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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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強引と思うばかりに蜂もぐる 筒花ゆらぐタニウツギかな・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
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   強引と思うばかりに蜂もぐる
   筒花ゆらぐタニウツギかな・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


ネット上に載る記事を、下記に引用しておく。
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タニウツギは日本海側の多雪地帯に多い落葉低木で、葉は対生し、裏側は全体に白い毛が密生していて白っぽいですが、中央脈の上にほとんど毛がなく、これが他の種との区別点になります。花は桃色~紅色で5~7月に咲きます。がく片、雄しべはともに5個、花柱は糸状で長く突き出ています。

 地方によって多くの異なった呼び名があります。新潟、富山、長野、石川、鳥取、岡山の諸県ではタウエバナと呼ぶそうです。田植えのころにきれいな花を咲かせるからです。同じ理由で島根県ではサオトメウツギ(早乙女空木)というそうです。確かに先日訪れたとき、岩美町や温泉町の水田は、田植え終わった直後のようで、小さな苗がきれいに並んでいました。

 私が住んでいる相生市周辺の田植えは6月に入ってからです。寒い雪国の方が田植えが早いということは、何か不自然で、人為的な理由あるような気がします。雪解け水を灌漑に利用するためでしょうか、あるいは一昔前の早場米奨励金の影響でしょうか? タウエバナという呼び名が戦前からあったとすれば、雪解け水灌漑説が当たっているような気がします。

 2004年6月17日の「春秋」(日本経済新聞のコラム)に、タニウツギとニシキウツギの「すみ分け」に関して興味ある記述がありました。下に全文をご紹介します。

 長いトンネルを抜けると、雪国が現れるのは冬の話で、初夏の旅では、上越の山塊を貫くトンネルを抜けても、車窓に映る緑は変わらない。が、山すそには、波打つように広がるタニウツギの濃いピンクの花群が現れ、日本海側の景色へと、鮮やかに転換する。

▼タニウツギは北海道の西部から東北、北陸、山陰と、日本海側のいわゆる豪雪地帯に分布する。命の勢いをそのまま映したような濃い花色は、初夏の里山によく似合う。太平洋側には白花と紅花が混じって咲く近縁のニシキウツギが自生する。脊梁(せきりょう)山脈を境に、両者のすみ分けは厳密だ。

▼同じ初夏の花、アジサイも野生種では太平洋側と日本海側では厳密なすみ分けがあるという。北海道から山陰までの山地にはエゾアジサイが分布する。花びらのように見えるがく片は、したたるような濃青色。太平洋側にはヤマアジサイ。花色は白、水色、ピンク、薄緑など多彩だ。伊豆諸島には栽培品種の西洋アジサイの元になったガクアジサイが自生する。

▼雪国の花は、タニウツギの桃色もエゾアジサイの青も、濃く深く一途(いちず)で純である。太平洋側のニシキウツギやヤマアジサイの花は、自在で軽やかでこだわりがない。気候変動の中でも、花はまだ風土に根差した個性を保っている。この多様性こそ後世に残す資産だ。
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私の住む京都盆地には、この花は、ないのではないか。
私は植物分布には弱いので、関心のある方は、お教え願いたい。タニウツギの花言葉は「豊麗」。
この歌の作者のコメントには

  <ハチが筒状に咲くタニウツギの花にもぐりこむと、紅色の花が大きく揺れます。
   美しい花ですが、養蚕の家では、まぎれ込むハチを恐れてタニウツギを嫌うのでした。>

と書かれている。ハチは「蚕」の虫に「悪さ」をするのであろう。その養蚕も、安い外国からの絹製品に押されて、今では日本では廃れてしまった。
作者は鳥海山ふもとの山形県生まれの人。

「タニウツギ」を詠んだ句は少ないが引いて終る。

 備前大甕谷の卯木を投げ入れよ・・・・・・・・・・野沢節子

 走ること何時忘れしや谷空木・・・・・・・・・・猿橋統流子

 渓うつぎ濃きときめきの一途なり・・・・・・・・・・文挟夫佐恵

 渡れねば渡りたき瀬や谷空木・・・・・・・・・・神尾季羊

 織り初めの藍の筬音谷空木・・・・・・・・・・椿文恵

 満身に瀬音聴きをり渓うつぎ・・・・・・・・・・千布昌子

 ふるさとの山くれなゐに谷空木・・・・・・・・・・高橋梓

 水筒に激水満たす渓空木・・・・・・・・・・川上悦子



虚国の尻無川や夏霞・・・・・・・・・・・・・・・・・芝不器男
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  虚国(むなくに)の尻無川や夏霞・・・・・・・・・・・・・・・・・芝不器男

芝不器男は、大学生時代の望郷の句・・・・・  

    あなたなる夜雨の葛のあなたかな

が虚子に激賞されたが、昭和5年、26歳で病没。
俳壇を彗星のごとく横切った俳人と惜しまれた。
作品わずか200句ほど、中に珠玉作を数多く持つ。

この句は日光中禅寺湖北方の乾燥湿原である「戦場ケ原」を尋ねたときのものである。
「虚国」(むなぐに)はまた「空国」、痩せた不毛の地をいう。
そのような原野を流れる川は、いつのまにか先が消えてしまう尻無川。あたり一面夏霞が茫々とかかっている。
句全体に一種の虚無感がただよい、時空を越えて古代世界に誘われるような情緒の感じられる句である。

不器男は明治36年愛媛県生まれ。東京大学林学科、東北大学機械工学科を出た。
独特の語感を持ち、古語を交えて、幽艶な調べをかもし出す。時間空間の捉え方も個性的だった。
昭和9年刊『芝不器男句集』所載。
以下、不器男の句を少し引く。

 汽車見えてやがて失せたる田打かな

 人入つて門のこりたる暮春かな

 向ふ家にかがやき入りぬ石鹸玉

 国原の水満ちたらふ蛙かな

 麦車馬におくれて動き出づ

 南風の蟻吹きこぼす畳かな

 井にとどく釣瓶の音や夏木立

 川蟹のしろきむくろや秋磧(かはら)

 浸りゐて水馴れぬ葛やけさの秋

 みじろぎにきしむ木椅子や秋日和

 野分してしづかにも熱いでにけり

 草市や夜雨となりし地の匂ひ

 大年やおのづからなる梁響

 寒鴉己(し)が影の上におりたちぬ

掲出の写真①は、新緑が芽生えはじめたばかりの頃の日光戦場ケ原のものである。
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芝不器男 写真②は旧制松山高等学校時代のもの。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

芝不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日 ~ 1930年(昭和5年)2月24日)は、日本の俳人。本名は太宰不器男(結婚後)。

 生涯
1903年(明治36年)愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)で生まれる。父・来三郎、母・キチの4男。
不器男の名は、論語の「子曰、君子不器」から命名された。1920年(大正9年)宇和島中学校を卒業し、松山高等学校に入学。

1923年(大正12年)東京帝国大学農学部林学科に入学。夏期休暇で愛媛に帰省中に関東大震災が起こり、以後、東京へは行かなかった。
姉の誘いで長谷川零余子が主宰する『枯野』句会に出席し句作を始める。当初、号を芙樹雄または不狂としていた。
1925年(大正14年)東京帝大を中退し、東北帝国大学工学部機械工学科に入学。
兄の勧めで吉岡禅寺洞の主宰する『天の川』に投句。禅寺洞に勧められ、本名の不器男に改号。
『天の川』で頭角を現し俳誌の巻頭を占めるようになる。

1926年(大正15年)『ホトトギス』にも投稿を始め、高浜虚子より名鑑賞を受け注目を浴びる。
冬季休暇で帰省して以後は仙台に行かなかった。1927年(昭和2年)東北帝大より授業料の滞納を理由に除籍処分を受ける。

1928年(昭和3年)伊予鉄道電気副社長・太宰孫九の長女・文江と結婚し太宰家の養嗣子となる。
1929年(昭和4年)睾丸炎を発病し福岡市の九州帝国大学附属病院後藤外科に妻を伴い入院。この時に初めて禅寺洞と対面した。
12月に退院し福岡市薬院庄に仮寓。主治医・横山白虹の治療を受ける。
1930年(昭和5年)1月になると病状が悪化し、2月24日午前2時15分永眠、享年26。

生涯に残した俳句は僅か175句である。句風は古語を交えて、近代的な抒情味の中に幽艶を感じさせた。
主治医で俳人の横山白虹は「彗星の如く俳壇の空を通過した」と評した。

郷里の松野町では毎年命日に「不器男忌俳句大会」が開催されている。
1988年(昭和63年)松野町が生家を改装し、「芝不器男記念館」が開館した。
また、2002年(平成14年)生誕100年を記念して愛媛県文化振興財団により「芝不器男俳句新人賞」が設けられた。

作品集
不器男全句集(1934年)
定本芝不器男句集(1970年)



谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな・・・・・・・・・・・・金子兜太
yun_2642鯉
 
   谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな・・・・・・・・・・・・金子兜太

昭和30年代、いわゆる前衛俳句が俳句界を席捲したが、作者はその旗手だった。
この句は、その後の時期の作品。
「無季」の定型句だが、夜、狭い谷あいで鯉がもみ合っている情景を詠んでいるが、性的なほのめかしも感じられる生命のざわめきがある。
無季句ではあっても、この句が喚起する生命力の盛んなほとばしりは、季節なら夏に通じるものに違いない。
「鯉」というのが季語にないので<非>季節の作品として分類したが、鯉が盛んに群れて、もみ合うというのは繁殖行動以外にはないのではないか。
ネット上で見てみると、鯉の繁殖期は地域によって異なるが4~6月に水深の浅い川岸に群れて産卵、放精するという。
それこそ、兜太の言う「歓喜」でなくて何であろうか。
昭和48年刊『暗緑地誌』に載るもの。

無季俳句の関連で一句挙げると

 しんしんと肺蒼きまで海の旅・・・・・・・・・・・・・篠原鳳作

という句は、戦前の新興俳句時代の秀作で、南国の青海原を彷彿と思い出させるもので秀逸である。

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ここらで兜太の句を少し。下記のものはアンソロジーに載る彼の自選である。

 木曾のなあ木曾の炭馬並び糞(ま)る

 魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ──トラック島にて3句

 海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

 水脈の果炎天の墓標を置きて去る

作者は戦争中はトラック島に海軍主計将校として駐在していて敗戦に遭う。

 青年鹿を愛せり嵐の斜面にて

 銀行員等(ら)朝より蛍光す烏賊のごとく

作者は東京大学出。日本銀行行員であった。いわゆる「出世」はしなかった。

 どれも口美し晩夏のジャズ一団

 鶴の本読むヒマラヤ杉にシャツを干し

 男鹿の荒波黒きは耕す男の眼

 林間を人ごうごうと過ぎゆけり

 犬一猫二われら三人被爆せず

 馬遠し藻で陰(ほと)洗う幼な妻

 富士たらたら流れるよ月白にめりこむよ

 梅咲いて庭中に青鮫が来ている

 遊牧のごとし十二輌編成列車

 麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人

 酒止めようかどの本能と遊ぼうか
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ネット上に載る「埼玉の文学─現代篇─」の記事を転載しておく。

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写真②は「ぎらぎらの朝日子照らす自然かな」の句碑。

文中に記事あり。

金子兜太 (1919~)

前衛の円熟 

 金子兜太は昭和30年代に前衛俳句運動の旗手として、戦後俳壇に大きな旋風を巻き起こした。現在は俳壇の重鎮として、もっとも活躍している俳人のひとりである。現代俳句協会会長、俳誌「海程」主宰、「朝日俳壇」 選者として、あるいはカルチャーセンターの講師、テレビの俳句講座、毎月の俳誌での活躍などで、その名はひろく知られている。

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

 昭和30年の第1句集『少年』より、郷里を詠んだ作品である。
 金子兜太は大正8年に小川町竹沢の母の実家で生まれた。当時父元春は上海にいたので、兜太は小学校入学までの大部分を竹沢で過ごしたが、2歳からの2年間は父のいる上海で過ごした。元春は15年に帰国して郷里秩 父の皆野町で開業。兜太は皆野の実家から皆野小学校へ通う。父元春は、伊昔紅と号する秋桜子門下の俳人でもあった。昭和6年に秋桜子が高浜虚 子の「ホトトギス」を離脱したとき、獨協中時代の友人としていちはやく 歩みをともにした。秋桜子の「馬酔木」の秩父支部を自認して毎月句会を開き、20年には自らも 「雁坂」を主宰した。また、卑俗な内容だった秩父豊年踊りの歌詞や踊りを、「秩父音頭」として現在の形にしたことでも 知られている。いくつかの句碑のほか、美の山公園にはその業績を顕彰して銅像が建てられている。兜太は、医師であり俳人であった父から生き方や俳句面で大きな影響を受けており、多くの回想を書いている。
 秩父の長瀞町の総持寺に、金子兜太の句碑がある。最寄りの駅は秩父鉄道の野上駅である。総持寺は秩父七福神のひとつ、福禄寿を祠っている寺。句碑は本堂の右後ろ手にある。どうだんツツジが植えられた斜面の下に 位置していて、碑の近くにある大きな泰山木と椿の木が印象的だ。秩父の自然石に兜太自筆の、

 ぎらぎらの朝日子照らす自然かな

という句が刻まれている。平成元年7月に建てられたもので、碑陰には、 「海程秩父俳句道場十周年を記念し併せて金子兜太師の紫綬褒章受賞を祝い師の菩提寺である当寺境内にこの句碑を建てる」とある。総持寺は兜太の妻皆子の実家の菩提寺でもある。
 熊谷中学を卒業したあと、兜太は昭和12年に水戸高校文科に入学する。 俳句は18歳のとき、出沢珊太郎に誘われて校内句会に出たのが機縁で初めて作った。「白梅や老子無心の旅に住む」という句である。翌13年には全国学生俳誌「成層圏」に加わり、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男の作品に親しんで「俳句の可能性」を感じたという。16年に東京帝大経済学 部に入学。このころから加藤楸邨主宰「寒雷」に投句を始めた。草田男の 「内面的な新しさ」と、楸邨の「人柄」に惹かれたが、結局楸邨に師事することとなった。
 昭和18年9月に、大学を半年繰り上げで卒業し日本銀行に入行したが3日で退職、海軍経理学校で訓練を受けて、翌年3月に主計中尉として南方のトラック島に赴任した。敗色濃厚の時期の戦争体験と米軍捕虜としての 体験は、のちの金子兜太の人間観や俳句観に大きな影響を与えることになる。21年11月、最後の復員船で帰国した。そのときのことを詠んだ句に「水脈の果炎天の墓碑を置きて去る」「北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど」がある。 
 22年2月に日銀に復職、4月には塩谷みな子(金子皆子、「海程」同人 )と結婚した。この年、沢木欣一の「風」にも参加。24年には日銀の従業 員組合の初代事務局長(専従)をつとめた。このことについて兜太は「私 はトラック島から引き揚げる駆逐艦の上で、これからは反戦平和に生きる と腹を固めていました。組合活動も、それを実行に移したにすぎません」 (『二度生きる』)と述べている。その後、組合は切り崩しにあって、活動は封じ込められることになる。金子兜太は、福島支店を皮切りに、神戸 、長崎と10年に及ぶ支店勤務生活を送った。この時期に兜太は俳句専念を決意し、次々と話題作を発表する。

 きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
 路上に拾う蛍論理を身に刻み
 夜の果汁喉で吸う日本列島若し
 少年一人秋浜に空気銃打込む
 ガスタンクが夜の目標メーデー来る
 原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ
 青年鹿を愛せり嵐の斜面にて
 朝はじまる海へ突込む鴎の死
 銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく
 湾曲し火傷し爆心地のマラソン
 華麗な墓原女陰あらわに村眠り
 殉教の島薄明に錆びゆく斧

 この時期、佐藤鬼房、鈴木六林男らと出会い、神戸では西東三鬼、永田耕衣らと親交を深める。また持論にもとづく俳論を意欲的に発表して俳壇に議論を呼んだ。それらの一部を題だけ引いてみると、「俳句における 社会性」(昭28)、「二つの急務」(昭29)、「俳句における思想性と社会性」「社会性と季の問題」(昭30)、「新しい俳句について」「破調は時代精神の要求か」(昭31)、「俳句の造形について」(昭32)、「三たび造形について」「前衛をさぐる」(昭35)、「造形俳句六章」「前衛の渦の中」(昭36)など。
 短歌の前衛運動に少し遅れて俳句の前衛運動は起こったかたちだが、引 いた題からもうかがえるように、金子兜太の考える前衛とは、俳句におけ る「社会性」と「造形」ということであった。その論旨は一言でいうと、 社会的存在としての自己を明確に認識し、態度や思想を肉体化、日常化した作品を詠むことと言える。そのために、定型(リズム)は守るが、季語にはこだわらないという考えであった。その実践として第1句集『少年』 を昭和30年に刊行し、翌年第7回現代俳句協会賞を受賞した。金子兜太を 中心にしたこの俳句における社会性論議は、戦後の俳句のひとつの流れを つくったと言える。
 金子兜太が支店勤務から東京に戻ったのは35年、折りしも安保闘争の最中であった。現代俳句協会は36年に前衛的な考えに依拠する現代俳句協会 と有季定型派の俳人協会に分裂する。翌37年に、金子兜太は「海程」を創刊して同人代表(昭和60年から結社誌になり主宰)となり、「古き良きものに現代を生かす」をスローガンとして掲げて活動の拠点とした。昭和47年には熊谷市に居を構え、49年に日銀を定年退職、円熟した活動を今日まで続けている。
 金子兜太の句碑は、熊谷の上中条にある天台宗別格本山常光院の境内にもある。静寂につつまれて落ち着いた雰囲気の寺である。山門を進んで行くと正面が本堂だが、その右手の庭に、

 たつぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし

の句が、やはり自筆の力強い字で刻まれている。平成4年に建立された。 碑の高さは1.2 メートルほどで、宇咲冬男の碑陰によると、名工として労働大臣賞を受けた野口大作の手彫りである。同寺はひぐらしの名所で、金子兜太の散歩コースだったとのこと。俳句の盛んな県北の地らしく、境内には宇咲冬男の句碑のほか、投句箱や熊谷俳句連盟20周年を記念した大き な句碑もある。 
 金子兜太には、埼玉の地にちなんだタイトルをつけた句集として『暗緑地誌』(熊谷)、『皆之』(皆野)、『両神』の3冊がある。また、エッセイ集『熊猫荘点景』や俳論『熊猫荘俳話』の「熊猫荘」は熊谷の自宅の 呼称である。その他、たくさんのエッセイ集があるが、どれにも折に触れて秩父や皆野、熊谷について語った文章が収められている。庶民としての 一茶や、魂の漂泊者山頭火へのつよい共感とともに、郷里秩父は、金子兜 太に自身の原点を確かめる「分厚い領域」(「第二のふるさと」)として 存在している。金子兜太の前衛俳句が、一方では土着的で人間臭いのはこのためである。著書は句集、俳論、一茶論や山頭火論、エッセイなど多数 。

 人体冷えて東北白い花盛り
 暗黒や関東平野に火事一つ
 梅咲いて庭中に青鮫がきている
 夏の山国母いてわれを与太と言う



佐藤祐禎歌集『青白き光』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
佐藤

──新・読書ノート──

     佐藤祐禎歌集『青白き光』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
       ・・・・・・2004年初版・短歌新聞社。2011年再版・文庫版いりの舎・・・・・・・・・

大熊町に在住され福島の原発を以前から告発し続けていた、歌集『青白き光』の佐藤祐禎(さとう・ゆうてい)さんは2013年3月12日に亡くなられた。 83歳であった。
初版の「あとがき」で
<七十五歳にして初めての歌集である>
と書いているように、遅くからの歌の出発であった。
「アララギ」から始まり、アララギ分裂後は宮地伸一の「新アララギ」に拠られた。序文も宮地氏が書いている。
「あとがき」にも書かれているが「先師」とあるように「未来短歌会」の近藤芳美の弟子を標榜されていて、桜井登世子さんと親しかったようである。
角川書店「短歌」六月号に、桜井さんが追悼文を書いておられる。

生前の佐藤さんのことは私は知らない。
原発の大事故のあと、事故前、それも十年ほども前に原発の事故を予測したような歌を発表されていると知って衝撃を受けた。
その歌集が『青白き光』である。
彼が短歌の道に入ったのは五十二歳のときで、遅い出発だった。
この歌集には昭和56年から平成14年までの歌511首が収録されている。
もちろん原発関連の歌ばかりではなく、羈旅の歌もあり、海外旅行の歌などもある。
ここでは、それらの歌には目をつぶり、原発関連の歌に集中する勝手を許されよ。

  いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる・・・・・・・佐藤祐禎

この歌は、この歌集の最後に置かれたものだが、題名も、この歌から採られているが、まるで「予言」のような歌ではないか。

彼・佐藤祐禎は再版に際して、別のところで、次のようなことを書いているので引いておく。 ↓      
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   『青白き光』を読んでくださる皆様へ    佐藤祐禎

私共の町は、新聞テレビで、充分世にまた世界にフクシマの名で知れ渡ってしまいましたが、福島県のチベットと蔑まれて来ました海岸の一寒村でした。
完全なる農村でして、一戸あたりの面積は比較的多かったのですが、殆ど米作りの純農村故に収入が少なく、農閑期には多くの農民が出稼ぎに出て、生活費を得た状態でした。

そこへ天から降って来たような感じで、原子力発電所が来ると知らされたのです。

この寒村に日本最大の大企業が来れば、一気に個人の収入も増え、当然町も豊かになるだろうと、多くの人は両手を挙げて賛成しました。
わずかに郡の教員組合などは反対したようですが、怒涛のような歓迎ムードの中では、表に出ることはありませんでした。
常識的に言って、これほどの大事業を興すには多くの問題が山積みするはずでしたが、ここでは全く問題は起きなかったのです。

先ず、用地ですが、ここには宇都宮航空隊の分教場があったのです。
敗戦となり、飛行場が撤収された跡には、面積92万坪つまり300ヘクタールの荒れ地が残っていました。
それが地元民の知らない内に、3分の2が、堤財閥の名義になっていました。
どのような経緯があったのかは未だわからないのですが、当時の衆議院の議長は西武財閥の祖、堤康次郎であったことを考えると、自ずから分かる気が致します。
あとの3分の1の殆どは、隣の双葉町7人の名義になっていました。

これらの土地は、全くの痩地で、生産性が殆どありませんでしたので、かつては、軍のために無償で提供した夫沢の地区の人らは顧みることもありませんでした。

当時、東京電力の社長・木川田は、福島県出身であり、建設省に絶大なる影響力を持っていた衆議院議員、天野は、ここ大熊町の隣の双葉町の出身だったのです。
そういう立場ですから、同県人として地元の為にと、木川田は考えたのだろうと思います。
そこに、天野は、俺の故郷には、うってつけの土地があると言いました。

立地条件として、第一に、相当広い土地。
第二に、1キロ以内に人家が全くないこと。
第三には、海水が充分確保できること。
第四に、土地取得に障害がないこと。
これらの条件が全て解決できるところが双葉郡大熊町夫沢地区だったのです。


東電の意志が県に伝えられ、双葉郡そして我が大熊町に伝えられ、トントン拍子に ことが運んだようです。
そんな訳で土地の価格が、驚くなかれ、一反歩「300坪」当時で5万円。
地上の樹木「矮小木」5万円。併せて10万円だったのです。
白河以北、一山百文といわれた東北でしたから、単に売買するとしたら一反歩5,000円か、1万円くらいにしか思っていませんでしたから、地権者は喜んで手放しました。
びっくりしたのは東電だったようで、後で聞きましたら、買収予算の4分の1で済んだとのことでした。
後に大きな増設問題が出ました7号炉、8号炉の建設予定地となった厖大な土地は、その余った予算で買った
ということです。

いよいよ工事が始まり、全てのものが大きく変わってゆきました。
数千人という作業員が入り、20キロ離れた山から岩石を切り出して、工事現場に骨材を運ぶトラックが延々と続きます。
労賃も飛躍的に上がりました。
今までは、小さい土木会社の手間賃が700~800円だったのが、数倍に跳ね上がったのです。
農家の人たちは早々と農事を済ませて、我がちに作業員として働き始めたのです。
年間の収入は飛躍的に増加したものですから、原発さまさまになって行きました。

それまでは収入が少なかったものですから、家を建てる時も村中総出で手伝い合い、屋根葺きなども「ゆい」という形で労力を出し合っていましたが、一日数千円の労賃が入るということで、助け合いなどすっかりなくなってしまったのです。
「町は富めども こころ貧しき」とも私は歌いました。

人口一万弱の町に、30軒以上の飲み屋、バーがあったといいます。
下戸の私などは一回か二回くらいしか行かなかったはずで、その実態などはよく分かりませんが大凡の見当はつきます。

原発に関する優遇税はどんと入りますし、原発に従事する人達の所得税は多くなりますし、何か箱物とか運動場とか施設を造る度に、原発からは協力費として多額の寄付金がありました。
いつの間にか県一の貧乏村が分配所得県一になってしまいました。

ここだけではありません。
となりの富岡町には、111万キロの原子炉が4基出来ましたし、そのとなりの楢葉町と広野町には、100万キロの火力発電所が4つ出来ました。
原発10基と火力4基から生み出される電力は、全て首都圏に送られ、地元ではすべて東北電力の電気を使ってまいりました。
東京の人達に、ここをよく理解してもらいたいと切に願うものです。

私の反原発の芽生えは、一号炉建設の頃、地区の仲間たちが皆そうであったように、どんな物だろうと好奇心を持って少しのあいだ働いた時です。
ある時、東芝の社員の方がこう言ったのを今でも覚えています。
「地元の皆さんは、こんな危険なものをよく認めましたね」という言葉でした。
その時は、変なことをいう人だなと思いましたが、だんだんと思い当たるようになったのです。

最初に気づいたのは、小さいけれども工事の杜撰さでした。
誤魔化しが方々にあったのです。
小さい傷も大きな災害にひろがることがあります。
それらは末端の下請け会社の利を生むためには、仕方がないというのが、この世界の常識だったらしいのですが、ただの工事ではないのです。
核という全く正体の分からない魔物を扱う施設としては、どんなに小さい傷でも大きな命取りになるはずです。
次第に疑念を持ち始めた私は、物理の本を本気になって読み始めました。
そして、それを短歌に詠みました。

   <この孫に未来のあれな抱きつつ窓より原発の夜の明り見す>・・・・・・・・・・佐藤祐禎
    
                                   (後略)
----------------------------------------------------------------------------
この文章を読むと、かの地に福島原発が、大した反発もなく建設し得たのかの疑問が氷解する。
上の文章の中のアンダーラインの部分は、私が引いたものである。

「資本の論理」と言われるが、まさに巨大財閥と巨大企業による「犯罪」とも言える行為である。
こんなことは、事前も事後も、日本のマスコミは一行も書かなかった。

さて、本論の佐藤さんの歌である。
多くの歌は引けないので、はじめに掲出した歌を含む巻末の平成十四年の歌の一連を引いておく。

     平成十四年    東電の組織的隠蔽

  三十六本の配管の罅(ひび)も運転には支障あらずと臆面もなし

  原発の商業主義も極まるか傷痕秘してつづくる稼働

  さし出されしマイクに原発の不信いふかつて見せざりし地元の人の

  破損また部品交換不要と言ひたるをいま原発のかくも脆弱

  原発などもはや要らぬとまで言へりマイクに向かひし地元の婦人

  原発の港の水の底深く巨大魚・奇形魚・魔魚らひそまむ

  「傷隠し」はすでにルール化してゐしと聞くのみにして言葉も出でず

  ひび割れを無修理に再開申請と言ふかかる傲慢の底にあるもの

  ひび割れを隠しつづくる果ての惨思ひ見ざるや飼はるる社員

  埋蔵量ウランは七十年分あるを十一兆かけるかプルサーマルに

  法令違反と知りつつ告発に踏み切れぬ保安院は同族と認識あらた

  面やつれ訪問つづくる原発の社員に言へりあはれと思へど

  組織的隠蔽工作といふ文字が紙面に踊る怖れしめつつ

  原発推進の国に一歩も引くことなき知事よ県民はひたすら推さむ

  いつ爆(は)ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列(つら)なる

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極めて不十分な鑑賞だが、この辺で終わりにする。 ぜひ取り寄せて読んでもらいたい。

この歌集の「初版」は短歌新聞社から刊行されたが、そのときに担当されたのが「玉城入野」氏であった。ちょうど、その頃、彼は短歌新聞社で編集者だった。
その後、短歌新聞社は社長の石黒氏の高齢のために解散されたので、初版本は絶版となった。
フクシマ原発事故の後、佐藤さんの「予言」のような歌を覚えていて、ぜひ再版をと働きかけて再版に至り、よく売れて、私が買ったものは第三刷である。
因みに、この玉城入野氏は、高名な玉城徹の息子さんであり、きょうだいに「塔」所属の歌人として有名な花山多佳子が居る。
玉城徹 ← については私の記事にあるので参照されたい。

山田兼士『高階杞一論 詩の未来へ』・・・・・・・・・・・木村草弥
山田

──山田兼士の詩と詩論──(8)

     山田兼士『高階杞一論 詩の未来へ』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・澪標2013/06/01刊・・・・・・・

山田兼士先生が詩誌「びーぐる」に連載されてきた文章に加筆して、この本にまとめられた。
先ず、この本の「あとがき」を引いておく。
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        あとがき

 本書は「びーぐる 詩の海へ」第三、五、六、七、八、九、十、十三、十五、十七、十九号と、十一回に渡って掲載した論考を十二章に再構成し加筆修正を施したものです。執筆にあたって、詩集『ティッシュの鉄人』については「別冊・詩の発見」創刊号(二〇〇五年四月)に書いた論考を、『桃の花』については詩誌「交野が原」六〇号(二〇〇六年五月)に書いた書評を、また『雲の映る道』については神戸新聞(二〇〇八年五月十六日)に書いた書評を、それぞれ前提にしています。また、全体のバランスを考えて、第四章には大幅な加筆を施しました。「付録1」に収めた対談は「活字倶楽部」二九号(雑草社、二〇〇三年春号)に掲載されたもの、「付録2」の論考は当初「河南文學」一〇号(大阪芸術大学文芸学科研究室、二〇〇一年三月)掲載のものを改稿の上「詩学」六三一号(二〇〇三年三月)に掲載、さらに改稿して『現代詩人文庫・高階杞一詩集』(砂子屋書房、二〇〇四年)に収録したものです。

『キリンの洗濯』を初めて読んだ時の衝撃は忘れられません。一九九〇年、友人に勧められて一読、たちまち高階ワールドに引き込まれました。同じ大阪府在住ということもあって、いつか作者に会うことができればと、漠然と考えていましたが、なかなかその機会には恵まれませんでした。
 生身の高階杞一との出会いは今から十五年ほど前、故寺西幹仁さんが主宰していた「詩マーケット」の会場だったと記憶しています。敬愛してきた詩人に会うことができて、大変うれしかったことを覚えています。その後、縁あって私が勤務する大学に出講していただくことになり、現在も毎週一度、研究室で顔を会わせる習慣が続いています。季刊詩誌「びーぐる 詩の海へ」の編集同人としての付き合いもすでに五年近くなりました。
 そうした身近にいる人の作品を客観的に論じることができるのか、という危惧を私自身抱かなかったわけではありません。しかし、考えてみると、高階杞一は当初から私の自然発生的な知己であったわけでなく、作品を通しての敬愛と親近感が先にあったわけで、いつか論じてみたいと念じていたところに、それこそ縁があって出会うことができたのでした。身近な人だから論じないというのも、身近な人だから論じるというのと同じ程度にアンフェアな態度だと、私は考えています。あえて断言するなら、客観的かつ普遍的に考えて、今後の日本詩を牽引していく使命を担った詩人の一人が高階杞一だと、私は信じています。その期待を前提にする本書が、少しでも多くの人の共鳴に恵まれることを願っていますが、結果は読者の判断に委ねるしかありません。

 本書の刊行によって、ボードレールからシュルレアリスムまでのフランス詩サイクルと、萩原朔太郎から宮澤賢治、中原中也、小野十三郎を経て谷川俊太郎に到る日本詩サイクルからなるボードレール・プログラムが、さらに同世代詩人にまで延びたことになります。自分と同年代の詩人(正確には私が二歳年少)を一冊の書物として全面的に論じることによって、いよいよ現代詩への自己投入が切実になってきた、というのが偽らざる本音といったところです。自らの詩論のさらなる広がりと深まりを期して、本書を世に送り出す次第です。
 今回も、澪標の松村信人さんには大変お世話になりました。大学時代からの先輩の期待に僅かでも応えることができているようにと、願わずにいられません。

 二〇一三年四月二十二日     山田兼士
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   第五章 『早く家(うち)へ帰りたい』──亡き子をしのぶ詩

 高階杞一の五冊目の詩集『早く家へ帰りたい』(一九九五年)は、これまで出ている十一冊の中で最も特別な一冊である。高階自身、これに続く『春’ing』(一九九七年)のあとがきに書いているように、特別なテーマで書かれた詩集だからだ。帯を見てすぐ分かるように、全篇が「レクイエム」なのである。高階が詩を書き始めてから最も重大なできごとであり、その後の詩作に大きな意味を持たせることになった「こどもの死」について今回は考えたい。

 高階杞一の長男雄介は一九九〇年九月に生まれた。生まれつき腸に障害があって何度も手術を受け、なんとか育ちそうな気配を見せてはいたが、一九九四年九月四日に世を去った。その後、多くの作品のモチーフとなり(最近では『雲の映る道』収録の「春の港」は秀作)「雄介詩篇」と呼ぶべき作品群を形成する契機になったこのできごとの意味を、作品から検討してみたいと思う。

 詩集『早く家へ帰りたい』の巻末に付された「創作日」一覧によれば、冒頭から八作目まではこどもの生前の作、九作目からが追悼詩で、最後の「永遠」まで、ほぼ制作順に並べられていることが分かる。それら十一篇の追悼詩の中で、最も制作時期の早い(つまりこどもの死からまだ日が経っていない)作品を引用する。

  ゆうぴー おうち

      平成六年九月四日、雄介昇天、享年三。

せまい所にはいるのが好きだった

テレビの裏側
机の下
本棚とワープロ台とのすきま
そんな所にはいってはよく
ゆーぴー おうち
と言っていた
まだ助詞が使えなくて
言葉は名詞の羅列でしかなかったけれど
意味は十分に伝わった
最近は
ピンポーン どうぞー というのを覚え
「ゆうぴー おうち」の後に
ピンポーン と言ってやると
どうぞー
とすきまから顔を出し
満面笑みであふれんばかりにしていたが……

今おまえは
どんなおうちにいるんだろう
ぼくは窓から顔を出し
空の呼鈴を鳴らす

  ピンポーン

どこからか
どうぞー というおまえの声が
今にも聞こえてきそうな
今日の空の青

「創作日」一覧によればこどもの死から十日ほどしか経っていない「1995.9.15」に書かれたということだが、そしてその分、未だ生々しい悲しみが直截な痛々しさを伴って書かれているが、後半、一行空きに続く部分は高階杞一ならではの透明感あふれる抒情に満ちている。「空の呼鈴を鳴らす」とは、簡単なようでいて、実は誰にでも書ける一行ではない。最後の五行には「昇天」(サブタイトルに注意)したこどもの天使的な姿さえ――はやくも――にじみでてはいないだろうか。

 亡き子をしのぶ最初の作品から二ヶ月後、高階は全四章一〇六行から成る詩「早く家へ帰りたい」を書く。この詩は、愛児追悼作品として中原中也「春日狂想」に比肩する名作である。高階作品になじみの薄い読者にも読んでもらいたいので、全文を引きながら鑑賞していきたい。まず、その冒頭――

   1

旅から帰ってきたら 
こどもが死んでいた
パパー と迎えてくれるはずのこどもに代わって
たくさんの知った顔や知らない顔が 
ぼくを 
迎えてくれた
ゆうちゃんが死んだ 
と妻が言う
ぼくは靴をぬぎ 
荷物を置いて
隣の部屋のふすまをあけて
小さなフトンに横たわったこどもを見
何を言ってるんだろう 
と思う
ちゃんとここに寝ているじゃないかと思う

 詩集刊行時、「旅から帰ってきたら/こどもが死んでいた」などと突き放したような書き出しに驚いた記憶があるが(当時私自身が子育て真っ最中だった)、重大かつ悲惨な事実を事実としてすぐには認識できない心情を、この上なく正確に写し出した表現であることに気づくのに、それほど時間は要しなかった。悲劇を目前にして、人がまず最初に覚えるのは違和感なのだ。そして――

枕元に坐り 
顔をみる
頬がほんのりと赤い
触れるとやわらかい
少し汗をかいている
指でその汗をぬぐってやる
ぼくの額からも汗がぽたぽた落ちてくる
駅からここまで自転車で坂道を上がってきたから
ぬぐってもぬぐっても落ちる
こどもの汗よりも 
ぼくは自分の汗の方が気になった
立ち上がり 
黙って風呂場に向かう
シャワーで水を全身に浴びる
シャツもパンツも替えてやっとすっきりとする
出たら 
きっと悪い夢も終わってる
死んだはずがない

 いつもと変わらない行動によって「悪い夢」から覚めようとするのだが、ここには一種の詩的虚構がふくまれているのではないか。実際にはその場で泣き崩れたのかもしれないし、ただ狼狽してうろうろしていたのかもしれない。だが、詩人の筆はそんな気配を微塵も感じさせずに、淡々と進むことで次の展開を用意している。

  2

こどもの枕元にはロウソクが灯され 
花が飾られている
好きだったおもちゃや人形も置かれている
それを見て 
買ってきたおみやげのことを思い出す
小さなプラスチック製のヘリコプター
袋から出して 
こどもの顔の横に置く
(すごいやろ うごくんやでこれ)
ゼンマイを巻くと 
プロペラを回しながらくるくると走る
くるくるとおかしげに走る
くるくるとおかしげに走る
その滑稽な動きを見ていたら
急に涙がこみあげてきた
涙と汗がいっしょになって
膝の上に
ぽたぽた落ちてきた


 この急展開は衝撃的だ。「くるくると…」を三度繰り返すことで平常心が一挙に崩れる一瞬を描いているのだが、この繰り返しによる一瞬の展開が高階マジックの一つであることはすでに前回まで見た通りだ。こどもの死を事実として受け止めた詩人は次に――

  3

こどもの体は氷で冷やされ 
冷たく棒のようになっていた
その手や足や
胸やおなかを 
こっそりフトンの中でさする
何度も何度もさする
ぼくがそうすれば 
息を吹き返すかもしれないと
ぱっちりと目をあけ 
もう一度
パパー と
言ってくれるかもしれない、と

 九月初旬、残暑の厳しい季節なので遺体の腐敗を防ぐために「氷で冷や」す、というのはリアリズムそのものだ。だが、遺体を手でさすって生き返らせようとする親の未練は切実なセンチメンタリズムと呼ぶべきだろう。あわせて、ここにはこの上なく直截な魂のリアリズムが描かれている。

 ところで、本作の初出(「ガーネット」十四号、一九九四年十二月)では、引用最終行「かもしれない、と」のところに読点は付いていなかった。初出と詩集掲載形の間には、漢字表記をひらがなに変えたり助詞を少し変えたりといった変更は多少あるものの、全体としてそれほど大きな違いはない。そんな中にあって、この読点は非常に気になるところだ。読点による一瞬の間(ま)が、死んだこどもへの未練を断ち切っているように読まれるからである。初出時から詩集刊行時までの一年ほどのあいだに、死者への哀悼がそれだけ深まった、ということだろう。未練から哀悼への転換を示す読点なのだ。

  4

みんな帰った
やっとひとりになれて 
自分の部屋に入っていくと
床にCDのケースが落ちていた
中身がない
デッキをあけると 
出かける前とは違うCDが入っていた
出かける前にぼくの入れていたのは大滝詠一の「ビー チ・タイム・ロング」
出てきたのは通信販売で買った「オールディーズ・ベスト・セレクション」の⑩
デッキのボタンを押すたびに受け皿の飛び出してくるのがおかしくて
こどもはよくいじって遊んでいたが
CDの盤を入れ替えていたのはこれが初めてだった
まだ字も読めなかったし
偶然手に取ったのを入れただけだったのだろうが
ぼくにはそれが 
ぼくへの最後のメッセージのように思われて
(あの子は何を聴こうとしてたんだろう)

こどもが死ぬ前にいじっていた(らしい)CDデッキのエピソードは、死の当日かどうかはともかく、おそらく事実に基づいたものだろう。いくつかの事実の断片を集めて詩人は一つのモチーフに結晶させた。そして次――

一曲目に目をやると
サイモン&ガーファンクル「早く家へ帰りたい」
となっていた
スイッチを入れる 
と 静かに曲が流れ出す
サイモンの切々とした声が
「早く家へ帰りたい」とくり返す
それを聴きながら 
ぼくは
それがこどもにとってのことなのか
ぼくにとってのことなのか
考える
死の淵からこの家へ早く帰りたいという意味なのか
天国の安らげる場所へ早く帰りたいという意味なのか
それともぼくに  
早く帰ってきてという意味だったのか
分からないままに 
日々は 
いつもと同じように過ぎていく


S&Gの「早く家へ帰りたい」。いかにもよくできた偶然のようにも見えるが、このあたりになると、詩がどの程度事実に基づいているのかなどという疑問はどうでもよくなってしまう。詩人にとって、亡き子が最後に残したメッセージは「早く家に帰りたい」でなければならなかったのだ。なぜなら、このメッセージこそが、いくつもの答えを導くことで詩の多義性と多様性を醸し出す、魔法の呪文=詩集の主旋律であるからだ。言い換えるなら、このフレーズの発見が詩集の輪郭を決定づけた。

 詩人は答えが見つからないままに、いや、幾通りもの答えを発見しながら「日々は/いつもと同じように過ぎていく」と、平常心を取り戻しつつある自己を凝視する。そして最後――

ぼくは
早く家へ帰りたい
時間の川をさかのぼって
あの日よりもっと前までさかのぼって
もう一度
扉をあけるところから
やりなおしたい

 この「家」はもはや現実に存在する家ではなく、過去の時間の中にしかあり得ない失われた家である。では、「あの日」より過去にしかない家の「扉」とは何か。時間の扉? それとも心の? 単純なようで実はそうとうに複雑な構造が、ここには潜んでいる。その複雑さこそが、この作品が読者に繰り返しせまってくる〈詩の問いかけ〉の正体だ。答えは読者が繰り返しそれぞれに発すればいい。その問いの深さ切なさこそが〈詩〉なのだ、と。
「早く家へ帰りたい」を掲載した「ガーネット」誌第十四号(前出)には、高階杞一による連載「詩誌・詩集から」の第十二回が掲載されていて、その題名は「失っていく練習――〈悲しみ〉をめぐって」。小長谷清実や阿部恭久らの作品を引用しながら〈悲しみ〉の諸相を考察し、最後は韓国の詩人オ・セヨンの詩の一節を引用し、次のようにしめくくっている。

私たちは
一つの美しいわかれを持つために
今日も
失っていく練習をしている
(「十月」部分、なべくらますみ訳)

ぼくも失っていく練習をしなければ――。


『早く家へ帰りたい』から七ヶ月後(一九九七年六月)高階は第六詩集『春’ing』を刊行する。だが、この詩集は一九九四年までの作品を収録したもので、「雄介詩篇」は一篇も含んでいない。「失っていく練習」の成果を見るためには、さらに二年ほど後(一九九九年)に刊行される『夜にいっぱいやってくる』を待たなければならなかった。
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長い引用になったが、途中で打ち切るのが躊躇されたからである。
短い、凝縮した作品が多い高階さんにしては、愛息の死に際して、心が動顚して、削った詩には出来なかったのだろうか。

よく読みこんだ精細な評論である。
私の書いたものとしては拙いものだが → 「高階杞一の詩」があるので参照されたい。


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