手とは片手のことです。この隻手の声がわずかでも耳に入る時には、超能力(六神通)を得るというのです。

心理学者カール・ユングの言うように、心の奥に人類の叡智が集まった集合無意識があれば、
そこに入って音を聞くことができるのではないでしょうか?
ちなみに空海は、「乾坤は経籍の箱なり(宇宙はお経の本箱)」と言っています。
あなたも虚空の音を聞いて見ませんか?

虚空を見つめる
---青空を見つめる修行法

チベット仏教の修行法には、岩山の洞窟に登り、青空を見つめる修行法があります。
オーストラリアの原住民アボリジニにも同じような修行法があります。
アボリジニは岩山の上で青空を見つめると、過去の先祖の記憶がよみがえってくるといいます。

私も何度かこの瞑想法に挑戦しました。
最初は遠方の山や町を眺めていました。視線を前方に向けると静かに雲が流れています。
雲に焦点を会わせ前方を見つめたままでいると、視界から雲が消えてしまいます。
雲のあった位置に視線を固定しようとしているうちに、自分の目の機能、
焦点を合わせようとする機能があることを発見しました。

眼球を支える筋が顔の横にあり眼の焦点を動かしているのです。
この筋に意識を置くと、目が開いているのに外部の状況を見ないことができるのです。
その状態を保つと視野は180度に広がりますが、意識は外には行かず内部を見つめるようになります。
コツは、意識が外の動きに引っ張られないように、意識を呼吸に置くことです。

この瞑想法はネパールのミルクババジをインタビューしている時学びました。
小さな祠に突然入ってきた一人の若者が、ババジの顔の前でカメラのフラッシュを焚きました。
ババジは瞬き一つせずにフリーズしたようになっていました。気配を察し心を内側に向けたのです。
残念ながらそのときの若者は、日本人でした。

意識によって欲望をコントロールする

感覚対象(色・声・香・味・触・法)は感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)が感じるから存在するだけではなく、
感覚の記憶を思い出すだけでも感覚対象があるように思えるのです。

高野山の修行中、仏さまの観想が難しかったので、観想の対象を食べ物に切り替えました。
禁酒禁煙・肉類なしの食生活でしたので真っ先にビールを観想しました。
コップに滴る水滴やビールの泡など微細に観想できるのです。
のど越しのよいイメージも観想でき、ついでにすし屋に入りトロなどを・・・・・!

私達は日々の生活の中でこのように観想しているのでしょう。その欲求がつのると欲望になります。
意識によってこれをコントロールすることが出来れば、一段上の意識になれるのです。

真言密教の月輪観・瞑想法は、このイメージ瞑想の基本です。
心に真実の象徴である月・光明・蓮・阿字のイメージを刷りこむことにより、
心身を変容させようとするテクニックなのです。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
四国遍路でお寺を巡拝するときに 「般若心経」 を唱えるが、この般若心経というのは、「観自在菩薩」=観世音菩薩=お釈迦様が、「舎利子」=舎利弗という弟子に語るという体裁を採ったものであり、仏教教義のエッセンスであると言われている。
以下は、その解説文のはじめの部分である。

■「磨訶般若波羅密多心経、これをつづめて、般若心経という経文は、わずか266字から成り立っています。これは、釈迦牟尼仏が、十大弟子の一人舎利弗に対して、観世音菩薩が深い最高の統一に入って、正しい覚り、つまり正覚を得た宇宙観、人間観を説いたものです。」とありますように、「般若心経」は、お釈迦さんが舎利弗に対して説かれたもので、一般の初心者を相手にした教えではありません。十大弟子である舎利弗は、もともとすごく頭のいい人で、霊能力もあり霊性高く悟りが非常に高い、そういう心境のお弟子さんに対して説いた教えですから、理解するのは容易ではありません。・・・・・・・・

■この般若心経の中で、一番の極意は、「色即是空 空即是色」という言葉で表現されています。「色即是空 空即是色」というのは、いろんなお坊さんや宗教学者が解釈していますが、「空」については虚無的な解釈が多くて、わかっているようでわかっていない、と五井先生はおっしゃっています。

■「色」とはどういう意味かというと、物には色がついていますから、あらゆるものを総称して「色」と言います。目に見える物質だけでなく、目に見えない想念も、すべての現象も「色」に含まれます。「色は空に異ならず、空は色に異ならず」ということは、この世のすべての物質や想念や現象は空なんだ、という意味です。言い方を変えれば、この世の不完全な現象は実在するものではない、という意味です。・・・・・・・


人生はすなわち遍路 しみじみと杖を握りて山を越えゆく・・・・・・・・・・・・・・・・玉井清弘
時計回りの遊行

  人生はすなわち遍路 しみじみと
    杖を握りて山を越えゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉井清弘


玉井さんは著名な歌人で昭和15年生まれ。国学院大学文学部卒。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の書評を角川「短歌」誌上でいただいたのが、お付き合いのはじまりである。
その「書評」は上記のリンク先で読める。

掲出歌は、一昨昨年上梓された『時計回りの遊行』─歌人のゆく四国遍路(本阿弥書店刊)に載るものである。
この本は、平成17年1月から18年12月にかけて「四国新聞」に週一回連載されたものである。
先生は正式の「歩き遍路」を始められ、二度目の遍路も終えられたようである。

tabibito巡礼者

この本の「帯」にも書かれているが、そもそも四国遍路というものは「何のために歩くのか?」という疑問を投げかけられる人も多いだろう。
この本が、それに応えるものであるとは言えないが、全88項目に及ぶエッセイの中には、さまざまな動機を抱いて四国遍路にやってきた人々の哀歓が描かれる。

この中の(38)に「なにのために歩くのか」という項目がある。少し引いておく。

<室戸岬を回りこんだ時、苦しい道中に去来したのが芭蕉の『奥の細道』。
芭蕉は何のために、何を考えながら歩いたのだろうか。芭蕉の時代の東北の地は、宿などが整備されていたわけではなく、宿を探す苦労も書き止めている。多くはその土地の俳諧の仲間を頼っての旅だったようだが、・・・・・門人曾良を連れての旅、文学の深化のためとはいえ、病弱の身には命懸けのものだった。ずぶ濡れで歩きながら芭蕉が私の頭を去来していた。
途中から引き返そうという思いはもう湧かなかったが、しかし幾度も「なにのために歩くのか」という問いは自分の脳裏から離れなかった。一週間か、十日ほどの区切り。切り上げて戻って来ると翌日には次回の計画を練り始めていた。土佐の道場は寺と寺との間隔が開いていて、自己との対話の時間がたっぷりと確保できる。

  なにのために歩くのかと問いて答えなし 笑うのみにてまた歩き出す

各自さまざまな悩みを抱えて四国を巡拝している遍路が多いだろうが、出会うどの顔もどこかきりっとしていた。どの顔もどの顔も悩みから解放されたすがすがしい日焼けした顔で挨拶を交わしてくれた。

  一歩ずつ何に近づく 無にちかくなりゆく心に草木の触れて>

玉井さんは、このように書いているが、しいて結論めいたことは言っていない。
それが本当のところであろう。
「自分を見つめ直す」というのが、四国遍路の一つの到達点ではないかと私は思う。
私も略式だが遍路の真似ごとをしたが、私の場合は、長年、妻の病気と伴走してきて、特に妻の死期を看取ったものとして「鎮魂」ということが、主たる目的と言えるだろうか。
また玉井さんは、この本の中で

<遍路の旅では、相手に遍路に出た動機を聞くのはマナー違反だとされている。
人生途上抱えきれない悩みに人は遭遇する。そのような時、思いつく一つが四国遍路なのではないだろうか。これを思いつき実行できる人は幸福かも知れない。時間と金と体力を必要とする。歩いてとなればなおさらである。>

と書いている。

私の最近作「明星の」にも遍路の歌があるので、それらについては次回に書いてみたい。

天ライ

玉井さんには一昨年12月に出たばかりの第七歌集『天籟』(短歌研究社刊)があるが、
ここにも多くの遍路を詠った歌がある。
「天籟」という難しい題名は、作者の「あとがき」によると

<空海の『遍照発揮性霊集』を開いていた時出会った「地籟天籟如筑如箏」の一句による>

とある。この「籟」という字は辞書を引くと、竹かんむりに「賴」と書くが、意味は「笛」ということである。
(注・この「賴」という字は「たのむ」という常用する字だったが、当用漢字策定の際に「頼」にされてしまったので、変換で消えてしまうことが多い、のでご了承を)
ここにも書かれているが、「遊行」の本と時期的に重なるものであり、遍路の歌も多い。
いくつか引いて終りにしたい。

  菅笠のしたかげくらしからだより抜けたるこころ草木に遊ぶ

  おかげさまの祖霊地霊に声かわし露しとどなる蓬野をゆく

  家にあれば笥に盛る酒をカップにて飲めば眠たし紫雲英野に寝る

  ふんどしはくらしっくぱんつと名をかえて遍路の使う我も使いぬ

  さすらいて岬の果てまでたどり着き最御崎寺の古き道ゆく

  食うと寝る排泄をする明快な遍路の旅の七日を経たり

  ポケットに賽銭三つ坂ゆくにちりちりちりと魂の泣く

  四万十のさだちを浴びぬしろがねの五寸釘降るまことますぐに

三首目の歌の「家にあれば笥に盛る・・・」の部分は「万葉集」に、このフレーズの歌があり、玉井さんの歌は、その「本歌取り」ということであり、元歌を知っている者にとっては思わずニヤリとするところであり、こういうさりげないところに玉井さんの教養が滲みでていると言える。

歌人の「詠い方」にも、いろいろあって私などは妻とか家族とかのことを割合たくさん詠む方であるが、玉井さんの歌を見ていても、奥さんとか家族のことは全くと言っていいほど詠まれない。
『時計回りの遊行』には二箇所ほど奥さんのことが出てくる。短歌作品とエッセイの違いからであろうか。
気がついたことを少し書き添えてみた。
----------------------------------------------------------------------
「般若心経」を横書きにしたものを、下記に貼り付けておく。読み方については、「ふりがな」をつけてあるサイトもあるので、関心のある方は探してみられるとよい。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

ここで、♪「般若心経を聴く」♪というサイトを紹介しておく。このお経を「音声」で聴くことが出来る。
ネット上を探すと、この他にも、いくつかあるが、このサイトの読経の声が一番美しい。


芝点の茶事の華やぎ思ひをり梅さき初むる如月の丘・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
wasai-kobo_1829_817712野点セット
       
     芝点(しばたて)の茶事の華やぎ思ひをり
        梅さき初むる如月の丘・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
掲出の写真は野外で茶をたてる時に使う「野点(のだて)セット」というもので、この携帯用のものの中に茶をたてる最低必要なものが入っている。
「芝点」と称して芝に毛氈を敷いて茶会をやる時には、もう少し道具類を用意するのが普通である。
寒い風の吹く季節をやり過ごして、うららかな春になると、家の中ではなく、野外に出て「野点(のだて)」をやりたくなる。芝生の上でやるのが「芝点(しばたて)」である。
「芝点」では「旅箪笥」などを使って茶を点てるのが普通である。
その由来についてWEB上では、次のような記事が出ているので貼り付けておく。

honjien_001-16a-12-5.jpg

<旅箪笥(写真②)は桐木地・ケンドン扉・鉄金具の鍵付きの小棚で、小田原出陣の折、陣中にて茶を点てる為に、利休居士により創案されたものだそうです。道具を中にしまって背中にしょって出掛けたのでしょうか。

旅箪笥を使って「芝点て」の稽古です。準備は地板に水差しを、2枚ある棚板の下方に棗と茶碗を飾り、上方の棚の左端の切り込みに柄杓を掛け、柄杓の柄の元に蓋置を飾り、ケンドン扉を閉めます。建水だけを持ち手前座に入り、扉を開け(この開け方もなめらかに静かに行います)道具を取り出しお茶を点てるのですが、棚板の1枚を抜き出し、その上に棗・茶筅を置く「芝点て」は、花見時の野点の光景が目に浮かぶ様な気がします。その雰囲気を楽しむ為か旅箪笥はよく釣り釜とあわせられるそうです。特に季節を選ぶ棚ではないと言われますが、その風情から早春~春に用いられることが多いそうです。風炉との取り合わせはないそうです。>
---------------------------------------------------------------------
上の記事にあるように、本来は野外で点てるのを、後世になると、「芝点」と称して家の中でお点前をするようになったものであり、ここまで来ると、「先ず茶道の作法ありき」という気がして嫌である。
私が「芝点」というのは文字通りの芝生の上での野点である。
私の歌は、梅が咲き初めた如月の丘に居て、もうしばらくすると芝点の時期がやって来る、楽しみだなあ、という感慨である。

以下、掲出の歌につづく一連の歌を下に引いて、ご覧に入れる。

       野 点

   芝点の茶事の華やぎ思ひをり梅さき初むる如月の丘・・・・・・・・・・木村草弥

   毛氈に揃ふ双膝肉づきて目に眩しかり春の野点は

   野遊びの緋の毛氈にかいま見し脛(はぎ)の白さよ無明(むみやう)のうつつ

   香に立ちて黒楽の碗に満ちてゐる蒼き茶の彩(いろ)わが腑を洗へ


終りに近きショパンや大根さくさく切る・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨


   終りに近きショパンや大根さくさく切る・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

一昨年2010年はショパン生誕200年で記念のイベントなどが多かった。
はじめに、ショパン「別れの曲」の動画を出しておく。

この楸邨の句も「二物衝撃」の見本のような句で面白い。
「ショパン」の曲と、「大根」とは全く何の関係もない。それを取り合わせてある。
しかも大幅に破調である。7、8、6音になるようであるが、これを削ることは難しい。
この句の場合、大根を切っているのは奥さんで、ショパンの音楽をかけながら料理しているという図であろう。

さて、大根は春の七草の中の「スズシロ」と昔呼ばれていたものの改良種である。

Daikon_Japan青首大根
写真①は「青首大根」と呼ばれるもので「耐病総太り」という作りやすい品種で、現在では生産量の95%を占めるまでになっている。
私の家でも栽培しているが、この青首大根を9月はじめに種から蒔いて作る。
3メートルくらいの畝を2筋も作っておけば春までたっぷり食べられる。

syogoindaikon聖護院大根

写真②は京都の伝統京野菜として品種登録されて生産が奨励されている「聖護院大根」である。
これは甘みがあっておいしい大根である。他にも「守口大根」など各地に伝統野菜がある。
昔は沢庵漬に最適の品種として「宮重大根」というのがあった。
愛知県の原産で、今も作られているようだ。写真③に、それを出しておく。

6650240宮重大根

大根はアブラナ科の一年草で越冬する。春に薹(とう)がたつ。原産地は地中海沿岸と言われ、日本には中国経由で早くに入ってきたという。
大根は水分がたっぷりあり、しかもジアスターゼという消化酵素も含んでいて、体には大変よい野菜である。
私などは、どんな料理にしろ、大根おろしにしろ、大根を食べると大変消化がよいのを実感している。
私の大好きな野菜である。

     菊の後大根の外更になし・・・・・・・・松尾芭蕉

という古句があり、まさに的確に大根の性格を言い表わしている。
以下、大根を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 大根引大根で道を教へけり・・・・・・・・小林一茶

 流れゆく大根の葉の早さかな・・・・・・・・高浜虚子

 ぬきん出て夕焼けてゐる大根かな・・・・・・・・中田みづほ

 畑大根皆肩出して月浴びぬ・・・・・・・・川端茅舎

 老いの仕事大根たばね木に掛けて・・・・・・・・西東三鬼

 ダンサーに買はるしなしなと大根・・・・・・・・秋元不死男

 大根きしみかくて農婦の腰まがる・・・・・・・・米田一穂

 死にたれば人来て大根焚きはじむ・・・・・・・・下村槐太

 身をのせて桜島大根切りにけり・・・・・・・・朝倉和江

 荒縄で洗ふ大根真白きまで・・・・・・・・冨石三保

 煮大根を煮かへす孤独地獄なれ・・・・・・・・久保田万太郎

 窓が開いてをる大根畑は昼深し・・・・・・・・滝井孝作

 大根煮や夕餉の病舎さざめきて・・・・・・・・石田波郷

 大根を刻む刃物の音つづく・・・・・・・・・山口誓子

 大根洗ふや風来て白をみなぎらす・・・・・・・・大野林火



吐く息もたちまち凍る午前四時バックホーとわれは一体となる・・・・・・・・・・・・時田則雄
backhoe-front001.jpg
 ↑ 「バックホー」アームの先を替えると溝掘りなど色々の作業が出来る
 
    吐く息もたちまち凍る午前四時
        バックホーとわれは一体となる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・時田則雄


時田則雄は北海道の帯広郊外で広大な農場を営む歌人である。
掲出歌は最新作で、角川書店「短歌」誌2012年新年号に載る。 その一連7首を引いておく。

    新 雪・・・・・・・・・・・・・・・・・時田則雄

 吐く息もたちまち凍る午前四時バックホーとわれは一体となる

 腐れたるバナナのやうな列島を耕しながら今年も暮れぬ

 石の上を滑るごとくに流れゆく風ありかすかに水の音たて

 トラクター唸らせて凍土鋤きてゆく黄の満月に対ひひたすら

 星空を抱けるやうに立つ楡を見てゐる さうだ 同志だ 俺の

 野良仕事なべて終りぬ農具庫のシャッター降ろして大き息吐く

 新雪を照らして昇る太陽を見てをり細き窓を開きて
 
時田 則雄(ときた のりお)
1946年帯広市に生まれる。道立帯広農業高校卒業後、1967年帯広畜産大学別科(草地畜産)終了。父の後を継ぎ農業経営。1998年林業功労により帯広市産業経済功労賞。
高校在学中に啄木の歌に魅かれて作歌を開始し「辛夷」に入会し野原水嶺に師事。
1980年第26回角川短歌賞受賞、1982年第26回現代歌人協会賞、1999年第35回短歌研究賞他数々の賞を受賞する。
歌集『北方論』、『緑野疾走』、『十勝劇場』、(雁書館)他4冊。他にエッセイ集「北の家族」(家の光)。1992年8月より「辛夷」編集発行人となる。
帯広大谷短期大学非常勤講師、日本文芸家協会、現代歌人協会会員として現在に至る。

現役で労働に従事する歌人というのは、今の歌壇では特異な存在である。
私の好きな歌人である。とにかく「土の匂い」のする歌を作る。
ネット上から「現代田んぼ生活」を引いておく。
----------------------------------------------------------------------
2007-03-08-Thu 苗箱に土を入れ始めることと時田則雄『歌集 野男伝』
昨日の朝は道には積もってなかったですが、屋根や麦の上には雪が積もっていました。気温も低いまま続いています。やれやれ。
昨日から苗箱への土入れを始める。準備すべき苗箱は1400箱ほど。ボチボチとやります。
そういえば昨日は営農組合の「男の料理教室」に参加して、ハンバーグやフルーツのサラダ、みそ汁、まぐろのカルパッチョ、ロールケーキなどなど、他にもあったような気がするを教えてもらいながら作りました。盛り沢山で少々疲れましたが、面白かったです。昆布とかつお節でダシをとってのみそ汁とか、はい、なかなか贅沢なみそ汁です。

時田則雄『歌集 野男伝』(本阿弥書店)読了。いや、すばらしいですね、これは。読んでいたら、農業に、百姓に、やる気がぐりぐりと出てきました。

 小学校校長の名は米太郎部屋の三面本あふれゐき

 「寒ければこうして金玉握れよ」とキンタマ握ってゐし米太郎

 めらめらと燃ゆる丸太の火に抱かれ老婆は荼毘に付されてをりし

 日に一升十日で一斗酒喰らひ野良仕事せりわが二十代

 PTA会長となり知りしこと若き教師の態度のでかさ

 大病を患ふ妻を家に残しひとり百姓続けぬ 黙黙

 大枚を投じて家建て山林買った 三十代半ばなんでも出来た

 借入金五千万円 凩を聴きつつ湯船に首浮べゐし

 娘が婿とりて農場を継ぐといふことの嬉しく月に乾杯

 種を播けばよいといふものではないぞ適地適作 凶作もある

いや、この辺でやめておかなければ。ページパラパラやって十首だけ紹介させてもらいました。でもその他にたくさんいいのがありました、というか、次々なんですけどね。うーむ、時田則雄さんの他の歌集も読まねば。
---------------------------------------------------------------------
050618時田則雄

上の引用部にも書かれているが、この人の歌集の題名からして、すごいではないか。
『北方論』『緑野疾走』『十勝劇場』『野男伝』そして最近刊に『ポロシリ』(角川書店)がある。
この歌集は平成20年度の第60回「読売文学賞」詩歌俳句部門を受賞している。
私はまだこの歌集は読んでいないが、ポロシリ(山の名前)を仰ぎ、農業に就いて40数年。妻の闘病、娘婿の急逝、など喜びと悲しみがこもごも押し寄せた数年を詠った349首という。第九歌集にあたる。
因みに「ポロシリ」とはアイヌ語でポロ=大きい、シリ=山の意味で、北海道日高山脈の雄峰の一つ十勝幌尻岳(1846m)のことである。この本から二首引く。

 ポロシリは静かに座つてゐるゆゑに俺は噴火をつづけてゐるぞ・・・・・・・・・・・時田則雄

 ポロシリに向かひて二キロほど行きて戻り来ぬ明日を創り出さむと


以下、以前の刊行の歌集から少し歌を引いて終わる。

獣医師のおまへと語る北方論樹はいつぽんでなければならぬ

野男の名刺すなはち凩と氷雨にさらせしてのひらの皮

指をもて選(すぐ)りたる種子十万粒芽ばえれば声をあげて妻呼ぶ

トレーラーに千個の南瓜と妻を積み霧に濡れつつ野をもどりきぬ

妻とわれの農場いちめん萌えたれば蝶は空よりあふれてきたり

牛糞のこびりつきたるてのひらを洗へば北を指す生命線

麦の香のしみし五体を水風呂に沈めてあれば子が潜りきぬ

按摩機に体をゆだねて眠りゐる妻の水母のごとき午後かな

十勝土人時田則雄がふりあふぐ部落(むら)を跨げる七色の虹

春の水を集めて走る朝の川さうだよ俺は朝の川だよ

とりあへず胃袋に水を注ぎ込みあしたの闇に突き刺さりゆく 『力瘤』

どどどーんどどどどーんと轟いてゐるのはエンジンだけではないぞ

三日三晩寝ずに稼ぎしゆゑなるか手足蒟蒻のやうにへろへろ

スパナをぐいつと引きぬ力瘤まだまだ力の固まりである

十トンの乾燥豚糞撒き終へて月のあかりに包まれてゐぬ

取得せし斜面三町歩雪ふれば雪に野心の片鱗が舞ふ


ルノアルの女に毛糸編ませたし・・・・・・・・・・・阿波野青畝
renoir31.jpg
img10551124952毛糸玉本命

 ルノアルの女に毛糸編ませたし・・・・・・・・・・・阿波野青畝

「毛糸編む」というのが冬の季語である。
この頃では、昔のように毛糸を編む人を余り見かけなくなったが、「ニット手芸」は相変わらず盛んで、
亡妻の学友であった人は、今やニットサロンを経営し、NHKの趣味講座の先生をするなど大活躍している。
この頃では男のニットの先生も出て来たりしている。
この句は、ルノアールの絵に出てくる豊満な女の人に毛糸を編ませてみたい、という、いかにも男の人らしい句である。

この句については亡妻との間の会話について、私には哀しい思い出がある。
7~8年前の今ごろ、食事も録に摂れずの最悪期から食欲も出て、体力も戻りかけた時期に、私がこの句を見つけて、病院に行って妻に見せたら、
これが大変気に入ったらしく、いろんな人に、この句を披露していた姿を思い出す。
妻の死後、家の中を整理していたら、妻の仕事部屋にしていた二階の南向きの陽のよくあたる部屋に、未使用の毛糸玉がたくさん出てきた。
私の娘たちも仕事に忙しくて、毛糸編みなどはしないし、捨てるのも忍びないので、そのままにしてある。
こういう遺品というのは、見るのも辛いものである。
昔は私たち兄妹の着るセーターは、みな母の手編みだった。着込んだセーターは解いて皺を伸ばし、また編み直して新しいセーターに仕立てたものだった。
亡妻も編み機を使って私のセーターも手作りだった。
この頃では、そういう手芸を一切しない人と、ニット手芸の趣味に生きる人との両極端に分かれてしまった。
ひと頃はニット編み機が流行って、その教室というものもあった。
私の妹なんかは手早くて、人からも頼まれて結構収入になったらしい。ニット編みの機械の先生をしたりしていたものだ。

明治30年に

  襟巻を編むべき黒の毛糸かな・・・・・・・・高浜虚子

の句があり、これは「毛糸編む」という季語のもっとも早い用例だと言われている。
以下、毛糸編む、毛糸玉の句を少し引きたい。

 久方の空いろの毛糸編んでをり・・・・・・・・久保田万太郎

 こころ吾とあらず毛糸の編目を読む・・・・・・・・山口誓子

 毛糸編む気力なし「原爆展見た」とのみ・・・・・・・・中村草田男

 毛糸編はじまり妻の黙はじまる・・・・・・・・加藤楸邨

 離れて遠き吾子の形に毛糸編む・・・・・・・・石田波郷

 編みかけの毛糸見せられ親しさ増す・・・・・・・・山口波津女

 毛糸編み来世も夫にかく編まん・・・・・・・・山口波津女

 毛糸玉幸さながらに巻きふとり・・・・・・・・能村登四郎

 時編むに似たるが愛し毛糸編む・・・・・・・・余寧金之助

 毛糸編む冬夜の汽笛吾れに鳴り・・・・・・・・細見綾子

 祈りにも似し静けさや毛糸編む・・・・・・・・戸川稲村

 母の五指もの言ふごとく毛糸編む・・・・・・・・今井美枝子

 毛糸編む幸福を編み魅力を編む・・・・・・・・上田春水子

 毛糸編みつつの考へゆきもどり・・・・・・・・竹腰朋子

 毛糸玉頬に押しあて吾子欲しや・・・・・・・・岡本眸

 白指も編棒のうち毛糸編み・・・・・・・・鷹羽狩行


少年は星座の本に夢みてゐるオリオンの名をひとつ覚えて・・・・・・・・・・・・・木村草弥
orion1オリオン座

    少年は星座の本に夢みてゐる
        オリオンの名をひとつ覚えて・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「オリオン座」は冬の星座である。
イカロス神話によると、オリオンは海の神ポセイドンとミノス王の娘エウリュアレの間に生まれたとされる。
海の神の息子であったから、海の上をまるで陸のように歩くことができたという。
巨人オリオンは美男子で、狩の腕にも優れ、そして月の女神アルテミスの恋人でもあった。
それは、いろいろのことがあった後、クレタ島に渡って月と狩の女神アルテミスに出会い、二人は愛し合うようになるが、
アルテミスの兄・アポロンが野蛮なオリオンから引き離そうと画策し、ある日、海で泳ぐオリオンの頭に金色の光を吹きつけた。
そしてアルテミスに「いかにお前が弓の名手でも、あれほど遠くの獲物は一矢では射止められまい」とそそのかした。
その挑発的な言葉に乗せられてアルテミスは、その海上の獲物を一矢で射抜いてしまった。
打ち上げられたオリオンの死体を見て、アルテミスは悲しんで、夜空を照らすことも忘れてしまった。
アルテミスに同情した大神ゼウスは、オリオンを天に上げ、星座にした。
月は公転運動で見かけの位置を毎日変える。1ケ月に1度はオリオン座のすぐ北を通る。
月の女神アルテミスは今では1ケ月に1回だけオリオンとのデートを楽しんでいるのである。

私は天文少年でもなかったので、星座にまつわる神話の方が面白かった。
西洋占星術だが、星座表は古代バビロニアに発し、ギリシアに到達して「西洋占星術」として確立されるようになった。
12の星座が月日によって割り振られ、たとえば2月7日生まれの私は「水瓶座」ということになる。
こんにち、週刊誌などに載る「あなたの運勢」などという記事は、この星座表によって、もっともらしいことが書かれている。
冬の星座については、2005年にDoblogにいるときに記事と画像を載せたのだが失われてしまった。
星座の表だけ出しておく。 ↓
winter1.jpg

「俳句」の世界では、私の持っている程度の歳時記には「オリオン座」などは、まだ「季語」としては少ししか載っていないが、それを引いて終わる。

 石鹸は滑りオリオン座は天に・・・・・・・・・・・正木ゆう子

 オリオンの真下に熱き稿起こす・・・・・・・・・・・・小沢実

 オリオンを頭にして百の馬 潔癖・・・・・・・・・・・・星永文夫

 またオリオンにのぞかれている冬夜・・・・・・・・・・・・住宅顕信


かぶらない帽子がひとつ押入れの隅に小さな世界を占める・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
img10544397416_convert_20091008151131.jpg

──■私の誕生日によせて■──

  かぶらない帽子がひとつ押入れの
    隅に小さな世界を占める・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日は2月7日で私の誕生日である。
私の生れた年は、とても寒い冬で、私は体の両脇に陶器製のユタンポを抱えるようにして寝かされていたという。
先年の、この日には「誕生日の詩」を作って載せたことを思い出した。
詩集『免疫系』にも載せたし、「草の領域」でもご覧いただける。

掲出した歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
「小さな世界」と題する5首の歌からなる項目のもの。
自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
この歌集には

 こぼれ灯が一つ洩れゐる茶の村へ帽ふかくかぶりひた帰りゆく

という歌も「冬木」と題する項目のはじめに載っている。
今では「こぼれ灯が一つ」というような夜は田舎でも、ない。したがって、この歌に詠まれる時代背景は数十年前ということになる。
この歌のつづきに

 野火放ち緋色となれる草原はゆらめくごとし片時雨ふる

という歌の季節は厳寒の今ごろである。雑草がはびこった草原は燃やして虫などを焼き払うのである。
私も一枚だけある「休耕田」の枯れ草を2月5日午後に火を放って焼き払った。結構、北西風が吹いていたので、またたく間に、きれいに焼き払われた。
奈良の「若草山」の野焼きが行なわれたのも厳寒の1月下旬のことであった。

私の生れた2月はじめという時節は、なお厳しい寒さがつづくとは言え、「風二月」という言葉もある通り、ようやく春のきざしが感じられる頃であり、
中国の故事にあるように「一陽来復」の時候である。
誕生日を迎えて、目下は「独居老人」だが、私も老来ますます張り切って頑張る必要があろうか。

季語に「風光る」というのがあり、延享2年に出た『手桃灯』という本に、この季語が「一月」として所出する、というから今の陽暦でいうと2月になろうか。
また嘉永4年に出た『栞草』には「春情日出でて風吹くを光風といふと云々。これによりていふか。」などとあり、いずれも「風光る」という季語の由来をよく捉えている。
以下、「風光る」の句を引いておく。

 陽炎のものみな風の光りかな・・・・・・・・・・・・曙台

 風光りつつ漣(さざなみ)を作りつつ・・・・・・・・・・・・高木晴子

 風光る海峡のわが若き鳶・・・・・・・・・・・・佐藤鬼房

 風光る白一丈の岩田帯・・・・・・・・・・・・福田甲子雄

 風光りすなはちもののみな光る・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 一艇身一馬身風光りける・・・・・・・・・・・西川織子

 光風や誓ひに似たる二樹の間・・・・・・・・・・・・森かつみ

 聖句記すわが家の礎石風光る・・・・・・・・・・・・宮田登喜子

 墨絵にもほのかなる紅風光る・・・・・・・・・・・・福島加津

 風光るひろげしノート眩しくて・・・・・・・・・・・・武田知子

 潜り出し自動洗車や風光る・・・・・・・・・・・・鈴木照子

 黒髪もうなじも婚期風光る・・・・・・・・・・・・ましお湖

 稚魚に声かけて放流風光る・・・・・・・・・・・・石塚シヅ

なお「帽子」のことだが、私もいくつか帽子は持っているが、ほとんどかぶらない。
年寄りで帽子をかぶっている人は、概して「頭の禿げている」人である。
私は幸いにも頭は禿げていないので、夏の炎天下とかウォーキングとかスポーツをするとき以外は、かぶらない習慣である。
私は頭が真っ白なので、帽子をかぶった方が白髪が隠れていいかも知れないが、これも習慣で仕方がない。
----------------------------------------------------------------------
これも「戯れ」に過ぎないが、FC2には「ランキングを確認する」という設定があり、今朝の発表は下記の通り。

   ランキングを確認する
   登録ジャンル:学問・文化・芸術 > 小説・詩

     木村草弥さんのランキング
     学問・文化・芸術  51位 (昨日:52位) / 22264人中
     小説・詩  1位 (昨日:1位) / 488人中
     更新日時:2012/02/07 06:58      
 
さすがに1位というのは多くはないが、何度かあったが、今日が私の誕生日であるので、そのお祝いの意味からも愉快な一日であることを喜びたい。 拍手、拍手!
-----------------------------------------------------------------------
今年は、私の誕生日を祝ってくれる人があって、
大きな、フルーツがたくさん入った生クリームのデコレーションケーキに私の齢だけのローソクを立てて、ワインを飲みながら焼肉で盛り上がった。
有難いことである。
ローソクを齢の数だけ、とは言っても、10歳を長いローソク1本として倍数立て、端数の齢の数だけ少し短いローソクを立てるのである。
ケーキ屋さんには、ちゃんと用意してある。

その後、長女からはミズノのウォーキング・シューズ(私が日頃愛用しているものと同じ靴)を贈ってくれた。
有難いことである。 こういうことがあるのだから、さあ、気分一新して、また頑張ろう!



哀しみとポテトチップスと比べつつしあはせ計れば鳴る赤ケトル・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
21t6Jl4J-rL赤ケトル

  哀しみとポテトチップスと比べつつ
    しあはせ計れば鳴る赤ケトル・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は、角川書店「短歌」誌2008年二月号に「艸木茂生」のペンネームで載った「明星の」14首の一連の中のものである。
亡妻の介護の日々と死にまつわる一連の歌は、プライバシーに配慮して、少しは知られている木村草弥の名ではなく、一般には知られていない「艸木茂生」のペンネームを使用した。
詩集『免疫系』の末尾に収録してある。

「鳴る赤ケトル」とは、お湯が沸けば鳴る「笛吹きケトル」のことである。
「哀しみ」と「ポテトチップス」を比べる、などというのは、現実には考えられないことであって、「詩」という<非日常>の世界だからこそ言えることなのである。

この一連を発表したら、私の親しい友人であり、「自由律」短歌の先生でもある光本恵子さんから、特にこの歌を引いて、メールで褒めていただいた。
そのメールの一部を貼り付けて置こう。

<艸木茂生様の短歌を読ませて頂きました。「明星の」3首目

・哀しみとポテトチップスと比べつつしあはせ計れば鳴る赤ケトル

この歌はいいですね。なにか木村様のことを思うと泣けてきました。
木村様の静謐な想い、心境がじわっと伝わって参ります。
奥様を亡くされ、さらにご自身が病を抱えながらも意思的に生きようとする姿を思い浮かべ、
「鳴る赤ケトル」にほっとして味わいました。>

m.jpg

ポテトチップスにも、いろいろあるが、私はジャガイモを単純にフライしただけのものが、いい。新じゃがが収穫されると期間限定で売り出されるものもある。
外国系のものでは、じゃがいもを一旦粉にして、それを成形して、どの片も全く同じ大きさ、反り具合も同じというのがあるが、私は好まない。
如何にも「加工品」として手を加えすぎてあると思うのである。
英国では、ポテトチップスばかり食べて、結局死んだという記事が、どこかに載っていたが、口当たりがいいので、食べだすと途中で止められなくなって、
結局一袋を平らげてしまうことになる。植物油を使ってあるので、カロリーは結構あるだろう。
よく悲しいとヤケ食いするとか言われるが、私はそんなこともないが、老来カロリーの摂り過ぎは碌なことがないので注意しなければならない。

歌に戻ると、普通、短歌の世界では、この歌のような「詠み方」は、しない。
これは短歌というよりも「詩」として鑑賞した方がいいかも知れない。
私は自由詩から出発しているので短歌と言えども「詩」の一環として把握しているので、このようになる。
つらら落つる朝の光のかがやきが横ざまに薙ぐ神経叢を・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
gal18.19つらら

  つらら落つる朝の光のかがやきが
    横ざまに薙(な)ぐ神経叢を・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
今年の冬は近年にない厳冬と言えるが、特に北国では1月、2月と厳しい寒さが訪れている。
今日は、「つらら」を詠んだ私の歌を載せた。この時期を逃すと、この歌を載せる機会を逸するからである。
歌に合わせて「つらら」の写真をお目にかける。「萱葺き屋根」から垂れるつららである。
この歌を作った頃、私の神経は異常にぴりぴりしていて、ナーヴァスになっていた。
なんとかして、この心理状態を歌にできないものか、といろいろ考えた末に出来たのが、この歌である。
私としては「つらら」という一風あやういものと「神経叢」との取り合わせが面白いと思ったのだが、発表したときの皆の反応は、良くなかった。
もう一つ判り難いというのだった。しかし私は敢えて歌集にも収録した。
日常ばかりを詠むのが歌ではないと考えたからである。いかがであろうか。

「氷柱」と書いて「つらら」と読む。水の滴りが寒気のもとで成長して凍ったもので寒い地域での冬の風物詩と言えるだろう。
以下、「つらら」を詠んだ句を引いて終る。

 外に立ちて氷柱の我が家侘びしと見・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 みちのくの町はいぶせき氷柱かな・・・・・・・・・・・・山口青邨

 氷柱落つ音に遅れて朝日来る・・・・・・・・・・・・篠田悌二郎

 夕焼けてなほそだつなる氷柱かな・・・・・・・・・・・・中村汀女

 いま落ちし氷柱が海に透けてをり・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 巌つららぽつんと折れて柩通す・・・・・・・・・・・・岸田稚魚

 大文字は好きな山なり草つらら・・・・・・・・・・・・波多野爽波

 みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 人泊めて氷柱街道かがやけり・・・・・・・・・・・・黒田杏子

 日に痩せて月に太りし氷柱かな・・・・・・・・・・・・上野泰

 やがて日の雫はぐくむ草氷柱・・・・・・・・・・・・三田きえ子

 後の世に逢はば二本の氷柱かな・・・・・・・・・・・・大木あまり

 地上まであと一寸の氷柱かな・・・・・・・・・・・・荻原都美子

 木曽は木の国木の樋に氷柱して・・・・・・・・・・・・小川原嘘師

 後朝や草の氷柱の賑やかに・・・・・・・・・・・・市川葉

 白鳥の嘴の垂氷のまだ落ちず・・・・・・・・・・・・加藤未英

 軒氷柱ぐるりに垂るる宿に着く・・・・・・・・・・・・里川久美子



立春大吉絵馬堂に墨匂ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・岡本菊絵
12_17p4出雲大社「立春大吉」符

   立春大吉絵馬堂に墨匂ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・岡本菊絵

「立春」は二十四節気の一つ。暦の上では今日から「春」になる。
まだまだ寒いが、これから「立夏」の前日までの90日間の季節をいう。
これを「九春」という。これは「春九旬(90日間)」のことである。
春は寒暑の移り変わりの時期で、二月は寒く、三月に入って寒暖を繰り返しながら、次第にあたたかくなって、四月に暖かさが定まるということである。


昨日は「節分」だったが、この字の「節」の通り、季節がこの日をもって分かたれるのである。
寒い寒い冬よ早く去れ、春よ来たれ、という「春」が動きはじめ、春の「気持」が用意されてゆく。
写真①は出雲大社の「立春大吉」の吉札である。
この「立春大吉」という字はタテ書きにすると左右対称形になるから縁起がいい、と古代中国の時代から言い慣わされてきたお目出たい字である。

『山の井』という本に「よろづのびらかに豊かなる心を仕立つ」と書かれているように、春の到来を喜ぶ気持が生まれる頃である。
「春」という字は「張る」「発る」が語源だというが、万物発生の明るい季節感を表現したものである。

imgff6605aazik3zj.jpg

写真②は京都市上京区の鶴屋吉信(つるやよしのぶ)の「福ハ内」。
杉の箱に入った「福ハ内」。パッケージをとく前から、とにかく、杉のいい香りで、立春を祝うお菓子。水引が結ばれている。
長さ約6、7センチのお多福豆。
生地は黄身色と焼色が、つるんとして、上品できれいで、中は白餡。うっすらと自然の色がついてる。
豆をかたどった桃山生地のお菓子。
中に、富岡鉄斎の作による「このうまき大多福豆をめしたまへ よはひをますは受合申す」という歌を記した紙が入っている。
「桃山」とは、白餡に卵黄・寒梅粉などを混ぜて煉り、成型し表面を焼くという製法で作られる和菓子。
譬えるなら・・・俵型の栗饅頭をもっと優しくしたような、1904年から作られてるお菓子だそうである。
販売は12月1日~2月3日(節分)まで。
私が買ったのは一番小さい箱 8個入り、1,890円 (日持ち:20日)
私の小学校からの友人のS君の家は旧家で、いつも大晦日に京都に出て、この「福ハ内」のセットをいくつも買い求めて、年始客に振舞うのを習慣にしている。
奥床しい年中行事であることよ。

__2.jpg

写真③は、同じく鶴屋吉信の「追儺」(ついな)という上生菓子セット。
きんとん製の鬼と、薯蕷製お多福。
薯蕷(じょうよ)とは、大和芋、山芋、つくね芋などを指す。
この薯蕷芋を饅頭の皮に用いた蒸し菓子を「薯蕷(じょうよ)」という。 薯蕷(じょうよ)は蒸すとふくらむ性質があるので、出来上がった饅頭の皮は、フワッとした優しい食感に仕上がる。
上用と略されて書かれることがある。
「追儺」は、大晦日の夜、内裏で催されていた祓(はらえ)の行事。
別名、「儺(おにやらい)」とも言い、節分の行事のルーツである。
お多福の下にひいらぎが敷いてあるのは、これも節分にちなむ風習、「焼嗅 やいかがし」からである。
鰯の頭を焼いて柊(ひいらぎ)の枝に刺したものを家の戸口に置くと、異臭で鬼の侵入を防ぎ、ひいらぎの葉の棘が、鬼の目を刺して追い払う、と考えられていた。
鬼のツノは、ごぼうの甘煮で、なんだかちょっと、ユーモラスである。

「立春」という抽象的な概念を表現するのは難しいもので、ならば、こういう季節感を持った具体的な「物」で視覚的に表わした方がいいと考えて、やってみた。
季節や行事を大切にする気持ちとともに、こういうお菓子は毎年楽しみに味わっていきたいものである。

念のために申し上げるが、写真②③に掲げたのは「節分菓子」であり、厳密に言うと、昨日の節分のところに載せるのが本当なのだが、お許しあれ。
いずれにしても「節分」で冬は終り、「立春」から春が始まる。この両者は、切り離しがたく結びついている。

img_risshunbin.jpg

写真④は日本酒の「立春搾り」という本日限りの限定版である。
日本酒は消費がじりじり減る傾向にあるので、こういう限定版の商品を発売して何とか売り上げを伸ばしたいという涙ぐましい努力である。
おかげで、こういう限定ものは、よく売れているらしい。インターネット上でも、いくつかの銘柄の立春酒が見られる。
昨年秋からの日本酒の仕込みも今が最盛期で、「蔵出し」の原酒などはおいしいものである。
左党ならぬ私なんかも美味だと思う。

m_E38396E383ADE382B0E794A8E4BB8AE5B9B4E381AEE7AB8BE698A5E69C9DE690BEE3828A.jpg
この酒のラベルは今年の「暦」の図柄になっていて、瓶には「立春朝搾り」のシールを斜めに貼ってある。
予約販売である。このような趣向は、あちこちのメーカーが同じように採用している。写真⑤は宮城県大崎市の「一ノ蔵」酒造のものである。

写真⑥は「白椿」である。
以下、「立春」を詠んだ句を引いて終わる。

 寝ごころやいづちともなく春は来ぬ・・・・・・・・与謝蕪村

 春立つや愚の上に又愚にかへる・・・・・・・・小林一茶

t-konoesiro近衛白(関西)

 雨の中に立春大吉の光りあり・・・・・・・・高浜虚子

 さざ波は立春の譜をひろげたり・・・・・・・・渡辺水巴

 立春や一株の雪能登にあり・・・・・・・・前田普羅

 かかる夜の雨に春立つ谷明り・・・・・・・・原石鼎

 山鴉春立つ空に乱れけり・・・・・・・・内田百

 春立つと拭ふ地球儀みづいろに・・・・・・・・山口青邨

 冬よりも小さき春の来るらし・・・・・・・・相生垣瓜人

 春立ちて三日嵐に鉄を鋳る・・・・・・・・中村草田男

 立春の米こぼれをり葛西橋・・・・・・・・石田波郷

 春が来て電柱の体鳴りこもる・・・・・・・・西東三鬼

 立春のどこも動かず仔鹿立つ・・・・・・・・秋元不死男

 立春の雪のふかさよ手鞠唄・・・・・・・・石橋秀野

 人中に春立つ金髪乙女ゆき・・・・・・・・野沢節子

 立春の鶏絵馬堂に歩み入る・・・・・・・・佐野美智

 立春のぶつかり合ひて水急ぐ・・・・・・・・会田保

 畳目の大きく見えて春立つ日・・・・・・・・八田和子


節分に懸想文はいかが?・・・・・・・京都・須賀神社・・・・(転載)
kesoubumi03懸想文売り

──エッセイ──

以下の文章と写真は「ディープな京都と認知療法」の中のサイトから転載させてもらったものである。いつの年の記事かは不明。転載に深く感謝するものである。
記事末尾の俳句二つは、私が見つけて来て、載せたものである。(草弥記)

  節分に懸想文はいかが?・・・・・・・京都・須賀神社・・・・(転載)

 吉田神社をはじめ京都の神社やお寺では、節分に鬼が出るところが多いのですが、懸想文(けそうぶみ)売り が出るのは、ここ聖護院を東に入った所にある須賀神社をおいてはないでしょう。「懸想文」とは聞き馴れないものですが、これは直訳するとラブレターということになります。ラブレターを「売る」とは、またどういうことなのか?疑問が湧いてきます。好奇心の虫がうずうずしてきます。

kesoubumi01須賀神社

須賀神社は小さな神社で、普段は街のなかに埋もれてほとんど目立たない存在なんですが、節分の二月2・3日になると、お琴の音や、案内を語るおばさんの声がスピーカーから流れ、がぜん活気づいてきます。参拝客も大勢こられます。この境内に入るとすぐ目につくのが、写真①と③の怪しい二人組み。
手に持つのが「懸想文」です。これを売るのが「懸想文」売りで、怪しい二人組みこそ、その正体なのです。
写真①は、その「売り人」にカメラを向けて、ポーズを取ってもらったところなのです。

kesoubumi02懸想文売り

これがうわさの「懸想文売り」なのです。懸想文とは、説明によると「縁談や商売繁盛などの願を叶える符札で、鏡台や箪笥に入れておくと容姿が美しくなり、着物が増え、良縁にめぐまれるというので、古くより町々の娘や嫁にあらかたなものとして買い求められた。この風習は明治以降はなくなり、いまは須賀神社が二月三日の行事をしている」ということなのす。そこで私もぜひ一つ買ってみなくては。もっとも私は別の良縁を求めているわけではないのですが・・・。

この姿は、懸想文の外装にも描かれていて、忠実に再現しているようです。
 
 さっそく件の懸想文を開けてみることにしました。奉書紙に包まれていたのは、梅の枝に結ばれた風情の結び文。そこにはゆかしい和歌が変体がなで書かれています。
「むすほれし 霜はうちとけ 咲く梅の 花の香おくる 文召せやめせ 」と読めます。

kesoubumi05懸想文

kesoubumi06懸想文

 写真が④と⑤に分かれてしまいましたが、④が外装、⑤が中身ということです。
さらに、結び文を解いて読むことにします。こちらは普通のかな書きなので読むだけなら苦労はありません。
「行く水の 流れは 絶えずして・・・」と、なんとラブレターが諸行無常の「方丈記」の冒頭から始まります。艶っぽい内容を期待していたのは、あてがはずれました。

「 創造や漂ひ化せしてふ地(つち)の いにしへぶりの 大地を 」とか「活人剣の像成(かたち)し」とか、なかなか難しい漢語や縁語・懸詞がちりばめられて、ちょっとやそっとでは歯が立たない内容になっています。とても女の人が書いたものとはみえません。これはどこかの大学の国文学の先生が書いているのだと聞いたことがあります。
 最後には、
「壬午(みずのえうま)の春 巳遊喜より
 春駒さままいる」

とあり、この内容は毎年変わっていること、差出人と受取人の名前はそれぞれその年の干支にちなんだ名前になっているのが解ります。あとで調べてみると、最近では
緋兎美(ひとみ)->龍比古(たつひこ)->巳遊喜(みゆき)->春駒(はるこま)

と、女男女男(女性の名前が字は古風なのに、読みは今時風なのが面白いですね)と、毎年つながっているようです。ちょっと考えてみれば、12人のとんでもない片思いの数珠つなぎが、円環をなしているわけで、シェクスピアもびっくりものなんですねぇ。こんなにレアーで、奇想天外・霊験あらたかな懸想文を、皆さんもぜひゲットされるといいと思います。ただしお代は壱千円也で、売りだしは来年の二月2・3日までまたなければならないのですが・・・。

終わりに、俳句の大家の詠んだ句を引いて終わる。

 もとよりも恋は曲ものの懸想文・・・・・・・・高浜虚子

 淡雪を讃ふることも懸想文・・・・・・・・後藤比奈夫


ともしびが音もなく凍る冬の夜は書架こそわれの黄金郷たれ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
eldradエルドラドの金の筏

  ともしびが音(ね)もなく凍る冬の夜は
    書架こそわれの黄金郷(エルドラド)たれ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌集については春日真木子さんが角川書店「短歌」誌上で批評文を書いていただいたが、その中で、この歌を抽出して下さった。この批評文もWebのHPでご覧いただける。
黄金郷エルドラドなどと大きく出たものであるが、これも読書人としての私の自恃を示すものとして大目に見てもらいたい。

黄金郷エルドラドというのはスペインのアメリカ新大陸発見にともなう時から使われるようになった言葉である。
そのいきさつは、こうである。
「なんでも、アンデスの奥地のインディオの部族は、不思議な儀式をやっていたそうだ。そのインディオの首長は裸の全身に金粉を塗りつけて<黄金の男>に変身すると、金細工できらびやかに装った従者たちを連れて筏で湖へ漕ぎ出す。筏には黄金やエメラルドが山積みにされていて、湖水の真ん中に捧げ物の財宝が投げ込まれ<黄金の男>はやおら水に体を浸すと、金粉をゆっくり洗い落す。金粉はキラキラと輝きながら湖底へ沈んでゆく・・・」。
これこそ15世紀に新大陸を征服したスペインのコンキスタドール(征服者)が耳にした噂だった。そして、遂に、この湖を見つけた。黄金郷エルドラドは本当にあったのだ。
この湖グァタビタ湖に近い盆地に都市を築いた。それが今日のコロンビアの首都ボゴタである。
写真①は、そんな「筏」を黄金で作った現地の金細工である。
黄金郷エルドラドの説明に長くかかってしまったが、私の書架を書くのが本当なのだ。
私は少年の頃は腺病質な子供で、ひ弱な体で、季節の変わり目には腹をこわすような子だったので、戸外を活発に駆け回るというのではなく、
家に居て本を読むなどの内向的な性質だった。
祖父・庄之助から毎月「少年倶楽部」や「幼年倶楽部」という雑誌が送り届けられ、兄たちと夢中に貪り読んだものである。
そのうちに長兄・庄助が集めた小説などを読むようになった。こんな環境が私を文学、文芸の道に親しむ素地を作ったと言えるだろう。
今では庄助の蔵書などは兄・重信の方に行っているから、私の書斎の書架にあるものは、私が今までに読んだもの、私が買ったものであり、その数は万の桁になるだろう。
特に、私は現代詩から入ったので、「詩」関係の本が多くを占める。
私が死んだら、それらは埋もれてしまうので、出来れば「詩」関係の本だけでも「日本詩歌文学館」にでも寄贈したいと思っている。
出来れば「木村草弥文庫」というコーナーでも作ってもらえば有難いと思うが、もっと有名人もおられるので、果たしてどうなるやら。

bookseiton-img425x319-1228028742vuhngp57299.jpg

写真②は日夏耿之介『明治大正新詩選』という本である。
また講談社から発行されていて今でもある雑誌「群像」の創刊号から10年間くらいのものが欠本なく揃っている。
これらは資料的な価値もあると思われるので、図書館、記念館などに保存してもらうのには最適であろうと考えるのである。

コーラスのおさらひをする妻の声メゾ・ソプラノに冬の陽やさし・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
im20060112AS3K1200D1201200613モーツァルト楽譜

  コーラスのおさらひをする妻の声
    メゾ・ソプラノに冬の陽やさし・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。
妻が元気だった頃、コーラスに入って楽しく歌っていた。もともとはソプラノだったが、齢を取って発声が無理なのでメゾ・ソプラノに代った。
大学に居る頃はチャペルの聖歌隊に入っていたので歌うことは好きだったのである。
病気が進行して療養に専念するためにコーラスも辞めた。
妻亡き今となっては、私にとっては、この歌は健やかな妻の思い出として貴重な、愛着のあるものである。
掲出の写真①は、2005年に大英博物館で見つかったモーツァルトの自筆楽譜──妻のコンスタンツがヒステリーを起こして二つに破り捨てたというイワクつきのもの。

c0064819_10375157モーツァルトの楽譜

写真②はオーストリアの首都ウイーンの街の楽譜屋の店頭に飾られているモーツァルトの楽譜である。

ウイーンには何度か行ったことがあるが、この街は大きくない街で、歩いても30分もあれば突き切ってしまえる程で街歩きをしていても楽しい。
リンクという環状道路を走るトラムに乗って一周しても30分もあれば十分であり、王宮や、その向かいの美術史博物館、自然史博物館を覗くのも楽しい。
この二つの博物館の間の庭園には女王マリア・テレジアの大きな銅像があり、王宮の方を向いて建っている。
美術史博物館は何日通っても見飽きるということはない。
少し郊外にはシェーンブルン宮殿もあり、この辺りには古いが趣のあるシェーンブルン宮殿の元ゲストハウスだったというホテル・シェーンブルンがある。
ここには私は二度泊まったことがある。

ウイーン一番の目抜きの通りケルントナー・シュトラーセの散歩も楽しい。
ウイーンは「ザッハトルテ」というチョコレートケーキで有名な店があり、いつも買い物客で立て込んでいる。
散歩に疲れたらカフェでコーヒーを飲むのも素敵である。
ウイーンナー・コーヒーというのは外国で言うのであって、地元では、そんなことは言わない。
私はいつもカプチーノを注文する。もっともカプチーノというのはイタリア風の飲み方だが、今ではドイツでもどこでも、これで通る。
ウイーンの地下鉄はシェーンブルン宮殿の近くでは地上を走っているが、街に近づくと半地下になり、あと本当の地下鉄になる。
2006年はモーツァルト生誕250年ということでモーツァルト・イヤーということで、モーツァルトの故郷であるザルツブルクをはじめ、世界中で行事が目白押しであった。
ウイーンのお土産には「モーツァルト・チョコレート」というのが何種類かあり、モーツァルトの絵が印刷してあって、手ごろなお土産になる。音楽好きな人や女の人には喜ばれる。
ここで「薀蓄うんちく」を披露しておくと、モーツァルトの故郷ザルツブルクsalzburgのことだが、「ザルツsalz」とは英語のsaltで「塩」のことである。
この辺りは岩塩の産地で大きな岩塩採掘跡の洞穴があり観光コースになっている。
「ブルクburg」とは「城」「城郭都市」の意味である。このブルクという名前のつくところは、一杯ある。
因みに、現地の人は「ザルツ」と濁っては発音せず「サルツ」と清音で呼ぶらしい。これは現地のガイドからの受け売り。

img43873b23b3a9f譜面マグ

写真③は、2005年に開かれた愛知万博のオーストリア館の売店で売られていたモーツァルトの楽譜を印刷したマグカップであり、行った人からのお土産である。
私は妻の体調のお付き合いで行かなかったが、万博というのは、いずこも同じく人気館は何時間待ちの状態で、碌に見られたものではない。
せめて、この土産にもらったマグカップでコーヒーでも飲むのが関の山である。
私自身は楽譜も読めないし、歌うのも得意ではないが、妻からの感化もあり音楽を聴くのは好きである。
私はアイルランドの歌姫エンヤが好きで、本を読んだり、パソコンを見たりするときにもBGMのようにエンヤのインストゥルメントなどをかけて聴くともなしにするのが多い。
エンヤの最新アルバムは、まだ買っていないが、この中ではエンヤの創造した「新」言語にお目にかかれるらしいので、楽しみだ。
今までは作詞はローマ夫妻が担当していたのだが、今回はどうなっているのだろう。
先年、村島典子さんの歌集『タブラ・ラサ』を採り上げたが、その際、村島さんから、この曲の作者・アルヴォ・ペルトのことを聞き、「タブラ・ラサ」のCDを買って聴いてみた。
心に沁みるような曲だった。
この記事を書きながら、そんなことどもを思い出している。

掲出した歌の並びに

 つらら落つる朝の光のかがやきが横ざまに薙ぐ神経叢を・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているが、先に「氷柱」のことは書いたので、今回はやめておく。
昂ぶった「神経叢」をモーツァルトの音楽でも聴いて「癒され」たいものである。

先に書いたモーツァルト・チョコレートのうちの一種の写真を④⑤に載せておく。

img_6257.jpg

img_6258.jpg

この他にも、ヴァイオリン型のパッケージに入ったもの、洋酒のリキュールの入ったチョコレートなど、さまざまある。
折しも、まもなくヴァレンタインデーであるから、百貨店などのチョコレート売場を覗いてみたら並んでいるかも知れない。


copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.