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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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島が月の鯨となって青い夜の水平・・・・・・・・・・・・・・荻原井泉水
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     島が月の鯨となって青い夜の水平・・・・・・・・・・・・・・荻原井泉水

自由律俳句の先駆者である荻原井泉水の、この句に初めて触れたのは、私の少年時代であり、亡長兄の蔵書で彼の句集を見たときである。
彼の経歴を、先ずお見せする。
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 荻原井泉水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい)1884年6月16日(明治17年) ~ 1976年5月20日(昭和51年))日本の俳人。本名・幾太郎のち藤吉。

経歴
東京府芝神明町(現・東京都港区浜松町)で雑貨商・新田屋を営む荻原藤吉の3番目の子として生まれる。
長男・長女を幼くして失ったため、延命地蔵で占ったところ「今度生まれる子は男の子であるから、幾太郎と名づけよ。必ず長命する。」というお告げがあり幾太郎と名づけられる。荻原家は家督を継ぐものは代々藤吉を名乗ることとなっており井泉水もこれを継いだが、幾太郎の名を好んだようだ。

麻布中学の頃より俳句を作り始める。正則中学、第一高等学校(一高)を経て、明治41年(1908年)東京帝国大学文学部言語学科卒業。明治44年(1911年)新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰。河東碧梧桐もこれに加わる。この年、桂子と結婚。大正3年(1912年)、自由律俳句として層雲より創刊した初の句集『自然の扉』を刊行。大正4年(1913年)季語無用を主張し、自然のリズムを尊重した無季自由律俳句を提唱した井泉水と意見を異にした碧梧桐が層雲を去る。この頃、一高時代の同窓であり1歳年下の尾崎放哉や、種田山頭火が層雲に加わる。しかし彼らが実際に面会したことはなかった。

大正12年(1923年)妻・桂子死去。また同年、母も死去し、京都に転居。昭和4年(1929年)寿子と再婚。翌昭和5年(1930年)、長男海一誕生。昭和40年(1965年)日本芸術院会員となる。昭和51年5月20日死去。享年91と、門弟の放哉や山頭火と違い、延命地蔵のお告げ通り、天寿を全うした。

なお、俳号は当初、荻原幾太郎のイニシャルから愛桜(あいおう)としていたが、生年の納音(なっちん)から井泉水と改めた。因みに、山頭火も井泉水に倣い俳号を納音から付けたが、これは本人の生まれ年からでなく単に音の響きが良いので決めたようだ。

代表著作

句集
『湧出もの』(1920年)
『流転しつつ』(1924年)
『無所在』(1935年)
『金砂子』(1946年)
『原泉』(1960年)
『長流』(1964年)

評論
『山頭火を語る』
『放哉という男』
『一茶随想』
など
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先にも書いた通り私が彼の句に触れたのは少年の頃であり、彼の句集も次兄の蔵書になってしまったから、いま私の手元にはないので、掲出句のほかには引用出来ない。
ネット上に載る記事を以下に引いておくが、これらの句が彼の代表作であるとは、私には思えないが仕方がない。
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荻原井泉水の俳句

秀句とその鑑賞

 佛を信ず麦の穂の青きしんじつ

「佛を信ず」に思い至らす麦の穂の青さ。季感の把握が的確。一粒
の麦から育ち、青い穂に幾多の実を結ぶ。麦の穂の、先ずは形とな
っと青さに佛の一途さを見たのであろうか。麦の穂の青さが訴える
強い印象に佛性が象徴される。 (高橋正子)

 力一ぱいに泣く児と啼く鶏との朝

 空を歩む朗々と月ひとり

 石のしたしさよしぐれけり

 南無観世音杉間より散るは櫻よ


萩原井泉水、日田を詠む

 行く水日永し遠山水いろに暮れていく

 水音水棹の石にふれる音の暗く涼しく

 灯して灯のうつる水を水上へとる

 更けて月はと思う涼しすぎるへさきをめぐらす 

 今は流れに放ちたる舟の舟灯との棹

 山は日を入れて水のひろびろとあるヤナ番

 手からはねてヤナにはねる鮎を手にする

 闇を一つの灯が鵜のはしに鮎がいる

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 井泉水講演から

フォーラムへのコメント

「写生」という言葉が出てきましたので、小豆島で発見された井泉水講演の記録から取り上げてみます。これは昭和初期のころ、井泉水が小豆島で行った講演を伊東俊二が筆記したもので、提供は井上泰好さんです。長文ですから、2、3回に分けてアップします。

「子規は写生主義の主張には非常に真剣で、命を打ちこんで句作に没入したので

ありましたが、晩年になって病床六尺に捕らわれてしまい、自然に接する機会が

無くなったが為に、その句も遺憾ながら新鮮味を欠くようになってしまいました。

その時、周囲の人が子規に頼ってばかりいないで、写生ということを一層深く

掘り下げて研究して、もっと気張ればよかったのですが、そのことをしなかった

が為に写生主義が一つの新しい袋小路に迷い込んでしまいました。

(ここで4句実例を上げてありますが、1例だけ取り上げます)

 職業のわからぬ家や枇杷の花

こういう句になると、句を作る人と否とでその味わい方も異なってきますが、

この句の勘所は、あまり美しくないボヤッとした感じの枇杷の花と、職業のわか

らない家というものを、くっつけたものなのです。こんな句は写生して出来たの

ではなくて机の上で作ったということが直ぐに判ります。枇杷の花と職業の判ら

ぬ家を取り合わせたところに手品のたねがあるのです。病床にばかりいた子規の

晩年は実際に見て作ったと見せかけるようにだんだんなりました。

そういう風になると、味わう上にも写生そのままの句は面白味が無く、こしら

えた句が面白い、物心一如という気持からではなくて、句として面白いのがいい

ということになってきました。

前にも言ったように、俳句は俳句であればいいのではありません。精神がなけ

ればいけないのです。ところが子規の晩年は真精神から一歩退いたものでありま

す。

今日のホトトギスの人達の句の作り方は子規の跡を継いだもので、写生主義を

根本として題による作り方しています。子規が亡くなってから三十年も経

った今も子規の晩年の頃(明治三十五年頃)もちっとも相違がありません。何故

そうであるのか、それは、俳句を題で作ることを、子規が勧めたことが原因であ

るのです。

昔も全然題詠をしなかったのでもありませんが、元禄時代には、今日のような

題ではなく、「山によせて」とかいう風な和歌で出すような題で作ったものでし

た。子規が連句は文学でないといって止めてしまってから、大勢集まった俳句の

会のときに題を出すようになったのです。」

 

承前、これは井泉水が小豆島で行った講演を伊東俊二が筆記したものです。仮名遣いは現代風にしました。
 

「その頃俳句会を運座と言いました。旧派の方でもよくやりますが、運座という

のはたとえば、十人ばかりの人が寄ったとしますと封筒を十枚用意して各人に一

枚ずつ渡し、各人が好きな題を、牡丹なら牡丹、或いは時鳥とか若葉とか書いて

次へ回す。次の人は麦なら麦と書く、こうして隣から隣へと回します。
 

その中には滋養食だとか鍋祭りだとか、ちょっと解らないような題を出して人

を困らせるというような悪戯をする者もあったりします。

鍋祭りというのは近江の国の津久摩神社の祭礼のことなのですが、そのお祭り

には、里の女が婚家の数によって鍋の数を増して頭にいただいて神幸に従う、奇

習があります。それが珍しい風俗なので俳句の題になっているのですが、一茶な

ども、「今一度婆もかぶらんつくま鍋」と・・・こんな句を作ったりしています。
 

運座ではどんな題が回って来てもそれには必ず一句を詠まねばならない掟にな

っていますので、隣から回ってきた題が難しいと困るわけです。

それで懐に忍ばせている季寄せや歳時記などをそっと取り出して、俄か勉強を

して十七字にまとめて出すようなことをします。
 

私もその頃、運座の句会に好んで出歩いた頃は、歳時記を片っ端から読んで、

題に出るものの意味や趣味を研究したものです。
 

子規に夏木立十句とかいうものがありますが、一題十句といって一つの題でた

くさんの句を作る、そういう風な作り方もしたものです。
 

こうなると、自然面白そうにこしらえて行くようにならざるを得ないことにな

り、写生主義の真実の建前を通すことが難しくなりました。写生俳句が行詰まっ

たのはこの為であります。」(つづく)

 
承前、
 

「それから、句の形が、五七五を離れたら俳句でないということを鉄則として

いた為に行詰まらざるを得ないわけなのです。
 

難しく言いますと、数学のパーミテーション(錯列法)によって数えてみても、

僅か十七字に過ぎない俳句の数は決まった数でしかないのです。例えば、時鳥の

題ならば、ホトトギスで五字とられますからあとは十二字です。十二字でホトト

ギスらしい事を詠もうとしたところで、人の想像にも、物にも限りがあるのです

が、そうそう良い句が限りなく出来る筈はないのです。
 

俳句が十七字の物とすると俳句の全数はパーミテーションの式による四十八字

の十七乗という限られた一定の数になります。その中には、いろはの並んでいる

ものもありましょうし、勿論、俳句として価値のないものも込めての数でありま

す。
 

俳句が一升のものとすると、元禄時代に三合、天明時代に三合、明治時代に三

合出てしまって、あと一合だけしか残っていないのだ・・・・と、ある人が言いまし

たが、ちょうど小豆島の水不足のようなもので・・・俳句の行詰まりは数学的の運

命なのです。」

 

このあと、子規晩年の作品から新鮮味を失った経過、さらに新傾向俳句運動、野村朱鱗洞の紹介と続きますが、いちおうここまでとします。
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「短歌」の世界でも同じだが、俳句の世界でも「自由律」というと、定型を墨守する連中からは毛嫌いされている。
戦争中は自由律は弾圧されたので、彼もすっかり逼塞してしまったようである。
先にも書いたように私は「詩」を書いていたので、そんな定型云々ということは何ら気にならなかった。
当時は、この句以外にもいくつか覚えていたのだが、今では、この句以外は忘れてしまった。
平井照敏編「現代の俳句」(1993年講談社学術文庫刊)にも彼は含まれていない。
種田山頭火や尾崎放哉は収録されているのに残念である。彼の句集などが手に入れば後日に書きたい。
なお、彼のペンネーム「井泉水」が納音から付けられた、とあるが「納音」とは少し詳しい「暦」なら載っているので参照されたい。
念のために下記にネット上に載る資料を転載しておく。
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納音
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

納音(なっちん)とは、六十干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用して、木・火・土・金・水の五行に分類し、さらに形容詞を付けて30に分類したもの。生れ年の納音によってその人の運命を判断する。

荻原井泉水、種田山頭火などはこの納音から俳号をつけた。

海中金 かいちゅうきん 甲子・乙丑
爐中火 ろちゅうか 丙寅・丁卯
大林木 たいりんぼく 戊辰・己巳
路傍土 ろぼうど 庚午・辛未
釼鋒金 じんぼうきん 壬申・癸酉
山頭火 さんとうか 甲戌・乙亥
澗下水 かんかすい 丙子・丁丑
城頭土 じょうとうど 戊寅・己卯
白鑞金 はくろうきん 庚辰・辛巳
楊柳木 ようりゅうぼく 壬午・癸未
井泉水 せいせんすい 甲申・乙酉
屋上土 おくじょうど 丙戌・丁亥
霹靂火 へきれきか 戊子・己丑
松柏木 しょうはくぼく 庚寅・辛卯
長流水 ちょうりゅうすい 壬辰・癸巳
沙中金 さちゅうきん 甲午・乙未
山下火 さんげか 丙申・丁酉
平地木 へいちぼく 戊戌・己亥
壁上土 へきじょうど 庚子・辛丑
金箔金 きんぱくきん 壬寅・癸卯
覆燈火 ふくとうか 甲辰・乙巳
天河水 てんがすい 丙午・丁未
大駅土 たいえきど 戊申・己酉
釵釧金 さいせんきん 庚戌・辛亥
桑柘木 そうしゃくもく 壬子・癸丑
大溪水 だいけいすい 甲寅・乙卯
沙中土 さちゅうど 丙辰・丁巳
天上火 てんじょうか 戊午・己未
柘榴木 ざくろぼく 庚申・辛酉
大海水 たいかいすい 壬戌・癸亥
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因みに、私の干支から言うと、私の納音は「路傍土」となるらしい。
私は「草」や「土」が好きなので、この路傍土という納音は気に入っている。
正確には生年からの「年納音」と、生まれ日からの「日納音」というのがあり、「納音配当」というのに当てはめると

 あなたの結果

 生まれ年の干支 庚午
 生まれ年の九星 七赤金星
 生まれ年の納音 路傍土
 生まれ日の納音 霹靂火

という結果が出てきて、私の生まれ日の納音は「霹靂火」というらしい。
私は一時、同人雑誌に所属していたときの雑誌の名前が「霹靂」(かむとき)だったので、この不思議な一致にも驚いている。


大空のあくなく晴れし師走かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎
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    大空のあくなく晴れし師走かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

掲出した写真は「冬空」と、後半の方に出すのは久保田万太郎である。
彼については大分まえに書いたことがあるが、今日は彼のことではなく「師走」という言葉について、少し書いてみたい

「師走」とは陰暦十二月の異称で、ほぼ太陽暦の一月の時期に該当するが、他の陰暦の月の名称と違って、師走だけは太陽暦の十二月にも使う。
師走の語源として「お経をあげるために師僧も走るほど忙しい」とする説から、年末の多忙を表わす語として定着したためだろうと言われている。

はじめに申しあげておくが「師走」の読み方としては「しわす」ではなく「しはす」と訓(よ)みたいものである。

『万葉集』巻8・冬雑歌(歌番号1648)に

   十二月(しはす)には沫雪降ると知らねかも梅の花咲く含(ふふ)めらずして

という「紀少鹿女郎」の歌として載っている。
この歌の原文は

   十二月尓者 沫雪零跡 不レ知可毛 梅花開 含不レ有而
しはすには あわゆきふると しらねかも うめのはなさく ふふめらずして

であって、これを上記のように訓み下しているわけである。
この訓み下しが誰によってなされたかは知らないが、万葉集の頃に、すでに「十二月」が「しはす」と読まれていたという証明にはならない。
つまり「しはす」という訓みが、十二月=しはす、ということが、すでに定着していた頃に「訓み下された」に過ぎないからである。
書き遅れたが、万葉集の頃には、日本にはまだ文字はなかったので、日本語を書き表わすには、漢字を借用して表記された。
だから漢字の「音」オン「訓」クンを漢字に当てはめている。万葉集では、それに「漢文」の「反り点」のように(上の歌の例の③⑤のフレーズ)文章が綴られている。

以前に書いたことだが、分かりやすい例をあげてみる。

有名な柿本人麻呂の歌(巻1・歌番号48)の

     ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ

は名歌としてもてはやされるが、これは賀茂真淵が訓み下したものであって、原文は

     東 野炎 立所レ見而 反見為者 月西渡

であって、「月西渡」を「月かたぶきぬ」と訓むのは「意訳」ではないか、人麻呂は単純に「月にしわたる」としたのではないか、という万葉学者の異論もあるのである。

万葉集の「訓み下し」に深入りして脱線したので、本論に戻そう。
「角川俳句大歳時記」の「師走」の考証欄には以下のように書かれている。

元禄11年に出た『俳諧大成新式』という本に

<ある説に、およそ亡き人の来ること、一とせに二たびなり。盂蘭の盆内と年の尾にありて、いにしへは大歳(おほどし)にも魂(たま)迎へせしよし、兼好のころもなほありと見えたり。それをとぶらふ僧と、仏名の師と、道もさりあへず走りありくゆゑに、師走といふなりとあり。>

と書かれているのが、今日、一番妥当な説として定着しているらしい。

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↑ 久保田万太郎

ここで「師走」を詠んだ句を引いて終る。

 隠れけり師走の海のかいつぶり・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

 エレベーターどかと降りたる町師走・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 極月や晴をつづけて巷ある・・・・・・・・・・・・松根東洋城

 極月の人々人々道にあり・・・・・・・・・・・・山口青邨

 病む師走わが道或はあやまつや・・・・・・・・・・・・石田波郷

 青き馬倒れていたる師走かな・・・・・・・・・・・・金子兜太

 がんがんと鉄筋のびる師走かな・・・・・・・・・・・・高柳重信

 法善寺横丁一軒づつ師走・・・・・・・・・・・・稲畑汀子

 極月の舞台悪党ぞろぞろと・・・・・・・・・・・・馬場駿吉

 極月の書棚に置きし海の石・・・・・・・・・・・・高室有子

 自転車よりもの転げ落ち師走かな・・・・・・・・・・D・J・リンズィー

 極月の罅八方にかるめ焼・・・・・・・・・・・中村弘

 ソムリエの金のカフスや師走の夜・・・・・・・・・・・・深田やすを

 赤札を耳に師走の縫ひぐるみ・・・・・・・・・・・・大町道

 迷いなく生きて師走の暦繰る・・・・・・・・・・・・田島星景子

 関所めく募金の立ちし街師走・・・・・・・・・・・・杉村凡栽


大阪・住吉大社・楠珺社「はつたつ」さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──エッセイ──

   大阪・住吉大社・楠珺社「はつたつ」さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

     初詣といえば「すみよっさん」と大阪の人は口をそろえて言います。
     大晦日の夜から、どこからとなもく人が集まりだし、門前は人々でいっぱいになります。
     12時ちょうどになり太鼓が打ち鳴らされると、1年の幸を祈願する人でごったがえします。
     三が日の参拝客数は、毎年200万人を超え、大阪の人に今でも愛され続けています。
     御田植神事や夏越祓神事などは、昔からの儀式を継承し続けておりますし、
     住吉ならではの初辰まいりなどは、とても有名なため、大阪だけでなく全国各地から
     人々が訪れます。

大阪の住吉大社のホームページ に今の宮司・真弓常忠 が下記のような話を書いておられる。
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住吉の神さまは俗に海の神とされています。正しくは、底筒男命・中筒男命・表筒男命という、イザナギノミコトのミソギハラエに際して海の中から現れた神、および息長足姫命(神功皇后)で、西暦211年、この地に鎮斎になったと伝えられています。実際の年代では干支二運(120年)をくり下げて5世紀初頭と推測されますが、大和政権の玄関口にあたる難波(なにわ)に鎮座して、遣唐使をはじめ大陸との渡航を守り、奈良時代以前より外交・貿易、またあらゆる産業を守護する神として称えられてきました。

海の神ということは、わたくしどもの生命の根源を守る神を意味します。なぜなら地球上の最初の生命は五十億年ものむかし海の中に生じ、さらに一億七千万年前までに小型の虫類となって上陸し、進化を重ねて五千万年前までに人類が出現したとされますが、原初は海から生じたとされることは間違いありません。

われわれの生命は地球を覆っている水の中に生まれ、何億年もの循環をくり返して、空気の世界に生長してきました。そして自分を出現させています。つまり大きな循環をくりかえしているものですが、その根源は海から生じたものといってよいでしょう。

この海の底・中・表の津の男神と称え、住吉の神と崇めてきた古人の智恵に深い敬意を表する次第です。

住吉さまの詳細については、このホームページをご覧ください。歴史と伝統に彩られた大社の全貌を識ることができるでしょう。

住吉大社宮司
真弓常忠 (まゆみつねただ)

大正12年、大阪市に生まれる。神宮皇學館大學に学び、皇學館大學教授、八坂神社宮司を経て、現在、住吉大社宮司。兼ねて皇學館大學名誉教授。

神道学、神道史学、とくに祭祀学を専攻。『神道の世界』『神道祭祀』『祇園信仰』『天香山と畝火山』『日本古代祭祀と鉄』など、独自の視点からの著書多数。
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私の住む地域の氏神さんは「松本神社」と称するが、宮司も居ない小さな「祠」みたいなお宮だが、もともと木津川の水運の守り神として鎮座され崇敬されてきたらしい。
その祭神が住吉大社と同じ神々を祭っているのであり、私は以前から住吉大社には親近感を持ってきた。
上の記事に書いてあるが再度引いておくと
底筒男命・中筒男命・表筒男命という、イザナギノミコトのミソギハラエに際して海の中から現れた神、および息長足姫命(神功皇后)の四体の神を祭っている

この住吉大社には摂社が数社と「末社」が数社あり、その中に 楠珺社というのがあって、これが、ここで採り上げる「はつたつ参り」の主人公である。

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 ↑ 楠珺社(なんくんしゃ)

以下、ホームページに載る記事を引いておく。
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お稲荷さんです。境内の奥には、樹齢千年を超える楠 (くすのき) の大樹があり、江戸時代、人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げていました。その後、根元に設けられていた社にお稲荷さんを祭るようになったといわれています。現在では、大阪商人を始めとして、全国、さらに海外の信仰を集めるまでにいたりました。また祈祷木 (きとうき) があり、願い事と氏名年齢を書いて預けていただくと、お祓 (はら) いののち、みなさまの発達・安全などを祈祷し焼き納めます。

商売発達のために遠方から訪れる人も多く、早朝から大勢の参拝客でたいへんにぎわいます。種貸社、楠珺社、浅沢社、大歳社の四社をそれぞれにお参りするのが慣わしとなっています。

初辰(はつたつ)とは、毎月最初の辰の日のことです。この日に参拝すれば、より一層力を与えて守り助けてくれると信仰されてきました。そして4年を一区切りとして、48回参拝すれば、満願成就となります。これは、四十八辰、つまり始終発達するという意味からきたもので、4年間月参りを続けられるというのは、それだけ無事発達していることでもあります。

また楠珺社で親しまれているのは、羽織りを着た愛嬌のある土人形の招き猫です。偶数月には右手を、奇数月は左手を挙げたものを毎月集め48体そろうと、満願成就の証として納めていただきます。そして新たに大きな招福猫と交換してもらい、今後のご繁栄を祈願します。

おみくじ
和歌の神さまで有名な住吉ならではの、独特の歌占いのおみくじがあります。単なる占いではなく、和歌に託した神の教えとして、占いを受ける人に確かな指針を与えてくれます。
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ここへ「はつたつ参り」に行くようになったきっかけは、NHKの放映を見たことに由来する。
同じ番組を友人のS君も見ていて、興味を抱き、ふたりで「月参り」を四年間めざしてやってみよう、ということになった。
四年間ふたりの寿命が持つかどうか判らないが、目標として面白いのではないかということである。

2010年7月の「初辰」の日からはじめたので、今月十一月三日で都合29回お参りした。
三十回目の「はったつ」さんは、本年納めということで、本日、十二月九日ということになる。
掌に乗るような小さな(昔風に言うと一寸ということか)招き猫を賜ってきて、専用の収納ケースも買い求めて、それに飾って床の間に置いている。
四年間で合計48個貯まれば一回り大きい「中猫」と取り替えてもらえるという。
これも「生きる」目標としてのキーストーンだと思っていただければ有難い。
もっとも、住吉大社に言わせると、こういうのは民間でやっている商売であって、住吉神への信仰とは何の関係もない、ということだが、まあ、いいではないか。

そのS君のことだが、一昨年十一月末に軽い脳梗塞を起こして救急車で病院に担ぎ込まれた。
右側の上肢と顔面、それに言語障害があり、ひところは腕が痺れて手の指も開けなかったという。
現在は手、指の痺れは良くなってきた。一頃は「高気圧下での酸素吸入」、「薬剤の点滴」、理学療法士によるリハビリなどに懸命であった。
一番ひどいときは「吸呑み」に入れて吸った茶が、だらだら垂れて飲めなかったという。
軽度な障害のようなので急速に回復すると思うが、親友のこととて、一時は気を揉んだ。

住吉大社については、この記事が写真入りで面白く見られるので、お試しあれ。
詳しくは、そこで見てもらうとして、ここでは「大鳥居」と「反り橋」の写真を出しておく。
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群青のストールに深く身を包む冬の眸をもつ人に逢ふため・・・・・・・・・・・・・・・村田嘉子
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──銀座5態──

    ■群青のストールに深く身を包む
        冬の眸(め)をもつ人に逢ふため・・・・・・・・・・・・・・・村田嘉子


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「深く身を包む」ストールの羽織り方と言えば、このスタイルであろうか。
今どき流行りの着方というと、こういうことになるのだろうか。
「冬の眸をもつ人」という言い方が、とてもしゃれている。
おでかけの行き先は、もう銀座しか、ないだろう。

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   ■いつぽんの櫂のわたくし朝雨の
        ガラスの林道漕ぎ銀座まで・・・・・・・・・・・・・・小黒世茂


この歌の作者は前衛歌人であった塚本邦雄の愛弟子で、才気煥発な女の人である。
銀座も、すっかり高層化したので、それを「ガラスの林道」と表現した比喩に満ちた歌である。
先に挙げた歌ではないが、この時、彼女は、どんな服装をしているのであろうか。
さまざまに、読者に想像させるのである。
短詩形の場合、答えが一つしかないような作品では面白くない。さまざまに考えさせるのが、よい。

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   ■夜の青 乾く銀座の石畳
       雪よりほかに乞ふものはなし・・・・・・・・・・・・・高崎淳子


今の銀座の、どこに石畳があるのか、私は知らない。
今は、もう無いとしても、乾く冬の銀座の石畳に雪よ、降ってほしい、という表現は秀逸である。

    ■モンパリの歌母と口ずさみ歩む夜の
        外堀セーヌの春の香のたつ・・・・・・・・・・石田容子


この歌は、銀座をフランスのパリになぞらえて詠まれている。パリの町並みはナポレオン3世によって都市計画がなされ、5階以上の高さの建物はないが、外見的には似ていなくもない。

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      ■雪赤く降り青く解け銀座の灯・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

赤い灯、青い灯、と俗称される巷灯が、時ならぬ雪に映えているのを巧みに詠んでいる。

よく知られていることだが、ここでネット上に載る銀座の成り立ちを転載しておく。
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銀座の地形と成り立ち ~銀座が海だった頃から~

それは海から始まった
徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年(慶長8年)には、銀座はまだ海だった。
江戸に城はあったものの、城の東側は利根川水系の作る低湿地で、葦(あし)が繁っていた。
江戸の西側には、関東ローム層からなる武蔵野台地が広がっていた。
武蔵野台地の東側には、いくつもの谷が深く切れ込み、坂や崖を作っていた。
現在の東京都心の高台は、こうした台地の先端部分に当たる。
上野、本郷、小石川、四谷、赤坂、白金などいわゆる山の手を形成する高台だ。

日比谷入江の埋め立て
江戸城も、こうした台地の先端に築かれていた。
江戸城から見ると、現在の日比谷あたりは浅い海の入江。
日比谷の海を隔てて、日本橋から半島のように砂州が出ている。
これを江戸前島といい、前島の付け根の部分に、江戸湊(みなと)が築かれた。
幕府が最初に埋め立てたのが、日比谷の入江だった。
江戸城の目の前まで入り込んでいた入江だけに、船で攻め込まれる危険があったからだ。
加えて、武士たちを住まわせる屋敷も必要だった。
そこで埋め立て工事に拍車がかかり、江戸城から前島にかけて、新しい陸地が造られた。

水の都 江戸
日比谷の埋め立てに先立って、江戸城と江戸湊を結ぶ堀が造られた。
道三堀というこの運河は、現在は姿を消しているが、江戸城へ物資を運ぶ幹線運河だった。
川の多い江戸では、水上交通が便利であることに、幕府はいち早く気がついた。
武士、町人にとっても同じこと。
猪牙(ちょき)舟で行ける所まで行き、降りてから歩くのが普通だった。
ヴェネツィアの水上タクシーと同じ様に、猪牙舟はお江戸の人たちの足だったわけだ。
水をたたえた堀と猪牙舟の実物は、「江東区立深川江戸資料館」に再現されている。

消えた三十間堀
銀座にも、掘割が巡らされていた。現在、掘割も川もまったく残っていない。
すべて埋め立てられ、道路や高速道路に変えられてしまった。
橋は消え、その名前だけが交差点や高架橋の名称として残っている。
消えた川と掘割の代表例が、銀座通りの東側を並行して流れていた「三十間堀」だ。

三十間堀にかかる三原橋とその上を走るチンチン電車
江戸時代に造られ、1949年(昭和24年)に埋め立てられて姿を消した。
名残は唯一、「三原橋」という名前が、人びとのなかに通称として残っていること。
晴海通りと旧三十間堀が交わるあたりは、歩くと、橋のあった証拠の起伏が感じ取れる。

橋あってこそ銀座
最も有名な数寄屋橋は、外濠(ぼり)にかかっていた。
現在、上を高速道路が走る。

数寄屋橋附近
銀座にあった橋のすべてが、今は水ではなく車の流れる道と接している。
白魚橋(昭和通り)、京橋(高速道路)、城辺橋(外堀通り)、山下橋(同)、土橋(同)、新橋(同)、蓬莱橋(昭和通り)、采女橋(首都高)、万年橋(同)、三吉橋(同)etc.
今こうした橋は銀座への入口として、往時と同じ役割を果たしている。
流れる水はなくなっても、銀座へ足を踏み入れるときめきは、変わらない。


草弥の詩作品「こたつがかり──お冬の巻」・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(26)

     こたつがかり──お冬の巻・・・・・・・・・・・・木村草弥

     寒くなってきた
     京の底冷えと言って
     盆地である上に
     都の三方を山に囲まれて
     冷気が溜まりやすく
     京の都の冬は とても寒い

     禁裏は
     北は今出川通から
     南は丸太町通までの間で
     極端に言えば 冬の間は
     比叡下ろしの風が 雪を呼んで
     いつも ちらちら 雪が舞う始末だった

     お上は
     馴染みの お冬を呼ばれたのだが
     寒くて 炬燵を出られなかった
     夜は しんしんと 更けていった

     <お上 よい知恵がありますのえ
     こたつがかり と言いますのえ>
     と言って お冬が お上を誘った

     炬燵に入ってのプレイである
     お冬は お上の膝の上に座り
     こたつ台に手をつきながら 挿入する
     座位の後背位である

     これは 炬燵を利用した冬限定の体位である
     お冬は 炬燵に手をつきながら
     一心に 腰を振った
     お上は お冬を抱きかかえながら
     お冬の乳首を もみしだいた

     二処責めの愛撫に
     お冬は よがり声を上げた
     それに刺激されて
     お上も 歓喜の声で 応じられた

     抱き合ったまま 横に倒れて
     なおも 激しく まぐわうのであった
     そして二人は 絶頂に達した

     泰平の世がつづいて 
     下々の庶民も 
     性の楽しみに 勤しむようになり
     四十八手 なんていう体位を
     編み出す 始末だった
     <江戸四十八手>という
     浮世絵の春画や 手拭に版刷りした
     体位一覧が 出回るような始末だった

     こんなものがあるが お分かりかナ

    うしろやぐら  吊り橋  寄り添い  撞木ぞり  獅子舞  菊一文字 
    こたつがかり テコかがり  岩清水  時雨茶臼  理非知らず  茶臼のばし 
    こたつ隠れ  乱れ牡丹  帆かけ茶臼  本駒駆け  百閉  雁が首  しがらみ 
    二つ巴  御所車  松葉崩し  碁盤攻め  首引き恋慕 しぼり芙蓉  仏壇返し 
    手懸け  椋鳥  窓の月  鳴門  しめ小股  千鳥  抱き上げ  流鏑馬 
    立ちかなえ  鵯越え  だるま返し  千鳥の曲  抱き地蔵  浮き橋  立ち松葉 
    鵯越えの逆落とし つばめ返し  宝船  押し車  深山  立ち花菱  鶯の谷渡り

       雪が 小止みなく降りつづき
       夜は しんしんと更けていった

のちに後水尾院は詠まれた

     <手習ひのただ一筆も書き添へばいかで待ち見るかひもありなん>


    
佐伯泰英『〇に十の字』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      佐伯泰英『〇に十の字』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・新潮文庫2012/12/01刊・・・・・・・・・

「新・古着屋総兵衛シリーズ5」の、待ち遠しい発刊である。

     薩摩の剣客を総兵衛一行は東海道に迎え撃つ……白扇乱舞。新シリーズ急転。
     坊城桜子を伴って京を目指す総兵衛一行が鳶沢村に逗留中、薩摩の密偵が捕らえられた。
     総兵衛の特殊な縛めにより、苦悶の末薩摩忍び北郷陰吉は転んだかに見えた。
     陰吉を加えた一行は一路、西を目指し始めた。
     一方、江戸では、おこものちゅう吉が湯島天神の床下から忽然と姿を消し、天松は懸命に捜索する……。
     総兵衛一行の東海道西上の旅路を薩摩の魔の手が襲撃する疾風の第五巻。

新潮社の読書誌「波」2012年12月号より書評を引いておく。
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     スケール大きな伝奇時代小説     重里徹也

『新・古着屋総兵衛』シリーズは、作品世界が大きく広がる伝奇時代小説だ。佐伯泰英の他のシリーズと比べても、それがきわだった特長だろう。
 鳶沢一族は徳川家康から、幕府を背後から支えるように命じられた血統だ。
江戸富沢町の土地と古着商の権利を与えられた一方、影旗本として、幕府内にいる「影」の指令に従って国内の安寧を守る任を担う。
一族は古着屋の大黒屋を経営し、駿府久能山のふもとを隠れ里(鳶沢村)としている。
 つまり、商と武の両面を持っているのだ。
 先行するシリーズ『古着屋総兵衛影始末』(全十一巻)では元禄・宝永年間を舞台に、六代目の総兵衛勝頼が活躍した。
柳沢吉保を最大の敵としながら、海外との交易を推し進め、一族の隆盛を築いた。
 今シリーズはそれから約百年後の享和年間、つまり、十九世紀初めを舞台にしている。
世情が騒がしくなっていく中、九代目総兵衛の死から、十代目の活躍へと物語が続く。五巻に至ったところで、これまでの流れを振り返ろう。
 第一巻『血に非ず』。九代目総兵衛は若くして死の床にあり、鳶沢一族は直系が絶えてしまう危機に直面する。そんな時に現れたのが十代目だった。
彼は六代目とベトナム人女性の間にできた子供の子孫で、王朝の高官の家柄だ。政変に巻き込まれ、一族を率いて日本に亡命してきた。
その器量に感心した鳶沢の長老らは、彼を頭領として迎え入れることを決める。かくして、十代目総兵衛勝臣が誕生する。
 第二巻『百年の呪い』。旧シリーズで対立した柳沢吉保は、大黒屋などに呪いを仕掛けていた。十代目がそれを暴いていく。
柳沢ゆかりの六義園(現在の東京・本駒込)での戦いなどが見どころ。唐人卜師、林梅香も活躍する。
 第三巻『日光代参』。「影」である本郷康秀が薩摩藩と癒着していることに気づいた十代目が、日光代参をする彼を追いかけて暗殺する。
前シリーズに続いて、自分に命令する者を倒すスリリングな展開だ。
 第四巻『南へ舵を』。海洋小説の趣が深い一冊。
十代目が来日する時に乗ってきた巨大帆船、イマサカ号。大黒屋の輸送を担ってきた大黒丸。両者の海上レースが面白い。十代目は着実に実力を蓄えて行く。
 そして第五巻『〇に十の字』。薩摩藩という敵の姿が徐々に見えてくる。南蛮骨董商の娘で公家の血をひく坊城桜子らとともに、十代目は京へ向かう。

 物語全体を取り巻くのは揺れ始めた社会情勢だ。武家社会は綻びを露呈している。
海外からは外国の船が来航し、鎖国という制度がもたなくなってきているのがわかる。近世はだんだんと終わりに近づいているのだ。
 グローバルな視野で鳶沢一族という巨大な組織を描いているのが、このシリーズの読みどころだ。
戦闘集団として武力を発揮する半面、商家としても利益を追求してやまない。カネと商品のやりとりが絶えず、経済小説としても興味深い。
 組織を彩るのは個性的な人物たちだ。気品を漂わせる十代目。世間通でとぼけた味の大番頭。武術の達人で機敏な一番番頭。犬をかわいがる手代。
まっすぐな心の小僧。奥向きを仕切るクレバーな美人。忠義心の強い船乗りたち。
 奉行所の面々や敵役の男たちも輪郭が濃い。無能な岡っ引きや、かげま(男娼)の少年も印象的だ。
 そして、いとおしいのが、おこも(乞食)の少年、ちゅう吉だろう。
 彼が「ちゅうちゅうちゅう」と言いながら登場すると、場面がぐっと濃密になる。
十歳を過ぎたばかりなのに、世故にたけていて、人情がわかり、気がきく。
でも、親の愛情を知らず、実は甘える対象に餓えている。そんな少年が鳶沢一族を救いながら成長していく。
 鎖国下、大黒屋は外国との交流に精を出す。それはどこか自閉しがちな今の日本人へのメッセージにもなっている。
広々とした海洋に出るような気分で、この大河小説を楽しんでみてはいかがだろうか。   (しげさと・てつや 毎日新聞論説委員)


日動画廊扉の把手は青銅の女体にて腰のくびれをつかむ・・・・・・・・・・・・・・・・・阿木津英
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 「荻太郎遺作点」から「パレリーナ」──日動画廊ホームページより

──東京風景いくつか──

   ■日動画廊扉の把手は青銅の
      女体にて腰のくびれをつかむ・・・・・・・・・・・・・・・・・阿木津英


日動画廊(にちどうがろう)は1928年創業の洋画商。日本国内の洋画商としては、最も歴史があるとされる。
店の名前の由来は、最初の画廊は日本橋の高島屋の近くだったが、立ち退きをせまられ、旧日本動産火災保険会社の粟津社長の好意で敷金、家賃なしで西銀座の新築ビルの1階に日動画廊を出すことになる。
日本動産火災が日動火災と呼ぶようになるのは、その後のこと。
HPを見ると、系列に名古屋、福岡、フランスのパリ、軽井沢、茨城県の笠間日動美術館がある。ギャラリーは銀座にあり、今の所在地は銀座5-3-16。
毎年作家の個展を開催している。現在まで多数の作家たちを輩出してきた伝統ある画廊とされる。
取り扱い作家は油彩、彫刻、版画を主に、内外の物故・現役作家あわせて数百名になる。
関連するネット上を閲覧すると、こんな記事があった。

<日動画廊の長谷川智恵子副社長が2009年11月19日、フランス大使公邸で行われた叙勲式で、レジオン・ドヌール勲章オフィシエに叙されました。
長谷川智恵子氏は夫の長谷川徳七氏(日動画廊社長、1998年芸術文化勲章コマンドゥール受章)とともに、フランス美術を印象派から近代、現代美術に至るまで日本に広く紹介し、国内多数の美術館のコレクション形成に貢献したほか、笠間日動美術館(茨城県笠間市)の創立にも尽力しました。>

今の社長は長谷川徳七というらしい。

掲出の阿木津英の歌は、店のドアの把手が青銅製の「女体」だとして、その腰のくびれをつかむことになるのを、巧みにエロチックに表現して秀逸である。

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   ■電脳に追いたてられてふらふらの
        僕は歩くよ夜の地下鉄・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗明純生


この人は確か「銀座短歌会」というところに所属する若手の都会派歌人である。
写真は「地下鉄博物館」に展示される丸の内線301号車と奥は銀座線1001号車である。以下は、その説明。

<未だファンの多い丸ノ内線の真っ赤な車両。いくつかは払い下げになり個人で所有している方もいらっしゃるとか。
そんな人気の真っ赤な300型車両は、どんな活躍をしてきたのでしょうか。
博物館では、車内に入ると窓に映写機で映し出された開通当時から博物館に納められるまでの映像を見ることが出来ます。>

   ■地下鉄の赤き電車は露出して東京の眠りしたしかりけり・・・・・・・・・・・・・・前登志夫

この歌も青春の日々に過ごした東京を偲んで作られている。奈良・吉野山住みだったが先年亡くなった。

   ■大江戸線地下ふかぶかと降りゆくに青きあやかしかケータイ光る・・・・・・・・・・・・小島熱子

大江戸線が開通して、もう数年になるが、それまで不便だったところが大変便利になった。
後発の路線ということで、走る深度はとても深いから、駅について地上にでるのに急角度のエスカレータに延々と乗ることになる。
そのエスカレータの速度が遅いのでイライラする。こんなときに思い出されるのがロシア・モスクワの地下鉄のエスカレータの速さである。
ここも地下深いので、必然的にエスカレータが速くなったものだろう。各駅もそれぞれ装飾的で、個性があって面白い。
東京で一番新しい地下路線は「りんかい線」だろうか。ここも便利になって埼京線川越まで直通で行ける。
私は京都人なので、東京には時たま行くだけで詳しくないので、間違いがあったら訂正してほしい。

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    ■鶯も通ったろうかうぐいすだに 
      かつて東京は川と谷と武蔵野の森だった・・・・・・・・・・・・光本恵子


鶯谷駅は大ターミナルである上野駅の隣に隠れて影が薄く、都区内のJR駅の中でもとりわけ地味で小規模である。
それを裏付けるかのように、山手線の駅ではいちばん乗降客数が少ない。
駅の西側は上野の山で、寛永寺の墓地になっている。
東側は市街地だが、なぜかラブホテルが密集している。駅ホームから眺めても、ラブホテルばかりが目につく。
こんなにも駅からラブホテルが見える駅も珍しい。

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   ■「笹の雪」の暖簾のかたる昔もあって
         根岸の里の入り陽の朱・・・・・・・・・・・・・・・・・梓志乃


「根岸」というと正岡子規が住んでいたところで、今は台東区になっているが、ここには私は、まだ行ったことがない。
古い家並などが残っているのだろうか。この歌からは、そんな気配も感じられるのだが。。。。
ネット上に載る記事によると、この「子規庵」のあるのは「笹の雪」の看板のある辺りらしい。そこで聞けば判ると書いてある。
Wikipediaに載る記事を引いて終りたい。
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俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。

俳句においては、所謂月並俳諧の陳腐を否定し、芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。
またヨーロッパにおける十九世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。

その一方で、その俳論・実作においてはいくつかの問題を指摘することもできる。
俳諧におけるゆたかな言葉遊びや修辞技巧を強く否定したこと。
あまりに写生にこだわりすぎて句柄のおおらかさや山本健吉の所謂「挨拶」の心を失ったこと。
連句(歌仙)にきわめて低い評価しか与えず、発句のみをもって俳句の概念をつくりあげたこと、
などは近代俳句に大きな弊害を与えているといってよい。

俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。
これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる。

短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい。
当初俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。
彼の著作のうち短歌にもっとも大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。

『歌よみに与ふる書』における歌論は、俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚・『古今集』の否定に重点が置かれている。

特に古今集に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子として、その主張は肯定できるものが多い。

子規の理論には文学を豊かに育ててゆく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。
いまでも否定できない俳句観である。

日本語散文の成立における、子規の果たした役割がすこぶる大きいことは司馬遼太郎(司馬『歴史の世界から』1980年)によって明らかにされている。


福岡伸一『生物と無生物のあいだ』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
生物・無生物

──新・読書ノート──

     福岡伸一『生物と無生物のあいだ』・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・講談社現代新書2007第一刷2012/03/27第三三刷・・・・・・・・

福岡伸一の本を読む一環のものである。
今まで採り上げたエッセイ風の本とは違って、学術的な本なので、少し難解である。
かいつまんで書くことは出来ないので、最初の「プロローグ」の部分を引いておく。

プロローグ
私は今、多摩川にほど近い場所に住んでいて、よく水辺を散策する。川面を吹き渡って
くる風を心地よく感じながら、陽光の反射をかわして水の中を硯き込むと、そこには実に
さまざまな生命が息づいていることを知る。水面から突き出た小さな三角形の石に見えた
ものが亀の鼻先だったり、流れにたゆたう糸くずと思えたものが稚魚の群れだったり、あ
るいは水草に絡まった塵芥と映ったものが、トンボのヤゴであったりする。
そんなとき、私はふと大学入りたての頃、生物学の時間に教師が問うた言葉を思い出
す。人は瞬時に、生物と無生物を見分けるけれど、それは生物の何を見ているのでしょう
か。そもそも、生命とは何か、皆さんは定義できますか?
私はかなりわくわくして続きに期待したが、結局、その講義では明確な答えは示されな
かった。生命が持ついくつかの特徴──たとえば、細胞からなる、DNAを持つ、呼吸に
よってェネルギーを作る──、などを列挙するうちに夏休みが来て日程は終わってしまっ
たのである。
なにかを定義するとき、属性を挙げて対象を記述することは比較的たやすい。しかし、
対象の本質を明示的に記述することはまった<たやすいことではない。大学に入ってまず
私が気づかされたのはそういうことだった。思えば,それ以来、生命とは何力という問題
を考えながら、結局、明示的な、つまりストンと心に落ちるような答えをつかまえられな
いまま今日に至ってしまった気がする。それでも今の私は、二十数年来の問いを次のよう
にあとづけることはできるだろう。
生令とは何か?それは自己複製を行うシステムである。二十世紀の生命科学が到達し
たひとつの答えがこれだった。一九五三年、科学専門誌『ネィチヤー』にわずか千語(一
ページあまり)の論文が掲載されていた。そこには、DNAが、互いに逆方向に結びついた二
本のリボンからなっているとのモデルが提出されていた。生命の神秘は二重ラセンをとっ
ている。多くの人々が、この天啓を目の当たりにしたと同時にその正当性を信じた理由
は、構造のゆるぎない美しさにあった。しかしさらに重要なことは、構造がその機能をも
明示していたことだった。論文の若き共同執筆者ジェームズ・ワトソンとフランシス・ク
リックは最後にさりげなく述べていた。この対構造が直ちに自己複製機構機構を示唆すること
に私たちは気がついていないわけではない、と。
DNAの二重ラセンは、互いに他を写した対構造をしている。そして二重ラセンが解け
るとちょうどポジとネガの関係となる。ポジを元に新しいネガが作られ、元のネガから新
しいポジが作られると、そこには二組の新しいDNA二重ラセンが誕生する。ポジあるい
はネガとしてラセン状のフィルムに書き込まれている暗号、これがとりもなおさず遺伝子
情報である。これが生命の“自己複製”システムであり、新たな生命が誕生するとき、あ
るいは細胞が分裂するとき、情報が伝達される仕組みの根幹をなしている。
DNA構造の解明は、分子生物学時代の幕を切って落とした。DNA上の暗号が、細胞
内のミクロな部品の規格情報であること、それがどのように読み出されるのかが次々と解
明されていった。一九八〇年代に入ると、DNA自体をいわば極小の外科手術によって切
り貼りして情報を書き換える方法、つまり遺伝子操作技術が誕生し分子生物学の黄金期が
到来した。もともとは野原に昆虫を追い、水辺に魚を捕らえることに夢中で、ファーブル
や今西錦司のようなナチュラリストを夢見ていた私も、時代の熱に逆らうことはできなか
った。いやおうなく、いや、むしろ進んでミクロな分子の世界に突き進んでいった。そこ
にこそ生命の鍵があると。
分子生物学的な生命観に立つと、生命体とはミク口なパーツからなる精巧なプラモデ
ル、すなわち分子機械に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿
である。生命体が分子機械であるならば、それを巧みに操作することによって生命体を作
り変え、“改良”することも可能だろうる。たとえすぐにそこまでの応用に到達できなくと
も-たとえば分子機械の部品をひとつだけ働かないようにして、そのとき生命体にどのよ
うな異常が起きるかを観察すれば、部品の役割をいい当てることができるだろう。つまり
生命の仕組みを分子のレベルで解析することができるはずである。このような考え方に立
って、遺伝子改変動物が作成されることになった。“ノックアウト”マウスである。
私は膵臓のある部品に與味を持っていた。膵臓は消化酵素を作ったり、インシュリンを
分泌して血糖値をコント口ールしたりする重要な臓器である。この部品はおそらくその存
在場所や存在量から考えて、重要な細胞プロセスに関わっているに違いない。そこで、私
は遺伝子操作技術を駆使して、この部品の情報だけをDNAから切り取って、この部品が
欠損したマウスを作った。ひとつの部品情報が叩き壊されている(ノックアウト)マウスである。このマウ
スを育ててどのような変化が起こっているのかを調べれば、部品の役割が判明する。マウ
スは消化酵素がうまく作れなくなって、栄養失調になるかもしれない。あるいはインシュ
リン分泌に異常が起こって糖尿病を発症するかもしれない。
長い時間とたくさんの研究資金を投入して,私たちはこのようなマウスの受精卵を作り
出した。それを仮母の子宮に人れて子供が誕生するのを侍った。母マウスは無事に出産し
た。赤ちゃんマウスはこのあと一体どのような変化を来たすであろうか、私たちは固唾を
呑んで観察を続けた。子マウスはすくすくと成長した。そしておとなのマウスになった。
なにごとも起こらなかった。栄養失調にも糖尿病にもなっていない。血液が調べられ、顕
微鏡写真がとられ、ありとあらゆる精密検査が行われた。どこにもとりたてて異常も変化
もない。私たちは困惑した。一体これはどういうことなのか。
実は、私たちと同じような期侍をこめて全世界で、さまざまな部品のノックアウトマウ
ス作成が試みられ、そして私たちと同じような困惑あるいは落胆に見舞われるケースは少
なくない。予測と違って特別な異常が起きなければ研究発表もできないし、論文も書けな
いので正確な研究実例は顕在化しにくい。が、その数はかなり多いのではないだろうか。
私も最初は落胆した。もちろん今でも半ば落胆している。しかしもう半分の気持ちで
は、実は、ここに生命の本質があるのではないか、そのようにも考えてみられるようにな
ってきたのである。
遺伝子ノックアウト技術によって、パーツを一種類、ピ—スをひとつ、完全に取り除い
ても、何らかの方法でその欠落が埋められ、パックアップが働き、全体が組みあがってみ
ると何ら機能不全がない。生命というあり方には、パーツが張り合わされて作られるプラ
モデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。ここには何か別
のダイナミズムが存在している。私たちがこの世界を見て、そこに生物と無生物とを識別
できるのは、そのダイナミズムを感得しているからではないだろうか。では、その“動的
なもの”とは一体なんだろうか。
私は一人のユダヤ人科学者を思い出す。彼は、DNA構造の発見を知ることなく、自ら
命を絶ってこの世を去った。その名をルドルフ・シェーンハイマーという。彼は、生命が
「動的な平衡状態」にあることを最初に示した科学者だった。私たちが食べた分子は、瞬
く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり、次の瞬間には身体から抜け出て行く
ことを証明した。つまり私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り
立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立つている。
私は先ごろ、シェーンハイマーの発見を手がかりに、私たちが食べ続けることの意味と
生命のあり方を、狂牛病禍が問いかけた問題と対置しながら論考してみた(『もう牛を食べ
ても安心か』文春新書、 二〇〇四)。この「動的平衡」論をもとに、生物を無生物から区別す
るものは何かを、私たちの生命観の変遷とともに考察したのが本書である。私の内部で
は、これが大学初年度に問われた問い、すなわち生命とは何か、への接近でもある。

ロハス
 ↑ 木楽舎2006年初版2011/06/01第六刷

「ロハス」とは、Lifestyles Of Health And Sustainability の頭文字をとった言葉である。
「健康と持続可能性に配慮したライフスタイル」ということである。
出版社の「木楽舎」というのが、こういう運動を推進するための会社で、福岡伸一が、それに共鳴して、『動的平衡』などの本を出し、ベストセラーになった。
この本は、そういう趣旨に沿った本づくりになっている。
内容に立ち入るのは控えておく。いい本である。 ご一読を。






跳び乗った電車の中で/踵の無くなった靴の持ち主は/やがて自分の足が・・・・・・・・・・・中原道夫
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    東京メトロ霞ケ関駅で・・・・・・・・・・・・・・・・・中原道夫

     踏みつけられ、撥ねとばされ、蹴ちらかされ
     磨りきれた傷を残して
     通勤ラッシュのメトロのホームに
     切り落とされたサラリーマンの足の一部が落ちていた

     跳び乗った電車の中で
     踵の無くなった靴の持ち主は
     やがて自分の足が
     ちぐはぐで不揃いになっていることに気がつくことだろう
     そして、だれも恨むことのできないこの不幸なできごとを
     仕方なしに笑いに替えてごまかすことだろう
     (ああ、参ったな、困ったな、どうしよう)

     泣きだしたくなるようなこの笑い
     困惑を吃逆のように呑み込んでしまうこの笑い
     ぼくらの日常に纏わり付いているこの笑い
     ぼくは無性に切なくなって
     磨りきれたゴムの塊をそっとポケットに仕舞う
     哀しいぼく自身を拾うように

     まもなくホームに電車が入ってくる
     通勤客が降りてくる
     いつ切り落とされるか分からぬ靴を履いて
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念のために書いておくと「霞ヶ関」駅の名前の表記は「ケ」を全角で書くのが正式であるらしい。小文字にしない。
この中原の詩の場合、きちんと「霞ケ関」と書いてある。さすがである。

この詩は<日本詩歌紀行3 『東京 詩歌紀行』>(2006年北溟社刊)に載るものである。
現代の都市交通のありようやサラリーマンの哀歓の様子が、かいま見られるだろう。
因みに、付け加えておくと、私の旧作の歌3首も収録されている。

   うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり

   振り返ることのむなしさ腰下ろす石の冷えより冬に入りゆく

   ペン胼胝の指を擦ればそのさきに言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・木村草弥

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参考までに霞ヶ関駅を発車する「小田急電鉄メトロはこね23号東京メトロ千代田線」の動画を載せておく。






ひろひ読み拾ひよみつつふとはぐれる終りに近き此の物語・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    ■ひろひ読み拾ひよみつつふとはぐれる
          終りに近き此の物語・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
同じ一連につづく歌を、引いておく。

    ■あの空の向うは楕円の空洞か
      ずるい蝙蝠(かうもり)が俺を追ひつめる・・・・・・・・・・・木村草弥


これらの歌は、いずれも「比喩」になっているもので、私の人生を「此の物語」と表現してみた。
無慈悲な歳月の推移を「ずるい蝙蝠」と描いてみたが、いかがだろうか。
掲出した図版は「源氏物語絵巻・朝顔」の段のもので、私の歌とは直接の関係は全く無い。「物語」からの連想である。

現代短歌の世界では、現代詩と同様に、こういう「比喩」表現が盛んに使われる。
もちろん、そういう「比喩」を一切しない人もあるが、リアリズム・オンリーでは歌に深みが出ない。
「比喩」には「直喩」「隠喩」など多くのやりかたがあるが、一般的に一番多いのが「ごとく」というような、単純な直喩を使ったものである。
この場合には、よほどしゃれたものでないと、読者を揺さぶるような感動を与えない。
私は短歌の世界に入る前には現代詩をやっていたので、短歌の世界に入っても、そういう「比喩」表現を採用するのに、何の抵抗もなかった。
この歌も、もう二十年も前の作品だが、先に引いた歌と同様に、すでに老境を意識したものになっている。
「ずるい蝙蝠」と言ってみたが、果たして、現実の蝙蝠が「ずるい」かどうかは判らない。
蝙蝠には悪いが、私の直感が、そう書かせたということである。
ヨーロッパの文学の世界でも、蝙蝠は良い印象を与える描き方はされていないので、そういう潜在意識を私も受け継いだと言えるだろう。

次に引用するのはネット上で見つけたものだが、東京大学の入試問題らしい。
「比喩」「蝙蝠」などに関係するので、よければ読んでみてほしい。 作曲家の三善晃の文章らしい。
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東大1996年
《第五問 現代文/芸術論(個と普遍)問題文(約1600字)
【出典】「指に宿る人間の記憶」三善晃

五 次の文章を読んで,後の設問に答えよ。
 谷川俊太郎さんの詩《ポール。クレーの絵による「絵本」のために》のなかの一編<死と泉>は,「かわりにしんでくれるひとがいないのでわたしはじぶんでしなねばならない」と始まる。それで,「わたしはわたしのほねになる」。そのとき私の骨は,この世のなにものも携えてゆくことができない。「せめてすきなうただけは きこえていてはくれぬだろうか わたしのほねのみみに」。
 この十年ほど,ときどき右腕が使えなくなる。細かい五線紙に音譜を書き揃える仕事のためか,頸椎が変形か摩耗かして,痺れと痛みが何カ月か続く。その間,右手はピアノも弾けない。鍵盤のうえに指を置いて触るだけだ。
 しかし,そうすると,ピアノの音が指の骨を伝って聴こえてくる。もちろん,物理的な音が出るわけでない。だが,それはまぎれもなくピアノの音,というよりもピアノの声であり,私の百兆の細胞は,指先を通してピアノの歌に共振する。こうして,例えばバッハを”弾く”。すると,子どものとき習い覚えたバッハの曲は,誰が弾くのでもない,大気がずっと歌い続けてきている韻律のように”聴こえて”くる。
 骨の記憶のようなものなのだろう。それは日常の意識や欲求とは違って,むしろア私とはかかわりなく自律的に作動するイメージである。多分,子どものときから腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して聴覚イメージを喚起する,ということなのだろう。だが,そうして私に響いてくる韻律は,私の指の運動を超えている。それは私の指が弾くバッハではなく,また,かつて聴いた誰かの演奏というものでもない。バッハの曲ではあるが,そのバッハも韻律のなかに溶解してしまっている。
 日常の時空を読み取る五感と意識の領域でなら,私は絶えず「自分」と出会っている。改めて振り返るまでもない日常の小さな起伏と循環……そこに出会い続ける「自分」は,丸山圭三郎さんの言われた「言分け」(言葉で理解する)と「身分け」(身体で理解する)を借りて言えば,最終的にはいつも「身分け」る自分だった。
 私は,私が他者のなかに生き,私の言葉が他者のためにしかなく,私の仕草が他者にしか見えないことを「身分け」ている。蝙蝠が自ら発する音波の反響で自分の位置を知るように,私は自分では決してなることのできない他者の鏡を借りて,絶えず自分を見続けていることも,私は「身分け」ている。そのような生き方をどのように「言分け」ても,その「言分け」は,「身分け」られる生き方を超えることはできない。例えば,どんなに死を「言分け」ても,それは私自身の生の「身分け」を超えることができない。それでもなお私は,その「身分け」を「言分け」し続けなければならない。
 だから私は,イ自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた。しかし,「わたしのほね」になるほかない私の指が,私の内部で私にだけ響かせるものは,他者を介在させることなく私を凝視める「自分という他者」の声なのだ。
 私のなかに,「分け」ようとする私と絶縁した私がいる。それはウ私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>でもあるだろうか。
 私が音を書こうとするのは,その人間の記憶のためであり,また,その記憶に操られてのことなのかもしれない。それならば,いつか私が「わたしのほね」になるときに,私は「自分という他者」として自分と出会い,人間の記憶に還ることができもしようか。

[注]丸山圭三郎---一九三三~一九九三。哲学者。

(一)「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」(傍線部ア)とは,どういうことか,説明せよ。
(二)「自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた」(傍線部イ)とあるが,なぜか,説明せよ。
(三)「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」(傍線部ウ)とは,どういうことか,説明せよ。


《第五問》現代文解説・解答

●(一)「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」(傍線部ア)とは,どういうことか,説明せよ。
【解説】「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」という傍線部の主語は「それ」で,「それ」は前文によれば「骨の記憶のようなもの」になる。また「骨の記憶のようなもの」は前の段落末尾から,「誰が弾くのでもない,大気がずっと歌い続けてきている韻律」→「何か普遍的な韻律」ぐらいになろうか。そこで傍線部の「イメージ」は「何か普遍的な韻律」と置き換えられる。
 「私とはかかわりなく」は,傍線部を含む一文の直前に「それは日常の意識や欲求とは違って,むしろ」とあるわけだから,「日常の意識や欲求」と関わりなくという意味であろう。
 また,「自律的に作動する」の同意部は,直後の,事実上,「つまり」でつながれた「多分,子どものときから腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して聴覚イメージを喚起する,ということなのだろう。」になる。「腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して喚起される」ということである。
 合成してみると,「私の日常の意識や欲求と関わりなく,腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して喚起される,空間に遍在する韻律のこと。」
【解答例】
私の日常の意識を超え,身体に蓄積された運動イメージが鍵盤の手触りに条件反射して喚起される,何か普遍的な韻律のこと。

●設問(二)「自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた」(傍線部イ)とあるが,なぜか,説明せよ。
【解説】まず主語は「私」である。次に傍線部を含む一文の直前に,「だから」とあるから,傍線部の理由が直前の形式段落にあることは明白である。単純に言えば「そのような生き方をどのように『言分け』ても,その『言分け』は,『身分け』られる生き方を超えることはできない。(例えば,…。)それでもなお私は,その『身分け』を『言分け』し続けなければならない」から,が答になる。しかし,これでは筆者独特の術語(いわば論理的比喩)が混ざっていてよくわからない。もう1つ前の形式段落まで行くと,「言分け」は「言葉で理解する」,「身分け」は「身体で理解する」と説明されている。つまり,「私は,そのような生き方をどう言葉で理解しても,身体での理解を超えられないのに,それでも言葉で理解し続けなければならないから」ということになる。また,「そのような生き方」の指示内容はその前にあり,それは「私は,私が他者のなかに生き,私の言葉が他者のためにしかなく,私の仕草が他者にしか見えないことを『身分け』ている。(蝙蝠が…は比喩)。私は自分では決してなることのできない他者の鏡を借りて,絶えず自分を見続けていることも,私は『身分け』ている。」を指す。「他者を通して自分を見続ける生き方」ぐらいにまとめられる。合成する。

【解答例】
他者を通して自分を見続ける生き方は,身体で理解するしかないのに,なお言葉で理解しようとし続けなければならないから。

●設問(三)「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」(傍線部ウ)とは,どういうことか,説明せよ。
【解説】傍線部の主語は「それ」であり,指示内容は直前の「『分け』ようとする私と絶縁した私」である。そこで,「身体による理解と言葉による理解,つまり,理解することと縁を切った自分」ということになる。
 さらに「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」の同意部分を探してみよう。まず設問(一)では「骨の記憶のようなもの」があった。「私の身体に蓄積された何か普遍的な韻律」ということであった。
 さらに「『わたしのほね』になるほかない私の指が,私の内部で私にだけ響かせるものは,他者を介在させることなく私を凝視める『自分という他者』の声なのだ。」が見つかる。「私の内部に蓄積されている,他者が介在することがない『自分という他者』」ぐらいにまとまる。『自分という他者』は「個の中の普遍的なもの」ぐらいの意味だろう。
 「理解することと縁を切った自分」「私の身体に蓄積された何か普遍的な韻律」「私の内部に蓄積されている,他者が介在することがない『自分という他者』」「個の中の普遍的なもの」を合成する。
【解答例】
たとえば韻律のように,他者を通した自分への理解とは無縁の,人間の個の身体の内部に蓄積されている普遍的なもののこと。

以上。

★文章寸評(読解とは関係ありません。)
 もう少しわかりやすく書いてもらえないかなあ,三善先生!


私の心もとない半生のミスプリントに朱線を引かう・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   私の心もとない半生の
      ミスプリントに朱線を引かう・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
この歌は、私の経てきた人生を「喩」的に表現したものである。
長い生の中では、いくつかの失敗や間違いを重ねたので、それを「ミスプリント」と表現してみた。
掲出した画像は、原稿の「校正」の見本である。 編集・校正には一定の約束ごとがあり、出鱈目にやるものではない。

私は第一歌集を出したときに角川書店の担当が呉れた編集手帳に載る「校正記号」で勉強した。
いろいろやってみると面白いものである。
今しも私の第五歌集『昭和』を五月に出したばかりだが、そのときには「筆者校正」を「三校」にわたってやった。
この歌集は私のパソコンに保存してある原稿をCD-Rで出版社に届けたもので、この原稿に私のミスのないかぎり、出版社や印刷所による「入力ミス」というのは起こらないので、
以前のような「活版」印刷と違って、校正個所は大幅に少ない。

「朱線」というのは、赤い線を引いて「抹消」または「訂正」するときに使うもので、例えば、次に引用するような場面にも使われる。

以下は、Yahoo! JAPAN - My Yahoo! 「智恵袋」という質問サイトに載るものである。
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質問

「離婚歴があると,戸籍に☓がつけられる。それが,バツイチの語源だ」という話を母が言っていました。本当の話でしょうか。

ベストアンサー に選ばれた回答

本当です。

戸籍謄本の配偶者を書きこむ欄に、離婚すると朱線のバツ(☓)が記されるところから、そういわれます。

余談ですが。。。

本籍地を移すと、「☓」が消えます。
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このサイトの記事の必要な部分のみに要約したことを了承されたい。

妻が亡くなって、いろいろの法的処置が必要になって、私の戸籍謄本を取り寄せたが、その謄本には妻の記載欄に大きく☓印が入れられて「抹消」されている。
私の手元にあるのは謄本であるから黒線に見えるが、原本は「朱線」で抹消されているのであろう。
同じく、私の娘たちも結婚して出て行ったものは、私の戸籍から☓印をつけられて「抹消」されている。
謄本が手元にあるので、それを掲出できたらいいのだが、プライバシーにわたるので、それは見せられない。



季節はああ次々とやつて来る私はもう急ぐこともない・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    季節(シーズン)はああ次々とやつて来る
        私はもう急ぐこともない・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

「生き急ぎ」という言葉があるが、これは反面では「死に急ぎ」にも通じることである。
今しも、年末にさしかかってきて、友人、知人、親戚などから「喪中はがき」が連日のように舞い込む始末である。
私のような歳になってくると、友人の死の知らせに接することが多い。
そんなハガキに添え書きしてあるペン字には、自分自身の体のことで「胃がんで全摘出した」とか「パーキンソン病になってしまった」とか書いてある。

掲出した私の歌は、もう二十年以上も前の旧作だが、この頃に、私はもう、こんな「死生観」を濃密に抱いていたということである。
私は十代の思春期の頃に、長兄や姉や祖父や妹やら、叔父の死などが連続して異様な感覚に打ちのめされた。
「死」ということに、否応なく直面させられたのである。
この頃から、私の身近に「死」が存在した、と言えるだろう。
だから、私自身にとっては、掲出歌のような心境は不思議でも何でもないのである。

私の掲出歌とは直接の関係はないが、必要があってネット上をサーフィンしていたら、下記のような記事に出会ったので載せておく。
いつごろの記事なのかも不明。
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「死急(しにいそぎ)温泉」 (宮城県)

 温泉には、様々な成分が溶けこんでいて、それが健康にもよいのだが、中には成分があまりにも強烈で、注意しないと体に悪いような温泉もある。この死急温泉はその代表的なものである。

 岩風呂にたたえられたお湯は、ちょっと見ただけでは何の変哲もないきれいな湯である。ただ、よく見れば湯面に、羽虫や小動物の死骸が浮かんでいることに気がつくだろう。そして、鼻をつく強烈な臭い。

 ここの温泉は、硫酸をかなりの濃度で含んでいるので、長時間入っていると体が溶けてしまう。慣れた人で一分。初心者は十秒くらいつかるだけにするのが安全であろう。

 東北本線黒勝田からバスと、電車で乗りついでくるこの死急温泉は、その名の通り地獄の一丁目のような恐ろしいムードのところである。馬車を降りると、そこにはポツンと、一軒の古びた宿があるだけ。宿のすぐ横は墓場で、時々火の玉がふわふわ漂っている。

 そんなところまで来たのは、あなた以外にひとりもいない。そこで宿の扉を開け、ごめん下さい、と言う。三度ほど叫んだところでやっと奥から、
「ふはーい」
 と言って前歯が一本もない皺だらけの老婆が腰を曲げて出てくる。
「今晩泊めてもらえませんか」
「えっ。そしだらもしかすっど、おめえは、お、お、お、お客さんだばや」
「そうです」
「そうか」
 
 なぜか急に老婆は無口になる。ジロリ、とあなたを見つめて、小さな声でこう言ったりするのだ。
「死んでも、知らんぜよ」
 背中に冷たい水をあびせかけられたように、ゾーッとするであろう。

 しかし、私はこの死急温泉へ何度も行き、その卒塔婆館を経営する老夫婦をよく知っているのだが、そのお婆さんは小比類巻ミチといって、本当はとても親切な人である。

(中略)

 宿の裏手に、露天風呂がある。前述したように、初心者は十秒くらいしか入ってはいけない湯なので、岩などにつかまってすぐにあがれるように身構え、ちゃっと入って、十数えたらすぐ出るようにしよう。その時体のバランスを崩して湯に頭から落ち、強い酸を飲んでしまい、げぼっ、とむせたりし、我を忘れて暴れまわり、足をすべらせて掴みどころを見失ったりしていると、足元のほうから、ジューッと体が溶けていくので大変な悲劇となる。そういう意味では、恐ろしい温泉である。

交通 東北本線黒勝田駅からバス25分で死出路へ。死出路から乗合馬車で1時間。車で行ける道はない。
泉質 硫酸。55度。
効能 機敏性を養う。度胸試し。
宿 1軒。
◆卒塔婆館 Cランク。収容10人。経営者が不気味。
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何とも異様な温泉があるものである。「死に急ぎ」という言葉を使ったので、その関連で「検索」に引っかかった言葉端であると、お許しいただきたい。

いずれにしても、「生き急ぎ」「死に急ぎ」はするものではない。物事や歳月の推移も、あるがまま受け入れたいものである。



虹消えて馬鹿らしきまで冬の鼻・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
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    虹消えて馬鹿らしきまで冬の鼻・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

十二月になった。 何となく「せわしい」月である。別称「師走」については私の先年の記事を参照されたい。
「冬」という季節の概念は、歳時記では「立冬」(11月8日頃)から「立春」(2月4日頃)の前日までを言う。
太陽暦では、ほぼ11月、12月、1月に当たる。気象上からは12月、1月、2月ということになる。
また「九冬」という言葉があり、これは冬九旬、すなわち冬の90日間のことである。
「三冬」というのがあり、これは初冬、中冬、晩冬を表現する。
他に「玄冬」「玄帝」「黒帝」「冬帝」「冬将軍」というような言葉もある。

冬の気圧配置は西高東低型になることが多く、西に大陸高気圧、東に低気圧があって、寒い季節風が吹く。
太平洋側は乾燥して晴れ、日本海側は曇りや雪になる。
もちろん、それらがいろいろに変化して日本の冬の気象が形作られることになる。
寒さも一本調子というわけではなく、「寒」に入っても「三寒四温」という強弱の推移を辿ることになる。
『古今集』に

    山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば・・・・・・・源宗于

という歌があるが、「枯れてさびしい」「ものの終り」というのを表現しているものである。
なお、「冬」ふゆ、という呼び方の由来は「冷える」「ひゆ」から来ていると言われている。つまり、天気が悪くて「冷ゆる」ゆえ、とされている。
太陽暦で12月はじめという今の季節は「初冬」ということになる。「しょとう」とも「はつふゆ」とも訓(よ)まれる。
野山の枯れ色が目立ちはじめ、北国からは雪の便りが聞かれるようになる。
農作物の収穫はほぼ済み、冬になだれこんで行くような時である。
『夫木和歌抄』に

    冬されば野原もいとど霜がれてものさびしくもなりまさるかな・・・・・・藤原俊成

と詠まれる季節感である。
因みに申し上げておくと「冬されば」というのは「冬になれば」という意味である。
「冬」という言葉をめぐっては、まだまだ書きたいことがあるが、今日は、このくらいにして、「冬」ないしは「初冬」という季語を含んだ句を引いて終る。

 冬帝先づ日をなげかけて駒ケ嶽・・・・・・・・高浜虚子

 冬といふもの流れつぐ深山川・・・・・・・・飯田蛇笏

 何といふ淋しきところ宇治の冬・・・・・・・・星野立子

 中年や独語おどろく冬の坂・・・・・・・・西東三鬼

 鳥の名のわが名がわびし冬侘し・・・・・・・・三橋鷹女

 冬すでに路標にまがふ墓一基・・・・・・・・中村草田男

 冬青き松をいつしんに見るときあり・・・・・・・・石田波郷

 雉子鳴いて冬はしづかに軽井沢・・・・・・・・野見山朱鳥

 父母や椎樫の冬チカチカす・・・・・・・・森澄雄

 山河はや冬かがやきて位に即けり・・・・・・・・飯田龍太

 歳月やまた鉄骨の冬錆びて・・・・・・・・杉山岳陽

 海光を海にかへして冬の崖・・・・・・・・平井照敏

 初冬や庭木にかわく藁の音・・・・・・・・室生犀星

 初冬やシャベルの先の擦り切れて・・・・・・・・山口誓子

 初冬や行李の底の木綿縞・・・・・・・・細見綾子

 初冬や涙のごとき雲流れ・・・・・・・・岸秋渓子

 鳥たちに木の実の豪華冬はじまる・・・・・・・・八幡城太郎

 只の顔して冬のはじめのほとの神・・・・・・・・森澄雄

 初冬の浄土びかりす熊野灘・・・・・・・・・福田甲子雄

 冬はじめ捨つべきものを捨て始む・・・・・・・・三浦美知子

 母の彳つ高さを冬のはじめとす・・・・・・・・長谷川双魚

 初冬の海を鏡に子の読書・・・・・・・・原和子


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