K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(5月)月次掲示板
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一昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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 ↑ 伸びはじめた茶の新芽──宇治・堀井七茗園

新緑の五月になりました。
新人は五月病にならないようにストレスに気をつけましょう。 旧人はのんびりと。

手に摘みしやはらかき葉よ軒先に新茶一服いただいてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・・内藤明
震災に戦災に潰えしさまも見き今目の前にきらめく浅草・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清水房雄
歌はわが戦死の父への言問歌にらいかないよ彼方の根の底国・・・・・・・・・・・・・・田村広志
人の世の地獄を見つつ咲けるなり桃花は桃花地獄生きつつ・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤一彦
樹々はまた萌えるというに君も君もそこにはいない写真の家族・・・・・・・・・・・・・・・佐伯裕子
石段をのぼりて来ればたんぽぽの原に居眠る小さき観音・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安田純生
行く春のひかりとなりて 柿稚葉。標なき終焉へ 皆、ひた向かふ・・・・・・・・・・・・・・成瀬有
枝と枝をからませながら揺れてゐる楡の木にある 春がまた来る・・・・・・・・・・・・・時田則雄
草は時に凶暴なほど繁り出す人のいとなみのあつた土にも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・林和清
やはらかに時は地球を回しつつ草木を育て我を老いしむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高野公彦
水の上五月の若きいなびかり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大野林火
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
少年の素足吸ひつく五月の巌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
おそるべき君等の乳房夏来る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西東三鬼
酔うてしまうには美しい五月の夜・・・・・・・・・・・・・・・・・有馬

佐伯祐三のたましひの絵と五月は遇ふ・・・・・・・・・・・・・ 高島茂
うつむけば人妻も夏めけるもの・・・・・・・・・・・・・・・・ 長谷川春草
春は曙血圧計をしかと見る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高島征夫
ふたりしてかゆいところがわからない・・・・・・・・・・・・・・・一戸涼子
深海をめぐるおまけがつくという・・・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井

とりあえずダミーを送る検査室・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浪越靖政
領海に十三億の胃袋が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西久保隆三
無視されて左まわりをしてみせる・・・・・・・・・・・・・・・・・・大西将文
他人様の更地を踏んで海を見に・・・・・・・・・・・・・・・・・・山川舞句
人はようやく育ちはじめる死んでから・・・・・・・・・・・・・・佐藤みさ子
葦の角ざわざわと独りがくるぞ・・・・・・・・・・・・・・・・・・中西ひろ美
老人と飴老人と春の旅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・斉田仁
春の丘男の影が折れている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安西篤
陽炎を結びに行った野武士なり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田柊馬
あやとりを終わり余った手が二本・・・・・・・・・・・・・・・・・・草地豊子
草を食む一方的な真昼あり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・畑美樹
役立ったままで止まっている時計・・・・・・・・・・・・・・・・・・筒井祥文
冬蠅を逐う手よ核に逐われし手・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村晋
喪のあとのポケットに眠る海岸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・斉木ギニ
春愁をいだくすべなきトルソかな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡辺竜樹
水温む壁に山下清の絵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・涼野海音
リラの雨監視カメラの前でキス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渕上信子
水温むふと口笛が吹けさうと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前北かおる
遠足をしてゐて道を踏み迷ひ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第五歌集『昭 和』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
一般書店からの取り寄せは、角川書店の配本部門・角川グループパブリッシング発売、と指定されたい。
ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する ★ ──登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


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 日本国憲法九条
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堀井令以知『言語文化の深層をたずねて』・・・・・・・・・・・木村草弥
堀井

──新・読書ノート──

     堀井令以知『言語文化の深層をたずねて』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・ミネルヴァ書房2013/05/30刊・・・・・・・・

先に「エッセイ」として堀井令以知の死去にまつわるエピソードなどを載せたが、彼の「自伝」の本が出た。
発売日は05/17だったが、本日付けで記事を載せておく。先のエッセイと一緒に読んでもらいたい。
さっそくアマゾンから取り寄せたのが、画像に出した本である。
このシリーズの本としては昨年に日本史学者・上田正昭の本を買って読んだことがある。 
堀井令以知の本は、もっと分厚くて詳細な索引も付く学術的な体裁である。

この本に入る前に、ネット上で「京都流・古都技」というサイトに堀井令以知のインタヴュー記事が三回にわけて載っていたので紹介する。
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2007年1月17日水曜日

≪特別編≫関西外国語大学 堀井令以知教授 <前編>
今月の京師は≪特別編≫でお送りします。
特別編第二回目は『関西外国語大学 堀井令以知教授』です。

幼い頃から言語学者を目指し、現在フランス語と京ことばと共に教壇に55年立っておられる堀井先生に身近に使われている“京ことば”の意外に知られていない裏話をじっくりと三話に分けて掲載いたします。お楽しみ下さい。
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教壇に立って55年
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―― 京都出身とお伺いしたのですが、幼い頃はどのようなお子さんだったのでしょうか。
“言語”には興味がおありでしたか?

私は大学の教壇に立って55年になります。非常勤なども含め、全部で11大学で教えてきました。
1925年生まれで、中学校1年生の時の志望欄に夢は『言語学者』と書きました。幼い頃から『言葉』には興味がありましたし、関心を持っておりました。

子どもの頃も今と変わりません。終始そんなに目立つところもなければ、それほど引っ込むこともなく、普通の子でした(笑)。

私の住んでいた京都の家は、今ではもう建築150年経っております。古い家ですが、今でもまだ残っており、親戚の者が守ってくれています。

うなぎの寝床、間口が狭い割には奥行きがある家、いわゆる町家で暮らしていたので、当然京都の伝統ともふれあい、京都御所によく散歩に行きました。

現在、私は関西外国語大学で言語学とフランス語も教えています。戦前、私の家が『欧文の印刷屋』をやっていたことと関係があります。
東一条に関西日仏学館があるのですが、初代の学館長ルイ・マルシャン氏は印刷の用事で自宅に来られました。テキストを作ったり、学館の仕事を請けていたのです。
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言語学者
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―― どうして言語学者になろうと思われたのですか?

中学生の頃、私が言語学者になろうと思っていたのには、新村出先生という広辞苑の著者でもある先生の影響があります。

広辞苑はその当時はまだ前の辞苑の段階でした。印刷屋の父は、その辞典に非常に敬意をはらっており、父も私を言語学者にするつもりだったようです。

そんな中、私が旧制中学4年の時に太平洋戦争が始まりました。印刷屋の仕事も、欧文の仕事が出来なくなり、日本語の印刷に切り替えたのです。

そして私も軍隊へ行きました。昭和20年の6月18日まで広島の部隊でした。
原爆投下前、運よく京都の部隊へ転属になり、私は京都で「忍び難きを忍び」という終戦の詔書を聞きました。

それから、大阪外大の前身、大阪外専に復学しました。そして、言語学を勉強するために京大に行き、そこで勉強をして今日に至っているのです。
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ふるさとの言葉
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―― どのような経緯で言語を研究されるようになったのですか

大学で始めはヨーロッパ系の言語に関心を持っていました。
しかし、1950年(昭和25年)に、当時の言語学会、社会学会、民俗学会など8つの学会が連合しまして、第1回長崎県対馬の総合調査を行ったとき、『言語学会』から、一番若かったのですが、私がメンバーに加えてもらい調査に行き、全島をまわり方言を調べました。

今も元気ですが、その当時はもっと元気でしたので、上島から下島までのほとんどを周ったことが、日本語を研究しなければと思ったきっかけなのです。

私の知っている方言と言うと、何といっても、『京ことば』です。当時は京ことばの字引が一つもありませんでした。

他の地域の方言集は出版されていたのですが、肝心の京都が空白地帯だったのです。それは、研究の上で不思議なことでした。
地元のこともわからないなんて、と思い、それから少しずつ調査を始めたことが、京ことばを研究するようになったきっかけなのです。

まず考えたのは、小さい頃から、一番近くて、よく散歩をしていた御所のこともわからない、ということでした。

そこで、御所の中では、どのような言葉が話されていたか、と疑問に思ったのです。そして京都の御所のことを調べだしました。

≪特別編≫関西外国語大学 堀井令以知教授 <中編>
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京ことば
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―― 京ことばの地域の範囲はどこからどこまでなのですか?

「上がる」「下がる」

「上がる」「下がる」という地域ですね。
東入(イル)、西入という所が、おおよそ京ことばの範囲だと思ってください。ほとんど間違いありません。
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いろいろな京ことば
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私は、祇園の舞妓さんがよく使う「京ことば」は3つあると考えています。

「おたのもうします」・「すんまへん」それから、「おおきに」この3つが一番よく使われるのです。
フランスのパリで生活していても、この3つに当たることばをよく使います。おたのもうします「シルブプレ」、すんまへん「パルドン」、おおきに「メルシー」。
京都では、その3つの言葉を祇園の花街でよく使っています。おもしろいでしょ?

室町の問屋街でも使われている、いわゆる商人の言葉。ちょっと独特なのですが、これがおおよそ京ことばの典型的な町家のことばです。

もう1つは西陣のことばです。織屋さんのことば。室町ことばと共通性はありますが、ちょっとまた違います。

京都には伝統産業というのが50種類程あります。扇屋さんは扇屋さんの。そこで使われている職人ことばは他の人ではわからないような言葉です。
他には、友禅染、清水焼、竹細工、京漆器、和菓子屋、京料理などの職人ことばがあります。だから、一概に京ことばと言っても、総合的に見なければならないのです。
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はんなり
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『京都の雅びなことば』の代表のひとつは「はんなり」という言葉。元々「はんなり」というのはどういう気持ちを表すかというと、色彩について言うことが多いのです。
だから「まぁ、奥さん、ええ帯しめといやすなぁ。はんなりしたええ帯どすなぁ」と使います。

『明るい、上品、雅び、すきっとしている』という意味をかね合わせたのが「はんなり」です。
部屋がスキッと綺麗になっていることも「あぁこの部屋ははんなりしてますな」と使います。

まったり「まったりする」というのも使われ方が変わってきているんですよね。
元々は“料理用語”だったのです。またい(全)の語幹に接尾語「り」を付け、「まったり」と言ったのが起源なのですが、料理用語での使われ方は「梅酒も、数年つけますと、まったりした味やな」というふうに使うのです。とろっとしてコクがある、穏やかな味のことです。

京都は正月の雑煮は白味噌ですね。白いお味噌、御所ことばではしろのおむしと言います。しろのおむしでね、とろけるようなとろっとした味が出てくるでしょ。
そういうときの味加減のことを、「まったり」と言うのです。

ところが、その意味を若者が変えだしたんです。日曜なんかに「明日家でまったりしよう」と、そういう風に使うようになったのです。

だから、たぶん料理用語が全国区の地位を占めてきて、料理用語として、テレビなんかで放映されたんですね。
それを原宿か新宿か、あの辺の若者たちが使い出して、逆輸入されてきてしまったのです。それでこの辺にも広がってのんびりする意味になりました。
だからその意味は広辞苑には載っていません。そういう風に若者の使うことばが変遷している。
さまざまな京ことばが、若者ことばの意味に代わりつつある。急にここ数年の現象なのです。

≪特別編≫関西外国語大学 堀井令以知教授 <後編>
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言葉は常に『揺れている』
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―― 言語は変わっていきますが、言語が乱れているのをどうお考えですか?

意外とどんな言語も乱れているのです。だから私は「乱れている」という言葉は使いません。「揺れている」といっているのです。
日本語が生きている限り、動いている、揺れているのです。

そんな今の時代に、奈良時代の人が来ても平安朝時代の人が来ても何を言っているのかわからないはずです。

例えば、「つらら」と言う語がありますよね。「つらら」と言ったら、平安時代には氷のことだったのです。
当時は「つらら」のことを「たるひ」と言っていました。氷が垂れるから「たるひ」なのです。

現在でもそれは東北地方に残っていて、そこでは「たるひ」とか「たろひ」と言われています。平安時代の使い方が各地に残っていて、面白い現象ですね。

では、何故「つらら」と言うかというと、元来氷はつるつるしているから「つらら」というのです。

英語にも意味が大きく変わる語がありますよ。「ナイス」というのも、今ではいい意味で使っていますが、元々は「ばかな」という意味でした。
このように、どの言語も揺れているのです。
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「たこ」と「いか」
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普通に言うとお正月にあげるのは「たこ」ですよね。ところが、私どもが小さい時は「いか」と言っていました。
「いか」といったらみんな笑うのですが、本来このあたりは「いか地帯」なのです。

江戸時代の文献を見ると、江戸は「たこ」、上方は「いか」と言うと書いてあるのです。江戸と京都を比較して並べて記載されています。

うちの祖母は文久元年生まれなのですが、「いか」と言っていました。私の小さい時は「いか」と「たこ」どちらも知っていましたね。

何故「たこ」になってしまったかというと、『お正月』の歌が原因だと思います。
「もういくつ寝るとお正月、お正月にはたこあげて」と歌いますよね。「いかあげて」とは言わないでしょ。(笑)

京都学研都市付近を調べると「いーか」と言ったり、洛北でも、「いかのぼり」とか「いかのぼし」と言います。どうやら京都市を跨いだ南北には残っているようです。
まだ他の名称もあるのです。面白いでしょ、京都では「いか」というと逆に笑われてしまいますね。

こんなことを話し出したら、何時間あっても足らへんよ(笑)
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『おおきに』
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―― 変わってくるのが当たり前でこれは残さなあかんって言う言葉はありますか?

全国広しと言えども、京都で使われる言葉だけは京都弁・京都方言ではなく、「京都語」や「京ことば」と言い、私の著作の中でも「京ことば」・「京都語」と書きます。
それほど京都というのはプライドが高いということなのです。

京都の人が一番残したい言葉のトップは何だと思いますか?大阪の人と偶然にも一致したのです。

―― 「おおきに」ですか?

そうやね。「おおきに」がトップなのです。この頃、若い人は使わないようになっています。「ありがとう」と言うようになっていますね。

『おおきに』は江戸時代後期の後半から使い出されはじめました。
元は「おおきに」は「はなはだ・大いに」ということだったので「おおきに、お世話さん」とか、他のことばに付けられていました。
ありがとうだけでは物足りなくなって「おおきに」を付け出し、「おおきにありがとう」といった。それでは長いので省略して、「おおきに」が残ったのです。
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『ほっこり』
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『ほっこり」は本来疲れて帰ってきた時に、「やっと会議が済んでほっこりしたわ」と疲れを休める時に使います。

昔はそういう時も使ったのですが、今は使わなくなりました。今の人は「あそこの喫茶店へいってほっこりしよう」という意味で使っています。
このように、時代によって意味が変わった京ことばがいろいろあるのです。

―― 今の学生さんと先生が学生さんだったころとどう教育は変わっていますか?

それは違いますね。「先生かわいいね」と言われることがあります(笑)。でも、『かわいい』というのが始めは理解できなかったのです。
何故かわいいと言われているのか、もう言葉の感覚が違っているのです。私は常に学生と喋っていても、言葉の動態をキャッチしています。  ―終わり―
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なぜ、このようなインタヴュー記事を長々のせたかというと、本書にも同様のことが書かれていて重複するからである。
先の「エッセイ」に引いた記事にも書かれていたが、彼・堀井令以知は、この本の校正「初校」を済ませて亡くなったという。
だから、この本のはじめに書房の編集部からの「添書き」が載せられている。 
普通、校正というのは二校、三校あたりまで行うのだが、著者が亡くなったので、あとは書房の編集部が責任をもって校正したということである。

46堀井令以知
 ↑ 晩年の堀井令以知

この本の「はしがき」をスキャナで引いておく。 (文字化けがあれば指摘されたい。直します)

     はしがき
本書は私が言語学者として、幼少のころから、どのようにことばについて関心を抱き、ことばを学
習し、研究してきたかを自伝としてまとめたものである。
老齢になった私は、今では語彙論の分野で、京ことばの研究、特に御所ことばの研究において上げ
た業績によって一般に知られている。また、言語学の視点から本格的な語源研究を行い、ことばの由
来を解明するなど、日本語の研究を促進していることによっても、多くの人から評価を得ている。
ヨー口ツバの諸言語について若いころから関心があったことも、本書によつて理解していただけるで
あろう。
今までのささやかな業績は次の三分野に大別される。
第一に、京ことばについて『京都のことば』『京都府ことば辞典』『京都語を学ぶ人のために』『お
公家さんの日本語』など多くの著書・論文を執筆した。特に御所ことばは、明治維新まで京都御所で
使用され、日本語の研究に重要な位置を占めるにもかかわらず、従来、理解する人は少なかった。皇
室の御所ことば使用が減少している現今、御所ことばの研究は貴重であろうとおもう。
第二に、私は語源研究についても多くの書物を残している。『日本語の由来』のような啓蒙書をは
じめ、本格的な『語源大辞典』を作成し、『日常語の意味変化辞典』 『上方ことば語源辞典』を著し、
『決まり文句語源辞典』 『外来語語源辞典』を刊行した。
語彙論の分野において、多くの人々に日本語への関心を喚起するのに役立つように努力したつもり
である。
第三に、私は若いころから、フランス語の意味論を研究し、フランス文化の発展に尽した功績によ
り、昭和四九年(一九七四)にはフランス政府からパルム•アカデミック勲章、昭和五一年には功労
国家勲章を受けた。その成果の一郤も本書に収めることにした。
私の言語学研究の態度は、言語と人間・社会•文化を結ぶ絆を大切にする方針に基づいている。著
者独自の言語一般理論の探究は今も続けている。
深く広い視点から言語研究を促進し、『一般言語学と日本言語学』 『ことばの不思議』『比較言語学
を学ぶ人のために』などの著書にみられるように、ョ—ロッパ諸言語についても言及し、日本語と諸
言語との意味の対照比較研究も行ってきた。
NHKの大河ドラマやスペシャルドラマでは多くのシーンで言語指導を行い、かっては「クイズ日
本人の質問」に出演して、ことばのルーツを解説し,民改にもことばの問題で出演の機会に恵まれた。
朝日新聞には「ことばの周辺」と題して三年間毎週執筆し、平成二○年度は「折々の京ことば」を京
都新聞に毎日執筆掲載して好評を得た。
自分のたどってきた言語研究の道筋を述べることは、いかに困難な仕事であるかを痛感している。
幸い、幼少のころからの資料を保存しておいたので、忘れられようとする記憶をたどりながら、ここ
に大正・昭和・平成を生きてきた私の、ことばの研究を通じての自叙伝をまとめることができた。失
われた言語生活の時を求めようとする人達の参考にしていただければ幸いである。
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この本は
第一章 少年のことば
第二章 言語学習期
第三章 言語研究を始める
第四章 西ヨーロッパの言語生活
第五章 フランス語と印欧語
第六章 語源をさぐる
第七章 京都語の研究
第八章 言語一般の理論
第九章 方言の研究
第十章 「わたくし」について         という構成になっている。

第二章には、学徒出陣のため繰り上げ卒業となり「豊橋第一陸軍予備士官学校」に入る頃のことが詳しく書かれている。
古い資料が保存されており、その周到さには感心するばかりである。
巻末には「年譜」も載っているが、これを見ると彼・堀井令以知は、私の次兄・木村重信と同年であり、「豊橋第一陸軍予備士官学校」も同期であることが判る。
彼らは「特甲幹」と称する身分で、入校した時点で「伍長」に任官している。戦争で一般兵のみならず、将校も消耗が激しく、即戦力化が急がれたのである。
面識があったかどうかは判らない。私の兄もポツダム少尉である。 機会があれば聞いてみたい。
この豊橋陸軍士官学校の跡地は「愛知大学」になり、後日、彼・令以知が勤務することになるが、その奇縁についても書かれている。
第三章の中に「自由間接話法」というところがあり、私も教えてもらった大阪外語の和田誠三郎先生の名前も出てきて、その和田先生から「自由間接叙法」について教わった記憶が戻った。

「年譜」によると、彼の父は堀井二郎といって明治32年生まれ、とある。私の母は33年(1900年)生まれである。
父親は、伯父さんの経営する京都の弘文社という印刷所に勤めて印刷技術を覚え、昭和11年に独立して「堀井欧文印刷所」を起すことになる。
ここに「伯父」とあるから、父親の兄ということになるが、父親の兄というのも早くから京都に出て、印刷屋を営んでいたことになる。
主な得意先が関西日仏学館だったことなどは先のエッセイに書いた通りである。
結婚は遅く、35歳になってからだと判る。

大部の本であり、詳しく引くことは出来ないが、私も「ことば」に関わることをやっているので、彼の言語学などについての専門的なことも関心があり、面白い。
これからも折々にひもといて読んでみたい。
不完全ながら、今日は、このくらいにする。


万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
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    万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・・・・・・橋本多佳子

       ■雄鹿の前吾もあらあらしき息す

       ■女(め)の鹿は驚きやすし吾のみかは


今日5月29日は橋本多佳子の忌日である。
生まれは東京の本郷。杉田久女に会い、はじめて俳句を作った。のち山口誓子に師事し「天狼」同人だった。昭和38年大阪で没する。64歳だった。
彼女の句は命に触れたものを的確な構成によって詠いあげた、情熱的で抒情性のある豊麗の句境だった。

掲出した句は奈良の鹿に因むものを三つ並べてみた。
上に書いたように「命に触れた」みづみづしい、生命に関する「いじらしい一途さ」に満ちている。
私は彼女の句が好きで、今までに何句引いただろうか。
以下、ネット上の正津勉「恋唄 恋句」から当該記事を引いておく。 
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2橋本多佳子

20. 橋本多佳子

    雪はげし抱かれて息のつまりしこと

橋本多佳子。美女の誉れたかい高貴の未亡人。大輪の花。ゆくところ座はどこもが華やいだという。
 明治三十二年、東京本郷に生まれる。祖父は琴の山田流家元。父は役人。四十四年、菊坂女子美術学校日本画科に入学するも病弱のために中退。
大正三年、琴の「奥許」を受ける。
 六年、十八歳で橋本豊次郎と結婚。豊次郎は大阪船場の商家の次男で若くして渡米し、土木建築学を学んで帰国、財を成した実業家。
ロマンチストで、芸術にも深い造詣があった。結婚記念に大分農場(十万坪)を拓き経営。
九年、小倉市中原(現、北九州市小倉北区)に豊次郎設計の三階建て、和洋折衷の西洋館「櫓山荘」を新築。
山荘は小倉の文化サロンとなり、中央から著名な文化人が多く訪れる。
 十一年、高浜虚子を迎えて俳句会を開催。このとき接待役の多佳子が、暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を拾い、焔に投げ入れた。
それを目にした虚子はすかさず一句を作って示すのだ。「落椿投げて暖炉の火の上に」。この一事で俳句に興味を覚える。
これより同句会に参加していた小倉在住の杉田久女の指導を受けて、やがて「アララギ」他の雑詠に投稿する。
 昭和四年、小倉より大阪帝塚山に移住。終生の師山口誓子に出会い、作句に励む。
私生活では理解ある夫との間に四人の娘に恵まれる。まったく絵に描いたような幸せな暮らしぶり。しかし突然である。

    月光にいのち死にゆくひとと寝る

 十二年九月、病弱で寝込みがちだった豊次郎が急逝。享年五十。「運命は私を結婚に導きました」(「朝日新聞」昭和36・4)。
その愛する夫はもう呼んでも応えぬ。これもまた運命であろうか。多佳子三十八歳。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく。
「忌籠り」と題する一句にある。

    曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ

 日支事変から太平洋戦争へ。十九年、戦火を逃れ奈良の菅原に疎開。美貌の人が空地を拓き、モンペをはき、鍬を振るい畑仕事に精を出す。
 敗戦。二十一年、関西在住の西東三鬼、平畑静塔らと「奈良俳句会」を始める(二十七年まで)。奈良の日吉館に米二合ずつ持ち寄り夜を徹して句作する。
この荒稽古で多佳子は鍛えられる。「何しろ冬は三人が三方から炬燵に足を入れて句作をする。疲れればそのまま睡り、覚めて又作ると云ふ有様である。
夏は三鬼氏も静塔氏も半裸である。……奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまつた」(「日吉館時代」昭和31・9)
 はじけた多佳子は生々しい感情を句作ぶっつけた。

    息あらき雄鹿が立つは切なけれ

 秋、交尾期になると雄鹿は雌を求めもの悲しく啼く。「息あらき雄鹿」とは雌を得るために角を合わせて激しく戦う姿。多佳子はその猛々しさに目見開く。
「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」「寝姿の夫恋ふ鹿か後肢抱き」。雄鹿にことよせて内奥をあらわにする。それがいよいよ艶めいてくるのだ。
 ここに掲げる句をみよ。二十四年、寡婦になって十二年、五十歳のときの作。
降り止まぬ雪を額にして、疼く身体の奥から、夫の激しい腕の力を蘇らせた。亡夫へこの恋情。連作にある。

    雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ

 物狂おしいまでの夫恋。「夫の手のほか知らず死ぬ」。微塵たりも二心はない。そうにちがいない。

だがしかしである。
 ここに多佳子をモデルにした小説がある。松本清張の「花衣」がそれだ。主人公の悠紀女が多佳子。清張は小倉生まれだ。
「自分も幼時からK市に育った人間である。……彼女がその街にいたときの微かな記憶がある。
それはおぼろげだが、美しい記憶である」として書くのだが、いかにも推理作家らしい。
なんとあのドンファン不昂(三鬼)が彼女を口説きひどい肘鉄砲を喰らわされたとか。
それらしい面白おかしいお話があって、ちょっと驚くような記述がみえる。
「……悠紀女は癌を患って病院で死んだ。……その後になって、自分は悠紀女と親しかった人の話を聞いた。彼女には恋人がいたという。
/対手は京都のある大学の助教授だった。年は彼女より下だが、むろん、妻子がある。
……よく聞いてみると、その恋のはじまったあとあたりが、悠紀女の官能的な句が現れたころであった」
 でもってこの助教授が下世話なやからなのだ。それがだけど彼女は別れるに別れられなかったと。そんなこれがぜんぶガセネタ、デッチアゲだけでもなかろう。
とするとこの夫恋の句をどう読んだらいいものやら。ふしぎな味の句も残っている。

    夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

 しかしやはり多佳子はひたすら豊次郎ひとりを一筋恋いつづけた。ここはそのように思っておくことにする。
美しい人は厳しく身を持して美しく老いた。年譜に二十七、三十一、三十三年と「心臓発作」の記録がみえる。

    深裂けの石榴一粒だにこぼれず

 三十五年七月、胆嚢炎を病み入院。年末、退院するも、これが命取りとなる。じつにこの石榴は病巣であって、はたまた命の塊そのもの。

    雪の日の浴身一指一趾愛し

 三十八年二月、入院前日、この句と「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」の二句を短冊にしたためる。
指は手の指、趾は足の指。美しい四肢と美しい容貌を持つ人の最期の句。
 五月、永眠。享年六十四。

楢の木の樹液もとめて這ふ百足 足一本も遊ばさず来る・・・・・・・・・・・木村草弥
    020522mukadeトビズムカデ本命

   楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)
        足一本も遊ばさず来る・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

百足(むかで)というのは噛まれるとひどく痛い害虫で、気持の悪い虫だが、樹木の茂る辺りから梅雨から夏にかけて住宅の中にまで侵入してくるから始末が悪い。
朝起きると枕元に大きなムカデが居て、ギョッとして大騒ぎになることがある。噛まれなかってよかった、ということになる。
以前住んでいた家は雑木林がすぐ近くにあったので夏にはムカデがよく家の中に入って来たものだ。
ムカデは節足動物だが、ムカデ綱に属する種類のうち、ゲジ目を除いた種類の総称で、日本には1300種類も居るという。
写真はトビズムカデという名前の百足である。写真を見て「おぞましい」と思う人は見ないでもらいたい。卒倒されたら困る。

このように気持の悪い虫だが、私の歌にある通り、ナラやクヌギなどの里山には、カブトムシなどと争って木の樹液を求めて出てきたりするのである。
ムカデにも肉食と、樹液などを吸いに来るものと二種類いるそうである。
私の歌は、そういう樹液に群がるムカデを詠んでいる。
ムカデの動きを観察していると、私の歌の通り、あの多くの足をからませることもなく、すすすすと進んで来るのである。だから私は「足一本も遊ばさず来る」と表現してみた。

先に「害虫」だと書いたが、昔から、ものの本によるとムカデは「益虫」だと書いてあるという。
ムカデは百足虫とも、また難しい字で「蜈蚣」とも書いて、いずれもムカデと訓(よ)ませる。

 蜈蚣をも書は益虫となしをれり・・・・・・・・相生垣瓜人

という句にもある通りである。
以下、歳時記に載るムカデの句を引いて終わりたい。

 小百足を打つたる朱(あけ)の枕かな・・・・・・・・日野草城

 硬き声聞ゆ蜈蚣を殺すなり・・・・・・・・相生垣瓜人

 夕刊におさへて殺す百足虫の子・・・・・・・・富安風生

 百足虫出づ海荒るる夜に堪へがたく・・・・・・・・山口誓子

 ひげを剃り百足虫を殺し外出す・・・・・・・・西東三鬼

 殺さんとすれば百足も動顚す・・・・・・・・百合山羽公

 壁走る百足虫殺さむ蝋燭火・・・・・・・・石塚友二

 なにもせぬ百足虫の赤き頭をつぶす・・・・・・・・古屋秀雄

 三四日ぐづつく雨に百足虫出づ・・・・・・・・上村占魚

 殺したる百足虫を更に寸断す・・・・・・・・山口波津女

 百足虫出て父荒縄のごと老いし・・・・・・・・大隈チサ子


橋下徹の功罪・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
a橋下徹

──雑文──

     橋下徹の功罪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

前・大阪府知事で現・大阪市長の橋下徹(はしもと・とおる)は、登場いらい物事をハッキリと言って、大阪府・市にまつわる事態を克服しようとしてきた。
彼の立場は、物事の一点を鋭く捉えて突き進むという一点突破で問題を解決してきた。
そして「大阪維新の会」を組織しての政治行動も、物議をかもしながらも、おおよそは好感を持って支持されてきた。
それは「選挙」での圧倒的な支持として結実してきた。
だが、その極端な「手法」は法秩序社会である日本では、或る種の「危険」と「うさん臭さ」をはらんでいて、はらはらさせるものがあった。
今や、それが現実のものとなり、地方選挙でも維新の候補が落選つづき、というような始末で、ひと頃の勢いは失せたという感じだ。
まあ、関西人の言葉で言うと「調子に乗りすぎたナ」というところである。
彼の改革には、一端の「真実」があったので惜しい気がする。
彼が世界中から総スカンを食らっている「従軍慰安婦」の件でも、下記のようなこともあるのである。 ↓

専用「売春」施設も…米軍が慰安婦を買い漁った過去

彼が、これからどうして凌いでゆくか、見ものである。 好漢、自重せよ。

Wikipedia─橋下徹

「従軍慰安婦」に関連して、私の若い頃のエピソードを書いておく。
「従軍慰安婦などは無かった」という論者の意見というのがあるが、この「従軍慰安婦」という言葉は後になってから概念として付けられたもので、
当時には、そんな言葉で言われたものではない、ことを明確にしておかなければならないだろう。
日本軍当局の「意向」を受けて、いわゆる「女郎屋」の経営者が、従事する女を募る。
いわば、最末端の汚れ役に良家の女が応募するわけもなく、当時の植民地として悲惨な境遇にあった朝鮮人などが募集に応じたということである。
別の「キレイ」な仕事と騙されて募集に応じた女も居ただろう。 そういうことである。
昔は赤線(あかせん)と言って、 日本で1958年以前に公認で売春が行われていた地域があったのである。
この法律が施行されて以後、そういう地帯は無くなったし、「公娼」と言われていた女たちは「自由恋愛」という「私娼」となった。
それまでは男たちは、そういう「赤線地帯」=遊郭で性欲を処理していたのである。
それはインテリと言われる人たちでも同様であり、短歌の関係でいうと、有名な斎藤茂吉なんかの遊郭通いは事実として記録されている。
それは彼がすでに東大医学部の医師をしていた頃の話である。 嘘だと思う人はネットを子細に検索されよ。
そういう時代だったのである。 ほんの数十年前のことである。 キレイゴトではないのである。

私がまだ若かった頃、近所のおじさんが茶飲みに事務所に遊びにきて、いろいろ世間話を聞かされたものである。
その人─仮にAさんとしておこう。 彼は戦争に召集されて最初は中国大陸、敗戦時にはビルマ(今のミャンマー)に居たという人である。
その彼が中国での兵隊たちの性欲処理の場面を話してくれた。
いわゆる「慰安所」というのが開設されると兵隊たちが、行列をつくって順番を待っていて、コトは数分で済んだという。
「女」は寒いときには下着を脱ぐこともなく、厚い毛糸のズロースの局所だけ穴の開いているのを履いていて、その穴にペニスを挿入してコトを済ませる。
性病の感染を恐れた当局からはコンドームの使用を勧められたという。
今どきの感覚から言えば、そんなことまでして性欲を発散させるというのは理解できないだろうが、自分で手淫で処理するよりは、
局所に挿入して射精するというのが兵隊たちにとっては精神的に満足感が得られたものであろうか。
ついでに書いておくと、その人は先にも書いたようにビルマで悲惨な敗走を体験するのだが、その頃には年月を経て古参の下士官で経験豊富だったから、
敗走に当たっては武器は一切捨て、食糧だけを持って逃げた、という。武器を携えていた連中は「みんな死にましたなア」と言った。
戦争というのは、そういう苛酷なものである。
そういう戦争の苛酷さについては、前にこのブログでも書いたことがあるが、日中戦争のときに従軍記者として石川達三『生きてゐる兵隊』という小説があった。
この本は、彼が軍部からの「おしきせ」の情報による記録でなく、自分から兵隊たちの生活の中に入って行って体当たりで書いた従軍記だった。
だから当局から「発売禁止」の処置を受け、彼自身も裁判にかけられた。敗戦により裁判は中止となり、戦後この小説は復刻され、少年の私も読んで大ショックを受けた。
この小説には現地人の「非戦闘員」虐殺や性のことなどが赤裸々に活写されている。
南京事件は無かった、とか主張する人には、私は、この小説を読むように勧めている。
ネット上の関連記事を見ていると、従軍慰安婦関係の東西の国の対応には、いろいろの違いがあった。
第2次大戦中の日独は軍が管理する慰安所型、米英は民間経営の売春宿利用型、そしてソ連はレイプ黙認型だった。

これも私の若い頃の体験である。
ソ連を解放軍として美化するような風潮のあった戦後すぐの頃、満洲からの引き揚げ者だったM氏の話。
ソ連軍は軍紀がでたらめで、女と見れば「強姦」して、あげくには銃殺されたりした。
皆を仰向けに並んで寝させ、胸をさわって乳房が手に触れれば女として引き摺りだして強姦したという。
だから日本人の女は胸に「晒」をきつく巻いて胸の段差をなくして男のような恰好をして難を逃れるようにしたという。

石川達三の小説にしろ、このソ連軍の兵隊の話にしろ、そんな理不尽な、今では有り得ないことが、平然と行われていたのである。
それが「戦争」というものである。 戦争は「キレイゴト」ではないのである。
私自身は、まだ少年だったので兵歴もないが、戦争中は授業からは引き剥がされて、軍需工場で旋盤工をしていた。いわゆる「学徒動員」である。
日本が戦争に負けたとき、私は中学三年生だった。
戦争末期には日本の空には「制空権」はなく、アメリカ軍の艦載戦闘機が飛びまわり、私たちもグラマンなどの艦載機から機銃掃射を受けて逃げまどった。
私たちは「非戦闘員」だった。だけど、戦争中は、そんなことは無関係に「殺戮」された。アメリカの残虐行為は日本だけでなくヨーロッパでも多くあった。
それが「戦争」というものである。

私は「勇ましいこと」を言う人は信用しない。戦争という理不尽な、悲惨な様相を見て、体験してきたものとして、言うべきことは言っておく義務を持っている。
憲法改正にしろ、靖国神社のことにしろ、「勇ましいこと」を言うならば、古今東西の歴史的事実をよく学んだ上で発言してもらいたい。
いま安倍首相なんかも、発言の言葉尻をとられて軌道修正しているようだが、「こう発言すれば、こう反応が返ってくる」と、よく勉強してから発言すべきである。
何度も言うが私は「勇ましいこと」は信用しない。
戦後生まれで、戦争の悲惨さも知らないくせに、ろくに調べもせずに「歴史的事実」を否定するのは止めてもらいたい。
「歴史的事実」は、率直に認めよ。 すべては、そこから始まらなければならない。

今日は橋下徹の話から、話が大きく脱線したが、私の真意は、そういうことである。


閑さや岩にしみ入る蝉の声・・・・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉
蝉

   閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人」という有名な言葉で始まる『おくのほそ道』の旅は元禄2年5月27日に山形の立石寺に到達する。
この句は、そこで詠まれたものである。
もちろんこの日付は旧暦であるから今の暦では7月となるが敢えて今日の日付で載せることにする。
地元では「りっしゃくじ」と発音するとのことで、それに倣いたい。

今の所在地は山形市大字山寺という。
山寺駅の鄙びた駅舎を出ると、目の前にいきなり突兀たる山寺の山容が迫ってくる。別名・雨呼山、標高906メートル。長い石段をあえぎながら登る。
岩峰の一つ一つに堂塔が配され、壮観とも絶景とも言えよう。立谷川を渡るとまもなく根本中堂がある。
本尊は薬師如来で、貞観2年(860年)慈覚大師円仁の開山と伝えられる。
現在の根本中堂は天文12年(1543年)の再建とあるから、芭蕉が山寺を訪れた元禄2年(1689年)には、この建物は建っていたわけである。
『おくのほそ道』は、

<岩に巌を重て山とし、松柏年旧(としふり)、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。
岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。/閑さや岩にしみ入蝉の声>

と描きしるしている。

芭蕉の頃は、今のように「送り仮名」が統一されておらず、読みにくいが、おおよその意味は通じるだろう。
この「蝉の声」の句碑は、境内慈覚大師お手植えの公孫樹の木陰をくぐると、芭蕉の銅像と並んで立っている。
この山寺は恐山、早池峰山、蔵王山、月山、羽黒山などと共に東北における山岳信仰の代表的な山とされ、何よりも、この山の特徴は、
死後魂の帰る霊山と考えられていることである。
「開北霊窟」の扁額を掲げる山門をくぐると、奥の院までの石段は実に千数百段、中腹に芭蕉の短冊を埋めたという「蝉塚」がある。
もちろん書かれた句は「閑さや」であろう。
「奥の院」まで登る人は多くない。一般的には「山門」までで、私も、そうした。

ところで、芭蕉が訪れた時に、果たして「蝉」が鳴いていたか、という論議が古くから盛んである。
曾良『随行日記』には長梅雨の最中だったが、山寺の一日だけ晴れた、と書かれているが、晴れたからといって、その日だけ蝉が鳴いたというのも不自然である。

では、なぜ芭蕉は、此処で蝉の句を詠んだのか。

芭蕉は若き日、故郷の伊賀上野で藤堂主計良忠(俳号・蝉吟)に仕えた。
元禄2年は、旧主・蝉吟の23回忌追善の年にも当る

「岩にしみ入る」と詠まれた山寺の岩は、普通の岩塊ではなく、岩肌に戒名が彫られ、板塔婆が供えられ、桃の種子で作った舎利器が納められる。
つまり、あの世とこの世を隔てる入口なのである。
俗に「奥の高野」と言われ、死者の霊魂が帰る山に分け入り、死の世界に向き合った芭蕉が、
自分を俳諧の道に導いてくれた蝉吟を悼み、冥福を祈って「象徴的」に詠んだ句
──それが、この「閑さや」の句だ、という説がある

私は、この説に納得するものである。

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↑芭蕉と曽良の銅像(曽良は芭蕉の弟子で「奥の細道」の旅の同行者で日記を残している)
画面奥の銅像が芭蕉の像。両者の間に、芭蕉の句碑が立っている ↓
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「山寺・立石寺」については、このサイトが写真で詳しい。
このサイトに芭蕉句碑の鮮明な写真があるので拝借したいと思ったが有料とのことで断念し、リンクをするにとどめた。ぜひアクセスしてみられよ。


みづからを思ひいださむ朝涼しかたつむり暗き緑に泳ぐ・・・・・・・・・・・山中智恵子
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     みづからを思ひいださむ朝涼し
         かたつむり暗き緑に泳ぐ・・・・・・・・・・・山中智恵子


いま二行に分けて書いてみたが、もちろん原歌は、ひと連なりの歌であるが、二行に分けて書いてみると、その感じが一層強くするのが判った。
この歌の上の句と下の句は、まるで連句の付け合いのような呼吸をもって結びついている。
事実、作者は一時期、連句、連歌に凝っていた時期がある。
この歌の両者は微妙なずれ、あるいは疎遠さを保って結びついているので、却って、結びつきが新鮮なのである。
この歌は字句を追って解釈してみても、それだけでは理解したことにはならないだろう。
叙述の飛躍そのものの中に詩美があるからである。
「みずからを思い出す」という表現は、それだけで充分瞑想的な世界を暗示するので、下の句が一層なまなましい生命を感じさせる。
大正14年名古屋市生まれの、独自の歌境を持つ、もと前衛歌人であったが平成18年3月9日に亡くなられた。
この歌は昭和38年刊『紡錘』所載。

先に、永田耕衣の「かたつむり」の句を挙げたので、それに対応してこの歌を掲出した。 掲出の画像は「ヒメマイマイ」というかたつむり。
以下、山中智恵子の歌を少し引く。
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   道の辺に人はささめき立春の朝目しづかに炎えやすくゐる

   わが戦後花眼を隔てみるときのいかにおぼろに痛めるものか

   ああ船首 人は美し霜月のすばるすまろう夜半めぐるらう

   さやさやと竹の葉の鳴る星肆(くら)にきみいまさねば誰に告げむか

   淡き酒ふくみてあれば夕夕(ゆふべゆふべ)の沐浴ありときみしらざらむ

   この世にぞ駅てふありてひとふたりあひにしものをみずかありなむ

   未然より未亡にいたるかなしみの骨にひびきてひとはなきかな

   秋はざくろの割れる音して神の棲む遊星といふ地球いとしき

   こととへば秋の日は濃きことばにてわれより若きガルシア・マルケス

   こもりくの名張小波多の宇流布志弥(うるぶしね) 黒尉ひとり出でて舞ふとぞ

   ああ愛弟(いろせ)鶺鴒のなくきりぎしに水をゆあみていくよ経ぬらむ

   ながらへて詩歌の終みむことのなにぞさびしき夕茜鳥

   意思よりも遠く歩める筆墨のあそびを思ひめざめがたしも

   きみとわれいかなる雲の末ならむ夢の切口春吹きとぢよ

   その前夜組みし活字を弾丸とせし革命よわが日本になきか

   くれなゐの火を焚く男ありにける怪士(あやかし)の顔ふりむけよいざ

   ポケットに<魅惑>(シャルム)秋の夕風よ高原に棲む白きくちなは



ネウマ譜の起伏のごとき午睡かな・・・・・・・・・・・・島本融
a0136223_17372262ネウマ譜
0a2ea299d8e5d845f62ae256de472611ネウマ譜

──再掲載──初出2004/04/29 Doblog──「島本融の詩と句」(再掲載にあたり編集し直しました)

     ネウマ譜の起伏のごとき午睡かな・・・・・・・・・・・・・島本融

「午睡」というのは夏の季語だが、もう夏日の気温の日がつづく昨今であるので、もう夏「仕様」で行きたい思う。
ところで「ネウマ譜」については ← Wikipediaに詳しい。
ネウマ譜というのは一般的にはグレグリオ聖歌の表示法として知られるが、「ネウマ」とは中世の単旋律歌曲の記譜で使われた記号。
旋律の動きや演奏上のニュアンスを視覚的に示そうとしたものが基本。
ネウマ譜とは、上に述べたネウマを使った記譜法。
9世紀頃現われ、高音を明示しないネウマ、高音ネウマ(ダイアステマ記譜法)を経て、やがて11世紀から「譜線ネウマ」へ移行する。
ネウマ譜は先に述べたようにグレゴリオ聖歌の表示法として知られるが、中世の世俗的歌曲も、貴族の館を中心に「吟遊詩人」の歌として流行した。
単声で、譜線ネウマ譜で表わしていた。
最初は、歌詞の上に記号をつけただけだったが、10世紀頃イタリアやイギリスで譜線が登場する。
譜線の数は1本から4本まで増え、線と線の間隔は3度間隔を示すようになり、「譜線ネウマ」と呼ばれるようになる。
後には近代5線譜で古い楽譜が写本されることもあるらしい。期間的には9世紀から14世紀にかけて、ということになる。

実は私はネウマ譜の実物か写本というものを見たことがない。
本で、その存在を知っていたに過ぎないが、2004/04/20付けの新聞で大阪の女性がネウマ譜の装飾的な美しさに引かれて写本を手掛けている、
という記事に触発されて、島本氏の、この句を採り上げる気になった。
昔のヨーロッパの本は、小説でも神学の本でもページの文頭の字は、大きく、しかも色彩的にも極彩色に装飾した「飾り文字」になっているが、
このネウマ譜も、そういう装飾文字で始まるらしい。
装飾的ということからは、この大阪の女性の写本のモデルになっているのは14世紀イタリア式譜面の装飾かも知れない。
ネウマ譜の画像をいくつか出しておいた。
GregorienA4グレゴリオ聖歌17世紀楽譜
 ↑ グレゴリオ聖歌17世紀楽譜

島本融氏については、私のWeb上のHPで一章を設けて句集『午後のメニスカス』の抄出をしてある。
島本融氏は河井酔茗、島本久恵氏のご次男で群馬県立女子大教授などを勤められた美学者である。
美学者としての教養から横文字が多いが、知的な雰囲気に満ちている。以下、句を抄出する。
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 母は闇に坐して涼しき銀河系

 吾亦紅野辺のアウラというべきか

 くすぐられてしなやかな子の夏合宿

 すこやかになまあしやはりさむいという

 てふてふの旧かなめきし羽根づかひ

 秋灯に偽書ほどほどの読みごたえ

 様式とはめだかみごとに散るごとく

 二河白道一輻だけの花の寺

 ミネルヴァの梟を言い冬学期

 十代連はチアののりにて阿波踊り

 謝恩会のゼミ学生の抜き衣紋

 青嵐におののきやめずメニスカス

 酔漢がハモってゆくや歳の暮

 波奈理児のすはだに生絹(すずし)添えまほし

 ビリティスの偽書も編みたし蔦の花


ジョルジュ・ムスタキが死んだ・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──エッセイ──

       ジョルジュ・ムスタキが死んだ・・・・・・・・・・・・木村草弥

通信社が一斉に伝えたが、ひと頃ひろく愛唱されたジョルジュ・ムスタキである。
彼・ムスタキは「プロテスト・シンガー」と呼ばれたことがあるが、その頃は、そういう社会状況だった。
私自身は、そういう頃の「一昔前」の人間だが、彼の曲は、よく聴いたものてある。

 → 彼のMa Solitudeという歌の動画だが歌詞もついていて便利なのだが、、埋め込み不可ということで、クリックして聴いてみてください。

ジョルジュ・ムスタキとは、こういう人である。 Wikipediaの記事を引いておく。 ↓
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ジョルジュ・ムスタキ(Georges Moustaki、1934年5月3日 - 2013年5月23日)は、フランスのシンガーソングライター。
エジプト・アレクサンドリア出身のギリシャ系セファルディムユダヤ人。本名、Yussef Mustacchi。

略歴
ケルキラ島出身のギリシャ系ユダヤ人の両親がエジプトに亡命中に生まれた。フランス系の学校に通っていたが、民族など様々なトラブルがあり、自らを「Méditerranéen-地中海人」と見做すようになる(ヨーロッパ各国、アフリカ、アラブの文化が混在した無国籍ないし多国籍の意)。17歳の時にエジプトからフランス・パリに出る。

パリは実存主義者の終わりの時代で、ムスタキはパリの左岸を生活の場とし、時々、友人のために曲を書いたり、カフェやキャバレーで歌ったり、エジプト新聞の特派員、本屋のセールスマンなどをしていた。

1957年にアンリ・クローラを通してエディット・ピアフに紹介され、約一年間の恋人生活を送り、ピアフのためにたくさんの曲を書いた。中でも作詞した『Milord』(「ミロール」)は、ヒットナンバーとなり、ムスタキの名が広まる。その後、イヴ・モンタン、ダリダ、アンリ・サルバドールらが曲を依頼する。また、映画やTVの音楽も担当している。

ムスタキは、フランスの伝統を受け継ぐシンガーソングライターの第一人者で、イタリア、ベルギー、スイス、アメリカなどでも人気がある。また、伝統的なシャンソンだけではなく、サンバ、ボサノバ、フォルクローレなどの要素を巧みに取り入れた曲風も少なくない。とりわけブラジル音楽について、「1972年のブラジル訪問は自分の音楽観を一変させた」と語っている。その歌い上げるテーマは、愛、旅、孤独から自由、闘い、革命まで幅広い。ギリシャ語・アラビア語・フランス語を話し、旅行・絵画・オートバイが趣味である。

2013年5月23日、ニースで死去した。79歳没。

大ヒット曲『Le Métèque』(異国の人) ← クリックして聴いてください。

歌手としてのキャリアは長いが、本格的な歌手デビューは、1968年に当初ピア・コロンボのために作り、69年に自身も吹き込み大ヒットした『Le Métèque』(邦題「異国の人」- 直訳すると差別的な意味としての「よそ者」もしくは「ガイジン」)といっていいだろう。前年68年のパリ五月革命の余熱の中で、フランス社会でタブーともいえた「Juif -ユダヤ人」という単語をロマンチックに謳い上げ、自由を求める時代の気風によって、ムスタキは初めて歌手として広く認知されたといえる。

ムスタキ自身は、この『Le Métèque』のヒットについて、自著『Les Filles La Mémoire』(『ムスタキ自伝 思い出の娘たち』 山口照子 訳 彩流社)で「ある者はそこに世の中からはみ出した者のロマン主義や絶対自由主義を、また他の者はそこに政治的、イデオロギー的、戦闘的、1968年的な合言葉を見てとった。移民たちはアメリカの黒人が言うところの"Black Is Beautiful"に匹敵する、自分たちが他者とは異なっていることへの誇りをそこから汲み取った。それは祖国をなくした人々の賛歌、無国籍者の集合の叫び、無銭旅行者たちの要求だった。(略)僕にとって、それはただの恋の告白の歌だった」と語っている。

プロテスト・シンガーとしての顔
1969年に発表した『Le Temps De Vivre』(邦題「生きる時代」-同名映画の主題歌)では「聞いてごらん、五月の壁の上で言葉が震えている。いつかすべてが変わると確信を与えてくれる。Tout est possible,Tout est permis -すべてが可能で、すべてが許される」と五月革命時の有名な落書きのスローガンを曲にして歌った。1972年の『En Méditerranée』(邦題「地中海にて」あるいは「内海にて」)では、70年代に入っても(「政治の季節は終わった」とされていても)、独裁政治に抗するスペイン、ギリシャの民主化運動に捧げて「アクロポリスでは空は喪に服し、スペインでは自由は口にされないが、地中海には秋を怖れぬ美しい夏が残っている」と歌い、まだ発売される前の1971年にフランコ独裁下のスペイン・バルセロナ公演で発表する。1974年の『PORTUGAL』(邦題「ポルトガル」)では、「理想なんて実現しないと思い込んでいる人々に、ポルトガルにはカーネーションが咲いたんだと言ってやって下さい」とカーネーション革命を祝福して歌った。また、同年のスペインの独裁者フランシスコ・フランコ危篤の報に、『FLAMENCO』(邦題「フラメンコ」)で「フランコのいないスペインは、お祭り騒ぎになるだろう。僕はそこでフラメンコを聴きたい。地中海のほとりで歴史の風向きが変わった」と歌って物議を醸し、フランスのスペイン大使館はレコード会社に『FLAMENCO』の発売差し止めを申し入れるという「外交問題」にまで発展した。

ムスタキは常に社会変革の運動に心をよせ、五月革命の最中に、そして90年代に入っても度々、ストライキを行っている労働者たちのピケットで歌った。自身の曲に、ストライキを闘う(女性)労働者たちに捧げて「闘う者に名はつけられない。しかし人はそれをRévolution permanente-永続革命と呼ぶ」と歌った『Sans La Nommer』(邦題「名も告げずに」)がある。また、ムスタキは2007年フランス大統領選挙において、フランス社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル候補の支持を表明し、5月1日の「ロワイヤル支援集会」にも参加した。

日本とのゆかり
大塚博堂・さとう宗幸らはムスタキを敬愛し、ムスタキの曲をカバーして歌う。1974年4月からTBS系で放映されたテレビ・ドラマ『バラ色の人生』(主演:森本レオ、寺尾聰、香山美子)では、主題歌として『Ma Solitude』(邦題「私の孤独」)が使用され、劇中にもムスタキの曲がふんだんに使われた。また、桃井かおりの84年のアルバムに収録された『愛のデラシネ』の作曲も手がけた。日本には、1973年の「第2回東京音楽祭」のために初来日し、1976年には日本全国23ヶ所のコンサート・ツアーを盛況のうちに成功させる。1995年には「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」の審査委員長を務め、映画祭の直前に起こった阪神・淡路大震災の被災者のために急きょ、「阪神大震災チャリティーコンサート」を栗原小巻、あがた森魚らと開き、集まった義援金四十万七千円を被災地の兵庫県に贈った。現在まで通算で、八度来日している。

ムスタキは日本(人)観として「(自分にとって)ヒロシマの敗者が彼らの伝統と精神性を放棄しつつ、勝者の価値観に同調しているといったくらいの漠然とした小国でしかなかった。ヴィクトリア王朝的な厳格さ、馬鹿丁寧にぺこぺこすること、常に自制心を失わないこと、能率のよさ、何が何でも時間を厳守すること、これらに対しては何の魅力も感じない。(略~しかし)冷静な微笑の裏には本物の親切がある」(前掲書)と書いている。

主な楽曲
MA SOLITUDE(私の孤独)
LA DAME BRUNE(ブリュネットの貴婦人 - 共演:バルバラ)
LE TEMPS DE VIVRE(生きる時代)
LE METEQUE(異国の人)
SANS LA NOMMER (名も告げずに)
EN MEDITERRANEE (地中海にて-2002年Maria del Mar BONETとの共演)
FLAMENCO(フラメンコ)
LE FACTEUR(若い郵便屋)
SARAH(サラ)
HIROSHIMA(ヒロシマ)
ET POUR TANT DANS LE MONDE(この世の果て)
LES AMOURE FINISSENT UNJOUR(ある日恋の終りが)※大塚博堂(訳詞:大塚博堂)、さとう宗幸(訳詞:高野圭吾)などがカバー。

現在、ポリドールレコードから日本盤として発売されている『私の孤独~ベスト・オブ・ジョルジュ・ムスタキ』が比較的入手が容易である。
1. MA SOLITUDE - 私の孤独
2. LE TEMPS DE VIVRE - 生きる時代
3. LES AMIS DE GEORGES - ジョルジュの友達
4. LES ENFANTS D'HIER - 幼年時代
5. L'HOMMES AU COEUR BLESSE - 傷心
6. GRAND-PERE - おじいさん
7. 17 ANS - 17歳
8. IL EST TROP TARD - もう遅すぎる
9. IL Y AVAIT UN JARDIN - 悲しみの庭
10. LE METEQUE - 異国の人
11. LE FACTEUR - 若い郵便屋
12. SARAH - サラ
13. HIROSHIMA - ヒロシマ
14. MA LIBERTE - 僕の自由
15. PORTUGAL - ポルトガル
16. EN MEDITERRANEE - 内海にて
17. NADJEJDA - 希望
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 ↓ 46本の曲が入っているという動画である。 次々と再生される。 聴いてみられよ。


みほとけの千手犇く五月闇・・・・・・・・・・・・・・・・・能村登四郎
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 ↑ 京都・三十三間堂の千手観音の一部

    みほとけの千手犇く五月(さつき)闇・・・・・・・・・・能村登四郎

今日5月24日は能村登四郎の忌日である。
それに因んで記事を載せる。

昼なお暗い五月雨(さみだれ)どき。大寺の御堂の中にたたずんでいると、不意に眼前に立つ千手観音の手がひしめくような気配を感じたのである。
この観音は多分大きな仏像であろう。
五月闇と言われるほど陰鬱な梅雨時の薄暗がりの中で、長い歳月を経た仏像に秘められている魔性が、ふとざわめいたような思いのする肌寒さ。
「千手犇く」が次の「五月闇」と重なって、仏像のある意味では不思議に官能的な側面を引き出している。
千手観音像は普通40本の手で表わされる。
掌中にはそれぞれ一眼を備え、一本の手毎に二十五有(う)を救うとされているところから、25×40=1000で「千手」と言われる。
昭和59年刊『天上華』に載る。

能村登四郎は明治44年東京生まれ。国学院大学卒。水原秋桜子に師事。「沖」主宰。
第8句集『天上華』で1984年「蛇笏賞」受賞。第11句集『長嘯』で1993年第8回「詩歌文学館賞」受賞。
平成13年没。

↓ 写真②は、石川県七尾市和倉温泉に建つ能村の句碑である。 <春潮の遠鳴る能登を母郷とす  登四郎>
略歴には、みな「東京生まれ」と書かれているが、この句のように、彼は石川県の「能登」を母郷としている、と言う。
この句碑の説明文によると、祖父が、ここの出身だという。

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すこし能村の句を引く。

 くちびるを出て朝寒のこゑとなる

 ぬばたまの黒飴さはに良寛忌

 寡作なる人の二月の畑仕事

 妻のほかの黒髪知らず夜の梅

 白鳥の翅もぐごとくキャベツもぐ

 梅漬けてあかき妻の手夜は愛す

 白川村夕霧すでに湖底めく

 優曇華や寂と組まれし父祖の梁

 秋蚊帳に寝返りて血を傾かす

 花冷えや老いても着たき紺絣

 夢の世と思ひてゐしが辛夷咲く

 男梅雨かな三日目は蘆伏して

 朴散りしのち妻が咲く天上華

 墓洗ふみとりの頃のしぐさにて

 秋蒔きの種子とてかくもこまかなる

 ほうたるの火と離れたき夜もあらむ

 今思へば遠火事のごとくなり

 ゆつくりと来て老鶴の凍て支度
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あたらしき声出すための酢牡蠣かな
おぼろ夜の霊のごとくに薄着して
きのふてふ遥かな昔種子を蒔く
すぐ帰る若き賀客を惜しみけり
たわいなき春夢なれども汗すこし
てのひらの艶をたのめる初湯かな
ひだり腕すこし長くて昼寝せり
べつたりと掌につく春の樹液かな
むばたまの黒飴さはに良寛忌
ゆつくりと光が通る牡丹の芽
よき教師たりや星透く鰯雲
ガニ股に歩いて今日は父の日か
一雁の列をそれたる羽音かな
一撃の皺が皺よぶ夏氷
一度だけの妻の世終る露の中
羽蟻ふり峽のラジオは悲歌に似て
煙管たたきて水洟漁夫の不漁(しけ)ばなし
遠い木が見えてくる夕十二月
夏つばめ同齡者みな一家なす
火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ
火取虫男の夢は瞑るまで
花冷えや老いても着たき紺絣
潟人の大長靴が枯るゝ戸に
葛の花遠つ江(あふみ)へ怨み文
気に入りの春服を出す心当て
去年よりも自愛濃くなる懐手
教師に一夜東をどりの椅子紅し
教師やめしその後知らず芙蓉の實
隙間入る雪四十なる平教師
月明に我立つ他は箒草
己が糞踏み馬たちに冬長からむ
吾子すがる手力つよし露無量
今思へば皆遠火事のごとくなり
今日の授業誤ちありし青葉木萸
紺の厚司で魚賣る水産高校生
妻死後を覚えし足袋のしまひ場所
削るほど紅さす板や十二月
鮭の切身の鮮紅に足止むる旅
子とみれば雪ゆたかなり童話劇
子にみやげなき秋の夜の肩車
子等に試驗なき菊月のわれ愉し
紙魚ならば棲みてもみたき一書あり
秋づきし母の嶺負ひし檜挽き
秋燕をくらきが吸ふ遠山家
秋風に突き当りけり首だせば
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
初あかりそのまま命あかりかな
身にしみて一つぐらいは傷もよし
甚平を着て今にして見ゆるもの
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明治44年に東京に生まれる。
国学院大卒。市川高校に40年勤務し、俳人として活躍する。戦前から水原秋桜子の「馬酔木」に投句し昭和24年に同人となる。
昭和45年俳誌「沖」を創刊し平成13年春まで主宰。
昭和31年句集『咀嚼音』で現代俳句協会賞、昭和60年句集『天上華』で蛇笏賞、平成4年『長嚼』で詩歌文学館賞を受賞し、俳壇の賞を総なめにした。
身辺の日常の中に幻想や心象を見るイメージ俳句を追求し評論もおこなっていた。
代表句に「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」がある。
平成13年5月24日八幡にて逝去。

泰山木の巨き白花さく下にマタイ受難曲ひびく夕ぐれ・・・・・・・・・・・木村草弥
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     泰山木の巨き白花さく下に
        マタイ受難曲ひびく夕ぐれ・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にのるものである。
この歌の一つ前には

  おほどかに泰山木の咲きいでていきなり管楽器鳴りいづるなり

という歌が載っているので、これと一体として鑑賞してもらいたい。

泰山木の木は葉も花も大きいもので、葉は肉厚で落葉は昔の大判の貨幣のようである。
この頃には「青嵐」という季語もあるように季節の変わり目で突風が吹くことが多いが、そんな風に吹かれて泰山木の大きな落葉が新芽にとって代られて、
からからと転がってゆく様子は季節ならではのものである。
モクレン科の常緑高木であって、高いものは17、8メートルにもなる。
北アメリカの原産で明治のはじめに日本に渡来し公園などに植えられた。葉はシャクナゲに似、花はモクレンに似ている。
花は葉の上に出て、大きさは15センチもある。木が大きく、葉も花も大きいので「泰山木」という命名がいかにも相応しい感じがする。
花の雄大さと白い色、高い香りが焦点である。

私の歌は、そういう、いかにも西洋風な花と木に触発されて、「管弦楽」ないしは「マタイ受難曲」という洋楽を配してみたが、いかがであろうか。

YouTube 「マタイ受難曲」 ← いい演奏なので聴いてみてください。

「マタイ受難曲」 出典:Wikipedia
「マタイ受難曲」(Matthäus-Passion)とは、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲で、
多くの場合独唱・合唱・オーケストラを伴う大規模な音楽作品である。
このうち最も有名なものはヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下バッハ)の作品である。
ここではこのバッハの作品について述べる。

バッハのマタイ受難曲(Matthäus-Passion)は新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にし、
聖句、伴奏付きレチタティーヴォ、アリア、コラールによって構成された音楽作品である。
BWV244。
台本はピカンダー(Picanderは「かささぎ男」という意味の筆名であり、本名クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ、あるいはヘンリーキ)による。
正式なタイトルは「福音史家聖マタイによる我らの主イェス・キリストの受難Passion unseres herrn Jesu Christi nach dem Evangelisten Matthäus」となる。

バッハのライプツィヒ時代(1723年-1750年)を代表する作品であるとともに、その全作品中の最高峰に位置づけられる。
宗教作品であるが、様々な人間的に普遍的なドラマが描かれており、その音楽の壮大さ、精緻さ、大胆さ、精神性は、しばしばクラシック音楽、西洋音楽作品中の最高傑作とさえ評されるほどである。 バッハが作曲したとされる受難曲は、マタイ受難曲(2作あったとされるが、「2作目は合唱が2組に分けて配置される」という記述の目録があるので現在伝わっているのは2作目あるいは何らかの改作後の方であることがわかる)のほか、音楽的にはマタイほどの完成度ではないもののより劇的とされるヨハネ受難曲(BWV245、1724年)、ルカ受難曲(BWV246)、マルコ受難曲(BWV247、1731年)の計4つが数えられるが、ルカ受難曲は真作と見なされておらず、マルコ受難曲は台本のみが現存し、他は消失している。これらのなかで、マタイ受難曲は内容的にも規模的にも最も重要かつ画期的である。

初演および復活上演
初演 1727年4月11日、ライプツィヒの聖トーマス教会において初演。その後改訂が加えられ、1736年に最終的な自筆稿が浄書されている。かつては1729年4月11日の初演と伝えられ、未だに古典派・ロマン派の愛聴者の中に支持する者もいるが、完全に否定されている。この勘違いは、メンデルスゾーンの初演に用いた楽譜が1729年稿であったこと、蘇演の広告が「100年ぶりの復活演奏」と銘打ったこと、1728年に没したケーテン侯レオポルトに捧げた追悼カンタータがマタイ受難曲のパロディだったこと(教会音楽を世俗音楽に書き換えることはありえないと信じられていた)など、非科学的な思い込みによって誘発されたものである。

復活上演 バッハの死後、長く忘れられていたが、1829年3月11日、フェリックス・メンデルスゾーンによって歴史的な復活上演がなされ、バッハの再評価につながった。

この復活上演はいくつかのカットが伴われ、また古楽管楽器オーボエ・ダ・カッチャを、同じ音域のオーボエ属楽器であるイングリッシュホルンではなくバスクラリネットで代用するなど、メンデルスゾーンの時代により一般的であった、より現代に近いオーケストラの編成によって演奏された。この編成の演奏を再現した録音CDも存在する。当時の新聞評は芳しいものではなく、無理解な批評家によって「遁走曲(フーガ)とはひとつの声部が他の声部から逃げていくものであるが、この場合第一に逃げ出すのは聴衆である」と批判された。しかしこれを期に、当時は一部の鍵盤楽器練習曲などを除いて忘れ去られていたバッハの中・大規模作品をはじめとする音楽が再評価されることになったのである。
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「泰山木」は俳句にも詠まれているので、それを引いて終わりたい。

 壺に咲いて奉書の白さ泰山木・・・・・・・・渡辺水巴

 磔像や泰山木は花終んぬ・・・・・・・・山口誓子

 太陽と泰山木と讃へたり・・・・・・・・阿波野青畝

 泰山木天にひらきて雨を受く・・・・・・・・山口青邨

 泰山木巨らかに息安らかに・・・・・・・・石田波郷

 泰山木樹頭の花を日に捧ぐ・・・・・・・・福田寥汀

 ロダンの首泰山木は花得たり・・・・・・・・角川源義

 泰山木開くに見入る仏像ほし・・・・・・・・加藤知世子

 泰山木君臨し咲く波郷居は・・・・・・・・及川貞

 初咲きの泰山木に晴れつづく・・・・・・・・武内夏子


さゐさゐと鳥遊ばせて一山は楢の若葉に夏きざし初む・・・・・・・・・・・・木村草弥
dsc00021新緑渓流

     さゐさゐと鳥遊ばせて一山は
         楢の若葉に夏きざし初む・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌の次に

     初夏の明けの小鳥の囀りにぼそと人語をさしはさむ野暮

という歌が載っているが、これも一体として鑑賞してもらいたい。

歌について少し説明しておくと「さゐさゐ」というのは漢字で書けば「騒騒」である。
先に書いたかと思うが、楢の木というのは「里山」の木であって、結構いろいろな昆虫なども豊富で、
それらの虫は小鳥たちの絶好の餌になるのであった。
だから小鳥たちが寄ってきて「騒騒」と賑やかなのであった。
こういう鳥たちとの交歓というのは杉、桧のような針葉樹の林では見られない。
針葉樹は人間にとって有用な木材としては最適であるかも知れないが、広くいろんな生物との共生という意味では、貧弱な生態系にしか過ぎないと思われる。
虫や昆虫、小鳥の多いのは広葉樹の林である。
上に挙げた歌につづいて

     みづうみを茜に染めて日の射せばひしめき芽ぶく楢の林は

というのが載っている。
これらの歌の三部作を含む項目の題は「鳥語」と私はつけた。
やはり楢などの雑木林には小鳥が豊富であり、したがって鳥の声に満ちている──つまり「鳥語」が特徴であろう。

虫が居れば成虫である蝶も居るということである。「蝶」の句を引いて終わる。
なお、ただ単に「蝶」と言えば春の季語であるが、揚羽蝶など盛夏に居る夏の蝶は、もちろん夏の季語の題材になる。「夏の蝶」「斑蝶」「セセリ蝶」など。

 ほろほろと蝶こぼれ来る木下闇・・・・・・・・富安風生

 木の暗を音なくて出づ揚羽蝶・・・・・・・・山口誓子

 夏蝶や歯朶揺りてまた雨来る・・・・・・・・飯田蛇笏

 弱弱しみかど揚羽といふ蝶は・・・・・・・・高野素十

 夏蝶の放ちしごとく高くとぶ・・・・・・・・阿部みどり女

 下闇に遊べる蝶の久しさよ・・・・・・・・松本たかし

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり・・・・・・・・黒田杏子

 一途なる蝶に身かはす木下闇・・・・・・・・佐野まもる

 下闇や揚羽の蝶の二つの眼・・・・・・・・松尾静子

 奥の院八丁とあり黒揚羽・・・・・・・・近藤笑香

 首塚の湿りを出でて揚羽蝶・・・・・・・・長田群青


映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』鑑賞・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ ニューオーリンズのガーデン・ディストリクトの建物。映画中で老人施設としてロケされた。
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 ↑ オールド・モントリオールの街区。パリの街角として使われた。
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 ↑ ケイト・ブランシェット

──映画鑑賞──

      映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

2005年、大ハリケーン「カトリーナ」が近づく病院で、老女が娘に向かって語りはじめる。
それは80歳の老人として生まれ、次第に若返っていった男の数奇な半生の物語だった。
その男、ベンジャミン・バトン(ブラッド・ピット)は1918年、ニューオリンズで生を受けた。
産むと同時に母は死に、父は呪われた赤ん坊と彼を老人養護施設に捨てる。それを拾ったのは、黒人の介護士であるクイニー(タラジ・P・ヘンソン)だった。
彼女は、その赤ん坊をベンジャミンと名付け、自分の子供として育てることを決める。
12歳になったベンジャミンは、1930年の感謝祭で施設の入居者の孫娘であるデイジーと出会う。6歳のデイジーは、老いた子供であるベンジャミンに親しみを感じた。
やがて、ベンジャミンは船で働きはじめる。女と酒の味を覚えた彼は、ボタン工場のオーナーと知り合う。その男は、ベンジャミンの父だった。
ベンジャミンのその後が気になり、彼に接近したのだ。36年、施設から独立したベンジャミンは恋を知り、第二次世界大戦の戦火もくぐり抜けた。
45年、施設に戻ったベンジャミンは、成長してバレエダンサーとなったデイジー(ケイト・ブランシェット)に再会する。
デイジーに思いを寄せるベンジャミンだが、彼女はバレエに夢中だった。そんなデイジーが交通事故に遭い、ダンサー生命を絶たれたとき、二人は結ばれる。
やがて、デイジーは娘を産む。父から受け継いだボタン工場を売ったベンジャミンは、デイジーと娘に財産を残して放浪の旅に出る。
それは、自身の人生を確認するためのものだった。旅から帰ってきた時、デイジーには夫がいた。
外見は少年ながら、内面は老人になり果てたベンジャミンを見守るのは、夫を亡くしたデイジーだった。
そして、赤ん坊の姿でベンジャミンはこの世を去る。
長い物語を娘に語り終えて、老いたデイジーも息をひきとった。外では、カトリーナ台風が近づいてきていた。

監督 デヴィッド・フィンチャー

脚本 エリック・ロス

原作 F・スコット・フィッツジェラルド

出演者
ブラッド・ピット
ケイト・ブランシェット

音楽 アレクサンドル・デスプラ

撮影 クラウディオ・ミランダ

製作会社
パラマウント映画
ワーナー・ブラザーズ
ザ・ケネディ/マーシャル・カンパニー

配給
パラマウント映画
ワーナー・ブラザーズ

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(ベンジャミン・バトン すうきなじんせい、原題: The Curious Case of Benjamin Button)は、2008年のアメリカ合衆国のファンタジー・ドラマ映画である。
1922年に書かれたF・スコット・フィッツジェラルドによる短編小説をもとにエリック・ロスとロビン・スウィコードが脚本を執筆し、デヴィッド・フィンチャーが監督した。
なお、フィンチャーと主演のブラッド・ピットの二人にとっては『セブン』『ファイト・クラブ』に続くコンビ作品となった。
第81回アカデミー賞では作品賞を含む13部門にノミネートされ、美術賞、視覚効果賞、メイクアップ賞を受賞した。
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この映画の題名にある「バトン」英語で書くと「Button」とは、日本語でいう「ボタン」のことである。
主人公の実の父親が南北戦争でボタン工場主として大儲けしたことから名付けられた。
彼は奇形の子供に恐れをなし捨てるが、気になるので、ときどき覗きに来る。 後年、彼に父親であることを名乗り出て、ボタン工場など遺産の全てを遺贈する。

乳がんを予防する為に両乳房摘出の手術に2013年5月に乳房切除したアンジェリーナ・ジョリーというのは、この主演のブラッド・ピットの妻である。

ニュース・トピックの記事は下記の通り。 ↓

米人気女優で国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)特使を務めるアンジェリーナ・ジョリー(37)が、乳がんのリスクを高める遺伝子の変異が見つかったため、予防措置として両乳房を切除する手術を受けた。14日付米紙ニューヨーク・タイムズへの寄稿文で告白した。
 寄稿文によると、医師から「乳がんになる可能性が87%」と説明され、治療を決断。
母親ががんで約10年間、闘病生活を送り、56歳で他界したことも影響したという。

↓ この映画の「予告編」その他の動画を出しておく。




主演の二人については、リンクに貼ってあるので、見てみられよ。

死は何人にも平等に訪れる。この世に生きる全ての人に人生の終わりはやってくる。そして、人は皆、愛する人を失う辛さを知る。
ベンジャミンにピアノを教えた老婦人は「失って初めて辛さが分かるの」と言っていた。

 人は限られた時間を生きる。死は常に訪れる。そうならば、その時間の中で何ができるのだろうか。
「人が生まれ、人が死ぬ。さまざまな人生があった」。ベンジャミンはそう自分の人生を振り返った。
川のほとりで暮らす人、雷に打たれた人、音楽の得意な人、アーティスト、ダンサー、泳ぐ人、ボタン職人、シェイクスピア好き、母親…。

 ベンジャミンはその数奇な人生の中で様々な人に出会い、そして成長してきた。外見はともかく、ベンジャミンは時の流れとともに歩み、成長してきた。
「望みはきっとかなう。いつ始めてもいいんだ」「道を見失ったら自分の力でやり直せばいい」。
娘のキャロラインに向けて書き連ねられたベンジャミンの言葉は彼の人生の軌跡をそのまま表している。

 かつて駅に掲げられていた、あの逆回転して時を刻む記念時計は外され、デジタル・クロックにかけ替えられてしまった。
古時計は倉庫に置かれ、その針は相変わらず逆回転しながら静かに時を刻んでいる。

 そこに押し寄せてくる大量の水。ハリケーンのせいで倉庫が冠水したのである。
ベンジャミンがその人生を終えたように、この水に飲まれて時計は静かに針を止めるだろう。

 この世では日々、多くの人が生を受け、多くの人が生を終えていく。人生は時の流れに乗って流れていくもの。
針を止めた時計も、生を終えた人間たちも、たゆまなく流れる時の流れの中へ永遠に飲みこまれていくのだ。

アメリカ映画にしては画面が暗く、フランス映画を見ているようだった。
今どきのアメリカ映画の大金をかけたアクションものではない、しっとりとした佳い作品だった。私はBSのテレビ映像で見たことを言っておく。



原田亘子詩集『忘れてきた風の街』・・・・・・・・・・・木村草弥
原田

──新・読書ノート──

     原田亘子詩集『忘れてきた風の街』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・空とぶキリン社2013/05/01刊・・・・・・・・

初見の原田亘子(はらだ のぶこ)さんから、この詩集が恵送されてきた。
「空とぶキリン社」というのは、先に紹介したことのある詩人の高階杞一氏が発行する出版社である。
図版でわかるようにメルヘンチックな装丁は浜野史子さんのものである。

原田さんは、こういう人である。
1953年 秋田県能代市生まれ
既刊詩集 『天のかざぐるま』(書肆とい)1993年

私あての私信には、吉原幸子が先師であるという。
先に私がブログに載せた記事もお読みいただいたそうで、読後感も書いて来られた。
そして、この詩集の「あとがき」には、こう書いてある。

     あとがき
一冊目の詩集を出してから二十年がたってしまいました。この歳
月に起きた自分や周囲のこと、日本のことを、今しずかに思ってい
ます。
私がパ二ック障害を患ってから二十年ほどになります。時には心
が折れそうになって、たまに詩の一片が肩に降りてきてくれても
私のささやかな呟きにしておこうと思っていました。
二〇一一年三月十一日。震災による大きな被害とそれに続く原発
事故。呟きにしておこうとしていた私の中で何かが動き出した頃、
高階杞ーさんの二冊の詩集に出会えたのです。『空への質問』と『早
く家へ帰りたい』。光明でした。
その高階さんのもとで二冊めの詩集を編むことができた不思議さ
に、深く深く感謝しています。
この二十年間の詩を読みかえすと、私が書き綴ったというよりは、
詩の中の主人公や、その陰にいる人たちの存在こそが(私の表現力
が拙くて申し訳ないのですが)、生み出してくれていたのだ、と気づ
かされました。
そして、詩の恩師と私が胸のうちで心から尊敬する方々からの教
えや励まし、苦しい時に支えてくれた友人、家族にも心から感謝。
宮城県南三陸町の詩人・須藤洋平さんの存在も、困難な中にあって
書き続けることの光を私に与え続けてくれました。
皆様、ほんとうにありがとうございました。
     二〇一三年一月 雪の激しく降りつむ日に
                   原田亘子
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本が出たばかりであり、ネット上にまだ批評などは出ていないが、私の目に止まったのは下記のようなものである。

はたち よしこ「レモンの車輪からの旅」に次のような紹介がある。

2013年05月11日

風の掲示板9

原田亘子詩集『忘れてきた風の街』(空とぶキリン社)
5月1日の新刊。一生のうち、だれもがこんなことを思い、思い出し見つめたことがあるはず、
1編ずつに共感し、やさしい風に吹かれていく詩集です。

     麦わら帽子    原田亘子

   夏のおわり
   森の入り口に
   麦わら帽子が
   おちている

   夏の森に
   さよならするみたいに

   思いっきり
   いい夏だった
   少し色あせた帽子のつばが
   言っている
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この詩集には「忘れてきた風の街」という言葉そのものの詩はない。 この詩集一篇を形作るものと私の考える詩を五篇引いておく。

     田打ち桜・・・・・・・・・・・原田亘子

     夕ウチザクラ──

   車窓のむこうを見つめて友人が言った
   北国の山あいの村から
   二両編成のディ—ゼルカ—が
   ひろびろとした田園風景はに出た瞬間だった

   その方向を見やると
   たった一本
   辛夷の花が
   まだ雪どけ水の匂いが残るような風に
   ゆれていた

   田打ち桜
   はじめて耳にする言葉だった
    田打ちの農作業が始まる頃に咲く花だから──
   農家に生まれ育ったその人が
   温かい水のような声でおしえてくれる

   霞むようにしか見えない田んぼの中で
   たった一本
   春のおとずれを告げる鐘の音のように
   辛夷の樹は立っている

   純白の手のひらをそっとあわせて
   天空を見つめて
   咲いている

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     見知らぬ街・・・・・・・・・・原田亘子

   バスを乗りまちがえて
   見知らぬ街に降り立ったことがある
   それから数年後その街の住人になった
   不思議なことがあるものだと思った
   私はその街で
   明け方さくさくと仲びる稲の伸びる音を聞いた
   淋しい人の肩に降りつもる言葉の
   切れ端も聞いた
   一人寝る枕の下を吹いてゆく風の音を
   聞いた夜もある
   見知らぬ街は
   私を人として步き出させるために
   見えない腕で
   引き寄せてくれたのだろうか
   その街に降る淡雪は
   かすかに辛夷の匂いがした
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       風・・・・・・・・・・原田亘子

   茫茫たる大地の
   背中

   遠くに 一軒の
   廃屋(シンメトリ—の大きな館)

   描かれているのは
   風

   樹も草も人も
   キャンバスの中にはいないのだが
   無数に砑する かってここに在った
   樹の 草の 花の 人の 音

   風だけがその横っ腹に刻みつけて
   何処かへつれてゆく

          (原光子作「風の方向」によせて)

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       少女・・・・・・・・・原田亘子

   ラ・メールの集いの帰りぎわ
   ──今度 ゆっくり揉ませていただきます
   失礼もかえりみず肩にふれて
   思わず言ってしまった

   飛び疲れて
   精も根も尽き果てた鳥
   のように見えた

   驚いたようにふりかえって
   わたしの顔を見た
    (仰ぎ見る対象でしかなかった)
   「吉原幸子」が
   わたしの顔を見上げた

   わたしはあの時の吉原先生の顔を
   生涯忘れない
   カミーユ・クローデルの
   不安げに空を見上げる少女の首が
   そこに在った
   片手にビ—ルのグラスを持って

   飲まずにはいられなかったのだろうか
   まだ少女なのに……
   ぬくもりのいっとう欲しい
   少女なのに

   ついに肩を揉んであげることは
   叶わなかったけれど
   あの日 目にした
   月光に晒される少女の瞳は
   わたしの胸底深く沈んで
   侵しがたくまどろんでいる
   人が生きることの
   切なさと
   神々しさを湛えて

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      忘れてきたもの・・・・・・・・・原田亘子

   何かを忘れてきた   
   でも思い出せない
   遠い日に
   忘れてきたもの

   約束の時間に行けなかったこと
   今でも返せずにいる本
   出さなかった手紙の返事
   たくさんのことを
   置き忘れてきた

   若い曰に
   言いたくても言えなかったこと
   言い返せなかった一言(もあった)
   聞きたくても聞けなかった
   恋人の本音

   ああ 何だったけ
   言いそびれてしまった ありがとう
   ごめんなさいの言葉
   もう会うこともなくなった人たちの
   顔やしぐさが
   思い出の箱の中から飛び出してきては
   消えてゆく

   そうだ
   わたしは わたしを
   忘れてきていた
   何がほしいのかわからず
   迷子の顔をして歩く
   十九歳のわたしを

   どの道をすすんでゆけばいいのか
   わからず
   心細げに立ち竦む赤いミニスカートの女の子を
   置き去りにしてきたのだ
   国分寺駅の
   南口駅前に
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原田さんが高階杞一さんの詩誌に入られたのは、よかった。
高階さんの詩作りと共鳴するものがあるからである。
ここに引用した詩については、敢えて批評はしないが、引くことが、もうすでに一つの批評であると理解してほしい。
詩などの本文はスキャナで取り込んだので、どうしても「文字化け」が生じる。子細に修正したが、まだあれば指摘してください。 すぐに直します。

佳い詩集をいただいて、ほのぼのとした気持で居る今日の午後である。 ご恵送に感謝して筆を置く。 (2013/05/19 記)


 筒鳥の遠音近づくことのなし・・・・・・・・・・・・・・・・森田峠
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     筒鳥の遠音近づくことのなし・・・・・・・・・・・・・・森田峠

「ツツドリ」は、人間の住むような里山には近づかず、林間に居て、鳴き声だけが遠くから聞こえてくる。
この句は、そういう筒鳥の生態を、よく捉えている。
私の歌にも、こんなものがある。

  筒鳥の遠音きこゆる木の下に九十の母はのど飴舐むる・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

筒鳥は郭公やほととぎすと同じ仲間で姿、形が似ている。これらの鳥は鳴声は田舎なら、よく聞くことがあるが、姿を見ることはめったにない。
この種類の鳥は子育ての際に、独特の「托卵」という習性があることが共通している。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも

   み熊野の出で湯に宿るあかときにぽぽろぽぽろと筒鳥の声

という歌を載せている。
掲出の歌のことだが、私の母は93歳で亡くなったが、この歌は90歳の頃のことを詠んでいる。母には曾孫も出来ていたから文字通り悠々自適の晩年だった。
初夏のむせかえるような陽気の日には大きな木の蔭でのんびりと過ごしていた。
「のど飴」を舐める母、というところに私の歌作りの工夫を込めたつもりである。

以下、歳時記に載る句を少し引いて終わりたい。

 つつ鳥や木曽の裏山木曽に似て・・・・・・・・加舎白雄

 筒鳥を幽かにすなる木のふかさ・・・・・・・水原秋桜子

 筒鳥なく泣かんばかりの裾野の火・・・・・・・・加藤楸邨

 筒鳥や楢の下草片敷けば・・・・・・・・石田波郷

 筒鳥鳴けり腕を撫でつつ歩むとき・・・・・・・・大野林火

 旅にして聴く筒鳥も辰雄の忌・・・・・・・安住敦

 筒鳥やひとの名彫られ一樹立つ・・・・・・・・中島斌雄

 筒鳥や涙あふれて失語症・・・・・・・・相馬遷子

 筒鳥や分れて道は火山灰ふかく・・・・・・・・皆吉爽雨

 筒鳥や思はぬ尾根に牛群れて・・・・・・・・堀口星眠

 筒鳥や山に居て身を山に向け・・・・・・・・村越化石

 今度こそ筒鳥を聞きとめし貌・・・・・・・・飯島晴子

 筒鳥の風の遠音となりにけり・・・・・・・・三村純也

 筒鳥やこんにやく村はすぐ陰る・・・・・・・・茂木連葉子

 筒鳥や豆が双葉となりし朝・・・・・・・・矢上万理江



目には青葉/山時鳥/初鰹・・・・・・・・・・・・・山口素堂
01鰹

     目には青葉/山時鳥(ほととぎす)/初鰹・・・・・・・・・・・・・山口素堂

この句は作者名を知らなくても、多くの人に愛誦されている代表格のものだろう。
元の句には区切りなど無いが、意味をはっきりさせるために敢えて区切りを入れてみた。了承されたい。
なぜ「山時鳥」というのかについては ← のところで書いたので参照されたい。
「目に青葉」と読む人があるが、正しくは、字余りになっても「目に青葉」と読んでもらいたい。

山口素堂は芭蕉と親交のあった江戸の俳人。句は「鎌倉にて」という前書きがある。
目のためには一帯の山の青葉。耳のためにはほととぎす。鎌倉の初夏はすばらしい。
その上に、相模の海の名物の初鰹とは、何とよい土地柄だろう、というのである。初物好きの江戸っ子の美意識が強く感じられる。

大島蓼太の句にも

    鎌倉は波風もなし鰹つり

というのがあるが、相模湾は、その昔、マグロやカツオの漁でも有名だった。
同じ江戸中期の国学者で歌人の賀茂真淵には

    大魚(おほな)釣る相模の海の夕なぎに乱れて出づる海士(あま)小舟かも

という爽快な漁場風景を詠んだ歌がある。
なお、念のために申し添えておくが、「青葉」「ほととぎす」「初鰹」ともに俳句の世界では「夏」の季語である。つまり一句の中に季語が三つあることになる。
今は一句の中に複数の季語を入れることを喧しく指摘する宗匠もあるらしいが、そんなことに拘らない「大らかさ」が、この句にはあり微笑ましい。
旧暦の四月(卯月)、新暦の五月からは「夏」になる。
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d0080223_19245841ホトトギス

ここでは、「ほととぎす」にまつわる句歌を少し引いておく。

    谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま・・・・・・・・・・杉田久女

結句の「ほしいまま」というのが鳥の自由奔放な命の発露を言いとめている。
この句の前書きには「英彦山」とある。福岡、大分両県にまたがる修験道の霊山である。
久女は昭和5年高浜虚子選で行われた全国新名勝俳句に応募のため、英彦山に登ってこの句を得、金賞を獲得した。
しかし同じ句を「ホトトギス」に投句した時には没だったという話もある。
久女の浪漫的で大胆な句風は女流俳人中で異彩を放ったが、なぜか昭和11年理由不明のままホトトギスから除名された。悲運の閨秀作家である。

    ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞわすれぬ・・・・・・・・式子内親王

詞書には「いつきの昔を思ひ出でて」とある。
「いつき(斎)の昔」というのは、式子内親王が賀茂神社の斎院として青春の十年間を神に奉仕する身であった時代を回想してという意味である。
「そのかみ」と「かみ山」とは掛け詞で、後者は賀茂神社のある森のことを神山(こうやま)と今でも言う。
「旅枕」は賀茂の祭礼のとき、社殿の脇の神館に斎院が一夜泊るしきたりを、旅になぞらえたのである。
ほととぎすよ、その昔、賀茂の神館に旅寝した夜明け、お前がほのかに鳴いて過ぎた、あの時のことが忘れられない、という意味である。
口ずさめば歌は縹渺たる時間と空間を呼び起し、恋歌のような情緒さえ刺激する。
現在では「上賀茂神社」と一般的に呼称する。
「神山」の辺りには今は京都産業大学のキャンパスが広がっている。
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山口素堂についてネット上から転載しておく。

山口素堂(やまぐち そどう)

(寛永19年(1642)5月5日~享保元年(1716)8月15日、享年75歳)

 甲州白州巨摩郡教来石山口(現山梨県北杜市白州町。現在では、近くにサントリー白州ディストラリーがある)の人と言われている。
父山口市右衛門の長男として誕生し、甲府魚町で家業の酒造業を営んでいたが、向学心に燃えて家督を弟にゆずり江戸に出て、漢学を林春斎に学ぶ。
芭蕉とは2歳ほど年上だが、相互に信頼しあって兄弟のような交わりをした。儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた当時稀有な教養人であった。(以上『甲斐国史』による)
 名は信章<しんしょう>、字は子晋<ししん>、通称は勘兵衛。
俳号素仙堂・其日庵・来雪・松子・蓮池翁など多数。子晋・公商は字。趣味も多彩で、蓮を好んだことから「蓮池翁」などと呼ばれた。
延宝4年には『江戸両吟集』を、延宝6年には『江戸三吟』を芭蕉との合作で発表。75歳で死去。
「四山の瓢」参照。

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素堂の代表作

目には青葉山ほとゝぎす初がつを (『あら野』)

池に鵞なし假名書習ふ柳陰 (『あら野』)

綿の花たまたま蘭に似たるかな (『あら野』)

名もしらぬ小草花咲野菊哉 (『あら野』)

唐土に富士あらばけふの月もみよ (『あら野』)

麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし (『あら野』)

髭宗祇池に蓮ある心かな (『炭俵』)

三か月の隠にてすヾむ哀かな (『炭俵』)

うるしせぬ琴や作らぬ菊の友 (『續炭俵』)


動くもの皆緑なり風わたる・・・・・・・・・・・・・・・五百木瓢亭
konara小楢本命

     動くもの皆緑なり風わたる・・・・・・・・・・・・・五百木瓢亭

今や見渡すかぎり、みどり一色の若葉である。 この句は、そんな季節感を巧く作品化している。

私の歌にも、若葉を詠んだ、こんなものがある。

   日が照ればエーテルのごとく香を放つ楢の若葉よ午前六時だ・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

写真は小楢の若葉である。ちょうど開花期で雄花序が垂れ下がっている。
ナラ、クヌギの類は人家に近い、いわゆる「里山」の木で、薪にされてきたもので、伐採した後には株元から次の新芽が出てきて林が更新するのである。

konara4コナラ青

写真②はナラの実、いわゆるドングリである。ナラの実は細長い。クヌギの実は、もっと丸い形をしている。

里山は薪などに加工して、伐採して世代更新をしないと木は大きくなりすぎて逆に荒廃する。
この頃では農村でも台所では電気やプロパンガスを使うので薪の使い場所がない。
ようやくシイタケ栽培のホダ木としてシイタケの菌を打つ位であるが、そのシイタケが中国産に押されて価格が下がり日本産は採算が合わないとかで、栽培は減っている。
五月に入ると里山も気温がぐんぐんあがり、天気のよい、湿気の多い日には林はむっとむせかえるような様子になる。
yun_1079白糸の滝

私の歌は、そういう楢の林が新緑に満ちた朝六時の光景を詠っている。
新芽からはツンとする新緑特有の香りが立ち、太陽が中天にさしかかると、むせかえるような空気に包まれる。
「森林浴」というのは本来、ロシアで言われてきたことで、針葉樹の木から出る「フィトンチッド」というエーテル系の成分が体によいことを指したのだが、
今では広葉樹の森の森林浴も含めて言われるようになってしまった。しかし、いずれにせよ森林浴というのは、いいものである。

俳句にも「新緑」「新樹」など多く詠まれているので、それを引いて終わりたい。

 大風に湧き立つてをる新樹かな・・・・・・・・高浜虚子

 夕風の一刻づつの新樹濃し・・・・・・・・中村汀女

 阿蘇も火を噴くと新樹のきのふけふ・・・・・・・・百合山羽公

 夜の新樹詩の行間をゆくごとし・・・・・・・・鷹羽狩行

 若葉して御目の雫拭はばや・・・・・・・・松尾芭蕉

 若葉して手のひらほどの山の寺・・・・・・・・夏目漱石

 まざまざと夢の逃げゆく若葉かな・・・・・・・・寺田寅彦

 槻若葉雫しやまずいつまでも・・・・・・・・加藤楸邨

 青葉若葉しかすがに逝く月日かな・・・・・・・・中川宋淵

 青葉満ちまなこばかりの稚魚誕生・・・・・・・・加藤一夫

 新緑やうつくしかりしひとの老い・・・・・・・・日野草城

 新緑の天にのこれりピアノの音・・・・・・・・目迫秩父

 摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・・・・鷹羽狩行

 水筒の茶がのど通る深みどり・・・・・・・・辻田克己

 まぶたみどりに乳吸ふ力満ち眠る・・・・・・・・沖田佐久子


 金雀枝や基督に抱かると思へ・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
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       金雀枝(えにしだ)や基督に抱かると思へ・・・・・・・・・・・石田波郷

エニシダの咲き誇る季節になった。
この句は、少し判りにくいかも知れない。 もともとエニシダはヨーロッパ原産の植物である。
私にはキリスト教と深く結びついている木のように思える。
私の歌に次のような作品がある。

    金雀枝(えにしだ)は黄に盛れどもカタリ派が暴虐うけしアルビの野なる・・・・・・・・・・・木村草弥

エニシダは地中海原産で、ヨーロッパに広く野生化している。日本には中国を経て、延宝年間に入ってきたと言われる。
オランダ語ではゲニスタやヘニスタと呼ばれていたが、日本ではエニスタと言われるようになり、今のエニシダになったという。マメ科の落葉低木。

この歌は1998年5月に南フランスに旅した時にボルドーの内陸部のアルビに立ち寄った時の歌である。
アルビというと、画家ロートレック(日本では慣習的に「ロートレック」で呼ばれるが、正しくは「トゥルーズ=ロートレック(ロトレック)」でひとつの姓である)の故郷で、
その美術館も見たが、ガイドがさりげなく説明した「異端審問」で、この地でカタリ派が受けた暴虐を思い出して歌にしたものである。
アルビの野は、それらのカタリ派の無惨な血の記憶が染み付いているのである。


エニシダは初夏の花である。この歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載っている。
この歌のすぐ後には

   まつすぐにふらんすの野を割ける道金雀枝の黄が南(ミディ)へつづく

が載っている。高速道路の路傍には、文字通り「エニシダ」の黄色が果てしなく続くのであった。

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「異端審問」あるいは「魔女狩り」というのは、キリスト教の歴史の中でも「負」の遺産として語り継がれているが、旅の中でも、こうした心にひびく体験をしたいものである。
そして、深く「人間とは」「神の名のもとに」という愚かな蛮行を思い出したい。

そんな意味からも、掲出した石田波郷の句は、私には関連づけて読みたい作品だったので、引いてみた。

「カタリ派」については、← ここにリンクした「世界宗教大辞典」の記事に詳しい。長いものだが参照されたい。


以下、エニシダを詠んだ句を少し引く。

 えにしだの黄色は雨もさまし得ず・・・・・・・・高浜虚子

 えにしだの夕べは白き別れかな・・・・・・・・臼田亜浪

 エニシダの花にも空の青さかな・・・・・・・・京極杞陽

 金雀枝の黄金焦げつつ夏に入る・・・・・・・・松本たかし

 金雀枝やわが貧の詩こそばゆし・・・・・・・・森澄雄

 金雀枝の咲きそめて地に翳りあり・・・・・・・・鈴木東州



詩誌「芸術と自由」No.288より藤原光顕、梓志乃の歌・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
芸自

──藤原光顕の歌ほか──(10)

   詩誌「芸術と自由」No.288より藤原光顕、梓志乃の歌・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・2013/05/01刊・・・・・・・・

敬愛する梓志乃さんの主宰する標題の雑誌が届いた。 その中から二つを引いておく。

   風に紛れて      藤原光顕
奥海印寺太鼓山とは丘の上 一日はまず下りる方へ始まる
いつまでもこんなかたちで生きているような気がしてストーブの前
二月は壁のあんなところに陽がさして埃があんなに光ったりする
風に紛れて葉書一枚ポストへ落とす この冬の悔いとなるのか
棒読みのように神の恵みを説き統ける女 こんなにきれいなのに
逆に曲がった筈のおばさんが前を行くそんなの有りか 気分はありだ
ひとすじの風がいっしゅん春のようでうっかり角を曲がってしまう
とりたてて旨いものではないけれど庭の蕗の薹の味噌和えである
急力—ブで長岡天神駅に入る電車 ブレ—キの匂いが春になった
次は春の河原町終点 いま覚めたおじさんもいる阪急電車


   懐かしい風景は    梓志乃
夢二・華宵・虹児 昭和モダン忘れられて久しい
懐かしい時代よ 少女の夢のロマンあふれて挿絵展は
大正ロマン•昭和モダン展 夢美術館に華が匂いたつ
挿絵の少女の瞳が蒼い シャイな男の心を捕らえ続けて
「生きていたなら」と昭和男のシャイな眼 風の便りさえ無い
ロマン夢見た少女時代 懐かしむほどに老いてゆく
ファシズムの重い闇を背に挿絵の少女の大きな瞳は何を見た
心ばかりが夢を見る 激動の昭和物語を語る人老いて
昭和の時代を駆けて逝ってしまった 淡い思慕よりあわい想い残して
一つの時代が逝くとき人は何を思うのだろう激動の歴史の果て
戦争の語り部たちが逝き物語は美化されてゆくのか
新しい世紀も四世紀すぎた 今再びの時代の動きの危うさ
戦争を知らぬ世代が国を操る ひそかに改憲のテープが切られる
文明の限りない奢りを吿発せよ ボタン一つの戦争 歴史の闍
冬が終りを告げない 風は語らない 時代は波にのまれ北は厳寒

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おなじみの光顕節と、梓志乃さんの時局を鋭くトリミングした歌群である。
いくらかは類型化したきらいが無いでもないが、佳い歌なので、鑑賞されたい。 益々のご健筆を。

歌はスキャナで取り込んだので、どうしても「文字化け」が生じる。子細に修正したが、まだあれば指摘してください。すぐに直します。 よろしく。

「あとがき」によれば、芸術と自由誌の全国大会が今年は8/24~25に奈良で開催されるらしい。
一度覗いてみたいという気がするのだが、果たして、どうなりますか。


茶師なれば見る機もなき鴨祭むらさき匂ふ牛車ゆくさま・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
g08葵祭

   茶師なれば見る機(をり)もなき鴨祭
     むらさき匂ふ牛車(ぎつしや)ゆくさま・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。
この歌は塚本邦雄氏が読売新聞の「短歌時評」で採り上げて下さった2首のうちの一つである。
葵祭5月15日(雨天順延)に行われるが、この歌の主旨は、私が「茶」を生業としていたので、丁度その頃には新茶の製造時期であり、
それどころではない忙しい日々を過ごしていたので、じっくりと祭を見物する機会もなかった、ということである。
この祭は古来、俳句などでは五音に収まるというので「鴨祭」と通称されてきたのである。
京都には三大祭といって、葵祭、祇園祭、時代祭のことだが、一番古いのが、この葵祭である。もともと京の先住民とも言える賀茂氏の祭だった。
現在の上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)という賀茂氏の神社で五穀豊穣を祈願する祭が、平安遷都を境に国家的な祭になって行った。
さわやかな新緑匂う皐月の頃、藤の花で飾られた牛車(ぎっしゃ)や輿に乗った「斎王代」を中心にした行列が、
御所を出て下鴨神社から上賀茂神社を巡幸する祭の光景は、
平安の昔をそのままに、都の雅(みやび)そのものを展開すると言える。

写真の説明をしておくと写真①が御所をでる行列、写っているのは牛車。写真②は、牛車の側面──藤の花の房で飾られている。写真③は輿に乗る斎王代。
hyosi牛車

saio-03輿に乗る斎王代

現在の祭の主役は「斎王代」だが、この斎王代が主役となっての祭の歴史は新しい。
斎王代とは、その名の示すように、斎王に代わるもの、代理である。
斎王は伊勢神宮や賀茂の神社に奉仕した未婚の内親王、女王のことである。
平安の昔、この祭が国の祭であった頃、賀茂の宮には斎王が居られ葵祭に奉仕しておられた。
お住いを斎院と言い、祭のときに出御し、勅使の行列と一条大宮で合流する習いだったという。
写真④は下鴨神社のみたらし川での斎王代の禊の様子。祭の数日前に行われる。
saio-01斎王代みそぎ

葵祭の始まりは平安時代初期、弘仁元年(810年)、嵯峨天皇が伊勢神宮にならって、賀茂社にも斎宮を置いた。
この初代斎王─有智子内親王から鎌倉時代はじめの礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで、約400年にわたって続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府との政変、承久の変で途絶する。
以後、葵祭は勅使は出るものの、斎王が復活することはなかった。
saio-02女人行列

それを昭和28年に葵祭復活後、行列を華やかに盛り上げるために、葵祭行列協賛会などの努力で「斎王代」を中心にした女人行列(写真⑤)などを加えて、今日に至るのである。
斎王代は民間の未婚の女性が選ばれることになっている。
これに選ばれることは名誉なことであるが、選ばれることによる持ち出しも大変なもので一千万円にも及ぶ出費を覚悟しなければならず、
高額所得のある社長令嬢しか、なれない役目である。

参考までに申し上げると、三大祭の他の二つは、
「祇園祭」は中世に京の都が荒れ果て、病気が蔓延していた頃、「町衆」が立ち上がり世の平穏と病魔退散を願って立ち上げたのが祇園祭であり、別名を町衆の祭と言われている。
だから、この祭には勅使なども一切参ることはない。昨年にも書いたが「大文字の送り火」も町衆の発起したものである。
もう一つの「時代祭」は、明治になって平安神宮が郊外の岡崎の地に造営されたのを機会にはじめられた時代行列である。まったく新しい祭である。
都が東京に遷都して京都の町が疲弊していたのを立て直すイベントとして考案されたもの。

以下、葵祭を詠んだ句を引いて終わりたい。

 草の雨祭の車過ぎてのち・・・・・・・・与謝蕪村

 賀茂衆の御所に紛るる祭かな・・・・・・・・召波

 地に落ちし葵踏みゆく祭かな・・・・・・・・正岡子規

 しづしづと馬の足掻きや加茂祭・・・・・・・高浜虚子

 懸葵しなびて戻る舎人かな・・・・・・・・野村泊月

 うちゑみて葵祭の老勅使・・・・・・・・阿波野青畝

 牛の眼のかくるるばかり懸葵・・・・・・・・粟津松彩子

 賀茂祭り駄馬も神馬の貌をして・・・・・・・・伊藤昌子
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「葵祭」の名前の由来は、この儀式全体を通じて「葵」─フタバアオイの葉っぱを延一万本も飾ったり掲げたりすることによる。これを「挿頭」(かざし)という。
写真⑥がフタバアオイの葉っぱである。
今までは、この葵は神社の境内に自生しているものから摘み取って使ってきたが、枯渇してきたので神社奉賛会などの努力で、苗を各地で栽培してもらって提供していただいているという。
牛車の脇に垂らされるのが「葵」の花なのか「藤」の花なのか。フタバアオイの花は写真に写るようなものとは全然別のものであるからフタバアオイの花である筈がないのである。
だから今の季節の華やかな花である「藤」の花が垂らされているようである。
フタバアオイの花の咲くのは一ヶ月も後であり、そのフタバアオイの花の写真⑦もつづいてお目にかける。
断定はいたしかねるが、私の文章では、だから「藤」の花としておいた。ご了承願いたい。
なお掲出した写真は、いずれも過年度のものである。


言語学者・堀井令以知が死んだ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
堀井
 ↑ グラフ社2008/08/06刊
堀井②
↑ 雄山閣2011/11/25刊
51E5-0Fz7CL__SS500_.jpg
 ↑ 京都新聞出版センター2009/05刊
46堀井令以知
 ↑ 晩年の堀井令以知

──エッセイ──

     言語学者・堀井令以知が死んだ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

京都新聞2013/05/07夕刊を見ていたら、「追想」欄に下記のような記事が出ていた。再録する。 ↓

   言語学者・堀井令以知さん 3月10日死去、87歳
   
言葉は面白い、この面白さを広く伝えたい─言語学者として京ことばからフランス言語学まで広く、深く追究し続けた生涯だった。
京都市伏見区淀出身。旧制桃山中(現•桃山高) 1年の時、河原町丸太町上ルへ。実家は戦前には珍しい欧文専門印刷所。
関西日仏学館が得意先だった。
フランス人館長から「オリイさん」と呼ばれ、「なぜ『h』を発音できないのか」と疑問を持ち、
敗戦を告げる玉音放送には「難解だ。どれほどの人が理解できるのか」と感じた。
激動の時代でも、常に言葉に関心を持ち続けた。
大阪外国語学校(後の大阪外国語大)フランス語専攻を経て戦後、京都大へ。
寺院や花街、隠れキリシタンの里で調査を重ねた。関西外国語大学教授の傍ら、他大学でも言語学を教えた。
約30年前に1年間、筆者も受講した。教壇から身を乗り出して言語学者ソシュ—ルを解説し、教科書の誤訳を指摘。
時に「ようござんすか」と問いかけた。長女の谷口利恵子さん(49)によると、あらたまった時の口癖だったという。
2008年4月から1年間、本紙朝刊1面で「折々の京ことば」を連載し、NHK大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」など幕末
劇のせりふを監修するなど、研究成果の発信にも尽力した。
「広辞苑」編集で知られる新村出博士の孫弟子だけに、同辞書第6版の編さんに携わった時は、さぞうれしかったのではないか。
序文には博士への敬愛の情を率直に表し、「ことばは絶えず変化し、揺れている」「辞書を楽しくおもしろく
使える人が増えることを期待したい」と結ぶ。
晩年も自宅で研究一筋で気分転換は野球、相撲のテレビ観戦。妻和子さんを一昨年暮れに失って気落ちしたというが、
近くミネルヴァ書房から刊行される自伝のゲラ点検は終えていた。研究に区切りはついていたのだろうか。(内田孝)
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記事には同氏の写真が配され、その写真下に
<堀井令以知さんは、晩年も月に1、2回は大阪府枚方市の自宅から、ゆかりの新村出記念財団(京都市北区)に通っていたという>
というキャプションが付けられている。

今調べてみたらWikipediaに彼の項目が出ている。 → 堀井令以知

なお、同紙の死亡記事は下記の通り。 ↓

堀井令以知氏死去 言語学者、「折々の京ことば」執筆

 京言葉を中心に幅広い言語比較、語源研究を行った言語学者で関西外国語大名誉教授の堀井令以知(ほりい・れいいち)氏が10日、肺炎のため大阪府枚方市内の病院で死去した。87歳。京都市出身。自宅は公表していない。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長男知彦(はるひこ)氏。

 京都大でフランス言語地理学を学び、後に対馬方言調査への参加をきっかけに日本の方言学に研究を移した。1978年から2009年まで関西外国語大教授、03年から新村出記念財団理事長を務めた。編著書に「ことばの由来」「京都語辞典」(共編)など多数。映画やNHK大河ドラマ「篤姫」「風林火山」などで京言葉、御所言葉の指導も手がけた。08~09年に本紙朝刊1面「折々の京ことば」を執筆した。

【2013年03月11日 23時20分】
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長々と新聞記事などを引いたが、彼は、私の住む青谷の「中村」という在所の出身なのである。
私の母方の親族が、ここにあり、彼の本家というのが母方の親族で、葬儀や、その後の「なおらい」の宴席などで本家の人から彼の話を聞いた。
私の母も「中村」の出身だが、旧姓は「堀井」であり、この地域は「堀井」と「新井」姓が全体の8~9割を占めるという特異なところ。
同姓同名という現象も発生し、郵便物の誤配など混乱が生じたりする。そんな際に変に改名したりすると改名した人が「負けて」早死にしたりするのだった。
これは明治になって百姓、町人も苗字を名乗るようになった際に、同じ株などの親族が一緒の姓を付けたのに由来するが、出身地特定などに便利である。
そういうのを研究する学問分野もある始末である。 因みに「加藤」「横井」などの姓は愛知県に多い。 など。

彼・堀井令以知の死去を知って、友人の玉村文郎君に手紙を書いたら手紙と電話をいただいた。
上の記事にも書かれているが、彼は新村出記念財団理事長だったが、彼の後任の現・理事長が玉村君である。
彼・堀井令以知の父親の代に「中村」を出ているようで、昔は地主以外はみな貧しく、また子だくさんだったから、早くから徒弟奉公に出たもので、
彼の父親も印刷の技を身につけたものであろう。
上の記事にもある通り、横文字専門の印刷所というのは特異なものであり、玉村君の手紙によると父親は「エスペランティスト」だったという。
ご承知の通りエスペラント語は全くの人工語であり、共通言語を作ろうという考えで発生したが、戦前までの現象で、この運動は戦後は進展しなかった。
第一次世界大戦後には、国際連盟の公用語として採用してはどうか、という働きかけもあったらしいが実現しなかった。
言語というのは、食習慣がなかなか改まらないのと同様に、極めて保守的な性格を持っているからである。
第二次大戦後は、戦勝国として世界に君臨したのはアメリカであり今や、その言語・英語(米語)が世界の共通語となったからである。
戦後しばらくまでは、大学生の周辺でも「エスペラント語」云々という言葉が聞かれたものだが、今回の訃報を機に、そんなことが思いだされる。
先に紹介したが、Wikipediaの彼の項目を見ると、「著書」のところの一番初めに
「古い校舎 綴方と漫画 堀井欧文印刷所 1938」
とある。これは父親が彼・令以知の作文と絵を冊子にしたものであろう。 自宅が印刷所だから出来ることである。
1938年と言えば、彼が13歳のことである。 微笑ましい限りである。印刷所の名前が「 堀井欧文印刷所 」というのだったのも判然とする。

彼・堀井令以知は「桃山中学校」出身とある。 私も旧制・桃山中学校出身であり、大阪外語出身ということも縁があるのである。
今はまだ明るみに出来ないが、私の次詩集の編集に際して、彼・堀井令以知の著書などを参照したので、これも縁があると言える。
だから今日は、いささか私的ではあるが、彼・堀井令以知を採り上げた次第である。
玉村君については、このブログでもお世話になったことがある。 → ケンタッキー・フライドチキンの中国語表記は?

近くミネルヴァ書房から刊行される自伝なるものは、ぜひ買って読んでみたいと思う。



 昨夜の雨二上山を洗ひ練供養・・・・・・・・・・・・・・石垣青葙子
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    昨夜の雨二上山を洗ひ練供養・・・・・・・・・・・・・・石垣青葙子

奈良県の二上山麓の当麻寺(たいまでら)では5月14日16時から「中将姫」ゆかりの「練供養」行列が催行される。
この日は、この寺に当麻曼荼羅をもたらした中将姫の忌日にあたる。

中将姫(写真②の坐像)とは、どういう人なのだろうか。
187中将姫坐像

当麻寺境内の「中将姫」説明板によると、姫は奈良時代の右大臣・藤原豊成の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられが嫌われ、ひばり山に捨てられた。
その後父に再会し都に戻ったが、姫の意向を無視して当麻寺に入れられたが、称賛浄土経一千巻の写経をなしとげ、17歳で中将法如として仏門に入り、
曼荼羅を織ることを決意した。
百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、これを井戸にひたすと糸は5色に染まった。そして、その蓮糸を、一夜にして一丈五尺もの蓮糸曼荼羅を織り上げた。
姫が29歳の春、雲間から一条の光明とともに、阿弥陀如来をはじめとする25菩薩が来迎され、姫は現身のまま成仏して西方極楽浄土へ向かわれたと伝える。

03当麻曼荼羅

写真③は曼荼羅堂の曼荼羅だが、公開されているのは1502年に作られたレプリカで、原本は国宝で痛みがひどく非公開。

練供養の25菩薩は当番の人が面をかむり、娑婆堂から曼荼羅堂まで高い引摂橋が組まれ、観音、勢至が中将姫の像を守り、25菩薩を先導する。
これは弥陀来迎のさまを表現したもので、恵心僧都がはじめたという。中将姫の曼荼羅の奇跡に弥陀来迎の信仰を、目で見る信仰とした昔の芝居けたっぷりの行事と言える。

関西では有名な行事だが、俳句に詠まれるものは多くはない。それを引いて終わる。

 練供養二つの塔を望み来し・・・・・・・・青木月斗

 一役のかなひし父や練供養・・・・・・・・松岡汀月

 葉ばかりとなりし牡丹や練供養・・・・・・・森田木亭

 雨雲の塔に振り来し練供養・・・・・・・・徳岡洋子

 練供養待ちくたぶれし久米の子ら・・・・・・・民井とほる

 附き人が菩薩を煽ぐ練供養・・・・・・・・右城暮石

 日は西に二十五菩薩練りにけり・・・・・・・・山口峰玉

 脚長き菩薩増えたる練供養・・・・・・・・高松早基子

 もの言うて菩薩親しも練供養・・・・・・・・今井妙子

 菩薩みな頭でつかち練供養・・・・・・・・成瀬桜桃子



夏草や兵共がゆめの跡・・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉
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  夏草や兵共(つはものども)がゆめの跡・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

夏草の一句を挙げよ、と言われれば、余程のことがないかぎり、芭蕉の上の一句をあげる人が多いだろう。

元禄2年5月13日、芭蕉の『おくのほそ道』の旅は、この日平泉に到達する
今日の日に拘ってBLOGをアップする所以である。
もっとも、この日付は旧暦であるから、新暦では六月中旬であり、年によって前後するので、敢えて旧暦の日付のままに載せた。

平泉で繰り広げられた奥州藤原氏三代の栄華もはかなく消えて、華美を尽した秀衡の館も田や野に変わっていた。
芭蕉は、衣川が、その下流で北上川に合流する、もと源義経の館だった高館(たかだち)にのぼる。
辺りは夏草が生い茂り、その昔、ここで討ち死にした義経主従の奮戦も一場の夢と化していた。
芭蕉は「国敗れて山河あり、城春にして草青みたり」という杜甫の詩『春望』を思い出し、栄枯盛衰に涙して、この句を作ったと『おくのほそ道』は記述する。

以下、少し、かの地に触れて書いてみる。
岩手県西磐井郡平泉町だが、平泉駅から西へ500メートルの毛越寺(もうつうじ)の山門をくぐると、
境内の右手の植え込みの中に「夏草や兵どもが夢の跡」の新旧2基の句碑がある。
はじめに掲出した画像は、その左側の句碑である。
この句碑は明和6年(1769年)、碓花坊也寥が建立。
彫られている筆跡は芭蕉の字から起こしたもので、芭蕉の真筆といわれる。
碓花坊也寥とは、宮城県柴田郡柴田町の大高寺第十四世環中道一和尚のこと。
ここに画像は載せないが、右側の石碑は、それから後、文化3年(1806年)、慈眼庵素鳥建立のもので芭蕉の筆跡ではないという。

医王山毛越寺は本尊が薬師如来、平安時代末期の東北に覇を唱えた藤原氏二代目・基衡の建立で、
盛時には堂塔40、僧坊500を数える大伽藍だったと言われ『吾妻鏡』が「わが朝無双」と讃えたほどであったらしい。

義経の館跡という高館にのぼると、小高い丘の上には、正面に義経堂があり、中には義経像が祀られる。
また東側は断崖で、芭蕉の「高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也」という『おくのほそ道』の一文のように、くろぐろと流れ、
彼方には束稲山(たばしねやま)が裾を引いている。
二度平泉を訪れた西行は、

  聞きもせず束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしやは(山家集)

の歌を残しているが、当時この山は京都東山を模して1万本の桜が植えられ、花の名所だった。
芭蕉が平泉に足跡を印したのは、西行が建久元年(1190年)河内の弘川寺で亡くなって丁度500年後の元禄2年(1689年)のことで、
芭蕉の『おくのほそ道』紀行の目的には、その生涯を通じて畏敬した西行への500回忌追善や、
この高館で悲運の最期を遂げた義経への追悼が含まれていたという。


そのことを裏付けるように、

「さても義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」

という記述に芭蕉の感動がうかがえる。さらに文末に据えられた「夏草や」の句は絶唱である。

高館を下り、北進して中尊寺の山内に入る。
初代・清衡が関山中尊寺の建立に着手したのは長治2年(1105年)、その規模は堂塔40余宇、禅坊300余宇と『吾妻鏡』は誌している。
21年の歳月を費やし、竣工から2年後、清衡は権勢の永続を念じながら73歳で没した。

konnziki2金色堂覆堂
↑金色堂覆堂   ↓金色堂
dab912046829718bf54019a977e38eef_2金色堂

芭蕉が、

  五月雨の降のこしてや光堂

 と詠んだ金色堂は、本坊から200メートルほど奥になる。
覆堂(さやどう)に納められた内陣の須弥壇は三段あり、それぞれに金色の阿弥陀如来を本尊として、観音・勢至菩薩が脇に従い、
さらに三体づつ、これも金色の六地蔵、壇の前には持国天・増長天が仏界を守護するように、破邪の形相で立っている。
そして中央の壇には初代・清衡、左が二代・基衡、右が三代・秀衡の遺体と四代・泰衡の首級が安置され、
昭和25年の学術調査では、三代ともミイラ化していたことが判明し、内外に大きな感動を与えたという。
泰衡だけが首級だったのは頼朝の奥州征伐のためであるが、藤原氏が滅んだ文治5年(1189年)奥州の旅から戻った西行は、河内の弘川寺に草庵を結んでいた。
弟の義経を庇護したことが仇になり、頼朝に滅ぼされた藤原氏の悲運を、源氏嫌いの西行が、どんな想いで聞いたであろうか。
西行が平泉を訪れた頃は、まだ覆堂はなく、自然の中にじかに建つ金色堂を目のあたりにした筈なのに、彼は一字一句もその印象を残していない。

500年後、金色堂を訪れた芭蕉の「光堂」の句には、覆堂を取り払ってみたいもどかしさが感じられる。
同時代人として悲劇を直視せざるを得なかった西行と、追善の涙に身をゆだねた芭蕉との違いであろうか。

5/09付けで、那須の原で、芭蕉が西行ゆかりの「遊行柳」の傍の田で詠んだ句を載せたが、そこにも書いたように四月中、下旬のことであり、
支援者の家に世話になったりして北上して、芭蕉一行は、この日に平泉に着いたのだった。
その間、ほぼ二旬の日時が経過したことになる。
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中尊寺については、中尊寺執事長を勤められた、中尊寺仏教文化研究所所長の佐々木邦世『中尊寺千二百年の真実』(祥伝社黄金文庫)、
『平泉の文化遺産を語る』(大正大学出版会)の本に詳しい。


母の日のてのひらの味塩むすび・・・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行
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  母の日のてのひらの味塩むすび・・・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

今日5月12日は第二日曜日で「母の日」である。
母に感謝を捧げる日とされ、カーネーションの花を贈ったり、胸につけたりする。
花言葉は「婦人の愛」ということになっている。母のない人は白を、母のある人は赤をつける。
この日が選ばれた起源はアメリカのウェブスター在住のアンナ・ジャーヴィスが
1908年、この日に白いカーネーションを教会の友人たちに分けたことに由来する。
1914年5月9日、ウイルソン大統領により「母の日」として制定された。
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この花は2000年以上も前の古代ギリシアから鑑賞がはじまった。
「冠飾の花」coronation flower が変化してカーネーションになったとか、原種の花の色(濃いピンク)からラテン語のincarnation(肉色) が語源との説もある。
学名は Dianthus caryophyllus というが、これはギリシア語の dios(神、ゼウス)+anthus(花)が語源。
花言葉は先に書いたものの他に「あらゆる試練に耐えた誠実」「純粋な愛情」「貞節」など。
この花を「国花」にしているのは、スペイン、モナコ、ホンジュラスなど。

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カーネーションを詠んだ句を引いて終わりたい。

 母の日や大きな星がやや下位に・・・・・・・・中村草田男

 母の日の花を身につけ駅に入る・・・・・・・・横山白虹

 母の日やそのありし日の裁ち鋏・・・・・・・・菅裸馬

 母の日や忙を楽しむ母にして・・・・・・・・徳永山冬子

 母の日のひばりのあがる麦畑・・・・・・・・轡田進

 母の日の母包紙大切に・・・・・・・・安良岡昭一

 母ありといふなしといふ母の日に・・・・・・・・小坂順子

 母の日が母の日傘の中にある・・・・・・・・有馬朗人

 母の日の母の記憶やめくら縞・・・・・・・・矢ケ崎雅雲

 母の日や童女のごとき母連れて・・・・・・・・恩田秀子

 母の日や病み臥すこともなく八十路・・・・・・・・高村寿山

 宅急便来て母の日に誰も来ず・・・・・・・・畑中律子

 母の日や母恋ふことに終りなし・・・・・・・・山崎泰世

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清水あすか詩集『二本足捧げる。』ほか・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 第三詩集『二本足捧げる。』

──新・読書ノート──

     清水あすか詩集『二本足捧げる。』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・南海タイムス社2012/05/30刊・・・・・・・・

清水あすかさんは、この詩集によって第三回「萩原朔太郎記念とをるもう賞」を受賞された。
第一詩集から、すでに優れた詩人として注目され、「ユリイカ」や「現代詩手帖」などに作品を発表されている。

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↑ 第一詩集『頭を残して放られる。』 南海タイムス社2007/06/16刊

第一詩集『頭を残して放られる。』に、こんな詩がある。先ず、それを引いておく。

    そのふくふくとしてやらかいもの。・・・・・・・・・・清水あすか

   子どもはふくふくとやらかいものをくばるので
   ママはわたしをとしょうりのところに連れて行く。

   子どもはてぇげぇはんけなので
   ぼけたみかんを大わらいして
   二つたべて、三つたべて、四つめを半分こしてたべられる。
   子どもはこたつの角にさす西日を
   きれいと思い、
   たいくつを転がして
   しかし笑いながら、
   指先でその影をなぞってあそぶことができる。

   子どもはしわしわの千円札の、
   価値がわからなくても、意味を見ることができる。

   今日会ったとしょうりが近いうちまるぶのは、
   とてもよくあるおはなしなので、わたしは名前をおぼえたりしない。
   ママはわたしを色んなとしょうりのところへ連れて行くので、
   初めて会うとしょうりに、ぼうくなって、と言われると
   その人が知ってるわらいがおになれる気がする。
   最後にわたしに会えてうれぇしかったろうあの人は、とママがゆうので
   わたしはママの、ありがとうねぇ、ということばだけおぼえて
   その人がまるぼことはわすれる。

   ふくふくとやらかいものを置いて帰る道で
   ママは、としょうりは子どもを見るとうれぇしけだら、とゆうので
   ふくふくとやらかいとはわたしのうれしけことと知る。

   ママは少し小さくなったので
   わたしは左右にゆれながらちぃと大またに歩いて
   だからふだんもまっすぐに歩かない。
  わたしはママのもってる千円札も
   きっとしわしわなんだろうとおもっている。

   しかしてぇげぇとしょうりは先にまるばぁんて
   時々おもう。ふりかえったら
   だれもいない。しかし
   だれもいないところから来て、
   だれもいないところにわたしは帰ってしまうから
   だれもいないのは始めからかと
   おもい出して、ママとふたり
   左右にゆれて、歩いて帰る。
   
   右手にさっき半分にわったみかんを持っている。
   西日のときの影は、長くてあたまはねぇこくて
   わたしは影の、あたまの先を
   手をのばしてなでてみる。


   そのふくふくとしてやらかいもの。

第一詩集『頭を残して放られる。』についての阿部嘉昭の評が見られる。いい批評である。アクセスされよ。
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清水あすか 略歴

1981年八丈島生まれ。文化学院創造表現科卒。
在学中から絵、詩、エッセイなどの創作に取り組み、個展「やわらかな世界」(05年7月)、二人展「満ちて行く。」(06年7月)を開く。
卒業制作として詩集を編み、それをベースに、17編の詩を収めた「頭を残して放られる。」(南海タイムス社刊)を自費出版した。
収録作品の多くは八丈島が土台になっている。「そのふくふくとしてやらかいもの。」はその中の1編。
「島は本土との間に海という絶対的な距離があり、誰かが亡くなるような大事な時でも、帰れないことがある。
 自分の力だけではどうにもならないことがあるのだと教えてくれたのが、島」だという。 
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 ↑ 第二詩集『毎日夜を産む。』 南海タイムス社2009/06/25刊

この詩集に載る詩を引いておく。

     ここから今にいらっしゃい。・・・・・・・・・清水あすか

   わたしは子どものほほに指をつけ
   一つを噛み、口うつし、またことばを噛み、言って聞かせる。
    「まるで今まで生まれた子のように、わたしはおまえがかわいらしい」

   水海山とはまるで海のがん、水の湧こ山と言おじゃ。
   耳元に言われたとき、くすぐった息が出て
   わたしはそこへ建つという、一般廃棄物管理型最終処分場を身ごもったのです。

   この体の毛穴にぶったつ木を伐採し
   口から腕を刺し、中を掻いて工事する。
   男衆が土を掘り道具を洗い、女衆が土を固め道具を研ぐ。わたしはそして
   十月十日を守り、ふくらびた腹からのうたに応える。
    「洋洋、周りはみんな、おまえを女の子だと知っていますよ」

   雨が透明にふくらむ水場、いもりの腹は手に付いてぬぐう程赤い太陽の沈む色。
   さびた背中は青寒く、ここで卵を産む。水が
   からだをまあるく指なぞり、金の目がほそい声で方方にうたう。
    「知っていたことでありましょうが、
     子どもがこがんいとおしく生まれました」

   プレハブのお堂で、となりととなりとも手を持ってじゅずでつなぎ、
   なむあみだぶつ。詠唱をする。なむあみだぶつ。終わったら
   としょうりは急いでゴザを寄らせて、子どもに駆けつけ
   又はこしらえたばかりのよだれかけを、早くしたかったと、地蔵の首にかける。
    「わかってあることではありましたが、 
     子どもが生まれるとはうれしけことでございます」

   としょうりが足で水をはね
   その音にいもりは固まって、右を見る、左見る。
   4tトラックがアスファルトの上、土を運ぶ、石を運ぶ、木を運ぶ
   和讃を運ぶ、昔も運ぶ、女を運ぶ、山びこを運ぶ、手拍子を運ぶ
   あの搬入道路こそ、わたしの産道でございます。

   旧水海山地区一般廃棄物管理型最終処分場
   それからわたしを産んで下さい。

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書評

「起きたことを、起きたままの重さに見る」

 末吉・清水あすかさん(26)(注・2008年時点での年齢)の詩「ここから今にいらっしゃい。」が、現代詩手帖6月号に掲載された。
同誌からの執筆依頼を受けて書き下ろした作品で、特集「新鋭詩集2008」の一編として紹介された。
 清水さんは第1詩集「頭を残して放られる。」が中原中也賞の最終選考に残るなど、注目を集めている。
今回は詩とともに、「今詩を書くということ」のテーマで、400字のエッセイも掲載された。
その中で清水さんは、「詩を書くのに必要なことの一つは、当事者であることだと思います。
自分の前の物事を、それによって発生する全ても含めて、そのものを引き受けること。評価するのでなく常に、真っ只中に立つこと、そして見ること。
考えのでかくなりすぎた頭から、一つの体そのものに帰ってきて、起きたことを、起きたままの重さに見ようとするとき、そこには本当の実感があり、それは私の詩のことばになります。道に一つ落ちた石からも、新聞を覆う事件からも、そこにある途方もない責任によって、私は詩を書いていきます。」と、自らの詩作へのスタンスを表明している。
(08年6月13日付 南海タイムス)
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清水さんについては詩誌「びーぐる」18号から連載詩「詩は種なす」と題して、第一回、第二回が発表されているので紹介する。

     紙に点滅する。・・・・・・・・・・・清水あすか

   声でなく
   まだか、と言った時間も追悼として染んだ紙は
   もう水気を失って固く波打つ。

   浮浪者が積み上げた荷車は
   自分の納まるところを知っているか。紙は重く
   彼は道を寄り、片寄り
   車輪がよじれた線になり、信号を
   赤にならないで渡りきれるか。

   めくるのはくりかえした昔ではなく、それを得た身体である。
   思われるを書き重ねられた皮フはずいぶんと
   乾きバリつく紙のよう。この手はこれからも
   どれ程の束を積み
   荷車を押す
   まだか、と言い、まだか、と言われるところ。
   目を赤らませてこらえる息を。 
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      息による地層。・・・・・・・・・・清水あすか

   わたしはひれ伏したまま手をのばし
   その上に土がかぶさり、石が吹いて
   アスファルトはなめされ
   葉は落ちて積もり、積もる。

   三千年たったわたしをわたしが掘り出して
   顔の泥をすり、まるで涙の線になる。
   「おぼえているよ」
   ああ、おまえが生まれた、初めてやさしくしようとしたときを思い出す。

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清水さんのタイトルなどは特異で、必ず「。」が打たれる。詩集の題名だけでなく、詩の題名にも、打たれる。
彼女については「びーぐる」17号に「対論・この詩集を読め」第三詩集『二本足 捧げる。』が細見和之、山田兼士によって採り上げられ、
7ページにわたって詳しく論証されている。長いので、ここには引ききれないので省略するが、期待されてきた人であった。
とても良い批評なので、ぜひ覗いてみてもらいたい。
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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ2012/08/13に「清水あすか個展」と題した記事がある。 引いてみる。  ↓ 
 
先週金曜日には廿楽順治さんと六本木でひらかれていた清水あすかさんの個展に行った。
画廊の白壁にクロッキー用の太い鉛筆でみずから書かれた清水さんの詩篇と、これまた清水さんみずからの手になる絵画がしずかなスパークを発している。

清水さんの絵画は清水さんの詩集の自装からイメージできるかもしれない。全体は暗い色調。クレヨンで色彩分布的な重ね塗りをおこなったあとで、細針で細密模様の「傷」をつけてゆき、原初エネルギー的かつ装飾的な抽象画が迫力をともなってうかびあがっている。清水さんの島の詩篇とおなじく、それは第一観的には森の様相に近づいているが、同時に海底光景にも、着物の布地(八丈島は名前のとおり「八丈」の産地だ)にもみえ、描かれたものが何かは決定できない。その意味で絵画の立ち位置が詩篇と通底している。

問題は「削ること」だろう。詩を「書く」ではなく、「紙面に削りを入れて傷つけること」だとする詩作者の系譜がある。ツェランがそうで、現在なら杉本真維子がそうだ。書くことは手首をひねることではなく、筆圧を絶望的にぶつけること。清水さんの字は角張って稲妻のように荒れて強いが、その筆圧が白壁に書かれた詩篇の書体に、同時に、重ね塗りしたクレヨンを削った針の痕跡に共有されている。つまりその画廊に入ることは、筆圧の森に侵入して、侵入したからだを刺されることだった。

画廊に清水さんご本人がいらして、いろいろと話をする。なぜ「清水あすか論」が書きにくいか。八丈島方言と古語と異言の問題はクリアできるとして、地縁を基盤としたサーガ形成的、土地交歓的な詩篇では、地縁成員における自他の弁別がなくなる。結果、たとえば子供のいる主体が描かれた詩で、その主体が清水さん自身なのか、他の地縁者なのか、判断ができなくなる(カマをかけてみたが、清水さん自身、既婚・子持ちかの想像はご自由に、というスタンスだった)。

もうひとつ、清水さんの詩行は「。」「、」を繰り込み、長くなるときに独特のうねり、リズムが生ずる(それが文法破壊と相まって、異言性となる)。都市的でない、強靭なリズム。その詩法を文法的に要約すれば「冗語法」となるのだろうが、となると彼女の推敲も、通常のように圧縮ではなく、増殖に向けられた推敲なのではないだろうか。そう言うと、自分は増殖と圧縮を交互させるような推敲をするタイプだとおもう、と語っていらした。

いずれにせよ、「土地の力」を身に装填し、高い筆圧で削りの詩を書く清水さんは、「土地」の域的微差に繊細で、そのかぎりで彼女の詩業は、松岡政則さんと並行しているように見える。しかも最新詩集『二本足捧げる。』では形容詞の名詞化、という松岡的文法が駆使されだした。それで松岡さんからの影響を問うと、清水さんは「読んだことがないんです」という意外な返答をなさった。そうか、それでも「土地」に立脚することで、「書く」がおなじ場所にながれこんでくるのだと、なにか納得した気になった。ところがこの「納得」が、たぶん「清水あすか論」を書きにくくさせているものの正体なのだ。
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asuka_shimizu1.jpg
 ↑ 清水あすかの絵(『二本足捧げる。』のカバー絵)
清水さんの絵が、どんな絵かは他にもmoleskinerieというサイトに少し載っているので覗いてみられよ。

さて、いよいよ本題の第三詩集『二本足捧げる。』である。
この本の巻頭に載る、標題詩を引いてみる。

    二本足捧げる。・・・・・・・・・・清水あすか

  人間が、もうとっくに人間のかたちをとっておけない。
  約束の仕組みをとっておけない。
  最初は火で燃やせばあとも残らない簡単な骨組みであったのに
  今では村ごとダムに沈めるも時代遅れで
  声が死ぬのを待って
  土地からも蒸発してしまうのを、待って。でも本当は
  カレンダー裏食い込むだぶついた短歌や
  廃校になる小学校の壁を叩きつけた何文字か
  その、手で退ければすぐ
  書類と書類の間に挟まる声こそが
  水にも染む
  何百年、何百年でも風景に飲まれ脈になるを
  一番古いおびえとして覚えてて背骨震わす。

  時間のかかるよう複雑な手続きは組み上げたくせに
  身体はもう何万年と進化をしないでいて
  言わないけれど、まだ暗闇がこわい。
  通りすがりそっと渡される呪いがこわい。
  水にひたった風景が覚えている風景がこわい。
  こんなにたくさん見たことない青白い光を我れ先に覗き込んでも
  なにが映ってる。
  約束を交わす、さもなくばと
  ふりあげる土器の重さ
  いくら燃やしても骨が弾けるにおいは消えなくて
  それでも頭わ上に乗せて生きていかなければいけない
  そのすべての始まりの仕組みがこわい。
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     我が無く、ふるえ。・・・・・・・・・清水あすか

  おまえの「と、思った」は
  農協の跡地にあるよ。
  今資材置き場になつてるとこだよ。

  そこに、この世でない、があるよ。
  木材下、西日から伸びるどくだみの花の白さ
  ぶっちゃられた、足が短い引き出しの見とれる木目
  そんな余白におまえ
  立っていたを、知っているよ。
  アスファルトの突起でできた影や
  としょうりがくわえて歩いてった煙っ端に
  おそろしい、になる前のおそろしいや
  うつくしい、になる前のうつくしいがある。

  ね、そこらへんの石一つを
  おまえの墓石にしたって、いいんだよ。
  だいじょうぶ。

  あぁたしかに、さびしい、はあるねぇ!
  あのふくらみにふくらんだ、
  空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりつけてゆらつく自転車。
  あそこに入っているのは、さびしい、になる前のさびしいだ。
  花の白さにも、木目にも
  影にも煙のきわにもあったものだ。そして
  そこへ立っていたおまえにも。
  資材置き場を見つけたね。余白を
  そこらへんの石一つに
  託したって、
  いいよ。

この詩集は大項目として、第一章 二本足捧げる。 第二章 我が無く、ふるえ。 の二つから成っている。
その題名になっている詩を引いた。
先ず言っておくが、題名になっている「二本足捧げる」というフレーズが何を意味するのか、まだ私には判らない、と謝っておく。
彼女の詩は、意味を辿っては、いけない。
詩の一連に意味の繋がりは、ない。 フレーズはオブジェのように、ぽつんと置かれていると思ったら、いい。

前の詩に「だぶついた短歌」というフレーズがあるが、彼女の詩は、そういう、ずらずらした抒情を拒否する。
しかし、それでも彼女の発想が全くの空想から発していると思うのは間違いである。
「農協の資材置き場」とか「空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりつけてゆらつく自転車」とかは、彼女の見た実景だろう。
それは恐らく浮浪者か、定職のない生活困窮者の「空き缶」「ゴミ集め」の行動を子細に見つめた上での「さびしい」だろう。
引用しないが、他の作品に「石の言う。」というのがあり、そこにも同じような情景がある。
彼女の視線は、彼らに対しても軽蔑ではなく、暖かい。そこが救いである。

かつて「八丈島」は流人の地だった。「配流」の地だった。そこには流人たちの深い深い「怨念」が籠っているだろう。一つだけ引いてみよう。

     問いも食らう。・・・・・・・・清水あすか

  ここにある木との距離は
  わたしと島の距離
  わたしとわたしの死との距離。等しく
  いつも等しく離れている。手を取る。抱きとめる距離。
  伐採する木は、私の死の基礎となる工事で積む。何の
  痛みにもならない、臓器への痣。
  木に通る雨水を
  体では血といって
  山では水脈という。ならばわたしは、疑わず満ち満ちる。
  積んでいく一日の死、それを作る血のために必要な血管。木の幹、
  山鳴りという
  うなり。髪一本一本の葉脈、行き渡る
  行き渡る水路。体わ伏せて、背中に水を注ぎ貯めるべく反らし、
  背骨という稜線。枝で枝でくりかえす
  木の肌に書く
  昔語り。声とは
  雨にふる。
  島は水に貯めたおびただしい死を
  集めてすぼませ、ちぎり生んだわたしの
  死をまた口に含んで育つ。

  呼ぶ時には
  呼ばれて振り向き・・・・・・・・・(後略)

ここには明らかに、この島の抱える「歴史」が綴られているのは自明である。だが、先に述べたように、その視線は暖かい。
ここには八丈島の抱える土俗性に根ざす「土臭さ」と、方言を多用するレトリックの有効さ、がある。
彼女の詩は、都会の垢抜けた表現では成功しない。
八丈島在住という特性を生かした、彼女独特の詩作方法を身に付けられたと言えるだろう。

萩原朔太郎も独特の表現と語法で燦然と光っている。
そんな「萩原朔太郎記念・とをるもう賞」という栄誉を得られたのを、祝福したい。
なお贈呈式は、7月6日(土)午後2時から八尾市プリズムホールで行われる。  

「チルチンびと広場」というサイトに彼女の紹介と絵画展などの予定が出ている。参照されたい。

ネット上では同名の女格闘家が有名らしく、たくさん出てきて紛らわしいが仕方がないので、取捨されたい。
なお、清水あすかホームページがあるが殆ど更新されていない。



  
夕つつじ美しくしてひとり病む・・・・・・・・・・・・・・・・加藤霞村
tutujiつつじ

   夕つつじ美しくしてひとり病む・・・・・・・・・・・・・・・・加藤霞村

躑躅(つつじ)は桜のシーズンが終ったあとで一斉に訪れる。
ツツジは、このように難しい字を書くが、それは、中国で毒性のあるツツジを羊が食べて、足踏みしてもがき、うずくまってしまったというので、
この字を宛てたという。発音としては「テキチョク」と読む。

ツツジと総称されるが数十種類あると言われている。一般に植えられているツツジの他に、山つつじなどがある。
数年前に奈良県の葛城山のツツジを見に行ったことがあるが五月の連休の前後だったが、すごい人出で頂上に昇るケーブルカーの順番待ちで二時間も待った。
仕方ないので下で昼食を済ませた。
ここのツツジは山頂から少し下がった斜面に数万株がピンク色に密集して咲いている。

写真②のような白いツツジも趣のあるものだ。
tutuji6つつじ③

ツツジの花には蜜があるが、この山には猿が生息しており、花の時期には、この花を摘まんで食べるという。
私も子供の頃、ツツジの花の蜜を吸ったことがあるがおいしいものである。
九州にゆくと雲仙のツツジも有名であり、長野県の須坂市の奥にある五味池破風高原は100万株を超えるツツジで名高いらしい。
226226つつじ④

満天星(どうだん)つつじというのがあるが、普通のツツジとは別のものであり、花には白、ピンクがあるが、馬酔木の花のような形をしている。
秋になると葉が紅葉して美しい。
写真④が、それ。
doudantutuji.jpg

ツツジというと、京都市水道局の蹴上浄水場にはたくさんのツツジが植えられており、
この花のシーズンだけ一般に開放されて市民が見物に押しかけるので有名である。
桜では大阪造幣局の桜の通り抜けが有名だが、浄水場は背の高い木は落葉などの関係で植えられないので、
背の低いツツジが斜面の芝生に植えられているのだ。

rengetutuji2レンゲツツジ

写真⑤には、毒性があるというレンゲツツジをお見せする。山つつじの一種であろうか。

「ツツジ」は、古来さまざまの形で句に詠まれてきた。それを引いて終る。

 盛りなる花曼陀羅の躑躅かな・・・・・・・・高浜虚子

 真向ひて恵那山は観るべしつつじ原・・・・・・・・松本たかし

 山の娘のすこやかにゆく躑躅かな・・・・・・・・日野草城

 死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり・・・・・・・・臼田亞浪

 吾子の瞳に緋躑躅宿るむらさきに・・・・・・・・中村草田男

 花終へしつつじ野けふの虹立たす・・・・・・・・大野林火

 日の昏れてこの家の躑躅いやあな色・・・・・・・・三橋鷹女

 白つつじこころのいたむことばかり・・・・・・・・安住敦

 山つつじ照る只中に田を墾く・・・・・・・・飯田龍太

 躑躅より地に着いて蜘蛛走り出す・・・・・・・・川崎展宏

 人に会はん気遅れ少し躑躅かな・・・・・・・・榑沼清子

 つつじ山暗きところにけものの眼・・・・・・・・田村一翠

 仏性の火炎となりし白つつじ・・・・・・・・椎橋清翠



田一枚植ゑて立ち去る柳かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉
田植え

    田一枚植ゑて立ち去る柳かな・・・・・・・・・・松尾芭蕉

この句は『おくのほそ道』に載るもので、西行ゆかりの「遊行柳」の陰にたたずみ、しばし懐古の情にふけって、ふと気づくと、田植え女は、すでに田一枚を植え終わっている。
ああ思わず時が経ったなと、思いを残して柳のもとを立ち去ったことだ、という意味の句である。
芭蕉については古来、研究がすすんでおり、この「遊行柳」は謡曲『遊行柳』に、西行

     道のべの清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ

 と詠んだとある芦野の里の遊行の柳と特定されている。
↓ 現在の「遊行柳」
yanagi48遊行柳

この芦野の里というのは、現在の所在地は栃木県那須郡那須町芦野で、那須町の公式ホームページには次のように出ている。

<芦野支所より北方300メートル、通称、上の宮と呼ぶ温泉神社の社頭にあり、別名「朽木の柳」ともいう。
柳を訪ねると、地元産の「芦野石」の玉垣をめぐらした中に、一本の柳が植えられ、傍らには、芭蕉の作「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句碑、
更には蕪村の「柳散清水涸石處々」の句碑とが並び、道の反対側には、西行の「道の辺……」の歌碑が立っており、多くの観光客が訪れる名所となっている。
 遊行柳の近くには無料休憩所「遊行庵」があり、また、食堂と直売所が隣接しており、食事や地場産品の販売をおこなっている。>

その頃は、那須郡芦野三千石の領主・芦野民部資俊の知行地。江戸深川に下屋敷があり、芭蕉とは旧知の間柄であったという。
芭蕉が西行を敬慕すること極めて深く、「おくのほそ道」の旅も、西行500年忌を記念するものであることは、あまたの研究者によって解明済みのことである。

この句の前書きに芭蕉は

<清水流るるの柳は芦野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。
この所の郡守、戸部某の、「この柳見せばやな」と折々に宣ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳の陰にこそ立ち寄り侍りつれ>

と書いていて、西行に寄せる気持ちのなみなみならぬものがあったのが判る。
同行した「曾良旅日記」によると4月16日~18日には那須郡高久の庄屋、覚左衛門邸に泊っているので、その頃の作句と考えられる。
4月20日には白河の関所跡に到着している。

<白河の関越ゆるとて>の前書きで

      風流のはじめや奥の田植うた 

の句を作っている。この句からは、奥州ののどかな田植え歌を流しながら田植えがおこなわれた情景が浮かびあがるようだ。
「おくのほそ道」には須賀川の駅に旧知の相楽等窮を訪ね「白河の関、いかに越えつるや」と問われて、この発句を詠み、歌仙を巻いた、とある。
鄙びたみちのく情緒を讃え、これからの旅で味わう風流への期待感もこめた挨拶句。4月22日の作。

この続きには

      早苗とる手もとや昔しのぶ摺 

の句が何日か後に書かれている。「しのぶ摺」とは忍草の葉を布に摺りつけて染めたもの。
『伊勢物語』初段にも「みちのくの忍ぶ文字摺りーー」と見えて古来有名、とある。「昔を偲ぶ」に掛けたもの。

 <文字摺の石は福島の駅より東一里ばかり、山口といふ処にあり。
里人の言ひける、「行き来の人の麦草をとりてこの石を試み侍るを憎みて、この谷に落し侍れば、石の面は下ざまになりて、茅萱の中に埋れ侍りて、
いまはさる業することなかりけり」となん申すを>

という長い前書きの後に

    早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺
    五月乙女(さをとめ)に仕形望まんしのぶ摺


の句が「真蹟懐紙」や「曾良書留」に見られる。

このようにして芭蕉の「おくのほそ道」の文章を辿ると、きりがないが、紀行文は、とても面白い。
こうして読んでくると、芭蕉は多くの知人が江戸にいて(句の指導をしたり歌仙を巻いたりしたのだろう)奥州の旅の前には、
それらの人々に予め予定到着日時を知らせたりしてあったので、現地でも泊るところも手配されていたと思われる。
「曾良旅日記」というサイトに旅の日程が載っているので参照されたい。
何事も日記その他記録しておくものだ。



牛放てば木の芽の風のやはらかに袂に青き大那須が原・・・・・・・・・・・・・・与謝野寛
1-7那須高原

   牛放てば木の芽の風のやはらかに
      袂(たもと)に青き大那須が原・・・・・・・・・・・・・・与謝野寛


与謝野寛(鉄幹)については、妻・晶子の輝かしい名声に覆われて、不当に忘却されているきらいがあるが、
彼が明治新詩運動──詩歌全体の革新運動に果たした功績は不朽のものである上に、天馬空をゆく観のあった詩才の輝きも、
改めて正当に評価される必要があるだろう。
彼には、まだ然るべき全集さえないというのは残念なことである。
この歌は、彼が新詩社の指導者として「明星」発刊後の得意の絶頂期にあった頃の作品。
当時の彼の歌としては異色で、自然界に素直に心を解き放っている平らかな歌で、のびやかな才能に満ちた、すがすがしい歌である。
明治35年刊『うもれ木』に載るもの。
充分な資料もないが、寛の歌を少し引いてみる。
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野の生ふる、草にも物を、言はせばや。
 涙もあらむ、歌もあるらむ。

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子

母にそひてはじめて菫わが摘みし築土ふりたり岡崎の里

京の子は舞のころもを我にきせぬ北山おろし雪になる朝

わかき子の秋に堪へずと小指かみてかきし血の文十とせ我手に

髪さげしむかしり君よ十とせへて相見るえにし浅しと思ふな

相見しは大き銀杏の秋の岡金色ながすひかりの夕

君なきか若狭の登美子しら玉のあたら君さへ砕けはつるか

若狭路の春の夕ぐれ風吹けばにほへる君も花の如く散る

わが為めに路ぎよめせし二少女一人は在りて一人天翔る

この終りの三首は若狭の山川登美子が死んだ時に作られたもの。山川登美子は一時、晶子と三角関係のような形で寛の愛を争っていた時期があった。
登美子が身を引く形で晶子が寛を独占することになった。登美子が死んで、彼も、その頃のことを思って歌にしている。
故郷・若狭では、近年「山川登美子文学賞」なるものを創設して短歌の隆盛に寄与している。

濃き青の四月の末の海に浮く水母の如く愁白かり

冷飯を法師のごとく清水もて洗ひて食ひぬ夏の夕ぐれ

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与謝野寛は明治6年京都市岡崎うまれ。
妻・晶子とともに「明星」を拠点にして浪漫主義文学運動の推進者で、北原白秋など多くの詩人、歌人を育てた。昭和10年没。
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165px-Tekkan_Yosano与謝野寛

与謝野鉄幹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

与謝野 鉄幹(よさの てっかん、1873年2月26日 ~ 1935年3月26日)は、日本の歌人。本名は寛。鉄幹は号。与謝野晶子の夫。後に、慶應大学教授。

経歴
京都府岡崎(現・京都市左京区)に僧侶・与謝野礼厳の4男として生まれる。父・礼厳は庄屋・細見家の次男としてうまれたが京都府与謝郡(現在の与謝野町字温江)出身ということから、明治の初め「与謝野」と名乗るようになったという。なお正しい姓は與謝野。漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により現表記となる。

当初、山口県徳山市(現:周南市)の徳山女学校で国語の教師を4年間勤めるも女子生徒との間に問題を起こし、退職。20歳で上京。落合直文の門下に入る。明治27年短歌論『亡国の音』を発表、つづく明治29年歌集『東西南北』、翌明治30年歌集『天地玄黄』を世に出し、質実剛健な作風で『ますらおぶり』と呼ばれた。明治32年「東京新詩社」を創立し、翌年「明星」を創刊。北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見出し、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした。しかし明治33年、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(のち鉄幹夫人)との不倫が問題視され、文壇照魔鏡なる怪文書で様々な誹謗中傷の事件が鉄幹に仕立て上げられた。だが、晶子の類まれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、妻滝野と離別、明治34年晶子と結婚した。六男六女の子宝に恵まれた。

結婚後の鉄幹は極度の不振に陥る。明治44年晶子の計らいでパリへ行く。のち晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪する。だが、創作活動がさかんとなったのは晶子の方で、鉄幹は依然不振を極めていた。再起を賭けた労作、訳詞集『リラの花』も失敗するなど、栄光に包まれる妻の影で苦悩に喘いだ。大正4年(1915年)の第11回総選挙に故郷の京都市選挙区から無所属で出馬したが、落選した。また、大正11年の森鴎外の死は鉄幹にとって有力な庇護者を失うに等しい打撃であった。

昭和5年雑誌『冬柏』を創刊。昭和7年、上海事変に取材した軍歌『肉弾三勇士』の歌詞に応募、見事一等入選し鉄幹健在を示した。昭和10年気管支カタルがもとで死去。晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」という悲痛な追悼の歌を捧げた。

次男与謝野秀は外交官として活躍。東京五輪事務長を歴任。秀の長男が衆議院議員与謝野馨である。

閔妃暗殺事件と鉄幹
明治28年(1895年)10月8日に三浦梧楼ら日本官権と他の右翼壮士とともに当時の朝鮮王朝の王妃、閔妃の暗殺を計画したという説が韓国側から言われている。これは朝鮮王朝が親露政策により清と日本の圧力を排除しようとし、それに危機感を感じた日本が起こしたという主張である。当時、朝鮮王朝は笞刑(朝鮮笞刑令)、拷問をはじめ前近代的な刑罰、法体系であり邦人保護の観点から、治外法権となっていたので、鉄幹は日本に送られ広島の地方検察庁で裁かれた。当時、鉄幹は落合直文の弟、鮎貝槐園とともに朝鮮の日本人学校、乙未義塾の教師として当地に在留していたが、事件当日は槐園たちと木浦(モッポ)に出かけて事件の起きたソウルにはいなかったことにより不起訴となった。


卯の花の/にほふ垣根に/時鳥/早も来鳴きて/忍音もらす/夏は来ぬ・・・・・・・・・・・佐佐木信綱
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 ↑ 卯の花
hototogisu_1_qvgaホトトギス


      卯の花の
    にほふ垣根に
    時鳥(ほととぎす)
    早も来(き)鳴きて
    忍音もらす
    夏は来ぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐佐木信綱


一般に小学唱歌として知られている、佐佐木信綱作詞の「夏は来ぬ」である。
この唱歌は五番まであるが、たとえ二番以下は忘れてしまっていても、この一番の歌詞は歌えるという人が多いだろう。
この唱歌を小学校で習った頃は「ホトトギス」が「ハヤモキナキテ シノビネモラス」という辺りの意味は、よく判らないのに、
妙に快く入ってくる語感には魅力を感じたものだった。
佐佐木信綱は明治、大正、昭和三代にわたって、歌人として、また早稲田大学で歌学者として巨大な業績を積み上げた人だが、
この「夏は来ぬ」を作詞した当時は、弱冠24、5歳の青年だった。
この詩については諸家の研究によって、鎌倉時代末期女流歌人の第一人者・永福門院の歌

  ほととぎす空に声して卯の花の垣根もしろく月ぞ出でぬる

という歌の「本歌取り」であると言われている。
若き日の信綱は、小学生のための唱歌の作詞を依嘱された時、この古典の秀歌を踏まえて、それに新しい息吹を吹き込むことを考えたのであろう。
彼は、それを見事に実現した。それは、原和歌の57577ではなくて、
詩として575775という音数律にしたところに新鮮な歌謡としてのリズムを産出し得ている。

永福門院の生きた昔は、鳥の分類も厳密ではなかったから、郭公や筒鳥、十一(古名では慈悲心鳥ともいう)というようなホトトギス科の鳥と混同されていたことも多かったらしい。
「古今和歌集」の夏の歌は34首であるが、そのうち時鳥を詠んだもの28首で9割近い多さである。

ここで、平安時代の頃のホトトギスを詠んだ歌を少し抽出しておく。「古今和歌集」の巻頭歌に

 わがやどの池の藤波さきにけり
    山郭公(やまほととぎす)いつか来鳴かむ・・・・よみ人しらず


「わがやど」の「やど」に「宿」の字を宛てるのは間違いで、意味としては「屋外」(やど)─つまり「庭」のこと。
平安朝の貴族の邸宅は、寝殿造りの家屋に庭という様式だった。庭には池が造られ、そこに松や藤などの四季折々の花や樹木を植えて楽しんだのである。
「藤波」とは藤を波になぞらえたもので、藤の花盛りを指す。
ホトトギスは渡り鳥だが、昔の人は、季節になると「山」から下りて里へ来るものと考えていたので、ヤマホトトギスと呼び習わした。
それは花を追って里へやって来るということは、花である女を慕って通ってくる男のイメージに重なる、という訳である。

 郭公まだうちとけぬしのびねは来ぬ人を待つわれのみぞ聞く・・・・・・・・白河院

「時鳥」の初音、すなわち「しのびね」が、来る筈なのにやってこない人を心待ちにしている、人知れぬつらい思いとイメージにおいて重なり合っていることは言うまでもない。
訪れてくる恋人を待ちに待っている女心を余情にした「恋歌」と読めるものである。

 聞かでただ寝なましものを時鳥なかなかなりや夜半の一こゑ・・・・・・・・相模

 いかにせむ来ぬ夜あまたの時鳥待たじと思へば村雲の空・・・・・・・・藤原家隆


「時鳥」と「恋」を連想させて、歌人たちが好んで詠ったのも、これで判るだろうか。


パンにバタたつぷりつけて春惜む・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎
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 ↑ 久保田万太郎生誕地の碑

    パンにバタたつぷりつけて春惜む・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

今日5月6日は久保田万太郎の忌日で、死んだのは昭和38年5月6日である。
梅原龍三郎邸訪問中、食事誤嚥下による気管支閉塞のために急死した。享年73歳。
以下、ネット上に載る経歴を転載しておく。

小説家、劇作家、俳人の久保田万太郎は明治二十二年(1889)東京に生まれました。
中学時代から俳句を作り、慶應義塾大学在学中、機関誌「三田文学」に小説「朝顔」、戯曲「遊戯」を掲載し文壇に登場します。
以来、下町情緒を描く独自の作風で、「末枯」「春泥」「市井人」などの作品を著わしました。
大正八年から七年間慶大の嘱託となり、文学部予科で教鞭をとります。
大正十五年久米正雄とともに東京中央放送局の嘱託となり、後に文芸課長に就任し、放送演劇の振興に貢献しました。
昭和七年築地座が結成されると演出も手がけ、十二年には岸田国士、岩田豊雄らと劇団文学座を結成して活躍し、演劇界の指導的地位を占めました。
俳句は、岡本松浜、松根東洋城に師事し、俳誌「春燈」を主宰します。
俳句は小説や戯曲の片手間につくる余技としながらも、句集に「道芝」「ももちどり」「流寓抄」などがあります。昭和三十八年(1963)七十三歳で亡くなりました。
鎌倉には、昭和二十年空襲で東京の家を失ったため、友人の計らいで材木座に居を定め、三十年に再び東京へ戻るまで十年間住みました。
その間、鎌倉ペンクラブ会長を務めるなど、鎌倉文士との交流を深め、瑞泉寺には句碑があります。

「芸術院会員」に選ばれ、また「文化勲章」を受けた。

2013033018183295e万太郎句集

久保田万太郎については、このBLOGでも再三採り上げた。
万太郎は、俳句を「余技に過ぎず」としたが、自由軽妙、しかも生のありようをかなしく詠う。余技ゆえに絶妙なところがあった。
「傘雨忌」とも言うが、傘雨は一時の俳号である。
「万太郎忌」という季語になっているが、彼を偲んで、こんな句が知られている。

 こでまりのはなの雨憂し傘雨の忌・・・・・・・・・・・・安住敦

 万太郎逝きて卯の花腐しかな・・・・・・・・・・・石田波郷

 あぢさゐの色には遠し傘雨の忌・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

 居流れて閨秀多し傘雨の忌・・・・・・・・・・・・久永雁水荘

 傘雨忌や「春泥」よりの一読者・・・・・・・・・・・・小林旭草子

 万太郎忌ことしのあやめ咲く遅し・・・・・・・・・・・・成瀬桜桃子

 万太郎忌らしくなく晴れあがりたる・・・・・・・・・・・・西山誠

 万太郎忌川のあちこち弟子のゐて・・・・・・・・・・・・大井戸辿

今、私のBLOGで「久保田万太郎」を検索してみたら、なんと114件もの引用をしていることが分かった。先にも書いたが、私は彼の自由軽妙な句作りが好きである。
2009/02/09に採り上げた「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の最晩年の句の寂しさが、今の私の心に、惻々と迫ってくるものがある。


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