K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(10月)月次掲示板
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昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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十月になりました。
の季節です。味覚の秋、体育の秋です。

 そよや風われはその声知らねども百舌鳴くやうな夕暮れ来たる・・・・・・・・・・・・・・内藤明
 ひと隅を占めて咲きいる慎ましさつゆの乾ぬまのむらさきしきぶ・・・・・・・・・・・・三枝浩樹
 青空のふかく澄む日は 聞こえるかきんもくせいの老人のこゑ・・・・・・・・・・・・小島ゆかり
 流離(さすら)わず七度目の干支擦り抜けむせめても遠き祖霊相連れ・・・・・・・・田島邦彦
 歳月をひとめぐりして立ち寄ればぬすびと萩に種の実れり・・・・・・・・・・・・・・・横山未来子
 高きたかき脚立の上より声かけて下されし写真家の若かりし声・・・・・・・・・・・・ 中野照子
 息抜きにゼブラフィッシュのしましまの模様のでき方の論文を読む・・・・・・・・・・・・永田紅
 沖縄のかがやく碧よ、北国の蒼き冥さよ 海めぐる国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森山良太
 声の限り心の限り大泣きの児はあかあかと紅葉に並ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・ 春日真木子
 晩秋の沼の面の水馬は微かな光の輪を踏みて立つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三井修
 年々の花よりまぼろし歳々を生死のことにほうとしわれは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・成瀬有
 赤の飯炊かば佳き日のよき思ひかへらむか小豆煮えつつぞある・・・・・・・・・蒔田さくら子
 あなたがやめた多くを続けてゐる僕が何ももたずに海にきました・・・・・・・・・・・・光森裕樹
 十月や
顳顬さやに秋刀魚食ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
 秋の航一大紺円盤の中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
 蛇消えて唐招提寺裏秋暗し・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
 石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり・・・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男
 カステラが胃に落ちてゆく秋の昼・・・・・・・・・・・・・・・・大野林火
 秋暁や胸に明けゆくものの影・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
 玉垣の内の羽音も日短・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阿波野爽波
 足もとはもうまつくらや秋の暮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
 秋の夜や紅茶をくぐる銀の匙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城
 にせものときまりし壺の夜長かな・・・・・・・・・・・・・・・・・木下夕爾
 機関車の底まで月明か 馬盥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子
 点鬼簿に入りしその名を虫のこゑ・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 柘榴打ちリリーマルレーン唄ふべし・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 壁の絵は不矩のカトレア秋灯・・・・・・・・・・・・・・・・・・対中いずみ
 月光にひっそりと訃を受けとめる・・・・・・・・・・・・・・・林田紀音夫
 鯊の秋ハドソン湾へ水茶色・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 此の百歩巨人の一歩芒原・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井俊祐
 生りたらぬところさみしき滝見かな・・・・・・・・・・・・・・・有沢
榠樝
 丸見えの桃の縫目を撫で下ろす・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 〃
 ラブホテル正午の水を打ちにけり・・・・・・・・・・・・・・・・加藤静夫
 望の夜の人にてのひら魚に
・・・・・・・・・・・・・・・・・津川絵里子
 食パンの中に空洞朝ぐもり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷口摩耶
 扇風機どこかの鈴木から電話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福田若之
 鷲鼻の国に来てゐる涼しさよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・松本てふこ
 長い長い手紙を書いてきた海だ・・・・・・・・・・・・・・・・・前田一石
 ここは信濃唇もて霧の灯を数ふ・・・・・・・・・・・・・・・・加倉井秋を
 何べんも秋草数へ人は老ゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山田みづえ
 初桃のまだ強情な果肉なり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 石原明
 恋は過去形エッチングなんて手法・・・・・・・・・・・・・・原田否可立
 蜻蛉の脚の関節すこし風・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 桑原三郎
 原発に腰かけて君何思ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷雄介
 水澄むや悲劇好みの性(たち)らしい・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第五歌集『昭 和』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
一般書店からの取り寄せは、角川書店の配本部門・角川グループパブリッシング発売、と指定されたい。
ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books紀伊国屋書店BookWeb、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
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「角川書店」話題の新刊書籍
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林真理子『アスクレピオスの愛人』・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   林真理子『アスクレピオスの愛人』・・・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・・・・新潮社2012/09/28刊・・・・・・・・・


      WHOのメディカル・オフィサーとして感染症の最前線で働く志帆子。
      命を賭してウイルスと戦う彼女が本当に求め続けているものとは? 
      純粋であるがゆえに残酷で、ひたむきさゆえに奔放――。
      男たちを翻弄してやまない、マリコ文学史上最強のヒロイン誕生! 
      東京、ジュネーブ、アンゴラ、バンコクを舞台に、
      さまざまな問題を抱える現代医療の世界を鮮烈に生き抜く女を描く、
      衝撃のメディカル・ロマン。

新潮社の読書誌「波」2012年10月号より、特集二篇を引いておく。
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        『アスクレピオスの愛人』刊行記念特集

        個人性と社会性の黄金バランス     山田美保子

 女性性は個人性の象徴で、男性性は社会性の象徴といわれる……。
働く女性の多くを立ち止まらせるのは、この個人性と社会性のバランスがうまくとれなくなったときだろう。
特殊な技能が必要な職種や、多くの部下を抱えるエグゼクティブ・キャリア・ウーマンなら尚更で、キャリアを重ねれば重ねるほど、内面のみならず、見た目でも、オジサンだかオバサンだかわからなくなる危機と葛藤しなければならない。
 だが、林真理子さんが描くキャリア・ウーマンは、いつもこの個人性と社会性のバランスが絶妙なのだ。
いや、24時間、365日、どこを切り取ってもバランスが良いというワケではなく、グーッと社会性に寄る(寄りすぎる?)時間や日もあれば、リバウンドのように思う存分、個人性に浸りきるときもある。だからこそ、
こんなにも魅力的なヒロインに出来上がるのだろう。
 こうして書くのは簡単だが、やってるほう(ヒロイン)も、やらせているほう(林さん)も、人の3倍は汗をかいている。
オンとオフのスイッチとかいう俗っぽい言葉では表しきれない、個人性と社会性の黄金バランスには、ハンパない集中力と行動力が必要なのである。
『アスクレピオスの愛人』のヒロイン、佐伯志帆子は、WHOのメディカル・オフィサー。
バツイチで、一人娘は元夫と暮らしている。その優秀さとワールドワイドな仕事ぶりは、たとえば英語、フランス語だけでなく、タイ語、スペイン語、スワヒリ語もできる……ということでもわかろう。
 そんな彼女を仕事人として尊敬しつつ、ふと見せるチャーミングな仕草や大人の色気、モテ女ならではの大胆さと勝手さ、経済力のある女性特有の嗜好を愛してやまない男性たち。世代はさまざまだが、職業は全員、医者である。
 医者と一口に言っても、実家の職業や経済状況、出身大学から始まって、目指したジャンル、勤務先、そこでのポジションなどによって、見え方も在り方も大きく異なるものだ。根っこにある志の高さは同じでも、厳然たるヒエラルキーが存在するし、医者ならではの常識と非常識が混在する。同じ医者として、互いの事情や立場がわかりすぎるだけに、ふとした瞬間、とてつもない嫉妬や羨望の想いに陥るのである。志帆子をとりまく男性医師のなかで、もっとも年配の者による「金か名誉かのどちらかが欲しいもの」という決めつけは、社会性の生き物である男性ならではの言葉だろう。
 どんな職種でも、働く女性はいまだに男尊女卑の四文字を多かれ少なかれ感じているし、闘っている。その闘いに疲れて、女をウリにすることを選択する女性も少なくない。いいとか悪いとかではなく、林さんは、そういう女性を目ざとく見つけ、描いていく。志帆子の元夫の妻になった元キャビン・アテンダントの結花の生きざまと感情もまた、バブルという時代の波と出会い、別れた経験のある女性には、痛いほどわかろう。こうした登場人物の感情は当然、景気とかトレンドにも大きく左右されるし変化していく。
 その時代時代の空気感や細かいディテールを描くのは、もともと林真理子さんが大得意とするところだ。「もしかして、そこで働いていた?」と思わせるほど、あまりに“事情通”ゆえ、その都度、舞台になった業界やヒロインと同じ職業に就く者たちを震撼させてきた。今回も、日本の医学界や国際機関、はたまた厚労省をはじめとした省庁をもアッと言わせるシーンが随所に出てくる。ちょっと見聞きするだけでは書けない業界だけに、いつも以上に事細かな取材が必要だったろうと推察できる。このパワフルな取材力もまた、林さんの小説の醍醐味といえよう。
 特に、後半の、産婦人科における死産から医療裁判に至る部分は、まさしく、「平成の『白い巨塔』」。
また、高齢出産で子をもった林さんならではの産婦人科や小児科の医師に対する冷静な視点とダイナミックな描写は圧巻だ。
 実は私は医者の娘である。父だけでなく祖父も医者で、父方は、いわゆる医者の家系だ。
父が私に医者の道に進むように願ったことは、只の一度もないと思うが、小学校から入った私立のエスカレーター式学校の同級生には、医者になった女子が4人もいる。全員、医者の娘である。思えば、彼女たちはみな、仕事でもプライベートでも肉食系女子だったが、50代半ばのいま、どうしていることだろう。『アスクレピオスの愛人』を読んで、彼女たちにすごく会いたくなった。
 仕事柄、ドラマ化や映画化の際のキャスティングも考えてしまう。俳優の顔が浮かびやすいのも林さんの作品の大きな特徴だろう。
私の中で志帆子を演る女優はもう決まっている。 (やまだ・みほこ 放送作家)
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     「作家・林真理子」に書かれるということ     進藤奈邦子

「アンアン」をはじめとする雑誌のコラムで、ほんわかとした真理子節、そう、あのふっくらとしたくちびるがイメージさせる、親しみのわくエッセイを真理子さん、と認識していたから覚悟が足らなかった。ご紹介いただいた当初から『女文士』や『ミカドの淑女』などの美しいハードカバーの本をサイン入りで下さっていたのに、組織のリストラやら、2人のティーンエイジャーとイベント好きの友人のいる日常やら何やらで手一杯の毎日、しっかり読む間もないままに週刊新潮の連載小説は始まってしまった。あの献本は、「覚悟せよ」というメッセージだったのに。女としてもいろいろあったのよ、は宇野千代さんや瀬戸内寂聴さんぐらいそのころが遠くなってからはOKだけれど、現在進行形は世間的にかなりNGと思われる。林さんは主人公を磨いて輝かせて、なのにその頂点で彼女を引き摺り下ろして泥沼に這い蹲らせたりする。それで、ああ、普通の人生でよかった、なんて読者の共感をぐぐっと掴む。それが作戦?
「新潮社は林真理子を平成の山崎豊子に育てたい」と仕掛け人、石井昻さんは私に諭した。「ついてはスケールの大きな話が進んでいくにふさわしい背景が必要」「はい」「で、是非ご協力いただきたい。新潮社の取材力がバックです」(ほおー)。週刊新潮は平成を週刻みで記録しているのだから、過ぎ行くこの時代を書き上げるための素材は層をなして築きあげられているわけだ。で、私に求められているのは、背景設定、つまり「大道具係」?
 この方面の関係者が読めば私がモデルだということは仕事柄、見当がつくだろうが、やはり林さんの小説だから艶話が展開する。これがそのまま私の素行と誤解されるといけない、というご配慮で、小説の連載が始まる同じ号の週刊新潮に林さんと私のグラビア記事が企画され、そちら方面はあくまでもフィクションです、という林さんの発言も掲載された。
 私がモデルのはずのヒロイン佐伯志帆子は、しょっちゅう私と違うことを考え、私が今までにしでかした失敗や犯した罪を元に作り上げた人生の「グラウンドルール」を無視した言動をとる。とくにわが国の新型インフルエンザに対する水際作戦を批判的にみていたりして声を出して笑ったりする。だめ、そんなの、絶対にありえない。日本にしかできないことを、日本政府が日本の国民のためにやってなにが悪い。過剰でもいい、日本はここまでできるんだから、やってもいいじゃない、重症者の比率がさほど高くないことはもっと後にならなければわからなかったことなんだから。オーストラリアだって真剣に鎖国を考えたりしていたし、ベルギーの代表は国際会議のとき、WHOは事実を伝えるだけでいい、国境コントロールをするかしないかは初期情報からわれわれ加盟国で判断する、あれこれ指図するな、と遠まわしに言っていたし。志帆子ときたら恋愛についても、「ルール」をしょっちゅう無視する。あらあら、これじゃあとで泥沼だわ。一言ご忠告差し上げたい、と思ったりする。この「ルール」は、これをネタに本が一冊書けるから、そう簡単には披露できないけれど。
 前出の石井さんのもちかけ話も、ジュネーブに取材にいらしたときも、小首をかしげてふんふん、と聞かれていた林さん。華やかで、美しくて、きらきらした世界を書かれるのが身上なのに、「国際」がつくとはいえ、「公務員」の取材には気乗りなさらなかったに違いない。けれどもジュネーブで林先生をお迎えした、厚生労働省から出向中の若きエースたちはイケメンぞろい、しかもスマートでおしゃれ、貧乏ったらしくもなく、理想に燃え、英知をほとばしらせていて、このまんま、このキャストでドラマの撮影に入れそうな勢いだったから、やっと先生の嬉しそうな笑顔を見ることができたし、WHOのメディカルキットからフィールド活動用のコンドームが出てきたときには、好奇心で目を輝かされていた。まさにそのとき、林さんの瞳の中にめらめら燃えていたのは、作家としての闘志だったのだ。
 連載開始一週前の前ふり記事に、「作家が書く医療小説をお楽しみに」というようなおっしゃり方をなさっていた。小説は作家が書くに決まっているのに、とそのときの私は思ったのだけれど、どうやら、医療小説の分野は医療畑出身者の独壇場、が常識だったのだということにやっと気がついた。新潮社平成プロジェクト、フィーチャリング林真理子、医療小説『アスクレピオスの愛人』、をどうぞお楽しみに。
(しんどう・なほこ WHOメディカル・オフィサー)

林真理子/ハヤシ・マリコ

1954年山梨県生れ。日本大学藝術学部卒業。コピーライターを経て、1982年エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』を出版、ベストセラーに。1986年「最終便に間に合えば」「京都まで」で直木賞、1995年『白蓮れんれん』で柴田錬三郎賞、1998年『みんなの秘密』で吉川英治文学賞を受賞。他の著書に『本を読む女』『ミカドの淑女』『美女入門』『anego』『アッコちゃんの時代』『下流の宴』『桃栗三年美女三十年』など多数。

「立ち読み」も出来る。 お試しあれ。


やはらかき身を月光の中に容れ・・・・・・・・・・・・・・・・桂信子
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    やはらかき身を月光の中に容れ・・・・・・・・・・・・桂信子

秋は月が美しい。空気が澄んでいるからである。
今日は「望月」つまり満月なので、「月光」の句を採り上げる。

桂信子は、大正3年大阪市生まれの俳人。
以前にも採り上げたことがあるが、結婚して2年にして夫と死別。
女盛りの肉体の「いとおしさ」「わりなさ」が「やはらかき」の一語にこもっているようだ。
澄んだ光をまるで大きな器のように溢れさせている秋の月。
その中に歩み入る成熟したひとりの女性。孤独感を根にして、みずみずしい心と体の揺らぐ思いを詠みすえている。『月光抄』昭和24年刊所収。2004/12/16死去。行年90歳。

以前にも採り上げた句と重複するかも知れないが桂信子の句を少し引く。

   ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ

   クリスマス妻のかなしみいつしか持ち

   閂(かんぬき)をかけて見返る虫の闇

   ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜

   ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき

   衣をぬぎし闇のあなたにあやめ咲く

   窓の雪女体にて湯をあふれしむ

   ゑんどうむき人妻の悲喜いまはなし

   ひとり臥てちちろと闇をおなじうす

   暖炉ぬくし何を言ひ出すかも知れぬ

   虫しげし四十とならば結城着む

   寒鮒の一夜の生に水にごる

   さくら散り水に遊べる指五本

   きさらぎをぬけて弥生へものの影

   忘年や身ほとりのものすべて塵

   地の底の燃ゆるを思へ去年今年


鴨頭嘉人『人生で大切なことはみんなマクドナルドで教わった』・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   鴨頭嘉人『人生で大切なことはみんなマクドナルドで教わった』・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・・・新潮社2012/09/18刊・・・・・・・・・・・

     マクドナルドのアルバイト経験者は、これまで実に260万人。
     ごく普通の高校生でも「輝く人材」に大変身させる「マクドナルド流人材育成術」には、
     人を「やる気」にさせるための工夫が満載だった。
     お客様満足度日本一、従業員満足度日本一、売上げ伸び率日本一の「三冠」を達成した
     「最優秀店長」がその秘密を大公開!

新潮社の読書誌「波」2012年10月号よりインタビューを引いておく。
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    [鴨頭嘉人『人生で大切なことはみんなマクドナルドで教わった』刊行記念特集]
          【インタビュー】マクドナルドこそ僕の学校だった


――『人生で大切なことはみんなマクドナルドで教わった』は、鴨頭さんの初めての本です。
鴨頭 二〇一〇年にマクドナルドを離れてから、「絶対に本を書こう」と決めていました。
サービス業は、人々に幸福をもたらしうる素晴らしい仕事であること、人を幸福にすることで自分自身も輝けることをみんなに分かって欲しい。
それを理屈で言っても説得力がないので、いやでも分かって貰えるように私の体験を中心に書きました。
――大学入学のために上京して以降、アルバイトとして四年、正社員として二十一年もマクドナルドにお勤めになりました。何がそんなに魅力的だったのですか?
鴨頭 マクドナルドは人の可能性に投資する会社で、成長を促すように組織がデザインされているんです。
アルバイトはCクルーという一番下のランクからスタートしますが、僕がマクドナルドに入った頃はいかにも見習いっぽい白い帽子を被っていた。
仕事で成長すればBクルーになって赤い帽子を被れますし、Bクルーになったらさらに上のAクルーやスウィングマネージャーを目指したいという気持ちが自然に生まれてくる。
仕事を通じて、自分が「承認」される機会が頻繁にあるんです。これは気持ちいいですよ。
――シフト管理を担当するスウィングマネージャーになれば、アルバイトであっても経営を学ぶ機会が貰えるんですよね。これも驚きでした。
鴨頭 マクドナルドの社内教育機関は「ハンバーガー大学」と呼ばれています。これはすごいですよ。
普通ならお金払って教えて貰うような内容が、時給を貰って仕事として聞けるんですから。
――マクドナルドというとすぐ「マニュアル主義」ということが、やや否定的なニュアンスで語られることが多いですが、「マニュアル」の意味はどこにあるのですか。
鴨頭 マクドナルドを動かしているスタッフの九割以上はアルバイトなんです。彼らに「君たち、自由にやっていいよ!」と言ったところで、戸惑うだけでしょう。
マニュアルはあくまで、彼らに安心して楽しく働いて貰うためのツールです。ツールですから、絶対ではありません。
そのツールを踏まえて、どれだけお客様に喜んで貰えるか、店の売上げに貢献できるかは、それぞれのクルーにかかっています。
――「名ばかり店長」騒動なんてのもありましたね。
鴨頭 あの頃は、私は地域全体の店舗を見る「スーパーバイザー」という役職にあったのですが、報道を見ていて腹がたちました。
私は「日本一のマクドナルド・バカ」を自称していますが、他の社員や店長の多くも、自分の店とマクドナルドのことを心から愛しています。
だから、実態を見れば「サービス残業」なのかもしれませんが、それを不満に思う気持ちなんてぜんぜん無かった。
むしろ、「こんなに楽しく働けてラッキー!」と思っていたくらいです。
でも、時代がそれを許さなくなってきたのも事実です。その後、マクドナルドは全社的に残業の削減に取り組み、今では残業はかつての十分の一以下に減りました。
子育てしながら店長をしている女性社員も結構いますよ。
――三十二歳の時、新規開業の店舗の店長として「売上げ伸び率日本一、顧客満足度日本一、従業員満足度日本一」の三冠を達成して「最優秀店長」に選ばれています。
鴨頭 その前の店で店長をしていた時は、スタッフを信用できず、店の雰囲気も店舗の成績も最悪でした。
新しい店に赴任した時は、「とにかくスタッフを信じよう。
まずいこともあるだろうが、その時点の彼らではなく、これから伸びていく未来の彼らを信じよう」と自分に言い聞かせました。
すると、彼らが最高の能力を発揮して、店の雰囲気も最高なら売上げも伸びていくという、良い循環が作れたのです。
――それにしても、熱いエピソード満載ですね。
鴨頭 今はだいぶ洗練された会社になっていますけど、私が現場にいた頃のマクドナルドはベンチャーそのものでした。社員にも熱い人が多かった。
高校時代は甲子園を目指して野球ばかりしていた自分には、ぴったりの環境だったのかも知れません。
(かもがしら・よしひと 元「日本マクドナルド」社員)

鴨頭嘉人/カモガシラ・ヨシヒト

1966年生まれ。愛媛県立今治西高校卒(在学時は野球部キャプテン)。
大学入学のために上京した際にマクドナルドと出会い、アルバイトとして4年間、正社員として21年間、日本マクドナルド株式会社に勤める。
1998年、新規開店した店舗の店長として、お客様満足度全国1位、従業員満足度全国1位、セールス伸び率全国1位の「三冠」を達成し、「最優秀店長」に選ばれる。
マクドナルド初の「グループ運営店長」やオペレーションコンサルタント、本社人事部での採用担当などを経て独立。
現在は「サービス業で世界中の人を幸せに」をテーマに、講演やコンサルティングなどの活動を展開している。

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木曽川の今こそ光れ渡り鳥・・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子
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    木曽川の今こそ光れ渡り鳥・・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

海を越えて渡る「候鳥」(こうちょう)の渡りの時期は春と秋と二回あるが、春の渡りは集団となっての渡りではなく、小規模でばらばらとやって来る、
と言われるのに対し、秋の渡りは集団なので注目される。
ツバメなどが南に去ると、ツグミ、アトリ、マヒワなどが、シベリア、カムチャツカから大群をなして飛来する。

掲出した句に木曽川という川の名が入っているので写真①には、渡り鳥の「メダイチドリ」を出してみた。
この写真は雌雄であろうか。恋人同士のように、しぐさが仲むつまじく微笑ましい。
この鳥はカムチャツカ以北のロシア、アラスカで繁殖するらしい。左側が雌である。
俳句で「渡り鳥」という場合には「主として小鳥のことを言う」という但し書きが書かれているので、それにふさわしく写真②には「鶫」(つぐみ)を出しておく。
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これらの小鳥は日本の中を移ってゆくときも群れをなしてゆくという。
ヒヨドリ、シギ、チドリ、などのものも渡り鳥と言うが、それらの大群の羽音高く過ぎゆくことを鳥雲、鳥風などと表現されている。
なお、シギ類は越冬地は、もっともっと南の国だということで、日本は通過地に過ぎないらしい。
シギ類は通過の途中で川や海の干潟が採食地で、ゴカイやカニなどを啄ばんで食べているらしい。
掲出した句の「木曽川」の河口に、そんな干潟があるかどうか判らないが、間違いがあれば指摘してもらいたい。訂正いたします。
雁や鴨などのやや大型の鳥も渡り鳥には違いないが、別の季語の表現として「雁渡る」「鴨来る」などとして別に分類されるようだ。
中秋から晩秋にかけての集団をなしての渡り鳥は、空が暗くなり、雲が動くようで、大きな音を立てるという。
私の住む辺りは海に面してはいないし、盆地なので、このような大群の鳥の渡りを目にすることはないのではないか。
この推測も、もし間違っていたら指摘してもらいたい。
ツグミなどはミミズや虫などの動物性の餌を食べているから、雪の降った朝など木の根元などを雪を取り除いておくと餌を求めてやってくるのであった。
今はどうか知らないが、私の子供のころは、器用な友人などは、そうやって罠を仕掛けてはツグミを獲っていた。
今では環境保護の立場から鳥獣についても保護され、各地に「禁猟区」が設けられている。
私の近くでは琵琶湖は全面的な禁猟区に指定されている。
秋になって本州に「渡ってくる」ものと、南に「去る」ものと両方の「渡り」があるので、念のため。

以下、歳時記に載る「渡り鳥」の句を引くが、上に書いた「但し書き」に触れるかどうか私には判らない。

 四つ手網あがる空より渡り鳥・・・・・・・・水原秋桜子

 鳥渡る大空や杖ふり歩く・・・・・・・・大谷碧雲居

 むさし野は鳥こそ渡れ町つづき・・・・・・・・林原耒井

 渡鳥仰ぎ仰いでよろめきぬ・・・・・・・・松本たかし

 渡り鳥微塵のごとしオホーツク・・・・・・・・大野林火

 渡り鳥がうがうと風明るくて・・・・・・・・加藤楸邨

 渡り鳥空搏つ音の町にしづか・・・・・・・・太田鴻村

 鳥わたるこきこきこきと缶切れば・・・・・・・・秋元不死男

 鳥渡る終生ひとにつかはれむ・・・・・・・・安住敦

 樹海晴れてはや渡り来る小鳥かな・・・・・・・・中川宋淵

 佐渡の方より一沫は渡り鳥・・・・・・・・篠田悌二郎

 大空の美しきとき鳥渡る・・・・・・・・深川正一郎

 渡り鳥消えて欅の空残す・・・・・・・・石塚友二

 鳥渡り夕波尖りそめしかな・・・・・・・・勝又一透

 わが息のわが身に通ひ渡り鳥・・・・・・・・飯田龍太

 渡り鳥幾千の鈴ふらし過ぐ・・・・・・・・赤城さかえ

 胸ポケットの老眼鏡や鳥渡る・・・・・・・・菱沼杜門


秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は空の青さの点となりゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は
     空の青さの点となりゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

掲出写真は、俗に「黄金蜘蛛」と呼ばれる大型の蜘蛛の雌である。正式には「ナガコガネグモ」というらしい。

写真②は「草蜘蛛」である。
kusagumo178草蜘蛛

写真③に、その草蜘蛛の巣をお見せするが、名前の通り、草などに巣を張るクモである。
83N83T83O8382草蜘蛛の巣

クモというと身近にいる虫だが、嫌がる人が多い。しかし飛ぶ虫などを食べてくれる「益虫」といえる。
農作物などでも害虫を食べてくれる貴重な存在であるが、農薬を使うと、クモなども一緒に駆除されてしまうので、天敵が居なくなり、悪循環に陥りがちである。
この頃では「生物農薬」というような名前で、こういう益虫を利用するのが出はじめてきた。

秋は、そういうクモの子の「旅立ち」のシーズンである。
どんな種類の蜘蛛も、こういう巣立ち方をする訳ではないが、掲出した草蜘蛛などは晩秋の雨あがりの、カラッと晴れた風の強くない日で、
肌をかすめる大気の流れの感じられる日に、クモの子の旅立ちが始まる。
草蜘蛛の子は高い草の先端に登り、まず、尻から糸を出し、風に流し、次に自分も風に乗る。
空に糸がキラキラ光って飛んでゆく。文字通り、どこに着くか風まかせである。
冒頭に挙げたナガコガネグモの子も、風まかせの飛翔をするらしい。

e0032399_185844蜘蛛の子
写真④は孵化したばかりのクモの子である。左側の丸い塊が「巣」で、その中から巣立ってきたのである。
この後、クモの子はちりぢりになって、先に書いたような方法で風に乗ってゆくのである。
こんなクモの子の巣立ちは、田舎でないと見られない。
蜘蛛にも多くの種類がおり、このような巣立ち方をしないクモもたくさん居る。
そんな蜘蛛は、孵化した近くに新しい縄張りを張り、一本立ちしてゆくのであるが、私はクモに関しても詳しくないので、それ以上のことは書けない。
なお、基本的なこととして「蜘蛛」は「昆虫」ではないことを確認しておいてほしい。
昆虫は「脚が6本」だが、蜘蛛は「脚が8本」で、別の分類をする。
普通のクモは、ネットを毎日張り直すが、コガネグモ、ジョロウグモの仲間の網の張り方は大雑把で、蜘蛛の巣の形は汚らしい。
ジョロウグモ、コガネグモは大きく、強いので獲物が引っかかったら、すぐにとんで行って獲物を捕らえられるからであろうか。
網の糸も、とても強くて、釣り糸ほどの太さもある。こんなものに人間が引っかかると、体に糸がからみついて取れない。
クモが夕方に網を張るのを見ていると、まさに芸術的とも言える作業である。
クモの脚は、張った糸のネバネバにもくっ付かない構造になっているらしい。
私は昆虫少年でもなかったが、内向的な少年で、そんなクモの作業を、じっと見つめているのが好きだった。

haya109_asinagakumoアシナガグモ
写真⑤はアシナガグモである。
蜘蛛の種類によっては全然巣を張る習性のないものもあり、そこらじゅうを歩きまわって獲物を探すものもある。
家の中に入ってきて、みんなを驚かすのも、こういう種類のクモであり、びっくりするような大きさになるものもある。
蜘蛛類は、捕らえた虫は糸でがんじがらめにした後、口から「消化液」を獲物の体内に注入して、液体状に半消化したものを吸い込んで取り入れる。
だから、掛かった獲物の体の形は残っているが、カラカラに乾いて中身はカラツポである。
蜘蛛の巣のあちこちに、体液を吸われた虫の残骸が引っかかっているのが見られる。

↓ 写真⑥は巣を作らず、屋内などを歩きまわって獲物を探す「ハエトリグモ」と呼ばれる蜘蛛の種類。
onigumoD337蜘蛛④

女郎蜘蛛の生態については ← オス、メスの区別のことなど、ここが詳しい。
昆虫写真家の海野和男さんのサイトによると、スズメバチがナガコガネグモを襲ってくるらしい。

掲出した私の歌は、私の少年の頃の幼い観察の記憶を濃厚に止めている記念碑的な作品と言える。


檀の実爆ぜて色濃くなりにけり・・・・・・・・・・・・・・・・・小泉良子
mayumi4まゆみ10月

   檀の実爆ぜて色濃くなりにけり・・・・・・・・・・・・・・・・小泉良子 

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも「檀」を詠った歌がある。
  
  真実とはいかなる象(かたち)なすものか檀(まゆみ)のまろき実くれなゐ深く・・・・・・・・・・・木村草弥

檀(まゆみ)の実は晩秋にかけて熟す。
『和漢三才図会』に「生るは青く、熟すれば淡赤、裂ければ内に紅子三四粒あり。その葉、秋に至りて紅なり」とある。
↓ 写真②は「まゆみ」の春の開花の様子である。
mayumi2まゆみ開花

↓ 写真③は、秋になって実が割れて中身が露出したところ。
mayumiまゆみ

実の色が美しいだけでなく、葉の紅葉が美しい、という。
「真弓」とも書くが、これは昔、この木から弓を作ったことに由来する。

   秋くればくれなゐ深く色づきて檀の喬木山をいろどる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は先に掲出した歌につづくものである。
寒い土地ほど、この檀の紅葉は美しい、と信州の友人は言う。紅葉の写真を出しておく。↓
b0068793_82538マユミ紅葉

以下、檀の実を詠った句を引いて終る。

 旅にをり旅の日和の檀の実・・・・・・・・森澄雄

 檀の実遠景は日のとどかざる・・・・・・・・鷲谷七菜子

 大工老いたり檀の実ばかり見て・・・・・・・・六角文夫

 まゆみの実寄りくるものをいとほしむ・・・・・・・・きくちつねこ

 奉納の神楽に高き檀の実・・・・・・・・・横山仁子

 檀の実ひそかに裂けし月夜かな・・・・・・・・菅原鬨也

 檀の実圧し来る如く天蒼し・・・・・・・・望月たかし

 檀の実まぶしき母に随へり・・・・・・・・岸田稚魚

 真弓の実華やぐ裏に湖さわぐ・・・・・・・・杉山岳陽

 檀の実割れて山脈ひかり出す・・・・・・・・福田甲子雄

 泣きべそのままの笑顔よ檀の実・・・・・・・・浜田正把




萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また 藤袴 朝貌の花・・・・・・・・・・・・・山上憶良 
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   萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花
    女郎花 また 藤袴 朝貌(あさがほ)の花・・・・・・・・・・・・・山上憶良



憶良は奈良時代の歌人。遣唐使として渡唐、後に筑前守(ちくぜんのかみ)となった。
人生の苦悩、社会の階級的矛盾を多く詠った歌人であったが、稀には、この歌のように、ふと目にとまった懐かしい景物をも詠った。
この歌は577、577のリズムの旋頭歌(せどうか)形式で秋の七草を採り上げている。
尾花はススキ、藤袴はキク科の多年草で、秋、淡紫色の小さな筒状の袴を思わせる花を多数散房状に開く。
朝貌はアサガオ、ムクゲ、キキョウ、ヒルガオなどの諸説がある。
『万葉集』巻8に載る歌。

fujiba1藤袴

藤袴というのが、どんな花か知らない人のために写真②にフジバカマを載せる。おおよそ、日本古来の「七草」というのは派手さのない地味な花である。
現代人は西洋や新大陸あるいは熱帯の派手な花に慣れているので、いかにも地味な感じを受けるのである。
写真③にナデシコの花を紹介しておく。
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先に山上憶良は万葉集の中ではめずらしく、社会の階級的矛盾を詠った、と書いたが、以下、憶良について書いてみたい。
その歌の典型的なものは『万葉集』巻5(歌番号892、893)に載る有名な「貧窮問答の歌」1首(長歌)と反歌のことである。
この歌を作って上官に差し出した時、聖武天皇が即位してからもう10年以上が経つ天平という年号の時代のはじめの頃のことである。
伯耆、筑前の国守の経歴を踏んだ老いた官人・憶良にして、ようやく出来た歌である。長いのではじめのところのさわりの部分と反歌を引用するにとどめる。
問うのは冬の夜の貧者、つまり作者と、それに応える極貧者の隣人という問答の形を採る。

風雑(まじ)り 雨降る夜の 雨雑(まじ)り 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚かき撫でて ・・・・・・寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る・・・・・・・
(反歌)
世間(よのなか)を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

山上(山於)の家については、よくわからない。
憶良の名前が『続日本紀』に登場するのは701年(大宝1年)のことで、そこには「無位山於憶良」と書かれている。
没年から逆算すると、この時42歳。この頃は、臣(おみ)という姓(かばね)も有していなかったのではないかと言われている。
701年に文武天皇の政府は唐との通交を再開することを決め、粟田真人以下の遣唐使を任命した。
その随員の末席に「無位山於憶良」の名が見え、その役目は「少録」つまり書記であった。
随分おそすぎるとは言え「少録」に抜擢されたことは42歳にしてつかんだ幸運と言える。
彼は翌702年に渡航し、704年(慶雲1年)に帰朝したようである。研究者によると、これらにまつわる記述もあるが省略する。
帰朝後、彼は、せいぜい六位くらいになって、中央官庁の下っぱ官人の地位を得た筈である。
714年(和銅7年)1月に正六位下から従五位下に昇進し、ようやく716年(霊亀2年)4月に伯耆国守に任ぜられ山陰の地に赴いた。
こういう地方長官としての経験が「貧窮問答の歌」というような画期的な歌の制作の前提になっていると言えよう。
721年(養老5年)に呼び戻されて、東宮(のちの聖武天皇)に近侍するようになり、中国の学問などについて進講したようである。
東宮は724年(神亀1年)に即位して聖武天皇になる。
これらの間に長屋王や大伴旅人をはじめ当代の碩学たちとの交流によって、その学識を深めたと思われる。
彼には『類聚歌林』という編著があって、『万葉集』には同著からの引用があることで、そのことが判るが万葉集の編者が、それを活用したと言える。
726年(神亀3年)に筑前国守に任命されたが、もはや老年で栄転とも言えないが、かの地では上官として赴任してきた大伴旅人などと交流している。
彼の「沈痾自哀の文」という長い漢文の文章や、万葉集巻6の天平5年(733年)のところに配列されている「彼、口述」という次の歌(歌番号978)

        ・・・・・・・・・・山上臣憶良の沈(おも)き病の時の歌1首
     士(をのこ)やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして

の歌は辞世の歌として悲哀に満ちた響きを持っている。同年没の様子である。



菊の花の/紅をふくんだうす紫が/箱にいっぱい/──さっとゆがいて召し上がって──・・・・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(18)再掲載・初出Doblog2005/10/25

        菊の花・・・・・・・・・・高田敏子

     菊の花の
     紅をふくんだうす紫が
     箱にいっぱい

     ──さっとゆがいて召し上がって──
     友のことばがそえられて

     こんなにたくさん
     菊畑がそのまま
     送られて来たような
     花のまぶしさ
     花の香り

     この美しさを
     「食べる?」
     私はそれにあたいするかしら
     花のまえに はじらうばかり

     お盆に盛って
     棚においでの観音様に
     まずお供えして
     ご近所にもおすそわけしましょう

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)
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掲出した画像は、食用菊「もってのほか」である。
普通の菊よりも苦味が少ない。 他にも、いろいろの品種があるようである。
この詩にも書かれているように、さっと茹でて「おひたし」のように食べるらしい。
「らしい」と言ったが、私は食べたことがない。

咲くことはなく散るのみの古稀になる「置かれた場所で咲きなさい」まだ・・・・・・・・・三浦好博
三浦

───<三浦好博の歌>──(2)

   咲くことはなく散るのみの古稀になる
           「置かれた場所で咲きなさい」まだ・・・・・・・・・三浦好博

          ・・・・・・・・・・歌集『日々片々』九曜書林2012/10/25刊・・・・・・・・・・・

歌友の三浦好博氏の第五歌集『日々片々』が恵贈されてきた。
2012/01/01から06/30までの六か月、日付順に毎日二首づつ詠まれた歌で構成された独特の本づくりである。
先ず、一日に二首づつ毎日歌を作る、という精力的な意欲には脱帽である。 それを半年間ずっと続けるというのである。
ここに載せた歌以外にも作られた筈だから、物凄い多作ということになる。
この意欲とは裏腹に、それなりの無理が祟って、何らかの「瑕疵」が生じた、ということである。それは追々書く。
「あとがき」で作者は書く。

<この十月末にていよいよ古来稀なる歳になってしまう。
 その記念に・・・・・単純な日常の繰り返しの中で感じた日々の事を、日記代わりに
 単に定型的に綴ったものである。 それでタイトルも『日々片々』である。>

彼は七十歳になったからと言って、妙に年寄ぶっているが、古稀などという概念は人生五十年の頃の言葉であって、老い込むのは早すぎると忠告申し上げる。
私など満八十二歳を半ばも過ぎた。私とは干支でいうと一回りも若いのである。

掲出した歌は「六月三十日」付の歌で、巻末の歌ということになる。
カッコ内の言葉の説明をしないと判らない人も居るだろう。 少し書いておく。
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渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』
Bloom where God has planted you.
置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。
咲けない時は、根を下へ下へと降ろしましょう。

「時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのですよ。置かれたところで咲いていてください」
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。
どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。
現実が変わらないなら、悩みに対する心の持ちようを変えてみる。
いい出会いにするためには、自分が苦労をして出会いを育てなければならない。
心にポッカリ開いた穴からこれまで見えなかったものが見えてくる。
希望には叶わないものもあるが、大切なのは希望を持ち続けること。
信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく。
「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練を感謝すること。

彼女は二・二六事件で陸軍教育総監の任にあって、反乱軍によって数十発の銃弾を浴びて殺された渡辺錠太郎大将の二女ということである。
修道女として教育を受け、ミッションスクールで教育に全精力を傾けている人。
この本は、ベストセラーとなり、図書館では広く貸し出されているという。
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私は作者の妙に斜(しゃ)に構えたポーズが嫌いである。
この歌の出だしの<咲くことはなく散るのみ>という「決めつけ」が嫌いである。
七十になっても<花は咲く>のである。 
他に書いてあるのを見ると、医者から経過観察を受けているとあるが、今どき五体満足などということは無いのである。
多少は、ひしゃげた花でも、咲くことは咲くのである。

他の歌も引いてみよう。

  二月十日
 ■子供らの戯れだけで済むものか回文ホアンインゼンインアホ

「回文」は、いま流行っている。この回文は<子供の戯れ>と把握することは出来ないだろう。私は大いにギモンである。
<子供の戯れ>と把握することで、この歌が軽くなってしまった。「回文」は大人のものである。ましてや思想性を盛った回文は大人のものである。
そういう妙に斜(しゃ)に構えたポーズは止めた方がいい。

  二月九日
 ■椰子の実のチャイムと寺の鐘の音と犬の遠吠え一斉七時
 ■林立の風車のあかりの点滅が屏風ケ浦の月に浮きたつ

作者は千葉県は犬吠埼の近くに住む。朝(あるいは夜か)七時になると当地では「椰子の実」の唄がチャイムで流されるのだろう。
そして風車の林立海岸として有名な屏風ケ浦に風車に点る灯が点滅するのであった。

  四月十二日
 ■咲き満ちる桜の上の鯉幟風の伴奏喜びてゐる

こういう口語発想の佳い歌なのに、どうして「喜びて」などと文語にするのか。ここは素直に「喜んで」の方がピッタリ収まると思うが、いかが?
こういうのが全般に見られて、私には違和感がある。

  四月十八日
 ■「良く顔を見るがお宅はどちらさん」「お隣さんの三浦さんですよ」

呆けた隣人の老人とのやりとりであろうか。こういう諧謔を含んだ素直な歌が読者には快い。

  四月三十日
 ■子の収入訊きし事なしその子らを育てていけるものにあるやら
  福島第一原発1~3号機原子炉格納容器から大気中に放出されている放射性セシウムの量は、
   前月と同じ一時間当たり1000万ベクレルと発表

 ■巨大なる核融合の火の玉に我は手を合はす朝の山頂

子を思う親心と、後の歌の今日的な、素直な詠いぶりは秀逸である。

  五月十三日
 ■嬰児の指のサインも添へられて贈り物来し今日は母の日

  五月十七日
 ■終点でも降りるブザーを押せといふこのドライバー腹の虫悪

  五月三十一日
 ■この人はどうせ分からぬ花の切手季節外れを平気で貼りぬ

  六月十一日
   頼朝の妻は北条政子足利義政の妻は日野富子夫婦別姓
 ■温泉の好きな息子と許(キヨ)さんなり宿帳に記す夫婦別姓
  
  六月十七日
   「原発は災害の種」ミツバチのささやきアナ・トレントの三分間スピーチ
 ■美しき野の字の姓の羨しきにそれ原発と野田枝野細野

この「羨しき」の字には、ルビ「とも」しき、と付けるのが親切だろう。一般人にはわかり難いからである。これは歌人特有の訓(よ)みかたである。

文句ばかり書いたが、素直な佳い歌も、まだまだあるが、一応この辺にしたい。
総体に、歌の文脈が辿りにくいものが多いので、推敲、改作されるようお勧めする。それが読者への親切というものである。拙速は勧められない。
ご恵贈に感謝して、鑑賞の筆を擱く。   (完)



露の世は露の世ながらさりながら・・・・・・・・・・・・・小林一茶
030811朝露本命②

  露の世は露の世ながらさりながら・・・・・・・・・・・・・小林一茶

江戸後期の代表的俳諧師の一茶は、信州柏原から15歳の時に江戸に出て、奉公生活にも俳諧修業にも辛酸をなめた。
異母弟との13年にも及ぶ遺産争いが解決し、51歳で帰郷、妻帯した。三男一女を得たが、長男、長女、それに次男と次々に幼くて死に、妻をも失った。
この句は溺愛していた長女・さと が、1歳余で天然痘のため死んだ時のもの。
この世ははかない露の世という。そんなことはよく知っている。よく知ってはいるが、知っていることが何になろう。
くりかえし、くりかえし、私は悲しくてたまらないよ。 ということであろうか。
『おらが春』所載だが、「露の世」というフレーズの繰り返しが秀逸であり、かつ痛切である。
「露」の句としては代表的な秀句として、よく知られている。
以下、「露」を詠んだ句を引いておく。

 露とくとく試みに浮世すすがばや・・・・・・・・松尾芭蕉

 甘からむ露を分かてよ草の虫・・・・・・・・石川桂郎

 白露や死んでゆく日も帯締めて・・・・・・・・三橋鷹女

 露なめて白猫いよよ白くなる・・・・・・・・能村登四郎

 われもまた露けきもののひとつにて・・・・・・・・森澄雄 

露今宵生るるものと死ぬものと・・・・・・・・岡本松浜

 芋の露連山影を正うす・・・・・・・・・飯田蛇笏

 蔓踏んで一山の露動きけり・・・・・・・・原石鼎

 露の道高野の僧と共に行く・・・・・・・・池内たけし

 露けさの弥撒のをはりはひざまづく・・・・・・・・水原秋桜子

 落ちかかる葉先の露の大いさよ・・・・・・・・星野立子

 金剛の露ひとつぶや石の上・・・・・・・・川端茅舎

 露燦々胸に手組めり祈るごと・・・・・・・・石田波郷

 露の中つむじ二つを子が戴く・・・・・・・・橋本多佳子

 露の夜の一つのことば待たれけり・・・・・・・・柴田白葉女

 露の戸を敲く風あり草木染・・・・・・・・桂信子

 草の露繁し柩を下ろすべく・・・・・・・・高橋睦郎

 「母」の字の点をきつちり露けしや・・・・・・・・片山由美子

 まるきものに乳房心根露の玉・・・・・・・・鳥居真里子


はればれとミニヨンを歌ひくれる生徒よ涙ぐみわが聴くと知ることなけむ・・・・・・・・・・出崎哲朗
出崎
 ↑ 昭和56年11月1日に「未来」別冊として刊行された
小堀
 ↑ 2012年9月発行

──エッセイ──(出崎哲朗の歌)

   ■はればれとミニヨンを歌ひくれる生徒よ
            涙ぐみわが聴くと知ることなけむ・・・・・・・・・・・・・・・出崎哲朗


      ■忘れな草と忘れ草の話をしたけふ
            教卓のコップぎつしりの忘れな草・・・・・・・・・・・・・・・出崎哲朗


はじめに、掲出した本の説明をしておかなければならない。
「定本・出崎哲朗読本」は、短歌結社「未来」の当時の編集長・田井安曇の手によって、昭和56年11月1日に「未来」別冊として刊行された。
図版①が、それである。
その頃には私はまだ短歌の世界には足を入れておらず、もちろん知る由もなかった。
それが、図版②に載せた『小堀鉄男・小堀和子 遺稿集 春雁逍遥』が出て、編集の幹事をした西井弘和の手元にあることを知り、急遽借りてコピーさせてもらった。
小堀たちは、高校で出崎の教えた生徒だった。

出崎哲朗は1921年(大正10年)6月4日北海道小樽生まれ。幼い頃に京都に移住。父は京都でも一流の料理店を経営していたが、彼が中学五年のときの秋に急死した。
三高を経て、1942年に京都大学に入る。その頃にアララギに入会。
出崎哲朗は戦争末期から戦後にかけて、京都大学文学部国文学科を出たあと、京都府立第一高等女学校(のちに新制・鴨沂高校)の国語の先生として赴任。
戦争中から「京都アララギ会」に歌を出していたが、近藤芳美の『早春歌』の影響などを受けて、戦後、アララギの幹部たちの宗匠的な指導に反発して、
短歌革新の運動として『ぎしぎし』誌の形をとって発足することになる。
その中心に出崎哲朗が居り、太宰瑠維などが居た。 

ここで「ぎしぎし」発足のときに出崎の書いた「言挙げ」の文章を出しておく。

<人間全体に対する祈りや人間の病める魂への慟哭やを措いて偉大なる文学の基盤はありはしなかつたのである。
 僕らは真の文学としての短歌をうたひたいと念ふ。僕らは僕らの非力をかなしむ。
 だが偉大なる不可能事にぶつかつて砕け散る以外、生甲斐ある生涯が一体どこにあらうか。
 今こそ祖国にシュトゥルム・ウント・ドラングの時代が来ていいのである。
 青春は奪回されねばならぬ。そして青春とは年齢を問はぬ性別を問はぬいのちの暁紅ではなかつたか。>

何とも凄まじい揚言である。(上記の部分の文章は井上美地さんの文章から引いた。引用に感謝する)

後年私が「未来」川口美根子選歌欄「マリオン集」に参加したのだが、その川口さんは京都府立女専に居られて、
彼らと行動を共にしておられ、何度か、その頃の話は聞かされていたのだった。
これらの動きは、のちに「未来」や「塔」の形で実現することになる。
そんなことで私としては、親近感があったし、近藤芳美の若い頃の『早春歌』の持つ抒情性は大好きなもので、出崎哲朗の歌は、瓜二つのような詠いぶりで好きである。
この本は短期間で返す必要がありコピーを取っただけだが、本当は時間をかけてスキャナしたかったが仕方がない。

ゴタゴタと書くよりも、先ず出崎の他の歌を引いておく。

 ■あけくれを人麿集にこだはりゐて月の夜となればひとり嘆かゆ──「京都アララギ会詠草」「高槻」など昭和21年より

 ■論文書きおしめの洗濯もするべしとこころは決めて煙草すひをり

 ■論文を書き倦みゐしが嬰児(みどりご)の乳くさくにほふ蚊帳に入りゆく

 ■わが論文は学問ならずといはれ思ひゐしが夜の更けゆきてつひに涙出づ

 ■安静も鍛錬なりと思ひつつ夏日臥れば泪流れぬ

卒論に熱中していた時期の出崎の歌である。彼は終戦の年の春に結婚した。学生結婚である。赤ん坊が生まれ生活は厳しかった。
なぜ急いで結婚したのか。すでに結核に罹っていたから、早く結婚して子供が欲しかったのかと考えられる。

 ■北窓よりひかりは淡きベッドの上に臨月の妻と昼餉食し居り──「ぎしぎし」④⑤号より

 ■わが妻は赤ちゃん全集のみ読み居ると街歩みつついく度も思ふ

 ■上り湯に体をぬぐふひとときよ夕飯がたのしかりしは幾年前か

 ■かやの実を噛みつつ君と向ふ玻璃戸竹群はしきりに風明りして

 ■わが妻を女中のごとくおとしめて懶惰に居れば心適くかな

 ■アスファルトで女の児と男の児と野球するよたのしかるかな君らの未来よ

「結核」というのは良くなったり悪化したりという繰り返しで、その療養をしながらの心境が、うまく、さりげなく、或いは悲哀に満ちて詠われている。

はじめに掲出した歌二首は、いま引いた号につづく「ぎしぎし」六号に載る。
出崎哲朗は女学校の先生になりたかった、という。そんな念願の女学校の先生になれて、結核の症状の晴れ間に、生徒たちとほのぼの過ごす様子が目に浮かぶようだ。

 ■僕の眼をじつとみつめて「狭き門」を質問する君らの前に嘘はいへない──「ぎしぎし」⑥⑦⑧⑩号より

 ■上靴に赤いリボンつけてゐる生徒たちああ君らのためにしたいことが山ほどある

 ■古今集はだめだと云つたら泣いた生徒よお前のことばかりで京極通り抜ける

 ■わが心崩れ来しかば夕の舗道あかるき中を歩み帰らむ

 ■生きゆくといふは何ならむ灯のあれば鈴懸の影はあらあらしかり

 ■新しきパン焼器に顔寄せてパン焼く妻をいかにかもせむ

 ■素直なる平凡なる生活でやはりいいのかと生徒のひとりひとりを夜半に思ふも

 ■われに似て果物好む幼な子よ夕べ風たてばともに梨食ふ

こういう教師と生徒との関係というのは今の教室にもあるのだろうか。今の教師というのは、管理教育のはざまで、多忙な毎日を過ごしているようで可哀相な気がする。

 ■四畳半の暗きわが家に妻と子と暮すを客観としてみればすこしは面白し──「ぎしぎし」⑪~23号より

 ■子と遊ばず買出しにゆかぬ亭主にわれあれば近所の評判もつとも悪し

 ■一年にいくたび家を追はるるならむ今宵は一杯に月の差す部屋

 ■トロイメライ低くひびきて乙女死ぬ劇見るときに一日はやさし

 ■無理しても教壇に立つと医者の前に涙ぐみ云ひきはかなかりにき

 ■窓に干すガーゼ明るくひるがへり思ひは次第に諦めとなる

 ■わが生徒みなうるはしと思ひをりはや疲れたる心にかあらむ

 ■小路より出で来し少女と並びゆくいたく明るき街燈の下

 ■霧しづむ夕べ舗道を帰るべしはかなしと思ふこともよろしき

 ■教卓の水仙の花に光(かげ)ありききほひ云ひし幸福のことはさびしかるよ

 ■教師の限界といふことにこだはりゆきとめどなきこのさびしさよ

 ■鈴蘭灯いつかあかるくつづけば思ふ冷淡なりと酔ひながらいはれし言葉

 ■だれとでも妥協してゆくわれと思ふ妻持ちてからか女学校に勤めてからか

 ■先生四条までついていつていいですかと明るき雨の中をつき来る

 ■気胸室にけふも待ちゐる人多しむらむらとなり思ふ日本の結核のこと

 ■ああ五月風は吹くと床の上にくり返し居れば慰めに似て

 ■健やかと病むとはやはり別の世界にて日の入れば物干に臥してさびしむ

 ■少しづつ風吹き透る部屋に臥し夏草の匂ひがしきりにかぎたし

 ■やすやすと近寄りて笑ふ少女あり去年休学してゐし生徒なり

 ■気胸にくれば帰りには寄る君のベッドけふはカーネーションの花挿してある

 ■しろじろと白楊の葉そよぐさびしきに自転車を起し帰る少年

 ■教会の十字架はいつしかシルエットとなりパン提げて帰る思ひ貧しく

 ■病にたへわが生きなむを寺田和子死ぬことなかれ毒のむなかれ

 ■夜ごと乱れ酒のみあるく小堀鉄男よからだこわす意味を君知らざらむ

 ■何しても呼吸困難となるわが妻にとなりつつまた息たへだへとなる

出崎哲朗は、昭和25年(1950年)2月19日に死んだ。 享年29歳である。その頃、結核は今のガンよりも怖い不治の病気だった。
丁度この頃アメリカからの特効薬が出ているが、まだ一般には出回っておらず、出崎には間に合わなかった。
私の父も、この年に大喀血して発病したがパスなどの薬を取り寄せて長く療養したのち快癒した。
大学への通学の途中に、この薬を京都河原町の佐々浪薬局に買いにゆくのが私の役目だった。この薬局は明治39年開業という老舗だが今も盛業中である。
私も、すぐ後に発病したが、私は入院してパス、ヒドラジッド、ストレプトマイシンの三者併用の治療で良くなった。時代が救ってくれたのである。(閑話休題)

多くの歌を引いたが、終わりから二、三首目の歌は、図版②に載せた本の主人公だからである。寺田和子は、のちに結婚して小堀の妻になった。
彼らも出崎哲朗の親しい弟子であって、今回ここに載せる歌のように「深いえにし」で結ばれているからである。
私は彼らとは生前には何の関係もないが、これらの弟子たちが同人誌「零」に集って小説などを書いていた意味を、ここに来て納得した次第である。
西井弘和、西村美智子など、しかりである。彼らについては何度か、ここに書いたことがある。
太宰瑠維氏には、私の第一歌集『茶の四季』の合同出版記念会でお会いしたことがあるが、この人も結核で苦しまれたようだ。
この人の名前はフランス語の「ルイ」に因む命名であり、この人の父君は太宰施門という京都大学教授のフランス文学者であり、この人の名も「シモン」という西欧名に由来する。
私の師であった川口美根子先生も、ご主人を亡くされてから惚けられて今は妹さんのお世話で専門施設に居られるそうで、うたた感慨無量の心境である。
人の縁というものは不思議なもので、ひよんな事から交友が始まることがある。
七月下旬に東京で私の第五歌集『昭和』読む会を開いてもらったが、その中に、日向輝子さんが居られ、その歌集評を、ここに書いたことがあるが、
その日向輝子さんが、田井安曇の結社「綱手」に所属されているのであった。
田井安曇は、自ら言っているように近藤芳美に「まさに信徒」として付き従ってきた人である。
その近藤芳美も亡くなって丸六年が経った。
この出崎哲朗読本を編集していた頃は、近藤の配下として「未来」の編集をしていた。 この頃、岡井隆は女と九州に駆け落ちしていた。
その後、岡井は編集に立ち戻るが、前衛短歌運動の隆盛、消長とかがあって、今日に至るが、田井安曇は「未来」に同一性アイデンティティを持てなくなり、
離れてゆき、自らの会誌「綱手」を立ち上げるようになったもののようである。
近代の日本の文学運動として「アララギ」は大きな影響力を持っていた。
俳句の「ホトトギス」と共に、この両者は正岡子規の始めた運動を引き継いでいるが、末期症状として「宗匠」的なセクトに陥った。
そんなセクトに反発して、今ここに見る「ぎしぎし」や「未来」や「塔」などの文学運動があるのである。
これらを単なる現象として捉えるのではなく「文学運動」として把握すれば、よく理解できると思うのである。

コピーを読んでいると、田井が、これをまとめるにあたって、井上美地さんが協力されたようであるが、彼女も「ぎしぎし」の仲間の一人であった。
角川歌人名鑑を見てみると、井上美地さんは昭和三年生まれで、川口美根子さんより一歳年長であるが、米田(秦)律子、川口美根子の三人で「三人組」と呼ばれた。
この人も目下は田井安曇の「綱手」に所属されている。

これらの資料を提供していただいた関係者の皆さんに御礼申し上げる。
今後この記事に補足して追記するかも知れない。 予め言っておく。
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(追記10/29)
この記事をコピーして日向輝子さんが井上美地さんにお送りになり、それを見た井上さんから手紙と歌集などが届いた。
それによると井上美地、川口美根子、米田律子は「京都府立女専」の同級生であり「ぎしぎし」の会員だったと書いてある。
だから先に、ここに書いておいた<井上美地さんは、京都女子大時代に「ぎしぎし」のお仲間だったと聞いています。>というのは日向さんの勘違いということである。
府立女専は桂に学校があったから「桂女専」と通称されていた。今は京都府立大学として理科系の学部と一緒になっている。
一方の京都女専(のちの京都女子大学)は浄土真宗の西本願寺系列で、所在地は東山七条にあった。
京都のことを知らない人には、よく混同されるので日向さんを責めることはない。

(10/24夜記)
ただいま届いた角川「短歌」誌11月号を見ていたら、前号まで「未来」誌の広告に「主要作家」として名前の出ていた太宰瑠維、川口美根子の名前が無い。
いつの時点で、この広告が修正されたのかはわからないが、ここ数か月のことに違いない。
この記事にお二人のことを書いたばかりなのに、お二人が死去されたのは確実であり、感慨あらたなるものがある。歳月は非情だ。ご冥福を祈りたい。


ぶどう棚を渡る風に/葉は枝を離れて落ちる/実りを終えて/安堵の心をみせての/静かな落下・・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(16)再掲載・初出2005/10/23

       ぶどう棚の下・・・・・・・・・・高田敏子

     ぶどう棚を渡る風に
     葉は枝を離れて落ちる
    
     実りを終えて
     安堵の心をみせての
     静かな落下

     葉は落ちて
     地から見上げているよう
     光のよさを
     光を受けて紫の色増す
     実りのよさを

     ぶどう棚の下に座って
     落ち葉の一枚を
     ひざにのせている私

     風は少し冷たくても
     秋の深まりを素直に受けて
     落葉からまなぶ
     心の静けさ

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)


私の頭の中には/ピエロがひとり棲んでゐて/そして、月光を浴びてゐるのでした・・・・・・・中原中也
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         幻 影・・・・・・・・・・・・・・・中原中也

     私の頭の中には、いつの頃からか、
     薄命さうなピエロがひとり棲(す)んでゐて、
     それは、紗(しや)の服かなんかを着込んで、
     そして、月光を浴びてゐるのでした。

     ともすると、弱々しげな手付をして、
     しきりと 手真似をするのでしたが、
     その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
     あはれげな 思ひをさせるばつかりでした。

     手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、
     古い影絵でも見てゐるやう───
     音はちつともしないのですし、
     何を言つてるのかは 分りませんでした。

     しろじろと身に月光を浴び、
     あやしくもあかるい霧の中で、
     かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
     眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

     ・・・・・・中原中也詩集『在りし日の歌』から・・・・・・・
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今日、10月22日は中原中也の忌日であるから、それを記念して、この詩を載せる。
山口市にある「中原中也記念館」のリンクを貼っておくのでアクセスされたい。

Wikipedia「中原中也」にも詳しい経歴などがある。今に至るも、よく読まれている詩人である。

→ 「山羊の歌」に載る詩をいくつか読める。

大正12年(1923年)3月 - 落第。京都の立命館中学第3学年に転入学。晩秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒するようになる。
冬、劇団表現座の女優で広島出身の長谷川泰子を知り、翌年より同棲。
大正13年(1924年)- 富永太郎と出会い、フランス詩への興味を抱く。
大正14年(1925年)- 小林秀雄と出会う。
3月 - 泰子とともに上京。早稲田大学予科を志すも果たさず。
11月 - 泰子が小林の元に去る。富永太郎病没。
大正15年(1926年)4月 - 日本大学予科文科へ入学するも9月に退学する。
11月頃、アテネ・フランセへ通う。『山繭』に『夭折した富永』を寄稿。
昭和2年(1927年)12月 - 作曲家諸井三郎と出会い、音楽団体「スルヤ」に出入りするようになる。
昭和3年(1928年)5月 - 「スルヤ」第2回発表会にて、諸井三郎が中也の詩に作曲した『朝の歌』『臨終』が歌われる。父謙助死去。葬儀に帰省参列しなかった。
昭和4年(1929年)4月 - 河上徹太郎、大岡昇平らとともに同人誌『白痴群』を創刊。翌年終刊するまでに6号を刊行。

ざっと若い頃の経歴を見ても、長谷川泰子をめぐる小林秀雄とのことなど、いかにも一頃の文学者の典型のような情景である。
一流の文化人、芸術家というのは「平凡」ではあってはならない、という気がする。

↓ YouTube動画・町田康×中原中也『汚れっちまった悲しみに』を貼り付けておくので聴いてみてください。





夕日の赤/あれは ほおずきの赤/風車の赤/柿の実の赤/糸につるした折鶴の赤の色・・・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(15)再掲載・初出Doblog2005/10/22

         夕日・・・・・・・・・・高田敏子

     すすきの穂のまねく
     秋の道
     まねかれ
     歩みつづけて
     岬のはずれまで来てしまった

     もう先へは行きようもないけれど
     ひろがる海はおだやかで
     やさしい小舟を浮かばせている

     水平線もはっきり見えて
     海上近くに落ちかかる
     夕日の赤
     あれは ほおずきの赤
     風車の赤
     柿の実の赤
     糸につるした折鶴の赤の色

     夕日は刻々海に近づいて
     円のはしが
     水平線に接したと思うと
     刻々の 時の早さを見せて
     沈んでいった

     沈みきったあとも
     私はまだ 赤の色を追っている
     母が髪に結んでくれたリボンの
     赤の色も思い出され

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)

こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶(きよほうへん)
     かしましき日の暮れなむとする・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも採っているのでWeb上でもご覧いただける。
「うた作り」というのは、連作として、はじめから作るものもあるが、ある程度ばらばらに作った歌を、後から一定の小章名のもとにまとめる、ということもする。
この歌を含む一連を後で引用するが、その中では、掲出の歌は、どちらかと言うと異質かも知れない。
しかし、この歌の持っている雰囲気は、季節で言うと、やはり「秋」のもので、決して気分の浮き立つ春のものではないし、まして夏のものでもない。
私の、この歌は歌会で、私の他の歌のことで「的を射ていない」ような批評を小半日聴かされて、うんざりした気分の時の作品である。咄嗟に出来た歌かと思う。
以下、この歌を含む一連を引く。

     雌雄異株・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  なきがらを火の色つつむ頃ほひか盃を止めよ 声を絞れよ

  須勢理比売(すせりひめ)恋せし色かもみぢ散る明るむ森を遠ざかりきぬ

  いつか来る別れは覚悟なほ燃ゆる色を尽して蔦紅葉せる

  こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする

     ・・・・・・・・・・・聖武帝の皇子・安積王 17歳で744年歿
   わがおほきみ天知らさむと思はねばおほにそ見ける和豆香蘇麻山
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(大伴家持・万葉集第三・476)
   秋番茶刈りゆく段丘夭折の安積(あさか)親王葬られし地(つち)

   このあたり黄泉比良坂(よもつひらさか)といふならむ通夜のくだちに文旦を剥く

     ・・・・・・・・白鳳4年(676年)役行者42歳厄除けのため・・・・
   役小角(えんのをづぬ)の開きし鷲峰山金胎寺平城(なら)の都の鬼門を鎮めし

   無住寺に人来るけはひ紅葉に視界がよくなつたといふ声聞こゆ

   日おもてにあれば華やかもみぢ葉が御光の滝に揺るる夕光(ゆふかげ)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・正安2年(1300年)建立の文字・・
   宝篋印塔うするる文字のかなたより淡海の湖(うみ)の見ゆる蒼さや

   つくばひの底の夕焼けまたひとり農を離るる転居先不明

   いくたび病みいくたび癒えし妻なるか雌雄異株の青木の雌木

   古唐津で茶を飲むときにうら悲し妻が横向き涙を拭きぬ

   厨べの灯が万両の実を照らすつねのこころをたひらかにせよ

   億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
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この一連の舞台回しになっている金胎寺は京都府南部の山間部にあり、聖武天皇が一時造営された恭仁京のすぐ近くであり、平城京の鬼門にあたる北東に位置している。
だから、ここに役行者(えんのぎょうじゃ)が、この寺を建てたことになっている。
鷲峰山は高山というのではないが、この辺りでは最高峰ということになっている。
もっとも当地では「じゅうざん」と発音する。「じゅうぶざん」では言いにくいからである。
ここは昔、「行者」が修行したところで、今でも「行者道」と称するところがあり、このサイトでは写真入りで詳しく書いてあるから参考になる。「東海自然歩道」の一部になっているらしい。
ついでに言うと有名な「関が原」も地元では「せがら」と呼んでいるのと同様の扱いである。

この一連は、舞台回しにかかわらず、小章名の通り、私としては妻との間の心の揺れを描いたものが中心になっている。
歌というのは一連として鑑賞してもよいし、一首づつ単独で鑑賞してもらっても、よい。
この一連などは一首づつ、あるいは「一塊」の歌群を別々に鑑賞してもらっても、よい。



猫と生れ人間と生れ露に歩す・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
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     猫と生れ人間と生れ露に歩す・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

「露」は、夜晴れていて風のないとき、放射冷却によって地面が冷えると、それに接する空気が冷えて、大気中に含まれる水蒸気が水滴になるものである。
秋に多いので秋の季題になっている。
一面に降り、しぐれのように見えるのを「露時雨」という。
「古今集」に

       啼き渡る雁の涙や落ちつらむ物思ふ宿の萩の上の露

という歌があるが、「涙の露」「白露」「露けき」などの「思い」にかかわる用例とともに、「消ゆる」「徒(アダ)なる」のような「はかなさ」の一面が強調されてきた。
情感の深さにひびくとともに、「むなしい」ところが詠われる。

    露とくとく試みに浮世すすがばや・・・・・・・・松尾芭蕉

    しら露やさつ男の胸毛ぬるるほど・・・・・・・・与謝蕪村

    露の世は露の世ながらさりながら・・・・・・・・小林一茶

などが古句の名句とされている。
因みに言うと、一茶の句は長女を乳児のうちに死なせたときの句である。
掲出の楸邨の句は現代俳句として、古句とは違った心象の世界を描いて秀逸である。

以下、明治以後の句を引いて終る。

 病牀の我に露ちる思ひあり・・・・・・・・正岡子規

 露今宵生るるものと死ぬものと・・・・・・・・岡本松浜

 疾くゆるく露流れ居る木膚かな・・・・・・・・西山泊雲

 露の道高野の僧と共に行く・・・・・・・・池内たけし

 露けさの弥撒のをはりはひざまづく・・・・・・・・水原秋桜子

 巨杉の露の日筋を十方に・・・・・・・・高野素十

 落ちかかる葉先の露の大いさよ・・・・・・・・星野立子

 金剛の露ひとつぶや石の上・・・・・・・・川端茅舎

 露の花圃天主(デウス)を祈るもの来る・・・・・・・・山口誓子

 ショパン弾き了へたるままの露万朶・・・・・・・・中村草田男

 露の野やふとかはせみを見失ふ・・・・・・・・五十崎古郷

 露燦々胸に手組めり祈るごと・・・・・・・・石田波郷

 露踏んで相聞の句をつくらばや・・・・・・・・京極杞陽

 露の中つむじ二つを子が戴く・・・・・・・・橋本多佳子

 露の夜の一つのことば待たれけり・・・・・・・・柴田白葉女

 露の土踏んで脚透くおもひあり・・・・・・・・飯田龍太

 幾万の露けき石とわれひとり・・・・・・・・白石蒼羽

 白露や死んでゆく日も帯締めて・・・・・・・・三橋鷹女

 白露の瞳はかなしみの鈴をふる・・・・・・・・石原八束

 露の戸を敲く風あり草木染・・・・・・・・桂信子

 白露の世尊寺道をつくりをり・・・・・・・・大峯あきら



かきなぐる墨絵をかしく秋暮て・・・・・・史邦/はきごころよきめりやすの足袋・・・・・・・・・凡兆
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  かきなぐる墨絵をかしく秋暮て・・・・・・・・・・・史邦

    はきごころよきめりやすの足袋・・・・・・・・・凡兆


これは発句と付句という連句遊びの一対である。
史邦の発句の575に対して、凡兆が付句で77と応じたもので、連句特有の約束事があり、簡単には説明できないが、見事な受答えと言える。

少し解説してみよう。
史邦の句の「墨絵」は15世紀なかば宋元画がわが国に流入して以来興った水墨画で、禅宗とも深いかかわりが生じた。
この句が詠まれた頃には、中国伝来という意味で、異国風な新鮮さがあった。
一方、凡兆の付け句の「メリヤス」は長崎などを通じて入ってきた紅毛の舶来品である。
つまり、この付け合いは、二様の異国情緒を取り合わせ、両句あいまって、晩秋ひとり心ゆくままに墨絵に没頭して楽しむ人物を描き出している。
風雅を解する豪商か、それとも脱俗の隠士か。
これは『芭蕉七部集』の『猿蓑』はつしぐれの巻、の一部である。

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写真に掲げたように「足袋」というのは日本の履物で二本指に分れ、「こはぜ」という独特の「留め金」で足首に留めるというものであるが、
その材質を西洋渡来の「メリヤス」の生地で仕立てると、何ともしっとりとした感じの足袋に仕上がり、足になじむのである。
こういう「言葉あそび」が歌仙などの「連句」遊びなのである。
芭蕉の頃から盛んに遊ばれたが、現代になって甦り、あちこちで歌人、俳人、詩人などが連句遊びをやっている。
私も一時期、誘われて「付け合せ」てみたことがある。これらは私のWebのHP「連句の巻」を参考に見てもらえば、多少はご理解いただけると思う。
ついでに説明すると「歌仙」というのは、ここに見るような一対が18対つまり合計36の句で出来ているのが、それである。時間の都合で「半歌仙」という18句の一連もある。
こういう連句は、基本的に「座の文芸」であるが、
今では「捌き手」を置いて、Web上で投稿を募り、捌き手が一番適当と思われるものを採用して、次に進むという催しも行なわれている。
連句に興味のある方には、新潮選書に入っている 高橋順子『連句のたのしみ』をおすすめする。もう10年も前の出版だが、在庫はあるはずである。高橋は詩人で、小説家の車谷長吉の夫人である。
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掲出の写真に「メリヤス」の足袋のものが手に入らなかったのが残念である。


添水鳴る遠ざかり来てあきらかに・・・・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎
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     添水鳴る遠ざかり来てあきらかに・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎

「添水」(そうづ)はまたの名を「鹿おどし」シシオドシとも言う。
竹筒の中央に支点を作り、一方を削って水が溜まるようにした装置である。
水が溜まって重くなると竹が下がり水が流れ出て軽くなり、はねあがる。
すると、他端が急に下がり、石や金属を打って、コンと音を発する。
この音により山田を荒らす鳥獣を驚かして追い払う、という仕掛けである。
それから派生して、庭園などに設けて、流水を利用して、音を楽しむようにしたものである。
写真は、庭園にしつらえたものである。
添水というのは、字義からいうと「走り水」に添う、つまり「水路」のことから派生したものであろう。
水を引いて来て、その水を利用して「威し」の仕掛けを作る。

玄賓僧都が

    山田守るそほづの身こそあはれなれ秋果てぬれば訪ふ人もなし

と詠んだのが本意と言われている。
九州では兎鼓とか左近太郎とか呼ばれ、山口では「さこんた」とも言い、また訛って「迫の太郎」とも言われていたという。
水による、しゃれた動物おどしだが、実用には、ほど遠い音だと言える。

こういう音の威しの他に、「添水唐臼」といって、杵を仕掛け、米や稗を搗くものがある。
「水車」の類と言えば判りやすいだろう。

以下、添水を詠んだ句を引いて終る。

 ぎいと鳴る三つの添水の遅速かな・・・・・・・・河東碧梧桐

 ばつたんこ水余さずに吐きにけり・・・・・・・・茨木和生

 ばつたんこまた山の水受け始む・・・・・・・・朝妻力 

 添水かけて木々からびゆく響かな・・・・・・・・大須賀乙字

 添水鳴ると気のつきしより添水鳴る・・・・・・・・西山誠

 闇ふかく添水は己が音を待つ・・・・・・・・有働亨

 京鹿の子咲くと添水のはずみけり・・・・・・・・佐野青陽人

 闇中に声あるものは添水かな・・・・・・・・山中北渚

 ふるさとや添水かけたる道の端・・・・・・・・吉田冬葉

 あれ聞けと尼のかけたる添水かな・・・・・・・・前川舟居

 詩仙堂花なき庭の添水かな・・・・・・・・貞永金市

 失ひし時の重さに添水鳴る・・・・・・・・高橋謙次郎

 手に掬ふ添水に音を生みし水・・・・・・・・大岳水一路

 ばつたんこ法鼓のごとくこだませり・・・・・・・・山本洋子

 次の音自づと待たるばつたんこ・・・・・・・・脇坂豊子

 落柿舎の静けさとまる添水かな・・・・・・・・荒木千都江


短歌に詠まれるものを見つけるのが難しいのだが、こんな歌をひとつ見つけた。

  竹叢に淡く日の射す寺の庭思はぬ方に添水の音す・・・・・・・・・・・・・・神作光一 『未来都市』02年より



父を詠みし歌が少なし秋われは案山子のやうに立ちてゐたりき・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   父を詠みし歌が少なし秋われは
      案山子(かかし)のやうに立ちてゐたりき・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

この頃では、農民が鳥よけのために実用に立てるものは殆ど見かけなくなった。
昔は、写真のような素朴な案山子が立っていたのだが、今ではネットを張ったり、「爆音器」でプロパンガスを爆発させたりして鳥を威すようになり、メルヘンはなくなってしまった。
この頃では廃棄された古いマネキン人形を田んぼに立ててあるのを見ることがある。
変になまめかしいもので、スズメなどの鳥が、どう感じるかは判らない。

私の歌は、もちろん案山子を詠んだものではなく、「父を詠んだ歌」が少ないというのが主眼であるから、ここで案山子のことを、あれこれ書くのも語弊があるかも知れない。
私の父は厳しい人で、反抗しては、よく、こっぴどく叱られたものである。
そんなときは、歌のように私は「案山子」のように突っ立っていたものである。
そんな回想が、この歌には込められているのである。
「案山子」かかしというのは、田畑の収穫を鳥獣から守る仕掛けだが、「嗅がし」から出た言葉だという。
古名は「曾富騰」(そぼと)で、『古事記』に「少毘古那神を顕はし白(まを)せし謂はゆる久延毘古(くえびこ)は、今に山田の曾富騰といふぞ。この神は、足は行かねども、ことごとに天の下の事を知れる神なり」と書かれている。
この「そぼと」は「そぼつ」に変り、案山子と添水の二つに分かれて用いられてゆく。そめ、しめ、とぼし、がんおどし、鳥かがしなどと各地で使われている。

以下、案山子、鳥威しを詠った句を引いて終る。

 水落ちて細脛高きかがしかな・・・・・・・・与謝蕪村

 案山子たつれば群雀空にしづまらず・・・・・・・・飯田蛇笏

 倒れたる案山子の顔の上に空・・・・・・・・西東三鬼

 案山子運べば人を抱ける心あり・・・・・・・・篠原温亭

 案山子翁やあち見こち見や芋嵐・・・・・・・・阿波野青畝

 夕空のなごみわたれる案山子かな・・・・・・・・富安風生

 胸うすき案山子舁がれゆきにけり・・・・・・・・只野柯舟

 案山子相知らず新顔ばかりにて・・・・・・・・天野莫秋子

 抱へゆく不出来の案山子見られけり・・・・・・・・・松藤夏山

 かの案山子もつとも睨みきかせをり・・・・・・・・・河野白村

 鳥おどしこれより秋のまことかな・・・・・・・・小杉余子

 鳥威し簡単にして旅に立つ・・・・・・・・高野素十

 鳥おどし動いてをるや谷戸淋し・・・・・・・・松本たかし

 母恋し赤き小切の鳥威・・・・・・・・秋元不死男

 山風にもまるる影や鳥おどし・・・・・・・・西島麦南

 結び目だらけにて鳥威しの糸・・・・・・・・加倉井秋を

 金銀紙炎のごとし鳥威し・・・・・・・・加納流笳

 威し銃たあんたあんと露の空・・・・・・・・田村木国

 強引に没日とどめて威し銃・・・・・・・・百合山羽公

 怺へゐしごとくに威し銃鳴れり・・・・・・・・古内一吐



牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさに見つ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


    牧神の午後ならねわがうたた寝は
        白蛾の情事をまつぶさに見つ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

秋の季節は生き物の世界でも越冬に備えて、卵の状態で冬を越すものが多いから交尾をして卵を産むのに忙しい繁殖期だと言えるだろう。
「白蛾の情事」というのも実景としても見られるものである。
しかし、この歌ではそれは添え物であって、私の詠いたかったのは「牧神の午後」というところにある。
はじめに、ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲(ピアノ独奏) 演奏:土佐礼佳(全音版)のさわりの部分を出しておく。
この動画は「全音」企画のYouTube版らしいので、削除されることはないと思われる。

 シュテファヌ・マラルメについては ← が詳しい。
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 ↑ポール・パレェ指揮による「ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲」CDのジャケット。
 
『牧神の午後』 L'Après-Midi d'un Faune はフランスの詩人シュテファヌ・マラルメの「長詩」である。
着想そのものはギリシァ神話に基づいている。
物語自体は非常に単純なものである。水辺でニンフたちが水浴びをしている。
そこへ彼女たちの美しさに目を奪われた牧神パンが仲間になりたいとやって来るが、ニンフたちはパンが半獣半人の姿なので驚いて逃げてしまう。
追っかける、逃げる、の繰り返しの中で、一人のニンフだけがパンに興味を示し、パンも求愛の踊りをする。
愛は受け入れられたかに見えたが、パンが彼女を抱きしめようとするとニンフは逃げてしまう。
パンは取り残されて悲しみにくれたが、彼女が落としていったスカーフを見つけ、それを岩の上に敷いて座り「自慰」(オナニー)する。
マラルメは、これを劇として上演したかったが無理と言われ、マネの挿絵付の本として自費出版した。
これに感動したドビュッシーが、マラルメへのオマージュとして『牧神の午後への前奏曲』を作曲する。
マラルメの夢のバレエ化が、20年後にニジンスキーによって実現されることになったのである。
初演は1912年5月29日、ディアギレフ・ロシア・バレエ団で、パリのシャトレ劇場において、ワスラフ・ニジンスキーの主演で催行された。
当時、このラストシーンで、ニジンスキーは舞台の上で恍惚の表情を見せ、しかも最後には「ハー」と力を抜く仕草までして見せたと言い、
彼の狙い通り「スキャンダル」の話題を引き起こしたという。
クラシック・バレーに仕組まれた歌劇については ← に詳しい。

 ↓ 写真は牧神パンとニンフのイメージである。
pan_nymph牧神の午後イメージ

↓ 写真に「蚕蛾」を出しておく。
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この蛾は、人間が改良したもので、飛ぶ力は、全く、ない。羽根は退化して体重に比べて極めて小さい。
蚕蛾の場合は、ここまで蛹から成虫になること自体が人工的であって、普通は繭から糸を取り出す段階で熱湯で茹でられてしまって死んでしまうのである。
蛾は雌雄が引き合うのに雌が出す「フェロモン」を雄が感知して、羽根を震わせながら狂ったように寄ってくる。
今では、こういう蛾の習性を利用して、「生物農薬」として、特有のフェロモンを合成して、特定の蛾の害虫の誘引に使っている。
蛾にとっては交尾は「本能」であって「情事」との認識はないのだが、この歌の中では「擬人化」して、情事と詠ってみた。擬人化は文芸の常套手段である。

子がなくて白きもの干す鵙の下・・・・・・・・・・・・・・・桂信子
モズ雄

      子がなくて白きもの干す鵙の下・・・・・・・・・・・・・・・桂信子

「鵙」モズの高鳴きがひびく季節になってきた。
モズは燕雀目モズ科の猛禽。やや大きめものでも捕食する。生餌を食べる鳥である。
掲出の写真①はモズの雄で、眼のところに横に黒い筋(過眼線)がある。
写真②はモズの雌で、雄のような黒い筋がない。色も相対的に地味である。
mozu02-2モズ雌

モズは一年中いる「留鳥」だが、秋には先に書いたように「高鳴き」をするが、これは縄張り宣言のための警戒音と言われている。
モズは「百舌」とも書くが、これは他の鳥の鳴き真似をするからで、じっと聞いていると、さまざまの鳥の鳴き声を真似している。
繁殖期も含めて、高鳴きをすることがないから、目立たないので、気がつかないだけである。
「高鳴き」のシーズンは、人が近づくだけでも、けたたましく鳴きたてる。
秋には「モズの早贄(はやにえ)」と言って、捕らえた餌を尖った枝の先などに刺しておく習性がある。
これは蓄食のためだというが、乾燥してこちこちになったものは食べないのではないか。もともとモズは生餌を食べる鳥である。
写真③はトカゲを捕らえたところ。
mozu03モズはやにえ

↓ 木の枝に刺した早贄(はやにえ)の写真。
hayanie4モズはやにえ

餌は昆虫、トカゲ、蛇、魚、野ねずみ、蛙、小鳥など多岐にわたる。猛禽と呼ばれる所以である。
モズについては私の歌を掲出して昨年に書いたことがあるので、参照してもらいたい。
このようにモズの高鳴きが目立つのが秋なので、鵙の季語は秋になっている。
すでに「万葉集」にもモズを詠んだ歌があるほど文芸の世界では、古い付き合いである。
『本朝食鑑』に「およそ鵙、つねに小鳥を摯(と)りて食ふ。その声高く喧くして、好からず」とあり、猛く喧しい鳥と考えられてきたのも秋の「高鳴き」のイメージから定着したものであろう。
俳句に詠まれる句も多い。
掲出した桂信子の句は、早くに夫に先立たれて「子を産めなかった」女の哀しみをモズに寄せて情感ふかく詠まれている。
以下、モズの句を引いて終る。

 我が心今決しけり鵙高音・・・・・・・・高浜虚子

 大空のしぐれ匂ふや百舌の贄・・・・・・・・渡辺水巴

 われありと思ふ鵙啼き過ぐるたび・・・・・・・・山口誓子

 かなしめば鵙金色の日を負ひ来・・・・・・・・加藤楸邨

 御空より発止と鵙や菊日和・・・・・・・・川端茅舎

 百舌鳥に顔切られて今日が始まるか・・・・・・・西東三鬼

 たばしるや鵙叫喚す胸形変・・・・・・・・石田波郷

 逢はざるを忘ぜしとせむ雨の鵙・・・・・・・・安住敦

 鵙は嘴なほ血塗らねば命絶ゆ・・・・・・・・中島月笠

 鵙鳴けり日は昏るるよりほかなきか・・・・・・・・片山桃史

鵙の贄叫喚の口開きしまま・・・・・・・・佐野青陽人

 鵙の贄まだやわらかき日ざしかな・・・・・・・・塩尻青茄

 生きものの形ちぢみて鵙の贄・・・・・・・・山口速

 鵙鳴いて少年の日の空がある・・・・・・・・菊池麻風

 夕百舌やかがやくルオー観て来たり・・・・・・・・小池文子



竹杭が十二、三本見えてをりその数だけの赤トンボ止まる・・・・・・・・・・・・・木村草弥
dragonfly01アカトンボ本命

  竹杭が十二、三本見えてをり
   その数だけの赤トンボ止まる・・・・・・・・・・・・・木村草弥


いよいよ赤蜻蛉の飛び交う季節になった。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せたものである。とりたてて巧い歌でもないが、叙景を正確に表現し得たと思っている。
赤トンボというのは竿などの先端に止まる習性をもっており、また、群れる癖もある。
よく観察してみればお判りいただけると思うが、私の歌のように立っている杭の先端すべてに赤トンボが止まって群れているという情景は、よく見られるところである。
この歌は「嵯峨野」と題する一連5首のものである。下に引いておく。

    嵯峨野・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   北嵯峨の遊女の墓といふ塚に誰が供へしか蓼の花みゆ

   竹杭が十二、三本見えてをりその数だけの赤トンボ止まる

   虫しぐれ著(しる)く響かふ嵯峨の夜は指揮棒をふる野の仏はや

   輪廻説く寂聴は黒衣の手を挙げていとほしきもの命とぞ言ふ

   さわさわと風の愛撫に任せつつうつつの愉悦に揺るる紅萩

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赤トンボの「赤」色は繁殖期の「婚姻」色らしく、赤色をしているのは「雄」だという。雌は「黄褐色」をしているらしい。
赤トンボというと、三木露風の歌が有名で、判り易く、今でも愛唱されている。
赤トンボの句を少し引いて終りにする。

 赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり・・・・・・・・正岡子規

 から松は淋しき木なり赤蜻蛉・・・・・・・・河東碧梧桐

 生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉・・・・・・・・夏目漱石

 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉・・・・・・・・夏目漱石

 洞然と大戦了り赤蜻蛉・・・・・・・・滝井孝作

 赤とんぼまだ恋とげぬ朱さやか・・・・・・・・青陽人

 旅いゆくしほからとんぼ赤とんぼ・・・・・・・・星野立子

 美しく暮るる空あり赤とんぼ・・・・・・・・遠藤湘海



うつしみは欠けゆくばかり月光の藍なる影を曳きて歩まむ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
26二十六夜月
↑ 二十六夜月

   うつしみは欠けゆくばかり月光の
     藍なる影を曳きて歩まむ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

「月」は天象としては、いつも我々の身近にあるものだが、太陽のように自ら光を発するものではなく、
太陽の光を反映するものとして、昔から「寂しい」存在として詩歌に詠まれてきた。
掲出した私の歌も老境に入って「欠けて」ゆくだけの「我が身」を「月光」の影になぞらえて詠んだものである。
「月」は「花」と並んで、古来、日本美の中心に置かれるものである。
「花」とは花一般ではなく「桜」のことを指す決まりになっている。
「花」=桜は春を代表するもの。「月」は秋を代表するもの。
月は一年中みられるものではあるが、秋の月が清明であるために、秋を月の季節とするのである。

陰暦朔日は黒い月だが、二日月、三日月、弓張月と光を得て大きくなって満月になり、また欠けて有明月になり、黒い月になる。
朔日の月を新月と言い、新月から弦月(五日目)頃までの宵月の夜を夕月夜という。
夕方出た月は夜のうちには沈んでしまうので夕月という。月白は月の出る前の空のほの白い明るさをいう。

因みに、今日は暦を見ると「廿六日月」である。この頃の月を「有明月」という。

これから月は欠けが進み新月(朔日)は十月十五日となっている。

「万葉集」には

     わが背子が挿頭(かざし)の萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし

と詠まれ、
「古今集」には

     月見れば千々にものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど

     木の間より漏り来る月の影見れば心づくしの秋は来にけり

と詠まれる。
このように、日本の古典には、月は秋の美しいものの頂点に置かれ、「さびしさ」「物思い」「ものがなしさ」などの気持のこもるものとされてきた。
俳句でも、松尾芭蕉の句に

    月はやし梢は雨を持ちながら

    義仲の寝覚の山か月悲し

    月清し遊行の持てる砂の上

    其のままよ月もたのまじ伊吹山

    秋もはやばらつく雨に月の形

などがあり、月を詠んだ秀句と言われている。

与謝蕪村にも

    月天心貧しき町を通りけり

の秀句がある。
このように「月」は歴史の厚みのある代表季題中の代表と言われている。

以下、明治以後の私の好きな句を引いて終わる。

 月明や山彦湖(うみ)をかへし来る・・・・・・・・水原秋桜子

 月光のおもたからずや長き髪・・・・・・・・・篠原鳳作

 東京駅大時計に似た月が出た・・・・・・・・池内友次郎

 徐々に徐々に月下の俘虜として進む・・・・・・・・平畑静塔

 少年が犬に笛聴かせをる月夜・・・・・・・・・富田木歩

 月の中透きとほる身をもたずして・・・・・・・・桂信子

 つひに子を生まざりし月仰ぐかな・・・・・・・・稲垣きくの

 なにもかも月もひん曲つてけつかる・・・・・・・・栗林一石路

 月明のいづこか悪事なしをらむ・・・・・・・・岸風三楼

 農夫われ来世は月をたがやさむ・・・・・・・・蛭田大艸

 三日月や子にのこすべきなにもなし・・・・・・・・白井郷峰

 ↓ 松下奈緒 「月明かり」のYouTube版を貼り付けておく。


草もみぢしてそよぐなる風ばかりゑのころ草の原たれもゐず・・・・・・・・・・・・・藤井常世
1c8a58b0b91d80e2901386ae04e089a5エノコロ草

   草もみぢしてそよぐなる風ばかり
        ゑのころ草の原たれもゐず・・・・・・・・・・・・・藤井常世


「エノコロ草」というのは、別名「猫じゃらし」のことである。
その名の通り、この草の穂で子猫などをじゃらすと、とても面白い。
食用の「粟」は、この草を改良したものだという。
青く茂っているときは、こんな様子である。 ↓
imagesエノコロ草

古来、この草は俳句にも、よく詠まれてきた。 それを引いておく。

 秋の野に花やら実やらゑのこ草・・・・・・・・楚常

 よい秋や犬ころ草もころころと・・・・・・・・一茶

 ゑのこ草媚びて尾をふるあはれなり・・・・・・・・富安風生

 猫ぢやらし触れてけもののごと熱し・・・・・・・・中村草田男

 父の背に睡りて垂らすねこじやらし・・・・・・・・加藤楸邨

 猫じやらし子にも手触れずなりしかな・・・・・・・・石田波郷

 木曾に入る秋は焦茶の猫じやらし・・・・・・・・森澄雄

 本日の死者と負傷者ねこじゃらし・・・・・・・・森田智子

 岐路に佇ち踊り出でたる猫じゃらし・・・・・・・・高沢晶子

 どこへでも蹤いて来る愛狗尾草・・・・・・・・竹中碧水子

 行きさきはあの道端のねこじゃらし・・・・・・・・坪内稔典

 人恋へば昏るる高さにねこじゃらし・・・・・・・・横田欣子

 君が居にねこじやらしまた似つかはし・・・・・・・・田中裕明

 子が描く遊山の絵地図ねこじやらし・・・・・・・・上田日差子

 叢雨やゑのころ草は濡れてゐず・・・・・・・・小林鱒一

 猫じやらし持てばじやらさずにはをれず・・・・・・・・西宮舞

 この道を芭蕉と曾良はゑのこぐさ・・・・・・・・板藤くぢら

 振り向けば金ゑのころの道なりし・・・・・・・・かとうさきこ

 全身で少女スキップねこじゃらし・・・・・・・・永田千代

 猫じやらし不意に思い出湧いてくる・・・・・・・・石川幸子

 絶滅の狼以後を狗尾草・・・・・・・・神戸秀子


芋洗ふ女西行ならば歌よまむ・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉
Satoimo2里芋

     芋洗ふ女西行ならば歌よまむ・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

ただ「芋」というと「里芋」のことである。
里芋は東南アジアの原産で、日本でも古くから栽培されて来た。種芋を植えて親芋として太らせ、子芋、孫芋と増やさせて、十月になると収穫する。
「さつまいも」と混同する人が居るが、別のものである。写真①が収穫した「子芋」である。
satoimo里芋の葉

写真②が里芋の葉である。茎の部分も食用になるが、それを干したものが「芋茎」イモガラ、ズイキである。
「八つ頭」あるいは地方によっては九里芋と称するものは親芋を食べるものである。蝦芋と称する芋もある。

『本朝食鑑』に「近世、八月十五夜月を賞する者の、必ず芋の子、青連莢豆をもつて煮食す。九月十三夜月を賞する者の、芋子薄皮を着するものをもつて衣被(きぬかつぎ)と称し、生栗と煮食す。正月三朝、芋魁(いもがしら)をもつて雑煮の中に入れて、ともにこれを賞す。上下家家、流例となすなり」とある。
この文章のはじめの部分は旧暦八月十五日を「芋名月」として祀る慣わしのことを言っている。
九月十三日には「皮のまま茹でた子芋」=衣被きぬかつぎ、を供えて月を愛でる習慣を言っているのである。
後半の部分では、お正月の雑煮の中に入れる頭芋(かしらいも)のことで、これは地方によって異なるから一概には言えないが、
関西では、必ず入れるものとされた。特に、家長や跡継ぎの男の子は、必ずこれを食べて、一家の長たれ、と言われたものである。だから「頭(かしら)芋」という。

cook256里芋と鶏肉のそぼろ煮
写真③は里芋と鶏肉のそぼろ煮の料理だが、今は昔ほどは里芋を料理に使わないかも知れない。
歳時記を見てみると、植物としての里芋を詠んだものが殆どであって、料理になった里芋ないしは子芋を詠んだものはない。
料理する場合には写真①のような芋の皮を剥かなければならないが、その際に芋に含まれる成分によって手がかゆくなるので、
昔は小桶に芋と水を入れ、均し鍬のようなものでガシガシ動かしながら皮を、あらかた擦り落としてから刃物で仕上げをしたものである。
里芋を洗うと手が痒くなるが、これは茎や球茎にシュウ酸カルシウム結晶が含まれているためである。
食品としての芋を洗う場合では、この球茎の皮の下2-3mmほどにある細胞内に多くのシュウ酸カルシウム結晶が含まれており、
大きな結晶が僅かな外力によって壊れて針状結晶へ変わり、外部へと飛び出る。
調理者や作業者が手袋などを用いずに洗うと、皮膚にこの針が刺さって痒くなる。
里芋は極めて若い時からシュウ酸カルシウムを針状結晶や細かい結晶砂として細胞内に作り始める。
やがてこれらが集合して、大きく脆い結晶の固まりとなる。シュウ酸カルシウムは「えぐ味」の原因ともなり、
えぐ味はシュウ酸カルシウムが舌の刺さることによって起きるとする説や、化学的刺激であるとする説があり、
他にもタンパク質分解酵素によるとする説がある。
里芋は昆虫から身を守るためにこのようなものを作り出していると考えられている。

掲出の芭蕉の句は、まさに上に書いた動作をしている女を詠んだものである。
西行ならば、というところに芭蕉ならではの「滑稽味」が出ているというべきだろう。
以下、里芋を詠んだ句を引いて終わる。

 芋の露連山影を正しうす・・・・・・・・飯田蛇笏

 地の底の秋見届けし子芋かな・・・・・・・・長谷川零余子

 案山子翁あち見こち見や芋嵐・・・・・・・・阿波野青畝

 八方を睨める軍鶏や芋畑・・・・・・・・川端茅舎

 芋の露父より母のすこやかに・・・・・・・・石田波郷

 芋掘りし泥足脛は美しく・・・・・・・・・平畑静塔

 芋照りや一茶の蔵は肋あらは・・・・・・・・角川源義

 箸先にまろぶ小芋め好みけり・・・・・・・・村山古郷

 芋の葉の手近な顔も昏れにけり・・・・・・・・遠藤梧逸

 生涯を芋掘り坊主で終るべし・・・・・・・・美濃部古渓

 風の神覚むるや芋の煮ころがし・・・・・・・・野中久美子

 芋の露天地玄黄粛然と・・・・・・・・・平井照敏



滝白く落ちて虚空のたそがれの滴り一つ沢蟹を搏つ・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    滝白く落ちて虚空のたそがれの
       滴り一つ沢蟹を搏(う)つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に「茶の神」という小項目名で9首を載せたもののうちの一つである。

沢蟹は淡水の蟹だが、水気のあるところには、たくさん居た。
今は農薬使用などで、農薬のかかるところでは見かけなくなったが、山手にゆくとたくさん居る。
沢蟹にもいろんな種類があるらしく形、色ともさまざまである。
この歌の背景は、小さな滝らしきものが落ちていて、そのなけなしの飛沫が滴りとなって沢蟹の甲羅をうつ、という叙景である。
しかも時間的には「たそがれ」だから、夕方ということになる。
この歌の一つ前には

天高し視野の限りの京盆地秋あたらしき風の生まるる

という歌が載っている。ここに詠ったような天高い秋の季節が、ようやく訪れようとしている。
私の少年期は、もちろん戦前で、食べるものも、遊ぶものも、今の比ではなく、素朴な自然を相手にするものだった。
この歌は、そんな少年期の思い出を、現在形で歌にしている。
回想にしてしまうと歌が弱くなるので、回想の歌でも現在形にするのが、歌を生き生きさせる秘訣である。
孵化したばかりの小指の爪にも満たない子蟹の誕生など、何とも趣きのあるものである。
少年期の回想シーンを自歌自注しておく。


ある晴れた日につばくらめかへりけり・・・・・・・・・・・・・安住敦
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   ある晴れた日につばくらめかへりけり・・・・・・・・・・・安住敦

日本で夏の間、巣をつくり子を育てていた燕も九月に入ると、大きな川や湖などの葦原などに大集結して南へ海を越えて帰る準備に入る。
京都近郊では、淀川などが集結地となっているようである。何千羽、何万羽という大きな集団である。
この間もツバメは餌になる飛ぶ虫を捕らえなければならないから、そういう条件を備えた場所というと大きな川や湖ということになる。
この渡りは九月から十月にかけて続く。

この渡りを「帰る」と表現するが、日本が生まれ故郷なので「去る」というのがふさわしい、と書かれている本もある。
しかし彼らは南方系の鳥なので、日本は子育ての地とは言え、やはり仮住まいの土地というべく、南へ帰るというのが本当だろう。
「渡り鳥」の大型のものは渡りのルートが、ある程度解明されているが、ツバメのような小型の鳥は何万羽の集団とは言え、渡りが話題になることは少ないようだ。
私自身もツバメの渡りを見たこともない。日本列島を南下し、後は島伝いに南へゆくのであろう。


 ↑ 大村博美の歌う 歌劇「蝶々夫人」から「ある晴れた日に」

掲出した安住敦の句は、歌劇「蝶々夫人」の有名な歌のフレーズ「ある晴れた日に」を踏まえているのは明らかで、そういう連想が、この句をなお一層、趣のあるものにしている。
私は第二歌集『嘉木』(角川書店)の中で

     翔ぶ鳥は群れから個へとはぐれゆき恐らくは海に墜つるもあらむ・・・・・・・・・木村草弥

という歌を作ったことがある。これはツバメその他の「渡り鳥」のことを思って詠ったもので、渡りの途中で多くの鳥が命を落とすことになるのであろう。
俳句でも古来たくさんの句が作られて来た。「燕帰る」「帰燕」「秋燕」などが秋の季語である。単なる「燕」というと春の季語であり、「燕の子」というと夏の季語ということになる。
古句としては

    落日のなかを燕の帰るかな・・・・・・・・与謝蕪村

    乙鳥は妻子揃うて帰るなり・・・・・・・・小林一茶

などが知られているが、一茶の句は年老いるまで妻子を持てなかった一茶の「羨望」の心情を表現しているようである。
以下、明治以後の句を引いて終わる。

 燕の帰りて淋し蔵のあひ・・・・・・・・正岡子規

 いぶしたる炉上の燕かへりけり・・・・・・・・河東碧梧桐

 高浪にかくるる秋のつばめかな・・・・・・・・飯田蛇笏

 やがて帰る燕に妻のやさしさよ・・・・・・・・山口青邨

 身をほそめとぶ帰燕あり月の空・・・・・・・・川端茅舎

 ふる里の古き酒倉秋燕・・・・・・・・・大竹孤愁

 秋燕や靴底に砂欠けつづけ・・・・・・・・加藤楸邨

 去ぬ燕ならん幾度も水に触る・・・・・・・・細見綾子

 ひたすらに飯炊く燕帰る日も・・・・・・・・三橋鷹女

 秋燕に満目懈怠なかりけり・・・・・・・・飯田龍太

 秋つばめ少し辛めの五平餅・・・・・・・・岸田稚魚

 胸を蹴るごとく秋燕かぎりなく・・・・・・・・二枝昭郎

 つばめ去る空も磧も展けつつ・・・・・・・・友岡子郷
 
 海へ向く坂がいくつも秋燕・・・・・・・・田中ひろし


ながむれば心もつきて星あひの空にみちぬる我おもひかな・・・・・・・・・・・・・・・・右京大夫
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   ながむれば心もつきて星あひの
     空にみちぬる我おもひかな・・・・・・・・・・・・・・・・右京大夫


京都市左京区大原草生町(市バス大原下車)の寂光院の境内の裏に、この歌の作者である建礼門院右京大夫の墓と伝えられる五輪の塔がある。
寂光院は、第80代高倉天皇の中宮・建礼門院徳子(平清盛の娘、安徳天皇生母)が、平家滅亡後、晩年に隠棲した寺であり、終焉の地でもある。
『新版・都名所図会』の巻の三に「寂光院は草生村にあり。もと弘法大師の開基にして、文治の頃、建礼門院閑居し給ひしより、今に至り尼寺となる。本尊地蔵菩薩は聖徳太子の御作なり。即ち門院の御影(みえい)、阿波内侍の像あり。庭にはみぎはの池、みぎはの桜あり。」として、後白河法皇が大原御幸のとき詠まれた

    池水に水際(みぎは)の桜ちりしきて浪の花こそさかりなりけれ

その返し歌に女院(建礼門院)が詠まれた

    思ひきや深山の奥にすまひして雲井の月をよそに見んとは

という、共に『平家物語』の歌を紹介している。

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それは文治2年(1186年)加茂の祭の終わった初夏のある日であった。
法皇を迎えた建礼門院は、仏前で、ここ数年の間に自らが体験した六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の有様、先帝の最期などを語り、共に涙で袖を絞られるのであった。
『平家物語』に名高い「大原御幸」のくだりである。
現在は寺は天台宗で、本堂は淀君の寄進と伝えられている。
写真③が長楽寺に安置される建礼門院の坐像である。
Cus10022建礼門院坐像

右京大夫が女院に仕えたのは承安3年(1173年=17歳)から治承2年(1178年=22歳)までの五年間ほどで、女院のもとを辞したのは母・夕霧の病気看護のためである。
晩年、平家滅亡の後、逆境にある女院のために再びお側に仕えたいという意思はあったようだ。

     今や夢昔や夢とまよはれていかに思へどうつつとぞなき

という『右京大夫集』に載る歌の詞書で、大原の里を訪ねたことは知られているが、その後お仕えしたかどうかははっきりしていない。
もし寂光院の裏庭にある五輪の塔の中に右京大夫の墓があるとすれば、死してもなお女院にお仕えしたい彼女のたってもの願いによるものかも知れない。

大原が京都市に編入されたのは昭和24年であるから、女院の歌のように当時は都から隔てられた地、という意識が強かったであろう。
はじめに書いたように建礼門院右京大夫と書かれることが多いが、これは右京大夫が建礼門院にお仕えしていた職務上の身分を付け加えて表記してあるに過ぎず、建礼門院・徳子尼と同じ人物ではないことを留意いただきたい。
写真②の図版(岩波文庫)のように右京大夫は歌人として著名な人ある。
右京大夫の恋の相手としては平重盛の子・資盛、源頼朝の肖像画を描いた藤原隆信などが知られるが、資盛は壇ノ浦の合戦で源氏に敗れ入水して果て、隆信は彼女が49歳のときに亡くなっている。
彼女の中では、若くして死んだ資盛にかけた思いは強く、ただ一人で一周忌法要を営んだことが

     いかにせん我がのちの世はさてもなほ昔のけふをとふ人もがな

という歌と、その前書き(右京大夫集)から知ることが出来る。
恋人を失った彼女にとって、旧主・建礼門院が救出され、都へ戻ってきたことが唯一の慰めだったろうと思われる。たとえ伝説であるとしても、右京大夫の墓が旧主・建礼門院の御陵墓(大原西陵)に近く、寂光院山中にあるというのは、そこを訪れる私たちの心の慰めでもあろうか。
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寂光院は先年、心ない人によって放火され、ご本尊の地蔵菩薩像などが焼けたが、ようやく建物も修復され、ご本尊の像も専門のところで修復されて戻ってきた、と報道されている。
私は、まだ、それを拝観していないが、ご本尊は恐らく、本体はそのまま仏像の体内に残して、表面を新しい部材で修復したのではないか。
報道でも、そういう肝心のことは何も伝えられないので、よく判らない。
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先年放映のNHKの連続ドラマ「義経」では、幼い安徳天皇は、?親王と入れ替わって建礼門院の手元で生きている(すぐ出家されるが)という筋書きになっているが、これは原作者の宮尾登美子の「宮尾本平家物語」が、そういう設定になっているものに基づくもので、あくまでも架空の話で、事実はどうだったのかは判らない。


草弥の詩作品「公家の茶の湯」・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 仁清 色絵藤花茶壺(MOA美術館 蔵)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(25)

       公家の茶の湯・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

茶の湯もまた「結界」を必要とする芸能世界であった。
千利休によって完成された侘び茶は、後水尾院の時代に改めて大きな文化の潮流となる。
日本人が古代より持っていた「宴」という神人共食的な饗応の伝統に茶の湯も組み込まれたために、主客ともに清めの儀式を強いられるような「聖性」を含んでいたのである。
聖なる場で非日常的な行為をするには、日常的な世界との間に厳しい結界が設けられる。
茶の湯では、その結界が「露地」であり、「にじり口」であった。
武家や町衆に流行した茶は、このような露地やにじり口のような市中の山居的な狭隘な場─茶室─に実現されたのだが、
後水尾院をはじめとする公家の茶の湯は、また別の結界を設けた。それが浴竜池のような「池」の結界だった。

寛永二十年(一六四三)三月二十六日、鳳林和尚が後水尾院に仙洞御所で茶を献じた日記がある。
この日は朝から青天白日のよい天気。 先ず茶屋で懐石を院に差し上げた。
部屋飾りは亀山天皇の宸翰を懸け、立花の達人である高雄上人をわざわざ招いて花を入れさせた。
やがて膳が終る。膳が済むと菓子が出る。菓子を食べ終ると客は座を立つ。この休憩を「中立」(なかだち)という。
武家や町衆の茶会では、いったん客は庭に出て待つうちに亭主は座をあらためて茶を点てる準備をするが、この仙洞での茶会ではそのまま、用意してあった舟に乗って舟遊びとなる。
ここで思い出されるのが、先に書いた桂山荘での舟遊びである。やはり書院で切麦などの軽い食事を済ませたのち、池の舟中で菓子を食べ、茶屋に上がって茶となっていた。
仙洞の茶会では菓子をどこで食べたかわからないが、あるいは舟遊びの中で食べた可能性がある。
いずれにしても茶会の中立にあたるときに舟遊びが行われていたことがわかる。
さて舟はどこに着いたのだろうか。仙洞御所の図を見ると、南北に細長い池になっていて、御殿と池を挟んで向い側に茶屋があった。
<御舟より御茶屋にならせられ、すなはち御茶を相催さる>とある。
池を舟でめぐって再び茶屋に上った。濃茶のあと菓子やらいろいろ出て薄茶が重ねられただろう。
侘び茶であればここで茶会は終るのだが、公家の茶には後段として酒宴が続けられた。
日記の記事は続く。<日暮れの後、ようやく後段を出す。御盃出し、御酒を奉る。すなはち各々謡声を発し、乱酒。>
乱雑な雰囲気となって、院はご機嫌で鳳林和尚は天盃を四回も頂戴するという破格のもてなしを受ける。
<仙洞御機嫌能く、竜顔笑みを含められるにより予の満悦浅からざるもの也。>
ついに院は酔いつぶれる。院は、今宵は庚申、いささか羽目を外してもよかろうという。夜ふけて午前二時ころにようやく茶屋から御殿に戻られた。
ほぼ同時代の建築である西本願寺の飛雲閣を見ると、まさにはじめから閣の入り口は池中の舟だけに開かれいて、池の端から舟による彼岸への渡海によって、
会所あり風呂あり、展望台まである飛雲閣に到着する。
内部ではさまざまな接待があり、茶や酒や美膳が用意され、舞踊などの遊びが池を渡ってくる人々をユートピアへ誘い込んだのである。
このような遊楽図屏風的な世界から隔たらない所に院の遊宴、ことに茶の湯の世界もあったと言えよう。
後水尾院の茶の湯好きは徹底していて、鳳林和尚の日記『隔?記』だけでも三十四回以上の詳しい記述があるので、まだまだ多かったと思われる。 
院の茶会の特徴は「掛物」で宸翰は四度登場するがそのうち三回が後鳥羽上皇であった。歌集を見ると後鳥羽上皇を慕う歌が幾首も見出せる。

        <波風を嶋のほかまでおさめてや世を思ふ道に春もきぬらむ>

という歌は寛永八年(一六三一)二月、後鳥羽上皇が流された隠岐の島へ奉納する二十首の歌の中のひとつである。 
嵯峨天皇にはじまり、清和、後鳥羽、後醍醐と続く皇統の系譜が後水尾院の文化を形成せしめる骨格を成していたと言えるだろう。
後鳥羽上皇以上に多用されたのが藤原定家で、江戸時代初頭の定家ブームが、こうしたところにも表れている。
院が茶を誰から学んだかの記録はないが、当時の公家の茶に一番大きな影響を与えたのは金森宗和であった。院も間接ではあったが宗和を信頼する一人であった。
金森家は代々茶の道に詳しく名物茶器も所持する家であったから、宗和はもともと茶人として著名だった。大阪冬の陣に際して父子の間で意見が衝突して母を伴って京へ出奔。
京都御所八幡町という禁裏のすぐ西側に住まいする牢人茶人としての新しい人生を始めたのである。
茶道史の通説では宗和の好みを<姫宗和>という。公家好みの上品で華やかさを持った優雅さが特徴だったようである。彼の茶を愛したのは近衛信尋や一条兼遐だった。
陽明文庫に収蔵される院の手紙に<金森宗和とやらん内者、古筆あつめ候者の手鑑、其外にも短冊も切も所持申し候分、み申し度く候>とあって、両者の深い縁を思わせる。
公家の茶で金森宗和が人気があったのは、彼が竹の茶入の名人だったことも一理だろう。
公家たちは茶の湯で使う竹の茶入を珍重したので、引っ張りだこだった様子が記録に残る。
それとともに近世前期の陶芸史を輝かしいものにした京焼の世界、ことに野々村仁清の焼物であり、特に「錦手」と言われる色彩鮮やかな陶器を生み出し、非凡な造形力の天才的な人物だが、
彼が御室焼と呼ばれる新しい陶芸を始めたとき、いち早く支持者になったのが金森宗和だった。

寛文四年(一六六四)十二月四日に、後水尾院の修学院で、世にいう<修学院焼>が焼き上がった。
いま、その焼き物の遺品を見ると初期京焼独特の優美さと色彩を持ち、仁清と共通するところが強く感じられる。
『隔?記』寛文七年(一六六七)十二月九日の条によれば、修学院焼五点を鳳林和尚は拝領しており、翌年正月十一日には院が修学院焼をいくつも部屋に飾って人々に優劣をつけさせ配分している。
ついに院の山荘の風流は一会の遊興のみならず、新しい陶芸をも含み込むものへと展開したのだ。

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今度も「?」字の個所があるが、前と同じような理由である。
この字は草冠に「冥」が付くものである。 今度も全体が消えなくてよかった。



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