K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(9月)月次掲示板
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昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
aaoohiganb3ヒガンバナ大判

九月になりました。
空には鰯雲、赤トンボが飛びます。

 岬遠く風吹く海に浜木綿は白き炎立つ夏の終りに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松本みよ
 痛ましき事故にて知れること多しプルトニウムといふ語も一つ・・・・・・・・・・・・・・・・ 神作光一
 老残を引け目となして若すぎる死者の柩のあしもとにたつ・・・・・・・・・・・・・・・・・蒔田さくら子
 蒼穹の果てに小さな椅子がある 言葉に終る生とおもうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤治郎
 みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏をはこぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生
 濡れやすき花と思へり秋海棠のこされて見しかの日よりずつと・・・・・・・・・・・・・・・・福井和子
 入口と出口は同じいでてきてよびかえさるるまでが一生・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小高賢
 玄関に入つたら直ぐ裏口に出た・・・・・・そのやうなものか人生・・・・・・・・・・・・・・・・・高野公彦
 秋がくれば 秋のネクタイをさがすなり 朽葉のいろの胸にしたしく・・・・・・・・・・・・・・土岐善麿
 九月一日すなはち九朔、哲久の生日にして第一歌集の名・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢口芙美
 晩年を如何に過ぐすか考えしが成るように成ると決めて忘るる・・・・・・・・・・・・・・・・・田井安曇
 つる草や蔓の先なる秋の風・・・・・・・・・・・・・・・・・・炭太祇
 水銀の重さの夜の雨しきり・・・・・・・・・・・・・・・林田紀音夫
 木草にも九月のたゆさあるべきか・・・・・・・・・・ 相生垣瓜人
 黒揚羽九月の樹間透きとほり・・・・・・・・・・・・・・・飯田龍太
 天山南路九月の砂漠河消えて・・・・・・・・・・・・・・・・久保武
 八朔のででむしころげ落ちにけり・・・・・・・・・・・・・・・安住敦
 襟足をきれいに剃つて白露の日・・・・・・・・・・・・・・中村契子
 吾亦紅壮なる時過ぎて立つ・・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
 天女より人女がよけれ吾亦紅・・・・・・・・・・・・・・・・・森澄雄
 情ふかきゆゑにうとまれ吾亦紅・・・・・・・・・・・・・・山仲英子
 野に吹かれやうやう個なれわれもこう・・・・・・・・・・三井葉子
 ほぐれつつ魚身流るる晩夏光・・・・・・・・・・・・・すずきみのる
 リーバイス畳み売らるる暑さかな・・・・・・・・・・・・・・・栗山公
 牛啼いて誰も応へぬ大夏野・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木牛後
 背泳の視界の隅に夕立雲・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 杉原祐之
 短日や花の形に餃子盛り・・・・・・・・・・・・・・・・・小早川忠義
 せんぞのほかはたぶんもえないごみだろう・・・・・・・・御中虫
 夏帽子目深交際語らずよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今村豊
 傘に君招き入れたる詩情かな・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤文香
 どこからかしろいものてふてふてふとぶ・・・・・・・・・白石不舎
 弦あれば舐めるしやぶる さあ眠れ・・・・・・・・・・・・堀田季何
 竹やぶの裏から素直な未来だ・・・・・・・・・・・・・・・・田口鷹生
 手の甲にメモある他は素っ裸・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 鞦韆や定年退職後の肉体・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢田和弥
 明後日のこと貼られある冷蔵庫・・・・・・・・・・・・・・・生駒大祐
 蛇と遇う日も出会わざる日をどきり・・・・・・・・・・・・・・・池禎章
 抽斗を引くやさささと朝の蜘蛛・・・・・・・・・・・・・・・・・・押野裕
 馬刺てふ看板ありて日の盛り・・・・・・・・・・・・・・・ 松本てふこ
 新涼や形見の時計はや馴染む・・・・・・・・・・・・・・前北かおる
 クレヨンにはじかれてゐる秋の水・・・・・・・・・・・・・・高勢祥子  
 終電へみんなは走る晩夏かな・・・・・・・・・・・・・・・・・ 村越敦
 秋暑し仮面一枚外したり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第五歌集『昭 和』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
一般書店からの取り寄せは、角川書店の配本部門・角川グループパブリッシング発売、と指定されたい。
ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books紀伊国屋書店BookWeb、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

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これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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草弥の詩作品「徳川家光薨去に遣わされた歌」・・・・・・・・・・木村草弥
736px-Iemitu徳川家光
↑ 徳川家光像
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(22)

      徳川家光薨去に遣わされた歌・・・・・・・・・・木村草弥 

徳川第三代将軍・徳川家光は慶安四年(一六五一)四月二十日に亡くなった。享年四十八歳。
院の中宮・東福門院和子は秀忠の娘で、家光の妹である。

      将軍家光公薨去の時、女院御方へつかはさる 

   あかなくにまだき卯月のはつかにも雲隠れにし影をしぞ思ふ

   いとどしく世はかきくれぬ五月やみ降るや涙の雨にまさりて

   時鳥宿に通ふもかひなくてあはれなき人のことつてもなし

   たのもしな猶後の世も目の前に見ることわりを人に思へば

   ただ頼め蔭いや高く若竹の世々のみどりは色もかはらじ

「あかなくに」まだ飽き足りないのに。「まだき」早くも。「はつか」二十日と「はつか」=僅か、との掛詞。
「雲隠れにし」月が雲が隠れることを薨去の意味を重ねる。
「いとどしく」いよいよ。「かきくれぬ」悲しみで心が暗くなってしまった。「五月やみ」=五月闇。これも薨去に掛けてある。
三番目の歌の本歌は「亡き人の宿に通はば時鳥かけて音にのみ泣くと告げなむ」(古今・哀傷・読人不知)
             「山賎の垣ほに這へる青つづら人はくれども言伝もなし」(古今・恋四・寵)
五番目の歌「蔭」=家光のこと。「世々」竹の縁語「節よ」を利かせる。「若竹」は次世代の喩え。

「女院御方」とは、もちろん中宮・和子のことである。

ここで、徳川家に関連するものとして、下記のように引いておく。

   東照権現十三回忌につかはさるる心経の包み紙に 

   ほととぎす鳴くは昔のとばかりやけふの御法(みのり)を空にそふらし

   梓弓八島の浪を治めおきて今はたおなじ世を守るらし

寛永五年四月十六日に「東照権現十三回忌二十八品和歌」が成った。
ほととぎすも家康を追慕して鳴くだろう、という歌。
次の歌の「梓弓」は枕詞で、この歌の場合「八島」の「八」に「矢」の意が利いていて、それに掛かる。
「今はたおなじ」は本歌があり
本歌「わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしても逢はんとぞ思ふ」(後撰・恋五・元良親王)

    柏の葉のかたしたる石を将軍家光公につかはさるとて

        色にこそあらはれずとも玉柏かふるにあかぬ心とは見よ

幕府とは、さまざまの争いの経緯があったのだが、禁裏を維持する金は、すべて徳川幕府に依存しているのである。
また中宮・和子との縁は断ち切れないので、時の経過とともに、徳川家に、院も心を許すようになられたのであろう。 



   
葡萄食ふ一語一語の如くにて・・・・・・・・・・・・中村草田男
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 葡萄食ふ一語一語の如くにて・・・・・・・・・・・・中村草田男

秋は果物のおいしい季節である。ブドウもそのうちに数えられる。
品種改良されて、さまざまの種類がある。梅雨の終る頃には、もう早生種のデラウエアが出回ってくる。
岡山のマスカットのように芸術作品のような高級品ではなく、気軽に食べられるものがよい。
掲出の草田男の句は葡萄のひと粒ひと粒を口に入れながら、それを文士らしく「一語一語」と表現したのが面白い。

   葡萄一粒一粒の 弾力と雲・・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

という、いかにも前衛俳句らしい──短詩のような句も面白いと思ったが、無難な草田男の句にした。

写真②は、ブドウの若い実である。
FI2618495_2E.jpg

種無しブドウは、一種のホルモン剤のジベレリンという液にひと房づつ浸してゆく処理をするのである。
噴霧器で撒布してもよいが大半の液が無駄になるので高くつき過ぎるのでやらない。
とにかく日本の農作業は労働集約的な手間をかけるもので、世界一高い労賃が、さらにコストを押し上げて果物も一個一個が高くつく。
この段階を過ぎて実がある程度に大きくなると「摘果」といって、そのまま放置すると粒が多いままだと粒が大きくならないので、鋏で実を間引く。
これも根気の要る作業だ。さらにひと房づつ紙袋をかぶせる作業をする。もちろん殺虫剤の撒布も必要である。
商品として店頭に並ぶブドウには、こんなにもさまざまな手間がかかっている。

9.19koushuuhatake葡萄畑

写真③はブドウ畑である。レクリエーションでブドウ狩に行ったことのある人もあるだろう。
白い紙袋がかかっているのが見える。最初は完全に隠れるように袋に入っているが、完熟するにつれて紙袋の底をあけてゆく。
もちろん最初から「無袋」(むたい)といって袋かけしないものもある。
岡山のマスカットなどは「温室」栽培のもので、ものすごくコストがかかっているから、とびきり高価である。
このマスカット系の品種は皮と実が剥しにくく食べ難いので私は好みではない。

ここらで本題の文学作品の中の葡萄のことに戻る。

 のちの月葡萄に核(さね)のくもりかな・・・・・・・・夏目成美

 食むべかる葡萄を前にたまゆらのいのち惜しみて長し戦後は・・・・・島田修二

ここに引いた島田修二は、2004年9月半ばに睡眠中に死去された。もと読売新聞記者で「コスモス」の宮柊二の高弟で朝日新聞歌壇の選者だった。
島田は海軍兵学校在学中に敗戦を迎えたあと東京大学を出た。そういう人だから、「たまゆらのいのち惜しみて長し戦後は」という述志の歌になるわけである。

歳時記にも葡萄の秀句も多いが、少し引いて終る。

 天辺や腋毛ゆたかの葡萄摘み・・・・・・・・・・・・平畑静塔

 原爆も種無し葡萄も人の智慧・・・・・・・・・・・・石塚友二

 黒葡萄ささげて骨のふんわりと・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 色惜しみつつ夜明けつつ黒葡萄・・・・・・・・・・・・広瀬直人

 レマン湖のひかりに熟れて葡萄畑・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 老いてゆく恋人よ葡萄棚の下・・・・・・・・・・・・今井杏太郎

 少年がつまむ少女の掌の葡萄・・・・・・・・・・・・藤岡筑邨

 葡萄垂れ献身といふ言葉かな・・・・・・・・・・・・永島靖子

 黒葡萄聖書いつよりなほざりに・・・・・・・・・・・・山岸治子

 葡萄ひと粒を余して本題に・・・・・・・・・・・・松下美奈子

 青葡萄ひとつぶごとの反抗期・・・・・・・・・・・・宮里晄

 手秤の葡萄ひと房聖書ほど・・・・・・・・・・・・小倉通子


草弥の詩作品「八条宮智仁親王添削歌」・・・・・・・・・・木村草弥
dsc17173b桂離宮 松琴亭から
↑ 松琴亭から古書院と月波楼を望む
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(21)

     八条宮智仁親王添削歌・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院が若い頃に、父君の弟つまり叔父の八条宮智仁親王から「古今伝授」を受けられたことが記録に残っている。
和歌を作るに際しても自作の歌の「添削」をお受けになっている。記録から、その一端を引いておく。
上が院の元歌。下段が添削済みの完成した、「御集」に載る御歌である。カッコ内は御集の歌番号。

   ■ふるほどは庭にかすみし春雨をはるる軒端の雫にぞしる(一 一七四)

    降るとなく庭に霞める春雨も軒端をつたふ雫にぞ知る

   ■みる度にみし色香ともおもほえず代々にふりせぬ春の花哉(一 一七六)

    見る度に見しを忘るる色香にて代々にふりせぬ春の花哉

   ■郭公まつにいく夜をかさねても聞にかひある初音ならずや(一 一七九)

    郭公待つ夜をあまた重ねても聞くにかひある初音ならずや

   ■タ月夜ふり出しより在明のかげまでもらぬ五月雨の空(一 一八〇)

    タ月夜ふり出(いで)しままに在明のかげまでもらぬ五月雨の空

   ■此里はくもりしはてず一むらの雲もとをちの夕立の空( 一一八四)

    此里にめぐりはやらで一むらの雲もとをちの夕立の空

   ■たちぬるるしづくもあかず片岡や秋まつほどの森の涼しさ(一 一八七)

    立ち濡るるしづくもあかぬ片岡は秋待ちあへず森の涼しさ

   ■四方にみな人はこゑせで更るよの月ぞ心もさらにすみゆく( 一 一九四)

    四方にみな人は声せで更る夜ぞ月も心もさらに澄みゆく

   ■山川やもみぢ葉ながらとぢはてし氷もかくる水のしら波(一ニ〇一)

    山川やもみぢ葉ながらとぢはてし氷にかはる風の白波

   ■越路にはただ時の間に日数ふるみやこの雪のふかさをやみむ(一二〇二)

    日数ふる都の雪の深さをや時の間に見る越路なるらん

   ■をのが妻まつはつらくも大よどの恨わびてや千鳥鳴覧(一二〇四)

    おのが妻待つはつらしと大淀の恨わびてや千鳥鳴覧

   ■夕波に立行千鳥風をいたみ思はぬかたに浦つたふらん(一二〇五)

    友千鳥立ち行く須磨の風をいたみ思はぬかたに浦づたふらん

   ■笛の音もかぐらの庭のおもしろくさゆる霜夜にすみのぽる覧(一二〇六)

    笛の音も神楽の庭のおもしろく冴ゆる霜夜に澄みのぽりぬる

   ■いかになを人は見るらん世のうきにいひまぎらはす袖の涙も(一二〇八)

    よそめにはいかに見るらん世の憂きに言ひ紛らはす袖の涙も

   ■ふけぬとや猶や待みん宵のまはさすがえさらぬさはりもぞある(一二一二)

    更けぬとや猶ぞ待みん宵のまはさすがえさらぬ障りありやと

   ■此ままに又もあはずは中々にありし一夜の夢ぞくやしき(一二一五)

    又も逢はむ頼みなければ中々にありし一夜の夢ぞくやしき

   ■もらさじなそれにつけてもつらからば中々ふかき恨もぞそふ(一二一七)

    もらさじなそれにつけてもつらからば深からん中の恨もぞそふ 

こうして見て来ると、八条宮の添削が、極めて的確であるのが判る。 しかも添削に当たっては、なるべく後水尾院の元歌の語句を残して巧く直してある。
八条宮の添削のうち、記録に残っているのは六十首ほどである。
因みに、この八条宮こそ今の桂離宮──その頃は「桂山荘」と称された建物と庭園を造られた人であり、後水尾院の父君・後陽成帝が譲位を望まれた、その人である。
幕府は後水尾院に譲位を迫る。 そんな因縁のまつわるお二人であった。

院が幕府の紫衣事件などに憤慨して娘の明正天皇に、幕府の承認もなく突然「譲位」された同じ年──寛永六年(一六二九)八条宮智仁親王歿。 このとき後水尾院三十四歳である。



       
梨食ふと目鼻片づけこの少女・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
housui015豊水梨

  梨食ふと目鼻片づけこの少女・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

梨に無心にかぶりつく少女──この情景は、梨を四分割ほどにカットして食べ易い形にしたものを想像すると面白くない。
この句の情景は、梨を丸ごと、かぶりつく、ということであろう。
「目鼻片づけ」という表現は、目も鼻もどこかへ片づけて、食べることにひたすら没頭している少女、なのである。
余談だが、俳句の「俳」の字は、もと一般人と変ったことをして人を興じさせる芸人の意味だという。俳優の語は、そこから来た、と言われている。
明治以降の「俳句」も、和歌に対抗して滑稽な詩情を開拓した俳諧から出ているが、現代の俳句はもちろん、滑稽みや軽みだけですべてが表現されるものではない。
新しい短詩形文学の一形態として多種多様な心情を盛る。
この楸邨の句は、抜群の俳味をたたえてふくよかである。昭和51年刊『吹越』所収。

「梨」については、すでに9/7付けのBLOGで、私の歌を掲出して書いた。俳句についても、いくつか引用したので、改めて付け加えることもないが、「梨」=無し、に通じるとして昔の人は言葉忌みをして「ありのみ」などという命名をしたものである。

先日は引かなかった句を少し引いて終る。

 仏へと梨十ばかりもらひけり・・・・・・・・・・・・正岡子規

 梨売りの頬照らし過ぐ市電の灯・・・・・・・・・・・・沢木欣一

 孔子一行衣服で赭い梨を拭き・・・・・・・・・・・・飯島晴子

 有の実やわれの故山を何処とも・・・・・・・・・・・・上田五千石

 勉強部屋覗くつもりの梨を剥く・・・・・・・・・・・・山田弘子

 さみしさを八つに割りし梨一個・・・・・・・・・・・・鳴戸奈菜

 一目瞭然の室内ラ・フランス・・・・・・・・・・・・有沢榠櫨

 老成も若さも遠し梨をむく・・・・・・・・・・・・深谷義紀

 梨甘き夜を欠くるなく集ひけり・・・・・・・・・・・・塙告冬

 夕刊に音たてて落つ梨の汁・・・・・・・・・・・・脇屋善之

 ラ・フランス花のごとくに香りけり・・・・・・・・・・・・佐々木まき

 梨半分ラップに包み逝きにけり・・・・・・・・・・・・近藤紀子

 袋よりはち切れさうな梨の尻・・・・・・・・・・・・間部美智子

自が開く力に揺れて月下美人ひそけき宵に絶頂ありにけり・・・・・・・・・・・・・木村草弥
2002gekkabijin0716b月下美人

  自(し)が開く力に揺れて月下美人
        ひそけき宵に絶頂ありにけり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「月下美人」は長らく名前は聞いていたが十数年前に知人から一鉢もらって今も栽培している。
珍しい神秘的な花として当初は、わくわくだったが、栽培してみると毎年いくつも花が簡単に咲くので拍子抜けするようである。

040626蕾はじめ①

写真②が「つぼみ」の段階である。最初は垂れているが成熟するにつれて「勃起」するように花が上を向いてくる。
写真は、最初の下向きに垂れている段階。写真に写っている右の二本の蕾は、これ以上発育せずに、落ちてしまった。

月下美人は、もちろん外来の植物で「サボテン」の類である。
栽培本によると直射日光を避けるように書いてあるものもあるが、それはおかしく、本来、熱帯地方の植物であるから、寒さには弱いが暑さには強い。
私の家では半日以上直射日光の当るところに置いてある。
写真③が、その段階を過ぎて、蕾が上向きになりかけたところ。
040629蕾起き上がり

私は知人が栽培していた月下美人の鉢を、ここ一両日で咲くという段階のものを頂いた。十数年前のことである。
月下美人の名の通り、夕方から、晩になって、とっぷりと夜のとばりが下りた夏ならば午後9時ころから開花しはじめる。
大振りの花で直径は10センチ以上ある。もちろん手入れの仕方によって花にも大小はある。
花芽は写真③に見られるように葉の切れ込みの辺りから出てくる。葉の出てくる場所も同じような処からである。
先にサボテン類と言ったが、シャコバサボテンの花芽の出方と同じである。
写真④は勃起しかけた蕾が複数ついているところ。
626_5月下美人蕾

とにかく月下美人の蕾の発育の仕方を見ていると、男性性器が平常時のしぼんだ状態から「勃起」し、かつ大きさも何倍にもなるのと同じような動きを示すので、ある意味でエロチックである。
花はとっぷり夜になってから一時間余りかけて完全に開く。
そして翌朝には完全に「しおれて」勃起していた花も下を向いて、だらんと垂れている。
この様子も、事が終ったあとの男性性器の状態を思わせて、むしろ嫌らしい感じさえする。
しおれた花は葉の付け根から、すぐに切り取る。そうしないと次の開花に影響があるようだ。
写真⑤が、そのしおれた花の様子である。
bijin-11萎んだ花

とにかく月下美人は強い植物で、冬の間は屋内の南側のガラス越しの場所に置いてやれば栽培には問題はない。
私の家では、夏場はほったらかしである。水やりは、たっぷりと毎日夕方にやる。

掲出の歌は歌集には未収録のものである。第四歌集『嬬恋』(角川書店)には収録歌数が多くなりすぎて削ったので

月下美人たまゆらの香を漂はす明日ありや花 明日ありや花

という歌だけ載せた。しかし、この歌よりも、掲出した歌の方が佳いと思って、これにした。初出は「地中海」誌に載せた7首であり、以下に、それを引用する。

  月下美人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  かのひとに賜ひし一鉢ふくらめる月下美人の咲くを待つ宵

  この宵は月も出でざれば月下美人一花乱るる刻きたりけり

  蛇皮線を弾いて月下美人の花待つと琉球の友の言ひしも愛(かな)し

  白き焔(ほ)を吐きて月下美人のひらき初む一分(いちぶ)の隙もなきしじまにて

  友の喪より帰り来たれば月下美人咲き初めむとす 梅雨ふりしきる

  自(し)が開く力に揺れて月下美人ひそけき宵に絶頂ありにけり

  月下美人たまゆらの香を漂はす明日ありや花 明日ありや花
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月下美人に驚きを感じなくなった今なら、こんな感動に満ちた歌は作れない。
詩歌は「刻の産物」と言われるが、まさに、そのことを、この一連は証明している。

例年だと梅雨頃から咲きはじめる。昨年は、たくさんの花がつぎつぎと咲いて、うんざりする程だったが、
今年は7月は梅雨が早く終わり、異常に暑かったので花は余り咲かなかった。
秋口になってから咲くようになったが、花の数は少ない年である。

草弥の詩作品「一絲文守のこと他 立花と庭園」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
C006-thumb-3168x4752-120_533x800一糸文守筆
↑ 一絲文守筆 禅文化研究所「聴松堂文庫」蔵
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──<後水尾院>シリーズ──(20)

     一絲文守のこと他 立花と庭園・・・・・・・・・・・・・木村草弥

一絲文守(いっし・ぶんしゅ)は後水尾院に寵愛された僧である。
院は政治的、権力的な繋がりの人物よりも、こういう文人肌の人を好まれた。
院は弟の近衛信尋の仲介によって、彼に出会った。
ただ若くして早逝したので、長命の院と違って、エピソードには乏しいが、いかに寵愛されたのかが判るのが、死後三十年も経たのちに「仏頂国師」の号を贈っている。
以下、彼の履歴を引いておく。

一絲文守(1608-1646) 江戸時代前期の僧。
慶長13年生まれ。臨済宗。はじめ堺の南宗寺の沢庵宗彭に師事し,のち京都妙心寺の愚堂東寔(とうしょく)の法をつぐ。
後水尾上皇の帰依をうけ,寛永18年丹波亀岡に法常寺をひらいた。
彼は,生涯を一貫して,幕府の権勢におもねる禅宗界の趨勢を嫌い,栄利を求めず,孤高にして気韻ある隠者の禅をめざした。
この彼の禅の高潔さは,かえって後水尾上皇の知遇をえる契機となり,東福門院,皇女梅宮,近衛信尋,烏丸光広など上皇側近の宮廷貴族があいついで彼に帰依した。
詩文や書画にすぐれ,茶の湯にも通じ,小堀遠州,松花堂昭乗らと交遊した。
正保3年3月19日死去。39歳。岩倉公家の出。諡号は定慧明光仏頂国師。別号に桐江,丹山。

亀岡の法常寺のほかに、永源寺の再興に尽した。
永源寺(えいげんじ)は、滋賀県東近江市にある臨済宗永源寺派の本山。山号は瑞石山。
紅葉の美しさで知られる。開山忌が、毎年10月1日に行われる。
寺は1361年創建。開山は寂室元光(正灯国師)、開基は佐々木氏頼(六角氏頼)。
中世戦乱期に兵火により衰微したが、江戸時代初期に中興の祖とされる一絲文守(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇や東福門院、彦根藩の帰依を受けて、伽藍が再興された。
1873年に明治政府の政策により東福寺派に属したが、1880年に永源寺派として独立した。
三重県いなべ市に永源寺跡 があるが、鈴鹿山脈を挟んですぐ東側の三重県いなべ市にも永源寺の一部があったと言われている。
三重県いなべ市の伝承では、永禄年間(1558年 - 1570年)織田信長家臣である滝川一益の軍勢が、北伊勢地方の寺を焼き払いながら迫って来たため、三重県側の永源寺の僧は兵火を逃れるため、寺の宝物などを持ち一夜にして竜ヶ岳の南側にある鈴鹿山脈の石榑峠を越えて、近江の永源寺へ逃れたとされているが、永源寺側の記録には一切触れられていない。
三重県いなべ市の永源寺の建物は滝川一益の軍勢によって焼き払われたが、水田周辺に石垣の一部が残されている。
本尊は世継観世音菩薩。
寺内には彦根藩主井伊直興公の墓所がある。
旧永源寺町は、永源寺コンニャクや政所茶の産地であり、木地師発祥の地として知られる。
また付近からは平成22年に国内最古級・1万3千年前の土偶が発掘された。


後水尾院とその周辺の「文事」が栄えた理由としては、幕府との軋轢によって政治の舞台から追いやられ『禁中並公家諸法度』に従って文事に専念せざるを得なかったことが幸いした。
それだけではなく、後水尾院が本来持っていた文学的志向、大局を見渡せる能力、根底にある大らかな性格なども重要な要素として働いただろう。
「和歌」を中心とした文学活動については今までいくつか述べてきたので、ここでは立花と庭園について述べる。
立花」は、譲位後の後水尾院が和歌と並んで最も情熱を注いだ遊芸である。
いわゆる禁中大立花(寛永立花)においては、二代池坊専好が後水尾院の庇護のもと指導的役割を果たしている。
今日、立花を高度の芸術として大成させたのは専好とされるが、日本花道史の側からみても後水尾院は最大のパトロンの一人であった。
近衛家熙が記した『槐記』の享保十三年(一七二八)二月四日の条には、立花に才能を発揮していた尭然法親王(獅子吼院。後水尾院第十皇子)に対して後水尾院が、
自分の歯が悪くなったのは立花のためであるから、ほどほどにせよと忠告したという逸話が載っている(一般に、物事に凝ると歯が抜けると言われる)。
もっとも、この話には落ちがあって、法親王は、後水尾院の歯が抜けたのは立花のせいではなくて和歌のせいだと言って笑ったという。
庭園」は、もちろん修学院山荘のことである。
寛永十八年(一六四一)頃鹿苑寺の鳳林承章に命じて衣笠山付近に適地を求めさせるなど検討を統けていたが、明暦元年(一六五五)長谷への行幸の途次、
第一皇女梅宮(文智女王)のいた円照寺に後水尾院が立ち寄ったところ、その一带が気に入り、ここに山荘を造する構想が成ったらしい。
万治三年(一六六〇)頃には、ほぼ完成していた。
現在では、上・中・下の茶屋が存するが、万治にできた当時はまだ中の茶屋はなかった。
上の茶屋は最も壮大な庭園で、小高い隣雲亭に立って、眼下の浴竜池から遥か京都北山一带へと目を移していくと、雄大な景色を我が物にしようとした帝王ぶりを味わうことができる。






秋 ぼくは時の階段をおりてゆく/生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら・・・・・・・・・・大岡信
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     痛み・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

   秋 ぼくは時の階段をおりてゆく

   永遠の岸に腰をおろして

   空をわたる人の微(かす)かな足音にききいるために

   そこを一つの肉体が 時間が通る



   風がしげみを吹きわけるように

   永遠がぼくらのあいだを横切っている

   ぼくらが時おり不安にみちて

   恋人の眼をのぞきこむのはそのためなのだ



   遠い地平を魚がゆきかう暗い夜明け

   夢がふいに過去を抜けでて

   ひらきかけた唇のうえにやってくる

   誰にも知られずそこで乾いて死ぬために



   生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら

   水と空とに映えながら 愛は死の

   死は愛の旗をうち振っている

   ぼくらの中でそれにひそかに応えるものに応えながら

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この詩は学習研究社『大岡信・うたの歳時記』──秋のうた(1985年9月刊) に載るもので、書き下ろしの詩だという。
現代詩読者向けではなく、一般読者向けの平易な、分り易い詩である。
冒頭の「秋 ぼくは時の階段をおりてゆく」という出だしから、4連冒頭の「生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら」という個所など秀逸である。
題を「痛み」としたところに作者の内面を知ることが出来よう。


押切寛子歌集『抱擁』抄・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
押切寛子

──新・読書ノート──

     押切寛子歌集『抱擁』抄・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・角川書店2012/09/25刊・・・・・・・・・・・・

*「北の方位」常に頭に置けと言はれをり転生の後の我を案じて
*ビートルズにも「全共闘」にもわづか早きわれら先駆けといふにもあらず
*小春日にはロールキャベツが似合ひます 厨房に旺盛なる湯気をたたしむ
*湿潤の白茸オイスター・マシュルーム森の端に売るは秘儀のごとしも
*「月影」とふ梅林月下に蒼むらし伝聞体常にひかるきさらぎ
*あと二年堪へよといひて主治医去るこんな別れもありぬ三月
*行き場なしと思ふことあり生き難くまた死に難く春の曇天
*面構へよきはよろしき われの猫庭の老梅はたまたあなた
*あひ寄りて抱擁の後をゆるやかに別れ行きたり秋の白雲

章立ての意味か Ⅰ、Ⅱ とローマ数字があるだけで、何も書いてないので判らない。
制作時期の区別だろうか。詮索せずに素通りしよう。
<北の方位>の歌と<あと二年>という歌から察すると前歌集を編む前に作者は大病をされたようだ。
私は作者の過去を知らないので「転生」とか「主治医」とかの単語から類推するのみである。
ここに引いた歌群は、日常を非日常に、日常語を詩語に、転化していて成功している。
末尾の歌から題名が採られているようだ。「抱擁」という言葉に出会って、はっとなるが結句で「白雲」が出てきて、はぐらかすように転化する。深くはないが爽やかである。

*一年の服薬期間経てみごと体質改善さる「飲んで打つ」など
*祖母にジプシーの血流れゐしとつひに言及すチャップリン伝記
*馬手に桜弓手に桜選択の余地なくこの国は桜咲かせて
*ガラパゴスのゾウガメ ジョージ卵九つ産ましめて百歳 雄ざかりとぞいふ
*新任の君の読み継ぐテモテの書口語訳なれば若葉の色の
*賢きはマリアにあらむされどわれはマルタを好めり愚かなるマルタを
*抱けばずんと冷たく撃ちしその後はじんと熱からむカラシニコフ銃
*月光の下りし草に昨夜どうと斃れし一樹昨夜の月下を
*三十日ひたに眠りて復活すわが猫四階より墜ちしそののち
*辛夷すくと庭の真中に植ゑし日の我は病む前の身体にありき
*「来しかた」といふはいつなる竹箒もて掃き寄せぬ風のごときを

作者はクリスチャンであるらしい。歌のいくつかから、そう判断した。
<愚かなるマルタを>は、マリアの姉マルタのことだと思う。私は<愚か>とは思わないが、とにかく、この一連は読者の心に沁みる。
チャップリンの歌を読みながら、私は彼の二番目の妻リタの書いた本の<フェラチオを強要された>云々の個所を想起した。閑話休題。
カラシニコフ銃の歌など作者の豊富な読書を想起させられ、それらの歌も秀逸である。
また作者は猫好きらしい。猫の歌が頻りに出てくる。因みに私は猫嫌いである。
春になると、日本中どこもかしこも桜、桜である。私はそういう春の季節が嫌いだった。
末尾に引いた「来しかた」の歌の情趣が私は好きである。

*着甲せぬ少年神にして阿修羅いたく軽装なりサンダルを履く
この一連五首、興福寺蔵の<阿修羅>像のことだと思うが、着眼点が特異で面白い。
*くれなゐの紫陽花ばかり咲かせゐて重くはないか小さき岬よ
*「もうすこし」生かされて生くるこれの世の雨のゆふぐれ麪包をいただく
*きさらぎの朝しづかに切り分けぬ春と一塊の塩漬けの肉
*これよりは残年小さき銀のケトルふるふる鳴るをハンズにて買ふ
*きりきりと紺の罫立つごとき朝書き起すべき一行のあり
巻末の一連の中では、この歌を、私は採る。
収録歌の数が書いていないが、多くの歌の中から抄出するのは難しい。読み損ないがあるかも知れない。
総じて一巻を読んで、何か<核>になる一連が欲しかった。全般的に散漫な印象が拭えない。惜しい。
遅くなったが作者は短歌結社「宇宙風」の編集発行人をなさっている著名な方である。
ルビは省いた。お許しあれ。 恵送に感謝して筆を擱く。
終わりになったが、七月下旬の<『昭和』を読む会>では酷暑の中おいで下さり厚く感謝申し上げる。

なお、作者は太宰治ゆかりの三鷹市下連雀にお住まいだが、私たち兄弟は『パンドラの匣』から、太宰の縁(えにし)に繋がるものである。詳しくはWikipedia木村庄助 など参照されたい。   (完)
2012年9月25日
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この文章をご覧になった著者から下記のようなメールが届いたので披露しておく。


木村草弥さま

十月も一旬となり、東京もすっかり秋の気配です。

このたびは、お忙しいなか、拙歌集『抱擁』にお目通しいただき、また早速に、ブログにて懇切なる選歌と批評を賜り、有難うございました。
思いもかけない歌にお目をとめていただき喜んでおります。自分の歌は自分にも、本当にいつまでたっても分からないものですね。
歌集出版の慌しさが少しおさまり、歌集を出すことの意味をつくずくと考えるに、やはり心身に積もったものを振り払い、心機一転、再スタートするため・・・なのでしょうか。そのために、この拙いものを押し付けられる方々には本当に申し訳なく身の縮むおもいです・・。
暖かなご批評、身にしみて嬉しく、再スタートの力とさせて頂きます。心より御礼申し上げます。

太宰の『パンドラの函』に兄上様が大きく関わっておられるとうかがい驚いております。
私の住む三鷹下連雀は、1丁目から9丁目までありますが、全域はバスに乗らなければ届かぬほど広範です。中でも、駅から徒歩8分以内に位置するのが3丁目と4丁目です。
私のマンションは3丁目と4丁目の境にあり、本町通りに面しております。因みに太宰の本宅はこの奥の2丁目です。
私は自宅から駅までの約800メートルを毎日のように歩きますがこの通りには、太宰がよく通い卓にタバコの焼け焦げを作ったという美登里寿司、夜中に「酒を売ってくれ」と戸をたたいたという伊勢元酒店、太宰が転がり込んだ、心中した相手山崎富栄の下宿、そのななめ向かいの、2階を仕事部屋に借りていた、小料理屋「千草」・・・がありました。次々にマンションになり、2年前には最後に残っていた山崎富栄の下宿の葬儀店もマンションになりました。伊勢元もマンションになりましたが一階は市が借り受けて、「太宰治記念館」になっています。太宰は、この富栄の下宿から2人で死出の旅へと出ました・・ここから20メートルほど行くと玉川上水にぶつかり右折して川添いに20メートルほど行ったところが入水した場所・・・今は金木産の玉鹿石が何の説明もないままに、ぽつんと置かれています。
太宰の跡を辿るかのように 本町通りを行き玉川上水に沿って井の頭公園までの道は、私の日々の散歩コースです。なお本宅の夫人に引き取りを拒まれた、遺体は「千草」で引き取り、葬儀車もここから出たそうです。
太宰の墓のある禅林寺は駅から遠く、我が家から徒歩十分ほど、太宰の墓の斜め前には森鴎外のお墓があります。毎年桜桃忌には若者がおしかけ、太宰治と彫られた墓石の字の溝にさくらんぼが埋められていたりします・・・。生前、太宰は散歩に寄った禅林寺が気に入り、死んだらここに・・・と希望していたよし。

と言うわけで、私は何故か気がついたら、太宰の足跡に囲まれており、若い頃、憧れていた頃を思うととても不思議です。

「パンドラの函」をもう一度、ひもといて見たく思います・・・。

御礼の積りが横道に逸れました。
木村様には、季節の変わり目を、ご自愛専一にて、ますますのご活躍のことお祈りいたします。まずは心よりの御礼まで。 有難うございました。
                                 押切寛子


朱しるく落ちゆく夕日ゆゑもなく「叱られて・・・」の唄くちずさみゐつ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
taiyou084夕日本命

    朱(あけ)しるく落ちゆく夕日ゆゑもなく
         「叱られて・・・」の唄くちずさみゐつ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
歌の意味は、夕日を眺めていて「ゆゑ」=理由もなく「叱られて」の唄が浮かんできたというものである。
そんな経験は誰にでもあるのではないか。

kokoronouta-sikararetehirota2弘田龍太郎

「叱られて」の唄は、清水かつら作詞、弘田龍太郎作曲になるものである。写真②は弘田。
この唄は大正9年(1920年)に、清水かつらの歌詞とともに雑誌『少女号』に発表された。
現代の子供たちには、はるか昔の大正時代の村はずれの寂しさなど想像も出来ないだろう。
夕暮れともなれば灯ひとつない小径は薄気味悪いくらいに、ひっそりと静まりかえっている。ひとり家路を急ぐ自分の足音だけが、なぜかやたらに大きく聞こえる。

弘田龍太郎の曲は、詩のもつ情感をそのまま表現することに成功した。
弘田は、明治25年(1892年)高知県安芸市生まれ。
写真③は郷里に建つ「叱られて」の歌碑。

shika叱られて歌碑

ここで、この唄の歌詞を書き抜いておく。

katura2清水かつら
 ↑ 清水かつら

 「叱られて」─────清水かつら

   ①叱られて
    叱られて
    あの子は町まで
    おつかいに
    この子は坊やを
    ねんねしな
    夕べさみしい
    村はずれ
    コンときつねが
    なきゃせぬか

   ②叱られて
    叱られて
    口には出さねど
    目になみだ
    二人のお里は
    あの山を
    越えてあなたの
    花の村
    ほんに花見は
    いつのこと

この歌詞から判ることは、この子たちは、年端もゆかないのに、「山のあなたの、花の村の里」から奉公に出されて来ている少女だということである。子守りや雑用に少女たちが携わっていたのである。



清水かつら、のことは、先に彼の写真だけ出しておいたが、ネット上には次のように載っている。
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 清水かつら
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

清水かつら(しみず かつら、1898年(明治31年)7月1日~ 1951年(昭和26年)7月4日)は男性詩人。
本名は、清水桂。特に童謡詩人として知られる。

生涯
本名は清水桂。東京深川生まれ。4歳で生母と父は離縁し、12歳で継母を迎え、本郷区本郷元町に住み、父と継母に育てられた。

京華商業学校(現在の京華商業高等学校)予科修了後、青年会館英語学校に進学し、1916年(大正5年)合資会社中西屋書店(書籍・文具店、東京市神田区表神田2番、後に丸善が吸収)出版部へ入社した。 中西屋書店は少年・少女向けの雑誌を刊行するため「小学新報社」を創設し、かつらは、少女雑誌「少女号」(1916年(大正5年)創刊)や「幼女号」「小学画報」を編集した。編集者には、鹿島鳴秋(「浜千鳥」「金魚のひるね」作詞者)や山手樹一郎がいた。

編集の傍ら童謡の作詞を始め、関東大震災で継母の実家に近い埼玉県白子村・新倉村(現・和光市)に移り、ここで生涯を送った。

1927年(昭和2年)小学新報社を退社。

1933年(昭和8年)-1943年(昭和18年)の間、花岡学院の講師となる。

1951年(昭和26年)7月4日に、「酒が飲めなくなったら終りだ」とつぶやいて、享年53で永眠。同年7月11日に、文京区本駒込の吉祥寺で音楽葬が行われ、弘田龍太郎や中山晋平の弔辞の後、ビクター児童合唱団と音羽ゆりかご会が「靴が鳴る」を斉唱、最後に四家文子が「叱られて」を歌った。

墓所は、文京区本駒込の吉祥寺。

主な作品
戦前
靴が鳴る(1919年(大正8年)9月11日作曲、「少女号」同年11月号に発表、弘田龍太郎作曲)
叱られて(「少女号」1920年(大正9年)4月号に発表、弘田龍太郎作曲)
あした(「少女号」1920年(大正9年)6月号に発表、弘田龍太郎作曲)
雀の学校(1921年(大正10年)12月7日作曲、「少女号」1922年(大正11年)2月号に発表、弘田龍太郎作曲)

戦後
みどりのそよ風(1946年(昭和21年)、草川信作曲) - 新時代を象徴するような明るい曲で、現在も人気が高い。

作品集
『清水かつら童謡集』 上笙一郎、別府昭雄 編、海沼実 解説(ネット武蔵野、2008年3月) ISBN 4944237464
存命中も含めて、かつら唯一の作品集。
歌碑など [編集]
東武東上線和光市駅前に、「みどりのそよ風」、「靴が鳴る」、「叱られて」の歌詞が刻まれた歌碑がある。

東武東上線成増駅の南口に「うたの時計塔」(主な作品に掲げている5作品に、「浜千鳥」を加えた楽曲が流れる。1976年(昭和51年)8月8日設置。)、北口に「みどりのそよ風」碑、アクトホール外壁に「雀の学校」の楽譜と歌詞を刻んだプレートがある。
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埼玉県・和光市の「郷土の偉人 童謡詩人・清水かつら」という記事には彼の作詞による歌碑などのことが詳しく出ているので参照されたい。

蛇足的に書いておくと、私の子供の頃は、私の育った農村の村の中の道を、明け方にキツネが「ギァー」と鳴いて通ったりしたものである。
この詩で「コンときつねが」と書いてあるし、キツネが「コン」と鳴くというのは、よく見る表現だが、キツネは「コン」とは鳴かない。
キツネは犬科の動物なので、どちらかというと犬に近い鳴声といえよう。ただし「ワンワン」とは鳴かない。
私が子供の頃に戸外で鳴く声を聞いたのは、先に書いたが「ギャー」というものであった。
農村でも「子守り」を雇えるのは地主などの富裕層だけであった。多くの農民は地主さんの土地を耕す「小作農」であった。
戦後、マッカーサーの指令で「農地解放」の政策が執られたので、その後、もう60年の年月が経つから、地主と小作人との関係などについても、
日本人の大半は、何らの知識も体験もない始末である。
第一、都市生活者が多くて、彼らは農村については、何も知らないのが実情であるから、何をや言わん、である。
こんなことを書くつもりはなかったのだが、「この子」「あの子」は、「哀しい」子たちであり、ほだされて、つい筆がすべってしまった。
この辺で終わりにしよう。





クールベのゑがくヴァギナの題名は「源」といふいみじくも言ふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    クールベのゑがくヴァギナの題名は
      「源」(スールス)といふいみじくも言ふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この歌に詠んだクールベの絵は、もう十数年も前になるが、ツアーの自由時間の一日を亡妻と「オルセー美術館」に遊んだ時に「クールベ」の室で見たものである。
この絵を、ここに出すのは躊躇されるので、→ 「世界の起源」(仏: L’Origine du monde)を呼び出して見てください。
この絵のモデルなど詳しく書いてある。

サイズは46×55センチの大きさである。この作品は館の図録(当時の定価で50フランだった)にも出ていないので、今でも常設展示されているかどうか判らない。
この絵は仰臥して股をやや開いて横たわる裸婦を足先の方から描いたもので、画面の中央に裸婦の「ヴァギナ」が大写しになっている大胆な構図である。性器が、もろに描かれているのである。
クールベは、ご存じのように「リアリズム」絵画の巨匠として、フランス画壇にリアリズム絵画の潮流を巻き起こし、一世を風靡して美術史に一つのエポックを画した人である。
前衛芸術運動華やかなりし頃には、ボロクソに言われたこともあるが、美術史の上での運動として欠かすことの出来ない存在である。
絵に戻ると、その絵の題名が「源」source スールス、だと私は記憶していて歌集にも、そのように書いたのだが、上のリンクに出したように原題は「世界の起源」(仏: L’Origine du monde)というのが正式らしいので、ここに訂正しておく。
もっとも「絵画の題名」というのは後年になって付けられることが多いので、私の記憶のように、私が見たときは「source」となっていたかも知れない。
「source」も「Origine」も同じような意味である。
それにしても「世界の起源」という題名には違和感がある。仰々しすぎるのではないか。

この歌については米満英男氏が、先に書いたリンクの批評欄で「木村草弥歌集『嬬恋』──感応」という文章で

・・・・・読み下した瞬間に「なるほど」とうなずく外はない愉快な歌である。下句の<いふ><言ふ>の駄目押しが決まっている。・・・・・

と批評していただいた。 その米満氏も本年春に亡くなられた。 ご冥福を祈りたい。

 ↓ セルビアのパフォーマンスアーティスト、Tanja Ostojićは、2005年、この絵をパロディにして"EUパンティ"というポスターを制作した。
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↑ 写真③はオルセー美術館の内部の一部

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 ↑ 写真④は、その外観の一部で入り口の辺りを望むもの

よく知られるように、ここはヴィクトール・ラルーが20世紀はじめに設計した鉄道の終着駅・オルセー駅舎であり、鉄道廃止後、放置されていたのを1986年に美術館として改装したもので、写真②に見るように駅の大きなドームの構造を利用したユニークな造りになっている。
ドームの突き当たりにかかる大時計は、当時の駅にあった金ピカの豪華な大時計そのままのものである。

この美術館には多くの入場者があり、1988年には216万人を記録したという。パリの新名所として人気が高い。ここには1848年から1914年までの絵画、彫刻が集められ、それまでルーブルに展示してあったものも、ここに移された。1914年以降の作品はポンピドゥセンターに展示するという、年代別に館を分けるという、いかにもフランス人らしい合理主義の棲み分けがなされている。
このオルセーに展示される年代というと、日本人に人気の高い「印象派」の作品は、すべて此処にある。
即ち、ミレー、マネ、ルノワール、ドガ、ロートレック、ロダン、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどなどである。
この場所はセーヌ川の川岸で、オルセー河岸(Quai d'Orsay ケ・ドルセーという)という船着場のあったところ。
ここはセーヌ川を挟んで、ちょうどチュイルリー公園とルーブル美術館の向い側にあたる。
はじめに掲出した写真がセーヌ川越しにオルセーを見たもの。

P9240981オルセー・レストラン
P9240985オルセー・レストラン

この館の玄関ホールの上の中二階には駅舎であった当時の極彩色で金ピカの内装を生かした「レストラン・オルセー」があり、食事をしながら下の回廊の様子を見下ろすことが出来る。
天井画も、ステキ ! 写真⑤⑥が、その内部である。
私たち夫婦も、ここで昼食を摂ったのは、言うまでもない。ぜひトライしてみられよ。
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お断り
昨年かに、オルセーは大幅に改装された。
照明なんかも大変よくなっているらしい。
レストランも変わっているかも知れない。 念のために書いておく。


草弥の詩作品「尺八──お秋の巻」・・・・・・・・・・・・木村草弥
4397206尺八
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(19)

       尺八──お秋の巻・・・・・・・・・・・・木村草弥

      お秋も市井の遊女である 
      「尺八」の名手として知られていたのを
      お上が連れて来られたのである

      尺八とは今風に言うと「フェラチオ」である
      今どき風俗店では常識の遊びである
      昔の人は、優雅な言葉を隠語に使ったものだ
      フェラチオ (Fellatio) は オーラルセックスの一種であり
      パートナーが相手の一物を口に含んだり舌を使うなどして刺激する
      語源はラテン語の fellare(吸うという意味の動詞)
      英語の隠語ではBlow jobなどと言う
      フェラチオは短縮されて「フェラ」と呼ばれることが多い
      古語では「吸茎」 「口取り」 「雁が音」 「尺八」 「千鳥の曲」とも言った
      今どきの隠語では「F」 「フェラーリ」などという
      また勃起した陰茎を横から咥えることを俗に「ハーモニカ」と言う。


      お上は 今や熟年の齢となられて
      さまざまのことをお試しになった
      下々の者がやっている性行為の体位に
      とても関心を持たれた

      <四十八手などというそうじゃのう>
      などと言われた

      世の中は戦国時代から太平の世になって
      世の中が落ち着くと
      性そのものを楽しむ機運になってきた
      浮世絵の隆盛になるのは もっと先だが
      その走りの肉筆描きの春画などが
      市井の巷には出回りはじめていた

      また院は旺盛な読書家であられたので
      平安時代初期に書かれ 伝承される
      最古の説話集『日本霊異記』のことも
      ご存じだった
      著者は奈良右京の薬師寺の僧・景戒
      上・中・下の三巻
      変則的な漢文で表記されている
      この本の成立年は 序と本文の記述から
      弘仁13年 (822年) とする説がある
      景戒は下の巻三十八に自叙伝を置いて
      妻子とともに俗世で暮らしていたと記して
      国家の許しを得ない私度僧に好意的で
      自身も若い頃は私度僧であったが後に薬師寺の官僧になったという
      生国は、紀伊国名草郡。

      上巻に35話、中巻に42話、下巻に39話で、合計116話が収められる
      それぞれの話の時代は奈良時代が多く 古いものは雄略天皇の頃とされている
      場所は東は上総国 西は肥後国と当時の物語としては極めて範囲が広い
      その中では畿内と周辺諸国が多く 特に紀伊国が多い
      登場する人物は 庶人 役人から貴族 皇族に及び
      僧も著名な高僧から貧しい乞食僧まで出てくる。

      説話自体が事実を伝えるものではないとしても
      その主題から外れた背景 設定からは
      当時の世相をうかがい知ることができる
      田に引く水をめぐる争い(上巻第3)
      盗品を市で売る盗人(上巻第34、第35、下巻第27)
      長期勤務の防人の負担(中巻第3)
      官営の鉱山を国司が人夫を使って掘ること(下巻第13)
      浮浪人を捜索して税をとりたてる役人(下巻第14)
      秤や桝を使い分けるごまかし(下巻第20、第26)などである
      また、性愛を扱った説話も収められ
      息子を愛するあまりにフェラチオするようになった母が臨終の際に
      息子のものを吸いながら「わたしは、今後次々に生れ変って
      後の世でいつもそなたと夫婦になります」と言い残し
      隣家の娘に生まれ変わって息子と結婚するといった奇譚などがある(中巻第41)。

      編纂の目的から奇跡や怪異についての話が多い
      『霊異記』の説話では、善悪は必ず報いをもたらし
      その報いは現世のうちに来ることもあれば 来世で被ることも
      地獄で受けることもある
      説話の大部分は善をなして良い報いを受けた話
      悪をなして悪い報いを受けた話のいずれか あるいはその両方だが
      一部には善悪と直接かかわりない怪異を記した話もある。

      仏像と僧は尊いものである
      善行には施し 放生といったものに加え 写経や信心一般がある
      悪事には殺人や盗みなどの他 動物に対する殺生も含まれる
      狩りや漁を生業にするのもよくない
      とりわけ悪いこととされるのが僧に対する危害や侮辱である
      これらが『霊異記』の考え方である
      転生が主題となる説話も多い
      動物が人間的な感情や思考をもって振る舞うことが多く
      人間だった者が前世の悪のために牛になることもある。

      『日本霊異記』の古写本には、平安中期の興福寺本(上巻のみ、国宝)
      来迎院本(中・下巻、国宝)、真福寺本(大須観音宝生院蔵、中・下巻、重要文化財)
      前田家本(下巻、重要文化財) 金剛三昧院(高野 本、上中下巻)などがあり
      興福寺本と真福寺本が校注本においても底本に用いられることが多い。

      その中で天竺の話として息子にフェラチオをする母親の説話があるのも
      お上は ご存じで
      <母子の間でのう>などと
      お秋に語りかけられるのだった

      江戸時代の川柳にもこの行為を扱ったものがあり
      この頃の人々には珍しくなかったと言える
      地方藩でこの行為が禁止されたことが
      藩士の日記の中に残っているらしい。

      キリスト教が広く信仰される前の大半の世界では
      とりわけ古代ギリシア・ローマ世界では広くフェラチオが
      愛好されており ごく一般的に行われていた
      発掘されたポンペイの遺跡の壁画などに見られる
      中世キリスト教では生殖を伴わない快楽を求める行為として忌み嫌われたが
      他の文化圏では性行為が繁栄の象徴として扱われたこともあって
      他地域と比べておおらかに描かれている
      インドの『カーマ・スートラ』に描写があるほか
      紀元1世紀 ~ 7世紀に南米に栄えたシパン文明の出土品の中に
      フェラチオを行っている像がある
      インドはカジュラホの寺院の壮大な壁彫刻にも見られる。

      フェラチオというラテン語が近代世界に知られるようになったのは
      チャップリンの二番目の妻リタが怪文書「リタの不満」で
      「彼(=チャップリン)にフェラチオという倒錯行為を強要された」
      と明かしたためであると言われる。


         お上と お秋との 尺八の秘戯の様子を
         描くのは 長くなるので
         止めておこう

のちに後水尾院は詠まれた

     <誰がなかの人目づつみの隔てとて立ち隠すらん秋の河霧>


古唐津で茶を飲むときにうら悲し妻が横向き涙を拭きぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
03-4絵唐津筒茶碗

    古唐津で茶を飲むときにうら悲し
      妻が横向き涙を拭きぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

写真①は「絵唐津橋農夫文筒茶碗」というもので、出光美術館蔵の桃山時代の逸品。
私の歌に詠んでいる古唐津は、もちろん無名の並物であることは言うもでもない。

先に私の歌の説明を済ませておく。
「うら悲し妻が横向き涙を拭きぬ」というのは、妻に病気が見つかって、自分の病状について妻がナイーブになっていた時期の作品である。
私としては、そういう妻を「いとしい」と思い、このような歌を残せたことを嬉しく思うものである。

さて、美術史からみた古唐津のことである。
唐津焼は肥前一帯で広範に焼かれ、生産時期も長期にわたっているため、多くの種類がある。
これを区別するため、美術史上では、主として釉薬や装飾技法の違いから、おおよそ次のように分類する。
奥高麗、斑唐津、彫唐津、無地唐津、絵唐津、青唐津、黄唐津、黒唐津、朝鮮唐津、三島唐津、瀬戸唐津、献上唐津、美濃風織部唐津など。

602113-7_1絵唐津
↑ 写真②は絵唐津と言えば松文だが、「絵唐津松文大皿」桃山時代、出光美術館蔵。

↓ 写真③は江戸後期の松江の名君で大茶人の松平不昧公が所持していた「奥高麗茶碗」銘<秋夜>、桃山時代、出光美術館蔵。
602113-7_3奥高麗茶碗

唐津焼に限らず、伊万里、有田、薩摩などの陶器産地は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮半島から多くの陶工を日本に連れてきて、陶土の探索や製陶に従事させたものから発展してきたと言える。
当時、朝鮮半島は製陶の先進地だったのである。

05large沈寿官
↑ 沈寿官作の薩摩焼の壺

薩摩焼の「沈寿官」家などは日本名を名乗らされてきたのを、最近になって先祖の朝鮮名を名乗るようになったものである。
これらの朝鮮半島ゆかりの陶工たちは、謂れのない民族差別に苦しんできたと思われるが、そんな中にあって、その唯一の救いは、我々は製陶の先進地から来たのだというプライドだったと思われる。
その生産品は献上品として各地の大名から喜ばれ、その故に或る程度の保護を受けられたのである。

このページは「唐津焼」について書いているので、つけたしになるが「沈寿官」家の名品を一点、写真⑤に紹介しておいた。


草弥の詩作品「渋川春海のこと」・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
P6113279天球儀
↑ 「紙張子製地球儀(実物)」1695年渋川春海作 重要文化財 国立科学博物館
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(18)

      渋川春海のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

朝廷から「暦」の事業を拝命しているのは、陰陽師統括たる土御門(つちみかど)家であった。官許、独占である。当主は土御門泰福(やすとみ)である。
「暦」は生活のすべてを司っていた。その暦を発行しているのは朝廷=帝なのであった。

渋川春海が、暦に係わるようになるのは、ずっと先のことである。
安井算哲は、先ず「碁打ち」から始まる。
碁打ち衆として登城を許されたのは、安井、本因坊、林、井上の四家のみである。
碁打ち衆のあり方は、かつて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の覇者に碁をもって仕えた「本因坊算砂」に始まる。
算砂は、信長から名人と称えられてその初めとなり、秀吉から「碁所」(ごどころ)および将棋所に任じられた。
そして本因坊算砂の背景には日蓮宗の存在があったことから、家康は城の碁打ちや将棋指しを寺社奉行の管轄とした。
だから碁打ちたちが頭を丸めて僧形であるのは、その理由による。
だが安井算哲=渋川春海は僧形ではなかった。

「渋川春海」と名乗るようになる経緯は次のような理由による。
碁打ちである安井家は一時、河内国の渋川郡に知行地を得ていたことがあり、その上に、

   雁鳴きて菊の花咲く秋はあれど春の海べにすみよしの浜

        この歌は『伊勢物語』(六十八段)に

      むかし 男 和泉の国へ行きけり 住吉の郡 住吉の里
      住吉の浜をゆくに いとおもしろければ おりゐつつゆく
      或る人「住吉の浜をよめ」といふ

         雁鳴きて菊の花さく秋はあれど春の海辺に住吉の浜

      とよめりければ みな人々よまずなりにけり

    昔 男が和泉の国へ行った 住吉の郡 住吉の里 住吉の浜を
    行くと とても趣深かったので 馬から降りて 腰を下ろし
    風景を楽しみながら行った 或る人が「住吉の浜を下の最後
    の句に使って歌を詠め」と言った そこで男は

    雁が鳴いて菊の花が咲く秋もよいものだが やがては飽きて
    しまふでせう それに比べ この住吉の浜の春の海辺は この
    憂き世で長く住み良い浜と思はれます

    と詠んだので この歌に感銘して 他の人々は もうそれ以上詠おうとはしなかった

という逸話に拠っている。

    住吉の浜 = 住み良しの浜 を掛けている
    春と秋 の対比  飽きと憂み の対比
    秋には飽き を掛けている
    海には憂み を掛けている

実は、渋川春海としてではなく「碁打ち」として後水尾院にお逢いしている記録が残っている。
院が碁を好まれたかどうかは分からない。 恐らく将軍御前碁の話などを板倉あたりから聞かれて、お召しになったのか。

貞享元年十月二十九日。大統暦改暦の詔が発布されてから七か月のその日。
霊元天皇は、大和暦採用の詔を発布された。これにより大和暦は改めて年号を冠し「貞享暦」の勅命を賜り、翌年から施行されることが決まった。
この大和暦を学理と天測によって開発したのは、渋川春海であった。朝廷の暦司どりの仕来りを知った上での巧みな采配であった。
土御門家の面目も立て、自分は一旦うしろに引いての「改暦」だった。
以後、渋川春海は、幕府の「天文方」として、また暦の専門家として君臨した。
霊元天皇は、院と新広義門院との間に生まれた皇子であり寛文三年に即位されている。
享保十七年(一七三二)七十九歳で崩御された。長寿であった。

因みに、今でも全国神社の総元締めである神社本庁が発行する暦には「土御門」家の名前が書いてある。その謂れは以下のようである。

天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)は、福井県おおい町(旧名田庄村地区)に本庁を置く神道・陰陽道の流派。
天文学・暦学を受け継いだ安倍氏の嫡流が、後に天皇より「土御門」と言う称号を賜い、以後は土御門家を称する堂上家として仕えた。室町中期から戦国期にかけては、都の戦乱を避け、数代にわたり、所領のある若狭国に移住していた。
戦乱の終息後、都に戻ったが、秀次事件に連座し、豊臣秀吉の怒りを買い、またしても、都を追われる事になってしまい、宮廷陰陽道は一時終息する。 しかし、関ヶ原の戦いが終わり豊臣家が衰退すると、土御門久脩(つちみかど ひさなが)は、徳川氏に「陰陽道宗家」として認められ、慶長5年(1600年)には宮廷出仕を再開する事になった。また慶長8年には、家康の征夷大将軍任命式を行っている。
土御門久脩の後、泰重・泰広と続き、その後の泰福が陰陽頭になった時(天和3年5月(1683年))諸国の陰陽道の支配を土御門家に仰せ付ける旨の「霊元天皇綸旨」が下された。同時に、徳川綱吉の朱印状によっても認められ、土御門は全国の陰陽師の統括と、造暦の権利を掌握することになった。山崎闇斎の影響を受けた泰福は陰陽道に垂加神道を取り入れて独自の神道理論を打ち立てた。一般的にはこれが「土御門神道」の開始と言われている。
土御門家の陰陽道組織化は、幕末には全国に広まったが、明治維新後の明治3年(1870年)に陰陽寮が廃止され、太政官から土御門に対して、天文学・暦学の事は、以後大学寮の管轄になると言い渡しを受ける。 それによって陰陽師の身分もなくなる事になり、陰陽師たちは庇護を失い転職するか、独自の宗教活動をするようになった。 そうして民間の習俗・信仰と習合しつつ陰陽道は生活に溶け込んでいったのである。
安家神道(土御門神道)は、そうした状況の中で古神道などの影響を受けながら、かつての関係者の手によって守られた、現代の陰陽道である。 現在は、かつての土御門家の領地であった福井県おおい町(旧名田庄村地区)に日本一社陰陽道宗家「土御門神道本庁」が置かれている。

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DSC01608_convert_20080528151401渋川春海墓
 ↑  渋川春海の墓 東海寺

渋川春海 土御門泰福 など ← に詳しい。


新じやがをほかほかと食ひ今日を謝す・・・・・・・・・・・・・大野林火
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  新じやがをほかほかと食ひ今日を謝す・・・・・・・・・・・・・・・・・・大野林火

芋が、馬につける鈴に似ているので、馬鈴薯(ばれいしょ)の名があるという。オランダの船がジャワから持ってきたので、ジャガタラ芋と呼ばれていた。
早春に種芋を植えると、初夏から地中にたくさんの塊茎を作る。これが芋である。
貯蔵が効くので保存され、食用、澱粉原料、アルコール製造などに用いられる。
出来立ての「新」ジャガイモは特にホカホカしておいしいものである。ふかしたての芋にバターをつけて食べるのが美味の極みである。

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写真②は、畑に植えた種芋から新芽が出て、少し大きくなった頃の写真。
ジャガイモの大産地は、今や北海道であり、種芋の植え付けから、秋の新ジャガイモの収穫まで、すべて機械でやる。

写真③はジャガイモ畑の様子である。
imo4.7.16馬鈴薯畑

ジャガイモも日本にはジャワから伝来したというが、もともとはアメリカ大陸の原産であり、アンデスの何千メートルという高地でも主食として栽培されている。
コロンブスたちとともにヨーロッパへ齎され、冷害に苦しんでいた北ヨーロッパでは救荒作物として貴重だったことは、よく知られていることである。
日本では「男爵」「メークイン」などが主として栽培されている。
ジャガイモ栽培には種芋が必要だが、品種ものの種芋の供給地としても北海道は有名である。

imo4.6.29.04馬鈴薯花

殆どの人がジャガイモの畑も、馬鈴薯の花も見たことがないだろうと思うので、写真④にジャガイモの花を載せる。
薄紫色の可愛らしい花である。品種によって色や形などが微妙に異なる。
新ジャガイモは、もう殆どのところで収穫は済んでいる。一番遅いのは「種芋」の収穫で、これで北海道のジャガイモのシーズンは終る。

以下、ジャガイモ=馬鈴薯を詠んだ句をひいて終りにしたい。

 新馬鈴薯や農夫の掌(てのひら)よく乾き・・・・・・・・中村草田男

 新じやがのえくぼ噴井に来て磨く・・・・・・・・西東三鬼

 土間夕焼じやが藷(いも)の山夕刊のせ・・・・・・・・椎木嶋舎

 新じやが匂ふ塩焼小屋の厚き煤・・・・・・・・沢木欣一

 馬鈴薯を夕蝉とほく掘りいそぐ・・・・・・・・水原秋桜子

 幸福の靴首にかけ馬鈴薯を掘る・・・・・・・・山口青邨

 塩が力の新じやがを煮て母子生き・・・・・・・・沖田佐久子

 幸を掘るごとし馬鈴薯さぐり掘る・・・・・・・・瀬沼はと江

 じやがいもの北海道の土落す・・・・・・・・中田品女

 馬鈴薯掘る土の匂ひの日の出前・・・・・・・・山崎明子


八十の少年にして曼珠沙華・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
高島茂

   八十の少年にして曼珠沙華・・・・・・・・・・・・高島茂

この句は高島茂の遺句集である『ぼるが』(卯辰山文庫刊)の巻末に「原風景」(遺句11句)として載るものである。
今の晩夏から初秋の句として惹き出せる句が意外と少なく、この一連を引くことにする。
高島茂は平成11年8月3日に亡くなった。行年79歳であった。

彼については何度も書いたので繰り返さないが、当該記事のリンクを見てもらいたい。
掲出の写真は句集『ぼるが』の巻頭に載るものをスキャナで取り込んだが私の腕が未熟なので鮮明でないが、ご了承ねがいたい。
高島茂筆跡0001

写真②は、同じく句集『ぼるが』の表紙裏から「見開き」にかけて載る彼の「筆跡」である。
几帳面な、かっちりとした字が彼の性格を表すように原稿用紙の升目に並んでいる。

以下、掲出句を含む一連を引いておきたい。
なお、原文の漢字は「正字体」で書かれているが、私の独断で「新」字体に変えさせてもらったので、ご了承願いたい。

 原風景(遺句11句)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

雷鳴が腹中に棲み駆け狂ふ

つつがなく腹中を涼風ふきぬけよ

手を籠にして蕾の翁草ながめけり

黄華に咲きゐしきすげ寒風たつ

はまなすの紅実のこりて海猫遠し

崖に一羽の海鵜声なきは淋しかりし

八十年顧みしことありおぼろなり

八十の少年にして曼珠沙華

踏まれ鬼に青い蜘蛛来て糸を巻く・・・・・(七月二十一日)

 □

黒牛の地を蹴る時は戦詩興る

白牛の地にまろびしは平和なりし・・・・・(七月二十三日)
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これらの作品は高島茂の死後、ご子息で結社を引き継がれた高島征夫氏が句帖から引かれたものだが、
死の床にあって、彼の脳裏にさまざまのことが去来したのが、よく判るのである。
はじめの二句などは、体の中に取りついた死霊が惹き起こす「騒擾」との戦いを句に表現したようにも受け取れる。
「戦い」という表現は不適切かも知れない。もはや一種の「諦観」みたいなものが漂っているから、
「せめて苦しまずに死なせてくれよ、病よ」ということかも知れない。
「八十年顧みしことありおぼろなり」「八十の少年にして曼珠沙華」の句からは、幼い頃の回想が、走馬灯のように脳裏を駆け巡っている様子がみてとれる。
掲出句のように、八十になっても心は依然として「少年」なのである。
私自身が、いまや八十を超えた年齢に達しているので、彼の心中が手にとるように判る気がするのである。
終りの二句は一種の「対」句のようになっていて「戦争と平和」ということを「黒牛」と「白牛」という対比によって表現されたのであろう。
書かれるように戦争中には「戦詩」が「興っていた」ことがある。今となっては、その善悪を云々するのは止めたほうが良さそうである。
「いまわの際」になっても高島茂という優れた俳人は、詩人としての「性」(さが)を示されたと思う。
敬服に価いする立派な最期だった。
その後を継承された、ご子息の征夫氏も亡くなられた今となっては、うたた感慨新たなるものがある。


草弥詩作品「後水尾院の側近──中院通村の歌」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
380px-Nakanoin_Michimura中院通村像
 ↑ 中院通村像(京都大学総合博物館蔵)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(17)

      後水尾院の側近──中院通村の歌・・・・・・・・・・・木村草弥

中院通村 (なかのいんみちむら) 天正十六~承応二(1588-1653) 号:後十輪院
通勝の子。母は細川幽斎の娘。
後水尾天皇の側近として働く。右近中将などを経て、慶長十九年(1614)、参議に就任。元和三年(1617)、正三位・権中納言。同六年(1620)、従二位。同九年(1623)、武家伝奏(武家に対して朝廷の窓口となる役職)となる。寛永六年(1629)、権大納言。同年、後水尾天皇が譲位すると、翌年、右大臣二条康道とともに謀議に参与し罪を得、武家伝奏を免ぜられて江戸寛永寺に幽閉された。寛永八年(1631)、正二位。同十二年(1635)、天海和尚の訴えにより赦され、京に戻る。正保四年(1647)七月、内大臣に任ぜられたが、同年十月辞任した。承応二年(1653)二月二十九日、六十六歳で薨去。

古今伝授を受けた歌人として評価が高く、天皇御製の添削を命じられたほどであった。家集『後十輪院内府詠藻』には、1600余首が収められる。
また、父・通勝の源氏学を継承し、天皇や中和門院などに対してしばしば『源氏物語』の進講を行っている。
世尊寺流の能書家としても著名で、絵画などにも造詣を見せるなど、舅の細川幽斎に劣らぬ教養人であった。日記に『中院通村日記』がある。
将軍家光に古今伝授を所望されて断ったという逸話がある。
後水尾院への奏覧本と推測されている家集『後十輪院内府集』(『後十輪院内大臣詠草』『内府詠藻』とも。
続々群書類従十四輯・新編国歌大観九所収)に千六百余首を残す。

以下には『後十輪院内府集』より十首、『新明題和歌集』より一首を抄出した。  春 4首 夏 1首 冬 1首 雑 5首 計11首


元日雨降りければ

ひと夜あけて四方の草木のめもはるにうるふ時しる雨の長閑(のどけ)さ   (後十輪院内府集)

【通釈】大晦日から一夜明けて、周囲の草木の芽も張る春となって、潤う時を知る雨が降る――その雨ののどかなことよ。

【補記】雨が降った正月元日の作。「めもはる」は「目も張る」と「春」を言いかけている。

【参考歌】紀貫之「古今集」
霞たちこのめも春の雪ふれば花なき里も花ぞちりける

遠山如画図

色どらぬただ一筆の墨がきを都の遠(をち)にかすむ峰かな   (後十輪院内府集)

【通釈】彩色をほどこさない、たった一筆の墨で描いたかのように、都の遠くに霞む峰であるよ。

【参考歌】後柏原院「柏玉集」
墨がきのただ一筆の外なれや雨おつるえをわたる白さぎ

簷梅

春の夜のみじかき軒端あけ初(そ)めて梅が香しろき窓の朝風   (後十輪院内府集)

【通釈】春の短か夜が軒端に明け始めて、梅の香が白々と感じられる、窓辺を吹く朝風よ。

【補記】結句「園の朝風」とする本も。

【参考歌】徽安門院「光厳院三十六番歌合」
吹き乱し止みがたになる春雨のしづくもさむき窓の朝風

静見花

朝露もこぼさで匂ふ花の上は心おくべき春風もなし   (後十輪院内府集)

【通釈】朝露もこぼさずに美しく映えている桜の花の上には、気にかけるような春風も吹いていない。

【補記】『新明題和歌集』では上句「朝露にそのまま匂ふ花の上は」。

【参考歌】肖柏「春夢草」
こころだに花にみださじ露ばかり梢うごかす春風もなし


夏旅

あつからぬ程とぞいそぐのる駒のあゆみの塵も雨のしめりに   (新明題和歌集)

【通釈】まだ暑くない内にと急ぐのだ。乗っている馬の歩みが起こす塵も、雨の湿りに鎮まって。

【補記】『新明題和歌集』は宝永七年(1710)刊、当代の宮廷歌人の作を集めた類題歌集。編者は不明。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草」「玉葉集」
ゆきなやむ牛のあゆみにたつ塵の風さへあつき夏のをぐるま


落葉

山風にきほふ木の葉のあとにまたおのれと落つる音ぞさびしき   (後十輪院内府集)

【通釈】山風と争って落ちた木の葉のあとで、その上にまた自然に落葉する音が寂しいことである。

【補記】山風がやんだ静けさの中、ひとりでに落ちる葉の音に、ひとしおの寂寥を感じている。元和四年(1618)閏三月の当座詠。

【参考歌】後伏見院「風雅集」
をかのべやさむき朝日のさしそめておのれとおつる松のしら雪


旅友 公宴聖廟御法楽

たれとなく草の枕をかりそめに行きあふ人も旅は親しき   (後十輪院内府集)

【通釈】誰となく、かりそめに行き遭う人でも、旅する時は親しく感じられる。

【補記】第二句「草の枕を」は、野宿するとき草を刈って枕にしたことから「刈り」と同音を持つ「かりそめに」を導く枕詞として用いる。言うまでもなく旅と縁のある語句でもある。

薄暮雲

暮れにけり山より遠(をち)の夕日かげ雲にうつりし跡の光も(後十輪院内府集)

【通釈】昏くなってしまった。山の彼方の夕日が雲に映じていた――そのなごりの光も。

【補記】元和年間の月次歌会での作。

暁鐘

初瀬山をのへのあらし音さえて霜夜にかへる暁の鐘   (後十輪院内府集)

【通釈】初瀬山の峰の上から吹く嵐の音が冷たく冴えて、鳴り響く暁の鐘も霜夜へ逆戻りしたかのように寒々と聞こえる。

【語釈】◇初瀬(はつせ)山 奈良県桜井市。長谷観音のある山。泊瀬山とも。山寺の鐘が好んで歌に詠まれた。

【補記】元和三年(1617)二月二十二日、摂津の水無瀬宮での法楽(法会のあと、詩歌を誦するなどして本尊を供養すること)における作。第三句「春さえて」とする本もある。

【参考】「山海経」
豊嶺に九鐘有り、秋霜降れば則ち鐘鳴る

庭苔

まれにとひし人の跡さへ庭の面はいくへの苔の下にむもれて   (後十輪院内府集)

【通釈】稀に訪れた人の足跡さえ見えず、いま庭の地面は幾重の苔の下に埋もれている。

【補記】元和三年(1617)の作。

懐旧

我が身には何ばかりなる思ひ出のありとてしのぶ昔なるらん   (後十輪院内府集)

【通釈】我が身にはどれほどの思い出があるというので、かくまで昔を思慕するのだろうか。

【補記】元和五年(1619)の月次歌会での作。作者三十二歳。

【参考歌】源通忠「続拾遺集」
橘のにほふ五月の郭公いかにしのぶる昔なるらん

王朝和歌あるいは堂上和歌と呼ばれる、この頃の歌は、今の短歌のような叙景、抒情もリアリズムではなく、「本歌」と呼ばれる昔の歌を引き添えて詠む手法である。
上の解説で「参考歌」などとして書かれている歌を下敷きにして作られている。

上記の中にもある中院通村が「武家伝奏を免ぜられて江戸寛永寺に幽閉された」時に後水尾院が詠んだ歌を見つけたので、以下に披露する。

     八月中旬の比(ころ)、中院大納言 武家の勘当の事ありて武州にある比、つかはさる

   思ふより月日経にけり一日だに見ぬは多くの秋にやはあらぬ

   秋風に袂の露も故郷をしのぶもぢずり乱れてや思ふ

   いかに又秋の夕をながむらん憂きは数そふ旅の宿りに

   見る人の心の秋に武蔵野も姥捨山の月や澄むらん

   何事もみなよくなりぬとばかりを此秋風にはやも告こせ

信頼していた通村を気遣う院の気持ちが、よく出ている。



霧の空に太陽しろくうかびたり幻の騎馬に家持出でばや・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
hs08-s広沢池朝霧

     霧の空に太陽しろくうかびたり
       幻の騎馬に家持出(い)でばや・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この歌の前に

      朝霧にしとど濡れつつ佇めば木津川の波は悲傷を流す・・・・・・・・・・・・・木村草弥

というのが載っている。これは「山城郷土資料館」という一連の出だしの歌である。
先に書いておくと、私はしばらく京都府立山城郷土資料館というところで解説ボランティアをしていたことがある。
その経験も踏まえて短歌結社「未来」誌2001年8月号(連載特集・万葉集─この場所、この一首(8))に編集部から執筆依頼されて「恭仁京と大伴家持」という歌とエッセイを載せたことがあるので、それを参照してもらいたい。

今はまだ暑さが残るが、秋が深まってくると大気が冷えてくる。
そうすると、流れている川の水の方が温かいので、朝の冷気に冷やされて「朝霧」が発生する。
掲出した歌の背景には、木津川沿いに立ち込める朝霧があるのである。
京都府立山城郷土資料館は、もうすぐ奈良県という、京都府の南山城と称される土地の、最南端の木津川沿いに建っている。
このすぐ近くに「恭仁京くにきょう」という極めて短期間だった奈良時代・聖武天皇の頃の都があったのである。
私の歌とエッセイは、その都と宮廷歌人だった大伴家持のことについて書いている。
詳しくはエッセイを読んでいただけば判ることで、ここでは繰り返さない。

私の歌に言う「悲傷」とは、大伴家持(おおともやかもち)の、さまざまの悲哀に満ちた一生に思いを馳せたものである。
それについても、リンクにあげたエッセイを読んでもらえばお判りいただけよう。
そういう思いから、掲出した歌のような「幻の騎馬になって家持さん出てきてもらいたい」という表現に至るのである。
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「霧」は季節を問わずに発生するが、秋に移動性高気圧に覆われているとき、夜の放射冷却によって気温が下がると出やすい。場所によって「山霧」「海霧」「川霧」になる。
俳句では単なる「霧」というと秋の季語とされる。
以下「霧」を詠んだ句を引いて終る。

 霧黄なる市に動くや影法師・・・・・・・・夏目漱石

 霧雨に奈良漬食ふも別れかな・・・・・・・・小宮豊隆

 霧を透す日ざしこの世のものならず・・・・・・・・菅裸馬

 朝ぎりや紫動く牧の牛・・・・・・・・菅裸馬

 白樺を幽かに霧のゆく音か・・・・・・・・水原秋桜子

 霧こめて山に一人の生終る・・・・・・・・山口誓子

 ランプ売るひとつランプを霧にともし・・・・・・・・安住敦

 ピカソ見る人を見てをり霧なき日・・・・・・・・中川宋淵

 一本のマッチをすれば湖は霧・・・・・・・・富沢赤黄男

 霧を見る茛の灰を海におとし・・・・・・・・横山白虹

 霧月夜美しくして一夜ぎり・・・・・・・・橋本多佳子

 情死とはかく蒼からむ夜霧の笹・・・・・・・・長谷川秋子

 さやうなら霧の彼方も深き霧・・・・・・・・三橋鷹女

 四百の段の室生寺霧はやし・・・・・・・・石塚八束

 霧の村石を投うらば父母敬らん・・・・・・・・金子兜太

 霧の別れ人のかたちをなくしゆけり・・・・・・・・近藤馬込子

 水筒のろろんと鳴りて霧の中・・・・・・・・福田蓼汀

 霧吹けり朝のミルクを飲みむせぶ・・・・・・・・石田波郷

 月山といへ一切の霧の中・・・・・・・・岸風三楼

 肩抱けば霧の香まとふかなしさよ・・・・・・・・稲垣きくの


短歌誌「晶」79号から山本登志枝、村島典子、高旨清美の歌・・・・・・・・木村草弥
晶

──新・読書ノート──

   短歌誌「晶」79号から山本登志枝、村島典子、高旨清美の歌・・・・・・・・木村草弥   

         栞・・・・・・・・・・・・・・山本登志枝

   いくたびも燕の低くよぎりゆく降りみ降らずみの小雨ふる道
   脚立に座り丁寧に鋏を入れてをり亡き父ににる老いし庭師は
   ロンサム・ジョージといふゾウガメの死亡記事読めば南の海光さし来
   夜間飛行の音がしてゐる星のなかリオデジャネイロまで行くにあらむか
   捨て台詞のこしその場を去りてきてあかとき闇のなかに覚めたり
   樹々の葉のあひより漏るる灯りあり黒南風の吹く夜は更けつつ
   面影を忘るるまでに時たたば分かることなどあるかも知れず
   相続人が行方不明といふ廃屋 草 はえてゐる屋根も二階も
   聖フランンスコに会ひしことのあるならむ恐るることなく寄りくる雀
   明日の車中に読まうと栞挿みたり遠く銀河のきらめけるころ
            ※
   せせらぎをききつつ行けば道の辺に「栢の森」といふ停留所あり
   飛鳥川は男の注連縄が やや行けば女の注連縄が高々張られて
   イタドリやスカンポなどと教はりて飛鳥の里の奧へとゆけり
   二百段上れば会へる川上坐宇須多岐比賣命に
   雨乞ふと皇女祈りしところといふ岩がありたり飛鳥川辺に
   奥飛鳥の夜闇は蛙の鳴くこゑす一つ二つと星も見えつつ
   宿の部屋「人鹿」の名札に子蛙の止まりゐるのもかりそめならず
   無患子の神樹のもとを風かよひ裳裾吹かるるとき世にさそふ
   み社の風きよければ神々はいますと思ふ憂きこの世にも
   神の使ひなのかもしれず境内にひかりまとひて這へるくちなは

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        うりずんの島・・・・・・・・・・・・・村島典子

   にほてるや琵琶の真清水ゆく春の水面の鳥と別れきにけり
        四月六日、娘家族の住む沖綞、渡嘉敷島に渡る。渡嘉敷島は、先の戦争において
          昭和二十年三月二十八日村民集団自決を強ひらる。死者三百数十名。

   港にて迎へくれしは少年の日焼けせし顔釣果をほこる
   ミ—バイとフエフキダイとグルクンと貝のいろいろ大漁なりき
   大潮の干潟をあるく潮干狩る島人たちの後ろをあるく
   浜下りとふ言葉すずしき琉球のをみなの春のうりずんの海
   潮溜りの珊瑚の淵に身をかがめ小さき魚の遊ぶを見たり
   アバサ—のひとつにやあらむ細き淵往き来するみゆ泳者のごとし
           *アバサ—はハリセンボン
   グスク島へ干潟をあるく満潮の波あとしるき島のすそまで
   拝所をいただきに秘む城山自決こばみし人ら籠りし
   生れ島を山よりのぞみ隠れすむいくさ世あはれいのちなりけり
   潮引けば道のあらはる城山を下りきたりし帽子の女
   畑なかに島人立ちて遠くから吾を見つめゐる穴のあくほど
   客人のわれと思へりちかぢかとオバア寄りくるしげしげ見らる
   若いさ—姉妹かね—と会ふごと言はるわれと娘と
   沖縄人の妻となりたるわれの子の三弦弾くに涙こぼるる
   軍備なき国でありしを戦争のもつとも酷きいけにへの島
   刀でなく三弦床に飾られし戦をいとふ国人なれば
   山中にケラマツツジの残ん花火花と呼ばるてんてんと咲く
   大ススキ子らの丈ほど繁るかな案内されをり海見ゆるまで
   ハブの味ウミへビの味山羊の味海人のこどもの語るは愉し
   魚のまなこ取り合ひ喰らふ二人子はキジムナ—ぞな樹を揺さぶれり
   島にノロ、われに孫あり平成のこの渡嘉敷に三晚いねけり
   潮騒をききつつ眠る波音ははるけき母の血のひびきせり
   窓辺まで潮満ち来らし明けたれば船出せむかも旅人なれば
   ツツドリと人の告ぐれど時鳥きよきよきよと三度鳴きたり
   朝戸出の人ならなくにホトトギス啼く島山を船出せむかも
   首里城ををみな三世めぐりたり琉球の血を継ぐわが女童は
   井泉は涸れてあれども滴々としたたりやまず時は斎庭に
   龍潭の池にバリケンあまた棲み雛したがふを子とわれと見つ
   帰りくれば花らんまんの近江なりたつた四日の旅にしあれど
   犬とゆく山の明るし山桜こずゑにあふる数かぎりなし
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       猫友だち・・・・・・・・・・・・・高旨清美

   白合歓と思ひゐし樹にこの夕べうす紅帯ぶる花のひらけり
   新宿の雑踏の中を飛びてゐるイトトンボますぐに帰れ水辺へ
   ひとり暮らしを訪ね歩くとNPO法人のひとわがべルを押す
   斑陽のこぼるる松の林より海見むと乗る一両電車
   七月の盆に入る日ぞ花店に仏花選りゐる初老の男
   あれこれと花苗買ひし夕暮れにそつとおまけをくれたる店主
   チョコレ—トコスモスほのかにチヨコの香を醸せり都市のうす夕闇に
   呼吸するもの生臭し夏の花活けたる花瓶の水捨てにゆく
   アランの『幸福論』なども本棚にありてひたむきなりし若き日
   とほき日に読みし『聖母の軽業師』ひらきぬけふは寓話欲しくて
   あまたなる時間封じて積まれゐき納戸の奥の音楽テ—プ
   山なせる録音テ—プのいづこにかひそまむ銀パリに聴きしシヤンソン
   この世のこと知らで聴きたり銀パリのかたき椅子に身じろぎもせず
   ウェーベルンの楽にシャンソン重なりて混沌としたテープ再生す
   工事音窓より入り来て「幸せを売る男」をかき消してゆく
   ボワイエの鼻音のよろし梅雨ぐもる夕べに聴けるLPレコ—ド
   それぞれの贔屓を自慢しあひつつわれら猫にて結ばれてをり
   友だちは猫友だちに限るねと猫引き寄せるきみは人ぎらひ
   君の猫と我の猫とが真夏の夜ゆめのやうなる宴ひらかむ
   オッド・アイの白猫われの亡き猫に似たれば路地に足をとめをり

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山本さんの歌は、時事の報道を耳にしたぞうがめの死とか相続人の行方不明とかを巧みに歌にされた。
後段は「飛鳥」の今昔を行き交って秀逸である。

村島さんは、娘さんが沖縄のウチナンチュと結婚されたらしく、かの地の血を引く孫がお出来になったようで、
また<若いさ—姉妹かね—と会ふごと言はるわれと娘と>という歌のように、ご満悦のご様子であり、南国に遊んで心身ともにリフレッシュされたようで、喜びたい。

高旨さんは、無類の猫好きとして知られているが、今回も猫を媒体として、古今を飛翔して都会の哀歓を詠んで、読者を引き付ける。
いずれも長年の歌作りの「手練れ」の才(ざえ)が見事である。
ご恵贈に感謝して、筆を擱く。 なお、ルビは都合で省略したので、よろしく。

(お断わり)本文はスキャナで取り込んだので、どうしても「文字化け」が生じる。子細に修正したが、まだあればお知らせ下さい。 訂正します。



無防備にまどろむ君よスカラベがをみなの肌にとどまる真昼・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
sukarabe_se.jpg
mus150スカラベ護符レプリカ

     無防備にまどろむ君よスカラベが
        をみなの肌にとどまる真昼・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

この歌では私はスカラベのペンダントをつけた「君」が夏の真昼を、まどろんでいるのを描いたのだが、本来の「スカラベ」というのは、甲虫の「フンコロガシ」のことである。
写真①は古代エジプトで崇拝された「スカラベの護符」のレプリカであり、いま土産物として手に入るもの。

volt01切手オートヴォルタ
 ↑ 写真②はオートヴォルタという国で1981年に発行された「フンコロガシ」の切手である。
この虫は日本には居ないが、世界各地には棲息していて、有名なファーブルの「昆虫記」に出てくるもので、正式には「タマオシコガネ」という名前である。
古代エジプトでは、この虫を「スカラベ」と呼んだ。

写真③は「昆虫記」の著者ジャン・アンリ・ファーブルである。
fabreファーブル

古代エジプトでは、糞玉をころがすスカラベを見て、日輪の回転を司るケペラ神の化身とみなした。世界的にも神格を与えられた昆虫は珍しいが、スカラベは、その最初の昆虫ということになる。
かくして、古代エジプトでは、スカラベを創造、復活、不死のシンボルとして崇め、四千年も前からスカラベの護符や装飾品で飾ったのである。
有名なツタンカーメンの墓からも、このスカラベの護符が「カルトゥーシュ」という「囲み枠」の中に絵文字の名前入りで造られている。他の王や女王、王妃などすべて、そうである。古代エジプトの絵文字は解読されていて、発掘された墳墓や彫刻などが、誰であるかが同定されているが、それは、この「カルトゥーシュ」という囲み枠に刻まれている名を解読すれば、すべて判るからである。

↓ 写真④はフランスで1956年に発行された切手で、ファーブルが糞ころがしタマオシコガネを虫めがねで観察している姿を描いてある。
fr11切手フランス

ネット上では糞ころがしを絵柄にした切手が世界各地で発行されているのを見ることが出来る。
オーストラリアでは「スカラベ」というと、この糞ころがしのことを指すらしい。
先に日本には糞ころがしは居ないと書いたが、それは日本には丸い糞玉にするような適当な固さの糞をする獣が居なかったことに原因があるだろう。牛の糞や人糞などはベタベタしているから、玉になりにくいだろう。

7321センチコガネ

 ↑ 写真⑤に日本にいる同種の甲虫の写真を出すが、この虫は「センチコガネ」という名のつくもので、大きさ2センチくらいのもので、センチという便所を意味する名の通り糞便を分解する虫だが、糞玉は作らない。「センチ」とは漢語で「賤地」のことである。
汚らしい話題になって申し訳ない。説明しかけると、こうなってしまうのである。

夏の季語である「こがねむし」黄金虫を詠んだ句を引いて終わりたい。金亀子とも書く。

 モナリザに仮死いつまでもこがね虫・・・・・・・・西東三鬼

 金亀子擲つ闇の深さかな・・・・・・・・高浜虚子

 恋捨つるごと金亀子窓より捨つ・・・・・・・・安住敦

 病めるわが胸より金亀子はがす・・・・・・・・加倉井秋を

 黄金虫雲光りては暮れゆけり・・・・・・・・角川源義

 死にて生きてかなぶんぶんが高く去る・・・・・・・・平畑静塔

 ぶんぶんに玻璃くろがねの関なすや・・・・・・・・・石塚友二

 金亀虫琵琶のおもてを打撙す・・・・・・・・佐野まもる
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少し余談を書いておく。
糞ころがしのことだが、この虫の作る糞玉は固くても、柔らかすぎても玉にならないらしい。
だから、この虫は山羊などの小さくて、固くて、コロコロしている糞は、苦手だと、ものの本に書いてある。
この虫が、なぜ糞玉を作って巣へ運ぶかというと、巣に帰ったら、この糞玉の中に卵を産むのである。
孵った幼虫は、この糞玉を食べて成長するという段取りである。
適当な固さで、というところに、虫と言えども「こだわり」があるのである。
何事も「こだわり」が大切らしい。では、また。

角川映画・松竹配給「天地明察」を観る・・・・・・・・・・・・木村草弥
天地明察

──映画鑑賞──

     角川映画・松竹配給「天地明察」を観る・・・・・・・・・・木村草弥

       いつの時代も既得権益を侵すのは至難の業だ。
       江戸の昔、日々の暮らしに直結する暦を正しく作り直すために文字通り命懸けで挑んだ人々がいた。
       そのリーダーが実在の人物・安井算哲である。
       行く手を阻んだのは、幕府に利権を奪われるのを恐れた公家たち朝廷の圧力だった。
       幾度も挫折を繰り返しながら粘り強く使命を果たそうとする天文学者を演じるのは岡田准一、
       その妻えんに宮崎あおい。
       さらに、抜群のコンビネーションで笑いと涙を誘う笹野高史と岸部一徳をはじめ、
       ベテラン演技陣が脇を固める。
       原作は冲方丁の2010年本屋大賞受賞の同名小説。
       米アカデミー賞外国語賞に輝いた『おくりびと』以来となる滝田洋二郎監督作品である。

『天地明察』あらすじ

代々将軍に囲碁を教える名家に生まれた安井算哲=渋川春海は、対局よりも星と算術に夢中になり、時間を忘れてのめり込んでしまう事もしばしばだった。
ある日、会津藩主の保科正之から日本全国で北極星の高度を測り、その土地の位置を割り出す北極出地を命じられる。
一年半の任務を終え、暦のずれが判明すると、今度は新しい暦作りの総大将に任命される。
天体観測と数理解析を重ねた結果、幕府は改暦を帝に請願するのだが…。


imagesCAOK1RO3岡田准一
 ↑ 安井算哲
imagesCAP8BVY6村瀬えん
 ↑ 村瀬えん
images関孝和
 ↑ 関孝和
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 ↑ 水戸光圀
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 ↑ 保科正之
303978_461422467236534_1645370912_n天地明察
 ↑ 「北極出地」の一場面、建部昌明と伊藤重孝

↓ 原作の冲方丁(うぶかた・とう)の本(角川文庫201205/21刊)
天地明察

渋川春海関孝和については ← に詳しい。


紺ふかき耳付の壺マグダラのマリアのやうに口づけにけり・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
mary_magdaleneマグダラのマリア

     紺ふかき耳付の壺マグダラの
        マリアのやうに口づけにけり・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

「マグダラのマリア」は、磔刑で死んだキリストが復活して初めて会いに行った人である。
元は娼婦であることから、さまざまの物議をかもしてきた人物である。

はじめに写真①の説明を済ませておく。画像は16世紀のドイツの画家Jan van SCORELの描いたもの。
手にしているのがマグダラのマリアのシンボルである聖油の洗礼用容器である。

掲出した歌の関連で書いておくと、同じ歌集のイスラエル紀行の中で、次のような歌を私は作っている。
先に二つの歌の背景説明をしておくと、
「マグダラのマリア教会」は1888年ロシア皇帝アレキサンダー3世建立。
マグダラのマリアと母后マリアの二人を記念して建てた。聖地エルサレムの旧市街を見下ろすオリーヴ山の麓にある。
磔刑の死後3日後、復活したイエスをはじめて見たのはマグダラのマリアだった。

lrg_11707601マグラダのマリア教会

  娼婦たりしマグダラのマリア金色(こんじき)の教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  「マリアよ」「先生(ラボニ)!」ヨハネ伝20章に描かるる美(は)しき復活の物語

「福音書」は神殿娼婦マグダラのマリアから、イエスが七つの悪霊を追い出し、復活後、まずこの女のところに姿を現したと述べている(『マルコによる福音書第16章9節』)。
のちキリスト教徒が非難したため教令集から除かれた書物には、二人の関係についてさらに奇妙なことが詳しく述べられている。
すなわち、イエスは他の使徒たちすべてを合わせたよりもマグダラのマリアを愛し、「使徒たちの使徒」「すべてを知った女」と呼んで、しばしば接吻した、など。
グノーシス派の福音書が教令集から切り取られる前には、共観福音書やその他の新約聖書と同じくらい、「神の言葉」として受け入れられていた。
だからマグダラのマリアに関する中世の伝統は、この女性を初期の神秘的な最高位に戻している。
マリアは「マリア・ルシフェル(光を与えるマリア)」と呼ばれた。
「イエスがマリアに対して拒んだ恩寵は何ひとつなかった。イエスがマリアに与えない愛のしるしもなかった」と書かれている。

v-356耳つき壺

掲出した私の歌は「耳付の壺」を手に取って、連想としてマグダラのマリアを思い出したということである。
文学作品というのは、このように飛躍することがある。<非日常>と言われる所以である。
なぜ、そんな連想に至るのか、というような質問は野暮の骨頂である。



草弥の詩作品「儲君とは?」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
b12_0035_16_3京都所司代板倉勝重印判状
↑ 京都所司代板倉勝重印判状
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院シリーズ>──(16)

        儲君とは?・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

後水尾院については、近衛家に伝わる『陽明文庫』の資料や禁裏の近くに居た僧侶の日記など、資料が多いと言えるだろう。
これは私の詩であって、論文ではないので、なるだけ平易にしたいのだが、説明しないと分かりにくくなるので、最低限にして資料を引きたい。

それらの資料を読んでいると「儲君ちょくん」という今では聴き慣れない単語が出て来る。
これは、元はと言えば中国古代の漢代に発する制度だということである。儲君=皇太子と考えていいのだが、どっこい複雑である。
    
皇太子は、必ずしも在位中の天皇の長男を指すとは限らない。
歴史的に皇位は、長幼の序を重んじつつ、本人の能力や外戚の勢力を考慮して決定され、長男であれば必ず皇太子になれるとは限らなかった。
それゆえ、皇位継承順位が明文化される以前には、皇太子は立太子された当今の子という意味を持つに過ぎない。
また、南北朝時代から江戸時代中期にかけては、次期皇位継承者が決定されている場合であっても、「皇太子」にならないこともあった。
これは、当時の皇室の財政難などにより、立太子礼が行えなかったためである。
通例であれば、次期皇位承継者が決定されると同時に、もしくは日を改めて速やかに立太子礼が開かれ、次期皇位継承者は皇太子になる。
しかし、立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君」(ちょくん、もうけのきみ)と呼ばれた。
南北朝時代において、南朝では最後まで曲がりなりにも立太子礼が行われてきたとされている。
これに対して、北朝においては、後光厳天皇から南北朝合一を遂げた遙か後の霊元天皇に至るまで、300年以上に亘って立太子を経ない儲君が皇位に就いている。

因みに、今の皇統は「北朝」の系統である。 まさに、後水尾院の頃の時代のことである。
先に書いたように、天皇が多くの「後宮」の女と交わり、多くの子を成した場合には、生母の間の勢力争いとか、天皇の好き嫌いで「儲君」になれたり、なれなかったりした。
後水尾院の場合も父君である後陽成天皇に好かれていなくて、皇弟の後の八条宮に継がせたかったらしいが、徳川幕府の意向で即位されたという経緯がある。
この不仲は後陽成天皇が死ぬまで、ずっと続いたという。
禁裏には、とにかく金が無かった。今風に言えば財政不如意ということである。
世は室町時代に続く戦国時代の後であり、禁裏の権威など、有って無いような時代だった。
御所を取り巻く「築地塀」はあちこち崩れ、盗賊が横行し、禁裏から火事を出したり、町屋からの出火で延焼したりした。それらについては先に書いた。

後水尾院が徳川秀忠の娘・和子を女御に迎えるにあたっては、「およつ御尞人」との間に二人の子が居た、ということで悶着があったが、
結果的には、この縁組によって禁裏には一万石の加増があり、また和子女御には別に一万石の化粧料が持参金として支給されるなど、禁裏の財政は大いに潤った。
私の村の旧家に残る資料には「禁裏御料」の田という名前が出てくる。
また、禁裏と幕府の間を取り持っていたのは「京都所司代」だが、初代と二代は板倉勝重父子だが、私の村には今でも「板倉」という田の地名が存在する。
後水尾院は即位から娘・明正天皇に譲位する頃までは、幕府のやり口に憤懣やるかたない様子であったが、生母・中和門院のとりなしなどもあって、
次第に幕府には金を出させて、自らは、幕府の言い種ではないが、学問、書、絵、和歌などに興味を集中されたのだった。
とにかく禁裏には金が無かった。院の執着された修学院山荘の修築なども、和子女御のちに中宮となるが、その縁からの幕府の出費がなければ出来なかった。

ここで板倉 勝重について少し引いておく。
安土桃山時代から江戸時代の大名。江戸町奉行、京都所司代。板倉家宗家初代。板倉好重の次男。母は本多光次の娘。子に板倉重宗、板倉重昌ら。
史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残っている。
優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った妥当な裁きを見せ、大岡忠相が登場するまでは、名奉行と言えば誰もが板倉勝重を連想した。

三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。
ところが永禄4年(1561年)に父の好重が深溝松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も天正9年(1581年)に高天神城の戦いで戦死したため、
徳川家康の命で家督を相続した。
その後は主に施政面に従事し、天正14年(1586年)には家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行、同18年(1590年)に家康が関東へ移封されると、
武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となる。
関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、
さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し春日局が公募に参加したという説がある。
慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され、同14年(1609年)には近江・山城に領地を加増され1万6600石余を知行、大名に列している。
同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。
大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。
元和6年(1620年)、長男・重宗に京都所司代の職を譲った。寛永元年(1624年)に死去、享年79。

とかく幕府の代弁者として悪者に描かれるが、後水尾院が一番信頼していたのが、彼だと言い、院の「宸筆」の書や絵を賜ったりしている。
上に引いた資料の中にも、「近江・山城に領地を加増され1万6600石余を知行、大名に列している」とあるから、私の村に板倉の地名が残るのも頷ける。

とにかく、色々の曲折を経て、後水尾院は江戸時代を通して、学問、有職故実、和歌の道の第一人者として君臨された。
公生活においても、上皇、法皇として五代にわたって「院政」を布かれ、八十五年に及ぶ生涯を以て、一時代を築かれた。

ここで晩年のお歌 「二十首」─延宝五ノ比(ころ) 御年八十二

       春暁月
   梅が香の夢さそひきて暁はあはれさも添ふ月を見よとや

       独見花
   我のみは花の錦も暗部山まだ見ぬ人に手折る一枝

       風前花
   あひ思ふ道とも見えず風のうへにありか定めず花は塵の身

       惜残春
   花鳥に又逢ひみんもたのみなき名残つきせぬ老が世の春

       款冬露
   言に出でて思ひなぐさめ山吹の言はぬ色しも露けかるらん

       雨後郭公
   心あれや雨より後の一声はものにまぎれず聞(きく)郭公

       樹陰避暑
   秋とひそ岩根の清水流出(ながれいで)て木陰に夏の日を暮しつつ

       荻風告秋
   荻の声ひとりさやけし鳴(なく)虫もおのがさまざま秋を告ぐれど

       山川
   うらみじな山の端しらぬ武蔵野は草にかくるる月も社(こそ)あれ

       月前雲
   もれ出(いで)て今ひときはの光そふ雲にぞ月は見るべかりける

       栽菊
   知らずたれ秋なき時と契おきて植ゑし砌(みぎり)の花の白菊

       寒衣
   思ひやる旅寝の夢もかよふらしうつや砧の音も寒けき

       冬暁月
   冴ゆる夜の澄む月ながら影白く暁ふかき雪にまがひて

       落葉
   朝日にもそむるばかりに夜半の霜解(とけ)わたりたる落葉色こき

       寄月恋
   見るたびにその世の事ぞ思はるる月ぞ忘れぬ形見ながらも

       寄雲恋
   憂しやただ人の心も白雲のへだてぬ中と思はましかば

       寄雨恋
   我袖の涙くらべば秋ふかく時雨る木々も色はまさらじ

       寄風恋
   心あらばうはの空なる風だにも此ひと筆を吹も伝へよ

       海路
   知る知らずここぞ泊りと漕寄せて語ひなるる船の路哉

       釈迦
   散りうせじただ我ひとりとばかりも説きし言葉の花の匂ひは

仮名遣いが今のように統一されていないので読みにくいが、了承されたい。
死の三年前ということだが、達者なものである。 まだまだ紹介する御歌は多い。



   



おしろいばな狭庭に群れて咲き匂ふ妻の夕化粧いまだ終らず・・・・・・・・・・・・・木村草弥
aaooosiroi大判

  おしろいばな狭庭に群れて咲き匂ふ
   妻の夕化粧いまだ終らず・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「オシロイバナ」は熱帯アメリカ原産で、元禄の頃日本に入ってきたという。
この花は英語では four-o'clock と呼ばれるようで、これは夕方の午後4時ころに咲き出し、朝まで咲くからだという。
色は赤、白、黄、斑とさまざまなものがあるようだ。
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種の中に、白粉質の胚乳があるので「オシロイバナ」というらしい。
この草は今では野生化して、路傍のあちこちに群れ咲いている、ありふれた花である。
後で、いろいろの色をお見せする。

この歌は、まだ妻が元気であった頃の歌である。
私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、妻も念入りにお化粧をする気分的なゆとりがあったのである。

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私の歌集には「妻」を詠ったものが多い、と、よく言われる。そう言われて子細に見てみると、なるほどたくさんある。
妻のことは一切詠わないという男性歌人も多いから(逆に夫のことを、滅多に詠わない女性歌人も)私はむしろ妻を詠むことが多いのかも知れない。
私は恐妻家でもないし、特別に愛妻家でもないと思うが、他人から見ると愛妻家に見えるのだろうか。
私の作歌信条は、先に書いたと思うが宮柊二が「コスモス」創刊の際に高らかに謳いあげた「歌によって生の証明をしたい」というのであり、
従って私のことであれ、妻のことであれ、その時々の出来事を歌にして残したい、ということに尽きる。
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だから、今の時点を大切にしたいと考えている。
私も他人様から歌集の贈呈を受けることが多いが、もう何冊も歌集を出している人で、出版時点での掲載される歌が10年とか15年とか前の時点で締め切られているのがある。
なるほど、それは一つの考え方であって、年数を経ても歌が生きている、というか、年月を越えての普遍性を持っている場合、を執着したものらしい。
しかし今どき変化の激しい時代に、そんな時代性を超越したような歌など、存在し得るのであろうか。
つい最近も或る中堅級の才能ある歌人から歌集をもらって、この人も某有名企業を退職してもう10年になるが、
今回の歌集の収録年は、まだ在職中、が最終ということで私は苦言を呈しておいた。
今の某氏を知る人は、もう10数年も前のことを詠んだ歌群を前に、どのような反応を示せばよいというのか。
昔のトップ歌人と言われる人には、たしかに、そういう歌集編集の好みがあったが、現代の歌人はトップと言えども、
現時点を詠って、すぐに出版にこぎつけている。それが本当ではないのか。

以下、オシロイバナを詠んだ句を少し引いて終りにする。

 おしろいの花の紅白はねちがひ・・・・・・・・富安風生

 おしろいが咲いて子供が育つ露路・・・・・・・・菖蒲あや

 おしろいは父帰る刻咲き揃ふ・・・・・・・・菅野春虹

 白粉花吾子は淋しい子かも知れず・・・・・・・・波多野爽波

 白粉草の花の夕闇躓けり・・・・・・・・渡辺桂子

 わが法衣おしろい花に触れにけり・・・・・・・・武田無涯子

 白粉花やあづかりし子に夜が来る・・・・・・・・堀内春子


一茎のサルビアの朱もえてをり老後の計画など無きものを・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   一茎のサルビアの朱(あけ)もえてをり
     老後の計画など無きものを・・・・・・・・・・・・・木村草弥


サルビアは南ヨーロッパ原産の華やかな夏の花である。シソ科の多年草。葉が薬用、香料になるという。寄せ植えが普通で、群れとしての印象の強い花である。
写真のように群生して咲かせるのが豪華である。
掲出の歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、私がまだ現役で仕事をしていた時の作品である。
だから後段で「老後の計画など無きものを」と詠んでいる。
この真紅の花を前にしていると何だか勇気づけられるような気がするではないか。
だから、この歌を作ったときは、老後、引退など、まだまだ先のことと、他人ごとのように思っていたのかも知れない。

ところで、この頃では品種改良の結果、これが「サルビア属」と目を疑うようなさまざまな色と形のサルビアがあるらしい。
uliginosa1_1ウリギノーサ

写真②は「ウリギノーサ」という属の一つである。花のつき方が、そういうとサルビアの花と一緒である。
詳しくはネット上で検索してもらいたい。

以下、サルビアを詠んだ句を引いて終りにしたい。

 屋上にサルビア炎えて新聞社・・・・・・・・広瀬一朗

 サルビアに染まりし霧の湖へ出づ・・・・・・・・武井耕天

 石垣にサルビアの燃え移りたり・・・・・・・・吉田貞造

 学校花壇サルビアつねに軽騎兵・・・・・・・・鈴木蚊都夫

 サルビアの地をたしかなる猫の歩み・・・・・・・・原子順

 鈴の音は驢馬の曳く馬車サルビア緋・・・・・・・・竹尾夜畔

 別れゆくときもサルビア赤かりき・・・・・・・・木村浅香女

 サルビアの真つくれなゐに自負一つ・・・・・・・・松本千恵女

 サルビアのなだるるごとく月日かな・・・・・・・・黒川路子


草弥の詩作品「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 「後水尾院御集_」御製1420首余を収録
537px-Callirgaphy_by_Emperor_GoMizunoo後水尾院雅歌色紙
↑ 後水尾院雅歌色紙
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院シリーズ>─(15)

     「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」・・・・・・・・・・木村草弥

「禁中並公家諸法度」は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた。
元和元年7月17日(1615年9月9日)、二条城において大御所(前将軍)徳川家康、将軍(二代)徳川秀忠、前関白・二条昭実の3名の連署をもって公布された。
漢文体、全17条。江戸時代を通じて、一切改訂されなかった。

この法度の制定に先立ち、慶長18年6月16日(1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定めていたが、
この法度によって、さらに天皇までを包含する基本方針を確立した。
以後、この法度によって幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、江戸時代の公武関係を規定するものとなった。

1631年(寛永8年)11月17日には当時の後水尾上皇主導で「若公家衆法度」が制定された。
この制定には幕府は間接的な関与しか行わなかったが、青年公家の風紀の粛正を目的とし、朝廷行事の復興の促進とともに公家の統制を一層進める事となり、
禁中並公家諸法度を補完するものとなった。

全文は17条からなり、その内容は武家諸法度と異なり、幕末まで変わらなかった。
1条から12条が天皇家および公家が厳守すべき諸規定、13条以下が僧の官位についての諸規定となっている。
原本は万治4年1月15日(1661年2月14日)の御所火災で焼失し、その後副本を元にして復元された。

第1条に天皇の主務として次のように規定されている。

一、 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。
和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。

意味は「天皇の務めは芸能である、その中でも学問が第一である」として具体的に経史、『群書治要』といった漢籍を宇多天皇の遺誡を引いて勧めたあと、和歌の道こそ、天皇の最もたしなむべき道としている。
さらに『禁秘抄』(順徳天皇が著した禁中行事に関する書で、後世の有職の基準となった)をあげ、禁中の行事、有職の知識を学ぶように勧めた。
ここでいう芸能とは現在の芸能界とか芸能人というのとは異なり、いわば教養として心得るべき知識の総体を指す。
天皇が文化の面での最高権威であり、文化そのものの体現者たれ、とされたのである。
ここでも、先進文化として中国唐代の帝王学である『群書治要』が挙げられている。

後水尾天皇は、十代にあたる時期に熱心に漢学を学んでいた記録があるが省略する。『日本書紀』なども学ばれた記録がある。
歴代天皇の中で、この法度の規定を最もよく体現した人と言えるだろう。

膨大な院の御歌の中から、今回は父君・後陽成院が元和三年に四十七歳で崩御されたときに作られた歌

     九月の末つかた、思ひもあへず倚蘆(いろ)にうつろひしは、ただ夢のうちながら、
     覚むべきかたなき悲しさに、仏を念じ侍りけるついでに、諸法実相といふ事を思ひ出でて
     句の初めに置きて、つたなき言の葉をつづり、いささか愁嘆の思ひを述べ侍るならし

      白雲のまがふばかりをかたみにて煙のすゑも見ぬぞ悲しき

      よそへ見るたぐひもはかな槿(あさがほ)の花の中にもしをれやすきを

      ほし侘ぬさらでも秋の露けきに涙しぐるる墨の袂は

      うつつある物とはなしの夢の世にさらば覚むべき思ひともがな

      知らざりきさらぬ別れのならひにもかかる嘆を昨日今日とは

      つかふべき道だにあらばなぐさめん苫の雫を袖にかけても

      さまざまにうつりかはるも憂き事は常なるものよあはれ世中(よのなか)

      受け継ぎし身の愚さに何の道もすたれ行べき我世をぞ思ふ

前書きに書かれているように歌の頭に「諸法実相」という仏語を置いて作られている。「冠かぶり」という歌の作り方の手法である。
字句の解説をしておこう。
「倚蘆」とは天皇が父母の喪に服する仮屋。正殿の庇の板敷きを地上におろし、十三日間籠る。
「諸法実相」─宇宙間のすべての存在がそのまま真実の姿であること。 出典は「諸法実相者、謂実智所照、諸法実相境也、即是立章門」(法華義疏・序品)。
「ほし侘ぬ」─干しかねて困惑してしまう。
本歌「刈りて乾す山田の稲をほしわびて守る仮庵に幾世経ぬらん」(拾遺・雑秋・凡河内躬恒)
「知らざりき」─本歌「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はさりしを」(古今・哀傷・在原業平)
「さらぬ別れ」─本歌「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もとなげく人の子のため」(古今・雑上・在原業平)

解説としてはまだまだあるが、このくらいにしておく。こういうのを「本歌取り」という。
それにしても、この年、後水尾天皇わずか二十一歳である。中院通村の添削があったとしても、お見事なものである。


戻りたる太陽の彩まぶしかり「トラキア人の墓」も明るむ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Reproduction_of_Thracian_tomb_1トラキア壁画

     ■戻りたる太陽の彩(いろ)まぶしかり
       「トラキア人の墓」も明るむ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

      ■シプカ村に鄙びし聖歌ひびくとき
         バルカン山脈晴れて果てなし・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので「皆既日蝕」──ブルガリア1999年8月11日──という一連11首のところに収録したものであり、
丁度、二十世紀最後という皆既日蝕に同地で遭遇した記念すべき作品群である。
掲出歌だけでなく現地の背景説明のためにつづく歌も出しておく。

私は当時まだ現役で仕事をしていたので、1999年のお盆休みを利用してJTBのツアーに乗っかって、ルーマニア・ブルガリアの旅に参加した。
丁度、その期間中に20世紀最後と言われる皆既日蝕に遭遇することになった。
もちろん私の旅は皆既日蝕を見るのが目的ではなかったのだが、現地の新聞などは、その報道一色だったことを思いだす。

ブルガリアでは「バラの谷」と呼ばれる地方に行った。
ここは広大なバラ畑がひろがり、バラ油が生産されているところ。
歌集の注書にも書いたが、ここで産するバラ油は世界シェア80%を占めるものである。
その辺りはシプカ村と称するが、その一角に「トラキア人の墓」の遺跡が存在する。
オリジナルの墓は現在、保存のため封印され、一般には非公開であり、その代わりに隣に忠実に再現したコピーを建ててあり、見学できる。
写真①は、そのコピーの古墳の内部に残る壁画の様子。

 ↓ 写真②はコピーの外部の建物。
bg-trakia-tombトラキア人墓

 ↓ 写真③は、その墓の内部の入り口付近である。
bg-trakia-in1トラキア墓コピー入り口

「トラキア人」と言われても、世界史の本にも余り出てこないことだが、トラキア人の名が歴史に登場するのは、ギリシアのヘロドトスの本によるという、もともとはユーラシア大陸の騎馬民族である。
ネット上ではGoogleで検索するとブルガリア科学アカデミー考古学研究所の記事の中で「トラキア人と魂の不滅」というディアーナ・ゲルコーヴァの論文などが見られるので参照されたい。
Googleでは「トラキア人」と検索すると多くの情報が載っている。

このコピーだが、忠実に再現された墓はBC4世紀ごろに造られた古墳で、中は大人4人しか入れない狭い空間。
しかし、そこには洗練された壁画の世界が広がっていた。
古墳は丘の上にあり、付近は公園になっている。1944年、軍が防空壕を掘っていて偶然に発見された。
その壁画はトラキア人が残した最大の遺産として、ブルガリアの誇りになっている。
壁画のなかで重要なのは、写真①に見るように、主室の葬送の様子を描いたものである。
丸天井に円環状に描かれ、中央に3台の戦車、その外側に多くの男女や馬車がある。
あの世に先だつ夫と、これを見送る夫人との決別の場と解釈されている。
トラキア人は、みな自らの意志によって死ぬことに敬意を払い、中には死者の魂が滅することなく、生存中よりも一層祝福されると信じたという。
この場所は、ブルガリア北部のカザンラク近くのシプカ=シェヨノボ地区である。
ルーマニアから国境を越えて、すぐの所。

ここの壁画の保存とコピー展示の様子を見ると、いま奈良県の高松塚古墳で問題になっている保存と公開のことが思い浮かぶが、
ここでも、このような方法を採用したらよいのである。
日本人はオリジナルを現地で保存し、かつ公開するのにこだわるが、オリジナルを破損してしまっては元も子もなくなるではないか。
トラキア人の墓だけでなく、アルタミラの洞窟などでも、オリジナルは非公開にして厳重に保存し、一般にはコピーを公開している。
世界的には、そういう趨勢なのである。



草弥の詩作品「禁裏は火事が多かった」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Reizeike冷泉家表門
 ↑ 冷泉家表門─冷泉家も御所の一角を成していた
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院シリーズ>──(14)

     禁裏は火事が多かった・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

冷泉為人が2007年に書いた論文を見ると、禁裏は火事が多かったことが判る。
一部を引いてみる。因みに、冷泉為人は現当主であり、財団法人・冷泉家時雨亭文庫理事長である。
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4. 後西天皇の万治四年(一六六一)正月十五日、関白二条光平室賀子内親王家より出火。内裏
を始め、後水尾院の仙洞御所、東福門院の女院御所、明正院の新院御所等が炎上した。火元の関
白二条光平邸をはじめ、公家の邸宅一一九、社寺一六、町家五五八を焼失した大火であった。
これほどの大火であったのにもかかわらず、幸いにも西御唐門、御輿宿、御文庫、北女中雑蔵
の四棟と、塀(築地塀)などが焼け残った。これらの焼失を免れた原因は何かを検討することが
大事。ここでも御文庫、雑蔵、築地塀などの土蔵造が残っているので、土蔵造は防火には有効で
あることが知られる。これは前の承応二年の火災の時においても、同様に御文庫、御蔵、塀など
24が焼け残っている。
さらに寛文三年(一六六三)に後西天皇が譲位する時、築地之内に明地がなかったので、内裏
の南にあった二条家の屋敷地を築地之外へ移転させている。つづいて延宝元年(一六七三)から
はじめられた後西院御所造営のため、院御所の南にあった頂妙寺を鴨東へ移転させている。

5. 寛文十三年(一六七三)五月八日に、内裏は江戸時代になって三回目の火災にあった。これ
は未明丑刻(午前二時)、内裏の東南の関白鷹司房輔邸より出火。内裏をはじめ、仙洞御所(後
水尾院)、女院御所(東福門院)、新院御所(後西院)などが炎上した。さらに左大臣九条兼晴邸
をはじめ、多くの公家邸宅を焼失し、町数一三〇、町家一三〇〇余を焼き尽くす大火であった。
しかしこれほどの大火であったにもかかわらず本院御所(明正院)の中程から北側は焼失を免れ
た。その他御文庫三棟が焼け残った。
明正院の御所の北側半分が焼け残ったのはどうしてであろうか。風向きによるものであろうか、
消火が有効に機能したためであろうか。これらは今後の検討課題である。

6. 東山天皇の宝永五年(一七〇八)三月八日午刻(正午)、油小路姉小路の銭屋市兵衛宅より
出火。西南の風が強く吹いたため、火はたちまち東北に燃え広がり、内裏をはじめ、仙洞(霊元
院)、女院(新上西門院)、東宮(慶仁親王)、中宮(皇后幸子内親王)、女一宮(後光明院女一宮
孝子内親王)などの御所を焼き、左大臣九条輔実邸、前関白鷹司兼熈邸などの多くの公家邸宅を
も焼失した。およそ北は今出川通より南、東は鴨川より西、南は四条通より北、西は堀川より東
の広大な地域が灰燼に帰した。
大火と気象との関係が課題となるであろう。そしてさらにこの宝永の大火後の、内裏新造営や
公家町の復興において、防災の観点から公家町の拡張という公家町再編がなされた。注目すべき
ことである。これについては後述することになる。

7. 天明八年(一七八八)正月晦日の未明五時頃、どんぐり橋近くの鴨川東宮川町団栗図子の空
家(建仁寺町通四条下ル二丁目辺り)より出火した火は大火となった。「天明の大火」という。
翌二月一日は一日中燃えつづけ、二月二日の明け方にようやく鎮火した。洛中、京都の中心部の
ほとんど全てを焼き尽くした大火で、応仁の乱以来といわれる大惨事であった。北は鞍馬口通、
東は鴨川の東、南は七条通、西は千本通までが焼けた。
この天明の大火の再建、復興の特色は、平安朝古制を用いたことである。総奉行となった老中
松平定信は柴山栗山と裏松固禅を登用し、固禅の『大内裏考証』に基づいて、紫宸殿や清涼殿等
の一部や飛香舎を、平安朝の古制に戻して復興、再建したのである。
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参考までに書いておくが、京の町全体の大火事となったのは、次のようなものである。

     京の町を襲ったふたつの大火

 花の元禄期ともいえる十七世紀末、京都には伝統的な権威の象徴でもある京都御所と、武家の権力を示す二条城が置かれ、近世京都の形成がなされていた。
だが、十八世紀を迎えて、京都はふたつの大火による災害を被り、甚大な打撃を受けることとなった。「宝永の大火」および「天明の大火」である。

 宝永の大火は一七〇八(宝永五)年三月、油小路通姉小路付近から出火し、二日間に渡って燃え続けた。
火は西南風に煽られ、延焼地域は東北部へと拡大し、最終的には東は鴨川、西は堀川、北は今出川南、南は四条までが被災地域となった。
「宝永五年炎上記」によると町数四一五町、家数一万百三十軒余、寺数五十ケ所、社頭十八ケ所、西道場十二ケ所、東道場二十三ケ所、土蔵火入六百七十余と記録されている。
さらに禁裏御所の焼失も余儀なくされ、七十八軒もの公家屋敷ほか、諸藩の武家屋敷も二十四軒焼失している。
 宝永の大火よりちょうど八十年後に起きたもうひとつの大火が天明の大火である。応仁以来の大惨事をもたらし、京都史上、最大規模の大火ともいわれている。
「天明炎上記」「京都大火」「京都大火記録」などの記録も多く残され、当時は京都焼亡図や木板による大火記録も売り出されたばかりでなく、後にわらべ唄にもなったほどだ。
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 炎が上ったのは一七八八(天明八)年一月二十九日未明、鴨川東宮川町団栗図子の空家から出火した。
火は鴨川の西岸へも飛び火し、やがて全市中へと燃え拡がった。
火消の人々の尽力ではもはやどうにもならず、火消たちは禁裏をはじめとする警固を担い、また亀山、高槻、郡山、膳所、淀、篠山などからかけつけた近国の大名もなす術なく、
各所の警衛にあたるほかなかった。
 焼失家屋は三万六千軒以上、洛中の戸数がおよそ四万軒であるから、実にほぼ九十パーセントが焼失したことになる。焼けた寺は二百一ケ所、神社は三十七にのぼっている。
また、この大火により御所も炎上を免れず、二条城や周辺の武家屋敷の焼失をも招いている。
 禁裏においては、宝永の大火の先例にならい、下鴨神社への避難の行幸が決まった。
が、その後、御所が炎上したとの注進を受け、還幸が不可能となったことから再び聖護院へと行幸している。
 天皇は仮御所を聖護院に置き、そこで避難の日々を過すこととなった。
あわせて仙洞御所は青蓮院、女院御所は修学院竹内宮御殿、女一宮は妙法院へと落ち着き、東西両町奉行はそれぞれ焼け残った北南両二条門番頭の屋敷に入って仮奉行所とした。
 この天明の大火で死者についての正確は記録は残されていない。「大島家文書」では百五十人とされているが、「伊藤氏所蔵文書」では千八百人余と記されている。
 なお、寺町清浄華院境内には、「焼亡横死百五十人之墓」と刻まれた天明大火の供養塔が建てられ、死者が祀られている。

念のために書いておくと「仙洞御所」とは上皇、法皇などが住まいされる所。「女院御所」とは中宮以下女人が暮らす所である。
「仙洞御所」は寛文以後は再興されなかったから、今は庭園だけが残っている。

こんな大火事という災難に遭ったのに、これらを詠んだ歌は無い。
その頃の「和歌」は、今の短歌のように叙景、抒情などもリアリズムではないから、身辺に起こることを詠むことはないのである。
その頃の和歌は「王朝和歌」とか「堂上和歌」とか呼ばれるが、雅を基本として、「本歌」という過去の歌を引いて詠うのが常道である。
こういうのを「本歌取り」という。
今の短歌は、こういうのを剽窃として、つまり盗み取ってきたとして嫌うので、時代的にひどく変わったものである。
その頃は、「本歌」を、いかに多く知っているかが教養として尊ばれたのであった。






ドーパミンなだめかねつる此の宵を蛞蝓の辿れる白き這ひあと・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
dopamine゛ーパミン化学式

     ドーパミンなだめかねつる此の宵を
       蛞蝓(なめくぢ)の辿れる白き這ひあと・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
写真①は、ドーパミンの化学式C8H11NO2の模式図である。物質名は2-ヒドロキシフェニルアミン。
ドーパミンは興奮や快感を伝達する神経伝達物質である。
脳には手綱核というものがあり、意欲や気分などの「情動機能」の調節に重要なドーパミン神経系の活動を調節する上位中枢として注目されいてる。
ドーパミンの放出によって「他では得られぬ」強烈な快感と幸福感を呼び起こす。
この物質はアミノ酸のひとつチロシンから作られたアミンの一種。
チロシンという物質が麻薬の主成分なので、脳内で公然と麻薬が作られていることになる。
最近になって知られることだが、ドーパミンの欠乏がパーキンソン病を引き起こす。

カナダのオームズやラウンテンバーグらによって、脳幹の中央部に沿って走る「A10神経」が快感神経であることを特定。
この神経ニューロンのシナプスに「ドーパミン」という「脳内快感物質」を発見した。
ドーパミンは脳を覚醒し快感を誘い、創造性を発揮させるという。

難しい話になったが、とにかくドーパミンは性行為にまつわる重要な物質である。内分泌ホルモンと言ってよいのであろう。
私の歌について書くと、ドーパミンというものの作用を知って、この歌が出来上がったといえる。
そして、ナメクジの「這いあと」というのは、男性の精液の白い液を、暗喩として表現している。
よく観察するとナメクジの這いあとには、さながら精液のようなねっとりした光る跡が残るからである。
ドーパミンをなだめることが出来るかどうか私は知らないが、文学表現として、このように書いてみたのである。

ナメクジというのは嫌われる存在で、所構わず這い回られるとゾッとするが、「性」というものには、何か日蔭の存在みたいなものがあり、日向には似合わないものとして、或る似かよったものがあるのではないか。
私自身は「性」は、そういう存在ではないと信じているので、じめじめした日蔭から、日のあたる日表に引き出したいと思っている。
今から振り返ると、この頃は私は、精気に満ちて充溢していたのである。
念のために「ナメクジ」の写真を出しておく。

1149353472ナメクジ

なお、蛞蝓は夏の季語であるので、それを詠んだ句を引いて終る。

 蛞蝓のはかなき西日青胡桃・・・・・・・・飯田蛇笏

 なめくぢの左曲りと右曲り・・・・・・・・・高野素十

 来しかたを斯くもてらてらなめくぢら・・・・・・・・阿波野青畝

 なめくぢのふり向き行かむ意志久し・・・・・・・・中村草田男

 蛞蝓急ぎ出でゆく人ばかり・・・・・・・・石田波郷

 かたまりて深夜の寺のなめくぢり・・・・・・・・中川宋淵

 たそがれは微光とならむなめくぢり・・・・・・・・能村登四郎

 蛞蝓に塩それからの立話・・・・・・・・・福永耕二

 なめくぢら這ひて呪文を残すごと・・・・・・・・露久志香女



草弥の詩作品「後水尾院と徽宗のこと」・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
449px-Huizong徽宗皇帝
 ↑ 徽宗皇帝像
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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<後水尾院シリーズ>──(13)

     後水尾院と徽宗のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院の葬送のときに、院の遺体の上段に「徽宗皇帝の三尊仏が掛けられ・・・・」と描写されているのは先に書いた。
なぜ「徽宗」なのかというと、芸術、書、絵などの才能に優れた点を院は敬愛されたのである。
徽宗の生涯は政治的には失敗であったといえるが、そんなことは院には判らないことであった。以下のようである。

徽宗 (きそう、1082年11月2日(元豊5年10月10日)~ 1135年6月4日(紹興5年4月21日)、在位:1100年 ~ 1125年)は北宋の第8代皇帝。
諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝(退位したので「遜」(ゆずる)という文字が入っている)。
諱は佶。第6代皇帝神宗の子。芸術面では北宋最高の1人と言われる。


神宗の第11子として生まれたが、1100年、兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御したため、弟である徽宗が皇帝に即位した。
宰相章惇ら重臣は徽宗の皇帝としての資質に疑念を抱いていたため他の皇子(簡王)を皇帝に推したが、皇太后向氏の意向により徽宗に決まったとされている。
治世当初は芸術家の魂ともいえる絵筆を折って政治への意欲を示し、穏健な新法派で皇太后の信任が厚かった曾布を重用、曾布は新法・旧法両派から人材を登用して新法旧法の争いを収め、
福祉政策を充実させるなど漸進的な改革を進めた。だが、やがてこれに飽き足らない新法派の蔡京らの策動によって曾布は失脚し、蔡京が政権を掌握するに至る。

550px-Momohatozu_Huizong桃鳩図
 ↑ 桃鳩図 (国宝)

文人、画人としての徽宗はその才能が高く評価され、宋代を代表する人物の1人とされる。
痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出し、絵画では写実的な院体画を完成、「風流天子」と称された。
現在、徽宗の真筆は極めて貴重な文化財となっており、日本にある桃鳩図は国宝に指定されている。
200px-Songhuizong4徽宗の「芙蓉錦鶏図」(故宮博物院)。絵の脇の詩文の文字は痩金体で書かれている
 ↑ 徽宗の「芙蓉錦鶏図」(故宮博物院)。絵の脇の詩文の文字は痩金体で書かれている。

皇帝としての徽宗は自らの芸術の糧とするために、庭園造営に用いる大岩や木を遠く南方より運河を使って運ばせた(花石綱)。
また芸術活動の資金作りのために、『水滸伝』の悪役として著名な蔡京や宦官の童貫らを登用して民衆に重税を課した。
神宗、哲宗期の新法はあくまで国家財政の健全化のためであったが、徽宗はそれを自らの奢侈のために用いるに至ったのである。
この悪政の一環としては、土地を測量する際に正規の尺より8パーセントあまり短い、本来は楽器の測定に用いる楽尺といわれる尺を用い、
それによって発生した余剰田地を強制的に国庫に編入したり、売買契約書が曖昧な土地を収用するなどの強引な手段もとっている。
このような悪政によって民衆の恨みは高まり、方臘の乱を初めとした民衆反乱が続発した。
こうした反乱指導者の中に山東で活動した宋江と言う者がおり、これをモデルにした講談から発展して誕生したのが明代の小説『水滸伝』である。
当時、宋の北方の脅威であった遼は皇帝や側近の頽廃により国勢が衰えてきていた。さらに遼の背後に当たる満州では女真族が完顔阿骨打を中心として急激に台頭していた。
女真と協力して遼を挟撃すれば、建国以来の悲願である燕雲十六州奪還が可能であると捉えた北宋の朝廷は、金に対して使者を送り、盟約を結んだ(海上の盟)。
1121年(宣和3年)、金は盟約に従い遼を攻撃したが、北宋は方臘の乱の鎮定のために江南に出兵中であり、徽宗自身の決断力の欠如もあって、遼への出兵が遅れた。
翌年、ようやく北宋は北方へ出兵し、遼の天祚帝のいる燕京を攻撃した。
宋軍の攻撃は失敗を重ね、成果を上げられない事を理由に誅殺されることを恐れた宋軍の指揮官童貫は金に援軍を要請。
海上の盟では金は長城以南に出兵しない取り決めであったが、金軍はこの要請に応えてたちまち燕京を陥落させた。
この結果、盟約通りに燕雲十六州のうち燕京以下南の六州は宋に割譲されたが、金軍によって略奪が行われていた上に住民も移住させられていたため、
この地からの税収は当分見込めない状態であった。
さらに金は燕京攻撃の代償として銀20万両、絹30万匹、銭100万貫、軍糧20万石を要求したが、北宋はこれを受諾せざるを得なかった。
1125年(宣和7年)、このように燕雲十六州の一部奪還に成功した宋朝は、金に占領された残りの州の奪還を計画し、遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。
しかしこの陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗は宋に対して出兵する事態を招く。
慌てた徽宗は「己を罪する詔」を出すと退位し、長男の趙桓(欽宗)を即位させ、太上皇となった。さらに金軍から逃れるべく開封を脱出したが、欽宗により連れ戻されている。
1126年(靖康元年)、金は開封を陥落させた。徽宗は欽宗と共に金に連行され(靖康の変)、1135年(紹興5年)、五国城(現在の黒竜江省依蘭県)で54歳で死去した。
またこの時共に彼の妃韋氏、息子欽宗の妃朱皇后など、宋の宮廷の妃、皇女、あらゆる宗室の女性や女官、宮女達が、金軍の慰安用に北に連行され、後宮に入れられた後、
1128年6月には金の官設の妓楼である洗衣院に下されて金人皇族・貴族を客とする娼婦になることを強いられた。
結果、韋妃は高宗の生母であったこともあって、耐えて後に南宋に帰国したものの、朱皇后は、その境遇に耐えかねて、身を投げて自殺している。

道教との関係
徽宗は、道教を信仰し、道士の林霊素を重用した。林霊素は「先生」の号を授けられ、道学が設置された。徽宗自身は「道君皇帝」と称し、『老子』や『荘子』に注釈を行った。
その矛先は仏教に対する抑仏政策にも現れ、仏(如来)を「大覚金仙」、僧侶を「徳士」などと改名させて、僧侶には道服の着用を強制した。但し、これは1年間で撤回された。


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