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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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小池正博句集『水牛の余波』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
小池②

──新・読書ノート──

    小池正博句集『水牛の余波』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・邑書林2011/03/10刊・・・・・・・・

この本は昨年春に出たもので、知ってはいたが、取り寄せるのが今になった。
先ず、はじめに、以下、句の読み手として、よく知られている、関悦史のサイトに載る書評を引いておく。
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閑中俳句日記(別館) -関悦史-

日々つれづれの中、目にした句集などについて取り上げていきます。

2011年3 月 3日 (木)

   小池正博句集『水牛の余波』  邑書林2011年 

『水牛の余波』は川柳作家小池正博の第1句集。
先に『セレクション柳人6 小池正博集』が出ていて、今回の句集に収められているのはそれ以後の299句だが、《単独の句集として、本書をもって私の第1句集としたい》とあとがきにある。


      評定の途中で鼻が増えてゆく

「評定」「途中」で長引いているらしい気配が出て、「鼻が増え」るがゴーゴリ的な馬鹿馬鹿しさと超現実を呼び込む。

     どの箱を開ければ伊豆の海だろう

      エンタシスの柱に消える大納言

古代ギリシア発祥の「エンタシス」が法隆寺にも取り入れられているのは周知だが、こう書かれると「大納言」が途端に世界史的な文化の伝播の中に不意に置きなおされ、爽快な眩暈を生む。


     プラハまで行った靴なら親友だ

     調律は飛鳥時代にすみました

      空調機から降りてくる見知らぬおばさん

何ものだろうか、このおばさん。

     鏡台の後ろあたりで増えている

何が。

     角砂糖二つで異形のものと知る

      応仁の乱も半ばに仮縫いへ

     終末の帝国フロッタージュするかもね

「フロッタージュ」は硬貨の上に紙を乗せて鉛筆でこすると図柄が転写されるあれで、マックス・エルンストがシュルレアリスム絵画の技法として利用した。
「終末」を迎えた「帝国」が擦り出しの如くその痕跡を歴史に残すことが出来るのかとの意味にもさしあたり取れるが、「するかもね」という誰が言っているのかわからない口語調がまた微妙なずらしをかける。
「終末を迎えた帝国」なのではなく、「終末の帝国」という名前の帝国、あるいは「終末の帝国」という名を持っただけの帝国でもなんでもない別の何かなのかもしれない。

     トイレまで付いてくるなという手紙

      耳栓のありかを知らぬ三姉妹

      城跡についてきたのは相似形

     アリクイを手帖に挟み出社する

     橋ふたつ渡るあいだに脱皮する

      スポイトが秋の目玉を吸い込んだ

      ステーキを切り分けている未来仏

     高さとは少女のままでいることと

「耳栓」「脱皮」「目玉」「高さとは」などの、身体性からエロス、グロテスク、ナンセンスへと開けていく句もあくまで現代川柳ならではの軽やかさ。
言葉はイメージを呼び出しはするが物そのものではないというズレの間に、意味と無意味の響き合いを組織するのが現代川柳の言葉であり、小池正博はその優れた使い手である。
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  S/C 現代川柳を中心とした短詩ウェブサイト


     小池正博『水牛の余波』、渡辺隆夫『川柳 魚命魚辞』


今年始めから、二冊の川柳句集を前にしていろいろ考え込んでいる。
ただ読んで楽しむのなら、以下に引くように、両句集ともエンターテイメント性にも欠けておらず(むしろエンターテインメント過剰とも言える!)、
また句集評を書くにあたっても十二分な秀句を拾い上げることができる。

島二つどちらを姉と呼ぼうかな       小池正博『水牛の余波』

マッチ棒そこは木もなく草もなく

識閾に豆粒ほどの健脚者

黄昏のふくろう パセリほどの軽蔑

東雲の足からませて二艘の舟

リヤ王の真似は天文台でせよ

雨の日は厚物咲が這うてくる

ジュール・ヴェルヌの髭と呼ばれる海老の足

ブリューゲル父が大魚の腹を裂く       渡辺隆夫『川柳 魚命魚辞』

夏は京鱧の骨切るアルバイト

硬直の紡錘体が秋の魚

森敦に月山 吉岡実には湯殿山

ウンコなテポドン便器なニッポン

補聴器が悲鳴を拾う冬の月

イワシは頭ウナギは寝床

ゆる褌の日本列島みえるみえる


こうやって抜き書きした句に感想を加えて句集評としてもよいのだが、いろいろ考え込んでいると最初に書いたのは、これらの句集の評としてはそれで十分ではないという気がするからである。

通常の句集評(歌集や詩集の評でも同様だが)は、評者がとり上げるに値すると考える作品を抜粋して、そこから作者らしさを素描していることが多い。ただし、小池正博『水牛の余波』(邑書林、2011)も、渡辺隆夫『川柳 魚命魚辞』(邑書林、2011)も、総体として強い批評意識を保った句集であり、いわゆる川柳(それをどうイメージするにせよ)の中で作家性を示すところに留まらず、川柳というジャンル、さらに他の文芸、現実のありかたを問い直そうという試みである。これらの句集にはこんな良い川柳句がありますよ、と示すのも一つの行き方だが、ではその「良い」「川柳」とは何か、という問いが同時に浮かびあがってくるはずだ。上に引用した8句ずつだけでも、小池と渡辺それぞれが個性的な表現者であることははっきり伝わると思うが、それを単に作家性として示すことは、句集がもつ力を、ありがちな枠組みに填め込んでしまうのではないか。

印象の大きく異なる2句集である。しかし、川柳ジャンルの特性を問いながら、それを独自性にまで鍛え上げることで、言葉や現実を捉える一つの批評的視座を総体として示し得ているということでは共通していると思われる。それを展開してしめすのは相当に厄介なことだが、とりあえず個々の句集について表現上の特質を検討することで、自分なりに明示可能なものとしてみたい。



小池正博『水牛の余波』の特徴は、まずは引用、引喩(アリュージョン)にあると考えられる。こう書くと、教養的な、ブキッシュな側面だけを強調しているように聞こえるが、小池の句では歴史、文学、哲学といったハイカルチャーで文献的な知識だけではなく、日常的な語彙さえ、一種の引用として機能しているように見える。情報とは通常ジャンルやカテゴリー、種々の文脈によって区分されているものであるが、『水牛の余波』の頁に並べられた句を読んでいくと、すべての事象や語彙がフラットに、等分の重み(あるいは軽み)をもって表れてくるのに気付くのである。

おそらく小池の句がある種の読者にとって「難解」に映るのは、この言葉のフラットさをどう捉えてよいのか分からないからだろう。特に近現代川柳の読みにおいては、ある事象(語句)に対する(作者のものと想定される)思い入れが読解の起点であり終点であることが多いように思える。そうした視点から小池の句に作者の思い入れを読み込もうとしても、結局は読者の好みにあった句を選び出して、とりあえず納得する以上の読みは出来ないだろう。そのように句の裏側に発見したと感じた思い入れは実は読者自身のものでしかない。『水牛の余波』を読みとおすにはそれとはまったく別の構えが必要である。

鴉声だね美声だね火星だね        小池正博

逆引きのいさかい順接のトナカイ

ブラザー日本酒シスター焼酎


並列式の構成の三句を並べてみた。これらの句は「これらの組合せから答えを探しなさい」という暗号ではない。一句目で言えば、「鴉声」「美声」「火星」は「セイ」という語尾の音によって、しかも「~だね」という日常的な文末表現によって結びつけられながら、一つの背景の意味などを決して生み出さないように並べられている。この句の内容をあえて言うならば、「鴉声」「美声」「火星」という三つの言葉がそれぞれの意味内容や文脈・背景を保持したままで、お互いに干渉し合う楽しみ、であろう。「ブラザー日本酒シスター焼酎」も、別に男女差を酒の種別で表した、つまり隠喩(メタファー)の句であるわけではない。「ブラザーXXXシスターYYY」といういかにも何処にでもありそうな言い回しに填め込むことで、「日本酒」と「焼酎」がもつ語感、イメージ、また読みにおいて読者が想起する経験などを楽しませようという仕掛けなのだ。

つまり、「難解」という見方とは逆に、『水牛の余波』の句ではすべてがあっけらかんと句の表面に投げ出されているのであって、「解くのが難しい」というところの「解く」べき謎がそもそも欠けているのである。もちろん、作品として提出された時点で、読者には深読みすることが許されている。また次のような句では、国家(国語?)や宗教に対する何らかの見解が述べられていると読むように誘われている気もしてくる。

調律は飛鳥時代にすみました         小池正博

はじめにピザのサイズがあった

タクシーを呼べば仏教伝来す


ただし、これらの句であっても、言葉のフラットなつかみ方が句の印象を決めて、そこから深読みも生じてくるということは言えると思う。『水牛の余波』の句がもつ別の特質は、引用元が高等、高尚なものまで含むにも関わらず、句の構成自体は現代語のレベルでシンプル、明瞭なものに徹底されていることである。そのことによって、それぞれの言葉に過剰な価値が付加されることを回避しているのだ。この句集では、文体は、すべての言葉に通常はありえない自由を与えて、自在に交流させることに奉仕している。そこに従来型の「自己表現」や「リアリズム」を価値基準とする「文学」とは対照的な言葉の楽しみが生まれるのだ。一句として読むならどうやっても作品としての価値に疑問が残る次のような句も、そうした傾向を句集全体へ浸透させるための仕掛けなのかもしれない(これは買いかぶりかも知れないが)。

目の前に池があるから座ろうよ        小池正博

兄さんが裁判所まで来ています

その海老にお湯をかけてもいいですか


表現上でもうひとつ気になったのは、上の3句目にも出てくる「その」や「そこ」といった指示詞が散見されるところだ。成功した句もあるが、「その海老に~」の句のようにピンと来ないものが多かった。面白い読みがあり得るのか、他の評者の意見を読んでみたいところだ。



渡辺隆夫『川柳 魚命魚辞』は作者の第5句集。ファンとしてはとりあえず、これまでの句集から2句ずつ引いておきたい。

八月を泣きたい人は泣いて下さい   渡辺隆夫『川柳 宅配の馬』

原子炉でするめを焼いている男

かなでは切れぬ樋口可南子かな    渡辺隆夫『川柳 都鳥』

鶴彬以後安全な川柳あそび

わけあって両手に妻という事態     渡辺隆夫『川柳 亀れおん』

テロに吹かれて歩かいだ

散歩体とは犬に引かれて行く物体   渡辺隆夫『川柳 黄泉蛙』

ベランダを降りたらダライ・ラマになる


小池の表現も川柳のみならず文芸表現として個性的なものだったが、渡辺の場合は時事川柳や新聞川柳ととりあげる題材が重なるにも関わらず、読後感はそれらとははっきりと異なるという点で注目に値する。『川柳 魚命魚辞』の句にも同じことが言える。

廃仏毀釈 明治初年のタリバーン     渡辺隆夫『川柳 魚命魚辞』

原子力銭湯へ行っておいでバカボン

ふらふらと戦死の父が慰安所へ

八月十五日は燃えるゴミの火

鳥帰るあらまテポドンどこ行くの


読後感は、まずは、新聞川柳よりはるかに過激である、といったところだろう。ただし、ただ過激な内容を書いただけでこんなに面白い句が出来るとは思えない(出来る、と思う人はぜひ書いてみてください)。もし過激な思想をもつ人間がその思想を表現しようとして川柳を書いたとすれば、とても読めたものではないに違いない。渡辺の句が楽しく読めるのは、とり上げる事象に対する作者の「解釈」を押し売りする表現とは180度反対に、誰でもが情報として知っている主題を、ことさらな知識や意味を貼り付けることなく、あくまで軽く、あっさりと提示することで、句としての表現にしおおせているところだ。テクニック面で言えば、例えば一句目では、「廃仏毀釈」と「タリバーン」という私たちが別個の時間・場所に属するものとして認識している事象を、「明治初年の」であっさりと結び付けて、それぞれの在りかたを浮かび上がらせている。

時事川柳の弱点は、全国紙というメディアの公式見解を自分たちの認識であると錯覚して、さらに句というかたちで「解釈」を示そうとするところにある。そうした姿勢は、新聞メディアが後発メディアに比べて圧倒的に情報速度において劣っていることがはっきりとして、また、「日本国民」がほぼ同じ情報を共有しているという幻想も崩れた現在では、時代遅れもよいところだという点でも、すでに有効ではないのだ。従来のように、善悪でレッテル分けされたある事象をとり上げて、価値観の共有を確認することで喜んでいるようでは、文芸としてはもとより、娯楽としても、劣化しきったジャンルと言わざるを得ない。渡辺の表現はそうした川柳の、またこの特定ジャンルのみならず、従来型の情報共有に頼りきった怠惰な自称・表現者に対する痛烈な批判である。「廃仏毀釈」「タリバーン」「原子力」「慰安所」「八月十五日」「テポドン」、みな等しなみに情報でしかないのである。こうした語を出すだけで、何か重要なことを共有した気分になるほどバカバカしいことはない。

句集『川柳 魚命魚辞』は、時事性が決して強いとは言えない。そうした傾向を期待して読むと、これまでの句集と比べてトーンダウンしているとも感じられるかもしれない。ただし、渡辺川柳の特質を再考するには、時事性をとりあえず外してみるのもよいのではないかという気もする。すると、まず目立つのは俳句の手法として考えられることの多い「切れ字」そして「季語」を多用していること。

歳の瀬や派遣は切られ俳句は切る     渡辺隆夫

パラパラや少女は昔マッチ売り

剥落の秋は塗装のアルバイト


渡辺が俳句を川柳の一体であると公言していることは知られているが、これは、川柳が俳句より上、などという価値判断をしているのではなく、そもそもジャンルのもつ独自の価値というものをハナから相手にしていないのではないだろうか。その上で、枠組みを決めてその中で良し悪しをうんぬんする場とは無関係な表現を川柳としているのではないか。

 『川柳 魚命魚辞』の中でそうした〈何でもアリ〉な渡辺の特質がいちばん出ているのは、二つの旅中詠のセクションだろう。「フレンチカンカン」と題された章から4句。

セーヌ秋水エッフェル塔ぐらり      渡辺隆夫

悶々のモンマルトルに秋のゾラ

昔からネッシーなんて興味ないんだ

衛兵のキルトの下はノーパンツ


この部分を読むと、読者・ファンの期待がどうであれ、渡辺が川柳とは風刺であるなどとはサラサラ思っていないことがはっきりする。また、自分の視線が特別だというナルシシズムとも無縁である。時事性の高い句についても、これらの句と合わせて、面白さ、爽快さを再読してみる必要がありそうだ。



両句集に共通するのは「言葉や現実を捉える一つの批評的視座」だと書いたが、それは決して固定された枠組みではなく、それとはまったく逆の従来の価値のありかたを解きほぐすような言葉の自由さなのである。そのまま面白く読める句集に、わざわざ重っくるしい評をつけてしまった気がしないでもない。

最後に私がいちばん好きな句を一句ずつ。

その歩哨星の尻尾に撫でられる   小池正博

草津ヨイトコ二人はイトコ        渡辺隆夫
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後者は「湊圭史」のサイトの記事である。渡辺隆夫と一緒に論じられているので、紛らわしいが了承されたい。
湊圭史も当代の論客である。
実は、この本より前に、同じ邑書林からセレクション柳人6『小池正博集』というのが2005/07/15に出ているのである。  ↓
小池集

   「セレクション柳人・小池正博集」 
 
     葉脈をたどってゆけば村まつり

     地球儀の一点に触れ痣とする

     昼寝から目覚めたときのかすり傷

     逢うときは水の階段駆けてくる

     痛みからふと瞬いた星である

     花冷えのどこからが鳥どこからが顔


これらはポエジカルなもののごく一部にすぎないが、例えばここに

     君は額に流星を刺青せよ   詩集『他人の空』所収

という飯島耕一の有名な詩の一行を並べても全く違和感はない。小池正博は詩人を志しても小説家を目指してもよかったのに、何故川柳か、といえば、天然の資質と思われる批評精神の勁さのなせる業であろう。彼は何より「視る人」である。痛覚をともなうほどの視線視覚が言葉を道具として表現されるとき、必然的にそれはサタイアとなりアイロニーとなるものだ。(別所真紀子)

     鳥の素顔を見てはいけない

     吟遊詩人煙草中毒

     曲馬団へとフェロモンは飛ぶ

川柳も、大きく分けると「雑俳」と呼ばれる文芸だが、川柳は五七五の音数律だが、連句の「付け句」七七だけを抜き出した「十四字」という定型の形式がある。
小池氏は論作両面の活躍手なので、「十四字」についても詳しく、「作」の上でも実践しておられる。
それが、すぐ上にある末尾の三句が、それである。
この本の第四章に、わざわざ一章を立てて、「十四字 鳥の素顔」100句が収録されている。
上記は、その中のものである。こういう芸当は、連句作家として練達の小池氏ならではのものである。
なお、「連句」に関していうと、このブログでも何回か採り上げた神戸の鈴木漠氏が何冊もの連句集を編んでおられるが、小池氏も何度か連句を「巻かれた」ようである。
ただ、連句人には、それぞれ流儀があり、しきたりに煩い人など、色々あるので連句を「巻く」のは難しい。

他の人の記事からの引用が多くなったが、一応の鑑賞は、この辺にしたい。
書き足りなかったところは、またぼつぼつ補いたい。


寒菊も黄を寄せ合へばさみしからずさ庭の隅のひだまりの中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    寒菊も黄を寄せ合へばさみしからず
       さ庭の隅のひだまりの中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
「寒菊」というのには、特別に品種があるわけではなく、初冬に咲く晩生の菊をまとめて言っているようである。ここに掲げたものは黄色であるが、白色もあれば淡藍色のものもある。

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写真②のものは白い色をしている。これも寒菊の一種とされている。
私の歌は寒さの中に、けなげに咲く寒菊に寄せて、私の心象を盛ったもので、単なる写生と受け取ってもらっては、困る。

古い俳句を見てみると

   寒菊や粉糠のかかる臼の端・・・・・・・芭蕉

   泣く中に寒菊ひとり耐(こた)へたり・・・・・・・・嵐雪

   寒菊や日の照る村の片ほとり・・・・・・・・蕪村

   寒菊や臼の目切りがぼんのくぼ・・・・・・・・一茶

などの作品がある。
冬の景物には「ものがなしさ」の心象が盛られることが多い。寒菊も、同様である。
以下、寒菊を詠った句を引いておきたい。

 寒菊を憐みよりて剪りにけり・・・・・・・・高浜虚子

 寒菊の雪をはらふも別れかな・・・・・・・・室生犀星

 寒菊や世にうときゆゑ仕合せに・・・・・・・・岩木躑躅

 弱りつつ当りゐる日や冬の菊・・・・・・・・日野草城

 冬菊のまとふはおのがひかりのみ・・・・・・・・水原秋桜子

 寒菊の霜を払つて剪りにけり・・・・・・・・富安風生

 寒菊や母のやうなる見舞妻・・・・・・・・石田波郷

 わが手向(たむけ)冬菊の朱を地に点ず・・・・・・・・橋本多佳子

 冬菊の乱るる色を濃くしたる・・・・・・・・鹿野佳子

 寒菊の空の蒼さを身にまとひ・・・・・・・・渡辺向日葵

 寒菊や耳をゆたかに老い給へ・・・・・・・・越高飛騨男

 冬菊の括られてまたひと盛り・・・・・・・・横沢放川



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