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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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浜江順子詩集『闇の割れ目で』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
浜江順子

──新・読書ノート──

     浜江順子詩集『闇の割れ目で』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・思潮社2012/09/25刊・・・・・・・・

新刊の本書を著者から贈呈された。これは著者の第六詩集になる。
はじめに著者の略歴を引いておく。 世界的規模で活躍されている人である。
    
浜江順子 junko hamae
◇明治大学文学部史学地理学科地理学専攻卒業。第13回世界詩人会議(イスラエル・ハイフア)参加後、国際優秀詩人賞、黄金王冠世界詩人賞、MICHAEL MADHUSUDAN賞(VERSE部門)受賞。
イスラエル詩雑誌「VOICES ISRAEL」、韓国詩総合雑誌「文芸思潮」、「自由文学」等に詩掲載。
著書『プールで1,000m泳いだ日』(詩学社)、『内在するカラッポ』、『奇妙な星雲』『去りゆく穂に』『飛行する沈黙』(小熊秀雄賞受賞)。
日本現代詩人会、地球、HOTEL所属。

この詩集の題名になっている詩を引いておく。

       闇の割れ目で・・・・・・・・・・・・浜江順子

          暗い闇の尾を摑むと、また粘着性のある
          薄い闇が続く《ソコニハ林檎ノ芯ガ細力
          ク震エナガラ何カヲ語ッティルダケダ》
          闇もすきずきで風を通す《闇ノ主ハ我ガ
          物顔デ、ソコイラヲ食シ、南瓜ノ種ヲぺ
          ットハク》たとえ真夜中に咲いた人形だ
          って、血を流す《ィツモ血ヲ飲ミ込ムダ
          ケノ人ヲ哀レムナ》眩暈を起こしながら
          ぐっと突入すると、横長の傷の中に少し
          塩辛い水が流れてくる《ソコニ顔ヲ見セ
          ズニソックリ返ッテ座ッタ何者カハ、煙
          草ヲフカシ知性ヲ嚙ムフリヲスル》爛れ
          た指を大地にぼとりと落として、流れる
          水に任す《スべテヲ開ケテ真実ヲ見テク
          レトバカリニ、アタリニ潜ム蝙蝠ハ垂直
          ニ飛ビ去ル》闇の割れ目には眼がぎっし
          り詰まり、青い風にさらされている《死
          ダッテ必死二死夕ラントシテイルノダ》
          闇夜は人を謙虚にさせるというのは本当
          かと問うと、かさこそ葉たちが風に舞い
          嘘をつく《傷ハ表ニハ見エナイガ内部デ
          巣クイ、カラメル状二ナッテイル》遠く
          桜は未だ死んだふりをして、狙いすまし
          たように角を曲がったところに隠れ、そ
          っと春を待っている《人ハイツシカ、人
          デナクナッテシマウ》突然、殴られた横
          っ腹は、薄紫の痣をぴゅうぴゅう摇らし
          ている《トントン、シテモイイデス力》
          寒さを受けて駆け込む駅のトイレの便器
          の割れ目は、やっぱりトントン死んでい
          る《モウ闇ニモ目ガ慣レテ、今日モビラ
          ビラ死ンダフリヲシテイル》暗がりに潜
          む者は、突然転がる石のようにおもしろ
          くなる
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この詩集の中に載る、次の詩を引いておく。

            足舐輪廻

          足のない男が女の足を舐めると、天空の
          青い矢車草がゆっくりと美しいままに枯
          れ、萎んでいく。女の足の小指は流れ、
          流れ、速い風足となる。二人の唾液は死
          液となって、粘り、土くれと絡まる。蛍
          が快感のたびに脳天を巡り、海となる。
          女は男のない足を夢想しながら、男の足
          を舐める。男は足があるかのように悦楽
          すると、死の断片が雪が降り積もるよう
          に、積み重なり、いつしか苦行の行為に
          なっていく。男はない足をまるであるか
          のように伸ばし、毛脛さえ精液と打ち震
          わせ、女の足を舐める。足のホクロが霞
          んで、鳥となり、薄明るい闇を掘る。エ
          クスタシ—は、指先を抑圧させ、過去へ
          の装置をコトリと内在させる。そこは潜
          む蚊を凍らすほどに、情熱の中に氷の刃
          がある。氷の情熱は鉱物となり、緻密な
          理性を欲望に埋め込む。足のない男は、
          ない足ゆえに執拗に女の足を舐め、死へ
          の道に埋まっていく。男は足が舞い戻る
          瞬間の夢を見ながら、ふたたび行為へと
          戻り、さらに地下へと埋まる。男の「足
          が欲しい」という欲求がふつふつと女の
          中で膨張し、爆発しても足はない。どこ
          にもない。男の絶望は月に食われ、細い
          紐状となり、そこから細い褐色の魚とし
          て、輪廻する。魚になった足のない男は
          いまも足のない部分がかゆくて、かゆく
          て、たまらなくなり、突然狂ったように
          笑うのだが、なぜか魚になった男から声
          はまったく聞こえず、鱗だけがにぶく闍
          夜に光り、男のなくなった足がいずこの
          彼方より舞い戻り、薄暗い月夜に宙ぶら
          りんとなって覗く。

             *二〇一〇年映画『キヤタビラ—』 (第六〇回ベルリン国際映画祭銀熊賞
             〈最優秀女優赏〉他受赏)から連想設定
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この詩を引いたのには理由がある。 この詩の初出誌を見た谷内修三の批評があるからである。
それは、下記に。

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
浜江順子「足舐輪廻」、野村喜和夫「眩暈原論(その4)」ほか(「hotel 第2章」26、2011年01月10日発行)


 「hotel 第2章」26では「エロス」を特集している。あ、なつかしい。これが同人誌だなあ、と思う。ことばを競ってみる。こんなふうにことばを動かせるんだぞ、と思ってもいないことを書いてみる。思ってもいないことを書いていても、どこかに「ほんとう」があらわれてくる。--か、どうかは、まあ、そのときの運次第だね。
 その特集のなかでは、浜江順子「足舐輪廻」がおもしろかった。

女は男のない足を夢想しながら、男の足を舐める。男は足があるかのように悦楽すると、死の断片が雪が降り積もるように、積み重なり、いつしか苦行の行為になっていく。

 笑ってしまったのである。おもしろくて。おかしくて。
 できることなら、「女は男のない足を夢想しながら、男の足を舐める。」ではなくて「女は男のない足を舐める。」と「夢想しながら」をやめてもらいたかったなあ。「夢想しながら」だと、想像力が肉体を動かしていく。想像力が「エロス」を駆り立てながら肉体を動かしていく。
 でも、これが浜江のいつものセックスなんだろうなあと思った。ちょっと「のぞき見」をしてしまったような錯覚に陥るのである。
 男の方も、「足があるかのように悦楽する」のか。
 女が「夢想」し、男が「装う」。
 そして、男にはその「装い」(うそをつくこと--肉体をかりたてること)が「苦行」である。それを女は、「あ、苦行をやっている」と感じてしまう。
 ケッサクだなあ。

 私の感じでは「女は男のない足を舐める。」と書いてしまうと、「想像しながら」ということばは「肉体」のなかにのみこまれ、消える。そして、肉体が想像力を封じ込めることによって、想像力が暴走すると思うのだ。想像力が肉体のなかで、ことばにならずに爆発するのだと思う。エクスタシーだね。
 女ではないので、女のことはわからないが、射精すまいと思っても射精してしまうのが男のエクスタシーだね。ここで射精すると思いながら射精するなんて、そんなことをしたって、なんにもならない。うまい具合に射精の瞬間をコントロールできた--なんていうのはばかばかしい自己満足。相手なんか気にせずに暴走すればいい。そうすれば、相手だって、負けまいと思って暴走する。互いに自分ではなくなってしまう。知らない他人になってしまう。それがエロスだろうなあ。
 射精すまい、堪えようと思って、それでも射精してしまう。このとき、裏切っているのは肉体? それとも感情? わからない。このわからなさのなかにこそ、「ほんとう」があるのだと思うけれど、--こんなところで、私自身のエロス論を書いてもしようがないかもしれない。
 浜江の詩のつづき。

エクスタシーは、指先を抑圧させ、過去への装置をコトリと内在させる。そこは潜む蚊を凍らすほどに、情熱の中に氷の刃がある。氷の情熱は鉱物となり、緻密な理性を欲望に埋め込む。

 「情熱の中に氷の刃」、「氷の情熱」--この矛盾に、エロスがある、と浜江は書く。たしかに矛盾の中にエロスはあると思うけれど、そこに書かれていることは、あまりにも「ことば」すぎる。「頭」でつかみとってきた「エロス」だね、これは。「抑圧」「装置」「緻密な理性」「欲望」。--こういう「ことば」って、セックスのとき思い浮かぶ? 思い浮かばないなあ。そういうことばは「肉体」のなから生まれてきた「声」には乗らない。あえぎで、つまり、母音だけで、抑圧、装置、緻密な理性、欲望と言ってみるとわかる。「頭」がよそから借りてきたことばなので、「声」にならないのだ。
 ここには、浜江のセックスの夢、かなえられないエロスが書かれている。それを書くために、浜江は、ことばをどこかから借りてきている。そういう印象が残る作品である。
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ネット上で、下記のような記事を見つけたので引いておく。

第2回シンポジウム「詩型の融合」について・・・・・・・・・・・浜江順子

現代詩の森はさらに深い。

 2012年3月3日(土)、詩歌梁山泊~三詩型交流企画 第2回シンポジウム「詩型の融合」が日本出版クラブ会館「鳳凰」の間で行われた。いまいち詩人の参加が少ないという感はいなめなかったが、会場は歌人、俳人など大勢詰めかけ、今回も盛況であった。

 一部の藤井貞和氏の基調講演は東日本大震災後の詩、短歌、俳句にダイナミックな論考を加え、興味深いものだった。それを受けて、二部は、森川雅美氏の司会により、詩人の藤井貞和氏、歌人の江田浩司氏、歌人の笹公人氏、俳人の対馬康子氏、俳人の筑紫磐井氏により、震災後の三詩型だけでなく、幅広く各ジャンルを超えた活発な意見が交わされた。

 ここでは、恐縮だが私の興味のアンテナに引っかかったものだけで、述べてみたいと思う。現代詩、短歌、俳句の融合について講演後半の藤井貞和氏の説明は、私には遅まきながらまさに目からウロコに近いといっていいほど勉強になった。現代詩、短歌、俳句を定型詩か、音数律か、自由詩か、口語詩か、日本語かに分け、それぞれ○、×、△をつけた表は、実に興味深い。『おっ、現代詩は日本語かで、×ということは、現代詩は日本語じゃないのか! やっぱりな』などなど。現代詩はもちろん、定型詩のところには×がついているが、氏は現代詩においても、型は避けて通れないという。つまり、型をつくりながら、型を壊していく。これは、短歌、俳句ともに同じだと論ずる。これは、藤井貞和氏は『自由詩学』(思潮社)で、述べている。“口語自由詩は自由である。混沌やオジヤどころか、何を書いてもよく、どう書いてもよいのだから、口語のなかに文語ぐらいは、平気でふくむし、短歌も俳句も堂々と自由詩であり、七五調だろうが、ソネットだろうが、自由詩としてあり、もろもろの短詩型文学は全部自由詩のためにあるのであり、押韻定型だって、必要とあるなら自由詩はやってのける“に通じる。

 二部のディスカッションでもおもしろいと思った発言についてだけ取り上げてみると、歌人の江田浩司氏が歌人の玉城徹氏が「詩は日本語では書けない」と言っていたことを述べたことだ。これは藤井貞和氏の先の表で述べた「現代詩は、日本語ではない」というものと、まさに通じるものとして、興味深く感じた。ちなみに、玉城先生は私が都立多摩高校時代三年間、「現代国語」を習った恩師である。江田氏からさらに「玉城徹氏が詩から短歌に入っていった」というのも、私はここで初めて聞き、『あゝ、それでか」と大いに納得することがあった。それは高校で歌人の玉城先生(といっても当時の私は文学にはほぼ無関心の一高校生であり、先生も生徒には歌人であることは伏せており、先生が歌人であることなどまったく知らなかった)に「現代国語」を習っている時、先生は進学校でなかったこともあってか、教科書の内、詩のところを一年間の半分以上かけて、詩のひとつ、ひとつの解説を極めて丁寧にやり、他の残りの部分はサッとこなすという感じだった。いま思えば、先生はやはり詩にまだ多くの興味を残していたのだろう。ただ、私が先生と中央線で偶然に会った時に「詩をやっています」と言ったら、「詩はむずかしくって、わからない」とトボけていたが。なお、余談になるが、今回のシンポジウムに玉城徹先生のご子息である、短歌総合紙・月刊「うた新聞」を編集発行している玉城入野氏も来ているのを、受付の名簿で偶然発見!入野氏のことは野村喜和夫氏から少し聞いていたが、一度もお会いしたことはなかったが、一部と二部の間の休憩時間に階段から上がってくるなんとなく入野氏ではないかと思える人物を発見。先生と顔はあまり似ていなかったが、痩せて背が高いところと、全体の雰囲気がなんとなく通じるものがあり、分かった。私は先生の亡くなる一年前に小熊秀雄賞の受賞報告をしにお会いしたことなどをしゃべり、すぐにお別れしたが、『会えてよかった』という思いでいっぱいになった。

 詩をやるものとして、今回の「詩型の融合」のシンポジウムは、現代詩の奥深いその背景と、短歌、俳句との広がりを改めて感じるものであり、これから

詩の森にさらに踏み入る者として、そのスタンスを確認できただけでも、大きな収穫であった。そして、それは藤井貞和氏が現代詩は日本語ではないとしながらも『自由詩学』(思潮社)で述べているように、“詩の言語は意味を手ばなしてはならない、と強調する必要があるかもしれない。意味のフロアーがどんなにうすっぺらく、ふみやぶってしまいそうでも、意味にとどまってそれを輝かせること。意味のフロアーのさきに、降りてゆくためのエレベーターがいりぐちをひらいても、乗りこんではならないこと”は、「現代詩は日本語ではない」と定義したことの氏一流の両義性として、私の胸にズーンと響いてくるのだ。これは「詩論へ」④(首都大学東京 現代詩センター 2012・2)における「響かえば、詩と歌と」の中で、アヴァンギャルド詩の道程など伝統を踏まえながら、短歌などを含め、論ずる藤井氏の詩論を鑑みる時、さらに奥深い論として我々の前に提示されているのだと思わざるをえない。

 こうした藤井貞和氏の詩論はもちろん、自身の詩作においても実践されている。例えば、『春楡の木』(思潮社刊)(第3回鮎川信夫賞、第62回芸術選奨文部科学大臣賞受賞)で、私が深く感銘した詩、「暁」においても見ることができる。五連目の“暁に別れて、うらみの強度はしなやかに、/十分に、耐えられる枕のふかふかや、/なにもないことの露を、/起きて別れる袖のうえ、ぐっしょりと敷いている。(睡魔)/”そして、最後の“(うらめしや。別れの道にちぎりおきて、なべて露おくあかつきの空〈藤原定家〉)”などを見ると、まさに詩、短歌などを縦横に行き来しながらも、詩を軽やか、かつ大胆に表現している氏の詩論の実践の極みをそこに見ることができるのである。
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ここに見られるように、浜江順子は作・論両面にわたって秀でている。
よく現代詩作家に見られるような、伝統的な「定型」拒否反応も無いようである。
私が定型詩を手がけているせいでもないが、これは嬉しいことである。
今回は私の鑑賞は省いて、他者の文章を紹介して、恵贈の御礼に代えたい。
この詩集のことは図版に見られるように「帯」の入沢康夫の要約に尽きる。
現代詩とは、こういうものである、というお手本のようなものである。 いかがだろうか。
なお原本の「闇の割れ目で」の部分は金文字で刷られている。スキャナでは再現できなかった。 念のため。

一つだけ「瑕疵」を見つけたので指摘しておく。
夜風妖譚という文語・旧かなづかいの詩があるが、その中のはじめから、二行目から三行目にかけての
    ①<生まれり>の部分の、助動詞<り>の接続は誤りです。
     正しくは<生まれり><生まれ>などとする必要があります。
この過去、完了の助動詞<り>の接続は、古文あるいは国文学専攻ではない人に多い誤用で、歌人でも選者などと威張っている人などにも見られます。
過去、完了の助動詞には幾つもあるが、「つ」「ぬ」「たり」「り」「き」「けり」など、それぞれ接続する動詞には決まりがあるからである。
    ②37ページ終わりから六行目<いう噂>→<いふ噂>
    ③38ページ前から四行目<恥じ>→<恥ぢ>
    ④  〃    五行目<いっさい>→<いつさい> 旧かなは「促音」「拗音」「吃音」などは表示しない。
旧かな、文語は手ごわいもので、見くびらないようにお願いしたい。詳しくは「古語辞典」で確認を。
老婆心ながら敢えて指摘しておきます。 どうかお許しを。

(お断り)
詩の部分はスキャナで取り込んだので、どうしても文字化けが生じる。子細に修正したが、もしあれば指摘してください。直します。


あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな・・・・・・・・・・・・・・・和泉式部
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──<恋>の歌鑑賞──

   あらざらむこの世のほかの思ひ出に
        いまひとたびのあふこともがな・・・・・・・・・・・・・・・和泉式部


『後拾遺集』巻13・恋に「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける 和泉式部」として見える歌で、病のため不安を感じ、ある男性に送った歌なのだが、
何よりも『百人一首』中の名歌として、あまねく知られている。

歌の意味は「自分は病気が重くなって、命は長くないかも知れない。「この世のほか」である「あの世」に移ってからの思い出のために、せめてもう一度あなたにお会いしたい、会ってください、ぜひとも」との思いをこめて男に贈った歌である。贈られた相手が誰であるかは判らない。
図版は狩野探幽が描いた百人一首のための和泉式部像である。
izumi和泉式部画探幽

和泉式部は23歳で和泉守(いずみのかみ)橘道貞と結婚し、翌年には娘・小式部をもうけたが、道貞が仕える太皇太后宮(冷泉帝皇后)が病気療養の「方たがえ」のため、太皇太后宮の権大進でもあった道貞の家に移り、そのままそこで崩御されたことから式部の運命は狂った。太皇太后宮のもとへ、異母子の為尊親王(冷泉帝第三皇子)が見舞いに訪れるうち道貞の妻・式部と知るところとなったためだ。親王22歳、式部は27歳くらいだったらしい。この情事はたちまち評判になった。道貞は妻を離別し、式部の父も怒り悲しんで娘を勘当する。ところが、為尊親王は24歳で夭折される。式部は悲嘆にくれるが、運命は彼女のために更に数奇な筋書きを用意していた。亡き親王の弟・帥宮敦道(そちのみやあつみち)親王が新たに式部に言い寄り、彼女もまもなくその恋を受け入れたからである。当時、敦道親王は23歳、式部は30歳くらいだったらしい。親王はすでに結婚していたが、年上の恋多き女・和泉式部にうつつをぬかし、彼女を自邸の一角に移り住まわせる。親王の妃は屈辱に耐えず邸を去った。年若い男の恋の激しさは異常なもので、式部の方も、この眉目秀麗な皇子を深く愛した。
しかし式部はこれほどの仲だった敦道親王にも、4年あまり後に先立たれる。式部は悲しみの底から恋の尽きせぬ思い出によって染めあげられた悲歌を124首にものぼる多くの歌を詠んだ。

     捨て果てむと思ふさへこそ悲しけれ君に馴れにしわが身と思へば

     鳴けや鳴けわが諸(もろ)声に呼子鳥呼ばば答へて帰り来(く)ばかり

     たぐひなく悲しきものは今はとて待たぬ夕のながめなりけり

だが、このような深い嘆きを詠いながらも、彼女は男に寄り添わねば居られなかったし、男たちもまた言い寄ったらしい。女として、よほど魅力があったのだろう。
一条天皇の中宮・彰子に仕えたのはその後のことだった。紫式部、赤染衛門らも同僚であった。
ある日、中宮の父・藤原道長が、彼女の扇に戯れに「うかれ女(め)の扇」と書いたことがあった。
平安朝の、一種、自由恋愛過剰とも言うべき時代ではあっても、時めく権力者から「うかれ女」の異名を奉られるのはよほどのことで、彼女の生き方が周囲からどれほどかけ離れていたかを鮮明に示すエピソードだろう。

     枕だに知らねばいはじ見しままに君語るなよ春の夜の夢

この歌は、彼女が予想もしない時に言い寄られ、枕さえない場所で「春の夜の夢」のように短い、しかし激しい逢引をした後、男に贈った歌だ、と窪田空穂は解釈している。
醜聞を嫌って「君語るなよ」と言わずにおられなかったほどの情事であり、また思いがけない相手であったと思われる。
しかし、そのように男から男へ遍歴を重ねても、彼女の生の渇きそのものだったと言えるほどの十全な恋への夢は、満たされることがなかったようだ。
恋によって傷つき、その傷を癒そうとして新たな恋に走る。得体の知れない苛立ちのような不安が、和泉式部の歌の中で、暗い命のほむらとなって燃えているように見える。
そういう意味で、次の有名な歌は和泉式部の心の本質的な暗さを象徴しているような歌である。男に忘れられて、鞍馬の貴船神社に詣でたときに作ったものという。

     もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る

古代以来のものの考え方からすると、魂が肉体を遊離することは「死」を意味する。
和泉式部は恋を失うことが、そのまま自らの死を意味するほどの激しさで、恋に生の完全な充足を求めた女性だったらしい。しかし、現実には、そのような要求に応え得る男は居なかった。
恋に身を焼かれながら、ついに魂の満たされることのなかった彼女の叫び──それが彼女の歌である。

     如何にせむ如何にかすべき世の中を背けば悲し住めば住み憂し

     とことはにあはれあはれは尽すとも心にかなふものか命は

この引き裂かれた心の嘆きは、遠い平安朝の女の歌とは思えない現実感をもって私たちに迫ってくるものがある。


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