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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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柴田千晶詩集『生家へ』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
柴田

──新・読書ノート──

     柴田千晶詩集『生家へ』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・思潮社2012/10/01刊・・・・・・・・・・

先ずは下記のようなサイトに載る書評を見てもらいたい。
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瀬崎祐の本棚より

詩集「生家へ」  柴田千晶  (2012/10)  思潮社

 作者は詩人であると同時に俳人でもある。「赤き毛皮」という句集も出版している。
 この詩集では詩作品の冒頭、途中に俳句が置かれている。「あとがき」によれば、「俳句が内包するイメージと格闘するように詩を書き続けてきた。」とのこと。
 たとえば、「顔」という作品の冒頭に置かれた句は、「銅鏡に映らぬ目鼻梅真白」。
この句につづく世界で、誰も「ほんとうの顔を知らない」わたしは夕子と呼ばれ、無念だ無念だとつぶやく嬰児を産み落としていく。
次の句が挟みこまれるとわたしは路子と呼ばれ、その次には和江と呼ばれ、幸江にもなる。
暗くどんよりとした澱のようなものから生えた四つの句を、詩作品が浸している。
 そうして形づくられる世界には、夥しい数の死者ばかりがあらわれる。
拾いあつめた流木で焚いた風呂に一緒に入った拝島さんも死者のようだし(「雁風呂」)、
見知らぬ女が「あなたの男をお返しします。」「少し弱っていますが、まだ生きています。」といって置いて行った甕の中の鰻も、もう元には戻れないのだ(「鰻」)。
いつも背後に寄り添っているような死を感じ続けることによって生を(それは性とも同義なのだろう)確かめているようだ。

   窓の下を廃品回収車が通過してゆく。壊れたものたちを満載して、夜の底を攫っ
   てゆく。私も急がなければ。片羽根の白い蛾が畳で羽搏いている部屋の隅から、
   黒い影がいざり寄ってきて、仰臥している私の足もとからゆっくり這い上がって
   くる。私の男が帰ってきたのだ。男は私の腿を抱きしめ頬を擦り寄せている。愛
   しいひと。指先に触れた男の眦が深く裂け廃棄物の祭明かりが見える。男の中に
   鳥居があり、小さな地蔵たちがうねりながら赤く灯っている。
                             (「青葉木菟」より)

 作者は「詩と俳句が遙かなところで強く響き合う、そんな世界を目指し」たとしている。二つの短詩形によって構築された世界が、より陰影に富んで奥行きのあるものになっていることは間違いないだろう。
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柴田千晶は本職はシナリオ・ライターらしい。
この本の「あとがき」で、こう書いている。

<あとがき
俳句との出会いは偶然だった。一九九六年、シナリオの師である馬場當さんの
鶴見の仕事場で俳人の今井聖と出会った。今井さんも馬場先生からシナリオを学
ぶ弟子の一人だった。軽い気持ちで「街」の句会に参加したのだが、私はあっと
いう間に俳句に嵌った。型があり季語があることの安心感、句会の楽しさ、講評
の面白さ。そのまま今井聖に師事し、いつの間にか十五年が経っていた。
深入りするうちに俳句が恐ろしい詩型であることに気づいた。俳句は定型の枠
に従順に収まることを望まず、定型を簡単に破ることも望まない。一句の中で風
景、肉体、記憶、時間、イメージ、色彩、観念などが犇めき合い爆発寸前で屹立
している。充満するエネルギーが定型の枠と拮抗し、ついには枠を超えて遥かな
ものに届くことを、俳句という詩型は望んでいるのではないか。
定形という枠のない詩もまた怖ろしい。果てしなく増殖してゆくイメージに溺れ
てしまえば帰る岸を見失う。この二つの詩型が私を鍛えてくれた。>

彼女は、こう書いてはいるけれど、導入部として置かれる俳句から、実に怪奇な、さまざまのイメージを膨らませて一篇に仕立てあげられている。
この構成のプロットは、シナリオ作家ならではのものである。
はじめに置いた瀬崎祐の紹介などは、殆ど「的」を射ては、いない。

この本を読めば、みな、怪奇映画か何かを見ているような異様な感覚に陥るだろう。
はじに出した表紙絵も、おどろおどろしい印象のものである。
次に詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)を引いておく。少し長いが。 ↓
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柴田千晶『生家へ』(思潮社、2012年10月01日発行)

 柴田千晶『生家へ』は俳句と散文(帯には「散文詩」と書いてある)が組み合わさった詩集である。俳句を短歌(和歌)にすれば「歌物語」になる。そういう「形式」の作品である。
 「春の闇」の冒頭部分。


   春の闇バケツ一杯鶏の首

「食品加工原料・豚脂牛脂」とペイントされた室井商店のトラックが、早朝の駐
車場に並んでいる。青いフェンスの網目一面に獣たちの血や脂が染み付いた軍手
が差し込まれ、朝の陽に晒されている。室井商店の前を通りかかると、きまって
大きなバケツを提げた短躯の男が店の奥の暗がりから現れた。男が引きずるよう
に運搬しているバケツには豚や牛の臓物らしきものが入っている。男はいつもす
れ違う一瞬、私の顔を盗み見て店脇の路地に薄ぼんやりと消えてゆく。いつの頃
からか、出勤前にこの光景を見ることが私の日課となっている。いや、この一瞬、
男に見られることが私の日課となっているのかもしれない。


 この冒頭に俳句と散文の関係は?
 散文を読みはじめた瞬間、俳句のなかにある「詩」が「詩」ではなく「物語」になる。俳句は基本的に「一瞬=永遠」という構造をもっている。遠心・求心といいかえてもいいが、柴田のこの句と散文の場合は、「時間」を軸に見ると、関係がつかみやすくなる。
 「詩」が「物語」になるとき、そこに「時間」が浮かび上がる。柴田が書いているのは、朝の出勤という「一瞬」のつもりかもしれないが、「一瞬」というのは「詩」のなかにあっても「散文(柴田は映画のシナリオも書いているようだから、それを例にとればシナリオも--これは、あとで触れるかもしれない)」のなかには「一瞬」は存在しない。というか、散文というのは時間(期間)のなかで人間が動くとき、初めて散文になる。散文とは「ひと」そのものなのだ。「いきる」ことそのものなのだ。
 映画(芝居の方がもっと極端だが)では、ある存在がそこに登場するとき、その存在(人間でも、ものでも)は「過去」をもっている。この作品で言えば「室井商店」というのは「食品加工原料」をあつかっているという「過去」をもっている。その「過去」とは簡単に言えば食肉を解体することである。解体の過程で、牛や豚の血が流れる。解体の作業をするときひとは軍手をはめている。作業が終われば、軍手を洗って干すということが必要になる。フェンスの軍手はそういう「過去」をもっている。「過去」をもっているとは「過去」を説明するということでもある。
 この詩では、その「過去」とつながる男があらわれる。人間は出会うと、その瞬間に、それぞれの「過去」がぶつかりあう。自分とは違った「過去」を他人に見てしまう。柴田は、男が食肉の解体作業に従事している「過去」を、それが正しいかどうかは別にして、見てしまう。バケツのなかの鶏の頭。赤い鶏冠。
 「過去」を説明されると、「いま/ここ」がとてもわかりやすくなる。
 「散文」は柴田にとっては、いわば「過去」の説明なのである。

 で、これが、問題である--と私は思う。
 詩は「過去」の説明によって明確になるものなのか。明確にすべきものなのか。柴田の冒頭の俳句(詩)は「過去」の説明によって、「わかる」、とてもわかりやすくなる。
 春の朝、柴田はバケツに鶏の首がいっぱい入っているのを見た。それは食肉加工を商売とする店先であり、毎朝、そのバケツをもった男があらわれ、店の脇の薄くらがり(春の闇)に消えていく。そういう光景を書いていることが、とてもよくわかる。すべての存在が「時間」のなかで、一連の動きをもって(一連の動きだから、どうしてもそこに時間が登場する)、くっきりと見えてくる。
 問題は。
 そのときほんとうに見たのは何? 「時間」になってしまわないか。
 詩は時間を超える。時間を超えるというより、出合った瞬間に、実は「過去」が解体し、そこからいままでなかった時間が誕生するというのが詩である--これは私の定義だけれどね。
 柴田の詩では、それが正反対になる。
 俳句(詩)が、「過去」の時間によって説明される。「いま/ここ」がこういう状態であるのは、こんな「過去」があるからだ、と説明される。
 これでは詩の否定である。

 柴田は、このことにうすうす勘づいているかもしれない。だから、そうやって説明される「過去」を否定すようとする。


    出勤前にこの光景を見ることが私の日課となっている。いや、この一瞬、
男に見られることが私の日課となっているのかもしれない。


 「私が見る」という「構図」を「私が見られる」という構図に瞬時に置き換える。そうすると、「私が見ていた時間(男の過去)」が消え、そこに「私の時間(私の過去)」が突然噴出する。
 物語の逆転の大トリックみたいなものだ。映画の大逆転のようなものだ。
 ここには正確には書かれていないが(というか、説明はされていないが)、柴田はなぜ様々な風景のなかから、朝の光景として食肉加工商店に目を止めたのか。なぜバケツのなかのものが「鶏の首」であるということに気づき、それを書くことになったのか--その「根拠」というか「理由」のようなものが、ほんとうはこの作品のテーマ(?)であり、そういうものをこそ柴田は物語として「未来」の方向へ投げ出していくことになる。
 「未来」というのは、まあ、ことばの進む方向なのだが、その「未来」は実はこれまでの体験(過去)を語るのだから、この「散文」の動きは、一種の「逆向き」の動きである。「謎解き」といえばいいのかも。
 作品のつづきを引いて説明するとわかりやすくなるかな?


   夜の梅鋏のごとくひらく足

かつて京急黄金町の線路沿線の路地には「ちょんの間」と呼ばれるショートプレ
イが出来る店が建ち並んでいた。


 「かつて」が明確にしているように、ここから始まるのは「過去」のことである。「過去」の記憶があって、それがバケツのなかの鶏の首を浮かび上がらせるのである。柴田が、「かつて」を知らなければ、柴田はバケツの鶏の首を見なかった。見たとしても、それは意識に残らないか、あるいは意識から締め出してしまっていただろう。朝からそんなむごたらしいものを見て、気分がいいわけがないからね。でも、柴田はそれを意識から追い出さない。逆に意識にしっかり組み込む。
 詩(俳句)にして、特別な意識として屹立させる。

 で、この「過去」は、さらに解体された肉、血からセックス、殺人へと「物語」を展開していくことになる。(これは、もう書かなくてもいいね。)

 こうした「構造」の読んでいると、私はなんだかいやな気持ちになる。
 うまく言えないが、詩が消えていくのを感じる。
 俳句は、解説された瞬間、「要約」になってしまう。「意味」になってしまう。それが「物語」のなかに組み込まれた瞬間、それは「象徴」ということになるのかもしれないが、これって、いやだなあ。
 柴田は映画のシナリオも書いているから映画もたくさん見ていると思うけれど、何といえばいいのか、俳句は、フラッシュバックの一瞬の映像、しかもストーリーの凝縮した瞬間のスチール写真のようになってしまう。
 こういうのは、私は嫌いだ。古くさい--というか、なんだか「教科書」のように見えてしまう。「教科書」は読みたくないなあ。
 映画で私が見たいのは、もっと「不安定」な「いま/ここ」そのものである。「過去」を失って、どう動いていいかわからない。わからないのに、肉体があるために動いてしまう。存在してしまう。そのとまどいのなかから始まる何かである。
 散文(小説でも哲学でもいいけれど)は、そういうものだと思う。これからどうなるの? わけがわからない。でも、ことばは動いていく。それが散文。
 その散文を俳句はある瞬間へと「要約」する。俳句を「要約」するかたちで散文が動いている。

 きっと別な言い方をすると、この詩集は俳句と散文が競合するように互いを補いながらことばの世界を豊饒にする、ということなんだろうなあ。
 でも、私はそういうふうには言いたくないなあ。
 で、ケチだけをつけてみた。



 作品全体としてではなく、気に入った「行」や「部分」をあげておくと。


無念だ無念だとつぶやきながら嬰児は遅い春へと流れ落ちてゆく。
                                  (「顔」)


 「無念だ無念だとつぶやきながら」は「なみあむだぶつ」(なんまいだ)の音を含んでいて、遠いところから情念が復讐してくるような感じがあり、とてもおもしろい。あとの方にも「無念だ」の繰り返しはあるが、「無念だ、無念だ」と読点「、」で区切られてしまったうえに「つぶやく」とつながらないので、暗い情念が消えてしまって残念だ。
 「斑猫」の「足の親指を丹念に口に含まれていると、」から始まるセックス描写も、「男の声のようにも、私の声のようにも聞こえる」までのことばが大好きである。「含まれていると」の「いる」がおもしろい。そうか、「持続」か、と私はそこから「深読み」というか「誤読」を楽しむことができる。「聞こえる」というところにセックスが落ち着くのも、とても気に入っている。セックスは聴覚である、と私は思う。肉体の遠近感だと思う。
 まあ、これは余談だから、ここまで。

 柴田千晶『生家へ』はどんなふうに読むことができるのか。「俳句+散文詩」というのが出版社(柴田?)の「売りことば」なのだが、まあ、宣伝だね。こういうものを気にしなければいいのかもしれない。
 「俳句」ではなく「1行現代詩」、「散文詩」ではなく「散文」。いや、そういう枠をとっぱらって、「5・7・5」という「定型」と「否定形」。それもとっぱらって、ただの「ことば」。そう読むといいのかもしれない。
 私は「俳句」ということば、その「定義」にひっかかってしまうのである。「俳句」を「散文」で「これは、こういう背景のあることばなのです、と説明するときの、そのことばの構図にひっかかってしまうのである。

 俳句とは何か。
 たとえば、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」。ここには「法隆寺」という「固有名詞」がある。だから、ここに書かれている寺が「法隆寺」であることはたしかなのだが、そのほかのことは、どうだろう。「柿」はどんな柿? 鐘は法隆寺の鐘? それともどこか遠くの寺の鐘? だいたいこのとき子規はどこにいたんだろうか。法隆寺で柿を食った? まさかね。では、どこ? 自分の家、というか、逗留先?
 わからないことはいっぱいある。いっぱいあっても、子規が柿を食ったということはわかる。鐘が鳴ったということもわかる。法隆寺を思っている(?)ということもわかる。こんな句なんて、「ありのまま」じゃないか。その「ありのまま」がわかってしまうので、それ以外は、まあ、関係がない。そこにどんな「過去」があるか、これからどんな「未来」が始まるか、まったく関係ない。子規という人間さえ関係がない。そういう無関係の関係のなかに、そのことばを読むと誘い込まれ、読者(私)とことばがひとつになるということが俳句なのだと思う。
 芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」。これだって、池に蛙が飛び込めば水の音がするなんて「ありのまま」。「ありのまま」すぎて、わかりすぎて、そのことが不安になると、この「古池」がどこの池なのか、蛙は一匹なのか複数なのか、水の音はどぼんなのか、ぽちゃんなのか。時間は何時ごろなのか--というようなことを気にしはじめる。つまり、芭蕉は「いつ/どこで」この句を詠んだのか。でも、そういうことは、関係がない。どこだっていい。どの池であっても「古池」であり、どんな蛙であっても「蛙」、どんな水の音であっても「水の音」。「ありのまま」なのだから、そしてその「ありのまま」という「ありかた」というのは、あらゆる「古池」、あらゆる「蛙」、あらゆる「水の音」でありながら、たったひとつの古池、蛙、水の音である、ということだ。「あらゆる」が「ひとつ」という矛盾が俳句なのである。
 「あらゆる・ひとつ」というのは矛盾であるからこそ、ほら、学校で初めて「古池や蛙飛び込む水の音」という句を「名句」であると習ったとき、変な気持ちになったでしょ? 何これ? 蛙が池に飛び込んで水の音がした--それがどうしたの? 「あたりまえ」でしょ? 「ありのまま」でしょ? 「ありのまま」では、どこがいいのか子どもにはわからない。しかも、その「ありのまま」というのは「矛盾」していることなのだから、こどもにはわからない。子どもには「矛盾」がわからない。というか、「矛盾」を受け入れることができない。知らないことを、知っていることに置き換えて、知っていることを少しずつ増やしていくことが、子どもにとって「わかる」ということなのだ。
 「矛盾」がわかるようになるのは、おとなになって、自分の肉体のなかに「矛盾」がたまってきたときである。「矛盾」があっても、「いま/ここ」にこうして人間が生きているということが納得できるようになって、ようやく「矛盾」を受け入れることができる。あらゆることが「矛」であり「盾」であり、それは「表裏一体」である。「わかる」は「理解する」ということではないのだ。受け入れることなのだ。
 「古池や蛙飛び込む水の音」のことばのなかには、そのことばだけではなく、あらゆることばが同時に存在している。ひとつと無数が「表裏一体」になっている。そして、それが「表裏一体」だからこそ、私たちはそこに私自身の「古池や蛙飛び込む水の音」を溶け込ませることができる。というか、読んだ瞬間に、そこに「私」が溶け込んでしまい、そのことばを境目(?)にして、私と芭蕉が「表裏一体」になる。
 だから--というのは変かな?
 この句を読んだ瞬間、これが俳句なら自分にでも書ける、そう思わなかった?
 古池やどんぐり落ちる水の音
 古池や緑の水に赤い鯉
 どこが違うのか、小学生にはわからない。
 つまり、小学生であっても「古池や蛙飛び込む水の音」は、そのまま自分の世界そのものになる。「ありのまま」にのみこまれ、同化してしまう。「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」も同じだね。読んだ瞬間に、そのことばが自分のものになり、どこが特別なのかわからないというのが、きっと俳句の真骨頂である。そして、そこには「無数」と「ひとつ」の「表裏一体」がある、というのが「俳句の正直」なのだ。「無数」と「ひとつ」が「表裏一体」であるから、そこには「私」は存在しないという形でしか存在できない。存在しないことが存在することなのだ。つまり、「矛盾」が俳句なのだ。
 だから。
 この「だから」というのは、一種の「飛躍」なのだが、


袋綴ぢのヌード春の鉄匂ふ                   (「汐まねき」)


 というような、「わからない」ことばがあると、それは俳句ではないのだ。
 言い換えると。
 この柴田の俳句を小学生に読ませてみるといい。なぜ「春の鉄」なの、それが「わからない」というだろう。思春期の男子なら「袋綴ぢのヌード」に反応して教室に笑い声がひろがるかもしれない。つまり、それは「わかる」からだ。けれど、やっぱり「春の鉄匂ふ」につまずく。「これ、いったい何?」
 こういう組み合わせを「おもしろい」(わかる)と感じる(錯覚する)のは、ひねくれた「現代詩」愛好家だけである。詩とは異質なものの出会いである、ということを唯一の真理と信じている「現代詩人」だけである。
 ここにあるのは「作為」(わざと)だけである。(わざと、が詩である--というのは、西脇順三郎の詩の定義である。)

 で、私がきのう書いたのは、そういう「俳句」の感覚と柴田の書いている「俳句」が相いれないだけではなく、「俳句」を「散文」によって解説してしまうと、「表裏一体」が完全に分離する、分離してしまって、「俳句」は完全に否定されてしまうということなのだ。
 私は俳句をつくっているわけではないが、そこのところにつまずく。
 これを俳句ではなく「一行詩」ととらえなおせば、少し、違った感じになる。--なるかな、と少しは思うので、その方向にことばを動かしていってみようか。


   袋綴ぢのヌード春の鉄匂ふ

黒崎課長が死んだ。四日前、課長はすでに死んでいた。赤髪町のビジネスホテル
の一室で、黒崎課長は服を着たまま、浅く湯を張ったバスタブに浸かっていた。
死因は心不全と伝えられたが、なぜ服を着たままだったのか、なぜ着てきたはず
の背広だけがどこにも見つからなかったのか、不可解なことだらけの黒崎課長の
死だった。


 この「汐まねき」の「一行詩」と「散文」の関係は、ここまで読んだだけではわからない。「わざと」が、さらに「わざと」を呼び寄せている。「課長の死」という事件を「わざと」向き合わせている。
 しかし、そこには「死んでいた」「服を着たまま」「不可解」ということばが「ヌード」と呼びあい、そこに「セックス」が浮かび上がる。「袋綴ぢ」と「服を着たまま」の呼応など、作為(わざと)が見え透いていて、あざとい感じすらするが、見方によっては「ていねいな伏線」ということになる。(これを「伏線」と感じるひとには、柴田のことばは「巧み」だなあ、という印象を与えると思う。いい詩だなあ、という印象をあたえると思う。)
 さらに「鉄匂ふ」は「血の匂い(鉄分があるからね)」を連想させし、課長とビジネスホテルの組み合わせは、なるほどね、ラブホテルじゃなくてビジネスホテルをつかっていたんだね、というようなことも連想させる。今度はそうしよう、ポケットから領収書がでてきても言い訳がしやすいからね、とか……。(このありりの工夫にも、「柴田はうまいなあ」と思うひとがいると思う。)
 で、この連想のなかに、「一体感」はあるのかな?
 まあ、そうだね。ここにも、強引に言えば、個別のセックス(黒崎課長)と複数のセックスの「表裏一体」があり、その「表裏一体」のなかに、読者(私)が融合し、「一体感」を感じると言えないこともない。
 そんな具合に、実際、柴田のことばは動いていくのだけれど。
 でも、柴田って「黒崎課長」と同性? つまり、男?
 私は柴田に会ったことはないのでよくわからないけれど。

 まあ、この「むり」には柴田自身が気づいて、


   茫茫と牛乳流す春の川

ひと月前に黒崎課長が宿泊した606号室は、まるで何事もなかったかのように
客室として使用されていた。課長が浸かっていたというバスタブに触れると耳鳴
りがして、排水口からゴボッゴボと水が逆流してきた。課長はまだここにいるの
かもしれない。裸のままベッドに俯せて私を待っているのかもしれない。


 という具合に、なんだかわけのわからない俳句を挟んで、強引に「女」をわりこませる。事件(?)のなかの「女」と柴田の性を「一体化」する。
 この「わざと」は「現代詩」の「わざと」を超えるね。
 つまり。
 手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い、美術館と便器と「泉」の出会いは「無意味」によって「驚き」を引き起こす。「笑い」を引き起こすが、柴田がここに書いている「わざと」は「無意味」とは正反対。「意味」でありすぎる。男と女がビジネスホテルでセックスをするというのは「わざと」というよりは、あまりにも常識的すぎる。つまり「悪趣味」ということになる。
 こうなってしまうと、もう俳句どころではない。
 どうやって「わざと」のなかに「現代」を盛り込み、「意味」を「悪趣味」から「現実」(実感)に変えていくかということが、ことばの課題になってしまう。
 柴田はそれを一生懸命にやっている。
 で、一生懸命にやればやるほど、それが「物語」になってしまう。「流通可能なストーリー」になってしまう。そして、その結果、「一行詩」は、やはり「流通可能な象徴詩」にかわってしまう。
 何といえばいいのかよくわからないが、「一行詩」と「散文」が出会い、それが一生懸命に互いをふくらませようとしているのだが、どうも私には、それが「相乗効果」というよりは「相殺効果」のように思えてしまう。
 「詩」が強烈に浮かび上がるというよりも、「一行詩」がもっていたはずの「詩」がそぎ落とされ「流通言語」が残る、「風俗」が浮かび上がってくる、という感じがする。

 「わざと」をたくさん含んだ「一行詩」を「俳句」と呼ぶのは、それはそれでおもしろいと思う。でも、その「俳句」を「散文」と組み合わせ、向かい合わせにすることで「流通可能なストーリー」に仕立てるというのは、どうも、俳句に申し訳ない感じがするなあ。
 俳句を専門につくっているひとは、この詩集をどんな具合に読むのかな?
 それを聞いてみたい感じがする。
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次に、この本についての書評ではないが、同じ作者の『句集・赤き毛皮』を論じたもので、大いに関連すると思うので引いておく。

「阿部嘉昭のブログ」より

柴田千晶・『赤き毛皮』 
 
書評用に読み進めている本に疲れて
柴田千晶さんの句集『赤き毛皮』(金雀枝舎刊)をひもといてみる。
先週はじめ柴田さんご自身から寄贈いただいたもので
見るのは二度目。もう印は打ってある。

この句集は女性の内在的身体観の発露において「独特」で
(この傾向は柴田さんの詩集でも同じ)、
たぶんこの最も小説に向く柴田さんの資質を
俳句という最短詩型がどう支えているかにまず興味が行く。
このときの効果は多重に迫ってくると感じるが、
先を急がずに少し以下にしるしてみよう。

第一章「躯」が俳句的身体観の前面化という点で
タイトルどおりの働きをしている。

慌てていうが、
むろん柴田さんの句眼が身体のみに集中するわけでもない。
家族詠も職場詠もあり、
前者では家族を俳句的配剤のうちに描いて人間的悲痛を醸すし、
後者では労働疎外にどこか近未来的光景の感触が混ざるという、
これは僕の知る柴田さんの詩の資質と共通性を描く。

ところで女性句の拉鬼体というと
やはり三橋鷹女を想起するひとが多いだろうか。
となると代表句《この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉》に
やはり評価も集中するだろう。

謡曲「紅葉狩」に発想を得たということだが
僕はその謡曲自体を知らない。
ただ「鬼女」という語そのものの妖気が
「夕」「紅葉」という赤の二乗によって荘厳され
同時に「登らば」という仮定によって
意思の奇異よりもさらに
身体が上方に揮発してゆくような危うさを覚える。

それらが相俟って、男性としてはとんでもないもの
(たとえば情感)に直面させられたような気にもなるのだが
検証してみると「拉鬼」の実体(具体)はない。
手捌きはじつは抽象的で、ひとは崇高な事後に接しているだけなのだ。

前置きが長くなったが、柴田千晶の句は
拉鬼に迫る手続きとして、この抽象を許さない。
だからときに俳句が許容できない女体的鮮やかさと強度を得てしまう。

夜の梅鋏のごとくひらく足

葡萄滲むシーツの裏に千の夜

抱かれし後の花野へわが野性

腋剃りし昼の暗がり白薔薇

四句め、下五の詠みは「しろさうび」。
(剃毛後の)腋、昼の暗がり、白薔薇が
すべて物質的微差を連接させながら
喩的に同時(並列)化してゆく。
それしかない句の構造によって
剃毛という女性的行為が白く圧倒化されてゆき、
これが男性的句発想と対照を描くということだ。

鰯雲の不思議な日暮排卵日

ここでも鰯雲と排卵に感覚的類似性が架橋されながら
排卵という女性内在要素によって
たんなる外界の一自然、鰯雲が規定を受けることに
読み手は脅威を感じてしまう。
女性性が脅威として出現する――これが柴田千晶の個性だ。

しかし上述「白薔薇」の句は
同時に白を基盤に「腋」「昼の暗がり」「薔薇」が
相互溶融してゆくあわれさをもふくむ。
女性的営みの慎ましさはそういう生活の場所へ折れ、
自らを消尽していって残余をしめさないのだ。
となって「白」が特権色ともなる。
中村苑子にもそういえば次の秀句があった。

白地着て己れよりして霞むかな

この「白地」には死装束との複合があって
女体はその死後の相から霞まされるのだった。
柴田千晶にもこの系譜に属する佳句が陸続していて
それらに接すると
読み手のおもいも無常境に遊び、はかなく主情化する。

銅鏡に映らぬ目鼻梅真白

女てふ鋳型ありけり白木槿

天井に我を見る我春の闇

こうした自己を起点にした幽玄化によって
その視界も渺茫さを帯びてゆく。

天上に男は四人花樗

「樗(あふち)」の花盛り、
空にはその四隅を支える四柱の男、あるいは四君子がいたが
それが支えをやめて飛翔している図を感じた。
しかしここでは「男」の語によって
その対比「女」こそが
感性的な大団円を迎えているのではないか。

以上しめした句は第一章「躯」にふくまれているが、
その後の章の句でも同じ運動をすることがある。
「銅鏡」の「消滅」ならば

冬桜感熱紙の文字みな消えし

「女てふ鋳型」はその素朴形を土偶に再発見され
そこから清潔で豊饒な春の匂いがたってくる。

あたたかや土偶の陰〔ほと〕は一本線

「天上に」の幻視は縦に流れる、
より女性的な幻に逢着する。

日照雨誰にも見えぬ滝を見る

これらの句では柴田千晶の句発想=躯発想が「鋳型」となって
そこに読者は躯を容れ
柴田のやさしく、普遍にもつうじる感覚を追体験する。
これが至福につながる。

その柴田が絶対に馴致できない、
完全な「拉鬼体」を実現する。
そこでは脱論理=拉鬼という図式が成立するのだが
永田耕衣的ではなく柴田独自的なのが凄い。

白さるすべり女の躯使ひ切る

青梅雨の体に百眼描かれたる

「百眼」は鈴木清順による『殺しの烙印』のセルフリメイクに
出てきたキャラでもあるが、その意識はないだろう
(柴田さんは映画のシナリオも手がけている)。
ただ身体がアーガス化し、青梅雨の前方を百乗に視ている。
そうした身体が怖いのだが、それが女の身体だとは。

この「百」が「算定不能」にまで昇華されて
柴田的「拉鬼」の特権的天文、「銀漢=天河」が登場してくる。三句。

まはされて銀漢となる躯かな

銀漢や髪洗ふ手の一つ増ゆ

銀漢に菌糸めくもの延びゆけり

二句めの脱論理が凄い。
ただし柴田さんの所属結社「街」は加藤楸邨系の流れだろうから
僕が最近の日記で引用した楸邨の次の句が念頭にあるかもしれない。

天の川後脚を抱き犬ねむる

眠る犬の躯の円型がウロボロスとなって
終末と発端が噛みあう永久をつくりあげる。
それで天の川との対照を導引できる。
となると髪を洗うべく頭に置かれ円をつくりあげた双腕も
そのまま手の増幅を予感させ
女の躯も髪を洗うごと千手観音化してゆくのかもしれない。
そこにも天の川を導引できる。

ならば一句めは何だろうか。
初五《まはされて》の解釈に誰もが戸惑うとおもう。
「輪姦〔まは〕されて」とまで読んで、
たんに躯が回転させられただけだと考え直すのではないか。

たとえばそれも独楽のようにではなく
観覧車に乗るように、であっていい。
ともあれ身体に加えられた回転によって
身体はそれ自体の星を粉のように噴き上げる
――この脱論理は躯を起点にしているから綺麗なのだ。

このように柴田さんは発想の人だ。空間発想も素晴らしく
何か数学的鬼才をおもわせる。
そうした句は拉鬼ではないが愉しい。最後に二句を転記打ち。

花冷のジャングルジムの中に鶏

捨てられし冷蔵庫開く桜山

いや、転記打ちして考えが変わった。やっぱり柴田的拉鬼だ。
そう、この二句では描かれている空間性そのものが
女性身体を暗喩しているのではないか
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引用ばかりになって申し訳ないが、下記のような記事もある。 ↓ 「週刊俳句」より。

「湿ったもの」の正体
柴田千晶『生家へ』を読む     三宅やよい



柴田千晶の『生家へ』所収の「狢」「錆色の月」は詩人松下育男中心に発行する詩誌「生き事」五号で読んだ覚えがある。その詩誌の企画で柴田の作品は「しめっている」を意識して作られた詩だったように思う。今回一つの詩集として編まれるのにそのときの意図とは違っているだろうが、今回の詩集と同様に俳句と詩によって構成されている。まずは「俳句と詩」の組み合わせに注目したい。

同じように俳句と詩を組み合わせた詩集に辻征夫の『俳諧辻詩集』がある。「詩は簡単に言えば滑稽と悲哀ではないだろうか」〔※1〕と言う辻は冒頭の一句を詩に組み入れつつ詩を構成している。そこに収録されている句は詩人の集まる「余白句会」で作った俳句であるが、句についてこの詩集について次のように語っている。


かつて現代詩は、伝統的な文芸である短歌俳句とは別の地点に独自な詩の世界を確立しようとしたが、私たちはすでに<別の地点>という力みからも自由であることを自覚している。これは同時に、詩の成熟の自覚といってもいい。
―中略―
冒頭に、(句会の参加者は)みな詩を書く連中ばかりと書いたが、この句会から詩になにを持ち帰るかは各自の勝手ということになる。私は二年前の春から自作の句を突き飛ばすような感じで「俳諧辻詩集」という連作を試みているが、これも元をただせば現代詩は痩せすぎたのではないかという思いから来ている。江戸以来の俳句は簡潔な認識と季節感の宝庫であり、それは気がついてみれば現代詩にとっても貴重な遺産だった〔※2〕。
辻が俳句に現代詩にはないものを俳句に見出し、自らの詩に組み込んだ。しかしそれは俳句をノスタルジックに扱うのではなく、「自作の句を突き飛ばすような感じ」で詩を生み出したのであって、俳句はそこを通り抜け詩の未知の領域へ踏み込むトバ口のようなものだったのだろう。自分が本気でかかわる小説、あるいは詩とは別の位相に俳句を置く、文人俳句に多く見られる余技としての俳句とは明らかに違う。

かたや柴田千晶は俳句に何を見たのか。

俳句は定型の枠に従順に収まることを望まず、定型を簡単に破ることも望まない。一句の中で風景、肉体、記憶、時間、イメージ、色彩、観念などが犇めき合い爆発寸前で屹立している。
―中略―
定型という枠のない詩もまた怖ろしい。果てしなく増殖してゆくイメージに溺れてしまえば帰る岸を見失う。この二つの詩型が私を鍛えてくれた〔※3〕。
辻が俳句に現代詩にはない風通しの良さと季語を中心に織りなす言葉の体系に魅惑されたのに対し、柴田は俳句の言葉にみっちりと折り畳まれたイメージの豊穣さに惹かれた。それぞれが俳句に求めるものは違っていても、俳句と詩の関係を模索する過程で新たな詩を生み出していった点については同じといえよう。

柴田は自身の俳句が内包するイメージと格闘するように『生家へ』の詩を書き綴ったという。一見、冒頭の俳句を軸に展開する散文詩の構成に思える。題でもなく、始まりの一行でもなく、この俳句の位置は何を意味するのだろう。

詩が次の行へ飛び移るに似た余白を眺めながら考える。節目、節目に置かれた俳句が物語の展開の軸になっているようだ。この物語を語っている作中主体と俳句の語り手の視点は同じ立ち位置にあるように感じられる。自らの俳句に触発されて動き出した詩が今度は逆に全体の象徴ともいえる俳句の言葉を嘗め尽くし崩壊させてゆく。

  春の闇バケツ一杯鶏の首

暗く沈む厨房の一角に置かれた鶏の首が盛られたバケツは「室井商店の前を通りかかると、きまって大きなバケツを提げた短軀の男が店の奥の暗がりから現れた」という描写から動きだす。一つのショットから物語が始まる映画と同じ構造だといえる。各章、それがグロテスクなまでの男女の性愛になだれこんでゆく。まるで私たちの日常が淫靡なものを隠す仮構の入れ物であるかのように、街角を、家をビルの一室にいる人間をめくりあげ「湿ったもの」を引き出してゆく。

その語り口は話の主体である女性を凌辱するかのようで、俳句を契機に詩で発情してみせるのだ。柴田の作品は無名性の強い俳句にも自己演出された「作者」の影が濃いが、詩ではさらに「自己もどき」の濃度が増している。というより、あえて読者の誤解を誘うよう挑発しているとも言える。表出の過激さにおいて詩においても俳句においても柴田は甘やかな抒情と手を切っている。

柴田が表す体は男性が女性の「身体性」と語るとき頭に思い描く女性らしき身体または、女性が男性を引き付けるために差し出す媚を含んだ「身体性」とは明らかに違う。見せられると嫌な女の性欲があからさまな「身体性」である。しかしそのぬめった性欲も交錯する死と隣合わせであるがゆえに滅びを予感させ、肉体があることの悲哀さえ感じさせる。

  廃棄物の祭始まる梅雨夕焼

俳句を節目に展開する世界は性の淫靡さを言葉で突きつめながら展開してゆくが、週刊誌の見出しや日常的なニュースが興味本位でしか取り上げない血なまぐさい現実や、残酷と言ったものを前面に押し出してくる。目をそらすな、見ろ。フィクションであるはずの言葉が悪夢のようなイメージを膨らませ、読むものの肉体にすがってくる。白っぽい日常に隠ぺいされた世界を過剰なまでに読者に突き付けてくる。人が人であることを裏切り続けながら生きている日常の欺瞞を知らされるのだ。

しかし、一つ不満を述べれば話が面白すぎる。

ストーリーテラーとしての柴田の資質が踏みとどまるべき言葉を追い抜かして話を形づくってしまったように感じる部分がいくつかあった。ここまで書いてしまうと小説に手がかかっているのでは、そんなことも予感した。

「俳句」と「詩」性格の異なる二つの詩型を抱え込みながらどちらにも手を緩めない柴田千晶渾身の第五詩集である。
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私は思うのである。
挿入される俳句を「一行詩、短い詩」が挿入されている、と思えばいいのである。
「俳句」とか言うから、伝統がどうのこうの、とか、ややこしくなるのである。
彼女は本来、シナリオ作家であり、「ストーリー・テラー」である、と理解すれば判りやすい。

柴田千晶は 「ロンリー・ウーマン」 というブログを持っている。 アクセスされたい。


草弥の詩作品「ひよどり越え──お春の巻」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
Griechen31.png
↑ 古代ギリシアの壺の絵つけ

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(27)

      ひよどり越え──お春の巻・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

     あたたかくなってきた
     お春は その名の通り 春が好きだった
     まして お上に呼ばれて いそいそとやってきた
     
     <ぬくうなってきたからナ
      お春の お得意の
      ひよどり越え を所望してみよう>

     と お上が呼ばれたのである

     ひよどり越え とは
     今どきの言葉で言えば 後背位である
     これは『平家物語』の一ノ谷の戦いで
     背後の山越しに後方から攻撃をかけたのに見立てたのだ
     因みに
     古代ギリシャの喜劇『女の平和』には
     「チーズ削りの上の雌ライオン式に立ち」というせりふがあり
     この体位だと 言われている

     もっとも お上は 繋がるまでに
     口吸い に始まり 
     豆なめ と続き
     お上の一物への 尺八などを
     お求めになって 徐々に
     ご気分を高めてゆかれた

     <貴(あて)も もう齢じゃからのう>
     と仰言(おうせ)られたが
     秘め事では お元気そのものであった
     ただ いろいろと趣向が多いのである

     この体位では 
     乳房や乳首 尻なども 空いている手で
     思い通り 愛撫することも出来る

     お上は 知識旺盛であられたから
     お春を相手にしても
     寝物語りに こんな話をなさった

     <『日本書紀』という本にはのう
      イザナギとイザナミの神さんが
      鶺鴒(ニハクナブリ)が交尾する様をみて
      子を成す方法を知ったとあるのじゃ>
     と 薀蓄を披露されたりした

     こんな伝説のため 古来日本では
     結婚と鶺鴒の縁は深く
     セキレイは結婚と交接を象徴する鳥となっている

     人間の場合 生物学的に様々な性交体位を取ることができる
     男性が女性の上から被さる形の正常位が一般的と考えられるが
     哺乳類のほとんどは雌の後ろから雄が覆い被さる後背位である
     人間以外では ピグミーチンパンジー(ボノボ)や
     オランウータンが正常位による交尾を行うことが知られている
     コンドームメーカーのDurex社の調査によれば
     世界で最もよく行われる体位は騎乗位で全体の29%
     続いて後背位が28% 正常位(正しくは対面男性上位)が20%となっている
     現代日本では 正常位が一般的と考えられているかも知れないが   
     実は 後背位が日本古来の姿だったと考えられている

     男性が女性との結合部や肛門を眺めながら深い挿入を行える体位でもあり
     腕が自由になるので女性の身体を摑みながら腰を使いやすい
     いわば 挿入のためだけの体位 と言う面もあろう
     膣口が背中側に近い下付き女性にとっては楽な姿勢だ

     古くは「枕を交わす」「情を交わす」といった奥ゆかしい言葉を使った
     「肌を合わせる」「体を重ねる」なども そうである

     お春のような 床上手な遊女は 
     お上にとっては 師匠のようなもので
     技(わざ)には疎い禁中の女たちを相手にしておられる お上には
     目からウロコのような 秘戯を たくさん覚えられた

     薀蓄ついでに 世界での言い方を 披露しておこう
     ラテン語 - coitus more ferarum(「動物のやり方」)
     英語 - doggy style(「犬のやり方」)on all four(「四つ足で」)from behind(「背後から」)
     フランス語 - levrette(「グレートハウンドの雌犬」)
     イタリア語 - pecorina(「小さい羊」)
     オランダ語 - hondjeshouding
     インド 『カーマ・スートラ』 - 「牛の結合」   などと言う

     お上は あらためて 挿入され
     お春の きんちゃくの締めも
     ますます 具合が良くなり
     お春の腰を抱いて 
     獅子のように 咆哮して 精を放って
     果てられた

のちに後水尾院は詠まれた

   <花よいかに身をまかすらんあひ思ふ中とも見えぬ風の心に>





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