K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM((8月)月次掲示板
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昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
yun_3151ヤマユリ

八月になりました。
今月は鎮魂と非戦の誓いの月です。

 平穏に過ぎし己を恥ぢておもふ3・11以後の一年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・武田弘之
 梨の実も満月も白く浮きいでぬあらゆる旗が降ろされし夜・・・・・・・・・・・・・・・・梅内美華子
 沢瀉は夏の水面の白き花 孤独死をなぜ人はあはれむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・雨宮雅子
 幾年も背高く痩せし木なりしが四照花ゆたけき花もつ今は・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川恭子
 ふとぶとと立つ七彩を男の虹と呼ばむ一生の秋に入りつつ・・・・・・・・・・・・・・・・・大塚寅彦
 ひぢを笠におほつぶの雨くぐり来てあざやかな虹に出逢ふたまゆら・・・・・・・・・・ 松本典子
 老い人が一人現はれまた一人現はれ遂に一群となる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・稲葉京子
 朝な夕なテレビジョン・ニュース戴きて仕立てあげられゆくわれわれは・・・・・・・・ 阿木津英
 忘れないことは悪くはないだろう真夏に似合うあなたであった・・・・・・・・・・・・・・・・小島なお
 炎熱の路面は白く明るめりいゆく生類の影一つなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 物忘れして心胆を冷やすことかくせぬ齢となりにけるかも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・外塚喬
 「去る時の覚悟を教えて下さい」と秋の刃物の静けさに問う・・・・・・・・・・・・・・・・・大下一真
 くろがねの秋の風鈴鳴りにけり・・・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏
 秋立つとしきりに栗鼠のわたりけり ・・・・・・・・久保田万太郎
 人声のうしろより来て秋立つか ・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
 金魚大
夕焼の空の如きあり ・・・・・・・・・・・・・・松本たかし
 大和路は四通八達蟻の道・・・・・・・・・・・・・・・・・林田紀音夫
 なにやらの糞の化石もうららかに・・・・・・・・・・・・・・松野苑子
 星はみな女性名詞や羅馬の秋 ・・・・・・・・・・・・マブソン青眼
 ヴィクトリア駅より秋の終列車 ・・・・・・・・・・・・・・友田喜美子
 いまごろは竜宮城の門涼し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仁平勝
 それからも嬬恋村に葛咲けり・・・・・・・・・・・・・・・今井杏太郎
 髪の毛に絡まる硫黄夏の旅・・・・・・・・・・・・・・・・・・川島謙一
 松蝉や絵本の雲のみな円く・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川加賀
 恋人の真下に伸びるスカイツリー・・・・・・・・・・・・ 小林満寿夫
 蕎麦湯濃しをとこおんなの隔たらず・・・・・・・・・・・・ 伊藤早苗
 天牛の髭に天牛のりにけり・・・・・・・・・・・・・・・・・山中多美子
 恋人と陶器売場で見る夕日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・畑美樹
 甚平に隙間だらけの体かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・雪我狂流
 密密と隙間締め出しゆく葡萄・・・・・・・・・・・・・・・・・中原道夫
 家族とは濡れし水着の一緒くた・・・・・・・・・・・・・・・ 小池康生
 twitter呟き返して夏深し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大野道夫
 余震なほ紅蜀葵みな海へ向き・・・・・・・・・・・・・・・・・・橋本薫
 河童起ちあがると青い雫する・・・・・・・・・・・・・・・川上三太郎
 葉脈は逃走経路レタス噛む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・茸地寒
 緑陰に入りあのひと失語症・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第五歌集『昭 和』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
一般書店からの取り寄せは、角川書店の配本部門・角川グループパブリッシング発売、と指定されたい。
ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books紀伊国屋書店BookWeb、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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   「地球上のすべての人が、
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──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
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草弥の詩作品「花 芯 ──お夏の巻」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(82)──<後水尾院シリーズ>(8)  

       花 芯 ──お夏の巻・・・・・・・・・・木村草弥

      お夏は市井の遊女である
      お上が遊里に遊ばれたときに 見つけて来られた
     「床上手」として知られていた

     お上は上皇として 直接には禁裏の公式行事にも縛られず
      学問と言っても いつもあるものではないし
      連歌の会も センスのある者が揃わないと面白くない
      と仰せられて ますます 色道に精を出された
     禁裏に詰める女は 氏素性を明らかにする者ばかりで
      色事には慣れておらず お上は専ら 自分の精を放つのみであった

     今しも院も熟年の齢になられて
     それも 市井の遊里に遊ばれて
      お相手をする遊女が 性の喜びを あからさまに発するのに驚かれた
     女が歓喜の声を発すると それがお上にも伝わって
      何とも言えぬ男女の性の一体感を味われたのだった
      お上は男女が共に果てる という性の秘め事の極致を求められた
      此処を愛撫すると女が喜ぶのだという秘処も お覚えになった

     口を吸われ 乳首を愛撫されて お夏は喘いだ
      さらに 花芯──豆へのお上の攻めはつづいた
          因みに 豆とはクリトリスのことをいう(閑話休題)

           早乙女の股ぐらを
           鳩がにらんだとな
           にらんだも道理かや
           股に豆を挟んだと、ナヨナ

         という民謡があったらしい、と
         当時流行り始めていた「笠句」の本に書かれている。お分かりかナ。 

     お上の舌が 容赦なく 花芯の尖端を舐めつづけるので
     お夏は 恥ずかしげもなく 嬌声を上げた
     「入れて!入れて!」と お上の一物の挿入を求めた
      お上の 温といお筆先が お夏の巾着に食い込み
          因みに 巾着とはヴァギナのことである
          この巾着は よく締まる などという
         お筆先とは ペニスのことである(閑話休題)
      二人は 獣のように つながりあった
     お夏の巾着の中で お上の筆先は ぬめぬめと動き
     挿入は 浅く 深く ぐるぐる廻って 変幻自在となり 
      二人は汗まみれになって 至福の境地へと高まってゆく
      まさに夢幻の時間が過ぎてゆくのであった

      途中で お上は挿入を止め 
      お夏を組み敷いて またもや 
     花芯へのクリニングスの攻撃を はじめるのであった
      お夏は耐えかねて 「行く!行く!」と息も絶え絶えになって絶叫する
     そして 「入れて!入れて!」と お上の一物の挿入を求める
     二人は ふたたび 獣のように番って 合体して 一つになる
     汗は 二人の顔や胸や腰や腹や背中やらを べとべとに濡らし
      いつしか 頂点に達して 「出る!行く!」と叫びあい
      お上のお筆先から シーメンが お夏の巾着に 放たれる
      遂に 二人は果てたのだ
     お上は 甘美な射精感と 
     お夏は 至福の受容感と に満たされて 
     遂に 二人は果てたのだ
     まさに 二人は合体の極致に達したのだった
     激しい息遣いと けだるい倦怠のうちに
     二人は布団に横たわり 高まった息遣いを 静めて
     けだるい眠りに落ちた

  のちに後水尾院は詠まれた

       <常夏のはかなき露に嵐吹く秋をうらみの袖やひがたき>

  「常夏の花」は撫子の異名である
                 

激雷に剃りて女の頚つめたし・・・・・・・・・・・・・・石川桂郎
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  激雷に剃りて女の頚(えり)つめたし・・・・・・・・・・・・石川桂郎

石川桂郎については前に少し書いたことがある。

俳人風狂列伝

『俳人・風狂列伝』(昭和48年角川書店刊)という11人の「風狂」の俳人を書いたものだが、先にも書いたように本人自身が、かなり、だらしなかったらしい。
私の付き合っていた高島征夫氏の父君・高島茂氏が新宿西口で「ぼるが」という居酒屋を営んでおられたのだが、彼・石川桂郎の酒の上の失敗や金銭的な「尻拭い」を、かなりされた、と聞いた。
かなり名の知られた俳人だが、女にだらしなく、金銭的にも俳句の友人たちに迷惑をかけたらしい。 「無頼」の徒と呼ばれる。
本職は「床屋」だった。だから掲出のような句があるのである。

Wikipediaに載る記事によると下記のように載っている。
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石川桂郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石川桂郎(いしかわ けいろう、1909年8月6日 ~ 1975年11月6日)は東京出身の俳人、随筆家、小説家、編集者。本名は一雄。

経歴
東京市芝区三田聖坂の理髪店の息子として生まれる。御田高等小学校卒。家業の理髪店の仕事をしながら、俳句を作りはじめ、1934年杉田久女に入門。1938年ごろ、石田波郷の『鶴』の同人となる。また、横光利一にも師事する。

父の死後に店主となっていた理髪店を、文具店とするが、店員が次々に召集されて人手不足となり廃業。工場・工事関係など様々な職を転々とする。また、1942年には、理髪店時代を描いた小説『剃刀日記』を発表。

戦後は水原秋桜子主催の『馬酔木(あしび)』に参加。また、いくつかの出版社に勤務した後、1953年から1958年まで雑誌『俳句研究』(俳句研究社)の編集に携わる。1960年には自らの俳誌『風土』を創刊して主宰。

また、1946年から鶴川村能ヶ谷(現・町田市能ヶ谷町)に居住し、以降、その地で過ごした。

様々な俳人たちの風狂ぶりを描いた読売文学賞受賞作『俳人風狂列伝』でも知られるが、桂郎自身も酒食と放言を好む、風狂の人であった。

1975年11月6日、食道癌のため死去。

受賞等
1951年 第1回俳人協会賞 『含羞』
1955年 第32回直木賞候補 『妻の温泉』
1973年 第25回読売文学賞・随筆紀行賞 『俳人風狂列伝』
1975年 第9回蛇笏賞 『高蘆』以後の作品
著作
句集
含羞 琅玕洞, 1956
石川桂郎集 八幡船社, 1968
竹取 牧羊社, 1969
高蘆 牧羊社, 1973
四温 角川書店, 1976
石川桂郎集 手塚美佐編 俳人協会, 1994
随筆・小説
剃刀日記 協栄出版社, 1942(のち、創元文庫・角川文庫)
妻の温泉 俳句研究社, 1954
俳人風狂列伝 角川書店, 1973(のち、角川選書)
残照 角川書店, 1976
面会洒舌 東門書屋, 1978
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「増殖する俳句歳時記・石川桂郎の句」というサイトが彼の句を引いて面白い。アクセスされたし。
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「雷」を「いかづち」と言うが、これは元は「いかつち」で、「いか(厳)」「つ(の)」「ち(霊)」の意味であり、「いかめしく、おそろしい神」の意であった。
だから古くから「いみじう恐ろしきもの」(枕草子)とされてきた。
そんなことを考えながら、以下の雷雨の句を見てもらいたい。
雷は「はたた神」とも言う。

 はたた神過ぎし匂ひの朴に満つ・・・・・・・・川端茅舎

 夜の雲のみづみづしさや雷のあと・・・・・・・原石鼎

 はたた神下りきて屋根の草さわぐ・・・・・・・・山口青邨

 赤ん坊の蹠(あなうら)あつし雷の下・・・・・・・・加藤楸邨

 遠雷や睡ればいまだいとけなく・・・・・・・・中村汀女

 遠雷のいとかすかなるたしかさよ・・・・・・・・細見綾子

 遠雷やはづしてひかる耳かざり・・・・・・・・木下夕爾

 真夜の雷傲然とわれ書を去らず・・・・・・・・加藤楸邨

 鳴神や暗くなりつつ能最中(さなか)・・・・・・・・松本たかし

 睡る子の手足ひらきて雷の風・・・・・・・・飯田龍太

 大雷雨国引の嶺々発光す・・・・・・・・鬼村破骨


永田和宏『歌に私は泣くだらう―妻・河野裕子 闘病の十年―』・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

  永田和宏『歌に私は泣くだらう』─妻・河野裕子 闘病の十年―・・・・・・・・・・木村草弥 
            ・・・・・・・新潮社2012/07/20刊・・・・・・・・・ 

この本は新潮社の読書誌「波」に連載されたもので、私は毎月それを読んでいた。
本書は、それに加筆、修正を加えたものである。
著者は科学者だけあって、極めて率直に、赤裸々に、淡々と描いているが、人によっては書きすぎという人もあろう。私は率直なのが好きなので違和感はない。
奇しくも8/26夜十時からNHKBSプレミアムで「うたの家族」─歌人・河野裕子とその家族─というセミドキュメンタリーが放映された。
内容は、この本に書いてあることと同じだと感じた。
ドラマ仕立ての部分は、和宏=風間杜夫、裕子=リリーなどが演じたが、関西弁(永田夫妻は二人とも滋賀県出身で京都育ち)が下手なのが残念だったが、まあまあこんなものだろう。
「ガン」患者は増えたとは言え、その闘病の苦しさとか病状の推移などは世間一般には知られていない。
私は亡妻の介護に数年かかりきりだったし、私自身も前立腺ガンの治療を受ける身だったので、治療体験もしたし、ガンについての勉強もした。

この本の中で終末期の痛みを取るために「麻薬」を増やすかどうかという条がある。
麻薬にも色々の種類があって「モルヒネ」だけとは限らない。「オキシコンチン」という名の麻薬もある。
麻薬は鎮痛効果は確かにあるが、患者を「眠らせ」「麻痺させ」て大人しくさせる薬である。
介護する家族とのコミュニケーションは著しく阻害される。えてして医者は、これらの麻薬を使いたがる。
そんな局面に私は再三直面してきた。また医師が単独と言うのはあり得ないから、複数いる場合には、彼らの間の考え方の相違にも振り回される。
私も物事は率直に言ったり、書いたりするので、それらの一端は私の第一詩集『免疫系』(角川書店)に描いておいたから参照されたい。
この本や放映の中で永田和宏も言っているが、乳がんは転移しやすいガンで、お二人がとても忙しかったとは言え、乳がんに気づくのが遅かった、のは夫の責任でもある。
夫婦としての性生活が、もっと濃厚であれば乳がんの「しこり」は、もっと早く見つけられた筈である。

これらを拝見して私は、「マスコミというのは非情で、怖いもの」だと痛感した。
東日本大震災関連で言えば、現代詩の世界でも和合亮一の『詩の礫』などをめぐる本の出版の取り合いなどにも同じような様相が見られる。
彼らは今「売れるもの」を探しているハイエナみたいな存在なのである。マスコミと付き合うには、それらによる被害も勘定に入れておく必要があるだろう。
もともと有名人にはプライバシーは無いものと覚悟すべきなのだが、今どき河野裕子の本などを出せば必ず売れる、ので大手出版社のみならず、こうして放送局も飛びついて企画をたてる始末である。
東京人の「体裁を良し」とする人たちと違って、関西人はもともと「率直、本音で生きる、開けっ広げ」だから、私などには違和感はないが、ご感想はいかがだろうか。

この結社「塔」はドイツ文学者の高安国世によって創刊された。今や会員数も千人を超えたようで、短歌結社として不動の地位を築いた。
特に、若い人が多いので注目されている。
今をときめく短歌結社としては、いくつかあるが、例えば「かりん」の馬場あき子さんなども、若い、才能のある会員には、どんどん歌を作らせ、評論を書かせ、短歌マスコミにも彼、彼女らを売り込み、成長させてゆく。
今や大新聞の歌壇などの選者も、そういう弟子たちが活躍する時代になってきた。
永田夫妻なども、その典型であって、がむしゃらに弟子たちを育てて来られた。今いちばん勢いのあるのが「塔」だと言われている。
高安先生には私は大学で第二外国語としてドイツ語を一年間教わった。文法とか履修科目はいくつかあるので他に数人の先生にも習ったうちのお一人である。
私は、そのころ「短歌」については関心がなかったし、先生も授業中は短歌のことは何も話されなかった。
先生は母親の影響で「アララギ」から出発され、戦後、いくつかの新勢力──「未来」などが枝分かれするような形で発足したが「塔」も、そんな一流派だった。
高安国世は「主知的リアリズム」を標榜した。
彼については、このブログでも採り上げたことがある。
先月末に私の第五歌集『昭和』読む会を、「塔」選者の三井修氏のお世話で開いていただいたが、私は以前から「塔」会員には知り合いが何人か居る。
河野裕子さんは角川短歌賞の受賞者だが、この頃は「コスモス」所属だった。
永田和宏氏と結婚されたし、高安先生から「永田くん後を頼む」と言われて後継者になられた旦那を支えて、結社の所属も替えて、お二人で「塔」を大きくして来られたのである。
Wikipedia河野裕子Wikipedia永田和宏 ← 二人のついては、ここに詳しい。

以下、新潮社の読書誌「波」八月号に載る記事を引いておく。
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     戦後を代表する女流歌人と讃えられた妻に、突然、乳癌の宣告。
     夫も二人の子も歌人の一家は強い絆で闘病生活を支え合う。
     しかし過剰な服薬のため妻は不信と懐疑にとらわれ、夫を罵倒し続けた挙句に失踪してしまう。
     そして再発……が、結局は歌い続けることが家族を再び一つにした。
     没後二年、初めて明かされる、あの日、あの時。

「波」 2012年8月号より

『歌に私は泣くだらう』刊行記念特集

  ◆川本三郎/詩神が二人に近づいた時
  ◆梯 久美子/妻に捧げた長大な挽歌、相聞歌

          川本三郎/詩神が二人に近づいた時

 妻を失なった夫は泣いていい。
 その涙から書かれた素晴しい亡妻記である。長年寄り添った妻、歌人の河野裕子の発病(乳癌)から死までを見届けた夫が悲しみを抑え、妻との最後の日々を振り返ってゆく。
 何よりもまず後悔がある。あの時、ああすればよかった、こうすればよかった。生き残った者は先きに死んでいった者に詫びるしかない。無力だった自分を責めるしかない。
 二〇〇〇年、妻がはじめて癌を告知された日、診察を終えて病院から出て来た妻が思ったより明るい表情だったのを知って夫は安心する。しかし、あとで妻がその日のことを書いた随筆でいかに打ちのめされていたかを知り、愕然とする。それに気づかなかったとは。
 手術の日、夫は最後まで付添わず仕事で出張に出た。いまそのことが「あまりにも思い遣りに欠けたことだったと言わなければならない」。
 妻は癌と闘っている。それは充分に分かっていても、夫は仕事で、学会へ短歌関係のイベントへと忙しく出てゆかざるを得ない。癌を患う妻と健康な夫。分かり合っている夫婦のあいだにもどうしても溝が出来てくる。
「しんどがる私を置いて出でてゆく雨の中に今日も百の朝顔」という妻の一首に触れ、夫はまたしても愕然とする。「なぜもっと早くこの一首に萌しはじめた河野の不安、不満、不信に気づいてやれなかったのか」。
 長年、いい家庭を築いてきた夫婦であっても連れあいが癌という死に至る病いを患った時、亀裂が生じざるを得ない。夫だからといって妻の心をすべて分かる筈がない。
 ある時から妻の精神状態が悪くなる。夫に当たる。言葉にはならない怒りをぶつけてくる。「しんどい、もう死にそう」と訴える。それが繰返される。「私のほうがそうとうにまいってしまった」。
 怒りが爆発すると「あんたら、寄ってたかって私を殺そうとする」とまで言うようになる。ついには「あんたのせいで、こうなった」とまで責めるようになる。
 夫としてつらいだろう。妻の苦しみが分かるだけにいっそうつらい。家族みんなが普通の生活をしているのに、自分だけが置き去りにされている。女性にとって乳房を取るだけでも苦痛なのに、この「置いてきぼり感」が妻を追いつめてゆく。
 夜中に包丁を持ち出して夫に迫ることさえあったというから修羅場である。仲のいい夫婦にこんな惨劇があったのかと衝撃を受ける。夫もついに感情を爆発させ、ものを投げつけたこともあった。こんな夫の一首に慄然とする。「この人を殺してわれも死ぬべしと幾たび思ひ幾たびを泣きし」。
 しかし、徐々に嵐はおさまってゆく。精神科医、木村敏の治療がよかったせいもあるが、何よりも妻にも、夫にも、歌というかけがえのないよすががあったからだろう。
 歌という形式が、荒々しい感情、生ま生ましい激情を抑制する。心を歌に託すことで自分を客観視出来る。
 歌を作り続けることによって妻は自分を取り戻す。いや、死を見つめながら歌を詠むことで、新しい自分を獲得してゆく。嵐を乗り越えたものの澄んだ境地だろうか。再発後のつらい日々のなかで妻に「静かに凪いだ水面のような精神の安定」が訪れる。「死というものを考えに考え、おかしくなるほどに真剣に考え抜いた末に、彼女が辿りついたある種の精神の高みなのであった」。
 死にゆく者はある時、仏様のようにきれいな顔になる。それはこの「精神の高み」のためかもしれない。
 最後が近づいた時、夫は決断を迫られる。医師からモルヒネの量を増やしたらどうかと言われる。夫は考えた末に、それを拒絶する。確かにモルヒネを増やしたら苦しみは減る。しかし眠ってしまい妻は歌を作れなくなってしまう。夫は苦渋の末、歌を選ぶ。
 残酷な決断だったろう。しかし、それがあったからこそあの胸を打つ秀歌――、「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」が生まれた。「私が自分の手で、この一首を口述筆記で書き残せたことを、涙ぐましくも誇りに思う」。
 共に秀れた歌人である夫婦の凄絶な「精神の高み」に粛然とする。この歌はおそらく神様から与えられたものだろう。その瞬間、詩神が二人に近づいたのだ。  (かわもと・さぶろう 評論家)


           梯 久美子/妻に捧げた長大な挽歌、相聞歌

 本書を読む誰もが、河野裕子という女性に圧倒され、魅了され、泣かされるだろう。配偶者を失った人の手記を読むと、たいていは遺された者の悲しみに共感して涙することになるが、本書の読者を泣かせるのは、先に逝った河野の、葛藤と痛みに満ち、それでいて圧倒的な輝きを放つ晩年の姿である。
 一昨年の八月に六四歳で亡くなった河野裕子は、最年少の二三歳で角川短歌賞を受賞、以後、歌壇のスターであり続けた。〈たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか〉〈ブラウスの中まで明かるき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり〉などの青春の歌、〈子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る〉といった母としての歌など代表作は枚挙にいとまがない。
 ふだん短歌に縁のない女性たちも、彼女の歌を読めば、そこに自身の人生を重ね心を動かされる、そんな歌人だった。
 本書には、河野が乳癌を告知されてから、闘病、転移、そして死に至るまでの日々が綴られている。圧巻は、癌が見つかって手術をしたのち精神が不安定になり、怒りの発作を起こして狂乱する河野と、そんな妻に戸惑い傷つき、自身も狂気の淵をのぞき見ることになる永田自身を描いた章だ。
 自分がこんなことになったのはあなたのせいだとなじり、朝まで罵りの言葉を浴びせつづける。睡眠剤で朦朧としたまま包丁をテーブルや畳に突き立てる。永田氏の周囲に女性が居ることを許さず、娘が高校生のころ、その髪を撫でたことを持ち出して不潔だと罵ることもあった。あなたも撫でられて喜んでいたではないかと、娘を責めることまでしたという。
 その当時、島尾敏雄の『死の棘』ほど身につまされる小説はなかったと永田氏は述べている。『死の棘』は、夫の浮気をきっかけに妻がヒステリックな発作を起こすようになり、ついには夫婦で精神病棟に入院するに至る私小説である。
 ミホ夫人の狂乱の原因は夫の浮気だが、河野の場合は「置いてきぼり感」ではなかったかと永田氏は書く。乳癌によって女性としての自信を失い、再発の恐怖もある中、夫はこれまでと同じように外へ出て行く。学者としての仕事もあり、また、歌集の受賞が相次ぐなど、歌人としてもまさに脂が乗った時期だった。置いていかれ、見放されることへの恐怖から、「あなたのせいだ」と責任を認めさせることで夫を縛っておきたかったのではないかと述べている。
 私は『死の棘』に描かれたミホ夫人に興味を持ち、生前、評伝を書く目的で数度にわたってインタビューをしている。没後に発見された『死の棘』時代のミホ夫人の日記なども読んできたが、確かにミホ夫人の発作は河野のそれと非常によく似ている。他人の目のあるところでは、直前までの狂乱が嘘のように、急にまともになるところもまったく同じだ。本書には、耐えきれなくなった永田氏が、テレビに向かって椅子を投げつけ、廊下を走ってトイレのドアを蹴破り、後ろから止めた息子の肩にすがって身も世もなく泣く場面が出てくるが、ほとんど同じことを島尾敏雄もやっている。
 しかし河野裕子と永田和宏の夫婦には、島尾夫妻と決定的に違う点がある。二人の間に歌という回路があったことだ。河野はどんなに荒れているときも、発表前の歌稿を永田氏に見せたという。まともな会話が成立しないときも、歌によって夫婦はつながり合うことができたのだ。
〈あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて 河野裕子〉
 途方に暮れた永田氏が妻を抱きしめたまま泣いたときのことを詠った歌だ。「後年、この一首を見たとき、私は、それまでの彼女の錯乱にも似た発作と激情の嵐、私への罵言のすべてを許せると思った」と永田氏は書いている。修羅の日々にあって、互いの歌が互いを支えたのである。
 そして、死の床で夫が書き取った永訣の歌。死去以来、数えきれぬほど引かれた歌だが、何度でも引用しよう。
〈手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 河野裕子〉
 愛する人の声を、その人がもういない世界に響かせる。それは、自らも歌人であり、命がけで歌を作るとはどういうことかを知っている永田氏にして初めて可能なことだったろう。本書はその全体が、妻に捧げた長大な挽歌であり、相聞歌であるとともに、歌人・河野裕子の見事な評伝である。  (かけはし・くみこ ノンフィクション作家)

「立ち読み」も出来るので、お試しあれ。



かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり・・・・・・・・・・高安国世
高安
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(再録)──Doblog 旧記事──初出2005/01/16

     かきくらし雪ふりしきり降りしづみ
             我は真実を生きたかりけり・・・・・・・・・・・・高安国世


この歌は高安国世の初期の作品で「真実」と題されている。昭和26年刊の第一歌集『Vorfruhling』に載るもの。(お断り・u の上にはウムラウト(・・)が付いている)
高安先生は大阪の開業医の家に生れたが、母・やす子がアララギの歌人だった影響で少年期から短歌に親しみ、またドイツ文学を専攻することになったが、父親は医者にしたかったらしい。
家庭の中で何らの葛藤があったと思われ、そのことが、この歌によく表れている。それは「我は真実を生きたかりけり」という詩句になっている。
この歌は、そういうドイツ文学者として生きてゆくという高安氏の決意表明みたいなもので、先生にとっては、極めて愛着のあった歌らしく、自選歌集でも巻頭に載せられている。
作品としても有名なもので高安国世といえば、まず、この歌が引用される。

私事になるが、私は大学で第二外国語にドイツ語を選び、その関係から高安先生の授業も受けた。その頃、先生は京都大学助教授になったばかりであった。
その頃から先生は「歌人」としても有名であったらしいが、私はその頃短歌には無関心であったから、そんなことは知らなかった。
先生も教室では短歌のことは一切お話しにはならなかった。
先生は旧制高校の頃は第三高等学校の教授であり、新制大学になって三高は京都大学吉田分校になり、教養課程を担当していた。
三高出身の連中に聞くと、教室では短歌の話を、よくされたという。
先生はアララギ出身らしく「リアリズム」を基礎に置いておられるが、後に短歌結社「塔」を創立されるなど「主知的リアリズム」という主張を確立された。

この歌の出だしの「かきくらし雪ふりしきり降りしづみ」という「たたみかける」ようなリズムが秀逸である。
歌のはじめの「かきくらし」というところは、学者として生活できるようになるまでの「生きる苦しみ」のような生活観を想像させる。
高安先生の私生活について、私は多少のことを知っているが、ここでは書くべきことではないと思うので、触れない。
同じ歌集に載る歌ひとつと、晩年の歌集『光の春』から4首を引いて終りにしたい。

   二人ゐて何にさびしき湖(うみ)の奥にかいつぶり鳴くと言ひいづるはや

   ゆるくゆるく過ぐる病院の一日よ忘れいし生命の速度と思う ──『光の春』より4首──

   わが父のあやぶみしごと何一つ世の表うら知らず過ぎ来し

   われ亡くとも変らぬ世ざま思いおり忘れられつつドイツに在りし日のごと

   焼き棄ててくればよかりしもろもろも恐らくは単純に火にくべられん

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ここに引用した歌を子細に見てみると、はじめのものは旧カナで、後の四首は新カナになっていることが判る。
これは先生が途中から新カナ表記に変わられたからである。
この頃は、そういうのが流行っていた。「未来」の近藤芳美が、そうだった。高安国世は「未来」創刊同人だった。
だが後に旧カナ(歴史的かなづかい)に復帰するのが流行り岡井隆など多くの歌人が復帰したが、近藤芳美は頑固に新カナを押し通した。
永田和宏なども新カナ→旧カナに数年前から復帰した。
ついでに書いておくと、アララギ系から出発した高安国世、岡井隆、永田和宏、みなリアリズムである。
先に書いたように高安先生は「主知的リアリズム」を唱えられたし、岡井隆の歌も「比喩」のオブラートにくるまれているので騙されるが、基本的にリアリズムである。
だから彼らは自分や家族のことを詠う。
だが、同じ「前衛歌人」と呼ばれても、塚本邦雄は自分や家族は詠わない。「われ」の把握の仕方が全く違う、と言える。
余り採り上げられないことだが、敢えて言っておく。
また天皇家とのかかわりでも、「歌会始」などを通じて岡井隆や永田和宏は「擦り寄って」行ったが、塚本邦雄は擦り寄らなかった。
歌壇に絶対な支配力を有する岡井隆などが存命中だから今は触れられることが全くないが、これらは塚本、岡井の決定的な違いであることを言っておく。

図版として掲出した『光沁む雲』(短歌新聞社昭和50年刊)は歌集『朝から朝』までの歌を収録したもので解説を永田和宏が書いている。
それとドイツ文学者としてのリルケ詩集の文庫本の表紙を出しておく。
先生はリルケ研究の第一人者だった。
この旧記事にも、もちろん画像があった。しかし、Doblogが不調になったとき今のfc2にデータを移すとき画像は移せなかった。

母親の高安やす子さんの記事をある筈だが、高安病院のことも書いたので、旧記事を少し調べてみる。お待ちあれ。


指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。/高原を走る夏季電車の窓で、/貴女は小さな扇をひらいた。・・・・・・・・津村信夫
s_comm_a1711b扇子朝顔図

       小 扇・・・・・・・・・・・・・・・・津村信夫
          ・・・・・・嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に・・・・・

     指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。

     高原を走る夏季電車の窓で、

     貴女は小さな扇をひらいた。

この詩は『さらば夏の光りよ』という津村信夫の詩集の巻頭に載るものである。

この本は奥付をみると昭和23年10月20日再版発行、京都の八代書店刊のものである。
戦争直後のことで紙質は悪く、表紙もぼろぼろになってしまった。
こんな名前の出版社は今は無い。
その頃は紙が不足していて、紙の在庫を持っている会社を探して、とにかく出版にこぎつける、というのが多かったらしい。
私は、この年には旧制中学校を卒業してフランス語を学びはじめた頃である。18歳になったばかりの少年だった。
この短い詩は暗誦して愛読した。

03170022草軽鉄道

写真②は、復元された「草軽鉄道」の車両の内部である。
詩の中で「夏季電車」と書かれているのは、恐らく、この鉄道であろうと思われる。草軽とは草津と軽井沢の地名であろう。

この本の「年譜」の中で、彼の兄・津村秀夫は、こう書いている。

・・・・・時に、良家の一少女を恋し、これを自ら「ミルキイ・ウエイ」と呼ぶ。詩作「小扇」及び「四人」に掲載せる散文詩風の手記「火山灰」はすなはちその記念なり。総じて『愛する神の歌』の中の信濃詩篇を除く他の作品は、おほむねこの少女への思慕と、若くして逝ける姉道子への愛情をもとにして歌へるものといふべし。・・・・・

室生犀星に師事したことがあるが、彼を識るようになったのも、夏の軽井沢であると書かれている。

この詩の「国境」というのは「くにざかい」と読むのであろう。
この詩は、極めてロマンチックな雰囲気に満ちたもので、この本を読んだ頃、私は、こういうロマンチックな詩が好きだった。
津村信夫は昭和19年6月27日に36歳で病死する。
若くして肋膜炎を患うなど療養に努めてきたが、晩年には「アディスン氏病」と宣告されたというが、私には、この病名は判らない。

この詩の二つあとに、こんな短い詩が載っているので、それを引く。

        ローマン派の手帳・・・・・・・・・・津村信夫

     その頃私は青い地平線を信じた。

     私はリンネルの襯衣の少女と胡桃を割りながら、キリスト
     復活の日の白鳩を讃へた。私の藁蒲団の温りにはグレ
     ーチェン挿話がひそんでゐた。不眠の夜の暗い木立に、
     そして気がつくと、いつもオルゴオルが鳴つてゐた。
-----------------------------------------------------------------------
この詩も題名からしてロマンチックである。
津村信夫は、私の十代の青春とともにあった記念碑的な名前である。

(追記)
いま届いた「現代詩手帖」2012年9月号は「杉山平一」特集をしているが、その中に

   国中治「杉山平一という複合体」─<近代>を体現する方法

という5ページにわたる文章が載っている。
その文章の末尾に、杉山最後の詩集『希望』から

     花火が

     パラソルをひらいた

     その下に きみ

という短詩を引き、

<この詩の隣にはぜひ津村信夫「小扇──嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に」(『愛する神の歌』所収)を置いてみたい。
 映画のモンタージュ技法を詩に適用した成功例として、杉山が青年時代から繰り返し言及・称揚してきた作品である。
<小扇>が花火の<パラソル>となって清楚に花開くまでの長い長い年月を、やはり想わずにはいられない。>

として、私が掲出した、津村の、この詩を置いて締め括りにしていることを書いておきたい。


この惑星の地軸が/少しばかり傾いているお蔭で/どんなに猛暑が続いても/こうして/この列島にも 秋がくる・・・・・・・・坪井勝男
アンソロジー
↑ アンソロジー『詩と思想詩人集2012』(土曜美術社刊)← 538名の現代詩作家を集めたもの。
higurasi04ヒグラシ雄

      口 伝・・・・・・・・・・・・・・・・・坪井勝男

     この惑星の地軸が
     少しばかり傾いているお蔭で
     どんなに猛暑が続いても
     こうして
     この列島にも 秋がくる

     寒蝉(ひぐらし)が遠い記憶の谷間で鳴き始めると
     ぼくは背筋を伸ばして杜にゆく
     ヒトであることに疲れたら
     幹に凭れて
     樹に流れる いのちの水音でも聴いていよう

     この巨樹をめぐる陽光と風
     枝々のざわめきは
     屈折し重なり合ううちに
     言語を超えたコトバを投げかけてくる

     それは
     たぶん
     見知らぬ 親しい者たちからの口伝(くでん)なのだろう
     聞き取ろうと
     手を擦りながら
     風に耐えている

     千枚あまりの年輪を包む ひび割れた樹皮
     梢の方を見やる
     あ
     いま
     文脈を捉えたような気がする

---------------------------------------------------------------------------
この詩はアンソロジー『詩と思想詩人集2012』(土曜美術社2012/08/31刊)から引いた。

今年の猛暑は異常だし、今日も残暑というのも憚られるほど暑いが、季節というものは正直なもので、いつしか秋風が吹くようになる。
そういう推移を、この詩は、うまく詩にしている。
「早く涼しくなってくれ」という願いもこめて、この詩を出しておく。
この作者のことを検索してみると
1929年生まれ。詩集として『樹のことば』『見えない潮』などがあるらしい。アマゾンで買えるようである。

つつつつと浜昼顔の吹かるるよ・・・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎
hamahiru021浜昼がお

     つつつつと浜昼顔の吹かるるよ・・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎

「昼顔」は、およそ野生のもので、よく目にするものとしては「浜昼顔」であろうか。
ヒルガオ科の蔓性多年草で、各地の海岸の砂地に自生する。
砂の中に地下茎が横に走り、地上茎も長く伸びて砂の上を這い、丸くて厚く、光沢のある葉を互生する。
旺盛な繁殖力で、ときに広い面積に群生しているのを見かけることがある。
地域によって異なるが5、6月ごろ葉腋に長い柄を出し、淡い紅色の花を上向きに開く。

この清崎敏郎の句は、浜昼顔の生態をよく観察したもので、海辺に咲く浜昼顔を過不足なく描写して秀逸である。

私には昼顔や浜昼顔を詠んだ歌はないので、歳時記から句を引いて終わる。

 きらきらと浜昼顔が先んじぬ・・・・・・・・中村汀女

 浜昼顔咲き揃ひみな揺れちがふ・・・・・・・・山口草堂

 浜昼顔風に囁きやすく咲く・・・・・・・・野見山朱鳥

 はまひるがほ空が帽子におりてきて・・・・・・・・川崎展宏

 浜昼顔タンカー白く過ぎゆける・・・・・・・・滝春一

 浜ひるがほ砂が捧ぐる頂きに・・・・・・・・沢木欣一

 昼顔のあれは途方に暮るる色・・・・・・・・飯島晴子

 海高し浜昼顔に跼む吾に・・・・・・・・森田峠

 浜昼顔鳶が落とせし魚光り・・・・・・・宮下翠舟

 浜昼顔廃舟錨錆び果てぬ・・・・・・・・小林康治

 潮泡の音なく崩れ浜昼顔・・・・・・・・稲垣法城子

 天日は浜昼顔に鬱(ふさ)ぎつつ・・・・・・・・中村苑子

 浜昼顔島の空港影もたず・・・・・・・・古賀まり子

 風筋は浜昼顔を駈け去りし・・・・・・・・加藤三七子

 這ひながら根の消えてをり浜昼顔・・・・・・・・高橋沐石

 海鳴りや浜昼顔の引けば寄り・・・・・・・・下鉢清子

 浜昼顔に坐すやさしさの何処より・・・・・・・・向笠和子


そばの花山傾けて白かりき・・・・・・・・・・・・・・・・山口青邨
sobaソバの花

    そばの花山傾けて白かりき・・・・・・・・・・・・・・・・山口青邨

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも

  粟谷は山より暮れてゆく辺り夜目にも白く蕎麦(そば)の花咲く

  窯元へぬかるむ道のつづきけり蕎麦の畑は白とうす紅

  風かるき一と日のをはり陶土練る周囲ぐるりと蕎麦の畑ぞ
・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌群が載っている。
私の住む辺りは大都会の近郊農村で、平地で、蕎麦は昔から栽培されるのを見たことがない。
ということは都会にも近く、かつ温暖で水の便もよく救荒作物である「ソバ」のようなものの世話になる必要のない土地だったということになろうか。

写真①は蕎麦の草を接写したものだが、蕎麦畑の全体像は写真②のようなものである。
buckwheat-6ソバ畑

ソバは夏蒔きと秋蒔きと2回時期があるらしいが、いずれにしても稔るのが早く、2~3カ月で収穫できるらしい。
荒地を厭わないので救荒作物として高冷地では広く栽培されたという。
写真③で「ソバの実」をお見せする。
buckwheat-5ソバの実

この写真は、まだ脱穀したばかりで色が白いが時間が経つと皮が黒っぽくなる。
この実を臼で挽いて出来るのが「ソバ粉」で、粉に少し黒っぽい色がついているのは、皮が混ざっているためである。

 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 山畑や煙りのうへのそばの花・・・・・・・・与謝蕪村

 道のべや手よりこぼれて蕎麦の花・・・・・・・・与謝蕪村

 山畑やそばの白さもぞつとする・・・・・・・・小林一茶

というような昔の句にも詠まれているように、そのさりげない蕎麦の花の風景が愛(め)でられていたのである。
写真④はソバの花を接写したものである。
buckwheat-7ソバの花

今では「そば」と言えば食べるソバがもてはやされて、どこそこの蕎麦が旨いとか、かまびすしいことである。
しかし文芸の世界では「蕎麦の花」がもてはやされる。
食べる「そば」では実態を描きようがないからである。食べる「そば」は味覚の問題であって、文学、文芸上で描写する対象にはなり得ない。
仮に描写することが出来ても、そこから広がる世界、連想、想像を推し量ることには限界がある。

img_22ソバの草

以下、俳句に詠まれた作品を引用しておく。

浅間曇れば小諸は雨よ蕎麦の花・・・・・・・・杉田久女

 花蕎麦のひかり縹渺天に抜け・・・・・・・・大野林火

 蕎麦の花下北半島なほ北あり・・・・・・・・加藤楸邨

 蕎麦畑のなだれし空の高さかな・・・・・・・・沢木欣一

 山脈の濃くさだまりてそばの花・・・・・・・・長谷川双魚

 蕎麦咲きて牛のふぐりの小暗しや・・・・・・・・中条明

 山村といふも四五戸や蕎麦の花・・・・・・・・長沢青樹

 月光の満ちゆくかぎり蕎麦の花・・・・・・・・古賀まり子

 母にまだとる齢あり蕎麦の花・・・・・・・・村松ひろし


草弥の詩作品「近衛信尋 吉野太夫を灰屋紹益と張り合う」・・・・・・・・・・木村草弥
d0116099_8522322吉野太夫の墓
 ↑ 二代目吉野太夫の墓
img吉野太夫
 ↑ 吉野太夫イメージの絵
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──<後水尾院>シリーズ──(5)

   近衛信尋 吉野太夫を灰屋紹益と張り合う・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院の生涯を語るとき、「近衛信尋」の名を欠くことは出来ない。
彼は一体どういう男なのか。

近衞 信尋(このえ のぶひろ、慶長4年5月2日(1599年6月24日)~ 慶安2年10月11日(1649年11月15日))は、江戸時代前期の公家・藤氏長者。官位は従一位関白。幼称は二宮。法号は応山。
慶長4年(1599年)5月2日、後陽成天皇の第四皇子。八條宮智仁親王の甥。幼称は二宮。母は近衛前久の娘・前子。母方の伯父・近衛信尹の養子となる。
慶長10年(1605年)、元服し正五位下に叙せられ、昇殿を許される。慶長11年(1606年)5月28日、従三位に叙せられ、公卿に列する。慶長12年(1607年)に権中納言、慶長16年(1611年)に権大納言、慶長17年(1612年)には内大臣となる。
慶長19年(1614年)、右大臣に進み、元和6年(1620年)に左大臣、元和9年(1623年)には関白に補せられる。
和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、桂にての交流は有名である。
正保2年(1645年)3月11日、出家し応山と号する。慶安2年(1649年)10月11日、薨去。享年51。近衛家の菩提寺・京都大徳寺に葬られた。法名は本源自性院応山大云。

近衛前久、信尹の文化人の資質を受け継ぎ、諸芸道に精通した文化人であった。書道は、養父信尹の三藐院流を継承し、卓越した能書家であった。
茶道は古田重然に学び、連歌も巧みであった。実兄の後水尾天皇を中心とする宮廷文化・文芸活動を智仁親王、良恕法親王、一条昭良らとともに中心的人物として担った。
また、松花堂昭乗などの文人と宮廷の橋渡しも行っていた。
六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。

系譜
父:後陽成天皇
母:中和門院 - 近衛前久の娘
養父:近衛信尹
同母兄弟 後水尾天皇
一条昭良
高松宮好仁親王

正室:不詳
子女 近衛尚嗣
寛俊 - 大僧正法印、勧修寺門
娘 - 東本願寺光瑛室
泰姫 - 水戸藩主徳川光圀室
娘 - 法華寺高慶尼
娘 - 三時知恩寺尼

今に続く公家の筆頭の家柄である。いつも朝廷の中心に居座り続け、天皇家とともに運命を共にしてきた。
多大な日記や記録を保存する「陽明文庫」が有名である。
近衛家の陽明文庫に残る百数十通の院との勘返状(往復書簡)を見ると二人の頻繁な文のやり取りの繁きことが手にとるようにわかるという。
後水尾院とは、すぐ下の弟であり影になって院を支えてきた。母方の近衛家に養子に入ったが、このような血の交流は、後にもしょっちゅうあった。

最高級の遊女と言われる「二代目 吉野太夫」との関係が史実として伝わっている。
吉野太夫というのは代々称された名前で、吉原の高尾太夫・大阪の夕霧太夫と並び、「最高の遊女」であった。
吉野太夫は10代以上続いたと言われるが、特に有名なのが「二代目」。本名は松田徳子という。

京都で生まれた徳子は7歳の時に遊里へ売られた。
そして林弥という禿(かむろ・遊女見習い)となった。

当時の遊里は、五条大橋畔から下流域にあった。六条三筋町(のち島原へ移転)に棲息する。

徳子は持ち前の美貌と、そして頭の良さでぐんぐんと美しく成長し、なんと14歳にして「太夫」となった。
「太夫」というのは最高級の遊女、その中でも「吉野太夫」という名を貰った徳子はピカイチ。

茶の湯・和歌・舞などどれをとっても超一流、また思慮深く教養があり、たちまち京都中の大評判になった。

ある時、京都の鍛冶屋の弟子が吉野を見てヒトメボレ
だが吉野は最高級の遊女なため「値段」がめちゃくちゃ高い。
吉野に恋焦がれたその男は、頑張って働いて大金を貯め、「一生に一度だけでも」と、吉野と一晩を過ごしたのだ。
そしてあまりの嬉しさに、もう思い残すことはない・・・と、その日に桂川にて入水自殺したのである。

そんな吉野太夫だが、この吉野を巡って2人の男が対立していた。
一人は豪商の跡取り息子・灰屋紹益。
もう一人は後水尾天皇の実弟で公家筆頭の近衛信尋。彼は芸術家本阿弥の一族とも繋がりがある。
恋のさや当ての結末は、吉野が選んだのは灰屋のほうだった。吉野26歳・灰屋22歳だった。

が、灰屋にはちゃんとした妻がいた。
そのため父から勘当されてしまった。
でも妻が死んでしまったため、父は灰屋を許し、吉野太夫を正妻にすることを許したのだ。
因みにこの時のエピソードだが、吉野は所持品を売ったりしてけなげに夫に尽くした。
ある日のこと、ある老人が雨が降ってきたので吉野の家で雨宿りさせてもらった。
そこで心ある茶のもてなしを受け、感動した老人が後日吉野のもとへたずねたところ、そこに息子がいたのでビックリ!
この老人は紹益の父だったのだ。こうして2人は勘当を解かれ、正式な妻となったのだった。
吉野を親戚に紹介する日、親戚の女房達は吉野なんかに負けるものか!と、競ってゴージャスな着物を身にまといやってきたが、吉野は質素な着物で、物腰柔らかに挨拶。女房達は恥かしくなったそうである。
だが吉野は病気になってしまい、そして38歳で死んでしまったのである。
灰屋は吉野の死をすっごく悲しみ、吉野の骨を粉にして飲んだと言われている。

    後水尾院は、一夕、近衛信尋と雑談をしておられた

    吉野太夫の噂などが院の耳にも届いていたのである
    
        <汝(なれ)は気ままでいいのう>

    信尋が答える

         <お上 何を仰せられます
          お上こそ生殺与奪の権を
          手中にしておいでです>

    院は苦笑いして

         <何が生殺与奪の権じゃ
          貴(あて)には何の力もないのじゃ
          幕府の食い扶持で生かされておるのみじゃ
          何を以て 生殺与奪の権などと言うか>

   と、改めて苦虫を噛みつぶしたような顔で仰せられた。

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resizeImg近衛信尋懐紙
 ↑ 近衛信尋懐紙

この歌の読み下しは

  <うぐいすも こゑうららけき 春日野の 松に残らむ 雪にならはば>    となる。

草弥の詩作品「およつ御寮人」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
o0400030011955918403東福門院像 光雲寺
 ↑ 東福門院像 光雲寺
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(80)──<後水尾院シリーズ>(6)

     およつ御寮人・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「およつ」と呼ばれていた此の女性は、儚い数奇な人生を辿った。
禁中に上がって女官「典侍」という地位にいたが、若い後水尾帝の
寵愛を受けて二人の皇子と皇女を生んだ。
名は四辻与津子というので「およつ御寮人」と呼ばれていた。
生年は分かっていない。 一六三八年に歿している。
丁度この頃、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)入内の話が出て、
その最中に天皇に寵愛する女が居て、子を成していることが分かり、
徳川家が怒って一悶着あった。
近臣を罰するなどの詫びを入れて、元和六年(一六二〇)に和子が
女御として入内した。
「およつ」の生んだ第一皇子・賀茂宮は四歳で一六二二年に歿し、
第一皇女・梅宮・文智女王は、十三歳で鷹司教平に嫁したが、
三年足らずで離縁。
およつの死後は和子女御──後には中宮が育て、後水尾帝も可愛がった
ので「円照寺」住持として傍に置いていた。
円照寺は修学院山荘の敷地の一角にあったが、山荘の整備のために
大和に移されたが、寺領を幕府に寄進させるなど、和子は多大の援助
を注いだ。
文智女王は、後年にこんな詩を和子に贈っている。

   思碧潭
君在洛陽我嶺南  屢難飛錫侍清談
思看宮裡凭欄日  玉兎移輪浸碧潭

この自作の詩に詳細な自註を施しているのが知られている。
それは「女院様を慕うにつけて御所の碧潭の額を思うの詩」の意とある。
文智女王は文才があったので後水尾帝も可愛いくて仕方なかった。
かつて和子(東福門院)の入内によって母およつ御寮人は後水尾帝の側から
引き離され、兄・賀茂宮は皇統の一族から、その名を抹消された。
それらのことを見てきた梅宮・文智女王である。
東福門院その人に怨みはなくとも心うちとけぬ日々もあっただろう。
もはやあれから半世紀。
今では蔭となり日なたとなって文智女王を援ける東福門院のやさしさが
身に沁みるばかりであった。
その仲立ちの労を取ったのが、かつて東福門院の侍女であり、のちに
「円照寺」住持となった文智女王に帰依して尼僧として仕えた文海尼
であった。
文海尼は上賀茂の社家松下家の出身。母は梅宮の幼いころに乳母を務めて
いて、因縁は浅くはない。
寛永七年(一六三〇)生まれだから東福門院の侍女・相模(さがみ)として
仕えたが、東福門院は相模を大いに信用し、二十二歳で出家し文海と名を得て
仏道の学問に親しんだ後も、法談を聴いたこともあった。
文智女王が出京できないときは文海が替って京都と奈良を往復して仲介の役を
果たしたのである。
東福門院が歿するとき、文海尼だけを招いたことが、その最もよき証拠である。

梅宮・文智女王は、一六一九年生まれ。一六九七年に歿しているが長命だった。


  
みづがめ座われのうちらに魚がゐてしらしらと夏の夜を泳げり・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  みづがめ座われのうちらに魚(いを)がゐて
   しらしらと夏の夜を泳げり・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
西洋占星術でいう星座の分け方によると、私は2月7日生まれなので、「水瓶座」ということになる。
占星術については、2004年の夏にFrank Lloyd Wright 氏の発案で「インド占星術」を中心に10回ほど日本、中国、インドなどの暦などについて書いたことがある。
この頃では、週刊誌などにも「占い」「運勢」のページがあって、それらはいずれも西洋占星術の星座表に基づいている。書いてあることは、当り障りのないことで、さして「占い」とも言えないようなものだ。
しかし、一応は自分の星座表くらいは知っていても邪魔にはならない、という程度の代物かなと思う。
星座表は古代ギリシアで、ほぼ出来上がった。
ギリシア神話の「みずがめ座」Aquariusの由来というのは、こんなものだ。
・・・・・トロイの国にガニメデという羊飼いの美少年がいた。
天上から見た大神ゼウスは一目でガニメデを好きになってしまい、ゼウスは鷲に姿を変えてガニメデをさらってしまった。
みずがめ座は、この美少年ガニメデを表している、と言われる。・・・・・

「水瓶」についていうと「甕」という字も使うが、昔は今のように水道があるわけでもなく、水汲みも大変だったので、「水瓶」が使われた。
写真②のような大きなものなど、いろいろあったようだ。
yun_2245水瓶

私の歌だが、着想というか連想というのは単純なもので「みづがめ座」→「水」→「魚」ということから、このような歌が生れた。
魚の読み方「いを」は古語の読みである。
水瓶座とかいう季語はないので、もう少し先になるが「星月夜」の季語による句を引く。

 われの星燃えてをるなり星月夜・・・・・・・・高浜虚子

 子のこのみ今シューベルト星月夜・・・・・・・・京極杞陽

 星月夜生駒を越えて肩冷ゆる・・・・・・・・沢木欣一

 星月夜白き市門のあらびあ海・・・・・・・・角川源義

 寝に戻るのみの鎌倉星月夜・・・・・・・・志摩芳次郎

 星月夜小銭遣ひて妻充てり・・・・・・・・細川加賀

 中尊寺一山くらき星月夜・・・・・・・・佐藤棘矢

 鯉はねて足もとゆらぐ星月夜・・・・・・・・相馬遷子

 星涼し樅のふれあふ音かさね・・・・・・・・星野麦丘人

 星月夜ひとりの刻は沖を見る・・・・・・・・高橋淑子



草弥の詩作品「およつ可愛いや」・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
04_obj東福門院入内図屏風
 ↑ 東福門院入内図屏風(徳川美術館 17世紀)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(81)──<後水尾院シリーズ>──(7)
     
     およつ可愛いや・・・・・・・・・・・・木村草弥

     お上(かみ)のお筆下ろしがいつだったかは判らない
     お上は十六歳で即位された
     すでに れっきとした青年である
     三十七人もの子を産ませる後年の精力絶倫さをみると
     この頃 性欲にめざめても当然である

     下々であれば浮世絵春画の交合図などを見て覚えるのだが
     高貴な処にあっては
     男女の仲に手慣れた女官が手引きするなどがなされた

     典侍をつとめていた四辻与津子は
     公家の四辻公遠(きんとお)の娘で
     四辻の字を取って
     「およつ」と呼ばれていた
     お上のお手がつくように配置されたのだった

     お上──三宮政仁(ただひと)親王は
     慶長十六年(一六一一)四月十二日に即位された
     天皇は十六歳 父の後陽成上皇四十三歳である

     お上は「およつ」を可愛がられた
     やがて およつは第一皇子・賀茂宮を
     元和四年(一六一八)に出産する
     このとき お上は二十三歳である
     そして翌年に第一皇女・梅宮──のちの文智女王を産む

     元和六年(一六二〇)徳川和子入内
     元和九年(一六二三)十一月十九日
     和子が女一宮・興子内親王のちの明正天皇を産む

 この頃の主な事件を年表風に記すと こんな風である

 元和九年六月 将軍徳川秀忠上洛 一万石を禁裏に増献
 寛永元年四月 初代京都所司代・板倉勝重歿
 女御和子 中宮に冊立
 寛永三年 将軍・徳川家光上洛
 九月六日 二条城に行幸 幕府より銀三万両献上
 寛永六年七月二十五日 紫衣事件の結果 近習の公家ら配流
 十月十日 家光の乳母・春日局参内
 十一月八日 後水尾天皇にわかに譲位
 同九日 中宮は東福門院とあらためる
 この年 禁中で立花が流行
 寛永七年七月三日 後水尾院母・中和門院歿
 九月十二日 明正天皇即位

『後水尾院御集』には多くの「恋」の歌が載っている。
堂上和歌に於いては、ものに寄せて詠まれるもので、今の短歌のように即物的リアリズムではないが、
この頃の最愛の「およつ」御尞人であるから、まんざら違和感があるとは言い切れないので、こんな歌を引いておく。

            初恋
   末つひに淵とやならん涙川けふの袂を水上にして

   今日ぞ知るあやしき空のながめよりさは物思ふ我身なりとは

   萌え初むる今だにかかる思草葉末の露のいかに乱れん

            見恋
   我にかく人は心もとどめじを見し俤の身をもはなれぬ

   人にかく添ふ身ともがな見しままに夢も現もさらぬ面影

            且見恋
   忘られぬ思ひはさしも浅からで浅香の沼の草の名も憂し

   思ひのみしるべとならばたのめただ哀あやなき今日のながめを

            誓恋
   たのまじよ言の葉ごとの誓ひにて中々しるき人のいつはり

            契恋
   別れてはよもながらへじ憂き身をも思はぬ人や契る行末

   心ならぬさはりあらばと此の暮を思ひ入るるも思ふにはうき

   たのまじよ言よく契る言の葉ぞ終(つひ)になげなる物思ひせん

   此の暮をまづ契おけ命だに知らぬ行衛はあやな何せん

            不逢恋
   いかさまにいひもかへましつれなさのおなじ筋なる中の恨は

   つれなさの心見はてて今更に思へばおなじ身さへくやしき

   あればありし此の身よいつのならはしに夜を隔てむも今更に憂き

             惜別恋
   あくる夜の程なき袖の涙にや猶かきくらすきぬぎぬの空

   とどめては行かずやいかに我こそは人にのみ添ふ今朝の心も

   くり返しおなじ事のみ契る哉行きもやられぬ今朝の別れに

   誰がための命ならねど思ふにも見はてぬ夢の今朝の別路(わかれぢ)

             後朝恋
   身に添へて又こそは寝め移り香もまださながらの今朝の袂を



   
草弥の詩作品「桂の月」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
img_1493601_42647926_2桂離宮
127944817585616315456_IMG_1944桂離宮
dsc17173b桂離宮 松琴亭から
↑ 松琴亭から古書院と月波楼を望む
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(78)──<後水尾院>シリーズ(4)

      桂 の 月・・・・・・・・・・木村草弥

桂川の水面に涼やかな秋風と月が巡って来た。
桂川の川水を引いた池の水面に満月が映っている。
古書院の縁側から張り出した竹箕子の<月見台>に
八條宮智忠親王たちの観月の宴が催されたのだ。
ここ桂の地は古くから貴族の別荘地として知られ、
古くは藤原道長の別業が営まれていた。
近くの松室には<月読神社>があり、桂という地名も
中国の<月桂>の故事から来ている。
八條宮家初代の智仁親王によって桂山荘の基礎が築かれ
<古書院>は一六一五年頃に竣(な)ったと言われる。
八條宮家二代の智忠親王は<新御殿> などを付加され、
今宵、後水尾院をお招きになったのだった。
回遊式庭園の桂川から水を引いた池には築山や洲浜、
橋、石灯籠が配され、茶屋の松琴亭、賞花亭、笑意軒、
月波楼が黒い影となって佇んでいる。

後水尾院は、すっかり寛がれ

   河波に月のかつらのさほさして
        明くるもしらずうたふ舟人

   明けぼのや山本くらく立ちこめて
          霧にこゑある秋の川水

と歌を詠まれた。
松琴亭の唐紙の雲母(きらら)刷りの紋様が光線の射し方によって
様々に変化するのにも興味を示され、職人は誰かなどと
お聞きあそばされた。
後水尾院は四代の帝にわたって絶大な院政を敷かれ、
また色好みとしても知られている。

    身にそへて又や寝なまし移り香も
          まださながらの今朝の袂を

    待ちいでてかへるこよひのつれなさは
            ひとり見はつる有明の月

などの恋の歌を残された。
この頃、徳川幕府は慶長二十年(一六一五年)に
「禁中並公家諸法度」を発するなど朝廷の行動全般を支
配するようになった。それに対する怒りと諦めとが、
ないまぜになった御生涯であったろうか。

   芦原やしげらば繁れ荻薄
      とても道ある世にすまばこそ

   世の中はあしまの蟹のあしまとひ
         横にゆくこそ道のみちなれ

これらの歌に、院の想いの一端が、かいま見える。

e0048413_19442227桂離宮
b81cfaa6092005eb53e8984f458c5a17桂離宮
img52c0a41dzikczj桂離宮
9433332桂離宮「笹垣」
 ↑ 外構の笹垣

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アンソロジー
↑ アンソロジー『詩と思想詩人集2012』(土曜美術社刊)← 538名の現代詩作家を集めたものである。
私の、この作品は、この本に登載したものである。今日、発刊されたので表紙を出しておく。

私の詩作品もさることながら、桂離宮の見事な佇まいの写真を、ご堪能あれ。
私の詩の場面の時代には「桂殿」と宮中では呼ばれていたらしい。
「桂離宮」と称されるようになるのは、明治以後に宮内庁が所管するようになってからである。
昔は金がなくて、荒(すさ)びようがひどかったようである。


佐伯泰英『惜櫟荘だより』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
佐伯

──新・読書ノート──

     佐伯泰英『惜櫟荘だより』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 
             ・・・・・・・岩波書店2012/06/20刊・・・・・・・・ 

私の愛読書である「古着屋総兵衛」シリーズの著者・ 佐伯泰英が譲り受けた、元岩波茂雄の熱海の別荘「惜櫟荘」の改修にまつわるエピソードである。
先ず、岩波書店のホームページに載る文章を引いておく。
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      著者からのメッセージ     佐伯泰英

 熱海の一角に仕事場を設けて見えてきたものがある.
出版界の盛衰,日本の凋落,まるでジェットコースターに乗ったような小説家のあたふたぶりである.
岩波別荘惜櫟荘(せきれきそう)の番人に就いてみると,過去七十年余の歴史といやでも向き合わねばならなかったし,
建物の修復を通して,日本人の木造建築技術はやはり捨てたものではないとも分かりました.
修復中に東日本を大震災が襲い,原発があっさりと壊れました.
日本の先端技術と管理保守能力がもろくも露呈したのです.それでもわれら日本人の暮らしは続きます.
惜櫟荘を過去から未来へ継承し,保存するために何をなすべきか.
私の初のエッセイ集は,文庫が建て,文庫が守った惜櫟荘が主人公の物語です.
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■ 目次

文豪お手植えの……
仕事場探し
鮑と文庫
ティオ・玲二
五十八の原図
惜櫟荘解体
作家と教師
子のライオン
四寸の秘密
詩人と彫刻家
上棟式の贈り物
五十八の灯り
ベトナムへの旅
ホイアンの十六夜
一間の雨戸
画家グスタボ・イソエ
翌檜の門
書の話
児玉清さんと惜櫟荘
呼鈴と家具
自然の庭
遅い夏休み
修復落成式(一)
修復落成式(二)
松の話

あとがき

「目次」は、以上のようになっているが、その中から「文豪お手植えの……」の一篇を引いておく。

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  文豪お手植えの……

 十数本の松の大木に鳶が羽を休める岩波別荘が『惜櫟荘』と正式な名があることを知り,娘がインターネットで建物について書かれた本を買い集めて,
岩波書店の創始者岩波茂雄と建築家吉田五十八の,頑固と意地のぶつかり合いの末に生まれた作品であることを知った.
 わが仕事場の敷地より海側に一段下った惜櫟荘は,山桃や柿など木々に遮られて屋根がちらりと見えるばかりで,建物の全容は知れなかった.
七十年余の松籟を聞いてきた屋根は軽い弧を描いて,艶を漂わせて官能的であった.
 (見てみたい)
と希求するようになって数カ月後,惜櫟荘に庭師が入っているのを見て,親方に見せてくれませんかと声をかけてみた.
 「家は見せることはできないが庭ならいいよ」
という言葉に私と娘は初めて惜櫟荘を訪れた.まず海が目に入った.
 「ええっ」
と娘が絶句した.
わずかに距離が離れただけで海の風景が違っていた.松の枝越しに見える相模灘,その真ん中に初島が浮かんでいた.
視界を東に転じたら別の海が待っていた.真鶴半島の突端の三ツ石に白く波が洗う景色だった.
わが仕事場と惜櫟荘の間に,六,七メートルほど落差があり,また複雑な崖地をなすせいで,かようにも異なった景色を生み出していた.
 惜櫟荘の名の由来となった老櫟は,支え木に助けられて地上二メートルのところから直角に角度を変えて横に幹を伸ばしていた.
昔の写真で見るより幹は痩せ細っていた.筋肉を失い骨と皮だけの媼(おうな)の風情,平ったい幹の所々にうろを生じさせていた.植木屋の親方が,
 「隣にあるのが二代目の櫟」
と教えてくれた.初代が枯れることを想定して二代目が用意されたらしい.
 だが,私の目にはすくすくと育つ二代目より腰の曲がった初代櫟がなんとも好ましく,したたかに映った.
 惜櫟荘は雨戸が建て回されて内部の様子は窺うことはできなかった.
だが,見慣れた屋根と茶色の聚落壁が調和した簡素な佇まい,三十坪の建物が相模灘を眼下に従えて清楚にして威風堂々としていた.
雨樋を設けていないせいで,屋根の庇の景色がなんとも淡麗であった.屋根を流れてきた雨を雨落ちが受ける仕組みは,建物を実にすっきりと見せた.
 のちに岩波ホールの支配人岩波律子に聞いた話だが,ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ夫婦が惜櫟荘に一夜泊まった.
その翌朝,律子さんが訪ねると屋根から絹糸のように白く光って落ちる雨の帯越しの相模灘をワイダ監督は写生していたそうな.
 歌舞伎,長唄と江戸の芸能に通暁した吉田五十八の感性と信州人岩波茂雄の海への憧憬の結晶がそこにあった.
 ワイダは巨人と天才の志したものを直感的に察知したのだろう.

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これを読むと、佐伯泰英はエッセイの才も秀でたものであるのが、よくわかる。
「帯」文にある
<文庫が建て、文庫が守った>という部分は、一世を風靡した「岩波文庫」で儲けた金で、この山荘が建てられ、
今しも時代小説の「書下ろし文庫」の創始者・佐伯泰英によって、この山荘が修復された、という意味である。
佐伯泰英の、その意気やよし、と申し上げたい。 ぜひ、ご一読を。



木村重信『世界を巡る美術探検』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
重信

──新・読書ノート──

      木村重信『世界を巡る美術探検』・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・・・思文閣出版2012/07/01刊・・・・・・・・・・

私の兄・木村重信の最新刊の本が贈られてきた。
長年あちこちをフィールドワークして来た彼の集大成とも言えるものである。
Ⅰ ヨーロッパ、Ⅱ アジア、Ⅲ アフリカ、Ⅳ オセアニア、Ⅴ アメリカ と章立てされているが、その中から、一番はじめの記事を引いておく。

  Ⅰ ドル二—・ヴィエストニツェ(チェコ)・・・・・・・・・・木村重信
         氷河時代のテラコッタ製女性像

狩獵漁撈民にとって絶好の地
二〇〇九年五月、諸新聞はドイツ南西部のホ—レ-フェルス洞窟で、約三万五〇〇〇年前の氷河時
代の女性裸像(いわゆるヴィーナス像)が発見されたと、写真つきで大きく報じた。高さ約六センチ、
重さ三三グラム、左の肩と腕が欠損しているが、巨大な乳房と大きな腹、女陰を示す逆三角形が際
立っている。同時に長さ21.8センチのハゲワシ骨製の笛も見出された。
後期旧石器時代のこのような女性裸像は、西はフランスから、イタリアや中・東ヨー口ツパを経て
東はシベリアのバイカル湖畔までの広い地域から、約六〇点発見されている。サイズは10センチ内
外の小さい像が多く、最大のサヴィニヤ—ノ-スル-パナ—口像(イタリア)が22センチである。
これらの女性裸像は動物の骨や牙、石でつくられているが、ただ一つ、テラコッタ(粘土 〈テラ〉
を焼いた〈コッ夕〉もの)製がある(図1左)。出土地はチェコのドル二ー-ヴイェストニツェであ
る。最古の焼成土器は約一万年前にイランでうまれたと考えられているから、それより二万年も前の
後期旧石器時代にテラコッタ製の彫刻がつくられたことは、大きな驚きである。
二〇〇六年七月下旬、私はブルノから約四〇キロ南方のドル二—•ヴィエストニツェに車で向かっ
た。国道E65をフストべチェで降りて少し行くと、前方に東西に長ハノヴェー •ムリ—二湖が見え、
その湖を道路が横断している。その横断道路が終わったところに、ドル二 ー.ヴィエストニツェ村が
ある。ドル二 ーは「低い」の意である。
この村は数十戸の小さい集落であるが(図2)、その中心のバス停留所のところに二階建の考古学陳列館
がある。その二階の窓から外を眺めると、東方のパヴロヴ髙地に口 —マ時代の城塞ディ—ヴチ—.フラディ
が見え、南方の山地にもシロトチー.フラ—デク城の廃墟が望まれる。
北方と西方には先述の湖と、それに流入する、北からのスブラト力川と西からのデイエ川がひろがる。
この地形を見て私は、ここが旧石器時代の狩獵漁撈採集民にとつて絶好の生活の場であったことを実感
した。なぜなら川、湖、山や谷といった地形が、落し穴や追い込みによる獣の狩猟、魚や貝類の漁撈、
木の実の採集にきわめて恵まれているからである。またパヴロヴ高地にロ —マ帝国の守備隊の本拠(ムショヴ)
が置かれたように、獲物である獣を見張るのにも最適の地であった。

マンモス•ハンタ—の生活
陳列館は小ぢんまりした規模であるが、内容は充実している。戦前のカレル•アブソロン(1924~38年)
以来の長年月にわたる発掘調査によって、数多くの遺品が発見された。とくこ第二次大戦後、近くの
パヴロヴ高地の東斜面で、約四平方キロにわたる広大な居住跡が見出され、調査は現在も続行中である。
出土した多くの石器、骨角器(動物の骨や角でつくられた道具や武具)などの遺品に即して、陳列
館では後期旧石器時代人の生活が示されている(女性裸像などの彫刻はブルノのモラヴィァ地方博物
館にあり、ここには複製が展示されている)。それによると、当時この地に住んだ人びとはマンモ
ス•ハンタ—であった。マンモスは季節的に群れを組んで移動するが、通過する谷は毎年きまってい
た。したがってスブラト力川とディェ川が合流するノヴェー •ムリ— 二湖畔のドル二— ・ヴィエスト
二ツェは最良の猟場であった。かれらの武器は投矢と投槍で、弓はまだ知られていなかつたから、マ
ンモス猟は落し穴や追い込みによっておこなわれた。このことは、ここから約一〇〇キロ北東のペチ
ヴァ河畔のプルシェドモスティ—遗跡によつて証明される。この遗跡には六〇〇頭以上のマンモス骨
の堆積があったが、そのなかに食糧獲得や道具製作のためにはあまり有用でない幼獣が多く含まれて
いたからである。
ドル二—・ヴィエストニツェでは、旧石器時代人の生活層が黄土の厚い層に覆われていた。この黄土
は紀元前二万年頃に堆積したが、平地に建てられた住居や生活遺物はすべてその黄土層の下にある。
皮葺き屋根をもつ住居の平面は円形ないし楕円形で、複数の炉があった。炉の近くから石器や骨角器、
テラコッタ製動物像が多く見出された(図3)。またマンモス骨を含む、大きな貝塚が発見されてい
るから、湖や川での漁撈も大切な生活の手段であったことがわかる。
ある住居跡の端に墓があり、四〇歳ぐらいの女性の遺骸が見出された。遺骸は身体の右側を下にし
て、二つのマンモス肩胛骨に覆われ、頭蓋骨には赤色が塗られていた。赤色は生命(血)の表象とし
て、他遺跡の遺骸にもほどこされている。ここの生活層からは、三人の青年の遺骸も見出されている。

出産願望の「ウイ—ナス像」
陳列館の出土状況を示す地図によると、先述の女性裸像は、村の少し東のノヴエー .ムリ—二湖畔
の、紀元前二万七〇〇〇〜二万五〇〇〇年の層から見出され、そのすぐ近くから各種動物像が出土し
た。これらはいずれも、マンモスの骨を焼いた灰と粘土を混ぜ、人物や動物に成形した後、火で焼き
締めたものである。このような技術の発明によって、非常に自由な造形が可能となり、人物や動物の
姿態が的確にとらえられた。 (以下、略)

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多くの人によって、広く読まれることを期待する。
本文はスキャナによって取り込んだが、どうしても文字化けが生じる。出来るだけ修正したが、見苦しいものがあれば指摘されたい。修正します。

Wikipedia木村重信 ← 詳しくは、ここで。

三井葉子句集『栗』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
栗

──三井葉子の詩・句──

     三井葉子句集『栗』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・・・・洛西書院2012/06/30刊・・・・・・・・・・

三井葉子さんはベテランの現代詩作家なのだが、平井照敏に勧められて「俳句」も作っておられる。
その師匠の、平井照敏は先年亡くなったが、ゆかりの句会が首都圏であれば、喜んで出かけられるという。
第一句集『桃』は、このプログでも採り上げたことがある。
<俳句は世界中で一番短い詩である>とは、平井照敏の言葉である。彼自身も、もともとは詩人だったが、感化されて俳人となった人である。
加藤楸邨の「寒雷」誌の編集長などを務めた。
私は彼の編集になる 平井照敏編『新歳時記』全5巻(河出書房新社)1989年初版 を愛用している。
私は以前入っていた同人誌の関係で、彼ゆかりの俳人・岡井省二(故人)などと知り合ったこともあって懐かしい。
以下、今の時期の句をいくつか引いておきたい。

     切れ切れのまにこそ蛍とびにけり

     氷菓子媼が掬ふ匙白し

     夏の浜行きちがふ波無量波

     ひとり寝は頼りなけれど半夏生

     帯の間にぶんぶんはつみ帰る朝

     石門に濡れ髪が待つ晩夏かな

     めんそーる くちびるに塗るむなしかり

     賤しきをあきらめてカニ横に這ふ

     雲湧きて鯨一族空を行く

     蜘蛛の子や破れ目を逃げるはじめかな

     菊喰らひ おや まあ肥えて子蛞蝓

     呼んだとて応ふるものか立葵

     止まらざる時止めむとか あぶら蝉

     落鮎や胎は子孕むあぶらにて

     夏草や長けし子眺め飽きずゐる

     それならば畦豆も播く夏の畔

     星は無機 なれど恋かな別れかな

     あら おぼろ 月に背中を見せて寝る

     蝶がとぶなぜ飛ぶのかを知りたさに

     こそばゆとのばした肢を摺るてふてふ

     人殺(あや)むちからのごとき花芯かな

     億年と言へばしづかな安堵かな

     ではまたね そろりと別れバスに乗る

     五十にもなる子と頒かつ青菜かな

     情動や どれみふあそらと柳絮とぶ

     良き子持ち栗の渋皮剥く夜かな

掲載順に選んだが、季節は春から秋へと亘っているし「無季句」もあるようだ。
「一字アキ」などの試みもあり、面白い。真っ当な俳人からは邪道と呼ばれることもやってみてもらいたい。
ただし、切れ字「かな」の安易な使用にはギモンが残る。


瀬戸内寂聴『烈しい生と美しい死を』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
瀬戸内

──新・読書ノート──

       瀬戸内寂聴『烈しい生と美しい死を』・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・新潮社2012/06/30刊・・・・・・・・・

        その昔、女の離婚は罪の匂いがした──。
        平塚らいてう、田村俊子、岡本かの子、伊藤野枝、管野須賀子……
        「青鞜」の時代、百年前の女性たちは因習と闘い、
        命を燃焼し尽くすように烈しく恋と革命に生き、潔く美しい死を選び取った。
        九十歳を迎えた著者が、自らの波瀾万丈の人生と重ねて渾身の筆で描き出す百年の女性讃歌。

新潮社の読書誌「波」2012年7月号より書評を引いておく。
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      嵐のなかで夢見るひとたち        森 まゆみ

 昨年二〇一一年は、三月十一日の未曾有の震災が起きた年であると同時に、日本初の女性解放誌『青鞜』創刊百年の記念すべき年だった。
そして十一月、東京新聞夕刊に瀬戸内寂聴さんの『この道』がはじまると、大正時代に徳島で生まれたご自身の来歴が語られるのかと思いきや、
『青鞜』の発刊から百年前の「新しい女」が、因習からの解放の希求が、それを達成する苦しみが語られて行く。
 平塚らいてう、田村俊子、岡本かの子、伊藤野枝、小林哥津、尾竹紅吉、管野須賀子……。でも最後まで読むとちゃんと著者の自伝になっている。
それも百年の女性たちの生き方をずらりと並べた中での、構えの大きな自伝に。その連載がまとめられたのが、本書である。
 ある男友達は毎晩、連載で知った彼女らの魅力についてツイッターしていた。
 それは私がかつて中学生時代に波にさらわれるように読んだ『美は乱調にあり』の世界である。
しかし新聞連載という形をとることによって、一人一人の魅力はくっきりと際立ってくる。
初めての読者は、明治の末から大正のはじめにかけて、かぼそい力で自前の雑誌を作ろうとした女たちがいることを知る。
「元始、女性は太陽であった」と高らかに宣言した平塚らいてう。年下の生活力のない画学生と同棲し、未婚のまま赤ん坊を産んだ。
当時としてはどれほど勇気あることだろう。
しかし静かな内省的な時間を大事にする彼女が子どものような男と雑誌の二つは持ちきれなくて、ついに雑誌を手放すゆくたてをはらはら読み進めることになっただろう。
 そして高級官僚の娘で教養も高かったらいてうに対し、福岡の海辺の村から出て来た十代の伊藤野枝のなんという溌剌とした吸収力。
十代で『青鞜』に加わり、女学校の恩師辻潤にそだてられ、彼の子を生みながら、原稿を書き、社会の非難に元気よく立ち向かって行った野枝は、
妊娠中に木村荘太の求愛に動揺し、第二子を産んだあと、乳のほとばしるなかで新しい男大杉栄に抱擁される。
そして大杉の妻堀保子と恋人神近市子との四角関係を戦い抜き、それはついに日蔭茶屋事件という刃傷沙汰になって、曲折の末、野枝は恋の勝利者となる。
 著者は、それぞれの女たちが「そのときをそうにしか生きられなかった」ことに対し、じゅうぶんあたたかい理解をもっている。
「こんな野枝を不貞だとか、非常識だとか嘲笑する人物は、一度も本気で愛し愛されたことのない人間だろう」などと書かれていて、どきっとしてしまう。
 私自身、地域雑誌を同じ千駄木で始めたものとして、『青鞜』にひとかたならぬ愛着を持ってきた。
著者が女性たちの生き方、恋愛、出産、別れを強調するのと異なり、メディアとしての『青鞜』の作られ方、受け取られ方に興味がある。
たとえば部数とか、印刷所選びとか、広告集めとか、校正や配本、お金の出入りなどに。
 と同時に、三人の子どもがいたために男に奔りきれなかった自分(一人ならできたかも?)としては、子を辻潤のもとに置いて大杉に奔り、
第二子も御宿で里子に出してしまう伊藤野枝の心理は理解しにくい。人はどうしても自分の影法師の中にしか、他人を推し量ることができないものなのか。
しかし若妻として恋を得て、子を置いて家を出た瀬戸内さんは、この伊藤野枝の行動にも深い理解を示している。
ご自身、もとの家に自分の産んだ子を盗みに行ったというような葛藤を生涯かかえつつ。
 伊藤野枝は後世に瀬戸内寂聴という知己がいることを、もって瞑すべきであろう。
そして野枝は関東大震災後の混乱のなかで、夫と甥とともに権力によって若くして縊り殺されたけれど、理解者は九十代を迎えてなお、繰り返し自分を語ってくれる。
なんと幸せなことではないか。
岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』などの先行研究はあったとしても、伊藤野枝が広く世に知られるようになったのは瀬戸内晴美の小説『美は乱調にあり』によるものだ。
 だけど伊藤野枝は一八九五年生まれ、瀬戸内さんは一九二二年生まれ、二十七歳の差しかなく、これは瀬戸内さんと私の三十二歳の差より小さい。
野枝が長生きすればもちろん瀬戸内さんと出会えていただろうし、平塚らいてうも長生きして一九七一年までは存命だったので、
瀬戸内さんだって、いや当時、高校生の私だって会おうと思えば会えなかったわけではない。考えてみれば不思議。
 しかし著者は「どうして瀬戸内さんは私に逢いに来ないのかしら、来れば何でも話してあげるのに」とらいてうや富本憲吉夫人となった尾竹紅吉が言っても会いに行っていない。
これは対象と距離を置きたいという作家の潔癖さであるとともに、なんといっても著者が「野枝好き」であるからだろう。
毛が濃くて、あか抜けない、ぷりぷりした弾力性のある野枝、女性たちからは田舎臭い小娘と思われながら、けっこう男たちには引力が強かった野枝、
ダダイスト辻潤とアナキスト大杉栄という才能ある男二人に愛され大切にされた野枝。
子どもより自分が大事、畳の上では死ねないと覚悟して「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と書いた野枝、
大杉の日本脱出を支え、ともに関東大震災後に縊り殺された野枝、その二十九歳の短い生涯はすばらしく魅力的である。
 それにしても、伝記作家の私には、著者が六〇年代に野枝の叔母、妹、娘たちに会っていることはチョーうらやましい。
『青鞜』関係者の生田花世や小林哥津にも、岡本かの子の子息岡本太郎や管野須賀子の恋人荒畑寒村にも辻潤の恋人たちにも。
資料は逃げないが、人の話を聞く機会はのがすと永遠にめぐってこない。
ここに書かれたことを大切に受け取り、違う光を当てて書きついで行くことが、私たち次の世代の使命であり義務であろう。そうして歴史はつながって行く。
 瀬戸内さんが東京電力福島第一原子力発電所の事件(事故ではない)に心を痛め、福島の女性たちと一緒に霞が関の経産省前の抗議のテントにいらっしゃる姿を新聞で拝見した。
ひとが生まれ、育ち、前の世代を継承し、後の世代に託し、歴史がつながって行くこと、原発はそれを奪ってしまう、そう思われたのではないか。
 らいてうが生きていたら、野枝が生きていたら、いま何をしていただろう。
本書を軸にそう考えることが、自分をごまかさなくていい、嘘をついて生きなくていい、という解放感を与えてくれる。 (もり・まゆみ 作家)
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「立ち読み」も出来る。 お試しあれ。


老後つてこんなものかよ二杯目のコーヒー淹れる牧神の午後・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ ルーベンス筆「パンとシュリンクス」─カッセル州立美術館所蔵

     老後つてこんなものかよ二杯目の
             コーヒー淹れる牧神の午後・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は最新刊の私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。

ご存じのように、この話「牧神の午後」のエピソードはギリシャ神話に発するが、有名になったのはフランスの作家・マラルメの詩による。
それに刺激されてドビュッシーの作曲があり、よく知られている。
私の歌は、それらを下敷きにしているのである。 以下、それらについて少しWikipediaの記事を引いておく。

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 ↑ ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」CDの一例
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『「牧神の午後」への前奏曲』 (ぼくしんのごごへのぜんそうきょく、仏:Prélude à "L'après-midi d'un faune")ホ長調 は、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーが1892年から1894年にかけて作曲した管弦楽作品であり、彼の出世作である。

概要
この曲はドビュッシーが敬慕していた詩人 マラルメ の『牧神の午後』(『半獣神の午後』)に感銘を受けて書かれた作品である。" 夏の昼下がり、好色な牧神が昼寝のまどろみの中で官能的な夢想に耽る"という内容で、牧神の象徴である「パンの笛」をイメージする楽器としてフルートが重要な役割を担っている。牧神を示す主題はフルートソロの嬰ハ(Cis,C#)音から開始されるが、これは楽器の構造上、非常に響きが悪いとされる音である。しかし、ドビュッシーはこの欠点を逆手にとり、けだるい、ぼんやりとした独特な曲想を作り出すことに成功している。フランスの作曲家・指揮者ブーレーズは「『牧神』のフルートあるいは『雲』のイングリッシュホルン以後、音楽は今までとは違ったやり方で息づく 」と述べており、近代の作品で非常に重要な位置を占めるとされる。曲の終盤ではアンティークシンバルが効果的に使用されている。

この後、ドビュッシーは、歌曲集『ビリティスの3つの歌』(1898年)、無伴奏フルートのための『シランクス』(1913年)、ピアノ連弾曲『6つの古代碑銘』(1914年)などの作品で牧神をテーマにしている。また、ラヴェルのバレエ音楽『ダフニスとクロエ』(1912年初演)にも牧神(パンの神)が登場する。
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削除されるかも知れないが、この曲の演奏のyoutubeを出しておく。 ↓


私の午後のコーヒー・タイムを「牧神の午後」になぞらえるような不遜な気は、私にはさらさら無い。
コーヒーを呑みながらドビュッシーの、この曲を聴いている、と受け取ってもらえば有り難い。
因みに、今年はドビュッシー生誕150年の記念すべき年であることを書き添えておく。
では、また。


西村美智子『イル・フォルモサ』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
フォルモサ

──新・読書ノート──

     西村美智子『イル・フォルモサ』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・文芸社2012/08/15刊・・・・・・・・

私の友人・西村美智子の本が出た。
前にも『新釈シェイクスピア 神々の偽計』 『無告のいしぶみ』の前著の小説について、ここに書いたことがある。
著者は1940年3月から1946年3月まで台湾に在住したことがある。この期間は彼女の少女期にあたる。
日本が戦争に負けて引き揚げてきたことになるが、上陸地は和歌山県田辺港だったという。
父が京都出身なので以後京都で暮らすことになる。
そういう体験が、この小説執筆の動機になっているようだ。
著者によると「疎開地」が小説と似たような地域だったという類似はあるが、フィクションに終始したという。
この本の「帯」文は図版として読み取れるので繰り返さないが、裏の「帯」には、本文の末尾近くに載る

     <・・・・今から思えばミゼラブルな疎開生活であった
      のに、叢林を歩いたり、夜明け前の星空に向き
      合ったりして、ぼくたちは、呉さんと葉さんから、
      ぼくらが暮らしている地が、イル・フォルモサ、
      麗しの島であることを教えられた。     >

という一節が引かれている。
これこそ彼女の言いたかったことの的確な要約だと言える。

周知のことだが、「イル・フォルモサ」という言葉の由来を書いておく。

16世紀半ばの大航海時代、ポルトガル船が日本への航海中、台湾を発見した船員が「イル・フォルモサ!」(美しい島だ!)と叫んだことから、欧米人には「フォルモサ」とよばれた。その後、オランダ東インド会社により支配が始まり、南部を中心に統治された。北部はフィリピンを統治していたスペインが上陸したが後にフィリピンでの反乱を鎮めるため台湾を離れ、オランダが支配を強化した。1662年、大陸で明朝復興闘争を展開していた鄭成功が台湾に渡り、オランダ勢力を追い払った。ちなみに、鄭成功は九州・平戸の出身で、母は日本人。鄭成功の死後、台湾は清朝の版図に入る。日清戦争後、1895年の下関条約により日本支配が始まり、1945年まで日本統治下に置かれた。戦後、日本は台湾を国連に明渡し、国連は台湾の主権を蒋介石率いる中華民国の主権下においた。

この小説の主人公は、二人の少年──都筑隆史(つづきたかし)と暁野満也(あけのみつや)という昭和七年生まれを縦糸として物語は進行する。
時期は日本が戦争に負けた八月十五日の、天皇の玉音放送を聴く日を前後する戦争末期の台中州彩雲郡叢生庄が舞台である。
隆史の父・信隆は京都でドイツ文学を学んだ学者。満也の父・智満は東京でフランス文学を学んだ学者。
この二人が蓬莱大学に赴任してきたのは昭和六年である。
昭和二十年四月一日、総督府の命によって台湾蓬莱大学人文学部は家族ぐるみの集団疎開を行い、上記の台中州彩雲郡叢生庄の奥地に宿営したのだ。
以来、彼らの集団は四か月半ここに暮らしているのであった。
鰐沢道義教授という国文学専攻の人が居て、この人が国粋主義者の典型として登場している。
人物の描き方に多少の「類型的」なところはあるが、戦争中には、こういう人間が必ず居たので違和感はない。
先に挙げた呉さんと葉さんというのは大学の「副手」で本島人であり、正確には呉進慶、葉銀雁という。
彼らはキリスト教会の信徒で、こっそりと二人の少年のために讃美歌を歌ってくれたりした。

     <荒野の果てに 夕日は落ちて
      妙なる調べ 天より響く
      グローリア イン エクチエルシス デーオー>

小説の真ん中あたりに便所の糞壺に「蛆(うじ)」が大量発生して大騒ぎになるところがあるが、これは「蛆」ではなく、糞便にたかる「賤地虫」(せんちむし)という。
「糞虫」とか「便虫」と呼ばれることもある。
昔の汲み取り式の便所は、関東ではどうか知らないが、関西では「賤地」せんち、と言った。
子供の頃から「せんち」とはどういう字を書くのだろうと思っていたが、汚い、賤しい場所という漢語だと後年になってから知った。
人や獣の便に取りついて食べたり卵を産んだりする虫に「センチコガネ」というのが居るが、れっきとした学術的な虫の名前になっている。
ファーブル『昆虫記』に描かれる「フンコロガシ」なども、それらの一種である。「蛆」と称する虫は、もっと小さな虫であり、死体などに湧くものを指す。
便所の糞尿の汲み取りなどは、私たちの育った田舎の小学校では上級生が汲み取るのが普通だった。
学校には付属の畑があり、その一角に糞便を溜める「肥(こえ)だめ」があって、そこでよく腐敗させたものを水で薄めて「下肥」として肥料にされた。
人の大腸には寄生虫が発生しやすく、それらは「回虫」「蟯虫」などが主なものだが、その卵が糞便に混じって出て、それが肥料として野菜などにまみれて、
それを食べた人から体内に入って悪さをするという「循環」が生じた。
だから学校では「虫下し」として何という名前だったか「海藻」を煎じたもの、そう私たちの辺りでは「まくり」と呼ぶものを呑まされた。
呑みにくいもので、水で薄めて飲みこんだりしたものだ。 この本のこの一節から、そんなことを思い出した。

巻末の一節は、<イル・フォルモサ──エピローグに代えて>と題されて、あれから六十六年後に、都筑隆史から暁野満也に充てたメール文となっている。
この辺のところが今どきの情景にぴったりで、面白い。
戦後、台湾には本土から国民政府軍が進駐してきて、本島人──台湾人を圧迫し、「ニ二八事件」という台湾自治をめぐるデモと、それに対する虐殺が起きる。
これらは今につづく台湾の国民政府と民進党に繋がるもので、今日的である。

この本は発刊前に著者からいただいていたのだが、発行日が今日になっているのに合わせて、今日付けで載せる。
一般書店にも配本されているというから買っていただきたい。
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この本は、先に書いたように全国の本屋に配本されているようで、ぼつぼつ売れ始めているらしい。
「イル・フォルモサ」で検索すると千単位のものがヒットするから、ネッチアンにはよく売れるだろう。
アマゾンの書評欄に載るものから二つ引いてみる。

5つ星のうち 5.0 台湾で終戦を迎えた彼らは、その時何を思ったのか?, 2012/8/2  By ミント -

終戦から67年。戦争を知らない日本人が大半を占める現在。経験者でしか分からない、その時代の空気を伝える貴重な本です。
主人公の少年、隆史から見た人々は、どこかに必ず居そうなキャラクターです。
人格者であるが、敗戦で価値観を根底から覆され、苦悩する父、信隆。子供の様に依存心が強く、自己中心的だが、正直な母、幸子。
なんでも器用にこなす同級生、満也。常に高圧的かつ独善的で、威張っているが、危険が迫ると自分だけ逃げようとする鰐澤教授など。
戦争の最中にも日常があり、台湾人の少年との心の交流も描かれています。
戦争経験者は、また別な思いを抱かれるでしょうが、私は、人間が苦境に立った時、どう感じ、どう行動し、どう変わるのか、という部分を、大変興味深く読みました。
幅広い年代の方に、お勧めしたい本です。
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五つ星のうち 5.0 戦時下の台湾の疎開地の生活がリアルに描かれている, 2012/8/13
By 九条憲子 "憲ちゃん" (城陽市) -

戦時下の台湾で、皇国臣民として生きようとしていた、中学生の隆史と満也
しかし呉さんや、葉さんの出会いによって、天皇が神と信じこんでいた少年
たちに疑問がわいたのではないか。その呉さん、葉さんも、のちに228事
件により、蒋介石政府に虐殺されたかもしれない。物の言えない時代、
すべての国民がいわゆる洗脳されてしまう恐ろしさを感じた。
信隆、幸子夫婦の家庭生活は魅力がある。その時代にこれほど民主的な夫はすばらしい。
幸子も時代の流れに迎合しない生き方をしたということを強調してほしかった。家事
が上手な主婦は当たり前な時代だったと思うのです。台湾へ関心を深める一歩となる
素晴らしい作品だった。
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一番後のコメンテーターが、私と同じ市に住んでいるのを見て、かなり広く読まれていると感じた。
たくさん売れることを期待して、筆を置く。



迎火は草の外れのはづれ哉・・・・・・・・・・・・・小林一茶
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  迎火は草の外れのはづれ哉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小林一茶

盂蘭盆会(うらぼんえ)は旧暦7月13日から16日まで行われる祖先の魂祀りの行事である。東京などでは新暦の7月にするところがあるが、全国的には旧暦に近い月遅れの8月15日に行われ、この前後を休暇とする企業が多い。
しかも、この前の世界大戦の終戦日が8月15日となったので、すべてのものが一時に集中する特異日となった。

仏壇前に先祖迎えのための霊棚を作り、野菜などを供え、ナスの牛、キュウリの馬を割り箸などで作って供える。
先祖の御霊はキュウリの馬に乗って還り、16日にはナスの牛に乗って、ゆっくりと、あの世にお帰りになる。
ナス、キュウリの由来については、このように説かれている。

13日の夕方、門口で迎え火を焚く。掲出の一茶の句は、その情景を詠んだものである。
もちろん各地で風習が異なるから、いくらかの違いはあるだろう。
私たちの地方では、門先での「迎え火」を焚く習慣はない。その代りに、住まいのある「在所」の入口の道の最寄りの場所に出向いて線香を焚く。
その煙に乗って祖霊が家にお帰りになるという。
もっとも現在では、車の往来も激しいし、そんな風習も廃れて、菩提寺に参詣して、盂蘭盆会供養のご祈祷をした「塔婆」などをいただいて家に持ち帰る。

写真①は霊棚の一例。写真②は盆提灯の一例である。その年に新仏が出た家では親戚が提灯をお供えする。
bon-choutin-150-2盆提灯

8月1日のBLOGで「睡蓮」や花蓮のことを書いた中で、私のところでの花栽培農家の「お盆用の花ハス」の出荷のことに触れたが、
8月上旬から出荷がはじまり、ハスの花のつぼみと、花の咲いたあとの「萼」(がく)、それにハスの葉、の三点セットを花屋やスーパーなどで買い求めて仏壇に飾る。
ハスはお釈迦様がお座りになる花の「うてな」という意味であり、また仏教とハスの花は信仰を彩るものとして切り離せないものである。

bon盆踊り
8月に入ると各地で「盆おどり」が行われる。
開かれる日は村によって決っており、遅くは9月1日に「八朔」の行事の一環として催される。
京都には京都おどりというようなものはなく、「江州音頭」による踊りが一般的である。むろん都会では、いろいろの踊りがごちゃ混ぜに踊られる。

ここで盂蘭盆会の由来について、少し書いておきたい。
この行事は、安居(あんご)の最後の日で、7月15日を盂蘭盆(サンスクリット語でullambana)と呼んで、父母や祖霊を供養し、倒懸の苦を救うという行事。
近年、イランの言語で「霊魂」を意味するウルヴァン(urvan)が原語だという説が出ているが、サンスクリット語の起源などからすれば可能性が高いという。

中国での盆会
盂蘭盆の中国での起源は古く『仏祖統紀』という本では、梁の武帝の大同4年(538年)に帝みずから同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが伝えられている。この行事が一般に広がったのは、仏教者以外の人々が7月15日を中元と言って、先祖に供え物をし、灯籠に点火し祖先を祀る風習によってであろう、と言われる。

日本での盆会
日本では、推古天皇14年(606年)4月に、4月8日と7月15日に斎を設ける、とあり、また斉明天皇の3年(657年)には、須弥山の像を飛鳥寺の西に作って盂蘭盆会を設けたとされ、聖武天皇の天平5年7月(733年)には大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中恒例の仏事となって毎年7月14日に開催し、奈良、平安時代には毎年7月15日に公事として行われ、鎌倉時代からは「施餓鬼会」をあわせて行なった。
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ここで盂蘭盆あるいは迎え火、門火などのお盆にまつわる句をあげたい。

 盂蘭盆や無縁の墓に鳴く蛙・・・・・・・・・・・・・正岡子規

 あをあをと盆会の虫のうす翅かな・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 くちなはのしづかに失せし魂祭・・・・・・・・・・・・・山口誓子

 もの食(た)ぶも食ぶるを見るも盆あはれ・・・・・・・・・・・・・中村草田男

 としよりのひとりせはしきお盆かな・・・・・・・・・・・・・森川暁水

 盆過ぎの墓地の寧けき暗さかな・・・・・・・・・・・・・菖蒲あや

 かの世より父来る盆の帽子掛・・・・・・・・・・・・・鈴木鷹夫

 迎へ火やをりから絶えし人通り・・・・・・・・久保田万太郎

 迎火やほそき芋殻を折るひびき・・・・・・・・・・・・・渡辺水巴

 門火焚き終へたる闇にまだ立てる・・・・・・・・・・・・・星野立子

 迎火を女ばかりに焚きにけり・・・・・・・・・・・・・高野素十

 迎火や母つつみ去る風少し・・・・・・・・・・・・・小西敬次郎

 おほわだの父呼ぶ芋殻焚きにけり・・・・・・・・・・・・・板東紀魚
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nasuナスの馬

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の中に、こんな歌を載せた。

    紺しるき茄子に黍がらの脚さして死者の乗る馬つくる盂蘭盆・・・・・・木村草弥

この歌を作った後に、先に書いたような「祖霊迎え」の際の「キュウリの馬」、お帰りの際の「ナスの牛」という謂れを知ったので、
正しくは「死者の乗る牛」でなければならないことが判ったが、そのままにしておく。

その背中ふたつに割りて緑金の山のなだりを黄金虫翔ぶ・・・・・・・・・・・・・前登志夫
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  その背中ふたつに割りて緑金の
      山のなだりを黄金虫翔ぶ・・・・・・・・・・・・・前登志夫


この歌は『角川現代短歌集成』③巻から引いた。初出は『鳥総立』(03年刊)。前登志夫については ← に詳しい。

学校の夏休みが始まり、いよいよ少年たちの楽しい夏だ。
掲出の写真は樹の樹液に集る虫である。  写真①はカナブンである。コガネムシとも言う。
樹液は甘い香りがして、実際は酢と甘さとアンモニア臭と色々のものが混ざったものらしい。
とにかく、昆虫採集をして樹液の近くに居ると、体に樹液の匂いが沁みつくものである。

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に

  少年は樹液饐えたる甘き香をにほはせ過ぎぬ露けき朝を・・・・木村草弥

という歌があるが、先に書いたような情景を描いているのである。

樹液の沁み出す樹の傷には、いろいろの虫が集ってくる。虫にも強弱があり、力の強いカブトムシなどはズカズカと樹液に到達するが、弱い虫は遠慮がちにオズオズと周辺から辺りをみながら近づいてくるから面白い。
写真②はカブトムシの雌雄である。
kb-kabu2カブトムシ

私は少年の頃は虚弱児で、活動的な子ではなかったが、田舎ですぐ近くには雑木林があるような環境だったから上級生に連れられて虫を捕まえに行ったりした。水泳なんかも、上級生に無理に川に突き落とされて、溺れまいと必死で泳ぎを覚えたものである。
三番目はミヤマクワガタの雄である。
miyamatarouミヤマクワガタ

四番目の写真はミヤマクワガタの雌である。

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おおよそ昆虫は雄が大きく牙も大きい。少年の頃は何も知らずに牙の大きいのを源氏、小さいのを平家などと呼んでいた。 (昆虫の雄が大きい、というのは正確ではない。バッタ、イナゴ、カマキリなどは雄が小さく、雌が大きい)
樹液の出る傷のある樹が見当たらない場合は、上に書いたように樹液に似た液を作って樹の洞などに置いておくと虫が集ってくるものである。その辺は少年なりの知恵と言えようか。
蝉などは幾つもの種類が朝早くから、やかましく鳴いていた。あまり蝉採りなどはしなかった。蝉の名前が思い出せない小さな蝉でじーじーと鳴くのがうるさかった。
夏の終りに近づくとかなかなと蜩(ひぐらし)が鳴き出す。ツクツクボウシも秋口の蝉である。

先日、暑いさなかをゴルフしていたら、何年も年月を経た大きなポプラの木に羽化した蝉の抜け殻があり、木の周りに地下から幼虫が出てきた穴が、いくつもあった。
日本の蝉は地下に数年棲んでいるから、幼木にはまだ蝉は棲みつかない。
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五番目はノコギリクワガタという立派なクワガタで、体の色が赤銅色に光っているのが特徴。この虫が子供たちにも人気があった。
昔はクヌギ、ナラなどの雑木は薪として利用されたので数年の更新期を経て伐採された。そんなタキギとしての用途もなくなって、雑木林はうち捨てられた。クヌギやナラは数年で更新されるから再生するのであって、切られなくなっては雑木林は衰退するばかりである。
琵琶湖のほとりに住む今森光彦さんは琵琶湖周辺を丹念にカメラに収めてきた人だが、琵琶湖周辺でも棚田や雑木林は、もう殆ど見られなくなった。
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虫などにまつわる私の歌を少し引いてみる。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)から

     沙羅の寺(抄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)足一本も遊ばさず来る

   かたつむりの竹の一節越ゆるを見て人に会ふべき顔とりもどす

   蟻の国の事も知らずで箒もて掃くも殺すもガリバーの我

米川千嘉子歌集『あやはべる』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
あやはべる

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↑ リュウキュウムラサキ

──新・読書ノート──

     米川千嘉子歌集『あやはべる』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・・短歌研究社2012/07/24刊・・・・・・・・・

私の歌集『昭和』(角川書店)の末尾の「長歌と散文 プロメーテウスの火」の中に、この人の歌

   余震やまぬ一枚の国苦しみつつ放射能濃き水を吐き出す・・・・・・・・・・・・・・米川千嘉子

を引用として挿入したので、そのお返しの形で、今回の歌集を恵贈された。

この作者については、2011/05/01に「あやはべる」の歌について記事を載せたので参照されたい。
この歌集には、この「あやはべる」の歌の一連も収録されている。
2010年に「三崎の棕櫚の木」で第四十六回短歌研究賞を受賞され、その受賞第一作の一連の題が、これなのである。
掲出写真として沖縄の代表的な蝶・リュウキュウムラサキを出しておく。

この歌集『あやはべる』は米川さんの第七歌集ということになる。
以下、私の心に触れる歌を引いてみたい。

*複雑な家系きはまりあらはれしマキシラリアフェルゲンナスナオナオの花
*禁忌ゆゑ母には息子が匂ふといふ 受験期に入る息子は臭し
*万能細胞生まれたる世のひとわれら月光菩薩の背中も見たり
*黒蟻のいのちはちりちりちりちりと 紙のやうな芍薬にちかづく
*買ひたくないのはたぶん正しい進化なり進化しながら滅ぶといふか

はじめの歌のカタカナは蘭の一種マキシラリア属の花らしい。この花を「複雑な家系きはまり現れし」という把握の仕方が面白い。
こういうカタカナ語に違和感を表明する人も居るが、私は好きである。
作者は身辺を積極的に詠むのも好ましい。
夫や家族など身内のことを全く詠まないという主義の人も居るが、今の世の中、カスミを食って生きているのではないのだから。
世の中の現象や科学の進歩、催し物などにも作者の好奇心は旺盛である。

*能面展めぐり終へたる身体冷え愛を乞ふ顔われははづすも
*植物や天象の名もつひとを両性具有者(アンドロギュヌス)源氏愛せし
*家中のどこにをりても寝る夫のどんな記憶にわたしは生きる
*来年は五十になるわたくしは四本の親知らず抜き母には言はず
*数学を解くとき息子が聴いてゐるあはあはと澄む「いきものがたり」の歌
*君とわれ三日違ひの誕生日来てふたりとも眼鏡光らす
*キャッチャーミット黴噴いてをりこんな時代に育つてとまだ言はざる息子
*八房のやうな隣家の白犬もわが七倍の速度で老いた

引く歌が多すぎて、困る。これらの歌も作者の関心の領域が広くて秀逸である。
「能面展」はあるいは馬場あき子先達の影響か。
どこにでも寝れるという特技、羨ましい限りである。
作者は私の子供たちと同じ年代である。私も齢とったということである。
学科にスポーツに子供は励む。この頃の子供──特に男の子は匂いを発散して臭い、臭い。フェロモンである。しかし、これも至福。
「八房」の歌に見られるドッグイヤーのことなど、情趣ふかい。

*古代中国「山海経」を読みをれば庭の緑のうつつは暗む
*恋ふるとき鳥形硯に墨を磨り飛ぶ文字を書く秋の斎宮
*鈴の屋をくるりとまはり鈴を買ふ学問きびしき現代の鈴
*明月記に「死ぬべくおぼゆ」といふ俊成柾目にてふかき死の言葉あり
*来年はたぶん息子のをらぬ部屋ふと寝て二時間内緒で眠る
*食べさせたものから出来てゐる息子駅に送りて申し訳なし   息子進学で家を出る
*パパとママはいまけんくわしいゐますと配達の人に言ひたる四つの息子
*子の去れば思ふこころに空間の生れてしづかに揺れゐる茅花

古典をめぐる旅と学習。作者のキュリオジテが発揮されて歌に稔ってゆくのであった。
そして、子の巣立ちのときが来たのである。母としての心は、からつぽ、である。

綾蝶(あやはべる)くるくるすつとしまふ口ながき琉球処分は終はらず
*飢饉ある年にデイゴは紅かりと聞きつつゆけり人なき真昼
*宮古島まなつまひるの青しじま影生まれねば一身が影
*「ほうとする程長い白濱の先は」超空を読むキンドルのしづかな渚   電子書籍リーダー
*ひたすらにひとは紙漉きキンドルのしづかな白も作りだしたり

綾蝶の歌の初出は、この歌集では推敲された。初出では「口しまひ」と動詞の連用形だったが、歌集では「しまふ口」と三句切れに改作された。
これで歌に落ち着きが出た。的確な推敲である。

沖縄──琉球弧は、複雑な歴史を孕んでいる。うちなんちゅには幸福になってもらいたい。
キンドルの歌には今の時代が反映して見事である。

*原発の不安さまざまに揉みながら闇にねむれる一枚の国
*こども産むエリちやんは京都へ行きました 嬰児のかはりに咲く夏つばき
*余震止まず一枚の国苦しみつつ放射能濃き水を吐き出す
*公園の土もきりんのシーソーも入れ替へたれば あたらしい親子
*草食べる花を食べるといふことの何こみあげて菜の花を食ふ

私の歌集に引用した歌も「余震やまぬ」から「余震止まず」に推敲された。
この一連は被災者の心に寄り添いつつ、現実を抉りだして秀逸である。

一番あとに引いたのは巻末に載る歌で、安心して食べられるものがあることの喜びと、心の揺れを活写して見事である。
この巻末の歌につづく、次の歌集を待ちたい。
この一巻を読んだ快い高揚のうちに鑑賞を終わりたい。 ご恵贈に感謝して筆を措く。 (完)

詳しくは → Wikipedia 米川千嘉子


けふありて銀河をくぐりわかれけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
natuama天の川②

  けふありて銀河をくぐりわかれけり・・・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男

「天の川」は一年中みえるが、春は低く地平に沿い、冬は高いが光が弱い。
夏から秋にかけて、写真のように起き上がり、仲秋には北から南に伸び、夜が更けると西の方へ向かう。
「銀漢」という表現もあるが「天の川」のことである。

天の川の句としては芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」などの秀句がある。
不死男の句は或る「愛」を想像させて秀逸である。折りしも、月遅れのお盆であり、いろいろと偲ぶにはよい句である。

天の川は英語では「ミルキー・ウエィ」というが、これはギリシア神話の最高神ゼウスの妻・ヘラの乳が天に流れ出したものというところから由来する。
実際は、銀河系の淡い星たちの光が重なりあって白い帯となって見えるもの。
銀の砂のように美しく、七夕伝説とも結びついて「星合」の伝統となっている。
『万葉集』に山上憶良の歌

  天の河相向き立ちてわが恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな

の歌が、古くからあり、美しさと星合の七夕伝説とが結びついてイメージされている。
以下、歳時記に載る天の川の句を引いておく。

 北国の庇は長し天の川・・・・・・・・・・・・正岡子規

 虚子一人銀河と共に西へ行く・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 別るるや夢一筋の天の川・・・・・・・・・・・・夏目漱石

 天の川人の世も灯に美しき・・・・・・・・・・・・沼波瓊音

 草原や夜々に濃くなる天の川・・・・・・・・・・・・臼田亞浪

 銀河より聞かむエホバのひとりごと・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 天の川怒涛のごとし人の死へ・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 遠く病めば銀河は長し清瀬村・・・・・・・・・・・・石田波郷

 妻と寝て銀漢の尾に父母います・・・・・・・・鷹羽狩行

 ちちははに遠く銀河に近く棲む・・・・・・・・・・・・上村占魚

 天の川逢ひては生きむこと誓ふ・・・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 乳足りて息やはらかし天の川・・・・・・・・・・・・石塚悦郎

Per_20080813_0414sペルセウス2008

この句とは直接の関係はないが、私はこんな歌を創ったことがある。
(第四歌集『嬬恋』所載)

わがいのちいつ終るべきペルセウス流星群の夜にくちづける・・・・・・・・・・・木村草弥

銀河からの連想であるが、今しもペルセウス流星群の活動の激しい時期である。


ダガンダガンは何故蒔かれたか/ネムに似たその木は/熱帯樹の間を埋めて/茂りに茂り 地をおおい・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(13)──初出・Doblog2005/08/02

    ダガンダガンは何故蒔かれたか・・・・・・高田敏子

   ダガンダガンは何故蒔かれたか
   ダガンダガンは何故茂ったか
   ネムに似たその木は
   私のめぐった南方の島々に茂り
   熱帯樹の間を埋めて
   丘にも平地にも バスの走る国道の両側にも
   茂りに茂り 地をおおい
   枝に垂れ下がる実を割ると
   黒褐色の種がこぼれた

   艶やかな黒褐色の種を手のひらに遊ばせながら 木の名を尋ねる私に
   「ダガンダガン」と 裸の土民は答え
   彼もまた腕をのばして頭上の枝から種をとり
   手のひらにこぼして見せた

   ──この種は戦争が終るとすぐ
    米軍の飛行機が空から蒔いた
    島全体に 蒔いていった
   土民は種を手のひらから払い落すと
   空いっぱいに両手をひろげて説明した

    ダガンダガンは何故蒔かれたか
    ダガンダガンは何故茂ったか

   ダガンダガンの種は首飾りや花びん敷になって
   土産物屋に売られている
   1ドル50セントの首飾りを二十本も求めたのは
   この島サイパンで兄一家を失い 慰霊のために訪れたと語る中年の
   夫婦だった

   テニヤン ヤップ ロタ
   どの島々にもダガンダガンは茂りに 茂り 地をおおい

   島の旅から帰って二カ月ほど過ぎた日
   硫黄島に戦友の遺骨収集に行った元工兵の記事が目にとまった
  ──島はギンネムのジャングルにおおわれ 昔の地形を思い出すのに
    困難をきわめた。山刀でギンネムのジャングルを切り倒しながら進
    み ようようにしてかつての我々の壕を発見し 目的を果たすことが
    できた。これは全く死者の霊に導かれたと思うほかはない──

   このギンネムとはダガンダガンに違いない

    ダガンダガンは何故蒔かれたか
    ダガンダガンは何故茂ったか
   南の島々に蒔かれた種が 急速に成長し
   茂り 隠したものの姿が 突然に私の目に浮かんだ
    ダガンダガンは何故蒔かれたか
   首飾りを求めた夫婦はそれについて何んの疑問も持たなかった

   ダガンダガンの首飾りは若い娘の胸にゆれて
   どこかの町を歩いているだろう

    ダガンダガンは何故茂ったか

    (詩集『砂漠のロバ』から)
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長い詩の紹介になったが、これも単なる観光客あるいは視察者の視点に終らず、この木の蒔かれるに至った原点に迫っている。
詩の技法としての基本であるが「ダガンダガンは何故蒔かれたか ダガンダガンは何故茂ったか」というフレーズのルフランが生きている。
この詩もまた、今月8月を偲ぶのに相応しいと思わないか。


家原文昭歌集『踏水』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
踏水

──新・読書ノート──<家原文昭の歌>

     家原文昭歌集『踏水』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・ながらみ書房2012/07/15刊・・・・・・・・・・・

この作者については「カテゴリー」に収録してある通り前歌集について採り上げたことがある。

「あとがき」に
<平成十六年四月から十九年九月までの、三年半の作品四八二首を収めた。
 当初は六十五歳から七十歳となるまでの作品を収める予定であったが、
 初めての外国旅行で十七年の大晦日からイタリアに出かけて、
 行く先々で詠んだ歌を捨て難く大半を収めたので、
 年齢でいえば六十八歳半ばまでの作品となった。
 『宜春』に続く第七歌集であるが、小堀流踏水術を詠んだ歌があることから、
 歌集名を『踏水』とした。>

ご存じかと思うが「踏水」は「とうすい」と発音する。
京都市内の疎水べりを本拠とするスイミングクラブは「踏水会」と名乗っているが、この名前は水泳にまつわるものとして、よく知られている。
「小堀流踏水術」というのは立ち泳ぎなどの古式泳法の一派である。
先に引いたものにつづいて作者は、こう書いている。

<平成十五年七月に、九十歳の母親が畑で花を採ろうとして転倒し、左大腿骨転子間骨折をして入院した。
 手術、リハビリののち四か月余りで退院したものの、在宅介護が困難なことから翌年一月には介護付き老人ホームに入院している。
 母親に費やす時間などが軽減するなかで、土に親しみ、季節に随順する生活を続けていたが、
 この歌集を編みはじめた一昨年三月に母親が死亡。また、昨年二月には係わってきた牙短歌会主宰・石田比呂志の急逝に遭遇した。
 遺言により「牙」解散という運びにとなったが、事務局を担当していたことから、いささかの時間を費やした。>

と書いてあるので、ここに歌集のすべての経緯が書かれていることになる。

以下、私の目に止まったものを抄出したい。

Ⅰ、
*百合の木の大樹芽吹ける根元より拡がる芝生たんぽぽの花
*西行の書状を博物館に見て庭の八重咲くさくらへ歩く
*地下足袋の指におのずと力入る青竹の束背負いて行けば
*わが乗れる電車は揺れて竹煮草咲くところより本線に入る
*托卵をすでに終えしかほととぎす溜池脇の林に鳴けり
*虫食いの芙蓉若葉に青虫を狩ると蜂来る脚を垂らして
*窓枠の蠅取り蜘蛛に見られつつ人差し指のペン胼胝を削ぐ
*屋内に入りて羽化せし油蝉逃して殻を手の平に載す

Ⅱ、
*イタリアに入ればイタリアに従うとベッドメーキングに置く一ユーロ(ミラノ)
*スカラ座の前の広場に長衣着け沈思のさまのレオナルド像
*ドゥカーレ宮殿さまざまに並ぶ武具のなか鉄の貞操帯十キロを越ゆ(ヴェネツィア)
*昼を飲み夜を飲むワインのハーフボトル不味きビールを避けてぞ飲める(フィレンツェ)
*清貧というを思いてアッシジの敷石道を上りてゆきぬ(アッシジ)
*笠松の並木の道を車行くアッピア街道石畳道(ポンペイ)

Ⅲ、
*「兄です」と施設の人に言いながら歩行器の母がわれを見送る
*茂木という品種を施設の母が言う庭に生りたる枇杷持ち行けば
*石垣に吹き寄せられてたずきなし羽根破れたる紋白蝶は
*秋されば母の作りし網茸の鼻弾く辛子漬を食いたし
*歳時記に香附子の例句無きことを思いて畑に香附子除く
*甲冑を着けたる男プールにて踏みおり小堀流踏水術を
*伍長とは何かと従弟の子が聞けり戦死者叔父の墓に参れば
*寄生せる南蛮煙管に秋の日を少し当てむと茅を刈り込む
*土間に鳴く蟋蟀はわが貯えの玉葱などを食いて鳴くらし

この歌集の題「踏水」は

  <甲冑を着けたる男プールにて踏みおり小堀流踏水術を>

の歌から採られているが、この歌一首しかなく、しかも、この歌をもって、この歌集全体を表しているとも思えず、いかがかと思う。

以前の作者の歌には鋭い感性と批判精神が見られたが、この本では、すっかり叙景オンリーになってしまわれた。
Ⅱ、のイタリア旅行の歌も、ただ見ただけの趣のものが多い。
自分の見たものだけではない、資料にも当たった「心象」に迫る歌を詠んでほしかった。
以前の作者の歌を知るものとして残念である。

それに私は前から作者にも言っていることだが、歌集収録の期間のことである。
この本は先にも引いたように平成十六年四月から十九年九月までの歌を収録されているが、それから、もう丸五年も経っているのだ。
以前には本の上梓について、このように間隔を置いて「歌の熟成を待つのだ」という傾向が確かにあったが、
この程度のレベルの作品なら何年置いてみたところで熟成することもなかろう。一考してほしいところである。
この本と同時に恵贈された米川千嘉子氏の歌集『あやはべる』の「あとがき」には、同氏は直前までの作品を収録する主義だとある。
私も同じ考えの持ち主である。「現時点」での、氏の現実の姿が、ありありと見えるような歌が欲しい。
忌憚のない言葉を連ねたが、私の真意を汲み取ってほしい。
不十分ながら鑑賞を終わる。ご恵贈に感謝申し上げる。


雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵まぬがれがたく病む人のあり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
011紅蜀葵

    雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)
      まぬがれがたく病む人のあり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、
この歌のすぐ後に

   このひとと逢瀬のごとき夜がありただにひそけき睡りを欲りす・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌がつづく。病身の亡妻に対する私の気持を詠み込んである。私自身にとっても愛着のある歌群である。

紅蜀葵は和名を「もみじあおい」という。アオイ科の多年草で、北米フロリダ地方の沼沢地が原産という。
日本には明治初期に渡来し、今では広く栽培される。
私の家にも、いつごろ来たのか、今の家に移った時も種を取っておいて蒔いたので毎年夏には、つぎつぎと真紅の花を咲かせる。
茎は数本かたまって直立し1メートルから2メートルに伸び、暑さが本格的になる7月下旬から9月になっても咲きつづける。
葉の形がモミジに似ていることからモミジアオイの名がついた。
鮮紅色の花の色と言い、長い雄しべと言い、どこか異国的な感じがする花である。
花は朝ひらいて夕方には、しおれる。次に咲く花は、蕾の先から少しはなびらの赤色が覗いて、明日あさに開花する。
咲き終わった実は次第に黒褐色になって丸い大粒の種が、ぎっしり入っている。この種が地面に落ちたものは、翌年芽をだすが、余分なものは抜き取られる。

俳句にも、よく詠まれているので、以下、紅蜀葵を詠んだ句を引いておく。

 引き寄せてはじき返しぬ紅蜀葵・・・・・・・・高浜虚子

 紅蜀葵肘まだとがり乙女達・・・・・・・・中村草田男

 花びらの日裏日表紅蜀葵・・・・・・・・高浜年尾

 踵でくるり廻りて見せぬ紅蜀葵・・・・・・・・加藤楸邨

 一輪の五弁を張りて紅蜀葵・・・・・・・・瀧春一

 侘び住みてをり一本の紅蜀葵・・・・・・・・深見けん二

 伊那へ越す塩の道あり紅蜀葵・・・・・・・・宮岡計次

 夕日もろとも風にはためく紅蜀葵・・・・・・・・きくちつねこ

 仏みて夜に日にいろの紅蜀葵・・・・・・・・菊地一雄

 紅蜀葵わが血の色と見て愛す・・・・・・・・岡本差知子

 紅蜀葵女二人して墓に狎れ・・・・・・・・竹中宏

 紅蜀葵籠屋編む竹鳴らしたり・・・・・・・・岡村葉子



日向輝子歌集『夕ぐれの記憶を探しに』・・・・・・・・・・木村草弥
日向輝子

──新・読書ノート──

    日向輝子歌集『夕ぐれの記憶を探しに』・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・・不識書院2010/10/30刊・・・・・・・

この作者にも先日の『昭和』読む会にご足労いただいた。 ここに厚く御礼申し上げる。
著者は1955年生まれ。早稲田大学で国語国文学を学び、田井安曇主宰の短歌結社「綱手」に入った、という経歴くらいで、あとは分からない。
詠まれた歌にも私生活は描かれてはいなくて、夫や子供のことも歌に詠まない人である。

この本と一緒にいただいた第一歌集『綺想曲』の「あとがき」に、短歌をやるようになったきっかけとして、

<1991年春、夫の大阪転勤に伴って移り住んだばかりの家の窓から、東京よりもやや色の濃い桜が夙川の両岸を埋め尽くしているのが見えた。・・・・・
心の中で何かが弾け、これまでの私に貼られていたレッテルを破り捨て、知らないもので私の中を満たしてみたいと思った。
それが、何故かわからないのだが、歌だった。私の三十代も半ばを過ぎようとしていた。
思いつきのまま、西宮北口で開かれていたコープ神戸の短歌教室に飛び込んだ私は、そこで井上美地氏の指導を受け、
まもなく田井安曇氏主宰の「綱手」に入れていただくようになった。 >

と書いてある。
この第一歌集の「帯」に
  <古典の豊穣を/よく生きて、/新しい《うた》の/地平を展く/才女の歌!/注目の第一歌集>
と、ある。
このキャプションは、もちろん編集者の書いたものだが、第二歌集である本にも通底すると言えるだろう。

「夕ぐれの記憶を探しに」というタイトルも、しゃれている。
章建てとしては Ⅰ、長き不在   Ⅱ、記憶の器   となるが、
「長き不在」の中身が、よく摑めないので困る。 一応、抜き出してみる。

        長き不在
    あるはなくなきは数そふ世の中にあはれいづれの
      日までなげかん           小野小町


 あかねあわき夕ぐれのそら吹く風よ記憶の夏のささめきに似て

 七月となりたる空は湿りいて桜桃の実のはつかに苦し

 そら色の木槿の花は今日を咲き宏子あらざる十年は過ぐ

 また逢わんと言いしより過ぎし歳月よ木槿の末は軒を越えたり

 禅林寺太宰へ急ぐ人のなかに信子もあらず長き夕ぐれ   桜桃忌 六月十三日

 わが死者と思えど淡きかかわりに過ぎれば泛かぶ二十二歳が

 楊梅のくろぐろ熟るる真昼間は寂しくてならぬ光は降るに

 あなたの知らぬ十年は過ぎ闇のいろあわあわとして蛍とぶ見ゆ

 いま飛ぶは和泉式部のほたるかも夢よりながく水に光りぬ

 死者生者それぞれに見る水の辺の草に明るくほたる点れり

ここに出てくる人名は肉親のものではなく、若くして亡くなった友人の名だろうか。
太宰とか桜桃忌などの文字が出てくるのは、それらの人が太宰ファンだったのか。
太宰治『パンドラの匣』ゆかりの私としては、この一連は素通りできなかった。
この小説の「底本」となった『木村庄助日誌』をかいた木村庄助というのは私の亡・長兄だからである。
ここに書くのは適当かどうか判らないが、少し書いてみる。
「木村庄助」は結核療養中に太宰治に傾倒し私信を送るなど私淑して小説の習作などを書いていた。
病気が重くなり二十二歳で自殺して死んだが、遺言により『療養日誌』十数冊が太宰に贈られた。
この日誌はちゃちなノートではなく丸善で硬い表紙で製本された本格的なものである。
日誌には一冊ごとに金文字の題名が打ち込まれ、現存するものの題名は「太宰を想ふ」と名付けられている。
それを受け取った太宰の手紙なども全集の書簡集にも載っているような深い関係だった。
これらのことは『パンドラの匣』の解説などにも記載されて周知のことだが、一応書いておく。
戦災のために多くが焼失したが、残った日誌は「日本文学館」にページを開いて展示されていた。
後年、兄・重信の要請によって、残った二冊のみが美知子未亡人から返還され、先に書いたように重信の編集で「底本」として出版された。
太宰研究者・浅田高明氏や兄によると、単なる日誌ではなく「小説」として書かれた、という。
たしかに日誌を読んだ感じとしては、そう受け取っても間違いではないと言える。

私たち兄弟三人についてはWikipedia木村重信Wikipedia木村草弥に詳しい。    

先にも書いたが、この人は私生活を全く描かない。夫のことも子のことも何も分からない。
私などは妻も子も父も母も、姉兄妹も歌の題材として、どんどん詠んできた。「塔」の河野裕子なんかも詠んだ方だ。
それがいいというのではないが、鑑賞の糸口が摑めないというのも、もどかしいものである。
この作者の本の編み方として「引用」があちこちに見られることがある。
私なんかも自作、他作にかかわらず、詩歌を「引用」する癖がある。

また結構、社会的な関心もある人であり、たとえば蝦夷・阿弖流為(アテルイ)を詠んだ一連数首があったりする。一首だけ引いておく。

  謀られて都大路の日ざかりに首級をさらす蝦夷阿弖流為

東日本大震災発生以来、かの地に棲息した彼やアイヌへの差別や偏見などが、今の差別になぞらえて、見直されている。
私も昨年秋に採り上げたことがある。参照されたい。

以下、私の気に入った歌を順不同で引いてみる。

*卓上に幾夜かありて熟れてゆくラ・フランスという歪な果実

   *あのころ横浜・伊勢佐木町にほど近い中学校に通っていた私は、
    ベトナムの前線から「休暇」で横須賀に上陸した米国海兵隊員らが
    伊勢佐木町や元町あたりを散策する姿をよく目にした。まだ若い彼ら
    が発する異様な雰囲気。あれは「殺気」だったのだろう。


*花びらを谷戸に散らせる山桜そこに立っていて哀しくはないか
*たそがれの麻布谷町日和下駄荷風散人急ぐ足おと
*たりけりに終わりゆきける一日あり キッチンの夜れいぞうこは泣く
*スクランブル交差点渡るを待つに思い出づ補陀落寺の石蕗の花
*崩れゆく父の記憶の三月にバイカル湖あり 高く鳥は飛ぶ
*うつむきて濯ぎ物する日の暮れに「山笑」(ヤマワラウ)という言葉を聞きぬ
*ユビキタスわれの海馬に馴染まねばふり返るなく出でて行きたり
*薔薇の咲く私鉄沿線分譲地火曜日を行く豆腐屋の喇叭
*八月は俯きて過ぐ 法師蝉のこえの降りくるビルの谷間を
*光しろき空を横切る黒きあり風切羽を地に落として
*ハルニレの下を優雅に歩み来て鴉鳴きたり北の訛に
*わたくしは記憶の器 透きとおる冬の光にたぶたぶ揺れる
*二枚貝ひそと潮吐く 待つという徒労に冷ゆる春の片隅
*潔く五月の空のありたれば裹(つつ)み持ちいる係恋ひとつ

「山笑う」というのは俳句の季語である。山の季節ごとの季語がいろいろあるのである。調べてみられよ。
「ユビキタス」などという今流行りのコンピュータ用語なども、さりげなく取り込まれている。

作者の歌は、リアリズムで詠むというのではなく、一旦、取り込んだ現実を作者のフィルターで濾過して、「心象」風景として詠まれている。
けだし、歌作りの成道として読者の心に迫るものがある。
ただ先にも書いたが、一人合点のところがあり、読者には不親切なのが痛い。
しかし「夕ぐれの記憶を探しに」という題名にぴったりの歌作りとして成功している。

一緒にいただいた、所属する結社誌「綱手」には、作者の専門領域である日本の古典「平家物語」の評伝なども執筆されていて、作者の教養が偲ばれる。

この辺で不十分ながら鑑賞を終わりたい。個々の歌については余り言及しなかったが、お許しあれ。
快い興奮のうちに読了したことをお伝えしたい。

心濁りて何もせぬ日の百日草・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
hyakun3百日草②

  心濁りて何もせぬ日の百日草・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦


「百日草」は名前の通り夏の間、百日間も秋まで咲きつづける草花である。病気などにも罹らず極めて強い花である。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも

   百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。
私の歌は「花言葉」をネタに歌の連作を作っていた時のものであり、百日草の花言葉は「不在の友を想う」である。
花言葉のことだが、私の歌の「離れゆきたる友」というのは正確ではなく、私の方から何となく離れていった、というべきだろうか。
私の性癖として、友人、知人の何らかが鼻につくと身を引くところがあるのである。一種の潔癖主義というか、包容力のなさ、ということであろうか。

hyakun2百日草③

百日草に戻ると、この草は私の子供の頃からある草で日本の草のように思っていたが、外来種らしい。外国では「薬用」として栽培されていたという。
地味な花で、今では余り盛んに植えられては居ないようだ。

nichin6日日草

今では、これも秋まで百日以上も咲きつづける写真③の「日日草」が、これに取って代わるだろう。
極めて安価な草で、病気にも強く、広く植えられている。私の方でも植えている。
いま調べたところ「百日草」はメキシコ原産でキク科の一年草で、「日日草」は西インド原産でキョウチクトウ科の一年草という。
歳時記にも、両方とも載っているので、それらを引いて終わりたい。

 百日草ごうごう海は鳴るばかり・・・・・・・・三橋鷹女

 蝶歩く百日草の花の上・・・・・・・・高野素十

 これよりの百日草の花一つ・・・・・・・・松本たかし

 一つ咲き百日草のはじめかな・・・・・・・・瀬野直堂

 病みて日々百日草の盛りかな・・・・・・・・村山古郷

 朝の職人きびきびうごき百日草・・・・・・・・上村通草

 毎日の百日草と揚羽かな・・・・・・・・三輪一壺

 母子年金受く日日草の中を来て・・・・・・・・紀芳子

 働かねば喰えぬ日々草咲けり・・・・・・・・佐伯月女

 日日草なほざりにせし病日記・・・・・・・・角川源義

 紅さしてはぢらふ花の日日草・・・・・・・・渡辺桂子

 日日草バタ屋はバタ屋どち睦び・・・・・・・・小池一寛

 嫁せば嫁して仕ふ母あり日日草・・・・・・・・白川京子

 些事多し日日草の咲けるさへ・・・・・・・・・増島野花

 出勤の靴結ふ日ざし日日草・・・・・・・・鶴間まさし

かん声をあげて/海へ走り/しぶきのなかに消える/子どもたち・・・・・・・・・・川崎洋
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          海 ・・・・・・・・・・・・・・・川崎洋

     かん声をあげて
     海へ走り
     しぶきのなかに消える
     子どもたち
      わたしは
     砂に寝て
     海を想っている

     ひとつづきの塩水よ
     われらが夏の始まりは
     いずれの国の
     冬のまつさかりか

     そして
     わたしの喜びは
     誰の悲しみ?

---------------------------------------------------------------------------
夏休みになって、毎日あついから、「海」は、子供たちにとっては楽しい遊び場である。

川崎 洋(かわさき ひろし、1930年1月26日 ~ 2004年10月21日)は、日本の詩人・放送作家。東京都出身。
彼は私と同年輩の詩人である。
海に近い東京は大森海岸に生れた。
1944年福岡に疎開。八女高校卒、父が急死した1951年に西南学院専門学校英文科(現:西南学院大学)中退。
上京後、横須賀の米軍キャンプなどに勤務。1948年頃より詩作を始め、1953年茨木のり子らと詩誌「櫂」を創刊。
谷川俊太郎らを同人に加え、活発な詩作を展開した。
その傍ら1971年にはラジオドラマ「ジャンボ・アフリカ」の脚本で、放送作家として初めて芸術選奨文部大臣賞を受けた。
1987年、詩集「ビスケットの空カン」で第17回高見順賞。1998年、第36回藤村記念歴程賞を受賞した。
1955年詩集『はくちよう』を刊行。1957年から文筆生活に入る。
日本語の美しさを表現することをライフワークとし、全国各地の方言採集にも力を注いだ。
また1982年からは読売新聞紙上で「こどもの詩」の選者を務め、寄せられた詩にユーモラスであたたかな選評を加え人気を博した。
主なラジオ脚本に「魚と走る時」「ジャンボアフリカ」「人力飛行機から蚊帳の中まで」などがある。
作曲された詩は数多い。
歌の作詞経験も豊富で、NHK全国学校音楽コンクールでは4回作詞を担当した(「きみは鳥・きみは花」「家族」「海の不思議」「風になりたい」)。

「海」に因んだ、次のような彼の文章がある。
大森海岸近くで生まれ、太平洋戦争中、中学2年の時、父の故郷である福岡県の有明海に臨む地に疎開し、敗戦後をはさむ7年間を過ごした後、現住地の横須賀市に居を移す。
つまり彼は、ずーっと海の近くに住み続けてきたことになる、と書いている。

<家で仕事をしていて、不意に海岸へ行きたくなり、飛び出すことがある。 海は不思議な生き物で、あの東京湾の海水の寄せる三浦海岸の磯でさえ、潮の具合によっては、まるでコマーシャル・フィルムに出てくるような、透明で美しい海の表情を見せてくれることがある。夏、ああ海は光の祭りだなと思う。波は二度と同じ形を示さない。美しいものの何と気短かなことだ。「人間は海のようなものだ。それぞれ違った名前を持っていても、結局はひと続きの塩水だ」というゲーテの言葉を思い出したりする。>

<以前、小笠原が返還された年の夏、放送取材の仕事で、巡視船に同乗させてもらい、嵐の海で、マストより高い波を見たことがある。とうとう引き返さねばならぬ激しい荒れようだったが、私は舷側の柱にしがみつき、船酔いのため吐きながら、そんな海を見とどけた。その時、身をのり出して下をのぞくと、海の暴れ方からは思いもつかない、青白くやさしい泡が、船体にくっついて揺れをともにしていたのが忘れられない。>
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今日は8月9日。長崎にプルトニューム原爆が落とされた。
太平洋戦争の末期だが、8月6日には広島に原子爆弾が落とされ、市街が灰燼に帰した上に、数万人の人が放射線により死んだ。
今や戦後生まれの人が日本人の大半を占めて、戦争を知らない人々が殆どであるが、戦中派の一人として、この日は語り継がれるべきだと思う。
さすがの日本軍閥も敗戦を受け入れるきっかけになった両日である。
私は、その頃、軍需工場に動員され、旋盤工としてロケット砲弾の部品を削っていた。
あれから、もう67年が経つ。



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