
↑ 沢庵宗彭像

↑ 沢庵 書
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草弥の詩作品<草の領域>
poetic, or not poetic,
that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(23)
紫衣事件・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
紫衣事件(しえじけん)は、江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。
江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とされる。
後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく退位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立であった。
紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。
僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
事件に至る事情
慶長18年(1613年)、幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」を定め、
さらにその2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
一、 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。
向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)
事件の概要
このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。
これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、
京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、
また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。
これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している。
この事件の中心人物である沢庵について少し書いておく。
澤庵 宗彭(たくあん そうほう、天正元年12月1日(1573年12月24日)~ 正保2年12月11日(1646年1月27日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。
大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる1944年に宣下)。号に東海・暮翁など。
但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。
書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある。
生立ち
天正元年12月1日(1573年12月24日)に秋庭綱典の次男として但馬国出石に生まれる。父・綱典は但馬国主山名祐豊の重臣であった。
8歳のとき但馬の守護山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。
沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得た。14歳で同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名した。
天正19年(1591年)、希先西堂が没すると、この間に出石城主となっていた前野長康は、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵も宗忠に師事する事になった。
文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。
薫甫の死後、和泉国堺に出た。堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、慶長9年(1604年)沢庵の法号を得た。
慶長12年(1607年)、沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持した。
慶長14年(1609年)、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。
元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結んだ。名付けて投淵軒という。
紫衣事件
江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなる。
特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。
これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められた。
寛永4年(1627年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。
これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)、東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵を出羽国上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした。
上山藩主の土岐頼行は、流されてきた名僧沢庵の権力に与しない生き方と、「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。
沢庵はここを春雨庵と名づけこよなく愛したといわれている。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇した。
寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。
沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説き、禅で武道の極意を説いた最初の書物である。
沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。
しかし京に帰ることはすぐには許されず、同年冬より駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、寛永11年(1634年)夏までここに留まった。
宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、将軍・徳川家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は家光に謁見した。
この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。
同年、郷里出石に戻ったが、翌年に家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。
寛永16年(1639年)、家光は萬松山東海寺を創建し沢庵を住職とする。
家光は政事に関する相談もたびたび行ったが、これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。
正保元年(1644年)、土岐頼行が東海寺に上山の春雨庵を模した塔中を、沢庵のために建立した。
晩年の沢庵の言動は変節とも、家光に取り込まれたとする説もあるが、最終的には紫衣事件において幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態の大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのである。
正保2年12月11日(1646年1月27日)、沢庵は江戸で没した。
「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡を残しているが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある。
ダイコンの漬物であるいわゆる沢庵漬けは一伝に沢庵が考えたといい、あるいは関西で広く親しまれていたものを沢庵が江戸に広めたともいう。
後者の説によれば、徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際、ダイコンのたくわえ漬を供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したと伝えられるが風聞の域を出ない。
フィクション上では、しばしば宮本武蔵と結び付けられる。
例えば、吉川英治作の小説『宮本武蔵』では武蔵を諭すキーパーソン的な役割を担っているが、史実において武蔵と沢庵和尚の間に接触のあった記録は無い。
(吉川自身も「武蔵と沢庵和尚の出会いは、自身による創作である」と明言している)。
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