K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(3月)月次掲示板
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昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
kohakucyou02-1コハクチョウ飛翔

弥生三月になりました。 3.11の哀しみと鎮魂の日が巡ってきます。
寒暖を織りまぜながら春は一歩づつ深まり、白鳥の「北帰行」も始まってます。

 くちびるが乾かないように春風を避けて光のフルートを吹く・・・・・・・・・・・・・・・・加藤治郎
 吉野山。胸せまりくる花のかげ 西行のごとく われは死なむよ・・・・・・・・・・・・ 岡野弘彦
 海に散る桜をどこかで見たやうに思へど遠し亡きははの声・・・・・・・・・・・・・・・馬場あき子
 まつさきに地上をおほふいぬふぐりつくしはこべら光の娘ら・・・・・・・・・・・・・・・・日高堯子
 宙をゆく老人あらば 早春のてふてふよ それは父ですから・・・・・・・・・・・・・・小島ゆかり
 穏しかるひと日にあらな一束にくくられしより水仙にほふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・篠 弘
 地下深く木々の根伸びてゆくさまを思えば突然さみしい地上・・・・・・・・・・・・・・・・小島なお
 赤土に赤き土偶の眠れるをしずかに満ちて桜ひらきたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥田亡羊
 死はそこにあるかと思ふあかるさに菜の花咲けりその花を食ふ・・・・・・・・・・・・・・・外塚喬
 いつまでも暮れない空にくたぶれて門鎖しにゆく草匂ふところ・・・・・・・・・・・・・河野美砂子
 飯館村にとり残さるる牛たちの傍へ去り難きこころを思へ・・・・・・・・・・・・・・・・中埜由季子
 紫花菜野づらを蔽ひ咲きみてり荼毘のにほひのただよへる昼・・・・・・・・・・・・杜沢光一郎
 春の旅はげしき海に出会ひけり・・・・・・・・・・・・・阿部みどり女
 一燭に春寧からむ伎芸天・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阿波野青畝
 蟇ないて唐招提寺春いづこ・・・・・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
 麗しき春の七曜またはじまる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
 バスを待ち大路の春をうたがはず・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
 春は白い卵と白い卵の影と・・・・・・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男
 人妻に春の喇叭が遠く鳴る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村苑子
 連翹に腑抜けのまなこ射られけり・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 朧月グラプトペタルムといふは何・・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 そんならと猫化けの出る春芝居・・・・・・・・・・・・・・・・・三井葉子
 責任のすべては海綿体にある・・・・・・・・・・・・・・・・・・浪速靖政
 やわらかな雨木炭画を抜ける裸婦・・・・・・・・・・・・・・・田中峰代
 桜餅ひとりにひとつづつ心臓・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮本佳世乃
 色も線も奔り上がりて春の夢・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐怒賀正美
 ひといろの青きものなく風光る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・籾山梓月
 お別れは下校のあれを春隣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三島ゆかり
 襟巻となりて獣のまた集ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・野口る理
 歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて・・・・・・・・・・・・・・・・福田若之
 あの課だけマスクの人が多すぎる・・・・・・・・・・・・・・・・小林鮎美
 水洟やフランス映画終りはFIN・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・林雅樹
 息吸へば吐かねばならぬ日向ぼこ・・・・・・・・・・・・・・・雪我狂流
 幸せといふには蝌蚪が多すぎし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・矢口晃
 マスクしてイヤホンをして目を瞑る・・・・・・・・・・・・・・・山下つばさ
 空気よりわづかに重く梅ひらく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西原天気
 包丁で荷紐解きたる猫の恋い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山田露結
 春の日の水ふんづけてゐる子供・・・・・・・・・・・・・・・・・太田うさぎ
 電源を切れば鳴り出す桜哉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡野泰輔
 生きて見る正方形の春の雲・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・関 悦史
 ゆっくりと陽炎になる老婆かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御中 虫  
 あの人の行方あれこれ芹に訊く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
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ムスカリの傍に置ける愛の詩集 湖より吹ける風はむらさき・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
kyukon4musuムスカリ本命

  ムスカリの傍(かたへ)に置ける愛の詩集
   湖(うみ)より吹ける風はむらさき・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
「愛の詩集」という言葉などは、少し甘すぎるかも知れない。
ムスカリも、そうだが、総じて草花などの名前や栽培は亡妻がやっていたか、または教わったものが多い。
ムスカリは小アジアのアルメニア辺りが原産地と言われている。
学名のMuscariはギリシア語のmoschos(麝香)に由来するという。強い香りから来ているのだろうか。
このムスカリは花壇などにびっしりと密植されているのが豪華で風情がある。
球根植物の例で、暑い夏には地上部は消えてなくなってしまうが、晩秋になると芽を出してくる。
2、3年はそのまま放置して置いてよいが、数年経ったら堀り挙げて保存し、秋に植えなおすのがよい。
写真②に掲出したような「白」のムスカリもあるようである。もちろん栽培種だろう。

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私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)にも

  ムスカリは紫の彩(いろ)に咲きいでて小人の国にシャンデリア点(とも)す ・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っている。
ムスカリは丁度シャンデリアをひっくり返したような形をしており、私は、それを「小人の国のシャンデリア」と表現してみた。
ムスカリの特徴を示すものとしては、この歌の方が合っているいるかも知れない。
ムスカリはカタカナ語であり、季語としての市民権を得て日が浅いので、詠まれている句は多くないが、少し紹介する。

  ムスカリは和蘭渡り施薬寺・・・・・・・・・・有働亨

  かたまりてムスカリ古代の色放つ・・・・・・・・・・青柳照葉

  ムスカリや石を起せば何かゐて・・・・・・・・・・永作火童

  ムスカリや川に火を焚く誰かゐて・・・・・・・・・・ながさく清江
きさらぎの空ゆく雲を指さして春ならずやと君にささやく・・・・・・・・・・・・・・太田水穂
17392春の雲

   きさらぎの空ゆく雲を指さして
     春ならずやと君にささやく・・・・・・・・・・・・・・太田水穂


きさらぎ、は新暦の3月として今の時期に採りあげた。
この歌は相聞歌として受け取れよう。
水穂の第一歌集『つゆ草』明治35年刊に載るものだから、相聞歌と断定して、間違いなかろう。
そういう目で読むと、若者の愛の告白の歌として、みずみずしい情感に満ちた佳い歌である。

 君が手とわが手とふれしたまゆらの心ゆらぎは知らずやありけん

という歌があるが、これも同時期に作られた歌であろうか、相聞歌として受け取りたい。

太田水穂は明治9年長野県東筑摩郡生まれの人。高女の教諭や大学の教授などを務める。
大正4年短歌結社「潮音」を創刊。阿部次郎・安倍能成らと芭蕉研究会を結成し「日本的象徴」主義を主張する。「潮音」は今も大きな結社として短歌界に一定の地歩を占めている。
先の第二次大戦中は軍部の文芸界統制のお先棒をかつぎ、戦後、厳しい批判を受けることになる。

水穂の歌を少し引いてみよう。

 ほつ峯を西に見さけてみすずかる科野(しなの)のみちに吾ひとり立つ

 あけ放つ五層の楼の大広間つばめ舞ひ入りぬ青あらしの風

 さみしさに背戸のゆふべをいでて見つ河楊(かはやなぎ)白き秋風の村

 をちこちに雲雀あがりていにしへの国府趾どころ麦のびにけり

 豆の葉の露に月あり野は昼の明るさにして盆唄のこゑ

 張りかへてみぎりの石の濡るるほどあさしぐれふる障子の明り

 青き背の海魚を裂きし俎板にうつりてうごく藤若葉かな

 まかがよふ光のなかに紫陽花の玉のむらさきひややかに澄む

 すさまじくみだれて水にちる火の子鵜の執念の青き首みゆ

 命ひとつ露にまみれて野をぞゆく涯なきものを追ふごとくにも

 おおい次郎君かく呼ぶこゑも皺枯れてみちのくまでは届かざるべし──(阿部次郎氏に)

 もの忘れまたうちわすれかくしつつ生命をさへや明日は忘れむ

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引用した歌の終りの頃のものは、晩年の悲痛な響きを持っている。昭和30年没。


かもめ来よ天金の書をひらくたび・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄
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   かもめ来よ天金の書をひらくたび・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄

このところ前衛俳句を採り上げている気がするが、今日も、そういう系統の作者にする。
三橋敏雄である。
昭和10年当時の新興俳句運動に共鳴して作句開始。渡辺白泉、西東三鬼に師事し、当初より「無季俳句」を推進する。「風」を経て「京大俳句」に参加、弾圧に遭う。昭和42年現代俳句協会賞。平成元年第23回蛇笏賞受賞。

先日採りあげた富沢赤黄男と同じような俳句革新派であるが、赤黄男とは20年以上の年代差がある。
私は文芸への接近を、現代詩からはじめたので、おとなしい句もいいが、時には、こういう革新派というか、前衛的というか、の俳句も面白いと思うのである。

PICT0913-thumb飛ぶカモメ

この句は昭和16年刊の第1句集『太古』に載るもので、彼自身の自選句でもある。
俳句詩の制作を意識した句であることは、間違いない。
「天金の書」を開くたびに「かもめよ来い」という句づくりは現代詩のものである。この句につづいて

  少年ありピカソの青のなかに病む

という句が並んでいる。この句もピカソの「青の時代」と称される絵を見ての作品であるが、とても面白い。
これも句集『太古』に載るもの。

以下、少し句を引いて終りにする。

  新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末

  海山に線香そびえ夏の盛り

  共に泳ぐ幻の鱶僕のやうに

  昭和衰へ馬の音する夕かな

  鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中

  日にいちど入る日は沈み信天翁

  母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき

  夕景や降ろす気球のあたま一つ

  絶滅のかの狼を連れ歩く

  天地や揚羽に乗つていま荒男

  晩春の肉は舌よりはじまるか

  くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ

  緋縮緬噛み出す箪笥とはの秋

  夏百夜はだけて白き母の恩

  裏富士は鴎を知らず魂まつり

  ぢかに触る髪膚儚し天の川

  汽車よりも汽船長生き春の沖

  戦争にたかる無数の蝿しづか

  あやまちはくりかへします秋の暮

  沈みたる艦船の数海燕

  いづこへも行かぬ竹の子藪の中
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Web上に載る下記の記事を引用しておく。

 永遠なる戦争俳句――★三橋敏雄句集『弾道』に学ぶ 宮二健

 平成13年12月1日、俳人・三橋敏雄が他界した。大正9年11月8日生まれの82歳だった。敏雄がハイティーンの頃に、関わった「戦火想望俳句」の周辺に注目してみたい。戦争は、理由いかんと規模を問わず、世界のどこかで繰り返され続けており人類永遠の蛮行と言わざるをえない。比喩的な戦争を含めれば、世は正に戦時下にある。時代遅れな戦争俳句を持ち出したのは、常に時期なのが戦争だからだ。敏雄の訃報以前の9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が起こった。それに端を発した対テロ戦争、以前からのソマリアの内乱やイスラエル対パレスチナの戦争などと、私達は背中合わせに生存している。戦争との共存は時空の遠近関係では計れないほど深刻で身近な問題だ。
 しかるに昭和10年頃台頭した超結社的新興俳句運動に、17歳で新興俳句無季派として頭角を表した敏雄の存在が気になる。14歳で「句と評論」所属の渡辺保夫に俳句の洗礼を受け兄事し、次に師としての渡辺白泉と西東三鬼に恵まれた。戦時下という社会背景の許に最前線の俳句環境と敏雄自身の才と志の三拍子が揃っていた。初期作品篇句集『青の中』(コーベブックス・昭和52年3月刊)は、昭和10年の15歳から20歳迄の作品集であり、同時期の戦火想望俳句集『弾道』(深夜叢書社・昭和52年7月刊)は、昭和13年に「風」と「広場」に発表した93句からなる。また、15歳から44歳迄の作品集の第一句集『まぼろしの鱶』(俳句評論社・昭和41年4月刊)と『弾道』は13句が重複する。当時新進の俳句表現で満17歳の若者が持てる知識と想像を巡らして戦争の有様が詠まれた。まず『弾道』の後記を参照して概要をつかみたい。
 昭和11年に二・二六事件が起き、12年7月7日に日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起きた。その頃、新興(革新)俳句運動は停滞の兆しが見えていた。おりしも、その前期の新表現様式の張本人で有季固守の山口誓子が「俳句研究」12年10月号の誌上で、銃後よりも前線で「本来の面目を発揮するがよかろう。刮目してそれを待とう。もし新興無季俳句が、こんどの戦争をとりあげ得なかったら、それはついに神から見放されるときだ」と挑発し、西東三鬼は「京大俳句」12月号の誌上で「青年が無季派が戦争俳句を作らずして、誰が一体作るのだ? この強烈な現実こそは無季俳句本来の面白を輝かせるに絶好の機会だ」と檄を飛ばしけしかけた。敏雄はそれらの揚言に「鼓舞扇動された」と自ら記している。そして、戦争に向き合う新興無季俳句表現への志向は三鬼に、表現の外形は誓子の構成手法に拠った。
 『弾道』の20章中1章~12章の全57句は、渡辺白泉と小沢青柚子共同編集の「風」昭和13年4月第7号に「戦争」と題して発表した連作だ。後に戦火想望俳句と呼ばれた。その内の数句について「サンデー毎日」6月26日号で、誓子が「私は主義として無季俳句を作らないけれど、もしかりに無季作品を作るとすればこういう方向のものを作るのではないかという気がする」と、自己矛盾めく弱腰な評言を放った。そのことは激賞したと言われている。若い敏雄に与えた誓子の高評は終生の勉励意欲に多大な影響を与えたことだろう。敏雄の逸材を見抜いた誓子が賛意を表した句を、「俳句研究」昭和35年12月号より引用しておこう。

 射ち来たる弾道見えずとも低し
 嶽々(やまやま)の立ち向ふ嶽(やま)を射ちまくる
 嶽を撃ち砲音を谿に奔らする
 砲撃てり見えざるものを木々を撃つ
 そらを撃ち野砲砲身あとずさる
 戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ
 あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ
 夜目に燃え商館の内撃たれたり

 三橋敏雄句集『眞・鷓鴣』(邑書林句集文庫 平成8年刊)の解説で澤好摩が「射ち来たる」「そらを撃ち」「あを海へ」「夜目に燃え」の句を抄出して、次のように評している。
 「全て無季であるという事実によって、〈戦争〉が異化した現実として存在するという側面を、よりいっそう鮮明に提示している」「『季』という日常性を切り離すことで、〈戦争〉は俳句にとってリアルな対象となりうることを、いち早く少年・三橋敏雄は察したのである」「少年の曇りなき眼がとらえた〈戦闘〉場面であるというにとどまらず、新興俳句運動のなかから導き出された無季俳句提唱に対する、見事な実践であり、大きな成果をもたらした」「少年らしい清潔な抒情の表出と、無季俳句の実践によって新たな表現領域を見出した」
 俳句で当然とされている有季に拠らないで、無季という異様さを呈し、その疎々しさをもって戦争俳句の真実味を獲得したという事だろう。異化とは鋭い指摘だ。俳句表現でも異化効果の斬新さなくして革新性は望めない。銃後でありながら、純真な眼差しが捉えた戦場の景は、天下泰平の証しでもあるような季語信奉に与しないで描かれた。当時のモダンでクールな誓子俳句に傾倒した事とあいまって独創的な連作となった。若輩の敏雄が無季俳句の実践によって成した新たな表現領域は、平成に至っての澤好摩の別角度からの適評によって再度決定付けられた。この成果は今後の俳句表現活動へも引き継がれなくてはならない。その新領域を生かし押し進める実践者の一人として私も名乗りを上げよう。

 かりかりと蟷螂蜂の皃(かお)を食む 誓子 (昭和7) 32歳
 夏草に機関車の車輪来て止まる (昭和8)
 夏の河赤き鉄鎖(てっさ)のはし浸(ひた)る (昭和12)
 水枕ガバリと寒い海がある 三鬼 (昭和11) 36歳
 兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り (昭和12)
 機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク (昭和14)

 当時の誓子と三鬼の名句である。これらの俳句は、物と動きが冷静に捉えられており、虚子の花鳥諷詠下の客観写生、つまり制縛的抒情とは一線を異にしている。句に投影されたドラマの一齣は、あたかも現実から切り取られた物証の提示のようだ。敏雄の「戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ」の、まるで巨大な昆虫のような戦車の句は、誓子の第一句「かりかりと…」での擬音語の生々しい迫力に感化されたのではあるまいか。また「…掻きすすむ」の動詞の連続は、誓子の第二句「夏草に…」の動きを畳み掛けるようにして、ドラマの終結に持っていく切れの鋭さと通底する。無粋だが「がりがりと戦車が蜂に来て止まる」と想望し、切り貼りすると3句が混在した景の作品となり面白い。それだけ句柄が異質ではなかった。もう一例、敏雄の「あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ」は、三鬼の第二句「兵隊が…」と同様、無季の戦争俳句だが、ドラマの進行に終止符を打たない不安感のよそよそしさが、何ともやりきれない戦時下の実感がある。澤好摩言うところの「〈戦争〉が異化した現実として存在する」そのものだ。
 最後に敏雄のもう一人の師・渡辺白泉は、どんな句を作っていたであろうか。

 三宅坂黄套わが背より降車 白泉 (昭和11) 34歳
 遠き遠き近き近き遠き遠き車輪 (昭和13)
 銃後と言ふ不思議な町を丘で見た (昭和13)
 憲兵の前で滑つて転んぢやつた (昭和14)
 戦争が廊下の奥に立つてゐた (昭和14)
 玉音を理解せし者前に出よ (昭和20)
 新しき猿股ほしや百日紅 (昭和20)

 一句目の「黄套」とは陸軍将校のカーキ色の外套のことだそうだ。軍服が「背より」現れ、身近に戦争という異なものを感じる。重厚に不安なリズムを刻む車輪の動き。通常の町を不思議と惚ける諧謔。悪ふざけな口調で深刻と滑稽を同居させる。社会事象を冷徹に擬人化し、遠近法と過去形の空間に立たせる。終戦を兵隊口調で皮肉り、卑近な日常を切実に訴える。それらの事の可笑しい痛痒さを、白泉は誰よりも心得ていて俳人その人だった。

 敏雄の戦火想望俳句は、白泉のような俳味は希薄だ。実直さは誓子に、ニヒリズムは三鬼に似たのだろう。俳句はとりあえず景を捉え、あまねく表現をものにしたい文芸なのだろうが、いかんせん生真面目に深刻になり過ぎて、川柳の専有理念ではない風刺や滑稽・諧謔という俳句本来の要因を忘れがちである。そこのところを直截でなくも警鐘を鳴らし、自覚させてくれたのが、若かりし頃、革新の道を選択した一途な三橋敏雄とその作品であった。

※文字遣は、漢字は常用漢字、俳句以外の仮名は現代仮名遣とした。

【参考文献】『三橋敏雄全句集』(立風書房・昭和57)、『西東三鬼集』(朝日文庫・昭和59)、『富澤赤黄男 高屋窓秋 渡邉白泉集』(朝日文庫・昭和60)、「アサヒグラフ-増刊7・20俳句入門」(朝日新聞社・昭和63)、三橋敏雄句集『眞・鷓鴣』(邑書林句集文庫・平成8)、「追想-師弟対談/西東三鬼・三橋敏雄―俳句よもやま」(三橋敏雄を偲ぶ会・沖積舎・平成14)他。

※当稿は、豈・記念冊子「黄金海岸」篇(35号)(2002.10.1発行)の物故作家・三橋敏雄小論(38~40頁)として掲載されたものである。
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前衛俳句と一口に言っても、ずいぶん幅があり、また、その後の俳人の伝統回帰などもあるので、一概には言えない。三橋はリズムに関しては575の音数律をほぼ守った人である。
上に引用した宮崎の評論は、アンソロジーでは判らない、特に戦争中の彼の在り方を知らせてくれる。



春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出でたつ少女・・・・・・・・・・・・・大伴家持
aaoomomo00桃の花
  
  春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花
    下照る道に出でたつ少女(をとめ)・・・・・・・・・・・・・大伴家持


大伴家持は天平18年から5年間、推定だが、29歳から34歳までの壮年期に、現在の富山県から能登半島を含む北国一帯の長官たる越中守として赴任していた。
この歌は34歳の年の三月一日、春の苑の桃と李(すもも)を眺めて詠った二首のうちの、桃の花の歌である。
「万葉集」巻19の巻頭を飾る歌である。
「にほふ」は本来、色が美しく照り映える意味。「下照る」の「した」は下の意とも、また赤く色づく意ともいう。
花の咲いている木の下が花の美しい色で照っていること。
と同時に下の句の木の下に立つ乙女の輝かしさをも暗示する効果がある。
満開の桃の花の下の乙女は、家持が呼び出した夢の精のようにも感じられる。

因みに、この歌につづく歌を、ここに挙げてみよう。

  わが園の李の花か庭に落(ち)るはだれの未だ遺りたるかも・・・・・・・・・・大伴家持

大伴家持は「万葉集」の編纂者ではないか、と推定されている程、歌の数が多い。
大伴一族は古代からの武門として有名な一族である。
父は大伴旅人(たびと)、叔母に大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が居る。
「万葉集」巻6に、この二人の歌が二首並べて載っている。

    月立ちてただ三日月の眉根掻き日(け)長く恋ひし君に逢へるかも・・・・・・坂上郎女

    ふりさけて若月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも・・・・・・・・・・大伴家持

この時、家持16歳だったと言われている。どうやら、この頃は叔母に作歌の手ほどきを受けていたらしいと言われている。

後に成人してからは、都に在る時は、天皇の傍に侍る宮廷歌人としての役割を務めているが、時の権力をめぐって藤原一族と皇族派との紛争に巻き込まれて、時に左遷人事とも思えるような仕打ちを受けたらしい。
参考として、私が書いた「恭仁京と大伴家持」というエッセイの文章もお読み頂きたい。(注・「山城町」は合併して現在は「木津川市・山城町」となっている)
もう一人の柿本人麻呂と共に「万葉集」を支える大歌人であろう。
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以下、Web上に載る記事を転載しておく。

大伴家持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 ~ 延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。祖父は大伴安麻呂。父は大伴旅人。弟に大伴書持がいる。叔母には大伴坂上郎女がいる。鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父である可能性がある。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下となる。

天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。天平勝宝3年(751年)までに赴任。この間に220余首の歌を詠んだ。少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画に立案した。事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。

没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

歌人としての家持
長歌・短歌などあわせて473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には載っていない。



木村草弥第五歌集『昭 和』 自選63首 付・三井修「帯」文ほか批評など
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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昭和

     木 村 草 弥 第 五 歌 集 『昭 和』 
            ・・・・・・・・角川書店2012年4月1日刊・・・・・・

       自 選 6 3 首 抄  ◆長歌と散文 プ ロ メ ー テ ウ ス の 火

 Ⅰ 昭和
    雨しぶく昭和最後の夜の更けの大き寂寥はのちも思はむ──安立スハル『安立スハル全歌集』
欠伸(あくび)ひとつ難しくない生き方を求めて渡る身の幅の橋
システム手帳に白ばかり殖え日々すごす存在論を抱へて浮遊す
花だより<落花しきり>と告げをればそを見に行かむ落花しきりを
妻呼ぶに愛称「弥いちやん」久しくも呼ばざりしこと不意に憶(おも)ひぬ
マンハッタンチェリー掬(すく)へば人生を違(たが)へたるものカクテルの夢
ひとすぢの鈍き流れの果てにゐるときめくおたまじやくしの尻尾
わが生はおほよそを昭和といふ期(とき)に過ししなりな青春、玄冬
あと幾年生きたしなどと数ふまじ耳ひらひらと仔鹿あそびて
しばらくは梨の重さを手にのせて木の恵みなるいのちを見つむ
たぐられて消えゆく虹のうすみどり夢の音符のやうな足どり
ひといろで描けといふなら田園は春の芽ぶきの今やさみどり

 Ⅱ 順礼
    方舟を降りたるのちの永かりしノアの老後をさびしみ思ふ──菊地原芙二子『雨の句読点』
目を閉ぢて耳を傾け感じ取る生きてゐることに理由は要らぬ
ほむら立つまでに勢へる詩(うた)ことばあなたはいつまで生きられますか
AIBOに尾を振らせゐし少年が新世紀に挑むロボットサッカー
ものなべて光らぬもののなかりけりのれそれは海を光らせて 夏
                *のれそれ──魚の穴子の稚魚
男の美学こだはらず来し過去(すぎゆき)ぞこれからは姿(なり)をやつしてみせう
吉凶のいづれか朱き実のこぼれ母系父系のただうす暗し
金色の腋毛光れりベルリンの壁跡指して苦難は言はず
ブレジネフとホーネッカーが抱き合へる絵を描きたり峻(きび)しき皮肉
ヒロシマの原爆ドームのごとくしてウィルヘルム教会廃墟を残す
イシュタルの門の獅子たち何おもふ異国の地にぞその藍の濃き
陽が射せばトップレスもゐる素裸がティアガルテンの草生を埋(うづ)む
ワルシャワのショパンの館に来て聴くは祖国追はれし<別れの曲(しらべ)>
ヴルタヴァの流れはカレル橋をゆきさざめくごとく<わが祖国> 響(な)る
J・Sバッハ二十七年を合唱長(カントール)として働きし聖トマス教会
皮一枚思想一枚くらやみに悪夢のごとし ビン・ラディン斃(たふ)る

 Ⅲ 花籠
    ことばとことばかもす韻きのうつくしと残り生の花残り生の霜──坪野哲久『胡蝶夢』
かの人に賜(た)びし夕顔ほのかにも門べに宵を白く灯りぬ
ゐもり釣る童の群れに吾もゐて腹のおどろの朱(あけ)の色見つ
灌仏の日に生まれ逢ふ鹿の仔はふぐりを持ちてたのもしきかな
蛇(くちなは)は己が脱皮を見せざりき蒼ざめし肌を膚(かは)うすき艶を
<青蛙おのれもペンキぬりたてか>ひくりひくりと息やはらかき
          *芥川龍之介
一山をもやひて蔽ふ花梨の無限の白に入りきてまどふ
萩の碗に新茶を呑めば今宵はや八十八夜を二夜三夜過ぐ

 Ⅳ やつてみなはれ
    一脚の椅子しろくして闇ありきつねに疲るるあゆみといふは──小國勝男『飛鏡』
沙羅の花ひきずるものがあるゆゑに生は死の一部かと真昼間
枯るることいとたやすけれ 胸奥に修羅いだきつつ爪を剪りゐつ
夏果てて紅蜀葵の紅(こう)いろ褪せぬ非ユークリッドは君は言へども
言霊(ことだま)の蛻(ぬけがら)のごとく夏逝きて月に盈欠(えいけつ〉見る季節なり
髪しろく鋭揚音記号(アクサンテギュ)の秋となる八十路を越えて空の青さよ
ほろ酔ひて寝てしまふには惜しきなり五月の夜の美しければ
春風とともに始めた恋のこと脆さ思ひつつ「やつてみなはれ」(エトヴァス・ノイエス)
おろかにも日々を過してゐる我に葉もくれなゐの炎ゆる鶏頭
孵化したるばかりの仔蜘蛛が懸命に糸張りをるも払はねばならぬ
光合成終へし落葉が地に還るいのちの核を揺る大欅
汝(な)をそこに佇たしめてみむ岩かげの秋海棠のうすくれなゐの
大和摂津河内和泉を一望に国見せりけむ葛城族長
一九三○年午年生まれ私の七度の干支(えと)かりそめならず
老後つてこんなものかよ二杯目のコーヒー淹れる牧神の午後
人の死も犬の死もまたおぼろにて磨ガラス越しの風景となる
ガスの火の青さみつめてゐたりけり愛は一瞬 麺の茹で加減

 Ⅴ エピステーメー
    朱漆の小さき櫛を秘そめ持ち万緑のなか陽に触れしめず──長岡千尋『天降人』
イタセンパラは絶滅危惧種の魚なり木津川の<わんど> に潜みゐるといふ
この世にはこの世の音色 鶏鳴にかの国の春はじまり初めぬ
葛城の山ふところに大き寝釈迦の若き御顔よ涅槃西風(ねはんにし)吹く
エリカ咲く日影のけぶるむらさきも孤りなるゆゑ思ひ出でつも
仲良し三人組と言はれ変はらぬ友情で結ばれた妙子とF子と弥生
何せむといふにもあらぬ日めくりを剥げば日曜の朱色の数字
起きぬけの一杯のみづ腑に沁むを満々と水を湛ふる地底湖
青蝉(ひぐらし)ははかなく死にき葉のかげに身すぎ世すぎのはざまを墜ちて
老いてゆく不毛の日々を掬ひとるひとすぢの光 それはあなただ
千年で五センチつもる腐葉土よ楮(かうぞ)の花に陽があたたかだ
フーコーは「思考の台座」と名づけたがエピステーメー、白い裸身だ
花に寄する想ひの重さ計りかね桜咲く日もこころ放たず
私が摑まうとするのは何だらう地球は青くて壊れやすい

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 Ⅵ プロメーテウスの火
     ─苦艾(チェルノブイリ)の香りかすかに移りたる雪かロシアの雪ひとつかみ──塚本邦雄『約翰伝偽書』
       =「苦艾(にがよもぎ)の香り」がかすかにある「ロシアの雪」のひとつかみは三月にフクシマに降った雪に繋がる=



         長歌と散文    プ ロ メ ー テ ウ ス の 火
        ─わたなかを漂流しゆくたましいのかなしみふかく哭きわたるべし  福島泰樹─

  大地震(なゐ)に 地(つち)は割(さ)けにき 大壁なして 押し寄する水
  大津波に 家は流れき 人も流れき 流さるる 家また車 犬猫はた牛
  こんなにも 凄まじき景 こんなにも 仮借なき水
  一万九千七百四十八人と 数へられつつ 死者たちは 何思ひつつ
  死んでゆきしか
  巨大波が 仙台湾を 平たくす そして某市を 某集落を 某港湾を
  
     ─騎乗疾駆す苦艾よりフクシマへ嘶きながら戦慄きながら  佐々木六戈─

  プロメーテウスの 「第二の火」とて もてはやされし 「原子力の火」が
  数日ののち 水素爆発起し 暴発せり
  ああ、恐ろしや 「炉心溶融」!
  meltdown(メルトダウン)ぞ  meltthrough(メルトスルー)ぞ
  沃素一二九、セシウム一三七、ストロンチウム九〇 大放出
  君知るや 放射性物質の半減期とふを
  沃素一二九=一五七〇万年、セシウム一三七=三〇年、
  プルトニウム二三八=八七・七年、ストロンチウム九〇=二九・一年
  測らるる ベクレルはたはシーベルト 換算ややこし ああ難しや
  原発を 妖火(あやしび)と呼ぶ人ありぬ 
  まさに 現代の妖火 フクシマ原発の謂(い)ひぞ
  放射能の 数値は チェルノブイリ超えき

    ─黙示録に燃え落ちし星にがよもぎ ロシア原発苦艾(チェルノブイリ)も  春日真木子─
  
  雑草も 野菜も花も 放射能まみれぞ
  牧草も 稲藁も牛も 汚染されたり
  牛肉も食へず 牛乳も飲めぬ お茶も飲めざり
 
  永劫に 人の住めざる 海辺もあらむ
  先は長いぞ!
  おとなしきニホンの民よ 怒れ、怒れよ!
  安全神話 ふりまきし輩(やつばら)に!   
     
     ─余震やまぬ一枚の国苦しみつつ放射能濃き水を吐き出す  米川千嘉子─
  
  三陸の 死者と生者を 憶ひつつ
  すべての死者に 手を合はせ
  すべての生者に 祈り捧げむ
  

二〇十一年三月十一日十四時四六分十八秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖一三〇kmの海底を震源として発生した東北地方太平洋沖地震は、日本における観測史上最大のマグニチュード九・〇を記録し、震源域は岩手県沖から茨城県沖までの南北約五〇〇km、東西約二〇〇kmの広範囲に及んだ 。この地震により、場所によつては波高十m以上、最大遡上高四〇・五mにも上る大津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらした。

また、大津波以外にも、地震の揺れや液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などによつて、東北と関東の広大な範囲で被害が発生し、各種ライフラインも寸断された。
震災による死者・行方不明者は二万人以上、建築物の全壊・半壊は合せて二四万戸以上、ピーク時の避難者は四〇万人以上、停電世帯は八〇〇万戸以上、断水世帯は一八〇万戸以上に上つた。政府は震災による被害額を十六兆から二五兆円と試算してゐる。

地震と津波による被害を受けた東京電力福島第一原子力発電所では、全電源を喪失し、原子炉を冷却できなくなり、過熱による水素爆発で大量の放射性物質の放出を伴う重大な原子力事故に発展した。これにより、周辺一帯の住民は長期の避難を強ひられてゐる。

    ─「電力を生むために人を殺すな」と静かなる怒り湛へて言ひき  大口玲子─

プロメーテウスは、神々の姿に似せて創造された人類に、ヘーパイストスの作業場の炉の中に灯芯草を入れて点火し、それを地上に持つて来て「火」を伝へた。
ゼウスが傲慢になった古い人間を大洪水で滅ぼし、新しい人間と神を区別しようと考へた際、彼はその役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得た。プロメーテウスは大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮に隠して胃袋に入れ、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しさうに見せた。そして彼はゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。プロメーテウスはゼウスが美味しさうに見える脂身に巻かれた骨を選び、人間の取り分が美味しくて栄養のある肉や内臓になるやうに計画してゐた。だが、ゼウスはプロメーテウスの考へを見抜き、不死の神々にふさはしい腐る事のない骨を選んだ。この時から人間は、肉や内臓のやうに死ねばすぐに腐つてなくなつてしまふ運命を持つようになつた。
その行ひに怒つたゼウスは、プロメーテウスをカウカソス山の山頂に磔にさせ、生きながらにして毎日肝臓をハゲタカについばまれる責め苦を強ひたが、プロメーテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、のちにヘーラクレースにより解放されるまで半永久的な拷問を受けた。
プロメーテウスが天界から火を盗んで人間与へたことに怒ったゼウスは、人間に災ひをもたらすために「女性」(パンドーラ)といふものを作るように神々に命じた。
パンドーラは人間の災ひとして地上に送り込まれた人類最初の女性とされる。「パン」=全てのもの、「ドーラー」=贈り物ドーロンの複数形。
「パンドラの匣」のエピソードで有名。

原子力発電が、プロメーテウスの「第二の火」に擬(ぎ)せられて久しいが、パンドラの匣ならぬ、厄介な火を抱え込んだものである。
「想定外」といふ言葉に誤魔化されてはならない。
千二百年も前に今回と同じやうな規模の地震・大津波襲来の歴史的記述が残つてゐる。   
延喜元年(九〇一年)に成立した公式史書『日本三代実録』に載る。

貞観十一年五月二十六日(ユリウス暦八六九年七月九日、グレゴリオ暦換算七月十三日)の大地震発生と大津波について、次のやうに記述する。

五月・・・廿六日癸未 陸奥國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝諸J漲長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乗船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉

同年十二月十四日には、清和天皇が伊勢神宮に使者を遣はして奉幣し、神前に告文を捧げ国家の平安を願ってゐる。この年は、貞観大地震・大津波をはじめとして相次ぐ天災や事変が相次ぎ世の中は騒然としてゐた。
京の都では、町衆が祇園社に御霊鎮を祈願して今につづく「祇園祭」を巡行させたのも、この年である。

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     三井修 「帯文」 と 抄出 9首

              木村草弥の心は自在である。

    「昭和」という時代を見つめつつ、その眼差しは遥か彼方へ飛翔する。

             その世界は山城から東欧まで、

            その言葉は万葉語からラテン語まで、

            その心は亡妻からプロメテウスまで、

         空間、時間を自由に行き来している。───三井修


   祈らばや薄明のわが胸中の沼の一つの橋渡りゆく

   まみどりの宙(そら)を孕みし雨蛙野あざみ色に黄昏は来る

   わが生はおほよそを昭和といふ期(とき)に過ごししなりな青春、玄冬

   順礼は心がすべて 歩きつつ自(し)が何者か見出ださむため

   イシュタルの門の獅子たち何おもふ異国の地にぞその藍の濃き

   花籠を垂るる朝顔一輪の朝の茶の湯の夏茶碗皙(しろ)し

   方形の青田つづける目路の果て水は光れど明日は見えず

   わがいのち知り得ぬ日々のあけくれに山吹散りぬ空海忌けふ

   修二会果て火の行法の終るとき寧楽の都に春は来にけり

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 ──書評──

     木村草弥歌集『昭和』・・・・・・・・・松村由利子
           ・・・・・・・・・角川書店「短歌」誌2012年8月号所載・・・・・・・・・・

 二十代の若者はともかく、「昭和」という元号は多くの人に、いくつもの
重い歴史体験を想起させると同時に、懐かしく慕わしい思いを抱かせる。

  わが生はおほよそを昭和といふ期に過ごししなりな青春、玄冬

 著者は、昭和一ケタ生まれの歌人。
年齢を感じさせない、かろみのある詠みぶりが魅力である。自在な歌ごころ
が、読むほどに心地よい。

  ちぎれ雲がひとつ  へうへうと少年の心の中をとび交つた

  ひとむれの花のゆきつく先にはいつも余りにも寂しい物語があつて

  ガスの火の青さみつめてゐたりけり愛は一瞬 麵の茹で加減

 少年の心は、肉体の加齢とは関係なく、夢想を育て続ける。日常生活の中
に漂う「ちぎれ雲」のような想念や、温めてきた「物語」の数々には、はっ
とさせられる。

  追憶の大きな布を拡げれば白線引きが向うから来る

  あり余る愛でわたしは白い肌に灰青色の釉薬をかけた

  老後つてこんなものかよ二杯目のコーヒー淹れる牧神の午後

  私が摑まうとするのは何だらう地球は青くて壊れやすい

 この作者は、日常詠から思いがけない奇想へといきなり飛躍する。その振
幅の大きさと文体の多様なことには、魅了されるばかりだ。
 卷末には、長歌と散文「プロメ—テウスの火」も。充実の第五歌集。 〈松村由利子・評〉

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「激動の昭和見つめ歌集」・・・・・・・京都新聞が歌集『昭和』を紹介
           ・・・・・・・・・京都新聞 2012/04/14 朝刊掲載・・・・・・・・・・・・・・

城陽市で宇治茶問屋を経営してきた木村草弥さん(82)がこのほど、山城地域の風景や妻への思いなどを詠んだ歌集「昭和」を自費出版した。
九年ぶり五冊目の歌集で、昭和の時代を見つめつつ、日常から異国の情景まで、幅広いテーマで詠んだ490首が紹介されている。
木村さんは、家業の製茶業のかたわら、国内外を旅して歌を詠み、これまでに四冊の歌集を自費出版してきた。
五冊目は、九年間に詠んだ新作が中心で、自身の人生の象徴である激動の時代「昭和」への思いでまとめた。
巻頭歌は、祈りのイメージを歌にした
    祈らばや薄明のわが胸中の沼の一つの橋渡りゆく
また、亡き妻との思い出を詠んだ
    妻呼ぶに愛称「弥いちやん」久しくも呼ばざりしこと不意に憶ひぬ

    イシュタルの門の獅子たち何おもふ異国の地にぞその藍の濃き

山城地域を題材にした
    梅の花の記憶の村に相違なし雨から雪に変はる早春

など、日々の暮らしから異国の情景まで、「気まま」な独自の世界を表現している。
A5版215ページで、角川書店刊。        (京都新聞南部支社・小坂綾子)

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       詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
               日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木村草弥歌集『昭和』
2012-04-16 12:27:46 | 詩集木村草弥『昭和』(角川書店、2012年04月01日発行)

 木村草弥『昭和』は歌集。ことばの印象(響き、音楽)が、少し日本語と違う--というのは変な言い方だが、何か「子音」がくっきりしている。それはたとえば、

イシュタルの門の獅子たち何おもふ異国の地にぞその藍の濃き

 というような「異国(外国)」の音が入ってくることと関係があるかといえば、まあ、ないわけでもないのだろうけれど、それだけではない。
 この歌では「イシュタル」よりも「獅子たち」の「たち」に、私は不思議な音の「すっきりした音」を聞く。奇妙な言い方であることを承知で言うのだが、それはバーブラ・ストライザの歌を聞いているような響きである。一つ一つの「子音」がはっきりしている。耳にくっきりと残る。(昨年の夏以降話題になった由紀さおりの歌が「母音」の音楽であるのと比較して、私はバーブラの歌を「子音」がはっきりしている、というのだが……。)
 で、この子音のはっきりした印象が少し日本語と違うという感じを呼び起こすのである。
 「その藍の濃き」の「あい」という母音だけのことばさえ、なぜか子音が含まれていると感じてしまう。私の耳が聞き間違えているのだが、先に書いた「たち」と「あい」の母音の組み合わせが同じだからかもしれない。どこかに「たち」の音の余韻があって、そのために「あい」を母音の繋がりではないと聞きとってしまうのかもしれない。
 あるいは、その表記が「藍」と画数の多い漢字であるために、その画数の多さ、角の多さが「エッジ」を感じさせるのかもしれない。「エッジ」が子音という感覚を呼び覚ますのかもしれない。
 私はもともと音読はしない。だから視覚でとらえたものが、画数→エッジ→ことばのとんがり→子音という具合に変化しながら、肉体のなかでまじりあって、そこに「音」が響いてくるのかもしれない。
 「その藍の濃き」の「藍」と「濃」という漢字の組み合わせも、そういうことに強く影響してくる。
 歌全体としては「の」の音、「の」に含まれる母音「お」の音の繰り返しがあり、それは「日本的」な音の繋がりなのだが、「異国の地にぞ」の「ぞ」が割り込み、なだらかな音の繋がりを断ち切る。濁音の強さが、母音の響きをいったん断ち切る。洗い流す。そういうところにも、「エッジ」を感じる。それが子音が強いという印象を呼び覚ますのかもしれない。
 こういう音楽を聞いていると、不思議なことに、歌のはじめの「イシュタル」の方が母音の絡み合いがやわらかくて「日本語」かもしれない、と思ってしまう。

祈らばや薄明のわが胸中の沼の一つの橋渡りゆく

 ここには外国の地名は出てこない。けれど、「薄明」「胸中」という漢語がふたつ出てくると「日本語」というよりも、中国語(漢詩というべきなのか)の印象が強くなる。私は中国語は知らないし、漢詩も知らないのだが、私の何も知らない耳には、そのことばの「エッジ」が強く響いてきて、あ、日本語の響きとは違うなあ、と感じるのである。
 「祈らばや」というのは、「日本語」でしかないのだが、「や」ということばでいったんことばが切れる感覚も「エッジ」を感じさせる。「ば」という強い音があり、それに負けないくらい「や」も強く響く。「や」は「い・あ」と母音が凝縮した感じで、その強い響きが、必然的に「薄明」「胸中」というくっきりしたことばを呼び寄せるのかなあ。
 それにしても(こんなときに、「それにしても」ということばが適切かどうかわからないが)、この歌は不思議だ。書かれている内容(意味)は非常に弱い(うっすらとした)風景なのに、音が強くて、その音が弱々しい風景(情景)を、歌の内側からくっきりと支えている。絵で言うなら、水墨画にペンで輪郭を描いたような感じがする。ふたつの「技法」(音楽、旋律、リズム)がまじっている。

 木村の歌には2種類の音楽がまじっている。それが、日本語で書かれながら、日本語の歌とは違うという印象を呼び覚ますのだと思う。

まみどりの宙(そら)を孕みし雨蛙野あざみ色に黄昏は来る

 歌集中、私はこの歌がいちばん好きなのだが、この歌に感じるのも不思議な音楽の出合いである。「まみどり」「(野)あざみ(色)」は、ことばのなかに濁音をもついう「音」の構造が出合うと同時に、「ひらがな」という形でも響きあう。目と耳が私の肉体のなかで、いっしゅん、すれ違い、入れ替わり、その融合する感じが私には楽しい。
 「雨蛙野あざみ」の漢字のつらなりも、とてもおもしろい。視覚上の読みやすさからいうと、この漢字の組み合わせは読みづらい。読みづらいのだけれど、その読みづらさのなかに、不思議な凝縮がある。
 宙→野→黄昏。
 この、不思議な広さが、「雨蛙+野」の結合によって、「いま/ここ」に凝縮する感じがする。野原に雨蛙がいる。それは宙(空、なのだけれど、空を超えた存在)と野に代表される地球を結びつける。天体の運動である黄昏(時間の変化が色の変化として動く)が、小さな雨蛙の色と向き合い、一期一会の出合いをする。それを「来る」という短い日本語で断定する形で演出するところが、非常に、非常に、非常におもしろい。
 いいなあ、この「来る」は。
 この出合い(一期一会)は、日本的感覚といえば日本的なものだと思うけれど、「宙」と書いて「そら」と読ませることに象徴される漢字のつかい方--そこに「日本語」を少し逸脱しているものがあると思う。それが「雨蛙野」という漢字の連続を刺激している。さらに「黄昏」という漢字を刺激している。
 繰り返してしまうけれど、その出合いを「来る」が締めくくるところが、とても刺激的だ。

 こういうおもしろさは、短歌という形式にあっているのかもしれない。「現代詩」だと長くなりすぎて、木村のやっていることは「音楽」ではなく、ノイズになってしまうかもしれない。ノイズにもノイズの音楽があるのだけれど--音楽としてのノイズではなく、「頭でっかちのノイズ」になってしまうかもしれないなあ、と思った。

 あ、書き漏らしそうになった。(というか、すでに書いたことを別なことで言いなおすと、ということになるのかもしれないが……。)--まあ、これから書くのは、余分な補足です。
 日本語的ではない--という印象は、木村の短歌が、「5・7・5・7・7」でありながら、それを感じさせないところにもあらわれている。「5・7・5・7・7」を感じさせないというのは、そこに複数の出典のことば(リズム、表記)があるからだ。「日本語」だけれど、日本語以外のものがあるからだ。

ひといろで描けといふなら田園は春の芽ぶきの今やさみどり

 「田園は」「でんえんは」と5音に数えるのかもしれないけれど、私の耳には3音にしか聞こえない。それは表記の「田園は」という3文字ともぴったり重なる。「田園」そのものは日本語なのだけれど、最後の「さみどり」という日本語と比べると、リズムの出典が違う。「肉体」を潜り抜けるときの感じがまったく違う。それで、私はそういうものを「日本語以外」というのだが……。
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    「寸簡」・・・・・・・西井弘和・私信より

全部を読みきっていませんが、ぼくの好きな歌、気になる歌。いうてもいいですか。
巻頭歌がいい。

 祈らばや薄明のわが胸中の沼の一つの橋渡りゆく

祈らばや、胸中の沼、なんていいですね。みなさんおっしゃるのではないですか。

   身のうちに曳きずるものありひたすらに雪の落ちくる宙の浮き橋

身のうちに曳きずるものあり……宙の浮き橋、とは。定家の、春の世の夢の浮橋……横雲の空、など、柄にもなく思い出したり。
大体、貴兄の歌で、新古今調の華やぎや流麗さをしばしば感じたりするのはぼくだけかしら。

   ひつそりと白き夕顔の咲き初めて女陰徐(しづ)かにうるほひにけり

ひっそりと……、がいいなあ。徐かにうるほひにけりと文語体を使ってるのも、夕顔が出てくるのも大共感。うまいなあこの優婉なる色気。

   ひとむれの花のゆきつく先にはいつも余りにも寂しい物語があつて

ひとむれの花のゆきつく先には……、と散文があって、あまりにも寂しい物語があって、と散文的助詞でくくって。いやらしいほどうまい。
律を破ってのやないかと思うけど、やはりリズムがあって。

   ちぎれ雲がひとつ へうへうと少年の心の中をとび交つた

昆虫少年はまたいいなあ全部。ちぎれ雲がひとつ、が好きだ。へうへう、とは。

   目を閉ぢて耳を傾け感じ取る生きてゐることに理由は要らぬ

生きてゐることに理由は要らぬ、目を閉ぢて耳を傾け……。静かなる喝破。

   きみ去りて宙ぶらりんの想ひとつ熟れ麦にほふ真昼なりけり

きみ去りて宙ぶらりんの想ひとつ、この、ひとつというのがいい。昼やね。苦し紛れかも知れんけど。

   男の美学こだはらず来し過去(すぎゆき)ぞこれからは姿(なり)をやつして見せう

これからは姿をやつして見せう。なりをやつしてみせう、いいねえ。いなおり。

   熟したる躰の張りも誇らかに若き男女は抱き合ひ眼交ふ

熟したる躰の張りも誇らかに……オスロの若者たち、抱き合い眼交うてはりましたか、圧倒されますね。

   小手毬は花虻の群れさそひつつ虻が去りぬと揺れ戻しけり

小手毬は花虻の群れ……、揺れ戻しけり、まで見ている。怖い作者の目。

   日常の一歩向こうの月光(つきかげ)に白き馬酔木の陶酔を見つ

日常の一歩向こうの月光に……、素晴らしい表現。こうはなかなか歌えないですね。

なんかいえそうに思ったのはこの辺まで読んでの気持でした。
あとはまだ読んでないのです。旺盛な詩作・思索活動、すてきですねえ。
ただ、外国旅行の歌は目を瞠っているのはわかりましたが、どうしてか、あんまりぴたーっとくるのがなかったですねえ。

   時ならぬ「アヴァンチ・ポポロ」の唄流るファシストに抗ひしイタリアの歌

アヴァンティポポロ、まだ歌われているのかと思ったりしましたが。

でもこの歌集、痛快でした。楽しかった。も少し読ませてもらいます。
三井さんの感覚はどうなんやろと思いました。

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  歌集『昭和』より私の好きな歌・・・・・・・三浦 好博──私信より抄出

  四月に入って遅い桜が一斉に咲き出して来ました。
 これから花狩人になって野山を歩きまわりたい季節です。
 この度は御歌集『昭和』ご出版誠におめでとうございます。九年ぶりのご出版だそうで、たくさんの歌の中から纏める作業は大変であったろうとお察し致します。
その間には2冊の詩集を編まれているので、詩作に力が入っていたかもしれません。
 文学者はひとの生き死ににはとても敏感ですので、昨年の3・11について詠まれないひとは居ないと思いました。
木村様もこの『昭和』の巻末にて「プロメーテウスの火」の項を立ち上げておられました。私は先ずそこから読ませて頂きました。
原子力にも豊富な知識から噛んで含めるように、私にも解りました。
ありがとうございます。
 以下、内容に即して鑑賞させて頂きました。
『西行花伝』は辻邦生の小説で私も読んだ事があります。
現在、大河ドラマ「平清盛」がやられて居ますが、待賢門院藤原璋子との関係は、ドラマのようには辻邦生は描いていなかったと思います。
出家の大きな原因であった事はたしかな事のようですが。。。。
 橋閒石の〈お浄土が……〉の句と下句の奥様の状況がぴったりの雰囲気でした。
 木村様は多くの短歌結社の誌に作品を発表されて居る関係で、とても自由に作歌されていることが解ります。
自由律は短詩にも通じますので、インパクトがありますね。
大和言葉にある春夏秋冬のさまざまな言霊をあやつるというか、遊ぶというか、美しくも愉しい事ですね。
 昭和という時代の殆どを生きて来た木村様にとって、青春と玄冬の歌よく解ります。
この昭和の間には朱夏と白秋もあったと思うのですが、この期間はどんなものであったのでしょう。HPやブログにあるいは書いてあるかもしれませんね。
 巡礼の項は国内の例えば四国八十八ヶ所の寺巡りもやられたでしょうし、スペインの巡礼の道も辿られた事が解ります。
まさしく「道」という言葉が美しいです。
その道のひとつ「 海石榴市の八十の街に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも」(万葉集)の「海柘榴市」を山辺のみちに私も訪れました。
「ヒロシマの原爆ドームの、、、、、」と詠まれましたウィルヘルム教会はその後、何年かをかけて元通りにしたようです。
落成式(?)の前の年に殆ど修復されかかった教会を見ました。
 ルターよりも百年も前に改革の旗を揚げたフスは時節を誤ったのでしょう、未だ力が弱かったのですね。
 木村様は積まれた深い教養から、諸外国のあらゆる対象に深く分け入ることができます。
同じものを見てもまったく私などとは違う見方考え方ができて、歌が流れるように出来てしまいます。羨ましく思っても詮無い事ですが。。。。
 旧日本軍が東南アジア、わけてもシンガポールで行った行為の詳細が歌を読んで分かりました。
最近たまたま、岩波現代文庫にてクリスチャンの「汝殺すなかれ」の父の教えを忠実に守り、学徒動員で徴兵された初年兵が、中国にて八路軍の捕虜を刺殺する訓練にて、これを拒否し、その後のありとあらゆる上官の拷問的な暴力に耐えた歌集を読んだばかりでした。「渡部良三歌集『小さな抵抗』殺戮を拒んだ日本兵」でした。
 夕顔の花は私も大好きです。宵闇に白く浮き立つ姿が素敵ですね。
又、池坊の若き女師範が朝顔を茶の湯に飾っておりましたのを、テレビ(日めくり万葉)で見ましたが、そんな素敵な花飾りもあるのですね。
 シルヴィア・プラスの詩は読んだことがありませんので、この項は理解が及びませんでした。
才能をもっともっと発揮して欲しかったのに自殺してしまったそうですね。
 インド・カジュラホのミトゥーナの寺院のヒンズーのエロチックな群像には私も驚きました。写真をたくさん撮ったのを覚えております。
 大和葛城山は躑躅の名所ですね。私も行きました。山頂一面に咲いて圧巻でした。大混みでしたが自分もその一人でしたから我慢しました。
「春の花言葉」はそれぞれの花の花言葉を一首に入れて詠むやり方で、私も第三歌集の『ときの扉』にたくさん収録しました。
連翹、アネモネ、エリカ、ヒヤシンスなどの歌が好きです。
 伊能忠敬の生家は当地から一時間の佐原で、何度か資料館に行きました。本当に凄い人でした。努力という言葉がぴったりの方でした。
彼の末裔になる人が時々当地で、伊能忠敬について講演して呉れるのを聴いたことがありますが、大変謙虚な方で、血筋であると納得しました。
死ぬことを意識に置いてやれば、彼のような偉業が達成できるのですね。
 わたしが選んだ好きな歌は下記に挙げさせていただきました。
 
   木村 草弥歌集『昭和』より私の好きな歌・・・・・・・・・三浦 好博

  ・祈らばや薄明のわが胸中の沼の一つの橋渡りゆく
  ・身のうちに曳きずるものありひたすらに雪の落ちくる宙(そら)の浮き橋
  ・君が代にめでたく今年も桜咲き夜ごと読みつぐ『西行花伝』
  ・ひつそりと白き夕顔の咲き初めて女陰徐(しづ)かにうるほひにけり
  ・〈お浄土がそこにあかさたなすび咲く〉病みあがりの妻うたたねしゐき
  ・春は朧月、夏は日暈、秋は黄昏、冬は風花----日本の美神の終楽章
  ・ちぎれ雲がひとつ へうへうと少年の心の中をとび交つた
  ・希望よりむしろ狂気を 星たちは宙のかなたに交信しをり
  ・わが生はおほよそ昭和といふ期に過ごししなりな青春、玄冬
  ・上目つかひ下目つかふも面倒なり遠近両用眼鏡ままならず
  ・放物線の最高点にゐる時を噴水は知つてきらめき落ちる
  ・日と月と星と大地と火と水と時だけが知る「道」はいづこへ
  ・サンチアゴ・デ・コンポステーラ春ゆゑに風の真なかに大地は美(は)しく
  ・海柘榴市に逢へば別れの歌垣ぞ名残りの雪の降る弥生尽
  ・きみ去りて宙ぶらりんの想ひとつ熟れ麦にほふ真昼なりけり
  ・すこしづつ砂に埋もれてゆくやうな日を消化しゆく老いのすぎゆき
  ・金髪のビルギュップ女史きらきらと脇毛光らせ「壁」さし示す
  ・戦争が幾度かあつて百年はあざなふ縄のうねるごとしも
  ・皮一枚思想一枚くらやみに悪夢のごとし ビン・ラディン斃(たふ)る
  ・尖塔のセント・アンドリュース教会に日本軍の慰安所ありき
  ・使役可か不可かは皇軍の恣意にして働けざる華人みな撃たれしといふ
  ・かの人に賜(た)びし夕顔ほのかにも門(かど)べに宵を白く灯りぬ
  ・激つ瀬に網はりわたす蜘蛛の脚ひらきつくして暮れてゆく水
  ・昼ふかき囀りやがて夢となり欅(けやき)は今し木語を発す
  ・沙羅の花ひきずるものがあるゆゑに生は死の一部かと真昼間
  ・額田王ひれふるときに野の萩の頻(しき)みだれけむ いはばしるあふみ
  ・枯るることいとたやすけれ 胸奥に修羅いだきつつ爪を剪るりゐつ
  ・乳ふふむ嬰児(やや)のつかめる乳房(ちちぶさ)の静脈青しはつ夏の来て
  ・方形の青田つづける目路の果て水は光れど明日は見えず
  ・悲しみの極みに誰か枯木折る臥床に首を捩ぢて聴く夜半
  ・起きぬけの一杯のみづ腑に沁むを満々と水を湛ふる地底湖

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     藤原光顕 『昭和』読了しました ──私信より抄出

歌集『昭和』ようやく読み終わりました。
批評などとはとても言えませんが、二、三の感想と心に残った歌を記してみます。

●祈らばや薄明のわが胸中の沼の一つの橋渡りゆく
 西井さんの仰るとおり、いい歌です。「胸中の沼」わずか4文字からのイメージの拡がり… もちろん「橋渡りゆく」という結句あってのことですが。
一集を象徴するようで、巻頭にふさわしい一首と思います。
●欠伸(あくび)ひとつ難しくない生き方を求めて渡る身の幅の橋
 「身の幅の橋」短歌ならではの見事な表現と思います。
●白魚を呑みたるゆふべ散りなづむ桜よこの世は行きつ放しぞ
 「白魚」「桜」「行きつ放しの世」 うまく言葉で繋げませんが、心奥深くへ沈み拡がってゆく淡い哀しみ。
●ひつそりと白き夕顔の咲き初めて女陰徐(しづ)かにうるほひにけり
 まさに草弥短歌というべき一首でしょうか。自分では正しく使えないのですが、ここは旧かなでないと歌にならないと思います。
●一病をもちては永きたそがれか野の豌豆の花の白さや
 病をかかえて生きる日々の頼りない時間と「豌豆の花の白さ」と…
●蕗の薹の苦さは古い恋に似て噛めばふるさと今もみづみづしい
●わが生はおほよそを昭和といふ期(とき)に過ごししなりな青春、玄冬
 さりげない状況説明のような末尾に置かれた「玄冬」の二字の重さ。
●目を閉ぢて耳を傾け感じ取る生きてゐることに理由は要らぬ
●男の美学こだはらず来し過去(すぎゆき)ぞこれからは姿(なり)をやつして見せう
●すこしづつ砂に埋もれてゆくやうな日を消化しゆく老いのすぎゆき
●金色の腋毛光れりベルリンの壁跡指して苦難は言はず
●イエス・ノー迫りたる日の将軍の蝋人形据ゑわれらに見しむ
 「東欧紀行」に続く一連の旅行詠。短歌という不自由な形式での叙景ということもあるのか、充分に感情移入できないもどかしさが残りました。
私も何度か試みましたが、当事者の感動はなかなか伝わらないようです。旅行詠の難しさを思います。
●流沙のごと流るる銀河この夏の逝かむとしつつ乏精液症(オリゴス・ペルミア)
 「オリゴス・ペルミア」の詳しい意味を調べてみて「流沙のごと流るる銀河」の象徴する意味や切なさがわかりました。
●乳ふふむ嬰児(やや)のつかめる乳房(ちちふさ)の静脈青しはつ夏の来て
●藤にほふ夕べは恋ふ目してをりし若き姉の瞳(め)憶ひいづるよ
●老後つてこんなものかよ二杯目のコーヒー淹れる牧神の午後
●「生きているの」といふ絵は男と女の下半身をオブジェのやうに描く

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    白子れい 私信より(抄出)

ひと雨ごとに桜のつぼみがふくらんでまいります。
御歌集『昭和』の御上梓おめでとうございます。
早速にお送りいただきありがとうございました。
私とほぼ同年輩(私は昭和二年生)、同じ戦時下で、また終戦後の不自由な生活の中で生きられながら、
大きく羽搏かれた一生の、なんて広く大きい世界で生きられたものよと、ほとほと見上げながら、
また短歌のみならず長歌、散文、そしてお茶の製造と幅広く奥ゆき深く生きられたお姿に感服いたしました。

★祈らばや薄明のわが胸中の沼の一つの橋渡りゆく
★花の季大人のいしぶみ輝きて春日連山いま旺んなり
★春は朧月、夏は日暈、秋は黄昏、冬は風花・・・・日本の美神(ミューズ)の終楽章(コーダ)
★母在りし日には見ざりし母子草やさしき名なり黄に咲き初めて
★まどろみの夢のつづきを辿るとき逝きたる人の面影に逢ふ
★わが生はおほよそを昭和といふ期(とき)に過ごししなりな青春、玄冬
★日と月と星と大地と火と水と時だけが知る「道」はいづこへ
★きみ去りて宙ぶらりんの想ひとつ熟れ麦にほふ真昼なりけり
★むささびに夢齧られし夏の木は樹液の饐えし香を漂はす
★ブラジャーとヒギニの農婦が大鎌を振りて牧草刈るドイツの夏は
★指呼すればアウシュビッツ見ゆサリンもてシオンの民の命奪ひし
★ワルシャワのショパンの館に来て聴くは祖国追はれし<別れの曲>
★人の世の生まれ喜び悲しみの一瞬(ひととき)ときを石に刻めり
★かの人に賜びし夕顔ほのかにも門べに宵を白く灯りぬ
★生活の醗酵しゆく日の暮れを人はそれぞれ家を目指せり
★湖を茜に染めて日の照ればひしめき芽吹く楢の林ぞ
★鬱屈の想ひを宙に放たんと山巓に来しが菜種雨ふる
★死ぬことと生まるることは一片の紙の表裏と言はれ肯(うべな)ふ
★枯るることいとたやすけれ胸奥に修羅いだきつつ爪を剪りゐつ
★生死のみ韻律にのせ詠みたかり秋野をゆくと人に知らゆな
★もゆらもゆら夏の玉の緒ひぐらしの啼く夕ぐれはまうらがなしも
★うたた寝の贅のひととき許されて蜜柑の花のにほふならずや
★麟片に覆はれねむる冬の芽の満天星あかしことごとく紅し
★三輪山の檜原の端に木いちごの赤き実熟るる冬となりたり
★まぼろしの皇子馳せゆけよ標野なる草のひろらの錦の中を
★わがいのち知り得ぬ日々のあけくれに山吹散りぬ空海忌けふ
★この世にはこの世の音色鶏鳴にかの国の春はじまり初めぬ
★真実を告げたかりしをアネモネのむらさき濃ゆく揺らぐともせず
★愛ひとつ告げし日ありき愛ひとつ失くしし日あり過去は茫々
★私が摑まうとするのは何だらう地球は青くて壊れやすい

日本各地のみならず世界を舞台に、また哲学的思考があると思えば楽器のリズムあり、
本当にぐいぐい引き込まれてゆきました。
同じ戦後の生き方の、かくも異なる生き方があるものよと眼をみひらくおもいで、お作品の数々をみせていただきました。
とりだしたら六十首を越えましたので、しぼりにしぼって三十首を書かせていただきました。
素晴らしいよみごたえのある御歌集、本当に有難うございました。
またグループの勉強会の折みんなに紹介させていただきたいと思って居ります。
季節の変り目どうぞくれぐれも御身体に御留意下さいませ。     三月二十八日

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     鎌田弘子  私信より(抄出)

春になりました。
御歌集『昭和』ご上梓お祝い申上げ、拝読のこと、いつも乍らまことに有難うございます。
オペラのバリトンの歌手に聞きほれるような感じのお作品と思うなど、おめにかかったことはありませんのに、ご想像申上げて居ります。

☆どの橋を渡つてみても存在論を抱へて行き来するばかりなり
☆花だより<落花しきり> と告げをればそを見に行かむ 落花しきりを
☆ぶらんこをもう漕がぬ娘よ中年の齢となれる桜月夜か
☆手すさびに眉ひき直し唇(くち)を描く重ねる愛戯うち返す波
☆男の美学こだはらず来し過去(すぎゆき)ぞこれからは姿(なり)をやつして見せう
☆人間と違ふ眠りのサイクルと思ふ蝸牛に久々の雨
☆干し鱈を商ひて富を築きしとふハンザ商館のつつましき家
☆白堊なる三層のホテル・ラッフルズかつてサマセット・モーム逗留す
☆「昭南」と改めしめし日本軍ラッフルズ・ホテルも高級宿舎とす
☆老後つてこんなものかよ二杯目のコーヒー淹れる牧神の午後
☆開帳を晴れがましとて観音は切れ長の目を伏してゐたまふ
☆涅槃図の白きは象の嘆くなり土踏まずゆたかに臥し給ひける
☆涅槃図に摩耶夫人とぞ見いでたる白き御顔は沙羅双樹の下
☆楊貴妃の白き顔(かんばせ)ひき寄せて梨花のもとにび玄宗愉快
☆スィートピー 香のよき花と選ばれてエドワード戴冠の出でたち寿ぐ
☆四十は「人生の正午」とユングいふかの佳人まさに燦とかがやく
☆千年で五センチつもる腐葉土よ楮の花に陽があたたかだ

「長歌と散文 プロメーテウスの火」も後世へのよい記録となりましょう。

<昭南>について
  白靴や名も昭南と改まり   多羅尾 豪
職場(舞鶴の海上保安部)の句会で、海軍時代の一句と教えてもらいました。思い出です。

多くを学ばせていただきました。ありがとうございます。
三月十一日、私はあの日の朝発って京都府の綾部市 もう誰も住まぬ(弟の歿後)屋敷(家と土地)を見に行っておりました。古木の紅梅がさかりでした。
翌日の帰途、新幹線や東京の電車ちょっと心配しました。
ひどい揺れを経験せずに済んだこと恩寵かどうか・・・です。
短歌に対する気持が変ってしまいましたね。
昨年は八十歳(昭和六年生)記念 自祝の鳩杖を購って少しおしゃれをした日の外出に携えて居ます。
広辞苑にも載ってますが、鳩は食するときむせないのです。おろす故の由。
把手が銀製の鳩の型。杖の部分は軽いように籐の太いのです。
短歌新聞社が終りになって、私の歌集『むべ』『時の意味』何冊も引き取りました。
佐藤祐禎氏(大熊町、未来、新アララギ)の歌集『青白き光』が原発のことゆえに話題になり、個人的にも電話、お手紙などで行き来があります。
それともうひとつ 細野豪志(原発担当・環境大臣)四十歳は私の妹の長男で京大卒後しばらく私の家から三和総研に通っており、
鳩山さんのスカウトで三島から二十七歳のとき以来民主党です。
私たちには子供がありませんので、豪志は幼いときから私たちもとても可愛がって大きくなりました。
豪志は背丈185cm、靴30cmですから、靴下掛りと寸法を置いてある三越でシャツそしてネクタイの掛りをして居ります。

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    黒松武蔵   私信抄と抽出歌 

歌集『昭和』の上梓おめでとうございます。
とりわけ「順礼」は私も旅が大好きなので、ウン、ウンと頷きながら読むことでした。
かつて私も観て廻った地が沢山出てきましたせいでもあります。
プラハ城では、黄金の小道の途中にカフカがよく訪ねて作品を書いたという店がありましたが、カフカ大好きの私はすっかり舞い上がってしまって、
ぼーっとしている間に財布を掏られて、頭の中真っ白、再び「ぼーっ」でした。
その後のカレル橋もミュシャも半ば茫然として歩き訪ねました(一文なしでは絵も買えず)。
フスの像は市民広場のことかと思いますが、すぐその近くにカフカ記念館がありましたがご存じでしたか。
私たちのツアーは、その日の午後自由時間でしたので、私独り通訳の方を予約しておいて、カフカ関係の場所を巡りました。
とてもいい記念になり、記念館で求めたメダルは今も机上を飾ってくれております。 平成24年4月5日

  抽出歌・・・・・・・・・・・・・・・黒松武蔵

   Ⅰ 昭和
 ○一病をもちては永きたそがれか野の豌豆の花の白さや
 ○希望よりむしろ狂気を 星たちは宙のかなたに交信しをり
 ○あと幾年生きたしなどと数ふまじ耳ひらひらと仔鹿あそびて
 ○たぐられて消えゆく虹のうすみどり夢の音符のやうな足どり

   Ⅱ 順礼
 ○繭玉の静かにほどけゆく未明ひとり方舟にゐるごとくして
 ○君が裡に眠りこけたる邪鬼あらむまどろむ人の白き首すぢ
 ○むささびに夢齧られし夏の木は樹液の饐えし香を漂はす
 ○すこしづつ砂に埋もれてゆくやうな日を消化しゆく老いのすぎゆき
 ○人間と違ふ眠りのサイクルと思ふ蝸牛に久々の雨
 ○まなかひにベルリン・フィルが竪琴のごとくに建てりポツダム広場
 ○ブラジャーとビキニの農婦が大鎌を振りて牧草刈るドイツの夏は
 ○ボヘミアの自立叫びしフスの像「真実は勝つ」の文字を刻めり
 ○干し鱈を商ひて富を築きしとふハンザ商館のつつましき家
 ○ゴム林を列なし進むオートバイわれ見し兵ら半島(マレー)を攻めき

   Ⅲ 花籠
 ○冬眠より覚めて幾月くちなはは早も脱ぎたり去年の衣を
 ○手づくりの柏餅とて志野の皿納戸に探しぬ母の日なれば
 ○しやくなげの花のゆるぎの揺れやまず響きを異に滝ふたつあり
 ○昼ふかき囀りやがて夢になり欅は今し木語を発す

   Ⅳ やつてみなはれ
 ○おろかにも日々を過ごしてゐる我に葉もくれなゐの炎ゆる鶏頭
 ○磨崖仏みゆるかなたに赤き芽の枝さしかはす国東の冬
 ○こだはらず肥れる女がシクラメン抱きて過ぐる聖夜(きよしよ)の街
 ○わがいのち知り得ぬ日々のあけくれに山吹散りぬ空海忌けふ

   Ⅴ エピステーメー
 ○何せむといふにもあらぬ日めくりを剥げば日曜の朱色の数字
 ○闇ばかり土の暮しの長ければ喉かれるまで蝉は啼くなり
 ○茫ばうと芒の生ふる原みえてさやけき月の供華となりゐき

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     辰っちゃんblogより抄出

・木村草弥氏の「昭和」について
「あとがき」によるとこの歌集は氏の第五歌集で「嬬恋」を出したあと「九年も放置していたので、たくさんの歌が溜まってしまい、前歌集の発刊の際に歌の数が多くなり過ぎて削除した旧作にも愛着があり、捨て難いので、いくつか拾った」とあるからはっきりしているのは前歌集出版から最近までの作品ばかりではなさそうだということである。そこに氏の最近の心境の一端が見えるような気がする。文学的にもきっと高い評価を受けるだろう歌集でありながら敢えてメモリアルなものに執着されているのはどうなんだろうという思いもあるが氏もとうに八〇歳を越えておられるはずだ。そこに私は気むずかし屋?の木村氏の人間性の暖かさを感じるのだ。そして少し安心する。
「〇〇君 歌集は生きている内に出すもんだよ」と、かつて私に言われたことがある。
今 思うとそれは氏の生き様を直に教えていただいた私にとっては最初の大切な忠告なのでありまた多様な人生哲学を感じさせた一瞬でもあった。
どこか超越したような風貌と言動は時に人を寄せ付けないような厳しさを感じさせるが内なるものはさびしく 少年のような純粋さと憧憬を持った夢見る やさしくて義理堅い人なのだ。そうでなかったらあの奥様亡き後の連綿とした思いは説明が付かないのである。
この歌集はⅥ章からなっている。そのうち大部分は(歌集より後記に曰く)「歌集出版の際削除したもののうち捨て難いと思う歌を拾った」とあるように大部分は旧作が占めているのであろうか。
つまり私はある目的を持ってこの歌集を読み始めたのであった。
たとえばこの歌集の作品の中には先に出版された詩集「免疫系」と重複する部分がかなりあるのだ。
それは何か意図的なものがあるのだろうが私には少しだけ見えるような気がしている。それは具体的なものではなく情緒的な観測なのだが。
しかし 私は木村氏の家近くに住まいながら実はあまり木村氏を知っているとは言えないのに気づく。
    (Ⅰ)
  ・祈らばや薄明のわが胸中の沼の一つの橋渡り行く
ペ-ジを繰るとまずこの何とも言えぬはじめの一首にどきりとさせられる。いつ頃の作品であろうか。不思議な世界に引き込まれるような一瞬である。
おそらくまだ奥様存命中の歌なのだろうがこの歌の沼の不気味さは異様だ。
木村氏の内側深く巣くうあらゆる負の連鎖に繋がるかなしみの原点を見るような心象風景にちがいない。
如何ともしがたい人間が負っている業の象徴としてこの沼がある。しかし氏はただの傍観者ではない。
「一つの橋渡り行く」が実に力強く 夢想的、情緒的ではあるが強情的な意志を示している。
不思議な異次元に入り込んだような気持ちの良い感動が襲う。このあたりの表現が何とも言えず巧なのだ。
この初出の歌が示すごとくこの歌集は人生の奥深い何かに向かってまだ見ぬ普遍性を見極めようとする木村氏の渾身のかなしみを表現しようとしているような いわば鎮魂歌にさえ見える。それは恣意的でありながら文学に嵌ってしまった者の宿命なのだが木村氏の場合あまりにも次の空間が見えてしまうのではないかとさえ思われるのだ。
今 一つの例歌を上げたがこの歌集全体をを貫いているのはまさにそのことなのである。
しかし その歌ですらいつ発表されたものなのか私は知らない。多分奥様の亡くなるずっと前のことなのかも知れない。そしてそれは最後まで分からなかった。
先にも書いたがこの歌集は木村氏の単なる記念碑的な記録誌ではないのだ。
常識的に見るならばそれは木村氏の自分史でもあろうが自分史に止まらない品格と重量感をもっているのだ。
つまりこれは木村氏の気力と気迫を込めた至高の文芸作品を目指したもので木村氏の豊かな資質を遺憾なく見せつけた いわばそれに値するような優れた歌集なのだ。
ある一つのことに拘らない姿勢が見て取れるのだ。いつ出来た作品など どうでも良いことなのだから。
   (Ⅱ)
先に私は「氏も八十歳を過ぎ・・・」と書いたがいたって意気軒昂なのである。
いま最近長く御会いしていないが昔の歌仲間がその元気さにあきれていたのであった。
以下私が気に入ったものを記しておきたい。
・まみどりの宙(そら)を孕みし雨蛙野あざみ色に黄昏は来る(Ⅰ)
・ひとすぢの鈍き流れの果てにゐるときめくあたまじゃくしの尻尾
・春の陽は子午線に入る歓びにきらりきらりと光を放つ
・あと幾年生きたしなどと数ふまじ耳ひらひらと仔鹿あそびて
・ぶらんこをもう漕がぬ娘よ中年の齢となれる桜月夜か
・しばらくは梨の重さを手にのせて木の恵みなるいのちを見つむ
・春くれば辿り来し道 巡礼の朝の色に明けてゆく潮(Ⅱ)
・サンチァゴ・デ・コンポステ-ラ春ゆゑに風の真なかに大地は美しく
・睦みあひ光るものらの返り梅雨さかる水馬の真昼がありぬ
・ほむら立つまでに勢へる水馬たち無音の光の恋のかけひき
・吉凶のいづれか朱き実のこぼれ母系父系のただうす暗し
・しぐれたるグリ-クの墓に佇めば<ソルベ-グ>流るる幻聴に居る
・激つ瀬に綱はりわたす蜘蛛の脚ひらきつくして暮れてゆく水(Ⅲ)
・昼ふかき囀りやがて夢となり欅は今し木語を発す
・藤咲くや温き触覚たのしみて水をざぶざぶ使い慣れゆく
・愛しさは遠浅なして満ちくるを木蓮の花は昼黙しをり
・鬱屈の想ひを宙に放たんと山巓に来しが菜種雨ふる
・道をしへ去りにしかなた鶺鴒は尾羽を水に石たたきゆく(Ⅳ)
・方形の青田つづける目路の果て水は光れど明日は見えず
・きりぎしの垂水のしぶくつはぶきの黄の花よりぞたそがれにける
・わがいのち知り得ぬ日々のあけくれに山吹散りぬ空海忌けふ
・追憶の大きな布を拡げれば白線引きが向こうから来る
・四十から四十も齢かさね来つ曲がり角などとつくに過ぎた(Ⅴ)
・茫ばうと芒の生ふる原みえてさやけき月の供華となりゐき
・振り向いてたぐる時間は紙子のやうにしなしなと汚れてゐるな
        2012/04/04

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      村島典子私信と『昭和』抄

いつの間にか晩春の候となりました。お茶の新芽も美しいことでしょう。
沖縄から帰り、御歌集再読いたしました。
「昭和」という歌集名は少し、意外な感触があり、ああそうなのだ、木村さんは昭和一桁のお生まれだったのだ、と、その時代へのスタルジーを改めて感じた次第です。
だからこそ、詩人であられるのだろうと、納得いたします。
東洋と西洋、ギリシャ神話から 、記紀万葉集、と、三井さんも語られていますように、時空のはるけさが、木村さんの世界。
ときどき私は置いてくらいますが、この迷路は何篇かの短編小説を愉しむように、従来の歌集にはない、きらきらした世界であると思います。
はがきにて申し上げました通り、長歌と散文「プロメテウスの火」は迫力あるお作品。
とりわけ、長歌という詩形の、訴える力に感動いたしました。
お歌を抄出して感想に代えさせていただきます。

◆家族図鑑のページめくれば蘇る田の橋わたる大祖母の翳(かげ)
◆白魚を呑みたるゆふべ散りなづむ桜よこの世は行きつ放しぞ
◆あと幾年生きたしなどと数ふまじ耳ひらひらと仔鹿あそびて
◆繭玉の静かにほどけゆく未明ひとり方舟にゐるごとくして
◆ものなべて光らぬもののなかりけりのれそれは海を光らせて 夏
◆戦争が幾度かあつて百年はあざなふ縄のうねるごとしも
◆三本の高き茎立ち夕顔は百余の蕾つけゐて嬉し
◆青桐は夜も緑なす夏なれば顔(かんばせ)あをく端居に睡る
◆激(たぎ)つ瀬に綱はりわたす蜘蛛の脚ひらきつくして暮れてゆく水
◆小手毬は花虻の群れさそひつつ虻が去りぬと揺れ戻しけり
◆うらうらと晴れあがりたる昼さがりもう夏だわねと妻のつぶやく
◆うたた寝の贅のひととき許されて蜜柑の花のにほふならずや
◆いづこより母の声するあすときか隧道の向ういまだ見え来ず
◆あかときにわが妻の鰓(えら)あぎとへば土曜の朝はいのち虔(つつ)しむ
◆何もない何も持たない人やある心やさしき愛もてる人

          四月二十三日

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   木村草弥歌集『昭和』 愛惜の三十首・・・・・・・・石山淳(詩人)

◇祈らばや薄明のわが胸中の沼の一つの橋渡りゆく
◇どの橋を渡つてみても存在論を抱へて行き来するばかりなり
◇君が代にめでたく今年も桜咲き夜ごと読みつぐ『西行花伝』
◇ひつそりと白き夕顔の咲き初めて女陰徐(しづ)かにうるほひにけり
◇わが生はおほよそを昭和といふ期(とき)に過ごししなりな青春、玄冬
◇もくせいの香を部屋ぬちに引き入れて今宵すがしき独りの眠り
◇楽の音に沈んでゐる 遠ざかる愛はみだらにゴッホ忌
◇繭玉の静かにほどけゆく未明ひとり方舟にゐるごとくして
◇レモン一顆のやうなる愛か花火果て夏終章のオルガスムスか
◇「壁」取れし歓喜の日々も遠のきて物の値あがりてビールが苦し
◇ワルシャワのショパンの館に来て聴くは祖国追はれし<別れの曲(しらべ)>
◇戦争が幾度かあつて百年はあざなふ縄のうねるごとしも
◇との曇る明日香の春はつつじ咲き妻の愁ひは触れがてに措(お)く
◇一山をもやひて蔽ふ花梨の無限の白に入りきてまどふ
◇愛(かな)しさは遠浅なして満ちくるを木蓮の花は昼黙(もだ)しをり
◇この広野まつ黄に染むる菜の花をうちひらき顕(た)つ女体は幻
◇柔らかで快いものそは汝(なれ)の秘め処なる火口(ほくち)が叫ぶ
◇沙羅の花ひきずるものがあるゆゑに生は死の一部かと真昼間
◇言霊(ことだま)の蛻(ぬけがら)のごと夏逝きて月に盈欠(えいけつ)見る季節なり
◇春の夜に奈良墨にほふ街ゆけば大和ことばの「おいでまし」浴ぶ
◇磨崖仏みゆるかなたに赤き芽の枝さしかはす国東(くにさき)の冬
◇仏性の火炎のごとくつつじ燃え暗きところに獣の目あり
◇わがいのち知り得ぬ日々のあけくれに山吹散りぬ空海忌けふ
◇老後つてこんなものかよ二杯目のコーヒー淹れる牧神の午後
◇しやくなげの花のゆるぎの揺れやまず響きを異に滝ふたつあり
◇人の死も犬の死もまたおぼろにて磨ガラス越しの風景となる
◇一冊の作品集にまとめた、まるで自らの手で撒く散華のやうに
◇あかときにわが妻の鰓(えら)あぎとへば土曜の朝はいのち虔(つつ)しむ
◇フーコーは「思考の台座」と名づけたがエピステーメー、白い裸身だ

以上30首、抄出の楽しみとむつかしさを学ばせていただきました。
詩集『愛の寓意』の流れが、いまもたゆたう、亡きご令室様への想いが胸を打ち、
私にも近いうちに訪れるであろう「死」との対峙を照らし合わせて味読させていただきました。
崇高な愛の形が、私の心のうちを駆け巡っていきます。
密度の高い感性と個性豊かな思考に感動いたしました。   2012年4月23日

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   木村草弥歌集『昭和』を読む・・・・・・・・・・・・光本 恵子

  ・わが生はおほよそを昭和といふ期(とき)に過ししなりな青春、玄冬

「昭和」はこのテーマでもあり、木村草弥の経歴を考えると、納得するのである。
下の句の「青春、玄冬」のとくに玄冬は冬とか暗い、黒の意ではあるが、辞書によれば、五行説からとある。
そもそも五行説とは、漢代に陰陽説が説かれたが、そのなかの教えに「宇宙の満物のすべては五行の相生、相克によって生成される、の説で一生は「青春、朱夏、白秋、にして玄冬でおわる」という。
木村の青春時代は、大阪外語──現在の大阪大学外国語学部で、後には京都大学文学部を専攻しているが、中途で結核という病で療養した。
本人曰く「文芸など遊学に没頭し同校に七年間在籍するが」一九五六年には在籍期間満了のため余儀なく中途退学をしている。
 いずれにしても、勉学や文芸、旅をして、自由に学んだ時代であった。そしては玄冬の時代にさしかからんとするところで昭和は終わった。
木村は一九三〇年(昭和五)に京都府下(現在の城陽市)の宇治茶問屋に生まれた。
姉兄妹六人きょうだいの四番目に生まれているにも拘らず、結局、親の茶問屋を継ぐことになったようである。
それは文芸好きな茶問屋のおっさんなのである。

京都には江戸時代から文人茶が隆盛し、文人気質の知的な人が大勢いた。
江戸の政治に口出ししても詮無いと決めては、茶を呑みながら、道具を手の平で愛で、文学を語り、旅の思い出をぼつぼつ喋っては随想を書き、茶道具を自らの手でひねった文人ら。
まさに木村はそういった京都人の血を引く文人である。

 ・どの橋を渡つてみても存在論を抱へて行き来するばかりなり  p12

文人気質の 木村草弥は自己意識の強い人である。ちょっとやそっとでは妥協しない、妥協したくない。
結局あれこれ他者という壁にぶつかっては、また自分のところに戻ってくる。結局どこにも従わず、所属せず、自分で自己を探そうとする。
自己鍛錬は欠かさない。それが「存在論を抱へて行き来するばかり」であろう。
 また、木村の短歌にエロス的な歌が多いのはなぜか。

 ・金髪のビルギュップ女史きらきらと腋毛光らせ「壁」さし示す
 ・ブラジャーとビキニの農婦が大鎌を振りて牧草(くさ)刈るドイツの夏は

大らかで、合理的なドイツ女性のさっぱりした気性が垣間見える作である。
木村の作はエロスとはいえ、じめじめしたところはなく、自由で大らかな点が特徴だ。
それはフランス文学を学んだ人だからいえる洗練されたロマンチシズムが流れている。
その上、彼は若くして病気に罹り、学校を中退せざるを得なかった。それだけに身体への関心たかく、「生きる」「生ききる」ことへの思いは強い。
生きることは人や自然を愛することだとの意識が強くて愛情の深い人である。

 ・萩の碗に新茶を呑めば今宵はや八十八夜を二夜三夜過ぐ  p113
 ・昼ふかき囀りやがて夢となり欅は今し木語を発す    p113
 ・もはや夢みることもなき此の我に眩しき翳を見する藤波  p114

「人間学」というのか、人間探求を怠らない作者・木村草弥は常に夢をもち夢を追い求めてきた。

<私が掴まうとするのは何だらう 地球は青くて壊れやすい>

の歌のように、追求して追い求めても、それを手にしたとたん、シャボン玉のようにパッと弾けてしまう。
まさにパスカルの言う「人は無限の偉大さと無限の卑小の中間にある存在」だからだろうか。

 ・「夢なんて実現しない」といふ勿れ「夢しか実現しない」と思へ  p178
 ・老いてゆく不毛の日々を掬ひとるひとすぢの光 それはあなただ  p195

「夢を持たないと実現もしない」と言い切る強さを持つ。
木村はアイロニーの強い人と思ってきたが、本書の短歌は率直で若やいでいる。人は夢を追いかけ、青い鳥を尋ね、捜し求める生き物だから。
最後に少年の日の歌を。

 ・母在りし日には見ざりし母子草やさしき名なり黄に咲き初めて  p22
 ・空はコバルト 昆虫少年は網を持つて野原を駆ける  p23
 ・ちぎれ雲がひとつ へうへうと少年の心の中をとび交つた  p24
 ・しばらくは梨の重さを手にのせて木の恵みなるいのちを見つむ  p35
 ・もくせいの香を部屋ぬちに引き入れて今宵すがしき独りの眠り  p38

                              (2012/05/18)

東野翠れん『イスラエルに揺れる』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
   東野

──新・読書ノート──

     東野翠れん『イスラエルに揺れる』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・㈱リトルモア2011/11/09刊・・・・・・・・・・

この本は東野翠れんのエッセイ集・写真集である。彼女は、写真家、ファッションモデル。日本人の父とイスラエル人の母を持つ。
私も2000年にイスラエルに行ったことがあるので親近感を持って、この本を買ってみた。
彼女の父や母、祖母など近親や友人たちを巡って、かの地の風土や習俗などを描いている。
写真家だけあって挿入写真も多い。
イスラエルの野に咲く花の写真が本のカバーの表裏にカラーで載せてある。
この本の表題の「イスラエルに揺れる」というのは、どういう意味なのだろうか。
この本の「はじめに」に、こんな個所がある。

<今わたしは日本にいます。2011年3月11日を経験してから、新しい目を、鼻を、耳を必要としている、そんな感覚があります。
それはもしかしたら、イスラエルを歩くときに必要とする、目や鼻や耳に、どことなく似ているかもしれない・・・・・と感じている。
イスラエルも、日本も、故郷という言葉のもつ輝きそのもののなかで揺れている。>

この彼女の繊細な感覚は鋭い。
東日本大震災の被災者に接するときに、大ざっぱな、横柄な、ぶしつけな態度が許されない、のと同じ意味で、イスラエルの民の辿ってきた道は尊重されねばならない。
もっとも、イスラエルも、何千年来の「怨念」ばかりに縋らないないで、周辺のアラブの国と「共存」する道を選んでほしいというのが私たちの願望なのだが。

この本のはじめにイスラエルの地図が載っている。
この本に登場する人たちは
「私」 日本人の父、イスラエル人の母のもと東京で生まれ育つ。幼少期に二年間イスラエルで暮らし、その後もたびたび訪れている。妹がいる。
「母」 私の母。イスラエル人。ポーランド出身の父と、イギリス出身の母のもとエルサレムで生まれる。ギブアタイム育ち。いまは東京に暮らす。
「サフタ」 私の祖母。サフタはヘブライ語でおばあちゃんという意味。名はグローリア。1949年にイスラエルへ渡った。国連で勤務したこともある。
「サバ」 私の祖父。サバはヘブライ語でおじいちゃんという意味。いまは二番目の奥さんとイスラエルに暮らす。
「タミ」 母の妹。イスラエルのテルアビブで暮している。空港まで私たちをいつも迎えに来てくれる。
「モシェ」 その夫。
「ガル」 その息子。ガルはヘブライ語で波という意味。
「ツィビ」 その犬るあわい茶色のたくましい犬。
「プレマ」 母の古い友人で、ハイファ近郊のマフラという小さな村に住む。ドイツ人。美しい機を織る。
「ニツァン」 その夫。イスラエル人。太極拳を教えている。
「ヨナタン」 その長男。
「ラファエロ」 その次男。サーフィンが好きでいつも海にいる。
「イタマール」 その三男。ラファエロと同じくらいサーフィンが好き。私の妹と年が近い。
「ローズ」 母のいちばん年上の友人。母が徴兵を終え放浪の途中ギリシャ行きの船で出会った。ロスアンジェルスに住む。
「イングリッド」 母の古い友人。紅海沿岸、ドルフィンリーフのあるエイラットに住む。
「ピナ」 サフタの古い友人。いまはテルアビブのはずれにある老人ホームに暮らす。私にイデッッシュ語の話をしてくれた。
「ツィガレ」 ゴラン高原でワイナリーを営む。よく働く三人の息子がいる。

長々と「この本に登場するおもな人びと」を書き写したが、皆さんにはわかり難いかも知れないが、かの地に行ったことのある私には大切なことである。
イスラエルでは男も女も平等に18歳になれば三年間の徴兵の義務があるのである。
休暇で家に帰るときも彼らは、いつも制服で「銃」を携行している。
その間、紛争、戦争が起これば命を落すこともある。だから、ここに書かれているように、徴兵が終った後は、彼らは世界中に「放浪」に出る。
その後に大学に入ったりする。
詳しくは、私のHPの「ダビデの星─イスラエル紀行」を参照されたい。 

以下、彼女の概略をWikipediaから引いておく。

1a8f783be31dcb8983eec4bcae08c212東野翠れん

東野翠れん
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東野 翠れん(ひがしの すいれん 1983年8月25日 - )は、日本の写真家、ファッションモデル。日本人の父とイスラエル人の母を持つ。

14歳から写真を撮りはじめ、ミュージシャンのポートレートなどを撮影するようになる。現在は、雑誌連載や写真集の出版などの活動を行っている。友人である湯川潮音の音楽CDのジャケット写真は彼女が撮影している。

同時に雑誌のモデルをつとめたり、CMにも出演するなどした。

著作
写真集など
Lumi`ere (2005年2月 扶桑社) - 最初の写真集。詩集。
lopen (2005年6月29日) - 8mmフィルムで撮影されたオランダでのプライヴェート・フィルム & サウンドトラック。(CD + DVD)
縷縷日記 (2006年3月17日 リトルモア) - 市川実和子、eriとの交換日記。
風花空心 (2006年7月26日 リトルモア) - J-WAVEで湯川潮音とともに公開していたblogを書籍化。
光の滝-Cascads Of Lights-(2008年5月) CowBooksのリトルプレスフェア用に10部製作(販売は6部)
ひかりをあびて うかびあがる かがやく きらきらと やわらかく-(2011年9月) CowBooksのリトルプレスフェア用に25部製作(販売は15部)
イスラエルに揺れる (2011年10月27日 リトルモア) - エッセイ。
季刊誌「真夜中」の連載「イスラエルに揺れるペーラッフ」を改題し、加筆修正・書き下ろしを加え書籍化。

雑誌連載
PS - monthly best shot
リンカラン - suicology
季刊 真夜中 - イスラエルに揺れるペーラッフ

出演・掲載
写真集
きもののたび (2003年9月 / 白尾零二 吉場正和 工藤真衣子 渡邊安治 ほか / ワイレア出版)
アンティーク着物のスタイリングブック。他、蒼井優など9人。
豆千代の着物モダン (2003年11月 / 豆千代 / マーブルブックス)
豆千代による着物コーディネートなど。
アムール 翠れん (2005年1月 / ホンマタカシ / プチグラパブリッシング)
ホンマタカシによる東野翠れんの写真集。アムール川の旅行記。
a girl like you 君になりたい (2005年7月 / 渋谷直角 佐内正史 / マガジンハウス)
relax連載の未使用カットをまとめた普段着感覚の写真集。他、宮崎あおいなど40人。
青の時間―THROUGH THE LOOKING‐GIRL(2006年8月 / 永瀬沙世 / プチグラパブリッシング)
写真家・永瀬沙世による写真集。他、清水ゆみなど。

雑誌
Spoon.
relax
mini
Olive
SEDA
CUTiE

PV
フジファブリック (2005年) 「桜の季節」

CM
エプソン (2002年)
マシェリ (2003年) 「オシャレゴルフ篇」
カゴメデリ (2003年) 「うわさのお店 リゾット篇/ペンネ篇」
カルビー (2003年) 「さつまりこ」
ボーダフォン (2003年) 「メーターと女の子篇」
親和銀行 (2003年) 「うれしいニュース篇/散歩しながら篇」
日産自動車 (2006年10月5日~)「マーチ 私らしくRED篇」
ユニクロ(2011年)「暖パン 東野翠れん篇」

ラジオ
土曜の夜はケータイ短歌 (NHK)
ap bank radio! THE LAST WAVE (TOKYO-FM) - MCとして出演
その他
100万人のキャンドルナイト (2005summer)
外部リンク
テレビCMギャラリー(親和銀行)

anemone2.jpg
 ↑ イスラエルの野に咲く「アネモネ属」の花。 アネモネはイスラエルの「国花」になっている。
この写真は私のブログのページに載っている。


次に落つる椿がわかる一童女・・・・・・・・・・・・・和田耕三郎
t-akebono曙(関西)
  
  次に落つる椿がわかる一童女・・・・・・・・・・・・・和田耕三郎

この句は面白い。ある童女が「次は、あの椿が落ちるよ」と言えば、不思議に、その花が落ちる、という句であろうか。
この作者のことは何も判らない。
森澄雄編集の「花の大歳時記」という大部の本に載っているもの。
昨日も「椿」を採りあげたが、今日も続いて椿を載せる。
特定の作家ということではなく、出来るだけ多くの作家の句を採りあげて鑑賞する。

 腸(はらわた)のよろこんでゐる落椿・・・・・・・・・・・・飯島晴子

 あけぼのや陸(くが)の水泡の白椿・・・・・・・・・・・・林翔

 椿散るああなまぬるき昼の火事・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

 掃くは惜し掃かぬは憂しや落椿・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 落椿ふむ外はなき径かな・・・・・・・・・・・・・富安風生

 椿咲く出雲八重垣神の婚・・・・・・・・・・・・角川源義

 釘づけにさる神隠てふ椿見・・・・・・・・・・・・石川桂郎

 白椿老僧みずみずしく遊ぶ・・・・・・・・・・・・金子兜太

 濡れてゐし雨の椿をいま憶ふ・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 落椿くだく音して仔馬来ぬ・・・・・・・・・・・・石原八束

 椿落つ脈絡何もなかりけり・・・・・・・・・・・・岡本眸

 白椿みていて身の裡昏れはじむ・・・・・・・・・・・・杉本雷造

 橋すぎて椿ばかりの照りの中・・・・・・・・・・・・平井照敏

 牛角力の花道うづめ落椿・・・・・・・・・・・・下田稔

 一園の椿五衰に入りにけり・・・・・・・・・・・・石田勝彦

 はたと膝打ちたるごとく椿落つ・・・・・・・・・・・・須磨直俊

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飯島晴子、富沢赤黄男の句は前衛的な句で、人によっては好き嫌いがあろうが、面白い句である。
金子兜太の句は前衛的作家でありながら、それとはちょっと違って、諧謔性のある句と言えようか。
橋本鶏二の句は、さっき見た雨に濡れていた椿を、後になって思い出して感慨にふける、という内省的な佳い句である。
あとは皆さん、それぞれに鑑賞して頂きたい。


赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・・・・・・・・・・河東碧梧桐
t-kurowabi黒詫助(関西)

   赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・・・・・・・・・・河東碧梧桐

碧梧桐は明治6年松山市生まれ。
中学生の頃から同郷の先輩正岡子規の影響で俳句をはじめ、高浜虚子とは当時から親友であり、かつ好敵手だった。

この句は明治29年の作と言われ、印象明瞭な新世代の秀作だと子規が絶賛、有名になったという、初期の代表作。
この句は、読みようによっては、まず赤い椿が落ち、ついで白い椿が落ちる、というようにも読めるが、作者自身は、紅白二本の椿の下に赤い花、白い花それぞれが散っている情景に感興を得たようである。

t-konoesiro近衛白(関西)

碧梧桐は虚子と競って句や文章に活躍したが、次第に虚子との確執が抜き差しならないものになり、その後、「新傾向」と言われる運動に突き進むことになる。
この面では、毀誉褒貶あい半ばする、というのが本当だろう。

ここでは、碧梧桐を論ずるのが本筋ではなく、季節の花として「椿」を語ることにする。
椿は「山茶」と書くのが正式らしく、その字の感覚からも、さざんか(山茶花と書く)や茶の木と同種である。
木扁に春と書くように、日本の春の代表的な花である。豊臣秀吉の椿好きがよく知られ、俳人では石田波郷がこの花を好んだ、と書いてある。
「玉椿」は椿の美称。「つらつら椿」は連なり生えた椿で、万葉集に出てくる。落ち椿の印象が、よく詠われる。
以下、歳時記にも載る代表的な椿の句を挙げておきたい。

 水入れて鉢に受けたる椿かな・・・・・・・・・・・・鬼貫

 落ちなむを葉にかかへたる椿かな・・・・・・・・・・・・召波

 落椿投げて暖炉の火の上に・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 落椿かかる地上に菓子のごとし・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 御嶽の雲に真つ赤なおそ椿・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 人仰ぐ我家の椿仰ぎけり・・・・・・・・・・・・高野素十

 椿見て一日雨の加賀言葉・・・・・・・・・・・・森澄雄

 雪解けの底鳴り水に落椿・・・・・・・・・・・・石原八束



横田英子詩集『川の構図』から・・・・・・・・・・・・木村草弥
横田英子

──新・読書ノート──

   横田英子詩集『川の構図』から・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・・土曜美術社出版販売2011/11/15刊・・・・・・・・・・

         肖 像 画

     今あなたの白い髪が
     梅雨晴れの陽に輝く

     あじさいの花を胸いっぱいに抱えて
     私の教室に持って来てくれた日のことを
     思い出します
     久し振りの教室の空気にむせたように
     一瞬棒立ちになって そしてあじさいの花束を
     振って見せた
     花の到着に歓声を上げる子どもたち
     やっぱり教室はいいね 呟いている母
     私の勤める学校が実家の近くだから
     またも無理を言った
     図画の時間 あじさいを描く
     庭じゅうの花を切り集めて
     母はそのあじさいを持って来てくれたのだ
     定年後だからこそ頼めた

     今老人ホームの部屋にもあじさいが咲く
     あの日の空色の花たち
     これをバックにあなたの肖像画が仕上がっていきます
     きっぱりとした眼は九十三歳の時わ宿して光る
     海馬の縮小か 脳の一部が翳っていても
     夕陽にきらめく波のよう
     ときには波頭立てて
     どっと打ち寄せる海の姿で
     迫ってくる

     
     その気配しかと捕らえたくて
     お母さんもうしばらくそのまま
     小学校の先生として五人の母として
     燃えていた日々の あなたの微笑みを
     描かねばならない
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この詩集には全部で35篇の詩が載っている。
作者・横田英子さんも長らく教職にあった人のようである。

 横田英子
1939年 大阪府岸和田生まれ

詩集 『巴旦杏』『海の深さについて』『珊瑚は砂になるというけれど』『ある心象の風景に咲いている』
   『炎みち』『みずのたび』『風の器』『私の中を流れる川について』

この詩集の題になっている作品を引いておく。

           川 の 構 図

     うろこ雲が
     映える川は 今は静だ
     その内側に
     幾本もの刃を隠し持って
     ちらっと上目づかいに
     波がざわついている

     岸辺にそよぐ
     葦の歌を聞いて
     流れたこともあった
     水面を
     ゆっくり撫でて
     吹き抜けていく風よ

     母の手のような温もり
     だが刻々と冷めていくのか
     いない日々が
     切なく迫るときがあって

     その上流で
     母の子守唄は底まで染みて
     母は 常に先を流れて 抗い
     ついには泥にまみれて
     散っていった
     あのさいごの虹色の飛沫を忘れない

     夕闇を裂いて沿岸の家の灯がまたたく
     川は灯りを川面に映しながら思う
     人々の心の中をゆったり
     流れる川でありたいと

     もっと下流に向かって
     刃を一本一本
     捨てていくのだ
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
この詩の中に書かれる「川」「刃」などは、或る「暗喩」になっていると思うが、深くは詮索するまい。
この詩を題名にしたからには、作者にとって或る意味があるのであろう。

以下、短い詩を三つほど引いて終りにしたい。

          鏡 の 中 に

     偽りで飾ろうとする
     哀しい自信があって
     後ろに鏡を引きずる

     人は矢印に従って
     歩かねばならないと
     誰が決めたのだろう

     区切られた道を
     歩かなければならない

     遠いところから
     見極めることの難しさ
     そう
     外出着にも着替えねばならない

     その時
     鏡の中を
     一瞬に駆け抜ける    
     野の馬
     乱反射の光が動き

     やはり
     そこに虚飾に身を包む
     私がいる


          乱 反 射 し て

     何かが走る
     鏡の中だ

     三面鏡の端から
     縞馬のように
     駆け抜けていく

     触れようとする
     伸ばした掌は
     春の朝のもやの中で
     ゆらりと揺れて

     所在気なく積まれた時が
     籾がらのように降りかかる

     気がつくと傾斜の窓から
     遠い日が
     きりきり輪を描いて去っていく

     まんだらに引かれた線の具合
     陰と陽と
     遠ざかっていくのは
     やはり縞馬の群れか


        蟻 1

     白いタイルの上を
     蟻が歩いている
     見つけては潰している
     潰されるためら毎日
     蟻がやってくる

     まいにち潰しながら
     蟻の情報網がどうなっているのか
     首をかしげている

     蟻はなおもやってくる
     今頃 蟻を見ると
     私は逃げだしたくなる



さわさわとレタスを洗う私を洗う・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
アンソロジー

──新・読書ノート──

      さわさわとレタスを洗う私を洗う・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子

ネット上のお付き合いの出来た岩根彰子さんから、彼女の所属する川柳の勉強会「つづきの会」の九人によるアンソロジー集が届いた。
掲出の画像が、それ。 ひとり30句づつ作品が載っている。プラス各人1ページづつのコメントの散文がついている。
先ずは、進呈者である岩根彰子さんの作品を引いておく。

        イースター島・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
     
     遠い日がちょこんと座る地下出口

     冬木立まあるい線にならはった

     金木犀ビビアンリーのハイヒール

     竜胆の声に変えたのアナウンス

     鴨川にビックリ水を差して秋

     キャンデーの棒は只今瞑想中

     神さまが遊び疲れてそのままに

     知ったかぶりを素うどんにかける

     シナモンの薫りに通過駅がある

     あぶらあげあるとあんしんしてしまう

     折り畳み椅子と尻尾を持ち歩く

     コスモスが死んでしまった金属音

     迷走が続く秋日のトコロテン

     妹に続いて姉も出奔す

     陽炎やこの鈎爪は鈎爪は

     鳩尾のペットボトルは火焔土器

     悪運は納豆菌で封鎖せよ

     照る日曇る日辛み大根を洗う

     胸の茗荷の湿り具合に手を添える

     さわさわとレタスを洗う私を洗う

     茘枝割る鑑真和上立ち上がる
   
     モロッコ豆弾けるメケメケを唄う

     氏素性前へ前へや加茂の茄子

     真実ではないわドリアンが喚く

     じゃが芋の花自転車四人乗り

     靴底は口約束を撒き散らす

     モンローが片足上げる赤い椅子

     来年はもっと頑固になるタワシ

     どぶ板は絶対音感持っている

     横抱きのモアイと舞台中央に

岩根さんの作品には海外の地名などが頻りに出てくるので、恐らく彼女は海外旅行が好きだ、と私は睨んでいる。
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川柳

この「つづきの会」というのは著名な現代川柳作家である石田柊馬氏を師匠としての勉強会らしい。
実は、以前に所属していた同人誌に俳句や川柳の作家が居られて、深い付き合いはなかったが、その縁で「岡井省二」氏や「樋口由紀子」などを知った。
掲出した本は2000年に出たアンソロジーで、その中に石田柊馬氏も参加されている。
今回、改めて書架から、この本を引っ張り出してみた。 すっかり忘れていたが石田柊馬氏は京都市内にお住まいなのであった。
あれから、もう十年以上も経ってしまったことになる。
この本の巻頭に俳人・岡井省二の句が載っている。

       ミナカテルラ・・・・・・・・・・岡井省二

     天動なら頭のぺこぺこさはつてみい

     第三の眼(まなこ)第三の男の目

     穴九つもぐさの煙でいぶしこめ

     f分の1がぐらつく仙骨だ

     匍(は)ふかかたまるかはてミナカテルラ

懐かしい省二節だが、この頃、彼はガンの再発の末期症状の出ていた頃で、痛みを灸などで抑えていたので、句にもそんな描写がある。
彼のこの句からしてナンセンス句である。まもなく氏は亡くなった。そして彼の育てた結社は、四散した。
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今回の、このアンソロジーに石田柊馬氏の作品も載るので、少し引いておく。 達者なものである。

     高齢者と呼ばれナスカの地上絵よ・・・・・・・・・・石田柊馬

     老い見えて麩でないような麩のような

     電柱よあんたも後期高齢者

     桃の季の将校達とおぼしめせ

     ラー油などかけてじわしけわいたぶって

     平和寮いまも昭和の四肢絡ませ

     発禁書買いに昭和へ行ったまま

     カイカーンと叫んで竿竹は倒れ

     コピペする度四角になるみかん

     コーランが長閑にながれている子宮

石田柊馬の句は、昔も今も極めてエロチックである。そして、さりげなく「暗喩」がちりばめてある。
例えば「桃の季の将校達」とか「平和寮いまも昭和の四肢絡ませ」「発禁書買いに昭和へ」「カイカーンと叫んで竿竹は倒れ」とかは、みな暗喩になっている。
師匠、健在なり!というところである。
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アンソロジーに載る他の作者の作品も少しひいておく。

     飽食時代はパンダに麻酔・・・・・・・・・・・S・キャップ

     ふふふの麩屋に張り子のラッパふらり

     ベクレルもビリケンも百物語

     銀河系までアルミニュームの螺旋

     老斑のゆらりと赤い実になるよ・・・・・・・・・・つじ きくこ

     雪の空見つめ快楽の木の上

     絹の靴下首都高速の記憶

     市場支店の出口こまった矢印

     襖いちまい四角い月の残響や

     通りゃんせ女九十は馬の耳

     底辺のキツネうどんの三拍子

     天平と今日のさかい目鹿の尻・・・・・・・・・・久恒邦子

     クラインの壺にゾロリと昨日

     後輩は堀川ごんぼの空気穴

     発情期いつだったかナ握り飯

     一一九 ムンクの木目破水した

     煮凝りの目玉ぬるりと創世記

     くちびるがおしよせてくる昼下がり

     おんな去る生キャラメルがへばりつく

     車座のまんなかに置く尖ったの・・・・・・・・・・内田真理子

     てのひらでなじませてからなしくずし

     春泥ふかくエゴンシーレの肋

     夏夕空 差出人の名の向こう

     枯野を纏うラフマニノフの大きな手

     ひらなかにして喰ってみるまんじゆしゃげ

     どれが垢どれがくさびらクラビクラ・・・・・・・・・・環

     脱臼のしどころしどろもどろどろ

     冷蔵庫開けたまま光悦のI

     あいこくふじんかいろはにほんとうふ

     エーゲ海一気に盥干すべきか

     もうもう会花子モモ剥いて

     すこんぶすこんぶトルファンの靴はいて

     ハーレーダビッドソンいちまい貝殻骨二枚

     鳥交るピチュマチュピチュッチュそらええわ・・・・・・・・・・中山一新

     ゆ の富士へマカロニほうれんそう

     圧倒的な安さダビデのおちんちん

     万金丹やってみなはれ六次元

     ナプキンになおこーらって刷らないで

     桜ではないかバナナの顔をして

     五七五自動製作機売り切れ御免

     症状はでない 菊の御紋の16

     一夜干し母のパジャマから寝言・・・・・・・・・・中村せつこ

     国交省へタキイの種が零れだす

     息はまだ少し余裕で旅鞄

     校倉の隙間 天女の高鼾

     西瓜8と1/2をたしかめ算

     大納言小豆豊作小倉庵腰痛
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「現代川柳」は、とかくナンセンスに満ちている。 「意味」を辿っては、いけない。
「風刺」と「笑止」と「エロス」が満載である。
この中に「時実新子」教室から出発したという人が居るが、私は時実新子の句が好きで、このブログでも何度も採り上げてきた。
中でも

      愛咬やはるかはるかにさくら散る・・・・・・・・・・・時実新子

が好きである。 もうじきに、そんな季節が巡ってくる。

新潮
話の順序として、実作者としても昔の「古典」と言われるもの、或いは「近代」と言われるものを勉強してもらいたい。
そんな点から、ここに掲出した1993年(平成5年)に出た「新潮」別冊のアンソロジーなどもあることを知ってもらいたい。
以前は出版界もまだまだ元気で、こういう文芸のジャンルを超えた企画もなされていたのである。
俳句・川柳も今や「趣味」「ホビー」と捉えられ、作者たちも、それに甘んじているようだが、それでは志が小さい。志は大きく「文学」「文芸」を名乗ってほしい。
このアンソロジーは、その一年に刊行された話題作を一冊だけ取り上げることになっているので、多少の差しさわり、不都合が生じているが、
川柳では昭和38年に時実新子『句集・新子』が、平成元年に大西泰世『句集・世紀末の小町』が、平成4年に倉本朝世『あざみ通信』が収録されている。
勉強材料として、ご参考までに挙げておく。

今日は、いいアンソロジーをいただいて有難うございました。 堪能しました。
そして、かっての「付き合い」を思い出しております。 では、また。

     
佐伯泰英『日光代参―新・古着屋総兵衛 第三巻―』・・・・・・・・・・・木村草弥
   日光

──新・読書ノート──

     佐伯泰英『日光代参―新・古着屋総兵衛 第三巻―』・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・新潮文庫2012/03/01刊・・・・・・・・・

     「十代目総兵衛の活躍が始まる。新しい物語が開幕した」野望粉砕。新シリーズ飛翔。

     御側衆本郷康秀が将軍家斉の代参として日光に向かった。
     極秘の出立、余りにも少ない従者の数、かげまの同行等、不審な点が目に付き、
     総兵衛は百蔵と天松を伴って一行を追う。
     一方、この代参に関わる秘密を掴んだおこものちゅう吉も後を追った。
     御庭番、傭兵たちとの激闘を経て、本郷の恐るべき野望が明らかとなるのだが……。
     東照宮を舞台に十代目総兵衛の胸のすく活躍を描く第三巻。

佐伯泰英/サエキ・ヤスヒデ

1942(昭和17)年、北九州市出身。日大芸術学部卒。映画・テレビCMの撮影助手を経て、1975年より、カメラマン、ノンフィクションライターとして活躍。1976年『闘牛』を発表。1981年『闘牛士エル・コルドベス 一九六九年の叛乱』でドキュメント・ファイル大賞を受賞。1987年、初の小説『殺戮の夏コンドルは翔ぶ』を発表。以降、多数の国際謀略小説、ミステリ小説を執筆。1999(平成11)年、初の時代小説『密命』を発表。以降、「夏目影二郎始末旅」「鎌倉河岸捕物控」「吉原裏同心」「古着屋総兵衛影始末」「居眠り磐音 江戸双紙」「酔いどれ小籐次」「交代寄合伊那衆異聞」等の人気シリーズを立ち上げる。人間味溢れる人物造形、豊かな物語性、迫力ある剣戟描写等いずれも高く評価され、広範な読者の熱狂的な支持を得ている。
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私の愛読書である 佐伯泰英の新シリーズ第三巻の登場である。

「立ち読み」も出来る。アクセスされたい。
連翹の花にとどろくむなぞこに浄く不断のわが泉あり・・・・・・・・・・・・・・・・・山田あき
  H11-PCD1116-014m山田あき

  連翹の花にとどろくむなぞこに
    浄(きよ)く不断のわが泉あり・・・・・・・・・・・・・・・・・山田あき


昨日、坪野哲久の歌を採りあげたので、その夫人である山田あきの歌をここで挙げてみたい。
いま気づいたのだが、哲久とあきは、あきの方が六つ年上である。
哲久、あき共に先年亡くなった。
二人は同じ文学的志を共有した夫婦で、終生かわることがなかった。
掲出の歌も連翹の花に言寄せながら、胸底に「浄く」湧き上がる「不断の」わが泉がある、という揚言である。
こういう勁い意思表示の出来る歌人は、そう居ない。

掲出した写真は、この歌を自筆した彼女の色紙である。彼女自身も、この歌が好きであったことが判る。

少し彼女の歌を引用してみよう。いずれも生前「自選アンソロジー」に収録されたものである。

 戦に子を死なしめてめざめたる母の命を否定してみよ

 すがすがと秋の古巣を落し去る蜂の集団われにまされり
 
 寒の鮒笊にみじろぎ光発(た)つかくしも冴ゆる命あるものよ

 みずからの選択重し貧病苦弾圧苦などわが財として

 縛されてきみ若かりし指先に茫々とあそぶ今日の煙草火

 古史伏せて声哭くものをきかんとすみじめに過ぎき人類の母

 新しき世紀をよぶは誰ならん拈華(ねんげ)微笑(みしょう)のアジアびとあり

 夜を徹し規(ただ)しあいたる若き日の一途は過ぎぬ黒き渦朱き渦

 原初くらく文字無き国の裔(すえ)われら漢字一字のめぐみ忘れず

 捨身飼虎この語のひびき聴くのみに魂ふるえつつ終らむおそれ

 一握の塩を出し合う誠あらばこの世明るくまた進むべし

 大いなる歴史を見よやうつくしく興るものあり滅び去るあり

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夫・坪野哲久とともに夫人の山田あきも「述志」の歌人と言えよう。最近は、こういう述志の歌人は、ほとんど居なくなった。
ここに引用した歌を見れば判るように、終始一貫して、戦前は侵略戦争に、戦後は原爆反対や、戦前の中国をはじめとするアジア人への残虐な日本の仕打ちへの謝罪など、首尾一貫した生を生きた夫婦である。



春潮のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず ・・・・・・・・・・・・・・坪野哲久
kityou4黄蝶

  春潮のあらぶるきけば丘こゆる
    蝶のつばさもまだつよからず ・・・・・・・・・・・・・・坪野哲久


この歌は敗戦翌年の春の歌。
かよわい蝶の翼と、荒らぶる春潮との対比の中には、単に自然界の描写にとどまらず、当時のきびしい時代相の、おのずからなる心象風景も含まれるように思われる。
「丘こゆる」という簡潔な描写が、この歌では、よく生きている。
重圧に耐えつつ、挑む生まれたばかりの小さな生命が、この飛びゆくものの描写の中に、可憐に、しかも雄々しく表現し尽されている。
能登生まれの作者は孤高詰屈の調べを持っているが、その中にも孤愁がにじみ、浪漫的な郷愁が流露するところに、独特の魅力がある。

知らない読者のために、坪野哲久の経歴を少し書いてみよう。

「アララギ」から出発し、「ポトナム」などで戦前活躍した人だが、昭和初年、新興歌人連盟に参加、プロレタリア短歌運動で活躍したが、第一歌集『九月一日』が発禁処分を受ける。
獄中生活など苦難を体験。夫人は、その頃知り合った山田あき、である。この夫人も名のある歌人。
こういう経歴の持ち主と知れば、さまざまな「くびき」から解放された作者の心象が、掲出した歌には、十全に表出されている、と知ることが出来よう。

坪野哲久の歌を少し引用してみよう。

  憂ふれば春の夜ぐもの流らふるたどたどとしてわれきらめかず

  春さむきかぜ一陣の花びらがわが頬をうち凝然と佇つ

  春のみづくぼめて落ちし遺響ありおもく静かに水は往きにき

  たんぽぽのはびこる青に犬は跳びきりきりと排糞の輪をかきはじむ

  にんげんのわれを朋とし犬の愛きわまるときにわが腓(こむら)噛む

  百姓の子に生れたるいちぶんを徹すねがいぞ論理にあらず

  ほら聞けよぶんぶん山から風がきて裏の蕪がただ太るぞえ

  残り生が一年刻みとなりしこと妻とわらえりあとさきいずれ

  死ぬるときああ爺ったんと呼びくれよわれの堕地獄いさぎよからん

  つまどいの猫のさわぎも生きもののうつくしさにて春ならんとす

  無名者の無念を継ぎて詠うこと詩のまことにて人なれば負う

  老人のぼくだけですね雨のなか生ごみという物を運ぶは



日高敏隆『春の数えかた』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
   春

──新・読書ノート──

       日高敏隆『春の数えかた』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・・新潮文庫・ 2005/02/01初版、2012/2/20十刷・・・・・・・・・・・

       著名な動物行動学者の、発見に充ちたエッセイ集。
       春が来れば虫が動く――
       でもどうやって彼らは春を知るのでしょう? 
       第50回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。

    春が来れば花が咲き虫が集う──当たり前? でもどうやって彼らは春を知るのでしょう?
    鳥も植物も虫も、生き物たちは皆それぞれの方法で三寒四温を積算し、季節を計っています。
    そして植物は毎年ほぼ同じ高さに花をつけ、虫は時期を合わせて目を覚まし、それを見つけます。
    自然界の不思議には驚くばかりです。
    日本を代表する動物行動学者による、発見に充ちたエッセイ集。

日高敏隆/ヒダカ・トシタカ

(1930-2009)東京生れ。東京大学理学部動物学科卒業。東京農工大学教授、京都大学教授、滋賀県立大学学長、総合地球環境学研究所所長などを歴任。京都大学名誉教授。動物行動学をいち早く日本に紹介し、日本動物行動学会を設立、初代会長。主な著書に『チョウはなぜ飛ぶか』『人間は遺伝か環境か?』『ネコはどうしてわがままか』『動物と人間の世界認識』『生きものの流儀』など。訳書に『利己的な遺伝子』『ソロモンの指環』『ファーブル植物記』などがある。2001(平成13)年『春の数えかた』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。

目次

春を探しに
赤の女王
動物行動学(エソロジー)としてのファッション ボディーガードを呼ぶ植物
カタクリとギフチョウ
ホタル
夏のコオロギ
植物と虫の闘い
八月のモンゴルにて
シャワー
スリッパ再論
街のハヤブサ
冬の花
鳥たちの合意
効率と忍耐
チョウの数
諫早で思ったこと
灯にくる虫
動物の予知能力
洞窟昆虫はどこから来たか
秋の蛾の朝
モンシロチョウの一年の計
幻想の標語
人里とエコトーン
暖冬と飛行機
わけのわからぬ昼の蛾たち
緑なら自然か?
チョウたちの夏
セミは誰がつくったか
おいわあねっか屋久島
ヴァヌアツでの数日
ハスの季節
ペンギンの泳ぎ
二月の思い
ヒキガエルの季節
春の数えかた
 あとがき
 文庫化にあたってのあとがき
  解説 椎名誠
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『春の数えかた』から、一番はじめのエッセイを引いておく。

春を探しに

 新年のことを新春というが、このことばは、子どものころのぼくにはどうしてもしっくりこなかった。
 その理由はじつに単純であった。こんなに寒いのに何が春なんだ? ということである。
 ぼくが子どものころといえば、第二次大戦のまっ最中。もともと隙間だらけで火鉢しかない日本家屋で、すべての物資が不足している状態では、正月は寒い。寒々とした飾りつけの正月用の部屋は、なおさらわびしい感じがする。けれどそこに置いてある新聞には、「新春を壽ぐ」などと大きな活字で書いてある。うそばっかり! 大人ってどうしてこんなうそを平気で信じられるんだろう? 子ども心にはそう思わざるを得なかった。
 ぼくにとって春といえば、せめて三月。暖かくなって、庭に植えたチューリップの芽が出る。外へ出れば、明るい日射しの中を、小さな虫がキラキラ光りながら飛んでいる。捕えてみると、冬を越してきたマグソコガネだ。小さなチョウチョがちらりと姿をあらわす。ルリシジミだ。そんなのを見てはじめて、ぼくは春だと思えるのだった。
 戦争が終わって、ぼくらの世界は広がった。クリスマス・カードなどというものも復活した。いや復活したというより、話にしか聞いていなかったクリスマスが現実のものとなり、ぼくらはそれに惹きつけられた。
 今から見ればずいぶん地味なものであったけれど、クリスマス・カードは色とりどりで華やかであった。筆で「新春」などと書かれた年賀状より、はるかに楽しかった。
 クリスマス・カードには二つのタイプがある。キリストの生まれたときの様子を描いたものと、現実の場でのものとである。
 ぼくは後者に興味をもった。ヨーロッパ風のものは、雪が積もっていたり、ヒイラギの赤い実が描いてあったりして、現実の冬を映している。そんなものがあまりポピュラーでないアメリカのは、赤いポインセチアが主流である。ポインセチアなどという植物をキリスト様が知っていたはずは絶対にないのだから、これはこっけいにも思えたが、とにかくその人々が現実に見ている世界を描いた、素直なものだと思った。「新春」とはまるでちがうなと思った。
 日本にはどうしてこんなにうそや約束ごとが多いのだろうと、いささかうんざりして、ぼくは現実の春を探して歩くようになった。
 それは意外に近いところにあった。
 正月には無理だが、それでも道ばたの枯れ草の根本をちょっとはぐってみると、何とそこには新しい芽が生えてきているではないか。二月ごろ、寒さにふるえながら、郊外の池のほとりを歩いてみると、ハンノキの花があの独特な風情でたくさん枝から下がっている。
 植物だけではなくて、虫もいた。
 そのころは東京でも、ちょっと郊外へいけば、あちこちに雑木林が残っていた。林の中を歩きまわっているうちに、ふと枯れ木にカワラタケがたくさん生えているのに気づく。サルノコシカケをうんと小さく扁たくしたような、乾いたキノコである。キノコの表面には上から落ちてきた粉のようなものがたくさんついている。もしやと思って目をこらすと、いる、いる、キノコムシと呼ばれる小さな甲虫が二、三匹、キノコの裏を歩いている。
 林の中に、一羽の小鳥が死んでいた。近づいてみると、またべつの小さな甲虫が十匹ほど、ぼくの気配に気づいたのか、小鳥の体の上をチョコチョコ走って逃げだした。チビシデムシだった。その日はどんより曇った寒い日であったが、この小さな虫たちの元気なこと! 彼らにはもう春だったのだろう。
 けれど、寒さをこらえながら春を感じるのはやっぱりむずかしい。ときには少し汗ばむくらい暖かくて、風も快く、心底から春だなあと思えるのはやはり四月になってからだ。
 四月下旬の山すそは本当に楽しい。花はそこにもここにも惜しげもなく咲いている。種によって思い思いの形と色をしたそれらの花たちには、それぞれにお目当ての虫がいるのだろう。
 歩いていくうちに、道は林の中へ入っていき、両側が崖になったほの暗い場所になる。そのほの暗い地上に、突如として明るい点々が広がる。ネコノメソウの密生だ。
 高さ一○センチほどの小さな草であるネコノメソウは、少し暗くて水のしたたっているような崖の下に好んで生える。いちばんてっぺんの対生の葉は、緑ではなく明るい黄色である。一つの平面の中で向きあった明るい色の二枚の葉の間にはさまれて、暗色の小さな花がある。これを上から見ると、いかにもネコの目ということばがぴったりだ。
 このネコの目はもちろん、何も見ていない。けれどそこにしばらく佇んで、地上に広がるたくさんのネコの目を見ていると、そのネコたちの目もぼくをじっとみつめているような気がしてくる。
 それはふしぎな感覚だった。ごく最近、植物に電極を差しこんで植物体の電流を記録していると、植物が人間のことばに反応して、電流の強さがいろいろに変わるというテレビを見た。そんなことがあるのかどうか、ぼくは知らない。ネコノメソウのネコの目がぼくを見ているなどということは、あくまでぼくの幻想にすぎない。けれど、動物も植物も、それぞれがそれぞれの論理で生きているということ、ネコノメソウがネコの目のような葉をつけることにも、ネコノメソウなりの理由があるのだということに、ぼくがおぼろげながら気づいたのは、このときであったような気がする。
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日高敏隆先生は、惜しくも先年亡くなられたが、私の敬愛するエッセイの書き手だった。
このブログでも採り上げたし、詩集『愛の寓意』でも散文詩に仕立てた。
このエッセイ集が再刊されたので、読んでみた。


春さればしだり柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも・・・・・・・・・・・・・柿本人麻呂
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   春さればしだり柳のとををにも
     妹(いも)は心に乗りにけるかも・・・・・・・・・・・・・柿本人麻呂


この歌の意味は、春になると、しだれ柳がたわたわとしなう。そのように私の心もしなう。そのしなった私の心の上に、恋人よ、おまえは乗ってしまった。
「春されば」のサルは「移る」の意で、春が来ると、の意味。
「とをを」は「撓(とをを)」で、タワワの母音が変化した形、たわみしなうさま。
「妹は心に乗りにけるかも」という、現代でも新鮮な具象的映像による表現は、当時の古代人にも大変好まれたようで、『万葉集』には同工異曲の歌が散見される。
『万葉集』巻十所載。

『柿本人麻呂歌集』には、人麻呂自身の作と、当時民間で歌われた民謡を人麻呂が採集記録したものとが含まれていると考えられるが、広義には記録者としての人麻呂の作と考えてよいだろう、と言われている。

柿本人麻呂の忌日は陰暦3月18日とされている。新暦だが、その日に因んで載せる。

人麻呂は『万葉集』の代表歌人、歌聖と言われた。
彼の伝記はほとんど不明で、生没年も判らないが、『正徹物語』の説によって、この日を忌日とする。
3月18日は、小野小町や和泉式部の忌日でもあり、この日は民俗的に大切な日であったらしい。
人麻呂忌を詠った句を引いて終りにしたい。

 土佐が画の人丸兀(は)げし忌日かな・・・・・・・・正岡子規

 山の辺の赤人が好き人丸忌・・・・・・・・高浜虚子

 人丸忌わが俳諧をもて修す・・・・・・・・富安風生

 二三人薄月の夜や人丸忌・・・・・・・・飯田蛇笏

 いはみのくにいまも遠しや人丸忌・・・・・・・・山口青邨

 人麿忌野に立つ我もかぎろふか・・・・・・・・大庭雄三

 人麿とつたへし像をまつりけり・・・・・・・・水原秋桜子

 人丸忌歌を詠むにはあらねども・・・・・・・・大橋越央子

 顔知らぬ人々寄りぬ人麿忌・・・・・・・・阿部みどり女

 山国の川美しや人麿忌・・・・・・・・西本一都

 歌やめて太りし妻や人麿忌・・・・・・・・肥田埜勝美

 人麻呂忌砂にひろごる波の末・・・・・・・・長尾俊彦

 人麿忌旅の枕を返しけり・・・・・・・・細貝幸次郎

 謎の歌石見に残る人麻呂忌・・・・・・・・水津八重子



鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子
  e0083820_12144715兜子色紙

     鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子

今日3月17日は俳人・赤尾兜子(あかお・とうし)の忌日である。
彼は大正14年姫路市生まれ。京大文学部卒。毎日新聞に勤めた。俳句は大阪外語のときに始めた。
「太陽系」「薔薇」「俳句評論」などにかかわった。
昭和35年「渦」を創刊、主宰。昭和36年、現代俳句協会賞を受賞するが、選考をめぐり、協会の分裂をひきおこし「俳人協会」が発足することになった。
新興俳句系の俳人だったが、のち伝統俳句への回帰に進んだ。昭和56年歿。

以下はネット上に載る「zenmz」という人のサイトに載るものである。全文を引用する。
これを読めば、彼の「鬱」に陥っていたということなども、よく氷解して理解出来るのである。
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【6082】 赤尾兜子を偲ぶ
★ 去る者は日々に疎し、と言いますが、鬼籍に逝った親友はいつまでも我が心の中にあって、生きています。いつも3月になると、その人を想い起こすのは赤尾俊郎さん。その人の名を知る人は、もう少なくなりましたが、和歌、俳句等、短詩型文学に親しまれている方なら直ぐおわかりになる「兜子」(とうし)の俳号を持つ俳人でした。

★ エッ? あなたが俳人と交遊を??? 驚かないで下さい。赤尾さんと私は、毎日新聞記者時代の先輩・後輩の関係にあり、赤尾さんが5年先輩。晩年は共に新聞記者の第一線から離れ、大阪本社出版局で、赤尾さんは編集課長、「サンデー毎日」の大阪在勤次長職にあり、私は「点字毎日」編集長をし、文字通りに共に机を並べて仕事をしました。親交はその時に始まりました。

★ 当時、大阪・千里ニュータウンにあった我が家にもしょっちゅ遊びに来て,我が家族共々、お付き合いさせていただきました。達筆の人で、最初に夕食を共にした時、色紙に書いてくださったのがこの一句です。
多分、兜子句集2000句の中にも含まれているだろうと思います。

 鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉 (掲出の写真①)
★ 当時、マイホーム主義を揶揄する風潮がありました。ある日、訪れて来た赤尾さんに、私は「マイホーム至上主義」をぶちまくりました。それを受けての一句。私たち家族にとってのみ特別の深みを味わえる句だと思って宝にしています。

★ ここでちょと、赤尾兜子の紹介をしておきます。今から半世紀以上も前、終戦直後の京大学生時代に伝統を打ち破る斬新な俳句を次々と発表して”前衛俳句”の新ジャンルを築いた鬼才です。
 代表作 音楽漂う岸侵してゆく蛇の飢
が打ち出す強烈なイメージでその作風をご想像下さい。

★ 大阪外語専門学校(旧制)時代の同級生に司馬遼太郎さん、陳舜臣さんなど著名作家がおり、赤尾兜子さんと合わせて「外語3鬼才」は大阪文壇の3重鎮として並び称せられていました。京大卒業と同時に毎日新聞記者になりましたが、前衛俳句運動は自ら創刊した俳句誌「渦」の結社を中心に展開されました。

★ 赤尾さんは大柄の人で、その外貌はいわゆる「厳(いか)つい」顔。ちょっと近寄りがたい雰囲気をいつも漂わせていました。妥協嫌いのまっしぐら。気むずかしい人と言われていました。が、私とは妙に気が合って親密なお付き合いをさせていただきました。

★ 多分、全くの門外漢であったことが良かったのでしょう。いつか一度、結社を覗かせてもらいましたが、門下生を前にその風格は絶対的な権威を思わせるものがありました。「あんなん、シンドイでしょう」と言うと、「それや、どうにもならん」と笑っていました。

★ しかし、つきあってみると、外見とは大違い。実は、繊細で細やかな心配りの人で、その立ち居振る舞いは実に雅やかでした。気品あるその雅やかな風格は、やはり彼の出自にあったように想います。隠れた才能・・・お茶のお点前などビックリしたことがあります。

★ 生家は兵庫県網干の旧家、何代か続いた材木問屋です。八人兄弟の次男。長兄の龍治氏は、著名な郷土史研究家で、『盤珪禅師全集』 を刊行して姫路市文化功労賞を受け、 次いで 『徳道上人』 を刊行して兵庫県文化功労賞を受けておられます。(因みに兜子も兄に続いて後に兵庫県文化功労賞を受けています)

★ 親交が深まるにつれ、私は、自分が編集長をしている週刊新聞「点字毎日」の俳句欄”点毎俳壇”の選者をお願いしました。盲人俳句を育てていただけないか? 恐る恐るお願いしたら即座に引き受けて下さいました。「極限から生を見つめる。スゴイ作品がいっぱいある」 初めての月の選評で、今も、心に残る選者・兜子の総評です。

★ そういう次第で、定年で新聞社を去った後も、毎月、”点毎俳壇”の選句をしていただくために新聞社に迎えていました。そんなある日、赤尾さんはいつにない真剣な表情で私を凝視しました。「オレ、芭蕉を超えられん」 咄嗟に私は理解しました。それまでの会話で赤尾さんは大きな苦悩を抱え込んでいる様子を察知していました。

★ 一言で言ってしまえば、それは彼の短詩型文学の行き詰まりだった、と想います。素人の私には分からない世界ですが、前衛俳句運動で俳壇を震撼させた鬼才も晩年には、伝統俳句への回帰を指摘されるようになっていました。他人には窺い知ることの出来ない大きな葛藤が兜子の内で始まっていたのです。

★ 折りも折り、兵庫県文化功労賞を受賞しました。当然、マスコミは長兄・龍治氏に続く「兄弟ダブル受賞」を称えました。傍目には大きな慶事、網干の名門一族にとっても喜ぶべき朗報のはずですが、ご本人にとっては逆だったようです。

★ 自らもその作風が伝統回帰を目指していることの意味を問い続け、悶々とそのナゾを密かに問いつめていた兜子にとっては大きなプレッシャーになりました。「これから芭蕉に挑戦や。えらいこっちゃ」 当時、喜びに訪れた私に赤尾さんはニコリともせず、そう語ったものでした。

★ それをずっと引っ張ってきていたのですね。「芭蕉を超えられん」とは、あまりに生真面目すぎます。そこで・・・「あんな、赤尾さん、芭蕉、芭蕉、言うけど、ボクなんか、俗人に言わせてもらえば乞食としか想えへんで。芭蕉超える、言うけど、赤尾さん、乞食にならんと・・・乞食の次元の話とチャウ?」 

★ 眉を顰めて私の前にいた赤尾さんは、突然、「ワッハッハー」 大声で笑い始めました。 「乞食か。そうやな、乞食。コジキや」 本当にこの時、私たちは、悪ガキに戻ってのはしゃぎぶりでした。赤尾さんは、来たときとは全く異なる明るい顔で帰って行きました。

★ それから間もなく。昭和56年(1981)3月17日のこと。「赤尾さんが交通事故で亡くなられました」 人事部から急ぎの連絡がありました。とりもなおさず阪急岡本の自宅に駆けつけました。

★ 奥様のお話では、「今朝、起きがけにタバコを買うと言うて出て行ったが踏切で電車にはねられて即死だった」とか。ただ集まった多くの人々は、「ひどい鬱状態だったからね・・・」と、咄嗟に自殺と見たようでした。

★ 当時、兜子は重度の鬱状態にあったのはたしかです。でも・・・私は、今なお、赤尾さんは自殺という積極的な自己否定に出るはずはなかった、それはきっと、鬱による事故だった、と信じています。赤尾家は急坂の中程にあります。下を走る阪急電車。だらだら坂を下る途中に踏切があります。物思いに深けていた赤尾さんが迷い込んだとしか想いようがありません。

★ 何故、そう断定するか。赤尾さんが残した一つの句があります。
    父として生きたし風花舞う日にも 
 赤尾さんにはたった一人の男の子がいました。その頃、高校に入ったばかり。「息子もこれで片付いた」と私にその喜びを語りました。その子を想う歌です。 赤尾兜子の記録を見ると、多くの解説はその偉大な功績を顕彰した後、昭和56年56歳で自殺、としています。だがこんな歌を残して自殺する人がいるでしょうか?

★ 兜子の現代俳句誌「渦」は妻の恵以さんが引き継ぎ、神戸に兜子館カルチャーサロンを運営して居られる、と仄聞します。是非、一度、訪れたいと思います。ご子息も40代になっておられるはず。出来れば、共々、亡友追善の語らいの機会を得たい、と願っています。
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uzuhyousi渦表紙

写真②は彼の結社「渦」誌の表紙である。

以下は、彼の代表作とされる句である。ここには、伝統俳句に回帰した時期の句は、余り引かれていない。

こおろぎに黒い汁ためるばかりの細民
ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥
たのむ洋傘に無数の泡溜め笑う盲人
ちびた鐘のまわり跳ねては骨となる魚
ねむれねば頭中に数ふ冬の滝
まなこ澄む男ひとりやいわし雲
ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう
ガソリンくさき屋上で眠る病身の鴎
マッチ擦る短い橋を蟹の怒り
唖(おし)ボタン殖える石の家ぬくい犬の受胎
愛する時獣皮のような苔の埴輪
悪地もなやむなまこのごとき火の鉄片
暗い河から渦巻く蛇と軽い墓
烏賊の甲羅鉛のごと澄む女眼の岸
嬰児泣く雪中の鉄橋白く塗られ
屋上照らす電光の雪記者も睡り
音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
蛾がむしりあう駅の空椅子かたまる夜
海の空罐細り細りて疎(まば)らな葦
柿の木はみがかれすぎて山の国
乾ききる鳩舎寝顔の燃ゆるころ
巻舌よりパン光りおつ医大の傍(そば)
機関車の底まで月明か 馬盥
帰り花鶴折るうちに折り殺す
記者の朝ちぎれ靴噴く一刷(はけ)の血
記者ら突込む鉄傘朝の林檎満ち
空地で刺さる媚薬壜掘る墓掘人夫
空鬱々さくらは白く走るかな
広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み
硬く黒い島へわめく群集核(たね)を吐き
子の鼻血プールに交じり水となる
少女の足が研ぐ鯨のような繊維街
赤茶けたハムへ叫ぶ老人が寒い極点
葬の渦とはぐれた神父死鼠の発光
多毛の廃兵遠くで激しくつまづく驢馬
苔くさい雨に唇泳ぐ挽肉器
大雷雨鬱王と合ふあさの夢
朝発つ牝牛に異音流れる霰の丘
鉄階にいる蜘蛛智恵をかがやかす
独裁のけむりまきつく腰帯の発端黴び
破船に植えた血胤のいちぢく継ぐ
俳句思へば泪わき出づ朝の李花
白い唾で濯ぐ石斧の養老院
白い体操の折目正しく弱るキリン
白い牝牛の數藁を擦る薄明の門
薄皮の蝸牛白い営みを濯ぐ老婆
髪の毛ほどのスリ消え赤い蛭(ひる)かたまる
番人へ菌絶える溝のなかからの声
麻薬街の内部撫で了る鼠の孤児
未知の発音尖る陸橋の白い茸(たけ)
密漁地区抜け出た船長に鏡の広間
眠れぬ馬に釘打つ老いた霧の密室
名なき背に混みあう空家の青い石
夜は溜る鳩声惨劇するする刷られ
油でくびれた石白く笑いだす鉄道員
揺れる象のような海聾女の新聞ちぢむ
煉瓦の肉厚き月明疲れる記者
埃から埠頭吸い馬の眼馬の眼を怒る
煌々と渇き渚・渚をずりゆく艾(もぐさ)
膠(にかわ)のごとく雪呑み乾く髪の老人
鴉の咳ごとに嬰児の首洗う
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昨日付けで書いた「飴山実」もそうだが、京都大学出身の俳人は多い。
「京大俳句会」という会があって、戦前から俳句界革新のために活動してきたが、第二次大戦中の昭和十年代には「自由」とか「革新」ということが徹底的に弾圧されて、多くの俳人たちが獄に繋がれた。今日の赤尾兜子は、そういう戦前からの「俳句革新」の運動を戦後になって継承したと言えるだろう。現役で作品を発表している俳人で言えば「伊丹三樹彦」なんかはその系統に属するとも言える。
戦後になって「前衛俳句」として華々しく開花した運動にも、戦前からの、そういう伝統というか、「伏線」があるのである。
京都大学というのは、官僚養成を主目的として発足した東京大学とは違って、また対抗意識を抱いたものとして、時たま、こういう自由な運動が発生するのであった。
「京都」という土地が、そういう「自由」な雰囲気を湛えているとも言える。
京都は千年の間、「みやこ」のあった王城の地であったが、明治になって日本の首都が東京に移って、一時は寂れかけたが、西欧文明の取り込みにも先端を切り、文明開化に先んじた、自由なプライドを「京都人」は持っている。
そんなこんなの諸々が京都には底づいているのである。



花の芯すでに苺のかたちなす・・・・・・・・・・・・・・・・飴山実
e88bbae381aee88ab111苺の花

   花の芯すでに苺のかたちなす・・・・・・・・・・・・・・・・飴山実

今日3月16日は俳人・飴山実の忌日である。

飴山実は俳人としても有名な人であるが、科学者としても高名な人である。
「日本農芸化学会功績賞」というのがあり、昭和63年 1988年 、 山口大学農学部教授のときに「 酢酸菌の生化学的研究 」という論文で、この賞を得ている。
昭和元年、石川県小松市生まれ。旧制四高の勤労動員中に芭蕉や蕪村の七部集を読んで作句。
家業が醤油醸造業だったので、昭和22年京都大学農学部に入学し、発酵醸造学を専攻した。
昭和25年卒業して、大阪府立大学農学部助手に就職。その後、静岡大学、山口大学教授を歴任し、応用微生物学研究の礎を築く。
先に書いたような学会の最高賞を得た。酢の研究では世界的権威。

俳句では、金沢大学教授で、かつ俳人の沢木欣一が戦後創刊した「風」に参加。
自らも「楕円律」を創刊し、戦後の俳壇で活躍したが、のち無所属となり、結社も持たず公平な俳句評論に定評があった。
安東次男の人と書に親しむ。
平成12年(2000年)3月16日、東京での選句会を翌日に控え、腎不全のために急逝した。
句集に『おりいぶ』『少長集』『辛酉小雪』『次の花』など。
現代俳壇の中堅として活躍する長谷川櫂も一時彼に師事した。

以下、彼の句を引いて終る。

 てのひらに葭切の卵のせてきぬ

 熱のからだはどこも脈うつ青林檎

 花林檎貧しき旅の教師たち

 授乳後の胸拭きてをり麦青し

img5efff1b0zikdzj飴山実色紙

 うつくしきあぎととあへり能登時雨

 柚子風呂に妻をりて音小止みなし

 春浅き海へおとすや風呂の水

 蚊を打つ我鬼忌の厠ひびきけり

 土堤刈つてより二日目の曼珠沙華

 奥能登や打てばとびちる新大豆

 手にのせて火だねのごとし一位の実

 比良ばかり雪をのせたり初諸子(もろこ)

 鮒二つ日たけて釣れし丈草忌

 花杏汽車を山から吐きにけり

 法隆寺白雨やみたる雫かな

 あをあをとこの世の雨のははきぐさ

 茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす

 田雲雀の十(とを)も来てゐる夕日かな

 年酒して獅子身中の虫酔はす

 この峡の水を醸して桃の花

 酒唎(き)いてやや目のほてる初桜

 光琳忌きららかに紙魚(しみ)走りけり

 大雨のあと浜木綿に次の花

 花筏やぶつて鳰の顔のぞく

 山ふたつむかふから熊の肉とどく

 青竹に空ゆすらるる大暑かな

 かなかなのどこかで地獄草紙かな



深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり・・・・・・・・・・・・・・・堀口大学
  2-5堀口大学

  深海魚光に遠く住むものは
    つひにまなこも失ふとあり・・・・・・・・・・・・・・・堀口大学


今日3月15日は詩人・堀口大学の忌日である。
先ず、彼のことをネット上から引いておく。
掲出歌に関しては、この引用記事の終りの方に書いてある。

堀口大學
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

堀口 大學(ほりぐち だいがく、1892年(明治25年)1月8日 ~ 1981年(昭和56年)3月15日)は、日本の詩人、フランス文学者。

略歴
1892年、東大生堀口九萬一(のち外交官となる)の長男として、東京・本郷に生まれる。大學という名前は、出生当時に父が大学生だったことと、出生地が東大の近所であることに由来する。幼児期から少年期にかけては、新潟県長岡で過ごす。旧制長岡中学校を卒業し、上京。

17歳のとき、吉井勇の短歌『夏のおもひで』に感動して新詩社に入門。歌人として出発する。

1910年、慶應義塾大学文学部予科に入学。この頃から、『スバル』『三田文学』などに詩歌の発表を始める。

19歳の夏に、父の任地メキシコに赴くため、慶大を中退。メキシコでフランス語を学んでいた時、メキシコ革命に遭遇。メキシコ大統領フランシスコ・マデロの姪と恋愛を経験。

この頃、肺結核を患う。以後も父の任地に従い、ベルギー、スペイン、スイス、ブラジル、ルーマニアと、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。

1919年、処女詩集『月光とピエロ』、処女歌集『パンの笛』を刊行。以後も多数の出版を手がける。その仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、生涯に刊行された著訳書は、300点を超える。彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与えた。三島由紀夫もまた、堀口の訳文から大きな影響を受けた一人である。

1957年に芸術院会員となり、1979年に文化勲章を受章。1981年、歿。享年89。

娘の堀口すみれ子も詩人でエッセイスト。

1967年、歌会始で(お題は「魚」)、「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり」と詠んだ。
生物学者である昭和天皇はたいそう喜んだというが、一部には天皇に対する、本人を目の前にしての批判であると解する向きもまたある。

著訳書
月光とピエロ(1919年)
パンの笛(1919年)
訳書・夜ひらく(1924年)
訳詩集・月下の一群(1925年)
砂の枕(1926年)
人間の歌(1947年)
夕の虹(1957年)
月かげの虹(1971年)
沖に立つ虹(1974年)
ルパン傑作集(翻訳年はかなり以前で近年再版されている。)
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はじめに、昭和25年、住んでいた高田を去るときに彼が詠った詩が詩碑として残っている写真をかかげておく。

hori2大学詩碑

高田に残す(堀口大学詩碑)

ひかるゝおもひうしろがみ
のこるこヽろの なぞ無けん
すめば都と いふさへや
高田よさらばさきくあれ
おほりのはすよ 清う咲け
雪とこしへに白妙に

堀口大学は父親が外交官であったために、家族として同行して海外生活が長かった。
外国語に堪能であったので、西欧詩の翻訳家として出発した。
引用したところにも書いてあるように「ミラボー橋の下セーヌは流れる」というのが有名だが、近年、詩の翻訳としては、その適否について、とやかく言われている。

人間よ

知らうとするな、自分が、

幸か不幸だか、

問題は今そこにはない。

在、不在、

これが焦眉の間題だ、

灼きつくやうな緊念事。

生きて在る、死なずに在る、

感謝し給ヘ、今日も一日、

調和ある宇宙の一點、

生きものとして在つたこと。

神にでもよい、自然にでもよい、

君の信じ得るそのものに。

知らうとするな、

知るにはまだ時が早い、

人聞よ、

墜落途上の隕石よ。

(人間の歌・隕石)の詩より。(詩集『人間の歌』昭和22年宝文館刊)

この堀口大学の詩は、人の世の愁色感と一種の軽快さ漂わせ、多くの人の青春を流れていった。
先に逝った詩兄弟・佐藤春夫に胸の張れる詩が出来たといった、辞世の詩

「水に浮んだ月かげです つかの間うかぶ魚影です 言葉の網でおいすがる 万に一つのチャンスです」

というのが知られている。

昭和56年、堀口大学は永い詩人生の最期を、春一番の風雨が去ったこの日正午、急性肺炎により葉山の自宅で妻の手を握りながら静かに迎えた。
89歳という長寿であったが、今は鎌倉霊園に眠っている。写真③が、その墓碑。

horigutidaigaku大学墓碑

以下は、この記事を書いた人のコメントである。

<ミラボー橋の下をセエヌ河が流れ われ等の戀が流れる わたしは思い出す 悩みのあとに楽みが来ると>アポリネール・ミラボー橋のこのあとにつづく、<日が暮れて鐘が鳴る 月日は流れわたしは残る>の一節は今になっても私の耳元に小波をうって渡ってくる。この高台の芝垣で囲まれた墓碑のある塋域には、広い谷から吹き上がってきた梅雨の風が抜けきれず、どことなく空しさを携えて残っていた。
またァと苦笑いして横を向く むかしはあんなに怒ったのに・・・・・・・・・・・・・藤原光顕
芸術と自由0001

──藤原光顕の歌──(5)

       またァと苦笑いして横を向く 
           むかしはあんなに怒ったのに・・・・・・・・・・・・・藤原光顕

                 ・・・・・・・「芸術と自由」誌281号2012/03/10所載・・・・・・・・・

           またァ・・・・・・・・・・・・・藤原光顕

  また一年かという思いどこかにあって 元日の廊下に南瓜がある

  陰ると冷える 折り たたみ 巻き戻し なんとか時間に乗る

  ハルシオン飲み忘れて眠ってしまったこと思い出せる朝だ

  夜の間の雪を言ってさっさと起きてしまう そこから出遅れる

  またァと苦笑いして横を向く むかしはあんなに怒ったのに

  カタカナの花など咲かせそう言えば海外旅行を言わなくなった

  嵌め絵パズルの西洋の町の陽が映える パスポート切れて六年になる

  封を切るたびに律儀に箱の文字を読んでから吸う煙草旨いなァ

  さてと立ち上がってみたが立ち眩み収まる頃には萎えている さて

  さしあたり要るもの素早く取り出して閉めて冷蔵庫 3回開く
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おなじみの藤原氏の日常を詠った歌である。
手馴れた「自由律」の歌である。 老いの境地を、さりげなく詠んでいる。
この回の雑誌には、岡山県在住の「神信子」さんの訃報が載っている。1月31日のことらしい。ご冥福を祈ります。
 
花冷や箪笥の底の男帯・・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女
  本山可久子

   花冷や箪笥の底の男帯・・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

今日3月14日は俳人・鈴木真砂女の忌日である。
彼女の長女で新劇俳優である本山可久子の本 『今生のいまが倖せ・・・・・・母、鈴木真砂女』(2005年講談社刊)というのをネット書店で買った。

unami12卯波
写真②は銀座にあった彼女の小料理屋「卯波」である。
彼女の孫・宗男(可久子の長男)が経営していた。

unami14.jpg
写真③が「卯波」の厨房の様子で、左側に居るのが宗男らしい。
この店も再開発とかで2008/01に立ち退いた。寂しい限りである。元の店の写真など載せておく。

(追記)
俳句界に詳しいところからの情報によると

<卯波、再開です!(嬉)
以前の店のとなりのビルの地下になるけど、住所は前とおんなじ。オープンは、二月を予定しているらしい。
一家離散していた家族が、またおうちができて集まるような、そんな心境です。
いやー、本当にいいニュースやった 。>

という記事が載っていた。
その後の報道によると、2010年に「新・卯波」が開店したらしい。アクセスして見てもらいたい。

彼女の経歴については、可久子の「本」をはじめWeb上でも詳しく載っているので読んでもらいたいが、ここで簡単に載せておこう。

鈴木真砂女は明治39年11月24日に千葉県鴨川市の老舗旅館・吉田屋に生れる。
夫の出奔や再婚、自身の愛の出奔など波乱に富んだ人生を送ったあと、昭和32年銀座の路地奥に小料理屋「卯波」を開く。
句作は昭和10年からはじめたという。
その間、久保田万太郎に師事するなど文学者に愛され、石田波郷の定席が決まっていたなどの話がある。
写真④が「卯波」のくれたマッチに刷られた真砂女の句である。
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昭和38年久保田万太郎の急逝のあとは「春燈」の後継者・安住敦に師事。
句集は七冊出しているが、第四句集『夕蛍』で俳人協会賞を受賞。
第六句集『都鳥』で読売文学賞を受賞。
第七句集『紫木蓮』で蛇笏賞を受賞する。
平成15年3月14日死去。享年96歳。

可久子の本には瀬戸内寂聴が帯文を書いているが、彼女自身も愛の遍歴で家庭を捨てた人であるから、面白い。
この本は、真砂女の生涯を簡潔に、かつ娘として知る「本当の」話を描いていて情趣ふかい。

写真⑤は静岡県にある冨士霊園の彼女の墓。
suzukimasajyo墓
以下はWeb上に載る或る人の記事である。借用にお礼を申したい。
引かれている句も味わいがある。
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 羅(うすもの)や細腰にして不逞なり (卯浪)

 罪障のふかき寒紅濃かりけり (生簀籠)

 あはれ野火の草あるかぎり狂ひけり (夏帯)

 柚味噌練つて忽然と来る死なるべし (居待月)

 恋を得て蛍は草に沈みけり (都鳥)

 戒名は真砂女でよろし紫木蓮

 恋のこと語りつくして明易き (紫木蓮)

丙午うまれとはいえ恋の女は気性も激しい。2度結婚して2度離婚。51歳で不倫の恋を貫くため、鴨川の実家、「吉田屋旅館」の女将の座を捨て、女手一つで銀座に小料理屋「卯波」を開店するなどという離れ業をやってのける。以後の40年、「卯波」は立ち位置となり、句は「卯波」となった。「老いてますます華やいだ」生涯現役の俳人、腰痛のため療養生活を強いられてなお4年余り、96歳の春、強靱な生命力を持ち続けたさすがの真砂女も平成15年3月14日夕刻、東京・江戸川区の老人保健施設で老衰のため逝く。

 あるときは船より高き卯浪かな

紡ぎ綿を敷きつめたような空、梅雨の中休みにしてもとにかく暑い。何回目かの訪問で慣れているとはいえ、幹線道路のような広く長い坂道をのぼりきると汗がどっと噴き出てくる。眼下に大パノラマを展開する霊園の背後から、遙か前方の山稜に霞ゆく高圧鉄塔のつながりを何となく眺めながら、ふと、そういえばいつもはあのあたりには確信に満ちた冨士の顔が見えていたはずだがと、ぼんやり思い出していた。ゆるゆると深呼吸した足許に、湿気を含んで黒ずんだ火山灰土に据え置かれた碑

 芽木の空浮雲一つゆるしけり

亡くなる20年前、喜寿の年に建立した真砂女の墓。句碑ともいえる矩形の石塊に閉じこめられたのは、美しい思い出ばかりであろうはずもない。
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他人の引用ばかりでは芸がないので、私の選んだ句を少し引く。重複するのは除く。

 人のそしり知つての春の愁ひかな

 女三界に家なき雪のつもりけり

 男憎しされども恋し柳散る

 夏帯や運切りひらき切りひらき

 暖炉燃ゆわれにかへらぬものいくつ

 人もわれもその夜さびしきビールかな

 掌にぬくめやがて捨てたる木の実かな

 裏切るか裏切らるるか鵙高音

 亀鳴くや夢に通へと枕打ち

 風鈴や目覚めてけふのくらしあり

 ふぶく音を海鳴りとききねむらんか

 かくれ喪にあやめは花を落しけり

 老いまじや夏足袋指に食い込ませ

 限りあるいのちよわれよ降る雪よ

 住みつけば路地こそしたし夜の秋

 とほのくは愛のみならず夕蛍

 鴨引くや人生うしろふりむくな

 忌七たび七たび踏みぬ桜蘂

 水もさびし空もさびしと通し鴨

 隠しごと親子にもあり桜餅

 死なうかと囁かれしは蛍の夜

 怖いもの知らずに生きて冷汁

 今生のいまが倖せ衣被

 生国も育ちも上総冬鴉

 ふるさとは遂に他国か波の華

 かのことは夢まぼろしか秋の蝶

 捨てきれぬものにふるさと曼珠沙華

 人を泣かせ己も泣いて曼珠沙華

 如月や身を切る風に身を切らせ

 ふるさとの冬の渚が夢に出て

 白南風や漕ぎ馴れてきし車椅子
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「鈴木真砂女ミュージアム」というのが開設されているので、ご覧いただきたい。彼女の写真もある。

彼女の眠る冨士霊園には、彼女と親しかった中村苑子、秋元不死男、三谷昭、高柳重信などの俳人が葬られているという。
本山可久子の関係では杉村春子などの墓も建っているという。



谷口謙詩集『大江山』から・・・・・・・・・・木村草弥
谷口謙

──新・読書ノート──

     谷口謙詩集『大江山』から・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・土曜美術社出版販売2011/09/01刊・・・・・・・・・

         大 江 山   

     幼時のとき
     服装は着物に白いエプロンのような
     前垂れを付けていた
     屋外の道路
     立って南方を眺めると
     いつもはるか 大江山がそびえていた
     いや 晴天の日だけだったかもしれない
     うっすら頭を出していた
     ぼくは急いで帰り
     お母ちゃん 大江山が見えとるで
     幼いぼくの丹後弁
     某日
     めったにないことだが
     タクシーが走って来た
     ぼくが家に帰ろうとしたその時
     車は急停車をした
     ぼくの家の玄関に三人の男が入り
     どなりつけた
     おまえとこの子供 危ないだないか!
     ちょっとのことでひかなんだが
     阿呆
     よう気をつけい
     ぼくは母の背なかに隠れた
     お母ちゃん
     の声も出なかった
     母は落ちついていて一言も発言しなかった
     ぼくを叱りもしなかった
     ただ にこにこ笑っていた
     拍子ぬけしたのだろう
     男たちは口々に罵言を残し去って行った
     あの時
     とは考えないことにしている
     母は無上の味方だった
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この詩集の「あとがき」で<満八十六歳の誕生日の日に、思い切って詩集を出すことにしました。・・・・・・・>とある。
開業医であり、長らく事故死した人の死因を検証する「監察医」の仕事をされてきた。それに因む作品も多い。
また「与謝蕪村」の研究者としても数冊の著書がある。
平成八年頃からは毎年のように詩集を出されて総計20冊を越える。

         続 大 江 山

     大宮第一小学校に通ずる大きな陸橋
     ときおり生徒の体格検査に通う
     Y町長のとき
     四小学校を合併して発足の計画
     反対 賛成
     いろいろないきさつのあと
     学校は新築された
     何回か通り過ぎた陸橋
     つい最近見つけた
     学校への向って右 南方
     とがった山とへこんだ台地
     子供の頃 見つけた山と
     それは僅か離れた山塊だった
     だが少しかすんだ色調は
     幼時の記憶と全く変りなかった
     いまぼくは母の没年に近く
     山は同じ色あいで立っている
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この詩集には「母」がしきりに出てくる。
「父」も出てくるが、放蕩をして外に女の人を囲ったりしたらしい。そんなことで「母」との暮らしが長かったのだろう。
だから、しきりに「母」を詠んでいる。

         雪 の な か

     今年の大雪
     年齢のせいだから仕方はないが
     僅かながら雪かきをした
     庇の折れる屋根の雪おろし
     こんなことは出来はしない
     遠い昔 幼時の頃
     雪の量はすさまじかった
     細長い四畳の居間
     庇まで雪は重なっていた
     母と二人 雪を眺めていた
     でも母は気を取り直し
     木の棍棒に頭のついた
     全長約三○センチ位
     名前は何と呼ぶのか知らない
     その棒に父の靴下をさしこみ
     頭の部分で針を使い穴の修理をした
     たしか炬燵が横にあったと思うが
     二人とも足を入れていたかどうか
     定かな記憶がない
     雪がよく降るな
     こんな時 火事を起したらどうするのだろう
     母が呟いていた
     ぼくは立ち上って母の背をゆさぶる
     母は
     これこれ
     叱りながに自分の仕事を続けていた
     
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この詩集には全部で21篇の作品が載っている。
いま手元にある詩誌「詩と思想」2012年三月号の現代詩人論に、中原道夫が書いている。

  死とともに生きてきた詩人──谷口謙詩集『大江山』にちなんで・・・・・・・・中原道夫
「医は仁なり」という言葉を聞かなくなって幾久しいが、谷口謙は内にその「仁」を秘めた医師である。
満八十六歳を記念して上梓した詩集『大江山』は谷口にとって十八冊目の詩集となるが、その中にこんな作品がある。

    悲しみを文字にして
    悲しみを和らげることが出来るなら
    雨の窓の前に座り
    いくらでも詩の形を作っていこう
    詩を書くこと
    たしかに卑屈なやすらぎがある
    腕力では 胆力では敵わぬから
    せめて
    詩を書こう

彼の家は、父親の海山も医師。その祖父は峰山藩の儒医ということで、代々医療に生きてきた家系である。
ぼくは十年ほど前、彼の居住地の近くの「天の橋立」の旧い木造建ての旅籠の一室で、わざわざ訪ねてきてくれた谷口と初めて出会ったが、その時、彼はぼくにこんなことを言った。
「二十二歳のとき、桑原武夫の『第二芸術 現代俳句について』を読んで大きな感動を受けました。それ以来、それまで書いていた短歌を捨て、創作、エッセイ、詩にのめりこんだのですが、いま考えてみますと、そのためにかえって遠回りになったみたいで・・・・・」
・・・・・・1960年以降、郷土に係わりのある与謝蕪村の研究に彼を没頭させ、『丹後の蕪村』『蕪村の丹後時代』『与謝蕪村覚書』『蕪村雑稿』『与謝蕪村ノート』『蕪村への道』などのすぐれた著書を上梓するきっかけとなっている。
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まだまだ長いものだが、ここにも書かれている監察医としての経験からの「検視詩集」は八冊を数えるが、今回の『大江山』にも見ることが出来る。

       心 臓 血

     正月直前の夜
     火炎に巻き込まれた
     二歳の女児焼死体を診る
     子犬位の大きさ
     曲げて二本の腕をつき出している
     ボクサー体位
     教科書通り
     半鶏卵大の球体を胸部に露出している
     心臓でしょう
     穿刺をお願いします
     二・五CCの心臓血採取
     これでよろしい
     正月ですが特別契約がしてあります
     府立医大に送ります
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身辺の風景や現象やらを題材にした平易ながら心象に迫まる佳い詩である。
巻末に載る詩を引いて終りにする。

        葉 桜

     雨に濡れて
     葉桜を見に行こうか
     老いらくの春
     とは言うまい
     美しさの名残りがあると
     青い葉たち
     きびしいか
     恐ろしいか
     冷たいか
     そんなものではあるまい
     細い水滴を浴びて              



水取りや氷の僧の沓の音・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉
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    水取りや氷の僧の沓(くつ)の音・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

この句には「二月堂に籠りて」の前書きがある。
奈良東大寺二月堂では、3月1日から14日まで修二会(しゅにえ)の行法が行われる。
2月21日から練行衆と言われる僧は精進潔斎をおこない、3月1日の夜から堂に参籠し、授戒、籠松明、お水取りなどの諸行を修し、達陀(だったん)の法で行が終り、15日の東大寺涅槃講を迎える。
二月堂の開祖・実忠和尚が始めたと言われる。修二会とは、2月に修するという意味で、旧暦の2月1日から14日間にわたって行われたもので、今の暦では、上に書いたように3月に行われる。「お水取り」は、そのうちの一つで、3月13日の午前2時頃から行われる。
二月堂で一年間仏事に用いる聖水を、堂の近くの閼伽井(あかい)で汲み、本堂に運んで五個の壺に納め、須弥壇の下に置くもので、この「あかい」の水は若狭国から地下でつながっていると伝えられる。この水で牛王(ごおう)の霊符を作り参詣の人々に分けるのである。

以上がお水取りの行法だが、これを拝観に人々が集まるのは、雅楽の響きの中、法螺貝を吹き鳴らし、杉の枯葉を篝火に焚き、僧が大松明を振りかざして回廊を駆け昇るのだが、クライマックスとなるのは3月12日午後8時頃に籠松明12本を次々に連ねて廻廊から揺りこぼす(関係者は「尻松明」と称するらしい)という壮観な行事である。
この大松明の振りこぼした「燃え残り」を拾って、家に持ち帰ると、ご利益があるというので、人々は競って拾うのである。写真は、その時の大松明の燃えさかる様子だが、どうして、お堂に火が移らないか、と不思議である。

関西では「水取りや瀬々のぬるみも此日より」の句にある通り、お水取りが終わらないと暖かくならないと言われ、事実、季節の推移は、そのようになるから不思議である。こういう感覚は、関東や西国の人には理解できないことかも知れない。

2010/03/04に撮影された動画 をリンクに貼っておくので、ご覧ください。



掲出した芭蕉の句だが、しんしんと冷える深夜、凍てついた氷さながらの僧の、森厳な修法の姿を端的に示す氷ついた沓音が響く。「氷」は「僧」にも「沓音」にもかかると見るべきだろう。
貞享元年から二年にかけての記念すべき関西への旅の体験である。出典は『野ざらし紀行』。
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修二会を詠った句を挙げて結びにする。

  廻廊の高さ修二会の火を降らし・・・・・・・・・岩根冬青

  修二会の赤き雪かな火の粉かな・・・・・・・・吉川陽子

  籠りの僧煙のごとしや走り行・・・・・・・・堀喬人

  女身われ修二会の火の粉いただくや・・・・・・・・斎藤芳枝

  修二会の奈良に夜来る水のごと・・・・・・・・角川源義

  修二会僧女人のわれの前通る・・・・・・・・橋本多佳子

  巨き闇降りて修二会にわれ沈む・・・・・・・・藤田湘子

  走る走る修二会わが恋ふ御僧も・・・・・・・・大石悦子

  法螺貝のあるときむせぶ修二会かな・・・・・・・・黒田杏子

  修二会果つ大楠の根を雨洗ひ・・・・・・・・針呆介

  雨音も修二会も鹿の寝(い)の中に・・・・・・・・志摩知子

  倶に寡婦修二会の火の粉喜々と浴び・・・・・・・・我妻草豊

  参籠の修二会に食ぶ茶粥かな・・・・・・・・大橋敦子

  ささささと火を掃く箒お水取り・・・・・・・・山田弘子

  火と走る僧も火となるお水取り・・・・・・・・銀林晴生

  お水取り青衣女人のまかり出る・・・・・・・・磯野充伯

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友人の井芹能一氏から提供頂いた、平成16年2月26日に行われた修二会のための「社参」という行事の写真があったのだが、ブログ移転の際に紛失してしまった。。
写真は、先頭から和上、大導師、咒師、堂司とつづく行列であった。
場所は戒壇院前。「社参」は神仏習合そのもので、修二会が無事に遂行できるように、二月堂の守護神社を中心に八幡殿、天皇陵、開山堂を参詣するものという。
おわび申し上げる代りとして 「お水取り その1」というサイトをリンクに貼っておくので、ご覧ください。行事が写真入りで詳しく書かれており、文中から「その2」へと繋がって行く。
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(追記)3月15日に井芹氏からメールが届いて14日間の修二会の行が終わったことが書いてあった。
以下、井芹氏のメールを引用して紹介したい。

<行としては18日観音講の日を最後とするのですが、14日間の修二会が今朝方終わりました。 眠いというよりも、ある種の幸を感じる朝でもありました。 誰が名づけたか「名残の晨朝」、ここで聞く行中最後の観音経は「蛍の光」の曲と同じ感じ。大の大人が観音との別れを惜しみ唄ってもこうなるのでしょうか。名残の晨朝の時導師は総衆が勤めることに決っているそうですが、今年は名代の時導師で胸に迫りました。 東大寺では野ざらし紀行の「氷」と違って、「籠り」を採っているようです。これも東大寺の独自性を表わそうとしたものでしょうか。 二月堂と法華堂との間に行場の滝があり、その前に芭蕉の句碑が建っています。曰く「水取りや籠りの僧の沓の音」。 額に牛玉印を押し、達成した満足感を顔一杯に表わし、牛玉杖を抱え、満行下堂してくる練行衆を迎え、ああ!今年も終わったなと帰路についたのが、明け方の4時半。まさに堂内の和上が「よあけんたりや」と問うのに対して、堂童子が「暗し」と応えるのと同じ時刻です。>
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(以下は2004/03/12Doblog記事の再掲である。ご了承を。)
  
  東大寺修二会1253回お水取り
     ──参籠役のこと──井芹能一氏による──


東大寺修二会の行事について、井芹氏から資料を頂いた。井芹氏は京都府立山城郷土資料館の解説ボランティアを務める人だが、この近年、東大寺に日参し、もろもろの行事に精通しておられる。
井芹氏から頂いた資料により、平成十六年度の「東大寺修二会1253回お水取り」のことを、少し書いてみたい。

平成十六年修二会参籠役

 和上──森本公誠/清涼院・上院院長・東大寺学園理事長──参籠27回

和上は練行衆に戒を授ける。かつては四職の中で堂衆が勤めることが出来る唯一の役であった。

 大導師──上野道善/真言院・華厳宗宗務長・東大寺執事長──参籠29回

導師は修二会の最高責任者として法会を統括する。かつては学侶の所役であった。

 咒師──筒井寛昭/龍松院・大仏殿院主・福祉事業団理事長──参籠25回

咒師は呪禁師であり、結界勧請などの密教的修法を司り、神道的な作法も行う。かつては学侶の所役であった。

 堂司──平岡昇修/上之坊・勧学院院長──参籠19回

堂司は法会進行上の監督責任者。かつては学侶の所役であった。

以上が「四職」(ししき)という。
他に「北座衆之一」「南座衆之一」などの7役が居るが省略する。
これらの役割は、昨年12月16日に「良弁忌」の日に東大寺の名のもとに、二月堂に告知されたものという。

この資料を拝見していると、なかなか面白い。と申し上げては失礼かも知れないが、伝統的な行事というものは、なかなか大変な仕来りを経なければならないと思うのである。
例えば、「堂童子」という役割は、礼堂外陣閼伽井(あかい)屋などを掌握し、練行衆の勤行に付随する外縁作法を担当する、とある。
「駈士」とは湯屋を掌握し、雑法務にたずさわる。
「大炊」とは炊飯役であり、「院士」とは調菜役、「庄駈士」とは湯の番、のことという。
精進潔斎のご苦労も知らず、面白がっているのも、お許しいただきたい。
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3月18日付で新資料を頂いたので、参籠までの行事次第を以下に書き記す。

★2月末日の次第
2/29(28)
15:00 「追い出しの茶」を頂き、別火坊を出立。参籠宿所に向かう。
15:30 参籠「宿所入り」。「娑婆古練」と称し、東大寺の管長や修二会の四職を務めたことのある長老や、参籠経験のある僧の出迎えを受ける。
15:40 「内陣改め」。堂司が堂童子を伴い内陣の荘厳の具合を検分する。この後、内陣と外陣を分ける「戸帳」を設置。
16:40 「お湯布令」。「お湯屋にござれ」の掛け声で練行衆が湯屋に向かうが、新入りの参籠衆がいる時には別の作法あり。
18:00 「大中臣の祓」。咒師の意向を受けて、小綱の「お祓いにござろう!お祓いにござろう!」の掛け声で参籠衆を集め、咒師が登廊の下にある細殿の前で無言で行う「結界」作り。通称「天狗寄せ」。天狗も「何をしているのか」と興味を持って寄って来る、ということか。
3/1
00:45 「おめざ!」の掛け声で「お目覚」。
01:00 「受戒」。「小綱の房!小綱の房!大膳殿の出仕なら鐘をつきやれ!鐘をつきやれ!」の掛け声で食堂に参集。和上が自戒の後、参籠衆に沙弥の十戒の内、蓄金銀宝を除いた九カ条の戒を授けるが、その時、和上が「~を保つや否や」と問えば、参籠衆「よく保つ、よく保つ、よくたもーつ!」と応える。食堂内では、その他に七条袈裟の「袈裟給り(ケサタバリ)」が行われるようだ。
手松明に導かれ「開白上堂」。このとき練行衆が喜び勇んで、十一面観音に上堂を知らせる沓の音は、はじめて履いた沓を確かめるようでもある。
02:00 「一徳火」。真の闇の中で堂童子が火打石を打つ。代々この童子の名前が「一徳」であったために「一徳火」と言っているようで、後年には一発で火を得る童子を讃え、「一徳法師」の称号もあるらしい。ここで得た火を「常灯」に移し、行中および今後1年間の「火」とする。
この後、日中の行法に入り、修二会6時の行法が始まる。

★松明について
修二会では14種類の松明が使われるが、特に知られている松明は「上堂松明」「達陀松明」「蓮松明」かと思われる。
*「上堂松明」は練行衆が初夜上堂する時に先導する松明で、3月12日以外は10本で、3月12日の上堂のみ、一段と大きい11本の「籠松明」が上がる。通常上がる10本の松明の中でも、最後の日となる3月14日の松明は10本が間を置かずに上がるため「尻つけ松明」と言われている。
*「達陀松明」3月12・13・14日の「後夜」の途中、正確には13・14・15日の午前0時か午前3時に内陣で主役となる火天・水天をはじめ八天を勧請して行われる行法。火天が周りで吹かれる「ほら貝」に囃し立てられるがごとく、水天を相手に堂内を飛び跳ね、飛び回り、大人の火遊びにしても大き過ぎる松明を振り回す。通常の大きさではない。事実、寛文7年2月13日この火が原因と思われる火事により、天平勝宝4年以来のご本尊、経文、建物を消失している。それでも「行」を続けたとかで、凄いというかアホというか、「不退の行法」と言われる由来である。
*「蓮松明」は3月12日の「後夜」で「行」を中断して行われる「お水取り」に使われるもので、レンコンの一節に似ているところから、この名が出ているようだ。「お水取り」の最中には外陣の例時の間で雅楽の演奏が行われる。「お水取り」には咒師以下6人の練行衆が携わり、礼堂では行の途中のため五体板の上に片膝をついたままの総衆と、咒師を除く三役と「南座乃衆一」が待機している。
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以上が井芹氏から追加で頂いた資料であるが、古来からの仕来りで行われる「行」も大変である。
井芹氏から、折角貴重な資料をお送り頂いたので、その万分の一かの御礼に代えて、ここに記しておく。
私が書いた本文との異同の個所があれば、正しくは井芹氏の資料に拠られたい。
ジャン-ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

  ジャン-ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・・岩波書店2011年刊・・・・・・・・・

福島原発爆発の関連で、この本のことを知った。
この本については松岡正剛「千夜千冊・番外録」が詳しいので、先ず、これを参照されたい。
また、この松岡正剛の文章を引用するのは著作権を侵すことになるので「リンク」に留める次第である。
本の題名の通り、この本は「哲学」思考の領域に及ぶものなので簡単には言えないので、よろしく。

堀江邦夫『原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録 』・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   堀江邦夫『原発ジプシー 増補改訂版―被曝下請け労働者の記録 』・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・現代書館2011/05/25刊・・・・・・・・・・

この本についてアマゾンに載る書評を少し引いておく。

32年前の3月11日?, 2011/5/27
By おかちゃん - レビューをすべて見るレビュー対象商品: 原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録 (単行本)
震災直後の「福島第一原子力発電所」の事故を受けて、久しぶりに『原発ジプシー』(講談社文庫、1984年発行)を本棚から取り出しました。
文庫本を最初に読んだのは今から17年ほど前ですが、原発労働者の実態が赤裸々に記されていたので、
正直驚きました。

震災後しばらくしてから、その『原発ジプシー』が復刊されると知り、「この本がようやく日の目を見る」とうれしくなりました。
さっそくアマゾンで予約していたところ、昨日到着しました。

復刊された書籍の一番最後に書かれていたコメントを以下に掲載します。
~ささやかな「付録」その二。このたびの東北地方太平洋沖地震が発生したその同じ月日、
すなわち32年前(1979年前)の3月11日、私はどこにいて・どんな体験をしていたでしょうか。~

実際に、3月11日(日)のページを探してめくってみると、“衝撃の事実”が分かり鳥肌が立ちました。
「編集したのでは?」と思い、持っていた文庫の方を見てみましたが、“全く同じ記載”がありました。
実際に(希少と思われる)文庫本を持っている私がいうのですから、3月11日の記載は絶対に編集ではありません。

「少しでも多くの方にこの本の存在を知ってほしい」との思いで、初めてレビューを書かせて頂きました。
5つ星でも足りません。星を10個つけたい良書です。
著者の堀江氏が健在であることも分かり、うれしく思いました。
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他人の健康や命を犠牲にしてまで電気がほしいですか, 2011/5/31
By ワッフル -
レビュー対象商品: 原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録 (単行本)
ついに復刊されました。著者が元気でいるのを知って安心しました。この本の後に目立った著作がなく、被曝の影響で病気になったのではないかと心配していました。

以下、旧版に書いたレビューを引用します。本文は旧版と同じです。

学部の学生の頃は原子力の未来に期待していました。この本は私が原子力発電に反対する立場を確信した一冊です。もちろん、人間は一夜にして考えを右から左へと変えるわけではありません。

大学院に進んで実験用の原子炉ですが管理区域に入って放射性物質を扱うことを体験しました。作業担当の人が意外と危険性を教育されていいないと知ったとき疑問を持ち始めました。その後この本を読み、その疑問が更に強くなり、原子力発電に反対する立場を確信しました。

著者の堀江邦夫さんが原発労働者として各地の発電所で働いた記録です。ページ数は多いのですが、文章も読みやすく描写も巧みで一気に読ませます。労働者に取材して書いた本もありますが、実際に現場に入らなければ書けない、自分の目で見た印象、自分の耳で聞いた仲間の声です。又聞きではない直接の体験に価値があります。

読み返してみて気付いたのですが、著者はシモーヌ・ヴェイユを引用しています。『工場日記』です。裕福な家に生まれ、優秀な成績で師範学校を卒業して教師となりましたが、労働運動に共鳴して弱かった体を押して工場労働者として働き、寿命を縮めることになりました。著者がこの本を書いた動機の一部は彼女の日記だったのかもしれません。

私が原子力発電に反対する一番大きな理由は、第一線で作業する人たちの健康です。下請け、孫請け、ひ孫受け。著者はひ孫請けの会社で働いていました。法律で決まっている安全教育も名ばかり。マスクの正しいつけ方さえ教えません。体内被曝で一番恐ろしいのは吸引です。口から入ったものの多くは下から出ますが、肺に入ったものは出ません。現場は暑くマスクは呼吸が苦しく言葉で指示も出来ません。結果として外して作業する人が多くいたそうです。また、電力会社の社員は危険な現場にはほとんど立ち入りません。労働組合が、作業衣の洗濯は被曝量が多くて危険な作業だから外注してほしいという要求を出したそうです。

現代の人間は共食いをしませんが、他人の健康を犠牲にして自分の便益を得るなら共食いと同じです。

この増補改訂版では、文庫のあとがきと、改訂版のあとがき、さらに追記が加わっています。個人的には事実を積み重ねて行く本文だけで十分著者の言いたいことは伝わっていると思います。ですが、ジプシーというタイトルは説明しないといけないのかもしれません。

この本を読めば誰も原子力発電に賛成とは言わないと思います。原子力は人間の命を電気に変える発電です。一人でも多くの人に読んでほしいと思います。

[追記]
この本と似た内容の本があります。文庫で出ている『原発労働記』です。ジプシーという言葉は問題があると出版社は考えたようで書名が変えられました。また、内容も、文庫の分量に合わせるためか同様の問題があるのか、一部が削られるなど著者は妥協を強いられています。著者が本来書きたかったことをそのまま復刊したのがこの本です。

また、シモーヌ・ヴェイユの『工場日記』は復刊の要請が多いようですが、実は『労働と人生についての省察』に全文が収録されています。ただし、日記ですのでヴェイユの思想に相当興味がないと退屈かもしれません。
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5つ星のうち 5.0 使い捨て下請け労働者の実態, 2011/7/1
By La dolce Vita (Roma)
レビュー対象商品: 原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録 (単行本)
最新の科学技術を駆使した筈の原子力発電所だが、実際その定期的なメンテナンスでは人間の手作業に総てを頼らなければならない。しかも放射能汚染の恐怖に曝されながら働くのは電力会社の正社員ではなく、下請けのまた下請けがピンハネして雇い入れる、原子力や放射能汚染に疎い、いわば使い捨ての日雇いや季節労働者達だ。本文中でもレポートされているように正社員と彼らの間の差別待遇も公然として行われる。労働条件は過酷で重装備の保護衣、二重の手袋やマスクでがんじがらめにされた体では、とてもまともな作業ができない。だから現場では線量計のアラームを無視することや、息苦しいマスクを外すことも暗黙の了解で行われる。著者自身もたびたび体の不調を訴えて作業場から一時的に離れたり、病欠を繰り返した。

この日誌が福島第一原発事故の30年ほど前に世に問われていたことは注目に値する。しかしその当時、事の重要さを今ほど深刻に認識した人がどれだけいただろうか。私自身この本の存在すら知らなかった。そしてこれこそが国が推進している原子力産業の見えない実態だということに初めて気がついた。著者が肋骨を折る大怪我に見舞われた時、東電への配慮から労災保険は断念させられた。だがその分の賃金を保証した下請け会社も倒産する。福島第一の敷地内にはしらじらしく「無災害150万時間達成記念」という碑が建てられているという。ここではまた単なる原発の暴露本としては片付けられない、日本の社会的な病巣があらわになっている。堀江氏の主張が正しいとしても、労働者の大多数が個人の生命よりも会社の存続を優先するのであれば、彼の孤軍奮闘で終わってしまう。そうならない為の努力が今私達に問われているのではないだろうか。最後に、身分を隠して現場に乗り込み、下請け労働者と苦楽を共にしたジャーナリスト堀江氏に感謝したい。そうでもしなければ彼らの実態は今もって世に出ることは無かっただろう。
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Wikipedia「原発ジプシー」に詳しいので参照されたい。
この本に書かれている内容については、昨年、原発爆発直後にネット上で私は読んだ。
このことについては、このブログでも触れたことがある。
描写された事実に驚愕し戦慄し衝撃を受けた。
原発を少しでも知りたいと思う方には必読の書である。
ここには「レビュー」のさわりだけを引いたが、詳しくはアマゾンの書評などを見てもらいたい。
発行元の「現代書館」は時事的な問題本を出している良心的な出版社である。

なお関連するものとして「松岡正剛・千夜千冊・番外録」もあるので読んでみてほしい。

3:11一周年を迎えて、東日本大震災に関する記事を三日間載せてみた。
言いたいことはたくさんあるが、この日を心して厳粛に迎えたい。



彩瀬まる『 暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出―』・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   彩瀬まる『 暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出―』・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・新潮社2012/02/24刊・・・・・・・・・

     ひとりで東北を旅行中、私は常磐線の新地駅で被災した。
     命からがら津波を逃れ、見知らぬ人の家で夜を明かした次の日、
     原発事故を知らせる防災無線が飛び込んできた――
     情報も食べ物も東京へ帰るすべもないまま、死を覚悟して福島をさまよった五日間。
     若き女性作家があの日からの被災地をつぶさに見つめた胸つまるルポルタージュ。

新潮社の読書誌「波」2012年3月号より書評を引いておく。
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        [彩瀬まる『暗い夜、星を数えて』刊行記念特集]

     町だけでなく、人間の心までをも悪夢へと変えた日         石井光太

 東日本大震災が引き起こした津波と原発事故は、それまで日本にあった平穏な現実をひっくり返した。あの日を境に、悪夢が日常となり、日常だったものが悪夢になったのだ。
 悪夢とは瓦礫の山と化した被災地の光景を意味するだけではない。押し寄せた黒い波は人間の内面にまで押し寄せ、ヘドロを浴びせかけ、破壊してしまったのだ――。
 著者の彩瀬まるが被災したのは、福島県相馬郡にある新地駅でのことだった。常磐線の電車に乗って一人旅を楽しんでいたところ、突如として激震が襲いかかってきた。周辺の家や塀は倒壊。彩瀬たち乗客は、押し寄せてきた津波から逃れるようにして内陸の高台へと走った。もし海が見えない場所にいたら確実に飲まれていただろう。
 一命を取りとめた彩瀬には、次々と震災による災難が降りかかってくる。激しい余震に見舞われ、翌日には福島第一原発一号機が爆音とともに白煙を上げる。テレビや防災行政無線は再び津波が到来するとか、放射能が広がっているという誤報をくり返し響かせるが、車もガソリンもない状況では避難することさえできない。
 ともすれば彩瀬はたった一人で絶望に打ちひしがれそうになった。だが、彼女を支えたのは地元の被災者たちだった。みんなが彼女を案じ、少ない食べ物を分けてくれたり、車で運んでくれたり、家に泊まらせてくれたりしたのだ。
 被災した新地町は、宮城県境の小さな田舎町だ。親密な人間関係から生まれた助け合いの精神や人情が、彩瀬を支えることになったといえる。そして、彼女は放射能が迫る中、地元の人に助けられながら福島を脱出することに成功する。
 あの日から数カ月が経ち、福島は落ち着きを取りもどしはじめた。彩瀬は六月と十一月の二度にわたってそんな福島を訪れる。彼女なりに福島での出来事をふり返ろうとしたのだ。だが、そこで感じたのは、三・一一の時とは違う現実だった。
 六月にボランティアで赴いた時、福島はすでに放射能に汚染されつつあった。依頼主の男性からボランティアのお礼に玉ねぎをもらったものの、彼女はついそれが放射能に毒されているかもしれないと不安に陥る。震災の直後にあれほど親切にしてもらったのに、疑ってしまうのだ。彩瀬は自分を責めるが、放射能の恐ろしさを拭い去ることができない。
 十一月に訪れた際は、地元の人々の混乱を見せつけられる。福島の人々が宮城県へ行っただけで車に「汚染車」と落書きされたとか、県外の駐車場に車を停めただけで「毒をまき散らすな」と罵倒されたという話を頻繁に耳にする。
 また、同じ福島県民の中でも醜い争いが起きつつあった。東京電力が特定の地域の住民だけを優遇したために、他の地域住民との間にいさかいが起きた。同じ県の中で町と町とが分裂しかけたのだ。あるいは、避難者たちが宿に頼んで偽の領収書をつくってもらい、多額のお金を東電からふんだくろうとしている現実にも直面する。
 彩瀬が三・一一で体験したのは、地元の人たちの温かい人情のはずだった。住民はやさしく、彩瀬のような部外者が困っていれば、津波や放射能が襲いかかってくる中でも手を差し伸べてくれた。だが、津波と放射能はそうした町の良心を破壊した。そこに遺されたのは、差別や欲望がむき出しになった人々の姿だったのだ。
 本書は、被災地の物理的な風景の変化だけでなく、そうした地元住民たちの関係や精神の崩壊を一つ一つ丁寧に描いていく。小説家ならではの感覚で人間の内面を見透かす。それは自ずと福島の日常が悪夢に転換した記録となっている。
 福島の変貌を全身で感じた彼女は、良くも悪くもこれから先それと無関係ではいられないはずだ。初の単行本である本書は、福島の悪夢のはじまりを描いたルポであると同時に、作家彩瀬まるのスタート地点なのである。
(いしい・こうた ノンフィクション作家)
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「波」 2012年3月号より著者インタビューを引く。

       [彩瀬まる『暗い夜、星を数えて』刊行記念特集]

     【インタビュー】  携帯電話で遺書を書く・・・・・・・・彩瀬まる

――『暗い夜、星を数えて』の著者、彩瀬まるさんは現在二六歳。
二〇一〇年に「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞してデビューした新進気鋭の小説家です。
関東在住の彼女は昨年の三月一一日、ひとりで東北を旅行中に東日本大震災に遭遇しました。
本書は被災時の体験記と、その後福島を二度にわたって訪れた紀行文によって成っています。
 あの日は二泊三日の旅行の中日で、仙台からいわき市に向かうはずでした。仙台駅からJR常磐線に乗り、福島県相馬郡の新地駅に停車しているとき、地震に遭いました。車両はその後、津波に襲われましたが、一緒に乗っていた人は避難していて全員助かったと後で聞きました。
――津波を背中に見ながら近くの中学校に避難し、その後親切な地元の方のご自宅に泊めてもらった著者。
次の日、南相馬市にいた彼女を福島第一原発の事故が襲います。
地震と事故の混乱で、五日ものあいだ被災地をさまよいました。
 五日間のうち、死を覚悟した瞬間が二回あります。一度目は新地駅から避難していたとき。一キロ後方の地面が黒くせり上がるように見え、よく見たらそれが津波でした。「津波を実際に見たら手遅れ」だと思っていたので、国道6号線を必死に走り、高台へたどりつきました。二度目は三月一四日、避難所で3号機の水素爆発の報を知ったときです。1号機は地震の次の日に爆発していました。当時は放射能についてほとんど知りませんでしたから、これ以上爆発が進めば今いる場所も危ないんじゃないか、高い放射線に被曝するんじゃないかと悪い想像が止まりませんでした。家族に遺書を書こうと思い、紙のメモだと万一のときに吹き飛ばされてしまうかもと考え、携帯電話で打とうとしたんです。なのにどうしても手が動かず、結局書けませんでした。
――そして次の日、一緒に避難していた親切なご家族と別れ、帰路につきます。
 避難中はずっとおなかをすかせていました。私たちのいた避難所では毎食炊き出しのおにぎりが配られましたが、一日二日と経つうちにそれがだんだん小さくなっていくんです。最初の日はコンビニのおにぎりぐらいの大きさだったのが、私が避難所を発った三月一五日にはピンポン玉大になっていた。なんとか福島市に出ても、ファーストフードもファミリーレストランも営業していません。店先のポスターを見ては「おいしそうな写真をこんなときに見せるなんて!」と八つ当たりしていました(笑)。次の日、自宅へ帰ってそのまま倒れました。恐怖と飢えで四キロ痩せていました。
――そんなに辛い思いをした土地を、六月と一一月の二度にわたって再訪しています。
 なにより、助けてくれた方のところにお礼に行くべきだと思ったんです。先方は「もう忘れたいでしょう、忘れていいよ」とおっしゃってくださいましたが、知らんぷりはできないと思った。そして二度目の訪問は、津波から一緒に逃げた女性と連絡が取れたのがきっかけでした。『日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録』(小社刊)への私の寄稿文をたまたま目にして、編集部に手紙をくださったんです。まるで悪い夢の中のような、現実感のない場所で手を取り合って生きのびた方からお手紙をいただき、「あれは本当の出来事だった」とあらためて実感しました。震災当日は携帯電話も繋がりませんでしたから、番号の交換なんて思いつきもしなかったんです。
――今後、福島とはどのように関わっていくおつもりですか。
 私にとって福島は、お世話になった人たちがたくさん暮らしている特別な場所になりました。これからも折にふれて行くつもりですが、それは遠くに住んでいる大事な人たちと交流を持つためで、ノンフィクションとして被災地を書くことは本書で一区切りにするつもりです。これからは本業の小説でも本が出せるようにがんばります。先輩作家さんに混じって短編を書かせてもらった、チャリティ小説集『文芸あねもね』が新潮文庫から出たばかりです。そちらもぜひ読んでいただけるとうれしいです。

目次
第一章 川と星
第二章 すぐそこにある彼方の町
第三章 再会
終わりに

彩瀬まる/アヤセ・マル

1986年千葉県千葉市生まれ。上智大学文学部卒業後、小売会社勤務を経て、2010年「花に眩む」で第9回「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞、デビュー。文芸誌などで次々に小説を発表、手触りのある生々しい筆致と豊かなイメージにあふれた作品世界で高い評価を得る。2011年3月11日、一人旅の途中にJR常磐線新地駅で被災。7月には東日本大震災チャリティ電子小説誌「文芸あねもね」に参加。『暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出―』は被災時の五日間と、その後の二度にわたる福島訪問を記したノンフィクション。

「立ち読み」も出来る。試みられよ。

和合亮一『ふるさとをあきらめない―フクシマ、25人の証言―』・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   和合亮一『ふるさとをあきらめない―フクシマ、25人の証言―』・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・・新潮社2012/02/24刊・・・・・・・・・・・

     3月11日。どこにいて、何をしていたのか? その後、何が起き、今どんな暮らしなのか?
     職場を失い、家を流され、友を亡くし、家族と離れ、放射線に怯える。
     絶望、悲しみ、怒り――ふるさとは、収束にはほど遠い。
     それでも誰かに助けられ、望みもほの見えてきた。
     被災した詩人に向け語られる、今なお続く一人一人の福島の現実。

新潮社の読書誌「波」 2012年3月号より、著者の「刊行記念インタビュー」を引いておく。
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和合亮一『ふるさとをあきらめない―フクシマ、25人の証言―』刊行記念インタビュー

   不条理を不条理のままに残してはいけない。     和合亮一


自分ではなく誰かに語ってもらったものに〈宿る〉何かにこそ真実がある。このインタビューの仕事を通してそう確信しました。

 表紙の写真は僕が去年の春に、福島市の花見山で撮った一枚です。毎年花見の時期になると、市の人口およそ三十万人とほぼ同数の人が、この山を訪れます。でも、去年の花見山は、放射線の風評被害のせいで、がらがらだった。
『ふるさとをあきらめない』という書名は、去年出した『詩の邂逅』の一節からとったんですが、今回、インタビュー取材を進めるにつれ、やはりこのタイトルはキーワードだなと思いました。このままで負けてたまるか、悔しい、絶対にあきらめない――直接言葉にする人もいたし、言葉の裏側にそれを感じさせた人もいた。
 僕、高校の教師でしょ、よく生徒たちに「心を閉ざしちゃいけない」と言ってるわけです。震災直後、ツイッターに詩を書いていた頃の僕は、閉じた世界から言葉を投げつけていました。連休明けくらいから、自宅から出て、人の話を聞くようになった。そうして耳を傾けてみると、みなさんよく話をしてくれるんです。あの日のこと、それからのこと。
 東北の人間は口べたといわれていますが、そんなことはない。無口になるのは、聞く人が耳を傾けていないからなんです。「どうぞ話をしてください」では、口を開かない。じっくりと耳を傾けるという姿勢があってはじめて話してくれるんだと思うんです。
 二十五人の話を聞き終えて、本当の話は、伝わっていないんだと痛感しました。復興や原発に関する報道は、今でも毎日のように伝えられている。被災者のコメントもそこには含まれてはいる。でも、何ていうんだろう、こう話してほしいということを答えているような。小さな、個別の声はまったく伝わっていない。それは、一人一人が抱えている真実。メディアに載らないような、網からこぼれ落ちた小魚のような事実が、震災後の東北、福島には無数にある。
 あの日起きた、津波現場の壮絶さ。原発が爆発したあの瞬間。ある老家族は避難するのが嫌で、戦時中のようにじっと隠れ住んでいたと言い、ある女性は爆発の瞬間、いい匂いがしたと語った。ひとつひとつが、僕の知らない他人の事実だった。こうした小さな体験が集まって、私たちがここに暮らしているという真実ができあがっている。本当の輪郭、肉感と言い換えてもいい。
 印象に残っているインタビューはいくつもあるんですが、南相馬市の消防団の副団長の方がいました。三月中旬に避難指示が出て、ほとんどの住民が避難していった。消防団員も十人ほどに減った。それでも彼らは、遺体を探して、洗浄する、その作業をこつこつとやり続けていた。
 その頃の僕は、自宅の部屋に閉じこもりツイッターで詩を書いていた。その同じ時間に、放射線の危険があるにもかかわらず、彼らはその仕事をやり続けていた。「自分たちが暮らした海辺の遺体はすべて探して、皆さんに返すんだ」と。中には、三日間、体が海水に浸かりながらも奇跡的に消防団に救け出された人もいた。

 話を腹で受け止めた

 ほんの一日の出来事で、レールがガシャンと切り換わるように、数多くの人生が変わってしまった。
 中に僕の教え子がいた。高校時代は明るく活発な子でした。彼女は、子供のこともあって浜通りから伊達市に避難するんですが、あまりの寂しさと緊張感のせいで、三半規管をおかしくしてしまう。あの明るい子が……と正直、驚きました。
 二十五人の方のお話を聞いて、こちらが圧倒されたり、涙が出たりという場面が例外なく必ずありました。
 農家の阿部さんという方のお話はお宅で聞かせていただきました。炬燵を挟んで阿部さんと僕。奥さんは横にいらっしゃった。ある話になった時、阿部さんが下を向いて、「悔しいよなあ、悔しいよなあ」と言いながら、ぽろぽろと炬燵の布団に涙を落とすんです。すると、奥さんも何も言わず泣いた。僕もたまらず落涙してしまった。
 一日のインタビューを終えると、体がずしりと重くなった。以前、神戸で震災に遭われた方が、「震災を骨で記憶している」と表現したことがあります。僕たち福島の人間もまったくそれと同じ。取材をはじめた当初は、3・11からあまり日がたってしまうと、詳細を忘れてしまったり、話したがらなかったりと、うまくいかないのではと思ったこともありました。でも、それはまったくの杞憂でした。あの日の壮絶な経験、苦しみの本質は、呼び起こすことができるんですね。まるで昨日のことのように、皆さん話してくれた。
 一人二時間あまりのインタビューの時間は、骨で質問して、骨で話してもらう、腹で聞いたことを腹で受け止める、そんなやりとりでした。
 もうひとつ感じたことは、立ち止まっているのではなく、家族のために、仲間のために、この現状を打開しなくちゃいけないと、動いている人が多かったこと。避難してきた見ず知らずの高校球児のために、毎朝、毎夜、ご飯を作り続けた旅館の女将。土に希望を託す農家の人は個人で除染方法を研究、工夫していた。再開できないパチンコ店を利用して、救援物資を学校や保育所に無給で運ぶ女性店長。規模は小さいけれど夏祭りを企画した人。国会まで行って、村の苦境を訴えた酪農家。福島県のために、東京にあるアンテナショップの「ふくしま市場」を営業し続けた男性。
 こうした具体的な行動の話を聞いていると、何か答えが、そのヒントが見つかるのではと感じた。そういう意味では、福島の人たちにもこの二十五人の話を聞いてほしいと思う。

 切り離される福島

 昨年末の紅白歌合戦で、猪苗代湖ズが「福島はまったく復興していません!」と叫んでいたけれど、まったくその通り。震災から約一年、福島と他県との温度差がすごく気にかかる。僕はそれを川にたとえるんだけど、川のこちら側(福島)とあちら側(他県)を繋ぐ橋が必要なんだと思う。そのひとつが、愚直に福島の人たちの話を聞くことだと今回、僕は思った。そして、福島の人たちも口を閉ざしていないで話すことだと思った。
「おれたちはおれたち」。これからはますますそうなっていくんでしょう。でも、それは一番危険なことです。
 大きな揺れと爆発を体験した記憶はぬぐいきれずにある。多くの人はそれを封印してしまう。その気持ちもわかる。特にメディアの人たちは、そういう人たちの傍らに座ってじっと話を聞いてほしい。本気で聞けば、必ず本気で話してくれる。みんなだいたいのところで話を聞くから、だいたいのところで話をやめてしまう。それでは、いつまでも本当の結論にたどりつけない。
「復興ムード」の一方で、福島はどんどん切り離されている。中間貯蔵施設を双葉郡に置くという決定が象徴的だった。「起きてしまったことは起きてしまったこと。しょうがないじゃないか。申し訳ないけれど、我慢してくれ」と国は言っていることと同じ。そうやって、線を引こうとしている。
 インタビューの中で、ある女性が言ってました。「震災が起きる前、国とはやさしい父母のように感じていた。いざ何かあれば身を挺して助けてくれるんだと。でも、とんでもなかった。ああ、私たちは全然、愛されていなかったんだなあと思った」と。
 例えば、殺人のような目をそむけたくなる事件があります。痛ましいから、目をそむけたい。忘れてしまいたい。この震災だって、結局はそういう幕引きになっていくんだと思う。政府とメディアは「復興は進んでいる」と、最後には目をそむけさせることになる。やがてふたをされる。あとは福島でがんばってください、と。
 そうさせないために、どうすればいいか。中央メディアにまかせるのではなく、この震災の意味を福島の側がデザインして、全国にうまく伝えなくてはいけない。福島の人間が、生き残りをかけてそうさせないようにしなければいけない。
 今の僕にできることは、僕が話すのではなく、愚直に耳を傾けて話をしてもらい、それを一人でも多くの人に読んでもらう。それが「川」に橋を架ける行為だと自分では思っている。
 気どって言うわけじゃないけれど、取材を進めていく途中から、どんどん福島を本当の意味で守りたい、と思うようになった。当初、県内各地に行って、ある程度の人数の話を聞くなんてことができるのかと不安なことも正直あった。週日は学校がありますから、週末に取材をお願いすることになる。足を運んでみると、改めて福島はけっこう広かった。でも、五人、十人、十五人と進むうちに、その行為自体が前に進む糧になっていった。そのモチベーションの奥には、お互い悔しいという気持ちがある。皆さんから伝わってくる、怒りや憤り。
 ある人がおっしゃっていました。怒りや憤りは、常に新鮮にしておく必要がある、この新鮮さこそがまた次の力にもなる、と。それは、臥薪嘗胆に近い。ある時、何かあれば爆発させることができるみたいな。
「ふるさとをあきらめない、福島に生きる、と和合は書いているが、避難させないことに責任をとれるのか」と言われることもある。
 僕は、避難しない人が悪いんだという考え方で終わらせたくない。不条理を作ってしまった。そしたら、そこはそのままにしてあきらめて、避難すればいいじゃないか、そうしてふるさとを放棄していったら、いろんなところに空白地帯ができてしまう。不条理が不条理のまま残る。目をつぶるんじゃなくて、目を開いて、日本人全体の問題として考えるべきだと僕は思う。
 日本の歴史の中で、何の罪もない人が、ある日をもって「被る人」となり、優者と劣者という構図をつくってしまう土壌がこの国にはある。沖縄、水俣、広島、長崎がそうです。
 今回、福島ナンバーやいわきナンバーの車が傷付けられたり、罵声を浴びたりする話を何人もの人から聞いた。
 鈍い痛みを抱えながらも、僕たちは日本人の感情の基層を壊すようなことをしなければいけないと思っています。 (わごう・りょういち 詩人)

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和合亮一/ワゴウ・リョウイチ

1968年福島生まれ。福島市在住。詩人。高校の国語教師。『AFTER』(思潮社)で中原中也賞受賞。『地球頭脳詩篇』(思潮社)で晩翠賞受賞。2011年3月11日、伊達市にある学校で被災。避難所で数日過ごした後、自宅からツイッターで詩を発信し続け大反響を呼ぶ。近著に、『詩の礫』(徳間書店)、『詩の邂逅』(朝日新聞出版)、『詩ノ黙礼』(新潮社)など。ツイッターは今も続けられている。

「立ち読み」も出来るのでアクセスされたい。


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和合亮一については、昨年に詩集を採り上げた。今もっとも注目を浴びている現代詩人である。
何と言っても、被災地の福島にずっと住んでいるというのが強みである。
東日本大震災一周年を前にして、この本を採り上げた次第である。
明日付けでも、もう一冊採り上げる予定である。


春愁やくらりと海月くつがへる・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
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    春愁やくらりと海月(くらげ)くつがへる・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

明るく、浮き立つ春ではあるが、ふっと哀愁を覚えることがある。はっきりした「憂鬱」ではなく、あてどない物思いのような気持ちを「春愁」という。
春ゆえに心をかすめる淡い、かなしい、孤独な、物思いである。

春愁を写真にしようとすると、難しい。
だから「クラゲ」の写真を出しておいた。

俳句には「春愁」を詠んだものがたくさんある。少し引いておきたい。

 春愁のまぼろしにたつ仏かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 春愁や派手いとへども枕房・・・・・・・・飯田蛇笏

 白雲を出て春愁もなかりけり・・・・・・・・中川宋淵

 いつかまたポケットに手を春うれひ・・・・・・・・久保田万太郎

 春愁のかぎりを躑躅燃えにけり・・・・・・・・水原秋桜子

 髪ばさと垂れて春愁の額としぬ・・・・・・・・三橋鷹女

 春愁に堪ふる面輪に灯りけり・・・・・・・・日野草城

 春愁の一端に火が燃えてゐる・・・・・・・・野見山朱鳥

 春愁もなし梳く髪のみじかければ・・・・・・・・桂信子

 春愁やせんべいを歯にあててゐて・・・・・・・・大野林火

 春愁のいとまなければ無きごとし・・・・・・・・皆吉爽雨

 ハンカチに鏝(こて)あてて春愁ひかな・・・・・・・・安住敦

 山椒魚の春愁の顔見とどむる・・・・・・・・後藤秋邑

 春愁やかなめはづれし舞扇・・・・・・・・鷲谷七菜子

 春愁や夫あるうちは死ぬまじく・・・・・・・・末広千枝


セシウム流出量、東電推計の6倍…海洋研試算・・・・・・・・・・・・・読売新聞 3月6日(火)21時29分配信
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 ↑ 東電・福島第一原発3号機の爆発の写真。

(緊急・転載) 
 セシウム流出量、東電推計の6倍…海洋研試算
     ・・・・・・・・・・・読売新聞 3月6日(火)21時29分配信


 東京電力福島第一原子力発電所の事故で、原発から海に流出した放射性セシウム137の総量は最大で5600テラ・ベクレル(1テラは1兆)に上るとの試算を、
海洋研究開発機構がまとめた。

 東電の推計量の約6倍にあたる。6日に開かれた日本原子力研究開発機構の研究報告会で発表した。

 海洋研究開発機構の宮沢泰正主任研究員らは、福島県の沿岸など約500地点で採取した海水のセシウム濃度や、潮の流れなどをもとに、
昨年5月7日までにセシウムが移動した経路を模擬計算した。
その結果から、海に流出した高濃度汚染水のセシウムの総量は、4200~5600テラ・ベクレルと算出された。
このほか、同原発から大気中に放出され、雨などによって海に沈着したセシウムは1200~1500テラ・ベクレルになった。
最終更新:3月6日(火)21時29分
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(以下、草弥記) この報道は、見過ごせない重要な意味を持っている。
今しも東日本大震災一周年を前にして、福島原発爆発事故の「後遺症」が、いかにひどいか、を事実でもって突きつけられた格好である。
蛇足かも知れないが付け加えておくと、セシウム137の「半減期」は30年であるから、極めて深刻である。
ということは、この海域の生物(ワカメなどの海草も含む)は高濃度で汚染されていると推定されることになる。
海水中の濃度を、生物は「濃縮」するからである。
今後の詳しい研究、報道に注視したい。

わが一生にいくたりの族葬りしや春の疾風はすさまじく吹く・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  わが一生(ひとよ)にいくたりの族(うから)葬(はふ)りしや
       春の疾風(はやち)はすさまじく吹く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌に詠んだように、私が物心つくようになってから何人の肉親を葬っただろうか。

はじまりは、昭和18年5月の長兄・庄助を22歳で送ったことである。
その同じ年の12月には庄助の名づけ主である祖父・木村庄之助が亡くなった。
そのお供に父の妹の婿養子・木村保次郎が亡くなった。この人は祖父と共にお茶の仕事をしていた人である。
引続いて母の兄・堀井東次郎が急死した。この人は小学校の校長だった。
その翌年昭和19年2月には私の長姉・登志子が亡くなった。このことは2月22日付けのBLOGで書いておいた。
そして敗戦後の昭和20年12月には私たちの末の妹・京子が結核性髄膜炎で亡くなった。小学校二年生だった。

このように親しい人々が短期間の間にバタバタと死んで、思春期の少年だった私には、この世は、一体どうなるのか、という「死」と向かい合う時期だった。
その後は少し肉親の死はなかったが、父と母を送った。父を昭和40年に送って47年。母が平成5年に死んで今年の四月は20回忌になる。
そして妻・弥生が先年亡くなって、この四月は満6年になる。つまり七回忌である。

春の疾風は季節の変わり目で、すさまじく吹く。
普通「疾風」はハヤテと呼ばれるが、私の歌に使った呼び方「はやち」は、昔の古い呼び方なのである。
疾風というのは映像にならないので、プリズムの画像を出しておいた。

ここで春の季語「春疾風」の句を引いて終わりたい。「疾風」は秋の季語なので俳句では「春疾風」と書く約束である。

 春疾風すつぽん石となりにけり・・・・・・・・・・水原秋桜子

 春嵐奈翁は華奢な手なりしとか・・・・・・・・・・中村草田男

 春颷ききゐて沼へ下りゆかず・・・・・・・・・・加藤楸邨

 春疾風屍は敢て出でゆくも・・・・・・・・・・石田波郷

 春嵐鳩飛ぶ翅を張りづめに・・・・・・・・・・橋本多佳子

 春嵐足ゆびをみなひらくマリヤ・・・・・・・・・・飯島晴子

 春疾風吹つ飛んで来る一老女・・・・・・・・・・山田みづえ

 なびきつつ女あらがふ春疾風・・・・・・・・・・松尾隆信

 煮え切らぬ男撫で切る春疾風・・・・・・・・・・石田静




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