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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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福岡伸一『生物と無生物のあいだ』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
生物・無生物

──新・読書ノート──

     福岡伸一『生物と無生物のあいだ』・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・講談社現代新書2007第一刷2012/03/27第三三刷・・・・・・・・

福岡伸一の本を読む一環のものである。
今まで採り上げたエッセイ風の本とは違って、学術的な本なので、少し難解である。
かいつまんで書くことは出来ないので、最初の「プロローグ」の部分を引いておく。

プロローグ
私は今、多摩川にほど近い場所に住んでいて、よく水辺を散策する。川面を吹き渡って
くる風を心地よく感じながら、陽光の反射をかわして水の中を硯き込むと、そこには実に
さまざまな生命が息づいていることを知る。水面から突き出た小さな三角形の石に見えた
ものが亀の鼻先だったり、流れにたゆたう糸くずと思えたものが稚魚の群れだったり、あ
るいは水草に絡まった塵芥と映ったものが、トンボのヤゴであったりする。
そんなとき、私はふと大学入りたての頃、生物学の時間に教師が問うた言葉を思い出
す。人は瞬時に、生物と無生物を見分けるけれど、それは生物の何を見ているのでしょう
か。そもそも、生命とは何か、皆さんは定義できますか?
私はかなりわくわくして続きに期待したが、結局、その講義では明確な答えは示されな
かった。生命が持ついくつかの特徴──たとえば、細胞からなる、DNAを持つ、呼吸に
よってェネルギーを作る──、などを列挙するうちに夏休みが来て日程は終わってしまっ
たのである。
なにかを定義するとき、属性を挙げて対象を記述することは比較的たやすい。しかし、
対象の本質を明示的に記述することはまった<たやすいことではない。大学に入ってまず
私が気づかされたのはそういうことだった。思えば,それ以来、生命とは何力という問題
を考えながら、結局、明示的な、つまりストンと心に落ちるような答えをつかまえられな
いまま今日に至ってしまった気がする。それでも今の私は、二十数年来の問いを次のよう
にあとづけることはできるだろう。
生令とは何か?それは自己複製を行うシステムである。二十世紀の生命科学が到達し
たひとつの答えがこれだった。一九五三年、科学専門誌『ネィチヤー』にわずか千語(一
ページあまり)の論文が掲載されていた。そこには、DNAが、互いに逆方向に結びついた二
本のリボンからなっているとのモデルが提出されていた。生命の神秘は二重ラセンをとっ
ている。多くの人々が、この天啓を目の当たりにしたと同時にその正当性を信じた理由
は、構造のゆるぎない美しさにあった。しかしさらに重要なことは、構造がその機能をも
明示していたことだった。論文の若き共同執筆者ジェームズ・ワトソンとフランシス・ク
リックは最後にさりげなく述べていた。この対構造が直ちに自己複製機構機構を示唆すること
に私たちは気がついていないわけではない、と。
DNAの二重ラセンは、互いに他を写した対構造をしている。そして二重ラセンが解け
るとちょうどポジとネガの関係となる。ポジを元に新しいネガが作られ、元のネガから新
しいポジが作られると、そこには二組の新しいDNA二重ラセンが誕生する。ポジあるい
はネガとしてラセン状のフィルムに書き込まれている暗号、これがとりもなおさず遺伝子
情報である。これが生命の“自己複製”システムであり、新たな生命が誕生するとき、あ
るいは細胞が分裂するとき、情報が伝達される仕組みの根幹をなしている。
DNA構造の解明は、分子生物学時代の幕を切って落とした。DNA上の暗号が、細胞
内のミクロな部品の規格情報であること、それがどのように読み出されるのかが次々と解
明されていった。一九八〇年代に入ると、DNA自体をいわば極小の外科手術によって切
り貼りして情報を書き換える方法、つまり遺伝子操作技術が誕生し分子生物学の黄金期が
到来した。もともとは野原に昆虫を追い、水辺に魚を捕らえることに夢中で、ファーブル
や今西錦司のようなナチュラリストを夢見ていた私も、時代の熱に逆らうことはできなか
った。いやおうなく、いや、むしろ進んでミクロな分子の世界に突き進んでいった。そこ
にこそ生命の鍵があると。
分子生物学的な生命観に立つと、生命体とはミク口なパーツからなる精巧なプラモデ
ル、すなわち分子機械に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿
である。生命体が分子機械であるならば、それを巧みに操作することによって生命体を作
り変え、“改良”することも可能だろうる。たとえすぐにそこまでの応用に到達できなくと
も-たとえば分子機械の部品をひとつだけ働かないようにして、そのとき生命体にどのよ
うな異常が起きるかを観察すれば、部品の役割をいい当てることができるだろう。つまり
生命の仕組みを分子のレベルで解析することができるはずである。このような考え方に立
って、遺伝子改変動物が作成されることになった。“ノックアウト”マウスである。
私は膵臓のある部品に與味を持っていた。膵臓は消化酵素を作ったり、インシュリンを
分泌して血糖値をコント口ールしたりする重要な臓器である。この部品はおそらくその存
在場所や存在量から考えて、重要な細胞プロセスに関わっているに違いない。そこで、私
は遺伝子操作技術を駆使して、この部品の情報だけをDNAから切り取って、この部品が
欠損したマウスを作った。ひとつの部品情報が叩き壊されている(ノックアウト)マウスである。このマウ
スを育ててどのような変化が起こっているのかを調べれば、部品の役割が判明する。マウ
スは消化酵素がうまく作れなくなって、栄養失調になるかもしれない。あるいはインシュ
リン分泌に異常が起こって糖尿病を発症するかもしれない。
長い時間とたくさんの研究資金を投入して,私たちはこのようなマウスの受精卵を作り
出した。それを仮母の子宮に人れて子供が誕生するのを侍った。母マウスは無事に出産し
た。赤ちゃんマウスはこのあと一体どのような変化を来たすであろうか、私たちは固唾を
呑んで観察を続けた。子マウスはすくすくと成長した。そしておとなのマウスになった。
なにごとも起こらなかった。栄養失調にも糖尿病にもなっていない。血液が調べられ、顕
微鏡写真がとられ、ありとあらゆる精密検査が行われた。どこにもとりたてて異常も変化
もない。私たちは困惑した。一体これはどういうことなのか。
実は、私たちと同じような期侍をこめて全世界で、さまざまな部品のノックアウトマウ
ス作成が試みられ、そして私たちと同じような困惑あるいは落胆に見舞われるケースは少
なくない。予測と違って特別な異常が起きなければ研究発表もできないし、論文も書けな
いので正確な研究実例は顕在化しにくい。が、その数はかなり多いのではないだろうか。
私も最初は落胆した。もちろん今でも半ば落胆している。しかしもう半分の気持ちで
は、実は、ここに生命の本質があるのではないか、そのようにも考えてみられるようにな
ってきたのである。
遺伝子ノックアウト技術によって、パーツを一種類、ピ—スをひとつ、完全に取り除い
ても、何らかの方法でその欠落が埋められ、パックアップが働き、全体が組みあがってみ
ると何ら機能不全がない。生命というあり方には、パーツが張り合わされて作られるプラ
モデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。ここには何か別
のダイナミズムが存在している。私たちがこの世界を見て、そこに生物と無生物とを識別
できるのは、そのダイナミズムを感得しているからではないだろうか。では、その“動的
なもの”とは一体なんだろうか。
私は一人のユダヤ人科学者を思い出す。彼は、DNA構造の発見を知ることなく、自ら
命を絶ってこの世を去った。その名をルドルフ・シェーンハイマーという。彼は、生命が
「動的な平衡状態」にあることを最初に示した科学者だった。私たちが食べた分子は、瞬
く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり、次の瞬間には身体から抜け出て行く
ことを証明した。つまり私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り
立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立つている。
私は先ごろ、シェーンハイマーの発見を手がかりに、私たちが食べ続けることの意味と
生命のあり方を、狂牛病禍が問いかけた問題と対置しながら論考してみた(『もう牛を食べ
ても安心か』文春新書、 二〇〇四)。この「動的平衡」論をもとに、生物を無生物から区別す
るものは何かを、私たちの生命観の変遷とともに考察したのが本書である。私の内部で
は、これが大学初年度に問われた問い、すなわち生命とは何か、への接近でもある。

ロハス
 ↑ 木楽舎2006年初版2011/06/01第六刷

「ロハス」とは、Lifestyles Of Health And Sustainability の頭文字をとった言葉である。
「健康と持続可能性に配慮したライフスタイル」ということである。
出版社の「木楽舎」というのが、こういう運動を推進するための会社で、福岡伸一が、それに共鳴して、『動的平衡』などの本を出し、ベストセラーになった。
この本は、そういう趣旨に沿った本づくりになっている。
内容に立ち入るのは控えておく。いい本である。 ご一読を。






跳び乗った電車の中で/踵の無くなった靴の持ち主は/やがて自分の足が・・・・・・・・・・・中原道夫
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    東京メトロ霞ケ関駅で・・・・・・・・・・・・・・・・・中原道夫

     踏みつけられ、撥ねとばされ、蹴ちらかされ
     磨りきれた傷を残して
     通勤ラッシュのメトロのホームに
     切り落とされたサラリーマンの足の一部が落ちていた

     跳び乗った電車の中で
     踵の無くなった靴の持ち主は
     やがて自分の足が
     ちぐはぐで不揃いになっていることに気がつくことだろう
     そして、だれも恨むことのできないこの不幸なできごとを
     仕方なしに笑いに替えてごまかすことだろう
     (ああ、参ったな、困ったな、どうしよう)

     泣きだしたくなるようなこの笑い
     困惑を吃逆のように呑み込んでしまうこの笑い
     ぼくらの日常に纏わり付いているこの笑い
     ぼくは無性に切なくなって
     磨りきれたゴムの塊をそっとポケットに仕舞う
     哀しいぼく自身を拾うように

     まもなくホームに電車が入ってくる
     通勤客が降りてくる
     いつ切り落とされるか分からぬ靴を履いて
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念のために書いておくと「霞ヶ関」駅の名前の表記は「ケ」を全角で書くのが正式であるらしい。小文字にしない。
この中原の詩の場合、きちんと「霞ケ関」と書いてある。さすがである。

この詩は<日本詩歌紀行3 『東京 詩歌紀行』>(2006年北溟社刊)に載るものである。
現代の都市交通のありようやサラリーマンの哀歓の様子が、かいま見られるだろう。
因みに、付け加えておくと、私の旧作の歌3首も収録されている。

   うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり

   振り返ることのむなしさ腰下ろす石の冷えより冬に入りゆく

   ペン胼胝の指を擦ればそのさきに言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・木村草弥

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参考までに霞ヶ関駅を発車する「小田急電鉄メトロはこね23号東京メトロ千代田線」の動画を載せておく。






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