K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(8月)月次掲示板
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一昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
011紅蜀葵
 ↑ 紅蜀葵(こうしょっき)

八月になりました。
今月は鎮魂と非戦の誓いの月です。

 屋上に出でて仰ぎし夕空に監視カメラのレンズは光る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大島史洋
 置かれたる立場によりて体罰論異なり評価違ふ虚しさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中埜由季子
 店先のあをき榠樝の量感をながめをりけふの想ひのごとく・・・・・・・・・・・・・・・ 横山未来子
 鉢植ゑのゼラニウムをば話題とし少し時経て本題に入る・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 神作光一
 ふとぶとと立つ七彩を男の虹と呼ばむ一生の秋に入りつつ・・・・・・・・・・・・・・・・・大塚寅彦
 劇毒を撒くかもしれぬ原発を内につくらず首都東京は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田宮朋子
 蝙蝠の低くひらめく夕暮は子供の顔の彫り深くなる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下泉
 わりなけれわりなけれどもわが目交をひるがへり過ぐるを蝶も時も・・・・・・・・・・照屋眞理子
 文庫本『森の生活』にあかあかと入り日の差してうつろひゆけり・・・・・・・・・・・・・・遠山利子
 炎熱の路面は白く明るめりいゆく生類の影一つなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 春日真木子
 手花火の賑はひ聞けば遠き日のわが子のすがた目にうかびくる・・・・・・・・・・・・・・小野雅子
 海までの距離が死までの距離となり仙台平野に生き残りたり・・・・・・・・・・・・・・・・ 洞口千恵
 散歩コースを秋へ伸ばす しばらくは蜻蛉の一群を率いてゆく・・・・・・・・・・・・・・・・藤原光顕
 くろがねの秋の風鈴鳴りにけり・・・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏
 秋立つとしきりに栗鼠のわたりけり ・・・・・・・・久保田万太郎
 人声のうしろより来て秋立つか ・・・・・・・・・・・・・・ 加藤楸邨
 金魚大
夕焼の空の如きあり ・・・・・・・・・・・・・・松本たかし
 大和路は四通八達蟻の道・・・・・・・・・・・・・・・・・林田紀音夫
 なにやらの糞の化石もうららかに・・・・・・・・・・・・・・松野苑子
 星はみな女性名詞や羅馬の秋 ・・・・・・・・・・・・マブソン青眼
 ヴィクトリア駅より秋の終列車 ・・・・・・・・・・・・・・友田喜美子
 冷し馬人語を以て相通ず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山田露結
 空蝉のからくれないに砕けたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・橋閒石
 ポケットの指は鯨が噛んでいる・・・・・・・・・・・・・・・・兵頭全郎
 松蝉や絵本の雲のみな円く・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 細川加賀
 瓜売りが瓜売りに来て大嫌い・・・・・・・・・・・・・・・・酒井かがり
 夏燕連歌の徳を慕い飛ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池正博
 冷奴きつぱりとした心だて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・閒村俊一
 白玉を水に放つや心揺れ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 石井薔子
 反省は猿にまかせる旱星・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秦夕美
 男から男へらっきょ透きとおる・・・・・・・・・・・・・・・・・・永末恵子
 隅つこが好きな金魚と暮らしけり  ・・・・・・・・・・・・・・飯田冬眞
 twitter呟き返して夏深し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大野道夫
 薔薇そこに身を傾けている闘魚・・・・・・・・・・・・・・・・・花谷和子
 シャボン玉ああ夕焼けが回ってる・・・・・・・・・・・・・・福岡阿彌三
 炎帝のむかし氷屋鋸を引き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仁平勝
 女郎蜘蛛にああ月光がのりうつる・・・・・・・・・・・・・・ 金原まさ子
 しらしらとぞるげの忘れ団扇かな・・・・・・・・・・・・・・・・ 外山一機
 和を以て地震津波の国である・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤みさ子
 梅雨開けてゼリーの静寂溶けにけり・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第五歌集『昭 和』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
一般書店からの取り寄せは、角川書店の配本部門・角川グループパブリッシング発売、と指定されたい。
ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

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 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


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 日本国憲法九条
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サルビアを咲かせ老後の無計画・・・・・・・・・・・・・菖蒲あや
aaoosarubiサルビア大判

──夏秋の花三題──サルビア・アスター・アベリア──

    ■サルビアを咲かせ老後の無計画・・・・・・・・・・・・・・・菖蒲あや

今日は夏から秋への花三題を採り上げることにする。
はじめは写真①のサルビアである。
サルビアというと、もう6月には咲き始めるので俳句では「夏」の季語になっているが、観賞用のものは、秋がもっとも美しいと言って「秋」に分類する歳時記もあるので、ややこしい。
語源はラテン語のサウルス(安全、健康)からという。西洋では葉に香気があるところから家庭薬や料理用の香味料として用いられた。
しかし、この鮮やかな朱色は「夏」の季節のものであろう。
俳句を少し引く。

 一涼のサルビア翳を深くせり・・・・・・・・角川照子

 サルビアの百日働くを疑はず・・・・・・・・山田みづえ

 サルビアや如何なる死をも遁れたし・・・・・・・・殿村莵糸

0917_2_6045アスター

写真②はアスターである。
学名のアスターはラテン語で「星」という意味だが、花の形から来ているのだろう。
もともとヨーロッパ産のアスターがあったが、北アメリカ原産のアスターを1637年に初めてヴァージニアから持ち込んだのはジョン・トラデスカント・ジュニアだったが、ヨーロッパ産のものと交配させるまで、注目はされなかった。英国では、その後、ミカエルマス・デージーと呼ばれるようになった。それはグレゴリオ暦を導入したとき、聖ミカエル祭(9月29日)とアスターの咲く時期がちょうど一致したからだという。
その後、中国原産のアスター(エゾギク)が導入され、さまざまに品種改良されて今日に至っているので、咲く時期も花の品種もさまざまである。
この花は、まだ歳時記には採用されていない。

aaooaveria1アベリア大判

写真③はアベリアである。
この花も暑くなりはじめると咲きはじめ10月一杯咲きつづける。
私の方の道路に面した垣に植えてある。道路の街路樹としても最近よく目にする低木で排気ガスなどの公害にも強い木である。
ピンク色の花もあるが、白い花が清楚である。
アベリアの名は医師で植物学者のクラーク・エーベル博士に因んでいる。1817年中国に赴いたアマースト卿の使節団の一員だったが、彼が持ち帰ったアベリア・シネンシス(タイワンツクバネウツギ)がイギリス本土にもたらされたのだった。
この花も、まだ歳時記には収録されていない。

これから下は②で採り上げたアスターの新品種のバラエティである。

img1040929831クジャクアスター

写真④はクジャクアスターという品種の花である。
何とも上品な藤色の花で高尚な感じがする。
アスターのところで参照したのは先日に採り上げたダイアナ・ウエルズの本によるが、ヨーロッパ産のアスターと北アメリカ産のアスターと中国由来のチャイニーズ・アスター(エゾギク)という三者のさまざまな交配によって、現在のアスター属の豊富な品種揃えが見られるのである。

20050405アスターシエナ

写真⑤はアスター・シエナという「サカタのタネ」が開発したアスターの新品種で耐病性のあるものである。
夏の切花として色もさまざまのものが改良された。
この花は、お盆の供花として私の知人の花卉栽培家のM氏からいただいたものの写真である。
先に紹介したダイアナ・ウエルズ『花の名物語100』の本にもアスターは載っているが、新品種の改良は日進月歩であり、本の記載を上回るペースで進んでゆくのである。
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今回の記事は文芸作品としては貧弱だが、写真としては、せめて花の美しさだけでも観賞してもらいたい。



きりぎりす腸の底より真青なる・・・・・・・・・・・・・・・・高橋淡路女
img012きりぎりす

  きりぎりす腸(わた)の底より真青なる・・・・・・・・・・・・・・高橋淡路女

キリギリス科の虫で体長は3.5センチほど。翅は腹部を包むようにたたむ。緑色で褐色の斑がある。
チョン、ギースを繰り返して鳴く。ギースチョンとも聞きなす。秋の半ばまで昼に鳴く。
翅脈は鋸の歯のようになっていて、こすりあわせて鳴く。
掲出の句は、キリギリスの様子を、巧みに捉えている。
平安時代から江戸時代まで「コオロギ」のことを「キリギリス」と呼んでいた、らしい。
つまり古今集時代から江戸時代まで、コオロギのことを「きりぎりす」と呼んでいたと言い、混同しやすいので留意したい。
芭蕉の句の「むざんやな甲の下のきりぎりす」というのも、もちろん「コオロギ」のことである。

以下、キリギリスを詠んだ句を引く。

 スカートを敷寝の娘きりぎりす・・・・・・・・滝井孝作

 一湾の潮しづもるきりぎりす・・・・・・・・山口誓子

 きりぎりす時を刻みて限りなし・・・・・・・・中村草田男

 泥濘におどろが影やきりぎりす・・・・・・・・芝不器男

 わが胸の骨息づくやきりぎりす・・・・・・・・石田波郷

 曲らむと鉄路かがやききりぎりす・・・・・・・・軽部烏頭子

 崖下に道なし崖のきりぎりす・・・・・・・・山口波津女

 きりぎりす生き身に欲しきこと填まる・・・・・・・・野沢節子

 山の鉱泉に父の晩年きりぎりす・・・・・・・・高島茂

 夜の底に泣く貌もてりきりぎりす・・・・・・・・辛島睦子

 きりぎりす生あるかぎり紅をさす・・・・・・・・久米富美子

 きりぎりす胸に組まれる死者の指・・・・・・・・大井雅人

 きりぎりすチョンを忘るるときもあり・・・・・・・・岡本無漏子
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引用した一番はじめの句の「敷寝」の意味が判る人も少なくなっただろう。
女子学生が制服のスカートのヒダを、夜、蒲団の下にキチンと整えて寝ている間にヒダをきれいに圧し直すことをいう。
今ではベッドで寝る人が殆どであり、こういう光景には、お目にかかれないと思われる。
因みに、この作者の滝井孝作は小説家として有名な人。


故郷の電車今も西日に頭振る・・・・・・・・・・・・・・・・平畑静塔
jpeg-meiki-tc-03和歌山市電

     故郷の電車今も西日に頭振る・・・・・・・・・・・・・・・・平畑静塔

「西日」というのは一年中あるものだが、俳句の季語としては「夏」のものである。カッと照りつける西日が耐え難いものだからであろう。
それが「大西日」となると「秋」の季語となるから留意されたい。
平畑静塔は明治38年和歌山市生れの人。この句には「望郷」と前書きがある。
和歌山の市内電車の写真をkaresansui氏が検索して下さったので載せる。カラー写真のものは画像が出なかった。
Hankai_Sumiyoshi_20040429_163_0251阪堺電車①

二番目の写真は阪堺電車のもの。大阪や関西の人なら判るが他所の人のために少し説明する。
大阪市の南部の天王寺・阿倍野から堺の浜寺公園まで昔ながらの路面電車が今も走っている。阪堺電車という。
スピードはのろく、車体も寄せ集めで、いろいろあるらしい。
平畑の句の情景は、こんなところだろう。
路面電車は、さほど、なめらかな運転とは言えず、頭と尾っぽを振ってゴトゴト走っていた。この電車の行き先は「浜寺駅前」と読み取れる。
KyotoShiden_HigashiyamaNanajyo_19780930_1920京都市電サヨナラ

三番目の写真は京都市電の「サヨナラ」号の写真である。撮影場所は東山七条。近くの寺院の階段に多くの人が一杯坐って、名残を惜しんでいる。
私はこの路線を京都駅前から大学へ通っていた。ちょうど東山七条には、今の京都女子大があって女学生がたくさん乗り降りした。
写真の左手には国立博物館が、今もある。
七条通は加茂川を越えると上り坂になり、写真の電車はその上りで京都駅から来て高野方面へ向かうもの。
⑥という数字のプレートが見えるが、路線の番号で、⑥路線は高野から西向して烏丸車庫から烏丸通を南下して京都駅に至る。
私には懐かしい番号プレートである。
Randen_Narutaki_20040403_2001+2002_0168京福電車

四番目の写真は京都市から郊外へ走る京福電車の北野線。丁度サクラの満開の中を「鳴滝─高雄口」の辺り。
この電車は最近の製造のもので2001型と書かれている。
京福電鉄とは、当初は福井と京都を結ぶ鉄道として計画されたが、結局は福井市近郊の路線と京都市内の北野線、嵐山線、比叡山鞍馬線として営業している。
京都では嵐電、叡電と呼んできたが、今では叡電は京阪電車系列に入って車両も新しくなった。
この岩倉、鞍馬山、比叡山へは観光の人はもちろん、沿線の宅地化によって人の乗り降りも増え、精華大学のキャンパスも出来たりして賑やかになった。
自動車の台数の多さや大気汚染の関係から諸外国では、この路面電車が見直され、「トラム」という名前で、
車体も低床式で老人や障害者にも優しく、形もスマートなものが出てきた。

frankfurtOp001トラム
五番目の写真はドイツのフランクフルトのトラムだが、この形は、まだ古いものに属する。
日本でもヨーロッパ製のデザインも素晴らしい車体を輸入してトラムを復活させる計画もあるらしい。
アメリカのダラスなどでも、一部の路線にトラムが走っている。

終わりになったが、平畑静塔の句は『月下の俘虜』(昭和30年刊)に載るもの。
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歳時記から「西日」の句を引いて終りにする。

 銀座西日頸たてて軍鶏はしるなり・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 西日中電車のどこか摑みて居り・・・・・・・・・・・・石田波郷

 逃げても軍鶏に西日がべたべたと・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 西日照りいのち無惨にありにけり・・・・・・・・・・・石橋秀野

 石垣に花嫁の影西日の鶏・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 交差路の影なき西日別れ易し・・・・・・・・・・・・野沢節子

 おくれ来し吾に西日の席ありぬ・・・・・・・・・・・・内野たくま

 つかみたる掌に何もなし西日中・・・・・・・・・・・・日下三風

 ここまでは西日届かず懺悔台・・・・・・・・・・・・福永耕二


鰯雲人に告ぐべきことならず・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
083鰯雲

    鰯雲人に告ぐべきことならず・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

夏の雲は山際にもくもくと立ち上がる「積乱雲」が特徴であるが、秋に入ってくると、写真のように、小さい雲片が小石のように並び集る「巻積雲」いわゆる「鰯雲」が季節の雲となる。
写真のように、規則的にさざ波のように並んでいることもあるが、はなればなれになっていることもある。
高空に出て、鰯が群れるように見えるので鰯雲、鱗のように見えるので鱗雲、鯖の斑紋のように見えるので鯖雲などと呼ぶ。
『栞草』には「秋天、鰯まづ寄らんとする時、一片の白雲あり。その雲、段々として、波のごとし。これを鰯雲といふ」と書かれていて、
鰯雲の特徴を見事に捉えている。
名前に味があり、俳句に愛用される季題のようである。

掲出の楸邨の句は、鰯雲という自然現象の中に「人に告ぐべきことならず」という私的な人事を詠みこんで、見事な主観俳句の秀句とした。
以下、歳時記から鰯雲の句を引く。

 鰯雲日和いよいよ定まりぬ・・・・・・・・高浜虚子

 いわし雲大いなる瀬をさかのぼる・・・・・・・・飯田蛇笏

 松島の上にひろごり鰯雲・・・・・・・・田村木国

 鰯雲昼のままなる月夜かな・・・・・・・・鈴木花蓑

 鰯雲こころの波の末消えて・・・・・・・・水原秋桜子

 鰯雲個々一切事地上にあり・・・・・・・・中村草田男

 妻がゐて子がゐて孤独いわし雲・・・・・・・・安住敦

 鰯雲ひろがりひろがり創痛む・・・・・・・・石田波郷

 鰯雲予感おほむねあざむかず・・・・・・・・軽部烏頭子

 葬られてしまひしものに鰯雲・・・・・・・・中川宋淵

 鰯雲動くよ塔を見てあれば・・・・・・・・山口波津女

 いわし雲城の石垣猫下り来・・・・・・・・森澄雄

 豆腐二丁はなれて沈みいわし雲・・・・・・・・酒井鱒吉

 鰯雲子は消しゴムで母を消す・・・・・・・・平井照敏


告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて山城古地図の甦る秋・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
dragonfly01アカトンボ本命

  告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて
    山城古地図の甦る秋・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、自選50首にも入れてあるのでWeb上でもご覧いただける。
この歌は歌会で「告ぐることあるごとく」という比喩と「山城古地図」の甦りとが巧みに照応して見事だと褒められて高点を得た思い出ふかい歌である。
とんぼは晩春から晩秋まで見られる虫だが、むかしから秋の季語とされている。
肉食で、昆虫を捕えて食べる。種類は日本で120、30種類棲息するが、均翅亞目の「かわとんぼ」「いととんぼ」は夏の季語となる。
これらは止まるとき翅を背中でたたむ。
不均翅亞目は止まるときも翅を平らにひろげ、後翅が前翅より広い。とんぼの多くは、こちらに属する。
図鑑の説明を読むと、なるほど、そうか、と納得する。
これから「赤とんぼ」の飛ぶ季節だが、古来、この赤とんぼ、あるいは「秋あかね」と呼ぶとんぼが、色も赤いく目立って多いので、秋の季語となったのではないか。
写真②は大型の「やんま」の種類である。
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掲出した歌の載る一連を引いておく。

 牧神の午後(抄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて山城古地図の甦る秋

黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む

妻の剥く梨の丸さを眩しめばけふの夕べの素肌ゆゆしき

サドを隠れ読みし罌粟(けし)畑均(なら)されて秋陽かがやく墓地となりたり

花野ゆく小径の果ての茶畑は墓を抱きをり古地図の里は

秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は空の青さの点となりゆく

秋蝿はぬくき光に陽を舐めて自(し)が死のかげを知らぬがにゐる

牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさに見つ

おしろいばな狭庭に群れて咲き匂ふ妻の夕化粧いまだ終らず

一茎のサルビアの朱(あけ)もえてをり老後の計画など無きものを

つぎつぎに死ぬ人多く変らぬはあの山ばかり生駒嶺見ゆる

藍布一反かなかな山からとりに来る・・・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子
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  藍布一反かなかな山からとりに来る・・・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

「ひぐらし」はカナカナカナと乾いた声で鳴く。だから、「かなかな」とも呼ぶ。夜明けと夕方に深い森で鳴く。
市街地や里山では聞かない。
この声を聞くと、いかにも秋らしい感じがするが、山間部に入ると7月から鳴いている。海抜の高度や気温に左右されることが多いようだ。

掲出した写真は、ひぐらしの雄である。
「蜩」ひぐらしは、その鳴き声が夏から秋への季節の移り変わりを象徴するようで、何となく寂しそうで、古来、日本人には愛されてきた。
『万葉集』巻十・夏雑に

  もだもあらむ時も鳴かなむひぐらしのものもふ時に鳴きつつもとな

同・秋雑に

  暮(ゆふ)影に来鳴くひぐらしここだくも日毎に聞けど飽かぬ声かも

『古今集』秋・上に

  ひぐらしの鳴く山里の夕暮は風よりほかに訪ふ人もなし

という歌があり、ひぐらしの特徴を巧く捉えている。『和漢三才図会』には「晩景に至りて鳴く声、寂寥たり」とあるのも的確な表現である。
掲出の飯島晴子の句は、並みの発想とちがって「藍布一反」を、かなかなが「山からとりに来る」と詠んで、前衛句らしい秀句である。

ひぐらしを詠った俳句も多いので、以下に引いて終りにする。

 蜩や机を圧す椎の影・・・・・・・・正岡子規

 面白う聞けば蜩夕日かな・・・・・・・・河東碧梧桐

 ひぐらしに灯火はやき一と間かな・・・・・・・・久保田万太郎

 かなかなの鳴きうつりけり夜明雲・・・・・・・・飯田蛇笏

 ひぐらしや熊野へしづむ山幾重・・・・・・・・水原秋桜子

 蜩やどの道も町へ下りてゐる・・・・・・・・臼田亞浪

 会へば兄弟(はらから)ひぐらしの声林立す・・・・・・・・中村草田男

 蜩や雲のとざせる伊達郡・・・・・・・・加藤楸邨

 ひぐらしや人びと帰る家もてり・・・・・・・・片山桃史

 川明りかなかなの声水に入る・・・・・・・・井本農一

 蜩や佐渡にあつまる雲熟るる・・・・・・・・沢木欣一

 蜩の与謝蕪村の匂ひかな・・・・・・・・平井照敏

 しろがねの蜩の翅 京ことば・・・・・・・・鈴木石夫

 ひぐらしに肩のあたりのさみしき日・・・・・・・・草間時彦

幻燈はいま西遊記地蔵盆・・・・・・・・・・・・・大堀たかを
109地蔵盆

  幻燈はいま西遊記地蔵盆・・・・・・・・・・・・・大堀たかを

8月24日は地蔵菩薩の縁日、この日の祭りが地蔵盆である。
お盆の行事と結合したので地蔵盆という。
毎月24日はお地蔵さまの縁日なのだが、上に書いたようにお盆の行事と一緒になって、この日に開かれるようになった。
地蔵菩薩は末法の世の末に46億7000万年かの先に衆生を救いに来ると言われている。
特に子供の守り本尊で、写真②のような路傍の地蔵堂のお地蔵さまに、子や孫の順調な生育を願って、涎掛けや頭巾を手縫いしてお地蔵さまに着せる、
ということがされる。
扉の前に垂れる鈴鳴らしの紐には願をかける子や孫の名前と年齢を書き込むのが普通である。
4-13-3地蔵祠
お地蔵さまはお寺の境内に祠として祀られているものもあるが、多くは町や村の路傍──辻や三叉路などに建っているのが多い。
この地蔵盆という行事は関西、特に京都で派手に催される。
京都市内では8月22日頃から3日間、町内の大人たちが総出で接待をする。主役は子供である。
この日には路傍にあるお地蔵さんも祠から出して、町内の集会所あるいは当番の役員宅などに場所を設営して、
提灯を飾り、縁日のように金魚すくいなどをする。
しかし、基本は宗教的な行事なので「数珠繰り」などを子供たちにさせるなどする。
はじめには町内の僧侶が読経をすることになっている。

ji06地蔵盆
写真③では、ちょうど僧が拝んでいる後姿が見える。地域によって祭りの様子は様々である。
私の住む地域では町内役員がやっていたが、今では子供会に任せて、収入も一切、子供会のものとして自主財源として使えるように変えた。
私の所は田舎であり、京都市内のような大掛かりなことは昔から、しない。開催日も子供会の親の集りやすい、前後の日曜や土曜日にすることが多い。
ji01地蔵盆②

地蔵盆は子供のお祭とはいっても、やはりお地蔵さんを祀る宗教行事の一環であるから、写真④のように「数珠繰り」などもさせる。
数珠繰りとは108玉の大きな数珠を「南無阿弥陀仏」とお経を唱えながら手でたぐって廻すものである。
写真の中に祭壇に向かって読経する僧の姿が写っている。こういう行事の次第は地域によって違う。
この地蔵盆の費用は、どうするのか、ということだが、町内の各家から「お賽銭」または「お供え」のかたちで何千円かのお金を包んでお供えする。これは町内の戸数によって違うから総額には大きな開きがあるだろう。
因みに、田舎だが私の町内(自治会)は現在120戸くらい、私たちの小さい頃は60戸くらいだった。
もちろん地域や大きさによって、まちまちであることは言うまでもない。

掲出の大堀たかをの句の「幻燈」というのは、子供に西遊記の幻燈を見せている場面である。

ji08地蔵盆③
写真⑤は子供の余興で「金魚すくい」をさせているところ。
こういうのは専門の露天商を呼んで来て、費用は町内会もちで、子供たちには無料でさせる。
上に書いた「幻燈」などは、教養的要素のものと言える。
暑い夏の盛りであるから、かき氷の機械を据えて「かき氷」を振舞うこともあるようだ。
今は少子化の時代であり、小学校も統合、廃校になる時代であるから、こういう地蔵盆の在り方も少しづつ変わってゆくだろう。
今では郊外に新興住宅地も増え、そういう地域では「お地蔵さん」のないところが多いので、そういう地域対象にお地蔵さんの「貸し出し」をするお寺があるそうで、
この時期になると新聞、テレビの絶好のニュースとなる。

大変な数のお地蔵さんを大小取り揃えてあるそうで、好みの大きさのお地蔵さんを借りてゆくそうだ。
時代は変わっても、こういう伝統的な行事とは縁が切れないのが、人間社会の辛いところである。
首都圏の人には、こういう風習もないから理解が及ばないことが多かろう。

以下、地蔵盆を詠んだ句を少し引いて終りにする。先に言ったように地域性のある行事なので有名俳人の句は、余り、ない。

 地蔵会や芒の中に灯のともる・・・・・・・・長谷川零余子

 地蔵会や高くひびくは母の鉦・・・・・・・・中村若沙

 さまよへるちさき蛍や地蔵盆・・・・・・・・五十崎古郷

 地蔵盆とみに露けくなりにけり・・・・・・・・河原白朝

 涎掛け取替え在す地蔵盆・・・・・・・・松井蕪平

 両の手の吾が子よその子地蔵盆・・・・・・・・宮城きよなみ

 六波羅はいま陋巷の地蔵盆・・・・・・・・西尾砂穂


斉藤なつみ詩集『返事』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
斉藤なつみ

──新・読書ノート──

       斉藤なつみ詩集『返事』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                       ・・・・・・本多企画2013/08/20刊・・・・・・・

未知の人から詩集が贈られてきた。
この詩集は彼女の第二詩集にあたるらしい。
1950年 富山県生まれという。現在、岐阜県可児市在住。
本が出たばかりで、ネット上でも、まだ批評や紹介の記事は出ていない。

ネット上で検索していると、→ ruri/blogという前詩集『私のいた場所』(砂子屋書房2008年刊)についての記事が見つかった。 ↓
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2008年12月07日

斉藤なつみ詩集「私のいた場所」から

最近出会った好きな詩集です。
それは斉藤なつみさんの「私のいた場所」という詩集です。そこから2篇を載せさせていただきます。


            馬               斉藤なつみ

       土壁造りの馬小屋の
       四角くくりぬいた窓から
       馬は いつも顔を出していた

       窓の奥は暗く
       そこから深い闇が始まるようで
       うっそうと木々の繁る道からは
       何も見えなかった

       焚き付けの杉葉を拾いに
       父と山へ歩いていった日にも
       馬は窓から顔を出していた

       その家で主の葬儀のあった日にも
       馬は顔を出していた
       顔を出して
       弔いに集まった人びとの頭上遠くの
       空を眺めやっていた

       馬には顔しかないのだった
       田を耕し
       重い荷を負った体は
       馬小屋の闇にとけて
       きっと もうないのだった

       空にはいつも 
       碧い風が吹いていたから
       顔だけが
       忘れてしまった風景や
       まだ来ない風景に
       まなざしを
       遠く
       投げているのだった


            時          斉藤なつみ

       
       いつか 家路をたどるわたしの前にきれいな夕
       焼けの空が広がっていた
       けれども あれは本当に夕焼けだったのだろ
       うか
       赤々と林の向こうに沈んでいく夕日の色も
       刻々と闇にのまれていく林の木々も 本当は
       風のように吹きすぎていくだけの時間だった
       のではないか
       眩しい朱の色で 西の空に刷かれた時間
       もうここにはない


       ならば 遠いむかし 人と肩を並べて見上げ
       たトウカエデの木も 公園の片隅で枝をのば
       し 木漏れ日を揺らしていた時間だったに違
       いない
       貧しくみすぼらしい夢しか持たない私たちの
       頭上にも 果てしなく広がる空のあることを
       指し示し しずかに葉をそよがせていた
       けれども そのそよぎあう葉も 光も そし
       て 手にふれた幹の温かさも 過ぎていく時
       間のことだったのだ
       〈木〉と名付けられ 樹木のかたちをして
       私たちの一日に届けられた


       なつかしいふるさとの町の夜道を照らしてい
       た古い街路灯も 時間のことだったのだ
       スズランの白い花のかたちに 小さく灯をと
       もしていた 私にはそう見えた
       けれども 足元をやさしく照らしていたその
       あかりも 路上に映った母の影も 幼い私の
       影も 遠くへ過ぎていく時間のことだったの
       だ
       耳にのこる母の下駄の音さえも 辺りをつつ
       む夜気の匂いさえも


       いくつもの美しいかたちを私に現しながら
       遥かへと 流れ去っていった時間
       永劫再びめぐり逅うことも叶わない
       そして…
       過ぎた日の思い出を さびしくなぞっている
       この私もまた 過ぎて戻らない時間のことな
       のだろう


       つかのまの人のかたちに見えて 滔々と宇宙
       の闇に流れつづける時のなかへと 還ってい
       くだけの
     ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
存在とは何か?…時間や空間のかなたから、形にならないある本質的なイメージを、形象化して伝えてくれる…そんな詩法に触れて、存在のもつ深い時間そのものをかいま見ることができた…そんないい詩集でした。
「馬」という作品では(馬には顔しかないのだった…)ではじまる5連目がこの詩作品全体を照らす光のように啓示的でしたし、「時」という作品の比喩も思いがけない新鮮さで心を打ちました。斉藤さん、いい詩集を有難う!という気持ちで読ませていただきました。
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この記事には、下記のようなコメントが投稿されている。

コメント
<最初の作品は、馬の顔だけしか見えないことが、かえって、存在を濃く表していたと思います。その存在と時間とのつながりを、しみじみ考えさせたのが、次の作品「時」でした。必ず過ぎ去り、二度と戻らない時間の本質は、わたしたちには、過酷であり、また、救いでもあるのですが、さびしいことは確かです。最後の3行には、深く共鳴しました。>  投稿者 青リンゴ : 2008年12月15日
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今度の詩集『返事』も、前詩集と同じような趣の詩である。 二、三篇引いてみる。
先ず初めに、この詩集の題名に採られている詩。

        返事        斉藤なつみ

   もう一度 尋ねてください

   地面に落ちた白い柿の花を
   てのひらに集めながら
   ひなたぼつこをするように遊んでいた日

   俯いたまま
   幼いこころに吞みこんでしまったことば
   そのことばが
   どこへもいけず
   胸の底にのこっているから

   もう一度尋ねてください

   身を屈め 私に問いかけた人が誰であったのか
   問われたことが何であったのか
   虱がとうに消し去ってしまったけれど

   遠い日のひざしのなかに
   今も 幼い女の子がひとり
   返事を一つ 大切に胸に抱いて立っています

   仮初めの夢のような この現し世で
   果てもなく広がる草原の
   一本の草をかき分けるようにも
   小さな名まえを呼びかけて
   尋ねられたことには
   一つのこらず答えていきたいのです

   白い花の咲いている柿の木の傍です
   おかっぱ頭の小さな女の子です
   降りやまないひざしです

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        赤トンボ       斉藤なつみ

   にび色に
   寒々と流れていく川のほとりで
   おまえに出会った
   枯れ芒のあいだを低く縫うように飛んでいる
   小さな翅はボロボ口に破れていた

   大空に耀う光のように
   おまえを赤々と燦めかせた秋の陽は
   すでにここにはない
   とうにどこかへいってしまった

   川原を吹くかすかな風にも
   くずれていきそうなトンボのすがたを
   ようやく保ちながら
   芒の原に佇む私のまわりを行ったり来たり

   迷子のように惑い
   己れの行き先を問うているのか
   私にも知ることのできない
   誰も告げてやることのできない行き先を
   おまえは
   無量の<時>の流れのなかから
   汲み上げられ
   この広い空に放たれた一滴の寂寥
   そして
   遠い日に私のこころを通りぬけていった
   底知れない淋しさ

   そのおまえに 今
   川のほとりで再び出会ったのだと
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             あとがきにかえて

   夕暮れて
   家に帰る子らを待っていよう
   黒々と日の沈んだあとの丘に立つ
   一本の木のように

   日の暮れて帰りつくところは
   ここ と
   どんなときにも
   帰るところは
   ここ と

   秋の木枯らしのなかでも
   冬の凍りつく空にも
   せいいっばい高く
   枝をひろげて
   黒々と日の沈んだ丘に立つ
   一本の木のように

   母はいつでも
   待っていよう

   日の暮れて
   帰ってくる子らを待っていよう
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1950年生まれ、というから作者は、すでに六十代半ばになっているが、これらの詩の中の「母」が待っている、のは何だろうか。
「返事」の詩の中の「おかっぱ頭」の少女は、誰なのか、私には判らない。

この記事をご覧になった作者のコメントによると、この「母」も「少女」も、作者自身あるいは、すべての母のつもりだという。
この雰囲気は、斉藤なつみだけの詩世界として、ひっそりと屹立しているようである。
不完全ながら、鑑賞と紹介を終わりたい。 ご恵贈有難うございました。

(お断り)
詩の部分はスキャナで取り込んだので、どうしても多くの「文字化け」が生じる。子細に修正したが、まだあれば言って下さい。すぐに直します。よろしく。


六斎の念仏太鼓打ちてやむ・・・・・・・・・・・・・・・中田余瓶
bouzu壬生六斎踊②

  六斎の念仏太鼓打ちてやむ・・・・・・・・・・・・・・・中田余瓶

仏教では1カ月に6つの「斎日」というものがあり、それは8、14、15、23、29日と晦日の6日。
これらの日には斎戒謹慎し仏の功徳を修し、鬼神に回向して善心を発起すべきとされた。これが六斎日である。


この六斎念仏踊りという行事は関西それも京都に伝わるもののようであり、これを詠んだ句にも有名人のものはないようである。
京都には嵯峨野念仏保存会、壬生六斎念仏などが保存会を結成して保存につとめている。写真①②は壬生六斎念仏の踊りの一場面である。
kumo2壬生六斎踊①

■踊り念仏とは
飢饉や疫病に苦しむ人々を救うこと、念仏を分り易く民衆に伝えることを目的に採用された宗教的手法のことである。

鎌倉期に一遍が開いたという時宗は、この流れに属するが、六斎念仏はそれより前に平安時代に空也が始めたものが源流である。
壬生六斎念仏では、空也上人が托鉢に用いる鉢を叩いて「南無阿弥陀仏」と唱えながら市中を練り歩いたという伝承に起源を求めている。
嵯峨野、壬生とも空也系だと称し、ほかにも流派があるらしい。
写真③④とも嵯峨野六斎念仏保存会に伝わる木札と無形文化財の指定書である。
fuda六歳念仏札
syojo六歳念仏指定書

■六斎念仏の由来
「六斎」という言葉の文献上の初出は『日本書紀』に持統天皇の5年(691年)2月に公卿らに詔して六斎を行なわしめたという記事がある。
念仏踊りは、いつしか六斎日と結びついて、六斎念仏と呼ばれるようになり、いつごろからか、お盆信仰と深く結びつけられるようになり、
今ではほとんどの六斎保存団体が、現在はすっかりお盆行事の一環という位置に定着してしまった。
六斎念仏踊りは8月16日の壬生六斎念仏をはじめとして、地蔵盆の頃に地蔵盆の行事とも結びついて催行されるのが多く、遅くは8月29日催行というのもある。
B035吉祥院六斎踊

写真⑤は吉祥院六斎念仏のもので8月25日午後8時吉祥院天満宮の境内で催行されるという。
桂六斎念仏(8月23日奉納)のHPは鳴り物入りで写真も多く詳しいサイトだったのだが、今は「休会」となっているようで残念である。
ここも地蔵盆の一環という感じであり、神社の境内で催行というのも神仏習合で面白かったのだが。。。。

先に書いたが、六斎念仏は京都を中心とする地域性が強く、詠まれた句も多くはないが、以下に書き抜いておきたい。

 清水の舞台灯すや六斎会・・・・・・・・水茎春雨

 六斎の太鼓打つ子に父の笛・・・・・・・・岸本久栄

 六斎や身を逆しまに打つ太鼓・・・・・・・・高崎雨城

 六斎や久世も桂も盆休み・・・・・・・・中嶋黒洲

 息合ひて六斎太鼓乱れ打ち・・・・・・・・つじ加代子

 六斎は太鼓を抛りあげにけり・・・・・・・・田中告天子


島山や鳴きつくさんと法師蝉・・・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎
tukutukuつくつくぼうし

     島山や鳴きつくさんと法師蝉・・・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎

私の歌にも、こんなのがある。
  
   法師蝉去(い)んぬる夏を啼きゆくははかなきいのちこそ一途(いちづ)なれ・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。

法師蝉というのはつくつくぼうしのことである。
こういう虫の声や蝉の鳴き声、鳥の鳴き声などは「聞きなし」と言って、鳴き声から名前がついたりする。
つくつくぼうしも「おーし、つくつく」とも聞きなしされる。夏の終り頃から鳴きはじめる。
いよいよ夏も去るのか、という感慨の起る鳴き声である。

「つくつくぼうし」は立秋の頃から晩秋まで聞かれる秋の蝉の代表である。小型で羽は透明、体は緑かかった黒。
先にも書いたが鳴き声に特徴があり『和漢三才図会』には
「按ずるに、鳴く声、久豆久豆法師といふがごとし。ゆゑにこれに名づく。関東には多くありて、畿内にはまれなり」とある。また「秋月鳴くものなり」という。
鳴き声の面白さと、秋鳴く点に、かえって或るさびしさが感じられ、それが法師蝉の名にもこめられているようである。

歳時記にも多くの句が載っているので、それを紹介して終りたい。

 高曇り蒸してつくつく法師かな・・・・・・・・滝井孝作

 法師蝉煮炊といふも二人きり・・・・・・・・富安風生

 また微熱つくつく法師もう黙れ・・・・・・・・川端茅舎

 法師蝉しみじみ耳のうしろかな・・・・・・・・川端茅舎

 飯しろく妻は祷るや法師蝉・・・・・・・・石田波郷

 繰言のつくつく法師殺しに出る・・・・・・・・三橋鷹女

 つくつくし尽きざる不思議ある山に・・・・・・・・中川宋淵

 我狂気つくつく法師責めに来る・・・・・・・・角川源義

 山へ杉谷谷へ杉坂法師蝉・・・・・・・・森澄雄

 法師蝉あわただし鵙けたたまし・・・・・・・・相生垣瓜人

 島山や鳴きつくさんと法師蝉・・・・・・・・清崎敏郎

 法師蝉むかしがたりは遠目して・・・・・・・・高野寒甫

 法師蝉雨に明るさもどりけり・・・・・・・・冨山俊雄

 くらがりに立つ仏体に法師蝉・・・・・・・・三島晩蝉

 黒潮とどろく岩にひた鳴く法師蝉・・・・・・・・高島茂

 法師蝉なきやみ猫のあくびかな・・・・・・・・高島征夫


浴して我が身となりぬ盆の月・・・・・・・・・・・・・・・・小林一茶
moon3満月

  浴(ゆあみ)して我が身となりぬ盆の月・・・・・・・・・・・・・・・小林一茶

今日は陰暦の7月15日、名月の丁度1ト月前の満月である。これを「盆の月」とお盆の行事に因んで、こう呼ぶ。
まだ暑さ盛りであり、盂蘭盆の灯明も消えたばかりの時期で、独特の雰囲気の月である。
関西では、もうすぐ「地蔵盆」の行事が始まる。
今朝、いつもの早朝の散歩に4時50分ごろに出たら、西の空に、山の端ちかくに、うすい靄がかかっていたので、うすら赤い大きな満月がかかっていた。
これこそ「盆の月」なのであった。

掲出の一茶の句は、盂蘭盆でさまざまな祖霊供養の行事に明け暮れた一日を終り、湯浴みして、ようやく、うつしみの我が身に帰った、という哀感のともなう佳い句である。
以下、「盆の月」の句を引いておく。

 山里の盆の月夜の明るさよ・・・・・・・・高浜虚子

 うす雲のただなかにして盆の月・・・・・・・・長谷川かな女

 盆の月真夜中いつかくもりけり・・・・・・・・中村伸郎

 盆の月ひかりを雲にわかちけり・・・・・・・・久保田万太郎

 盆の月拝みて老妓座につきし・・・・・・・・高野素十

 むささびのとびし吉野の盆の月・・・・・・・・高野素十

 胡桃の葉透かし明るし盆の月・・・・・・・・山口青邨

 盆の月虧けゆき母の忌も過ぎぬ・・・・・・・・五十嵐播水

 盆の月遥けきことは子にも言はず・・・・・・・・松村蒼石

 生れたるのみのふるさと盆の月・・・・・・・・大橋敦子

 生くる二人に鬼灯ほどの盆の月・・・・・・・・村越化石

 盆の月父亡く母に遠く住む・・・・・・・・筒本れい子

 金泥を海に流せり盆の月・・・・・・・・沢木欣一

 膝頭老いゆく盆の月明り・・・・・・・・戸川稲村



月見草夕月より濃くひらく・・・・・・・・・・・・・・安住敦
matsuyoigusaaオオマツヨイグサ

    月見草夕月より濃くひらく・・・・・・・・・・・・・・安住敦

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)にも

    月見草ほのかなる黄に揺れをればけふの情(こころ)のよすがとやせむ・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。

「月見草」というのは俗称で、月見草というのは別の花である。正しくは「待宵草」という。
南米チリの原産で、わが国には1851年に渡来したという。繁殖力旺盛で、今では海辺や河原、鉄道沿線、河川の堤防などに広く分布する。

太宰治が

<富士には月見草が、よく似合う>

と言ったのも、この待宵草のことである。

いずれにしても、黄色の、よく目立つ花で、私がいつも散歩する木津川の堤防にもたくさん咲いている。
何となく女の人と待ち合わせるような雰囲気を持つ花で、ロマンチックな感じがするのである。

以下に歳時記から句を引くが、みな「待宵草」を詠んだものだという。

 乳色の空気の中の月見草・・・・・・・・高浜虚子

 月あらぬ空の澄みやう月見草・・・・・・・・臼田亞浪

 月見草蛾の口づけて開くなり・・・・・・・・松本たかし

 項(うなじ)一つ目よりもかなし月見草・・・・・・・・中村草田男

 月見草ランプのごとし夜明け前・・・・・・・・川端茅舎

 開くより大蛾の来たる月見草・・・・・・・・高橋淡路女

 月見草はらりと地球うらがへる・・・・・・・・三橋鷹女

 月見草咲き満ち潮騒高くなりぬ・・・・・・・・道部臥牛

 月見草河童のにほひして咲けり・・・・・・・・湯浅乙瓶

 月見草夜気ともなひて少女佇つ・・・・・・・・松本青石

 月見草歩み入るべく波やさし・・・・・・・・渡辺千枝子

 月見草怒涛憂しとも親しとも・・・・・・・・広崎喜子

 月見草ぽあんと開き何か失す・・・・・・・・文挟夫佐恵

 月見草馬も沖見ておとなしく・・・・・・・・橋本風車


星に死のあると知る時、まして人に快楽ののちの死、無花果熟す・・・・・・・・・木村草弥
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  星に死のあると知る時、まして人に
   快楽(けらく)ののちの死、無花果熟す・・・・・・・・・木村草弥


無花果(いちじく)はアラビア原産で、江戸時代に日本に入ってきたという。
私の住む辺りでも、田圃に畔(くろ)を作って土を盛り上げ、無花果を作っている。無花果と書くが、花がないわけではなく、これは中国名のインジェクフォが訛って、こうなったという。
イチジクの木は放置すると3メートルから6メートルにも達する落葉喬木であるが、
日本では栽培する木は収穫し易いように1メートルくらいの高さで枝を横に整枝する。
実は新しい枝に生るので、冬には徹底して旧徒長枝を切り詰める。

fig11いちじく木②

写真②のように多くの実が生るが、生育のよいものを残して摘果する。八月下旬頃から実が熟しはじめ10月頃まで生る。軟弱果実であり、痛み易い。
アラビア原産ということだが、アダムとイブが蛇にそそのかされて「禁断の木の実」を食べたというのが、このイチジクである。
事実、中東ではイチジクが多い。向うも暑い土地なので、生食というよりも「乾燥いちじく」として多くが売られている。

itijikuzaruドライいちじく

写真③が乾燥させたイチジクである。ギリシア、トルコ、イスラエルなどに行くと、いたるところで売られている。
フニャフニャに柔かくはなく、噛み応えのあるドライフルーツである。日本にもドライいちじくの形で輸入されている。
品質にはピンからキリまであり、一流の取り扱い店のものは、おいしい。私も向うへ行ったときは何度も買って帰った。
なお、中東産のドライいちじくは皮の色が白い品種で、日本でみられる皮の黒いものとは品種が違うので念のため。

掲出の歌は、私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、Web上でもご覧いただける。

d020701aいちじく

写真④が箱詰めされて商品として出荷される生イチジクである。生食としては1、2日しか日持ちしない。
熟しすぎたものはいちじくジャムとして食べても、おいしいものである。

以下、歳時記から無花果の句を引いて終りにする。

 無花果の古江を舟のすべり来し・・・・・・・・高浜虚子

 乳牛に無花果熟るる日南かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 いちじくのけふの実二つたべにけり・・・・・・・・日野草城

 無花果のゆたかに実る水の上・・・・・・・・山口誓子

 天地(あめつち)に無花果ほどの賑はひあり・・・・・・・・永田耕衣

 雑念満ちゐたりいちじくを開き食ふ・・・・・・・・桂信子

 蜂が吸ふいちじく人は瞬時も老ゆ・・・・・・・・細見綾子

 無花果や目の端に母老いたまふ・・・・・・・・加藤楸邨

 無花果や永久に貧しき使徒の裔・・・・・・・・景山旬吉

 無花果にパンツ一つの明るさ立つ・・・・・・・・平畑静塔

 無花果食べ妻は母親ざかりなり・・・・・・・・堀内薫

 日本海黒無花果に無言なり・・・・・・・・黒田桜の園


挑みゐし青蟷螂の眼なりけり・・・・・・・・・・・・・・・石塚友二
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  挑みゐし青蟷螂の眼なりけり・・・・・・・・・・・・・・・石塚友二

「かまきり」蟷螂(トウロウとも音読みで発音する)は、頭は逆三角形、眼は複眼で上辺にあり、下辺の頂点が口である。
前胸に前翅後翅があり、後翅で飛ぶことが出来る。前脚が鎌のようになっていて、獲物を鋏み込んで捕らえる。
動くものには飛びつく性質があり、自分より大きなものにも飛びかかる。
「蟷螂の斧を振るう」という古来の表現そっくりの習性である。
掲出の石塚友二の句は、そういうカマキリの生態の特徴を巧みに表現している。この句の場合は蟷螂=「とうろう」と訓(よ)む。
010909m02かまきりイラガ食べる

写真②はカマキリが「イラガ」の幼虫を捕まえて食べようとしているところ。
菜園などをやっているとよく分るが、カマキリは害虫をもりもり食べてくれる益虫である。
写真の「イラガ」は毒を持っており、それに刺されると痛くて皮膚が腫れあがるが、カマキリには、そんな毒も役に立たない。
もりもりと片端から食べつくしてしまう。雄と雌が交尾する時も、交尾の最中でも雄の頭や胸を食べながらやることがある。
交尾が終ると雄は体全部が食べられてしまう。
img021かまきり雌

写真③は交尾が済んで腹に卵をたくさん抱えた雌である。産卵は秋が深まってからであるが、それまで、もりもりと虫を捕らえて食べる。
雄は、もう雌に食べられて居ないが、雌の命も一年かぎりである。木の枝などに、泡のような卵胞の中に卵をきちんと、たくさん産む。
そのまま冬を越して、初夏に小さなカマキリの子供が、わっと集団で孵化する。
いかにカマキリといえども、幼いうちは他の鳥などについばまれて食べられ、生き残ったものが八方に散って虫を捕らえて大きくなるのである。
幼い小さなカマキリは、いとおしいような健気な姿である。
写真④のカマキリは、まだそんなに大きくない頃のものである。
b332ec94786d68072a29e1505c142c4dかまきり

以下、蟷螂を詠んだ句をあげておきたい。

 風の日の蟷螂肩に来てとまる・・・・・・・・篠原温亭

 かりかりと蟷螂蜂の を食む・・・・・・・・山口誓子

 蟷螂のとびかへりたる月の中・・・・・・・・加藤楸邨

 かまきりの畳みきれざる翅吹かる・・・・・・・・加藤楸邨

 蟷螂は馬車に逃げられし御者のさま・・・・・・・・中村草田男

 胸重くあがらず蟷螂にも劣る・・・・・・・・大野林火

 突張つてゐる蟷螂を応援す・・・・・・・・片桐てい女

 蟷螂の腹をひきずり荷のごとし・・・・・・・・栗生純夫

 蟷螂の枯れゆく脚をねぶりをり・・・・・・・・角川源義

 蟷螂の祷れるを見て父となる・・・・・・・・有馬朗人

 いぼむしり狐のごとくふりむける・・・・・・・・唐笠何蝶

 蟷螂の天地転倒して逝けり・・・・・・・・古館曹人

 秋風や蟷螂の屍骸(むくろ)起き上る・・・・・・・・内藤吐天



フォントネーのシトー会修道院・・・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Abbaye_de_Fontenay-EgliseBatimentsフォントネー修道院
 ↑ フォントネー修道院
Fontenay20フォントネー中庭の回廊
 ↑ フォントネー修道院 中庭の回廊

──巡礼の旅──(17)

     フォントネーのシトー会修道院・・・・・・・・・・・木村草弥

フォントネー修道院はブルゴーニュ地方コート=ドール県モンバール市内にある修道院。
サン=ベルナール渓谷とフォントネー川の合流点にあたる森の中で静かにたたずむ最古のシトー会修道院で、外観・内装とも華美な装飾性を一切排している。

フォントネー修道院は1118年にクレルヴォーのベルナルドゥスによって設立され、1147年にローマ教皇エウゲニウス3世によって聖別された。
教皇アレクサンデル3世は、1170年の勅書において修道院の財産を確認し、修道士たちが選挙によって修道院長を選出することも許可した。
この頃に修道院では、近隣で採れる鉱物を用いた製鉄業や冶金業が発達した。

1259年にはフランス王ルイ9世があらゆる収税権を免除した。
1269年には修道院は王国修道院 (l'abbaye royale) となり、ジャン2世、シャルル8世、ルイ12世らも寄進を継続した。
こうした王家の保護にもかかわらず、ブルゴーニュ地方を荒らした数度の戦乱の折には略奪の憂き目にも遭った。
それでも16世紀までは伸長する諸勢力から恩恵を受けつつ発展した。
しかし、王家の利益となるように修道院長選挙の廃止が強制されたことで、修道院の凋落が始まった。
18世紀には、修道士たちは資金的な遣り繰りに窮し、食堂を取り壊さざるを得なかった。
そしてフランス革命中の1791年には、修道院は敷地ごとクロード・ユゴーに78000フランで売却され、以降100年ほどの間、製紙工場に転用されていた。
なお、1820年に所有権はモンゴルフィエ兄弟の一族であるエリー・ド・モンゴルフィエに移った。

1906年にはリヨンの銀行家で芸術愛好者だったエドゥアール・エイナールの手に渡った。
彼は1911年までかつての修道院の姿を取り戻させるべく修復工事を行い、製紙工場も解体した。
フォントネー修道院は現在でもエイナール家の私有物ではあるのだが、主要部分は観光客にも公開されている。

観光客に公開されている部分

Fontenay30フォントネー付属教会
 ↑ 修道院付属教会
これは1127年から1150年に十字形の設計に基づいて建築されたものである。
長さ66メートル、幅8メートルで、翼廊は19メートル。幅8メートルの身廊は両側に側廊を持っている。
拱廊(アーケード)はシトー会則をうっすらと刻んだレリーフの付いたランセオレ様式の柱頭を持つ柱に支えられている。
内陣は正方形で身廊よりも低い。中世には、正面入口はポーチに先行されていた。

800px-Fontenay_church_maryフォントネー聖母子像
 ↑ 内部では12世紀の聖母子像が目を惹く。
これはもともと隣接するトゥイヨン村の墓地で長く野ざらしになっていたものである。
聖母は左手で幼子イエスを抱え、イエスは右手を母の首に回し、左手で翼を拡げた鳩を胸に押し抱いている。

その他内部にはこのほかに特筆すべきものはない。
オリジナルのスタール(背の高い椅子)は湿気で劣化してしまったため、それへの対策として18世紀末には床から1メートル近く持ち上げなければならなかった。

Fontenay25フォントネー参事会内部
 ↑ 教会参事会室
付属教会を別とすれば、修道院生活の中で最も重要なものである。ここではベネディクトゥスの戒律の一章を朗誦したあとに共同体に関する決定がなされた。
この部屋は中庭回廊の東の通路に面している。もともとはオジーヴ穹窿をもつ3つの大きな梁間から形成されていたのだが、3つ目の梁間は1450年頃の火災で焼失した。
なお、20世紀初頭には参事会室と面会室 (parloir) を仕切っていた隔壁が取り壊された。

修道士部屋
回廊東側通路の参事会室からさらに南(付属教会から見て遠い方)に足をのばすと、修道士部屋 (Salle des moines) がある。
ここでは写本の作成などが行われていたと推測されている。この部屋の長さは30メートルで、6つの梁間を形成する12のオジーヴ穹窿で覆われている。

Fontenay34フォントネー寝室
 ↑ 修道士寝室
寝室は参事会室の2階にある。そこへ行くには20段ほどの階段を使う。ここは15世紀に火災に遭った後、現在の船体をひっくり返したような骨組みの部屋になった。
ベルナルドゥスの戒律は、個室を認めておらず、また、床に直にわら布団を敷いて寝る事を課した。

Fontenay11フォントネー鍛冶場
 ↑ 鍛冶場
敷地の南端に、オジーヴ穹窿に覆われた縦53メートル、横30.5メートルの建物がある。
これは12世紀に修道院が保有する丘陵から採取される鉱石を利用するために建てられた。
フォントネー川の流れを変えて、槌を動かすための水車を回すようになっていた。
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ここは深い森の泉のほとりにあるが、今も泉は絶えることなく溢れている。
森の中の清明な空気と、湧き出る新鮮な泉は彼ら修道士の生活と精神を養い、活力を維持するのに必要だった。
水の便は常に重要視されるが、水は飲み水と同時に、水流によって鍛冶工場の作業の動力として必要だった。

しかも「泉」は、その本義上、絶えず新たにされる信仰の比喩である。
「フォントネー」とは「泉」フォンテーヌに語源を持ち、「泉に泳ぐ人」という意味である。身体論的にも清らかさを感じさせる。

ただ単に見物するだけでなく、こういうことにも意を尽くして見学したいものである。


筆勢の余りて切れし大文字・・・・・・・・・・・・・・・・岡本眸
dai2002大文字

  筆勢の余りて切れし大文字・・・・・・・・・・・・・・・・岡本眸

8月16日には各家庭に還っていた御魂が送り火に送られて、あの世にお帰りになる。
京都では、各家庭で送り火を焚くことはなく、東山の如意ケ岳で行なわれる「大文字」(だいもんじ)の巨大な送り火に代表させて焚くことになる。
この山は通称・大文字山と言われ、多くの奉仕する人々の力によって毎年おこなわれる。
この日は山腹に薪を焚く石の台座が据えられ、薪を井桁に組んで積み上げ午後8時を期して点火する。
この「大」の字は第一画73メートル、第二画146メートル、第三画124メートル。
字画に沿って4メートル間隔に75個の穴を掘り、松の薪を使用する。松は火付きがよいからである。
この行事は慶長年間からはじまったという。
この後に8:10分に松ケ崎の「妙法」、8:15に西賀茂正伝寺の「船形」と金閣寺のうしろ山の「左大文字」、
8:20に洛西曼陀羅山で「鳥居形」の順に間隔を空けて、火をつけてゆく。
京都の街は東山、北山、西山と三方を山に囲まれ、南は加茂川が流れる地形のように開けている。
火は東山から北山、西山と順に移ってゆくのである。掲出した写真のうちに「左大文字」はない。
「左大文字」は「大文字」の真向かいにあたり、字体も「大文字」の反対の書き方と考えてもらえば判りやすい。

myo2002妙

hou2002法

「妙」「法」は横に並んで一体となっている。
これらの山それぞれには別々の「火の講」があり、真剣な宗教的行事のようなものと考えれば理解しやすい。
知らない人は「大文字焼」などということがあるが、これは、あくまでも盆の送り火という宗教的行事であるから、間違った呼び方はしてほしくない。

写真④は「船形」である。
fune2002船形

点火される薪の湿り具合とか、いろんな要素のために火床にも場所によって火の勢いに違いがあり、それがまた趣きのあるところである。
先に言ったように10分から15分づつずらして点火されるから、当然、最初に点火された「大文字」と、後から点火されたものとは火勢に違いが出てくる。
そういう火色の違いを眺めるのも面白いものだ。昔は今のような高層建築がなかったから、市内のどこからでも見られたが、今では高層ビルの屋上でなければ見られない。

torii2002鳥居形

「鳥居形」は愛宕山と言えば分りやすいだろう。曼陀羅山というのは愛宕山の支峰である。
愛宕山は火伏せの神として「火の用心」の神様で、古来、京都市民は交代で月参りをして火災からの鎮撫を祈ってきた山である。
愛宕山の上り口には鳥居が建っており、鳥居形は、それに因んだものかも知れない。
鳥居形が点火されるまでに、この間30分。京の三山は火の色に彩られる。

京都の夏は初夏の葵祭に始まり、七月の祇園祭を経て、このお盆の大文字の送り火で、ひと夏を送ることになる。
千年余の都として、これらの行事は、いずれも大がかりなもので、さすがに王朝の首都としての貫禄に満ちている。
さればこそ、古来、先人たちは詩歌に詠んできたのである。

以下、大文字を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 いざ急げ火も妙法を拵(こしら)へる・・・・・・・・小林一茶

 大文字やあふみの空もただならね・・・・・・・・与謝蕪村

 大文字の残んの火こそ天がかり・・・・・・・・皆吉爽雨

 送り火の法も消えたり妙も消ゆ・・・・・・・・森澄雄

 燃えさかり筆太となる大文字・・・・・・・・山口誓子

 大文字消えなんとしてときめける・・・・・・・・佐野青陽人

 大文字畦の合掌に映えゐたり・・・・・・・・米沢吾亦紅

 はじめなかをはり一切大文字・・・・・・・・岩城久治

 一画もおろそかならず大文字・・・・・・・・田中千鶴子

 さびしさのことにも左大文字・・・・・・・・藤崎さだゑ
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2007年はNHKが全国に「京都の五山の送り火」を75分にわたって中継の放映をした。
この送り火が宗教行事であること。また、これを維持管理するのに、各送り火ごとに特色のあること、などを採り上げた。おおむね妥当な、いい放映だった。
また地元の京都新聞夕刊は、同年の8/6~11まで「五山の送り火」と題する特集記事を6回にわたって掲載した。
内容はNHKが解説で採り上げたのと同様だったが、「火」を支える「人」の面から詳しく取材されて、時宜を得たいい記事だった。

一昨年春に起こった東日本大震災で二万人にのぼる人が命を落したので、その鎮魂の意味をこめて大文字の送り火を拝したことである。


大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・・・・・・・・木村草弥
daimonji_map大文字マップ

  大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・・・木村草弥

公式記録の残っていない大文字の送り火
これだけの行事でありながら、大文字の起源や由来について公式記録は残っていない、という。長らく日本の首都であった京都の行事は、朝廷による公式の記録が残っているが、公的な行事でなかったためか、記録は一切ないという。だから「いつ、だれが、何のために」始めたのか不明である。
因みに「祇園祭」も町衆の祭であったために公式な記録はない、というが運行のための町衆の記録というものがあり、ほぼ解明されていると言えるが、大文字の送り火については、現在までのところ、見つかっていないという。
先のBLOGで「慶長年間」から始まったらしい、というのも、ある人の日記風の記録に大文字見物のことが書かれ、日付があるので、その時点では、もう始まっていたのは確実ということである。弘法大師がはじめたとか、いろいろの説が出ているのも、そういう事情によるらしい。

掲出の図は大文字の配置図である。直線化して描いてあるので、位置関係を示すものとして見てもらいたい。

苦難の時代
現在では五山で執り行われているが、明治以前には十山で行なわれていたという。それは、今の五山のほかに、「い」の市原、「一」の鳴滝、「蛇」の北嵯峨、「長刀」の観空寺村、「竿に鈴」の五つである。
明治になり、大文字や祇園祭は迷信であるとして、明治初年から10年間、この両者は禁止された。
その後、再開されはしたが、公的、私的に援助を受けられず、昭和初期までに次々と無くなり、現在の五山となった。

無くなった送り火
無くなった五山とは、先に書いたものであるが、そのうち「竿に鈴」は大正初期まで点火されていたにも拘らず、その場所が一乗寺だったか、静原だったのか、西山(松尾山)だったとか、方角も真反対の場所もあり、もうすでに明らかではなくなってしまった。
人間の記憶というものは、何というあやふやなものであろうか。とにかく「記録」するということが、いかに重要かということになる。
「い」とか「一」とかいうのは点火する火床の形である。漢字で書くと「蛇」になるが北嵯峨のは、蛇がとぐろを巻いた形だったのではないか。「長刀」というのはナギナタの形、「竿に鈴」は竿の先に鈴がつけてある形であろう。

明治新政権になってからの「皇国史観」強制のための尖兵として強行された「廃仏棄釈」の記録も全く残っていない、という。薩摩藩は、以前から藩内で、このような政策を取ってきたというが、貴重な仏教美術や彫刻などが外国に流出している。こういう排外的な新政権の政策に表だって反対することは破滅に繋がるので、みな口をつぐんで、見て見ぬふりをしたものであろう。この頃にはすでに「新聞」も出ていたと思われるのに、権力を恐れてか、あるいは強力な弾圧があったのか、「廃仏棄釈」に関する記事は報道というか、記録に残っていない。大文字についても、それに類した弾圧政策に毒されたものであろうか。

サン=マルタン・デュ・カニグー修道院・・・・・・・・・・・・木村草弥
450px-Saint_Martin_du_Canigou_04カニグー修道院
 ↑ カニグー修道院 俯瞰
DSC_0136カニグー回廊中庭③
 ↑ 回廊中庭─花が咲いている
DSC_0143カニグー修道院回廊①
 ↑ 回廊
DSC_0142カニグー回廊②
 回廊の柱頭彫刻
DSC_0131-08154カニグー回廊④
 ↑ 柱頭彫刻の「サロメの舞い」とは、修道院生活とどう関連するのか

──巡礼の旅──(16)

     サン=マルタン・デュ・カニグー修道院・・・・・・・・・・木村草弥

山頂あるいは山上ちかくに建てられる修道院もある。
ニーチェが信仰は別として <私はそこに座ってもっともよい空気を吸った。ほんとうに天国の空気を。>と言ったような僻地のことである。

サン=マルタン・デュ・カニグー修道院 (フランス語:Abbaye Saint-Martin du Canigou、)は、フランス、ピレネー山脈にあるカトリック教会の修道院。
短縮してカニグー修道院とも呼ばれる。ピレネー=オリアンタル県の小さなコミューン、カストイユに属する。
修道院はカニグー山の岩がちな尖峰の奥に佇んでいる。1889年、フランス歴史記念物に指定された。

この修道院はサルダーニャ伯ギフレ2世の発案によって設置された。初めて文献に登場するのは997年であり、このころには建設工事が始められていたと考えられる。
これ以降に夥しい数の寄進が行なわれており、建設が間断なく着実に行われていたことを示している。

教会は1009年11月10日、エルヌ司教オリバによって聖別され、聖母マリア、聖マルタン、聖ミシェルへ献堂された。
そのしばらく後に聖ゴデリックの聖遺物を授かっている。これに際して修道院と教会堂が拡張され、再び聖別された(正確な年代は未詳であり1014年か1026年とされる)。サルダーニャ伯ギフレ2世はこの修道院で余生をおくり、1049年に没した。

しかしながらこの修道院の衰えは早く、早くも12世紀にはサント=マリー・ド・ラグラス修道院(オード県ラグラス)に併合された。
この併合は摩擦の原因となったが、これは最終的にローマ教皇の仲裁により解消されている。しかし修道院は回復の困難なほどの衰退に陥ることとなった。

またカタルーニャ地方に多くの爪痕を残した1428年2月のカタルーニャ大地震により深刻な被害を受け、教会はどうにか破壊を逃れたものの多くの建物が破壊され、鐘楼は先端が損なわれた。修復にはアルヌ司教座が動員されたものの財力が不足しており、再建工事は非常に長引くこととなった。

1506年に修道院はフランス王家の管理下に置かれ、1782年、ルイ16世によって教会財産は国有化された。

フランス革命後の恐怖政治時代、最後の修道士らが追放された後で修道院は閉鎖され、修道院内の財物は四散した。その後、建物の石材は周辺住民によって建設資材として転用され、回廊の柱頭や彫刻・家具などは持ち去られた。

修道院の再興は20世紀初頭を待たねばならなかった。
1902年にカタルーニャ人であるペルピニャン司教ジュール=ルイ=マリー・ド・カルサラード・デュ・ポン(Jules-Louis-Marie de Carsalade du Pont)が再建に着手したが、この時点では鐘楼、一部崩壊した教会堂、および下層部回廊の3歩廊しか満足に残されていなかった。この再建作業は1932年までかかることとなる。
1952年から1983年にかけて司祭ベルナール・ド・シャバンヌが修道院の修復工事を行い、宗教生活を復興した。

いずれにしても、ここはベネディクト会系の修道院であり、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の途中にあるのである。
交通の不便な山奥で、バスなどの便もないのだが、熱心なツアー客が、遠く日本からもやってくるのである。
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今日八月十五日は前の大戦の「敗戦記念日」である。
呑気な「巡礼の旅」など書いている、と思われるかも知れないが、今日の日については、重々しい関心はあるのである。
ただ、ここで何度も書いてきたので、今回は遠慮しておく。 ご了承願いたい。
日本人であれば、この日を忘れることは出来ない日である。




宮崎駿監督作品・映画「風立ちぬ」鑑賞・・・・・・・・・・・木村草弥
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──映画鑑賞──

     宮崎駿監督作品・映画「風立ちぬ」鑑賞・・・・・・・・・・・木村草弥     

宮崎駿監督が「崖の上のポニョ」(2008)以来5年ぶりに手がけた長編作。
ゼロ戦設計者として知られる堀越二郎と、同時代に生きた文学者・堀辰雄の人生をモデルに生み出された主人公の青年技師・二郎が、
関東大震災や経済不況に見舞われ、やがて戦争へと突入していく1920~30年代という時代にいかに生きたか、その半生を描く。
幼い頃から空にあこがれを抱いて育った学生・堀越二郎は、震災の混乱の中で、少女・菜穂子と運命な出会いを果たす。
やがて飛行機設計技師として就職し、その才能を買われた二郎は、同期の本庄らとともに技術視察でドイツや西洋諸国をまわり、見聞を広めていく。
そしてある夏、二郎は避暑休暇で訪れた山のホテルで菜穂子と再会。やがて2人は結婚する。
菜穂子は病弱で療養所暮らしも長引くが、二郎は愛する人の存在に支えられ、新たな飛行機作りに没頭していく。
宮崎監督が模型雑誌「月刊モデルグラフィックス」で連載していた漫画が原作。「新世紀エヴァンゲリオン」の監督として知られる庵野秀明が主人公・二郎の声優を務めた。
松任谷由美が「魔女の宅急便」以来24年ぶりにジブリ作品に主題歌を提供。

“楽しい”を原動力に、ジブリヒロイン抜てきの瀧本美織「緊張なんてもったいない」

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 ↑ 菜穂子の声を演じた瀧本美織
「うわあ、すごい人! こんなにたくさんの方が来てくださったんですね」。6月某日、都内で行われたスタジオジブリ最新作「風立ちぬ」の声優発表会見に出席した女優の瀧本美織は開口一番、駆けつけた報道陣の多さに驚きの声をあげた。初の声優挑戦にして、ジブリ作品のヒロインに大抜てき。さぞ緊張しているかと思いきや、終始、はつらつと質疑に応じる姿が印象的だった。晴れて作品が完成し、取材に応じた本人に「プレッシャーはなかった?」と聞くと、「自分が世界中で愛されるジブリ作品に出演できるなんて、素直にすごいなと思うし、いい作品を届けるために精一杯やりたいなって。だから、緊張なんてしていたら、もったいないですよ」と頼もしい言葉が返ってきた。まさに、新たなジブリヒロインの誕生である。(取材・文・写真/内田涼)

映画は、宮崎駿監督の5年ぶりとなる新作長編アニメーション。幼い頃からの夢を実現させ、飛行機の設計技師になった主人公・堀越二郎が、戦争へと突入する激動の時代に、「美しいヒコウキを作りたい」という純粋な思いと裏腹に、世界屈指の戦闘機であるゼロ戦を生み出した“矛盾”と向き合う姿を描いた。瀧本は二郎の一目ぼれの相手であり、のちに結婚し妻となるヒロイン・里見菜穂子を演じている。

「菜穂子を通して、人を愛する偉大さを教えられた気がしますね。妻として、大きな夢に向かって頑張る二郎さんをひたむきに支えるのはもちろん、菜穂子自身も大好きな人のそばにいられる幸せを噛みしめている」。背後から戦争の足音が近づき、結核をわずらう菜穂子には命のタイムリミットも迫っている。「だからこそ、1日1日を大切に生きる夫婦の姿はとても愛おしいなって。菜穂子に限らず、すべての登場人物が壮絶な時代を一生懸命に生きていて、清々しささえ覚えるし、私自身ピンと背筋が伸びる思いです」

kazetachinu01_large庵野秀明
 ↑ 二郎の声を演じた庵野秀明
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズで知られる庵野秀明が主人公・二郎を演じており、「庵野さんとご一緒させていただくときは、もちろんその場に宮崎監督もいらっしゃるので、思わず『監督がふたりいる』って(笑)。実際、おふたりから違った指示をいただくこともあって、『どっちの言うことを聞けばいいんだろう……』って感じになりました」。そんな裏話を弾んだ声で語ってくれるのは、アフレコが順調だった証拠だ。

これまでのジブリ作品には珍しく、劇中には“大人のキスシーン”も登場するが「庵野さんとお相手していただき、すんなり演じることができました。アフレコ全体を通しても、テストだと思ったら『今のでOK』って本番テイクになったり、とにかく自然体でいられた。キャラクターに気持ちを乗せていくという点は、ふだんの演技ともあまり変わりません。だから2日間のアフレコは、自分のなかでもあっという間で、『もっと菜穂子でいたい』という気持ちになりました。本当に楽しい経験でしたね」

何事にも“楽しい”とのめり込める姿勢が、女優・瀧本美織にとって大きな原動力になっているのは間違いない。NHK連続テレビ小説「てっぱん」で注目を集め、その後もテレビ、映画と幅広く活躍。特に2013年は、初の時代劇となるBS時代劇「妻は、くノ一」、初の映画主演を飾る「貞子3D2」(8月30日公開/英勉監督)、そして本作で声優に初挑戦と“初もの”尽くしの一年となり、女優としてさらなる飛躍を遂げた。そんな自分の置かれた状況に「すごいですよね、自分でもすごいなあって……。はい、すごく楽しいんですよ!」とやはり“楽しい”が止まらない。

「この一年は本当に“濃い”という言葉がぴったり。作品を通して、毎回新しい出会いがあるし、さまざまな役を生きることで『自分のなかにこんな感情があったんだ』と気づかされる。うれしいのは、私が感じ取った気持ちや発見を、見てくれる皆さんに届けられること。この連鎖はすごいなって、最近強く思うんですよ」

もちろん、本作で演じた菜穂子からも大いに刺激を受けている。「舞台は私にとって遠い過去かもしれませんが、だからこそ『今を生きている』『私がここにいる』ことのすごさに圧倒されたり、感動したり……。今という時代がキラキラと見えるようになり、背中を押された気持ちです。この気持ちを大切に生きていきたいし、演技に対する姿勢もそうありたいと思っています」。まさに本作のキャッチコピーである“生きねば。”の精神を、ヒロインを演じることでしっかりと受け取ったようだ。

現在21歳で、子どもの頃からごく普通にジブリ作品と接してきた世代だけに、初めて見たのは『となりのトトロ』だという。「いつどんなシチュエーションだったかは覚えてなくて。それくらい自然な存在ですね、ジブリ作品は」。お気に入りのジブリヒロインを聞いてみると「ヒロイン、というよりはヒロインを支える女性が印象に残っています。例えば『千と千尋の神隠し』のリンや、『魔女の宅急便』のウルスラとか。シャキシャキしていて男勝り、さっぱりと気持ちのいい女性が好きなんです」
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この映画は、堀辰雄の小説『風立ちぬ』の「菜穂子」と、ゼロ戦開発者として実在の「堀越二郎」を結婚させるという筋書きで成り立っている。
だから映画の中でも<堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて>と挨拶されているのである。

原作の小説は、1936年(昭和11年)、雑誌「改造」12月号に、先ず「風立ちぬ」(のち「序曲」「風立ちぬ」の2章)を掲載。翌年1937年(昭和12年)、雑誌「文藝春秋」1月号に「冬」の章、雑誌「新女苑」3月号に「婚約」(のち「春」の章)を掲載。翌年1938年(昭和13年)、雑誌「新潮」3月号に終章の「死のかげの谷」を掲載ののち、同年4月、以上を纏めた単行本『風立ちぬ』が野田書房より刊行された。現行版は新潮、岩波文庫などから重版され続けている。

美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病(結核)に冒されている婚約者に付き添う「私」が彼女の死の影におびえながらも、2人で残された時間を支え合いながら共に生きる物語。時間を超越した生の意味と幸福感が確立してゆく過程が描かれ、風のように去ってゆく時の流れの裡に人間の実体を捉え、生きることよりは死ぬことの意味を問うと同時に、死を越えて生きることの意味をも問うた作品である。

作中にある「風立ちぬ、いざ生きめやも」という有名な詩句は、ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”を、
堀辰雄が訳したものである。
「風立ちぬ」の「ぬ」は過去・完了の助動詞で、「風が立った」の意である。
「いざ生きめやも」の「め・やも」は、未来推量・意志の助動詞の「む」の已然形「め」と、反語の「やも」を繋げた「生きようか、いやそんなことはない」の意であるが、
東京大学国文科出身の彼としたことが、この反語によって「打消し」の意味になってしまうことを知らなかった筈がないのだが、
現実には、そう訳してしまったのも事実で、後年、国語学者などから厳しい反論を浴びる羽目になる。
この映画では、それを知って「生きねば」というキャッチ・コピーに置き換えられている。
厳密に言うと、小説「風立ちぬ」からは題名のみが、小説「菜穂子」から女主人公が採られている、ということである。
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「風立ちぬ」風、飛行機、夢、美少女との純愛。ロマンチスト宮崎駿の集大成
 古い日本家屋で、すやすやと眠っている少年。彼は夢の中で、憧れのジャンニ・カプローニと飛行機で真っ青な空を駆けながら、こう語る。
「僕は美しい飛行機をつくりたい」。夢みることと、夢を見ること。これを併せて描くことで、得意のファンタジー性を生かすアイデアに、まずはうなった。
そう来たか!  ジブリ映画で初めて実在の人物をモデルにした作品は、宮崎駿監督の趣味全開。
メガネをかけ、飛行機に憧れ、仕事とタバコから離れられない主人公の二郎は明らかに監督の分身だ。
そして驚くべきは、監督がその徹底したロマンチストぶりをさらけ出していることである。
 すべての場面に風が立っている。その中で夢と純愛に生きるまっすぐな二郎は、監督にとっての理想そのものだ。一コマ一コマが、叙情文学の一行一行のように訴えかけてくる。
映画自体が、病に引き裂かれるとわかって二郎に「美しいところだけ」見せようとした菜穂子のようでもある。
哀切さが降り積もるようなふたりの愛には、涙がポロポロと呼応してしかたない。
 もののけのような関東大震災の描写も圧巻だが、語り口で印象的なのは省略の美学。
自分の傑作・零戦が、戦争の道具として人命を奪うということへの葛藤や苦悩も省略の中にある。だが終盤に登場する零戦の画は、きっと観客の想像を喚起するだろう。
とても綺麗な画面で、ストーリーも素敵だ。ほのぼのとした情感に満ちた一巻であった。
ただ菜穂子の療養する高原の結核サナトリウムの日光浴のシーンなどは、当時の世界的な結核療法だったが、今の若い観客に、その意味が理解されたか、どうか。

堀辰雄については ← このWikipedia に詳しい。
堀越二郎については ← このWikipediaに詳しい。


『渡部兼直全詩集 1』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
渡部兼直

──新・読書ノート──

      『渡部兼直全詩集 1』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥     
               ・・・・・・・・編集工房ノア2013/07/07刊・・・・・・・・

三井葉子さん主宰の詩結社「楽市」でご一緒している渡部兼直さんが、この度全詩集を刊行された。定価七千円というものである。
厚さ六センチにも及ぶ分厚い本で、ページ数700を超える、氏の詩業の集大成として出された。(1)とあるから(2)も続いて出されるのだろう。
氏は私より一歳下の生れであり、後いくつも詩集は出せないというお気持ちらしい。
この偉業に心から拍手を送りたい。

先ず、この本に挟まれている「栞」の文章を引いておく。
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   渡部兼直氏のとびきり洒落た詩篇群・・・・・・・・・入沢康夫

 渡部兼直氏の詩はどれをとって見ても、一分の隙もないほど見事に練り上げられた、
しかも常に洒脱味を欠かさない、二重底・三重底の奥行を持った作品ばかりで、私は
読むたびに感嘆を久しくする。
 いたるところに、古今東西の文化への照応と連想の仕掛けがあって、作者の教養・
知見の広さ•深さを痛感させられる。どれでもよいが、一例として『もっともやはら
かい詩』に収められている「ドブリンをさまよふ」を読んで見ようか。標題の「ドブ
リン」にしてからが、西脇順三郎の長詩「失われた時」の一節を想起させる。この
《小泉八雲の、ダブリンの文学殿堂入りに当たっての同地訪問》を素材とする作品の
中に入ると、ラフカディオ・ハ—ンは勿論だが、『ドラキュラ』のプラム・スト—力
—とか、さらには車寅次郎にまで連想は走る。ジョイスの名は、百も承知のくせに、
わざと書かないというのが、これがまた、じつに心憎い。途中に絵が挿入されたり、
言葉遊び的な試み(ダブリンを貫流するリフィ川が「わが出雲/Re斐伊川」につな
がったり、「愛文学」が愛の文学と混同されたり)も鏤められて、しかもどこと
なく色つぼくて、そのくせ、決してハメは外さない。ここに不可分に醸し出されるユ
ーモアとぺーストの味は無類である。
 今、渡部兼直氏の貴重な詩的営為の全貌が、一巻にまとめられるのは、まことに時
宜を得た慶事として、大きな拍手を贈りたい。



      <おかしさ>の詩人・・・・・・・・・・安水稔和

 渡部兼直さんは、とても詩人である。とても詩人というのも変な言い方で、なにが
とてもで、どう詩人なのかを言わないといけないのだろうが、言いにくいというか、
言いたくないというか、渡部さんのことを語ろうとすると、とても詩人だよと言いた
くなるし、言ってしまう。
 渡部さんの詩集『七つの俳諧』の栞に、多田智満子さんが渡部さんの詩はとてもよ
い匂いがすると書いている。髙橋睦郎さんがお行儀のいい痴漢みたいだと言ったとか。
大岡信さんは渡部さんの印象を風狂の人であると記している。金関寿夫さんは詩人詩
人したところがないまるで菩薩のような人だと書いている。ゲイリー・スナイダーさ
んがまれに見る「エレガント」な人物だと言ったとか。
 金関さんの「詩人詩人したところがない」と私の「とても詩人」とは、案外同じこ
とを言っているのかもしれない。
   *
「出雲からのオマージュ」というスピ—チで渡部さんは、「詩にとっては<高貴
さ>が絶対的に要請される」「詩は<高貴さ>とともに、 <謎>をその一つの元素と
している」と述べている。多田智満子さんの詩に対して<高貴さ>を挙げ、私の詩に
対して<謎>を挙げているのだが、では、渡部兼直に対してはなにを挙げればいいだ
ろうか。

  あけはなつたみづうみの夜の風
  夏の月
  ゆれる
  俳諧      (「出雲のナイル川 三」)

俳諧という語にオ力シサとルビを付けている。物の本ひもとけば、「おかし」は動
詞「招ク」の形容詞形で、心ひかれ招き寄せたい気がするの意かとある。かわってい
る、変だ、いぶかしい、あやしい、つい笑いたくなるというばかりではない。おもし
ろい、趣がある、風情がある、かわいらしい、美しい、魅力がある。さらには、すぐ
れている、みごとだ。つまり、「物事を観照し評価する気持で、 <あわれ>が感傷性
を含むのに対して、より客観的に賞美する感情」(「広辞苑第四版」)。
 なるほど。詩は、ゆらゆらゆれる<おかしさ>。渡部兼直は、 <おかしさ>の詩人
か。
       (「夜半翁へのオオド」一九九四年六月・跋文より)

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旧制・米子中学の時から詩作にかかわられ、この全詩集では、それらの「習作期」のものも少し拾われている。
氏からは前著の詩集『かなカナ』を頂いたのだが、いま書架を探してみたが本が多すぎて、どこに収納したのか見当たらない。
前著をいただいて私は、このブログの読書ノートに寸感を書いている。 → 詩集『かなカナ』を読んで
これを見てもらえば判ることだが、渡部氏の略歴を引いておく。

この本の巻末に載る著者の経歴を写しておく。

 渡部兼直 わたなべ かねなほ
1931 米子に生まる
`55 早稲田大学文学部国文科卒
`73 「たうろす」同人
`76 「松江詩篇」(紫陽社)
`81 「フェミーナあるいは女性都市」(南柯書局)
`82 「山陰詩人」同人
`94 「夜半翁へのオオド」(編集工房ノア)
`95 「プレヴェル詩集」(同)
`96 「ハワイに死す」(同) 
`03 「楽市」同人
`03 「失はれし女を求めて」(今井書店)
`05 「R.クノオ ひとつの詩法のために」(二言語版、編集工房 遊)
`08 「地球訪問」(編集工房 遊)
`09 「梨の体をしてゐるいくつかの詩」(編集工房 遊)
`11  「かなカナ」(編集工房 遊)

渡部氏は地元で学校の教師を本業として来られたようだ。地元では新聞詩壇の選者などもされていたらしい。
今回、この全詩集を恵贈されて拝見すると、郷土・米子や隣接する松江などへのオマージュに満ちている気がするのである。
ラフカディオ・ハーンを作品化したものなどが、そうである。古くから啓(ひら)けた土地だから逸話や民話には、こと欠かない。
それらをブッキッシュに作品化したのが渡部氏の詩業の本質であろうか。
今回の全詩集は、なにぶん膨大なものだから、ほんの少ししか触れられないが、お許し願いたい。

渡部さんの作品は、新かなづかいの作品もあるが、多くは歴史的かなづかい(旧かなづかい)になっている。
私も短歌作品は旧かなづかいを採用しているので、関心が深い。
二、三作品を引いてみよう。
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        国讃め・・・・・・・・・・渡部兼直
                  藤田玄播作曲交饗組曲「鳥取」第三楽章のための詞章

   さみどりふかき日本海
   さみどりふかき日本海
   はるかににほふ砂の丘
   白兎跳ぶなみがしら

   ふるさと ふるさと
   鳥取

   神神拓きしふるき国
   曰に曰にあらたし海の風
   ゆたかのみのり 野のはろか
   やさしき山並かがよひぬ

   かなたにひかる碧き山
   厳し 火の神の山 大山

   梓弓張る砂の浜
   ぬくき湯の里いだきたる
   南の潮と北の潮
   岬をめぐり交はりぬ

   ふるさと ふるさと
   鳥取

   うるはしき街つらなりて
   道は未来に通じたる
   みづみづしもよ この街
   さまざまの花かをる街

   ふるさと ふるさと
   鳥取

   うるはしき枝さゆらぎて
   窓は未来を夢みたる
   すがしき光みつ この街
   ゆかしき歌ひびく街
   ふるさと ふるさと
   鳥取

   若きいのちのここに生き
   智恵深くしてたくましく
   黄金も玉もなにせむに
   あした求めて歩むなる

   ふるさと ふるさと
   鳥取

   若きいのちのここに生き
   夢はるかなりこの歩み
   ほがらかの歌あるかぎり
   この国のあす幸多し

   ふるさと ふるさと
   鳥取

   この国の 梨甘し
   この国の をとめかぐはし

   この国の 梨甘し
   この国野 をとめかぐはし

   ふるさと ふるさと
   鳥取

   いや重け吉事
   いや重け吉事
   いや重け吉事
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この詩は、音楽とのかかわりで、1981年、鳥取県吹奏楽連盟が創立二十周年記念事業として作詞されたもので楽曲として演奏され同氏としても記念碑的なものである。
文語調を採用しながら、鳥取県の文物を歌詞の中に取り入れ、結句の「いや重け吉事」(いやしけよごと)というのは古代の有名な万葉歌人・大伴家持のフレーズを借用したもので、
古典にも詳しい同氏の教養の一端を示すものとして、微笑ましい。
元歌を知らない人のために敢えて引いておく。「万葉集の巻末を飾る」歌として燦然と輝いている。 ↓

新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事・・・・・・・・・大伴家持
  (あらたしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと)

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短い詩を二篇引いておく。

     皆生・・・・・・・・・・渡部兼直

   サンリユカス岬から
   太陽
   けさもとどく
   海底温泉
   腹に当たる
   ミホの松原
   サナトリオムの患者
   天女を発見
   海角殿の恋びとたち
   海底エレヴエタアの雷に打たれる



       砂丘・・・・・・・・・・渡部兼直

   テニスコオト
   海
   海鼠腸の匂

   少女の声
   空を漬す

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     ミホの浦・・・・・・・・・・渡部兼直

   ミホの浦わに吹く風の
   ミホの浦わに吹く風の
   のどけき波のながめかな
   これはこのあたりにすまひする
   しがなきしれものにて候
   げにやヨツトは夏の蝶
   デユフイの海になりけり
   デユフイの海になりけり
   ひんがしのメデチラネオ

   コオトダズユル
   このミサキにはじめにたどり
   つきタマヒし稲の女神
   身をかくしタモフ
   いまにやしろに
   しづもりタモフ
   海の女神 舟の女神
   卯月のまつり
   オパパぢベたにかしこまり
   オバアサンこれはどんなまつり
   ですか
   言つたらなんだがねや
   かむさまのおそしきだがなや
   この国は天つ神のミコにタテマツリ

   タマへとて船をふみ傾け
   天の逆手を打ちのろひ
   青柴垣にかくりタモフ
   あへを断ったる若者にのりうつつたる
   えびすがみもろ肩ささへられ
   あらはれ靑柴垣に入りタモフ
   やしろに貼札
   建国記念日をこぞつて
   祝ひませう
   大日本帝国のどさくさに
   イナリさんも天神さんも
   天つ神のオミにされた
   阿波の詩人扶川茂
   生田花世と「青鞜」に関心あり
   おとづれる
   ミホの浦の春月詩碑
   生きとし生ける人の胸こ
   限りも知らぬ寂しさ
   雲になりて湧くとき
  離れ離れし人の相寄る
   春月はさびしい詩人
   「おそらく僕は、自分の孤独と
   寂寥に訴へても、彼の自殺を
   中止させることが出来たか知ら
   ない。」萩原朔太郎「生田春月君に就いて」
   詩碑のうしろに
   はるかな海 三好達治の
   ひよろひょろ松原

   詩碑の背に土蔵造り
   扶川さん
   のぞいてみれば公衆便所
   松林は市民の
   子猫子犬のすてどころ
   からすの編隊
   時をうつさず果敢に攻撃
   一挙に壊滅す
   汝がさがのつたなきを泣け
   松の小枝に
   あなめづらしや
   天女のパンテイ
   おもひきや
   ビニイルのふくろなり

   松露の幽霊
   い出よかし
   となむ

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この詩は下線を引いておいた部分「タモフ」の表記にギモンが残る。
カタカナ表記は同氏のもので、わざわざカタカナ書きにしてあるので、際立っているからである。
このフレーズは「給う」という字の旧かな表記なのだが、「タマフ」の「う音便」であるから「タモウ」が正当である。
これは私の友人の国文学専門の人に電話で確認してみたから確実である。
文学作品であるから、学説としてさまざまの説を主張するのは自由だが、一定の文学的「表記」として定着しているものについては、それに従うのが普通だろう。

こういうことは、ままあり得ることで、先にも書いたが吉原幸子の作品が歴史的かなづかいを採用しながら、促音、拗音を「小文字」で表記していることなど「我流」である。
これについては岡井隆が角川「短歌」誌上で触れているので追記しておく。

ついでに書いておくと「或いは」は旧かなでも、この通りが正当で「あるひは」と書くのは間違いである。
詳しくは古語辞典などに当たってみてもらいたい。
渡部氏は私などと違って「国文学徒」なのだから、正しい表記に努めてもらいたい。
なお気づいた点について二、三触れておく。

「松江詩篇」は、同氏の故郷・米子市のすぐ隣にある街・島根県の松江その他、鳥取県などにまつわるものとして注目した。
この巻の後半に奈良、京都が含まれる他、何回か作品化されているが、何かの契機があって触れられたのであろうか。
この作品の巻末の「松江詩篇注」は、読者に対して親切である。
「松江 五」には「連句」が載っているが、私もひと頃誘われて座に加わったものとして懐かしく拝見した。
ただ四句の「かほり」は頂けない。旧かなでは「かをり」が正当で、これは歌謡曲の「シクラメンのかほり」で有名だが、これも作者の勘違いによる間違いの最たるものである。
「助詞」の省略などが習作期から見られるのも同氏の特徴だ。例えば「海猫子ども育てる」「時ゆつくり流れる」「太陽ころがり行く」など。
また新かなづかいの作品であっても「ゆつくり流れる」など拗音、促音などが「大文字」で表記されているのは、原本のときからのものか、それとも校正洩れか。
「ハワイアンパラダイス」の詩の初連「逃げやう」は「逃げ様」だろうか、それとも「助動詞特活」か、それならば旧カナでも下線部「逃げよう」となるはずである。
「梨の体をしてゐるいくつかの詩」の中の「愛する女と地球への旅に出やうとしてゐる」の部分は明らかに「助動詞特活─意志」で「出よう」でなければイケマセン。
「かくもかほれば」も「かをれば」 でなければならない。
私は短歌は旧カナで作っているので、これらについては厳しく指導されたので、敢えて指摘させてもらった。
国文学専攻の渡部氏としては「瑕疵」である。国文学徒でなかったら私は何も言わないのだが、敢えて書かせてもらった。

文句ばかり書いたようだが、入沢康夫の書くように、詩集全体として、日本の伝統的な詩歌形式から西欧詩に至る広い「目配り」をなさっていて敬服するものである。
そこには長年にわたる渡部氏の深い教養が滲みでていると言える。

いま「渡部兼直」と検索してみたが、渡部氏はインターネットはおやりにならないらしいので、出てくる項目は少ない。
少ない中でも、彼を知る人の書くところによると、極めてお酒がお好きらしい。蕎麦と酒が一緒になると薀蓄を傾けられるらしい。
好漢お酒に飲まれることなく、これからもお元気で、ご健筆のほどを。

駆け足の走り読みだが、鑑賞と紹介を終わりたい。 ご恵贈ありがとうございました。

(お断り)
詩の部分と栞はスキャナで取り込んだので、どうしても多くの「文字化け」が生じる。子細に修正したが、まだあれば指摘してもらいたい。すぐに直します。



樹々の記憶を求めて ここは何処?自由というのは怖い・・・・・・・・・・・・・木村草弥
樹々の記憶0001

  樹々の記憶を求めて ここは何処?
   自由というのは怖い・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた一連の一行である。
以前から何度も『樹々の記憶』から引用してきたので、この本について書かなければならないと思って、今回は、この本を採り上げる。
掲出した写真がカバー装丁である。写真は娘・ゆりから提供してもらった。
では、この一連を引用する。

  樹々の記憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

瞬間(とき)の迷路を辿れば ここは何処?地平線まで歩いてゆこう

月は動き続け波はうねり続け わたしは歩き続けよう

柔らかな言葉が織り成ししなやかな波が引いてゆく 夢ではない

時を紡ぐ糸から手を放し 道は一つ曲がり角ではよく考えて

新月に導かれるまま夢の森へと それが私の生き方になるかも

樹々の記憶を求めて ここは何処?自由というのは怖い

私はどこから来たか 今ここにいる私という希望と自由

夢を約束できる人などいない 「時」は絶望を与えることもある

思い出されるのは楽しいことばかりではない 樹々の記憶は遠く

<日々これが己に輝く最後と信ぜよ>聖なる警句に従って生きよう


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エンヤ



この「樹々の記憶」という題名は、丁度その頃聴いていたアイルランドの歌姫・エンヤのCDのアルバムが 「The memory of trees」 というのであり、
そこから借用したものである。このアルバムの歌詞からも多くの示唆をえている。
厳密に言うと、エンヤのアルバムの場合、このアルバムに限らず、歌詞はニッキー・ライアンとその妻・ローマの力によるものが多いようである。
ケルトの旋律を世界中に知らしめたのは何と言ってもエンヤの力である。
エンヤの音楽は聴き手である我々に、深いイマジネーションを喚起する。
解説者によると、これは「ケルト的叡智」に発するものだと言ったりする。
アルバムに添えられた歌詞の原文を見ると、ケルト語(ゲール語)らしきものが書かれており、それらの響きが我々をケルト的な雰囲気にひたらせるのであろうか。
因みに、エンヤのことについて少し触れておく。

1962年にドニゴール州グウィードアに生れたエンヤは芸名を<enya>と表記するが、本名はEithne Ni Bhraonain と綴ってエンヤ・ニ・ブレナンと発音する。
Ni は~家の娘という意味を持ち、つまり「ブレナン家の娘エンヤ」というわけである。
エンヤの父親がパブをやっているとかで、先年アイルランドに行く機会があったので聞いてみたが、私たちのツアーのルートからは相当離れていて、無理だった。
このことは紀行文「タラの丘に還る─アイルランド紀行」にも書いた。

私の詩の、この一連は、およそ楽しい雰囲気のないものに終始しているが、この本を出した頃も妻の体調がよくなく、そういう私の憂愁が全体に流れている。
それに「自由というのは怖い」というようなフレーズは、その頃、自由律歌人と言われる人たちと付き合いはじめた私だが、
彼らの作品が詩としての「韻律」から遠いことに幻滅し、「自由律というのは詩としての韻律を離れれば、ただの散文になってしまうぞ」
という私からの強烈なメッセージをも秘めているのである。
だからこそ「自由というのは怖い」という表現になっているのである。
こういう私の発するメッセージに気づいてくれる人がいなくて、歯がゆい思いをしていた頃である。

エンヤの曲は書き物をしたりしている時にも、BGMのように流しながら物を書いても差し支えがなく、私の友人のフランス文学者のT君なども推奨していた歌姫である。
このエンヤのCDと私のこの本は、私の中で一時代を形作るものとして、私の中に深く根ざしている。





私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー・・・・・・・・・・・・・木村草弥 
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  私は化粧する女が好きだ
   虚構によって切り抜けるエネルギー・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた「化粧」と題する一連の中の一行である。ただしWeb上では、ご覧いただけない。
以下、この一連を引いておく。
掲出の写真は「アカバナユウゲショウ」という花である。
野草のように、どこにでも生えている花である。

  化 粧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

虚構を持たない女なんて退屈な家政婦にしか過ぎない

お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

化粧はエロチックだ 女のナルシスムと決めつけてはいけない

化粧する女は淋しがりやだ。化粧なしの素肌では不安なのだ

素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

女の体はお城である、中に一人の少女がかくれている

女の体はお城である、中に一人のセックス上手が住みついている

旅をする風変りなドレスを着てみる寝てみる 腋の下を匂わせる女


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「化粧」を「虚構」と把握するのは、詩の上ならばこその表現である。詩の場合には、こういう極端な飛躍した物言いを、よくする。それが「非日常」ということである。
この一連を発表したとき、今はもう亡くなった人だが、関西に住む或る女性歌人から女性差別の思想だと、あらぬ攻撃を受けたことがある。この一連の、どこに「女性差別」の思想があるというのだろうか。的外れもいいところである。その人も、その後、言いすぎたと思ったのか、的外れの指摘だったと思ったのだろう。一緒にお酒を飲みたい、などと手紙が来たが、私は深く傷ついたので、以後、絶交した。
詩の判らない人である。 この人は先年亡くなった。

言葉には重さはないけれど愛には「肉体」という重さが必要です・・・・・・・・・・木村草弥
28キス?

  言葉には重さはないけれど 
   愛には「肉体」という重さが必要です・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた「愛」という一連のうちの一行である。
これはWeb上でもご覧いただける。
この一連を引いてみる。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

自分たちにしか通じない言葉を持つのが恋人同士というものです

相合傘は世界で一番小さな、二人のための屋根であります

ビバ!恋のアンブレラ!この傘の下にいると二人は「はだかの王様」です

言葉には重さはないけれど 愛には「肉体」という重さが必要です

愛は虚構です それはつかまえどころのないものだからです

愛は数えることも測ることも出来ません愛のお相手はみな様々です

「愛」を多く持つことの出来る人は心の財産目録の豊かな人です

今しみじみと不足するのは 愛ではなく愛にかかわる思想です

貞淑を失った関係はわびしいが貞淑をいつも必要とする関係はもっとわびしい

不条理とは人と神との葛藤 愛怨とは等身大の人間同士の葛藤です


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この一連も見方によっては「アフォリズム」と受け取られるかも知れない。
これを書いた頃、私の関心が、アフォリズム的な方向に傾いていたのかも知れない。
ここに掲出した写真は、いろいろ探した末に「間接表現」ながら、このキスの写真に落ち着いた。少しインパクトには欠けるが。

印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬハードディスクの中に言葉は囲われる・・・・・・・・木村草弥
namarikuzu04_b活字

  印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬ
   ハードディスクの中に言葉は囲われる・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に「言葉②」に載せたもの。

私は家業の商売のカタログの印刷などで印刷屋の仕事場に幼い頃から出入りしていた。
活字拾い(植字チョクジという)なども面白く観察していたりしたものである。
bunsen文選①

日本語の活字の場合には活字を拾う「文選」という工程が必要で、原稿に合わせて活字を木枠に拾ってゆく。
「植字」(ちょくじ)と独特な発音で、この工程を呼ぶ。これが済めば「組版」ということになる。

kessoku-han文選③

活版印刷の場合は、組み付けは平面であるから原稿の大きさに合わせて、どんどん組んでゆく。
試し刷りを経て本印刷にかかるわけだが、インクの載せ具合とか、いろいろ難しいものである。
印刷活字と紙の隙間の関係も微妙で、どこかの活字が飛び出ていると、その字だけ太く濃くなる。

sudare.case植字

漢字の活字は「部首」毎にまとめて分類して棚のケースに入っているのを拾い出すわけである。
私は5冊の歌集を出したが活版印刷は第二歌集『嘉木』までで、第三歌集からは、活版をやるところが無くなってコンピュータ写植になってしまった。
活版には独特の刷り上りの趣があって文人と呼ばれる人は、その手づくりの味を尊んだが、今では、もう仕方がない。

──アジアと活字の長い関係──
実はグーテンベルクよりも早く世界で最初の活字は中国や朝鮮で生れている。
しかし、アジアに広く広まることはなく、活字文化がアジアで花ひらくのは500年後、ヨーロッパから最新の活版印刷技術が渡来してからのことである。


活字は中国ではじまった
作られた年代がハッキリしている世界最古の印刷物は、法隆寺に伝わる『百万塔陀羅尼』(760年代後半)と言われる。
この技術は中国からの輸入であろう。東アジア文化圏の中で、中国は最も早くから印刷が発達していたからである。
それは中国には拓本や押印の習慣があったからである。これは技術的には木版印刷と共通のものと言える。
その後、唐代(618~907年)にはお経や暦、占いの本などが木版で刊行された。
宋代(960~1279年)には科挙の制度のために受験参考書なども多数出版される。
活字の発明は11世紀半ば、畢昇が膠泥を用いて陶製活字を作ったのが最初とされる。
13世紀末には王禎が木活字を作成し、1313年に刊行した『農書』で、その様子と考案した活字を納める回転式の台について触れている。
明代(1368~1644年)には畢昇の方法を受け継いで銅活字が生まれ、清朝の康煕(こうき)帝の治世(1661~1722年)以降、
これを用いて中国最大の百科全書『古今図書集成』が印刷された。

朝鮮で金属活字が花ひらく
中国の活字文化は隣国の朝鮮に伝わり花ひらく。
14世紀末以降には木、銅、鉄、鉛など、さまざまの素材の活字鋳造が太宗、成宗の時代には合計300万本以上が鋳造された。
科挙制度を推進し、抑仏崇儒の政策を採った太宗には、儒教教典などを整備する必要があったのである。
写真④が朝鮮の金属活字である。
3-04朝鮮王朝の活字

しかし1592年以降、2度にわたる豊臣秀吉の侵攻により、大量の活字と技術者を奪われて衰退する。
荒廃の中から立ち上がった朝鮮印刷の伝統は17世紀後半の顕宗時代に金属活字が復活する。
1680年~1800年頃にかけて、明朝体の美しい印刷本が多数上梓され、近世の朝鮮印刷文化の精華とされている。

西洋印刷がやってきた
16世紀の中国の銅活字は朝鮮の影響が強いが、その頃、イエズス会によって西洋印刷術が伝来するが、
宣教師たちの布教活動には中国伝統の木版印刷が適していると判断され、西洋の金属活版術は広まらなかった。
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以上、東アジアの印刷術について書いたが、ここで私の第三歌集『樹々の記憶』の中の「言葉①」の一連の歌を引いておく。
これらはWeb上でもご覧いただける。
これは一行づつの歌としてではなく、一連の詩として鑑賞してほしい。

   言葉 ①・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

言葉を友にしたいと思った あれは一人旅でのことだ

確かに言葉の肩をたたくこと、言葉と握手すること、は出来ない

だが言葉には言いようもない旧友のようななつかしさがある

「はじめに言葉ありき」人間は言葉と出会ったときから思想的である

人間は 一つの言葉、一つの名のためにさすらう動物だ

だから、ドラマで最も美しいのは、人が自分を名乗るときだ

人は言語によってしか自由になれない──言葉を言語へと高めよ

どんな桎梏からの解放も言語化されねば、ただの「解放感」に過ぎない

いまや標準語は政治を語る言葉に堕した、人生を語る言葉は方言しかない

例えば、平和という言葉を蒐集している人達は大量殺戮だってやってのける

印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬハードディスクの中に言葉は囲われる



一輪の五弁を張りて紅蜀葵・・・・・・・・・・・・・・・瀧春一
011紅蜀葵

  一輪の五弁を張りて紅蜀葵・・・・・・・・・・・・・・・瀧春一

紅蜀葵(こうしょっき)は和名を「もみじあおい」という。
アオイ科の多年草で、北米フロリダ地方の沼沢地が原産という。日本には明治初期に渡来し、今では広く栽培される。
私の家にも、いつごろ来たのか、今の家に移った時も種を取っておいて蒔いたので毎年夏には、つぎつぎと真紅の花を咲かせる。
茎は数本かたまって直立し1メートルから2メートルに伸び、暑さが本格的になる7月下旬から咲きはじめ、9月になっても咲きつづける。
葉の形がモミジに似ていることからモミジアオイの名がついた。
鮮紅色の花の色と言い、長い雄しべと言い、どこか異国的な感じがする花である。花は朝ひらいて夕方には、しおれる。
花の蕾だが、蕾の先から少しはなびらの赤色が覗いているものは、明日あさに開花する。
咲き終わった実は次第に黒褐色になって丸い大粒の種が、ぎっしり入っている。
この種が地面に落ちたものは、翌年芽をだすが、余分なものは抜き取られる。

この花は私にも、ひとしお愛着のあるもので、下記のようないきさつがある。

   雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)まぬがれがたく病む人のあり・・・・木村草弥

   このひとと逢瀬のごとき夜がありただにひそけき睡りを欲りす

これらの歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、病身の妻に対する私の気持を詠み込んである。私自身にとっても愛着のある歌群である。

以下、紅蜀葵を詠んだ句を引いておく。

 引き寄せてはじき返しぬ紅蜀葵・・・・・・・・高浜虚子

 紅蜀葵肘まだとがり乙女達・・・・・・・・中村草田男

 花びらの日裏日表紅蜀葵・・・・・・・・高浜年尾

 踵でくるり廻りて見せぬ紅蜀葵・・・・・・・・加藤楸邨

 侘び住みてをり一本の紅蜀葵・・・・・・・・深見けん二

 伊那へ越す塩の道あり紅蜀葵・・・・・・・・宮岡計次

 夕日もろとも風にはためく紅蜀葵・・・・・・・・きくちつねこ

 仏みて夜に日にいろの紅蜀葵・・・・・・・・菊地一雄

 紅蜀葵わが血の色と見て愛す・・・・・・・・岡本差知子

 紅蜀葵女二人して墓に狎れ・・・・・・・・竹中宏

 紅蜀葵籠屋編む竹鳴らしたり・・・・・・・・岡村葉子

 紅蜀葵常住はだかなる昼を・・・・・・・・臼田亜浪

 草にねて山羊紙喰(は)めり紅蜀葵・・・・・・・・飯田蛇笏

 紅蜀葵真向き横向ききはやかに・・・・・・・・花蓑

 沖の帆にいつも日の照り紅蜀葵・・・・・・・・中村汀女

 つま立てて跼む女や紅蜀葵・・・・・・・・星野立子

 紅蜀葵日に向く花の揺れて居り・・・・・・・・土方花酔

 紅蜀葵砂浴び鶏の寄りどころ・・・・・・・・田島秩父

 紅蜀葵子の見上ぐるに撓ひ咲く・・・・・・・・西森請子


秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・・・・・・・・藤原敏行
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     秋来ぬと目にはさやかに見えねども
        風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・・・・・・・・藤原敏行


今日は「立秋」である。
この歌の詞書(ことばがき)に「秋立つ日によめる」とあるように、立秋の日に詠んだ歌である。
現実には、まだまだ暑い夏だが、二十四節気では、もう「秋」に入ることになる。
「風」のほんのかすかな「気配」によって秋の到来を知る。
この事実を詩にしてみせたことが、季節感に敏感な日本人の心に強くひびきあって、この歌を、今につづく有名な歌として記憶させて来たのである。

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この歌は『古今集』巻4・秋の歌の巻頭歌である。
藤原敏行朝臣という人が権力的にはどういう地位にいた人か、私は詳しくないが、この一首で後世に名を残すことになった。

『古今集』は「夏歌」の最後を凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の次の歌でしめくくっている。

  夏と秋と行きかふ空のかよひぢは かたへすずしき風やふくらむ

この歌には「みな月のつごもりの日よめる」の詞書がついている。
夏と秋とがすれ違う情景を空に一筋の季節の通路を想像して詠んだ歌である。
夏の終りの日に、片側の道から夏が過ぎ去ると、その反対側からは涼しい秋風が吹き始めてすれちがってゆくだろうか、と空想している歌であるが、
現実の季節はまだ暑さの中にあったろう。しかし暦の上では、すでに秋が来ている。

先に書いたように『古今集』の「秋歌」の最初は、それを受ける形で、掲出の藤原敏行朝臣の歌で始まるのである。
このように目に見えない風が、目に見えない秋を運んでやって来たのである。
この歌は実景を詠っているというよりは、むしろ「時の流れ」を詠っている。
こういう人間の「感性」の微妙な働きに対して、繊細に、敏感に耳目をこらす、こういう美意識が、
古来、先人たちが大切にしてきた日本人の季節感なのである。
この美意識は、次の『新古今集』になると、ますます研ぎ澄まされ、危ういほどの言葉の結晶になってゆく。

  おしなべて物をおもはぬ人にさへ心をつくる秋のはつかぜ

西行法師の歌である。
「心をつくる」秋のはつかぜといった表現には、『万葉集』はもちろん、『古今集』にも見出されない、内面化された風であると言える。

次いで式子内親王の歌

  暮るる間も待つべき世かはあだし野の 末葉の露に嵐たつなり

こういう歌、こういう物の見方になると、風はもう作者の心象風景の中を蕭条と吹き渡っている無常の時そのものになっているとさえ言えるのである。

しかし『古今集』『新古今集』の、いわば虚構の美意識は『万葉集』には、まだあまり鮮明には見られない。
万葉の歌人たちは「秋」を意識する場合にも、現実に秋風に吹かれている萩の花、雁、こおろぎ、白露などの具体物を先ずみて、
その目前の秋の景物を詠んだ。
 例えば

  秋風は涼しくなりぬ馬竝(な)めていざ野に行かな芽子(はぎ)が花見に

  この暮(ゆふべ)秋風吹きぬ白露にあらそふ芽子の明日咲かむ見む

  芦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る


このように吹く秋風についても、詠う対象は風そのものではなく、野に咲く萩であり、遠ざかる雁の声を詠うのである。
susukiすすき原②

いずれにしても、日本の詩人は、季節の節目節目を、先ず敏感に感じ取らせるものとして、風を絶えず意識していた。
おそらく、それは、四方を海に囲まれ、気象条件も海に支配されている島国に住む民族として、
風によって生活と精神生活の両面で左右されてきたということと無縁ではないだろう。
今日8月8日は立秋である。その日に因んで、この歌を掲げた次第である。




ちちをかえせ ははをかえせ/こどもをかえせ/にんげんをかえせ /へいわをかえせ・・・・・・・峠三吉
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 ↑ 峠三吉の遺稿「生」の自筆原稿
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   原爆詩集・序・・・・・・・・・・・・・・・・峠三吉

     ちちをかえせ ははをかえせ
 
     としよりをかえせ 

     こどもをかえせ

     わたしをかえせ わたしにつながる 

     にんげんをかえせ

     にんげんの にんげんのよのあるかぎり
 
     くずれぬへいわを
 
     へいわをかえせ 

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ネット上に載る彼の経歴などを引いておく。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

峠 三吉(とうげ さんきち。1917年(大正6年)2月19日 - 1953年(昭和28年)3月10日)は、詩人。本名は、三吉(みつよし)。日本共産党党員であった。

生涯 父・嘉一はタイル製造などを手がける実業家で、三吉は父の勤務地大阪府豊能郡(現在の豊中市)に生まれ、生後まもなく家族とともに父の故郷広島市に転居した。幼い頃から気管支の病気に苦しめられしばしば喀血、広島商業学校(現在の広島県立広島商業高校)在学時から詩作にいそしんだが、卒業後は長期の療養生活を余儀なくされ、この病気は三吉を生涯苦しめることとなった。

さらに1945年(昭和20年)8月6日、爆心地より3kmの広島市翠町(現在の南区翠町)で被爆。

敗戦後は広島を拠点とする地域文化運動で中心的な役割を果たし、広島青年文化連盟委員長に就任した。広島県庁での勤務や雑誌『ひろしま』編集のかたわら、1951年(昭和26年)には「にんげんをかえせ」で始まる『原爆詩集』を自費出版、原爆被害を告発しその体験を広めた。

1952年(昭和27年)、新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し入院することになり、持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意して、被爆から8年後の翌1953年(昭和28年)、手術を受けたがその際中に病状が悪化、14時間の苦闘のすえ手術台上で死没した。36歳没 。

峠の詩は、死後50年が経過し、著作権の有効期限が失効している。そのため様々な平和教材に引用されたり、ネット上で閲覧する事ができる。

峠三吉については ← この記事など、いろいろネット上に出ているので参照されたい。
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       心願の国・・・・・・・・・・・・・・・・・・原民喜

   濠端の柳にはや緑さしぐみ 雨靄につつまれて頬笑む空の下

   水ははっきりと たたずまい 私のなかに悲歌をもとめる

   すべての別離がさりげなく とりかわされ すべての苦痛がさりげなく ぬぐわれ祝福がまだほのぼのと
   向こうに見えているように

   私は歩み去ろう 今こそ消え去って行きたいのだ 透明のなかに 永遠のかなたに

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  ↑『原民喜詩碑』(平和記念公園 原爆ドームそば) 花の幻の詩碑  詩部分

「 碑銘 原民喜 
 遠き日の石に刻み 砂に影おち
 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻 」

この碑銘は、遺書にも書かれていた詩で、最終行から、民喜の命日は花幻忌と呼ばれる。当初、広島城内にあったものが、現地に移設された。
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峠三吉と並んで、挙げておかなければならないのが原民喜である。
彼ら二人は「被爆詩人」として、短いながら、作品を通じて原爆の悲惨さと平和を今も世界に訴えている。
遺稿「心願の国」には佐々木基一への手紙と並び、U・・におくる悲歌として、このような詩を残している。

tamiki2原民喜
 ↑ 原民喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原 民喜(はら たみき、男性、1905年11月15日 - 1951年3月13日)は、日本の小説家、詩人。

生涯 1905年11月15日、広島県広島市幟町に生まれる。陸海軍・官庁用達の縫製業を営む父原信吉の五男。11歳で父を亡くしたショックから極端な無口となり、兄・守夫と家庭内同人誌「ポギー」を発刊して詩作を始めた。またその頃死の床にあった姉ツルから聖書の話を聞き、生まれ変わるような衝撃を受けた。
1923年広島高等師範学校付属中学(現・広島大学附属高等学校)四年を修了し、大学予科の受験資格が与えられた為に一年間登校せず、ロシア文学を愛読し、宇野浩二に傾倒。室生犀星、ヴェルレーヌの詩を耽読。同人雑誌『少年詩人』に参加する。
1924年、慶應義塾大学文学部予科に進学。1925年、辻潤、スティルネルに惹かれ、ダダイズムを経て、一時左翼運動へ関心を高めるが、次第に離れていった。1933年に慶應義塾大学英文科を卒業。卒論は「Wordsworth論」。相当の身代金を出し、本牧の女性を自由にしてやり、一ヶ月間同棲をするも、裏切られカルモチン自殺を図るが失敗する。

1933年、評論家佐々木基一の姉、永井貞恵と結婚。1935年、小品集『焔』を自費出版。1936年から1941年にかけて『三田文学』などに短編小説を多数発表するが、1939年の妻の発病により次第に作品発表数は減少した。1944年妻が糖尿病と肺結核の為死去。妻との思い出は後に「忘れがたみ」(1946年)などの作品を生んだ。

1945年1月、郷里の広島に疎開、8月6日に広島市に原爆が投下され、生家で被爆、幸い便所にいたため一命はとりとめるが家は倒壊し、二晩野宿する。それ以後被爆との因果関係は不明であるが体調がおもわしくない状態が続く。原爆投下の惨状をメモした手帳を基に描いた「夏の花」(1947年)は、1948年、第一回水上滝太郎賞を受賞する。

1946年に上京。慶應義塾商業学校・工業学校の夜間部の嘱託英語講師をしながら、『三田文学』の編集に携わり、その間、遠藤周作をはじめ多くの後進を育てた。1947年12月、英語講師を辞す。1948年1月、『三田文学』の編集室のあった能楽書林に転居し、雑誌編集と執筆活動に専念。徹底して人間の苦しみに連帯し、死者の嘆きに貫かれて祈り描いた「鎮魂歌」(1949年)など一連の作品を残した。1948年6月、『近代文学』の同人となる。1950年、朝鮮戦争の勃発を見て詩「家なき子のクリスマス」を発表した。

1951年3月13日午後11時31分、慢性的な体調不良や厭世観を苦に、国鉄中央線の吉祥寺駅 - 西荻窪駅間で鉄道自殺する。遺稿に「心願の国」「永遠のみどり」。親しかった丸岡明は、原の自殺前後のことを小説「贋きりすと」に描いた。遺稿は「心願の国」。

原民喜は草野心平主催の『歴程』に参加し、多くの詩を創作、また童話も多数残した。
原は対人関係や日常生活において臆する幼児であったと形容されるが、「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕を貫け。帰るところを失った僕を貫け。突き放された世界の僕を貫け」(『鎮魂歌』より)にみられるように、内部において強靭な意志を持った作家だという事が垣間見られる。

原民喜についても、このリンクを見てもらいたい。
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今日8月6日は1945年に広島に原子爆弾が投下された日である。
多くの人が倒壊した建物とともに即死し、生き残った人も被爆した「放射能」の後遺症で死んだり、ガンの発症などの苦しみに遭い、今も、それは続いている。
長崎とともに、このことは永遠に記憶されなければならないことである。
私が、敗戦記念の8月15日とともに「鎮魂」と「非戦の誓い」の八月と呼ぶ所以である。
また一昨年には、三月十一日に地震・大津波と福島原発爆発事故が襲来し、大惨事となった。死者に対して哀悼の意を表するとともに、
原発廃止、エネルギー政策の方向転換を目指すべきだろう。 苦難の道は容易ではないが、前に進むしかない。


「人魂で行く気散じや夏の原」わしも老いこんで妻も弟子も去りよった、わしゃ人魂で飛ぶぞ・・・・・・・・・・木村草弥
img0406-02北斎お岩

     「人魂で行く気散じや夏の原」わしも老いこんで
        妻も弟子も去りよった、わしゃ人魂で飛ぶぞ・・・・・・・・・・木村草弥


葛飾北斎は晩年には妻も弟子も去ってしまい、悲惨な最期を遂げた、と言われている。
掲出した歌の「」内は、北斎の辞世の句と言われているもの。
その句を取りこんで私は第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)の中で「辞世②」でコラージュの作品として発表した。

掲出の写真は北斎の怪奇画「百物語 お岩さん」という作品。
夏の風物詩、お化け屋敷ではないが、「怪談もどき」でいいではないか。
v221神奈川沖波裏

v233凱風快晴

葛飾北斎の作品としては二番目の写真の富嶽三十六景図のなかの「神奈川沖波裏」や三番目の写真「凱風快晴」などが、一般によく知られる傑作とされる。
これらの作品は誰の目にも違和感なく受け入れられるものである。
しかし、北斎の活躍は多岐にわたっており、四番目に掲げる「大首絵」のように芸者や吉原の遊女を描いたものも多く、
北斎の真骨頂は美人画にあり、と断言する人もいる。
megane大首絵

これらの他に北斎には、いわゆる「春画」の傑作も数多い。
私のコレクションにも春画の傑作の複製画や、「万福和合神」という春画の絵読本なども先にアップしたので、ご覧いただいた人もあろうか。
よく知られているように喜多川歌麿の美人画や大首絵、春画などは輪郭の線の美しさが特徴である。
これに比較して、北斎の春画の特徴は輪郭の線も太く、繊細さには欠けるが、代りに一種のおどろおどろしさ、が漂っている。
葛飾北斎は宝暦10年(1760年)から嘉永2年(1849年)を生きた人だが、いわゆる幕末で、もうすぐ明治という直前の時代である。
明治元年は1868年である。
一番はじめに書いたように北斎の晩年は妻にも弟子にも去られて悲惨なものであったらしい。
そういう事実を知ればこそ、この北斎の辞世の句と言われるものも、一層真に迫ってくるし、さればこそ私は、その北斎の境遇に思い至って、
こんなコラージュの作品に仕立てたのである。一番はじめの写真の絵も辞世の句にふさわしい、と思うものである。

四番目の写真の大首絵には「風流無くてななくせ遠眼鏡」という詞書がついており、
何を覗いているのか美人芸者が遠眼鏡(望遠鏡)を覗いている図が描かれている。
あるいは他所の部屋で繰り広げられている痴態を覗き見しているのかも知れない。
v212両国橋夕陽見

五番目の写真は「両国橋夕陽見」という風景図である。
広重や北斎の絵は西洋画に大きな影響を与えた、とされる。
いずれにしても北斎89年の生涯は、まさに波乱万丈の一生だったようだ。その頃の年齢としては89歳という歳は長寿の部類に入るだろう。
彼については2009/01/23付けで「画狂人─葛飾北斎の生涯」という記事を載せたので、ご覧いただきたい。

北斎のことは、このくらいにして、私のコラージュの作品を読み返してみて、我ながら面白いと思うので、後日あらためて披露してみたい。

童話読むことも看とりや遠花火・・・・・・・・・・・・及川貞
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    童話読むことも看とりや遠花火・・・・・・・・・・・・・・・・・及川貞

夏の風物詩と言えば、何といっても「花火」だろう。花火は何となく「はかない」。
それは華やかにパッと咲いては消えてゆくからである。

この句を見て思い出すことがある。
亡妻はガンとの闘病で末期には、うつらうつらと夢幻のうちに寝ていることが多かったが、私は傍で本などを読んでいたが、一週間に一晩だけ次女が付き添いを替ってくれた。
次女は妻に本の「読み聞かせ」をしたらしい。 
だから妻は「あなたは自分だけ本を読んでいるが、次女は本の読み聞かせをしてくれる」と苦情を言った。
掲出の及川貞の句は、恐らく病気の子供に童話の読み聞かせをしている景だろうが、その連想から、こんなことを思い出した次第である。

花火という季語は元来は秋のものであったというが、やはり夏がふさわしく、今では夏の季語として定着している。
花火大会というと昔から東京の隅田川の両国の花火大会が有名でカギヤ、タマヤという花火師がいたらしく、花火が揚がるたびにタマヤ、カギヤの掛け声がかかったという。
tamura花火①

関西では、PL花火大会、琵琶湖花火大会、7月25日の天神祭の後、8月はじめに大川で挙行される花火大会などが有名である。
花火は火薬を使用するので花火師に危険は、つきものである。
今ではテレビなどの映像で知るだけでも、みんな会社組織になっている。国際的に活躍している人たちも多い。
日本の花火は一つ一つが芸術的に出来ているが、外国のものは数にまかせて一度にたくさん打上るものが多い。
日本の二尺玉、三尺玉などの単発の芸術作品もいいが、外国の数で押す手法と混合するのも、よいのではないか。
20000914_099_99n花火

ここに掲げた写真は、いずれもWeb上から拝借したものだが、これだけ鮮明に花火を撮るのは難しい。これらの写真は、よく撮れている。
ootutu②尺玉打上筒

四番目の写真には「尺玉打上筒」の説明がある。私は初めてお目にかかるもので、その大きさに改めてびっくりする。
今では打上げはコンピュータ制御で操作するらしいが、その制御に至る準備が大変だろう。
昔は打上げの際の爆発事故で目や手足を損傷した花火師もいた。今でも花火工場の爆発事故などもある。
打上げの際の華やかさに比べて、花火の製造や準備は地味なもので、ご苦労が偲ばれる。
であるから、花火を見る際には、それらのご苦労に対して、一瞬でも心を致したい。
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以下、花火を詠んだ句を古今を通じて引いてみたい。

 小屋涼し花火の筒の割るる音・・・・・・・・・・・・宝井其角

 物焚いて花火に遠きかかり舟・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

 宵々の花火になれて音をのみ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 空に月のこして花火了りけり・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 子がねむる重さ花火の夜がつづく・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 ねむりても旅の花火の胸にひらく・・・・・・・・・・・・大野林火

 花火あがるどこか何かに応へゐて・・・・・・・・・・・・細見綾子

 半生のわがこと了へぬ遠花火・・・・・・・・・・・・三橋鷹女

 黒き蔵王全し花火一瞬に・・・・・・・・・・・・杉本寛

 犬の舌したたかに濡れ揚花火・・・・・・・・・・・・荒谷利夫
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五番目の大野林火の句だが、私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)の中で、「辞世」①というコラージュ風の作品として

「ねむりても旅の花火の胸にひらく」冬の花火ってさみしくていいもんだよ・・・・・・・・木村草弥
                 *大野林火

という歌を作ったことがある。こういうコラージュの手法は絵画の世界では市民権を得ているが、歌の世界では、なかなか理解を得られず苦労した。

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