K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(3月)月次掲示板
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一昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
kohakucyou02-1コハクチョウ飛翔

弥生三月になりました。 3.11の哀しみと鎮魂の日が巡ってきます。
寒暖を織りまぜながら春は一歩づつ深まり、白鳥の「北帰行」も始まってます。

 くちびるが乾かないように春風を避けて光のフルートを吹く・・・・・・・・・・・・・・・・加藤治郎
 吉野山。胸せまりくる花のかげ 西行のごとく われは死なむよ・・・・・・・・・・・・ 岡野弘彦
 海に散る桜をどこかで見たやうに思へど遠し亡きははの声・・・・・・・・・・・・・・・馬場あき子
 まつさきに地上をおほふいぬふぐりつくしはこべら光の娘ら・・・・・・・・・・・・・・・・日高堯子
 宙をゆく老人あらば 早春のてふてふよ それは父ですから・・・・・・・・・・・・・・小島ゆかり
 穏しかるひと日にあらな一束にくくられしより水仙にほふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 篠 弘
 地下深く木々の根伸びてゆくさまを思えば突然さみしい地上・・・・・・・・・・・・・・・ 小島なお
 赤土に赤き土偶の眠れるをしずかに満ちて桜ひらきたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 奥田亡羊
 死はそこにあるかと思ふあかるさに菜の花咲けりその花を食ふ・・・・・・・・・・・・・・・外塚喬
 いつまでも暮れない空にくたぶれて門鎖しにゆく草匂ふところ・・・・・・・・・・・・・河野美砂子
 飯館村にとり残さるる牛たちの傍へ去り難きこころを思へ・・・・・・・・・・・・・・・・中埜由季子
 紫花菜野づらを蔽ひ咲きみてり荼毘のにほひのただよへる昼・・・・・・・・・・・・杜沢光一郎
 春の旅はげしき海に出会ひけり・・・・・・・・・・・・・ 阿部みどり女
 一燭に春寧からむ伎芸天・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阿波野青畝
 蟇ないて唐招提寺春いづこ・・・・・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
 麗しき春の七曜またはじまる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
 小銭入れチャックはち切れそうになり・・・・・・・・・・・・・清水白柳
 鳩尾を離るる椿ぽたりぽたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下つばさ
 逢へぬゆゑ詩を作りたる春の月・・・・・・・・・・・・・・・・・高井楚良
 コンセント抜く春の夜のかなしみに・・・・・・・・・・・・・・・大穂照久
 手旗から手旗へ伝へきたる東風・・・・・・・・・・・・・・・・・川奈正和
 啓蟄や乳吸ふ丸き後頭部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤尾ゆげ
 タイムトンネル千本鳥居の先は春・・・・・・・・・・・・・すずきみのる
 しちりあ産れもんや淡彩画家の脛・・・・・・・・・・・・・・・・・ 藤幹子

 稀覯本書架可動式卒業す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 生駒大祐
 河口まで三粁の水に春の雲・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 利普苑るな
 月は春かつての最寄駅に降りず・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤文香
 春はあけぼのこのマカロンの膨らみよ・・・・・・・・・・・・・・ 村越敦
 気球より春の大地を抱きしめる・・・・・・・・・・・・・・・・・・中塚健太 
 春待ち星と呼びたき光ほの潤み・・・・・・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 朝寒や無頼の性の草を踏み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 飯島士朗
 昼の灯の夜の灯となる桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山田露結
 山焼くや人にプロメテウスの業・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小滝徹矢
 はがせども葉の香の残り桜餅・・・・・・・・・・・・・・・・・小早川忠義
 どんぶらこどんぶらこつこ春の川・・・・・・・・・・・・・・・あかさたな
 セシウムといふを涼しき翅音とも・・・・・・・・・・・・・・・・・西原天気
 猫町へ歩いて五分春の夜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高梨章
 卵生の悲しみの列鳥帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中哲也
 二つある小さな方が春の橋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上田信治
 春の日のペリカンを見て発情す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・斉田仁
 春泥も涙のやうにしたたるか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・神山朝衣
 並び帰ってゆく白鳥つまらないね・・・・・・・・・・・・・・・・・福田若之
 ぐっすりと眠る海抜ゼロ地帯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古谷恭一
 二階からヒバリが降りてきて野次る・・・・・・・・・・・・・・金原まさ子
 梅日和砂場に砂が運ばれて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小倉喜郎
 紅梅が悪役のように立っている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・斉田仁  
 パステルで描く曲線春の猫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第五歌集『昭 和』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
一般書店からの取り寄せは、角川書店の配本部門・角川グループパブリッシング発売、と指定されたい。
ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books紀伊国屋書店BookWeb、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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白木蓮の花おほどかにうち開き女体は闇に奪はれてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
hakumokuren2ハクモクレン
  
   白木蓮(はくれん)の花おほどかにうち開き
    女体は闇に奪はれてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌のつづきに

   情念の日ざかりばかり歩み来て闇の真白の残像恋ほし

という歌が載っているので、掲出した歌と一体として鑑賞してもらいたい。

青空を背景にしたハクモクレンもよいが、歌に合わせてバックが闇の写真にした。

450-20060321211401465白木蓮

ハクモクレンは、写真②の「こぶし」に似た花であり、事実、この両者は同じモクレン科の木である。
「こぶし」と「もくれん」は非常によく似ているのだが、その違いについて言うと、辛夷(こぶし)は早春に冬枯れの山野で咲き、遠くから目立つため、
かつては春の農作業の目安にしたという。
学名はmagnolia kobus と言い、我が国の固有種である。
「ハクモクレン」に比べて花がやや小さく、花びらが細くて、開き気味である。名前の由来は、果実が握りこぶしに似ているためという。
秋に実が熟すと、表面が割れて中から赤い実が糸でぶらさがる。
モクレン科モクレン属の落葉高木。

ただし、モクレンは中国原産の木である。
遠くから見ると見分けがつかないものである。

mokuren紫木蓮

モクレンというと「紫木蓮」という色違いの種類がある。これは濃艶な花である。
写真③に、それをお見せする。
日本へはかなり古くに渡来したらしいが、日本の文学に登場するようになったのは、江戸時代からである。
中国では15世紀には賞用された花で、仏教に関係があるらしく、日本では寺院に多く植えられている。
ヨーロッパへは1790年に渡り、欧米人にも好まれるようになったという。アメリカでも庭園木として広く植えている。
中国ではハクモクレンのことを玉蘭、シモクレンを木蘭の名で呼んでいる。シモクレンはデカダン的な美だという人もいる。
つまり妖艶な感じを受けるからであろう。

掲出した私の歌では「白木蓮」と漢字で書いて「はくれん」と読ませているが、これは音数揃えのためであって、
普通「ハクレン」と言えば「白蓮」(白いハスの花)を指すので紛らわしい。
私の歌は二つとも「メタファー」の体裁を採っているので、そのつもりで鑑賞してもらいたい。
この歌を作った時は二十年も前のことであり、その頃は私も若かったので、こういう「情念」に満ちた歌も作り得たのだが、
今となっては「枯れ切って」しまったので、こういう艶のある歌は作れない。
逆にいうと、だから、その時どきに歌はどんどん作っておくべきものである。
歌は、自分の年齢に応じた「表白」を反映するからである。
後になってからでは、その時どきの年齢を映した歌は、絶対に作れないということである。

hakumokuren3ハクモクレン②

紫木蓮ないしは白木蓮を詠んだ句で、私の歌に通ずると思う好きな句を引いて終りたい。

 木蓮の一枝を折りぬあとは散るとも・・・・・・・・橋本多佳子

 白木蓮の散るべく風にさからへる・・・・・・・・中村汀女

 葉がでて木蓮妻の齢もその頃ほひ・・・・・・・・森澄雄

 白木蓮純白といふ翳りあり・・・・・・・・能村登四郎

 木蓮の風のなげきはただ高く・・・・・・・・中村草田男

 戒名は真砂女でよろし紫木蓮・・・・・・・・鈴木真砂女

 白木蓮や胸に卍字の釈迦如来・・・・・・・・佐久間東城

 はくれんも煩悩の炎も闇に透く・・・・・・・・山上樹実雄

 白木蓮ひらきし夜が大事なり・・・・・・・・高島茂

 はくれんを手燭のごとく延べし枝・・・・・・・・轡田進

 はくれんの花ほむらだつ風の中・・・・・・・・下村梅子

 尖り立ち色めく蕾紫木蓮・・・・・・・・石川風女

 白木蓮を意中の花として老いぬ・・・・・・・・大森輝男



はいてもはいても女人禁制の庭椿・・・・・・・・・・・・・・・仁平勝
t-syuzan周山椿

   はいてもはいても女人禁制の庭椿・・・・・・・・・・・・・・・仁平勝
 
今回は、そろそろ咲きはじめる「椿」を採り上げる。
椿には何百という栽培品種があるようだが、関西で産出された椿の写真を四つお目にかける。
トップ掲出の写真①は「周山」椿というもので、周山というのは京都市の北方にある町の名前である。そこで産出されたものだろう。

写真②は「谷風」という椿である。
t-tanikz谷風(関西)

写真③は「淡粧」という命名を持つピンク系の椿である。
t-tanso淡粧(関西)

椿と「さざんか」は同じツバキ科の木であり、この花は一見するとサザンカに似ているが、
椿とサザンカの違いは、サザンカは花びらが、ばらばらと落ちるの対して、ツバキは萼の付け根から花全体がぽろりと一度に落ちる、という違いがある。
だから昔の武士は首が落ちると言ってツバキを嫌ったという。
ツバキの名前だが、それぞれ趣向を凝らしてつけてある。花と名前を比べて見られよ。
写真④は「百合椿」という命名である。
t-yuri百合椿(関西)

先に書いたように、ここに挙げる4点のツバキは、みな関西で産出されたものである。
④のものは花びらの形が独特である。唇を尖がらしたような特異な形をしている。
育種に携わる人は根気のある人なのだろう。たくさんのツバキの中から突然変異で出て来たものを品種固定することもあろうし、
今ではバイオテクノロジーの技術を駆使することもあろうが、それにしても手間のかかることである。

写真⑤は「酒中花」という名前の「やぶ椿」である。
syucyuka00801やぶ椿

伝統的なやぶ椿の系統らしいが、縁取りに薄紅色の「ふくりん」というのかボカシが入っており、
これが何だか酔っ払っているようで「酒中花」という名がついたようである。

豊臣秀吉の椿好きは有名で、
俳人では石田波郷も、椿を好んだと言われている。

    一つ咲く酒中花はわが恋椿・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

この句から彼の句集『酒中花』の題名が採られている。

文芸では「万葉集」以来、詩歌に詠われてきた。「玉椿」はツバキの美称である。
「つらつら椿」は連なり生えた椿のことで「万葉集」巻1(歌番号54)につらつら椿の有名な歌がある。

   巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲ばな巨勢の春野を・・・・・・・坂門人足

咲いている椿よりも「落ち椿」を文人は好んで詠った。

   水入れて鉢に受けたる椿かな・・・・・・・・鬼貫

の古句なども、そういう詠みぶりのものである。

椿を詠んだ句は古来たいへん多いが、「落ち椿」を詠んだものを少し引いておく。

 落ちざまに虻を伏せたる椿かな・・・・・・・・・・夏目漱石

 掃くは惜し掃かぬは憂しや落椿・・・・・・・・阿波野青畝

 はなびらの肉やはらかに落椿・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 椿つなぐ子に父問へばウン死んだ・・・・・・・・・・渡辺水巴

 椿流るる行衛を遠くおもひけり・・・・・・・・・・杉田久女

 椿見る落ちよ落ちよと念じつつ・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 愛すとき水面を椿寝て流る・・・・・・・・・・秋元不死男

 椿落つおろかにものを想ふとき・・・・・・・・・・稲垣きくの

 いま一つ椿落ちなば立去らん・・・・・・・・・・松本たかし

 落椿美しければひざまづく・・・・・・・・・・田畑美穂女

 落ちる時椿に肉の重さあり・・・・・・・・・・能村登四郎

 海女の村昼の男に椿満つ・・・・・・・・・・飯田龍太

 犇きて椿が椿落としけり・・・・・・・・・・岡本眸

 落椿われならば急流へ落つ・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ・・・・・・・・・・池田澄子

 神が来し海上の道岬椿・・・・・・・・・・本井英

 椿千われ白骨と化する日も・・・・・・・・・・永島靖子



聞酒に誘はれ口にふふみたる此の旨酒の銘は「神奈備」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
kikizake04利き酒茶碗

    聞酒(ききざけ)に誘はれ口にふふみたる
        此の旨酒(うまさけ)の銘は「神奈備」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


冬は日本酒の「仕込み」のシーズンであり、今はおいしい新酒が出来て来ている。今日は「利き酒」の話題を。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この「神奈備」という銘は私が勝手につけた名前で実在しない。
全国どこかにあるかも知れないが、この歌とは関係がない。
私が参加した「利き酒会」は平凡な名前の蔵で、歌に詠む時には乗り気になれなかったので、架空の名にした。

写真①の茶碗は「審査茶碗」と言って、利き酒をする場合に使用する独特の茶碗である。
「神奈備」というのは、大和の三輪山その他、全国各地に存在する地名で「神の坐(いま)す地」という意味で、古代から信仰の対象として崇められてきた。

写真②③は、私の住む所から木津川を隔てて対岸の丘にある「神奈備神社」である。

kannabi_shrine_2神奈備神社

kannabi_shrine神奈備神社

写真でも読み取れるが「式内」社の字が見え、この字のつく神社は古代はじめからの神社であることを示している。
この山一帯は甘南備山と呼ばれ、一帯には古代の古墳が多数存在する。継体天皇の「筒城宮」もこの一角にあったとされる。
ついでに言うと、この丘の一角に近年、同志社大学が「田辺校地」を構え、女子大学と工学部の全部と各学部の「教養課程」の2年間の学生が通学する。
チャペルも設置され、丘の上の煉瓦づくりの校舎が遠望できる。
もっとも、全国的な傾向だが、大学発祥の地に回帰するのが風潮で、同志社も京都市内の「今出川」校地の周辺を買収して校地を広げて、
教養課程も今出川校地に戻すことになっている。だから田辺校地に残るのは女子大学と工学部だけとなる。
それと海外からの帰国子女のための「同志社国際高校」がある。
また、この丘の麓には「一休禅師」が晩年隠れ住んで、森女と愛欲のかぎりを尽したという「一休寺」がある。
このいきさつについては私は第二歌集『嘉木』(角川書店)の中で「狂雲集」という一連で歌にしておいた。
そのうちの一首を抜き出すと

    一休が森手をみちびき一茎を萌えしめし朝 水仙かをる・・・・・・・木村草弥

というものである。
これはメタファーに仕立ててあるので、解説すると「森手」というのは「森女」の手ということであり、「一茎」というのはpenisのことであり、
「水仙」というのは文芸の世界ではvaginaのことを指す隠語として定着しているのである。

「利き酒」から話題が逸れたようだが、そういう「いわれ」のある名前を私は歌の中で使いたかったのである。
私が酒の蔵元だったら、この「神奈備」の名前を必ずつけるだろう。

写真④⑤には全国的にも銘酒の誉れ高い京都伏見の蔵元の写真を掲げておく。

kiki01大倉

kiki02黄桜カッパカントリー

清酒醸造石数トップクラスの「月桂冠」の大倉酒造(現・月桂冠)と、新興勢力だが醸造石数もトップクラスに躍り出た「黄桜」の黄桜酒造(現・黄桜)の本社である。
黄桜はコマーシャルでも才を発揮し、この本社も「黄桜カッパカントリー」と称している。これらのところでは有料だが、利き酒と料理が楽しめる。
京都の観光コースにも入っていて、工場見学と「利き酒」と料理などがセットになっているものもある。

清酒・日本酒業界は日本酒離れに見舞われ、出荷量は最盛期の半分に落ち込んでいるという。
下記に引いた資料のように2010年度には「白鶴」がトップになっている。
誤解のないように申し添えると、現在では大手の酒造会社では、工場、蔵全体が空調になっていて、年中休みなく醸造する、いわゆる「四季醸造」になっている。
だから冬の間だけ酒を仕込むということがない。また酒仕込みに特有の「杜氏」(とうじ)という専門職は無くなって、
彼らの「ノーハウ」をコンピュータ制御の数値化して、工場の従業員が扱える蔵になっているのである。
もちろん「生きている」発酵菌を扱うのであるから、それなりの苦労があるのは自明のことである。
正確に言うと、「杜氏」という出稼ぎの専門職が無くなって、年中働く、連休もボーナスもある、健康保険も有給休暇もある、普通の工場労働者になったということである。
もちろん「酒作り」という特殊な技能を持った技能者であるのは当然のことである。

ついでに付け加えておくと、以前は国税庁が清酒の仕込みの「酒米」の石数を割り当てていて、制限があった。
だから地方の小さな蔵元は醸造した酒を「桶売り」と称して、大手酒造に買い取ってもらっていたのである。
中には酒の仕込みもせずに割り当ての原料米の権利だけを売り渡していたところもあったという。
私の村にある酒造会社も、ひところは月桂冠に「桶売り」していた。
そんな枠もなくなって仕込みは自由であるが、地方の小さな蔵元は販売先を確保するのに大変であり、また独自の吟醸酒などに特化して、
それなりの成功を収めているところもある。清酒だけでなく「梅酒」を作ったりして門戸を広げて生き残りに必死である。
なお参考までに以下のような統計記事をお見せする。最新の統計数字が手に入らないので少し古いが。。。
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「日本酒出荷ランキング」によると

2010年(1月から12月)の出荷数量

          589,779kl(326万9440石)、前年比93,1%

今年こそはと「底打ち」が期待された中での、60万石(350万石)割れという厳しい数字です。
その出荷内容を見ると2ℓ、3ℓの大容量パックの比率が36%(前年29%)と一気に伸び、全体の3分の1を超える数量になりました。
その一方で小瓶化が進んでいますから、一升瓶の比率は11,5%位にまで下がっています。

上位20社の出荷状況

順位   銘柄    都道府県   出荷量(kl)  (千石)  前年比%

 1    白鶴     兵庫県    59,710    331    97,5
 2    月桂冠   京都府    50,329    279    95,7
 3    松竹梅   京都府    45,819    254   100,1
 4    大関     兵庫県    35,176   195     95,1
 5    オエノンG 東京他    25,332   141    104,0
 6    日本盛   兵庫県    25,219   140    94,3
 7    世界鷹G  埼玉他    24,095   134    97,0
 8    黄桜     京都府    19,482   108     95,7
 9    菊正宗   兵庫県    17,859    99    98,4
10    白雪    兵庫県    12,955    72     92,8
11    清洲桜   愛知県    12,319     68    94,2
12    白鹿     兵庫県    12,122    67    96,8
13    沢の鶴    兵庫県     9,606    53    91,0
14    剣菱     兵庫県     7,543     42    94,5
15    朝日山   新潟県     7,487     42    102,6
16    菊水    新潟県     5,769     32     93,6
17    高清水    秋田県     4,766     26     94,5
18    北冠    栃木県     4,378     24    100,1
19    爛漫    秋田県    4,225     23     92,7
20    立山    富山県    3,965     22     94,1

どのメーカーも努力されてはいますが清酒飲酒の減少傾向は続いています。
この清酒減少傾向は、トレンドですのでこの流れが変化する様子は今のところ見られません。
食生活や消費者の意識が少しでも変化し、変化の兆候が見られれば傾向は変る可能性が有りますが、今のところ変化の兆候は見られません。

清酒に取って現在は受難の時代なのです。
昭和48年を境に清酒の減少傾向が今も続いています、
ピーク時の半分以下です、焼酎にも抜かれてしまいました。
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私の住む村にある「城陽酒造」も色々工夫して頑張っておられるので、遅くなったが書き添えておく。
 ↑ アクセスしてもらいたい。

野ゆき山ゆき海辺ゆき/真ひるの丘べ花を藉き/つぶら瞳の君ゆゑに/うれひは青し空よりも・・・・・・・佐藤春夫
佐藤春夫記念館

   少年の日・・・・・・・・・・・・・・・佐藤春夫

     野ゆき山ゆき海辺ゆき

     真ひるの丘べ花を藉(し)き

     つぶら瞳の君ゆゑに

     うれひは青し空よりも


この「少年の日」という詩の全文は、下記の通りである。

      1.
     野ゆき山ゆき海辺ゆき
     真ひるの丘べ花を藉(し)き
     つぶら瞳の君ゆゑに
     うれひは青し空よりも。

      2.
     影おほき林をたどり
     夢ふかき瞳を恋ひ
     なやましき真昼の丘べ
     花を藉(し)き、あはれ若き日。

      3.
     君が瞳はつぶらにて
     君が心は知りがたし。
     君をはなれて唯ひとり
     月夜の海に石を投ぐ。

      4.
     君は夜な夜な毛糸編む
     銀の編み棒に編む糸は
     かぐろなる糸あかき糸
     そのラムプ敷き誰がものぞ。

佐藤春夫は小説家でもあったが、大正10年刊の第一詩集『殉情詩集』以来、大正、昭和の詩壇に特異な地位を占めた。
多く恋愛詩から成る、この詩集は、詩形においては古格を守りつつ、盛られた詩情の鮮烈さ、憂愁の情緒、鋭敏な神経のおののきによって、多くの人の心を捉えた。
掲出の詩は「少年の日」と題する四行詩四章の初期作品で、「四季」に分けられており、掲出のものは一番「春」である。
表現が古風な型を守っているため、却って少年の恋ごころを、よく歌い得て、愛唱された。

この詩は7、5調のリズムで作られており、日本の伝統的な音韻構造を採っていると言える。

掲出した写真は故郷の新宮市にある「佐藤春夫記念館」のパンフレットである。
佐藤春夫は創作を止めた後は、多くの弟子をとり文筆指導で多額の指導料を得ていた。
今では見られない処世術であったと言える。文壇に絶大な影響力があり、文化勲章の受章にも至っている。



昨日今日比良八荒といふ寒さ・・・・・・・・・・・・・・・鈴木光紫朗
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     昨日今日比良八荒といふ寒さ・・・・・・・・・・・・・・・鈴木光紫朗

比良八講または八荒というのは関西だけに通用することで関東その他では意味が判らない行事ないしは言葉である。
「比良八講」というのは、本来は旧暦2月24日に比良大明神=白鬚神社で比叡山の僧が比良山中で行なっていた修法。
天台宗の僧侶が法華経全8巻を、それぞれ朝夕一巻づつ4日間読経する法会で、天台宗の試験を兼ねた大切な法会であったが、戦後に復活された、という。
今では日を固定して3月26日に行なわれる。

「源氏物語」には、この法会の場面が出てくるという。
この行事の頃、琵琶湖ないしは近畿地方では、寒気がぶり返し、突風が吹いたりするので「比良八講の荒れじまい」などと言われ、
季節の一つの目安とされているのである。
これが終ると湖国にも本格的な春が訪れるという。

行事の解説をしておくと、法会は日吉大社西本宮に集合して、志賀町の打見山頂で取水行事をし本福寺に至る。
3月26日午前9時、大津市長等3丁目の本福寺を出発した僧や修験者らが、ホラ貝を響かせながら大津港までお練りをし、
浜大津港から船に乗って、比良山系から取水した「法水」を湖面に注ぎ、物故者の供養や湖上安全を祈願する湖上修法と浄水祈願を行ないながら、堅田へと向かう。
堅田に到着後は「びわ湖タワー」で護摩供法要が営まれ、これで行事は終る。
この行事については、この記事に詳しい。

98-03p比良八講     98-03m比良八講コース
↑ 写真③は琵琶湖上の船に乗り込む一行のもの。
カラーの写真が見つけられなかったので、お許しいただきたい。
右並びの図像④は、その湖上コースの地図。

「琵琶湖哀歌」に歌われている昭和16年(1941年)の金沢の旧制四高ボート部遭難事件も比良八講(八荒とも書く)によるものと言われている。

極めて地域的な言葉、風習であるから、文芸作品にも詠んだものは多くない。

     比叡おろし今日もまた吹く舞姫の恋やぶれよと伝ふがごとく・・・・・・吉井勇

以下に「比良八講(または八荒)」を詠んだ句を引いて終わる。

 比良八荒沖へ押し出す雲厚し・・・・・・・・・羽田岳水

 八講や魞を流しし比良颪・・・・・・・・・・吉田冬葉

 八荒の雲とも見えて比良の方・・・・・・・・・・能村登四郎

 比良八荒波蓮殻を打ち上ぐる・・・・・・・・・・岡井省二

 伊賀に吹く比良八荒の余り風・・・・・・・・・・宮田正和

 比良八荒波濤にまさる山の音・・・・・・・・・・松本可南

 農鳥の身を削り飛ぶ比良八荒・・・・・・・・・・西村和子

 洗堰にも八講の荒れ及ぶ・・・・・・・・・・三村純也

 八荒や鵜の見え隠る波頭・・・・・・・・・・蟇目良雨

 竹生島比良八荒の浪に乗る・・・・・・・・・・大竹萌

 八講の比良山見ゆれ枯木原・・・・・・・・・・松瀬青々

 杉山の杉擲つ風や比良八講・・・・・・・・・・梶山千鶴子

 松籟も比良八講の荒びかな・・・・・・・・・・向田貴子

 法螺の音に比良八講の船出づる・・・・・・・・・・田中由子

 湖荒るる比良の八講春縮む・・・・・・・・・・岩本愛子

 比良八講らしさの湖の騒立ちに・・・・・・・・・・成宮紫水

来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
asebi3あせび

   来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

この句には前書きに「三月堂」と書いてある。
奈良の東大寺の境内にある三月堂である。
時しも、東大寺の二月堂では3月1日から14日まで「修二会」という、俗に「お水取り」という行事が進行中であった。

アセビ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

学名
Pieris japonica
和名
アセビ

アセビ(馬酔木、学名Pieris japonica (Thunb.) D. Don)とは、ツツジ科の植物である。あしび、あせぼともいわれる。

本州、四国、九州の山地に自生する常緑樹。やや乾燥した環境を好み、樹高は1.5mから4mほどである。
早春になると枝先に複総状の花序を垂らし、多くの白くつぼ状の花をつける。果実は扇球状になる。
有毒植物であり、葉を煎じて殺虫剤とする。 有毒成分はアセボトキシン。

馬酔木の名は、馬が葉を食べれば苦しむという所からついた名前であるという。 多くの草食ほ乳類は食べるのを避け、食べ残される。
そのため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多くなることがある。
たとえば、奈良公園では、鹿が他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多くなっている。
逆に、アセビがやたら多い地域は、草食獣による食害が多いことを疑うこともできる。

アセビは庭園樹、公園樹として好んで植栽される外、花もの盆栽等としても利用される。

asebi2あせび赤

 蟇(ひき)鳴いて唐招提寺春いづこ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 馬酔木咲く金堂の扉(と)にわが触れぬ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

少し秋桜子の馬酔木にかかわる句を抜き出してみた。

水原秋桜子について少し触れてみる。
産婦人科医で宮内省侍医などを務めた。東大俳句会を興す。「ホトトギス」で頭角をあらわし、四Sの一人として一時代を画す。
昭和六年「馬酔木」を主宰して独立、芸術性高い「主観俳句」を唱導。石田波郷、加藤楸邨らを育てた。
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馬酔木を詠んだ他の人の句を少し挙げて結びにする。

 花馬酔木春日の巫女の袖ふれぬ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 春日野や夕づけるみな花馬酔木・・・・・・・・・・・・日野草城

 馬酔木咲く星を小出しに繭の村・・・・・・・・・・・・田部井利夫

 花あしび昔女帝のおはしけり・・・・・・・・・・・・阿片瓢郎

 耶馬台の春ととのへり花あしび・・・・・・・・・・・・小原菁々子

 こころみに足袋ぬぎし日や花あしび・・・・・・・・・・・・林翔

 花あしびかづきて鹿の子くぐり出づ・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 花馬酔木小暗き奈良の骨董屋・・・・・・・・・・・・鎌田和子

 里坊の主は若し花馬酔木・・・・・・・・・・・・寺井谷子

 花馬酔木われ瞑想の椅子の欲し・・・・・・・・・・・・小宮山勇

 あせび野の落暉鹿呼ぶ声しぼる・・・・・・・・・・・・水谷岩雄



春日野の飛火の野守出でて見よ今幾日ありて若葉摘みてむ・・・・・・・・・・・・・・・よみ人しらず
nanakus2春の七草

   春日野の飛火の野守出でて見よ
    今幾日(いくか)ありて若葉摘みてむ・・・・・・・・・・・・・・・よみ人しらず


この歌は「古今集・春上巻」にある歌であるが、よみ人しらず、となっている。
奈良の春日野の飛火野の野守よ、外に出て野の様子を見ておくれ。あと何日したら若葉が摘めるだろうか。という歌である。
この歌は「古今集」に収められてはいるが、春日野周辺で暮らしている人々の実感が濃く出ている。
だから、古い時代の歌に属するだろう、と言われている。

ここで、若葉摘みに関する歌を、少しまとめて見てみよう。

 春日野に煙立つ見ゆをとめらし春野のうはぎ摘みて煮らしも・・・・・万葉集・巻10、作者不詳

この歌の「うはぎ」というのは「嫁菜」のことだという。
春の若草のいろいろを摘んで、煮て食べるのは、若々しい命を願い、長寿を祈る初春の大切な行事であったらしい。
奈良一帯に住んでいた万葉時代の人々にとっては、この歌の情景は、まことに親しみ深いものだった筈である。

 春日野の若菜摘みにや白妙の袖ふりはへて人の行くらむ・・・・・・・古今集・春上巻、紀貫之

「ふりはへて」は振り合う意と、わざと目立つようにの意とをかけて用いた言葉。
京都の都の生活者となっている平安貴族の一人たる貫之は、この歌を、すでに空想の中の美しい早春の情景として作っている。
古京奈良の春日野は、懐古の情をかきたてる地名となっていて、詩的空想の源泉としての「歌枕」になりつつあるのである。

 春日野に若菜つみつつ万代(よろづよ)を祝ふ心は神ぞしるらむ・・・・・古今集・賀、素性法師

これは素性の兄・藤原定国の40歳の賀宴にあたり、その邸の屏風絵を見て詠んだ作。
全くの空想の歌である。

このように見てくると、「若草」や「若菜」を詠んでも、時代、土地、人々の生活の違いによって、自然界との接し方、その表現方法にも、著しい違いがあるのが判る。
「古今集」の歌人たちも、京都盆地の自然を前にして、詠ったには違いないが、次第に、自然詠そのものよりも、自然の季節の推移から、「時の移ろい」という観念的なものを詩の主題にするようになったということである。

万葉の実景を重視する力強い歌が好きか、古今の観念的な、美意識の強い歌が好きか、人それぞれであろうが、あなたは、どう感じられるだろうか。

以下、季語「摘み草」の句を引いて終る。

 寝転んで若草摘める日南かな・・・・・・・・小林一茶

 摘草や嬋妍さして人の指・・・・・・・・山口青邨

 川上のむかうの岸に草摘める・・・・・・・・中村草田男

 さびしさに摘む芹なれば籠に満たず・・・・・・・・加倉井秋を

 蓬摘む一円光のなかにゐて・・・・・・・・桂信子

 蓬摘み摘み了えどきがわからない・・・・・・・・池田澄子

 万葉の風立つ蓬摘みにけり・・・・・・・・大嶽青児

 つくしんぼ遠(をち)の淡海にかざし摘む・・・・・・・・佐怒賀正美

 草摘めり蜂蜜いろの夕日浴び・・・・・・・・大関靖博

 車座のひとりが抜けて草を摘む・・・・・・・・古田紀一

 日の温みもろとも摘めり蓬籠・・・・・・・・永井芙美

 野洲川の一揆の跡や蓬摘む・・・・・・・・西村康子

 ひかり合ふまほろばと吾と蓬籠・・・・・・・・今井君江



倭は 国のまほろば たたなづく 青垣/山隠れる 倭しうるはし・・・・・・・・・・・・・・・・・・古事記
hondenn大神神社

  倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣
    山隠(ごも)れる 倭しうるはし・・・・・・・・・・・・・・・・・・古事記


『古事記』に上のように詠われる大和盆地。その東の山裾に沿って、日本最古の道といわれる「山の辺の道」がある。
その道に沿って南の端に「大神神社」(おおみわじんじゃ)がある。
大和の国には古い社が多いが、日本最古の社としては、この神社をおいて他には、ない。
「三輪山」の麓にある大神神社は、三輪明神と呼ばれる。
大神と書いて「おおみわ」と読むのは、昔は神様と言えば、三輪さんのことだったのである。

記紀神話では、悠久の昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国家の政治に行き詰まり、祈念したところ、海を照らして神がやってきた。
「我は汝の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)である。我を祀れば平らかになるだろう。我を倭の青垣、東の山の上に斎(いつ)きまつれ」という託宣を受けた。
そこで、大和の東の青垣に、その神「大物主大神」(おおものぬしのおおかみ)を祀ったのである。その地が現在の三輪山だという。
この神社には本殿、すなわちご神体を鎮座させる建物がない。
古代の信仰そのままに、三輪山そのものをご神体とし、参拝者は「拝殿」から山を直接拝む。
熊野那智大社が「那智の滝」をご神体にするのと同じ扱いである。
写真①は拝殿である。拝殿の奥、神体山の「禁足地」の間に「三ッ鳥居」がある。
文字通り三つの鳥居が合体したもので、平安時代以前の創建とされるが、禁足地のため一般には見られないので、「摂社」の桧原神社の三ッ鳥居を写真②に掲げておく。

hibara1桧原神社三つ鳥居本命

なお桧原神社には拝殿も本殿もない。この三ッ鳥居があるのみである。
この三ッ鳥居を拝んで、その背後の三輪山を拝する、というものである。

miwa1三輪山

「三輪山」は、三輪の神奈備と呼ばれる円錐形の秀麗な山。
写真③は穴師というところから撮影。
山中には大岩が露出して、頂上の奥津磐座、中腹の中津磐座、麓の辺津磐座があり、それぞれ大物主大神、大巳貴神(おおなむちのかみ)、小彦名神(すくなひこなのかみ)が鎮まるという。
磐座(いわくら)は、神が降臨する神聖なところとされる古代祭事遺跡。
三輪山そのものを御神体として古くから信仰されている。
先に書いた「桧原神社」は、北へ1.5キロほど上がったところにある「摂社」だが、この桧原の地こそ、天照大神が祀られていた大和の笠縫邑(かさぬいのむら)だという。
ここから倭姫命(やまとひめのみこと)の伊勢への旅が始まったという。
ちなみに、三輪から、ほぼ真東、つまり日の出の方角に「伊勢神宮」があるのである。だから、「元伊勢」と別称されるのである。

ここで「三輪」の由来について書いておく。それは三輪の「環緒」(おだまき)塚の伝承である。
イクタマヨリ姫は、大変美しい乙女だった。
ある夜、姫のもとにこの世のものとも思われぬ立派な男が現われ、二人はたちまち恋に落ちて結ばれ姫は身ごもった。
不思議に思った両親が「床のまわりに赤土を撒き、巻いた麻糸(おだまき)の糸先に針をつけ、男の着物の裾にさしておくように」と言いつけ、姫が言いつけ通りにして、翌朝になってみると、糸は入口の戸のカギ穴から外に出ており、辿ってゆくと美和山の社まで来ていたので、男が神の御子であることが判った。
麻糸の残りが家の中に三勾(みわ)あったので、ここを三輪と呼んだ。
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「まほろば」については辞典にあたってみてもらいたい。
参考までにWeb上のフリー百科事典Wikipediaに載る英文の記事を引いてみる。

Mahoroba
From Wikipedia, the free encyclopedia

Mahoroba is an ancient japanese word describing a far-off land full of bliss and peace. It is roughly comparable to the western concepts of arcadia, a place surrounded by mountains full of harmony and quiet.

Mahoroba is now written only in hiragana as まほろば. The origins of the word are not clear; it is described in a poem in the ancient Kojiki (古事記) as being the perfect place in the mythical country of Yamato:

Poem from the Kojiki
Japanese Romanized version
大和 は
国のまほろば
たたなずく
あおかき山ごもれる
やまとしうるわし。

Yamato ha

Kuni no mahoroba

Tatanatsuku

Awo-kaki yama-gomoreru

Yamato shi uruhashi

(Note that the Kojiki itself did not use hiragana; the above is a modernized version)
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この英文の解説は「まほろば」を西欧でいう「アルカディア」と同じようなものと書いているのは、けだし名解説であろう。
なお、古事記についても、その頃にはまだ「ひらがな」は無かったことも明記されていて正確である。
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この記事をご覧になった「硯水亭歳時記」氏から、下記のようなコメントが届いた。
私が簡略に書いたものを補強していただいた。ここに全文を転載して、感謝申し上げ披露しておく。
同氏は私よりはずっと若いが、学識ふかく、私がいつも畏敬して付き合っている方である。

古事記のエピローグとして浪漫溢れて!

Sohyaさま

 クマソ征伐の西伐のあと、すぐさま父・天皇からヤマトタケルへ東伐を命じられ、あらゆるところで大苦戦します。そうしてタケルは漸く帰途につきます。
父君とは確執があったのでしょう。ところがもう少しでヤマトだという時に思わぬ事態になってしまい、タケルは死んでしまいます。
能煩野(のぼの=鈴鹿辺り)に着いたばかりでした。
ただ直接倭には帰らず、伊勢の叔母君へ行こうとした矢先のことです。その死の直前に詠った望郷の歌として、「倭は国のまほろば」と詠みあげるのでした。
倭から駆け付けた妻や子は悲しんで、古事記のエピローグとして、或いはヤマトタケルの「斂葬の歌」として、四つの歌を残されました。
「なづき田の 稲(いな)がらに 稲がらに 蔓ひもとろふ ところつづら」、するとタケルの墓から大きな白鳥が飛んでゆきます。
その白鳥を追ってゆき、「浅小竹原(あさじのはら) 腰(こし)なづむ 空は行かず 足よ行くな」と歌を詠み、私は白鳥と違って、歩きづらくとも磯部を伝ってゆくしかないと言います。
そして「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」と嘆き悲しみ、
更に「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」と、タケルのお墓の廻りで、亡き人への追慕の念を詠われます。
この四首は、この故事にちなみ、今でも天皇の斂葬の儀には必ず詠われる歌なのです。
壮大な古事記の話の最後を飾るのに相応しいように思われます。

 大神神社は古来天皇家の神社でしたが、アマテラスがサルタヒコの先導で伊勢に向かわれてしまった後、大物主へ下賜されたものでした。
鳥居は注連縄だけという、如何にも古い形式にヤマト朝廷以前の縄文文化までも連想させ、浪漫溢れるものです。
山岳信仰は一億年に及ぶ日本古来の縄文文化の名残ではなかろうかと想像を膨らませるのに充分なのですから。
 尚纏向古墳こそ最古の古墳であり、ヤマト朝廷があった証で、纏向こそヤマトの古語であったようですから興味がつきません。




セント・マイケルズ・マウントからグラストンベリー・トーへ・・・・・・・・・・・・木村草弥
The_Death_of_King_Arthurアーサー王の死
 ↑ 「アーサー王の死」(アーサー王と三人の湖の乙女)
黒い頭巾を覆い包むモーガン・ル・フェイは魔導書を探り、アーサー王の命を救う方法を尋ねたことがあった。
その時、モーガン・ル・フェイはアーサー王の臨終の時の守護者のような役割でもある。
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 ↑ セント・マイケルズ・マウント島
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 ↑ セント・マイケルズ・マウント島

──巡礼の旅──(9)

     セント・マイケルズ・マウントからグラストンベリー・トーへ・・・・・・・・・・・・木村草弥

<古代遺跡群を地図上に結ぶと不思議な直線が現れる>
1921年アルフレッド・ワトキンスが唱えたこの説は、以来多くの論争を呼んでいるが、現にそれは存在する。
謎に満ちた英国最長の「レイライン」(牧草地・leyから来ている。イギリスでは牧草地をよぎって、ストーンサークル、塚、古墳、聖なる泉、スタンディンク・ストーンなどさまざまな宗教的事績が一直線上に並ぶこと)が、ここにある。

セント・マイケルズ・マウント島
普段は湾に浮かぶ島、そして干潮時には陸から一筋の道が伸びる不思議、聖ミカエルの為の壮麗な修道院が建つ聖地であり、現代では世界で最も人気のある世界遺産の一つに数えられる北フランスのモン・サン・ミッシェル・・・。
しかし、実はここはモン・サン・ミッシェルではない。ドーバー海峡を挟んで反対側にあるイギリスのセント・マイケルズ・マウントと呼ばれる場所なのだ。
モン・サン・ミッシェルとはフランス語で聖ミカエルの山という意味だが、セント・マイケルズ・マウントは英語では同様の意味である。
そしてこのイギリスのセント・マイケルズ・マウントは、モン・サン・ミッシェル同様に干潮時のみに渡る事が出来る島なのだ。

何故このような不思議な対称ができたのか。もちろん一緒に建てられた訳ではなく、フランスのモン・サン・ミッシェルの方が歴史が古い。
イギリスのセント・マイケルズ・マウントはモン・サン・ミッシェルの実質的な成立の約300年後に築かれた。
元々この地はキリスト教が至る前から聖地として信仰の対象になっていたようだが、12世紀頃に最初の修道院が建てられた。
海で分断されているが、フランスのブルターニュ地方とイギリスのコーンウォル地方はもともとケルト系住民が多かっためていたという共通点を持っており、
後の百年戦争に象徴される犬猿の中のライバル同士が競って建てたというより、恐らく文化が近い物同士が同じ流れを汲む建築と信仰を持ったという方が正しい。
規模ではフランスに少々劣るものの、イギリス側のセント・マイケルズ・マウントも神秘性では見劣りしない。
モン・サン・ミッシェルのように観光客で溢れかえるような事もなく、至って静かなのも良い。

アヴァロン(Avalon、おそらくケルト語でリンゴを意味する「abal」から)、またはアヴァロン島はイギリスのどこかにあるとされる伝説の島であり、美しいリンゴで名高い楽園であったとされる。このような「恵みの島(Isle of the Blessed)」、「リンゴ島」や「幸運の島」という概念は、インド=ヨーロッパ系の神話には同様の例が多くあり、たとえばアイルランド神話のティル・ナ・ノーグ(Tír na nÓg)やギリシア神話のヘスペリデスの園(Hesperides、同様に黄金のリンゴで知られる)などが有名である。

アヴァロンはまた、イエスがアリマタヤのヨセフとともにイギリスを訪れ、後にそこがイギリス最初のキリスト教会となったという伝説の場所としても語られる。
この場合のアヴァロン島の場所は、今日のグラストンベリーではないかと考えられている。

ここで、「アーサー王伝説」との関連について書いておく。

アヴァロンはアーサー王物語と特に強く結びついている。アヴァロンはアーサー王の遺体が眠る場所とされる。
モードレッドとの戦いで深い傷を負った彼は、アヴァロン島での癒しを求めて三人の湖の乙女(あるいは異父姉のモーガン・ル・フェイ)によって舟で運ばれ、この島で最期を迎えた。いくつかの異説によれば、アーサー王は未来のいつかに目覚めるため、ここで眠っているだけだという。

アーサー王とアヴァロン島は、12世紀の歴史著作家であるジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』において初めて結び付けられ、それによるとアーサーはモードレッドとの戦いで致命傷を負い、その傷を癒すためにアヴァロン島に運ばれたとある。

ジェフリー・オブ・モンマスの別の著作『マーリンの生涯』によれば、アヴァロンの地域を統治する九姉妹は:
1.モーガン・ル・フェイ(Morgan le Fay)
2.モロノエ(Moronoe)
3.マゾエ(Mazoe)
4.グリテン(Gliten)
5.グリトネア(Glitonea)
6.クリトン(Cliton)
7.ティロノエ(Tyronoe)
8.ディティス(Thitis)
9.モルゴース(Morgause)

であり、モーガンは九人姉妹の筆頭女性で、医術と変形術に長ける。そして、ディティスはシターンの演奏が上手、巧みである。

ほかにグラストンベリー・トー説というのがあるのだ。 ↓

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 ↑ グラストンベリー・トー
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 ↑ グラストンベリー修道院廃墟の「アーサー王の墓所」

リチャード獅子心王の治世の1191年、グラストンベリー修道院の墓地でアーサー王の古墓が発見されたとの発表がされた。
ギラルドゥス・カンブレンシス(「ウェールズのジェラルド」の同時代の著述(1193年頃)によれば、当時のグラストンベリー修道院長をつとめるヘンリー・ド・サリー)の指導のもとに墓の探索が行われ、5メートルの深さから樫の木でできた巨大な棺のようなものと二体の骸骨を発見。また、そこには通常の習慣どおりの石蓋ではなく敷石がおかれ、石の裏側に貼りつけるようになって密接した鉛製の十字架があり:
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 ↑ 墓碑銘十字架。(ウイリアム・キャムデン著『ブリタニア』挿絵より)

「ここにアヴァロンの島に有名なるアーサー王横たわる。第二の妻ウェネヴェレイアとともに」
(ラテン語: Hic jacet sepultus inclitus rex Arthurus cum Weneuereia vxore sua secunda in insula Auallonia)

と刻印されていた。
王墓の探索に着手したそもそもの理由については、リチャードの父ヘンリー2世がまだ存命の頃、年老いたブリトン人(ウェールズ人)の歌人から、墓がそのくらいの深さから発見されるはずだ、という暗示を受けたからだとギラルドゥスは釈明している。 しかし、ある僧侶が、とりわけその場所にこだわって埋葬されることを切に望み、その遺志の場所を掘り起す作業に当たっているとき、単なる偶然で発見されたものだという、やや後年のラドルフス(ラルフ・オヴ・コッゲスホール))の記述もある。ギラルドゥスもラドルフスも、発見された場所は、2基のピラミッド状建造物のあいだだとしている。 ウィリアム・オヴ・マームズベリ は、アーサーの墓には触れないが、修道院に建っていた高さの異なるピラミッドには詳述しており、それらには人物の立像があり、"Her Sexi"や"Bliserh"等々の刻名がされていたという。

アーサー王と王妃の遺骸は、1191年当時、立派な大理石の石棺に移していったん安置されているが、1278年にエドワード1世夫妻臨席の元、検分が行われ、グラストンベリー修道院の主祭壇の前の地下に、大掛かりな儀式とともに再埋葬された。宗教改革でこの修道院が破壊され廃墟と化す前は、主祭壇下の埋葬地は巡礼たちの目的地になっていたという。

しかし、グラストンベリーの伝説は有名ではあるが眉唾物だと受けとめられていることが多い。中でも、棺にあった刻印は、6世紀の出来事とされるアーサー王伝説より時代が後にずれていると見られており、棺を発見した修道院による秘められた動機があるものと考えられる。これは当時のグラストンベリー修道院長が、他の修道院と競い自分の修道院の格を上げるため、様々な伝説を利用したと見られている。その結果、アーサー、聖杯、ヨセフが一つの物語の中で結び付けられることとなった。

はじめに書いたように、このように、「レイライン」を成して、牧草地をよぎって、宗教的事績が一直線上に並ぶ不思議が出現するのであった。

その他、アヴァロンと考えられている場所はフランスのブルターニュ半島沿岸にあるリル・ダヴァル(l'Île d'Aval)またはダヴァル(Daval)という島だという説や、あるいはかつてハドリアヌスの長城沿いにアバラヴァ(Aballava)という砦のあったイングランド最北部カンブリア州の村、ブラフ・バイ・サンズ(Burgh by Sands)という説もある。


「嶽 温 泉」20首・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
りいふ

──新・読書ノート──

     「嶽 温 泉」20首・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
              ・・・・・三井修発行「りいふ」第8号 2013/03 所載・・・・・

  甘きこと至福千年続くべし風に吹かれてかじる嶽きみ

  もぎたてのりんご一袋百五十円の直売所より望む冠雪

  もみじする裾と真白き頂と山にふたつの季節ありたり

  鳥の声遠く近くに響きおり川は鏡となりてひそけし

  枯れ草に卵を産んだふりをして飛んでは戻る雀なのだよ

  ゆるやかな林道のぼる嶽(だけ)温泉やらいの雨に紅葉濡れつつ

  硫黄の香小雨まじりに立ちこめる高原の宿山楽(さんらく)晩秋

  落ちのびて海を渡りし義経にたまゆら和む心せつなし

  いつよりかあそべの森を震わせる滅びし民の低き角笛

  おいで風おいで霧雨お岩木の白く凍える鳥の海から

  野天風呂すこし離れたところまで宿のあるじとくだる細道

  色づいた柏の木から橅(ぶな)の木へほんのり灯る裸電球

  落ちそうで落ちぬ木の葉が一万枚湯舟の上に鳴っているなり

  混浴といえど今夜は二人きり陸奥は津軽の秋の終わりに

  飛沫熱し顔ものぼせる源泉の濁りの底の暖流寒流

  豊かなる百人風呂よ衝立(ついたて)の向こうの人も言葉少なく

  北辰を探せば弧峰くろぐろと星の巡りを光背として

  いにしえの縄文人の聴覚に水ゆく魚も歌ういきもの

  割れた海砕けた山の傷口も月の光にふさがれてゆく

残されてうろつく犬や見捨てられた痩せた牛に代わって歌いたい。奇形たんぽぽや
耳なしうさぎに代わって歌いたい。基準値を超えたアイナメやシイタケに代わって歌い
たい。ああ、私たちに一体何が起こったんだろう。もう農業ができないと言って首を吊
った人がいた。お墓に逃げますと言って亡くなった人もいた。正しく怖がることなど誰
にもできはしない。歌を歌わずに消えていった全てのものに愛を。そしてあの日を忘れ
たがっている私たち全てに愛を。
 
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作品あとのミニエッセイのテーマは「誰かに成り代わって歌うとしたら・・・・・」ということである。

脚注として少し補足しておく。
「嶽温泉」とは青森県弘前市郊外の古い温泉場
*「嶽きみ」とは当地特産のトウモロコシの名前
*「野天風呂」は混浴だという
*「割れた海砕けた山の傷口も」のフレーズに先の大地震、大津波を詠っている

武藤さんのことは先にも採り上げたことがある。
新聞記者だった武藤さんらしく時事的なことも歌にして、鋭い。
私の歌集『昭和』についても、精細な批評を賜った。ここに改めて感謝の意を表しておく。


春くれば田んぼの水に蝌蚪の語尾活用を君は見るだらう・・・・・・・・・・・・木村草弥
img1098ヒキおたまじゃくし
 
     春くれば田んぼの水に蝌蚪(おたまじゃくし)の
           語尾活用を君は見るだらう・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

「蝌蚪」(くわと)とは「おたまじゃくし」のことだが、以前にも書いたが、この字は中国の上代に、竹簡に漆の汁をつけて字を書き、その字の形が頭が大きく尾が小さい、おたまじゃくしに似ているので、そう名づけられ、それを明治以降、俳人たちが「音読」利用しているものである。

私の歌は、「おたまじゃくし」の尻尾を、日本語の「語尾活用」と捉えて、いわば「比喩」的に表現したものである。一種のユーモアと受け取ってもらっても結構である。
歌としては、取り立てて、どうという歌ではないが、「比喩」表現を理解する人には好評だった。
歌作りでは、こういう「凝った」作り方を時としてやってみたくなるものである。
所詮は短歌も「歌遊び」「言葉遊び」であるから、さまざまの趣向を考えることが必要だろう。
こういう「言葉遊び」を理解しようとしない頭の固い人が往々にして存在するので、困るのである。
いかがだろうか。

「おたまじゃくし」は俳句の世界では「春」の季語で、歳時記には多く見られる。
先に引いたものと多少は重複するかも知れない。ご了承を。

 川底に蝌蚪の大国ありにけり・・・・・・・・・・村上鬼城

 蝌蚪の水わたれば仏居給へり・・・・・・・・・・水原秋桜子

 流れきて次の屯へ蝌蚪一つ・・・・・・・・・・高野素十

 枕べに蝌蚪やすみなき手術以後・・・・・・・・・・石田波郷

 蝌蚪に足少しいでたる月夜かな・・・・・・・・・・長谷川双魚

 蝌蚪つまむ指頭の力愛に似て・・・・・・・・・・金子兜太

 吾のため歌ふ子蝌蚪の水昏るる・・・・・・・・・・佐藤鬼房

 蝌蚪かくも群れて天日昏めたる・・・・・・・・・・桑田青虎

 蝌蚪沈みゆけり頭を真逆さま・・・・・・・・・・大橋敦子

 蝌蚪の水少年のなほ女声・・・・・・・・・・辻田克巳

 蝌蚪生れて白き窓もつ文学部・・・・・・・・・・原田青児

 心ざし隆々たりし数珠子かな・・・・・・・・・・大石悦子

 散り散りの幼な馴染や蝌蚪の陣・・・・・・・・・・船平晩秋

 蝌蚪離合集散のたび数を増す・・・・・・・・・・長田等

 うたたねのはじめに蝌蚪の紐のいろ・・・・・・・・・・鴇田智哉

 紐を出て紐に縋れる蛙の子・・・・・・・・・・木場瑞子

 泡一つ置きに来て蝌蚪沈みけり・・・・・・・・・・江川虹村

 やはらかき泥にくすぐりあうて蝌蚪・・・・・・・・・・高田正子

 蝌蚪生(あ)れてまだよろこびのほかしらず・・・・・・・・・・和田知子

 尾を振つて蝌蚪と生れたる嬉しさよ・・・・・・・・・・井上松雄

 底深く動かぬ蝌蚪の生きくらべ・・・・・・・・・・谷口栄子



『岩山望景詩』・・・・・・・・・・・・・・・・山田兼士
発見

──山田兼士の詩と詩論──(6)

      『岩山望景詩』・・・・・・・・・・・・・・・・山田兼士

山田兼士さんが一年に一回発行されている「別冊・詩の発見」第12号2013/03/22をお送りいただいた。
この定期刊行物は、先生がお勤めの「大阪芸術大学文芸学部現代詩研究室」の編集になっている。学生たちの作品や評論なども掲載されている。
当初は半年刊で発足しているが、2008年からは年刊になっているようである。
プロ詩人による詩作品27篇と、山田兼士による「詩集カタログ2012」という初出は「ツイッター」による短評に加筆したもの。大阪芸大生にる新刊詩集レビュー。
大学生による「詩作品」9篇など、から成っている。
では、ここで、本題の山田作品を紹介する。

     岩山望景詩・・・・・・・・・・山田兼士

                   折々に伊吹を見てや冬籠 (芭蕉)

   れまがった坂道を画家のアトリエから十分ほど登ると
   っぱな岩山が遠望できたエクス一九八四年八月十九日
   おしい姿を背景に子供たちが遊んでいる そのなかの
   はつそうな女の子に山を指差して名前をたずねてみた
   こり笑って「サントヴィクトワール」セザンヌの山だ

   ぶきおろしにハンドルを取られながら自転車を必死に
   っとばしていた高校への道 一九六九年十二月十九日
   になるのは朝整えてきた天パの長髮 左前方からの風
   うけ髮はぐしャぐしゃ 田圃の中の一本道をひた走る
   ぎから分けたことを後悔しながら走るも突風に煽られ
   一旦停車 北西の方角に遠望したのは雪を頂いた岩山
   まとたけるをも打ち負かした神の山だ はるか遠方に

   ゆこもりでもしたいと願いながら岩山を遠望した一瞬
   ったり風に吹かれながら遠く岩山を見ていた夏の一瞬
   の二つの稜線が一つになるのにながい時間がかかった
   う見ることのないだろう異郷の山とこれからも折り折
   見るだろう故郷の山に見守られ僕は還暦にダイブする。

ご覧になって判るように、この詩は、題名の次に小さく載っている芭蕉の俳句の五七五の「頭」の「音おん」を、
各行の「頭」に置く「頭韻」という形式が採られている。
こういうのを古来「冠付け」(かんむりづけ)と称して遊ばれてきた。

例えば、有名な在原業平の歌

   きつばた つつなれにし ましあれば るばるきつる びをしぞおもふ

     (かきつばた 着つつ慣れにし 妻しあれば はるばる来つる 旅をしぞ思ふ)

の歌は、五七五七七の各々の頭に「かきつばた」の「音おん」を配置したものである。

日本語の特性として、西欧詩のような「脚韻」は、いろいろ試みられたけれど、効果が薄いので、古来から今に伝わるのは「頭韻」なのである。
私が短歌結社「未来」に居たとき、編集長の岡井隆の弟子たちも「遊び心」旺盛な連中だから、私も編集部から誘われて「沓冠」(くつかぶり)などに参加した。
私の当該作品については ← ここを参照されたい。
「沓冠」とは、歌の頭と終わりに、任意のフレーズを配置して一連の歌を作る、という趣向である。
頭と終わりが拘束されるので、結構むつかしいが、やってみると面白いものである。

さて、話を山田作品に戻す。行頭の「太字」は、山田作品のものである。

初めの五行は、有名なセザンヌの絵・サント・ヴィクトワール山にまつわる話である。
私にも曾遊の地である。
次の七行は、山田先生の故郷・岐阜県大垣での高校生のときの思い出が詩句になっている。
そして最後の五行は、それらを統合しながら、先生が「還暦」の齢となられたことを詩句として、「今」と繋がるのである。

現代詩作家というのは、さまざまであって、こういう「伝統」と一切「切れる」ことを目指す人が多い。
山田先生は、そうではなく、伝統の形式も活用される姿勢であり、「短歌」をやっている私などは、好ましいと歓迎である。
原文は、もちろん「タテ書き」であるから行末がキチンと字数が揃うのだが、ヨコ書きにすると、どうも不揃いになるがお許しいただきたい。
なお詩の本文はスキャナで取り込んだが、どうしても「文字化け」が生じる。子細に修正したが、まだあれば指摘いただきたい。すぐに直します。


春雷一閃あやとりの糸からみつつ迷路をくぐりゆくらし・・・・・・・・・・・木村草弥
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 春雷一閃あやとりの糸からみつつ
    迷路(ラビュリントス)をくぐりゆくらし・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
「春雷」は別名「虫起し」とも言い、そのことは3/5付けの「啓蟄」のところでも書いた。

この歌を発表したときも評判は良くなかった。やはり判り難いということである。
この歌は「春雷一閃」「あやとりの糸」「からみつつ」「ラビュリントス」などの言葉が日常生活の情景と、どう関わるのか、というわけである。
この一連は「神経叢」という標題のもので8首の歌から成るが、全体として「暗喩」を利かした歌作りになっている。
ここで、そのメタファーを解き明かすことは、しない。いいように鑑賞してもらえば有難い。
一つだけヒントを差し上げると、掲出した写真の春雷の「いなづま」が「あやとりの糸」に見えないだろうか。
要は「想像力」の問題である──「メタファー」というのは。

以下「春雷」を詠んだ句を引いて終わる。

 下町は雨になりけり春の雷・・・・・・・・・・・・正岡子規

 比良一帯の大雪となり春の雷・・・・・・・・・・・・大須賀乙字

 再びの春雷をきく湖舟かな・・・・・・・・・・・・富安風生

 春雷や俄に変る洋の色・・・・・・・・・・・・杉田久女

 春雷や刻来り去り遠ざかり・・・・・・・・・・・・星野立子

 春雷や三代にして芸は成る・・・・・・・・・・・・中村草田男

 春の雷焦土しづかにめざめたり・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 あえかなる薔薇撰りをれば春の雷・・・・・・・・・・・・石田波郷

 句縁ただ仮りそめならず春の雷・・・・・・・・・・・・石昌子

 三山の天心にして春の雷・・・・・・・・・・・・沢木欣一

 春雷の闇より椎のたちさわぐ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 春雷の七十歳はなまぐさき・・・・・・・・・・・・伊藤白湖

 春雷を殺し文句のやうに聴く・・・・・・・・・・・・鈴木栄子

 春雷の余喘のわたる野づらかな・・・・・・・・・・・・鈴木貞雄

 春雷やかの日の銀の耳飾り・・・・・・・・・・・・坪内稔典

 窯出しの壺がまづ遇ふ春の雷・・・・・・・・・・・・辺見京子

 鞭のごと女しなえり春の雷・・・・・・・・・・・・岸本マチ子

 鶸飛べり出雲平野の春の雷・・・・・・・・・・・・葛井早智子

 幸せも過ぎれば不安春の雷・・・・・・・・・・・・黒田達子



老いづけるこころの修羅か春泥の池の濁りにひるがへる紅絹・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 老いづけるこころの修羅か春泥の
     池の濁りにひるがへる紅絹(もみ)・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでも、ご覧いただける。

掲出した写真が「紅絹(もみ)」の裏地である。この紅色は「紅花」を揉みだした色素で染める。
この鮮やかな緋色の長襦袢もある。
これを着物の下着として身に着けたり裏地としたりして、歩くとか、あるいは身をくねらせるとかの時に着物の裾から、ちらりと、この紅絹の緋色がこぼれ見えるというのが、
和服の「色気」というものである。
こういうチラリの美学というのを古来、日本人は愛したのである。
あからさまに、大げさに見せるのではなく、つつましやかな所作のうちに「情(じょう)」を盛る、というのが美学なのである。
もちろん、愛する人のために着物を脱いで寛ぐ場合には、この紅絹の緋色が、もろに、愛し合う男女の情感をあくまでも刺激すると言うのは、野暮であろう。

この歌も「玄人」好みの歌作りに仕立ててある。
春になって池の水も何となく濁る、これを古来「春泥」と表現してきた。寒い間は池の底に潜んでいた鯉も水面に姿を見せるので、春泥である。
人間界もなんとなく「なまめかしい」雰囲気になる春であるから、私は、それを少し大げさだが「修羅」と表現してみた。
読者のご批評を賜りたい。

「春泥」というのは、季語では「春のぬかるみ」のことを指す。泥んこ道も指すが

    鴨の嘴(はし)よりたらたらと春の泥・・・・・・・・・・高浜虚子

という句があり、この句は類型的な「春泥」の句とは一線を画して、春の池の泥のことを詠んでいる。
この句は、掲出した私の歌に言う「春泥」に通じるものがあるので、一言つけ加えておく。

以下、「春泥」を詠んだ句を引く。

 春泥や石と思ひし雀とび・・・・・・・・佐野良太

 春泥や遠く来て買ふ花の種・・・・・・・・水原秋桜子

 春泥に押し合ひながらくる娘・・・・・・・・高野素十

 春泥にいゆきて人を訪はざりき・・・・・・・・三橋鷹女

 北の町の果てなく長し春の泥・・・・・・・・中村汀女

 月読の春泥やなど主を避くる・・・・・・・・中村草田男

 放吟や高校生に春の泥・・・・・・・・石橋秀野

 春泥の恋文横丁今いずこ・・・・・・・・戸板康二

 春泥に手押車の鳩かたかた・・・・・・・・横山房子

 春泥の靴脱ぐひまもほとけ恋ふ・・・・・・・・伊丹三樹彦

 踏み滑る泥や春こそめでたけれ・・・・・・・・三橋敏雄

 午前より午後をかがやく春の泥・・・・・・・・宇多喜代子

 春泥やお伽草子の碑にまゆみ・・・・・・・・高岡すみ子

 
砂浜にまどろむ春を掘りおこし/おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う/海は静かに草色の陽を温めている・・・・・・・・大岡信
yun_596砂浜

         春のために・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

     砂浜にまどろむ春を掘りおこし
     おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う
     波紋のように空に散る笑いの泡立ち
     海は静かに草色の陽を温めている

     おまえの手をぼくの手に
     おまえのつぶてをぼくの空に ああ
     今日の空の底を流れる花びらの影

     ぼくらの腕に萌え出る新芽
     ぼくらの視野の中心に
     しぶきをあげて廻転する金の太陽
     ぼくら 湖であり樹木であり
     芝生の上の木洩れ日であり
     木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘である
     ぼくら

     新らしい風の中でドアが開かれ
     緑の影とぼくらとを呼ぶ夥しい手
     道は柔らかい地の肌の上になまなましく
     泉の中でおまえの腕は輝いている
     そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて
     静かに成熟しはじめる
     海と果実
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この詩は1986年8月刊学習研究社『うたの歳時記』恋のうた・人生のうた、に載るものである。
みづみづしい現代詩の息吹に触れてもらいたい。

今日の記事は短いので ↓ イブ・モンタンの動画を出しておく。「春」を唄うシャンソンである。
私など古い人間には懐かしいが、もう古いかな。


賞味期限切れた顔ねと言ひながら鏡の中の妻は紅ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   賞味期限切れた顔ねと言ひながら
     鏡の中の妻は紅(べに)ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「賞味期限」とは食品に付けられている期限の数字であるが、今では、日常会話の中でも、よく言われるようになっている。
亡妻が実際に、この言葉を言ったのか、それとも私が作品化するときに採り入れたのか、今となっては判然としないが、いずれにしても面白い歌に仕上がっている。
掲出した写真は、もちろん妻のものではない。この写真の女の人などは、まさに「賞味期限」最中である。
化粧品会社のサイトから拝借したものである。

女の人が、お化粧しているのを、こっそり眺めるのは面白いものである。
私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)の中で「化粧」という一連10首を作ったことがある。その中に

   私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

   お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

   化粧はエロチックだ 女のナルシスムだと決めつけてはいけない

   化粧する女は淋しがりやだ。 化粧なしの素肌では不安なのだ

   素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

   化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

というような歌がある。この歌集は「自由律」のものなので定型をはみ出た自由なリズムで作っている。
いかがだろうか。
もっとも、この頃では男も化粧に精を出すような時代になった。
着るものも「ユニセックス」の時代と言われ、男性、女性という区別が明確ではなくなり、「中性」の時代とも言われている。
男性と女性とが「結婚」するという時代でもなくなり、同性同士の結婚が、法的に認められるところも出てくる、という時勢なのである。
私などは時代に取り残された「骨董品」的な価値しかないかも知れない。
それでも、私でも女の人に「まぁ、おしゃれね」と言われたら嬉しいのだから、何をか言わんやである。
この辺で、退散しよう。チャオ!
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この記事は2006/02/19に初出のもので、当時これをご覧になったChibisaruさまが、こんなコメントをお寄せになった。

   <私はコンタクトを入れるときは「ウロコをいれる」といい
    お化粧するときは「化ける」もしくは「変装する」といい
    着替えるときは「武装する」といいます
    家から一歩でると私にとっては戦場なのかな?(笑)>

とても面白くて、的確な表現なので、ここにご紹介しておく。
その人もDoblogの廃止騒動前後の頃から音信不通である。

「足立美術館」鑑賞の旅・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
足立・関雪②
 ↑ 橋本関雪「唐犬図」

──「足立美術館」への旅──

     「足立美術館」鑑賞の旅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 
          ・・・・・クラブ・ツーリズム催行 2012/03/14 日帰りバスツアー・・・・・

かねて世上の評判として聞いていた島根県安来市の「足立美術館」のツアーがあるのを見つけ参加してみた。
折しも今年は橋本関雪の生誕130年にあたるという企画である。 
足立美術館 公式ホームページは ← ここ。

足立・旅①

足立・旅②

バス一台、総勢35名の参加である。大阪梅田の大阪芸術劇場傍の茶屋町駐車場を出て、ひたすら中国道、米子道を走って、先ず、米子全日空ホテルでバイキングの昼食。

足立・旅④

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入口に掲示してある料金表を見ると一人1300円らしく大して旨くはない料理だった。コーヒーも不味い。
ここを出て、すぐ三十分ほどで足立美術館に着く。 
足立美術館については、← に詳しい。

足立・旅③
創立者・足立全康という人は、こういう人である。 ↓

足立 全康(あだち ぜんこう、男性、1899年(明治32年)2月8日 ~1990年(平成2年)12月19日)は日本の実業家。島根県能義郡飯梨村字古川(現・安来市古川町)出身。

実家は農業を営む。尋常小学校卒業後、家業を手伝う傍ら、村の商売の手伝いをし、次第に商売に深い関心を寄せてゆく。14歳の頃、炭を大八車で運搬する傍らそれを売ることで、初めて商売を手がけることになる。その後はさらに商売を手がけてゆき、類い希な商才を発揮してゆくことになる。

第二次世界大戦後は、敗戦後の瓦礫の中を駆け回り、大阪を商売の本拠地として、大阪と安来を商売で往復するようになる。その後、不動産投資を手がけるようになり、一代で財産を築く。

1977年(昭和52年)に名古屋で開催された横山大観展で観た「紅葉」(六曲一双屏風)に大変深い感銘を受け、それが後年の美術品収集への情熱へと繋がる。

1970年(昭和45年)、71歳の時に財団法人足立美術館を設立。
1990年(平成2年)12月19日没。享年92。
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伝記などを読むと、不動産業の中でも、新幹線敷設により「新大阪駅」が淀川べりに建設されるにあたり、同地辺の土地を先行して買いあさり一攫千金になったようだ。

鑑賞は、先ず「新館」の研修室で映像を見ながら、学芸員による解説を三十分ほど聞く。
あと自由見学で、たっぷり三時間にわたり絵や庭を鑑賞する。

足立・庭

庭園は五万平方メートル(一万坪あまり)あるというが、美術館の建っている土地も含めてのことだろう。
手入れは隅々まで行き届いているし「庭園日本一」の触れ込みも納得するが、このランキングはアメリカのものであるから、
もっともっと立派なところがあるから話半分でいいのではないか。
今回はじめて現地に立ってみての感想である。
美術館の中を移動するときに窓を通して見える「額縁」風の景色は稀有である。 ↓

足立・旅⑥

橋本関雪と横山大観の絵は本館二階の展示室に見られた。
橋本関雪の絵は総数26点。横山大観の絵は17点が出ていたが、これらは所蔵品のほんの一部であろう。

足立・関雪①
 ↑ 「夏夕」と題するキツネの絵

足立・関雪③
 ↑ 「猿」と題する絵。
この絵のほかに「玄猿図」という絵も展示されていた。
絵に関しては、いっさい撮影禁止であるから絵ハガキや、買って帰った分厚い図録によったが、図録は分厚くて、スキャナが困難で一部に限った。
一番はじめに掲出した「唐犬図」には対幅で「二匹のグレーハウンド」の絵があるのだが、絵葉書がなくて、図録にはあるが取り込めなかった。
因みに、関雪は犬もたくさん飼っていて、これらの犬も絵に「首輪」が見られることから彼の飼い犬だと判る。
なお、この犬はロシア原産のボルゾイという種類の犬で帝政ロシアの貴族などが好んで飼っていたことで有名。もとは狩猟犬である。

ここらで横山大観の絵を出しておく。

足立・横山②_0001
 ↑ 「霊峰夏富士」

足立・横山①
 ↑ 「無我」と題する明治30年の作品

ここらで他の作家の作品もいくらか出しておく。

足立・松園
 ↑ 上村松園「待月」昭和19年作

新館では、現代日本画家の展示もあったので、それらからいくつか。 ↓

足立・現代①
 ↑ 井手康人「一生歩処」平成10年 第四回足立美術館賞

足立・現代②
 ↑ 穂苅春雄「天上の家族」平成13年 第七回足立美術館賞

足立・現代③
↑ 平山郁夫「祇園精舎」昭和56年

足立・現代④
 ↑ 中本智絵「ターミナル」 平成20年

足立・現代⑤
↑ 山田伸「幻影」平成19年 第13回足立美術館賞

長くなり過ぎたので、そろそろ終わりにする。

足立・旅⑤
 ↑ 北村西望 作
はじめの方に出した「庭園日本一」の像も、 北村西望 作。

足立・旅⑦
 ↑ 私のカメラで撮った今の庭園の写真。

足立伝記
 ↑ 日本経済新聞出版社2007年初版、2008/11/20三刷

なお、ARCHITECTURAL MAP 足立美術館というサイトに設計者などのデータが出ているから参照されよ。



唐国の壺を愛して梅を挿す妻の愁眉や未だ寒き日・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   唐国の壺を愛して梅を挿す
     妻の愁眉や未だ寒き日・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、妻の体調が悪くなりかけた頃のものである。
それは「妻の愁眉」という個所に表現してある。
自分の体調に愁眉の愁いを表わしながら、妻が唐国の壺に梅を活けている、という歌である。
この歌は自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。

梅の開花は、その年によって遅速があるが今年は寒さが厳しく遅れていたが、ようやく満開になった。
何度も書いたことだが、私の住む「青谷村」は鎌倉時代以来、梅の名所として規模は大きくはないが、伝えられてきた。
「万葉集」では、「花」というと「梅」のことだった。今では俳句の世界では「花」と言えば「桜」を指すことになっている。
「和歌」「短歌」でも同じである。気候的にも桜の咲くころは春まっさかりという好時期であり、日本人は一斉に花見に繰り出すのである。
しかし、「梅」には、馥郁たる香りがあり、しかも花期が極めて長くて、長く楽しめる。
梅の産地生まれだからというわけではなく、どちらかというと、私は「梅」の方が好きである。

hana565_1_ume紅梅

梅の花については、先に姉・登志子のところでも挙げたが、私は梅の歌をいくつも詠んでいる。
掲出した歌の次に

     壺に挿す白梅の枝のにほふ夜西班牙(スペイン)語の辞書を娘に借りにゆく

という歌がある。実は、私の次女は外国語学部でスペイン語が専攻だった。

歳時記にも「梅」の句は多い。それらを引いて終りたい。

 梅が香にのつと日の出る山路かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 むめ一輪一りんほどのあたたかさ・・・・・・・・服部嵐雪

 二もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・与謝蕪村

 梅一枝つらぬく闇に雨はげし・・・・・・・・水原秋桜子

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・中村草田男

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・石田波郷

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・星野立子

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・西島麦南

 白梅のあと紅梅の深空あり・・・・・・・・飯田龍太

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・古賀まり子
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普通、紅梅は白梅よりも時期があとになることが多い。

村島典子の歌「花矢倉」35首・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
「晶」81号

──村島典子の歌──(14)

   村島典子の歌「花矢倉」35首・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

      花矢倉           村島典子

   雨あとの地の面に落ちて大きなる鴉の尾羽くろぐろとして
   球根を土に埋めてゐるひとは密議めきをり俯きてをり
   厳冬の地中にいのち育めと数へつつ埋む来る春のため
   なんといふ楽しいひと日柿の木にのぼりて下りて遊びせむとや
   向き合ひて渋柿を剝くもくもくと日ごと数へし二百個がほど
   柿二百個剥きて吊してこの日暮ふゆの暮しの儀式となさむ
   雨にぬれし紅葉黄葉を踏みゆくはかの世へかかる橋ゆくごとし
   足元ゆ雨は降りくる暮れ方といふには早き長等山の峰
   暗きくらき山の石段ふみのぼりまた踏みくだり雨中をゆく
   こんなにも疲れ果てたる日の暮も夕餉つくると立ち上がりたり
                *
   河ふたつ越えてゆくベし人の待つ吉野大淀しぐれてあらむ
   未来すらたちまち過ぎむ窓そとのひつぢ田見つつ運ばれてゆく
   けさの雨やみて川辺にたつ霧の異界へいゆくわれと思へよ
   夜半すぎて屋根に来し雨ざんざんと降れば旅寝のいよいよ淋し
   さくら紅葉散り敷く山へ急坂をみちびかれゆく金峰山寺へ
   山林抖擻するにあらなくひたすらに奧駈みちの登り口に来つ
   まぼろしの声きく喑きまひるまの懺悔懺悔六根清浄
   なつかしき人に会ふごと開扉の奧の憤怒の像にまみゆる
   ことば呑み呼吸を忘れあふぎをり青き憤怒の蔵王権現
   真上よりするどき眼光降りきたりたちまちにして金縛り受く
   まぼろしの花咲く山を思ひみよ人と訣れし日の花矢倉
   紅葉はしみてかなしも尾根に棲む暮しのめぐりしぐれに濡れつ
   しとしとと時雨の音を忍ばせてわれと人とを逢はしめたまへ
   春さればかの世も花の咲くならむ花のもとにて逢はむと約す
   ああわれに歌の師のあり今生にいさかひをせし師のおはしけり
   紅葉するこの世のゆふベまろき碑(いし)やまとくんなか眺め坐しませ
   あしひきの秋野の山はあのあたり背をまもられて青き石文
   老い木なるしだれ桜の冬の枝に雨滴は銀の玉を咲かせたり
   水分(みくまり)のやしろに人の絶ゆるとき桧皮の屋根に月しろかかる
   うぶぎぬの赤子の襦袢月光をあびてゐたらむ子守の社
             *
   独り言つぶやきにつつ橋わたる七つの橋を七たぴわたる
   湯たんぼをふたつ購ふ冬されば温き寝床にふゆごもりせむ
   合図なく逝きたりしひと君らしく死を死ににけむわたしを置きて
   老犬も毛布をかけてねむりたり初冬の雨夜のさびしかりけり
   取り残したる渋柿の実に鵯がきて枝ゆさぶりて一つ落しつ
-------------------------------------------------------------------------
届けられた「晶」81号に載る村島典子さんの歌である。
いつもながら見事な詠いぶりである。 ご鑑賞いただきたい。
なお、これはスキャナで取り入れたので、どうしても文字化けが生じる。 子細に修正したが、まだあれば指摘してください。すぐに直します。
ご恵贈に感謝して筆を置く。


いねがたき夜半にしあれば血統をかなぐり捨てて恋猫が鳴く・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   いねがたき夜半にしあれば血統を
     かなぐり捨てて恋猫が鳴く・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
猫の繁殖期は春と秋の二回あるが、春のものは、まだまだ寒い今の時期に始まる。
去勢手術をしてある猫ならいざ知らず、何もしていない猫は、このシーズンになると、狂気にとりつかれたように昼も夜も相手を求めて鳴きながら徘徊する。
夜など家の周りでギャーギャー鳴きたてられては安眠妨害である。
このような現象は、野良猫であろうと、由緒ただしい血統書つきの猫であろうと違いはない。
掲出写真は、いわゆる「ブランド猫」と呼ばれる由緒正しい、高価な猫の画像である。
私の歌の趣旨は、そういうことである。

私は基本的に「猫嫌い」である。
というのは、わが家の庭は、放し飼いにされた猫たちの通り道に当り、臭い臭いウンチはされるわ被害甚大で、
通り道に忌避剤を撒いたり、灯油を撒いたりして対応しているが、じきに効力がなくなり困り果てているからである。
猫を飼っている人の言い草も気に入らない。
「犬は毎日、散歩に連れてゆかなければならないが、猫は一人で、どこかでしてきてくれるから楽だ」。
そのトバッチリが私の方に降りかかっているのである。
いつか散歩をしていたら、猫に手綱をつけて散歩させている飼い主さんに出会った。
「猫の散歩とは珍しいですね」と言ったら「猫のウンチも迷惑ですから」という返事があって感心したものである。
こんな人は滅多に居ない。

    大比叡の表月夜や猫の恋・・・・・・・・・・鈴木花蓑

という句があるが、これなどは猫の恋を美的に、大きな景物の中に捉えて成功している。
猫の交情というのは、観察した人の文章などを見ると、凄まじいらしい。
猫の交尾というのは何回も執拗に雄、雌を問わず求めるようで、お互いを挑発したりして延々とつづくらしい。私は見たこともない。
交尾期が終わって家に戻ってきた猫は毛は傷つき、精力を使い果たしたようになっているらしい。
ライオンの交尾というのをテレビで見たことがあるが、腹ばいの雌の上に、雄がかぶさるようにするらしい。
猫も同じ種らしいから交尾の姿勢も同じらしい。人目につかない夜などが多いそうである。
犬の交尾は人が居ようがお構いなしで、これはこれで凄まじいものであるが、犬の交尾と狐の交尾は、種が同じだから、そっくりだという。

歌に戻ると、うるさくて安眠妨害のときはバケツに水を用意しておいて、ぶっかけて追っ払ったりする。
野良猫でもボス的なものが居て、やはり強いものの遺伝子を受け取りたいという雌の本能があるのか、多くの雌に種付けするようだ。
私の他の歌にも「猫」を詠ったものもあるが、それらはあくまで「道具建て」として使ってあるに過ぎない。
それらの歌のいくつかを引いて終わりたい。

   三毛猫の蹠(あしうら)あかく天窓の玻璃に五弁の花捺しゆけり・・・・・・・・・・木村草弥

   入りつ陽のひととき赫と照るときし猛々しく樹にのぼる白猫

   菊の香のうごくと見えて白猫の音なくよぎる夕月夜なる

   黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む

歳時記の春を見ると季語「猫の恋」として、たくさん載っているので、それを引いて終わりたい。

 菜の花にまぶれて来たり猫の恋・・・・・・・・小林一茶

 おそろしや石垣崩す猫の恋・・・・・・・・正岡子規

 色町や真昼ひそかに猫の恋・・・・・・・・永井荷風

 恋猫の丹下左膳よ哭く勿れ・・・・・・・・阿波野青畝
 
 恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく・・・・・・・・加藤楸邨

 老残の恋猫として啼けるかな・・・・・・・・安住敦

 悪猫が舐めあふ春の猫の味・・・・・・・・三橋敏雄

 奈良町は宵庚申や猫の恋・・・・・・・・飴山実

 猫の恋パリの月下でありにけり・・・・・・・・山田弘子

 あらすぢも仔細もあらぬ猫の恋・・・・・・・・三田きえ子

 八車線渡り切ったる猫の恋・・・・・・・・出口善子

 エジプトの恋猫の闇青からむ・・・・・・・・布施伊夜子

 借りて来し猫なり恋も付いて来し・・・・・・・・中原道夫

 山形訛り恋猫をわしづかみ・・・・・・・・今井聖

 恋をしてわが家の猫と思はれず・・・・・・・・小圤健水

 よれよれになりたる恋のペルシャ猫・・・・・・・・藤井明子

 西鶴の墓にかしまし恋の猫・・・・・・・・倉持嘉博



妻消す灯わが点す灯のこもごもにいつしか春となりて来にけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     妻消す灯わが点(とも)す灯のこもごもに
        いつしか春となりて来にけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
この歌については若干の思い出がある。
近藤英男先生と一緒に同道して出雲の「空外記念館」を訪ねたりしたことがあるが、先生は脚がお悪いので、往復の飛行機や乗物、ホテルなど、その面倒などを私がみたことがあり、
そのお礼にと何か「書」を先生が言われたので、いただけるなら前衛的な書ではなく、伝統的な「かな書」の水茎麗しいものを所望しておいたところ、
先生の旧知の後輩の奈良教育大学書道科の 吉川美恵子教授の書をお手配くださった。
吉川先生は日展書道部の現役作家として数々の賞に輝く逸材であられる。また読売書法展などでも活躍される。
その時に吉川先生が書いて下さった私の歌が、掲出したものである。
二つ書いていただいた、もう一つは

    かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫り深きゆふぐれ

というものである。この歌については先に、このBLOGで採り上げたことがあると思う。
「灯り」(あかり)と言っても、その種類はさまざまである。
掲出の歌を作った頃は、妻が病気になりはじめた頃ではないか、
と思う。この歌の続きに

    丹精の甲斐もあらずて大根の花を咲かせて妻病んでをり

の歌が並んでいるからである。
わが家では一番遅くに寝るのが妻であり、「妻消す灯」である。
朝ないしは夕方に私が灯を点すこともある。
それが「わが点す灯」ということである。誰が消すか、誰が点すか、ということは逆でもいいのである。
そういう順序にこだわってもらっては困る。
そういう日々の何気ない繰り返しがわが家の日常であった。
妻も私も元気であった頃は、そんなことは考えもしなかったが、妻が病気がちになって、こういう日常の何気ない光景が、貴重なことに思えるようになったのである。

この「書」二つは奈良の有名な店で表装してもらい掛け軸にし、吉川先生には「箱書」をお願いした。
妻亡き今となっては、この歌と掛け軸は、深い思い出とともに、この時期になると床の間に掲げて、妻を偲ぶのである。

奈良東大寺二月堂の「お水取り」が終ると関西では春らしくなるという。
その修二会は3月1日から14日間行なわれるのであった。
この言葉通りに、とは行かずに最近は厳しい寒さのぶり返しであるが、そのうちに暖かい日も来るようである。
今年は「寒」に入ってから寒かったので、地虫が穴から出てくる「啓蟄」さながらに、戸外に出るのが愉しくなってきてほしいものである。
その「お水取り」も、いよいよ14日で終わる。いよいよ本格的な「春」の到来である。

下山山下『江戸は川柳 京は軽口』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
江戸は川柳京は軽口

──新・読書ノート・・・初出Doblog2005/10/21──

   下山山下『江戸は川柳 京は軽口』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この本は1992年山手書房新社刊のものである。
著者の「下山山下」という名前からして、人を食っているではないか。
この本の裏表紙のキャッチコピーに

 京童も人の子
 笠づけ句集「軽口頓作」
 夫婦ぜんざい・甘味辛味
 こども・いとし子・邪魔なガキ
 どら息子・いろ娘
 恋心・欲目流し目
 金、金、金の世の中
 仕事・商売・メシのタネ


と書かれている。けだし、この本の特長を巧く要約している。

江戸は川柳京は軽口0001

この本の出だしに、こう書かれている。

「たまには京都へ遊びに行きたいなあ」なんて考えるときがあるでしょう。そういうとき、京都の何を思い浮かべますか。
・・・・・「古都」のイメージでわれわれは京都に憧れてる、たぶん。その京都に、江戸時代のことだが、こういう句を詠んだ人がいた。

 むづかしい・しゃもじなんどと御所の内

「しゃもじ」というのは、もちろん飯をよそったりする「杓子」のことだが、御所では、品がないといって「しゃ文字」と呼んだ。
湯具(女の腰巻)を「ゆ文字」、髪の毛を「か文字」というのも、この類。今でも、これらの言葉は標準語としても生きている。・・・・・・

江戸は川柳京は軽口0002

上に引いた句の5、7、5のはじめの5のあとに「・」を置いたのは著者であるが、これは「川柳」に対抗する「笠句」という文芸であることを示すためである。
「笠づけ」と言われて、「冠句」のように上5が課題として出されるものである。
文芸としてのジャンル上では「雑俳」と呼ばれるものである。
つまり、これは笠づけ句集「軽口頓作」という句集に入っているということである。
川柳とは違う文芸が三百年も陽の目を見ずに埋もれていたのに陽を当てたということである。
以下、この本に載る名作・迷作を少し紹介する。

 これはこれは・つめたい足を夫(とと)どうぞ

 よいものじゃ・つめたい足じゃがかかゆるしゃ

 どうしても・足がさはれば手がさはる


房事での夫婦のやり取りである。「軽口頓作」の句は「口語」(はなしことば)で書かれていることがわかる。
江戸時代の川柳に「末摘花」というエロっぽいアンソロジーがあるが、そこに載る句では

 あっためてくれなと足をぶっからみ

ということになる。
これについて、著者は、次のように書く。

・・・・・この、言葉がキリッと締まった都会人的センス。「軽口頓作」のブヨブヨノロノロした調子とはまつたく対照的だ。なぜこうも違うんだろう。
時代が古い。それもある。「軽口頓作」は1709年の出版。片や川柳の最初の句集は、それより五十年以上あとだった。
京都と江戸という違いもある。平安遷都から900年も天皇を戴いてきた京都と、わずか100年前に武士が幕府を開いた江戸。気候風土も違う。
それから、たぶん作者の中身も違う。「軽口頓作」の句の作者は全然わからないが、たぶん商人や職人、つまり町人と言われる階層の人々が多かった筈で、そういう人たちが詠んだ句の中から雲鼓という宗匠が選んで出来たのが、この句集である。
江戸は武士の町で、彼らは知識階級であり、幼いときから中国の古典なんかも読んでいる。
川柳は「河井川柳」という人が始めた文芸なのである。

この句集でも、やはりメインはエロっぽい句が主流を占める。

 にくいもの・あんまり仲のよい夫婦(めをと)

それが、川柳の「柳多留」という、これも有名な句集では

 そこ掻いてとはいやらしい夫婦仲

となる。どちらがよいか、は読者の判断に任せよう。

 大事ない・毛虫が留守じゃながうなれや
 ・・・・・・・・・・・・・親をさして云也・・・・・・・・・・・(こういう注釈がつく)

 しうとめの留守の炬燵に顔二つ

川柳では、こうなる。(「・」の区切りのあるのが「軽口頓作」である今後は一々断らない)

 くたびれる・ずんずとのびる娘の背

 背がのびりゃ苦は色ぐるひですばいの

 娘もふ筆をかくして使ふなり

 十六で娘は道具ぞろひ也

これは、すなわち、ヘアが生える齢。お月さんはすでに始まってるから、これですっかり女の支度ができた、そういう年齢というわけ。

 ゆだんせぬ・二八ばかりの生ざかな
 ・・・・・・・・・・・・・・・娘子也・・・・・・・・・・
「二八」は2×8で十六歳。いちばん娘盛りの時期。

江戸は川柳京は軽口0003

愛憎が行き着くと「恋に恨み」はつきもの。
図版④は図の下にも説明がある通り「呪いの釘を打つ女」とある。

 ようはする・にくければとて時まいり

いわゆる丑の刻参りを「時まいり」とも言う。江戸でもこれをやったが、京都では貴船神社へお参りするのが代表格だった。
「ようはする」は「よくやるものだよ」くらいの意味。

 何とせう・貴船様めもぬかに釘

肉欲の楽しみを詠んだ句を少し。

 あぢをやる・ろの字なんどのよさはいの

味なもんだよ。「ろの字」の良さったらないもの。ひらがなの「ろ」は、漢字の「呂」の字を崩したもの。
この漢字をよく見ると「口」という字が二つ繋がっている。つまり口と口を重ねるということ「キス」である。
「よさはいの」は「良さつたらないの」である。キスのことは日本では古来「口を吸う」と表現する。

 めにかけて・ちんぷんかんと女子の乳
 …・・・・・・唐人は女の乳をよろこぶもの也・・・・・・・・
長崎出島の廓の風景である。

 小きみよい・日本人でもをなごの乳

この句は、先の句のパロディであろうか。

 丸山の客の騒ぎはチンプンカン

 身を入れてはたらく下女は両用い

 あんのじゃう・旦那の御作玉が腹

 ・・・・・・・・・・・・下女也・・・・・・・・・・・

 おきおきに・下女とらまへてむごいぞよ

 いやならばいいが女房(かかあ)にそう言ふな

 させぬのみならず女房に言っ付ける


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図版⑤は「鍛冶や」の図である。

 なるものじゃ・気がいってつに刀鍛冶

 我知らず歯をくいしばる細字書き

 ちがひます・具足屋の気と鑓(やり)屋の気


精を出す職人の働き振りには、率直には感動して、けなさずに描かれている。
いよいよ、この本も終わりにしよう。
「早乙女」を詠んだ、少しエッチな句である。

江戸は川柳京は軽口0005

 かしましや・こらへかねてぞ田へつぶて

 五月女をうしろから見ておやす也


田植えをする女たちが、一斉にこちらへ尻を向けて苗を植えてくる。
それを見て男どもが、いやあ、こりゃたまらん、と石つぶてを可愛いお尻めがけて投げつける、という図である。

 早乙女の股ぐらを
 鳩がにらんだとな
 にらんだも道理かや
 股に豆を挟んだと、ナヨナ


という民謡があったらしい、と書かれている。お分かりかナ。 

 つとめとて・あほと呼ばれてはあいはい

この句には、現代に通じるものがあり、涙がちょちょ切れる。 では、また。
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最近になって、同じ著者による、こんな本を手に入れた。 ↓
下山弘
下山弘

後者の本の版元である太平書屋の主人によると「下山山下」というペンネームは下山弘氏の著作の初期に使われたものだという。
なお、下山弘氏は2011年の秋に亡くなられたという。まだまだこれからだというのに、惜しいことである。

下山弘 略歴。
1938年群馬県前橋市生まれ。青山学院大学文学部卒業。
江戸生活感情史を研究する東京古川柳研究会会員。
著書に『遊女の江戸』 『江戸古川柳の世界』 『江戸川柳─男たちの泣き笑い』
『お江戸怪談草子』 『川柳 江戸の四季』。
それに、今回採り上げた本─『江戸は川柳 京は軽口』があるのは当然である。

あとの二冊については、読み込んで後日、詳しく書きたい。 乞う、ご期待。


東岸西岸の柳 遅速同じからず/南枝北枝の梅 開落已に異なり・・・・・・・・・・・・・・慶滋保胤
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  東岸西岸の柳 遅速同じからず

  南枝北枝の梅 開落已(すで)に異なり・・・・・・・・・・・・・・・慶滋保胤


作者は慶滋保胤(よししげのやすたね)、平安中期の著名な文人で、その作『池亭記』は鋭く社会の変貌を捉えて鴨長明の『方丈記』に影響を与えた、とされる。
出典は『和漢朗詠集』巻上「早春」から。
保胤は白居易に傾倒し、この詩も白居易の詩句「北の軒 梅晩(ゆふべ)に白く 東の岸 柳先づ青みたり」や「大庾嶺上の梅 南枝落ち北枝開く」を踏まえているが、謡曲「東岸居士」その他に多く引かれ愛唱された。

同じ春とは言え、地形や場所によって季節の到来には遅速がある。
開く花あれば、散る花あり。
造化の妙は、そんな違いにも現れて、感興の源泉となる。

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なお、

   二(ふた)もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

の句は、この保胤の詩句を踏んだ句と言われている。

今しも、柳の新芽が芽吹く頃である。梅も、そろそろ咲き揃う頃である。
以下、柳の新芽を詠んだ句を引いて終わる。

 柳の芽雨またしろきものまじへ・・・・・・・・・・久保田万太郎

 芽柳に焦都やはらぎそめむとす・・・・・・・・・・阿波野青畝

 芽柳や成田にむかふ汽車汚れ・・・・・・・・・・石橋秀野

 芽柳の花のごとしや吾子あらず・・・・・・・・・・角川源義

 芽柳のおのれを包みはじめたる・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 風吹いてゐる綿菓子と柳の芽・・・・・・・・・・細川加賀

 芽柳を感じ深夜に米量る・・・・・・・・・・平畑静塔

 あれも駄目これも駄目な日柳の芽・・・・・・・・・・加藤覚範

 芽柳や銀座につかふ木の小匙・・・・・・・・・・伊藤敬子

 芽柳の揺るる影浴び似顔絵師・・・・・・・・・・太田嗟

 利根万里風の序曲に柳の芽・・・・・・・・・・三枝青雲

 芽柳のほか彩もなき遊行かな・・・・・・・・・・今村博子

 水色に昏るる湿原柳の芽・・・・・・・・・・神田長春


なで肩のたをやかならむ真をとめがパットの肩をそびやかし過ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──初出・2006/02/21 Doblogを再構成──

    なで肩のたをやかならむ真をとめが
         パットの肩をそびやかし過ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』((角川書店)に載るものである。
この歌を作ったのは、もう十数年前になるので、いま女の人の服の肩がパットを入れた「いかり肩」の流行になっているのか、どうか知らない。
当時は「いかり肩」が全盛期だったので、「私は、なで肩の女らしい方が好きなのになぁ」という気持で作ったものである。
掲出写真は「アカプルコの海」という昔のエルヴィス・プレスリーの1963年の映画のマギー役のエルサ・カルデナスのものである。
彼女は典型的な「なで肩」の美人と言える。
対照するために、同じ映画の、マルガリータ役のウルスラ・アンドレスの典型的な「いかり肩」の写真を出しておく。
因みに、外国人に圧倒的に人気があったのは、後者のアンドレスだという。 ↓

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日本の女の人には「なで肩」の人が多いと言われている。
外国人の場合は、どうなのだろうか。
私は、そういう日本人の女の人の「なで肩」が好きである。
なで肩の線が、何ともなく、艶めかしくて、見ていても、いい気分になる。
それを、わざわざパットを入れて「いかり肩」にどうしてするの、というのが、この歌の趣旨である。

この頃では余り「ウーマンリブ」というような言葉を聞かないが、ひところは盛んに主張されたことがある。
そのことの良し悪しを、私は言っているのではない。
なで肩が好きという、あくまでも私の個人的な感想に過ぎない。
女性の社会進出は年々ますます盛んで、女性がそれぞれの分野で重要なポストを占めるようになってきた。
そんな時代になっても、女の人には「ユニセックス」のような状態にはなってほしくない、と私は思うのである。
社会の重要なポストを占めながら、なお「女性」としての魅力を失ってほしくはない、のである。
女としての魅力を「売り物」にする人もあるだろうが、それでも、いいのではないか。

なで肩の歌というのではないが、女の後姿その他の歌を引いて終わる。

   後肩いまだ睡れり暁はまさにかなしく吾が妻なりけり・・・・・・・・千代国一

   泣くおまえ抱(いだ)けば髪に降る雪のこんこんとわが腕に眠れ・・・・・・・佐佐木幸綱

   たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき・・・・・・・・近藤芳美

   とことはにあはれあはれは尽すとも心にかなふものか命は・・・・・・・・和泉式部
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この記事の初出は2006/02/21のもので、当時、この記事をご覧になったFRANK LLOYD WRIGHTさんが、下記のコメントを寄せられた。

<なで肩は、
中国で言えば、華南とか上海とか海沿いの地域はなで肩ですね。
つまり、海から離れた北京とかはいかり肩が多い。満州も内陸部はそうですね。
日本・韓国は、島国・半島国家ですから言わずとしたなで肩。海沿いです。
東南アジアはおしなべてなで肩。海に関係するからですかね?
インドなんて、北インドはいかり肩で、南インドはなで肩。ドラビタ系はなで肩が多い。
スリランカは、同じ家族でいかり肩、なで肩がとびとびに。
インドからの移住と現住のドラビタとの血の現れでしょうか?>

私には新しい知識だが、面白いので、ご紹介しておく。
その彼も、もう数年前から消息不明で、奥さんの故郷・スリランカにでも帰ったのかと思っていると、昨年末になって、久しぶりにコメントが来た。
お元気でスリランカと香港を拠点にコンサルタントをおやりらしい。
まあ、ご無事で、私の記事にトラックバックしていただく関心が、まだあった、と判っただけでも嬉しい。
彼の目下のブログは ← ここ。

この記事は上にも書いた通りの初出のものがベースになっているが、写真なども替えたし、旧記事通りではないので念のため。
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今日3:11は東日本大地震・大津波の惨事から丸二年である。
月次掲示板には触れてあるが、何も書かずに素通りすることは出来ないので、ここに記して哀悼の意を表する。
原発の惨事については、この事態を直視せず、再稼働などの動きがあるのが気がかりである。


梅の奥に誰やら住んで幽かな灯・・・・・・・・・・・・・・・夏目漱石
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──季節の一句鑑賞──梅題──

  ■梅の奥に誰やら住んで幽(かす)かな灯・・・・・・・・夏目漱石

梅の花が本格的に咲き揃う時期になって来たので、今日は梅に関する「三題ばなし」を書くことにする。
掲出の句は夏目漱石の作品で、彼独特の諧謔性に満ちた句である。
「誰やら住んで」というところが面白いし、「幽かな灯」というのも広い梅林を想像させて奥行がある。
漱石は俳句を余技としてたくさん作っている。
漱石は英文学者として出発したが、小説家として主に朝日新聞を拠り所にして、次々と作品を発表した。
当代一の文化人であったから、師弟関係にあった文学者、科学者などが多い。
科学者なども──たとえば中谷宇吉郎など、いずれも文筆でも優れた文章を残している。
漱石における俳句はあくまでも「余技」であったが、伝統的な文学として、漱石は深く愛していた。

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  ■片隅で椿が梅を感じてゐる・・・・・・・・・・・・林原耒井

林原耒井(らいせい)は、明治20年福井県に生まれ、昭和50年に没した。
号の耒井は本名の耕三の「耕」の字を分解したもの。
旧制一高時代から夏目漱石の門に入り、漱石作品の校正を任されるなど愛弟子の一人であった。英文学徒として旧制松山高等学校で教えていたことがある。
俳句は臼田亞浪の「石楠」(しゃくなげ)に参加、論客として知られ、特に『俳句形式論』は重要な著作とされる。
掲出句は『蘭鋳』(昭和43年刊)から。

椿は春の花とされ、梅に引続いて咲きはじめる。
時期的には咲くのが重なることもあるので、この句では、それを「片隅で椿が梅を感じてゐる」と表現する。
先に挙げた漱石の句の諧謔性に相通じるものがあるではないか。師弟の関係の妙である。
「明暗」というサイトに漱石と林原との記事があり、また「川本臥風」というサイトの<忘れ得ぬ人々・臼田亜浪>の項に林原のことが出ているのも見られるといい。

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  ■白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり・・・・・・・・・・飯田龍太

紅梅は白梅よりも少し遅れて咲きはじめることが多い。
白梅の「白」のあとにグラーデーションのように「紅」色が色を増してゆく、というところが面白い。
それに花の上の「空」を「深空」と表現したのも秀逸である。
飯田龍太は飯田蛇笏の子として幼少の頃から俳句に親しんできたが、父の死後、俳誌「雲母」の主宰者を継承して俳壇で重きをなしてきたが、十余年前に結社を解散した。
俳誌などの世襲制に対する批判などもあるが、主宰制は、いくたの欠点もある。
そういうことを自覚した上での、いさぎよい決断だ。まだまだ影響力があった全盛期での決断だった。2007/02/25没。
飯田龍太については、 ← のWikipediaに詳しい。

以下、「梅」「椿」を詠んだ句を引いておく。

 梅一輪踏まれて大地の紋章たり・・・・・・・・・・中村草田男

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・・・中村草田男

 悲しめば鱗のごとく梅散りしく・・・・・・・・・・原コウ子

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・・・石田波郷

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・・・星野立子

 梅が香に襲はれもする縋られも・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・・・西島麦南

 静けさのどこか揺れゐて梅白し・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 月光に花梅の紅触るるらし・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 うすきうすきうす紅梅によりそひぬ・・・・・・・・・・池内友次郎

 紅梅の燃えたつてをり風の中・・・・・・・・・・松本たかし

 紅梅や熱はしづかに身にまとふ・・・・・・・・・・中村汀女

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは・・・・・・・・・・永田耕衣

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・・・古賀まり子

 赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・・・・・・・河東碧梧桐
 
 落椿投げて暖炉の火の上に・・・・・・・・・・高浜虚子

 御嶽の雲に真つ赤なおそ椿・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 人仰ぐ我家の椿仰ぎけり・・・・・・・・・・高野素十

 落椿かかる地上に菓子のごとし・・・・・・・・・・西東三鬼

 椿見て一日雨の加賀言葉・・・・・・・・・・森澄雄

 火の独楽を回して椿瀬を流れ・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 雪解けの底鳴り水に落椿・・・・・・・・・・石原八束




ふらここを揺りものいはずいつてくれず・・・・・・・・・・・・・・中村汀女
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     ふらここを揺りものいはずいつてくれず・・・・・・・・・・・・・・中村汀女


鞦韆(しゅうせん)とは「ぶらんこ」のことである。
中国では、北方の蛮族のものが紀元前7世紀に輸入されたと言い、それほど古くから中国では行なわれていたという。
唐の玄宗皇帝は羽化登仙の感じがあるとして「半仙戯」の名を与えている。
唐詩などにもよく詠われ、それが日本にもたらされた。中国では古来、春の戯れとしたという。
和語では「ふらここ」ともいう。詩歌では、この言葉が愛用される。

掲出した写真はオーギュスト・ルノワール(1841-1919)の絵である。オルセー美術館蔵。
春になって暖かくなったので、若い女性が公園でブランコに乗っている図である。

先に書いたように「鞦韆」は漢字で書いて「しゅうせん」と音読みにする他に「ふらここ」と和語読みにすることもある。
掲出の中村汀女の句は「ふらここ」を使っている。
以下、ブランコを詠んだ句を引いておきたい。

 鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す・・・・・・・・高浜虚子

 鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな・・・・・・・・松瀬青々

 鞦韆や春の山彦ほしいまま・・・・・・・・水原秋桜子

 鞦韆やひとときレモンいろの空・・・・・・・・石田小坡

 鞦韆に腰かけて読む手紙かな・・・・・・・・星野立子

 鞦韆の十勝の子等に呼ばれ過ぐ・・・・・・・・加藤楸邨

 鞦韆や舞子の駅の汽車発ちぬ・・・・・・・・山口誓子

 鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・・・・三橋鷹女

 達治亡きあとはふらここ宙返り・・・・・・・・石原八束

 ふらここのきりこきりこときんぽうげ・・・・・・・・鈴木詮子

 鞦韆と雲一ひらと遊ぶなり・・・・・・・・加藤望子

 島の子のぶらんこ島を軋らせて・・・・・・・・谷野予志

 ブランコの子に帰らうと犬が啼く・・・・・・・・菅原独去

 鞦韆の綱垂る雨の糸に浴び・・・・・・・・堀葦男


水底に動くものあり見つむれば蛙の卵の孵りはじめぬ・・・・・・・・・・・木村草弥
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    水底に動くものあり見つむれば
       蛙の卵(らん)の孵(かへ)りはじめぬ・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、「風二月」の一連の中にある。
一般に蛙は、まだ寒い頃に穴から出てきて、相手を見つけて抱接し、雌は田の水溜りに卵を産み、また土の中に戻って冬眠をつづけるという。
その間に水の中で卵は成長し、「おたまじゃくし」になって水中の微生物を食べて大きくなる。
親蛙たちはゆっくり冬眠して水温が、そこそこになるまで出て来ない。というのは蛙は「変温動物」であるから気温が低ければ活動できないからである。
写真②は卵嚢に入った蛙の卵。

img1035ヒキ卵

掲出した歌の前に

    田の水に映るものにも春兆し風は二月の光に触れ来(く)・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているのが、掲出した歌の舞台背景ということになる。

「おたまじゃくし」のことを漢字では「蝌蚪」(かと)と書くが、この字は中国の上代に、竹簡に漆の汁をつけて字を書き、
その字の形が頭が大きく、尾が小さい、おたまじゃくしに似ていたので、そう名づけられ、それを明治以降俳人たちが音読利用しているものという。

そんなことで俳句にも、よく詠まれているので少し引いて終りにする。

 天日のうつりて暗し蝌蚪の水・・・・・・・・高浜虚子

 川底に蝌蚪の大国ありにけり・・・・・・・・村上鬼城
 
 蝌蚪曇りなほ三月の日のごとき・・・・・・・・山口誓子

 蝌蚪の水山ふところにありにけり・・・・・・・・富安風生

 蝌蚪見れば孤児院思ふ性を棄てよ・・・・・・・・中村草田男

 蝌蚪の上キューンキューンと戦闘機・・・・・・・・西東三鬼

 税の数字よ小学生の日の蝌蚪よ・・・・・・・・加藤楸邨

 病みて長き指をぬらせり蝌蚪の水・・・・・・・・石田波郷

 蝌蚪を見る病後の杖を抱きかがみ・・・・・・・・皆吉爽雨

 蛙の子飼つて孤独の性(さが)子にも・・・・・・・・安住敦

 蝌蚪に打つ小石天変地異となる・・・・・・・・野見山朱鳥

 蝌蚪に肢不思議な平和充満し・・・・・・・・北登猛

 あるときはおたまじゃくしが雲の中・・・・・・・・飯田龍太

 蝌蚪の水少年のなほ女声・・・・・・・・辻田克己

 おたまじやくしにも青雲の志・・・・・・・・宮坂静生

 一つ出ておたまじやくしのどろけむり・・・・・・・・石田郷子

 かたまつて生くるさびしさ蝌蚪も人も・・・・・・・・島谷征良

 かたまれる蝌蚪に行末ひとつづつ・・・・・・・・まついひろこ

 うちみだれ蝌蚪の疑問符感嘆符・・・・・・・・新明紫明



春が来た春が来たよと菜の花よ生きるは愉し生きるは哀し・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
040207nanohana01菜の花

   春が来た春が来たよと菜の花よ
     生きるは愉(たの)し生きるは哀(かな)し・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
菜の花は早いところでは、もう一月はじめには咲きはじめて、遅いところでは満開は四月になる、という息の長いものである。
早春を告げる花として庶民的な親しみの持てる花である。
「菜の花」というのは、昔は「菜種油」を採るために栽培されていたのだった。
ずっと昔、電気のない頃は灯心に「菜種油」を注いで明りにしていた。
電気が来てからは、神棚や仏壇の灯明として終戦後も長く使われていたものだった。
菜種油を採る実を振い落したあとの「菜種柄」は、竈などの焚きつけに使われたが、蛍の出るシーズンになると、
それを持ち出して蛍をはたき落すのに使ったものである。
この頃ではエコロジー運動の一環として菜種油で軽油の代わりにディーゼル車を動かそうというような企てもある。
掲出した私の歌は、「生きる」ということは「愉しい」ことでもあり、また或る一面では「生きる」というのは「哀しい」ことでもある、
という哀歓を詠んだものである。
「菜の花」を詠んだ歌を、この歌集からまとめて引いておく。

    咲きほこる菜の花いつぽん切りとりて花瓶に挿せり危ふく挿さる・・・・・・・・・・・木村草弥

    春が来た春が来たよと菜の花よ生きるは愉し生きるは哀し

    菜の花を花瓶に挿せば風景が青き地図埋めたちまち展(ひら)く

    見ひらける瞳のかなた産土(うぶすな)のひろごる視野は黄なる菜の花

この頃では「菜の花漬」として蕾の花と茎の先端の部分を塩漬けにして芥子を少しあえて「菜の花漬」というものが季節の浅漬け、
あるいは「おひたし」としてスーパーなどでも盛んに売られている。あっさりしておいしいものである。
時代とともに、菜の花の利用法も変わってくるのである。

俳句の世界でも、芭蕉、蕪村の頃から「菜の花」は盛んに詠まれてきた。
以下、それらを引いて終りにしたい。

 菜畑に花見顔なる雀かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 菜の花や月は東に日は西に・・・・・・・・与謝蕪村

 菜の花やかすみの裾に少しづつ・・・・・・・・小林一茶

 菜の花の野末に低し天王寺・・・・・・・・正岡子規

 菜の花の黄のひろごるにまかせけり・・・・・・・・久保田万太郎

 菜の花といふ平凡を愛しけり・・・・・・・・富安風生

 菜の花や夕映えの顔物を言ふ・・・・・・・・中村草田男

 菜が咲いて鳰も去りにき我も去る・・・・・・・・加藤楸邨

 菜の花に昔ながらの近江富士・・・・・・・・山口波津女

 三輪山の裾ひろがりや菜の花に・・・・・・・・滝井孝作

 家々や菜の花色の灯をともし・・・・・・・・木下夕爾

 菜の花の地平や父の肩車・・・・・・・・成田千空

 菜の花や西の遥かにぽるとがる・・・・・・・・有馬朗人

 一輌の電車浮き来る花菜中・・・・・・・・松本旭

 菜の花の怒涛のごとき黄なるかな・・・・・・・・辰巳あした



高階杞一詩集『いつか別れの日のために』・・・・・・・・・・・木村草弥
img645.jpg

──高階杞一の詩──(5)

     高階杞一詩集『いつか別れの日のために』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・澪標2012/05/30刊・・・・・・・・・

久しぶりに高階杞一さんの詩集を採り上げる。今までに書いた私の記事は ← ここを見てもらいたい。
この詩集は高階さんの第12詩集で、24篇の詩を収録してある。
制作期間は、2008年から2011年にわたる作品群である。装幀:倉本修。

優れた現代詩に贈られる第8回「三好達治賞」(大阪市主催)に、この「いつか別れの日のために」が選ばれ大阪市が3月1日発表した。高階さんは大阪市生まれ。
2000年に「空への質問」(大日本図書)で第4回三越左千夫少年詩賞を受賞されたが、
1990年、詩集『キリンの洗濯』にて第40回H氏賞を受賞されて以後ひさびさの大きい詩賞の受賞と言える。
だから高階さんは「この賞は欲しかった賞なので、とても嬉しい」と仰言っている。心から、おめでとう、と申し上げる。
4月5日に大阪城北詰の大阪市公館で第8回「三好達治賞」贈呈式などの行事が行われる。

この本の「あとがき」に

 <自分が死んだ後の世界のことを考えては、とても不思議な気がしてきます。
   自分がいないのに、世界は何ひとつ変わらずに、朝になればいつもと同じよう
   に陽が昇り、街にはたくさんの人が歩き、信号は点滅をくりかえす。それは何だ
   か、今ある世界とは別な世界のように思えてきます…… >

と書かれている。
丁度この頃、高階さんは食道に異常を感じられ、精密検診をお受けになった。
私は、そのとき、お見舞いのメールを差し上げ、お酒はほどほどにと忠告申し上げた。
幸い、初期のもので治療されて大事には至らなかったが、そのときの体験が、これらの詩群の背後にあると知ってもらいたい。
高階さんの「犬好き」は有名で作品の中にも、いつも登場するが、今回の詩でも「犬」と一緒である。
この首尾一貫した姿勢が好ましい。
私との縁は、私の第一詩集『免疫系』を謹呈した際にお手紙をいただいた時に遡る。

先ず「びーぐる」16号の詩集時評に山田兼士氏が書いた短文を引いておく。 ↓
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高階杞一『いつか別れの日のために』(澪標)著者第十二詩集。死を意識して書かれた二四篇。
だが、高階詩では死でさえ軽快で透明感にあふれている。軽薄ではなく軽快なのだ。その要因は浮遊感と揺動感に満ちた言語感覚。
どれほど深刻なテーマを扱っても必要以上に重くならないのは言葉の浮標(ブイ) のためだ。

もし僕が
明日とつぜん死んだとしても
ペロペロなんかせず
(一度ぐらいはしてもいいけれど)
誰かのやがてあけるだろう扉から
そっと外へ出て
ひとりで好きな方へ歩きはじめてください
ふりむいて
さよなら
なんて言わずにね     (「いつか別れの日のために」末尾部分)
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「loggia52」というサイトに下記のような批評が出ているので紹介する。(どなたのサイトか知らないので失礼します)

 細見和之『家族の午後』、山田兼士『家族の昭和』、それにこの高階杞一『いつか別れの日のために』と、並べてみると、ある共通する特徴が確かにある。
ひとつは、どの詩集も平易なことばが選ばれ、日常のひとこまが詩の展開のベースになっている。また、《家族》というのもキーワードだろう。
 この3人の詩人は、詩誌『びーぐる』の編集同人だから、いわば《びーぐる派》の詩人と呼んでもいいような気がするほど、共鳴しあう部分を持っている。
まあ、それはともかくとして、今日は、『いつか別れの日のために』(澪標)について、メモを取ったのを記す。

   春と習字

 春という字を見ていて
 これは
 三と人と日からできているんだと気がついた
 三人の下に日があって
 春になる

 君と僕のほかにはここに人がいないので
 ここは
 いつまでも春にならない
 のだろうか

 春にならない家で
 君はメールを見たり
 本を読んだり
 僕はメールを見たり
 お酒を飲んだり
 たまには詩を書いたりもして

 ときおり
 ここへ来るはずだった
 もう一人のことを思い出したり
 しながら
 僕は
 書き損じた春を
 何枚も何枚も
 まるめてはゴミ箱へ捨てた

 どのことばも易しい。
描かれている詩の世界も詩人の日常の何でもないひとこまをベースにしている。
にもかかわらず、この詩の場合は、最終連に、心の埋められない隙間がのぞくことによって、一気に詩はもう一段、深い層へと静かに読む人を導いていく。
だれもが思い当たる情感である。どんな人でも、自分の体験や経験を手がかりに、詩の世界へと入っていくことができる。それが高階の詩の強みである。
とはいうものの、それは詩が想像力の強度を持っていないと人の心を動かすことはなかなかむずかしい。
彼は、そのむずかしさを感じさせないで、その困難なことをやりおおせている。
詩の技術的な巧さもそれを可能にしている大きな要因として挙げられることも指摘しておきたい。
 この詩集は、『早く家へ帰りたい』(1995年刊)という詩集、さらに『夜にいっぱいやってくる』(1999年刊)に引き継がれたモチーフ、
すなわち、それらの詩集から伏流していた、子供を失ったかなしみが、かたちを変えて詩人の心の岸に流れ寄っている。
しきりに登場する飼い犬は失った子供の影を帯びているのは言うまでもないだろう。あらたに以前の詩集から加わったのは、自らの死についての思いである。
 こうした、深い喪失感と、それと交差する自らの死に対する感慨が、静かなノスタルジアの情感を掻きたてる。
さらには、どう言えばいいのだろう、自分が生きていることに対する潜在的な含羞とでもいうのだろうか。うしろめたさというのだろうか。
それが詩を書かせるのだと思う。書かないでは、生きてはゆけないような自分にひそむ含羞が彼のことばを生かしめている。
そして、この詩集ばかりでなく、彼の詩の特徴である、誰かに静かに話しかけるようなスタイルが、そうした含羞を包み込むのにうまく作用している。
 もう一つ、これはさらにいい作品。

  ガリガリ

 庭で遊ぶのにあきると
 犬は
 おうちにいれて
 と縁側の戸をガリガリします

 もっと外で遊んでいなさい
 と言ってもききません
 いれてもらえるまで
 ガリガリします

 障子や網戸は破れ
 犬はうれしそうですが
 人間は何だか落ち着かなくて困ります

 静かなお昼

 障子や網戸の破れた家で
 ひとりでご飯を食べたりしていると
 どこからか
 ガリガリと戸をひっかく音が聞こえてきます
 縁側からではありません

 犬と私はふり返り じっと耳を澄ませます
 それはどこか遠くから
 おうちにいれて
 と
 聞こえてきます
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「洪水~漂流記録~」というサイトに載る批評を引く。

2012年08月29日

高階杞一詩集『いつか別れの日のために』

透明感にしびれる。「透明感にあふれた」というよくある表現ではあきたらず、「透明感をきわめた」と言いたくなるような作品たち。人間が透明人間になることはまだできていないようだが、詩が透明になることは実現されたのか。詩のスケルトンが洗われる霊的なまでのすがすがしさがある。「答は空」という詩を紹介する:

こどもと散歩をしながら
聞いてみる
ねえ
この世で一番のお金持ちは誰だか知ってる?
こどもは首をかしげてぼくを見る
ぼくは得意げに言う
答は空
見てごらん
あんなに立派な太陽や
白いきれいな雲を持っている
夜には月や星まで出してくる
どんなお金持ちもあれは買えない
どう、すごいだろ?

五月のよく晴れた朝
もしもぼくにこどもがいたら
こんな話をするのになあ
と思いながら
犬といっしょに
若葉の美しい道を歩いていました
犬はぼくを引っぱり
先へ先へと急ぎますが
人間のぼくはそんなに速くは進めません
歩くことに
疲れて 立ち止まったり
時に振り返ったり
そんなぼくに
さっき
立ち止まったところから
今も動かずにいるこどもの声が
明るく
ひびいてきます

  空ってすごいね

  空ってすごいね お父さん

この透明感はもちろん高階氏のいまの生の光景のありようと密接なつながりがあるのだろう。澪標刊。
(池田康)
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Wikipediaに載る記事を引いておく。

高階杞一(たかしな きいち、1951年 - )は日本の詩人。

大阪市生まれ、神戸市在住。大阪府立大学農学部園芸農学科卒業。神尾和寿とともに詩誌「ガーネット」を創刊(1990年)。
山田兼士、四元康祐、細見和之らとともに詩誌「びーぐる」編集同人。大阪芸術大学非常勤講師。大阪文学学校講師(1994年~1998年)。
大阪シナリオ学校講師(1993年~2005年)。柳波賞審査委員(群馬県沼田市主催)1999年~。

略歴
1983年、戯曲「ムジナ」にて第1回キャビン戯曲賞入賞。
1990年、詩集『キリンの洗濯』にて第40回H氏賞受賞。
2000年、詩集『空への質問』にて第4回三越左千夫少年詩賞受賞。
2004年、高階の詩に曲を付けた混声合唱組曲「キリンの洗濯」(作曲:堀内貴晃)が第15回朝日作曲賞受賞。
2013年、詩集『いつか別れの日のために』にて第8回三好達治賞受賞。

著書

詩集
漠 青髭社 1980.11
さよなら 鳥影社 1983.8
キリンの洗濯 あざみ書房 1989.3
星に唄おう 思潮社 1993.10
早く家(うち)へ帰りたい 偕成社 1995.11
春'ing(はりんぐ) 思潮社 1997.6
夜にいっぱいやってくる 思潮社 1999.4
空への質問 大日本図書 1999.11
ティッシュの鉄人 詩学社 2003.8
高階杞一詩集 砂子屋書房・現代詩人文庫 2004.9
桃の花 砂子屋書房  2005.9
雲の映る道 澪標 2008.9
いつか別れの日のために 澪標 2012.5

編著
スポーツ詩集 花神社 1997.10 川崎洋、藤富保男共編



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