春日野の飛火の野守出でて見よ
今幾日(いくか)ありて若葉摘みてむ・・・・・・・・・・・・・・・よみ人しらず
この歌は「古今集・春上巻」にある歌であるが、よみ人しらず、となっている。
奈良の春日野の飛火野の野守よ、外に出て野の様子を見ておくれ。あと何日したら若葉が摘めるだろうか。という歌である。
この歌は「古今集」に収められてはいるが、春日野周辺で暮らしている人々の実感が濃く出ている。
だから、古い時代の歌に属するだろう、と言われている。
ここで、若葉摘みに関する歌を、少しまとめて見てみよう。
春日野に煙立つ見ゆをとめらし春野のうはぎ摘みて煮らしも・・・・・万葉集・巻10、作者不詳
この歌の「うはぎ」というのは「嫁菜」のことだという。
春の若草のいろいろを摘んで、煮て食べるのは、若々しい命を願い、長寿を祈る初春の大切な行事であったらしい。
奈良一帯に住んでいた万葉時代の人々にとっては、この歌の情景は、まことに親しみ深いものだった筈である。
春日野の若菜摘みにや白妙の袖ふりはへて人の行くらむ・・・・・・・古今集・春上巻、紀貫之
「ふりはへて」は振り合う意と、わざと目立つようにの意とをかけて用いた言葉。
京都の都の生活者となっている平安貴族の一人たる貫之は、この歌を、すでに空想の中の美しい早春の情景として作っている。
古京奈良の春日野は、懐古の情をかきたてる地名となっていて、詩的空想の源泉としての「歌枕」になりつつあるのである。
春日野に若菜つみつつ万代(よろづよ)を祝ふ心は神ぞしるらむ・・・・・古今集・賀、素性法師
これは素性の兄・藤原定国の40歳の賀宴にあたり、その邸の屏風絵を見て詠んだ作。
全くの空想の歌である。
このように見てくると、「若草」や「若菜」を詠んでも、時代、土地、人々の生活の違いによって、自然界との接し方、その表現方法にも、著しい違いがあるのが判る。
「古今集」の歌人たちも、京都盆地の自然を前にして、詠ったには違いないが、次第に、自然詠そのものよりも、自然の季節の推移から、「時の移ろい」という観念的なものを詩の主題にするようになったということである。
万葉の実景を重視する力強い歌が好きか、古今の観念的な、美意識の強い歌が好きか、人それぞれであろうが、あなたは、どう感じられるだろうか。
以下、季語「摘み草」の句を引いて終る。
寝転んで若草摘める日南かな・・・・・・・・小林一茶
摘草や嬋妍さして人の指・・・・・・・・山口青邨
川上のむかうの岸に草摘める・・・・・・・・中村草田男
さびしさに摘む芹なれば籠に満たず・・・・・・・・加倉井秋を
蓬摘む一円光のなかにゐて・・・・・・・・桂信子
蓬摘み摘み了えどきがわからない・・・・・・・・池田澄子
万葉の風立つ蓬摘みにけり・・・・・・・・大嶽青児
つくしんぼ遠(をち)の淡海にかざし摘む・・・・・・・・佐怒賀正美
草摘めり蜂蜜いろの夕日浴び・・・・・・・・大関靖博
車座のひとりが抜けて草を摘む・・・・・・・・古田紀一
日の温みもろとも摘めり蓬籠・・・・・・・・永井芙美
野洲川の一揆の跡や蓬摘む・・・・・・・・西村康子
ひかり合ふまほろばと吾と蓬籠・・・・・・・・今井君江
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