K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(4月)月次掲示板
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一昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
entry_25しだれ桜小渕沢

四月になりました。陽春の到来です。
新人の春です。 旧人はひっそりと暮らしましょう。

女とは。女とはなんでもないものだ。朝をうるほふ舗装のおもて・・・・・・・・・・・・・・・・阿木津英
みてくれの若さに今生の価値を置く女の人の口のなめらか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沖ななも
フライパンゆすって卵片寄せるあっちもこっちも生きにくいけど・・・・・・・・・・・・・・・・・松平盟子
群れなすは弱さのあかし地に雀海に鰯のありて追はるる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩田正
レモンの木だつたからこそ詩みたいな蝶の産卵葉毎くまなく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆
昔日はこはれた笛といふべきか然りほろほろほろほろと吹く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 坂井修一
思ひ出づる過去に微笑み眠れといふなべて放棄の姿と言はむ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 北沢郁子
風に揺るる白木蓮はゆさゆさと花のおもさを歓びてをり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・萩岡良博
おんなゆにちぶさのばりえーしょんをみるおとこが一生みられぬほどの・・・・・・・・・ 沼尻つた子
きらきらと波をはこんでゐた川がひかりを落とし橋をくぐりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 薮内亮輔
櫛にからむ毛髪からも遺伝子は採取され死後も他者とはならず・・・・・・・・・・・・・・・・・柳沢美晴
わが頬を打たねばこの身かげらふに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新延拳
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
頑になる風車まはるほど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中田尚子
愛咬やはるかはるかにさくら散る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・時実新子 
春の鹿まつ毛に光粒をなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 杉山久子
発光す一心不乱に土筆摘み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山下つばさ
一書に昆布または牛の糞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 林 桂
巣立ったら槐の枝へ行くつもり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆川燈
奥の間に低く飛びゆき春の
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩田由美
人間を愉快にさせて花が散る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浅利猪一郎
政治家のヘソを洗えば放射能・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川重尾
ためらわず逢いたい人に逢っておく・・・・・・・・・・・・・・・・岩崎千佐子
ゆびを見る指だとわかるまで指を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北村幸子
時は流れる 腕立て伏せは五十回・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北田惟圭
第一案は鞭打ち症になっている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・進藤一軍
宇宙まで飛んで行く気か石ころよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・壺内半酔
眼底はすでにいちずに桜葬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・平賀
寿
広告のキリンの首は春の曲げ方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・南野勝彦
笑っていれば淀も桂も流れるわ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉岡とみえ
鯵の干物をうなづきながら焼いている・・・・・・・・・・・・・・・樋口由紀子
折れそうなこころに酒という支柱・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新家完司

られて林檎は初めて空を見る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山本三香子
富士山の噴火をじっと待っている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・古谷恭一
かや妖精の王立ち寄りぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿

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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第五歌集『昭 和』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
一般書店からの取り寄せは、角川書店の配本部門・角川グループパブリッシング発売、と指定されたい。
ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する ★ ──登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
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──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
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「集英社文庫」新刊
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照屋眞理子歌集『恋』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
照屋

──新・読書ノート──

     照屋眞理子歌集『恋』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・・角川書店2013/04/25刊・・・・・・・・・・

照屋真理子さんは、こういう人である。
1951年生まれ。成城大学文芸学部卒業。句誌「季刊芙蓉」代表。塚本邦雄氏に短歌俳句を学ぶ。
1980年サンデー毎日代表現代百人一首塚本邦雄賞、1981年短歌研究新人賞次席。
歌集『夢の岸』、『抽象の薔薇』、句集『月の書架』、『やよ子猫』。

そして今回の歌集『恋』は第三歌集ということになる。 この本は著者から贈呈された。

経歴から分かるように短歌と俳句を共に作るという珍しい方である。
先ず、この本に入る前に、俳句作品を引いてみよう。

     雪の弾  照屋眞理子

  影持たず母の在(い)ませる冬日向

  煮凝に透けて遙かな夕灯り

  帰らざる日やまなうらの初山河

  初夢やゆゑなく泣いて覚めにけり

  生るるまでをりし日の闇雪催

  雪女郎恋して溶けてしまひけり

  きぬぎぬや嘘美しき雪の庭

  にんげんは戦争が好き雪の弾

  ときどきは夢に咲(わら)ひもして冬眠

  春待ち星と呼びたき光ほの潤み

これらの作品はインターネット上の「週刊俳句」2013/02/10付けに載るものである。
また「裏ハイ」という──ほぼ毎日・正午更新●『週刊俳句』の裏モノ●another side of HAIKU WEEKLYの
2013年1月14日月曜日に下記のような記事が載っている。  ↓
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●月曜日の一句〔照屋眞理子〕 相子智恵

   梟の声するあの辺りが昔    照屋眞理子  句集『やよ子猫』(2012.12 角川書店)より。

こう言われると、そう思えてくるという、不思議な句だ。

梟が夜中の森で鳴いている。夢かうつつか、暗闇の中にいきなり放り出された読者は、何も見えず、何もわからない。
ただホオーホオーと鳴き声のする方へ目を凝らすうちに、ふと「ああ、あそこには過去があるのだな……」と、闇の中でなぜか得心するのである。

梟が夜行性で、異界へ引きずり込まれそうな、低くくぐもった声で鳴く鳥だから〈あの辺りが昔〉が、たいそうしっくりくる。
ほかの鳥ではこの味わいは出せないだろう。

本書には他にも
〈花中(あた)りすれば他界のよく見えて〉
〈生れたるも知らず欠伸の子猫かな〉
〈ゐない人はそつと座りぬ初座敷〉などの句があって、「うつし世は夢、夜の夢こそまこと」とでもいうような作者の感覚が貫かれている。

この感覚は作者の天性のものであると同時に、繰り返し出てくる亡き母の句――たとえば〈歌加留多夢に来るとき母若き〉などを思えば、
他界した母に会いたいという祈りの表れでもあるのだろう。
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因みに、私は、このサイトからの引用のかたちで、

   梟の声するあの辺りが昔・・・・・・・・照屋眞理子

の句を私のブログの2月次掲示板に一覧で載せたばかりである。
そして、3月月次掲示板には、続けて

   春待ち星と呼びたき光ほの潤み・・・・・・・・ 照屋眞理子

を載せたばかりなので、まるで符合するように、この歌集が贈られてきたので、いささか驚いている次第である。

また「検索エンジン─増殖する俳句歳時記」というサイトには下記のような記事が載っている。 ↓
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照屋眞理子

如月や閑と木の家紙の家

映画「裏窓」の原作者ウイリアム・アイリッシュの小説で「日本の家は木と紙でできているので、一本のカミソリがあれば侵入可能」とあるのを見つけたときにはずいぶん驚いた。
障子と襖を思えばおよそ間違いではないが、おそらく作家の頭には紙でできたテントのようなしろものが浮かんでいたのではないか。
たしかに煉瓦の家に暮らす国から見れば、木の柱と紙の仕切りとはいかにも華奢に思えることだろう。
子どもたちが襖や障子の近くで遊ぶことが禁じられていたのは、破いたり、壊したりしない用心だった。
表千家の茶室で扁平な太鼓帯にするのは「壁土をこすって傷つけないように」と聞いて、細やかな作法はこの傷つきやすい日本家屋によって生まれたものだとあらためて思ったものだ。
掲句に通う凛とした気配に、冴え渡る如月の空気のなかで、まるで襟を合わせたような神妙な面持ちの家屋を思う。
そして、その中に収まるきれいに揃った畳の目や、磨かれた柱を日本に暮らすわたしたちは思い浮かべることができる。
〈開かずの間いえ雪野原かも知れず〉〈この世にも少し慣れたかやよ子猫〉『やよ子猫』(2012)所収。(土肥あき子)
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また、もうすでにお馴染みの「東郷雄二・今週の短歌のページ」には第二歌集『抽象の薔薇』の詳細な書評が出ているので、先ず、それを引いておく。

   覚めてまたわが目とならむ双眼を
        しづかに濡らし今朝秋の水     照屋眞理子『抽象の薔薇』

 不思議な歌である。「このふたつの眼は目覚めたときにまた私の目となる」という。この不思議さは、当然次のような疑問を生み出す。では私が眠っているあいだ、この目は誰の目だったのか。それは私ではない誰かの目であり、夢を見ていた他者の目である。うつつの世を生きる私にとって、夜な夜な訪れる夢は他界であり、他界からうつし世に帰還したとき、この目はふたたび私の目となり、現実を見る目となるのである。この一首は、存在への理知的眼差しという照屋の短歌世界の特質をよく象徴している。

 照屋眞理子は1951年(昭和26年)生まれで、歌誌「玲瓏」所属。第一歌集『夢の岸』に続き、『抽象の薔薇』は2004年に上梓された第二歌集である。俳句もよくし『月の書架』という句集があるそうだ。塚本邦雄麾下に犇めく才人の一人だから措辞の巧みさは当然として、栞に文章を寄せた尾崎まゆみはもっと驚くエピソードを伝えている。照屋が初めて作り「サンデー毎日」の短歌欄に投稿したのが「二人には二人の孤独休息の戦士に揺るる夜の濃紫陽花」という歌で、二度目に投稿した「檻のうちを豹は歩めりひたすらに見らるるための暗き意志もて」が「塚本邦雄賞」を射止めたというのである。照屋に習作の時期はなく、最初から歌人照屋眞理子として出現したことになる。塚本はその才能を愛でて、「照る月に屋根もしろがね眞珠(まだま)なす理外の花を子らは夢みつ」という照屋の名前を折り込んだ折り句を作って贈ったという。

 こういうことはあるものだ。私は以前にFMラジオで、歌手・鬼束ちひろがまだ宮崎で高校生の頃、自宅のラジカセで作り放送局に送りつけたデモテープを聴いたことがある。そのテープから流れて来たのは、まぎれもなく鬼束ちひろの歌の世界だった。鬼束は徐々に自分の世界を獲得したのではなく、最初から100%鬼束ちひろだったのだ。才能とはこういうものである。

 『抽象の薔薇』を通読して、私は韻文を読む楽しみを満喫した。私が満喫したのは「歌のしらべ」である。「短歌とは究極のところ『うた』であり、『しらべ』である」(岡井隆『朝狩』序)のは事実だが、その事実を確かめることのできないものも現代短歌のなかにはある。しかし照屋の短歌は、読む者の心のなかに韻文のリズムを作り出す。そのリズムに乗せて、無のかなたから意味が運ばれて来る。それが心地よい。何首か引用してみよう。

 天頂をいま羽ばたきに星鳴らす白鳥座かも耳盲ひて聴く

 鳥になぞへ空に放ちてその後を知らざれば今日も風中のこころ

 野に得たる青きことばは野に返し人語の街に帰り行くかな

 閉づるまぶたのうちに覚めつつ眼球のはや知れる今朝天体の秋

 ふとも背に目の気配在りまたたかぬ大き片目よ空虚(むなしぞら)とふ

 五首目の「空虚(むなしぞら)」など、「わが恋は空(むな)しき空にみちぬらし思ひやれども行くかたもなし」(古今集恋一)を連想させる。

 照屋の短歌を読んであらためて思い知らされるのは、「短歌とは五七五七七の三十一文字ではない」ということである。もっと正確に言うと、「五七五七七の三十一文字」は短歌という韻文形式の必要条件ではあっても十分条件ではない。律の韻文がやむなく形を取ったのが「五七五七七の三十一文字」なのであって、「五七五七七の三十一文字」が初期条件として存在していたわけではない。この形式が日本語の音数律からしていかに不自然な形式であるかは、岡井隆が『現代短歌入門』で縷々と述べているのでよく知られたことだろう。

 短歌としての必要条件しか満たしていない歌と、十分条件まで満たした歌は、並べてみればそのちがいがすぐにわかる。照屋はもちろん後者であり、前者の見本としては例えば次のような歌がある。

 こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう  枡野浩一

 ローソンに足りないものをだれひとり思い出せない閉店時間

 奥村晃作は「マスノ短歌はなぜ厳密に三十一音で、字余りが起こらないのか」という興味深い疑問を投げかけた(『短歌ヴァーサス』1号)。奥村はこの問いに答えていないが、その答はかんたんで、もし字余りを起こすと、マスノ短歌はもはや「短歌」として読むことができなくなるからである。短歌の中に固有の韻律が感じられるときには、字余りや字足らずの破調は短歌形式にとって障害にはならない。五七五七七を墨守していなくても、韻律が全体をまとめ引き締める役割を果たすので、歌はばらばらに解体することを免れるからである。このとき歌は五七五七七という「外在的制約」によってまとまるのではなく、韻律という「内在的要因」によって凝集する。マスノ短歌にはこの内在的韻律がない。だから五七五七七が絶対に譲ることのできない最後の一線になる。マジノ線のようにここを突破されたら総崩れになるのである。「五七五七七の三十一文字」とは、指を折りながら音数を数える「数合わせ」のパズルではない。古今の名歌に字余り字足らずが多いこともよく知られたことである。

 ここに枡野の短歌を引いたことは本人の不名誉にはならないだろう。枡野は意図的に短歌固有の韻律を消し去って、「渋谷の電光掲示板に映ったときにおもしろい短歌を作りたい」と考えているからである。それはスーパーフラットなキャッチコピーのような短歌である。そのような短歌にとって短歌固有の韻律は、歌の内部に入り込むことを過度にうながすので、すみやかな意味の伝達を阻害し邪魔になるのだろう。

 さて、照屋の短歌に話を戻すと、際立った特徴がふたつある。「存在にたいする理知的懐疑」と、その結果として生まれる「短歌に詠われた世界の構造の複雑さ」である。前者を示しているのは例えば次のような歌である。

 皮膚一枚のうちそと淡く暮れゆくをいづれ空とふいづれを虚とふ

 ここにゐる! ここにゐるとき本当にわたしはかしこにゐないのだらうか

 手、足、首、骨、血潮、いつたいいくつの言葉で出来てゐるか「わたし」は

 けふはもう私は私を早仕舞してさてここに居るのは誰

 〈私〉の内と外は皮膚一枚で区切られているが、その外部と内部のどちらが虚でありどちらが実であるか、これが一首目の問いかけである。仮に私の感じる生々しい実感こそ真と観ずれば、外的世界は流転する現象世界にすぎない。しかし私の実感を外的世界の刺激が投射されたものと見れば、〈私〉は様々な刺激が流れ込む空虚な「場」にすぎなくなる。二首目は現実世界に暮らす〈私〉とは別に、もうひとりの〈私〉がいるかもしれないという。三首目は、〈私〉は実は「言葉」で出来ているのであり、もし言葉を失ったら〈私〉は〈私〉であり続けられるのだろうかという疑問だろう。

 これは言うところの「存在の不安」だろうか。いやそうではあるまい。照屋の短歌においては、〈私〉の実体性や唯一性や一貫性にたいする懐疑が繰り返し提示されているが、そのような疑いを抱く〈私〉は確固として存在しているからである。「疑う〈私〉」の存在は疑えぬとは、まさしくデカルトである。この一点において照屋の存在懐疑は、例えば次のような歌に見られる現代社会における人間存在の希薄感とは一線を画している。

 むらぎもの空白だけが液晶の画面に写り削除するべく  菊池裕

 定常化されてしまったみみなりのむこうもこちらも世界であると  中澤系

 存在にたいする懐疑は「入れ子構造の世界観」を生み出す。例えば次のような歌である。

 夢に鳥となりて夢見る人間(ひと)たりしむかしの夢のうすきまなぶた

 名付くれば消ゆるばかりをなべてなべて在りて在らざる夢の内外(うちそと)

 薄目して夢が私を見つつあらししばしを水に魚となりゐつ

 わが泪もて君をのごはむ水底の魚の睡りに降る雨のごと

 照屋の第一歌集の題名が『夢の岸』であったことからもわかるように、集中に「夢」がよく出て来る。またこれが「私が眠って夢を見ている」というような単純な構造ではない。一首目、「夢のなかで鳥になる」のはよくあることである。しかしこの一首は「夢のなかで鳥になった人間が、その世界でまた夢を見ている」とも読める。また三首目では「私が夢を見る」ではなく、「夢が私を見る」と主客転倒が起きている。四首目で水底で眠る魚はどうやら夢を見ているのだが、その夢のなかでは雨が降っている。魚の外側には水があり、魚の見る夢のなかにも水があるという構造である。私はこの歌を読んで良寛の作と伝えられている次の歌を思い出した。この歌は仏教の宇宙観を表わしているそうだ。

 あわ雪の中に顕ちたる三千大世界(みちおほち)またその中に沫雪ぞ降る

 照屋の歌が単に現実を生きる〈私〉を詠うのではなく、〈私〉が〈私〉であることの懐疑を弾機として入れ子構造の複雑な世界を立ち上げていることが、照屋の歌に奥行きと広がりを与えている。読者は照屋の歌を読むときに、迷路を辿ってちがう世界にふっと出たような、あるいはジェットコースターに乗せられて上下の感覚をなくしたような、酩酊と昂奮を味わうのである。

 まだ言い残したことは多い。歌に詠み込まれた「原口統三」「藤田敏八」「若松孝二」「プロコル・ハルム」などの固有名詞は、時代を共有した者としては懐かしい。また「摂津幸彦うつつは知らね茜さす真昼の空に降る星の声」は、平成8年に49歳の若さで他界した俳人摂津幸彦への挽歌だろう。摂津は次のような秀句を残している。

 南浦和のダリヤを仮のあはれとす
 南国に死して御恩のみなみかぜ
 少年の窓やはらかき枇杷の花

 つい先日も同じく俳人の田中裕明が45歳の若さで鬼籍に入ったのも惜しまれる。俳句をたしなむと長生きするのではなかったろうか。これに限らず『抽象の薔薇』には死者を思う歌が多い。

 死者に死者のつれづれあらむときをりを帽子目深に白日を来る

 八月は死者の見る夢こぼれては陽の揚羽月のおほみずあを

 このごろを死者に親しくわがあればなべてうつくし現し世のこと

 死んでしまつたあなたと忘れてゐた私と風化したのはどちらか 桟橋に腰掛けて

 最後は珍しく大幅な破調の歌だが、死者は記憶のなかで永遠に風化せず、むしろ風化してゆくのは生きている私たちの方だという認識は苦い。しかし死者を詠うときも、照屋は過度の湿っぽさや暗さに流れることがない。句集『月の書架』所収の「いつかカランと骨になる日よ風の秋」という句が示しているように、どこか乾いた思い切りのよさがある。

 最後に言わずもがなのことを一言述べてみたい。見て来たように照屋の歌はいずれもしらべの美しい歌なのだが、例えば加藤治郎の次のような歌を見てどう思うだろうか。

 いま俺は汚い歌が欲しいのだ硝子の屑のかなたの牛舎 『マイ・ロマンサー』

 「定型の波打ち際」に身を浸して、常に短歌形式の拡大を目指してきた加藤が欲する汚い歌というのは、文字通り汚いという意味ではなく、古典和歌から近代短歌の革新を経由しても大きく変わることのなかった短歌的韻律と短歌的抒情からはみ出そうとする歌というほどの意味であろう。定型という形式との格闘は歌人の宿命である。照屋が完成させた自分の韻律豊かな定型短歌を、今後どのように展開してゆくのか、興味のあるところである。

2004年1月17日
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さて、贈呈された第三歌集『恋』のことである。

  追憶の彼方の恋や夕暮れの
             空へ振るため人は手を持つ・・・・・・・・・照屋眞理子


この歌は作者にとって拘りのある歌なのであろう。 「帯」に引かれている。
1951年生まれというから、彼女はもう還暦を過ぎて、若くはない。
「恋」というものも、追憶の彼方にあるというのである。

「帯」の裏表紙には、こんな歌が抽出されている。

  美しい夢であつたよ中空ゆ振り返るときこの世といふは

  もうかたち持たずともよきさきはひを告げきて秋の光の中

  たましひを戴くごとく桃に刃をあてをり外はかがやく真昼

  ぢりぢりとかの日の夏に灼けながらふいになつかしあらざりしこと

  ある午後のいとも小さき悦びとして風光るとふ言葉はありぬ

  夕菅の花も灯のぬ物語閉ぢてこころを迎へに行かむ

  人は人の記憶に生きるため生きて日毎を交はす淡き挨拶


これらの歌が作者本人の選になるのか角川書店の編集者の選になるのか知らないが、この歌集一巻を代表するものと言ってもよかろう。
私は彼女の第二歌集『抽象の薔薇』を私の目では読んでいないが、上に引いた東郷雄二の批評文で見る限りは、この第二歌集が絶頂のように思える。
総体に、日本人というのは加齢とともに「枯れる」。風景や事象を見る目も「枯れて」ゆく。
きらきらした「比喩」も輝きを薄くする。
ということは、彼女の俳句も歌も、以前のものに比べて、風景と一体化する傾向を強めてきた、ということである。
言葉を替えれば、前衛的ではなくなった、ということである。

第二歌集所載の次のような歌(再掲)と比べてみてもらえば、よく判ることである。

 天頂をいま羽ばたきに星鳴らす白鳥座かも耳盲ひて聴く     第二歌集『抽象の薔薇』から五首

 鳥になぞへ空に放ちてその後を知らざれば今日も風中のこころ

 野に得たる青きことばは野に返し人語の街に帰り行くかな

 閉づるまぶたのうちに覚めつつ眼球のはや知れる今朝天体の秋

 ふとも背に目の気配在りまたたかぬ大き片目よ空虚(むなしぞら)とふ

それは悪いことではないが、彼女もやはり日本人なのだなぁ、という感じを私は受ける。しかし、これは私も含めて日本人なのだから仕方のないことだろう。
私が、かく言う証左の一例として、下記に歌を引くが「あはれ」という言葉が出てくるところなどに表われている。
この「あはれ」という言葉に象徴されるのは日本人が昔から引きずってきた「もののあわれ」のことであるが、そこに安住するのか、背くのか、ということである。


私は、これらの歌に加えて、私の好きな歌のいくばくかを引いて鑑賞を終わる。ご恵贈に感謝する。

   帰り来るはた帰り来ぬ人を待ち夜毎を灯すあはれ家いへ   

   冬ごもり春の地上にみなひとつ持ちて寂しゑいのちとふもの
   
   もの言はずもの言ふものの声満ちてあはれ日頃を親しき什器

   夏の終はり秋の初めをさやさやと風立ち人に恋はあやなし

   照屋眞理子といふが何処かに歌紡ぎをるとふわれは逢ふこともなし




冬日そそぎ擂り餌のやうな離乳食・・・・・・・・・・・高島茂
高島茂句集冬日

──高島茂の句──再掲載・初出2009/04/23

  冬日そそぎ擂り餌のやうな離乳食・・・・・・・・・・・高島茂

ネット上の古書店に注文中の、高島茂第二句集『冬日』(昭和50年大雅洞刊)が到着した。
森慶文のエッチングの版画の挿画のある箱入りのもの。
昭和37年秋から46年末まで約10年間の作品488句を収録している。
私の買った値段は高くて5000円だった。
掲出した句の一連は昭和45年の収録句で「赤んぼ」の句ばかり27句が一連として連なっている。
対象となる人が誰なのか私には判らないが、いつも身近に起居していた「赤んぼ」に相違ない。
一連はほのぼのとした雰囲気が漂っている。
句集名を「冬日」としたことからも、私はこれらの一連が作者の想いの凝縮したものだと思い掲出句を選んだ。
はじめにお断りしておく。
今は季節としては初夏であり、掲出句は「冬日」とあって冬の季語だが、この本一冊全体として鑑賞するので、この句の掲出となった。ご了承を得たい。


その一連を引いてみよう。

 鳥多き青空あかんぼいつも睡る

 桃の木の白い鳥から睡りもらふ

 あかんぼの皮むけてはまゆふの花の盛り

 やはらかに産着をたたむ酷暑かな

 生れて何か見えしは風の向日葵か

 手が温くなりてねむたく乳吸へる

 全身もて糞る小さき汗を噴き

 真昼かりかりと蟹ゐてあかんぼが見る

 あかんぼがよろこぶ炎昼の水の穂を

 乳の出る指吸ひすひて睡るなる

 白凉はねむり笑ひのあかんぼに

 あかんぼの視線よろこび四十雀

 あかんぼのねむりくすぐる小鳥きて

 むづかゆき歯が生え蜜柑ほしがりぬ

 空泳ぐ魚にあかんぼ羽をふる

 乳の匂ひ満ちて冬日のオルゴール

 あかんぼう孤独なるとき鯨煮られ

 家の中にむつき乾かす嚏する

 あかんぼの笑ひもなくて寒くなる

 雀ゐてあかんぼのながい食事みる

 家のどこか叩くあかんぼに粥が煮ゆ

 あかんぼに冬芽きらりと声を出す

 真冬このほのぬくきものあかんぼ抱く

 雪の日のラッパに聦く瞳がとべる

長すぎる引用になったかも知れないが、この一連を見ていただけば判るように「慈愛」に満ちた詠みっぷりである。
作者の「想い」が籠っているという所以である。

その後、高島征夫氏から、この「あかんぼ」について下記のようなご教示があったので、コメントをそのまま「貼り付け」ておく。

<「あかんぼう」についても記事があるのですが、とりあえず、作品作成時(昭和45〈1970〉年)、兄に長男が産まれています。
作句のモチーフになっただろうことは間違いないと思います。
ただ、本人は生前人に聞かれても「モデルはいないよ」と答えていました。
この一言がいまでも鮮明に思い出されます。
 付け加えると、後年(昭和61〈1986〉年『鯨座』上梓)、兄の長男は癌のため短い生涯を終えました。
第4句集『鯨座』にはその初孫である高島林(たかしまはやし)への献辞が掲げられています。>

「あかんぼ」の一連の句27句以外に、私の選んだ34句を下記に列挙する。合計61句となる。

この句集の巻頭句は

 炎天の鉄路を擦つて蝶迅し

で昭和37年の作である。この句の少し後に

 虻が熱い山菜採りの紺づくめ

 職なきは老ゆるにまかす時雨また

などの句が続いている。
昭和38年の句には、以下のようなものがある。

 緩みなき電線はるかに雪道直ぐ

 雪にながきバス待つ人生の荷物負ひ

 白繭のつめたさをいま掌にしたし

 鮮明な蛍火ひとつ多佳子の死

 一途なる秋蚕の食慾ひびきけり

昭和39年の作品から抜粋する。

 すでに夏日わがため白道まつすぐに

 青柿落つ歳月いたく無駄にせり

 肩に触れる冬日の鎖戦後ながし

昭和40年の句から

 両目もつはかなしと雪の捨達磨

 雪にかうかう一軒灯り馬肉売る

 連翹に腑抜けのまなこ射られけり

 轢死の犬みてゆく犬の時雨れけり

 生きて遇ふ句碑や泉に冬日さし──行道山滝春一先生句碑除幕式

昨日付けの記事の高島茂の略歴を見てもらえば判るように、茂は俳句結社「暖流」に参加している。
以下に、その主宰者・滝春一の経歴を貼り付けておく。
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滝春一
明治34年10月15日、神奈川県横浜市生まれ。本名粂太郎。
高等小学校卒業後、三越本店に入社。三越に27年間勤めた後、根岸演劇衣装株式会社に転職。
大正10年頃より短歌を作り始め、後職場の俳句会に誘われ俳句に興味を持つ。
大正15年には水原秋桜子の門を叩き、昭和6年、秋桜子が「ホトトギス」を離れる時春一も従い「馬酔木」の中心的作家となる。
昭和7年、初心者対象の雑詠欄「新葉集」の選者となり、8年には馬酔木第一期の同人に推される。
10年に「菱の花」の選者となり、14年に「菱の花」を発展させ俳誌「暖流」を創刊、主宰となる。
しかし、その後「無季容認・十七音基準律」を唱えるようになり、師秋桜子と意見が対立。その結果「馬酔木」を離れる事となった。
しかし昭和41年、楠本憲吉などの仲介により「馬酔木」に復帰している。
82年、「花石榴」で第16回蛇笏賞受賞。
1996年3月28日没。
句集に「萱」(昭和10)「菜園」(昭和15)「深林」(昭和32)など。

 風立ちて薄氷波となりにけり
 かなかなや師弟の道も恋に似る
 あの世へも顔出しにゆく大昼寝

参考松井利彦編「俳句辞典・近代」桜楓社
稲畑汀子他著「現代俳句大辞典」三省堂
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この記事を読んで興味深いことがいくつかある。
これは以前の記事にも書いたことだが、戦前には昭和一桁頃から俳句の世界にも「自由律」「無季俳句」などの運動の盛んな時期があって、多くの俳人たちが影響を受けた。
昭和二桁の戦時中は、そんな「自由」を標榜する運動は秩序を乱すとして特高警察によって弾圧され投獄されたりした。
戦後になってからは「前衛俳句」運動が起こり激震を起こしたので、これも多くの俳人が影響を受けた。
その結果、その道を邁進した人も居るし、多くは伝統的な句作りに復帰したりした。
誤解のないように申し添えるが「自由律」俳句は大正の頃からあった。
たとえば「荻原井泉水」などは、その先駆者であり終生その道を進まれた。山頭火や放哉の先輩である。もっとも井泉水は「自然主義」の作風である。
私は少年の頃に兄・庄助の蔵書にあった井泉水の句集の自由律俳句に接して、いわゆる「詩」の世界を知った。
たとえば 

<島が月の鯨となつて青い夜の水平> 

というような句である。
この句などは「俳句」というよりも「短詩」としても鑑賞できるだろう。
茂の句を見てみても、多少は影響された形跡が見える。師匠である滝春一の経歴からの連想である。
一言書いておく。

昭和41年の句に

 傷みなくともる灯はなし斑雪の村

 流さるる生きものかなしおたまじやくし

昭和42年の句に

 家継がぬ子に縋りをり寒の虻

 マッチの火ほどに芽ひらき紅柏

 盆休みの職人とゐてぼてぼて茶

 傷つきてマルメロつよき香を放つ

昭和43年の句に

 日を吸つて寒の沢蟹動きそむ

 ただの棒ならず榛の木春待つ田

 あかんぼを見せあふ桜遠景に

 耳ともしねむるあかんぼリラの花

昭和44年の句に

 中年に日は流れだす桐の花

 炎暑の人詰めてがくんと市電止る

 炎天に遠流の渇き火口壁

昭和45年の句に

 干魚・蕗縄でくくつて黙りこくる

 霧に日させばまぼろしか鶴遠き潟に

昭和46年の項、この句集の巻末句に

 南天の実や明暗を若く知りぬ

 飯どきは飯くひにくる冬仏

この句集は昭和37年というから作者42歳からの十年の句ということになる。
作者の生涯の中でも一番充実していた時期ではなかろうか。
恣意的な引用だが私の鑑賞が籠っているので、後は読者の感想に任せたい。
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なお高島茂も所属し、第34回現代俳句協会賞も得た「現代俳句協会」のデータベースを検索すると50句が出てくるので参照されたい。
誰の選になるかは判らないが、この協会のオフィシャルなデータベースとされている。
なお征夫氏からのご教示によるのだが、茂の一周忌にあたっての山崎聰の「冬日」の批評の記事を紹介しておくので興味のある方は当たってみてもらいたい。

平和とはそら怖しく無花果啖ふ・・・・・・・・・・高島茂
高島茂句集しょういき

──高島茂の句──再掲載・初出209/04/22

  平和とはそら怖しく無花果啖ふ・・・・・・・・・・高島茂

この句は高島茂第五句集『麞域』(しょういき)(平成5年7月14日 卯辰山文庫刊)に載るものである。
この本はネット上の「古書店」で1500円で買った。
箱入りで本も箱も「硫酸紙」で巻いたもの。昔は、このように「硫酸紙」で巻いた本が多かったが、今では珍しい。
「謹呈」札が挟み込まれていて、作者がどなたかに進呈されたもののようで、読んだ形跡のないような新品同様の本である。
こういうことは私にも経験がある。
歌でも俳句でも、その筋のトップの人々には大量の歌集や句集が毎日贈られて来るから、彼らは「読むこともなく」定期的に古書業者を呼んで引き取らせるのである。
因みに、私の歌集も古本としてネット上に売りに出ている。
むしろ、こうして古書として出回ることを私は喜んでいる。
読んでくれない人のところにあるよりも、ネット上で探して買ってくれる人があるというのが幸せである。

征夫氏からご提供いただいた高島茂の略歴を引いておく。
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高島茂の略歴

大正9(1920)年1月15日、東京・芝神明町に生まれる
昭和16(1941)年1月6日 麻布歩兵第一連隊に入営。1月16日、満州へ送られる
昭和17(1942)年 肺結核を発病。療養中「ホトトギス」投稿、翌年初入選
昭和18(1943)年 内地に送還。終戦まで福島の療養所生活。満州の戦友の部隊は南太平洋ロタ島に送られほぼ全滅す
昭和20(1945)年 終戦。秋に実家の高円寺に帰り、魚屋を手伝う
昭和21(1946)年 新宿西口に「ぼるが」の前身の酒場を開く
昭和22(1947)年 俳句結社「暖流」に入会

昭和24(1949)年 「ぼるが」創業

昭和30(1955)年 第三回暖流賞受賞

昭和34(1959)年 「ぼるが」を現在地に移転

昭和61(1986)年 第34回現代俳句協会賞受賞 この間、初句集『軍鶏』(昭和39年)、『冬日』(昭和50年)『草の花』(昭和59年)を刊行し、この年『鯨座』を上梓

平成2(1990)年 「獐(のろ)の会」発足 代表となる

平成5(1993)年 『麞(しょう)域』刊

平成11(1999)年8月3日心不全により死去。享年79歳 この年2月まで大腸癌の療養中にもかかわらず、「ボルガ」に出て陣頭指揮。生涯現役を貫く。

平成12(2000)年 遺句集『ぼるが』刊

平成13(2001)年 遺句帖『武川抄』刊
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先ず、この難しい字は「鹿かんむり」の下に「章」という「旁」が一字になったものである。(図版参照のこと)
これは、この結社「獐」(犭偏に章)と同じ意味の字であり、東アジアに生息する「のろ鹿」のことである。
判りにくいので、今は結社としても「noRo」と表記されている。
なぜ、こんな「のろ」という名前を結社の名にされたのかを考えると、おそらく兵士として満州の地に居たときに野生の「のろ鹿」をよく見られたのではないか。
戦地で結核を発病したことと言い、この地の風物が作者の句作の原点になっているからであろうか。

句を見てゆくと、作者は戦地に行ったことの体験から、この句があるのである。
そんな体験からすると、今の世相は「平和ボケ」のように見えたのではないか、それが「そら怖ろしく」のフレーズになっている。
「啖う」は「食う」にも「食らう」にも訓(よ)めるが、ルビがないので、どちらにも訓んでもらっても結構だ。
はじめにお断りしておくが、「いちじく」は今の時期の季語ではないが、この句集全体の中から選んだ句なので了承を得たい。
アダムとイブの西洋の「肉欲の原罪」の神話に「禁断の木の実」として出てくるイチジクの「喩」も、この句の鑑賞の場合には重要だろう。
あれこれ考えて、この句の「訓みかた」としては「無花果」は「いちじく」とは訓まずに漢字のまま「ム・カ・クワ」と発音し、「啖ふ」は無難に「くう」として5音に収めたい。

以下、私の選んだ句を列挙したい。合計46句になるが約一割弱ということだ。

■眼には見えぬトリハロメタン水温(正字)む

■狙撃(正字)の日連翹遠く眩しめり

■いくたびも少年と遇ふ日永かな

■羅や虚(正字)子に會ひたる日に似たる

■しいんと灼け鏡太郎忌の氣球浮く

■妄執に似たり青(正字)梅手の中に

■のつそり出る霧の太陽蟹臭し──網走

■富士見えず二十三夜の湖に彳つ──山中湖

■登校拒否身近に雨の冬至なり

高柳重信逝きて
■あざやかな沒後を雨のゆすらうめ

中村草田男死す
■汗で濡れる體つめたく汗流る

「鏡太郎」とは高橋鏡太郎のことで、先に書いた『俳人・風狂列伝』にも名が挙がる人であり、また高浜虚子、高柳重信、中村草田男など著名な俳人との交友が偲ばれる。
俳句では「弔」句というのが重要視される。その意味でも、これらの句は大切にしたい。
「登校拒否」の句は、恐らくご子息あるいは孫のことだろうが、他人事のように聞いてきたことが身近に起こったのを句にされた。
こういう「時局性」も俳人には必要である。
「トリハロメタン」の句も同様であり、時事性を捉えて秀逸である。
「狙撃の日」の句から、先に述べたような印象を私は抱いたのである。

■眼を病みてしみじみ雪の角館

■金蘭を生けてはるかな土偶の目

この句は、征夫氏が私の歌

    呼ばれしと思ひ振り向くたまゆらをはたと土偶の眼窩に遇ひぬ・・・・・・・木村草弥

と「唱和」して彼のBLOGに掲載していただいた思い出の句である。

■認識票肌になかりし今朝の秋

「認識票」とは、軍隊で兵士の体に付けさせるもので、このことからも作者が戦争体験があるという私の認識の根拠となるのである。
兵士たりし日々には肌身離さず身につけていた「認識票」が今はもう身にはまとっていない、ああ平和なんだなぁ、という感慨である。
その「平和」というのも、掲出句のように「そら怖ろしい」ものなのである。この辺の屈折した作者の「想い」を汲み取りたい。

■けもの臭き忘れ襟巻茂吉の忌

■笹のひと葉身に食ひ入りて蟇交る

■平等村手押ポンプも春なれや

■しばらくは鶴の見えゐし陶枕

■鮟鱇などわが風狂の友にして

■梧桐の寒の芽むつくり脂ぎる

■冬日のぬくさ背にありエル・グレコの繪

■空即(正字)是色はるかなる白さるすべり

■凡兆のその後知らず牽牛花

■手のさきの闇ふかぶかと鉦叩

■秋暑し死魚をむさぼる龜のをり

■疵ひとつなくて大きな朴落葉

■しぐれゐてやがて本降り桂郎忌

■おのづから瞠るくらさの寒卵

■軍靴に似しゴッホの短靴かなしかり

■へくそかづらなんじやもんじやも梅雨しとど

■うらごゑのどこかしてをり夾竹桃

七月十三日
■あと幾日生きては梅雨の五日月

■鳥となり還りきませり梅雨ふかし

この「七月十三日」という日付がどういう意味か、また、この句につづく「鳥となり」の句は、今の私には判りかねるが、重い句である。

■うすうすと山茶花の襞わがエロス

■それとなくいのちのことを息白し

■佐伯祐(正字)三のたましひの繪と五月は會ふ

■聲あげて花火の傘下誰か老ゆ

■點鬼簿に入りしその名を蟲のこゑ

■ふたり子の描きし凧を枯田に置く

■哲學をまなびし道の雪蟲よ

■銀河鐵道の夜の劇に出て卒業す

この三句を詠んだ対象の人が、どなたか私には判らないが昭和終末の頃の作品ということから、「孫」のことであろうか。

■荒梅雨やこんなところにへのへのもへじ

■東京を追はれし守宮の塀もなし

■ガラス繪の裸婦うしろむき無月なり

■戰爭の火の消えざるに昭和終る

■ながかりし昭和を悼み白鳥みる

この句集は昭和63年─つまり昭和の終焉を以って終っている。大正生まれとは言え、生涯の殆どを「昭和」とともに生きた作者として格別の感慨があったであろう。
引用した終わりの二句に、それがよく出ている。
この句集は編年で作られており、昭和57年─77句、58年─58句、59年─59句、60年─58句、61年─60句、62年─92句、63年─96句、合計500句が含まれている。この中から私の恣意で、上のような句を選んだもので、選びきれていないものも多いと思うが、今回は、この位にして終る。気がつけば加筆、訂正したい。
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TB9ボルガ
 ↑ ただし壁面を這っていた「蔦」は、今は無いようである。

先にも引用したが
高島茂氏創業の「ぼるが」の紹介記事を引いておく。


新宿西口・老舗の居酒屋『ぼるが』

高島東さんにお話を伺いました。

 新宿駅西口から徒歩3分、小田急ハルクの裏手にある居酒屋『ぼるが』。煉瓦造りの建物にはツタがからまり、なんとも風格のあるたたずまい。店先からは焼き鳥のいい匂いがたちこめ、その煙につられて毎晩多くの人々が集います。150席ある店内は、20時を過ぎるとほぼ満席に。

 「当店は昭和24年に思い出横丁に開店し、昭和33年に現在の場所に移転しました。山小屋をイメージして造られた店内では、テーブルや椅子、ランプなどの照明器具も当時からのものを使っています。看板メニューの『ばん焼き』は、豚のモツ焼きと焼き鳥の盛り合わせ。開店当初は“ばん”という鳥の焼き鳥をお出ししていたことから、この名前で呼ばれています。また、今ではすっかり居酒屋の定番となった『酎ハイ』も、当店ではかなり昔からのメニュー。『焼酎を他の飲み物で割ってみたら美味しいんじゃない?』というお客さまからのリクエストから生まれたそうです。他にも、“山のキャビア”と呼ばれる『とんぶり』や、季節のメニューなどもおすすめですよ。」

 『ぼるが』という店名は、俳人でもあった先代オーナー(高島茂氏)がロシア南西部を流れる大河・ボルガ川にちなんでつけたもの。お店にはこの先代オーナーを慕い、多くの映画人や文学者、画家などが集まり、文化人のたまり場としても有名です。

 「映画監督の山本薩夫さんや、熊井啓さん、直木賞作家のねじめ正一さんなど、多くの方と家族ぐるみでお付き合いさせていただいています。みなさん、我が家のようにくつろいでくださってますよ(笑)。また、先代から受け継いだ俳句の会『(のろ)の会』(現在は先代オーナーの息子さん・高島征夫氏が主宰)も当店を拠点に活動していますので、文芸に興味のある方はぜひ一度いらしてみてください。」

 幼い頃から新宿に縁の深い高島さん。ご自身は映画の大ファンで、週末などはお店が終わってからオールナイト上映を見に行くこともあるそうです。そんな高島さんが語る、新宿の魅力とは?

 「新宿は言わずと知れた大都会。新しいお店や流行りのスポットなどが次々とできる一方で、人の暖かみを感じさせてくれる昔からのお店も残っている。人々が求めるその両方を兼ね備えているところが1番の魅力ですね。『ボルガ』も、これからもずっと変わらずに、ここで皆さんのお越しをお待ちしています。初めての方、お久しぶりの方、もちろん常連さんも大歓迎です!」
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住所: 東京都新宿区西新宿1-4-18
TEL: 03-3342-4996
営業時間: 17:00~23:00(ラストオーダー 22:00)
日曜・祝日休み
アクセス: 「新宿」駅西口より徒歩3分

一見居酒屋には見えない個性的な店構え。バックには高層ビル群がそびえます。

木の温もりあふれる店内。カウンターには民芸品なども飾られています。

テーブル席やお座敷など、さまざまなスタイルで楽しめる2階フロア。

やさしいランプの明かりが、和みの空間を演出。


こぶしの花は天上に/雲はかなたにかへれども/かへるべしらに越ゆる路・・・・・・・三好達治
kobushi1504こぶし②

        こぶしの花は天上に・・・・・・・・・・・・・・三好達治

      山なみ遠(とほ)に春はきて

      こぶしの花は天上に

      雲はかなたにかへれども

      かへるべしらに越ゆる路


辛夷(こぶし)は早春に冬枯れの山野で咲き、遠くから目立つため、かつては春の農作業の目安にしたという。
学名はmagnolia kobus と言い、我が国の固有種である。
kobushi3036こぶし③

「ハクモクレン」に比べて花がやや小さく、花びらが細くて、開き気味である。名前の由来は、果実が握りこぶしに似ているためという。
秋に実が熟すと、表面が割れて中から赤い実が糸でぶらさがる。
モクレン科モクレン属の落葉高木。
掲出の三好達治の詩は詩集『花筐』(はながたみ)から。
この詩は孤高隠栖の心境を詠った四行詩だが、こぶしの純白な花が青空を背景に山路にみごとに咲き誇っているさまが彷彿する。

kobusi1四手こぶし④

写真③は「幣(しで)辛夷」という種類の辛夷。
この「幣こぶし」だが、絶滅危惧種と言われている。
湿地性の植物で、各地で開発などで姿を消しているらしい。
四月三日のNHKの朝のラジオで、大きな生息地だった岐阜県の各務原の群落が産業廃棄物処分地の影響で消滅してしまったという。
目下、その土地で採取した種から発芽させて苗木にしたものを安全な地に植えつけて復活させる努力がなされているという。
苗木屋などには結構出回っているらしいが。。。
写真④は、こぶしの実である。
kobusi_3こぶしの実

私の歌にも辛夷を詠ったものがいくつかあるが、ここでは俳句に詠まれたものを採り上げて終りたい。

 一弁のはらりと解けし辛夷かな・・・・・・・・富安風生

 花辛夷月また花のごとくあり・・・・・・・・飯田龍太

 夢の世と思ひてゐしが辛夷咲く・・・・・・・・能村登四郎

 清滝の奥の四五戸の花辛夷・・・・・・・・河野南畦

 辛夷咲く空へ嬰児の掌を開く・・・・・・・・有馬朗人

 花辛夷月夜越前一乗谷・・・・・・・・倉橋羊村

 式内社田打ざくらの花かざす・・・・・・・・森田峠

 辛夷咲く一樹のもとの苗代田・・・・・・・・滝沢伊代次

 辛夷咲き会津に白き山いくつ・・・・・・・・岡田日郎

 水源の水もりあがる花辛夷・・・・・・・・矢島渚男

 辛夷咲き畳のうへに死者生者・・・・・・・・岡井省二

 目をあぐるたびに石見の花辛夷・・・・・・・・飴山實

 みな指になり風つかむ花辛夷・・・・・・・・林翔

 逢ひたくて辛夷の花の傷みゆく・・・・・・・・宮坂静生

 辛夷咲く飛騨朝市の黄粉菓子・・・・・・・・勝田享子



下山弘『川柳のエロティジズム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
下山弘

──新・読書ノート──

     下山弘『川柳のエロティジズム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・新潮選書1995初版 2006/05/20十三刷・・・・・・・・

少し前にこの著者の本を採り上げた際に、この本のことについて書く約束をしておいた。
この本は新潮選書ということなので、硬く硬く書いてあって面白くないので、別のところでの座談形式のものを引いておく。
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江戸文化と川柳
江戸時代は世界でも珍しい長期泰平の社会、しかも江戸の識字率は世界一、世界一の大都市、庶民の好奇心が旺盛などの社会環境の中から川柳が生まれました。
特に俳句だとか川柳とかいうのは17文字で表現するわけですから、相当の文化程度と知恵がないといけない。

現代社会でも欧米の人間でポエムをつくれるのは特殊な階級の文化人だそうですから、江戸時代に世界一短い詩を庶民が作り楽しむ社会が出来ていたのはすごいことなんですね。
江戸川柳は20万句ほどあるそうですが、その中でお色気川柳というのは1万句近くあるそうです。

専門的にはお色気川柳とは言わないで、破礼句(バレ句)または艶句、艶笑句と言うようです。
今回はいろいろな書籍を読み返し、笑いのネタとして皆さんに笑って頂くためのものを選び、幾つかの項目にまとめました。
私が面白いと思う句には3つの条件があります。

1つは生活風俗を面白く紹介しているもの。「子が出来て川の字なりに寝る夫婦」のような句でほのぼのとした句です。

それからなるほどと感心するような句、「頬白に塗った夜鷹の四十雀」みたいな句です。
この17文字の中に鳥の名前が3つ入っているのにすべて鳥ではない。

それからたくましい想像力でつくられた句、お色気ごとは秘め事ですから本当はこんなところで話すよりこっそり一人で想像しながら味わうといい。
するとなるほどと感心できるという句。例えば「一生奉公 かかとにタコができ」というような句ですね。(笑い)今笑った人はよほど想像力のたくましい人です。
後でこの句は解説します。

江戸艶句拾い集め
●銭と金を詠んだもの
「ほれ薬 〇〇から出るのが いっち効き」
この〇〇になにを当てはめるのが良いか10年ばかり前に老人会でクイズをしたことがあります。
私は旦那の口先で丸め込まれたから「舌または口」ではないかというお婆さんがいました。
別のお婆さんがそれは舌じゃない、マタだよ。股からちらっと出せば男なんていちころだと言い、爆笑になりました。
実際の句はそれほど色っぽいものではなく「佐渡」です。

「ほれ薬 佐渡から出るが いっち効き」
佐渡金山から出た小判こそ一番のほれ薬だという句です。

「江戸者の 生まれそこない 金を貯め」
江戸っ子が宵越の金を持たない事を粋がっている句ですね。

「町人も金のかわりに二本差し」
大名に金を貸していたら取れなくなってしまった。それで名字帯刀を許すということで借金を棒引きされたことですね。

「質屋では 利がくい内で 蚊に食われ」
外で利息に食われ、内で蚊に食われる、冬の間にいらない蚊帳を質に入れた。夏になっても請け出す金が無いという句です。

「間男を とらまえた明日 質をうけ」
江戸時代は姦通は重罪でありまして、女房が間男と一緒になっているところを見つけたら二つに重ねて四つにしてかまわない重罪でした。
ところが切り捨ててしまうと江戸は女不足ですから嫁さんもらえる当てがない。それで妥協で7両2分というお金の解決をしたそうです。
その後相場は下がって5両になったようです。間男から慰謝料をとって、質草を受け出したという句ですね。

「金よりも 水がほしいと 隠居言い」
水というのは男性の精力のことを言いました。水が枯れるというのは女性に全部吸い取られてしまって腎虚になるというわけです。金よりも精力がほしいということですね。

●武士を詠んだもの
「浪人は 長いものから 食い始め」
浪人は生活が苦しいですから、なにかを質に入れなくてはならない。まず槍や薙刀、次いで大刀を質入れるというわけです。

「町人で 質屋をでるは ひどいこと」
両刀をたばさんで質屋に行ったけれど、両方とも質草に取られてお金に買えて、丸腰で町人と同じになってくるという句ですね。

「大名に 生まれぬ徳で 夫婦旅」
大名になりますと参勤交代で2年間は奥さんを江戸において帰らなくてはならない。
旅行なんて出来ない、大名でなくて良かったという句ですがひがみも少しありそうですね。

「人は武士 なぜ町人に なってくる」
「花は桜木、人は武士」といって武士は一番偉いとされていたんですが、吉原では武士だというととたんに毛嫌いされる。
それで町人のなりをして吉原に行くけれどすぐ見破られてやっぱりもてなかったそうです。

「役人の 骨っぽいのは ちょきに乗せ」 ちょき舟というのは吉原に行くときに乗る細くてスピードの出る舟です。
役人の言うことをきかんやつは吉原で接待してやれ、今に変わらぬ役人接待の句ですね。

「奥方ははめる 妾は にぎるなり」
これはエッチな句みたいに聞こえますがまじめな句なんです。教養として音曲をたしなむ場合に大名の奥方は琴を演奏するので手には琴の爪をはめるわけです。
お妾さんとなるとせいぜい三味線で、こうなると棹をにぎるか撥をにぎる、ですから奥方は琴を演奏し、お妾さんは三味線を演奏しますよという意味です。

●大家さんを詠んだもの
「店中の 尻で大家は 餅をつき」
長屋は共同トイレになっています。惣後架といいました。江戸の下肥はいいもの食べているので非常に効き目があり、近在の百姓間で奪い合いになった。
幕府は下肥の値段を釣り上げてはいかんという通達を何回も出しているそうです。
大人の尻一人前で幾ら子供の尻一人前で幾らということで、年の暮れには前金を納めて農家が契約していったのです。
その相場が大人の尻ひとつで米一斗、餅にしたら10臼分になります。大家はその肥やし代で年の暮れの餅を店子に配ったという句です。

「家主に土産 帰って くそをたれ」
家主はくみ取り料がいい稼ぎになるわけですから。家主に「うちの長屋で糞してやらねーぞ」なんて嫌みの冗談も言ったようです。

●鶺鴒(せきれい)を詠んだ句
「かようあそばせと せきれい びくつかせ」
「ああなるほどと イザナギのみことのり」
「せきれいは いちど教えて あきれ果て」
鶺鴒というのはぴょんぴょんお尻をはねるようなしぐさをします。
イザナギの命とイザナミの命が子供を作るために合体したがその後どうしてよいか分からなかった。
そうしたらそこに鶺鴒がやってきてじっとしてちゃ駄目ですよ。こうしなさいと言ってお尻をびくつかせた。
そうしたらいざなぎの命がああそうかとおっしゃって、それで子供を作ることが出来たという神話に基づいた句ですね。
ところが鶺鴒が教えた以上に人間は色々な形を工夫し更にあきれる程に励んだという意味ですね。せきれいは合体方法の師匠なのです。

「知っているに せきれい 馬鹿なやつ」
という、神様はそんなこと知っていたんだという句もあります。

●独り者を詠んだ句
「ひとり者 おおきなじゃまを 一本持ち」
「暴れるせがれ ひきかかえ 内へいれ」
どのくらい邪魔になるかは女性の方にはなかなか分からないだろうと思いますけれど、男性には邪魔でしょうがない時代がありました。

「涙ぐむ せがれ故郷を 思い出し」
「おのが手を 女房にする ひとり者」
「帆柱を 寝かすに五人 頼むなり」
他人を頼むのでなく、自分の5本指に頼んで温和しくさせるという意味です。

●仲人・見合い
「十分一とるに おろかな 舌はなし」
「仲人は 小姑ひとり 殺すなり」 仲人は持参金の一割を貰ったそうです。ですから仲人は口上手に話をまとめました。
娘も全部片付いてなどとうまい事言うが、実はひねた煩いのがいるのに。

「瓜実を 見せて南瓜と とりかえる」
見合いではうりざね顔の美人の妹を見せておいて結婚してみたらかぼちゃのような姉だったという句ですね。

「こわいこと 美女で一箱 持参なり」 縁遠い娘には持参金をつけてもというのはいつの時代にもある。
しかし美人なら持参金なんてなくても引く手あまたのはずなのに持参金つきとはこれはなにか怖いことが陰にあるんではないかという意味ですね。

「百両は なくなり顔は 残ってる」
持参金や持参の嫁入り道具は離婚に際しては、返さなければいけなかったのです。持参金が目当てで不美人と結婚、金は使ってしまったから別れられない。

●新 婚
「槍ででも 突かれるように 嫁案じ」
「いまするか いまするかと怖くて恥ずかしい」
新婦の気持ちですね。

「嫁の屁は 五臓六腑を かけめぐり」
結婚式ではおならなんかするわけにいかないから、苦しんでおさえている姿です。

「宵よりも 今朝かぶりたき 綿帽子」 
明くる朝の恥ずかしさ。

●お客、お馬
このお客とは女性に一ヶ月に一回くるお客様のことです。馬も同じ意味です。

「婚礼の 明日から客に 婿困り」
結婚して暴れん坊を嫁さんがなだめてくれると思ったら、早速婚礼の翌日からお客様がきてしまった。困った困ったというところでしょうか。

「突き出した 槍先 馬にへきへきし」
「お馬だと 乗った亭主を はねつける」
この辺は槍と馬で武将のイメージで女性にやってきたお客を詠んでいます。

「門口で医者と親子が待っている」
かなり露骨なので言い難いのですが、医者というのは薬指、親というのは親指、子供は小指。
それらは門口で待っていて中指と人さし指が女性のいいところへ入れてもらえますという意味です。

●味わう
「みなひとの 愛ずるは 五味の他の味」
五味というのは、甘い、しょっぱい、辛い、すっぱい、苦いですが、人がみんな愛するのはその五味じゃないもうちょっと他の味だという意味ですね。

「めしよりは すきなものだが 腹がへり」
「松たけは酒、蛤は湯で 風味」
「女房は 湯にゆき 亭主は酒をのむ」
露骨に云いますと「湯ぼぼ、酒まら」と言いまして、お風呂上りの女性と少々お酒を飲んだ男性が一番具合がいいということになっていたようです。しかし

「酒まらも ほどがあるよと 女房じれ」
へべれけに酔ってしまってはどうしようもないですね。そして
「そのあとは 夫婦湯もさめ 酒もさめ」

●新 年
「二日の夜 夢ばかりでは ござるまい」
正月二日の夜は初夢の日ですが、姫はじめの日でもあります。

「曲乗りは まず遠慮する 姫はじめ」
新年ですからあまり神様の罰が当たるような体位はやめておきましょうということでしょうか。

「元日にするは よほどの 好きなやつ」
「女房と 乗り合いにする 宝船」
「宝船 皺になるほど 女房こぎ」
枕の下に宝船の絵を入れて眠ると良い初夢が見られるのですが、眠る前にその枕で上では姫始めをするわけです。

●練る
練ると言う言葉がありまして、これは女性が遠くに出歩くとあそこの具合が良くなるということを意味しております。

「近道を 嫁は帰って 叱られる」
遠くまで嫁さん出かけさぞかし練れるはずと旦那が期待していたら、近道を帰ってきたというのでがっかりという話です。もっと困るのは

「女房は 籠で帰って 叱られる」
「粟餅ほどに ねれたが みやげなり」
目黒不動尊の名物は粟餅だったのです。そこに出かけ粟餅を土産に買ってくる。旦那には粟餅ほどに練れたのを土産にし、今夜のお楽しみという訳です。

「機織は 遠道よりも よくねれる」
機を織るときは足を一回ごとに踏むわけですから良く練れるのですね。

●お伊勢まいり
お伊勢参りは江戸時代大変盛んでした。庶民が長い距離を安心して旅行を楽しめる国は世界でもあまりなかったそうです。
本当に安心して女性だけででも旅行が出来たのです。幕府が手形を発行する許可制でしたが、信仰で御参りするといえば大抵許可されたそうです。

お伊勢参りのほかにも大山詣で、富士山詣でが関東では盛んでした。お参りも大事ですが、男どもは途中の遊びが半分目的だったのです。
大勢の講で積み立てて、毎年代表が数名で行くということをやっていたようです。
お伊勢さんに行くとだいたい京都も回って40日から50日くらい費やしたそうです。

「抜けぬぞと 女房をおどし 伊勢に立ち」
お伊勢参りの留守に女房が浮気をすると神様の罰が当たって抜けなくなると言われていました。それでもなおかつ悪いやつがいます。

「伊勢の留守 初手一番の おっかなさ」
本当に抜けなくなったらどうしようかとビクビクものです。

「品川に いるに陰膳 三日据え」
江戸時代の旅行は命がけですから家にいる奥さんは気が気じゃない。陰膳を据えて無事を祈っています。
ところが旦那のほうはまず日本橋を発ったら品川で一泊、神奈川で二泊目、三泊目あたりは藤沢と、本当は藤沢あたりに行っていなければいけないのに品川でまだ遊んでる。
奥さんは知らないで陰膳すえているのにということです。

「陰膳を 飼い犬が喰う ふとどきさ」
飼い犬と言うのは、番頭さんでしょう。これは陰膳を食べただけでなくて奥さんも頂戴しているに違いないと言う句ですね。

「名物はつけ 飯盛りは 喰い隠し」
名物の安倍川餅や桑名の焼き蛤を食べた時は手帳に書いておくが、飯盛り女、宿場宿場の女郎さんをいただいたことは隠してありますということです。

●おめでた
「落ちそうな 腹は搦め手から 攻める」
妊娠したときは違った方法を選ぶという意味と城攻めをかけたものでしょうね。

「産むときは もうこれきりと 思えども」
これは男には分からない女性の産みの苦しみでしょうが、また妊娠するのは何故でしょう。

「恥ずかしさ 尻っぺた中 あざだらけ」
尻のアザとは蒙古斑のことですがいわくがあるのです。昔は一年に6回眠っちゃいけないという日がありました。
庚申の日は体内にいる三尸(さんし)の虫が天に告げ口をする日であり、告げ口されると早死にすると言われていました。

これを防ぐため皆が集まり、徹夜で庚申講が行われました。その時に寝てはいけない。ましていいことをしては尚いけない。
その日に妊娠すると生まれる子供は盗人になる。尻にあざが出来ると言われていました。
生まれた子を見たら尻にあざがあり、あの日を恥ずかしがるということですね。

●夜遊びと夫婦喧嘩
「月落ち 烏啼いて 女房はらをたて」
これは中国の有名な矯風夜泊の詩「月落ち 烏啼いて霜天に満つ」を取り入れたものです。
真夜中になっても旦那が帰ってこないから女房が腹を立てているということです。

「うちにない ものでもなしと 女房いい」 なんで夜遊びなんて行くの。うちにあるじゃないの。ということです。

「亭主から ものを言い出す 朝帰り」
奥さんはそっぽ向いてる。なんとかご機嫌を取りたい亭主の気持ちですね。

「喧嘩には 勝ったが 亭主 飯を炊き」
「手がさわり 足がさわって 仲なおり」

●夫婦の仲
「寝られない 晩だと女房 謎をかけ」 「あっためて くんなと足を ぶっからみ」「あっためて くんなは しろと 言うのなり」
「卵酒 ならばと女房 火を起し」
昔は夜中に火を起すのは結構大変です。でも卵酒を効かそうと思って奥さんは作ってくれたということです。「卵酒 女房の思うほど きかず」

●街 娼
「君は京 嫁は大阪に 江戸は鷹」
このままでは分からない句です。京都では街娼を辻君と言った。大阪では惣嫁(そうか)といいました。
惣というのはみんなで共同のと言う意味です。江戸は夜鷹と言ったのです。

「頬白に 塗った夜鷹の 四十雀(しじゅうから)」
さっき言いましたがこの17文字のなかに3つ鳥が出てきます。四十雀は40過ぎてから客取りするなんてというニュアンスが入っています。
江戸時代は20歳すぎたら年増、30すぎると大年増といった時代です。将軍の夜伽なんかも30過ぎたら下がったそうですね。

「材木に 巣をかけて待つ 女郎ぐも」
「古着屋と 二十四文と 入れかわり」
この夜鷹の料金は二十四文だったようです。ソバが十六文だったのですから安いですね。
吉原の手前に日本堤という場所があってそこに昼間はずっと古着屋が並んだそうです。
夜になると古着屋はいっせいに居なくなって夜鷹が網をはる場所になったのです。

「舟饅頭 ちょちょっと細い 波が打ち」
舟を根城にするやや値段が高い舟饅頭と呼ばれた女たちもいたのです。だいたいは旦那が客を引いてきて、女房に舟で客をとらせたのです。

「提重(さげじゅう)は 重たくなると 又おろし」> 重箱を提げて物を売り歩く、中にお餅とか饅頭とか入っていて売り歩いている女たちです。
それで声をかけられて家へ上がり、自分のお饅頭で相手をする。
重たくなるのは重箱が重いのではなくておなかが重くなるということで、妊娠したら子供を堕しましたという意味ですね。
春を売る女には色々な種類の名前があったようです。
遊女、飯盛り女、宿場女郎、湯女(ゆな)、けころ、歌比丘尼、舟饅頭、提重、家鴨、夜鷹、こういう呼び名で江戸には何千人もこういう女たちがいたそうです。

●芳町・お釜
「女でも 男でもよし 町といい」
芳町といえば江戸時代は男色、お釜のメッカでした。

「故郷を 弘法大師 けちをつけ」 故郷は自分の生まれたところ、女体です。仏教は女人禁制、妻帯禁止です。それを弘法大師の責任にした句です。
それで坊さんはどうしたかというと吉原に行くときは袈裟、衣を脱いでお医者さんに変装して行く。ところが芳町に行くのは男相手なので平気です。

「芳町は 和尚をおぶい 後家を抱き」 男色は戦国時代は多かったのです。信長と森蘭丸がそうです。
男娼は和尚さんには後ろを提供し、後家さんには前のものでお相手をしました。

「用だたぬ釜 御殿から 買いに来る」 年取ったお釜は男から相手にされなくなる。
年取ったお釜になると、今度は後家さんを相手にするとか奥女中を相手にするということだったようです。

「芳町の あす張り型の 大味さ」 御殿から来て芳町で本物を堪能し、翌日張り型を使ったら、やはり味が落ちたということです。

●水牛・張り型
「熱燗で 局酔えるが ごとくなり」
「ひだるさを 湯漬けでしのぐ 奥勤め」

これはお酒の話やお茶漬けの話ではありません。水牛で出来た張り型、これは中が空洞でお湯を入れて温めて使うのだそうですが、それを意味しているものです。

「華奢な手で 握っては見る 湯の加減」
「待ちきれず 冷で水牛 使ってる」
「むつまじく 角つきあいの 奥女中」
「一生奉公 かかとに胼胝(たこ)ができ」
奥女中の奉公、足に張り型を結わえ付けて長らく励んでいると胼胝ができたということ。まあよくぞここまで想像したと驚きです。
男ですよね。男の想像力のたくましさ。ありえないようなことを想像して遊んでいますね。

「鼈甲(べっこう)は いずれ毛のある 所へさし」
鼈甲で作った張り型もあったのでしょう。かんざしや櫛に多く使われています。

●提 灯
提灯と言うのは暴れん坊ではなくなった男の一物を指しました。力が無くなった老人の持ち物です。
「提灯を さげて宝の 山を下り」
せっかくの宝の山だけれど提灯じゃ役に立たず、すごすご下りるところです。

「尼寺の大工 提灯 唐辛子」
尼寺には尼さんしかいないのであまり元気な若い大工が行っては困るわけです。それで年取ってお役に立たない提灯大工が行くのです。唐辛子はまだ細い子供のそれですね。

「三つのうち 目も歯もよくて 哀れなり」
男の老化はどこから来るか。歯・目・マラと言いますね。その3つのうち歯も目もいいんだけれどもうひとつが駄目で哀れなもんだということです。

「目はめがね 歯は入れ歯にて 間に合えど」
下の句があったような気がしますね。

「世にかえマラのなきぞ 悲しき」 でしたかね。
「とぼされもせぬ 提灯を隠居下げ」
とぼすというのは、火を点すということと、セックスをするという意味とあります。

「美しい 手で提灯の 皺をのばし」
力のない提灯も美しい手にかかるとしゃんとするという訳です。

「提灯の 骨接ぎをする 生たまご」
期待するほどに効かないと言う川柳も先ほどありましたけれどね。

●この世・あの世
「出たあなと 入るあなとは 大違い」
入るあなとは墓ですね。出たあなは生まれ出たところですね。

「借金の 穴を娘の 穴で埋め」

露骨すぎてムードも何も無いですね。あまりにも露骨すぎるのは味がないですね。

「出た穴は好きだが 入る穴は いや」
「穴を出て 穴に入るまで 穴の世話」
「人間の 穴から穴が 五十年」
「馬鹿なこと わずかな穴に 首ったけ」
穴だけでよくぞまあと感じますが、これらは前の句を参考に作ったのもあるのでしょう。
「死に水を とるは減らした 女房なり」
先ほど出ました精力の水、それを減らしてしまった女房が死に水をとっているということです。
早死にした男性の死因を川柳作者は腎虚(精力消耗病)にしたがります。
「金持ちの 人魂行きつ もどりつし」
これはこの世に残した財産が気になって往生できない金持ちのはなしです。

「日本から 極楽わずか 五十間」
ここの極楽とはあの世の極楽ではなくて現世の男の極楽、吉原のことです。日本堤から五十間あるくと吉原がまっていますという意味です。

「この仏様も お好きと 土手で言い」
昔、精進落としと言ってお葬式の後に吉原へ出かけたそうです。悪所通いを精進落しから覚えることもあったそうです。
あの仏様も好きだったからこれで成仏できるよなんて言いながら遊びに出かけるところの情景ですね。

「幽霊になると 平家も 源氏なり」
あの世では源氏、平家共にみんな白装束になるということです。
あの世の句が出たところで私の話も幕です。

少しはお色気川柳を楽しんで頂けたでしょうか。
私は川柳を知って頂く目的ではなく、皆さんに笑いのネタを提供し、笑って頂くのが目的でお話をしたつもりです。
私は近年出版された本から面白そうな句を選別してお話をしました。広く川柳を知りたい方にはご不満だったことでしょう。

 ↓ この本は更に資料的な体裁なので、本文には触れずにおく。 了承されたい。
下山弘

急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
高島茂「ぼるが」

──高島茂の句──再掲載・初出2009/04/21

     急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

   ■麦掛けて海の墓群あかるうす・・・・・・・・・・・・・・高島茂

   ■つつぢ燃ゆいつ狂ふても不思議なし・・・・・・・・・・・高島茂

   ■青蛙吸盤白く泳ぎけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

2008年四月下旬、私の詩集『免疫系』の出版の打ち合わせのために上京した際に新宿西口の居酒屋「ボルガ」で、此処ゆかりの俳人の高島征夫氏と初めてお会いした。
語り口も爽やかな俳句結社「獐のろ」の主宰にふさわしい人だった。うち揃ったDoblogの友や装丁家・岸顕樹郎氏などとの話も面白かった。
その際、私は『嬬恋』を持参して一冊、名刺代わりに進呈したが、高島氏からはお父上・高島茂の遺句集『ぼるが』(平成12年・卯辰山文庫刊)をいただいた。
なお「高島茂」については何度も書いたが、リンクに貼ったところなどを読んでもらいたい。

いただいた句集『ぼるが』は平成11年8月3日に死去されるまで、平成元年からの俳句総合誌、結社誌、主宰誌などに発表されたすべての作品を高島征夫氏がまとめられたものである。

高島茂筆跡0001

掲出した句集の「ぼるが」の文字は茂の筆跡から起こしたものである。
なお原文は漢字は「正」字体を採用されているのだが、私の勝手で新字体にさせてもらったので、ご了承いただきたい。

掲出句「急傾斜地崩壊危険蒲公英黄」は漢字ばかりを並べたものだが、これも「俳句」である。
下句は「たんぽぽ・き」と訓(よ)む。
ときたま、こういう句作りをなされているのを見かけるので、注意して観察されるといい。
例えば、こんな句がある。

    <花辛夷月夜越前一乗谷・・・・・・・・倉橋羊村>

以下、ただいまの季節にまつわる句をいくつか引く。

 急傾斜地崩壊危険蒲公英黄

 青猫といふ紙あらば詩を書かむ

 佐伯祐三のたましひの絵と五月は遇ふ

 植田の水たつぷり畦にあやめ咲く

 謎めきて新緑の山深まれる

 をとこをんな宴のごとし田を植ゑる

 かつと晴れ植ゑしばかりの稲の縞

 新緑の鉄柵朱し雪崩止

 お鷹ぽつぽすつくと五月の風を呼ぶ

 星またたき蛾の吹入りし野天風呂

 杉山の幽し萌えたつ羊歯を見よ

 戦争の終らぬままに葱坊主

 分校の生徒は五人金魚飼ふ

 葱坊主木曾の石仏小さくて
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高島茂
この句集に載る高島茂の写真である。

この句集に載るものは季節は一年にわたっているので、あとのものは、また季節の都度載せたい。
抽出した句については、特別に批評のコメントは書かないが、抽出すること自体が私の批評であることをお察しいただきたい。特に、冒頭に引いた三句は、趣き深い。
ご恵贈に厚く感謝申し上げる。
これを贈呈して下さった高島征夫氏も2009年に死去されて今は、もう亡い。嗚呼!


芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦
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     芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦

ayumi-4安住敦
安住敦は明治40年東京芝生まれ。逓信省に勤め、富安風生が局長の縁で俳句を始めた。新興俳句に関心を深め「旗艦」に参加。
弾圧の時代、「多麻」を創刊、応召する。
昭和20年末、久保田万太郎を擁して「春燈」創刊、支え続けた。
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昭和38年、二代目の主宰となる。
句集に『貧しき饗宴』『木馬集』『古暦』『市井暦日』『暦日抄』『午前午後』『柿の木坂雑唱』など。
俳人協会会長。蛇笏賞受賞。エッセイにも勝れる。昭和63年没。 私の好きな句を上げてみる。
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 くちすへばほほづきありぬあはれあはれ

 帯のあひだにはさんでありし辻うらよ

 相倚るやしんしんとして霧の底

 霧に擦りしマッチを白き手が囲む

 ふらんす映画の終末のごとき別れとつぶやく

 てんと虫一兵われの死なざりし──8月15日終戦──

 しぐるるや駅に西口東口

 春の蚊や職うしなひしことは言はず

 鳥渡る終生ひとにつかはれむ

 ランプ売るひとつランプを霧にともし

 留守に来て子に凧買つてくれしかな

 恋猫の身も世もあらず啼きにけり

 妻がゐて子がゐて孤独いわし雲

 涅槃図に束の間ありし夕日かな

 かいつむり何忘ぜむとして潜るや

 春昼や魔法の利かぬ魔法瓶

 蛇穴を出て日蝕に遭ひにけり

 鳥帰るいづこの空もさびしからむに

 散るさくら骨壷は子が持つものか──神保愷作縊死す──

 夜の書庫にユトリロ返す雪明り

 花明しわが死の際も誰がゐむ

 独活食つて得し独活の句は忘じたり

 枯菊焚いてゐるこの今が晩年か

 眼薬のおほかた頬に花の昼

 花菜漬愛に馴るるを怖るべし

 秋忽と癒えたるわれがそこに居ずや

 雪の降る町としふ唄ありし忘れたり
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ネット上に載る安住敦の「言行録」の一部を紹介しておく。

安住敦の言葉(1)

「花鳥とともに人間が居、風景のうしろに人間がいなければつまらない。花鳥とともに人生があり、風景のうしろに人生がなければつまらない。」
安住敦は、戦後久保田万太郎を擁して俳誌「春燈」を興す。
師と仰いだ久保田万太郎は、市井の人情を描いた劇作家、小説家としても大家であった。
安住敦の俳句は紆余曲折(これは別ネタで)を経た後、戦後は庶民感覚的な抒情的な句風となっていく。
これはやはり師事した万太郎の影響が大きかったのであろう。

参考 西嶋あさ子著「俳人安住敦」白凰社

安住敦の言葉(2)

「旅を詠むのでなく、旅で詠むものです」
これは説明の必要はないであろう。
しかし、単純にして奥行きの深い言葉である。
安住敦が主宰していた「春燈」の勉強会でよく言っていた言葉だという。
また、常に「ありのままを詠むしかない」と繰り返していたという。

参考 西嶋あさ子著「俳人安住敦」白凰社
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安住敦の句は好きで、何度も引いてきたが、ここに転載するのに適当な記事が余りないが、
大西巨人の鑑賞文を引いておく。

てんと蟲一兵われの死なざりし・・・・・・・・・・・安住敦

*しぐるるや駅に西口東口

 句集『古暦』〔一九五四〕所収。「八月十五日終戦」という前書きが付けられている。

それは、たとえば、中村草田男の

切株に踞(きょ)し蘖(ひこばえ)に涙濺(そそ)ぐ〔『来し方行方』、一九四七〕、

金子兜太の

スコールの雲かの星を隠せしまま〔『少年』、一九五五〕

が作られて、

また腰折れながら私自身の

秋四年いくさに死なず還りきて再びはする生活(いき)の嘆きを〔『昭和萬葉集』巻七、一九七九〕

が作られたころである。

そののち、たとえば、斎藤史の

夏の焦土の焼けてただれし臭さへ知りたる人も過ぎてゆきつつ〔『ひたくれなゐ』、一九七六〕

が作られて、いま敗戦五十年目の夏が来た。私は、万感胸に迫る。

山下泉歌集『海の額と夜の頬』ほか・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     山下泉歌集『海の額と夜の頬』ほか・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・砂子屋書房2012/10/23刊・・・・・・・・・

この人が山田兼士先生の令夫人であることに、うかつにも今まで気づかなかった。
歌人であることは聞いていたが、「山田」泉だとばかり思い違いをしていた。
最近になってペンネーム違いに気づき、アマゾンから古本を取り寄せてみた。
作者には、すでに2005年に第一歌集『光の引用』(砂子屋書房)があり、その本についての書評がいくつかネット上に出ている。
ただし、この本はネット本屋でも見つけられなかった。
その中から下記を先ず引いておく。

東郷雄二「今週の短歌のページ」というサイトに下記のような評が出ている。 ↓
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   モルヒネに触れたる手紙読むときに
             窓の湛える水仙光よ      山下泉『光の引用』

 新しく出た歌集を取り寄せて繙くのは,実に楽しいひと時だ。どんな世界が私を迎えてくれるかという期待に胸が膨らむ。
いつでもそうだが,読み始めて歌の世界に入るには,いささかの時間を要する。
最初はどの波長で歌を読み解けばよいかがわからず,頭のなかの周波数を調整するダイヤルをあちこち回す。そのうちこの波長で受け取ればよいのだとわかる。
ここまでに要する時間は,歌人によって,また歌集によって大きく異なる。山下泉の『光の引用』の場合は,やや長くかかる方だろう。
それは山下の歌の世界が実に静かな世界であり,声高に叫んだりこれ見よがしに旗を振ったりしないからである。
喩えて言えば,がらんとした部屋のなかに椅子が一脚と壁に立てかけた梯子があり,窓から光が射し込んでいる,そんな感じだ。
私の好きな画家の有元利夫の静謐な世界とどこか通じるところがある。

 さて掲出歌だが,冒頭の「モルヒネに触れたる手紙」には相当な詩的圧縮がかかっている。
モルヒネは阿片から抽出される麻薬だが,現在では末期ガンなどの激痛緩和に医療用として用いられている。
この文脈で読み解けば,「末期ガンに冒されている人からの手紙」と解することができる。
しかしただそれだけではなく,手紙がモルヒネに触れたという認識が膨らんで,手紙自体がふつうの日常を送る人が触ってはならないものという禁忌の意識もかすかに感じられる。
一方,「水仙光」という詩的造語からは,水仙の湛える光,または水仙に降り注ぐ光という透明で明るいイメージが立ち昇る。
その光は明るいながらも沈痛な影を宿しているようにも見える。

 作者の山下泉については,歌集あとがきに書いてある以上のことは知らない。
中学生の頃から短歌を作っていたが,リルケの詩に惹かれて大学ではドイツ文学科に学び,高安国世氏に出会って「塔」に入会している。
収録された歌のなかには浜田到の名がある。高安国世,リルケ,浜田到と並べてみると,山下が青春期にどのような文学に傾倒していたかがよくわかる。
『光の引用』は山下の第一歌集であり,今年2005年の現代歌人集会賞を受賞している。
朝日新聞の文芸欄で,高橋睦郎が今年度の収穫として池田澄子の句集『たましいの話』と並べて『光の引用』をあげていた。
この歌集についての反響はまだ少ないが,硬質な抒情を湛えたその短歌世界と修辞の冴えによって高く評価される歌集として人々の記憶に残るだろう。

 山下の短歌世界をひと言で表現するのは難しいが,「現代詩と短歌の融合を夢見る人は多いが,うまくいった例は多くない。『光の引用』にはその幸福な例がいくつもある」という山田富士郎の栞に寄せた文章が手掛かりになるだろう。
自身詩人であり短歌も俳句も作る高橋睦郎が今年度の収穫として評価したのも,その点に着目してのことにちがいない。
山下の歌は基本的には文語と口語を取り混ぜた定型なのだが,定型短歌という形式そのものに限界まで負荷をかけることによって,伝統的詩型としての短歌を新たな表現の器として生まれ変わらせようとした前衛短歌のような志向はなく,むしろ定型意識の手綱を緩めることで現代詩とのなだらかな接続を試みようとする位置取りが感じられる。
例えば次のような歌である。

 耳はただ水音もとめ透きとおる斜めに海に抱かれるごとく

 遠き夜を手繰れば揺れる魚と蝶くぐりきし水まとえる光

 日ざしにねむる明るい葡萄の内側をしずかにくだる車輪になりて

 夕闇を少し砕きて呑みこめば尾に光浮き撫でる掌がある

 明るい病室のような秋の日に町じゅうの金木犀銀木犀が散る

 日常の〈現実〉からの素材の借用は最低限にまで縮減され,選び抜かれたコトバがクリスタルグラスが密やかに触れ合うような静かな音を立てている。
おそらく山下のなかには短歌によって自己の〈現実〉を逆照射するというような意図はない。
コトバが作者の〈現実〉と〈世界〉を暴くためにそれらへと送り返されることなく,隣り合った別のコトバと触れ合って涼やかな響きを立てる。
その音が響くのは現実の空間ではなく,永田和宏が言うところの「虚の空間」であり,山下はその虚の空間に詩的な軌跡を描くことをひたすら目差していると思えるのである。

 このようなスタンスを採るとき,歌はどのような構造として立ち顕れるか。
一首目の上句「耳はただ水音もとめ透きとおる」は,歌の背後の〈私〉が水の音を求める飢餓感を堤喩表現により表わしているが,下句「斜めに海に抱かれるごとく」はその希求を直喩的に表現したものでありながら,上句の表わす欲求をそれ以上具体化する作用をほとんど持たない。
一首は海の波にたゆたうように流れ,読後にはただ澄んだ印象だけが残される。そのような作りになっている。

 吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』において,「短歌的喩」という概念を提案したことはよく知られている。

 たちまちにして君の姿を霧とざし 或る楽章をわれは思ひき  近藤芳美

 この歌では上句が「像的な喩」として下句の意味を導くイメージを喚起し,同時に下句は「意味的喩」として上句の心像を支えている。
上句と下句の互いに照らし合う反照関係が一首のなかに緊張感を生み出すとともに,読者のなかに像的イメージと意味とを有機的に関連するものとして送り届ける,そのような構造になっている。
しかるに,山下の短歌はこのような構造を持たない。上にあげた四首目を例に取ると,上句「夕闇を少し砕きて呑みこめば」をすでに詩的圧縮はあるが何かの現実的動作と解釈しても,下句「尾に光浮き撫でる掌がある」が果して何かの喩なのかそれとも上句に喚起された幻想なのか判然としない。
だから「扉を閉じて眸も閉じてあなたから輪郭を消す炎(ひ)を消すように」という歌を次のように改行して書くと,それとほとんど現代詩なのである。

 扉を閉じて
 眸も閉じて
 あなたから輪郭を消す
 炎を消すように

 上句と下句とが「短歌的喩」によって反照し合う構造は,鋭い緊張関係によって一首の意味を屹立させようとする表現意図に対応する。
たとえば三枝昂之の『水の覇権』の次のような歌をその例として見ることもできよう。一首から立ち上がる心像とそれに支えられた意味は鮮烈である。

 誰れの志(こころ)を裁ちてひかりて落ちたるとあした畳に咲く冬の針

 山下の短歌に「短歌的喩」を弾機として上句と下句の反照関係を押し上げる構造がないということは,作者自身が一首の〈意味の屹立〉を目差していないということなのである。このようなスタンスは山下をもう一歩現代詩の地平へと接続させることになる。

 山下の短歌を読んでいて他に気づくことは,三句切れの歌が多く,二句切れがほとんどないことである。
塚本邦雄は自分の歌の特徴として,初句に字余りが多いこと,二句切れが多いこと,結句に字足らずが多いことをあげたことがある。
これは「俳句から逃れたい」という思いと,「上句への付け句に過ぎない下句を避けたい」という思いから出たものだとも述べている。
塚本発言の文脈で眺めてみると,山下の上三句は俳句として読むことができるものが少なくない。

 1) 病廊は病巣のごとく野にうねる
 2) 水の髪そぞろに長き渡し舟
 3) 海に向くテーブルを恋う姉妹いて
 4) 裏梅を見にゆく旅の春の縁
 5) 胸の樹の小枝にかかる巣箱あり

 1) 羽曳野という古き解剖台
 2) 積み荷なる吾が髪はこび去る
 3) 一人はリュート一人は木霊
 4) 父やわらかく物を問う声
 5) 青葉の笛の鳥の音ぞする

 上の1)~5)が上句,下の1)~5)がそれに続く下句である。もちろんこれは,下句が上句への単なる付け句になっているという意味ではない。山下の修辞が,倒置法・転倒法・句割れ・句跨りなどの技法を駆使して短歌文体の革新へと向かうベクトルを内包するものではなく,むしろ叙法自体は古典的と言ってもよく,その修辞の苦心が主として語彙の連接と詩的圧縮によるイメージの喚起へと向かっていることを述べたいだけである。現代の短歌シーンでこのようなスタンスで作歌している人はあまり多くない。かつての中山明,小林久美子,松原未知子,それから早坂類あたりにわずかに似た傾向を感じるのみである。

 山下の詩的圧縮が遺憾なく発揮された歌をあげてみよう。

 夏の家の水栓とざし帰るとき魚鱗もつ水息ひとつ吐く

 やわらかき朴の木片削る子の手暗がり過ぐ夏の夜の櫨は

 雨を飼う白き部屋なりいまきみの舟形の靴が帰りつきしは

 兄の死の細き夕ぐれ街すべて鐘楼となる水の倒影

 ひらくほどに黙(もだ)ふかくなる梅園の光の底に足は届かず

 三つ編みは昏き蔓草 昼を編みほのかに垂れる夜のうちがわ

 一首目の「魚鱗もつ水」,二首目の「夏の夜の櫨」,三首目の「雨を飼う白き部屋」,四首目の「兄の死の細き夕ぐれ」といった語法に従来の短歌とは少し趣の異なる圧縮の掛け方があり,この辺りにいわゆる短歌的抒情とは微妙に質の異なる詩精神を感じてしまうのである。また五首目の「梅園の光の底」,六首目の「ほのかに垂れる夜のうちがわ」などには遠くリルケが感じられる。もっともリルケでは梅園ではなく薔薇園だが。

 栞に文章を寄せた河野裕子によれば,山下は寡黙な人だという。そうだろうと納得できる。
饒舌からほど遠いこの歌集の啓く世界には静かな光が満ち満ちている。その光を浴びて歌集の世界の中を歩くとき,静かな喜びに充たされる。
この歌集と出会えた人は喜ぶべきである。
2005年12月19日
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なお筆者は、こういう人である。 ↓
東郷雄二のプロフィール

履 歴
京都大学工学部原子核工学科に入学するも、理系の学問に疑問を感じて、文学部フランス語フランス文学科に転学部する。理系から文系への転身 (俗に文転という) に驚く人もいるが、それほど珍しいことではない。理系と文系の両方の分野に身を置いたことは、その後の私の研究に計り知れないほど役立った。その後、大学院に進み、途中、フランス政府給費生としてパリ第4大学 (Paris-Sorbonne) に留学。一般言語学の博士号を取得する。博士論文の題目は「フランス語と日本語における主題化の研究」。指導教授は Gustave Guillame の弟子にあたるBernard Pottier 氏。従って私は Guillame の孫弟子にあたるわけだが、まったく不肖の弟子である。帰国後、京都大学教養部 (当時) にフランス語担当助教授として赴任する。1991年4月に京都大学大学院人間・環境学研究科が設立され、授業科目「言語構造論」を担当する。1993年10 月に、教養部が総合人間学部に改組され配置換えになる。国際文化学科・言語文化論講座の所属となり現在に至る。2003年4月からの大学院重点化にともない、所属は人間・環境学研究科に変更となり、担当授業科目も「言語機能論」となった。魚の鰤のごとく変化したわけである。
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専門にしていること 

◇フランス語教育
 現在も総合人間学部で、全学共通科目のフランス語を担当しており、フランス語を教えることにかけてはプロ意識を持っている。しかし、いかんせん昨今の大学改革のなかで、自分がフランス語教師である割合は、低下の一途をたどり、今では30%くらいだろうか。

 フランス語教育関係では次の辞書・教科書を作った。

『新初等フランス語教本<文法篇>』(四訂版、白水社、共著), 1993
『ロワイヤル仏和中辞典 』(旺文社、共著), 1995
『プチ・ロワイヤル仏和辞典 』(改訂新版、旺文社、共著), 2003
『プチ・ロワイヤル和仏辞典 』(旺文社、共著)、1993
『目で見るフランス語発音入門 』(駿河台出版社、大木充と共著)、1989
『科学フランス語への招待』 (朝日出版社)、1991

◇フランス語学・言語学
フランス語の統語論と意味論を機能主義的立場から探求している。
主な研究テーマは
・ 語順 word order
 非標準的語順の果たす談話機能、類型論的語順研究、知覚のストラテジーから見た語順
・ 他動性
  transitivity受動態、非人称態、中動態、非対格動詞の研究
・ コミュニケーションの見地から見た文の情報構造
 機能主義言語学の十八番であるテーマとレーマ、主題と焦点などの機能的構文論
・ 指示と照応 指示詞、人称代名詞、確定記述、固有名詞の機能など
・話し言葉のフランス語の談話分析と会話のストラテジーフランス語の会話コーバスの分析
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肝心の第二歌集『海の額と夜の頬』に触れるのが後になった。
この歌集についても、すでに批評がいくつか出ている。 その中から、上と同じサイトに載るものを引いておく。

   ホネガイの影ひらきゆく夕べまで傾けつくす夜の水差し     山下泉『海の額と夜の頬』

 世評高かった『光の引用』に続く山下の第二歌集が今月ようやく出版された。『光の引用』が2005年だから7年間の歌が収録されている。
版元は同じ砂子屋書房で体裁や造本はほぼ同じなのだが、違いが2点ある。第一歌集では縦書きだった歌集題名が横書きになっている。
また第一歌集では1行を20字に固定した版組なので、長い歌は改行されて2行になる。
ところが本書はその方式をやめて、すべての歌を1行に収めるように組まれている。これで読むときの印象がずいぶん違ってくる。
個人の好みの問題かもしれないが、私には第一歌集の版組の方が好ましく感じられる。
1行20字なので字間が空いており、行の高さが揃っているので整然とした印象がある。また読んでいて一首の読字時間にも差が出るように感じるのである。
 山下の歌人としての資質については『光の引用』を取り上げたコラムで述べたので、ここでは繰り返さない。
第二歌集を読んで受ける印象も同じであり、大きな変化はない。しかし小さな変化はある。
それについて述べようと考えているのだが、どうも考えがうまくまとまらない。
その原因は那辺にありやと愚考するに、どうもそれは山下の短歌の捉えにくさに由来するのではないかと思い当たった。
山下の短歌を論じた文章を私はあまり知らないが、山田航の「トナカイ語研究日誌129」では、山下の短歌は「残酷な童話」のようであり、「終わらない子供時代への憧れ」ゆえに「奇想的な世界観」を展開しているとされている。
また山下は病院と画廊をよく歌に登場させるが、それをつなぐキーワードは「廊」であり、うねうねと続く無時間的な廊の迷路に読者を誘っていると続く。
山田の文章を読んで、同じ短歌でも人によって受け取り方がずいぶん違うものだと驚いた。
 前のコラムにも書いたことだが、山下の歌の特質は、ドイツ文学、特にリルケへの傾倒に由来する選ばれた言葉による硬質な抒情と、現代詩へのゆるやかな接続を意識した語法にある。それが「遠き夜を手繰れば揺れる魚と蝶くぐりきし水まとえる光」のように高度に象徴的で詩的圧縮を伴う歌となって現れる。
 第一歌集との違いは、この象徴主義的語法がやや薄れ、それに比例して第一歌集ではほとんど姿を見せなかった〈私〉が顔を出す歌が増えているという点である。
象徴主義的語法が薄れたせいで歌はわかりやすくなったが、その反面、第一歌集のどのページにも漲っていた浜田到ばりの天上的もしくは天使的な高踏性が薄れている。
たとえば次のような風である。

   うすやみに鬱金の大きな葉が揺れて、ずっと怒っていたと気づけり
   鮮明に声をつかえばいつまでも父の微笑のただよう木陰
   弟と話がしたい昼の底の白パンの影にさわったときは

 意図して選んだ訳ではないが、前歌集よりも口語性の強い歌が増えているようだ。〈私〉だけではなく家族も歌に登場する。
そして歌の中では父君は歯科医師であったこと、弟はヘビの研究のためにインドに行く学者らしいことなども語られている。
父君が病を得て亡くなられたことも、母君が介護が必要なことも、淡彩画のように描かれる。
作者の歌風の変化にはこのような実生活上の大きな出来事が反映しているのかもしれない。

   父の遺品にピンセット欲る人ありぬ入り日を受けて光るであろう
   仏壇にあいさつをして弟はケーララへ行く蛇を調べに
   父の骨は母屋をいでて墓に入り墓は宇宙の家居となりつ
   茶臼山まで歩かんと誘いしがみなし子のごと母はほの昏し
   目蓋から煙のように逃げてゆくかなしみは朝の奥の夕暮れ

 とはいえ伝統的な近代短歌よりは現代詩に近い言語感覚が随所に見られることは前歌集と変わらない。
それは語彙の選択に表れていて、私が殊に感じ入ったのは「プルキニェ現象」と「単舎利別」という言葉である。プルキニェ現象とは、チェコの生理学者ヤン・プルキニェが発見した現象で、日中は赤色が目立って見え、夕暮れになると青色が目立つという視覚感度のずれを言う。
連作の題名で歌に詠まれてはいないが、「身の粉を混ぜてつくった彫像はゆうぐれ青く目があくだろう」という連作中の歌に木霊している。
単舎利別は薬剤師の用語で、白砂糖の水溶液のことらしい。「シロップよ単舎利別よ消すものは悪ではなくて悪意の欠片」という歌に登場する。
いずれも色に関係しており、青と白と透明は山下の歌にはよく登場する色であり、山下の短歌世界の重要な構成要素である。
 歌集からいくつか歌を引いてみよう。

   松原のとがる夜更けをわたりゆく月の光にひらく腐刻画
   細密な光を浴びているのだろう子供の声のなかの地下鉄
   貝寄せの風にととのう砂浜の海の額をつつしみ踏めり
   迎えにゆく舟のありなん栴檀の花咲き出でて深き目蔭に
   ひとりずつ暮らしていたりマグノリアの花のすきまの夜の青さに
   ひったりと田に水が入り月に灯が入りて明るき夕べとなりぬ

 山下の短歌には季語があるわけではないが季節が感じられるものが多い。一首目、松原に月なら月が冴える秋が相応しかろう。
腐刻画はエッチングのことだから色はなく、明度の異なる黒のみの風景である。
二首目、「細密な光」というのも山下語のひとつ。
晩夏になり夏の湿度が下がると、物が細部までくっきり見える魔術的な時間が訪れることがあるが、そんな光を思わせる。
「子供の声のなかの地下鉄」という表現に詩的転倒がある。三首目、「貝寄せの風」とは3月下旬に吹く西風。
大阪の住吉海岸に吹く風で浜辺に吹き寄せられた貝殻を集めて造花を作って四天王寺に献納したという。これは立派に俳句の春の季語となっている。
四首目、栴檀の花は春に咲くのでこれも春の光景。なぜ上句に舟が登場するのかはわからないが、この歌は美しい歌である。
五首目、マグノリアは木蓮のことだから、これも花が咲くのは春である。三句以下に注目しよう。
「マグノリアの花のすきまの夜の青さに」には「名詞+の」が4回出て来る。これは山下の好みの語法のようで、よく使われている。
助詞の「の」で結ばれた名詞から名詞へと移るのは、啄木の「東海の小島の磯の白砂に」のように焦点を絞り込んでゆく効果があるのだが、山下の場合必ずしもそうではなく、用いられる名詞の意味の位相が異なるため、名詞を辿って行くといつのまにか具体から抽象へ、現実から思念へと誘われるかのごとくである。
 ここでもう一度掲出歌に戻ってみよう。

   ホネガイの影ひらきゆく夕べまで傾けつくす夜の水差し

 ホネガイとはまるで魚の骨のような棘条の突起を持つ貝で、古代フェニキアでは貝紫の原料として用いられた。
形が美しいので置物として窓辺に置かれているのだろう。「ホネガイの影ひらきゆく」は日が暮れて貝の影が伸びる様で、時間の経過を表している。
その様が水差しを傾けて零れた水が広がる様子に喩えられている。
ホネガイは貝紫の原料なので、この歌の裏側には紫色が潜んでおり、それは迫り来る夕闇の紫と見事に呼応している。
色彩と時間とが緊密な語法で詠み込まれていて美しい。山下の真骨頂はこのような歌にあると思われる。
2012年10月15日
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東郷雄二の評は、作者の本質をよく捉えている。
私が何か付け加える必要がないくらいである。
なお、他に詩誌「びーぐる」19号(2013/04/20発行)に、高階杞一氏が、この歌集に触れて1ページの評を書いておられる。
いい評なので引きたいが、長くなりすぎるので、遠慮しておく。

私も詩人の端くれなので、作者の二冊の本の題名の付け方が、およそ歌人らしくなく、詩人らしい題名だと直感した。
「光の引用」「海の額と夜の頬」なんとも詩的ではないか。
それはリルケに親しかったという作者の経歴によるだろう。
若いときに受けた影響というのは終生つづくからである。
作者は高安国世先生にドイツ文学を学ばれたらしい。高安先生はリルケ研究者として著名な方である。
先生についてはブログにも書いたので → 高安国世を見てもらいたい。

「海の額と夜の頬」という題名の由来する歌のことに触れておこう。
この歌集はⅠ、Ⅱ、Ⅲ に分かれていて、Ⅰの冒頭つまり巻頭に「夜の頬」の一連10首が出てくる。

   <サンダルをはいて出ずれば夜は優し夜の大きな頬に入りゆく>

の歌が、この項目を代表する歌として屹立する。
「夜の大きな頬」という把握の仕方、言葉の選択が的確である。 作者の好きな表現なのであろう。

そして、Ⅱの冒頭の一連16首の名前が「海の額」なのであり、

   <貝寄せの風にととのう砂浜の海の額をつつしみ踏めり>

の歌に「海の額」というフレーズが出てくる。「額」はルビがないが「ひたい」と訓むのであろう。
この一連には途中に三つの *アスタリスクを打ってあり、作歌の場所が同じではないのを、このフレーズの印象に合うものとして編集してある。
何とも心憎いばかりの計算された細心さである。
ここに私が書いたことは、作者も「あとがき」で、こう書いている。

<約七年間の自作を見直すうちに、何度も立ち戻ってしまうモチーフらしきものが幾つかあることに気づいたので、
 自身の通時性に沿いながらも、モチーフ優先の連作構成を試みています。>

この歌集が全部で何首の歌を収録してあるのか数えていないが、短歌結社「塔」に載った詠草が主になっているとすると、七年間では、
もっと歌の数は多い筈で、かなり歌を絞り込んであることに気づく。
だから作者が言うように「モチーフ優先」で編集されているということである。
リアリズム優先というか、雑駁なというか、そんな歌集が多い中で、心に沁みこむ佳い歌集を読ませてもらった。
ここに記して感謝するものである。


岸恵子『わりなき恋』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     岸恵子『わりなき恋』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・幻冬舎2013/04/10刊第三刷・・・・・・・・

知人から頼まれて、アマゾンから、この本を取り寄せた。知人に渡す前に役得で読んでみた。
この本の「帯」に、編集者が、こう書いている。

   < でも、でもね、逢えてよかった・・・・・
       突然の、胸の高鳴り。
     年齢のくびきを越えて燃え上がる
        鮮烈な愛と性
    著者が10年ぶりに世に問う、衝撃の恋愛小説! >

また裏表紙には

 < 孤独と自由を謳歌する、国際的なドキュメンタリー作家・伊奈笙子、69歳。
 秒刻みのスケジュールに追われる、大企業のトップマネジメント・九鬼兼太、58歳。
 激動する世界情勢と日本経済、混沌とするメディア界の最前線に身を置く二人が、
     偶然、隣り合わせたパリ行きのファーストクラスで、
  ふと交わした「プラハの春」の思い出話・・・・・・・。それがすべての始まりだった。

       容赦なく過ぎゆく時に抗う最後の恋。
    愛着、束縛、執念・・・・・・男女間のあらゆる感情を
       呑み込みながら謳い上げる人生賛歌。
         執筆4年、書下ろし文芸大作! >

と小説の要約が書かれている。 初版が出てから半月で三刷だから、よく売れているというべきだろう。

女優岸恵子(80歳)が、後期高齢者を迎える女性の恋愛と性に迫った小説「わりなき恋」(幻冬舎)である。
岸にとって、10年ぶりの書き下ろし小説で、70歳を目前にした日本とパリを拠点にする女性ドキュメンタリー作家と、
12歳下の大企業重役との5年を超える不倫愛が題材になっている。
タイトルは、古今和歌集で詠まれた一節にもあるように「理屈や分別を超えて、どうしようもない恋」を意味する。

 早くに夫を亡くした女性は、海外を飛び回る男性と遠距離恋愛を続けていくうちに深い関係になっていく。
ただし、十数年ぶりの性交は潤いが足りず、思うようにいかない。意を決して婦人科で治療を受ける場面なども描かれる。
70代女性ならではのエピソードだが、男性にかかってくる電話やメールの内容、ささいな一言に、恋心は少女のように揺れ動いていく。

 女優歴60年以上、作家としても多くの著書があり、57年にフランス映画監督のイブ・シャンピ氏と結婚し、1女をもうけて75年に離婚。
以降もパリに住み、作品の主人公と同様に日本とパリを行き来する岸が、赤裸々ともとれる同世代の恋愛小説に取り組むきっかけになったのは、幻冬舎の見城徹社長(61歳)との出会いだった。
5年前、岸の半生を紹介するドキュメンタリーに、見城氏がコメンテーターとして出演して交流が生まれた。
「決定的な小説を書きませんか」と依頼すると4年を費やし、322ページの長編小説を仕上げた。
見城氏は「恋愛という男女の普遍の営みを、格調高くうたい上げた新しい時代の新しい文学。こんなに興奮して作業したのは久しぶりです」という。

私は臍まがりなので、出たばかりのベストセラーには飛びつかないが、先に書いたような事情で、読んでみた。
先に引用したような文章にはない、しっとりとした「恋のかけひき」が描かれている。

この本の結末は、次のような文章で終わる。 十数年後という設定になっている。

< エピ口—グ
長い坂道を一人の男が歩いてゆく。
若くはないが、年寄りという風情ではない。すっきりと背筋を立てて、豊かではあるがかな
り白くなった髮の毛を搔きあげて、坂道に面したちいさな家のちいさな庭に眼をやった。そこ
にもう、男に懐いていた犬はいなかった。坂はまだだらだらと続いていた。その坂を、一歩一
歩踏みしめるように男はゆっくりと登つていった。
坂を登りつめたところにある、おおきな角地のブロックに男が愛した、純日本式の家ももう
なかった。歩調をゆるめた男は、東に面した道から、角を曲がって、かって裏庭のあった道に
回った。
そこに、はっとするほどおおきな房をつけたミモザの木があった。まだ冷たい春風のなかに、
黄色いミモザの花盛りがあった。
塀をまたいで、路上にこぼれ咲く花を、男は見つめ、そっと手を触れた。
「よう、生きていたね。おおきくなったなあ、逢いたかったぞ。俺は今日、七十五歳になった。
同い年になったんだ。それを言いに来た」
男の眼が潤んだ。潤んだ眼から涙が零れた。零れた涙は浅い皺のなかにうっすらと浮かんだ
笑窪にひととき留まって流れ落ちた。
男は、何軒かに建て替えられた家々には眼もくれなかった。ただひたすら、黄色いミモザを
見つめていた。暮れてゆく空に浮かんだ雲が、愛した女の晴れやかな笑顔になったり、掠れた
声で自分を詰るときに、瞳の周りがうすく青ずんで、その眼がすーっとつり上がる、怖いほど
美しい顔になったりした。
男は微動だにしなかった。ミモザの茂る塀に寄りかかって、雲の姿を眺めていた。
驚くほど繊細なくせに、どこか抜けていて、甘えん坊でお茶目な女の顔が、雲とともに流れ
てゆく。男の記念すべき七十五歳の一日が暮れようとしていた。
やがて、男も、笑窪も、ミモザの花も、夕闇にやわらかく包まれて淡み、遠く蒼ずんで空の
なかに溶けていった。
あとには、しん、と更に冷たくなった春の夜風が吹き流れているだけだった。 >

322ページに及ぶ大作の「書下ろし」である。 ご一読をお勧めする。
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 ↑ 講談社2005/12/20第一刷 2006/01/17第二刷

一緒に、こんな本も古本で買ってみた。写真入りのフォト・エッセイである。 これも版を重ねており売れたらしい。
この本を読んでみてわかったことだが、小説のプロットなどに、この写真エッセイ集が取り入れられているのである。



おとこたちはみなぺにすをもっていた/すいっちひとつでうつくしいおんがくが/死のむこうからながれでて・・・・・・・・・・谷川俊太郎
張り型~1
 ↑ 鼈甲製の張形  江戸時代に大奥で使われていたとされる。湯で柔らかくして、綿を詰めて利用した。

      おとこたち・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

  おとこたちはみなぺにすをもっていた
  いっしょうわすれられないとおもうできごとを
  あくるひにはわすれた
  すいっちひとつでうつくしいおんがくが
  死のむこうからながれでて
  そのほうがくへとおとこたちは
  じぶんをいくえにもおりたたむ

  <のぞみをたたれても のぞまぬことにはけっしてなれることはない>
  ゆかのうえのひとつぶのこめが
  とおいぬかるみでめをふくことをおそれて
  くるしみのときをすごすために
  さらにひどいくるしみのものがたりをよむ
  おとこたちはみなぺにすをもっていた
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詩人谷~1
 ↑ 谷川俊太郎

更に、もう一つ関連する詩として下記のものを引いておく。

      からだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

  男が男のからだのかたちしてしか
  生きることのできないのはくやしい
  かたちのないこころだけであったなら
  もっと自在にあなたと交われるものを

  だがことばよりくちづけで伝えたいと
  そう思うときのこころのときめきは
  からだなしでは得ることができない
  いつか滅ぶこのからだなしでは

  こころがどこをさまよっていようと
  こころがいくつに裂けていようと
  女がただひとつのからだのかたちして
  いま私のかたわらにいるのはかなしい

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これらの詩は、詩集『日々の地図』1982年集英社刊に載るもの。
この詩の末尾の「かなしい」がカナ書きになっているところが曲者である。ここは「悲しい」とも「愛しい」とも読み解けるところで、この辺が詩の面白さである。
読後の、あなたの感想は、いかがだろうか。
谷川
 ↑ 新潮社1994/11刊

谷川俊太郎には、ここに出したような本があり、母の私的な、性的な手紙を、あからさまに披露されている。
こういう態度こそ文学者のものである。
だから、私が彼の性的な詩を引用した意図も理解されたい。


遠山利子歌集『れんこんの穴』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
遠山

──新・読書ノート──

     遠山利子歌集『れんこんの穴』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・ながらみ書房2013/04/18刊・・・・・・・・

この本は遠山さんの第三歌集ということになる。

著者略歴
1947年 北海道生まれ
1065年 京都女子大学文学部国文学科入学
1967年 前登志夫に師事
2004年 滋賀女子高校を退職
NHKカルチャー教室 梅田・京都「短歌教室」「古典教室」講師
毎日新聞「京都文芸」選者
「ヤママユ」創刊同人 編集委員 現代歌人協会会員
歌集『風連別川』 『からすのゑんどう返事をなさい』

京都女子大在学中に自由律「新短歌」に出逢った、と略歴に書いてある。
この人の履歴に接したのは初めてである。そう言えば彼女に初めて会ったのも宮崎信義の「お別れ会」であったから合点がゆくのである。
前歌集『からすのゑんどう返事をなさい』を贈られて感想を書き送ったことがあるが、題名がいかにも教師らしいと書いたことを思い出した。

この本には「栞」が入っており、その全文を引いておく。
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  うん、れんこんの穴!         坪内稔典
ふん? ふ—ん、うん。以上は遠山利子から歌集の題名を聞き、そしてゲ
ラが送られてきて歌集を通読した、その間の私の気分である。うん、これが
彼女の歌の世界だ、と納得したのだが、とりわけ好きな歌を挙げよう。

  加太の岬青澄む波の片町にパチンコしつつ一日ありけり

加太、片町の音が響いて海辺の町のパチンコの楽しさが伝わってくる。和
歌山県加太といえば淡嶋神社の流し雛が有名、一度行きたいなあと思ってい
るのだが、利子のパチンコの歌を覚えているので、加太に着いたらまずパチ
ンコ屋へ行くことになりそうだ。スタジアム2001、ピ—マンなんていう
パチンコ屋があるらしいが、ピーマンはその名前からしてはやっていないだ
ろう。利子は「〈ピーマン〉はレトロ調なりモップもて黒ズボンの人床磨き
ゐる」と詠んでいるが、床を磨く男(黒ズボンの男!)のいる店っていいな
あ。いかにものどかな町のパチンコ屋の風情だ。
パチンコの歌の一連はパチンコ旅行」と題されており、夫とパチンコを
しながら旅をしたことが歌の材料になっている。子どもに馬鹿にされたり、
自分もうらわびしい気持ちになりながら、その馬鹿げた旅を楽しんでいる。
そんな利子、好きだな。あっ、利子、利子と親しそうに呼んでいるがこれは
俳人の癖である。俳人は姓でなく名を呼ぶ習いだ。
この歌集には重くて複雑な時間が流れている。歌集の作品が作られた歳月
は、母や親族、そして師事した前登志夫の死などがあった。夫と自分の退職
も。重い出来事が時間を濃くしているのだが、その時間を軽くする働き、そ
れが利子の短歌の働きではないだろうか。もう一つ、好きな歌を引く。

  れんこんの穴のごときが中空(なかぞら)にうかびてあらむ雪はこんこん

歌集のタイトルになった歌だが、空にれんこんの穴が浮かんでおり、その
穴から雪がこんこんと降って来るという発想は意表を突く。そういえば、か
つて吉野の前登志夫の家を訪ねたとき、話しこんでいて不図気づいたら雪に
なっていた。茫然として見上げたのだが、天上に大きな穴があり、そこから
雪は湧きだしている、と思った。ともかく意表を突く雪だった。
「ドーナツの穴が好きです牡丹雪」は私の俳句。私だって、雪から穴を連
想したのだが、ドーナツ止まりでれんこんの穴にまでは思いが及ばなかっ
た。利子の歌の穴は中空にあって宇宙的、しかも、れんこんだから根も深
い。
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   この世の畤間      辻下和美

五、六年前からだろうか。待ち合わせるといつも和服姿の遠山さんがあら
われる。ゆったりとどことなく風格の感じられる着こなし。東福寺のお茶会
の折、すてきな紬を褒めると、「母の着物なの」という。着丈も桁もびった
りで「なんとなく落ち着くのよね」とも。

  私が居ないと一体全体どうなるの母の手業の早かりしかな
  珍しくほめてくれしは十年前ほろほろ崩れはじむる頃か
  首かしげ「どこから来たの」と母がいふ母の紬を着てゐるわれに

歌集「れんこんの穴」には、遠山さんとご家族を長年慈しみ支えてきた母
が、だんだんと記憶を失くし童女に還っていく日々が随所に詠まれている。
それは切なくもやさしい歌だ。生きてきた時間やつながりの記憶をなくして
も、生来のおだやかさと慈愛は損なわれなかった。さやさやと老いていく姿
を見守る月日の中で、二人の姉と兄が逝く。遠山さんの異母兄姉である。か
つて北の大地でわが子同様に育てた子どもたちの死を知らぬままに、やがて
母も旅立つ。

  バウムク—へン小さく割りて差し出せば「あなたにあげる」最後のことば
  その頃のほのかに温しあの世とは近いところかまたあへるよね
  ほの暗き木立の径を遠ざかる白き日傘の見えては隠る

「あなたにあげる」という最後のことばが懐かしく慕わしく胸に沁み入る。
母親は持てるものすベてを子に与えて、もうそれでよいのである。この世で
の縁を全うして白い日傘は遠ざかる。
遠山さんの、現実を受けとめる目には柔らかなユーモアがある。夫の癌の
手術のあと、二人でめぐった「パチンコ旅行」はおかしくて、やがてしんと
なる。清瀬のホスピスで、余命わずかな姉のそばで突然体操をはじめたり、
月の夜ふけに一心不乱に鍋を磨いたりする。中でも愉快なのは「月とスッポ
ン」の小題の歌。

  とつぜんに貶(おとし)められてスツボンは不愉快である なぜ吾なのか
  にんげんは勝手なるもの然らぱさらば埒(らち)の外にて生きよスッポン

「埒の外で生きよ」と言われてスツボンは首を伸ばす。無窮の空にはれん
こんのごとき穴があるという。三十一文字で詠まれる遠山さんの詩情は深
い。

  水差に水注ぐ音のひびきつつ還ることなきこの世の時間
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  歌というブラックホール      喜多弘樹
この歌集の卷頭近くに、「パチンコ旅行」という二十九首の連作がある。
歌誌「ヤママユ」に発表した当時、いささか度肝を抜かれ、しばらくして痛
快になり、最後にはしんみりとした気分になった。「うーん、遠山のバチン
コの歌なあー」と師の前登志夫は苦笑しつつも、「あかん」とは言わず、う
んうんと頷いていた。
病癒えた夫君と二人で、和歌山方面へ小旅行した折、その途中の道路沿い
に並ぶバチンコ店へ。「加太の岬青澄む波の片町にバチンコしつつ一日あり
けり」とある。

  なにかかうもつとましなことがあるはずと明滅なせる思ひのありて
  リーチのたび画面の馬にガンバレと声援送る人を見やりつ
  「ここへはもう二度と参りません」捨て台詞誰にともなく言ひて出で来つ

こんな光景はパチンコに興じた人にしか解されないだろう。俗ゆえに聖、
堕ちてこその飛翔。この一連の最後に置かれた一首がすべてを物語っている
のではないか。

  星星は穴かもしれぬ冬銀河ものみななべて吸はれゆくべし

遠山さんは、昭和四十年代前半に前登志夫の歌弟子となったから、「ヤマ
マユ」の仲間では先輩格の一人である。遠山さんが大学生、私は高校生の頃
だった。ヤママユの詩的狂気の時間にどっぶりと浸ってきたはずだが、遠山
さんは師のエビゴ—ネンに安易に曳かれることがなく、つねに瓢々として自
在な姿勢が羡ましかった。

  れんこんの穴のごときが中空(なかぞら)にうかびてあらむ雪はこんこん

歌集のタイトルとなった「れんこんの穴」の一首。星もれんこんの穴も、
あるいはこの世とあの世を結びつけるブラックホールなのかも知れない。聖
なる他界への通い路である。

  にんげんは勝手なるもの然らばさらば埒の外にて生きよスッボン

こんな剽軽で、どこかものがなしい歌もある。これもまた遠山さんのユニ
—クな世界だ。
しょせんは「朝に紅顔、夕べには白骨」(蓮如)のはかない人生である。
はかないがゆえに、無常なるがゆえに楽しまねばならない。ありがたいと思
わねばならない。歌を詠むとは、そんなつつましい人間の純粋な声である。
いつかはおおいなる自然のこころが逆に語りかけてくれるにちがいない。
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この歌集の題名「れんこんの穴」というのは、意表をつくものであり、トッピである。
「栞」文を書いている坪内稔典が同じような人を食ったような句を作る人なので、適任だった。
掲出した本のカバーの帯に書いてあるキャッチコピー通りである。
お三人の文章に、この歌集の要約はほぼ尽きており、私が付け加えることは何もない。
ご恵送に感謝して筆を置く。

なお「栞」文はスキャナで取り込んだので、どうしても文字化けが生じる。子細に直したが、まだあれば指摘されたい。即刻直します。


草弥の詩作品・新作「春 の 修 羅」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
詩人集2013
harutoshura.jpg
 ↑ 宮沢賢治『春と修羅』初版本

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(75)

         春 の 修 羅・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ─死者たちの 野に風車ひとつ からからから─
                                            石牟礼道子


三・一一以降、なんとも重苦しい感覚がまとわりついて
離れない。
宮沢賢治生誕二ケ月前(1896/06/15)に発生した三陸地震津
波が県内に多くの爪痕を残した中での生誕だった。
また誕生から五日目の八月三十一日には秋田県東部を震
源とする陸羽地震が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡
・稗貫郡地域に大きな被害をもたらした。
この一連の震災の際に、母イチは賢治を収めたえじこ(乳
幼児を入れる籠)を両手で抱えながら上体で蔽って念仏
を唱えていたという。
家業が質屋の息子である賢治は、農民がこの地域を繰返
し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに、
家財道具などを売って当座の生活費に充てる姿にたびた
び接し、この体験が賢治の人格形成に大きな影響を与え
たとされている。

     いかりのにがさまた青さ
      四月の気層のひかりの底を
     唾し はぎしりゆききする
      おれはひとりの修羅なのだ

      ああかがやきの四月の底を
      はぎしり燃えてゆききする
     おれはひとりの修羅なのだ

     草地の黄金をすぎてくるもの
      ことなくひとのかたちのもの
      けらをまとひおれを見るその農夫
      ほんたうにおれが見えるのか

     (まことのことばはここになく
     修羅のなみだはつちにふる)
              *<宮沢賢治「春と修羅」抄>

生きものたちが冬の厳しい寒さをやりすごすために、
代謝を制限して眠ったような状態を冬眠という。
北国で太陽が遠ざかる冬に活動しているものは本当に数
えるほど少ない。

        大怪獣クラーケンのように
        無慈悲に襲いかかってくる
        大津波よ!
        修羅よ! 春の修羅よ!

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この詩作品は、土曜美術社出版販売が発行するアンソロジー『詩と思想詩人集 2013』用に準備したものである。
これはアンソロジーであるため、一篇は字数25字×46行以内という制限があるので、それに合わせて推敲した。
もちろん原文はタテ書きである。
まあ何とか読める作品になったかと思っている。
こういう風に他人の作品を取り込むことを文学用語で「コラージュ」という。

発行日は、2013/08/31だが、本日できあがってきたので本の表紙の画像を出しておく。
題名が「春の修羅」なので、陽春の今に出しておく。
折しも三陸沿岸は東日本大震災・津波から丸二年が過ぎた。 その犠牲者の鎮魂の意味も込めてある。




福原義春『猫と小石とディアギレフ』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
福原

──新・読書ノート──

     福原義春『猫と小石とディアギレフ』・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・集英社2004/11/30刊・・・・・・・・

たまたま福原義春のことが目に止まって、アマゾンの古本で買ってみた。
私は、彼を資生堂創業者の孫で、慶応大学を出た「お坊ちゃん」だとばかり思っていたが、会社に入って、かなり
苦労を経験して、今の資生堂を作り上げたらしい。
それに読書家で、精緻な文章を書く優れたエッセイストでもある。 また蘭の育種家としても有名らしい。
先ず、はじめに、私の下手な読み解きではなく、下記の紹介記事を採り上げる。
TKY201304060564福原義春
↑ 福原義春

「松岡正剛の千夜千冊」の1114夜に、この本を採り上げたページがある。
長いので、その一部を引いておく。

今夜はその福原さんについて少々語っておきたい。いや、経営者の福原さんについては、たとえば『福原義春語録』や『多元価値経営の時代』や『文化資本の経営』などを読んでいただきたい。
 もっとも、その経営者としての発言や思想にも、そこにつねにユマニテとリアリテが、また小学校時代の吉田小五郎先生とマックス・デプリーが必ず登場してくることに、気がつかれるとよい。すなわち福原さんは、自分の信条を変えないことと、影響をうけた人物を忘れないということにおいて、まさに自身のなかの光陰を磨き抜いているのである。経営書にもそれがあらわれている。きっと百代の過客とともに福原さんの資生堂は生きているのであろう。

 それで、そういう福原さんの70冊を超える著書や対談集から、では今夜は何をとりあげるかというに、『猫と小石とディアギレフ』にした。
 この本は集英社のPR誌に連載しているものの第2弾で、第1弾の『蘭学事始』の続篇にあたる。続篇とはいっても毎回のエッセイはすべて独立しているので、いつも瀟洒なオードブルを盛り付けてもらっているようなものなのだが、その1本ずつの原稿の量がとてもよく、ぼくには福原さんの発想回路が一番よくあらわれるリテラル・パフォーマンスになっているように感じられたからだ。
 御本人は「こんな散らかった話題を読んでいただける読者はどんな方なのか」と訝っている。けれども、その件についてはすでにわれわれが調査済みのこと、福原さんの御長女が、次のように「散らかった父の本質」をばらしてくれているのだ。「家の中は本に埋もれて生活しているよう」「服だって春夏秋冬すべての服がぶら下がって」「母がいなければ父は出張にも行けない」「庭は植物だらけでジャングルみたい」なのである。
 会長時代の秘書室長もすっかりばらしている。朝の会長室はそこらじゅうに新聞が散らかっていた。
 しかしぼくは、この「散らかった」こそ福原さんの真骨頂だと思っている。多元価値型編集術なのだと思っている。散らかっているということは、そこから何かを選抜するということで、いわば多様性を拡張し、その関係の複雑性にネットワークを発見し、それを数点の結節点から同時に、かつ動的に語りたいということである。
 それが福原さんの、つまりは猫と小石とディアギレフの、資生堂パーラーふう三色アイスクリームなのである。散らかったものがいつしか連動していくということなのだ。

 もうひとつ、この本を選んだ理由がある。ここには福原さんが七転八倒して選び抜いた100冊の本が記録されている。これがすばらい。
 エッセイとしては雑誌「オブラ」でその100冊を選書したときの時ならぬ苦労を綴っていて、たとえば吉田満『戦艦大和ノ最期』、吉村昭の『天狗争乱』、阿刀田高の『ユーモア革命』、猪熊弦一郎の『画家のおもちゃ箱』などを入れられなかったのは痛恨の極みだと反省しているのだが、それはそれ、100冊を選んでみて、「これは自分が編集した人生そのものだ」と書き、「本によって自分の人生が編集されていた」と綴っているところが、片時も「学びあい」を反故にしない福原さんならではの配慮なのだ。つまりは「侘び」なのだ。
 その100冊をここでお目にかけたいけれど、それはぜひとも本書を手にとって見られることを勧めるにとどめよう。ぼくとしては、荘子・マキアヴェリ・モンテーニュの古典、ブラッドベリ・エーコ・シビオクの類推学の傑作3冊、寺田寅彦・西堀栄三郎・今西錦司の御三家、ベンヤミン・山本七平・清水博の独自性、白秋・朔太郎・西脇順三郎の浪漫ぶり、それにカエサルの『ガリア戦記』やガモフ全集や徳川夢声の『話術』を入れたことだけでも胸いっぱいなのだが、加えてぼくの『情報の歴史』とぼくが編集したスマリアンの『タオが笑っている』が100冊入選を果たしたというのだから、これはもう立つ瀬がないほどなのである。
 こんな100冊を選べる企業人は、いや文化人は、いま日本に福原さんたった一人ではあるまいか。第1110夜に、鈴木治雄を継ぐのは福原義春だろうと書いたけれど、その幅やその深さでは福原さんのほうがずっと強靭な文化アスリートだろう。

 さて、一見、散らかっているかのような猫と小石とディアギレフの関係である。
 福原さんはかつては犬派で、いまは猫派になっている。犬派のときの最後は前の犬が死んで、スーパーマーケットで「犬あげます」の告知を見て葉山まで貰いにいった犬のココとの関係だった(福原さんは鎌倉在住中)。ココは14歳で大往生し、それに代わるように黒の野良猫が3匹の子猫を運んできた。これで福原さんは犬派から猫派によんどころなく転向した。
 転向して、どうして犬や猫に人間は心をくだくのかと考えた。とくに犬や猫を通して「慰藉」とは何かを考えた。しかし、福原さんは実は犬派でも猫派でもあってそのどちらに加担するでなく、また人も知る植物派のなかの、とりわけての蘭派であって(だから『蘭学事始』だった)、さらに申せば人派のなかの人派なのである。福原さん自身はエッセイのなかでそのことに合点する。

 福原さんが人派であることはわれわれから見ても、よく納得できる。たとえば求龍堂の「サクセスフルエイジング対談」シリーズだ。
 これは石津謙介・淀川長治・下河辺淳から渡辺貞夫・朝倉摂・フローレンス西村におよぶ、いまのところ20人以上の人士と"聞き手対談"しているものなのだが、毎度、唸るほどの含味があって、人が人に話してかかわるユマニテとリアリテの度合い、すなわちメトリック(測度)というものが柔らかい複合レンズを通した光のごとく伝わるようになっている。
 こういうことは犬猫相手にはできない。しかも「慰藉」もある。いや「慰藉」を引き出せる話にしていくところが、福原さんの人派ぶりなのだ。
 もうひとつの人派たるゆえんは、その推理小説好きによくあらわれている。だいたい小栗虫太郎もカルル・チャペックも『三毛猫ホームズ』も好きなのに、一人だけ作中探偵を選べといわれるとロバート・ファン・フーリックのディー判事を選びたいというのが、とてもあやしい。"歴史変人"好みの人派なのである。シノワズリーというならさすがの中野美代子さんも敵わないだろうフーリックに、ぴたりと照準をあてる福原さんは、ぼくから見ると、福原さんこそが見えない人脈を探求しつづけている名うての探偵でしたね、と言いたくなるところなのだ。

 本書のエッセイで、最も意外な展開を綴っているのが「マルタ島訪問記」である。ちょっとした会合のためにマルタ島に行くことになったのだが、その話をしたところマガジンハウスの手塚宏一さんから「石ころ」を拾ってきてほしいと頼まれた。
 福原さんはパンフレットを見てマルタ島がとても美しいところらしいと知って行ったのだが、いざ着いてみるとどこが美しいのか、史跡が何を語りかけてくるのか、どうもいまひとつピンとこない。「石ころ」もこれといったものに出会えない。が、そのうちそうした殺風景にもなんとなく好感をもてるようになってきたところで帰国した。
 ある日、福沢諭吉の『西洋事情』を見ていたら、福沢が西欧使節団でヨーロッパをまわったときにマルタ島に寄っていたことを知った。福原さんは慶応幼稚舎からの根っからの慶応派で、福沢となると放ってはおけない人なのである。それで福沢も降り立ったマルタ島が気になってさらに調べていると、カラヴァッジョがローマで殺人事件をおこしてマルタに逃亡していた。そこでデズモンド・スアードの『カラヴァッジョ』を読んだ。そうしたらカラヴァッジョがマルタ騎士団になるつもりもあったということがわかった。そこからマルタ騎士団の歴史に深入りした。
 そんな話になっているのだが、小石とは、こういうふうに福原さんがイメージの歴史をちょっとした小石を片手に時空の光陰を旅することなのである。その小石がさらにあるときぴょんと跳ねて、しばらくするとセルゲイ・ディアギレフにも及んだと思われたい。
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私が何かを書き加える必要など何もない。もともと松岡正剛の文章は長いので、すべて入っているのである。

同時に、こんな本も一緒に買った。

福原_0001
 ↑ 『福縁伝授』──集英社2011/02/28刊

この本は先に挙げた本の続編のエッセイ集である。 今は㈱資生堂の名誉会長として全般に目を光らせるとともに、文化メセナや財界活動をなさっている。

Wikipediaの記事を引いておく。 ↓

福原 義春(ふくはら よしはる、1931年3月14日 - )は日本の実業家。資生堂名誉会長。

人物
資生堂創業者・福原有信の孫。有信の五男・信義の長男として東京に生まれる。1953年、慶應義塾大学経済学部卒業後、資生堂入社。1978年取締役外国部長、1987年社長、1997年会長を経て、2001年より現職。

東京都写真美術館館長、企業メセナ協議会会長(前理事長)、日仏経済人クラブ日本側議長、日伊ビジネスグループ日本側議長、世界らん展日本大賞組織委員会会長など公職多数。銀座通連合会前会長、日本広告主協会前会長なども務めた。近々では、公益法人制度改革に関する有識者会議座長をつとめる。慶應義塾評議員。

趣味は洋ランの栽培、写真など。主な受章は、旭日重光章、フランス共和国レジオンドヌール勲章グラン・トフィシエ章など。レジオンドヌール帯勲者会日本支部会長も務める。角川財団学芸賞選考委員。

著書
企業は文化のパトロンとなり得るか 求龍堂 1990.12
100の蘭 文化出版局 1991.12
多元価値経営の時代 東洋経済新報社 1992.6 (トップが語る21世紀)
文化は熱狂 対談集 潮出版社 1995.3
生きることは学ぶこと 風に聞き時に学ぶ ごま書房 1997.4 のちパンドラ新書
「無用」の人材、「有用」な人材 “老荘"に学ぶ転換期を生きぬく知恵 祥伝社 1997.10
部下がついてくる人 体験で語るリーダーシップ 日本経済新聞社 1998.10 のち文庫 
蘭学事始 集英社 1998.12
金の舌銀の味 この人この味このお店 マガジンハウス 1999.2
日々是「好食」 マガジンハウス c2000
メセナの動きメセナの心 求龍堂 2000.8
会社人間、社会に生きる 中公新書 2001.2
福原義春の講演 変化の時代と人間の力 慶應義塾大学出版会 2001.11 のちウェッジ文庫(副題を正題に)
101の蘭 文化出版局 2004.2
猫と小石とディアギレフ 集英社 2004.11
「自分らしい仕事」があなたを変える! 仕事にちょっと悩んだとき読むヒント 青春出版社 2005.12
ぼくの複線人生 岩波書店 2007.3
だから人は本を読む 東洋経済新報社 2009.9
私は変わった変わるように努力したのだ 求龍堂 2010.6
季節を生きる 毎日新聞社 2010.11
ステイヤンゴロジーで人生は輝く! マガジンハウス 2010.12
100人で語る美術館の未来 慶應義塾大学出版会 2011.2
「福縁伝授」聞いてもらいたい独り言 集英社 2011.2
本よむ幸せ 求龍堂 2013.2

共編著
森毅・福原義春らくらく対談 ええ加減が仕事の極意 明日香出版社 1993.12
森毅・福原義春いきいき対談 柔らかい生き方をしよう 明日香出版社 1994.2
〈福原義春サクセスフルエイジング対談シリーズ〉求龍堂
自然と生きる、自然に生きる フローレンス西村 1996.11
10歳の輝き、100歳の青春 加藤タキ 1996.11
美しい暮らし、変わりゆく私 真行寺君枝 1996.11
時代の風を吹かせ、自らが楽しむ 石津謙介 1997.1
旅に生きる、時間の職人 永六輔 1997.3
100着の衣装に、100通りの人生を ワダエミ 1997.3
出会いに生きる、八十七歳の青春 森岡まさ子 1997.7
僕は映画の伝道師 淀川長治 1997.7
壊すこと、創ること 山本耀司 1997.11
動物が好き、人間が好き 増井光子 1997.11
「美しい暮らし」を探す旅人 浜美枝 1998.12
「不良少女」からコスモポリタンに 金美齢 1998.12
舞台美術は一瞬の輝き 朝倉摂 1998.3
アマゾンに学ぶ、「我ら地球家族」 山口吉彦 1998.3
至福の時は「オペラ人」 佐藤しのぶ 1998.5
ともに学ぶ、ともに遊ぶ 小池千枝 1998.8
花と語り、虫と遊ぶ 熊田千佳慕 1998.8
静かな男の大きな仕事 下河辺淳 1999.4
グッドスマイルグッドライフ 渡辺貞夫 1999.4
私は、高齢時代のプロデューサー 佐橋慶女 1999.4
書字が教えてくれる 石川九楊 2000.4
触れることが脳を育む、人を育む 大島清 2000.3
老いとは何か 多田富雄 2001.2
「超」思考法 自分の頭で考えろ 加藤諦三,濤川栄太共著 扶桑社 1997.7
文化経済学 池上惇,植木浩共編 有斐閣ブックス 1998.11
文化資本の経営 これからの時代、企業と経営者が考えなければならないこと 文化資本研究会共著 ダイヤモンド社 1999.10
対話 私たちが大切にしてきたこと ルチアーノ・ベネトン ダイヤモンド社 2002.2
解はひとつではない グローバリゼーションを超えて 樺山紘一共編 慶應義塾大学出版会 2004
市民活動論 持続可能で創造的な社会に向けて 後藤和子共編 有斐閣 2005.4
企業経営 ロングインタビュー 稲盛和夫 読売ぶっくれっと 2005.6


摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行
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 ↑ エンパイアステートビルからの俯瞰。小さな緑が見える。

       摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

鷹羽狩行は昭和5年生まれ。中央大学法学部卒。山口誓子、秋元不死男に師事。
本名は「高橋行男」(たかはしゆきお)であり、これをアナグラムで並べ替えて「鷹羽狩行」とした。
本名では、いかにも俳人らしくないので、山口誓子あたりが、アナグラムしたのかも知れない。
これは私の勝手な想像ではなく、本人のエッセイか何かで読んだ記憶がある。

この句も着想が面白い。摩天楼というからには、本場ニューヨークのことだろう。
はじめてニューヨークに行くと、必ずと言っていいほど、摩天楼のエンパイアステートビルに連れて行かれる。
車も人も芥子粒ほどに小さく、新緑の木立も、かなり大きくても、パセリほどという発想は新鮮である。
今の季節では、ニューヨークでは、まだ寒くて新緑は、まだかも知れない。
先日のNHKのラジオでは首都ワシントンのポトマック河畔の桜が満開、と言っていた。ニューヨークは数百キロ北で、気温はまだ低い。

彼の結社は「狩」というが、全国に子結社、孫結社を持っており、この頃は結社を大きくするのに懸命で、それらの若手で、有望な作家は「狩」同人に引っ張り込んでいるらしい。
これは私の地元の「天塚」という結社が「狩」系で、そこに属する熟年の俳人が自嘲的に洩らしていたことである。
いずれにせよ、俳人協会会長として権勢を振るっているらしい。
ゴルフ狂で全国各地をゴルフ三昧しているという。
以下、彼の句を引いて終わりにしたい。
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 落椿われならば急流へ落つ

 天瓜粉しんじつ吾子は無一物

 蓮根掘モーゼの杖を摑み出す

 母の日のてのひらの味塩むすび

 一湾の縁(ふち)のかなしみ夜光虫

 紅い父青い母走馬灯かこむ

 大言海割つて字を出す稿始め

 一対(いつつい)か一対一か枯野人

 鶯のこゑ前方に後円に

 黴の世の黴も生きとし生けるもの

 ひとすぢの流るる汗も言葉なり

 蛇よりも殺めし棒の迅(と)き流れ

 湖(うみ)といふ大きな耳に閑古鳥

 昼は日を夜は月をあげ大花野

 しがらみを抜けてふたたび春の水

 息づきにおくれ息づく薄ごろも

 秋風や魚(うを)のかたちに骨のこり

 人の世に灯のあることも春愁ひ

 しみじみと端居の端といふところ

 太陽をOH!と迎へて老氷河

 落鮎や流るる雲に堰はなく

 麦踏みのまたはるかなるものめざす

 春光や砂の皺より蜆貝

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↑ 富士を望む句碑「伊豆は日のしたたるところ花蜜柑」

ネット上に載る経歴を載せておく。

鷹羽 狩行 (たかは・しゅぎょう)

プロフィール
 1930年山形県新庄市生まれ。中央大学法学部卒業。1946年尾道商業時代に俳句を始め、山口誓子・秋元不死男に師事。1965年、第1句集『誕生』で俳人協会賞、1975年、句集『平遠』で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。1976年「毎日俳壇」選者。1978年「狩」創刊、主宰。1984年、NHK教育テレビ「俳句入門」講師(3年間)。1987年、NHK国際放送の俳句番組担当(15年)。1993年、俳人協会理事長、「東京新聞」俳句欄選者(9年間)。1994年、国際俳句交流協会常務理事、現在顧問。NHK教育テレビ「NHK俳壇」講師(3年間)。1999年、文部大臣表彰。NHKラジオ深夜便「ラジオ歳時記」(出演中)。2000年、日本文藝家協会理事、日本現代詩歌文学館振興会理事。2001年、NHK教育テレビ「趣味悠々・はじめての俳句」講師。2002年、俳人協会会長、句集『翼灯集』と『十三星』で毎日芸術賞を受賞、受勲。
句集
『誕生』『遠岸』『平遠』『月歩抄』『五行』『六花』『七草』『八景』『第九』『十友』『十一面』『十二紅』『十三星』『十四事』『十五峯』、訪中吟『長城長江抄』、海外吟『翼灯集』、挨拶句集『啓上』『俳日記』。評論・エッセイ集『古典と現代』『俳句の魔力』『胡桃の部屋』『季節の心』『名所で名句』『名句を作った人々』『俳句一念』。入門書『俳句のたのしさ』『俳句を味わう』『俳句上達法』『俳句の楽しみ』『俳句入学』『狩行俳句入門』など。



夕光にあからさまなる木蓮の花びら厚し風たえしかば・・・・・・・・・・・・佐藤佐太郎
photo149832モクレン

      夕光(ゆふかげ)にあからさまなる木蓮の
          花びら厚し風たえしかば・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤佐太郎


佐藤佐太郎は明治42年宮城県生まれ。斎藤茂吉に師事。
岩波書店に勤務する。
都市生活に根ざした独自の簡勁な写実主義短歌を展開。
昭和20年「歩道」を創刊、主宰する。
昭和27年『帰潮』により読売文学賞、55年日本芸術院賞を受賞する。
昭和62年没。

この歌は風の止んだ夕方、ぼったりとした厚い木蓮の花が夕日に「あからさまに」に染まっている、という精細な写実の秀歌である。
佐太郎のファンは今でも多く、歌集もよく売れている。
以下、佐太郎の歌を引いておく。
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をりをりの吾が幸(さいはひ)よかなしみをともに交へて来りけらずや

店頭に小豆(あづき)大角豆(ささげ)など並べあり光がさせばみな美しく

地下道を人群れてゆくおのおのは夕の雪にぬれし人の香

めざめしはなま暖き冬夜にてとめどなく海の湧く音ぞする

なでしこの透きとほりたる紅(くれなゐ)が日の照る庭にみえて悲しも

つるし置く塩鱒ありて暑きひる黄のしづくまれに滴るあはれ

今しばし麦うごかしてゐる風を追憶を吹く風とおもひし

連結を終りし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音

戦(たたかひ)はそこにあるかとおもふまで悲し曇のはての夕焼

黄牛(あめうし)は体の皮たえず動かして蝿おひゐたり近づきみれば

桃の木はいのりの如く葉を垂れて輝く庭にみゆる折ふし

キリストの生きをりし世を思はしめ無花果の葉に蝿が群れゐる

金の眼をしたる牝猫が曇りつつ寒き昼すぎの畳をあるく

貧しさに耐へつつ生きて或る時はこころいたいたし夜の白雲

灯を消して吾は思ひきつづまりは人のこころは臥床に憩ふ

あたたかに冬日さすとき老いづきし項(うなじ)の汗をわびしむわれは

ヴェネチアのゆふかたまけて寒き水黒革の座席ある舟に乗る

冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ

すさまじきものとかつては思ひしが独笑(ひとりわらひ)をみづからゆるす

梨の実の二十世紀といふあはれわが余生さへそのうちにあり

遠くより柿の実みゆるころとなりいまだ濁らぬ視野をよろこぶ

日々あゆむ道に明治の赤き花豆菊咲きて父おもはしむ
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終りから5首目の歌は、いろいろ論議された歌で、結句の「みゆ」は、それまでの文脈からすると「--を見る」という他動詞でなければならないが、この歌には上句と下句には「ねじれ」があって、佐太郎としては途中を省略して、「庭に出てみたら」那智の滝が「見える」という表現になったのだろう、ということになっている。
初心者ならば、当然、先に書いたように自動詞、他動詞の関係から、不適切として直されるところである。
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img_501423_59804757_10佐藤佐太郎歌碑
 ↑ 佐藤佐太郎歌碑 関門海峡に臨む「関見台公園」

Web上に載る或る鑑賞文を引いておく。

佐藤佐太郎の平泉の歌鑑賞

-瞬間に見える真実-

佐藤佐太郎という歌人がいる。宮城県柴田郡大河原に生まれ、茨城県の多賀郡平潟町(現北茨城市)で少年時代を送った。17才で「アララギ」に入会して、斎藤茂吉の一番弟子と呼ばれた歌人であった。昭和27年(1952)佐太郎は、43才にして、歌集「帰潮」で第三回読売文学賞を受賞し、歌人として地位を不動のものとした。その翌年の昭和28年2月26日、恩師の斎藤茂吉(1882-1953)が急逝した。その時、佐太郎はこのような歌を詠んだ。

 みいのちは今日過ぎたまひ現身(うつしみ)の口いづるこゑを聴くこともなし
 しづかにてありのままなる晩年の時すぎしかばみ命終る

佐太郎が、使ったこの「み命」という言葉は、佐太郎らしい重々しく真心のこもった言葉の選び方だ。誰が亡くなっても、簡単に使用するような便利な言葉ではない。自分がこの世の中で、最高に敬愛する恩師「斉藤茂吉」という人物の大切な大切な命が消えて、ふと歌人佐太郎の中で「み命」という言葉が、彼の心の奥から湧いてきたのである。

そんな年ではあったが佐太郎は、秋になり、忙しい合間をぬって平泉を訪れて、まずは毛越寺に参詣して次のような歌を詠んだのであった。

毛越寺
 うら枯るるものの明るさや毛越寺の池のみぎはに荻(おぎ)もみぢせり
 毛越寺にわれの来しとき松風は音をつたへて池の明るさ
 古き代のこころしのばん石いくつ池中に立つ石もわが見つ
 みちのくの遠きいにしへ毛越寺の礎石のひまに松古りて立つ
 虚しきにたちて心のしづまりを惜しみしかども吾はたち去る

第二歌「・・・池の明るさ」は、佐太郎が、毛越寺の池のほとりに立った瞬間、ふっと風が吹いてきて、池にさざ波が立って、光りが揺らめいた瞬間の歌であろう。その光りの中に得体の知れないなにか、たとえば、奥州の過去の栄華のようなものの幻影でも見たのであろうか。

私は特に第三歌の「古き代のこころしのばん石いくつ池中に立つ石もわが見つ」が好きである。佐太郎は、きっと秋の大泉が池のほとりに佇みながら、池のまん中に立っている僧形石の異名を持つ石をじっと見ていて、向こうもこちらを見ているような錯覚にとらわれたのであろう。もちろん石はものを言うわけではないけれども、その石の姿や、他の石との間の中に、この浄土を偲ばせる池をこしらえた二代基衡という人物の心の有り様というものが、佐太郎の心にひしひしと伝わってきたのであろう。

昭和28年当時の、毛越寺は、今と比べてもきっとずっと寂しかったに違いない。本堂もなかったし、池の周辺だって現在のように綺麗になっていたわけではない。でも、あの池の前に佇んでじっと待っていると、何かふっと感じられるものがある。それはやはりこの毛越寺建立に込めた基衡の強烈に熱い思いなのであろう。ざわざわとする心を抑えながら、しばしの時を置いて、佐太郎は大泉が池を背にした。しかしどうしても立ち去りがたき思いがわき上がって来て、「虚しきにたちて心のしづまりを惜しみしかども吾はたち去る」と詠んで、毛越寺を後にしたのである。

次に佐太郎は、中尊寺に足を伸ばして、このような歌を詠んだ。

中尊寺
 金堂のうちのつめたき塗床(ぬりゆか)にたまたまにして金の箔散る
 金色の弥陀来迎の仏たちさむき御堂のうちに輝く
 ささやけき大日道の前庭に柿の落葉を音たてて踏む
 遠き世のかなしみ残る清衡の金の棺をまのあたり見つ
 ことごとく匂ふが如き御仏と後もしのばん朱の唇

第一歌の「金堂のうちのつめたき塗床(ぬりゆか)にたまたまにして金の箔散る」は、佐太郎の中でも名歌として知られている。まだ昭和28年、金色堂は旧鞘堂の中に収まっていた。その金色堂の床に、キラキラとして金箔が落ちているというのは、少し考えにくい感じがするのだが、とにかく光りの具合か何かで、剥がれた金箔があるように佐太郎には、見えたのであろう。この一瞬の真実を捉えて歌にするのが、「純粋短歌」というものを標榜した佐太郎の歌の真骨頂なのだ。佐太郎の「純粋短歌」の考え方は、少し小難しいが、簡単に言えば、厳選された重厚な言葉を用いて一瞬を歌に詠み込むことと解釈してよさそうだ。その意味でも、第一歌の「…金の箔散る」の歌は、佐太郎の「純粋短歌」の性格付けを見事に表している歌と言える。

金色堂を後にすると、佐太郎は大日堂の前庭を歩いて「ささやけき大日道の前庭に柿の落葉を音たてて踏む」という歌を詠んだ。そんなに柿の落ち葉があったとすれば、きっと木枯らしの後が、台風の後だったのかもしれない。ともかく冬に向かう奥州の古寺の風情が、彷彿と浮かんでくるような歌である。

そして佐太郎は、一山の宝物を納めた讃衡蔵に入る。昔の讃衡蔵は、今とまったく違っていて、木造で階段があって、迷路のように入り組んでいた。ギシギシと音を立てながら、大きな丈六仏を見上げながら歩くのは、実に風情があった。そこに佐太郎は、スリッパを履いて辺りを見渡したに違いない。そこで初代清衡の棺を見たのであろう。確か昭和25年、中尊寺金色堂では、「遺体学術調査」と称して、三代のミイラが取り出されて、様々な研究と修復がなされた年である。その成果として、新しい事実なども発表された。例えば、秀衡の棺の傍らにあった首桶もそれまでは、泰衡の弟の忠衡と思われていたが、眉間にあった梟首(きゅしゅ)の痕などの調査によって、それが実は最後の奥州藤原氏最後の御館(みたち)泰衡の首であることが判明したりした。またミイラから生前の秀衡の顔なども、復元されるなどして、歴史ファンならずとも、興味をそそられることも多かった。佐太郎が訪れたのはそれから僅か三年後であった。

ところでこれは私の最初の疑問であるが、「讃衡蔵」の中で、佐太郎は、まず最初に仏像や他の宝物ではなく、何故に清衡の棺に興味をそそられたのであろう。もしかしたら、それは恩師である斎藤茂吉の死が関係していたのかもしれない。この中に、初代の清衡が眠っていたのか、という感慨を込めながら、人として避けがたい「死」というものと、この歌人は向かいあっていたのだろうか。

次に佐太郎は、おそらく秘仏と言われている「一字金輪佛頂尊坐像」を目の当たりにして、「生」というものの不思議を見ていたはずだ。それが第五歌の「ことごとく匂ふが如き御仏と後もしのばん朱の唇」である。昨年(2000年)に讃衡蔵の中でご開帳されていたので、この仏像を見た人も多いであろう。とにかくこの仏像は、「人肌の大日」(人肌をした大日如来という意味)と言われるように妙に艶めかしく、まるで生きているような感じのする仏像である。寄せ木造りで、後半身がない仏像で、壁に掛けられていたと考えられている。三代秀衡公の持仏と伝えられており、ある説では初代清衡公の妻をモデルにして作られた像ではないかという説もある。実に精気に溢れていて、しかも女性的な仏像である。そこで佐太郎は、不遜ながらその朱(あか)い唇を見て、恋をしたのかもしれない。先の清衡の棺とそしてこの清衡の妻という説もある「一字金輪佛頂尊坐像」を対比させて、「死」と「生」のコントラストを見事に引き出した歌人佐藤佐太郎の充実振りが偲ばれる見事な歌と言えるのではあるまいか。

こうして佐太郎の歌を改めて鑑賞してみると、歌人というものが、いかにして歌を創作するのか、という過程が実によく分かる。まず歌人は、その地に足を踏み入れた瞬間、ある種の「気」のようなものを感じ取ろうとする。次にその「気」の実体がいったいどんなもので、それがどこから来るものなのか、じっと五感をすべて解き放って、その中に浸ってみるのである・・・。すると遠くから一筋の光りが現れるてきて、ゆっくりと、しかし確実に、歌人に向かって近づいてくる。光りの実体が朧気な姿を現した所で、歌人はそれを言葉に変換する。そこで大切なのは、選び抜かれた重厚なる言葉を選択することである。そしていよいよ創作の最後の段階がやってくる。歌人は選んだ言葉が醸し出す雰囲気を大切にし、あらゆる余分な観念を排除して、光りの姿にもっとも相応しい三十一文字の配列を決める。こうして歌という永遠の華が開花するのである。これは歌に限らず、どんなものにも通じる本物に近づき、感じるための良き方法である。


「花吹雪空に鯨を泳がせん」剛毅まぶしもよ遠き談林・・・・・・・・・・・岡部桂一郎
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      「花吹雪空に鯨を泳がせん」
          剛毅まぶしもよ遠き談林・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎


この歌は、一種の「コラージュ」の歌である。
「花吹雪空に鯨を泳がせん」という句が誰の作品か調べかけたが、未だ判らない。
「談林」派の誰かの句だと思うが、岡部が言うように、大きな景の句である。
その句をコラージュとして取り込んで、彼は、それを「剛毅」なと褒める。
たしかに花吹雪の空に「鯨」を泳がせようというのは、彼の言うように剛毅であるが、私から見ると、この表現は談林派特有の「奇抜な着想」と言えるだろう。
いかにも飄逸な歌作りを身上とする岡部らしい「引用」であると言える。

岡部桂一郎は大正4年神戸市生まれ。戦前は短歌結社「一路」に拠ったが、戦後は所属結社などは無い一匹狼として歌を発表してきた。
1994年(平成6年) 作品「冬」にて第30回短歌研究賞
2003年(平成15年) 歌集『一点鐘』にて第37回迢空賞および第18回詩歌文学館賞
2008年(平成20年) 歌集『竹叢』にて第59回読売文学賞

2012年(平成24年)11月28日、死去。97歳。
以下、彼の歌を引いてみよう。
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まさびしきヨルダン河の遠方(をち)にして光のぼれとささやきの声

空気銃もてる少年があらわれて疲れて沈む夕日を狙う

遠くよりさやぎて来たる悲しみといえども時に匕首(ひしゅ)の如しも

間道にこぼれし米の白ぞ沁むすでに東北に冬が来た

みちのくの夜空は垂れて電柱に身をすりつける黒猫ひとつ

砂の上に濡れしひとでが乾きゆく仏陀もいまだ生れざりし世よ

天を指す樹々垂直に垂直にして遠く小さき日は純粋なり

うつし身はあらわとなりてまかがやく夕焼空にあがる遮断機

手のひらを反せば没り陽 手のひらを覆えば野分 手のひら仕舞う

ひと息に行人坂を吹き抜けて途方にくれる昼の木枯

ひとり行く北品川の狭き路地ほうせんか咲き世の中の事

天の川空にかかりて丈高き夾竹桃の花を暗くす

葡萄酒にパン浸すとき黒々とドイツの樅は直立をせり

春の風通りてゆけば紙袋おもむろに立ち裏返りけり

のんき屋という看板をあげている君の店舗の夕蝉しぐれ

まっすぐにわれをめざしてたどり来し釧路の葉書雨にぬれたり

陰(ほと)の毛のあわく繁るは飾りかとおみなに問えば否と答えつ

命終に近づく友を思えども油蝉なく樹の下ゆけり

夕づく日差すや木立の家の中一脚の椅子かがやきにけり

のびやかに物干竿を売る声の煙のような伊勢物語
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上に引用した歌の中に

陰(ほと)の毛のあわく繁るは飾りかとおみなに問えば否と答えつ・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎

というのがあるが、岡部の歌には、こういう意表を突く「瓢逸」というか「洒脱」というか、の歌がある。一筋縄でなく、一ひねりした作品である。
また、こんな歌がある。

春の風通りてゆけば紙袋おもむろに立ち裏返りけり・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎

この歌は、どこでも目にする日常での出来事を、精細に観察して、うまく歌に仕立てあげた。しかも、どこかひょうきんで、おかしみがある。こういう歌の作り方が岡部の特徴と言える。
春は季節の変わり目で、突風が吹いたりする。道端に捨てられていた紙袋が、通り風にあふられて裏返る。それも「おもむろに立ち」と表現したところが秀逸である。
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掲出句に書かれている「談林」とか、「談林派」というものについて少し書いておく。

俳句という文芸は芭蕉から始まった。
もっとも「俳句」という言葉を考えだしたのは、明治の正岡子規であるが、今ここでは、それには触れない。
芭蕉の前には連歌(レンガ)──連句ともいう──という文芸があり、これは和歌の方から発している。これらは座の文学で、集まった同人のうち、誰かが五七五を皮切りに立句(タテク)を出し、それに次の人が七七をつける。その次の人が五七五をつけて続ける。七七が続く。

 そうやって、三十六句を作る。これを歌仙という。この場合、続ける句はすべて、前の句に繋がりのある内容でなければならない。立句に続く句の内容には順番があって、最初は立句に応じたもの、次は恋、それから花、月などと順序が決まっている。

 それを座の同人が勝手にやっていたのでは収拾がつかなくなるので、捌き人が句を整理する。それが、むかし宗匠といわれた人である。連歌の内容の順番が狂ったり、句が出ない人がいたりすると、適当に他に廻したりしながら、いい連歌を作るための指揮をするのである。

 連歌が仕上がると、書き手がそれを紙に書いたものを見て、皆で鑑賞したり、批評したりして楽しむ。終わって、酒などを飲みながら歓談するという優雅な集まりであった。参加する人たちは、おもに豪商のあるじや、豪農など金持ちが多かった。

 こういう人たちは、元々集まり多い社会の人たちで、商談成立のあと宴会をしたり、能見物したり、遊女遊びに繰り出したりする機会も多いのだが、折角主立った連中が集まるのに、飲み食いだけでは芸がない。皆でもっと高尚な趣味を持とうと、連歌を作る会を山崎宗鑑(そうかん)が作ったのが始まりである。

時代は、信長が世に出るか出ないかの頃、応仁の乱が終わった辺りである。旦那衆の遊びでやっている時代は、まだ良かった。連歌がだんだん盛んになってくると、勝れた作品に賞品を出すようになった。それが次第に参加者の会費から、賞金を出すように変わっていった。

 旦那衆には、お付きの人たちがいる。その人たちも連歌に加わるようになって、連歌の集まりが増え、賞金の額も大きくなり、最後にはバクチのごとき様相を呈した。すると、賞金稼ぎのような人物も現れ、江戸時代には幕府が取り締り令を出したこともあったが、隠れてする集まりでは、効果がなかったという。

 松永貞徳(1570年)が、発句(ホック=立句)の五七五を分離して、独立句として、「俳諧」とすることを始めた。この一派を貞門と称する。
この頃になると、武士などの参加も次第に増えてくる。連歌を作るためには、万葉集や和漢朗詠集や漢詩の教養も、土台として必要となる。しかし、参加者が増えて底辺が広がると、質の低下は避けられない。

俳諧の世界は、教養人だけでなく、市井の一般人も含めて参加する人の数が増えたが、句としては言葉をもて遊ぶがごとき、例えば貞門派のように川柳まがいの句が流行した。それを憂えた西山宗因は談林派をつくって修正を図った。

いわば 俳諧の一派だが、西山宗因を中心に、井原西鶴・岡西惟中らが集まり、延宝年間(1673-1681)に隆盛した。言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化をはかり、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色とするが、蕉風(しょうふう) ──芭蕉一派の発生とともに衰退した。宗因流。飛体(とびてい) 。阿蘭陀(オランダ) 流などとも呼ばれる。

貞門派も談林派も江戸と大阪が中心であったが、次第に全国に拡まった。 

芭蕉が奥の細道で全国行脚ができたのは、このような経緯で各地方に弟子がおり、師の芭蕉の来駕を待ち望んでいたからである。地方の旦那衆が商売で江戸に出てきて、俳諧なる洒落た遊びのあることを知り、勉強して、その地に帰ってから旦那衆が先生になって俳諧の会を開いた。

芭蕉の、江戸の弟子の旦那衆には、商売の相手が各地にいる。芭蕉が江戸を発つに当たっては、地方の商売相手への旦那衆の添え状があったらしい。そこで数日俳諧を教えて、次の土地にはここの旦那の添え状が・・・という風に、芭蕉は路銀も持たずに、俳諧の旅を続けることができたのである。



海津大崎の桜湖上鑑賞・長浜曳山まつり 見物記・・・・・・・・・・・・木村草弥
1f2a4d海津大崎⑦
↑ 海津大崎の桜
ビアンカ
 ↑ ビアンカ号
長浜曳山
ツーリズム

曳山_0001
 ↑ 長浜曳山まつり山車の一景 (萬歳楼)

    海津大崎の桜湖上鑑賞・長浜曳山まつり 見物記・・・・・・・・・・・・木村草弥
                    ・・・・・・・・クラブツーリズム2013.04.15催行・・・・・・・・・

当日は、京都駅八条口の団体バス乗り場を出発。琵琶湖岸の長浜港から貸切りのビアンカ号に載って琵琶湖北岸の海津大崎の桜を湖上から鑑賞。
京都からはバス三台。大阪からは五台。奈良から二台の合計十台、約400人から450人によるクラブツーリズムによる貸切である。
バス_0001

因みに「ビアンカ」は ← こういう船である。
ビアンカ_0002

この辺り琵琶湖北湖は気温が低いので、今が満開から散りはじめというところである。湖岸に延々とつづく桜の景色は見事である。
亡妻は友人たちと見に行ったものだが、私は初めて見た。小舟で、もっと近づいてみればいい写真が撮れたかもしれないが、この大きさの船では接写は無理である。
ゆっくり進むので往復二時間半の行程である。 写真を順不同で出来るだけ多く載せてみる。
無題海津大崎①
d1b42307abc1bc54b355882cd785f9ae海津大崎③
201104192352107c7海津大崎⑤
1236125380854_1134436491167_image1海津大崎②
大崎寺
 ↑ 大崎半島に建つ大崎寺の遠景

あと長浜港に戻って下船。 長浜曳山まつりを各自自由見学ということになる。
この曳山は日本三大曳山の一つと言われるらしいが、山車は小さく豪華ではない。
その代りに子供たちによる「歌舞伎」が演じられるのが名物である。
山車は十三基あると言い、三年に一度の出番年が回ってくるということで、四基が出演するらしい。
詳しくは、→ 「長浜曳山まつり」に各山車の写真などが見られる。
その後、ネット上に公表された当日のプログラムによると、今年練ったのは「萬歳楼」「翁山」「孔雀山」「常磐山」の四基である。
歌舞伎の行われる山車の舞台は四畳半という狭さ。
長浜曳山まつの由来
秀吉が長浜城主だった時代に始まる。
待望の男子誕生の祝いとして秀吉公から砂金を与えられた町衆が、それを基に曳山を造り長浜八幡宮の祭礼で曳き回したのが起こりである。
長浜の発展に伴い、江戸時代中期から各山組で競って曳山を改造して豪華な装飾に贅沢を尽くした。
子供歌舞伎は五歳から十二歳の男の子が役者になり春休みから稽古を始めるという。
掲出した「曳山まつり」パンフレットには、それらの由来が詳しく書いてある。
撮ってきた写真の幾つかを順不同で出しておく。 私には、どの場面が何かは判らないので、お許しを。

先ず、はじめに旅で出会った他グループの「奈良ジュニアファイターズⅢ」氏の撮られた見事な写真を、お許しを得て転載させていただく。
写真は、四枚いずれも「孔雀山」(義経千本桜道行初音の旅)である。 ↓
136609293437713128465_414A8384初音桜①
136609303398613128205_414A8484初音桜②
136609319909613231103_414A8587初音桜③
136609322620013230087_414A8676初音桜④

以下は、私の拙いカメラで撮ったものと、ネット上から拝借した過年度の写真が混在するので、ご承知を。
無題長浜曳山まつり⑭
33101_keywords長浜曳山まつり⑩
30001_keywords長浜曳山まつり⑪
22001_keywords_1長浜曳山まつり⑬
400_keywords長浜曳山まつり③
399_keywords長浜曳山まつり④
395_keywords長浜曳山まつり⑤
389_keywords長浜曳山まつり⑥
383_keywords長浜曳山まつり⑦
375_keywords長浜曳山まつり⑧
353_keywords長浜曳山まつり⑨
 ↑ 裏方として山車を押す人たち
曳山
曳山_0004
↑ この二枚は常設の「曳山博物館」
曳山_0003
 ↑ 商店街のアーケードぎりぎりを通過するところ (萬歳楼)

山車が通過したり、子供歌舞伎が演じられるときは人がぎっしりで動きが取れない混雑である。
商店街の奥のはずれに長浜別院の大通寺の立派な伽藍がある。
その参道の商店街の喫茶店でウインナー・カプチーノというアイスクリーム入りのコーヒーを呑んで休憩。
早めにバスに戻り、帰路に備える。

参考までに、2009年度の祭の様子の動画を出しておく。 ↓




ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも・・・・・・・・・上田三四二
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      ちる花はかずかぎりなしことごとく
         光をひきて谷にゆくかも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上田三四二


桜の落花が盛んになる頃である。そこで、この歌を採りあげておく。
この歌は三四二の代表的な名歌として、よく引用される。
短歌では「花」というと「桜」のことを指す約束事が出来てしまった。
万葉集の頃は、花と言えば「梅」の花であったらしい。
だから、この歌で詠まれる「花」は桜のことである。桜は散りはじめると、はらはらと、づつけて散る。
梅の花は、そんな散り方はしない。
そういう落花の様子が、よく観察されて詠まれている。
落花を詠みながら叙景だけでなく、その裏に「ものの哀れ」という心象を漂わせるのが、この歌の名歌たる所以である。

上田三四二については、短い文章ではあるが、まとめて書いたことがある。
三四二は私の居住地・青谷の国立療養所(今の南京都病院)の医師として病院付設の官舎に住いしていたことがある。当地を詠んだ歌もある。
昭和64年1月8日、昭和天皇と同じ日に亡くなった。
小説、評論の分野でも旺盛な執筆をつづけたが、癌に侵され闘病も凄まじかった。
以下、代表的な歌を抽出したい。

 年代記に死ぬるほどの恋ひとつありその周辺はわづか明るし

 地のうへの光にてをとこをみなあり親和のちから清くあひ呼ぶ

 をりをりに出でて電車にわが越ゆる今日木津川の水濁りをり

 湧く霧は木のかをりして月の夜の製材所の道をわが通りをり

 たすからぬ病と知りしひと夜経てわれより妻の十年(ととせ)老いたり

 死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日(ひとひ)一日はいづみ

 おぼろ夜とわれはおもひきあたたかきうつしみ抱けばうつしみの香や

 かなしみの何のはづみにか二十三歳の妻の肉(しし)置きをこよひおもひ出づ

 遠野ゆく雨夜の電車あらはなる灯の全長のながきかがやき

 土器(かはらけ)を投ぐるは厄をはらふため沖かけてとべ今日あるわれに

 金泥の西方の空にうかみいで黒富士は肩の焼けつつ立てり

 内視鏡にあかあかとただれたる襞照りてみづからが五十年の闇ひらかれき

 交合は知りゐたれどもかくばかり恋しきはしらずと魚玄機言へり

 湯気にたつ汁(つゆ)盛る妻よ妻が手に養(か)はれてながき二十九年へつ

 蜂などのゐる寂(しづ)けさやまのあたり藤は垂直にひかりを吊す

 歌ありてわれの一生(ひとよ)はたのしきを生のなかばは医にすぎたりき

 乳房はふたつ尖りてたらちねの性(さが)のつね哺(ふく)まれんことをうながす

 かきあげてあまれる髪をまく腕(かひな)腋窩の闇をけぶらせながら

 夕粧(ゆふけはひ)ほのめきみれば華燭より十(とを)の千夜ののちのけふの妻

 身命のきはまるときしあたたかき胸乳を恋ふと誰かいひけん

 をんなの香こき看護婦とおもふとき病む身いだかれ移されてをり

 谷ふかく入りきておもふ癒ゆるなき身は在りてひと生(よ)の妻をともなふ

 朝戸繰りて金木犀の香を告ぐる妻よ今年のこの秋の香よ

 一杯の茶にはじまりて一日の幾百の用妻が手を経(ふ)る
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上に引いた歌の三、四首目の歌は、当地のことを詠んでいる。製材所は今も同じところで営業している。
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上田三四二に因んで書いた私の文を引いておく。

*エッセイ*
 京を詠った私の一首 木村 草弥
 (角川書店「短歌」2001年3月号・大特集
 <旅に出てみませんか・歌めぐり京の旅>⑤ 所載)

   一位の実色づく垣の橋寺の断碑に秋の風ふきすぎぬ・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』に「茶祭」の題で収録した十五首の歌の
一つである。 毎年十月に宇治茶業青年団の奉仕で催される「茶祭」は
年中行事として定着した。
「橋寺」というのは宇治川の川東にある寺で、川底から引き揚げられた
ことで有名な「断碑」を安置してある。 昨年11月に私が訪れたら台座を
修理中で他へ預けられていたが、今は元通り置かれている。
ここには平成3年に上田三四二の初めての歌碑が建立された。それは

<橋寺にいしぶみ見れば宇治川や大きいにしへは河越えかねき>

という歌で、原文には濁点はふらず、歌は四行書きで、結句の文字は万葉仮名
で「賀祢吉」と書かれている。
京都と奈良の中間にある「宇治」は、この歌に詠まれているように古来、
「宇治川の合戦」をはじめ歴史的に枢要な土地であった上に平等院など
の史跡にも富む。
源氏物語の「宇治十帖」に因んで十年前に創設された「紫式部文学賞」と、
川東に建つ「源氏物語ミュージアム」が成功して、特に秋のシーズンには
観光客で、ごった返すようになった。
因みに昨年の紫式部文学賞の記念フォーラムはNHKの桜井洋子さんの
司会で俵万智、江国香織、川上弘美他の各氏が「愛と恋と文学と」と題して
盛況であった。


春の蛇口は「下向きばかりにあきました」・・・・・・・・・・・・・坪内稔典
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      春の蛇口は「下向きばかりにあきました」・・・・・・・・・・坪内稔典

坪内稔典は昭和19年、愛媛県生まれ。立命館大学卒で、高校時代から「青玄」に投句。
昭和63年から「船団」を発行、現在に至る。京都教育大学教授を定年退官して現在は京都市内の仏教大学教授。

掲出の句のように、言わば、ナンセンス句のような、人を食ったような句を得意とする。
公園などに行くと、水呑み場には「上向き蛇口」があって水が呑めるようになっている。この句は、恐らく、そんな場面を見て考え付いたものであろう。
蛇口は下向きばかりには飽きたから、だから、こうして「上向き」の蛇口になっているのです、ということである。
俳句は575と短い17字しかないから、いま説明したようなことは省略して仕舞ってある訳である。
こうして見てみると、一見、何の工夫もない、さりげない句のように見えるが、周到に計算し尽くされた作句であることに気付くだろう。
どちらかと言うと、「現代川柳」が、こういう形の川柳が多い、と言えば判りやすいか。
ただ教育者だったので、論は達者で、いくつかの評論集『俳句──口語と片言』 『正岡子規──創造の共同性』などがある。その他『辞世のことば』など。
最近は佐佐木幸綱の「心の花」の同人になり、歌人としても存在を主張している。問題児である。
以下、坪内の句を引くが、それを見ていただけば、どんなものか、よくお判り頂ける。
「甘納豆」シリーズの句の連作なども有名である。
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 桜咲く桜へ運ぶ甘納豆

 花冷えのイカリソースに恋慕せよ

 春の坂丸大ハムが泣いている

 春の風ルンルンけんけんあんぽんたん

 一月の甘納豆はやせてます

 二月には甘納豆と坂下る

 三月の甘納豆のうふふふふ

 四月には死んだまねする甘納豆

 五月来て困ってしまう甘納豆

 甘納豆六月ごろにはごろついて

 腰を病む甘納豆も七月も

 八月の嘘と親しむ甘納豆

 ほろほろと生きる九月の甘納豆

 十月の男女はみんな甘納豆

 河馬を呼ぶ十一月の甘納豆

 十二月どうするどうする甘納豆

 桜散るあなたも河馬になりなさい

 水中の河馬が燃えます牡丹雪

 魚くさい路地の日だまり母縮む

 父と子と西宇和郡のなまこ噛む

 バッタとぶアジアの空のうすみどり

 十月の木に猫がいる大阪は

 がんばるわなんて言うなよ草の花

 たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

 N夫人ふわりと夏の脚を組む
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2009518174421坪内稔典
 ↑ 坪内稔典氏

ネット上に載る「至遊」氏のサイトを転載しておく。

坪内稔典を読む (一)・・・・・・・・・ 至遊(しゆう)
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 まぁ我々凡人からみると分らない人である。堂々たる俳論を読むと、もうこの世界の大家の風格だが、何と私より六つも若い。稔典は(としのり)と読むが、ネンテンさんでも十分通用する。その桁外れの俳句をいくつか先ず紹介すると、有名な句に

 たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

がある。「ぽぽのあたり」がどの辺かは想像するしかない。「たん」と来て「ぽぽ」だから下の方なのか、蒲公英の「花」の下の方、すなわち首のあたりなのか、それは議論しても始まらない。一生懸命考えて詠んだ句か、ぱっとできた句なのかも知らないが、できたら遊びで詠んだ句であって欲しい。

 「ぽぽ」は勿論火の燃える音の擬音でもある。そうなると「たんぽぽ」そのものが実物というより、言葉だけのものになってしまう。この「たんぽぽ」を「蒲公英」と漢字で書いたら、何の面白みもなくなってしまうのである。結構この句は有名で知っている人が多いが

 たんぽぽのぽぽのその後は知りません

という句を(多分後で)詠むところまでくると、遊び心の典型だろう。俳句は元々は遊び心が旺盛だった。だから今でもこんな句に出会うとほっとすることがある。多分色んな人から最初の句で質問が行ったことであろう。それへの返歌みたいなものである。

 坪内稔典には他にもシリーズで遊んでいる句がある。甘納豆である。

 一月の甘納豆はやせてます

 二月には甘納豆と坂下る

 三月の甘納豆のうふふふふ

 四月には死んだまねする甘納豆

 五月来て困ってしまう甘納豆

 甘納豆六月ごろにはごろついて

 腰を病む甘納豆も七月も

 八月の嘘と親しむ甘納豆

 ほろほろと生きる九月の甘納豆

 十月の男女はみんな甘納豆

 河馬を呼ぶ十一月の甘納豆

 十二月をどうするどうする甘納豆

 ここまで来ると無理矢理に詠んだとしか思えない。もっとも私なども期限に追われて大てい無理矢理詠んではいるが、ここまで遊んではいない、というか遊べない。一月から十二月まで追ってくると、時には人生を感じさせるような感覚もある。でも十二月を「どうするどうする」と言われると江戸時代の年末の掛取りのようで、年が越せるの越せないのという落語めいた世界に引きずられ、そうするとやっぱり一生ではなく一年かなと思う。

 その中で圧倒的に有名なのが三月である。暖かくなってきて思わず頬が緩んできたという感じか。思わず「うふふふふ」と含み笑いが出てしまうような気候である。これだけが有名なので、こうして通しで見ることは仲々ない。でもこれは同時に発表されたものの筈で、句集でもきちんと並んでいる。甘納豆を女の一生と読めば、十月・十一月以外は何となく分りそうな句になっている。

 何故十一月に河馬が出てくるのかと思っていたら、どうもこの人は河馬が好きらしい。句集の中に河馬がやたらと出てくる。

 正面に河馬の尻あり冬日和

 ぶつかって離れて河馬の十二月

 秋の夜の鞄は河馬になったまま

など数えればキリがない。「かばん」が「かば」になったまま、というのは「ん」が足りない、すなわち未完成なのか、それとも膨らんだまま置かれているのか、この辺にくると河馬には飽きてくる。

 ではこんな句ばかり詠んでいる人かというとそうではない。

 N夫人ふわりと夏の脚を組む

などは「ふわりと」なんてオノマトペを使ってあるから、どちらかというと気の利いた軽さを出していて、中間に位置しているかも知れないが、

 法隆寺までの緑雨を大股に

 夢殿を出てから一人青嵐

なんていう句もちゃんと詠んでいる。どんな順序で紹介しようか。「どうするどうする」というところで、一拍置いて次回とする。
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今日、四月十五日は妻・弥生の祥月命日である。
昨年に七回忌を営んだので、ことしで丸七年が経過したことになる。
死なれたときには、どうなるかと思ったが、ようやく私も一人暮らしが板についてきたようである。
今日は私一人で妻を偲ぶことにする。
札幌に住む妹の克子さんから「生花」のお供えを贈っていただいた。仏前に供えて御礼申し上げる。

 海溝に盲(めし)ひたるごと喪の四月・・・・・・・・・・・・・・佐藤鬼房


花の下黙し仰げばこの世とはこの束の間のかがよひに足る・・・・・・・・・・米満英男
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 ↑ 矢羽根
米満歌集

      花の下黙(もだ)し仰げばこの世とは
         この束の間のかがよひに足る・・・・・・・・・・・・・・・・・米満英男


私の私淑していた米満英男氏の『游以遊心』(短歌研究社2007年刊)という歌集に載る歌である。
これまでに『父の荒地・母の沿岸』『花体論』『遊神帖』『遊歌之巻』とほぼ10年ごとに出されて、第五歌集となる。
はじめに、この「游」という日本では余り使わない字の解説をしておく。
「游」という字は①およぐ②あそぶ、と辞書には書かれている。
現代中国では、この字は「旅游公社」のように「遊ぶ」の意味の熟語として日常的に使用される。
日本で日常的に書くシンニュウの「遊」を使う代りである。「游」の字は、本来は「泳ぐ」意の原字である。
「游子」と言うと、李陵の詩にあるように「旅人」「旅客」を表す。また、たとえば北川省一『良寛游戯』という本の題名になったりしている。
この歌集の「あとがき」で作者は、次のように書く。

──しっかり詠み込もうとする限り、たとえばその<游(およ)ぎ>と<遊(あそ)び>との様子を、いかなる視軸からにせよ、確りと捉えて見詰め直し、その多様な<遊び様>を組み上げるしか、方途はなかなか見付けられないと感じました。──

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   矢羽根本黒(もとぐろ)つがへたるその標的に白桃ひとつふくらみてをり・・・・・・・・・・・・米満英男

この歌集の中ほど103ページに、この歌をはじめとして「晩年の住処(すみか)」という8首の歌からなる一連がある。
煩をいとわず書き出してみる。

    晩年の住処

  矢羽根本黒(もとぐろ)つがへたるその標的に白桃ひとつふくらみてをり

  家族(うから)の匂ひ残る湯槽に浸りつつ何(いづ)れ何時しか皆(みんな)と別る

  日日(にちにち)の縞目のらくら掻い潜り生き来しからに心身斑(まだら)

  貌洗ひ洗ひ重ねし数忘れいつしか晩年の住処に至りぬ

  体内に在る水つねに出入りして時に冷たく時には温(ぬく)し

  眼鏡拭ふ合間にテレビの画面かはり些かは世間進みをりたり

  口中に温もる舌の嵩(かさ)張るを気にしつつ誦(とな)ふ般若心経

  地に敷ける花踏み散らし仄白(ほのじろ)く伸びゐる道を尽きるまでゆく

この「矢羽根」の歌を、簡単に素通りして貰いたくないのである。
この歌は「暗喩」メタファーになっている。読み解いてみよう。
「矢羽根」とはpenisの謂いである。その矢羽根の「本=もと」は「黒」ぐろとしている。つまり男の陰毛の喩である。
そして、つがえた矢の、かなたの標的には「白桃」ひとつふくらんでいる、という。
「白桃」とは「シンボル・イメージ辞典」にも明記されているように、女のふくよかな「臀部」=秘処を表す「約束事」になっているのである。


さりげない表現の体(てい)を採っていながら、作者の心の裡は、瑞々しい精気に満ちて心気隆々である。
今日のBLOG全体の掲出歌を「矢羽根本黒」にしたかったのだが、さすがに控えて「花の下」の無難な歌を選んだのだったが、この歌を含む一連も、この歌集の「巻頭」に載るものである。
書き出してみよう。折しも「落花しきり」の候である。

    桜花面妖

  花の下黙(もだ)し仰げばこの世とはこの束の間のかがよひに足る

  風のはこぶ淡くあやしき囁きを手繰り寄すれば花と逢ひたり

  孤立無援といふ語宜しも一本の桜が雨中にざぶざぶ禊ぐ

  むかし眺めしさくらけふ見るさくらばなそのあはひを繋ぎ来し花遍路

  やまとに生まれさくらに憑(つ)かれ過ぎて来し身を終へるなら桜樹(あうじゆ)の柩

  乳のしたたる如くに花の散り初めしその辺りいちめん胸処(むなど)匂へり

  姦淫の目もてさくらを見詰めゐし祟りか夜中にまなうら痒し

  いづこより生まれ来りてさて何処へ去るや今生の花を誘(いざな)ひ

  花の下より立ち去る際(きは)にうかつにもわが影を連れ出すを忘れぬ

  さくらさくら人に見らるる栄、辱を振り払ふごとただ散り急ぐ

  西行の背を見失ひはてと佇つ行方うすうす桜花(あうくわ)面妖

この一連も、さまざまの「喩」に満ちて楽しめるのであるが、6首目の歌の「喩」なども読み解いてほしい。
歌詠みの先達として「西行」が居るが、この一連の終わりには、しっかりと彼が詠み込まれている。

米満英男氏については前にも記事にしたことがあるので参照されたい。
以下、この歌集に載る私の好きな歌を引いて終わる。

  追ひ追ひて捕り得ざりしもの文芸と女心のその深き絖(ぬめ)

  しどろもどろと言ふ語を<源氏>に見出しぬ唯それのみにて本日愉(たの)し

  喜寿すでに過ぎしうつつに仰ぎ見る天空ならぬ地空の冥(くら)さ

  真夜の湯槽に沈めし肉の彩づけば過ぎ来し方は残夢ざぶざぶ

  湯を沸かす只それのみの間を見つめ現世(うつしよ)と呼ぶ卓に坐しをり

  不時の災ひ待ち侘ぶるごと曇天の下にて約束の女待つ間(ひま)

  何なすといふ訳もなくさし伸ぶる手の先にひとつ檸檬(れもん)の楕円

  共に棲むつれあいとはいへ飲食(おんじき)の好みの違へけふ芋と豚

  沐浴する女人の油絵ほのかなる脂(あぶら)のにほひを放つ 禍津日(まがつび)

  わが晩年もおほよそ挵(せせ)り了(を)へたりき去る卓上に魚骨残して

  妻とわれの覗けぬ狭間ひと瓶のワイン血溜りのさまに鎮もる

  箸洗ひまた汚しゆく反復の果つるときわが肉身は果つ

  歌侮りし頃もありたり紅葉の散り敷く前途遠く間近く

  氷見に喰らひし青鯖旨しせめて生き腐(ぐさ)れとならず遂げむ一生(ひとよ)を

  がばと飛びたる家鴨(あひる)それそれ彼奴(きやつ)でも飛びたいときはありませうな

  忘れ切つたる尾骶骨何となく痒き夜更けほろりと歌一首生む

  不意に鳴るこころの音叉一行の詩に封じ込めその音隠す

  雅兄(がけい)宛と記されし書簡受け我は何方(どなた)の雅(みやび)の兄たるか知らぬ

  一気呵成 すなはちこころ狩るに似て心神仄かに血の匂ひ充つ

そして、巻末の歌は

   一言一行 師匠無くはた弟子もなく歌を詠み来て半世紀過ぐ
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米満氏は多芸の人で、この歌集のカバーの装丁も、ご自分でなさった。
その米満氏も昨年二月二十日に亡くなられた。
彼の亡くなったときの記事も見てもらいたい。
ご冥福をお祈りする。

長年のうちに短くなりし分われらは食みしやこの擂粉木を ・・・・・・・・・・安立スハル
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 ↑ すり鉢と「すりこぎ」

      長年のうちに短くなりし分われらは
           食みしやこの擂粉木(すりこぎ)を ・・・・・・・・・・安立スハル


昨日、宮柊二を採り上げたついでに、私の先師・安立スハルを選んだ。
先生の名前は、スハルという特異なものだが、本名である。
お父上が日本画家であられたので、こういう命名になったらしい。
京都のお生まれだが、中年以降は岡山市に住いされた。
若い頃から結核で、結婚はされず独身。2006年に亡くなられた。
私は若い時から短詩形に親しんで来たが、現代詩の方にいたのだが、たまたま新聞歌壇に投稿したものが、採用され、短歌の道に入るようになった。
読売新聞(大阪)の夕刊の歌壇の選者を安立さんがしておられ、親しく選評に接するようになった。その縁で「コスモス」にも入会したものである。

昨日の宮の歌と、今日の安立さんの歌を比べてみると、「生れたければ生れてみよ」と「われらは食みしやこの擂粉木を」という発想に、私は師弟としての似通ったものを認めざるを得ない。一般の歌詠いの発想とは、一肌違った自在な詠いぶり、とも言えようか。
安立さんは、私に「歌というのは、こういう風に詠まなければならない、というようなことは、何もないのです」と、よく仰言った。私も勝手な人間なので、その言葉は身に沁みた。

そんな安立さんと、「コスモス」からの出発であったが、何しろ自作の歌が1首か2首しか載らない。
コスモスは大きな結社で掲載するスペースが限られているのだ。そんなことで、もっと歌を多く載せてくれる結社を求めて私は「未来」誌に移ることになる。
安立さんとは、師として以後も礼を尽して来たが、晩年はひどいヘルペスを病まれて結社とも音信を絶たれて私の方へも音沙汰もなかったが、先に書いたようにお亡くなりになった。
以下、少し歌を引いて終わりにしたい。
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   一つ鉢に培へば咲く朝顔のはつきり白しわが座右の夏

   金にては幸福は齎されぬといふならばその金をここに差し出し給へ

   自動扉と思ひてしづかに待つ我を押しのけし人が手もて開きつ

   家一つ建つと見るまにはや住める人がさえざえと秋の灯洩らす

   瓶にして今朝咲きいづる白梅の一りんの花一語のごとし

   青梅に蜜をそそぎて封じおく一事をもつてわが夏はじまる

   くちなはにくちなはいちご村の子に苗代苺赤らむ夏ぞ

   若さとは飢か四時間面(おもて)あげず列車に読みて降りゆきし人

   見たかりし山葵の花に見入りけりわが波羅葦僧(はらいそ)もここらあたりか

   島に生き島に死にたる人の墓遠目に花圃のごとく明るむ

   もの書くと重荷を提ぐと未だ吾にくひしばる歯のありてくひしばる

   今しがた小鳥の巣より拾ひ上げし卵のやうな一語なりしよ

   一皿の料理に添へて水といふもつとも親しき飲みものを置く

   本といふ「期待」を買ひて歩みゆく街上はけふ涼しき風吹く

   有様(ありやう)は単純がよしきつぱりと九時に眠りて四時に目覚むる

   悲しみのかたわれとしもよろこびのひそかにありぬ朝の鵙鳴く

   大切なことと大切でないことをよりわけて生きん残年短し

   踏まれながら花咲かせたり大葉子もやることをやつてゐるではないか



群れる蝌蚪の卵に春日さす生れたければ生れてみよ・・・・・・・・・宮柊二
img1035ヒキ卵

      群(むらが)れる蝌蚪(くわと)の卵に春日さす
           生れたければ生れてみよ・・・・・・・・・・・・・・・・宮柊二


宮柊二(みや・しゅうじ)は北原白秋の弟子であり、若い一時期、邸に住み込んで書生の仕事をしていた。
晩年のその頃、北原は短歌雑誌「多摩」を発行していて、その弟子には、その後独立した多くの有力な歌人がいる。
宮も昭和28年に短歌結社「コスモス」を創刊し、有力な結社の主宰者として短歌界に君臨した。

この句は昭和28年刊の歌集『日本挽歌』に載るもの。
季節的には、もうそろそろ蛙の卵も孵化する頃だと思うが、私のところのような田舎でも、なかなか蛙の卵を見つけるのは困難である。
それには理由がある。この辺の農家は兼業農家が多く、米を穫った後の裏作をしないので、田圃は水を張らないままで冬を過ごすので、蛙が卵を産む水がない。
蝌蚪とは「おたまじゃくし」のこと。
この歌の下の句の「生れたければ生れてみよ」という表現が独特である。
こういう発想をする人は多くはない。宮の主宰者としての気概が表れているとも言える。

私が短歌をやるようになるきっかけは、コスモス同人の安立スハルさんの縁であるが、入ってすぐ、
宮が「コスモス」創刊の時に高らかに謳いあげた「歌で生の証明をしたいと思います」という宣言文に感激したことを思い出す。
私が入会したのは平成になってからで、もう主宰者・宮氏は亡くなっておられた。

宮は戦争中は召集されて中国の山西省の前線に下士官として配属されていて、戦後『山西省』という歌集を出して、戦時を詠った歌を「現在形」で作って注目された。昭和61年没。
以下に歌を引用するが、その中には戦時の歌も含まれる。
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01Kaosyasinn,0宮柊二
 ↑ 宮柊二

   美童天草四郎はいくさ敗れ死ぬきはもなほ美しかりしか

   接吻(くちづけ)をかなしく了へしものづかれ八つ手団花(たまばな)に息吐きにけり

   つき放れし貨車が夕光(ゆふかげ)に走りつつ寂しきまでにとどまらずけり

   たたかひの最中静もる時ありて庭鳥啼けりおそろしく寂し

   おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ

   おんどるのあたたかきうへに一夜寝て又のぼるべし西東の山

   鞍傷に朝の青蝿(さばへ)を集(たか)らせて砲架の馬の口の青液(しる)

   ねむりをる体の上を夜の獣穢れてとほれり通らしめつつ

   軍衣袴も銃(つつ)も剣も差上げて暁渉る河の名を知らず

   ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

   耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず

   一本の蝋燃しつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくゐる

   疲れたるわれに囁く言葉にはリルケ詠へり「影も夥しくひそむ鞭」

   英雄で吾ら無きゆゑ暗くとも苦しとも堪へて今日に従ふ

   藤棚の茂りの下の小室にわれの孤りを許す世界あり

   音またく無くなりし夜を山鳩は何故寂しげに啼き出すのか

   老びとの増ゆといふなる人口におのれ混りて罪の如しも

   人生は十のうちなる九つが嘆きと言ひつ老いし陸游

   頭(づ)を垂れて孤独に部屋にひとりゐるあの年寄りは宮柊二なり

   中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみ思ふ戦争は悪だ
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以下は、ネット上に載る「ヨッサン」こと吉田道昌の「宮柊二、一兵卒の歌──戦争を歌いつづけた歌人──その短歌集「山西省」という記事」である。

宮柊二(みやしゅうじ)の短歌集を本格的に読んだのは、中国に来てからだった。きっかけは彼の歌集「山西省」にある。
「山西省」はすぐれた戦争文学として評価されている。彼はどのように戦争を体験したのか、侵略をどのようにとらえていたのかを知りたいと思った。
大学図書館から歌集を借りてきて、読み通し、中国出発の日が近づいた今、これを書いている。

戦後の代表的歌人の一人であった宮柊二は、1939年、歩兵二等兵として日中戦争に従軍した。戦場は中国山西省。
上官の勧めを退け幹部への道を断ち、四年間、彼は一兵卒に自分を縛りつけて、戦争を直視しつづけた。北原白秋の弟子であった。

 おそらくは知らるるなけん一兵の生きの有様をまつぶさに遂げん

柊二27歳。覚悟を決めての「出征」だった。召集令状がきたとき、師白秋は言った。

 白だすき一首したため戦ひに死ぬなと宣(の)らしき昭和十四年

白秋先生は「戦争で死ぬな」とおっしゃった。
軍隊という非情な目的集団に身をおいた柊二は、戦争のリアリズムを歌にしていく。柊二は、どのような兵士であったのか。

 しばし程汾河のほとりに下りゆく綿羊の群を目追い優しむ

 省境を幾たび越ゆる綿の実の白さをあはれつくつく法師鳴けり

 大陸を進軍する兵士たちの前に、羊を飼い、綿を作る中国の農民たちの暮らしがある。ツクツクボウシ蝉がここでも鳴いている。
平和な農村風景に心なごみ、優しくなる。

 麦の秀(ほ)の照りかがやかしおもむろに息つきて腹に笑いこみあぐ

安らぎと喜びをもたらす麦熟れる田園風景は、農民出身の兵士にとっては、ことに日本のふるさとを思い起こさずはいられない。
狂気の戦争心理のなかにあっても、たまさかに正常な感覚をよみがえらせることもあったのだろう。

 稲青き水田見ゆとふささやきが潮となりて後尾に伝ふ

「水田がみえるぞ」というささやきが、隊列の前方から潮が押し寄せるように聞こえてきた。稲田を見たときの反射的な喜び。
それこそ人間の感情なのだが、戦争は非情に押しつぶしていく。
侵略軍の置かれている立場は、そこに生きてきた土地の民からの反撃に常にさらされねばならない。
生命みつる田園ではあるけれど、それをも戦場にしてしまう軍隊は、つねに死に直面している。

 五度六度つづけざま敵弾が岩うちしときわれが軽機関銃鳴りひそむ

 ひまもなく過ぎゆく弾丸のその或は身の廻にて草をつらぬく

 麻の葉に夜の雨降る山西の山ふかき村君が死にし村

 秋霧を赤く裂きつつ敵手榴弾落ちつぐ中にわれは死ぬべし

 あかつきの風白みくる丘陰に命絶えゆく友を囲みたり

 うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇(あ)ふ最後の雨か

戦友の死。自分もやがて死ぬことになるだろう。柊二が、戦場から師の白秋に出した手紙には次のような文がある。

「『面輪が変わる』といふ言葉がありますが、さうした戦闘の後ではお互いの顔を合わせてゐて、これは誰だったらうと思ひます程に――言い過ぎではありません――変わってしまひます。」

顔が別人になってしまう。それほどの精神的な重圧を兵士たちは受けている。
しかし、逃げるに逃げられない中国の農民たちは、泥靴で踏み込んできた征服者・日本軍の重圧を、日本兵以上に感じながら戦っていただろう。

柊二もまた、中国の兵士と遭遇し、ついに殺してしまう。事実のみを表現している次の歌に、柊二はどのような思いを秘めているのだろうか。
ここには武勲の意識を読み取ることはできない。戦いを余儀なくさせられたものの哀しみ、殺さざるをえなかった相手への哀惜を感じる。

 磧(かわら)より夜をまぎれ来し敵兵の三人迄を迎へて刺せり

 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくずをれて伏す

何故に戦わねばならないのか。兵は、自分の意思も疑問も一切を押し殺して、戦闘マシーンになる。
自分の行為をリアルに描いているだけに、戦争の非人間性、むごたらしさ、無意味さが冷酷に表われてくる。

 俯伏して塹に果てしは衣に誌(しる)しいづれも西安洛陽の兵

 装甲車に肉薄し来る敵兵の叫びの中に若き声あり

「西安洛陽の兵だ」と、塹壕に倒れている兵士の衣服から確認する。
装甲車に肉薄してくる兵の声のなかに中国の少年兵の声も聞き取った。
征服しようとするものを排除し祖国を守ろうとするものたち、柊二は、眼前に迫り来る人間をつぶさに感じ取る。

「戦争の悲惨は胸をついたが、また戦ふ兵隊に現れてくる人間といふものの深さ、立派さにも目を瞠った。それは敵味方に対して同じだった。わたしは心を引きしめて立派な兵隊でありたいと願ったり、事実戦ひのなかで、死ぬだろうと思ったりしてゐた。わたしを取り囲んだのは運命だったが、しかし、運命に易々と従ったといふだけの感じではない。」と、戦後柊二は書き、「戦争の本質を疑ひつつも、祖国を愛さねばならなかった混沌」のなか、「掬ひ取られる近さに死を置く兵隊」を、柊二は歌った。

戦争というものは敵をつくり、敵と戦う。だが、「敵」とはいったい何なのか。
「敵」の本質は何なのか。

 死にすれば安き生命と友は言ふわれもしか思ふ兵は安しも

 泥濘に小休止するわが一隊すでに生きものの感じにあらず

 ここで死んだらあまりに安い命ではないか。兵の命はあまりに安すぎる。そういう会話もなされていたのだ。
既に生きものの感じがしない小休止する兵たち。「聖戦」、「大東亜共栄圏」という欺瞞を、兵士たちは「皇軍」の実態のなかに見ている。
明治43年、潜航訓練中に遭難死した潜航艇員を悲しみ、与謝野寛はこう歌った、「老いたるは皆かしこかりこの国に身を殺す者すべて若人」。
兵として死んでいくものは、みんな若者たちだ。戦争を遂行し、命令するものたちは死ぬことはなかった。

 信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵

 一昨年戦ひ死にし白倉があはれ生きをりき夢なりしかば

 耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思い戦争と個人を思ひて眠らず

 汾河の源をさらに十里溯り蕭々たる林に戦ひ死ねり

 日本軍は山深く、大陸深く、戦線を広げ、被害はいっそうひどくなった。
勝ち目のない戦、死を覚悟する兵士たち。敵味方の区別もない悲惨よ。柊二は、中国兵の人間をもとらえる。
次から後の歌は、戦後1946年より1948年までに作られた。(歌集「小紺珠」)

 猫も食ひ鼠も食ひし野のいくさこころ痛みて吾は語らなく

 日本軍は、食糧などを現地調達させた。猫も鼠も食べなければならない戦、それがいっそう現地農民からの奪略を生んだ。

 耒耜(らいし)をかつて創りしものの裔(すえ)便衣藍にして歯の清き兵 

耒耜は、鋤のこと。この人たちは、かつて鋤を創りだした農民の末裔なのだ。日常着の青い服を着て、白い歯が美しい中国兵だ。
この人たちの先祖の鋤が日本に伝わった。大地を耕し、土に生きてきた人たち、そういう人たちを支配することなどできるはずもない。狂気か。

 中国と日本をわれは知れるのみ苦しみて生きむ両民族か 

ほとんどの日本兵は日本から出たことはなく、中国は初めて見る外国であったが、両民族は遠い昔から近い存在であった。
侵略がなければ、このような苦しみもなかったはず。何故自分たちはここにいるのか?

 省境を秋越ゆるとき岩に読みき民族的生命在我們手中 

行軍中、岩に書かれていた文字を見る。「民族の生命は、我らの手中にあり。」 抗日軍には大義があった。侵略軍になんの大義があったか。
柊二は、そのことを感じていたのだろう。歌集「両民族」の歌は、1946年から1948年までに作られた。
戦後、柊二は日中戦争を思い出しては歌にしている。忘れようにも忘れることのできない戦争の悲惨。

 ゆらゆらに心恐れて幾たびか憲法第九条読む病む妻の側 

 新しい憲法が制定された。その第九条、戦争を放棄する、軍隊を保持せず。
それを何度も読む柊二の心に何があったろう。恐れとは何だろう。あの日中戦争を思うにつけ、ふるえる心。

 この夜しきりに泪おちて偲ぶ雪中にひたい射抜かれて死にたる彼 

 戦友の死が、つねに脳裏に浮かんで消えることがない。そして相手の中国人の死も消えることがない。

 銃殺台に上る半ばゆ降りて言ひし陳公博の言葉も悲しも

 日本軍によって銃殺される陳公博が、何を言ったのか。記憶から消すことのできない光景、そして罪。
1948年11月12日、極東軍事裁判でA級戦犯25人に判決が下った。戦争を推進したもの、戦争責任者は絞首刑。天皇は免罪された。
その日、柊二のつくった歌。

 廿五名の運命をききし日の夕べ暫く静かにひとり居たりし

 柊二は自己へ問いかける。原罪という罪はどんな罪だろう。(以下歌集「挽歌」)

 原罪といふはいかなる罪ならむまぼろしに鳴る鞭の音する

 柊二の聞くこの鞭の音は、戦争行為を犯してきた罪を問う鞭の音なのか、鞭うってきた戦争行為なのか。記憶ははっきりと罪をとらえているものだ。
「原罪」という言葉を見ると、ぼくは一人の教師を思い出す。高知の教師、竹本源治。彼の作った有名な詩は「戦死せる教え児よ」だった。
それはこのように始まる。「逝いて還らぬ教え児よ 私の手は血まみれだ! 君を縊ったその綱の 端を私も持っていた しかも人の子の師の名において 嗚呼! 『お互いにだまされていた』の言訳が なんでできよう‥‥」。この詩が作られた1951年、日本教職員組合ははじめて「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンをかかげた。学者、文化人は、平和の擁護は、五十万教師の良心と知性にかかっていると訴えた。

 「死ぬな」と言った白秋先生は、彼の従軍中に亡くなった。
1942年11月4日、寧武部隊西野曹長からの軍用電話があった、「北原白秋氏逝けり、君よ知るか」。 柊二は声を上げて泣いたという。

戦争が終わり、復員した柊二の心のなかにも、未来へのかぐわしい希望がわき、そしてまた平和に対する認識が生まれてくる。

 たたかひを知りたるゆゑに待つ未来たとへば若草の香のごとく来よ

しかし、あれだけの惨禍をもたらした戦争であったのに、数年して世界の冷戦構造の中に組み込まれていく日本、またもや再軍備が頭をもたげる。

 徐々徐々にこころになりしおもひ一つ自然在なる平和はあらず

 日本の戦争責任を問い、戦争放棄の憲法をうみだしながら、アメリカは戦争への準備を進めていく。やがて朝鮮戦争の勃発。

 戦ひを経来しゆゑ知る悔しみ誰に告ぐべき暑き濁り河

 柊二は、この歌の詞書にこう書いている。「戦争を起こしてはならないといふ希ひをよそに、六月二十五日新しい動きが朝鮮に起こった。」

 公然と再軍備論なすものを憎み卑しみ悶ゆとうったふ

 柊二は、戦に死んでいったものを歌わねばならない。無為に人生をすてさせられたものの挽歌を。日本の挽歌を。

 若きらは国に殉(したが)ひつねにつねに痛ましかりき顧みざりき

 おもかげに顕(た)ちくる君ら硝煙の中に死にけり夜のダリア黒し

 まどろみの中に傷みて見てをり磧(かわら)に死骸の焼かれゆくさま

 過ぎこし四十年に何を得しやさまざまに動揺して生ききたるのみ

 弁明をせずに生きむとおもふけど弁明以外の何を饒舌(しゃべ)らむ
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↑ この記事は昭和25年に朝鮮戦争が勃発する直前に出された歌集『山西省』に寄せて、世界平和の立場から書かれている。
今しも、戦後生まれの世代の手によって憲法改正その他の企てが進められている機会に、先人たちの、こういう記事を載せるのも時宜を得ているかと思って転載してみた。
いかがだろうか。
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吉田

上に引用した「ヨッサンこと吉田道昌」氏の『架け橋をつくる日本語』─中国・武漢大学の学生たち─という本をネット上で取り寄せて読んだ。
吉田氏は1937年生まれの大阪の人で中学校教員をされていた。
のち日本語教師として武漢大学に赴任され、そのいきさつが、この本になっている。(2005年文芸社刊)
引用した宮柊二に関する記事は、この本の228ページから<宮柊二 一兵卒の歌集「山西省」>という項目で11ページにわたって要約されて載っている。

心あたたまる、いい本である。


「桜」の本いくつか・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
佐野

──新・読書ノート──

      「桜」の本いくつか・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「桜」の花が咲きみちる爛漫の春となった。 というより、もう散ってしまったか。
今年の冬は、とても寒かったが、桜の開花には、この厳しい寒さが必要なのだという。
そして今年は三月になって急速に暖かい日が続いて、一気に開花が促進され例年より十日以上も早いということである。
今日は「桜」に関する本を採り上げる。
これは私の畏敬する「硯水亭歳時記」さんが、先日「桜」に関する本をたくさんブログにご紹介いただいた中から四冊買ってみたからである。
みなアマゾン扱いの中古品である。この頃のアマゾンの中古本も豊富になって、届けてあるクレジットカードで決済できるから便利である。
今回、買い求めたのは
  ■山田孝雄『櫻史』(講談社学術文庫1990/04/16第二刷)
  ■佐野藤右衛門・小田豊二聞き書き『桜よ』─「花見の作法」から「木のこころ」まで(集英社文庫2004/02/25)
  ■佐野藤右衛門『桜のいのち 庭のこころ』(草思社1998/04/24四刷)
  ■安藤潔『桜と日本人ノート』(文芸社2003/03/20第二刷)

桜史

国語学者である山田孝雄の本は昭和十六年に出たものの文庫化したものであり、文語調の難しい本である。読み方も「おうし」と訓む。
ご存じない人のために少し書いておくと、山田孝雄は明治六年(1873年)富山県生まれの人で東北大学教授などを歴任。専門は国語国文学。
いわゆる「山田文法」を体系化した人。 1957年文化勲章を受章。 1958年歿。
この本のカバー裏に編集者のつけた文章を画像にして出しておくので見てもらいたい。 ↓

うら_0001

ここに書かれているように上古から現代に至るまでの桜に関するもろもろを、厚みにして二センチはあろうかという労作である。
この本が出たのは昭和十六年であるから「ヤマトゴコロ」が最高に強調されたころである。
日本文化は世界の他のところとは違う独特なものである、とされた。
だが、実際には日本文化は中国の老荘思想などから多くのものを受け継いでいるし、日本宮廷の行事、作法なども中国歴代の宮廷のものを踏襲したものが多い。
例えば、芭蕉の思想なども老荘思想に多大の影響をうけている、との芭蕉研究者の比較研究の論考があるのである。
江戸時代は「近世」という時代分けをするが、私は必要があって近世初期の天皇のことを調べてみたので、よく判るが、その頃の宮廷行事は中国の行事そっくりである。
そういう比較研究は戦前には弾圧され、例えば福永光司先生の著述なども陽の目を見たのは敗戦後のことであった。
そんな天皇が尊敬する天子の理想像は、その頃の中国皇帝であったり、文物であったりするのであった。
日本文化の特異性をことさら強調するようになるのは明治維新以後のことであり、それは近代日本を作り上げるために東洋とは「隔て」を置くために「牽強付会」したものと見える。
国粋主義、廃仏毀釈、「神ながらの道」など明治以後の「国家神道」は排外主義となって国を敗戦に導いた。このことに留意したい。
山田孝雄が、そういう思想だという意味ではない。 誤解のないように。
とにかく難しい本である。学者の書く本である。学術的。 詳しくは書かないが、興味のある方はトライされたい。 けだし、そういうことである。

桜よ

佐野藤右衛門の本を二冊あげたが、いずれも彼が話したものを「聞き書き」したもので、「会話体」である。判りやすい。
典型的な京都弁であり、私などには地元の語り口だから読みやすいが、他の土地の人には果たして、どうか。
『桜のいのち 庭のこころ』から一部をスキャナで取り込んでみた。 こんな具合である。 ↓

接ぎ木は夫婦で
接ぎ木は嫁さんと一緒にするんです。おじいさんもおばあさんとやりましたし、親
父もおふくろとやりました。わしもかかとやっています。これもまたその家のという
か、植木屋へ嫁にきたもののひとつの教育みたいなものなんですな。
細こう切ってある枝を台木に接ぐんですが、台木の皮を削いで、接ぎ木の皮も削い
で、形成層の合うところをうまく入れていくんです。その後で、嫁さんが打ち藁で縛
っていくんですわ。
いかに女が上手に締めるか、きつくもなく緩くもなく、 それが実にむずかしいんで
す。共同で、息を合わせなならんのですが、そういう夫婦間の一体的な行動というの
か、そういうものの教えにもなるわけなんですわ。
おじい、おばあが接ぎ木の作業をやっていますわな。私は子供でしたから、接ぎ木
をしとるところにゴザを敷いてもろうて一日遊んでおりますやろ。
でも嫁というか、私の母親はこんなのを見るのは初めてです。まだ若妻ですわな。
それが弁当を持って来たときに、草を引いたりしながら、ついでにおじいやおばあの
やることを見るとはなしに見てますわな。そうして、自分が直接やらんでも、見てい
るうちに仕事に慣れていきますわ。
そして、こんどは接ぎ穂を縛る蓁を打っておいてくれよといわれたら、家でやりま
すわな。そのときでも、打ちすぎてもあかんし、打ってなかったら藁はボリッと折れ
ますやろ。打ち方にもはじめは緩く、だんだんきつくとか、リズムがありますわな。
ただ打ったんではあかんのやから。それで口に水を含んで藁をまわしながら霧を吹き
かけますわな。それらはすべて機械とちごうて、手加減でやっていく仕事です。こう
いう作業を手伝いながら、こつを覚えていくんです。
嫁に来て、すぐに一緒に働きに出るわけではないんですわ。徐々に徐々に、もうほ
んまにちょっと手伝うとか、弁当を運んでいるときにするとか、切った木を持つて帰
つて夜の間に選り分けるとか、何かに少しずつかかわるんですな。それを自然に身体
で覚えていくんです。頭で覚えたことはみな忘れますからね。
初めは外から見るだけですわな。それで、どういうことから始めるのかということ
がわかりますやろ。今のように、あれはああです、これはこうです、こうしなさいで
はあきませんわ。手とり足とり教えてもほんまには覚えませんわ。そういうふうに見
たあとで、こんどは実際にやりながら覚えていくんです。おじいとおばあがやってい
たことを、親父とおふくろがやっていくようになるんです。接ぎ木は、やっぱり夫婦
でするのが楽ですわな。何もいわんでも、「こうせい」というたら、「へい」というよ
りしゃあない。
今はわしが十二センチぐらいの間隔で順番に接いでいくと、かかが後ろから、クリ
クリクリッと巻いてはビューッと藁を伸ばして、切らずにつぎの木をくくつていくん
です。ですから藁はつながっていくんですわ。そうやってつぎつぎとくくって結ばん
でもええのやけど、最後だけはギュッと締めますわな。
この作業をするのは、雨の心配のないときですわ。雨が降ってきたら、すぐに傘を
さしたりしますわな。水が入ってしまうと、形成層がひつつくまでにパッと口があき
よるから。水が入らないように傘がいるんですわ。それからあまりきつく締めてしま
うと、これまたひっつきませんのやわ。両方が脹れようとする力によってひっつきよ
るのやからね。学問的には形成層さえあればひっつきよるというけど、実際には接ぎ
穂と台木の締めぐあいですわ。
だいたい一日仕事でやりますのや。それで、乾きそうになったら、そこに土をすぐ
にかけていくんです。本数はそのときによって、みな違いますけど、千本まではいき
ませんな。
今はビニールでやるものやからみんなだめになるんですわ。ビニールでくくったら、
ひっつくのはよろしいわ。けどそれが腐りませんのや。それで木が脹れたときに木に
食い込んでしもうて、しまいにはポキッと折れよる。
藁だとちょうどついたときに、その藁が腐っとる。だから藁とか荒縄というのは、
うまいことできているんですわ。それなのに街路樹の支柱を見たってややこしいもん
でくくってありますやろ。そやから肥ったときにみんな傷んでますわな。昔の材料は
みな、木が必要でなくなるときには、そのものが腐るようになっておったんです。

桜切るバ力、梅切らぬアホ
大きな桜を新しく植えるときには、まず土を見ますわな。土を見んことには植えら
れへんから。育ってきたところと、違うかどうか、その土が合うか合わんかを見極め
て、悪かったら土を入れ替えてもらう。そして、植えて、立てますわね。立てて土を
かけたときに、なんやおかしいなと思うときがあるんです。どうかなあと思うときも
あるし、もう大丈夫というときもある。大丈夫やというときにはじめて、地の神と天
の神とに感謝して、酒をかけて、幹の高いところにスルメを結わいつけておくんです
わ。スルメは神事や祝い事で必ず使いますやろ。昔からそういうもんですわな。祭り
はみなスルメですわ。そのとき「ごくろうさん」と一升瓶の酒をかけてやりますな。
それで、わしらは.自然界のもろもろの神に感謝して、最後に「たのんます」というて
帰りますのや。
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佐野藤右衛門には一度講演会で話を聞いたことがある。
この本には彼の写真が載っているが、「植木屋」と言ってはばからない。「野人」そのままのような人である。
十六代佐野藤右衛門を襲名しているが昭和三年(1928年)生まれ。京都農林学校卒。祖父の代からの「桜守」を継ぐ。
京都市右京区山越というところで、土地は昔から仁和寺の寺領だったところで、数代まえから仁和寺出入りの百姓で次第に植木の世話をする植木屋となり、庭師となって行ったという。
屋敷には庭木を囲っておく広い養生用の畑があり、そこにたくさんの桜などの苗木を囲ってある。
彼の朝一番の日課は、起きたら畑に出て庭木の機嫌を伺い、弱っている木には小便をかけておくのだという。
一種のショック療法というか、栄養補給だと彼は言う。
豪放磊落に見えて「下戸」であり、甘いものに目がないという。
この本にも書かれているが、イサム・ノグチと一緒に海外で日本庭園を作ったりした。
本願寺の庭園を引き受けたりしているが、これらも仁和寺とのゆかりからの延長だという。
商売がら庭木を囲っておく広い畑が必要だが、都市化の波で自分が死んだら相続税でガッポリ取られ、商売が続けられるかどうか心もとないと書かれている。
京都御苑内に海外の賓客などを迎える迎賓館が建てられ、その庭園も彼が引き受けたが、宮内庁の役人の素人のくせに干渉がひどいと、
「さぁ、休みや休みや」と職人を引き揚げさせたなどのエピソードも彼の口から聴いたことがある。

佐野藤右衛門の本は、読みかけると面白くて、止められない。 ぜひ読んでみてほしい。

安藤

安藤潔は1937年会津若松市生まれ。新潟大学教育学部卒。公立中学、高校の教諭を二十八年。日本随筆家協会会員。
エッセイ、地元の方言にまつわる本など数冊。
この本には
一、「サクラ」とは何か・・・・・・・「サクラ」の語源、漢字「櫻」、「サクラ」の植物学、「サクラ」の品種一覧
二、古代の「桜」・・・・・・・・・・古代の桜と梅と桃と。「左近の桜」
三、「桜」に魅せられて・・・・・・・西行法師と桜、醍醐の花見
四、「桜」の民俗・・・・・・・・鎮花祭。天然記念物になった桜。
五、お江戸の「桜」
六、「さくら」とことば
七、「桜」を象る
八、「サクラ」の名を借りて・・・・・・・・サクランボ。
九、暮らしの中の「さくら」
全国桜名所

漢字「櫻」はいわゆるサクラではなく「ユスラウメ」のことだという。白川静『字統』には「含桃也」として中国の詩文に見える「櫻花」「櫻樹」は全てユスラウメを指す、という。
このように資料を漁って、よく書かれているが総花的な印象を拭えない。
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佐野藤右衛門の本によると、サクラの先祖はヒマラヤサクラ辺りに辿りつくらしい。
それが中国には根付かず、種が鳥に食べられて日本に運ばれて「糞」と一緒に排出され、日本の地に根付いたものかという。

「桜」の木についても、今はソメイヨシノ一色であるのに批判的である。
ソメイヨシノは東京近郊の染井村で生まれた、オオシマザクラとエドヒガンザクラとの自然交配による雑種であり、しかも種の成らない「一代雑種」である。
だから苗は「接ぎ木」で育てられるのみである。今風に言えば「クローン」である。
あらゆる生き物には「寿命」があるから、クローンは「親」の残した寿命の「残り」しか生きられない。
ソメイヨシノは育種されてから、まだ150年しか経っていないが、寿命は短く、弱ってきている。
ただ、この桜は「活着率」が良いので重宝されてソメイヨシノ一色になってしまった、と嘆いている。
古いソメイヨシノの木で残っているのは、日露戦争の戦勝記念というのが一番多い。明治39年(1906年)頃である。
関西で多いのは昭和11年。というのは昭和9年に室戸台風と大水害があって、その復旧の後に植えた。
それから昭和15年(1940年)は紀元二千六百年記念に植えたのが、いま残っている古いソメイヨシノという。
それにサクラは日本軍隊とともに歩んできたので殆どの聯隊のあとにはサクラがある、という。
それでも名を残してゆくのは、やはりヒガンザクラかヤマザクラだという。
ヒガンザクラは枝垂れるから、どちらかというと女性的。ヤマザクラは幹もしっかりしているから男性的。

もっともっと佐野藤右衛門の本などに深入りしたいが、この辺で終わりにしたい。


ある日/ポロリと歯が抜けて/御飯の中におちた・・・桃の花が咲いた/その朝。/ ・・・・・・・・・・天野忠
天野
20101128_1403708桃の花

        桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・天野忠

   ある日
   ポロリと歯が抜けて
   御飯の中におちた。
   御飯の中からつまみ出し
   てのひらに転がしながら
    「長いことつれ添うてもろうて
    御苦労さん・・・・・」
   と頭を下げたら
   フフフ・・・・・と
   横で 古女房が笑った。
   眼尻にいっぱい黒い皺をよせて。

   桃の花が咲いた
   その朝。
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この詩は京都の誇る詩人・天野忠さんの詩である。
この詩は多くの詩集の中から夫婦を詠んだものを集めて『夫婦の肖像』1983年編集工房ノア刊に載るもので、
初出は1974年刊の「天野忠詩集」に収録されていたものである。
天野忠さんは先年亡くなったが、現代詩特有の難解な暗喩を使うこともなく、日常使うような平易な言葉を使って作詩した。
『私有地』という詩集で昭和56年度・第33回「読売文学賞」を受賞された。他の詩集には『掌の上の灰』『讃め歌抄』などがある。

この詩集の「帯」で富士正晴が、次のように書いている。
<詩を完結させる見事さは、そこに一つのアイマイさも、鈍重さも、ごまかしもなく、冴えかえったエスプリとでもいったものがあり、詩人はまことにつつましやかに見えるが、微塵ゆらがぬ賢者のおもむきがあり、しかも老いのユーモアと、いたずらの精神による寛容なサービスも忘れていない。
「夫婦の肖像」とあるのにたがわず、多くの詩に夫婦共演の趣があって、そのおもむきはこれを読む老男、老女のこころをなごませ、一時の解放感、ゆとりのある感動によって、自分が老人であることの滑稽さと同時に安定した気分を抱かせるのにちがいないようだ。>

少し長い引用になったが、天野さんは若い頃は、もう少し肌ざわりの違う詩を書いていたが、
老年になって洒脱な、人を食ったような飄逸な詩世界を表現するようになった。
この詩には、特別に解説を要するようなものは、何も要らない。そのまま、素直に鑑賞したい。
天野さんの詩を選ぶ時も、現代詩というものは、「季節」を詠うものではないので、苦労した。
京都では、医師であって、物書きであった松田道雄氏などとの交友があったようだ。

ここで、『私有地』から短い詩をひとつ紹介しておく。
天野②

         花・・・・・・・・・・・・・・・天野忠

    山桜のふとい枝が一本
    ごろりんと
    道ばたにころがっている。
    土をいっぱい載せたダンプカーのお尻に
    何べんとなくこすられ
    とうとう辛抱しきれずに
    道ばたに倒れてしまったのである。
    それでも春だから
    ぼろぼろの胴体にくっついた
    小枝の花は
    まだチラホラと咲いている。
    風が吹くと
    チラリホラリとこぼれる。

    それが非常に綺麗で困る。
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天野忠はビッグな詩人ではなかったので、本人の写真も記事もなかなか見つからない。この辺で終る。また見つかれば後から追加する。


春暁や人こそ知らね木々の雨・・・・・・・・・・・・・日野草城
1349日野草城句碑 服部緑地
soujou1句碑接写

      春暁や人こそ知らね木々の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城

春の夜明け──人々の深い眠りにしみ入るように春の雨が木々に柔かく降り注ぐ。
音もなく降る雨、黙然と立つ木々。人々の眠りは大気の気配に包まれながら、しかも、それを知らない。
早熟の才を謳われた草城だが、この句も第三高等学校時代の青年期の作。若い瑞々しさがあふれている。
当時から熱心に学んでいたという古典和歌への好みは「人こそ知らね」という古雅な表現にも見られるが、それよりも、こういう古典的な味わいをさらっと利用して、
若々しい心象を一層鮮明に見せているところが才能である。
「木々」は最初は「樹々」だったが、のちに改めた。字の重々しさを避けたのだろう。昭和2年刊『花氷』所載。

以下、草城の句を少し引いておく。

 春の夜のわれをよろこび歩きけり

 研ぎ上げし剃刀にほふ花ぐもり

 丸善を出て暮れにけり春の泥

 春の夜や都踊はよういやさ

 庖丁の含む殺気や桜鯛

 朝すずや肌すべらして脱ぐ寝間着

 翩翻と羅(うすもの)を解く月の前

 くちびるに触れてつぶらやさくらんぼ

 秋の蚊のほのかに見えてなきにけり

 足のうら二つそろへて昼寝かな

 しづけさのきはまれば鳴く法師蝉

 二上山(ふたかみ)は天(そら)の眉かもしぐれけり

 白魚のかぼそきいのちをはりぬる

 山茶花やいくさに破れたる国の

 きさらぎの溲瓶つめたく病みにけり

 かたはらに鹿の来てゐるわらび餅

 片恋やひとこゑもらす夜の蝉

 切干やいのちの限り妻の恩

 われ咳す故に我あり夜半の雪

 生きるとは死なぬことにてつゆけしや

 右眼には見えざる妻を左眼にて

 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

 こほろぎや右の肺葉穴だらけ

三句目の「丸善」は今では無くなったが、京都では昔から洋書の原書を注文しにゆく本屋だった。全国にある。
「われ咳すーーー」の句はデカルトの有名な台詞「コギト・エルゴ・スム」(われ考える故に我あり)のもじりである。
私も、第二歌集『嘉木』でこれを頂いて一首ものにしたことがある。それは

<汗匂ふゆゑにわれ在り>夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ・・・・・・・木村草弥

という歌である。

終わりの方の三句は、右目が見えなかったこと、肺が侵されていたこと、が判る。最晩年の句である。
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彼については何度も書いたがネット上に載る記事を引いておく。

日野草城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日野草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月18日~ 1956年(昭和31年)1月29日)は日本の俳人。本名は日野克修(よしのぶ)。

略歴
東京上野(東京都台東区上野)に生まれる。

京都大学の学生時代に「京大三高俳句会」を結成。1924年(大正13年)京大法科を卒業しサラリーマンとなる。 高浜虚子の『ホトトギス』に学び、21歳で巻頭となり注目を集める。1929年(昭和4年)には28歳で『ホトトギス』同人となる。

1934年(昭和9年)『俳句研究』に新婚初夜を描いた連作の「ミヤコホテル」を発表、俳壇を騒然とさせた。 この「ミヤコホテル」はフィクションだったが、ここからいわゆるミヤコホテル論争が起きた。中村草田男、久保田万太郎が非難し、室生犀星が擁護にまわった。このミヤコホテル論争が後に虚子から『ホトトギス』除籍とされる端緒となった。

1935年(昭和10年)東京の『走馬燈』、大阪の『青嶺』、神戸の『ひよどり』の三誌を統合し、『旗艦』を創刊主宰する。無季俳句を容認し、虚子と袂を分かった。翌1936年(昭和11年)『ホトトギス』同人より除籍となる。

戦後1949年(昭和24年)大阪府池田市に転居し、『青玄』を創刊主宰。

1946年(昭和21年)肺結核を発症。以後の10数年は病床にあった。

評価
モダニズム俳句の嚆矢(こうし)とされる。新興俳句の一翼をになった。「俳句を変えた男」(復本一郎)と高く評価される。

晩年は病床にあって「深沈とした秀句」を残した。「前半(のモダニズム)とは別種の静謐(せいひつ)な句境を開拓するにいたった」(復本一郎『現代俳句大事典』)。

作品
 春暁やひとこそ知らね木々の雨
 松風に誘はれて鳴く一つ
 秋の道日かげに入りて日に出でて
 荒草の今は枯れつつ安らかに
 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

句集
草城句集「花氷」(1927年)
青芝(1932年)
昨日の花(1935年)
轉轍手(1938年)
旦暮(1949年)
即離集
人生の午後(1953年)
銀(1956年)
など

著書
新航路
展望車
微風の旗
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掲出写真は大阪の服部緑地に建つ彼の句碑である。二番目は接写したもの。
ネット上からの転載である。

場所:大阪府豊中市服部緑地の
 広大な公園の円形花壇の北側にある、
 エスメラルダというレストランの裏手
情報提供者:伸さん

春暁やひとこそしらね木々の雨
松風に誘はれて鳴く蝉一つ
秋の道日かげに入りて日に出でて
荒草の今は枯れつつ安らかに
見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

画像のように、春夏秋冬と無季の作品が五句ならんでいます。日野草城は当初は「ホトトギス」の同人で、俳誌「青玄」の主宰者でした。
昭和の初期に自己の初夜を詠った「ミヤコホテル」で、当時の俳壇にセンセーションをおこしました。

句碑の左側の赤い石の文字は「俳句は東洋の真珠である」という草城作の造語です。
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句碑の石の色が三色になっているのはフランス国旗に因むのか。

上のWikipediaの記事の中に書かれている「ミヤコホテル」の一連を引いておく。

「ミヤコホテル」10句
けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
夜半の春なほ処女(をとめ)なる妻と居りぬ
枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
バラ匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻の額(ぬか)に春の曙はやかりき
うららかな朝のトーストはづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま
失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり




海女とても陸こそよけれ桃の花・・・・・・・・・・・・・高浜虚子
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       海女とても陸(くが)こそよけれ桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

この句には─4月8日。志摩外海に海女の作業を見る─の前書きがある。
だから本日4月8日の日付にこだわってアップした。昭和23年の作品である。

海女の素もぐりの作業というのは過酷なもので、体は冷えるし、海女小屋で焚き火をして暖めるなどの休息が必要である。
虚子は、そういう労働を目の前に見て、「海女にもやはり陸がいいのだろうな」という感慨を抱いたのであろう。
この句は昭和23年の作品というと、その頃は、まだ海女の衣装は伝統的な白い木綿の磯着だったろう。
今では画像②のように海女もウエットスーツ着用である。
後日この旅の先導役を務めた橋本鶏二の話によると、「ホトトギス」では多作で鳴る鶏二が舌をまくほど、虚子は句帖を開きづめであり、
さすがの鶏二も、その気迫に圧倒される思いだったという。この年、虚子は75歳であった。

「ホトトギス」というと、短歌における「アララギ」と同様に、俳句界を一世を風靡して、いわば肩で風を切るような威張り方であったようである。
短歌界では先年、「アララギ」が解散して、昔の威勢もどこへやら、という昨今であるが、俳句界でも新興の前衛俳句などが出現して、今や様変わりの様相であるように見える。
一方で、老年者の増加で「俳句でも」という「でも俳人」が増え、それらの人々は概して「ホトトギス」的な写生句を作りがちであるから、「ホトトギス」も暫くは安泰であろうか。
私は、どちらかというと、「ホトトギス」的な写生句は好きではない。
私は現代詩から短詩形に接近したので、「詩」のない作品は評価しない。それは写生、非写生の如何を問わず、である。
以下、虚子の作品を少し引いて終わりにしたい。

 その中にちいさき神や壺すみれ

 永き日を君あくびでもしてゐるか──古白1周忌──

 子規逝くや十七日の月明に

 三つ食へば葉三片や桜餅

 村の名も法隆寺なり麦を蒔く

 秋空を二つに断てり椎大樹

 大寺を包みてわめく木の芽かな

 葡萄の種吐き出して事を決しけり

 木曽川の今こそ光れ渡り鳥

 蛇逃げて我を見し眼の草に残る

 手をこぼれて土に達するまでの種

 目さむれば貴船の芒生けてありぬ

 たとふれば独楽のはじける如くなり

 水打てば夏蝶そこに生れけり

 虹消えて忽ち君の無き如し──三国の愛子に──

 蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな

 独り句の推敲をして遅き日を


阿部嘉昭詩集『みんなを、屋根に。』・・・・・・・・・・・・木村草弥
阿部

──新・読書ノート──

     阿部嘉昭詩集『みんなを、屋根に。』・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・オン・デマンド思潮社2012/11/30刊・・・・・・・・・・

この本は、いま流行りの「オン・デマンド」という形式の出版の形をとっている。
Produced by Amazon と印刷してあり、本の流通も、一切アマゾン扱いのみとなっている。
そんな関心もあってアマゾンから買ってみた。 図版に見られるように軽装版のもので、値段も1575円と安い。
この詩集には全部で42篇の作品が載っている。

この本に載る詩ではないが、彼のブログに載る詩を引いておく。 まだ本の形にはなっていないものだから、推敲されて変わる可能性はある。

     酒場を素描する・・・・・・・・・阿部嘉昭 
 
   ふたつであることはそびえている
   たちがれの樹のならぶ位置にそうおもう

   ふいにとけだしていってわらい
   おのれからわきでるものを真似てゆく

   植物や事故のおんとろぎーだ、まるで
   いま起きることがそのまま起こりになって

   ひえている寓意に水をめぐらせる同意
   ならばあらわれているかたちが二度ある

   ひとつひとつをおぼえたい毛も睫毛しかない
   そんなものでかこわれている古代のひとみ

   やがてさかずきをめぐらす腕によって
   たがいの距離にうつくしい窓ができてゆく

   「理念はモナドである」「モナドに窓はない」
   きみの単一を、分割不能をそれでも束にして

   根雪の下をあらわしてくるわらたばだけ
   いまからの不吉をのべる繋辞にすれば

   わらたばでできている脳の、めのうのいろ
   もつれあう一瞥はほんしつをそのようにみる

   ゆううつを愛にまぜすぎるんだ、それでも
   まぜものの酒に予想をはずれたうまさがある

   カップのうすいへりにくちびるをよせて
   からだにくるっている鋏を想像する

   たがいに同期している嚥下のじかんをつうじ
   「われとなれ」が呑み消されてゆくのだ
---------------------------------------------------------------------------
阿部嘉昭というのは、← こういう人である。
いまリンクに貼ろうとして気づいたのだが、この人のブログは私と同じFc2に居るのだった。灯台もと暗し、だ。
古本で『精解 サブカルチャー講義』(河出書房新社2001/06/30刊)という本も買ってみたが、とにかく多弁、多才な人である。
もう一つの詩を引いてみよう。

     このもの・・・・・・・・・・阿部嘉昭 
 
   両掌につつんだしずかなこのものを
   あるいは珠とよぶべきなのかもしれないが

   それはてのひらふかく隠されることで
   みえぬ内部にうまれる鼓動をひからせる

   うつろう時がしずくするましたで
   この身の場所が照ってはかげるうち

   このものの予感もりんごや梨になって
   あることがへんげとつうじてゆく

   だがそれはこのものを内に剰らせて
   わたしの一環が欠けることにすぎない

   およそそうした漆喰のはげおちに
   わたしの家は内側をかすかにしてゆき

   なにかかだれかを掌につつんでいる
   じぶんのねむたい二重だけをかんじる

   こんな、うすおもさがいわば発情して
   わたしからころもがひるがえるのだ

   つつむ両掌だけが場の核をなしながら
   わたしは目先のカーテンとおなじになり

   卓にむすぶ掌にとってからだがうしろと
   じぶんの後退をさらに陣形にする

   おわりからひとをおかせないから
   うしろからおかす種になっていたのに

   わたしは掌のなかの外に貶められ
   うつりのなかで珠のいまもしらない

   外側にあるすべてが球になろうとして
   わたしは山脈のうまれるとおくのように

   ただにひきつれなおも曲がりだそうとし
   もはや掌中のくずれ柿をけすしかない

   もったことのつめたい掟なのだろうか
   はなからこれもひらいた門だったらしい
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何度も言うが、ブログに載せられた習作であるから、削除されるかも知れないし、推敲されることもあろう。ご了承を願いたい。
このように、今の「現代詩」というものは、意味を辿ろうとすると難解である
まぁ、極端に言えば、詩人のひとりよがりである。
ぽつんと置かれた「オブジェ」のように、それらの作品が在るのである。意味を求めようとしてはならない。「無」意味、である。

この詩集に載る詩を、そっちのけにして、他の詩を引いたりしたが、この詩集に載る作品は短いものもあるが、題名になった詩は8ページにわたる長いものだ。
スキャナで取り込むには、文字化けの修正など、すごい手間がかかるので尻込みしているわけである。
この題名をパッと見て、とっさに私は一昨年の大津波を描写した詩かと思った。しかし、この作品は、2009年8月に詩誌「ユリイカ」に発表されているから、
大津波とは関係がないが、今の時期に出された詩集の題として、ぴったりだと、私は思う。

ここで、もう一つの詩を引いておく。

     筒・・・・・・・・・・阿部嘉昭 
 
   わたしがなんの同時性かは
   わたしにとどこおるしかない

   みつめるいまがおなじ情をもつよりも
   おなじあかりにあるほうがこころはおどり

   その光源が星だとすればわたしらの顔は
   それじたいひかるようにもおもえる

   気に入った夜の、気に入ったぬれ場だ
   もつれる形象のうつりをコマおくりにして

   すべてをおぼえようとすればするほど
   はだかは星のひかりとなりうすれてゆく

   ひとのからだが充実というのはいつわりで
   そこには幾何学的な筒がつながっているだけ


   筒のなかをひかりの粒がゆききして
   ここに裂けているのも愛恋なのだろうか

   はやさをかえて音がきえた日からは
   同時性のファンファーレが聴こえてくる

   ふたりである対がすでに林立をなして
   まだらする疎だけがまなざされてもいる

   こうしたことはひとみの悲劇というにあまり
   かててくわえ振り子のように首がふられる

   微分されたものはなにか死んでいる
   あらわれる自動がけずられているのだ

   眼はつむるのではなくつむらされる
   かたむいているちからが髪のまざりで

   うつり絵のなかをかなしむ滞留は
   そうであるかぎり回帰をなすだろう

   ふたつの岸が同時にあることの川を
   からだめいたなにかの筒とうけとれば

   みずからをたえず追いつづける水は
   とがったうごきだから序にもとどまらない

   なびきをうけるわたしがなんの本章かも
   わたしだけの同時性がくりのべてゆく

   すながひかりの底にたまっているのか
   それがまきあがる筒のただなかで

   もはやわたしはおとといだ
   きのうのくるのを、待つ
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ネット上では、この詩集を批評した谷内修三の2012/12/13付けの文章が読めるので参照されたい。

もうひとつ「瀬崎祐の本棚」というサイトに短いが的確な評がある。見てもらいたい。

いま著名な現代詩人というと多くが大学教授だったりする。
つまり、詩人というのは「頭でっかち」なのだ。 観念を頭の中で、こねくりまわし、それを言語化する。「非日常」である。
言葉を代えれば「言葉遊び」であり、「生活感」からは遊離している。現代詩などというものは、えてして、そういうものである。
現代詩と言っても、さまざまであり、何でもあり、だから別に気にやむ必要はないのである。
だから私の書いているようなものも、詩だと名乗るのも許されようか。

私は今、この本を手にとってみて「オン・デマンド本」というものに極めて興味をいだいた。
次の詩集は、この方式で出してみようか、と強く思ったりしている。何事も、「時代」である。
今日は、この辺で。
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ついでで申し訳ないが、新しい表現形式として、「epub」というのがあり、↓ YouTubeを使った見本。坂多瑩子と言う詩人の作品の朗読。







妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
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 ↑ 句集「長子」と「萬緑」
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↑ 愛知県碧南市にある佐藤忠良の作品

      妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男

この句は第二句集『火の鳥』(昭和14年刊)に載るもので、まだ作者が若い頃の作品だが、一種の「鬼気迫る」雰囲気の句であり、
私は、この句に出会ってから忘れ得ない作品である。
出張か何かで、しばらく家を空けていたのであろうか、初句に「妻抱かな」という強烈な欲情の表出があって、中7が「春昼」である。
春の昼日中に妻を抱きたい、という直情的な表現には驚かされる。
「砂利踏みて」という表現が、また秀逸である。砂利というのは、ご存じの通り、ざくざくという音を発する。
妻抱かな、という欲情が、砂利のざくざくという音によって一種の「後ろめたさ」みたいなものを感じさせて文字通り「鬼気迫る」感じを読者に与えるのである。

この句には、後日談がある。
この句に触発された加藤楸邨が、私なら、こう作ると改作したのが、<妻抱かな春昼の闇飛びて帰る>という句である。
この句は、さすがに楸邨も気がとがめたのか、自選句などの中には入っていない。
私は、この改作を「寒雷」の誌上で20歳になるかならない頃に読んで記憶しているのである。
その頃、私は楸邨が好きだったので、楸邨の改作句の方が、より鬼気迫るものがある、と思い込んでいたが、今では草田男の原句の方も悪くない、と思うようになった。
楸邨は、欲情を抱いて「妻抱かな」と帰ってゆくのだから、その「春昼」を「闇」として把握して改作した訳であり、それはそれで見事な「鬼気」の表現だと思う。

ここらで中村草田男の句を抜き出してみたい。

 ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道

 田を植ゑるしづかな音へ出でにけり

 玫瑰や今も沖には未来あり

 蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ

 降る雪や明治は遠くなりにけり

 吾妻かの三日月ほどの吾子胎(やど)すか

 燭の灯を煙草火としつチエホフ忌

 万緑の中や吾子の歯生え初むる

 虹に謝す妻よりほかに女知らず

 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る

 勇気こそ地の塩なれや梅真白

 父母未生以前とは祖国寒満月

 伸びる肉ちぢまる肉や稼ぐ裸

 葡萄食ふ一語一語の如くにて

 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねいやい」

 生れて十日生命が赤し風がまぶし

 雪中梅一切忘じ一切見ゆ

 子のための又夫(つま)のための乳房すずし

 菜の花個日和母居しことが母の恩

 雲かけて萌えよと巨人歩み去る──高浜虚子告別──

 勿忘草日本の恋は黙つて死ぬ

 山紅葉女声(めごゑ)は鎌の光るごと

 芸は永久(とは)に罪深きもの蟻地獄

「万緑」という季語は草田男が中国の古詩からヒントを得て創作したものとして有名だが、虚子は、それを死ぬまで認めなかった、と言われているのも、両者の確執として有名な話である。
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 ↑ 有名な「降る雪や明治は遠くなりにけり」句碑

彼については何度も書いたが、簡単な略歴を引いておく。

中村草田男年譜

明治34(1901)年7月24日
 父の任地清国(現中国)福建省厦門の日本領事館で生まれる。 本籍は松山市二番町。本名は清一郎。
明治37(1904)年 母と帰国し、伊予郡松前町に住む。
明治39(1906)年 松山市に転居。
大正3(1914)年 松山中学校(現松山東高等学校)に入学し、伊丹万作らの同人誌に加わる。
大正10(1921)年 松山中学校卒業。松山高等学校(現愛媛大学)入試に失敗。
 西欧文学を読みふける。
大正14(1925)年 東京帝国大学文学部独逸文学科(現東京大学)に入学し、後に国文科に移る。
昭和4(1929)年 高浜虚子を訪ね師事し、『ホトトギス』と『東大俳句』に入会。
昭和8(1933)年 東京帝国大学国文科を卒業し、成蹊学園に就職。
昭和10(1936)年 第一句集『長子』、沙羅書店。
昭和14(1939)年 句集『火の鳥』、龍星閤、553句収録。石田波郷・篠原梵・加藤楸邨らと座談会に参加し、一時人間探求派とよばれるようになる。
昭和21(1946)年 句集『萬緑』1941年、甲鳥書林。
昭和21(1946)年 月刊俳誌『萬緑』創刊。
昭和22(1947)年 『来し方行方』、自文堂。
昭和28(1953)年 句集『銀河依然』、みすず書房。8月、亡母の納骨のため帰郷。
昭和31(1959)年 『母郷行』、みすず書房。
昭和34(1959)年 石田波郷・星野立子とともに「朝日俳壇」選者となる。
昭和35(1960)年 現代俳句協会幹事長となる。
昭和36(1961)年 現代俳句協会幹事長をやめ、俳人協会を創立、会長となる。
昭和42(1967)年 『美田』、みすず書房。
昭和45(1970)年 万国博覧会のタイムカプセル収納品に句集『長子』が選ばれる。
昭和55(1980)年 『時機』1980年、みすず書房。
昭和58(1983)年 8月5日 82歳で永眠。
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掲出した佐藤忠良の像は、この句とは関係がないが、「抱く」ということからの連想で出しておく。




白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ・・・・・・・・・・・・・・・・若山牧水
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      白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青
         海のあをにも染まずただよふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・若山牧水


明治41年、早稲田大学英文科卒業の年に自費出版した第一歌集『海の声』に入っている有名な歌である。
「白鳥」はここではカモメのこと。空や海の青に鳥の白を対比させて、広大な自然の中に生きる海鳥の、また作者自身の孤愁を詠っている。
「空の青海のあを」という繰り返しが、表現の流れの中で、見事に生かされて感情を流露させている。
この歌は明治40年雑誌『新声』12月号に発表されたもので、牧水21歳の作。
しかし、残念ながら、詠まれた場所は、どこか判らない。
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 ↑ 長岡半太郎・若山牧水記念館

大正4年3月から翌年12月まで貴志子夫人の病気療養を兼ねて若山牧水も居住したことを記念し、房総半島を望む神奈川県横須賀市長沢の海岸に昭和28年に、
「長岡半太郎記念館・若山牧水資料館」が建てられた。
ここはわが国の物理学の草分け・長岡半太郎博士が長年学問研究や憩いの場としていた別邸を復元した建物で博士の遺品・資料と共に、
近くに住み博士とも親交のあった詩人 若山牧水氏の関連資料などを展示している。

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 ↑ 牧水・貴志子歌碑
記念館の近くにある歌碑は、表は牧水、裏は貴志子夫人の歌が長男旅人氏の筆で刻まれている。

   表<海越えて 鋸山は かすめども 此処の長浜 浪立ちやまず>
   裏<うちけぶり 鋸山も 浮び来と 今日のみちしほ ふくらみ寄する>
       (「鋸山」=対岸にある房総の山の名)

この歌碑のすぐ傍に、こちらは有志者の寄付により建立された
   <しら鳥は かなしからずや そらの青 海のあをにも そまずただよふ>の歌碑が立っている。
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若山牧水は短歌結社「創作」を主宰するが、「旅の人、酒好きの人」として有名である。
各地を旅行し、酒のもてなしに預かると、酒の勢いもあって、書画を多く残している。

 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

という歌は人口に膾炙した有名な歌である。
以下、少し牧水の歌を抜粋して終わることにする。

 われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ

 ああ接吻(くちづけ)海そのままに日は行かず鳥翔(ま)ひながら死(う)せ果てよいま

 君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ

 けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く

 幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな

 とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒白鶴瓶(へい)あふれ出る

 朝地震(なゐ)す空はかすかに嵐して一山白きやまさくらばな

 山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく

 この手紙赤き切手をはるさへにこころときめく哀しきゆふべ

 たぽたぽと樽に満ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る

 摘草のにほひ残れるゆびさきをあらひて居れば野に月の出づ

 かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ

 さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四辺(あたり)は洞(ほらあな)のやうに暗い

 酒やめてかはりになにかたのしめといふ医者がつらに鼻あぐらかけり

 ウヰスキイに煮湯そぞげば匂ひ立つ白けて寒き朝の灯かげに

 酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を

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ところどころに、医師から酒を慎むように言われる歌や、酒飲みのいじましい心境の歌なども出てくる。結局は酒で命を縮めたのであろうか。昭和3年没。44歳であった。
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ネット上に載る記事を転載しておく。

若山牧水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

若山 牧水(わかやま ぼくすい、 明治18年(1885年)8月24日~ 昭和3年(1928年)9月17日)は、日本の歌人。本名・繁(しげる)。

略歴
宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。
明治32年(1899年)宮崎県立延岡中学(現・宮崎県立延岡高等学校)に入学。短歌と俳句を始める。 18歳のとき、号を牧水とする。

明治37年(1904年)早稲田大学文学科に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし「早稲田の三水」と呼ばれる。 明治41年(1908年)早大英文学科卒業。7月に処女歌集『海の声』出版。翌、明治42年(1909年)中央新聞社に入社。5ヶ月後に退社。

明治44年(1911年)創作社を興し詩歌雑誌「創作」を主宰。この年、歌人・太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合う。明治45年(1912年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、喜志子と結婚。大正2年(1913年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうける。

大正9年(1920年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住。大正15年(1926年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち計画を断念させる。昭和2年(1927年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に出発し、約2ヶ月間にわたって珍島や金剛山などを巡るが体調を崩し帰国。翌年夏頃より病臥に伏し自宅で死去。享年43。沼津の千本山乗運寺に埋葬される。

牧水の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれた。

旅を愛し旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に彼の歌碑がある。大の酒好きで一日一升程度の酒を呑んでいたといい、死因の大きな要因となったのは肝硬変である。自然を愛し特に終焉の地となった沼津では千本松原や富士山を愛し、千本松原保存運動を起こしたり富士の歌を多く残すなど、自然主義文学としての短歌を推進した。

また、情熱的な恋をしたことでも知られており喜志子と知り合う前の園田小枝子との熱愛は有名なエピソードである。出身地・宮崎県では牧水の功績を称え、平成8年(1996年)より毎年、短歌文学の分野で傑出した功績を挙げた者に対し「若山牧水賞」を授与している。

牧水は埼玉県秩父地方を数度訪れて歌と紀行文を残している。秩父市の羊山公園には「牧水の滝」と名づけられた滝があり、そこには

「秩父町出はづれ来れば機をりのうたごゑつゞく古りし家竝に」

という秩父の春を歌った碑がある。

歌集
海の声
独り歌へる
別離
路上
死か芸術か
みなかみ
山桜の歌
など

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