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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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福岡伸一『せいめいのはなし』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     福岡伸一『せいめいのはなし』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・・新潮社2012/04/27刊・・・・・・・・・・

      内田樹、川上弘美、朝吹真理子、養老孟司との「はなし」で輝く、動的世界!
    「動的平衡」は生物の世界から、経済、文学、時間、意識、分類へと縦横無尽に広がっていく。
    いつも好奇心に目を輝かせている自由闊達な四人が「福岡伸一」の生命観に化学反応を起こしていく。
    相互につながる四つの「はなし」と、躍動する動的思考で語る著者の「はなし」
    ――立ち上がってくる新たな福岡伸一ワールドとは?

新潮社の読書誌「波」2012年5月号より書評を引いておく。
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            グルグル回ること・・・・・・・・・・・鵜飼哲夫

 ディベートと対話は、似て非なるものである。とりわけ相手を言い負かすためのディベートの場合、自分の正しさばかりを言いたて、相手の言い分の粗を探し、結局、議論の最初から最後まで自分の意見はなんにも変わらない。深夜の討論番組や国会審議の声高な議論の応酬、あれはディベートですね。議論に勝った本人はうれしいかもしれないが、いつまでたっても自分の意見に固執する分、意見の成熟はなく、言い負かされた相手をムッとさせているだけで終わるケースも少なくない。世界は狭くなるだけだ。
 相手の意見に耳を傾けながら意見をキャッチボールする対話の場合、語り合うことで意見が変わることがある。刺激しあって、新たな仮説を共同でつくることもある。対話によって意見は成熟し、世界は広くなる。『せいめいのはなし』は、対話のよさを存分に引き出した対談集である。
 福岡伸一さんが著作で示してきた一連の考えを4人との対話によって多面的かつ口語でわかりやすく説明した本書を読むと、人間の細胞はかつ消え、かつ結びて久しくとどまりたるためしなし、半年もたてば、自分の体を構成している原子はすっかり食べたものと入れ替わりながら全体として一定のバランス、つまり動的平衡が保たれているという。体の中で分子の合成と分解が絶え間なくグルグルと行われていることが「生きている」ということで、この流れが止まり、新陳代謝がなくなることが「死ぬ」ということなのだ。
 グルグルと意見を回すことで一定のバランスをつくる。この点で本書は、動的平衡のいきいきした対話集なのだ。
 ただ、意見の回し方も色々である。哲学者の内田樹さんとの対話は、ゴールに向ってお互いにパスを出し合い、攻めあがる展開が魅力だ。グルグル回ることの大切さを拡張し、経済、つまり人々が共存するためにも、商品が退蔵されずグルグル回ることが大切だという内田理論は面白かった。
 細胞が周囲の細胞と空気を読みあいながら将来を決める、つまり隣の細胞が「僕は筋肉の細胞になります」というと、ほかの細胞が「じゃあ、僕は神経の細胞になりましょう」などと決めている(この事実は、福岡さんの著作で初めて知った。そうだったのか! 細胞にはあらかじめ、それぞれの役割が決まっているものだと、思い込んでいた)ことと同じように、二人は対話の空気を読みあい、絶妙なパスを出し合い、新たな社会構造を探っている。「ゴール!」と何回も叫びたくなる刺激的対話であった。
 作家の川上弘美さん、朝吹真理子さんとの対話では、お互いに正面を向いてボールを蹴りあい、対話そのものを楽しんでいる。変化してやまない混沌とした動的平衡の世界を、いかに記述するかについて語り合う川上対談は、オチが落語みたいで笑った。こんなところにも動的平衡があったのか!
 朝吹さんの小説に出てくるウーパールーパーに触発され、大人になることを拒否し、子供のような可塑性や柔軟性を持つウーパールーパー的な存在は、好奇心が旺盛で、知性的になるという対話はユニークでフレッシュだった。
 一方で、解剖学者の養老孟司さんとの対話は、似ているとはどういうことか、分類とは何か、そもそも混沌とした世界を人間の意識はなぜ秩序だてて認識しようとするのかという、科学や人間の根本に遡って意見交換している点が特色で、ボールゲームをしながら、ゴールとは何か、ゴールの大きさは今のままでいいのか、について話し合っている風がある。
「捉えた瞬間に生命はそこにはない」という福岡発言が、本書を象徴している。恋もまた、捉えたと思ったらそこにはない。でも、人は恋を追いかけ、生命の神秘を探求し、対話を欲する。虫好きの福岡さんが、タモをもって人間の不思議をつかまえたい、と駆け回っているさまが伝わってきた。  (うかい・てつお 新聞記者)
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福岡伸一は、難しいことも平易に語ってくれる、私の好きな科学者である。

「立ち読み」も出来るのでアクセスされたし。
ほんのさわりでも、この本の「エッセンス」とも言うべき部分を、かいま見させてくれるからである。

あまぐものたどきも知らず老いぬれば死も遺伝的プログラムなる・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   あまぐものたどきも知らず老いぬれば
     死も遺伝的プログラムなる・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
掲出の写真はDNA螺旋構造の模型である。

この歌については多少の説明が必要だろう。
「あまぐもの」というのは「たどき」にかかる枕詞ということになっている。
「たどき」=「たづき」で方便あるいは手段、すべ、手がかり、などを意味する。
だから私の歌の場合、これという「すべ」もなく徒(いたずら)に何ということもなく生きて来たが、老いが身にしみる齢になって来た、そして「死」も遺伝子によって予め決っているプログラムによって差配されるのであろうか、ということである。

「枕詞」というのは日常生活では全く縁のない言葉であるが、詩歌の世界では文章の趣きや深みを出すために、よく使われる。
これは日本だけではなく西洋文学でも同じことである。
例えば、よく知られているのでは

「青丹(あをに)よし」というのは「奈良」にかかる枕詞である。
「石走る(いわはしる)」というのは「滝」=「垂水」、「近江」などにかかる枕詞。

有名な志貴皇子の歌

    石走る垂水の上のさわらびの萌えいづる春になりにけるかも

は皆さんにも、よく知られているのではないか。
このように枕詞は、うまく使うと詩歌に深みを出すのに好都合なのである。
この私の歌の場合、それが成功しているかどうかは、読者の皆さんのご鑑賞にお任せする。



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