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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「公家の茶の湯」・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
525px-NINSEI_Wisteria_TeaJar_MOA仁清 色絵藤花茶壺
 ↑ 仁清 色絵藤花茶壺(MOA美術館 蔵)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(25)

       公家の茶の湯・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

茶の湯もまた「結界」を必要とする芸能世界であった。
千利休によって完成された侘び茶は、後水尾院の時代に改めて大きな文化の潮流となる。
日本人が古代より持っていた「宴」という神人共食的な饗応の伝統に茶の湯も組み込まれたために、主客ともに清めの儀式を強いられるような「聖性」を含んでいたのである。
聖なる場で非日常的な行為をするには、日常的な世界との間に厳しい結界が設けられる。
茶の湯では、その結界が「露地」であり、「にじり口」であった。
武家や町衆に流行した茶は、このような露地やにじり口のような市中の山居的な狭隘な場─茶室─に実現されたのだが、
後水尾院をはじめとする公家の茶の湯は、また別の結界を設けた。それが浴竜池のような「池」の結界だった。

寛永二十年(一六四三)三月二十六日、鳳林和尚が後水尾院に仙洞御所で茶を献じた日記がある。
この日は朝から青天白日のよい天気。 先ず茶屋で懐石を院に差し上げた。
部屋飾りは亀山天皇の宸翰を懸け、立花の達人である高雄上人をわざわざ招いて花を入れさせた。
やがて膳が終る。膳が済むと菓子が出る。菓子を食べ終ると客は座を立つ。この休憩を「中立」(なかだち)という。
武家や町衆の茶会では、いったん客は庭に出て待つうちに亭主は座をあらためて茶を点てる準備をするが、この仙洞での茶会ではそのまま、用意してあった舟に乗って舟遊びとなる。
ここで思い出されるのが、先に書いた桂山荘での舟遊びである。やはり書院で切麦などの軽い食事を済ませたのち、池の舟中で菓子を食べ、茶屋に上がって茶となっていた。
仙洞の茶会では菓子をどこで食べたかわからないが、あるいは舟遊びの中で食べた可能性がある。
いずれにしても茶会の中立にあたるときに舟遊びが行われていたことがわかる。
さて舟はどこに着いたのだろうか。仙洞御所の図を見ると、南北に細長い池になっていて、御殿と池を挟んで向い側に茶屋があった。
<御舟より御茶屋にならせられ、すなはち御茶を相催さる>とある。
池を舟でめぐって再び茶屋に上った。濃茶のあと菓子やらいろいろ出て薄茶が重ねられただろう。
侘び茶であればここで茶会は終るのだが、公家の茶には後段として酒宴が続けられた。
日記の記事は続く。<日暮れの後、ようやく後段を出す。御盃出し、御酒を奉る。すなはち各々謡声を発し、乱酒。>
乱雑な雰囲気となって、院はご機嫌で鳳林和尚は天盃を四回も頂戴するという破格のもてなしを受ける。
<仙洞御機嫌能く、竜顔笑みを含められるにより予の満悦浅からざるもの也。>
ついに院は酔いつぶれる。院は、今宵は庚申、いささか羽目を外してもよかろうという。夜ふけて午前二時ころにようやく茶屋から御殿に戻られた。
ほぼ同時代の建築である西本願寺の飛雲閣を見ると、まさにはじめから閣の入り口は池中の舟だけに開かれいて、池の端から舟による彼岸への渡海によって、
会所あり風呂あり、展望台まである飛雲閣に到着する。
内部ではさまざまな接待があり、茶や酒や美膳が用意され、舞踊などの遊びが池を渡ってくる人々をユートピアへ誘い込んだのである。
このような遊楽図屏風的な世界から隔たらない所に院の遊宴、ことに茶の湯の世界もあったと言えよう。
後水尾院の茶の湯好きは徹底していて、鳳林和尚の日記『隔?記』だけでも三十四回以上の詳しい記述があるので、まだまだ多かったと思われる。 
院の茶会の特徴は「掛物」で宸翰は四度登場するがそのうち三回が後鳥羽上皇であった。歌集を見ると後鳥羽上皇を慕う歌が幾首も見出せる。

        <波風を嶋のほかまでおさめてや世を思ふ道に春もきぬらむ>

という歌は寛永八年(一六三一)二月、後鳥羽上皇が流された隠岐の島へ奉納する二十首の歌の中のひとつである。 
嵯峨天皇にはじまり、清和、後鳥羽、後醍醐と続く皇統の系譜が後水尾院の文化を形成せしめる骨格を成していたと言えるだろう。
後鳥羽上皇以上に多用されたのが藤原定家で、江戸時代初頭の定家ブームが、こうしたところにも表れている。
院が茶を誰から学んだかの記録はないが、当時の公家の茶に一番大きな影響を与えたのは金森宗和であった。院も間接ではあったが宗和を信頼する一人であった。
金森家は代々茶の道に詳しく名物茶器も所持する家であったから、宗和はもともと茶人として著名だった。大阪冬の陣に際して父子の間で意見が衝突して母を伴って京へ出奔。
京都御所八幡町という禁裏のすぐ西側に住まいする牢人茶人としての新しい人生を始めたのである。
茶道史の通説では宗和の好みを<姫宗和>という。公家好みの上品で華やかさを持った優雅さが特徴だったようである。彼の茶を愛したのは近衛信尋や一条兼遐だった。
陽明文庫に収蔵される院の手紙に<金森宗和とやらん内者、古筆あつめ候者の手鑑、其外にも短冊も切も所持申し候分、み申し度く候>とあって、両者の深い縁を思わせる。
公家の茶で金森宗和が人気があったのは、彼が竹の茶入の名人だったことも一理だろう。
公家たちは茶の湯で使う竹の茶入を珍重したので、引っ張りだこだった様子が記録に残る。
それとともに近世前期の陶芸史を輝かしいものにした京焼の世界、ことに野々村仁清の焼物であり、特に「錦手」と言われる色彩鮮やかな陶器を生み出し、非凡な造形力の天才的な人物だが、
彼が御室焼と呼ばれる新しい陶芸を始めたとき、いち早く支持者になったのが金森宗和だった。

寛文四年(一六六四)十二月四日に、後水尾院の修学院で、世にいう<修学院焼>が焼き上がった。
いま、その焼き物の遺品を見ると初期京焼独特の優美さと色彩を持ち、仁清と共通するところが強く感じられる。
『隔?記』寛文七年(一六六七)十二月九日の条によれば、修学院焼五点を鳳林和尚は拝領しており、翌年正月十一日には院が修学院焼をいくつも部屋に飾って人々に優劣をつけさせ配分している。
ついに院の山荘の風流は一会の遊興のみならず、新しい陶芸をも含み込むものへと展開したのだ。

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今度も「?」字の個所があるが、前と同じような理由である。
この字は草冠に「冥」が付くものである。 今度も全体が消えなくてよかった。



才媛になぞらへし木の実ぞ雨ふればむらさきしきぶの紫みだら・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    才媛(さいゑん)になぞらへし木の実ぞ雨ふれば
         むらさきしきぶの紫みだら・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので秋の花のところにまとめてある。自選50首にも入れてあるので、Web上でもご覧いただける。

この木はクマツヅラ科の落葉低木で、高さは2~3メートル。同類にコムラサキなどの低くて、実も小粒のものがある。
園芸種には、この手のものが多い。
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俳句にも、よく詠まれているので引いて終る。

 冷たしや式部の名持つ実のむらさき・・・・・・・・・・・・長谷川かな女

 うち綴り紫式部こぼれける・・・・・・・・・・・・後藤夜半

 倖あれと友が掌に置く実むらさき・・・・・・・・・・・・石田あき子

 胸焦がすほどの詩欲し実むらさき・・・・・・・・・・・・小沢克己

 室の津の歌ひ女の哀実むらさき・・・・・・・・・・・・志摩知子

 むらさきしきぶかざせば空とまぎれけり・・・・・・・・・・・・草間時彦

 鑑真の寺の紫式部かな・・・・・・・・・・・・角川春樹

 地の冷えの色に出でてや実紫・・・・・・・・・・・・林 翔

 その奥に一系の墓所実むらさき・・・・・・・・・・・・北さとり

 実むらさきいよいよものをいはず暮れ・・・・・・・・・・・・菊池一雄

 眼(まなこ)よりこぼれて紫式部かな・・・・・・・・・・・・鈴木鷹夫

 式部の実いくさは人を隔てたり・・・・・・・・・・・・東海すず

 式部の実日あたれる珠あたらぬ珠・・・・・・・・・・・・田中千里
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