K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(6月)月次掲示板
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一昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
sizen266カタツムリ

六月になりました。 嫌な梅雨が始まります。
この梅雨は米作りや飲料水の確保などに必要ですから我慢いたしましょう。


 微量なる放射能腹一杯に吸いてはためく真鯉、緋鯉も・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村晃作
 酸性土荒れ地を好む野生種の罌粟いつのまにわが家囲む・・・・・・・・・・・・・・川野里子
 右ひだり違ふスリッパに足を入れ歩めるやうな地震に酔ふ日々・・・・・・・・・・・松本典子
 父という深い森林母というとおい夕雲いま仰ぎ見よ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小島なお
 泣きながらこの世に生まれ泣けるだけ泣きてゆくのかあの世とやらに・・・・・・真鍋正男
 のぞむのはブレない生き方遠霞む生駒山系太古の蒼さ・・・・・・・・・・・・・・・道浦母都子
 曇天をひるがへり飛ぶつばくらの狂ふとも見え喜ぶとも見ゆ・・・・・・・・・・・・・・・松阪弘
 咲きそろふ山法師の白ひらひらと余震がわれを迎へてくれつ・・・・・・・・・・・・・・・篠 弘
 遠目には桐かあふちかふぢの花いづれかいづれかすむむらさき・・・・・・・・・・・沢田英史
 にんげんは勝手なるもの然らばさらば埒の外にて生きよスッボン ・・・・・・・・・・遠山利子
 このごろを死者に親しくわがあればなべてうつくし現し世のこと・・・・・・・・・・・照屋眞理子
 祈る手をやよひのそらにかかげつつしづかなるかなはくもくれんは・・・・・・・・・・三井ゆき
 夏の家の水栓とざし帰るとき魚鱗もつ水息ひとつ吐く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下泉 
 六月や身をつつみたる草木染・・・・・・・・・・・・大石香代子
 クレヨンの黄を麦秋のために折る・・・・・・・・・・・・・ 林 桂
 ニコライの鐘の音色も梅雨に入る・・・・・・・・・ 茂木連葉子
 大寺のうしろ明るき梅雨入かな・・・・・・・・・・・・・前田普羅
 麦秋の中なるが悲し聖廃墟・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
 青猫といふ紙あらば詩を書かむ・・・・・・・・・・・・・・ 高島茂
 黒揚羽凶々しくも喉鳴らす・・・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 春深し真昼はみんな裏通り・・・・・・・・・・・・・・ 岩淵喜代子
 ストローの向き変はりたる春の風・・・・・・・・・・・・高柳克弘
 春の日の目にざらざらと石の壁・・・・・・・・・・・・・ 井越芳子
 飛び出して毬藻羊羹ほととぎす・・・・・・・・・・・・・ 栗山政子
 地球儀をつぶすおっぱい百千鳥・・・・・・・・・・・・・大木孝子
 畑打のポケットにある聖書かな・・・・・・・・・・・・・金中かりん
 顔ぢゆうを青ぐさくして粽食ぶ・・・・・・・・・・・・・・高角みつこ
 猫の子を筆であやして大人めく・・・・・・・・・・・・・・佐藤文香
 青梅雨や部屋がまるごと正露丸・・・・・・・・・・・・・小林苑を
 青痣のごとしマーチェフ・地下水道・・・・・・・・・・・・大木義幸
 コーヒー豆のやうなる地図記号薄暑・・・・・・・・・・・・・・木綿
 陽炎の中より野馬追ひの百騎・・・・・・・・・・・・・・・長瀬十悟
 噴水に犬の肉球あらふ人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今村豊
 新緑や不吉な話ばかりして・・・・・・・・・・・・・・・・・村井康司
 乳房をつつむ薄絹夢の軍楽隊・・・・・・・・・・・・・林田紀音夫
 咲き満ちし花のまはりの放射能・・・・・・・・・・・・・・ 関根誠子
 凧の尾のごとき腕伸ばしをり・・・・・・・・・・・・・・・佐々木六戈
 花中りすれば他界のよく見えて・・・・・・・・・・・・・照屋眞理子
 青の宵先に泣かれてしまひけり・・・・・・・・・・・・・小豆澤裕子
 葉桜やいの一番の鯉の口・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 渡辺竜樹
 エンジンの大きな虻が来りけり・・・・・・・・・・・・・・・西村麒麟
 櫂となる血潮の腕島を漕ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・・・豊里友行
 片恋や日傘に意味のなき模様・・・・・・・・・・・・・・・・野口る理
 目を閉ぢてはじまる遊び蝶の昼・・・・・・・・・・・・・・・・・日原傳 
 夏めいて青の量感広がりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿 


ご来訪くださいまして有難うございます。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
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ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第五歌集『昭 和』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
一般書店からの取り寄せは、角川書店の配本部門・角川グループパブリッシング発売、と指定されたい。
ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

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 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


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 日本国憲法九条
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永久にこれを放棄する。
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灯や明し独り浴後の枇杷剥けば・・・・・・・・・・・・・・石塚友二
biwa004びわの実②

    灯や明し独り浴後の枇杷剥けば・・・・・・・・・・・・・・石塚友二

これもウォーキングする道端の家の庭に、たわわに枇杷(びわ)の木に実が生っているのを見たので、載せる気になった。
ビワの実は、今が時期である。
販売用には、栽培種で「茂木」ビワが有名である。
ビワは種が大きくて、食べるところは周囲の果肉で、あんまり食べるところが多くなくて、人によって好き嫌いがあるようである。
高級品は薄い紙に包まれていたりする。

枇杷というのは、花が初冬の十二月頃に咲いて、果実は翌年の梅雨の頃に熟する。
写真②が枇杷の花。地味な、目立たない花である。
biwaびわの花12月

枇杷の葉はかなり大きめのもので、この葉は薬草としても珍重される。
ものの本によると、枇杷の花は白く小さいが、香りがよい、と書いてあるが、嗅いだことはない。
寒い時期だから、この花を仔細に観察した人は多くはない筈である。
栽培種でなく、庭木として植えられているのは写真③のような、小ぶりの実である。
biwa2びわの実

毎日通る道筋で、たわわに実っている庭木があるが、今日通ったら、その一部に紙袋が被せられていた。
肥料も、ろくに与えていない庭木だから、さほど美味しい枇杷が採れるとも思わなかったが、やはり果実として世話をしてみたいのであろうか、
と歩きながら考えたことである。

枇杷の実を詠った句を引いて終わりたい。

 枇杷の雨やはらかしうぶ毛ぬらしふる・・・・・・・・太田鴻村

 枇杷熟れて古き五月のあしたかな・・・・・・・・加藤楸邨

 やはらかな紙につつまれ枇杷のあり・・・・・・・・篠原梵

 枇杷の柔毛(にこげ)わが寝るときの平安に・・・・・・・・森澄雄

 枇杷買ひて夜の深さに枇杷匂ふ・・・・・・・・中村汀女

 枇杷の種つるりと二男一女かな・・・・・・・・橋間石

 枇杷を吸ふをとめまぶしき顔をする・・・・・・・・橋本多佳子

 船室の明るさに枇杷の種のこす・・・・・・・・横山白虹

 袋破れ一顆は天へ枇杷実る・・・・・・・・稲垣法城子

 枇杷たわわ朝寝たのしき女の旅・・・・・・・・近藤愛子

 菩提寺の枇杷一族のごとこぞる・・・・・・・・中田六郎

 枇杷山の眩しさ海に近ければ・・・・・・・・畠山譲二

 枇杷に点る色のはるばる着きしごとし・・・・・・・・宮津昭彦

 枇杷の木の少年枇杷を一つ呉れる・・・・・・・・秋篠光広

 枇杷啜り土佐の黒潮したたらす・・・・・・・・渡辺恭子

 走り枇杷すでにひさげり火山灰の町・・・・・・・・大岳麗子



蛇逃げて我を見し眼の草に残る・・・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子
aodai20041青大将

    蛇逃げて我を見し眼の草に残る・・・・・・・・・・高浜虚子

蛇には、いくつかの種類が居るが、掲出の写真は「青大将」である。
蛇は以前に私の歌を引いて書いたので、詳しくは書かない。
蛇は私の地方では「くちなわ」という。
語源は「朽ちた縄」の意味であり、古来「くちなは」として古語にもあるので、その古い表現が今でも残っているということである。
青大将は日本に居る蛇の中では一番長い。私の子供の頃の記憶では、もっと青い(緑がかった)蛇だったように記憶するが、あてにはならない。

写真②は「しまへび」「(縞蛇)である。青大将とは、ずっと小型で細い。
sw-1upシマヘビ

蛇は野ネズミなどを食べるので有益な生き物なのだが、その姿から嫌われ、手ひどい仕打ちを受けることが多い。
日本に棲む蛇で有毒なのは唯一「まむし」(蝮)だけである。 ← (注)記事の末尾に追記があるので見られよ。
特徴としては頭が三角形で角張っているのと、色が黒っぽい。これに噛まれるとマムシ血清を早く打たないと障害が残る。
日本では、医療機関に血清が備えられているので、手遅れにならない限り心配ない。

私の旧宅には大きな庭石が前栽にあり、その石の下に、わが家の「主」の青大将が棲んでいた。体の紋の記憶から、そうだとわかる。
この主が居たので、わが家に巣を作るツバメが何度も雛を呑まれたことがある。
雛が大きくなって巣立ち間際になる絶好のタイミングを知っていて、未明の薄暗い頃に呑み込むのである。
冬眠から「啓蟄」の頃に出てくるが、体の成長につれて「皮」を脱いで大きくなる。
蛇は「巳」(み)と言うが、「巳成金」と言って利殖の神様とされ、その「抜け殻」を財布の中に仕舞っている人が居るほどである。
だから私の家では、追っ払うことはあっても、決して打ち殺すようなことはしなかった。
「巳ぃさん」と敬称をつけて呼ばれていた。

掲出の虚子の句は、明らかに、蛇恐怖症の印象がする。
松山生まれだが、田舎ではなく、都会っ子なのであろう。

以下、蛇を詠んだ句を引いて終わる。

 とぐろ巻く蛇に来てゐる夕日かな・・・・・・・・原石鼎

 尾のさきとなりつつもなほ蛇身なり・・・・・・・・山口誓子

 水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首・・・・・・・・阿波野青畝

 吾去ればみ仏の前蛇遊ぶ・・・・・・・・橋本多佳子

 見よ蛇を樹海に落し鷹舞へり・・・・・・・・及川貞

 蛇打つてなほまぼろしの蛇を打つ・・・・・・・・宮崎信太郎

 蛇去つて戸口をおそふ野の夕日・・・・・・・・吉田鴻司

 完全にわれを無視蛇の直線行・・・・・・・・菅八万雄

 蛇の眼にさざなみだちて風の縞・・・・・・・・松林朝蒼

 蛇の衣傍にあり憩ひけり・・・・・・・・高浜虚子

 袈裟がけに花魁草に蛇の衣・・・・・・・・富安風生

 老斑の手にいま脱ぎし蛇の衣・・・・・・・・山口草堂

 平凡な往還かがやく蛇の殻・・・・・・・・沢木欣一

 蛇の衣いま脱ぎ捨てし温もりよ・・・・・・・・秋山卓三

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f-yamakagasi04ヤマカガシ
 ↑ ヤマカガシ

この記事を見た友人から<本土には、「やまかがし」という毒蛇が居る。>という指摘を受けた。
その通りであって、私の舌足らずであったので、ここに追記して、御礼申し上げる。 持つべきものは「友」である。
「Wikipediaヤマカガシ」に詳しい。  写真で見る「赤い斑点」が不気味である。

私がこの蛇を「毒蛇」として書かなかったのには一理あるのである。
Wikipediaに書かれているのを下記に貼り付けておく。 ↓

<頚腺から毒液を出すことは古くから認識されていたが、毒牙は奥歯にあるため深く噛まれないと毒の注入が行われず、爬虫類研究者の間でも毒蛇であることはあまり認識されていなかったとされる。1972年に中学生が噛まれて死亡する事故が起きてから、毒蛇として認識されるようになってきた。>

この蛇を毒蛇として広く注意喚起されるようになったのは割合新しいので、それ以前の情報としては脱落していたという次第である。
棲息する場所によっては無毒の種類も居るようである。
いずれにしても、友人の指摘には感謝して、ここに付記する次第である。

大平一枝・伊藤ハムスター『昭和ことば辞典』・・・・・・・・・・・木村草弥
ことば

──新・読書ノート──

   大平一枝・伊藤ハムスター『昭和ことば辞典』・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・ポプラ社2013/05/15刊・・・・・・・・

こういうタイトルの本が出るとは、昭和も遠くなったものである。
この本のキャッチコピーや目次などを引いておく。
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     日常会話に取り入れると、がぜんしみじみ感が漂う…
     上司や目上の人と驚くほど心が通う、おもしろフレーズ集!


 「及ばずながら、私も一肌脱がせていただきます」
 「どうも不調法で」「そうは問屋が卸さないよ! ! 」
 「あなた様、親しくお付き合いさせていただきたい」
 「おやおや、やぶへびか~」
 「おばさんすごくシャンだって」

ビジネスでも恋愛でも、人間関係を円滑にとりもつコミュニケーション法は定番の悩み。
本書では、昭和20~40年、戦後から高度経済成長期にかけての活気があった時代の日常会話に着目。
当時公開された日本映画のセリフから、角がたたない言いまわしの知恵、
ひたむきな明るさとユーモア、謙遜の美学が感じられる言葉をピックアップ。
「昭和ことば」と名付けて、現代での新たな使用方法をご提案します。
懐かしい昭和の「死語」も登場、世代を越えて楽しめる1冊です。

○もくじ

昭和ことばの効用 ・・・・・・2

第一章 職場編

 社内の会話 ・・・・・・8 上司と部下 就労事情
 説教・忠告 ・・・・・・20  軽くたしなめる 諭す・とりなす
 喧嘩と議論 ・・・・・・28 売り言葉に買い言葉 しらばっくれる 罵る

第二章 恋愛編

 正しい恋愛 ・・・・・・38 交際以前 交際申し込み 好意の辞退 振られたら 駆け引き 外野の意見 愛の成就
 黒い恋愛 ・・・・・・58 別れ話のこじれ 浮気・愛人発覚

第三章 世相と流行

 時代の空気 ・・・・・・66 流行語 横文字
 明朗快活 ・・・・・・70 突き抜けた明るさ

第四章 社交上手

 熟練の挨拶 ・・・・・・76 そつのない礼儀 ご近所の連携
 社交上手 ・・・・・・80 ほめる さりげなく誘い、誘われる
 辞退 ・・・・・・86 やんわり否定 物売りを断る
 噂話 ・・・・・・91 よい人柄 皮肉 悪評 合いの手
 お酒の席 ・・・・・・104宴の作法

第五章 敬ってへりくだる

 恐縮と謙遜 ・・・・・・112 前置きする 恐れ入る 謙遜の美学
 心を伝える ・・・・・・119 感謝と同情 励ます・気張る お詫び・お願い
 もてなす ・・・・・・127 お茶の出し方 拙宅へ招く 長居 おいとまする
 折り目正しく ・・・・・・136 ていねい語

第六章 暮らしの雑事

 冠婚葬祭 ・・・・・・140 結婚 お悔やみ
 家庭内 ・・・・・・147 夫婦のいざこざ 日常茶飯事 子どもと親 故郷
 昭和の食卓 ・・・・・・160 質素な喜び
 家計と商売 ・・・・・・164 懐事情 店主とお客
 庶民の呟き ・・・・・・172 町の言葉 決まり文句 人生訓

昭和ことばコラム
 「昭和ことば」蒐集について ・・・・・・180
 隠れた名作 ・・・・・・182
 昭和のしぐさと色気 ・・・・・・184
 女優の言葉遣い ・・・・・・186
 お茶番ならできます ・・・・・・188

おわりに ・・・・・・190

ポン=タヴァン「トレマロ礼拝堂」・・・・・・・・・・・・木村草弥
img_1602294_50211404_0ポンタヴァン トレマロ礼拝堂
 ↑ トレマロ礼拝堂
E38388E383ACE3839EE383ADE7A4BCE68B9DE5A082トレマロ礼拝堂
 ↑ 礼拝堂 背面から
lrg_10163633黄色いキリスト磔刑像
 ↑ 黄色いキリスト磔刑像

──巡礼の旅──(11)

     ポン=タヴァン「トレマロ礼拝堂」・・・・・・・・・・・・木村草弥

フランス北西部、ブルターニュ地方の小さな村ポン=タヴァン。
村はずれの山道を上りつめると、この地方独特のどっしりとした石造りの礼拝堂が見えてくる。
森の中でひっそりと佇む礼拝堂の中に、その「黄色いキリスト磔刑」像がある。

ポール・ゴーギャンが、辺境の地ブルターニュを初めて訪れたのは1886年。
産業革命で近代化著しい大都会パリに疲れた多くの芸術家たちは、対極的なものを求めてブルターニュにやってきた。
そこには昔ながらの田舎の風景があり、フランス人の起源─ケルトの文化が息づいていたのである。
女性は黒いスカートに「コワフ」という髪飾りをつけており、その姿は、いくつかゴーギャンの作品の中で見ることが出来る。
もともと株の仲買人をしていた彼は、印象派の影響を受けて画家への道に踏み出したのだが、彼の作品が三度にわたるブルターニュ滞在で徐々に印象派から脱してゆく。
そして太い輪郭線で区切った中に平坦な色合いで構成する独特の様式を確立してゆくことになる。
カトリック信仰が色濃く残るブルターニュで、ゴーギャンがキリストの受難や聖書の物語、そして「黄色いキリスト」を題材に描いたのも自然な選択だった。
gauguinゴーギャン 黄色のキリスト像といる自画像
 ↑ 「黄色いキリストと居る自画像」
lrg_10271563黄色いキリスト 拡大
 ↑ 別の「キリスト磔刑像」の絵

ブルターニュ滞在を含む四年間で、ゴーギャンはさまざまな画家と交流し、パナマへも旅をし、やがて未開の地への憧れを抱くようになる。
ここに引いた「黄色いキリストと居る自画像」はオルセー美術館所蔵のもので、1891年、終焉の地となるタヒチに旅立つ数か月前の作品である。

ここは今でも画家の村として有名なところ。
なお本によると「ポン・タヴエン」と書かれていることがあるが、ポン・タヴァン(Pont-Aven)がフランス語としては正確であることを指摘しておきたい。
この地の写真を載せておく。
061101_copyポンタバン①
061102_copyポンタバン②
061104_copyポンタバン③
ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
450px-Naomi_Shemer27s_graveナオミ・シェメルの墓
イスラエルの作詞・作曲家、ナオミ・シェメルの墓。ガリラヤ湖のほとりにあり、ユダヤ人の習慣で訪問者が小石を置いている。

  ──巡礼の旅──(1)─再掲載・初出2011/06/26(再掲載にあたり構成し直しました)

   ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今日はイスラエルの作詞・作曲家ナオミ・シェメルの忌日である。
ナオミ・シェメル(1930年7月13日 ~ 2004年6月26日、英文:Naomi Shemer)は現代イスラエルの最も有名な女性作詞・作曲者で、
イスラエル建国後の重要な場面で多くの歌を発表して、国民から愛唱され、特に「黄金のエルサレム」は第2のイスラエル国歌とまで言われている。

200px-Neomi_shemerナオミ・シェメル
ナオミ・シェメルは1930年に、ガリラヤ湖のほとりのキブツに生まれている。
両親は1920年代にリトアニアから第3次シオン帰還運動で移動してきたユダヤ人で、このキブツの創始者の一家族であり、ナオミは子供時代から特に母からきびしい音楽教育を受けた。
長じてイスラエル国防軍の慰問団で働き、この間にエルサレム音楽・舞踏アカデミー(Jerusalem Academy of Music and Dance)で学んでいる。
結婚して、2児を得ている。2004年、ガンのため73歳で亡くなった。

ナオミ・シェメルは自分で作詞・作曲しているが、女性詩人のラヘル・ブルーシュタイン(Rachel Bluwstein)などの有名な詩にも作曲をしたり、
ビートルズの曲にヘブライ語の作詞をしたりもしている。
イスラエル建国と発展の各過程で依頼されて作った歌も多く、人々の喜び・悲しみ・希望を歌い、多くの人々に愛唱されている。1983年、イスラエル国民栄誉賞を受賞している。

「黄金のエルサレム」 (英語字幕つき) ← クリックして聴いてください。

↑ 一番有名な歌は、1967年のイスラエル独立記念日の音楽祭の招待曲として作られた「黄金のエルサレム」(エルシャライム・シェル・ザハヴ、英文:Jerusalem of Gold)である。
歌の内容はイスラエルの歴史から現代の希望までをカバーしており、含蓄の深いものとなっている。
この歌が作られて直後に六日戦争(第三次中東戦争)が起きて、後でイスラエルがこの戦争で勝ち取った東エルサレムについて(そこにユダヤ人にとって大切な「神殿の丘」と「嘆きの壁」がある)についての4番目の歌詞が追加されている。
この歌があまりにも有名になったため、1968年に国会でイスラエル国歌「ハティクヴァ」に代わる国歌にしようとする動きもあったが、これは否決されている。

今年はイスラエル建国から六十五年。
ユダヤ人にとっては悲願の建国であったが、歴史的にみると、今から三千年も前に古代イスラエル王国は築かれた。
神殿の丘には、エルサレム神殿が建てられ、ユダヤ教の礼拝の中心地として栄えていた。
しかし、紀元66年に始まったローマとのユダヤ戦争で、エルサレムはローマ軍によって陥落し、神殿は壁一枚を残して完全に破壊されてしまった。
神殿の西側に位置するため「西壁」と呼ばれるが、これがいわゆる「嘆きの壁」である。

ユダヤ戦争は、最後の拠点だったマサダの要塞の陥落をもって終結する。
以降、ユダヤの民は世界に離散し流浪の歴史を辿ることになった。
二十世紀になり、第二次世界大戦後にはナチスに迫害されたユダヤ人国家の建国機運が高まり、1948年に国連はイスラエル建国を宣言した。
すると周囲のアラブ諸国は猛反発し、その後の中東戦争へと足を踏み入れることになる。

この歌が作られた1967年当時、エルサレム旧市街やエリコを含むヨルダン川西岸地域はヨルダン領であり、ユダヤ人は自らの聖地で祈りを捧げることも出来なかった。
故郷への想いが綴られた歌詞の一部を下記に紹介する。

      黄金のエルサレム

  1番
  山々の風はワインのように冷ややかで、松のにおいが
  夕方の風に乗って太鼓の音と共に漂っていく。
  そして木も石もまどろんで夢の中に休むとき、
  ただ一人立つこの町は城壁の中にある。
  (繰り返し)黄金のエルサレムよ、そして銅と光の町よ、
  貴方にとって私は竪琴でありたい。

   2番
  水ためはどこへ行ったのか、市場は廃墟のようだ。
  そして誰も古代の都市エルサレムにある神殿を散策しようとしない(できない)
  岩山の洞窟では風がうなりを揚げ(るだけ)、
  そしてジェリコを通って死海に下る者は誰も居ない。

   3番
  ああ、あなた(エルサレム)の歌を歌う日が来たときに、そしてあなたに王冠をかぶせるときに、
  私はあなたの子供の中でもっとも若い者よりも小さくなり、あなたの歌い手たちの最後尾につきたい。
  さもなくば、あなたの名前が、天使の口付けで私の唇を焼き尽くしてしまう
  もし私が、全てが金のあなた、エルサレムを忘れることがあるとしたら。

   4番
  我々は水ためへ、そして市場に、野原に帰ってきた
  つのぶえは神殿の丘に、古代の町(エルサレム)に、響き渡る。
  そして岩山の洞窟には、何千もの太陽が昇り輝き、
  私たちはジェリコの道を通って、死海へと戻り下っていく。

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この歌が発表された僅か三週間後、第三次中東戦争により、たった六日間でイスラエルは歴史的勝利を収めることになる。
この歌「黄金のエルサレム」は、まるで将来を予言していたかのようだった。
「嘆きの壁」が解放されると市民たちは、そこで真っ先に「黄金のエルサレム」を歌ったという。
↓ 「嘆きの壁」
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エジプトのムバラク政権が倒れて、イスラエルとの共存の模索は宙に浮いた形になってしまった。
ムバラクに徹底的に弾圧されてきたイスラム政党が息を吹き返すのは自明のことであり、彼らがイスラム原理主義に突き進むのかが気がかりである。
「アラブの春」ともてはやされた各国の革命も、その後の推移を見ると、期待外れの観が多い。
政権を取った為政者が強権的な支配を進めることが多く、化石燃料から来る収入も一般庶民には「富」として配分されず、一部の人が恣意的に独占している。
一般庶民は貧しいままで、物価だけが値上がりしているらしい。

イスラエルのユダヤ教徒の中にも対立があり、アラブとの「共存」をめざしていたレビン首相が二十世紀末に暗殺され、以後歴代首相は対アラブ強硬派が政権を占め、
国連決議を無視してヨルダン川西岸にユダヤ人入植地建設を強行してきた。
ナオミ・シェメルは決して無分別の人ではなかったので惜しい人を亡くしてしまった。
イスラエルの生きる道は周辺諸国との「共存」なくしては在り得ないことを認識すべきだろう。

イスラエルについては、後日、十月に記事を四回ほど載せる予定である。




城山三郎『落日燃ゆ』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
落日

──新・読書ノート──

     城山三郎『落日燃ゆ』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・新潮文庫刊2013/04/25第62刷・・・・・・・・

『落日燃ゆ』(らくじつもゆ)は、城山三郎の小説。1974年に新潮社から単行本が刊行され、1986年に新潮文庫に収録された。
1976年にはNETテレビ(現・テレビ朝日)で、2009年には再びテレビ朝日でテレビドラマ化。
第28回毎日出版文化賞と第9回吉川英治文学賞を受賞している。

この小説は広田弘毅が主人公である。
以下、ネット上に載る記事を引いておく。転載フリーということなので、「伊勢雅臣」氏に感謝して載せる。 ↓
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 広田弘毅 ~ 黙して逝った「A級戦犯」

 広田の死刑宣告に、キーナン首席検事も、
「なんというバカげた判決か」と慨嘆した。

■1.「なんというバカげた判決か」■

昭和23(1948)年11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷で、ウェッブ裁判長が各被告に対する刑の宣告を行った。アルファベット順で広田弘毅は6番目に呼ばれた。
憲兵に連れられ、入廷して被告席に立つ。イヤホンをつけ、うすく目を閉じて聞く。

「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」 広田はイヤホンをはずし、いつものように記者席の隅の二人の娘に微笑を送って立ち去った。
法廷内は一瞬、異様な緊張に静まりかえったあと、ざわめきだした。

絞首刑の判決を受けた7人中、6人までが軍人で、文官は広田のみだった。そして6人の軍人は判事団の票では7対4で死刑判決を受けたが、広田は6対5のわずか一票差による死刑判決だった。有罪の理由は、訴因第1(東アジア、太平洋、インド洋等支配のための一貫せる共同謀議)、第27(対中国戦争の実行)、第55(戦争犯罪および人道に対する罪の防止の怠慢)であった。

広田をすべての訴因において無罪としたオランダ代表の判事は、「文官政府は軍部に対しほとんど無力であった」ことを認め、その限られた枠の中で広田が十分な努力をしたと主張した。

広田の死刑は、検事団にとってさえ意外であり、キーナン首席検事は「なんというバカげた判決か。絞首刑は不当だ。どんな重い刑罰を考えても、終身刑までではないか」と慨嘆した。

■2.新任外相の意外な健闘■

昭和8(1933)年9月、広田は斉藤実首相に強く要請されて、外務大臣に就任した。前年の五・一五事件で陸海軍士官などが犬養首相以下を射殺し、またこの年3月には日本は国際連盟を脱退するという内外多難な時期であった。

福岡の石屋の息子として生まれた広田弘毅は、郷里の人々の援助を受けながら、東京帝国大学を卒業し、外交官生活に入った。その実直な人柄と仕事ぶりには定評があったが、オランダ公使、ソ連大使を務めたあと、引退を希望し、待命休職の扱いになって、湘南海岸に隠棲していた。広田は外相就任を辞退したが、斉藤首相の強い要請に腰を上げねばならなくなった。

斉藤内閣では、国防や外交の重要国策について、首相、蔵相、相、陸相、海相だけで協議する五相会議が開かれていた。斉藤首相、高橋是清蔵相とも70歳を越す長老であるのに対し、陸相の荒木貞夫、海相の大角岑生(おおすみみねお)とも血気盛んな軍人で、特に荒木は対外的には戦争の危機が迫り、国内では国民生活の不安が高まっていると、口角泡をとばす勢いで論じ立てた。

その五相会議に、ほとんど無名の外相として広田がぽつねんと出席した。しかし、広田は黙ってはいなかった。

開戦の危機というが、いったいどこに戦争の危険性があるのか。軍部は最悪の場合のみを考えすぎる。むしろ問題 は、どうしたら、最悪の場合を来たせずにすむかに在る。
つまり、外交が先決であり、何より外交努力に力を傾注しなくてはならない。

こう言われると、陸海相とも反対のしようがない。じわじわと理を尽くして語る広田のペースに二人は押されていった。斉藤首相と高橋蔵相は、新任外相の意外な健闘に目を細めた。

荒木が外交問題を避けて、国内不安を口に出すと、広田はこれに対しても、追い打ちをかける。

不安の根源は、満洲問題によって日本がひき起こした国際的波瀾にある。従って、国民の不安を解消するには、各 国と親善関係を確立し、対外関係を静穏なものにすることが肝要である。軍の望むような国防力強化は、各国に好戦的印象を与え、マイナスでしかない。

■3.「私の在任中に戦争は断じてない」■

広田は、諸外国との協調の実を上げるべく、積極的に動いた。
米国の駐日大使グルーは友人への手紙にこう書いている。

この数ヶ月、広田は間断なく、また私の見るところでは真摯に、中国、ソ連、英国、および合衆国と取引する友好的な基礎を建設することに務めました。彼の打った手は、新聞の反外国主義の調子が即座に穏やかになったことや、日ソ間の諸懸案を一つ一つ解決しようという努力が再び取り上げられたことに現れ、また広田が私との会談で、日米関係を改善に導く何らかの可能的通路を見いだそうとする熱心さを見せたことによって、強調されました。広田が本心からの自由主義者で、小村(寿太郎)、加藤(高明)以来の名外相だと考える人もいました。

昭和10(1935)年1月の議会では、広田はこう断言した。

日本としては今日、世界いずれの国とも最も緊密な関係を保っていくべきで、一言にしていえば、万邦協和というような気持ちで、外交を進めるべきであると思う。
その国際情勢の認識が楽観的に過ぎないか、という質問に対しては:

私は日本の前途を楽観はしていない。むしろ楽観することはできない。・・・各国が巨大なる費用を使って、軍備の拡張に努めている今日の現状では、日本が如何に平和の方針をもって進むとしても、やはり根本において軍備の充実は必要であると私は確信している。しかし、将来戦争の恐れがあるかと申すに、少なくとも私が今日の信念をもって申せば、私の在任中に戦争は断じてないことを確信しているものである。

広田は空想的平和主義者ではなかった。いざという場合に備えて軍備の充実は図りつつも、地道な外交努力により権力、戦争を避ける。それが外交官の使命だと考えていた。

■4.「これで両国は東亜の大道を手をとって歩けるのです」■

広田の演説に敏感に反応したのが、中国の国民政府主席・蒋介石であった。1週間も経たぬ間に、日本記者団と会見し、「広田外相の演説に誠意を認め、十分にこれを了解する」と語った。そして、日本の中国に対する優越態度と、中国における排日感情が共に精算されるのが、親善の道であり、自身も反日運動を押さえることに努力する、と述べた。この後、国民政府は、全中国の新聞通信社に、排日的な言論活動を慎むよう、厳重な命令を出した。

日本の対中姿勢も、それまでの高圧的な態度から一変して、融和的となった。満洲問題については、気長に解決を待つこととして、その他の懸案についても、中国側に同情的な立場をとって折衝するようになった。

こうした協和外交を決定的な形で示したのは、昭和10年5月、在中国の日本公使を大使に格上げしたことであった。大使を置くということは、相手国を重要な国交関係にある大国として遇することである。当時、英米独などの列強は、中国を軽視して公使しか置いていなかったが、それを出し抜いて、日本がいきなり大使昇格に踏み切ったのであった。

この知らせを受けた汪兆銘・行政院長は興奮を隠し得ない面持ちで、「これで両国は東亜の大道を手をとって歩けるのです」と語り、直ちに中国も同様の措置を約束した。

各国は驚き慌てて、日本の後を追い、大使への昇格を行った。中国としては、一気に外交上の地位が高まったので、国民政府は広田外交を大いに徳とした。

■5.「この内閣は粛軍だけでいいんだ」■

広田は、次の岡田啓介内閣でも外相に留任した。昭和11(1936)年2月、二・二六事件で陸軍将兵が反乱を起こし、首相官邸などを襲った。この混乱を立て直すべく重臣たちが後継首相として選んだのが、広田であった。外相時代の協和外交の実績、軍部に対する毅然たる態度、安定した政治姿勢などが高く評価されたためである。

広田は「自分は外交官として、一生を終わるつもりでいる」と固持したが、元老・西園寺公の度重なる要請に恐懼して、引き受ける他はない、と覚悟した。

組閣の過程で、軍部から再三注文がついて、ついには政党出身者は民政・政友両党から1名づつに限る、などとまで言われて、広田は「そこまで軍部に注文をつけられる筋合いはない」と憤慨した。陸軍省に電話して、「軍部が組閣を阻止した」と明日新聞に発表する、と伝えると、陸軍は大あわてで撤回した。

「この内閣は粛軍をやり、正邪のけじめをつける。この内閣はそれだけでいいんだ」と広田は決心していた。早速、首謀者の迅速な軍事裁判を実施させ、将校15名が死刑に処せられた。
これまでにないきびしい処罰であった。また全軍の責任を負うとして、寺内陸相など若手3大将を除く全員を退役させ、合計3千人に及ぶ大規模な人事異動を行った。

■6.「庶政一新」■

粛軍が済むと、広田は「庶政一新」に取りかかった。青年将校たちの決起は、政党政治の腐敗堕落、大衆生活の窮乏に端を発していた。この根本の問題にメスを入れなければならない。

そのために7大国策・14項目と呼ばれる重点課題を整理した。トップは「国防の充実」だが、それに続いて「教育の刷新改善」「税制の整備」「国民生活の安定(災害防除対策、保険施設の拡充、農漁村経済と中小商工業の振興)など、いかにも地道な項目が続く。

教育の刷新としては、義務教育年限を6年から8年に伸ばし、産業振興のために発送電事業を国営にする。農村負債整理計画、災害共済保険制度、母子保護法など、下積みの人々の生活安定のための具体的な政策を次々と打ち出した。外交官としてスタンドプレーではなく、ねばり強く各国との問題を調整し、地道 に友好を積み上げていく、という広田の姿勢が、そのまま現れている。

「国防の充実」に関しては、陸海軍の個別要求を聞いていてはきりがないので、外務省も含めて、「国策の基準」を制定し、軍備整備の目安とした。たとえば、「南方海洋・・・にわが民族的経済発展を策し、努めて他国に対する刺激を避けつつ漸進的平和的手段によりわが勢力の進出を図り、、、」と定めた。
南進論の海軍の顔を立てつつ、「漸進的平和的手段により」と釘をさしている。

まさかこの「国策の基準」が、東京裁判において「東アジア、太平洋、インド洋等支配のための一貫せる共同謀議」の証拠とされるとは、当時の日本人は誰一人として考えもしなかったろう。

■7.戦争への流れに抗して■

昭和12(1937)年1月、第70議会が開催された。政友会の浜田国松代議士が軍部を痛烈に批判する演説を行い、これを軍人への侮辱と見た寺内陸相が、国会の解散をしなければ辞任する、と息巻いた。広田は国会を解散する理由はないとして、内閣不統一を理由に総辞職した。

後継首相は近衛文麿となったが、複雑な国際情勢に対応しうるのは広田しかいない、というのが衆目の一致した所で、広田はまた腰を上げざるを得なかった。首相から外相へとポストが下がっても、国が必要とする以上は応ずべきだ、というのが広田の姿勢だった。

7月8日、北京郊外の廬構橋で日中両軍の衝突が起こった。
陸軍は内地の3個師団を派遣したいと提案したが、広田は事変不拡大・現地解決の方針を強く主張し、閣議もこの線でまとまった。同時に、中国大使にもこの線に沿って、現地解決を妨害しないよう要請した。

11日の閣議では、「万一事態が悪化する場合に備えて、動員準備の心組みをしておく」という案を杉山陸相が提案して、長時間の議論の末、承認された。ところが、これを近衛首相は政府は本日の閣議において重大決定をなし、北支出兵に関し、政府として執るべき所要の措置をなすことに決せり」と発表した。毅然とした対決の姿勢を示すだけのスタンド・プレーである。あるいは、ソ連スパイ尾崎秀實に踊らされていたか。

そのほぼ同時刻、現地では停戦交渉が合意に達していたが、近衛の強硬声明が流れると、国民政府軍は大挙して北上を開始した。

中国共産党の暗躍もあって、戦線は上海に飛び火し、その後も広田はあきらめずに和平への努力を続けたが、その甲斐もなく、日本は事変の泥沼に引きずり込まれていったのである。

■8.「ただ、黙していったと伝えてください」■

昭和20(1945)年12月、終戦の混乱が醒めやらぬうちに、広田を含む59名の戦犯逮捕令が出された。それを聞いた時、広田は無言で頷くだけだった。

広田は学生の頃に世話になった玄洋社について、しつこく尋問された。その関係団体である黒竜会をナチスのような陰謀団体と見なし、広田をその黒幕と見なしたいようだった。「いろいろ他を調べてみたが、どうもこの大戦争を起こしたと見られる者がいない。あなたが黒幕になって、みんなを操っていたのではないか」とも聞かれた。

「この戦争で文官の誰かが殺されねばならぬとしたら、ぼくがその役をになわねばなるまいね」と広田は他人事のように言った。文官の責任第一と言えば近衛文麿だが、近衛は逮捕命令が出た際に、服毒自殺を遂げている。

広田は裁判では自分の弁護はいっさいしなかった。事情はともあれ、外交官として戦争を防止できなかった責任を痛感していた。「絞首刑」の判決を淡々と受け入れたのも、この気持ちからだろう。

昭和23(1948)年12月23日午前零時。処刑の前に、教誨 師・花山信勝が面談を行い「なにか、最後にご家族の方にお伝えすることがございましょうか」と聞いた。広田は「身体も元気です。ただ、黙していったと伝えてください」と答えた。
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テレビドラマ(2009年版)
2009年3月15日の21:00 - 23:24(JST)に、「テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル」として放送。視聴率11.1%。

出演
廣田弘毅:北大路欣也
廣田静子(妻):高橋惠子
廣田弘雄(長男):木村彰吾
廣田正雄(三男):山本耕史
廣田美代子(次女):遠野凪子
廣田登代子(三女):原田夏希
廣田徳平(父):長門裕之
高橋是清(斎藤・岡田内閣蔵相):神山繁
齋藤実(首相・内大臣):織本順吉
岡田啓介(首相):窪田弘和
板垣征四郎(関東軍高級参謀→陸相):石田太郎
武藤章(陸軍軍務局長・陸軍中将):菅原大吉
荒木貞夫(齋藤内閣陸相・文相):目黒祐樹
大角岑生(齋藤内閣海相):小沢象
寺内寿一(廣田内閣陸相):寺田農
有田八郎(廣田内閣外相):有福正志
山本五十六(海軍次官→連合艦隊司令長官):内藤剛志
杉山元(近衛内閣陸相):西田健
永田鉄山(陸軍省軍務局長):笹木俊志
松尾伝蔵(陸軍大佐・岡田首相の義弟):江原政一
相沢三郎(陸軍中佐・永田刺殺事件の首謀者):石倉英彦
鈴木貫太郎(侍従長):東孝
花井忠(廣田の弁護士):石丸謙二郎
東條英機(陸相・首相):小峰隆司
石原莞爾(関東軍参謀):山田明郷
近衛文麿(首相):平田満
花山信勝(教誨師):笹野高史
佐藤賢了(陸軍軍務局課員→軍務課長→局長):橋爪功
西園寺公望(公爵・元老):大滝秀治
吉田茂(廣田と外務省の同期・のち首相):津川雅彦 

ほか
ナレーター:左時枝
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書誌情報
城山三郎 『落日燃ゆ』 新潮社、1974年。
『新潮現代文学』56、新潮社、1978年10月。
『城山三郎全集』第2巻、新潮社、1980年3月。
城山三郎 『落日燃ゆ』 新潮社〈新潮文庫〉、1986年11月。ISBN 4-10-113318-2。
城山三郎 『落日燃ゆ』 埼玉福祉会〈大活字本シリーズ〉、1992年9月。
城山三郎 『城山三郎伝記文学選』2、岩波書店、1999年1月。ISBN 4-00-092242-4。
城山三郎 『落日燃ゆ』 新潮社、2002年3月。ISBN 4-10-310814-2。
城山三郎 『落日燃ゆ』第5巻、角川書店〈城山三郎昭和の戦争文学〉、2005年10月。ISBN 4-04-574534-3。




あぢさゐや逢はばすずしくもの言はむ・・・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子
ajisai40アジサイ

    あぢさゐや逢はばすずしくもの言はむ・・・・・・・・・・・・細見綾子

「紫陽花」の時期としては6月中が最盛期で、今日では少し時期を失しているかも知れない。
何といってもアジサイは梅雨の花である。
あじさいの「あず」は集まる、「さい」は真藍の語からきたもので、古語ではアズサイと呼んだ。
落葉低木で、もともとは日本の山野に自生していたガクアジサイから改良されたものという。
ajisai30アジサイ

ajisai7紫陽花③

庭園や寺院などの鑑賞植物として梅雨期の花として、おおらかに、みづみづしく咲くものとして目立つ存在である。
わりに花期が長くて、小さくて多い四弁の花を、毬状に群がって咲かす。花弁に見えているのは「萼(がく)」で、花はその中で細かな粒になっている。
白、淡緑、紫そして淡紅色と花の色が変化するので「七変化」と称される。
花の色が変わるのはフラポン系の物質が変化するためと言われている。
また植えられている土が酸性かアルカリ性かによって花の色が左右されるという。
日本の山野に自生していたガクアジサイを西洋に持って行ったのはシーボルトだと言われるが、
これが西洋で品種改良されて、こんにち我々が目にするさまざまの園芸種の西洋アジサイになったという。
今ではヨーロッパでもアジサイはすっかり定着してしまったらしい。
「万葉集」には、左大臣橘卿の

  あぢさゐの八重咲くごとく弥つ代にをいませわが背子見つつ偲ばむ

という歌の他に1首が載っている。

私の住む近くでは西国三十三ケ所霊場巡りの札所でもある宇治市の三室戸寺が広い庭園の木の下に何千本ものアジサイを植えて有名である。

俳句にもたくさん詠まれているので、少し引いて終わりたい。
写真④はガクアジサイである。
ajisai27ガクアジサイ
 
 紫陽花や帷子(かたびら)時の薄浅黄・・・・・・・・松尾芭蕉

 紫陽花に雨きらきらと蝿とべり・・・・・・・・飯田蛇笏

 ゆあみして来てあぢさゐの前を過ぐ・・・・・・・・山口誓子

 紫陽花やはかなしごとも言へば言ふ・・・・・・・・加藤楸邨

 あぢさゐの花より懈(たゆ)くみごもりぬ・・・・・・・・篠原鳳作

 あぢさゐや軽くすませる昼の蕎麦・・・・・・・・石川桂郎

 あぢさゐは初花のうすいろにこそ・・・・・・・・松村蒼石

 大仏の供華鎌倉の濃紫陽花・・・・・・・・百合山羽公

 紫陽花の真夜の変化はわれ知らず・・・・・・・・鈴木真砂女

 紫陽花の醸せる暗さよりの雨・・・・・・・・桂信子

 紫陽花や家居の腕に腕時計・・・・・・・・波多野爽波

 紫陽花に置いたる五指の沈みけり・・・・・・・・川崎展宏

 紫陽花を買ふ夕暮の河の色・・・・・・・・有馬朗人

 紫陽花や恋知らぬ間のうすみどり・・・・・・・・林翔

 紫陽花剪るなほ美(は)しきものあらば剪る・・・・・・・・津田清子

 絹の服着なじむ午後を日の四葩(ひら)・・・・・・・・鍵和田釉子

 父の日の紫陽花ふかく切られけり・・・・・・・・日下部宵三

 考へのまとまりかかり濃紫陽花・・・・・・・・成瀬正俊



花合歓や補陀落といふ遠きもの・・・・・・・・・・・・・・・角川春樹
img70合歓の花本命

     花合歓や補陀落(ふだらく)といふ遠きもの・・・・・・・・・・・・・・・角川春樹

いつも散歩というかウオーキングというか、の道の途中に合歓の木が一本ある。
ネムの花は、これからが丁度、花どきである。
この木はマメ科ネムノキ属。本州、四国、九州および韓国、台湾、中国、さらに南アジアに広く分布するという。
落葉高木で高さ6~9メートルに達し、枝は斜めに張り出して、しなやか。葉は羽状に細かく分かれた複葉で、夜になるとぴたりと合わさる。
そのゆえに葉の睡眠として「ネム」の名がつけられた。この図鑑の説明を読んでから、実際の木を見てみると、まさにその説明の通りである。

この句の作者・角川春樹は角川書店社長だったが、麻薬所持で検挙され禁固刑に処せられ、社長を辞めさせられ、弟の歴彦氏が後を継いだ。
父親の角川源義も俳人だったが、彼・春樹も名のある俳人で多くの句集を持つ。句集一冊ごとに作風が替わるという異色の俳人だった。
俳句作りにおいて、初句からずらずらと事物を叙述するというのは初心者のすることであって、
5、7、5の各部を「二物衝撃」のもとに配置するというのが現代俳句の面白みである。
この句でも「花合歓」と「ふだらく」との間に直接の関係はない。それを一句の中に、句の中の宇宙として組み立てる面白さがある。
「ふだらく」というのは、むかし海彼のかなたに浄土を求めて僧侶などが渡海した故事を指すが、熊野信仰というのは、これに深く関連する。
「合歓の花」というのは、そういう浄土への想いに関わるような気にさせるものかも知れない。

芭蕉の句に

 象潟や雨に西施がねぶの花

というのがあるが、「合歓」の花は、そういう悲運の女性を象徴するもののようで、この二つのものの取り合わせが、この一句を情趣ふかいものにした。
合歓の花については多くの句が詠まれている。少し引いてみよう。
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 総毛だち花合歓紅をぼかしをり・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 雲疾き砂上の影やねむの花・・・・・・・・・・・・三好達治

 銀漢やどこか濡れたる合歓の闇・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 どの谷も合歓のあかりや雨の中・・・・・・・・・・・・角川源義

 合歓に来る蝶のいろいろ花煽・・・・・・・・・・・・・星野立子

 合歓咲いてゐしとのみ他は想起せず・・・・・・・・・・・・安住敦

 花合歓の下を睡りの覚めず過ぐ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 合歓咲けりみな面長く越後人・・・・・・・・・・・・森澄雄

 合歓の花不在の椅子のこちら向く・・・・・・・・・・・・森賀まり

 合歓咲くや語りたきこと沖にあり・・・・・・・・・・・・橋間石

 風わたる合歓よあやふしその色も・・・・・・・・・・・・加藤知世子

 山に来て海を見てゐる合歓の花・・・・・・・・・・・・菊地一雄

 花合歓の夢みるによき高さかな・・・・・・・・・・・・大串章

 葉を閉ぢし合歓の花香に惑ひけり・・・・・・・・・・・・福田甲子雄

 霧ごめの二夜三夜経てねむの花・・・・・・・・・・・・・藤田湘子
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私にも合歓を詠んだ歌がある。第二歌集『嘉木』(角川書店)に

 夕されば仄(ほの)と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある・・・・・・・・木村草弥

この歌は、この歌集の「つぎねふ山城」の章の「夏」に載る。「待つ人」とは、もちろん妻のことである。
その妻が亡くなった今となっては、一層想いは深いものがある。
念のために、その一連を引用してみよう。

 若き日の恋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

咲き満ちて真夜も薔薇(さうび)のひかりあり老いぬればこそ愛(いと)しきものを

夕されば仄と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある

はまなすの丘にピンクの香は満ちて海霧(じり)の岬に君と佇ちゐき

茎ほそき矢車草のゆれゐたる教会で得し恋いつまでも

むらさきのけぶる園生の遥けくてアガパンサスに恋の訪れ

幸せになれよと賜(た)びし鈴蘭の根が殖えをりぬ山城の地に

原爆を許すまじの歌ながれドームの廃墟に夾竹桃炎ゆ

ガーベラに照り翳る日の神秘あり鴎外に若き日の恋ひとつ

百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと

藤房の逆立つさまのルピナスは花のいのちを貪りゐたり

しろじろと大きカラーの花咲きて帆を立てて呼ぶ湖の風

これらの歌は、それぞれの花の「花言葉」に因む歌作りに仕立ててある。それぞれの花の花言葉を子細に調べていただけば、お判りいただけよう。
もう十数年以上も前の歌集だが、こうして読み返してみると、感慨ふかいものがある。「合歓の花」からの回想である。


黒南風の岬に立ちて呼ぶ名なし・・・・・・・・・・・・・・西東三鬼
kurohae練り切り黒南風

   ◆黒南風(くろはえ)の岬に立ちて呼ぶ名なし・・・・・・・・・・・西東三鬼

    ◆白南風(しろはえ)にかざしてまろし少女の掌・・・・・・・・・楠本憲吉


「黒南風」とは、梅雨に入り、空が暗く長雨がつづく陰鬱な頃に吹く南風で、柔らかい風だが、低気圧や梅雨前線が通り、荒い風が吹くときは「荒南風」となる。
「白南風」とは梅雨が明けて明るい空になり、晴れて吹く南風が、これである。
また梅雨の間でも、晴れようとする様子のときの南風も白南風という。
空や雲の様子から、白、黒を南風(はえ)にかぶせたもの。
ここでは「黒南風」と「白南風」の句を並列に並べて掲出してみた。

「風」というのは、視覚化できないので、ネット上から某菓子舗の「練り切り」の菓子を写真にする。
以下は、その「説明書」である。

<風は季節によって、ほぼ方向が定まっています。
春は東風、秋は西風、冬は北風で、
夏季の「南風」は、「みなみ」とか「はえ」とも読みます。
この「はえ」、中国・四国・九州地方など主に西日本の言葉で、
特に、梅雨時のどんよりと曇った日に吹く南風を、黒南風と呼ぶそうです。
梅雨入りの頃はこの風が吹いて空が暗くなる、というのがこの名の由来。
ちなみに梅雨明け頃の南風は、吹くと空が明るくなるので、「白南風(しらはえ)」と呼ばれています。
どんよりとした梅雨空を黒ゴマ入りの煉切で表し、一陣の風を、力強い一筆書きのように水色で描きました。
ジメジメと鬱陶しい季節ですが、まぁ、お茶とお菓子でも…。 >

掲出の西東三鬼の句は、私には亡妻に対する「レクイエム」のように受容できるもので 、「呼ぶ名なし」などと言われると、私のことのようで身に沁みるのである。

以下、「黒南風」「白南風」を詠んだ句を引いて終わる。

 黒南風や島山かけてうち暗み・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 黒南風に水汲み入るる戸口かな・・・・・・・・・・・・原石鼎

 黒南風は伏屋のものを染めつくす・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 黒南風や潮さゐに似て樹林鳴る・・・・・・・・・・・・占 魚

 沖通る帆に黒南風の鴎群る・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 和歌の浦あら南風鳶を雲にせり・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 あらはえや雲のちぎれに月さやか・・・・・・・・・・・・桂 居

 黒南風や屠所への羊紙食べつつ・・・・・・・・・・・・中村草田男

 黒南風に嫌人癖の亢ずる日・・・・・・・・・・・・相馬遷子

 白南風の夕浪高うなりにけり・・・・・・・・・・・・芥川龍之介

 白南風やきりきり鴎落ちゆけり・・・・・・・・・・・・角川源義

 白南風や永病めば土摑みたし・・・・・・・・・・・・香取哲郎

 いや白きは南風つよき帆ならむ・・・・・・・・・・・・大野林火

 海南風死に到るまで茶色の瞳・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 クラリネット光のごとく南風(はえ)にきこゆ・・・・・・・・・・・・川島彷徨子

 汐満てりはえとなりゆく朝の岬・・・・・・・・・・・・及川貞

 のけぞれば吾が見えたる吾子に南風(みなみ)・・・・・・・・・・・・中村草田男



コンク「サント・フォア教会」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
cq34コンク サント・フォア修道院
 ↑ フランス中部オーヴェルニュの南限にある「サント・フォア教会」
800px-Conques_doorway_carving_2003_IMG_6330サント・フォア修道院
 ↑ 「サント・フォア教会」半円形壁面

──巡礼の旅──(10)

     コンク「サント・フォア教会」・・・・・・・・・・・・木村草弥

フランス中部オーヴェルニュの南限にあるコンクの「サント・フォア教会」は、もともとは修道院として発足したもので、スペインのサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路にあたる。

799px-Conques_JPG01コンク

コンク (Conques、オック語:Concas)は、フランス、ミディ=ピレネー地域圏、アヴェロン県のコミューン。
中世、コンクは聖アジャンのフォワの聖遺物を祀る地として巡礼地であった。

フランスのミディ・ピレネ地方のコンクはル・ピュイを出発地とするスペインのサンチアーゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の経由地として、
ここコンクは、サント=フォワ修道院教会とドゥルドゥ川に架かる橋がユネスコの世界遺産に登録されている。
また、フランスの最も美しい村にも選ばれている。

Conques_pont_romainコンク ローマ橋
 ↑ 14世紀に架けられたローマ橋

コミューンはドゥルドゥ川とウシュ川の合流地点にある。
この地形がホタテガイに似ていたため、コンク(ラテン語ではconcha、オック語ではconcas)という名称を与えられたとされる。
県都ロデーズの北にあり、サント=フォワ修道院周囲に密集する中世以来の町並みが、陽光差す山の中腹に現れる。
生け垣に囲まれた住宅は、正午頃にそのファサードに日が当たる。ホタテガイの意匠が目立つ。通りの舗装、屋根に至るまで石が使われている。
扉や窓の縁飾りのために切石が使われ、灰色やピンク色の砂岩、さらに花崗岩が使われることは非常にまれである。
cq14コンク
cq50コンク

歴史
一説によると、5世紀から、この地に聖ソヴールを祀った小修道院とそれを囲む定住地があったとされる。
この小修道院は、イスラム教徒の北進で壊され、730年以降にカール・マルテルの子ピピン3世の支援で再建された。
同時期、修道士ダドンが修道院を建て、819年にはベネディクト会の規則を採用した。
社会組織が非常によくできていたこの修道院は、重要な領地を次第に統合し、9世紀の経済減退期に繁栄する小島のような状態となった。

864年から875年のこの時期、コンクの修道士アリヴィスクスが、アジャンの教会に安置されていた聖フォワの聖遺物を盗み出すことに成功するという、歴史的な事件が起きた。
聖フォワは303年、アジャンにて12歳で殉教した少女である。 この敬虔なる移動が、すぐに奇跡を誘発し、多くの巡礼者をコンクへ引き寄せたのだった。

同時期、聖ヤコブの墓がサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見されたとヨーロッパ各地に伝わった。
955年から960年の間、ルアルグ伯は使徒を敬い、ガリシアで報いの御礼を述べるべく最初の巡礼の一人となった。
30年あまり後、彼の息子レーモンはバルセロナにてイスラム教徒を撃退した。謝意の証として、彼は大規模な戦闘を物語る贈り物をコンクへ贈った。
銀に鞍の彫り物がされた祭壇飾りである。それを用いて修道士たちは大きな十字架をつくった。

11世紀の間、聖フォワは、スペインでのレコンキスタに赴く十字軍騎士たちの守護聖人であった。2人のコンクの聖職者が、ナバーラとアラゴンで司教となった。
1077年以降にパンプローナ司教となったピエール・ダンドック、1100年にバルバストロ司教となったポンスである。
アラゴン王ペドロ1世は、その後に聖フォワへ献堂した修道院を建てている。

コンクを出発後、クエルシーへ向かうものと、モワサックの修道院へ向かうそれぞれの道程をつなぐ巡礼路がある。
最短のものはオーバンへ向かう、ドゥルドゥ川に架かる古い橋である。しかし、グラン=ヴァブル村の小集落ヴァンズルと北西のフィジャックを通過する道程が主流であった。
13世紀、コンクのサント=フォワ修道院は強力になり、その経済力は頂点に達した。しかし14世紀から15世紀に衰え、1424年12月22日、ついに世俗化された。

フランス革命後に廃れていたコンクは、1837年、当時歴史文化財の検査官でもあったプロスペル・メリメによって再発見された。
宝物や教会の正門は住民の手で完全な状態で保存されていたが、教会には幾らかの補強が必要だった。

1873年、ロデーズ司教ブールは、プレモントレ修道会の再建者エドモン・ブルボンによって、聖フォワ信仰と巡礼地コンクの復活を依頼された。
1873年6月21日から、白い修道服をまとった6人の修道士たちが、ロデーズ司教の命令により厳かにかつての修道院に居住するようになった。
フランス第三共和政初期、コンクの住民たちは、既に失われた信仰の記憶が甦るのを目撃したのだった。

1911年、中世以来の宝物を保管する博物館が建設された。聖フォワの聖遺物は1875年に取り戻され、1878年から巡礼が敬意を表しに現れた。

サント=フォワ修道院と教会
この壮大なロマネスク様式の建物は、11世紀から12世紀にかけて建てられた。ファサード両側の2本の塔は、19世紀のものである。
ティンパヌムは特筆されるものである。修道院と教会には、カロリング朝美術の独特の美が保存されている。
内部はピエール・スーラージュによるステンドグラスで飾られている。

サント・フォアの名前を頂いた教会は巡礼路のあちこちに建てられている。
というのは、彼女こそそれらの巡礼路の「守護聖人」だからである。
この地についてはこのサイトに詳しい。アクセスされたい。

図版②に掲げた「半円形壁面」について少し触れておきたい。
「半円」という意味は神の「宇宙」であるから、いわば「円蓋」(ドーム)に対応するイメージであろう。
東方ビザンチンに多い「集中方式」(上から見て円が大きな円蓋を柱にして集まること)を水平軸から眺める場合、半円は砂漠をベースとした天空で、星をちりばめた形となる。
したがってそれは宇宙の像であり、神の支配する空間と見るのも不思議ではない。
そこに多様な主題が刻まれたり、描かれたりするのである。
ここコンクのサント・フォアの場合は「最後の審判」を主題とする。言うまでもなく「ロマネスク」期にはもっとも多いものである。
「世の終わり」が近づきつつあるという人々の心性の表現である。
中心に神が位置し、上部には天使が舞う。挙げた右手の側には「善き人々」が聖母マリアの先導にしたがって神を目指している。
その中にこの教会の設立に力があったというシャルルマーニュ大帝の姿も見える。
その反対側は地獄であり、いましめを受け、拷問にあっている罪人たちの中心には悪魔(サタン)が居る。
その左前には「淫乱」の罪を犯した男女が立っている。
一説によればオーヴェルニュ地方のクレルモン・フェランにあるノートル・ダム・デュ・ポール教会の柱頭の一つに刻まれた人名、ロベールなる職人の組合が、
この壁面を刻んだという。
ピレネー山脈に近いラングドック地方の流麗な様式と異なり、ずんぐりとして、しかもどこか童画的な印象である。
先に書いた「このサイト」には詳しい説明が載っているので参照されたい。
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蛇足① 聖人・聖女たちは、名前の頭に「聖」をつけて呼ばれるが、男性の場合はフランス語などのラテン語系の場合には「Saint」であり、語尾の「t」は発音されないので「サン」だが、
女性名詞の場合には「Sainte」となり「サント」と発音される。今回の、この教会は聖女なので「Sainte-Foy」サント・フォアと発音される。
ただ、上にも書かれている「サンチアゴ・デ・コンポステーラ」Santiago de Compostela の場合は「男性」だが、名前の頭に母音があり、
本来なら無音の「Saint」の語尾の「t」と頭の母音とが「リエゾン」となってサンティアゴと発音されていいるのである。
ヤコブの名前はスペイン語では「iago」というので、聖ヤコブ=Santiago となる次第である。
蛇足② 上の記事の中で、聖フォアの表記が、「サント・フォア」や「サント=フォア」となっているのは、表記の仕方の違いで、間違いではないので念のため。
これらの単語は、本来一まとめのもので、それを日本語表記にする場合に「・」「=」を使ったりするからである。
多くの場合には「・」で済まされることが多いが、厳密に区別する人は「=」を使用するので、こんなことになる。
余計なことを書いてしまったが、ご了解をお願いしたい。


西川勝『となりの認知症』・・・・・・・・・・・・木村草弥
認知症

──新・読書ノート──

     西川勝『となりの認知症』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・ぷねうま舎2013/05/24刊・・・・・・・・

西川 勝とは、こういう人である。
1957年生まれ。
大阪大学コミュニケーションデザイン・センターター特任教授(看護・臨床哲学)
 在籍期間:2005年4月〜

【プロフィール】

2003年 大阪大学大学院文学研究科臨床哲学博士前期課程修了。

精神科病棟での見習い看護師を皮切りに、人工血液透析、老人介護施設と職場を移しつつ、二十数年にわたって臨床の現場での経験を積む。
その一方で、関西大学の二部、大阪大学大学院文学研究科にて哲学を学び、看護の実際に即してケアのあり方をめぐる哲学的考察をおこなう。
現在は「認知症ケア」に関わるコミュニケーションの研究・実践を進行中。

【主な著書】
『ためらいの看護』(岩波書店、2007年)

「哲学」では、鷲田清一の弟子を自称する。現に哲学は鷲田に習った。
いま流行りの「認知症」だが、認知症の患者との付き合い方は、今も手探りというのが実情である。
この本のカバー裏に、こう書かれている。

   <答えのかえってこない、“しじま”と向き合って、
    どうすれば関係をつくれるのでしょう。
    舞踊の実験(とつとつダンス)をはじめ、
    “老い人”や若者たちとの共働によって、
    沈黙に豊穣な匂いと音を聴き分ける方法を探ります。
    私たち自身が変わる──「となり」に居る苦しさを、
    終幕ではなく、新しい経験の場にするために。
    看護・介護の現場での二十数年におよぶ経験を踏まえて、
    “その人”に寄り添うとはどういうことかを考えます。>

各章ごとに、唐仁原教久さんの爽やかな装画が入る読みやすい本である。

各章のタイトルを引いておこう。

序章 となりの認知症
第一章 木陰で老い人の不思議な語りを聴く
第二章 とつとつダンス
第三章 「伝わらない」ことの魅力
第四章 介護は感情労働?

この本の「あとがき」を引いておく。
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   あとがき
思いがけないかたちで、ここ数年に書いた文章や話したことが本にな
りました。ぼくの最初の本、「ためらいの看護——臨床日誌から』(岩波書
店、二〇〇七年)の編集を担当してくださった中川和夫(ぷねうま舎)さんに、再
びお世話になりました。ありがとうございます。
本のタイトルになった「となりの認知症」は、共同通信社の岩川洋成
さんの提案でした。二十数社の地方紙が「となりの認知症」を連載して
くださって、多くの人に読んでもらうことができた文章です。ぼくを臨
床哲学に誘い入れてくれた鷲田清一さんの記事を岩川さんが担当してい
て、認知症ケアを考えていたぼくのことを聞いてインタビュ—にきてく
れたことが連載のきっかけでした。

ぼくが大学の教員になって九年目になります。看護師として働いてい
たときとは違って、いろんな人と一緒に認知症と呼ばれる人とつき合う
ようになりました。そして、つくづく思うのは「認知症」を医療や介護
の狭い世界で考えることの空しさです。いま、大学では「認知症コミュ
ニケーシヨン」という授業を担当していますが、受講生のほとんどは
「認知症」に職業的にかかわることのない人たちです。隔週で三時間の
授業を行い、認知症にまつわるテ—マをじっくりと対話しています。
公開講座として一般の人にも参加してもらっているので、受講生の年
齢は広範囲にわたります。大学院生が自分の祖父や祖母と同じぐらいの
社会人と、夜の九時頃まで話し込んでいるのです。授業は、いつも話し
足りないという熱気に包まれます。簡単にはわからない「老い」や「認
知症」の課題だからこそ、考えたいし、話し合いたいのです。
「とつとつダンス」を機緣に、砂連尾理さんと一緒に活動することが
増えました。特別養護老人ホ—ム「グレイスヴィルまいづる」は、施設
長の淡路由紀子さんの理解と支援によって、老人介護とは直接関係のな
さそうな「シリ—ズとつとつ」を継続して展開しています。ダンスや、人
類学に興味を持った若者たちが、高歸者施設に集まって きます。そこで
は、要介護高齢者や認知症と呼ばれる人は、ケアの「対象」ではありま
せん。一緒に何かをする仲間になっているのです。
ダンスがうまくできるか、できないか。人類学の話がわかるか、わか
らないか。そんな評価をすることは、一緒に楽しむことのすばらしさに
よって無用のことになります。それぞれの人が、それぞれのままで、一
緒にいること。自分のとなりは、自分ではない人のためにあけておく。
この当たり前のことが、「認知症」と呼ばれる人と、その人と一緒に生
きていく人との希望につながると信じています。
二〇一三年四月 西川勝

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私が日頃お世話になっている稲田京子さんは、昨年末に「ケア・マネージャー」の国家資格を取得され、開業に向けて準備中であるが、
私からの開業祝代りに本書を進呈するものである。
因みに、この資格の正式名称は「介護支援専門員」というが、介護保険の要介護者の「介護度」を認定して必要な措置を講ずる役目である。
この試験は難しくて合格率は20%というもので難関である。「ケア・マネ」として、京子さん、おきばり下さい。




ねそびれてよき月夜なり青葉木莵森かへてまた声をほそめぬ・・・・・・・・・・・・・穂積忠
oaobazukuあおばずく

    ねそびれてよき月夜なり青葉木莵(あをばづく)
       森かへてまた声をほそめぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・穂積忠


アオバズクは梟の一種で、鳩くらいの大きさ。「ほうほう」と二声づつ含みのある調子で鳴く。
オーストラリア辺りから渡ってくる夏の渡り鳥だという。

夏の、よい月の夜、寝そびれて、ふと聞きとめた青葉木莵の声。
途絶えたと思うと、思いがけない方角の森で、また鳴きはじめた。
声を細めて鳴きはじめるのが何とも言えず、ゆかしい感じがする。
引き込まれてアオバズクの声を追っている気持が「森かへて」や「声をほそめぬ」によく表れている。
鳥声に心もいつか澄んでゆく。

穂積忠は明治34年静岡県の伊豆に生まれ、昭和29年に没した。教育者だった。
中学時代から北原白秋に師事したが、国学院大学で折口信夫(釈迢空)に学んで傾倒、歌にもその影響が見られる。
昭和14年刊『雪祭』所載。

アオバズクは四月下旬頃に南方から飛来し、都市近郊の社寺などの森に棲んで5、6月頃に産卵、十月頃南方に帰る、という。
そして夜間に活動して、虫や小鳥、蛙などを食うらしい。名前の由来は、青葉の森の茂みの暗がりと声の感じがよく合って、この命名となったものか。
俳句にも、よく詠まれる題材で、少し句を引いてみる。

 こくげんをたがへず夜々の青葉木莵・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 夫(つま)恋へば吾に死ねよと青葉木莵・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 青葉木莵月ありといへる声の後・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 青葉木莵さめて片寝の腕しびれ・・・・・・・・・・・・篠田悌二郎

 眠れざる者は聞けよと青葉木莵・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 青葉木莵おのれ恃めと夜の高処・・・・・・・・・・・・文挟夫佐恵

 五七五七と長歌は長し青葉木莵・・・・・・・・・・・・高柳重信

 青葉木莵産着のかたち縫ひ急ぐ・・・・・・・・・・・・杉山岳陽

 青葉木莵次の一語を待たれをり・・・・・・・・・・・・丸山哲郎

 考えを打ち切る青葉木莵が鳴く・・・・・・・・・・・・宇多喜代子

 眼を閉ぢてさらに濃き闇青葉木莵・・・・・・・・・・・・山口速

 うつぶせに寝る癖いまも青葉木莵・・・・・・・・・・・・石川美佐子

 青葉木莵遠流百首を諳じる・・・・・・・・・・・・野沢晴子

 青葉木莵夜もポンプをこき使ふ・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 青葉木莵木椅子を森の中ほどに・・・・・・・・・・・・井上雪


白雨の隈しる蟻のいそぎかな・・・・・・・・・・・・・・・・三井秋風
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    白雨(ゆふだち)の隈しる蟻のいそぎかな・・・・・・・・・・・三井秋風

三井秋風は芭蕉と同時代の俳人。京都の富豪三井氏の一族で、洛西の鳴滝にあった別荘には、芭蕉らの文人が、よく往来したという。
いわゆる「旦那衆」パトロンという役回りと言えよう。
芭蕉が秋風を訪ねた時に残した一句に「梅白しきのふや鶴をぬすまれし」という中国の神仙趣味の句があり、高雅を旨とした交友関係が偲ばれる。
秋風には「柳短ク梅一輪竹門誰がために青き」のような、西山宗因の談林派の影響下にある初期の漢詩風の破調句から、
上に掲出した句のような、夕立に急いで物かげに逃げてゆく蟻を詠む、といった平明な蕉風に近い句まであって、
当時の俳諧一般の作風の変化の推移のあとまで見えて、興味ふかい。『近世俳句俳文集』に載る。

この句の冒頭の「白雨」ゆふだち、という訓み、は何とも情趣ふかいものである。
広重の江戸風景の版画に、夕立が来て、人々が大あわてで橋を渡る景がある。

hiro-atake-b広重

これなどは、まさに白雨=夕立、の光景である。
もともとの意味は「白日」の昼間に、にわかに降る雨のことを「白雨」と称したのである。
こういうところに漢字の表記による奥深い表現を感じるのである。
以下、歳時記に載る蟻と夕立の句を引く。

 ぢぢと啼く蝉草にある夕立かな・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 小夕立大夕立の頃も過ぎ・・・・・・・・・・・・高野素十

 祖母山も傾山も夕立かな・・・・・・・・・・・・山口青邨

 半天を白雨走りぬ石仏寺・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 熱上る楢栗櫟夕立つ中・・・・・・・・・・・・石田波郷

 夕立あと截られて鉄の匂ひをり・・・・・・・・・・・・楠本憲吉

 蟻の道雲の峰よりつづきけん・・・・・・・・・・・・小林一茶

 木蔭より総身赤き蟻出づる・・・・・・・・・・・・山口誓子

 大蟻の雨をはじきて黒びかり・・・・・・・・・・・・・星野立子

 夜も出づる蟻よ疲れは妻も負ふ・・・・・・・・・・・・大野林火

 蟻殺すしんかんと青き天の下・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 ひとの瞳の中の蟻蟻蟻蟻蟻・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

 蟻の列ここより地下に入りゆけり・・・・・・・・・・・・山口波津女

 蟻の列切れ目の蟻の叫びをり・・・・・・・・・・・・・中条明

 蟻の道遺業はこごみ偲ぶもの・・・・・・・・・・・・・・雨宮昌吉


天に沙羅地に沙羅落花寂光土・・・・・・・・・・・・・・中村芳子
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       天に沙羅地に沙羅落花寂光土・・・・・・・・・・・中村芳子

私の歌にも「沙羅」を読んだ作品がある。 こんなものである。

   散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は一期(いちご)の夢に昏(く)るる寺庭・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

沙羅の花を詠んだ私の歌としては

   沙羅の花ひそかに朝の地(つち)に還りつぶやく言葉はウンスンかるた

   畳まで緑に染まる沙羅の寺黙読の経本を蟻がよぎりぬ

   地獄図に見し死にざまをさまよへば寺庭に咲く夏椿落つ


『嬬恋』『茶の四季』(いずれも角川書店)に載っている。これらも一体として鑑賞してもらえば有難い。

「沙羅」の花あるいは「沙羅双樹」というのは6月中旬になると咲きはじめるが、
これは平家物語の

  <祇園精舎の鐘の声、
   諸行無常の響きあり、
   沙羅双樹の花の色、
   盛者必滅の理をあらはす>

に登場する有名な花であるが、実はインドの沙羅双樹とは無縁の木であり、「夏椿」を日本では、こう呼んでいるのである。 ↓  
aaoonatutu夏椿大判

こういうことは、よくあることで、たとえば「菩提樹」と言う木は沙羅の木と同様にインドの木で仏教でお釈迦さまの木として有名だが、
ヨーロッパにもベルリンのウンターリンデン大通などにある木も菩提樹と呼ばれているし、歌曲にも菩提樹というのがあるが、これも全く別の木である。

「夏椿」は一日花で次々と咲いては、散るを繰り返す。
その儚(はかな)さが人々に愛された所以であると言われている。
沙羅の木=夏椿は、その性質上、寺院に植えられていることが多い。
京都のお寺では有名なところと言えば、
妙心寺の塔頭(たっちゅう)の東林院
                城南宮
                真如堂
                法金剛院
                宝泉院

などがある。その中でも東林院は、自ら「沙羅双樹の寺、京都の宿坊」とキャッチコピーを冠している程で「沙羅の花を愛でる会」というのが、この時期に開催されている。
この寺をネット上で検索すると、今年の会は6/15~30ということである。

6_sara30616to11夏椿落花
写真③に見られるように、この時期には散った花が夏椿の木の下に一面に散り敷くようになり、風情ある景色が現出するのである。
いわば沙羅の花は「散った」花を見るのが主眼であるのだ。
だから私は歌で、わっと派手に散った花よりも咲く花が「ひそか」である、と表現したのである。
なお沙羅の字の読み方は「さら」「しゃら」両方あるが私としては「しゃら」の方を採りたい。

俳句にも詠まれているので、それを引いて終わりたい。「沙羅の花」が夏の季語。

 踏むまじき沙羅の落花のひとつふたつ・・・・・・・・日野草城

 沙羅散華神の決めたる高さより・・・・・・・・鷹羽狩行

 沙羅は散るゆくりなかりし月の出を・・・・・・・・阿波野青畝

 沙羅の花もうおしまひや屋根に散り・・・・・・・・山口青邨

 沙羅の花捨身の落花惜しみなし・・・・・・・・石田波郷

 秘仏の扉閉ざして暗し沙羅の花・・・・・・・・八幡城太郎

 沙羅の花見んと一途に来たりけり・・・・・・・・柴田白葉女

 齢一つ享けて眼つむる沙羅の花・・・・・・・・手塚美佐

 沙羅咲いて花のまわりの夕かげり・・・・・・・・林翔

 沙羅の花夫を忘るるひと日あり・・・・・・・・石田あき子

 沙羅落花白の矜持を失はず・・・・・・・・大高霧海

うっかりして忘れていたが、My Documentsの中に「夏椿の実」というのがあったことを今思い出したので、写真④に出しておく。
夏椿見

東林院でも、そうだが、この頃はインターネット時代で、神社仏閣も、競ってHPを作って参拝者を募っている。
私の友人で歌人仲間で奈良の藤原鎌足ゆかりの談山神社の神官二人がいるが、そのうちの一人はHPを担当して神社のHP製作にあたっている。
HPを開いてから参拝者が3倍になったという。そんな世の中になったのである。
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参考までに、インドに生えている「正当」な沙羅双樹の樹の写真を下記に載せておく。
写真の中に、この樹の「花」が咲いているのが見えるので、ご留意を。
この写真は「yun」の無料提供のものを拝借した。原寸は大きいが縮小した。

yun_3615x.jpg

この写真に添えた「yun」氏のコメントに、こう書いてある。

タイのバンコクにあるワット・ポー内に生えていたサラソウジュ(沙羅双樹)の木(フタバガキ科、学名:Shorea robusta、原産地:インド)です。釈迦(しゃか)が亡くなったときに近くに生えていたことで有名な「沙羅双樹」は平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり,沙羅双樹の花の色,盛者必滅の理をあらはす」でも有名。ただし、日本では育たないので夏椿を代用しています。写真内には花が咲いているのが確認できます。

引用に感謝して、ここに御礼申し上げる。

蜥蜴かなし尾の断面も縞をもつ・・・・・・・・・・中島斌雄
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     蜥蜴かなし尾の断面も縞をもつ・・・・・・・・・・中島斌雄

ウォーキングしていて、道端の石の上を蜥蜴(とかげ)が横切ったので、急にトカゲのことを書く気になった。
トカゲは色々の種類が居るが、写真のような「青とかげ」が美しい。
掲出の句は、トカゲが危険を感じると、尻尾を切り離して逃げて、取り残された尻尾の断面が「縞」模様になっている、と観察眼するどく描いている。
切り離された尻尾が、まだ生きていて、ぴくぴくと動いているさまは、よく目にすることである。尻尾を切り離した尾の部分は、また再生する。

私も蜥蜴を詠んだ歌があるが、多くはないので、いま見つけられないので、この句を掲出する。
変温動物なので冬は冬眠する。
春とともに活動をはじめ、7、8月に土を掘って十個ほど産卵するというが、田舎暮らしながら、私は、まだ見たことがない。
爬虫類はどことなく不気味だが、蜥蜴は可愛い感じの小動物である。
その怜悧そうな目や、喉の動きなどは、動きのすばやさとともに印象的である。

蜥蜴を詠んだ句を引いて終わる。

 三角の蜥蜴の顔の少し延ぶか・・・・・・・・高浜虚子

 歯朶にゐて太古顔なる蜥蜴かな・・・・・・・・野村喜舟

 石階の二つの蜥蜴相識らず・・・・・・・・富安風生

 さんらんと蜥蜴一匹走るなり・・・・・・・・小島政二郎

 父となりしか蜥蜴とともに立ち止る・・・・・・・中村草田男

 薬師寺の尻切れとかげ水飲むよ・・・・・・・・西東三鬼

 直はしる蜥蜴わが追ふ二三足・・・・・・・・石田波郷

 いくすぢも雨が降りをり蜥蜴の尾・・・・・・・・橋本鶏二

 交る蜥蜴くるりくるりと音もなし・・・・・・・・加藤楸邨

 蜥蜴照り肺ひこひことひかり吸ふ・・・・・・・・山口誓子

 高熱の青き蜥蜴は沙(すな)に消え・・・・・・・・角川源義

 青蜥蜴おのれ照りゐて冷え易し・・・・・・・・野沢節子

 青蜥蜴オランダ坂に隠れ終ふ・・・・・・・・殿村莵糸子

 蜥蜴楽し青き牛蒡の葉に乗つて・・・・・・・・沢木欣一

 人に馴ることなく蜥蜴いつも走す・・・・・・・・山口波津女


草づたふ朝のほたるよみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ・・・・・・・・・・斎藤茂吉
s-109蛍

   草づたふ朝のほたるよみじかかる
      われのいのちを死なしむなゆめ・・・・・・・・・・斎藤茂吉


蛍は農薬の使用などで一時ものすごく数が減ったことがある。
この頃は蛍復活作戦とか言って、蛍の餌となる巻貝「カワニナ」の養殖や放流、農薬使用の自粛などで、あちこちで復活しつつある。
六月中旬になると、そろそろホタルが出はじめる。あいにく梅雨に遭うと蛍狩は中止である。
私の子供の頃は──と言っても、もちろん戦前のことである、蛍狩りには菜種の実を振い落した「菜種がら」を棒の先にくくりつけて、
暗くなると家族や友人たちと川べりに繰り出したものである。川べりと言っても、大河ではない。
せいぜい幅1、2メートルの田圃の中の水路などに蛍は居る。
川べりに着くと、中には悪童がいて、ゴムパチンコに花火弾をつけて人に向かって発射する悪戯をする連中がいた。
運悪く私の腹にあたり火傷をさされて、泣いて家に帰ったことがある。私が小学生の下級生の頃のことだ。
その頃、蛍は文字通り、うじゃうじゃといた。蛍籠に入れて持ち帰り、蚊帳の中に放して明りを消して楽しんだものである。
掲出したのは「ホタルブクロ」という草花である。白花と紅花とがある。
私の家にも一鉢があり、しばらく前からぼつぼつと咲きはじめた。

この茂吉の歌は蛍に感情移入して、蛍の短い命に心をよせて詠んでいる秀歌である。
今日は趣向を変えて俳句、短歌ごちゃまぜに蛍に関するものを採り上げたい。
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 うつす手に光る蛍や指のまた・・・・・・・・・・・・炭太祇

「うつす」は直接には「移す」で、捕まえた蛍を相手の掌中に移しているところだろう。
その蛍が指の股を透かして光っている。相手はうら若い女性か、それとも子供同士か。
いずれにせよ「うつす」が「映す」の語感を伴っている句作りが、全体にふっくらした味をかもしだしている。
炭太祇は江戸中期の俳人。江戸に生れて、京都を永住の地とした。蕪村より7歳年長だったが親しく交わり、影響を与えあった。
人情の機微をとらえた人事句に優れ、特色ある句が多い。

 <初恋や灯籠によする顔と顔>

 <寝よといふ寝ざめの夫や小夜砧>

 大蛍ゆらりゆらりと通りけり・・・・・・・・小林一茶

 蛍這へる葉裏に水の速さかな・・・・・・・・長谷川零余子

 夏草のしげみが下の埋れ水ありとしらせて行くほたるかな・・・・・・・後村上院

 恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす・・・・・・・・山家鳥虫歌

一番終わりのものは和歌ではなく、7、7、7、5という音数律の「都都逸」と称するものである。
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歳時記から「蛍籠」「蛍狩り」の句を少し引いて終わりにする。

 蛍籠ともり初むれば見ゆるなり・・・・・・・・・・・・後藤夜半

 蛍籠極星北に懸りたり・・・・・・・・・・・・山口誓子

 あけがたやうすきひかりの蛍籠・・・・・・・・・・・・大野林火

 蛍籠霧吹くことを愛として・・・・・・・・・・・・山口波津子

 吾子の死へ朝が来てゐる蛍・・・・・・・・・・・・時田光子
 
 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

この「蛍籠」という季語は古いものではなく、明治38、9年頃から使われはじめたもののようである。

 蛍待つ幽に山のたたずまひ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 夕焼の橋に遊んで蛍待つ・・・・・・・・・・・・鈴木花蓑

 磧(かはら)石蹠にあらく蛍狩・・・・・・・・・・・・高浜年尾

 闇にふむ地のたしかさよ蛍狩・・・・・・・・・・・・赤松恵子

 ひとすぢのこの川あふれ蛍狩・・・・・・・・・・・・前田野生子

水すまし水くぼませて憩ひけり・・・・・・・・・・・・西嶋あさ子
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 ↑ 「水馬」あめんぼう

      水すまし水くぼませて憩ひけり・・・・・・・・・・・・西嶋あさ子

「あめんぼう」は漢字で書くと「水馬」となる。
この句の「水くぼませて」という描写は的確である。ただし「水すまし」というのは別の虫である。詳しくは後で書く
私の歌にも、こんな作品がある。

   水馬(あめんぼう)がふんばつてゐるふうでもなく水の表面張力を凹ませてゐる・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

「あめんぼう」は小さな、体重の軽い水生昆虫だから、細く長い脚の先で、巧みに水の表面張力を利用して、六本の脚で立って、ひょいひょいと水面を移動する。
私は幼い頃から、内向的な性格で、こんな虫や蟻などの生態を、じっと眺めているのが好きだった。と言って「昆虫少年」になることもなかった。

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 ↑ 「ミズスマシ」

歳時記を見てみると「みずすまし」という名前が、間違って、この「あめんぼう」のこととして呼ばれていたらしい。
「みずすまし」というのは全然別の虫であって、1センチほどの紡錘形の黒い虫である。↑ 上に出した写真の水棲昆虫が、それ。

「まいまい」という名前がある通り、水面をくるくると輪をかいて廻っている。水中に潜るときは、空気の玉を尻につけている。
『和漢三才図会』には <常に旋遊し、周二三尺輪の形をなす。正黒色、蛍に似たり> と書かれている。
「あめんぼう」(水馬)については <長き脚あって、身は水につかず、水上を駆くること馬のごとし。
よりて水馬と名づく> 
と書かれていて、なるほどと納得する。
「あめんぼう」という命名は、飴のような臭いがするので、この名があるという。
以下、「あめんぼう」についての俳句を少し引くが、その中で「水すまし」とあるのは間違いということになる。
読み替えていただきたい。 念のために本当の「水すまし」の写真を出しておいた。
先にも書いたが、掲出した西嶋あさ子の句の「水すまし」も間違った使用法であるから、念のため。

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 水馬水に跳ねて水鉄の如し・・・・・・・・・・・・村上鬼城

 水隈にみづすましはや暮るるべし・・・・・・・・・・・・山口誓子

 夕焼の金板の上水馬ゆく・・・・・・・・・・・・山口青邨

 水馬交み河骨知らん顔・・・・・・・・・・・・松本たかし

 打ちあけしあとの淋しき水馬・・・・・・・・・・・・阿部みどり女

 八方に敵あるごとく水すまし・・・・・・・・・・・・北山河

 水馬はじきとばして水堅し・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 水玉の光の強き水馬・・・・・・・・・・・・八木林之助

 水路にも横丁あつて水馬・・・・・・・・・・・・滝春一

 あめんぼと雨とあめんぼと雨と・・・・・・・・・・・・藤田湘子

 恋に跳ね戦ひに跳ねあめんぼう・・・・・・・・・・・・村松紅花

 あめんぼうつるびて水輪ひろがらず・・・・・・・・・・・・長谷川久々子

 風来の風風来の水馬・・・・・・・・・・・・・・・・・的野雄

 ナルシスの鏡を磨く水馬・・・・・・・・・・・・宮下恵美子

 あめんぼと同じ身軽さ職退けり・・・・・・・・・・・・岡崎伸


飲みはじめてから/酔いが一応のレベルに達することを/熊本で/「おさが湿る」というそうな・・・・・・・川崎洋
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index酒器

        乾盃の唄・・・・・・・・・・・・・・・・・川崎洋

     飲みはじめてから
     酔いが一応のレベルに達することを
     熊本で
     「おさが湿る」というそうな
     「おさ」は鰓(えら)である
     きみも魚おれも魚
     あの女も魚
     ヒトはみな形を変えた魚である
     いま この肥後ことばの背後にさっとひろがった海へ
     還ろう
     やがて われらの肋骨の間を
     マッコウクジラの大群が通過しはじめ
     落日の火色が食道を赤赤と照らすだろう
     飲めぬ奴は
     陸(おか)へあがって
     知的なことなんぞ呟いておれ
     いざ盃を
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この詩を見るかぎりでは、川崎洋は、結構な「呑んべえ」だったらしい。
「飲めぬ奴は/陸へあがって/知的なことなんぞ呟いておれ」というところなど、痛快である。

この詩の解説で彼は

<川崎洋>は本名である。生まれたのは東京都大森(現大田区)で、大森海岸に近い。太平洋戦争中、中学二年の時、父の郷里である福岡県へ転居した。有明海に臨む筑後の地で、ここで私は敗戦をはさむ七年間を過ごした後、現住地の神奈川県横須賀市に居を移し現在に到る。横須賀はご存じのように東京湾に面した市だ。
つまり私はずーっと海の近くに住み続けてきたことになる。体が潮を含んだ空気に馴染んでいて、生理的に安らぐからだろうが、そればかりではないような気がする。
日本民族は各地からやってきた諸民族の混交だとはよく言われるところだが、だとすると私は、南太平洋地域から流入した祖先の血をかなり色濃く受け継いでいるように思えてならない。・・・・南へは、行けば行くほど精神は弛緩し、手足はのびのびとする。南の持つ楽天性、向日性、陽気・・・。私の嗜好を並べ立てれば、たぶん歳時記の<夏>に属する項目が目につくだろう。
この詩は、私のなかの南が書かせたに違いないと、不出来の責任を祖先になすりつけたいというのが、いまの心境である。

と書いている。
川崎洋は1930年1月26日生まれで、2004年10月21日に死んだ。
私は彼より年長だと思っていたが、調べてみると私は同年の2月7日生まれだから彼の方が数日早く生まれている。
彼の詩は言葉はわかりやすいが、内容に深遠な思想を湛えているものがある。それについては後日に機会があれば紹介したい。
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「盃」などの酒器の写真を載せたが、私は酒は嗜む程度だが、老年期になるまでは日本酒が嫌で、鼻の先に持ってくるだけで不快でビールなどを飲んでいたが、
不思議なことに老年になるとビールを飲むと腹が冷えて、また腹がふくれるばかりで好みではなくなった。
その代わりに日本酒が嫌でなくなり、チビチビと小さい盃で飲むのが性に合ってきた。
加齢によって嗜好も変るのである。
ただし、深酒をして酔いつぶれる人が身近にいて苦労したので、いわゆる「酒飲み」は嫌いである。
少量の酒を肴に文学論など戦わせるような酒が、よい。


池水は濁り太宰の忌の来れば私淑したりし兄を想ふも・・・・・・・・・・・木村草弥
庄助日誌

    池水は濁り太宰の忌の来れば
       私淑したりし兄を想ふも・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

今日6月13日は小説家・太宰治の忌日。
昭和23年6月13日、彼は山崎富栄と三鷹上水に入水、同月19日に遺体が発見されたので忌日は今日だが、毎年墓のある禅林寺で行われる「桜桃忌」は19日になっている。

この歌は私の長兄・庄助が私淑していた太宰に、昭和18年に死んだ時に「療養日誌」を送り、それを元に太宰の『パンドラの匣』が書かれたことを意味している。
歌の冒頭の「池水は濁り」のフレーズは、太宰が入水に際して、仕事場の机の上に書き残して置いた、伊藤左千夫の歌

  池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨ふりしきる

に由来している。
この年は雨の多い梅雨で、太宰が、この伊藤左千夫の歌を引用した心情が、よく理解できるのである。

7c3d1b83太宰治
 ↑ 太宰治
太宰治のことについては、ここでは特別に触れることはしないが、『パンドラの匣』のモデルが兄であることは作品の「あとがき」にも明記されているし、
全集の「書簡集」にも兄と太宰との交信の手紙や兄の死に際しての太宰の父あての悔み状などが掲載されている。
写真①は2005年末に次兄・重信の手で上梓された、亡兄・庄助の『日誌』である。
この本については私の2009/04/17付けの記事に詳しい。
太宰治研究家で私宅とも親交のある浅田高明氏が「解説」を書いていただいた。
太宰研究者は、この本に書かれているようにたくさん居るが、兄の「療養日記」と「パンドラの匣」の、モデルと小説との異同や比較研究は浅田氏の独壇場であり、太宰研究者の中では知らぬ人はいない。
これらに関する浅田氏の著書は4冊にも上る。詳しくはネット上で検索してもらいたい。
「木村庄助」については ← のWikipediaの記事に詳しい。写真も見られる。
兄は昭和十八年に亡くなっているので、太宰治の晩年の「無頼」な生活は知らないのは良かったと思う。
兄・庄助は、そんな無頼に憧れていたのではないからである。

太宰治については、このBLOGでも何度か書いたので詳しくは書かない。
この歌の前後に載っている私の歌を引いておく。

   宿痾なる六年(むとせ)の病みの折々に小説の習作なして兄逝く

   私淑せる太宰治の後年のデカダンス見ず死せり我が兄

   座右に置く言の葉ひとつ「会者定離」沙羅の花みれば美青年顕(た)つ

   立行司と同じ名なりし我が祖父は角力好めり「鯱ノ里」贔屓(ひいき)

   我が名をば与へし祖父は男(を)の孫の夭死みとりて師走に死せり


「桜桃忌」という季語も存在しているので、それを詠んだ句を引いて終わりたい。

 太宰忌の蛍行きちがひゆきちがひ・・・・・・・・石川桂郎

 太宰忌やたちまち湿る貰ひ菓子・・・・・・・・目迫秩父

 太宰忌や青梅の下暗ければ・・・・・・・・小林康治

 太宰忌や夜雨に暗き高瀬川・・・・・・・・成瀬桜桃子

 眼鏡すぐ曇る太宰の忌なりけり・・・・・・・・中尾寿美子

 太宰忌の桜桃食みて一つ酸き・・・・・・・・井沢正江

 濁り江に亀の首浮く太宰の忌・・・・・・・・辻田克己


村島典子の歌「春のきよみづ」30首・・・・・・・・・・・・・木村草弥
村島

──村島典子の歌──(15)

     村島典子の歌「春のきよみづ」30首・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・「晶」82号2013.6所載・・・・・・・・

      春のきよみづ      村島典子

  久高島のノロのをみなの捕獲せし海蛇おもふ春の島辺の
  海蛇を食しし日ありき沖縄へ子を嫁がせしうりずんの島
  売られゐる瓶のまむしを見むとして石切詣で正月三日
  参道の脇に並びし瓶詰めのまむしを見つつ心たかぶる
  切手貼りわすれし手紙のとどくころ雪ふりはじむ早春の山
  青空から雪のふりくる夕ぐれです  神様のおくりものです
  歳晩に活けしヒサカキ生きつづけ花咲きにけりやよひ三月
  仏壇に花咲爺さんひそむらしヒサカキの枝に春呼ぶならむ
  ヒサカキの妖しきにほひ人のゐぬ仏間にみちて春が破裂す
  犬の膀胱の容量いかほど夜をへだて雨のひるまで外面にいでず
  大雨のなか傘さしかけて老犬のながーい放尿につきあひにけり
  朝のうち不機嫌なひと夕飯のひとつきの酒に立ち直りたり
  猪の荒らしし土手を繕ふと夫いでゆけり悪童のごと
  お彼岸にうまれし夫よと思ひつつ竹藪の背にうぐひすを聴く
  うつむけるスノードロップの白き花亡母のちひさき嚔のごとし
  時を殺すと思ひつめにし日もありきこの世のそとへ桜咲きそむ
  ささなみの春の近江へようこそとうぐひす来鳴く花の蔭から
  満開のさくらの下に震へゐるきのふ南の島から来し子
  緋ざくらのウチナハ、ヤマトの山ざくらいづれ美しみんなみの子よ
  うすべにの花の京都のきよみづの三年坂を少女をつれて
  大道店の古銭のまへにとどまれば時間は江戸の世、琉球の世に
  島人口七百人の離島から来たる子百人のうしろにならぶ
  長蛇なす列の尾の先老い人もこどもも時間のうしろにならぶ
  花踏みて石きだ上るいにしへゆ踏みしめられて傾く石を
  だんだんにこころ清まる南島の子らと桜の清水山に
  きよみづの音羽の滝のほそきみづに柄杓さしだす体をのベて
  音羽の滝の三筋のみづにロぬらす春のきよみづ忘れざらめや
  ぬり箸の一膳えらぶ少年を目守りゐたり群衆のなかに
  茶碗坂くだりてくれば韓国の人らそろひて和服にあそぶ
  そぞろ雨さくら雨ふる清水の舞台にわれら春のまれびと

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南島の渡嘉敷島から来た孫の子供たちを連れての、春の清水の風景を詠まれた村島典子さんの歌である。
この雑誌の「あとがき」に村島さんが、この一連について記事を書いておられるので、スキャンしておく。

 春休み、ちょうど桜の満開の季節に、沖縄
の渡嘉敷島から、子供たちが婦ってきた。物
心ついてから、花季の帰省は初めてのこと。
新六年生になる少年と二年生になる少女。渡
嘉敷小学校のこの春の全校生徒は十三人。慶
良間太鼓やエイサーや沖縄空手、三線と、子
供たちは、小さい頃から芸能にかかわる。
 山羊の頭蓋波に洗はれゐたりけり遠世のご
 とし渡嘉敷の浜
 ちょうど去年の四月、島の浜で目にした山
羊の骨を詠んだ拙作。この歌に対して、知人
を通して沖縄からこんなコメントをいただい
た。「山羊を密殺することは違法ですが、沖
縄では自分で育てた山羊を自分たちで殺して
食することはあたりまえのことでした。(略)
山羊の解体は海辺でなされます。血抜きをさ
れた山羊は体毛を焼きはらわれて、白き裸体
を海辺にさらします。いよいよ解体です。お
そらく舌を出したその頭蓋は、波に洗われて、
眼をとじて永遠の眠りについています。(略)
「速世のごとし渡嘉敷の浜」は現代日本のど
こにも見られない、まるで縄文時代の男たち
の姿が再現したかのようです。」
-----------------------------------------------------------------------------
  <山羊の頭蓋波に洗はれゐたりけり遠世のごとし渡嘉敷の浜>

記事にも書かれているように日本本土では、もはや目にかからぬ風景である。
ニワトリなどの解体は、農村では私の子供の頃は見慣れた風景だったが。。。
ご恵贈に感謝して、ご紹介まで。

(お断り)スキャナで取り込むと、どうしても多くの「文字化け」が生じる。子細に直したが、まだあれば指摘してください。すぐに直します。


 ひととゐてほたるの闇のふかさ言ふ・・・・・・・・・・・・・・・八幡城太郎
s-109蛍

    ひととゐてほたるの闇のふかさ言ふ・・・・・・・・・・・・・八幡城太郎

写真は白花ホタルブクロに止まるゲンジボタルである。

日本には十種類ほどが居るというが、一般的にはゲンジボタルとヘイケボタルである。
ゲンジの方が大きく、光も強い。
水のきれいなところに棲み、6月中旬ころから出はじめる。ヘイケは汚水にも居るといわれるが確認はしていない。
幼虫は水中に棲み、カワニナなどの巻貝を食べて成長する。
成虫の発光器は尾端腹面にあり、雄は二節、雌は一節だという。
この頃では農薬などの影響で蛍はものすごく減った。今では特定の保護されたところにしか居ない。
0003蛍狩

昔は画像②の絵のように菜種殻で作った箒で田んぼの中の小川に蛍狩りに出たものである。すっかり郷愁の風景になってしまった。
古来、多くの句が作られて来た。

 草の葉を落つるより飛ぶ蛍かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 手の上に悲しく消ゆる蛍かな・・・・・・・・向井去来

 大蛍ゆらりゆらりと通りけり・・・・・・・・小林一茶

などが知られている。 以下、明治以後の句を引いて終わりたい。

2_photほたる

 蛍火の鞠の如しやはね上り・・・・・・・・高浜虚子

 瀬がしらに触れむとしたる蛍かな・・・・・・・・・日野草城

 人殺す我かも知らず飛ぶ蛍・・・・・・・・・前田普羅

 蛍火の流れ落ちゆく荒瀬見ゆ・・・・・・・・山口誓子

 蛍火やこぽりと音す水の渦・・・・・・・・山口青邨

 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす・・・・・・・・橋本多佳子

 初蛍かなしきまでに光るなり・・・・・・・・中川宋淵

 死んだ子の年をかぞふる蛍かな・・・・・・・・渋沢秀雄

 蛍くさき人の手をかぐ夕明り・・・・・・・・・室生犀星

 蛍火や女の道をふみはづし・・・・・・・・鈴木真砂女

 ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜・・・・・・・・桂信子
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余談だが、掲出した写真①の白花ホタルブクロが今ちょうど咲いていて、その鉢を先日から玄関に飾ってある。
なよなよした草で紐で周囲を囲ってある。
茎立ち5本で十数輪咲いているが、しばらくは蕾が次々に咲くが花期は20日ほどしかもたない。
後の一年は、もっぱら根を管理するだけである。

あの夏の数かぎりなきそしてまた たつた一つの表情をせよ・・・・・・・・・・・・小野茂樹
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    あの夏の数かぎりなきそしてまた
       たつた一つの表情をせよ・・・・・・・・・・・・小野茂樹


過ぎ去った二人の輝かしい夏、あのとき君の表情は、一瞬一瞬変化する輝きそのものだった。
変化に満ちた数かぎりない表情、そして、また、そのすべてが君の唯一の表情に他ならなかった、あの夏の、あの豊かさの極みの表情をせよ、と。
恋人の「数かぎりなき」表情が、同時に「たった一つの」表情であるという「発見」に、この歌の要があることはもちろん、この発見は理屈ではない。
青年の憧れと孤愁も、そこには織り込まれて、心理的陰影が色濃く反映されている。

この歌および小野茂樹については短歌結社「地中海」誌上および「座右の歌」という短文に詳しく書いたことがある。

それを読んでもらえば私の鑑賞を十全に理解してもらえると思うが、ここでも少し書き加えておきたい。
小野茂樹は昭和11年東京生まれ。
河出書房新社の優れた編集者として活躍していたが、新鋭歌人としても将来性を嘱望されていたが、
昭和45年、退社して自宅に戻るべく拾ったタクシーの交通事故に巻き込まれ、あたら30有余歳の若さで急死した。
夫人の小野雅子さんは私も面識があり、原稿依頼もして頂いた仲である。
茂樹と雅子さんは、東京教育大学の付属中学校以来の同級生の間柄で、お互いに他の人と結婚したが、うまく行かず、
たまたま再会して、お互いの恋心に気づき、その結婚を放棄して、初恋の人と再婚した、というドラマチックな経過を辿っている。
それらのことについても、上記の私の「座右の歌」という文章にも書いておいた。
この歌は昭和43年刊の第一歌集『羊雲離散』所載である。

「座右の歌」という文章を読めば判る、というのでは、そっけないので、少し歌を引く。

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ひつじ雲それぞれが照りと陰をもち西よりわれの胸に連なる・・・・・・・・・・・・・・・・小野茂樹

五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声

強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し

くぐり戸は夜の封蝋をひらくごとし先立ちてきみの入りゆくとき

いつしんに木苺の実を食らふとき刻々ととほき東京ほろぶ

かの村や水きよらかに日ざし濃く疎開児童にむごき人々

ともしびはかすかに匂ひみどり児のねむり夢なきかたはらに澄む

くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ

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愛しあう若者のしぐさなども、さりげなく詠まれている。それに学童疎開の経験が彼の心に「苦い記憶」として刻まれていた歌が、いくつかある。
引用した一番あとの歌のように、彼の歌には「孤愁」とも言うべき寂しさがあり、私は、それが彼の死の予感みたいなものではなかったか、と思う。
これについて「座右の歌」には詳しく書いてある。
ぜひ「座右の歌」という私の文章にアクセスして読んで、十全に鑑賞してほしい。
ここにリンクにしたのは「原文」であり、このHPの文章には、いくつか誤植があるので了承いただきたい。
なお、彼の歌に詠まれる夫人は小野雅子さんというが、昨年夏に東京で開いてもらった私の第五歌集『昭和』を読む会には、ご出席いただいた。

このほど第四歌集『白梅』を出版されたが、その記事は6/8付けに載せた。ここに載せた文章では誤植は極力なおしたので書き添えておく。
感謝して、ここに書いておく。


竹散つて風通ふ道いくすぢも・・・・・・・・・・・・・・・石田あき子
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     竹散つて風通ふ道いくすぢも・・・・・・・・・・・・・・・石田あき子

この句の作者は、石田波郷の夫人である。
私の歌にも次のようなものがある。

  風吹けばかさこそ竹の落葉して私語めくごとしあかとき夢に・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

この歌のつづきに

竹と竹うち鳴らしつつ疾風は季(とき)の別れをしたたかに強ふ

というのが載っている。ちょうど季節の変わり目で疾風が吹きぬけることがある。
若葉の頃で俳句では「青嵐」という季語がある。
そして、また「竹の秋」「竹落葉」という季語もあるように、竹も新旧交代の時期で、ぐんぐん伸びる筍、若竹の裏に、新葉が出てくると古い葉が落ちるのである。
竹林には、そういう古い葉が降り積もって層になるのである。

私たちの住む辺りにも竹林が多い。聞くところによると関東には竹やぶが少ないそうであるが、私は確かめてみた訳ではない。
竹林というと京都・嵯峨野の竹林が有名である。ここは観光地であり、遊歩道としても整備されている。
写真②は、その嵯峨野の一風景。
thumbnenbutsuji4化野念仏寺竹林

こういう手入れされた竹林はいいが、「竹材」としての利用がなくなって、特に「真竹」の利用価値がなくなって、竹林が放置され、問題を起しているのだ。
竹は放置すると、周辺部へ地下茎を延ばして「侵蝕」してゆく。周辺の雑木林などは、いとも簡単に侵されて、枯れてゆくことになる。
私の住む辺りの低い山には、見渡す限り、放置竹林の侵蝕が見られる。深刻な事態である。

私の歌について言えば「竹の落葉」が「私語めくごとし」というのがミソである。「あかとき」とは「あかつき」の古語である。
俳句にも先に季語を示したが、たくさん詠まれているので、それを引いて終わる。

 竹落葉時のひとひらづつ散れり・・・・・・・・細見綾子

 思ひ出すやうに散るなり竹落ち葉・・・・・・・・久永雁水荘

 竹散るやひとさし天を舞うてより・・・・・・・・辺見京子

 夏に病みて竹枯れやまぬ音に臥す・・・・・・・・斎藤空華

 竹の皮日蔭日向と落ちにけり・・・・・・・・高浜虚子

 ひと来りひと去り竹の皮落つる・・・・・・・・長谷川素逝

 皮を脱ぎ竹壮齢となりにけり・・・・・・・・宮下翠舟

 若竹や鞭の如くに五六本・・・・・・・・・川端茅舎

 竹の奥なほ青竹の朝焼けて・・・・・・・・加藤楸邨

 若竹や傾きわれもかたむけり・・・・・・・・八木林之助



はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本邦雄
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   はつなつのゆふべひたひを光らせて
     保険屋が遠き死を売りにくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本邦雄


今日六月九日は、塚本邦雄の忌日である。 それに因んで作品を引いた。
塚本邦雄は、言うまでもなく前衛短歌運動の旗手の一人として、もう一人の岡井隆とともに昭和20年代の後半から30年代にかけて疾風のように短歌界を駆け抜けた。
2005年に亡くなるまで、多大の影響を短歌界に及ぼしてきた。今もなお、その影響力が及んでいると言えるだろう。
すでに多くの人が、塚本その人と作品について論及している。
私などが、それらに触れることは、おこがましいことであるので、ここでは作品を挙げて引くことに徹する。

掲出歌は、塚本の歌の中では割合に判りやすい歌である。
塚本の歌は「比喩」と、本歌取りをはじめとする「引用」に満ちているので、読者自身も広い読書の蓄積を要求される。
「保険」というものは「死」を前提にした商品であって、この歌は、そういう保険の持つ性格をうまく比喩的に作品化した。
この歌から広がるイメージこそ、前衛短歌の基本である。
本来「短歌」というのは、「作者」=歌の中の「我」、という構図で古来作られて来た。
前衛短歌は、そういう構図を、先ずぶち壊し、歌の中の「私性」を引き剥がした。
明治以後、前衛短歌までの歌を「近代」短歌と規定するなら、前衛短歌以後の歌が「現代」短歌だと、規定することが出来よう。
「近代短歌」に聳える巨人の一人として斎藤茂吉を挙げることが出来る。
「現代短歌」の巨人としては、この塚本邦雄と岡井隆の二人を挙げなければならないだろう。
塚本の歌を少し引いて責めを果たしたい。
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春きざすとて戦ひと戦ひの谷間に覚むる幼な雲雀か

海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も

五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる

イエスは三十四にて果てにき乾葡萄噛みつつ苦くおもふその年歯(とし)

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

暗渠詰まりしかば春暁を奉仕せり噴泉・La Fontaine

ロミオ洋服店春服の青年像下半身なし * * * さらば青春

カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子

ペンシル・スラックスの若者立ちすくむその伐採期寸前の脚

壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず

馬を洗はば馬のたましひ沍ゆるまで人恋はば人あやむるこころ

レオナルド・ダ・ヴィンチと性を等しうし然もはるけく蕗煮る匂ひ

壮年の今ははるけく詩歌てふ白妙の牡丹咲きかたぶけり

父となり父を憶へば麒麟手の鉢をあふるる十月の水

ノアのごと祖父ぞありける秋風にくれなゐの粥たてまつるべし

紅鶴(フラミンゴ)ながむるわれや晩年にちかづくならずすでに晩年

文学の塵掃きすててなほわれの部屋の一隅なるゴビ砂漠

死のかたちさまざまなればわれならば桜桃を衣嚢に満たしめて

またや見む大葬の日の雨みぞれ萬年青(おもと)の珠実紅ふかかりき

春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状
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塚本邦雄というと、天皇制や戦争ということに拘って作歌して来たと言われている。後の二首は昭和天皇崩御に際しての歌である。
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塚本邦雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

塚本邦雄(つかもと くにお、1920年8月7日~ 2005年6月9日)は、日本の歌人、詩人、評論家、小説家。

寺山修司、岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と称され、独自の絢爛な語彙とイメージを駆使した旺盛な創作を成した。別名に菱川紳、鴻池黙示などがあるが、著書目録にある単行本や文庫本には、これらの著者名で出版されたものはない。 長男は作家の塚本靑史。

人物
滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)に生まれる。母方(外村家)の祖父は、近江一円に弟子を持つ俳諧の宗匠だったという。1922年生まれという説もあるが、これは中井英夫が邦雄のデビュー当時、2歳若くすることで20歳代歌人としてやや強引に紹介したことから生まれた俗説である。1938年、神崎商業学校(現・滋賀県立八日市高等学校)卒業。彦根高商(現・滋賀大学)卒という説もあるが、本人が書いた履歴書にそのような記載は一切ない。卒業後、又一株式会社(現三菱商事RtMジャパン)に勤務しながら、兄・春雄の影響で作歌を始める。1941年、呉海軍工廠に徴用され、1943年に地元の短歌結社「木槿」に入会。終戦の年、投下された原爆の茸雲を仰ぎ見た記憶がいつまでも残ったと言う。

戦後は大阪に転じ、1947年に奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事する。1948年5月10日、「青樫」の竹島慶子と結婚。山陽地方に転勤。翌年の4月9日、倉敷で長男・靑史誕生。その後、松江に転勤するが、鳥取在住の杉原一司と「日本歌人」を通じて知り合い、1949年に同人誌『メトード』を創刊。だが杉原は1950年に他界してしまった。

1951年、杉原一司への追悼として書かれた第一歌集『水葬物語』を刊行。同歌集は中井英夫や三島由紀夫に絶賛される。

翌年大阪へ転勤となり、中河内郡盾津町(現東大阪市南鴻池町)へ転居。当地を終の棲家とした。1954年、結核に感染したことが判明し、大東勝之助医師の指示に従い、2年間自宅療養に専念して克服する。回復後も商社勤務を続け、1956年に第二歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』、1958年に第三歌集『日本人靈歌』を上梓。

以下24冊の序数歌集の他に、多くの短歌、俳句、詩、小説、評論を発表した。歌集の全冊数は80冊を越える。だが、邦雄の業績で特筆に値するのは、岡井隆や寺山修司とともに1960年代の前衛短歌運動を成功させたことである。またその中にあって「日本歌人」から離れ、永らく無所属を貫いていたが、1985年に短歌結社『玲瓏』を設立して機関誌『玲瓏』を創刊、以後(没後も)一貫して同社主宰の座にある。さらに近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。

晩年にも旺盛な活動を続けていたが、1998年9月8日に妻・慶子が他界、2000年7月には自らの健康を損ねた。そのため、晩年を慮った息子の靑史が帰省し、同居して最期を看取った。2005年6月9日没。尚、玲瓏の会員らを中心に、以後、忌日は『神變忌(しんぺんき)』と称するようになっている。 以降に靑史の手で資料の整理がなされ、2009年1月末、自宅にあった邦雄の蔵書・直筆原稿・愛用品や書簡など様々な遺品が日本現代詩歌文学館へ寄贈されている。牧師で倉敷民藝館館長であった叔父・外村吉之介の影響で、聖書を文学として愛読したが、終生無神論者であった。 現在「塚本雄」は商標登録されており、商標権者は著作権継承者と同じく塚本靑史になっている。

作風
反写実的・幻想的な喩とイメージ、明敏な批評性と方法意識に支えられたその作風によって、岡井隆や寺山修司らとともに、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与えた。その衝撃は坂井修一、藤原龍一郎、中川佐和子、松平盟子や加藤治郎、穂村弘、東直子らのいわゆるニューウェーブ短歌にも及んでいる。作品では一貫して正字歴史的仮名遣い(旧字旧仮名)を貫いた。

よく知られた歌には次のものがある。
「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」(『水葬物語』巻頭歌)
「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(『日本人靈歌』巻頭歌)
「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(『日本人靈歌』)
「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(『感幻樂』)

補遺
塚本邦雄の研究者として、島内景二による文学史的な研究のほか、安永蕗子、岩田正、坂井修一らによる短歌解説などには定評がある。またインターネット上では松岡正剛の解説が比較的よく知られている。

弟子には、研究者でもある島内景二の他、塘健、山城一成、江畑實、阪森郁代、和田大象、林和清、尾崎まゆみ、小黒世茂、大塚ミユキ、松田一美、佐藤仁、魚村晋太郎、小林幹也、森井マスミなどがおり、また北嶋廣敏、笠原芳充、酒井佐忠、橋本治、北村薫、中条省平、茅野裕城子、山口哲人ら多くの信奉者を得た。

邦雄についての資料には、齋藤愼爾篇『塚本雄の宇宙』(2005年・思潮社)や、弟子の楠見朋彦著『塚本雄の青春』(2009年・ウェッジ文庫、2010年ながらみ書房主催の前川佐美雄賞受賞)、塚本靑史が『短歌研究』へ奇数月に連載中の『徒然懐旧譚』などがある。

受賞歴
1959年 『日本人靈歌』で第3回 現代歌人協会賞 受賞
1987年 『詩歌變』で第2回 詩歌文学館賞 受賞
1989年 『不變律』で第23回 迢空賞 受賞
1990年  紫綬褒章 受章
1992年 『黄金律』で第3回 斎藤茂吉短歌文学賞受賞
1993年 『魔王』で第16回現代短歌大賞受賞
1997年  勲四等旭日小綬章 受章

作品
以下は一部のみ。著書の一覧表や在庫の有無については、玲瓏誌や玲瓏の会HPを参照。
ゆまに書房で『塚本邦雄全集』(全15巻別巻1、1998-2001年)が刊行。

短歌
水葬物語(1951年)
日本人霊歌
装飾樂句
水銀伝説
綠色研究
感幻樂
星餐図
蒼鬱境
青き菊の主題
されど遊星 
天変の書
詩歌変
黄金律
汨羅変(1997年)
約翰傳僞書
初學歴然、透明文法 等、間奏歌集や肉筆歌集を入れた歌集の総数は全80余冊。選歌集も多数あり。 『清唱千首―白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった絶唱千首』

(撰著 「冨山房」で愛蔵版と新書版:冨山房百科文庫、各1983年)

樹映交感
ウルムスのかどで―横浜市立釜利谷南小学校校歌歌詞(木下大輔作曲)

俳句
断弦のための七十句、花鳥星月、青菫帖、燦爛、裂帛、甘露、流露帖

小説
藤原定家―火宅玲瓏
紺青のわかれ
連彈
菊帝非歌―小説後鳥羽院
獅子流離譚―わが心のレオナルド(集英社、1975年)
荊冠伝説―小説イエス・キリスト

評論
定型幻視論
序破急急
花隠論―現代の花伝書
麒麟騎手―寺山修司論
詩歌宇宙論
言葉遊び悦覧記
国語精粋記―大和言葉の再発見と漢語の復権のために
世紀末花伝書
百珠百華―葛原妙子の宇宙
新古今集新論
ほか多数

文庫
定家百首 良夜爛漫  河出文庫 1984年
十二神将変 同上 1997年
けさひらく言葉 文春文庫 1986年
源氏五十四帖題詠 ちくま学芸文庫 2002年
定家百首・雪月花〈抄〉 講談社文芸文庫 2006年
百句燦燦 現代俳諧頌 同上 2008年
王朝百首 同上 2009年7月
西行百首 同上 2011年3月
花月五百年 ゝ 2012年11月
茂吉秀歌 『赤光』百首 講談社学術文庫 1993年
茂吉秀歌 『あらたま』百首 同上 1993年  以下同
茂吉秀歌 『つゆじも』から『石泉』まで百首 1994年 
茂吉秀歌 『白桃』から『のぼり路』まで百首 1994年
茂吉秀歌 『霜』『小園』『白き山』『つきかげ』百首  1995年



小野雅子歌集『白梅』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
小野

──新・読書ノート──

     小野雅子歌集『白梅』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・ながらみ書房2013/06/27刊・・・・・・・・

小野雅子さんの第四歌集『白梅』が刊行されて、著者から恵贈されてきた。
発行日はまだ先だが、記事にしてアップしたので、今日の日付で出しておく。 
小野雅子さんは、有名な小野茂樹の令夫人である。 先ず、私の旧記事を読んでもらいたい。→ 「私の座右の歌─小野茂樹─」

この記事にも書いてあるが、雅子さんの第二歌集『青陽』に載る、「いとし子─綾子」さんが、美しく成人され、結婚されて、玉井綾子として第一子を出産された。
この歌集の「あとがき」で

<これは私の四冊目の歌集である。平成十四年から二十五年三月までおよそ十一年間の作品から485首を自選した。
 ほかの同年代の方々の歌集にくらべて父母や夫の介護、看取りの歌がないのは、それらの人が若死にだったからである。
 平成二十三年、東日本大震災のひと月前に、娘・玉井綾子に初めての子が生まれた。
 同居してはいないので会うのはときどきだが、この子が私に多くの歌を与えてくれた。>

と書かれている。
先に読んでくださるようにお願いした拙文に載る人である。
小野茂樹の第二歌集『黄金記憶』の巻末に置かれた歌

<露に満ち甘きにほひをたつるさへ果実はゆかしみどりごの眼に>

と茂樹の詠んだ─その人・綾子さんの生(な)した子である。名前は描かれていないが、目の中に入れても痛くない愛の結晶であろう。

この歌集は編年体で編まれているが、この子の誕生にまつわる歌は巻末の Ⅳ─平成二十三年~平成二十五年の項に載る。 「白梅」「積木」などと題する一連である。

■鼓動よりヒトは始まる十ミリを過ぎしばかりが画像にうごく
■形よき眉をもつ児よまだ見えぬ眸のくろぐろと母を見上ぐる
■ベビー用爪切りで切る初爪は甘皮のやう白くはかなし
■名付けられみどの児宛ての封書にて住民票コード送られてきぬ
■きさらぎのあしたの光さすなかに一輪の白梅ほころび初めぬ
■あかつきのラジオに聞けば二月三日誕生花はなづなであると
■きさらぎの光の充つるベランダに小さき小さきソックスを干す
■生まれ来てやっとひと月みどり児は夢見るやうなまなざしもする
■親族表の一番下に名を記す東日本大震災の年生まれたる児の
■小野茂樹一歳の娘に与へたる積木で孫の男児が遊ぶ
■四十年経たる積木は乾ききり打ち合へば高き音ひびかする
■父よりのただ一回の誕生日祝は積木ドイツ製なる
■一歳の集中力よ三つほど積めて喜び崩しまた積む
■つみき列ね「デンシャ」と言ひて腹這ひて横より眺め動かし眺む
■初めての意味あることばデンシャなり鉄ちやんになるのだらうかこの児は

もっと歌を少なく引くべきであったかも知れないが、小野茂樹と雅子の「愛」のいきさつを知る者としては、愛着が籠っていて削れなかった。
茂樹が愛娘・綾子に寄せた「想い」が、ここに隔世遺伝となって児に、ここに結実したと思うからである。
茂樹が愛娘・綾子に与えたドイツ製の「積木」で、孫である男児が積んで遊ぶ。

作者は「東日本大震災」は、「声高」には詠わない。さりげなく、愛孫に託したりするばかりである。 一、二引いてみる。

■確かなる津波のさまも隔たりて画像に見れば映画のごとし
■朝夕に目に入るビルの屋上を越ゆる津波の幻をみる
■リサイクル工場に廃材積まれゐるこの何万倍被災地覆ふ
■見しことも使ひしこともなき言葉ガレキが去年も今年も溢るる
■明治の田テレビドラマに見入りたりセシウムの害なき黄金の稲
■古代エジプト人の恐れしもの少なくとも放射能は入つてはゐない

十一年間の作品からの抽出なので、歌集全巻に引きたい歌が散らばるが、以下、私がどうしても引きたい歌に限定して引いておく。

■難しいものは易しく易しきは深くと言はれし師を偲び合ふ
■海藻サラダ水にふくらみゆくやうに愛を育み子に家庭あり
■ブロッコリーの玉の大小などを言ふ母娘となりぬ年を経ぬれば
■父在らば村上春樹を好んだであらうと父の歳すぎて言ふ
■夏えだまめ冬ぎんなんのさみどりや口にできるはあといくとせか

そして、この歌を外すわけには行かない。

<一瞬 さかさに振れば雪のごとく過ぎし日の愛ふりしきらぬか>

この歌は巻頭の二番目に載る、平成十四年~十六年の歌である。 
この歌は「帯」にも抽出されているが、この歌集中の絶唱として、私は掲げておく。
作者は、何事にも「声高」には詠わないが、珍しく、ここには本音を露出された。 私は、これを喜ぶものである。

なお検索していたところ、玉井綾子さんは先年、短歌結社「地中海」に入られたようで、「よみがえる感情」という2008年のエッセイの文章が同誌に載っているらしい。 お読みいただきたい。
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昨年夏、私の第五歌集『昭和』を読む会に、小野雅子さんはご出席いただいた。
久しぶりの対面であったが、今回、この本をご恵贈いただいて、私が「座右の歌」に亡夫君を採り上げて以来のご縁と感謝するものである。
「あといくとせか」などと仰言(おっしゃ)らず、お元気でお過ごしくださるようお祈りして、筆を擱く。  (2013/06/07記)



  
映画『奇跡のリンゴ』鑑賞・・・・・・・・・・・・・木村草弥
奇跡
↑ パンフレットに載る木村秋則2012作のリンゴの本物の写真。右下の虫のかじった跡はカバーの演出。

──映画鑑賞──

     映画『奇跡のリンゴ』鑑賞・・・・・・・・・・・・・木村草弥

阿部サダヲ、菅野美穂が夫婦役を演じ、不可能と言われたりんごの無農薬栽培に取り組み続けた木村秋則さんの実話を映画化したドラマ。
日本最大のりんご畑が広がる青森県中津軽郡で生まれ育った秋則は、りんご農家の娘・美栄子とお見合い結婚して婿入りし、りんご作りに携わるようになる。
しかし、りんごの生産に不可欠な農薬が美栄子の体を蝕んでいることがわかり、秋則は、絶対不可能と言われていた「りんごの無農薬栽培」に挑む。
私財を投げ打ち、10年にわたり挑戦を続けるが、無農薬のりんごが実ることはなかった。
周囲からは白い目で見られ、家族は貧困に打ちひしがれるが、そんなある時、荒れ果てた山の中で果実を実らせた1本の樹を見つける。

木村

原作は、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班が監修した「奇跡のリンゴ 『絶対不可能』を覆した農家・木村秋則の記録」(石川拓治著/幻冬舎文庫刊)。
監督は「ゴールデンスランバー」「チーム・バチスタの栄光」の中村義洋。

この映画の原作になったのが、この本である。「プロローグ」の部分が読める。 → 『奇跡のリンゴ』
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映画「奇跡のリンゴ」ができるまで──映画プロジェクト始動 ← いきさつが読める。

YouTube「奇跡のリンゴ」予告編
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阿部サダオ(木村秋則役インタビュー)

―映画『奇跡のリンゴ』のお話を聞いた時のご感想は?

台本がすごく面白くて、ぜひやりたい、と思いました。台本を読んで泣くことは滅多にないので、自分でもびっくりしました。

―木村秋則さんという実在の方を演じる上で気にしたことはありますか?

実際の木村さんはお喋りの仕方や間、笑顔、笑い声などが独特で、お会いしたら一瞬で引き込まれる方でした。
でも、演じるにあたっては、今の木村さんの真似はしないようにしました。
台本が面白いのに、外見を変えたりすることで「木村さんに似せているだけ」という印象になるのはもったいないですし、
映画で描かれているのは今の木村さんになるまでの物語ですので。

―菅野美穂さんとの共演はいかがでしたか?

完成した映画で、美栄子が1人で(秋則の書いた)日誌を読んでいるシーンを見たときに、すごい女優さんと共演させていただいたんだなと改めて思いました。
普段は明るくて面白くて、気さくに話される方だから、僕の知らないところであんな演技をされていたとは、って。すごく感動しましたね。

―現場で印象に残っているシーンは?

子供の作文を読むシーンでは、こみ上げてくるってこういうことなんだと思いました。泣こうと思わないで泣けたのは初めてでしたね。
何回か撮ったんですが、だんだん止まらなくなってきちゃったんです。撮影が朝早かったせいかもしれないけど(笑)。
あれは初めての経験でしたね。

―この映画に出演して、どんなことを感じましたか?

不可能と言われているのにもかかわらず、ひとつのことに挑戦し続けるのはすごいですよね。
それから、“1人じゃない”っていうのもこの映画のいいところだと思います。
お義父さんが協力してくれて、(秋則の)お母さんや友達など周りの人も支えてくれて。
これは、リンゴ作りに限らず、すべてに置き換えられるお話だと思うんです。
役者も、周りに生かされて、役を作ってもらう部分はすごくありますし、映画づくりもそうですしね。
前向きな作品ですから、観終わった後にいい気持ちになっていただけるのではないかと思います。
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木村秋則と自然栽培については、 → 『木村秋則と自然栽培の世界』という本が出ている。 参照されたい。

トークイベント─木村秋則ほか「森・土・海は食のゆりかご命のゆりかご」という企画が開催される。 ← ご覧あれ。

「木村秋則オフィシャルホームページ」 ← いろいろの分野で活躍する彼のことが、よく判る。アクセスされよ。

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私は、予め、上に引いた本などを読んでから上映初日に映画を見た。
率直な印象として、映画だから「絵」になりやすいところだけを強調してある。
十一年間にわたる無収入の連続、周囲の村人たちからの「反目」など、すごいものだったが、電気を切られ、税金の滞納で畑を差し押さえられ、という本当の苦闘は、
映画で簡単には描けなかったと思うが、見た人は感動に涙した人が多かった。
彼の農法は、よく言われる「有機農法」とも「放置農法」「粗放農法」とも違う。それらの違いについては、リンクに貼ったところで概要が書かれているから参照されよ。

いろいろの作物があるが、リンゴは格別に無農薬が難しいようである。
「農薬の害」というのは、栽培農家にとっては深刻なもので、「茶」の場合は、さほど難しくはないが、それでも熱心な栽培家ほど「農薬中毒」に侵されやすい。
私の村でも同年代の知人が農薬中毒──神経をやられやすい──で悲惨な末路を辿った人が何人か居るのが事実である。
そんな被害から、農薬は厳しく規制され、製造禁止になった農薬も多く、現在では効き目の緩いものになってきているが、その代り散布の回数が増えるというイタチダッコになる。
単純に考えてもらいたい。小さいとは言え、虫を殺すクスリが人間に無害ということはあり得ないのである。
アメリカなどで大規模に推進される「遺伝子操作」による種子など、及ぶ影響を考えると、そら恐ろしい限りである。
古くはレーチェル・カーソンの告発から始まる「警告」には耳を傾けてもらいたいものである。



『橿尾道子画集・燃える季節』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
橿尾
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──新・読書ノート──

     『橿尾道子画集・燃える季節』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・・エディション・ナギイ2013/06/21刊・・・・・・・・・・

こういう本が、私の兄・木村重信から送られてきた。
橿尾道子という人は私には未見の人であるが、すでに1988年にお亡くなりになっている。夫君の橿尾正次氏が出されたものである。
発行者・橿尾正次とは、こういう人である。→ 橿尾正次・略歴
この人については次のような動画があるので、どんな作家なのかが判る。 → 「橿尾正次展・タネ」
(橿尾正次展・「タネ」2007/10/25~10/31に収録されたもの)
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さて、彼女は詩や小説も書いていたらしい。「まきの・なぎ」というのがペンネームだったようだ。
この本には、彼女の詩が四つほど載せられているので、それをスキャナで取り込んでおく。
私は絵には素人なので、面白いと思った絵を二点だけ出しておく。
この本の巻末には「プリミティブの世界」と題した彼女の短い文章が載っており、メキシコなどのプリミティヴ・アートへの憧憬が書かれている。
それに続いて、木村重信の五ページに及ぶ解説文があり、夫君・正次氏とのかかわりのいきさつなどが書かれていて、行き届いた佳い文章てある。

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     燃える季節・・・・・・・・・まきの・なぎ

   土くれが蒸しあげられると
   穴ボコが海綿のように這いまわる
   網の目が整列すると
   ガラス窓から天を見あげる
   あおくさくて頭の尖がった生物群がいた。
   長たるものは目玉が法外に出っ張り、
   胴体は粘液質でふくれあがって異常
   掌の中に三個の雌をかくして温める
   雌は水のように透きとおった卵を生ん
   で、自分はばっしゃりと底にしづみ、
   拍子をくらって卵巣を破いた。
   水泡が浮かんだたげである
   土くれがほてった足から汗をたらして
   動かない自分の尻に腹を立て
   駆けてきた馬と牛の尻尾をつかんで
   殺してやると怒鳴る
  
      漁村・・・・・・・・まきの・なぎ

   石だらけの海岸を
   後には霧をかぶった黒い山と
   粘板岩の島が点在している
   てんぐさの匂いのする
   裏日本の
   小さな漁村
   雨模様の日は船が繫がれ
   中だけが明かるいさむしい風景よ
   日焼けした子供達よ
   波を追う女の子よ
   はるばるとやって来たわたくしには
   此の海岸がかなしくて堪らない
   波が悲哀を伝えているようだ
   ひとの頭にのしかゝる黒い雲を悲しむ様だ
   岩の多い海岸の
   乾魚の臭いに満ちた
   細々とした聚落を前にして
   泣いては笑い 泣いては笑い
   わたしは頑是ない子供のよう
   小石を拾っては抉に入れる

       サルビアと少女・・・・・・・まきの・なぎ

   サルビアよ サルビアよ
   消えゆく季節の
   おわりの花よ
   こんな郊外の廃園にもゆる不思議なあかり
   花 あかい房 柿の下でもえるほのほ

   くたびれた少女の願い あかい着物を
   買いたいな あかい林檎が喰べたいな
   やまざる 執拗なねがい

   サルビアよ かねの無い子を騒がせよ もえて
   もえて 胸の動悸がとまるまで
   あかい花房をもえたゝす末の花

      怪物がきた・・・・・・・まきの・なぎ

   二枚貝のひとひらにくみとられた黒い地面を
   氷河にとざされた不毛地にしようとして
   ジュラルミンの怪物が急降下した
   あざやかな燐光をもやした背に
   精悍な首をのせてあくびをする
   その毒風で米粒はどろどろとなり
   ズボンは木霊して裂けた
   「ヤメテ 命アルコトヲ神様に
   カンシャシナケレバ・・・・・・」
   わたしはゆわえられおったてられた
   振り向く事すら拒絶され
   田圃につるされた鳴子のように
   地図の縁にぶらさがり
   馬と小麦を恋しがったが
   重苦しいある夜が来ると
   おれたちの隅なくひしめく図面は裂けて
   日本海に穴ができる
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道子夫人が亡くなって、もう十数年が経っているのに、詩・画集を出された夫君の「愛」に満ちた本である。
拙ブログで、ご披露する次第である。ご恵贈に感謝する。

スキャナで取り込むと、どうしても「文字化け」が、たくさん起きる。子細に修正したが、まだあれば指摘されたい。すぐに直します。
特に「燃える季節」は、手書きのものなので、すこし読み取りにくい個所もあったので、よろしく。


おはなしはあしたのばんげのこととして二人静の今夜を閉じる・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
futarisizukaフタリシズカ

   おはなしはあしたのばんげのこととして
     二人静(ふたりしずか)の今夜を閉じる・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


ネット上に載るフタリシズカの記事を、下記に引用しておく。
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木々が葉を繁らせ緑に染まり一段落ついた頃、光が射し込まない林下で、フタリシズカは小さな白い米粒のような花を咲かせます。
この花は少し変わっていて、白く見えるのが雄しべで、写真では判りませんが内側に1本の雌しべを包み込むように咲いています。
つまり、花びらも萼もない花ということです。
 また、この花が実を結ぶのと並行して、閉鎖花と呼ばれるつぼみのようなものをつけます。
 この閉鎖花は、開花せず、アリに運ばれるまで待つか、落下するまで植物自体についているそうです。
 ところで、フタリシズカ(漢字では「二人静」と書きます)の名は、花をつけた2本の軸を静御前(しずかごぜん)とその亡霊の舞姿にたとえてつけられたそうですが、
実際には軸が1本だったり、3~5本あったりとまちまちです。
私も1本や3本のものには時々であう機会がありますが、4~5本も軸がついたフタリシズカにもいつかお目にかかってみたいものです。
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この歌につけられた作者のコメントには

  <東北のことばで「ばんげ」とは夜のことです。
   話の続きはまたあした、と仲良く布団に入る情景が、花の名前と花ことばからイメージされます。>

と書かれている。まさに適切なイメージぶりと言えるだろう。
この花は上に引用したように、5月から6月にかけて林の中の薄暗い、ひっそりした木蔭に生えるもので、私の歌には、ない。
因みに、フタリシズカの花言葉は「いつまでも一緒に」ということである。
この花言葉から、作者の歌がイメージして作られた。
私には「いつまでも一緒に」なんて言葉を聞くのは、つらい。

「ふたりしずか」の花は、歳時記では「春」の花に収録されている。数は多くはないが引いておく。

 群れ咲いて二人静といふは嘘・・・・・・・・・・高木晴子

 二人静ひとり静よりさびし・・・・・・・・・・角川照子

 二人静をんなの髪膚ゆるみくる・・・・・・・・・・河野多希女

 二人静娶らず逝きし墓の辺に・・・・・・・・・・吉野義子

 生き残ること考へず二人静・・・・・・・・・・丸山佳子

 前の世の罪許されて二人静・・・・・・・・・・檜紀代

 村滅び二人静もほろぶらし・・・・・・・・・・河北斜陽

 高野泊りは二人静を活けし部屋・・・・・・・・・・清川とみ子

 二人静木洩れ日と囁きあふは・・・・・・・・・・渡辺千枝子

 帳りして二人静の咲きはみだす・・・・・・・・・・折笠美秋

 身の丈を揃へて二人静かな・・・・・・・・・・倉田紘文

 



佐伯泰英『転び者 新・古着屋総兵衛シリーズ⑥』・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   佐伯泰英『転び者 新・古着屋総兵衛シリーズ⑥』・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・新潮文庫2013/06/01刊・・・・・・・・・・・

おなじみの佐伯泰英の本である。 私の愛読書である。
シリーズの新作が出たので、さっそく取り寄せた。

    伊賀山中にて現れた忍びの軍団。敵か、味方か……激闘開戦。裏切り者、殲滅。

五十八門の大砲を搭載する薩摩藩の新・十文字船団七隻は大隅海峡にて、大黒屋の交易船イマサカ号・大黒丸の通過を虎視眈々と待ち受けていた。
イマサカ号の大帆を孕んだ駿足と、大砲の威力の前に薩摩船は、またも、いとも、たやすく打ち破られて沈んだ。
一方、総兵衛一行は伊勢から京都への道程に神君の故事にあやかって、伊賀加太峠越えを選んだ。
それは一行を付け狙う薩摩の刺客の他に忍び崩れの山賊たちが盤踞する危険な道だった。
そして、陰吉が消えた……。緊張迸る二つの決戦、激闘の第六巻。


いつもながらの泰英ぶしである。
十代目・総兵衛は、坊城桜子と一緒に仲良く伊賀越えをし、京都に入ったが、その桜子と、お付きの「しげ」が薩摩の手によって拐(かどわか)された。
巻末には、次作につながるものとして、このことが書かれて、終わる。 次巻をお楽しみに。
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折しも「酔いどれ小籐次」がNHKで再放送されて、こちらも面白そうである。
私が佐伯泰英に出逢ったのも、NHKのデレビドラマの「磐音」シリーズだった。出版各社が競ってシリーズを扱っている。
これらも要注目である。 お楽しみ。



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