K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(9月)月次掲示板
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一昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
aaoohiganb3ヒガンバナ大判

九月になりました。
空には鰯雲、赤トンボが飛びます。

 岬遠く風吹く海に浜木綿は白き炎立つ夏の終りに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松本みよ
 痛ましき事故にて知れること多しプルトニウムといふ語も一つ・・・・・・・・・・・・・・・・ 神作光一
 老残を引け目となして若すぎる死者の柩のあしもとにたつ・・・・・・・・・・・・・・・・・蒔田さくら子
 蒼穹の果てに小さな椅子がある 言葉に終る生とおもうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤治郎
 みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏をはこぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生
 濡れやすき花と思へり秋海棠のこされて見しかの日よりずつと・・・・・・・・・・・・・・・・福井和子
 半身は秋涛深く裁ちてゆく吃水のごと薄野を行く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三宅勇介
 ポテトチップのコンソメ味がぽっかりと頭に浮かんでいる夜歩き・・・・・・・・・・・・・・・・・・永井祐
 秋がくれば 秋のネクタイをさがすなり 朽葉のいろの胸にしたしく・・・・・・・・・・・・・・土岐善麿
 九月一日すなはち九朔、哲久の生日にして第一歌集の名・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢口芙美
 ときどきは誰かのものでありたいよ 翳りのなかに箒は立てり・・・・・・・・・・・・・・・・・小谷奈央
 既視感(デジャビュ)は夢にもありて前にみし夢と知りつつ夢を見てゐる・・・・・・・・・・小野雅子
 ゆつくりと夕暮の来る気配して影をうしなふ舗道(いしみち)のうへ・・・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 燃えつきた夏がまだいる庭の空、鋏をたくさん入れた梢に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下泉
 つる草や蔓の先なる秋の風・・・・・・・・・・・・・・・・・・炭太祇
 水銀の重さの夜の雨しきり・・・・・・・・・・・・・・・林田紀音夫
 木草にも九月のたゆさあるべきか・・・・・・・・・・相生垣瓜人
 黒揚羽九月の樹間透きとほり・・・・・・・・・・・・・・・飯田龍太
 天山南路九月の砂漠河消えて・・・・・・・・・・・・・・・・久保武
 行くも帰るも世界の夏の生足よ・・・・・・・・・・・・・高山れおな
 小さき人やはりちひさき夏木立・・・・・・・・・・・・・・・山田露結
 夕づつの落鮎銀の塩振らな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水野隆
 Re:Re:Re:Re:Re:胸には刃物らしきもの・・・・・・・・ 守田啓子
 液晶の青より蒼に変るとき・・・・・・・・・・・・・・・・・・村松定史
 戦争と畳の上の団扇かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三橋敏雄
 朝顔をほめてこぼれる歯磨粉・・・・・・・・・・・・・・安川久留美
 我の目に映る鬼灯市を去る・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岸本尚毅
 ラストシーンに蜘蛛の降りる・・・・・・・・・・・・・・・・・藤井夢兎
 赤富士の烙印押されている大蛇・・・・・・・・・・・・・・・・・ことり
 夏霧や母なる臍といふところ・・・・・・・・・・・・・・・・鳥居真理子
 夏野さまようカザルスの鳥の歌・・・・・・・・・・・・・・・・マイマイ
 かどのある数字か星のよりどころ・・・・・・・・・・・・・・鴇田智哉
 かなへびのつめたく曳ける尾なりけり・・・・・・・・・・・村上鞆彦
 水槽にうかぶくらげとをんなのかほ・・・・・・・・・・・・・・・栄猿丸
 緋目高やこぼれんばかり鉢に水・・・・・・・・・・・・・・・大谷弘至
 木星の軌道に夏の夜の電話・・・・・・・・・・・・・・・・日下野由季
 信号の赤が真赤に夏の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鶴岡加苗
 風鈴に月照つてゐる少し鳴る・・・・・・・・・・・・・・・・・山口優夢
 湧き出して一円歪む清水かな・・・・・・・・・・・・・・・・・中本真人
 蜜豆大臣無邪気名刺でつくる塔・・・・・・・・・・・・・・・田島健一
 晴れた日はこわい顔して遠泳へ・・・・・・・・・・・・・・・・・ペペ女
 冷酒や亜流に生きて心地好し・・・・・・・・・・・・・・・小野富美子
 残されたかかしはグラスファイバー製・・・・・・・・・・・兵頭全郎
 そろそろを胸の谷間に泳がせる・・・・・・・・・・・・・・・・・ 丸山進  
 それは晩夏放電しているポテトサラダ・・・・・・・・・・・中内亮玄
 またひとつ思い出を死ぬ草いきれ・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第五歌集『昭 和』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
一般書店からの取り寄せは、角川書店の配本部門・角川グループパブリッシング発売、と指定されたい。
ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する ★ ──登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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( 旅行記 )アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅・・・・・・・・・・・・・木村草弥
map-franceフランス地図

旅物語0001
旅物語_0001

フランス美しい村
↑ 『フランスの美しき村』新潮社刊2002年初版 2009/11/15五刷



     アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(1)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

2013/09/20 関西空港を10:00にルフトハンザ・ドイツ航空LH741便で出発。全日空との共同運行コードシェア便である。
euro2013kix_07747-400.jpg

この機材は、ボーイング747-400、いわゆるジャンボジェットで、ひところ花形だったが、燃費が悪いため日系エアでは引退したが、国際的にはまだまだ動いている。
因みに、成田線では最新のエアバス製の総二階のA380-800が就航しているが、関空─KIX は古い機材のままである。
ただ、このジャンボ機は巡航速度が速いので、ヨーロッパに約12時間で着けるので乗客には有難い。
私は歳のことを考えてビジネスクラスにした。この旅では私だけ。 
スターアライアンスなので、ANAのマイレージにマイルを貯める手続きをした。

関西空港の受付カウンターで同行のT氏と知り合いになり、メールアドレスや住所など教えてもらったのは彼一人である。
元・某都市銀行の支店長などを歴任された方で、K大学法学部卒。昭和十四年生まれという。
今回の旅で孤立せずに過ごせたのは彼のおかげであり、ここに名前を記して厚く感謝するものである。

ほかにも私の名刺をあげた人は数人いるが、彼らが私に連絡をくれるかどうかは判らない。

また、ビシネスクラスの隣席には中年のドイツ人女性が座り、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』に続く新作『 I N F E R N O 』を読んでいる。
『 I N F E R N O 』とは、イタリアの昔の有名な作家・ダンテの『神曲』の題名である。
名刺も交換したが、製薬関係の会社のドクターとかMBAだとか刷ってある。
プライバシーもあるので会社名なども含めて伏せておく。
因みに『 I N F E R N O 』の日本語版は11/28に出るらしい。

約11時間50分のフライトでフランクフルトに現地時間14:50着陸。現地はまだ昼過ぎである。
EUに入域しパスポートにスタンプを捺してもらう。同行者は31人である。 添乗員は藤原さん。

フランスはあちこち行ったが、こちらのストラスブール、ブルゴーニュは初めてである。
時差ボケで辛いが、218㎞を約三時間かけて、今夜宿泊のストラスブールまでバス移動。今日は金曜日の週末で途中の道路は渋滞して混んでいる。
夕方おそく、宿泊のホテル─「ル・グラン」Le Grand Strasbourg に入る。ここには連泊する。

15893887ル・グランホテル
 ↑ 「ル・グラン」は建物の左端。    ↓ ホテル玄関
27278_31_bル・グランホテル玄関

このホテルは、フランス国鉄のストラブール駅前の大きなロータリーに面したところに建っていて、ロータリーを取り巻くように多くのホテルが見える。
ル・グランのように建物に複数のホテルがあるのはヨーロッパでは当り前。
この建物の右端には「イビス・ホテル」が見える。写真には無いが左手のビルには「メルキュール・ホテル」が見える。
これらのホテルはスタンタードなB級の三ツ星ホテルのチェーンとして知られている。今回の旅のホテルは最終日を除いて、みな、このクラスである。

ここで思い出すのが2003/06/12~06/21に旅した「グリムの森からハンザの道へ」のバスの運転手パトリックがストラスブール郊外に住んでいたことだった。
ヨーロッパは陸続きなので国境はあって無いようなものなのである。

ここで、この地域──「アルザス」について、Wikipediaの記事を引いておく。 ↓

アルザス地域圏(アルザス語:Elsàss、アレマン語:Elsäß、標準ドイツ語:Elsass、フランス語・英語:Alsace)は、フランス北東部に存在する地域圏。
西側の大部分をロレーヌ地域圏と接し、残りはフランシュ=コンテ地域圏と接している。東はドイツとスイスに接する。地域圏内にはバ=ラン県とオー=ラン県二つの県を含む。
アルザスの名前はドイツ語のEll-sassから取られている。地域圏最大の都市であるストラスブール(シュトラースブルク)を首府とする。
アルザスはかつては神聖ローマ帝国の領地であり、17世紀から19世紀にかけて何度もフランスとドイツを行き来してきた。
アルザスの住民の大部分はドイツ系のアレマン人一派であるアルザス人で、人口130万人の住民がドイツ語の方言であるアルザス語を言語としており、
アルザスはドイツ文化において重要な役割を果たしてきた。


王制時代は「ブルボン家に仕えるドイツ人」と呼ばれていた。首府はストラスブール(独:シュトラースブルク)。
域内面積は日本の兵庫県(約8,394平方キロメートル)と同じぐらい、人口は鹿児島県(約177万人)とほぼ同程度。
南北に細長く展開し、北部がバ=ラン県(「ライン川下流」の意味)、南部がオー=ラン県(「ライン川上流」の意味)にそれぞれ分かれる。
鉄鉱石や石炭を豊富に産出し、ライン川の水運を利用して古くから工業が盛んに行われていたことや、交通の要衝だったことも手伝って長くドイツとフランスの間で領土の獲得競争が繰り広げられてきた。
エルザス人(アルザス人)は明らかな異文化であるフランスとは同化せず、一方でドイツにあってはツァーベルン事件に代表されるように一等国民として扱わなかったために、独自のアイデンティティを保ち続けることとなった。

1870年の普仏戦争や1940年の第二次世界大戦におけるフランス降伏に伴ってドイツに占領されたが、戦後はフランスが再占領し現在に至っている。
この間、強引な同化政策が行われたことで、多くの住民はフランス語とアルザス語のバイリンガルであり、若年層ほどフランス語を多用する。
近年になってフランス政府は同化政策を改めたが、フランス語しか話せない若者も少なくなく、今後の教育方針をめぐる議論は続いている。
ヨーロッパ有数の経済地域であるドイツ・ライン川中流域との結びつきを深めており、生活水準はフランスの中でも高い方に属する。

アルザス=ロレーヌ(フランス語: Alsace-Lorraine、ドイツ語: Elsaß-Lothringen エルザス=ロートリンゲン、アレマン語: Elsäß-Lothringe エルゼス=ロートリンゲ)は、フランス共和国北東部のドイツ国境に近いアルザス地域圏(エルザス)とロレーヌ地域圏(ロートリンゲン)のうちモゼル県を合わせた地域。

鉄鉱石と石炭を産出するため、しばしばフランスとドイツとの間で係争地となったことで知られる。
第二次世界大戦以降はフランス領となったが、中心都市であるストラスブールには、それ以後、欧州の主要な国際機関が多く設置され、国を超え、欧州統合の象徴的な地域となっている。

アルザス・ロレーヌは元々ドイツ語文化圏に属し、特にアルザスで話されるアルザス語は南部ドイツ語の方言であるアレマン語の一つ。
元来はドイツの前身である神聖ローマ帝国の支配下にあり、住民の大多数はドイツ系のアルザス人(アレマン系)だが、『ツァーベルン事件』でドイツ人がアルザス人を侮辱する事件が起こったことをきっかけに、現在のアルザスの住民は「ドイツ人」という概念よりも、民族独自の「アルザス人」という意識が強くなった。

アルザス=ロレーヌ地方は長年神聖ローマ帝国傘下のロートリンゲン公国などの支配下にあった。
しかし17世紀になるとフランス王国が勢力を拡大してストラスブールなどを支配下に置いた。
1736年にロートリンゲン公フランツ3世シュテファンがオーストリア系ハプスブルク家(神聖ローマ皇帝家)のマリア・テレジアの婿に決定すると、フランス王国はロレーヌが実質的にオーストリア公領となるこの結婚に反対した。協議の結果、領土交換が行われ、一代限りのロレーヌ公となったスタニスワフ・レシチニスキの死後には完全にフランス領に編入された。

1871年、プロイセン王国が普仏戦争でフランスを破ると、プロイセンはフランスとの講和条件としてアルザス=ロレーヌを国土の一部とした。
プロイセン王国は「ドイツ帝国」の成立を宣言してこの地域を帝国の直轄統治下に置いた。
ただし元々アルザスの一部であったテリトワール・ド・ベルフォールは併合を拒んで激しく抵抗したためフランス領に留まった。
アルザス=ロレーヌという地域名称は、この時期に存在した「エルザス=ロートリンゲン」(ドイツ帝国を構成する26連邦構成国の一つ)をさすものである。

1919年、ドイツが第一次世界大戦で敗れると、一時アルザス=ロレーヌ共和国が独立を宣言したが、フランスが領有権を主張して認められた。
教育制度はフランス式に改められ、アルザス語の使用が禁止されてフランス語が公用語とされた。
またストラスブール大学に多くの研究者と教育予算があてられ、1929年にマルク・ブロックとリュシアン・フェーヴルの二人の教授により社会史のアナール学派が生まれた。
1930年頃、自治を求める運動が活発化した。
1940年にナチス・ドイツが第二次世界大戦で再びフランスを破って、首都パリを占領すると、再度アルザス=ロレーヌを自国に編入した。
だが、1944年にドイツに抵抗を続けていた自由フランスがパリを奪還して新政府を樹立すると、この地域からドイツ軍を追って再びアルザス=ロレーヌを領有して現行の国境となった。

欧州連合はその主要機関である欧州議会(Parlement européen)の本部を、欧州共同体時代の1979年に中心都市ストラスブールに置いた。
また、欧州審議会(Council of Europe、欧州評議会、欧州会議とも訳される)はそれ以前の1949年に、そして欧州人権裁判所は1959年にストラスブールに置いている。

フランスとドイツとの国境地帯にあり、フランスおよびドイツそれぞれの国から見れば地理的には周辺であるのにもかかわらず、欧州の「中心」地域になっている。
欧州統合を推進するフランスとドイツの中間点にあり、なおかつ欧州の中心ということは歴史をふりかえれば非常に象徴的である。

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↑ 巨大なドームのようなストラブール駅の外観。サマータイムの朝なので画像が暗い。 ↑ ↓ ホテルの自室から望遠で撮影。
DSCF0148.jpg
DSCF0167.jpg
↑ ロータリーの真ん中にはトラムと国鉄駅への地下通路の入口が口を開けている
mkfs_693ストラスブール・トラム
↑ ストラスブールのトラム 
ストラスブール
 ↑ ストラスブールの地図 (折り畳みで、拡げると新聞紙大の大きさになる)

後日談になるが、一行中には40~50代の女の人が多く参加していた。
それらの人たちが口々に言ったのがフランスの作家ドーデの短編小説「最後の授業」だった。
知らない人のためにWikipediaの記事を引いておく。 ↓

『最後の授業』(さいごのじゅぎょう、仏: La Dernière Classe)は、フランス第三共和政時代の初期、1873年に出版されたアルフォンス・ドーデの短編小説集『月曜物語』(仏: Les Contes du Lundi)の1編である。副題は『アルザスの少年の話』(Récit d'un petit alsacien)。『月曜物語』は1871年から1873年までフランスの新聞で連載された。

あらすじ
ある日、フランス領アルザス地方に住む学校嫌いのフランツ少年は、その日も村の小さな学校に遅刻する。彼はてっきり担任のアメル先生に叱られると思っていたが、意外なことに、先生は怒らず着席を穏やかに促した。気がつくと、今日は教室の後ろに元村長はじめ村の老人たちが正装して集まっている。教室の皆に向かい、先生は話しはじめる。

「私がここで、フランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」

先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」と語り、生徒も大人たちも、最後の授業に耳を傾ける。やがて終業を告げる教会の鐘の音が鳴った。それを聞いた先生は蒼白になり、黒板に「フランス万歳!」と大きく書いて「最後の授業」を終えた。

小説が書かれた時代背景
フランスとドイツの国境地域に位置するアルザス・ロレーヌ(フランス語: Alsace-Lorraine、ドイツ語: Elsass-Lothringen エルザス・ロートリンゲン)では古くからケルト人が住んでいた。ローマ帝国に支配された後は、歴史の中で幾度となく領土侵略が繰り返されたことにより、ゲルマン系のアルマン人とフランク人が相次いで侵入してきた。それにより北部ではドイツ語のフランク方言が、南部ではスイス・ドイツ語に近いアレマン語が長らくこの土地で話されるようになった。この地は、元来神聖ローマ帝国に属していたものの、帝国に野心を抱くフランスの侵略の標的となった。しかし神聖ローマ帝国の側では、アルザス・ロレーヌを帝国の領域から切り離してフランスに割譲する事によって、フランスの帝国への干渉を食い止めた(ヴェストファーレン条約を参照)。結局1736年に、アルザス・ロレーヌはフランスに編入された。その間に公用語としてフランス語を用いられたため、アルザス地方の言葉はフランス語の語彙が入ったアルザス語として形成されていった。

1871年に普仏戦争でフランスが敗れると、ベルフォールを除いたアルザスと、ロレーヌの東半分がプロイセン(ドイツ帝国)に割譲される、という複雑な経緯を辿る。普仏戦争に敗戦したフランスに反ドイツ感情が湧き起こったこの頃、毎週月曜日にパリで『月曜物語』の新聞連載が始まった。
ドイツ帝国統治下当時の住民の大多数はドイツ系のアルザス人だったため、フランス語にそれほどなじみがあったわけではなかった。ドイツ統一後もアルザス人は必ずしもドイツから完全な「ドイツ人」とは見なされていなかった節がある。しかし安全保障上の問題からエルザス・ロートリンゲンを必要としていたプロイセンが「統一ドイツ」というナショナリズムを利用して普仏戦争を勝ち抜いたという経緯もあり、後には自治憲法の制定を認めるなど、比較的穏やかな同化政策を取っていたと考えられている。しかしツァーベルン事件の発生後は中央政府および軍との関係が悪化し、自治憲法も停止された。戦間期と第二次世界大戦第一次世界大戦でドイツが敗北した後の1918年11月8日、同地域はアルザス=ロレーヌ共和国(fr)として独立した。アメリカのウィルソン大統領はこれを承認しようとしたが、フランスは拒絶した。11月19日にはフランスによって占領され、この地域は再びフランス領アルザス=ロレーヌとなった。第二次世界大戦時、ナチス・ドイツのフランス侵攻によって同地方は再びドイツ領エルザス=ロートリンゲンとなった。ナチス・ドイツの統治においても同化政策は一定程度踏襲された。

第二次大戦後のフランス化政策
第二次世界大戦後この地区には再びフランス化政策が敷かれたが、テロや独立運動が発生するなど反発が強く、間もなくフランス政府も方針を転換した。1999年のジョスパン改革により、初等教育からドイツ語・アルザス語の教育が認められている。イタリアの南チロル地方ほど明確なドイツ人地区あつかいではないが、バイリンガルを基本として民族的な独自性が尊重されている。ストラスブールにEU議会が設置されたのもこうした背景が大きい。
政治的には、普仏戦争で勝利したプロイセン王国がエルザス・ロートリンゲンでのドイツ式初等教育義務化を実施し、フランス語は外国語教育としてのみ導入されていた時代である。ただしもともと、アルザスにおけるフランス語は公的文書などのごく一部に使用されていたに過ぎず、フランス政府自身がアルザスにフランス語を強制しても定着の見込みはないと諦めていた、という意見もある。

小説の政治的側面
アルザスは以前からドイツ語圏の地域であり、そこに住む人々のほとんどがドイツ語方言のアルザス語を母語としていた。普仏戦争にも従軍したプロヴァンス(同地にはロマンス語系のプロヴァンス語がある)出身のフランス人である作者ドーデは、作中のアメル先生に「ドイツ人たちにこう言われるかもしれない。“君たちはフランス人だと言いはっていた。なのに君たちのことばを話すことも書くことも出来ないではないか”」(その後に、フランツや生徒だけの責任ではない、国語をきちんと指導しなかった我々大人の責任でもある、と反省の弁)と言わせている。

すなわち、アルザスの生徒達は(ドイツ語の一方言であるアルザス語が母語であるため、)国語であるフランス語を話すことも書くこともできず、わざわざそれを学校で習わなければならない状態であったのである。アメル先生は、アルザス語を母語とするアルザス人に対し、フランス語を「自分たちのことば」ないし「国語」として押しつける立場にあったものであり、本小説においてはこの点が隠蔽されていることとなる。

日本ではこの小説は1927年(昭和2年)に教科書の教材として採用された。戦後の一時期、『最後の授業』は教科書から消えたが、1952年(昭和27年)に再登場した。しかし、田中克彦の『ことばと国家』や蓮實重彦の『反=日本語論』などによる、「国語」イデオロギーによって言語的多様性を否定する側面を持つ政治的作品であるとの批判もあった。また、戦後のフランス政府は同地でのアルザス語・ドイツ語教育を容認しており、同作のフランス語純化思想はすでに過去のものとなっている。1985年(昭和60年)からは日本でも教科書に採用されていない。

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       アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(2)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

700px-Panorama_place_stanislas_nancy_2005-06-15スタニスラス広場
 ↑ ナンシー・スタニスラス広場のパノラマ
Nancy-place-stanislas-suedスタニスラス広場
 ↑ スタニスラス広場
o0480064010690730321世紀末のステンドグラス
 ↑ 世紀末のステンドグラス
無題ナンシー・世紀末のステンドグラス
 ↑ 世紀末のステンドグラス
ColA木組みの家
 ↑ 美しい「木組み」の家
1328967116ロレーヌ名物キッシュ
 ↑ ロレーヌ名物キッシュが昼食に出る。

     アールヌーヴォーの美術館のようなナンシー・・・・・・・・・・・木村草弥
     
第二日だが、初日は関空からフランクフルトに着いてEUに入域し、陸路バスでストラスブールに着いてホテルにチェックインしただけだから、今日が実質的に初日である。

先ず「天気」のことについて書いておく。
さすがに、こちらの気温は低い。朝の気温は10度くらいか。今日の予報は「晴ときどき雨」である。日中は最高気温も20度を超えるらしい。
実は、こちらに来る前に着るものの関係もあるので、九月はじめから毎日ネット上で「世界の天気」でストラスブールなどの気温をチェックていた。
八月下旬から九月はじめは、こちらも暑くて最高気温は30度を超えるような日があって、日本と変わらないのかと思っていたら、次第に気温は急に下がりはじめた。
おまけに半月ほどは雨ばかりで心配したが、今週に入ってから「晴」の予報が続くようになった。
予報によると、旅行中の一週間は「晴」の連続で、雨に遭う心配は無さそう。気温も二十度台の後半と、日中は結構暑いらしい。
朝晩の気温は低いから、着るものの選択に苦労しそう。

DSCF0181.jpg
 ↑ 最終日まで、行程で利用するバス。 運転手は大きな腹を突き出したフィリップ。

朝8時出発だから辛い。強行軍である。ホテルを出て約185㎞を二時間かけて、街全体がアールヌーヴォーの美術館のような古都ナンシーへ。

Wikpediaによると、ナンシーとは、こんなところである。 ↓

ナンシー(フランス語: Nancy、ドイツ語: Nanzig ナンツィヒ)はフランス北部、ロレーヌ地域圏の都市である。ムルト=エ=モゼル県の県庁所在地。近隣の都市としては、約45キロ北にメスが位置する。鉄鋼業で有名。

ナンシーのスタニスラス広場
896年、ナンシーの名はラテン語化されたNanceiacumとして記された。これはケルト語の人名をラテン語化したものとみなされている。
1073年、トゥール司教ピボンの特許状台帳においては、「ナンシーに捧げられたオルリー」(ラテン語でOdelrici advocati de Nanceio)と記されている。

歴史
ナンシーの誕生は、11世紀のロレーヌ公ゲラルト1世が建てた封建時代の城に関連する。その後彼の子孫によってロレーヌ公国の首都となり栄えた。シャンパーニュ伯継承戦争中の1218年、ロレーヌ公テオバルト1世に支配された。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって町は放火され徹底的に破壊された。その後再建され、新しい城によって拡張、防衛されるようになった。

18世紀、ロレーヌ公の地位にあったポーランド王スタニスワフ1世(スタニスラス)のもとで、街の景観が整えられた。現在も、広場の名前としてスタニスラスの名が残されている。スタニスラスが1766年に死去すると、ロレーヌ公国はフランス王国に併合された。

オーストリアの「女帝」マリア・テレジアの夫で、共同統治者 (Corregens) であった神聖ローマ皇帝フランツ1世・シュテファンはこの地の出身であり、スタニスワフ1世に譲位するまではロレーヌ公であった(ロレーヌ公国を放棄する代わりにトスカーナ大公となった) 。
普仏戦争後の1871年、フランクフルト条約によってストラスブール、メスとともにアルザスとモゼル県はドイツに併合された。ドイツ市民となることを拒んだアルザス人およびモゼル人の実業家や知識人たちが大勢ナンシーに移住してきた。ナンシーは新たな繁栄期と新たな文化の黄金時代を迎えた。15世紀頃から、ガラス工芸が盛んであったが、19世紀後半になると鉄鋼業が盛んとなり、新興の中産階級が台頭した。
1870年代から1900年代までの急激な人口増加で、ナンシーの都市化が無秩序に進行した。1894年に創設されたロレーヌ工芸会社はのちのナンシー派の集団で、エミール・ガレ、アントナン・ドーム、ルイ・マジョルール、ヴィクトル・プルーヴェ、ウジェーヌ・ヴァランたちがいた。

ナンシーはフランス第5の金融都市である。国内主要銀行の地方拠点がある。ナンシーにはムルト=エ=モゼル県商工会議所が置かれている。ナンシーはフランス北東部第一の医療都市で、大学付属病院が設置されている[3]。ナンシー市内および都市圏内には多くの私立クリニックがある。

ヴァンドゥーヴル=レ=ナンシーとの間の平野にあるナンシー=ブラボワ・テクノポールは、国内有数の規模を誇る。

ナンシー
 ↑ 日本語版のナンシーのガイド・パンフレット二種 (左は地図、拡げると新聞紙大になる)

n12ナンシーのトラム
ナンシーのトラム

02ナンシー派美術館
↑ ナンシー派美術館
ナンシー派美術館
 ナンシー派美術館のパンフレット

ナンシー派美術館(Musée de l'École de Nancy)は、フランスのナンシーにある美術館である。アール・ヌーヴォーの芸術家たちの作品で知られている。

エミール・ガレのパトロンであったウジェーヌ・コルバンの私邸を改装した美術館で1964年に開館。ナンシー派の芸術家たちの作品を多く所蔵している。庭園も整備されている。

コレクション
エミール・ガレのデザインしたベッドやランプ、ジャック・グリュベールのステンドグラス、ルイ・マジョレル、ウジェーヌ・ヴァランの家具などを所蔵。作品を展示しているというより、工芸品、陶器、ガラス製品、織物等が日常の生活空間の中に作品が配置されている。
01エミール・ガレ
 ↑ エミール・ガレ
04ナンシー派美術館内部②
05ナンシー派美術館内部
 ↑ ナンシー派美術館内部の展示
10美術館の広い庭にある唐傘のような屋根の水族館
↑ 美術館の広い庭にある唐傘のような屋根の水族館

     ストラスブール旧市街の散策・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

昼食後、来た道を引き返してストラブールへ。
800px-Strasbourg_PanoNE2ストラスブール
 ↑ ストラスブールの街 俯瞰
450px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_04ストラスブール大聖堂
 ↑ ノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂
800px-Strasbourg_Dom_Detail_9ストラスブール大聖堂詳細
 ↑ 聖堂内部の彫刻
800px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_03後陣
 ↑ 聖堂外部の壁を支える「後陣」─バットレスという

この教会については私のブログ──巡礼の旅──(21)「ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂」に詳しく書いておいたので参照されたい。

800px-Strasbourg-6-8_GrandRueストラスブール木組みの家
 ↑ 木組みの家
800px-Strasbourg,_Quai_des_Bateliersストラスブール運河沿いの木組みの家
 「プチ・フランス地区」運河沿いの木組みの家
447px-Strasbourg-27,_quai_des_Bateliers_(1)ストラスブール木組みの家
 ↑ 木組みの家

「木組みの家」は、ここだけではなく、ブルゴーニュ一帯で広く見られるが、フランス北東部のもので、先に挙げた「グリムの森からハンザの道へ」の記事にも書いたように、ドイツの「メルヘン街道」のマールブルクやハン・ミュンデンなどにも同様の木組みの家並が見られる。
これらから言えることは、これらの木組みの家の特徴は、この地域特有のものである。フランスの他の地域では見られない。
アルザス、ブルゴーニュなどの地域は、昔はゲルマンに属していたので、建物の作り方に、それらが出ている、と私は思うのである。
その理由については、先に書いた「アルザス」「アルザス・ロレーヌ」地域圏のところを参照されたい。

プチ・フランス地区
パリから高速鉄道で2時間。ドイツ国境にあるストラスブールには、「La Petite France」という観光名所があり、川辺の家並みが人気である。
でも、なぜ「小さなフランス」がフランスの都市にあるのか。

それは、この地が何度も国を替えたことに原因がある。
もともとケルト人の町だったが、後にゲルマン系のアレマンニア族が侵入。
ゲルマン系つまりドイツ人たちの町となり、さらにその後ゲルマン系のフランク王国に編入される。
次はドイツの原型となる神聖ローマ帝国。
このころ(16世紀はじめ)に、イタリア戦争から帰ってきたフランス兵が休息のために町に立ち寄る。

その際、この町で性病が大流行。
「あのフランス野郎どものせいだ」として、性病患者を隔離・収容した病院を「小フランス(Zum Franzosel)」と呼んだ。
その後、水辺でじめじめして不衛生、皮なめし業や漁師の住むこのエリアを蔑んで「小フランス」と呼び続けたそうである。

それから100年あまり、ストラスブールはフランスに併合される。
言葉も服装も習慣も違う国に併合された。
フランス語が定着するのはずっと後のこと。長い時間をかけて小フランスもフランス語で「La Petite France(プチット・フランス)」と呼ばれるようになった。
(ガイドブックなどでも「プチ・フランス」と書かれているが、正確には「プチット・フランス」というのが正しい。Franceという単語は女性名詞なのでPetiteとなり「プチット」と発音される)


観光地化されるのは20世紀になってからで、名前も家並みもかわいいエリアとなつたという次第。

フランク族はゲルマン系なのに、フランス語はドイツ語と違うのはなぜ?
「フランス」の元となるフランク族はゲルマン系(ドイツ系)だが、フランス語はドイツ語ではない。
なぜか。
フランス人の中で多数派の起源はケルト人(ガリア人)である。
彼らは独自の言語を持っていたが、ローマ帝国に支配されてからは、人々はラテン語を使うようになる。
そして、フランク族の侵入で、ラテン語はゲルマン語の影響を受けて変化していく。
しかし、それはガリア語がローマ語に変わるほどの変化ではなく、あくまでラテン語をベースに、オリジナルの言語、フランス語を作り上げていく。
13世紀頃から標準語としてはパリ周辺の方言フランシア語が定着するが、近年までゲルマン語の影響の少ない南部方言(オック語)との差は相当だ。
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「プチット・フランス地区」の美しい運河沿いの風景を見たあと、トラムが頻繁に行き交う通りで解散して夕食は近くのレストランで摂ることになり、一旦解散。
私はT氏を誘って「ストラスブールのトラム」に乗ってみた。
乗車券は自動発売機なのだが操作の要領がわからず、うろうろしていたら、若い女の子が操作してくれて「一区間」券を買ってくれた。 ↓
トラム
写真が、その券だが、乗るときには、日付と時刻を「刻印」しなければならないが、これもプラットホームに刻印機があり、これも教えてもらって乗車。
切符の「ALLER SIMPLE」という部分が「一区間」を表しているようだ。「ALLER」は「往」の意味である。
切符の「日付と時刻の打刻」の部分を赤ペンで囲っておいた。日、月、年、時刻が打刻されている。
券面の説明を読むと、打刻したら「一時間以内が有効」「復」は含んでいない、と明記してある。
勤め帰りの人たちで一杯である。
二駅乗って下車。反対側のホームから帰りに乗ろうとしたが、教えてもらった操作が出来ないので、二駅なので歩いて戻り、レストランで夕食。

夕食のあと、私たちのバスに拾ってもらって、今夜もストラスブールの同じホテルに連泊である。
 
トラムの写真は、先に載せたが、ストラスブール駅の地下ホームの写真も撮ったのだが、暗くて良い写真ではないので割愛する。
T氏のくれた写真も画像が暗くて不採用にさせてもらった。ご了承を。

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       アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(3)・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

フランス美しい村
↑ 『フランスの美しき村』新潮社刊2002年初版 2009/11/15五刷
この本には、フランス全土の「美しき村」のことが書かれているので、個々の村についてはムラがあり、詳しくないところがあるが仕方がない。

いよいよ第三日である。 8:30頃、ホテル出発。
ストラスブールを発って、「アルザス・ワイン街道」と呼ばれる道を走る。
ついでに書いておくと、他にも「グラン・クリュ街道」「ブルゴーニュ・ロマネスク街道」「ボジョレー・ワイン街道」などと続くが、それが出てくる都度説明する。

街中は別として、田園地帯にでると「霧」である。
日中と朝晩の気温差が大きいので朝霧が発生するのである。 進むうちに、じきに晴れる。
毎日記すことはしないが、行程中ずっと朝霧だったことを書いておく。 ただし霧の出た日は日中は「晴れる」というのが天気の鉄則である。これは和洋を問わない。


      フランスの美しき村「リクヴィル」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

街道沿いにはぶどう畑がつづき、木組みの家が点在する可愛らしい村を縫ってゆく。
約67㎞、一時間ほど走ってリクヴィルに着く。アルザス・ワイン産地の中心だが、小さい村。 Riquewihr と書く。
ここについてはネット上でも、いくつも紀行文が綺麗な写真と共に載っている。そのうちの一つ。→ 上村章文のブログなど参照されよ。

20111022155449c4fリクヴィル
 ↑ ぶどう畑に囲まれた土色屋根のリクヴィル
8D2T8892n1リクヴィル
8D2T8984n1城壁の門をくぐって村に入る
 ↑ 城壁の門をくぐって村に入る
8D2T8982n1昔ながらの木組みの家並み
 ↑ 昔ながらの木組みの家並み
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 ↑ リクヴィル村役場
DSC03399リク①
DSC03408リク②
DSC03424リク③
DSC03407クグロフ
 ↑ 昔ながらの菓子クグロフや塩っからいプレッツェルなども並んでいる。
lrg_12211529看板①
lrg_12211528看板②
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 ↑ ワイン試飲のカーヴの店
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 ↑ 周囲のなだらかな斜面に広がるぶどう畑

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 ↑ 昼食に出たタルト・フランベ(アルザス風ピザ)

       オベルネの新酒ワイン収穫祭・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

lrg_27049192オベルネ標識
 ↑オベルネ 道路標識
オベルネ
 ↑ 拡げると、オベルネのイラスト・ガイド地図
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 ↑ オベルネ 
20120726234710_455599360_2878_9オベルネ
 ↑ オベルネ
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 ↑ オベルネ収穫祭
fete_automne9オベルネ
 ↑ オベルネ収穫祭
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 ↑ オベルネ収穫祭
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 ↑ オベルネ収穫祭
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 ↑ オベルネ収穫祭
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 ↑ オベルネ収穫祭
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 ↑ オベルネ収穫祭

約44㎞は走ってオベルネへ。
写真にも出した「収穫祭」だが、今までは例年十月の第三の何曜日かに行なっていたのだが、その頃には気温も低くて人が集まらないので、
今年から九月二十二日にしたとかで、小さな村が駐車場にも溢れかえるような人混みである。
行列を見る日向は暑くて汗だくである。立ちんぼうで、とても疲れた。

オベルネとは、こういうところである。 ↓

オベルネ (フランス語:Obernai、ドイツ語:Oberehnheim)は、フランス、アルザス地域圏、バ=ラン県のコミューン。

由来
最古に記録されたオベルネの名称はEhinhaimまたはEhenheimである。これはゲルマン語源のober-に由来する。heimとは村、ehnとはライン川の支流の名称である。Obernaiのつづりは、古いアルザス語がフランス語化したものであるらしい。

歴史
オベルネ一帯は、7世紀にアルザスの公爵の領地だった。またオベルネは、アルザス公爵エティション=アダルリックの娘でアルザスの守護聖人である聖オディールの生誕地である。生まれつき盲目であったオディールは父親に疎んじられ、ブルゴーニュの修道院で育てられ洗礼を受けた。このとき奇跡が起こり、オディールは視力を取り戻したと伝えられている。エティション=アダルリックは山を提供し、そこにホーエンベルク修道院を建て、オディールは初代修道院長となった。オベルネから15km離れたところにあるこの修道院は、アルザスの巡礼地となっている。

オベルネが最初にその名を表すのは778年である。それはホーエンベルクとニーダーミュンスターの両修道院に依存していた。

ホーエンシュタウフェン家が11世紀後半にオベルネ城を建築している。12世紀のオベルネの繁栄の時代は、いまもコミューンの風景の中に名残をとどめている。1240年代、オベルネは都市に昇格し、1280年代に帝国都市となった。市民が聖母マリアに捧げた教会と鐘楼を建てたのもこの時代である。1354年には十都市同盟に加盟した。

帝国都市であったオベルネは神聖ローマ皇帝の直接支配下にあり、都市が皇帝に守られるのと引き換えに皇帝を支持し資金と兵士を供給していた。帝国の中では小さな存在であるオベルネは、行政権を持っていた。独自に税を徴収し、司法権を行使し、刑場も構えていた。オベルネには公共の秩序を保つための法律があり、14世紀後半に記された羊皮紙には、市が犯罪者から罰金を徴収していたことが記されている。オベルネには13世紀からハンセン氏病患者のコロニーがあり、14世紀には病院がつくられた。14世紀には公衆浴場が市内に三箇所あった。中世後期のオベルネは、堀で囲まれ、38の塔と12の門を備えた二重の城壁に囲まれていた。

15世紀から16世紀がオベルネの絶頂期であった。1562年、皇帝フェルディナント1世がオベルネを訪問している。

17世紀の三十年戦争でオベルネは荒廃し、スウェーデン軍、帝国軍によって占領された。1679年、ナイメーヘンの和約により、オベルネはフランス王国に併合され、神聖ローマ帝国時代にあった政治的自治が失われた。

普仏戦争後、オベルネを含むアルザスがドイツ帝国に併合され、1918年まで支配された。

    映画「ハウルの動く城」のモデル・小さな運河の街コルマール・・・・・・・・・・・木村草弥

この後は約48㎞移動して、映画「ハウルの動く城」のモデルになったとされる小さな運河の街コルマールを散策する。
この日は日曜日で、あいにくほとんどの店は開いておらず、「小ベニス」と呼ばれる運河の辺りを散策するのみである。日差しが強く暑い。
コルマール
 ↑ 拡げると、コルマールの地図のパンフレット
アルザス・ワイン
 ↑ 「アルザス・ワイン・ルート」パンフレット─拡げるとコルマールを中心にワイン街道の地図になっている。
    この表記を見ると、コルマール辺りは「アルザス」と呼ばれる地域なのだと、よく判る。地名の発音からしてドイツ語風である。
1463425473_3a1cf8c21c_zコルマール運河
↑ コルマール運河
305736088_7890608640_zコルマール木組みの家。建物の上部が出っ張っているのは昔の税金対策の名残
↑ コルマール木組みの家。建物の上部が出っ張っているのは昔の税金対策の名残とか
1622809735_7a7390be24_zコルマール 小ヴェニスと呼ばれるエリア
 ↑ 小ヴェニスと呼ばれるエリア
4845827962_1fcc19ed92_zドミニカン教会の広場
 ↑ ドミニカン教会の広場
112793307_70480ab729_z看板①
 ↑ 何とも可愛らしい看板
5328047526_0474f9d286_z酸っぱいキャベツの漬物シュークルート(サワークラウト)
 ↑ 酸っぱいキャベツの漬物シュークルート(サワークラウト)

すごいボリュームがあり、これを食べたのが悪かったのか、翌朝、激しい下痢に見舞われ、ワインや肉をパスするなど、ひどいめに遭う。
同行のO氏から下痢止め薬をもらうなどして、やり過ごす。O氏には感謝したい。
虚弱体質の本性が突発したのである。
なお後日談になるが、先にかいたT氏も帰国便の飛行機の中で激しい下痢に襲われたという。
私だけでなく、みな疲れが胃腸に来るのである。


コルマールのことをWikipediaから引いておく。

コルマール(フランス語:Colmar, 標準ドイツ語・アレマン語(アルザス語):Kolmar(コルマールまたはコルマー))は、フランス東部、アルザス地域圏の都市である。

オー=ラン県の県庁所在地。面積は 66,57km²、人口は1999年現在、約6万5千人。隣接都市を併せた人口は約8万6千人、都市圏としては約11万6千人の人口を有する。標高は197m。

主な産業は電気機器 電機部品製造 製薬業。

コルマールはかつての神聖ローマ帝国自由都市であり、歴史ある街である。
コルマールに触れた最古の文献は823年のものであり、そこではこの街はコルンバリウム(Columbarium, ラテン語で鳩小屋の意)として言及される。13世紀初頭には街に城壁が築かれ、1226年にはコルマールに帝国自由都市の資格が与えられた。

1354年にアルザス10都市が結んだ「十都市同盟」にも、コルマールは参加している。この同盟の目的は、帝国都市としての権益と自由を擁護することにあった。17世紀後半、アルザス地方がドイツ圏からフランス王国に割譲されるとともに、ドイツ文化圏のコルマールはフランス領アルザスの一都市となった。
フランス革命後、1791年の旧地方区分廃止と県の設置に伴い、コルマールはオー=ラン県の県庁所在地となった。普仏戦争でフランスがプロイセンに敗北した後、1871年アルザスはドイツ帝国に割譲され、コルマールはドイツ領エルザス=ロートリンゲン州の一部となった。
1918年にフランスは再びコルマールを自国領に編入した。第二次世界大戦で1941年フランスがドイツに降伏すると、コルマールはバーデン=アルザス大管区に編入された。同地はドイツ国土の一部とされ、1942年にはドイツ国防軍がコルマールに進駐した。コルマールに連合軍が進駐したのは1945年2月である。(コルマールの戦い)

観光
コルマールの旧市街には中世からルネサンスの街並みがよく保存されている。またウンターリンデン美術館はドイツ中世絵画のマティアス・グリューネヴァルトの『イーゼンハイムの祭壇画』をはじめとする中世絵画および工芸品を展示する。 また自由の女神像などを製作した彫刻家フレデリク・バルトルディはコルマールの出身であり、その生家は現在記念館となっている。

日本とのかかわり
郊外には多数の日本企業が進出しており、そのため転勤による日本人住民も比較的多い。日本人児童は現地の学校に編入するのが主であるが、学校側も昔よりは受け入れ慣れしてきているほか、教育面でのサポートとしてコルマール補習校があり、週一で日本の教育を受けることも出来る。また、郊外の村キンツハイム(Kintzheim)には2005年(平成17年)まで、在外教育施設であるアルザス成城学園(中等部・高等部)があった。
英国オックスフォード大学院留学中であった浩宮徳仁親王と、ハーバード大学在学中であった小和田雅子が、1984年(昭和59年)9月に会っていたと一部マスコミ記事で報じられたことがある土地でもある。但しコルマールでの二人の出会いは公式には認められていない。

5550003687_803f13fc9b_zベッコフという郷土料理
 ↑ 「ベッコフ」という郷土料理   ↓ その由来の物語
かつてアルザスの主婦たちは毎週月曜日は洗濯の日と決まっていたそうな。
そして手仕事の洗濯は、やっぱり一日掛りの大変な仕事であったそうな。
朝から夕方まで一日洗濯から手の離せない主婦たちは、前日の日曜の夜に牛や豚や羊やらの肉の切れ端を土地の白ワインと一緒にベッコフ鍋に漬け込んでおいて、翌朝に野菜をその鍋に何でも入れて洗濯に向かう途中、なじみのパン屋へ預けていったそうな。
パン屋は朝早くからパンを焼き始め昼過ぎには仕事は終わっていたのだろう。預かったベッコフ鍋にあまり生地で隙間を押さえまだまだ十分に熱い仕事の終わった石窯に入れておいてあげる。

DSCF0188.jpg
18:30頃、今夜宿泊の「ノボテル・コルマール」に入る。ここもAccorHotelチェーンの客室66の三ツ星ホテル。
市内中心部より車で約5分、コルマール空港近くに位置するホテル。低層の建物で紫の「NOVOTEL」のロゴが目印。
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        アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(4)・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

lys0621ブルゴーニュ太公宮殿
 ↑ ブルゴーニュ大公宮殿
Dijon-egli-4サン・ベニーニュ大聖堂
 ↑ サン・ベニーニュ・ド・ディジョン大聖堂
01488099008ノートルダム・ド・ディジョン教会
 ↑ ノートルダム・ド・ディジョン教会
lrg_10961369ノートルダム・ド・ディジョン教会 ふくろう像
 ↑ ノートルダム・ド・ディジョン教会 ふくろう像
450px-Dijon_coin_du_miroir_054ディジョン中世の家
 ↑ ディジョン─中世の家

          かつてのブルゴーニュ公国の首都ディジョン観光・・・・・・・・・・・・・木村草弥

いよいよ第四日目になった。
コルマールを朝発って259㎞約三時間半走って、かつてのブルゴーニュ公国の首都ディジョンに着く。
旅はいつでも「移動」に大半の時間がかかるのが難である。

ディジョン(Dijon)は、フランス中部に位置する都市。ブルゴーニュ地域圏の首府、コート=ドール県の県庁所在地である。
かつてはブルゴーニュ公国の首都であった。マスタードの生産地として知られる。

歴史
新石器時代から人が定住していた。
ディジョンは、リヨン=マインツ間の通商路にローマ人によって建てられた都市Castrum Divionenseが始まりである。
1世紀の終わりには、近郊のシャロン=シュル=ソーヌからラングルの間を結ぶローマ街道が通っていた。2世紀には、市街地が既に繁栄していた。
3世紀の民族移動時代には、蛮族の侵入を受けた。聖ベニグヌス(フランス語名ベニーニュ)がこの地にキリスト教を伝え、殉教した。
メロヴィング朝時代に、ディジョンを意味するDivioという地名が遅れて歴史に登場した。
5世紀より、ラングル司教座がディジョンに置かれ、聖ベニーニュを埋葬した修道院が崇敬を受けた。
6世紀、トゥールのグレゴリウスは、自著Histoire des Francs ( Historia Francorum )の中で、ディジョンを『堅固な城壁のあるカストゥルム(Castrum)』として記述を残している。10世紀のイタリア人聖職者グリエルモ・ヴォルピアーノは、イタリアやフランスを巡礼してまわったが、ブルゴーニュでも他と等しく逗留し、990年には当時重要な巡礼地であった、ディジョンのサン=ベニーニュ修道院の聖職者となった。

1031年、ブルゴーニュ公ロベール1世が公国の首都をディジョンとした。

1137年、ディジョン中心部が大火で灰と化した。歴代の公爵は、城壁を以前の物よりさらに大きい物へと再建した。この城壁は18世紀まで、旧市街を守っていた。
12世紀終わりから13世紀にかけ、サント=シャペル、サンテスプリ病院、ノートルダム教会といった貴重な建物で市は飾られた。

1363年から1477年まで続いたヴァロワ家のブルゴーニュ公時代が、経済的に豊かで芸術・科学や学問が盛んとなった、最も繁栄した時代であった。
公国は、現在のオランダにまで領域が及んでいた。フィリップ豪胆公は、一族の墓所としてシャンモル修道院を建設し、数多くの芸術作品で飾り立てた。
フィリップ善良公は1432年にオテル・デュカル(公爵宮殿)を再建した。宮殿内の礼拝堂では、金羊毛騎士団の会合が開かれた。

シャルル公は内政を顧みなかった。彼はフランス王との争いに敗れ、1477年に死んだ。ルイ11世はブルゴーニュ公国を併合し、自分用の宮殿をディジョンに建設した。

1513年9月、同年6月のノヴァラの戦いで大勢のスイス兵と戦って敗退した、司令官ルイ・ド・ラ・トレモイユは、支払いの約束された40万エキュを持って立ち去ることができなくなった。
これらの金が思いがけなく引き渡され、ノートルダム・ド・ディジョン教会に保存されている『黒い聖母』へのとりなしとされた。

ブルゴーニュ議会がボーヌからディジョンへ移されると、官位を持つ貴族らがこぞってディジョンに邸宅を建てた。
対抗改革の後、ディジョンには新たな教会、礼拝堂、修道院が建てられた。
フランス王(アンリ4世だと言われている)が、ディジョンを『間抜けどもの都市』(ville aux cent clochers)と呼んだという。
市の経済活動においては、ブドウ栽培の開発がとりわけ無視できない。18世紀は、ディジョンの繁栄の新時代であった。1731年には司教座が置かれた。

近郊のル・クルーゾで採掘される石炭と鉄の運搬のため、ブルゴーニュ運河が1832年に開通し、ディジョンは重要な経済都市となった。1851年、パリ=ディジョン間の鉄道が整備された。この結果、ディジョンの経済成長が急速に進んだ。

1870年10月30日、普仏戦争にフランス第二帝政が敗れて新たに臨時政府が樹立される中、プロイセン軍がディジョンを占領した。11月26日、ジュゼッペ・ガリバルディ率いる共和派義勇軍(ヴォージュ軍)と、フランス正規軍のシャルル・ブルバキ将軍が攻勢を開始した。しかしプロイセン軍の妨害でブルバキ軍は合流に失敗してスイス国境に追いやられ、ヴォージュ軍は一旦オータンに引き返してプロイセン軍と戦った。プロイセン軍はオータンを攻めあぐねてディジョンに戻り、やがて別の攻撃を行う必要から一時的にディジョンからも後退した。

1871年1月21日、戦力を補充したヴォージュ軍は再度の進軍に乗り出し、これにプロイセン軍もディジョン西方から防衛軍を引き返させた。戦いでヴォージュ軍はリッチョッティ・ガリバルディ隊が第61ポメラニア連隊の連隊旗を奪取する戦功を挙げ、1871年1月25日にプロイセン軍はディジョン確保を諦めて後方に下がった。入城したガリバルディとヴォージュ軍は共和派の住民から歓迎されたが、反対に保守派の住民からは外人部隊としてプロイセン同様に敵視された。臨時政府がパリ防衛の為に他の拠点を捨て駒にすると、ヴォージュ軍もディジョンから撤収を余儀なくされ、プロイセン軍が二度目のディジョン占領に成功した。

普仏戦争で自国の防衛設備がいかに旧態依然としたものか思い知らされたフランス政府は、ドイツ国境に近いディジョンの防衛設備を見直し、増強した。市内の各所に小要塞、兵舎、武器庫が造営された。ルイ11世の建てた宮殿は、この時の都市改造によって破壊された(Place fortifiée de Dijon)。

1940年から1945年にかけナチス・ドイツに占領され、フランス・イギリス・アメリカの合同軍によって解放された。

戦後、1945年から1967年まで市長を務めたフェリックス・キールの元で、ディジョンは都市化が進んで都市圏と市街圏が拡大した。
ディジョン
 ↑ ディジョンの地図 (拡げると新聞紙大になる)

見どころ
サン=ベニーニュ・ド・ディジョン大聖堂

ノートルダム・ド・ディジョン教会の黒い聖母    ↓
800px-Notre-Dame_Dijon_Vierge_noire黒い聖母

サクレ・クール・ド・ディジョン教会
数多くの戦禍に巻き込まれながら、かつての繁栄の時代を物語る建物が現存する。特に中心部には、12世紀から15世紀にかけ建てられた半木造の建物が残っている。
ブルゴーニュ公爵宮殿 - 1365年完成の、ルネサンス様式の城。
ルイ14世時代、宮廷の主席建築家ジュール・アルドゥアン=マンサールによってゴシック様式を基礎に再建され、1680年完成した。
現在はディジョン市役所とディジョン美術館が入っている。
ディジョン美術館に収蔵されている作品のほとんどが、歴代の公国の王によるコレクションで、質においてはルーブルにも匹敵すると言われる。
ただし、我々は限られた時間のツアーなので、美術館は詳しくは見なかったので、悪しからず。

サン=ベニーニュ・ド・ディジョン大聖堂 - 通称ディジョン大聖堂。13世紀完成。ローマ時代の納骨堂を含む、ゴシック様式の大聖堂。
元々は、サン=ベニーニュ修道院付属教会から発展したものである。2002年からディジョン大司教座が置かれている。
サン=フィリベール・ド・ディジョン教会 - ディジョン大聖堂に近接する。ゴシック様式。
ノートルダム・ド・ディジョン教会 - 13世紀完成。ゴシック様式。6世紀から7世紀の作とされる、黒い聖母像がある。
教会内礼拝堂には、ラ・シュエット(La Chouette、フクロウ)と呼ばれる彫刻がある。これは幸運をもたらすお守りとみなされ、願をかける人々が左手で触っていく。
現在のフクロウ像は複製品で、原型のフクロウ像は2001年1月に何者かによって壊された。以来、像の周りを監視カメラが作動している。
シャルトルーズ・ド・シャンモル修道院 - シトー会派。ブルゴーニュ公家の菩提寺。フランドル、ネーデルラント出身芸術家の作品で飾られている。
サクレ・クール・ド・ディジョン教会 - 1938年完成。ネオ・ビザンティン建築
サンテチエンヌ・ド・ディジョン教会 - 古代のカストゥルム時代の信仰の地であった。かつては修道院に付属していた。教会は1731年完成。フランス革命後に廃止され、現在は市の経済局と、フランソワ・リュド美術館が入っている。
サクレ・ド・ディジョン美術館

教育
ブルゴーニュ大学 - 26,700人の学生が学ぶ。

食品
ディジョンは美食の都として知られる。エスカルゴ(カタツムリの料理)、ブルゴーニュ産トリュフ、パン・デピス、ブフ・ブルギニョン(牛肉のワイン煮)、クレーム・ド・カシスの原料となる黒スグリなどが、ディジョンの味覚の代表である。

R0012605マスタード 老舗
 ↑ リヨン名産・マスタード─老舗MAILLEの品
b0043980_148542ディジョン、マスタード老舗
 ↑ マスタード老舗─MAILLE─リベルテ通、百貨店ラファイエットの筋向かいにある。
   凱旋門とノートルダム教会を結ぶ目貫きの通りに面していて、日本人観光客が群がって買っている。
   五種類ほどの小瓶をセットにしたものが手頃な値段なので「おみやげ」に適しているからである。
 
マスタード
ディジョンはマスタードで有名だが、現在ではマスタードの種のほとんどは輸入されている。ディジョン・マスタード(moutarde de Dijon)と呼ばれる伝統的なマスタードは強い風味を持っている。ディジョンでは変わったフレーバーのマスタードも作っており、陶器のポットに入れて売られていることが多い。アメリカなどでも「ディジョン・マスタード」という名前の商品は購入できるが、ディジョンで作られた本物ではない。本物を手に入れたかったら、瓶に入ったフランスから輸入されたものを選ぶ必要があるが、変わったフレーバーのものをフランス以外で手に入れることは難しい。

地理
ブドウ栽培地帯の中にあり、グラン・クリュ道途上にある。パリの南東300km、ジュネーヴの北西200km、リヨンの北180kmの地点にある。南は80km離れたボーヌまでグラン・クリュ道が続く、ブドウ畑で覆われた一帯である。西は標高500mほどの石灰質の高原となっており、無数の谷や窪地がある。東は、ソーヌ川平野の発端であることがはっきりとわかる、標高240mほどの高原である。

tjfr_294ディジョン・トラム①
 ↑ デイジョン・トラム(ネット上から借用。借用に感謝します)

page_escargo6_1エスカルゴ・ブルゴーニュ風

 ↑ この日の昼食に「エスカルゴ・ブルゴーニュ風」が出る。 美味しかった。
かつてはブドウの葉につく害虫だったが、食べたら美味なので飼って当地名産の食材としたのである。ガーリックとバターで味付け。 

b0144347_21593332グラン・クリュ街道
 ↑ グラン・クリュ街道沿いのぶどう畑
6105947490_910f2b8f7aグラン・クリュ街道標識
 ↑ グラン・クリュ街道標識

     グラン・クリュ街道のぶどう畑の丘陵「コート・ドール」をドライブ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「コート・ドール」とは、ドール=黄金の、丘の意味である。
見出しの「クリュ」Cru とは「ぶどう生産地」「ワイン生産地」の意味で、「グラン・クリュ」=grand cru とは「特産地」ということになる。

途中にはワインのシャトー(醸造所)の案内標識が見られる。
移動途中なので 銘酒「ロマネ・コンティ」の畑を見に行く
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 ↑ 石垣に囲まれた「ロマネ・コンティ」の畑
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「ロマネ・コンティ」は一本数十万円もするものだから、手が出ないので、せめて「ぶどう畑」だけでも見ようというものである。
「ロマネ・コンティ」は年間6000本とか8000本しか瓶詰めしないと言い、それだけ厳選されているので超高価になるのであった。
れわれ以外にも観光バスやタクシーで畑を見にくる人が多いのには、あきれかえるばかりである。タクシーで乗り付けた中国人の数人がいた。
せめてネット上からワイン瓶の画像を出しておく。 ↓

romane1ロマネ・コンティ
DSCF1220_convert_20090223095405ロマネ・コンティ

夕方はやく、今夜宿泊の「メルキュールホテル ボーヌ サントル」MERCURE HOTEL BEAUNE CENTRE に入る。
ここは部屋数107のホテル。
オスピス・ド・ボーヌから歩いて5分位。カルフールの横にあり、とても便利な立地。ここには連泊する。 ↓
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Photos de Mercure Beaune Centre - Images pour Hôtel

夕食はブルゴーニュ名物の「ブフ・ブルギニョン」─牛肉の赤ワイン煮。「ブフ」とはフランス語で牛肉の意味である。 ↓
ff5603fdブフ・ブルギニョン
 
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       アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(5)・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

第五日である。
今朝も早い出発である。ホテルを出て約119㎞二時間走ってヴェズレーに着く。
ヴェズレー(Vézelay)はフランス中部のブルゴーニュ地方、ヨンヌ県の古都である。

丘の上にあり、マグダラのマリアの遺骸(頭蓋骨)を移送したと主張するサント=マドレーヌ大聖堂などがある。
「ヴェズレーの教会と丘」という名で1979年にユネスコの世界遺産に登録されている。中世自由都市のひとつ。
この地で聖ベルナールが第二次十字軍を提唱した。ロマン・ロラン終焉の地でもある。

町の通りに埋め込まれている帆立貝の文様は、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの道しるべである。道はここから遠く、ピレネー山脈を越えてスペインへと続く。
ヴェズレーから国境を越え、イベリア半島北西部に続く巡礼道である。
この道も「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として世界遺産に登録されている。
私のブログで──巡礼の旅──(19)の記事を、まるごと引いておく。  ↓

20121206131023tpBAヴェズレーの丘と教会
 ↑ ヴェズレーの丘と教会
vezelay30ヴェズレー サント・マドレーヌ聖堂
↑ ヴェズレーの丘 サント・マドレーヌ聖堂
vezelay04サント・マドレーヌ聖堂ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
 ↑ ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
vezelay07柱頭彫刻①
 ↑ 柱頭彫刻①

──巡礼の旅──(19)

     ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖マドレーヌというのは「マグダラのマリア」のことである。
かつては娼婦であり、キリストの教えにより悔悛し、復活したキリストを最初に見た、という彼女の遺骨を納めているという。真偽のほどは置いておく。
人々がそれを信じたという事実が肝要なことなのである。
ここはスペイン西北端サンチアゴ・デ・コンポステーラへ続く大巡礼路の出発点のひとつであり、長い参道が修道院まで続く。
1146年には聖ベルナルドゥスが第二回十字軍を説いた場所でもある。西正面の外観は十九世紀の作なので大したものではない。

サント=マドレーヌ大聖堂 (Basilique Sainte-Madelaine) は、フランスの町ヴェズレーの中心的な丘の上にあるバシリカ式教会堂。
この教会と丘は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ヴェズレーの教会と丘」)。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつという歴史的重要性もさることながら、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。

Wikipediaに載る記事を引いておく。 ↓
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861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。
その際に、修道士の一人がマグダラのマリア(サント=マドレーヌ)の聖遺物を持ち帰るためにプロヴァンス地方のサン=マクシマンに派遣された。

878年には、この初期カロリング様式の教会は、ローマ教皇ヨハネス8世によって、現存する地下納骨堂ともどもマグダラのマリアに捧げられた。
ジョフロワ修道院長 (l'abbé Geoffroy) はマグダラのマリアの聖遺物を公開し、それが様々な奇跡を起こしたとされる。
これによって、巡礼者が押し寄せ、ひいてはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に組み込まれることになったのである。

こうした評価は村を都市へと発展させる原動力となった。
巡礼者たちは引きもきらず、その中にはブルゴーニュ公ユーグ2世(1084年)や、イングランド王リチャード1世(1190年に第3回十字軍遠征に先立って)、フランス王ルイ9世(1248年)なども含まれることとなる。

アルトー修道院長 (l'abbé Artaud) は、1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。
ただし、この新築にかかる費用の負担に反発した住民たちが暴動を起こし(1106年)、この時にアルトーは殺された。
なお、この時点では身廊はカロリング様式のままだったが、1120年7月25日に1127人の犠牲者を出した大火災に見舞われたことで、身廊も建て直された(1138年に完成)。
なお、今に残る正面扉上の美しいティンパヌムが彫られたのもこの頃のことである(1125年 - 1130年)。
1146年の復活祭の日(3月31日)に、クレルヴォーのベルナルドゥスは、丘の北斜面にて第二次十字軍を派遣すべきであると説いた。また、1166年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが、この教会で、イングランド王ヘンリー2世の破門を宣告した。
教会の人気は、1279年にヴェズレーへ持ち去られたはずの聖遺物と称するものがサン=マクシマンで発見されたことで、凋落の一途をたどった。
この教会は1162年にはクリュニー修道院から分離し、オータン司教からフランス王の監督下に移っていたが、1217年にはフランシスコ会に引き取られ、1537年に還俗した。
1569年にはユグノーによる略奪を受けた。その後、1790年にはフランス革命の中で小教区の一教会となった。この頃、教会参事会室だけは良好な状態で保たれた(現在も付属のチャペルとして残存している)ものの、ほかは建材調達のための石切り場と化し、自慢のティンパヌムも酷い有様だった。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。
こうした度重なる損壊に対し、プロスペル・メリメの発案に従って、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックに再建が委ねられた(1840年)。
この再建工事は1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
一連の教会群は、ヴェズレーのなだらかな丘の上に建っている。
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vezelay26ホタテガイ
 ↑ だらだら坂の舗道に埋め込まれた巡礼路を示すホタテガイ

サント・マドレーヌ聖堂のもう一つの見所は、100点にもおよぶ身廊(正面から内陣へと向かう東西に細長い空間)と側廊(身廊の左右にある通路)を仕切る柱にある柱頭彫刻である。
建築と調和したロマネスク彫刻はこの時代の美術を代表するもので、各地の文化的素地の多様性、人々の想像力の豊かさ、深い宗教精神を伝えているという。
柱頭彫刻はギリシャ時代からあったが、ギリシャのものは主に植物的な文様であり、物語的な柱頭彫刻はロマネスク芸術から始まったそうである。
一、二引いて解説してみよう。
vezelay09エジプト人を殺すモーゼ
 ↑ エジプト人を殺すモーゼ
vezelay10ダビデとゴリアテ
 ↑ ダビデとゴリアテ

ダビデは植物の花弁にのっかかって切り込んでいる。これはダビデが小さい子供であることを強調している。
ダビデが少年の頃に巨人戦士ゴリアテを倒す聖書物語は、信仰の厚いダビデの勇気と、神を嘲って武力に頼る暴虐なゴリアテの決闘の結末から、
信仰の大切さを学ぶ教訓として語られる、欧米人にとってなじみの深い話だそうである。

昔は字を読めない人が大半であり、しかも時代は中世であり、終末思想が強かった時代であり、キリストに救済を求める気分が支配していた。
だから信者や修道士を脅し、戒めるような主題が柱頭に並んでいる。
写真には一部しか出せなかったことも了承されたい。

CD.jpg

ヴェズレーの丘の頂上の教会で解散して、各自シヨッピングなどしながら丘の下のバスに戻る。
と言っても田舎の村で大した店があるわけではない。
私は途中のCD屋で聖歌のCD「Les Chants du Ciel」を買った。17ユーロほどである。 ↑

昼食は、丘の下のロータリー前のホテルで、魚料理である。

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beaune2005ボーヌ俯瞰図
 ↑ ボーヌ俯瞰図
musee-de-l-hotel-dieuオテル・デュー
 ↑ オテル・デュー
1004beauneボーヌの城壁
 ↑ ボーヌの街は城壁に囲まれていた。 写真は残る部分。

lrg_20197853ボーヌ
musee-du-vin-de-bourgogneワイン博物館
 ↑ ワイン博物館
imagesCAKH8503聖母子
 ↑ 聖母子像 
      
      ワインの聖地・ボーヌ・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

ヴェズレーには約一時間ほど散策して、119㎞約二時間かけて引き返してボーヌに戻る。

先ずWikipediaに載る記事を引いておく。 ↓

ボーヌ(Beaune)は、フランス東部、ブルゴーニュ地域圏コート=ドール県の群庁所在地。ボーヌ周辺はブルゴーニュ・ワインの産地として有名で、毎年11月にこの都市のオスピスで開かれるワインのオークションは国際的に名高い。

ボーヌのオスピス(ホスピス, 施療院)
1443年にブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロランが創設したもので、貧しい人たちに無料で医療を施した。入院の条件は、貧者であることただひとつだった。
王侯貴族から寄進されたブドウ園とそこから生産されるワインで、費用は埋め合わされていた。
この建物は、屋根瓦が、黄色や赤、茶色とカラフルで、しかもブルゴーニュ風の文様を描くようにデザインされていてとても美しい。
こうした施療院は、当時、オテル・デュー(神の宿、Hôtel-Dieu)とも呼ばれた。
現在では、その当時の薬品、医療器具を展示した医学博物館になっており、またワインオークションの会場としてよく知られている。
現存するオテル・デューの中でも最も有名な施設のひとつ。この施療院ブランドのワインもある。

イベント
「栄光の三日間(Les Trois Glorieuses)」
11月の第3日曜日をはさむ土曜日~月曜日の3日間にわたって開催されるワイン関連の祭り。
特に日曜日にオスピスで行われるワインオークションは国際的にも関心を集め、その年のワインの相場を占うものだとする見方もある。

ボーヌ生まれの有名人
ガスパール・モンジュ(Gaspard Monge, 1746年-1818年)- 数学者
フェリックス・ジアン(Félix Ziem, 1821年-1911年)- バルビゾン派の画家

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ボーヌというと、先年亡くなったフランス文学者の畏友・田辺保の本『ボーヌで死ぬということ』を思い出す。
↑ この本は、「オテル・デュ」施療院のことどもに触れて書かれている。彼はカトリック信者だった。


「オテル・デュー」では音声ガイドを聴きながら歩くが、反応も遅く、不完全なものだった。
入口の昔の表示によると「ホステル」と表記していたことが判る。 ↓ 
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見学コースのハイライトの「最後の審判」の絵の部屋は、押すな押すなの超満員である。 ↓

800px-Polyptyc_last_judgment-r最後の審判
↑ 「最後の審判」 作者 ロヒール・ファン・デル・ウェイデン 1445~1450年頃
 
あと、すぐ向かいのワイン・カーヴでワインの試飲を楽しむ。
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 ↑ ワイン・カーヴ(地下のワイン貯蔵庫)
lrg_27045787ワイン市場
 ↑ ワイン市場の建物

ここを見学した後は自由行動になり、夕食はイビス・ホテルで食べる。
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       アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(6)・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

P1020950ぶどう畑
 ↑ ぶどう畑が延々とつづく
6058794959_e4cf6a3263ボージョレ
↑ ボジョレ─ワイン街道の標識
6059324560_4d3e410709ワンの村
 ↑ 「ワン」村の看板─Oingtと書いて「ワン」とはフランス語特有の表記
6058785137_c6913ef559ワン風景
↑ ワン風景 高台にある
6058786933_2bf818f724ワン
6059332740_a3b730e7edワン
src_26399000ワン
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 ↑ ワンの高台からの眺望
フランス美しい村
↑ 『フランスの美しき村』新潮社刊2002年初版 2009/11/15五刷

      「フランスの美しき村」ワン・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

いよいよ六日目、ボーヌを朝出て、約二時間、140㎞をボジョレー・ワイン街道を走って「フランスの美しき村」の一つ「ワン」に着く。
オレンジ色の石壁の家並が美しい村を散策する。村は高台になっていて、うねうねと、だらだら上りである。
リヨンの北西41㎞にあり、もとワン城の城壁に完全に囲まれていたが、現在は入口の「ニズィ門」だけに跡が残る。
城の礼拝堂は、現在、村の教会になっており、九月の最初の週末には音楽祭が開かれるという。村の人口は523人だと言う。
高台にある村の周りは、すべて広大なボジョレー・ワイン畑が取り巻いている。
ご承知の通り、「ボジョレー・ヌーヴォー」(Beaujolais nouveau)は、新酒を仕込んで、すぐ賞味するというフルーティなワインで、日本人にはとても人気があるが、人によって好き好きである。
結構な値段になる割には、たいして旨くないという人もある。
毎年騒がれている、ボジョレー・ヌーヴォーだが、その解禁日は、毎年11月の第3木曜と決まっていて、2013年は11月21日。日付が変わった、午前0:00に、販売が開始される。
日本で騒いでいるのは、もちろんワイン会社のマーケティングや販売戦略なのだが、時差の関係で、先進国の中で一番早く解禁されるためである。
とにかく日本人は、軽い、フルーティな新酒が好きな人種である。

grape収穫
120930-211収穫
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この後、約38㎞一時間走って、最終地のリヨンを観光する。

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 ↑ 昼食を食べたレストラン(ベリクール広場の脇にある)
f0140365_21502833リヨン風サラダ
 ↑ 昼食に出た「リヨン風サラダ」 野菜の上に半熟タマゴが乗るものを称するらしい。

あと、先ず、リヨン歴史地区を一望する「フルヴィエールの丘」へ。

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 ↑ フルヴィエール大聖堂(ノートルダム大聖堂)──この建物は新しい。
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 ↑ 黄金の聖母像をかかげる古い聖堂──大聖堂の脇にある。 詳しくは ↓

先ず、ノートルダム大聖堂のことを書いておく。
フルヴィエールのノートルダム大聖堂、あるいはフルヴィエール大聖堂( Basilique Notre-Dame de Fourvière )は、フランス・リヨンのフルヴィエールの丘にあるバシリカ式教会堂。
献金により、1872年から1896年にかけて、街を見下ろす位置に建てられた。
パリのサクレ・クール寺院同様、1870年のリヨン・コミューンにおける、社会主義勢力に対するキリスト教勢力の勝利の象徴となっている。
ピエール・ボッサン Pierre Bossan による設計は、ロマネスク建築とビザンチン建築、2つの建築様式の特徴を備え、当時としてはまれなことにゴシック建築様式は採用されなかった。
すばらしいモザイク、ステンドグラス、 及び使徒ヨハネのクリプトを特徴とする。
バシリカではガイドツアーも催行されており、聖美術館 Museum of Sacred Art も含めると年間150万人の訪問客を迎える。

ボッサンによるバシリカの最初の設計は、1843年のペスト流行200年記念に続く1846年に遡ると思われる。 この時彼はパレルモにいた。

ノートルダム大聖堂が建つ土地は、かつてはトラヤヌスによる古代ローマのフォルム「フォルム・ウェトス forum vetus 」であり、その名前の由来となっている。
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 ↑ 丘への途中にある古代ローマ円形劇場跡。いまもコンサートなどに使われる。

フルヴィエールの丘の頂上にバシリカは印象的にそびえたっており、リヨンの街のいたるところから眺めることができる。
結果的に、フルヴィエール大聖堂はリヨンの街の象徴となった。
バシリカは主要な塔4基、鐘楼1基を備え、最上部に金色の聖母マリア像を頂く。
特定の時間にはバシリカの北塔に上ることができ、そこにはリヨンの街とその郊外の眺望が180度開けている。

フルヴィエール大聖堂は実際には2つの教会からなり、1つの教会の上にもう1つの教会がある。
上側のサンクチュアリはたいへん装飾的であるが、一方下側は非常に簡素なデザインである。
フルヴィエールは聖母マリアに奉献されている。
1643年のペスト流行からリヨンの街が救われたことを感謝して小さな教会堂が建てられ、19世紀中ごろには200周年を記念して、金の聖母マリア像が捧げられた。
毎年12月8日(無原罪の聖母の祝日)、リヨンは街の救済を聖母マリアに感謝して街中にキャンドルをともし、これは「光の祭典 Fête des Lumières 」と呼ばれている。

普仏戦争では、プロイセンの軍隊はパリを陥落させ、リヨンに向かって南進していた。 教会で再び聖母マリアに祈りを捧げると、軍隊は停止し撤退していった。
勝利を祝してバシリカの建設が1872年に始まり、1884年に完成した。 内装の完成にはさらに時間を要し、最終的な完成は1964年になった。

1982年には、ラジオ・フルヴィエール( fr:Radios chrétiennes francophones の前身)のアンテナが塔に立てられている。

フルヴィエールのノートルダム大聖堂は、1998年、リヨン歴史地区の一部として、UNESCOの世界遺産に登録された。

Lyon_20060705リヨン・フルヴィエールの丘から俯瞰
↑ リヨン・フルヴィエールの丘から俯瞰
15253989-lyon-cityscape-from-saone-river-franceフルヴィエールの丘
 ↑ フルヴィエールの丘と教会
20130416174919wsリヨン・ベリクール広場
a0258141_0241958リヨン・ベルクール広場
 ↑ ベルクール広場 Place Bellecour

ベルクール広場はリヨン市の中心部にあり、ローヌ川とソーヌ川にはさまれている。ヨーロッパでもっとも大きな広場のひとつで、東西 300m,南北 200m の長方形の広場。
1715年以来、周囲をマロニエ並木と道路で縁取られて中央にはルイ14世の騎馬像が建ち、カフェや観光案内所もある。ベルクール広場の周辺はホテル、レストラン、ショップが立ち並ぶ賑やかな一角。夜にはライトアップされる。

      フランス第二の都市リヨンでポール・ボキューズのディナーを賞味・・・・・・・・木村草弥

リヨンについてWikipediaから記事を引いておく。  ↓

リヨン (Lyon) は、フランスの南東部に位置する都市で、ローヌ=アルプ地域圏の首府、ローヌ県の県庁所在地である。

概要
リヨンの近郊にはリヨン市の人口を含め、164万8216人が住み(1999年)、都市圏としてはフランス第二の規模を持つ。
フランスにおける金融センターのひとつであり、多くのフランスの銀行の本店が置かれる。永井荷風が横浜正金銀行の社員として滞在したこともある。

ローマ帝国のガリア属州の植民市ルグドゥヌムとして古代から栄えた物資の集散地であり、中世には市の立つ町としてヨーロッパでも有数の交易地として栄えた。また、絹織物の産地としても知られる。旧市街はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

地理
北東から流れ込むローヌ川と、北から流れ込むソーヌ川がリヨンの南部で合流する。ソーヌ川の西側は石畳の街並みの残る旧市街で、リヨンの象徴サン・ジャン大教会の建つフルヴィエールの丘がある。

ローヌ川の東側はクレディリヨネタワーを筆頭に近代的な建物が並ぶ地域である。そのさらに東には、新興の住宅地域が広がっている。

歴史
紀元前43年に、ローマの植民市ルグドゥヌムとして建設され、2世紀には皇帝属州ガリア・ルグドゥネンシスの中心都市としてさかえた。カロリング朝のもとに司教座がおかれ、後の何世紀もの間、大司教に支配され続けた。1245年に第1リヨン公会議、1274年には第2リヨン公会議がひらかれた。14世紀初めフランス王国に併合され、このころから絹織物の交易の一大中心地として発展した。フランス革命が始まると、反革命派が反乱を起こし、それを鎮圧した共和国軍がリヨンの大虐殺を引き起こした。工業化がはじまった19世紀前半にヨーロッパ最大の絹織物・繊維工業都市となった。第二次世界大戦中は、ドイツ軍に対するレジスタンス運動の拠点のひとつだった。戦後は北アフリカの旧フランス植民地から多くの移民をむかえた。

日本との関わり
1855年にスペインで発生した蚕の病気がヨーロッパ全土に広まり、リヨンの絹織物産業に大打撃を与え、失業者が増大した際、日本の蚕が病いに強いこと、日本でも上質の絹が生産されていることが伝えられ、リヨンから横浜へ生糸と蚕を買い付けに来る人が殺到した。そのため生糸価格は暴騰、粗悪品が出回り、日本の生糸の評判が落ちた。需要拡大のため明治政府はリヨン近郊出身のフランス人技術者ポール・ブリュナーを招き、1872年に富岡製糸場が造られた。
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私の住むところは織物に使われる「金糸・銀糸」の全国の殆どを生産するところである。
私の小学校の同級生の親友S君のところも、この仕事をしているが、つい最近はヨーロッパも不況でダメらしいが、
数年前までは景気が良かったで、フランス向けの輸出で大儲けしたらしい。
それらの輸出先が、ここリヨンなのであった。
祇園祭の山・鉾にかけられている「胴掛」という織物・ゴブラン織は、ここリヨン製だと言われている。 付記しておく。
 
hdfr_170リヨン・トラム
 ↑ リヨンのトラム

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 ↑ 今夜、宿泊のホテル・PARK & SUITES APPART HOTEL(キッチン付のアパートメント・ホテル)

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 ↑ ポール・ボキューズのアレンジした料理店・ル・ノール
20100326_1444789ポール・ボキューズ
↑ ポール・ボキューズ
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「美食のリヨン」と呼ばれるが、リヨンの食について少し書いておく。

ボージョレ、ローヌ、ブルゴーニュといったワインの産地に囲まれ、ブレス産の鶏肉(AOC品質保証)やシャロレー牛の生産地に近いリヨン。
おいしい農作物が至るところで採れる、地理的に食材に恵まれた町だ。
パリにミシュランの星を獲得しているレストランが密集するにもかかわらず、「美食の町」と呼ばれ続けるリヨン。その魅力に迫る。

シンプルで質の高い「母の味」
リヨンは食材に恵まれてはいるものの、庶民の料理は内臓類や、淡水魚がベースとなっている。
ブションと呼ばれるリヨンの大衆食堂で出てくる代表的な郷土料理は、牛の胃にパン粉を付け焼いた「タブリエ・ド・サプール」、豚の血と脂身の腸詰め「ブーダン・ノワール」、豚などの臓物を詰めたソーセージ「アンドゥイエット」、カワカマスをすりつぶし、卵やパン粉を混ぜて蒸した「クネル」、鳥レバーのムース「ガトー・ド・フォワ・ド・ヴォライユ」、フロマージュ・ブランに調味料を加えた「セルヴェル・ド・カニュ」など。決して高級な料理ではない。

19世紀末、社会構造の変化に伴い、ブルジョワ階級の料理人として雇われていた女性は独立して働くようになった。
このことに加え、産業の発展や第1次世界大戦の勃発により、男性が重労働に従事せざるを得なくなったため、この時代にレストラン業を守ったのが「メール・リヨネーズ(リヨンの母)」と呼ばれる女性たちであった。
彼女たちは、家庭料理とブルジョワ料理を融合させ、シンプルで質の高い料理を作り出した。
その中の1人に、メール・ブラジェがいる。
1926年、タイヤ製造会社のミシュランは、車産業の発達とともに増える長距離旅行者のために、レストランの格付けを開始した。
メール・ブラジェは33年、女性として初めてミシュラン三つ星を獲得した。そして彼女の弟子の1人が、現在フランス料理界の巨匠として世界に名をはせるポール・ボキューズなのである。

時代の寵児、 ポール・ボキューズ
地味だったフランス料理を開拓し、「ヌーヴェル・キュイジーヌ」と呼ばれる新しい革命を料理界にもたらしたポール・ボキューズ。
彼無しで、リヨンが世界中に「美食の町」として知られるようになることは不可能であっただろう。
二十歳にして「ラ・メール・ブラジエ」などで見習いを始め、50年代以降、巨匠フェルナン・ポワンの下で本格的に修行を積み、57年、生家のレストラン「ポール・ボキューズ」を継ぐ。
58年にミシュランの一つ星を獲得し、61年にはフランス最優秀職人(Meilleur Ouvrier de France:通称 M.O.F.)を取得。
その後、65年に獲得した三つ星を、現在に至るまで40年以上維持している。
70年代にはフランス料理研究家、辻静雄から招待を受け来日。日本のフランス料理を進化させた他、懐石料理・京料理の料理法や盛り付けに大きく影響を与えた。
辻とボキューズの深い友情は日仏両方の料理業界に影響を及ぼし、辻調グループは80年にリヨン郊外にフランス校を設立している。

ボキューズは87年に国際フランス料理コンクール「ボキューズ・ドール」を、90年にフランス料理専門学校「アンスティテュ・ポール・ボキューズ」を設立。特に2年に1度リヨンで開催されているコンクールは、他に例を見ない基準を誇り、現在でも 料理人が最もあこがれるコンクールの1つとされている。

リヨンの今
現在リヨンの料理業界で最も注目を浴びている中心人物はニコラ・ルベックとマチュー・ヴィアネ(M.O.F.)だ。
ルベックは昨年 Lyon Confluenceと呼ばれる新開発地区に、大規模な高級ブラッスリー RUE le becをオープン。
ヴィアネは由緒ある「ラ・メール・ブラジエ」を買い取り、伝統を守りながらオリジナリティーを加えた料理を生み出している。

またリヨンでは、ここ数年日本人の料理人が驚く活躍ぶりを見せている。今年は新居剛(Au 14 Février)と鷹野孝雄(Takao Takano)が一つ星を獲得した。
リヨンの日本人料理人の中で先駆者と呼ばれる石田克己(En mets, fais ce qu'il te plaît)に続き、辻調の卒業生である西垣明(L’oursin qui boit)、畠山智博(Tomo)、そしてリヨンの郷土料理を和風化させている内村和仁(Le Canut et Les Gônes)、と新たな才能が次々とここリヨンで開花している。
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今宵は、今度の旅の最終日である。
日本でも有名なシェフ─ポール・ボキューズのアレンジしたフランス料理を賞味する。
と言っても、フランス料理もピンからキリまであり、私たちのツアーで食べられるのは、ほんのサワリである。
と言うのは旅程表には「ブラッスリー」と書いてあるからで、フランス語では、軽い食事やお酒が呑めるフランスの庶民的なレストランのこと。
過大な期待は持たずに臨んだ。

夕食を終わったら、もう九時過ぎである。宿泊のホテルに戻る。 
このホテルは事前のネット上では、さんざんの酷評だったので心配したが、良いこともないが、目茶苦茶でもない。

明日は朝からリヨン空港に行って、フランクフルト乗継ぎで帰国するばかりである。明日の朝の出発は7:15とのことで、あわただしい。
スーツケースの荷造りなどを済ませなければならない。

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       アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(7)・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

いよいよ最終日である。
ホテルから「リヨン空港」に向かい、フランクフルト行の飛行機に乗る。

ルフトハンザ
 ↑ 帰りのフランクフルト→ 関西空港の搭乗券
フランクフルトで乗り継ぎ、13:40発LH740便ルフトハンザドイツ航空で関空に向かって発つ。
帰りは偏西風に乗るので、飛行時間は約10時間50分と、往きとは一時間短い。
機中泊で、関空には、翌朝07:30 に着く。

(お断り)
写真はたくさん撮ってきたが、ろくな画像がないので、とりあえずアップしておいて、同行者から写真を提供されたら、後日あらためて追加したい。

カレンダー
↑ 海外旅行に行くと、私は必ず翌年のカレンダーを買い求めるが、こちらは見当たらず、あちこち聞いてみたが、ようやく最終日になって見つけた。
「ブルゴーニュ」とカタカナが書いてあるのが、ご愛嬌である。 ディジョン名産の「マスタード」の写真も載る。
小さな版のものである。あと一つワインのカレンダーも買ったが、これはスキャナにかからないのでやむく割愛する。

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こちらについてのガイドブックは「地球の歩き方」などがあるが総花的で参考にならない。
むかし読んだものだが、当地の文化について深く詳しい本を四冊出しておく。

饗庭
 ↑ 饗庭孝男『ヨーロッパ古寺巡礼』新潮社1995/05/20刊
ブル
 ↑ 饗庭孝男編『ブルゴーニュ 歴史と文化』小沢書店1998/03/21刊 
ブル
 ↑ 辻啓一『ブルゴーニュ黄金の丘で』集英社1994/06/25刊
フランス
 ↑ 清水徹・根本長兵衛編『世界の歴史と文化 フランス』新潮社1993/02/20刊





   
「短歌以前─木村草弥の歌集のトポス」・・・・・・・・・・・・・・・南日耿平
かむとき
 ↑ ──『霹靂』13号2001/09、題字は山中智恵子・筆

──書評・評論──再掲載・初出・『霹靂』13号2001/09掲載

      「短歌以前─木村草弥の歌集のトポス(共通場)」・・・・・・・・・・南日耿平

プロローグ
『霹靂』(かむとき)はもとの『鬼市』という名を変えて、その通巻として出発したが、
のちに短詩型文学全般にも通じる新しい視座へと拡大され、俳句の堀本吟さん、川柳Z
賞受賞の樋口由紀子さん、碧梧桐賞受賞の異色作家・森山光章さん、そして僅か十年の間
に三冊も歌集を出された木村草弥さんなど多彩な作家たちによって、新しくスタートが切
られたのです。
新世紀をむかえ、『霹靂』の天空での大音響の現出に、佐美雄、冬彦、赤黄男、重信など
の先駆者の方々の拍手喝采が聞こえそうであり、短歌一首も作っていない私にとっても新
しい<共時的詩的世界>への開眼の機をいただく思い。
何故私がこうした文芸の世界に興味をもったかは、五十年前、体育、スポーツの研究者と
して<愛と美と力>のデルタ構造で未来像をかかげ、<スポーツ美学論>を初めて講義題目と
して講じてきたこと。昨年、「新世紀スポーツ文化論」(タイムス社)で、<スポーツ曼荼
羅>の胎蔵部として、宗教・哲学・芸術。金剛界として体育学、スポーツ人約150名の方
々を五芒星形図として、図像学的(イコノグラフィー)手法で示し学会発表の機を得た。
本文の「短歌以前」の表題も、短歌音痴の私が、短歌の技法でなく、その深層部に秘めら
れた歌人・木村草弥さんの独自の境位を、私なりに楽曲分解(アナリーゼ)させていただい
たものとしてご笑覧いただければ幸いです。

(一) 木村さんの短歌作品の胎蔵部
木村さんとの出会いで驚いたのが、お住まいが山城の青谷村。私が三十代、三年も結核で
お世話になった国立の療養所のある茶処の問屋さんのお生まれで、また府立桃山中学校の
第23回卒。私が6回卒ということで二度びっくり。さらには長兄が、<兄の書きし日記を
もとに書かれたり太宰治の『パンドラの匣』>の作品にみられるよう夭折されたのも同じ
療養所だったと思われること。
早世の兄・木村庄助さんも弟の草弥さんが文学の血を引き継いでいることを喜んでおられ
るだろうと、「未来」の川口美根子さんが第一歌集の序で述べられるよう感性ゆたかな芸
術一家。兄上が京都大学に学ばれ、美術評論家・阪大教授でもあった木村重信先生(現在
兵庫県立近代美術館館長)がご生存とわかれば、世阿弥の<稽古の位>をこえた<生得の位>
にめぐまれた方、非凡な才能ゆたかな詩人・歌人・評論家。
先日、十年前『日本歌人』同人の横田利平さんの歌集『宇宙浪漫主義へ』での利平美学の
極みとしての<いまいまやいまいまいまやいまいまやいまいまいまやいまいまや我>をお送
りした所、これはセックスに於けるエクスタシーの瞬間(道元では<有事>(うじ)空海の<理
趣経>の十七清浄句の<妙適>の世界)と断じられ驚いた所。
一休の『狂雲集』におけるかずかずの作品は、第二歌集にはこれに関連十一首もあり、仏
典に関する御研鑽の広さと深さに驚くのみ。なるほどフランスの仏は仏教にも通じるかと
ほほえまれるしだい。
さらに、この「理趣経・十七清浄句」についての金岡秀友師とその弟子の論争の事も示さ
れた学識の深さに、長年空海の世界にあこがれ文献を集めていた老生とも照合するものと
先の七月の草田男をテーマとした短詩型文学を語る会に、横田さんの歌集への私の『日本
歌人』へ発表した感想文をお配りしたのです。その木村さんの冴えわたった感性・直感力
の非凡さには驚くのみです。
医学の近藤俊文博士の『天才の誕生-南方熊楠の人間学』にかかれた「ゲシュビント症候
群」とも照応、俳句の岡井省二先生と同じ天来の霊的人間(ホモ・スピリチュアーリス)の
天性。
第四にかかげたいのが木村さんが現代詩から短歌に転向されたこと。歌人・前登志夫さん
も私と共に敗戦後、奈良より詩誌《斜線》を出していましたが、詩集『宇宙駅』を残して
短歌に転じ、あっというまに歌壇に新風をおこされた吉野山住みの快男子。迢空賞受賞の
とき恩師代表で祝辞を求められたことが忘れられません。木村さんが文語定型、口語律、
定型、非定型にこだわらぬ自由多彩な韻律世界に遊んでおられるのもこの故と思います。
五番目にあげたいのは、木村さんが外語、京大の仏文科に学ばれたこと。九鬼周造の『い
きの構造』にも似てヨーロッパで一番あかぬけしているフランス語を学ばれ、更には全世
界を旅されたコスモポリタン。スケールの大きさは格別。やっておられないのは宇宙遊泳
のみ。この世界を埋めようと遊んでおられるのが木村さんの新しい短歌的世界。
先の短詩型の会に御来会の津田清子さんの句集『無方』で詠まれた<はじめに神砂漠を創
り私す><自らを墓標となせり砂漠の木><女には乳房が重し夜の砂漠>とも共鳴するコスモ
ロジーの世界が感じられてなりません。
木村さんは、一口で申せば静かな熱血漢。情感ゆたかなロマンと強力な実践力。只今は同
じ山城地区の法蓮寺にお住まいの山本空外先生の書法芸術に心酔。ハイデッガー、ベルグ
ソン、フッサールと共に学ばれた哲学者であり、その書は書家の書とは異なる<書法>とし
て出雲に<空外記念館>もある方。
幸い、黒谷住の戸川霊俊博士とは二十年前より御指導いただいているので空外先生につい
て御教示いただくよう予定している所。御年九十九歳。私も空外ファンの一人であり、偶
然の一致に驚いている所です。

(二) 木村さんの歌集について
第一歌集『茶の四季』(1995年)は、茶問屋の社長ながら、土耕、茶摘み、製茶などの実
務にたずさわり、茶道をたしなみながらの体験の中から生まれたもの。五章からなるが、
家族や山城の風光の他、海外旅行詠と多彩。<茶畑はしづかに白花昏れゆきていづくゆ鵙
の一声鋭し>の見事な序歌から始まる。好きな歌は、<茶に馴染む八十八夜のあとやさき緑
の闇に抱かれて寝る>、<茶の花を眩しと思ふ疲れあり冬木となりて黙す茶畑>
川口美根子さんの「俳諧的な魅力さえ感じさせる」の言葉に同感。
<兄の書きし日記を元に書かれたり太宰治の『パンドラの匣』>、<葬り終へ寝ねたる妻が
寝言にて姑との別れを嘆きて叫ぶ>、<汝が額の汗をガーゼでぬぐひつつ不意にいとしく掻
き抱きたし>、<原始の美を尋ね求めて駆けきたる兄は「大地の人(ホモ・フムス)たれ」と
唱ふ>の家族の歌につづいて、外国旅行の歌がうたわれている。中国での<ふたたびは訪ふ
こと無けむ竜門の石の洞をぞ振り返りみつ>は戦争で雲岡の石仏群近くまで行った私とし
てはなつかしい限り。<ワルシャワのショパンの館に来て聴くは祖国追はれし「別れの曲(し
らべ)」<さびしさを青衣にまとひエーゲ海の浜辺に惑ふ「沈思のアテナ」>なども四十年
前ヨーロツパで学んだことのある私としては感激ひとしお。<六人の乙女支ふる露台には
裳すそ引きたる腿のまぶしさ>。スペインで詠まれたフラメンコの踊り、ガウディの作っ
た教会の尖塔の歌など、さすが美の世界を一瞬につかまれる見事な「視覚構造」と嘆ずる
のみ。
第二歌集『嘉木』は、中国の古書の茶の木を詠まれたもの。『茶経』の出だしに「茶は南
方の嘉木なり」と記されているよう、日本の茶道の源流としての利休につらなる家元体制
であるとも記されているが、<明日のため見ておく初夏の夕焼は茶摘みの季の農夫の祈り>
にはじまり<汗あえて茶を刈る時にそぼつ身を女神のごとき風通るなり>とし、<茶の湯と
はただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなり>と詠じて、自らは「番茶道」を
提唱されているのも独自の木村さんの、形式化した家元を頂点とするヒエラルキー体制批
判として注目されます。
興味あるのは、一休(宗純)を詠んだ<夢に見て森女の陰に迷ひ入り水仙の香に花信を覚ゆ>
<風狂と女犯にふける宗純は妙適清浄これ菩薩なれ>と空海の理趣経につながっていると見
立てた眼力。
秘めごとめく吾-沓冠十五首-からは、現代短歌に未来はあるか、として展開。
<いなづまのびりりと裂きし樹の闇を殻もゆらさず蝸牛ゆく音>、<フランスのをみなが髪
をかきあぐる腋あらはにてむらさき匂ふ>、<場所(トポス)はもペロポネソスに満ち満てる
悦楽の言辞(トポス)に通ふと言へり>、<白桃に触れたる指をいとしみてしばらく宙にかざ
しゐる宵>、<汗匂ふゆゑにわれ在り夏草を刈りゐたるとき不意に思ひぬ>、<季節くれば
花を求めて飛んでゆく美しき翅よ うす青き蝶>、<失せもののいまだ出でざる夜のくだち
和紙の吸ひゆくあはき墨の色>、<牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさ
に見つ>、<病む妻のため娘らはひたすらに石切神社にお百度を踏む>、<人知りて四十年経
ぬ萌え立てる君は野の花ムラサキハナナ>、<引退はやがて来るものリラ咲けばパリの茶房
に行きて逢はなむ>など、心にしみこむ秀歌が、それぞれの韻律と木村さんのいう<幻の領
域(トポロジー)>として<ゆほびかに>展開されている。
第三歌集『樹々の記憶』は、序で宮崎信義さんが述べられているよう<定型の魔力>からの
脱皮・転進・挑戦。デリダ流に言えば「短歌の脱構築」新短歌への序曲と申せよう。
巻頭<茶どころに生まれ茶を離れられない 茶の樹の霜が朝日に白い>、<季節(シーズン)
は春から夏へ蒼ぐろい樹の場面転換(ディゾルブ)にいそしんでいる>、ルビが外国語にな
っている。
<わたくしが愛するものは仮借なき攪拌だとは挑発的(プロヴォカティヴ)ね>、<美しく老
いる そんな言葉は糞くらえだ 美しい老年などどこにある>
一字あけの三段構成に注目されたい。
<瞬間(とき)の迷路を辿れば ここは何処? 地平線まで歩いてゆこう>と<?>が入る。
<にじむ脂汗の不眠の夜 墓標の在処(ありか)は教えるな>の歌には高柳重信の俳句が思い
出される。俳諧の二段構成。<沈黙の中で長く枝分かれしてゆく夜の闇-それが時間>-----
断章(パガテル)への郷愁。<私は一つの場所を探している 墓をつくるばかりの広さの>、
<死は甘美か 生者と死者の間に月がのぼる 死は甘美だ>-------くりかえしの美学。
<そり うねり 巻き込み 波うち ちぢれ 花の肢体>六つのシラバス構成。<秋だ 鉄
道の白い柵に電車の音にみじろぎもせず野菊は咲いていた>自由律。メルヘン的な詩秋の
詩。
木村さんが、あとがきで申されるよう、この第三歌集は、自由律短歌へのかずかずの挑戦
の詩。現代語なりの韻律に<現代の非定型・自由律運動の目標>とされる<短歌的自由詩>と
しての新しいポエジーの波動を目指す絵画的な「コラージュ」あるいは「パロディ」と記
しておられるのも、あるいは兄上・木村重信先生の影法師かも知れない。
問屋を娘さん夫婦にまかされ、これからが自由の身で、「方円宙遊」の新しい詩(ポエジ
ー)の歌、つくって下さい。

コーダ
短歌の木村草弥さんとの奇しき邂逅は、俳句の岡井先生と共に、私にとってはまこと有難
い御縁と感謝しています。お二人とも、デリダの「脱構築」--------奇しくも道元の<身心
脱落>にも共響する自在自由な新天地めざされ、新風を目覚めさして下さいました。
益々の御活躍をお祈りしています。

(奈良教育大学名誉教授・近藤英男) ──「南日耿平」は詩歌に遊ぶときの近藤先生のペーンネーム。
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近藤英男氏死去 奈良教育大名誉教授

 近藤 英男氏(こんどう・ひでお=奈良教育大名誉教授、体育理論)
3月15日午後7時2分、肺炎のため京都府木津川市の病院で死去、94歳。京都府出身。自宅は木津川市木津大谷31。葬儀・告別式は既に営まれた。喪主は長女の東典子(あずま・のりこ)さん。
近藤氏は1990年勲三等旭日中綬章・受賞。「身体文化論」など専攻。1984/12:座長・「祭儀と芸能──身体文化の原点」(近藤英男),奈良体育学会定例会,於佐保女子短期大学 など。      2008/04/01 13:01 【共同通信】

「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
小野茂樹
↑ 現代歌人文庫「小野茂樹歌集」国文社刊1995/03/10初版第二刷
小野雅子
 ↑ 小野茂樹夫人・小野雅子歌集『青陽』ながらみ書房刊平成九年七月十日

──エッセイ──再掲載・初出・「地中海」誌1998年10月号

     「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・・・・・・・・・木村草弥

     くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ ・・・・・・・・・・・小野茂樹

 小野茂樹は河出書房新社の秀れた編集者として仕事をしていたが、帰宅するために乗ったタクシーが午前一時すぎに運転をあやまり車外に投げ出され昭和四十五年五月七日早朝に死亡した。
三十四歳であった。その夜、一緒であった小中英之と別れた直後の事故であるという。
掲出の歌は第二歌集『黄金記憶』の巻末に近い「日域」と題する五首の一連のものである。
この歌をみると「死」の意識が色濃く漂っているのに気づく。
歌の構成としては、初句から三句までの上の句の叙景と、四句五句の下の句の「死」というものについての独白の部分とに直接的な関連はない。
こういうのを「転換」というけれども、この上の句と下の句とが異和感なく一首として成立しているのが、この歌の秀れたところである。
「とほからず死はすべてとならむ」という心の独白は「くさむらへ草の影射す日のひかり」を見ていて、無理にくっつけたものではなく、
「くさむら」を見ていた作者の頭の中に、ふと自然に湧き上がって来た想念なのであろう。
だから、この歌は無理なく読み下せるのである。「転換」という手法を用いた秀歌の典型と言ってよかろう。
調べもよいから、一度ぜひ口に出して音誦してみてもらいたい。

この第二歌集『黄金記憶』を通読すると、何となく沈潜したような雰囲気が印象として残る。少し歌をみてみよう。

・輝きは充ちてはかなき午後の空つねに陰画(ネガ)とし夏を過ぎつつ
・午後の日はいまだ木立に沈まねば蝉は無数の単音に鳴く
・われを証す一ひらの紙心臓の近くに秘めて群衆のひとり
・見しために失ひしもの雪の夜の深き眠りに癒やされむとか
・冷えて厚き雪の夜の闇灯のごときものを守りて妻は眠れり
・垣間見しゆゑ忘れえぬ夕映えのしたたる朱は遠空のもの
・母は死をわれは異なる死をおもひやさしき花の素描を仰ぐ
・黎明といふ硬質の時のひだ眠り足らざる心とまどふ
・蛾に生まれ蛾に死にてゆく金色の翅はときのまゆらめくとなし
・翳り濃き木かげをあふれ死のごとく流るる水のごとくありし若さか

 これらの歌の中で一首目の「陰画とし」、二首目の「単音に鳴く」三首目の「群衆のひとり」というような捉え方は、感性に流された作り方ではなく、
心の底に何か「しんとした」あるいは「クール」な醒めた目を感じさせる。
 十首目の「翳り濃き木かげをあふれ死のごとく」と「流るる水のごとく」という対句が、結句の「ありし若さ」という言葉に、いずれも修飾句としてかかる、
という表現も面白いが、それよりも「死のごとく」という直喩表現に、どきりとさせられるのである。
これは、いわゆる若者の歌としては珍しい。誤解を恐れずに言えば茂樹は、早くから、こういう「死」の意識を、ずっと持ちつづけて来たと言える。
この歌集の題名となった「黄金記憶」というのは、戦争末期に岩手県に学童疎開した時の記憶を三十三首の歌として発表したものに一因んでいる。
その中に

・ふくらはぎ堅くけだるし音もなく明けくる刻をゆゑなく恐れき
・たれか来てすでに盗めりきりきりとトマトのにほひ夜の畑に満つ
・こゑ細る学童疎開の児童にてその衰弱は死を控へたり

のような歌がある。作者は戦争が終って帰京したとき、栄養失調のような体調であったと言われるが、その様子が現実感をもって詠われている。
これらの歌からも、すでに「死」と向かい合っていた作者の心情が読み取れるのである。
「ふくらはぎ堅くけだるし」というのは栄養失調で骨と皮とになった痩せた体と心の状態を詠ったものであり子供心に「餓死」という恐怖を持っていたが故に「明けくる刻をゆゑなく恐れき」と表現されている。
 なお、この歌集は音楽好きだった作者を反映して「エチュード」「プレリュード」「ノクターン」「ブルース」「スキャット」「アダージオ」「カデンツ」などの音楽用語が項目名として使われている。
また長女綾子への愛情表現もひときわだったようで、こんな歌がある。

・みどりごは無心にねむる重たさに空の涯なる夕映えを受く
・父も母もいまだなじまぬ地に生れて知恵づきゆくか季節季節を
・露に満ち甘きにほひをたつるさへ果実はゆかしみどりごの眼に

 三首目の歌は、この歌集の巻末におかれた歌で、子煩悩であった作者の歌として、またいとほしい子の歌として妥当な置き方であると言えよう。
みどりご(長女綾子)の眼を「露に満ち甘きにほひをたつる果実」と比喩表現で情趣ふかく詠われているのも並並ならぬ父の愛を感じさせる。

掲出した歌が第二歌集に収められている関係から、この歌集から文筆を書きはじめたが、順序としては第一歌集『羊雲離散』から始めるべきだったかも知れない。
 この第一歌集は、あの有名な

・あの夏の数かぎりなきそしてまたたった一つの表情をせよ

という歌に代表されるように「相聞」が一篇をつらぬく主題と言ってよい。

・五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声
・あたらしきページをめくる思ひしてこの日のきみの表情に対す
・くちづけを離せば清き頬のあたり零るるものあり油のごとく
・青林檎かなしみ割ればにほひとなり暗き屋根まで一刻に充つ
・さぐり合ふ愛はいつより夜汽車にて暁はやき町過ぎにつつ
・強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し
・わが眉に頬を埋めしひとあれば春は木に濃き峠のごとし
・汝が敏き肌に染みつつ日は没りて乏しき視野をにじり寄る波
・路に濃き木立の影にむせびつつきみを追へば結婚飛翔にか似む

 この「結婚飛翔」にはナプシヤル・フライトというルビが附られているが、これは昆虫の雌雄が相手を求めて飛ぶことを指している。

・エプロンを結ぶうしろ手おのれ縛すよろこびの背をわれに見しむる
・拒みしにあらずはかなく伸べ来たるかひなに遠く触れえざるのみ
・いちにんのため閉ざさずおくドアの内ことごとく灯しわれを待てるを

 茂樹と妻・雅子は東京教育大学附属中学校に在学中の同級生ということだが、年譜によると、それぞれ他の人との結婚、離婚を経て、
十五歳の時の初恋の相手と十五年ぶりに結婚にこぎつけたということである。
 そういう愛の波乱が、作られた歌にも反映していると思うが、どの頃の歌が、どうなのかは私には分らない。
ただ「愛」というものが一筋縄ではゆかない代物であることを、これらの作品は陰影ふかく示している。
巻末の歌は「その指を恋ふ」と題されて

・われに来てまさぐりし指かなしみを遣らへるごときその指を恋ふ
・かかる深き空より来たる冬日ざし得がたきひとよかちえし今も
・風変はる午後の砂浜うたたねのかがやく耳に光はそそぐ
・根元近くみどりを残す浜草の乱れを敷きてねむりてあれよ

と詠われている。エロスあふれる情感が快い。

・あの夏の数かぎりなくそしてまたたった一つの表情をせよ
の歌は、終りから二つ目の項目の「顔」という十二首の一連の中にある。
 この辺りの歌は雅子との愛を確定したときの歌と断定できるだろう。
紆余曲折のあった愛の道程をふりかえって、晴れ晴れとした口調で愛の勝利宣言がなされているように、私には見える。

 昨年のことだが未亡人の小野雅子歌集『青陽』が出版され、その鑑賞文「悲傷-メビウスの環」を、私は書いた。
これも一つの思い出となったが今回の文章を書くに当っては久我田鶴子が茂樹のことを書いた評論集『雲の製法』や小中英之その他の文章には敢えて目をつぶって、
私なりの感想をまとめた。

 国文社刊『小野茂樹歌集』(現代歌人文庫⑪)には、この二冊の歌集が収録されているのでぜひお読み頂きたい。
はじめに書いた小中英之の『黄金記憶』頌-小野茂樹論へのノートーという文章も載っている。

(お断り)この原稿が「地中海」誌に載ったときに「誤植」の多いのに、とまどった。
     今回、ここに収録するに当って出来る限り訂正したが、なお見つかるかも知れない。
     見落しに気づかれたら、ご指摘をお願いする。 よろしく。
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昨年、第五歌集『昭和』を出版したが、七月下旬に東京で「読む会」を開いていただき二十数人の方がおいで下さった。
その中に、小野雅子さんもおいでいただいて批評を賜った。久しぶりにお会いして挨拶したが、お元気そうで何よりだった。
ここに記して、改めて御礼申し上げる。





ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂・・・・・・・・・・・木村草弥
450px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_04ストラスブール大聖堂
Strasbourg_Cathedralストラスブール大聖堂
 ↑ ノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂

──巡礼の旅──(21)

     ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂・・・・・・・・・・・木村草弥

アルザス地方というのは、ドイツ領とフランス領に何度も支配の変更を繰り返してきた土地である。
その中心地がストラスブールである。 この教会は、その街の象徴的な建物である。     
「ノートルダム」とは「聖母マリア」のことであり、聖母マリア信仰の強いカトリック圏では、いたるところに同名の教会がある。

ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂(フランス語: Cathédrale Notre-Dame-de-Strasbourg、 ドイツ語: Liebfrauenmünster zu Straßburg)は、フランスのストラスブールにあるカトリックの大聖堂である。その大部分はロマネスク建築だが、一般にゴシック建築の代表作とされている。主な建築者としてはエルヴィン・フォン・スタインベックがいる。1277年から1318年に死ぬまで建設に関わった。

高さ142メートルで、1647年から1874年まで世界一の高層建築だった。1874年にハンブルクの聖ニコライ教会に高さを追い抜かれた。現在は教会としては世界第6位の高さである。

ヴィクトル・ユーゴーは「巨大で繊細な驚異」と評した。
アルザス平原のどこからでも見え、遠くはヴォージュ山脈やライン川の反対側にあるシュヴァルツヴァルトからも見える。
ヴォージュ産の砂岩を建材として使っており、それによって独特なピンク色を呈している。

ストラスブールがアルゲントラトゥムと呼ばれた時代にはこの場所に古代ローマの聖域があり、その後ストラスブール大聖堂が建設されるまでいくつかの宗教建築物が次々とここに建てられた。
7世紀にストラスブール教区の司教である聖アルボガストが、聖母マリアに捧げられた教会を元にして大聖堂を建設したことが知られているが、全く現存していない。
古い大聖堂の遺物は1948年と1956年の発掘で出土しており、4世紀末期から5世紀初頭のものとされている。これは現在の聖エティエンヌ教会の位置から出土した。
8世紀、最初の大聖堂はカール大帝の時代に完成したと推測されているより重要な建築物に置き換えられた。
司教レミギウス(レミ)は778年の遺言でその建物の地下霊廟に埋葬されることを望んでいる。842年のストラスブールの誓いがこの建物で結ばれたことは確実である。最近行われた発掘調査により、このカロリング朝の大聖堂には3つの身廊と3つのアプスがあったことが明らかになった。司教 Ratho(Ratald または Rathold とも)の詩によると、この大聖堂は金や宝石が装飾されていた。このバシリカは873年、1002年、1007年とたびたび火事にみまわれた。

1015年、司教 Werner von Habsburg がカロリング朝のバシリカの廃墟に新たな大聖堂の基礎となる最初の石を置いた。彼はロマネスク様式の大聖堂を建設した。この大聖堂は1176年、身廊の屋根が木製だったため火災で焼け落ちた。

この惨事の後、司教 Heinrich von Hasenburg はそのころちょうど完成したバーゼルの大聖堂よりも美しい大聖堂を建設することを決めた。
建設は既存の構造の基礎を利用して始まり、完成に百年ほどかかった。司教 Werner の建てた大聖堂の地下聖堂は焼け残っていたため、そのまま残し西側に拡張した。

800px-Choeur_-_Cathedrale_de_Strasbourgクワイヤ
 ↑ クワイヤ
France_Strasbourg_Magi三博士
↑ サンローラン玄関にある東方三博士と聖母子像

建設はクワイヤと北の翼廊からロマネスク様式で始まり、記念碑的側面や高さの面で皇帝大聖堂と呼ばれる建物に着想を得ていた。しかし1225年、シャルトルから来たチームがゴシック建築の様式にすることを示唆し、建設方針が大転換された。身廊は既にロマネスク様式で建設が始まっていたが資金不足に陥ったため、教会は1253年に贖宥状を発行して資金を集め、この資金で建築家と石工を雇った。シャルトルのチームの影響は彫刻にも見られる。有名な「天使の柱 (Pilier des anges)」は南の翼廊の天文時計の隣にあり、最後の審判を柱で表現している。

ストラスブール市自体と同様、この大聖堂はドイツ風のミュンスターとフランス文化の影響を受ける一方、東側の構造(例えば、クワイヤや南の玄関)は特に窓よりも壁が強調されている点からロマネスク様式の特徴が色濃く残っている。

とりわけ数千の彫刻で装飾された西側のファサードはゴシック時代の傑作とされている。尖塔は当時最先端の技術を駆使したもので、石が高度に直線的に積まれ、最終的な見た目は一体となっている。それまでのファサードも確かに事前に設計した上で建設されたが、ストラスブール大聖堂のファサードは事前設計なしでは建設不可能だった。ケルン大聖堂と共に設計図を使った初期の建築物とされている。アイオワ大学の Robert O. Bork の研究によれば、ストラスブール大聖堂のファサードの設計はほとんど無作為にも思える複雑さだが、一連の八角形を回転させた図形を使って構成されていることを示唆した。

1439年に完成した尖塔は1647年(シュトラールズントのマリエン教会の尖塔が焼け落ちた年)から1874年(ハンブルクの聖ニコライ教会の尖塔が完成した年)まで世界一高い建築物だった。ファサードを対称にするためもう1つの尖塔が計画されていたが作られることはなく、独特な非対称の形状になった。見通しがきく場所なら30kmの距離から塔が見え、ヴォージュ山脈からシュヴァルツヴァルトまでライン川沿いで見える。塔は四角い柱体部分を Ulrich Ensingen、八角形の尖塔部分をケルンの Johannes Hültz が建設した。Ensingen は1399年から1419年、Hültz は1419年から1439年に建設を行った。

1505年、建築家 Jakob von Landshut と彫刻家 Hans von Aachen が北の翼廊の外にあるサンローラン玄関 (Portail Saint-Laurent) の修復を完了した。この部分はゴシック後期、ルネサンス前期の様式が目立つ。ストラスブール大聖堂の他の玄関と同様、設置されている彫像の多くはレプリカで、本物はルーヴル・ノートルダム美術館に移されている。

中世後期、ストラスブール市は大司教の支配を脱して自由化することに成功し、帝国自由都市となった。15世紀は Johann Geiler Kaysersberg の説教と宗教改革の萌芽で彩られ、16世紀にはジャン・カルヴァン、マルチン・ブーサー、ヤコブ・シュトゥルム・フォン・シュトゥルメックといった人物が活躍した。1524年、市議会はこの大聖堂をプロテスタントの手に委ねることを決定した。そのため聖像破壊運動の影響を受けて建物に損傷が生じた。1539年、文献上最古のクリスマスツリーがこの大聖堂に設置された。

1681年9月30日、ストラスブール市はルイ14世の支配下に入り、同年10月23日、王と領主司教 Franz Egon of Fürstenberg が出席して大聖堂でミサが行われた。これにより大聖堂はカトリックに戻され、対抗宗教改革で改訂された典礼に従って内装の再設計が行われた。1682年、1252年に設置された内陣障壁を取り払ってクワイヤを身廊に向かって拡張した。この内陣障壁の一部はルーヴル・ノートルダム美術館とクロイスターズ(メトロポリタン美術館の別館)に展示されている。主祭壇はルネサンス初期の彫刻だったが、同年取り壊された。その一部はルーヴル・ノートルダム美術館に展示されている。

1744年、Robert de Cotte の設計した丸いバロック様式の聖具保管室が北側の翼廊の北西に追加された。1772年から1778年にかけて、大聖堂の周囲に出店していた商店群を整理するため、大聖堂の周囲に初期ゴシック・リヴァイヴァル様式の回廊を建設した(1843年まで)。

1794年4月、ストラスブール市を支配したアンラジェ(過激派)は、平等主義を損ねているという理由で尖塔を引き下ろすことを計画し始めた。しかし同年5月、市民が大聖堂の尖塔に巨大なブリキ製フリジア帽(アンラジェも被っていた自由の象徴)を被せたため、破壊を免れた。この人工物は歴史的コレクションとして保存されていたが、1870年に完全に破壊された。ストラスブール包囲戦の際、プロイセン軍の放った砲弾が大聖堂に当たり尖塔の金属製十字が曲がった。また、クロッシングのドームにも穴が開いたが、後により雄大なロマネスク・リヴァイヴァル様式で再建された。

Virgen_estrasburgo_UEステンドグラス
↑ 「ストラスブールの聖母」はクワイヤの窓になっている
800px-Strasbourg_Dom_Detail_9ストラスブール大聖堂詳細
 ↑ 柱頭彫刻の一部

第二次世界大戦中、ストラスブール大聖堂は両陣営から象徴とみなされた。アドルフ・ヒトラーは1940年6月28日にストラスブールを訪問し、大聖堂を「ドイツ人民の国家的聖域」にしようとした。1941年3月1日、フィリップ・ルクレール将軍は「クフラの誓約」として「ストラスブール大聖堂の上に再び我々の美しい国旗がたなびくまで、決して武器を置かない」と誓った。また、ドイツ軍はストラスブール大聖堂のステンドグラスを74枚取り外し、ドイツ本国のハイルブロン近郊の岩塩鉱山に隠した。戦後、アメリカ軍がこれを発見し、大聖堂に返還した。

大聖堂は1944年8月11日のストラスブール中心部への英米軍の空襲で被害を被った。1956年、欧州評議会は Max Ingrand 作の有名なステンドグラス窓「ストラスブールの聖母」を大聖堂に寄付した。この戦争での損傷が完全に修復されたのは1990年代初頭のことである。

800px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_03後陣
 ↑ 巨大な建物を支える外側の「フライング・バットレス」

ここでストラスブールの街の写真をいくつか出しておく。

800px-Strasbourg_PanoNE2ストラスブール
 ↑ ストラスブール俯瞰
800px-Strasbourg-6-8_GrandRueストラスブール木組みの家
 ↑ 「木組みの家」
800px-Strasbourg,_Quai_des_Bateliersストラスブール運河沿いの木組みの家
 ↑ ストラスブール運河沿いの木組みの家




草弥の詩作品・新作「シーギリヤ・レディ」12首・・・・・・・・・・・木村草弥
短歌
25121028287シーギリヤ
 ↑ シーギリヤ・ロック──スリランカ
main_PCMB02シーギリヤ・ロック
↑ シーギリヤ・ロックの俯瞰
lrg_10375026ロック頂上への登り口
 ↑ ロック頂上への登り口
c0156438_08666シーギリヤ
 ↑ 岸壁画の一部
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(77)

      シーギリヤ・レディ──スリランカ── ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・角川書店「短歌」誌10月号掲載・・・・・・・・・・

  忽然とシーギリヤ・ロック巨いなる岩現れぬ密林の上に

  いづこにも巨岩を畏れ崇(あが)むるかシーギリヤ・ロック地上百八十メートル

  父殺しのカーシャパ王とて哀れなる物語ありシーギリヤ・ロック

  汗あえて息せき昇る螺旋階ふいに現はるシーギリヤ美女十八

  草木染に描ける美女(アプサラ)は花もちて豊けき乳房みせてみづみづし

  ターマイトン土で塗りたる岩面に顔料彩(あや)なり千五百年経てなほ

  貴(あて)なる女は裸体、侍女は衣(きぬ)被(き)て岩の肌(はだへ)に凛と描ける

  昔日は五百を越ゆるフレスコ画の美女ありしといふ殆ど剥落

  獅子(シンハ)の喉(ギリヤ)をのぼりて巨いなる岩の頂に玉座ありしか

  聞こゆるは風の音のみこの山に潰えしカーシャパ王の野望は

  熱帯にも季節あるらし花の季は十二月から四月と言ひぬ

   ──つい数年前までタミール人「解放の虎」テロとの血みどろの抗争があり、大統領が訴へた──
  「憎しみは憎しみにより止むことなく、愛により止む」ブッダの言葉

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角川書店「短歌」誌10月号に私の作品の寄稿の注文があって、本日2013/09/25付で発売となったので、載せておく。
原文はタテ書きである。
これには安いが原稿料が支払われる。

嬬恋

掲出したのは私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)だが、この歌集の表紙の写真を撮るために2003年の春にスリランカへ行った。
それにまつわる紀行文「光り輝くインド洋のひとつぶの涙の雫-スリランカ」があるが、この歌集には、その時に作った歌は収録できなかった。

この巨大な石塊の岩棚に美女アプサラの絵が描かれている。
スリランカはイギリスの植民地の頃には「セイロン」と呼ばれていたが、「シーギリヤ・レディー」と俗称されている。
これらの歌は、この歌集以後のものとして結社誌にも発表したし、習作帳にも保存してあったが、第五歌集『昭和』(角川書店)編集の際には収録を忘れて、これにも洩れている。
そんなことで公表するのは久しぶりである。


シャンパーニュ・ランス「サン・レミ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥
IMG_0488サン・レミ聖堂内部
 ↑ サン・レミ聖堂内部
image_1-9cf18サン・レミ聖堂後陣
 ↑ サン・レミ聖堂後陣
img_861149_60878088_23サン・レミ聖堂
 サン・レミ聖堂礼拝堂
E58699E79C9F-28a6a右手前の彫像の並んでいる部分がサン・レミの墳墓
 ↑ 右手前の彫像の並んでいる部分がサン・レミの墓
img_861149_60878088_18サン・レミの墳墓
↑ サン・レミの墓

──巡礼の旅──(20)

     シャンパーニュ・ランス「サン・レミ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖レミとは、496年、ランス大聖堂でフランク王国の建国者クロヴィスに洗礼を授けたランス司教レミギウスのことである。
伝説では、このとき天から鳩が現れ、王の頭に注ぐ聖なる膏を入れた瓶をもたらした。
聖レミギウスの遺骨とともに、この瓶はサン・レミ聖堂に保管され、フランス歴代の王の戴冠式では修道士たちが、これを運んだという。
そんな歴史的にも有名な寺院なのだが、ランス大聖堂の蔭に隠れて、尋ねる観光客も少ない。
ここに入ると、一見して、いろいろな時代のスタイルが入り混じっていることに気づく。
これは中世では当たり前のことだが、長い年月をかけて少しづつ建築し、必要に応じて改築してきたのである。

この教会はランスの歴史においてとても重要なはずなのだが、やはりランス大聖堂の方が「微笑みの天使」と「シャガールのステンドグラス」で観光客の人気をひきつけていて、この教会を訪れる人は少ない。

場所としては、シャンパーニュ・カーブのポマリ、ヴァランケン、ヴーヴ・クリコと3つのカーブに囲まれるように広がる公園、Square Saint Nicaseのすぐ後ろにある。
ここは後ろなのか手前なのかはどこからそれを位置づけるかによるから、近くと言った方が良いかもしれないが、公園から見える。

ここはパイプオルガンが立派で目立つ。よくコンサートに使われるらしい。
フランスにはたくさんの教会があってツアーで来る観光客に言わせるとどれを見ても同じのようだが、ひとつひとつの教会が独自のスタイルと歴史を持っている。

私は教会が大好きで、それはもちろんステンドグラスを始めとする建築に興味がある、パイプオルガンの音色が好きというのはもちろんだが、旅行者のための格好の休憩所だからだ。
聖書の一句に「疲れている人は誰でも私のところに来て休みなさい」というものがある。
これは精神的に疲れている人を指しているのみでなく、身体的にもそうである人を対象にした癒しの言葉だと私は理解している。
旅行で歩きつかれた、日差しが強すぎて疲れた、雨に打たれて疲れた、外気が寒すぎて疲れた、何でも良いんだと思う。
教会は安息のための場所である。人種も宗教も問わない場所である。
私は静かに本を読みたいとき、ちょっとナポレオン式居眠りをしたい時、教会のお世話になる。
美しいステンドグラスと麗しいパイプオルガンの音色に癒されて、ロマネスクやゴシック建築に心を鷲づかみにされて感動することで自分が生きているんだ、何かを感じることが出来るんだ、健全であるんだと確認するのである。
この教会のステンドグラスは、いずれも美しい。 写真に出せないのが残念だが、ネット上にいくつも出ているので、ご覧ください。

ここランスには、先に2013/07/21付で載せた「フジタ礼拝堂」も存在する。
「シャンペン」生産の中心地なのである。
ここランスは、この礼拝堂の誕生によって、特に日本人観光客の足を延ばさせる土地となった。


こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
620px-Temple_(anatomy)_(PSF).png
 ↑ こめかみの位置 (Temple)

     こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶(きよほうへん)
      かしましき日の暮れなむとする・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
「こめかみ」は漢字で書くと難しい字だが、事典には下記のように載っている。
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こめかみ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こめかみ(顳顬({需頁})、蟀谷)とは、頭の両側の目尻の後、目と耳のつけ根のほぼ中間にある、皮膚のすぐ下に骨(側頭骨)のある場所のことである。こめかみから下顎までを結ぶ側頭筋という筋肉があり、顎の動きに連動してこめかみが動く。

「こめかみ」の語は、物を噛むとこの部分が動くことから「米噛み」に由来するものである。米以外のものを噛んでも動くが、これを「米噛み」という理由として、日本の主食が米であったことや、かつては固い生米を食べており、よく噛む必要があったことなどが挙げられる。漢字の「蟀谷」は中国語の「こめかみ」を意味する語をそのまま導入したものである。「蟀」はコオロギのことであるが、この字が使われる理由は不詳である。

こめかみは骨の厚さが薄く、打撃に対して弱い。ボクシングやその他の格闘技では顎先と並んで急所としてとらえられている。こめかみに打撃をもらうと脳震盪を起こしやすい。
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この歌は、もう十年以上も前の作品で、作った当時の詳しい事情は忘れてしまって審(つまび)らかではないが、どこかの歌会に出した私の歌を巡って、賛否両論のかしましい議論が起こって、何で、そんなにつまらないことで、ギャーギャーいうのかと、作者としては、うんざりしたのが原因ではないかと思う。
それが「毀誉褒貶かしましき」という表現になっているのである。
私は、それを「こめかみのわびしき」と言ってみたのである。
このようなことは、ビジネスの世界でも、あり得るのではないか。サラリーマンの方、いかがであろうか。人間関係のむつかしいところである。

この歌も、或る歌会に出してみた。歌会には、うるさ型の人が必ず居るもので、そこでも、さまざまに言われた記憶がある。
「こめかみのわびしい」というのは、どういうことなのか、とかいうことである。
文芸表現は「直感」「感性」の勝負である。「こめかみがわびしい」と聞いて、ピンと来ないようなら詩歌作者をやめた方がいい。
歌作りにも、こうでなければならない、というような決まりは何もないのである。
文学、文芸表現というものは、本来、自由なものであり、どんな「作り方」をしてもいいのである。
ただ、俳句とか短歌の場合、定型を選ぶならば、575とか57577とかの定型の規定だけ守ればいいのである。中身は自由である。
それを、さも窮屈な決まり事があるかのように言う人があるから、困る。
私を短歌の世界に導いてくれた先生──安立スハルさんは、「自分の好きなように作ったらいいのだ」という人だった。

歌会というのは、よくあるスタイルは、出席者が30人くらいの会なら午後1時頃からはじまって5時くらいまでかかるのが普通である。楽しい雰囲気で盛り上がればよいが、的はずれの「毀誉褒貶」に遭うと疲れてしまう。
愚痴になってきたので、この辺でやめよう。
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「こめかみのツボ」は大切な場所で、このような記事があるので参照されたい。

眼精疲労に効くこめかみのツボ
読書のし過ぎ、テレビの見過ぎ、パソコンを使う時間が長いなど、目を酷使していませんか?
そんなとき、無意識にこめかみを押してしまいますよね。
事実、こめかみは目に近いので、眼精疲労によく効くツボがあります。
だからこそ間違った場所を押してしまうと、危険もあります。
しっかりツボの場所を覚えて、眼精疲労を解消しましょう。

そのツボは、目尻と髪の生え際を結んだ線の真ん中にあります。
太陽穴(たいようけつ)といいます。
そこを指先で軽く押さえ、円を描くようにゆっくり押します。
心地良い強さで、5~10回押してください。
ツボを押すと、他の場所とは違う痛みがあります。
個人差もあるので、うまく見つからない場合は、少し範囲を広げて探してみてください。
目がスッキリしたり、視界がはっきりしませんか?
しっかりツボを押せている証拠です。

ただし、あまり実感がないからといって、何十回も押したりしないでくださいね。
急に刺激を与えすぎると、頭痛の原因になってしまうこともあります。
そんなときは、無理せず休んでくださいね。

偏頭痛に効くこめかみのツボ
偏頭痛は、女性の多くがもっている悩みですよね。
頭が痛い日は何も手につかず、寝ているのもつらいと感じてしまうのではないでしょうか。
そんな偏頭痛に効くツボも、こめかみにあるのです。
それが頷厭(がんえん)です。

頷厭の場所は、こめかみから髪の生え際に沿って3cmほど上にいったところにあります。
そこを太陽穴と同じように、心地良い強さで5~10回、円を描くように指先で押してください。
その後指をはなしたとき、頭がスッキリしませんか?
これだけで偏頭痛が和らぐなんて、本当に助かりますね。

こめかみを強く押すと危ない…などという噂もありますが、絶対にそんなことはありません。
確かに強く押しすぎると良くはありませんが、それはこめかみに限らず、どこでも同じですね。
常識の範囲内、自分が心地良く感じる強さならば問題ありませんので、こめかみのツボ押しで痛みを和らげましょう。

縷紅草みれば過ぎ来し半生にからむ情の傷つきやすき・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
rukousou0111ルコウソウ
  
  縷紅草(るこうさう)みれば過ぎ来し半生に
      からむ情(こころ)の傷つきやすき・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、
この歌の前に

父母ありし日々にからめる縷紅草ひともと残る崩(くえ)垣の辺に

という歌が載っている。
2003年10月に開いてもらった私の出版記念会で、光本恵子氏が、この歌について喋っていただいた。
これについてはリンクにしたWeb上の『嬬恋』の「出版記念会」のところで、お読みいただける。
その時、光本さんは「ルコウソウ」が消えかかっている草、のように仰言ったが、今回、これを入力するに当ってネットを検索してみたら、
ルコウソウというのは熱帯アメリカの原産で、今ではさまざまの改良種が出て園芸店でも蔓草として人気らしい、という。
写真②も、そういう色とりどりの改良種という。

rukonsouルコウソウとりどり

ルコウソウは、ひるがお科の一年草で、日本では6月から夏から秋にかけて次々に咲きつぐ。
本来は五角形の真紅または白の筒型の花であるが、丸葉ルコウソウというのがあり、それと本来のルコウソウとの交配で「はごろもルコウソウ」という新しい品種が、
アメリカのオハイオ州で作られたという。
この花は大げさな花ではなく、また今どきの住宅事情からもフェンスにからませたりして丁度時代に合うのだろう。
写真③以下、いろいろの色のルコウソウの写真を載せておく。

rukousouルコウソウ白

marubarukousouルコウソウ

掲出した私の歌2首は、光本さんが仰言ってくださったように(消えかかっている花、というのは別にして)私の心のうちをルコウソウにからめて表現したもので、
的確に言い当てて下さったと感謝している。
以下、俳句に詠まれた作品を引いておく。

 縷紅草のびては過去にこだはらず・・・・・・・・中村秋一

 縷紅草垣にはづれて吹かれ居り・・・・・・・・津田清子

 縷紅草のくれなゐともる昼の闇・・・・・・・・小金井欽二

 軽みとは哀しみのこと縷紅草・・・・・・・・瀧春一

 垣越すと揃ふ縷紅の花の向き・・・・・・・・堀葦男

 羚羊のごとき少女や縷紅草・・・・・・・・古賀まり子

 雀らの影ちらちらと縷紅草・・・・・・・・村沢夏風

 草市のをとこの提げる縷紅草・・・・・・・・吉田鴻二

 縷紅草文(あや)目にからむ情の罠・・・・・・・・田口一穂

稲刈つて飛鳥の道のさびしさよ・・・・・・・・・・・・・日野草城
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  稲刈つて飛鳥の道のさびしさよ・・・・・・・・・・・・・日野草城

この頃は米の栽培も超早場米、早場米などが出てきて8月になると、もう新米が市場に出回るようになってしまった。
九州に行くと、たとえば宮崎県などではコシヒカリの品種ものの稲刈りが8月下旬には、みな済んでしまって一面稲を刈り取った後の風景が見られる。
日本の風土には「米作り」が一番合っているようで、農家の年間の稲作従事日数は、あらゆる作物の中で最短だという。
だから出来れば、みな米を作りたいのだが、米の消費量の減退などで米余りの状態で国として「減反」政策が取られている。
おそらく、殆どの人が稲の花の咲くのは見たことがないだろうと思うので、写真②に掲出しておく。
この写真から更に完全開花の状態に進む。
sum2稲の花
「陸稲」(おかぼ)という畑で栽培する米もあるが、おいしくないので、米といえば「水稲」のことをいう。
名前の通り水管理の出来る水田で栽培する。写真にはないが水を張った田に稲の苗を「田植え」する。
今では「田植え機」でやるのが普通。
米作りには、田に水を張ったり、水を遮断して田を干上がらせたり、と水の管理が大切で、「穂水」と言って出穂期には水をたっぷり張ることが必要である。
水管理も今は地下水をポンプで汲み上げたりするので楽である。

photo-2コンバイン
地域によって農家の栽培面積に違いがあるので一概には言えないが中程度の規模になれば写真③のようなコンバインを使用する。

もちろん「手刈り」にこだわる小規模の人もあるだろう。棚田などでは手刈りしか出来ない場合もある。写真④に「棚田」の稲刈り風景を紹介しておく。
47棚田

ついでに言うと、この頃では「棚田」の「景観」としての保存を主義としてボランティアで推進してゆこうという運動があり、一定の成果を収めているようだが、
棚田は急斜面に石垣を積んで狭い田をいくつも作るという重労働であって、採算面では全く割りに合わない農法である。
そういうボランティアの人々の意思と情熱がいつまで保てるかが「棚田」の運命を決めてしまうであろう。
こういう棚田では、ボランティアも年間を通じて労働に従事できるわけではないから、田植えとか稲刈りのシーズンに顔を出すくらいで、
後の年間の管理は地元の農家にお願いし、その代りに年間なにがしかのお金を拠出して経費に当てるという方法が採られている。
写真④の棚田の場合も刈り取りには手押しの「バインダー」という刈り取り機が使われている。
写真では、まだ刈っていない稲がS状に残っているが、周囲から、ぐるぐる廻るように刈ってきて、真ん中の部分がS状に残ったもので、
人がこちら向きに立っているのが、バインダーという刈り取り機を押して、こちら向きに刈ってくるのである。
ひと束分になると、麻紐で自動的に結束して、脇にバサッと投げる。結束された束が田の全面に見えている。そういう風景である。
写真④は、畦に彼岸花が赤く咲いているのも見てとれる。

rice19稲
写真⑤には、田に生えている稲の株をご覧に入れる。
この株も田植えをしたときは1~2本に過ぎなかったのが「分蘗(ぶんけつ)」して20~30本になるのである。
この辺のところに「物つくり」の面白さがあるのだが、現代人には、言ってもムダか。

以下に俳句に詠まれたものを紹介するが大半は今では農作業として見られないものである。
腰まで浸かるような湿田での稲刈りも今では灌漑施設が整備されて水管理が自由に出来るようになり、風景としても見られない。
句を読まれる前に一言申し上げておく。

 待ちかねて雁の下りたる刈田かな・・・・・・・・小林一茶

 順礼や稲刈るわざを見て過る・・・・・・・・正岡子規

 婆ひとり稲穂に沈む鎌の音・・・・・・・・石川桂郎
 
 水浸く稲陰(ほと)まで浸し農婦刈る・・・・・・・・沢木欣一

 稲を刈る夜はしらたまの女体にて・・・・・・・・平畑静塔

 太陽に泥手あげ稲刈り進む・・・・・・・・落合水尾

 孕れば腰立て勝ちに稲を刈る・・・・・・・・福田紀伊

 田より夕日を引き剥すごと稲を刈る・・・・・・・・細谷源二

 稲刈の海に出るまで雄物川・・・・・・・・森澄雄

 疲れ来て田舟にすがる深田刈・・・・・・・・吉良蘇月

 稲架の上に乳房ならびに故郷の山・・・・・・・・富安風生

 稲架の間に灯台ともる能登の果・・・・・・・・水原秋桜子

 稲架が立つ因幡の赫き土にして・・・・・・・・辻岡紀川

 架稲も橘寺も暮れにけり・・・・・・・・日野草城
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掲出句と引用の最後の句は共に草城のもので、おそらく同じ吟行の時期の作品であろうと思われる。




律儀にも今年も咲ける曼珠沙華一途なることふとうとましき・・・・・・・・・・木村草弥
aaoohiganb3ヒガンバナ大判

  律儀にも今年も咲ける曼珠沙華
   一途(いちづ)なることふとうとましき・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せたものである。ただし自選の中には採っていないので、Web上ではご覧いただけない。
この花は「ひがんばな」とも言うが、秋のお彼岸の頃に咲き出すから、この名前がある。ヒガンバナ科の多年生草本。
地下に鱗茎があって、秋に花軸を伸ばし、その上に赤い花をいくつか輪状に開く。花弁が6片で反っており、雄しべ、雌しべが突き出している。
人によっては妖艶ということもあろう。葉は花が終ったあと、初冬の頃に線状に生えて、春には枯れる。

361白花ひがんばな
写真②は白花である。東京では皇居の堀の土手に密集して咲いているのを見たことがある。

写真③は、その冬に生える葉の様子である。
030118higan01ヒガンバナ冬

根に毒を持つ有毒植物であり、墓地の辺りに咲いたりするので、忌まわしいという人もある。
「曼珠沙華」というのは「法華経」から出た言葉で赤いという意味らしい。
古来、俳句や歌謡曲などにも、よく登場する花である。
蕪村の句に

   まんじゆさげ蘭に類ひて狐啼く

というのがあるが、そういうと、この花は蘭に似ていなくはない。鋭い観察である。
以下、歳時記からヒガンバナの句を引く。

 葬人の歯あらはに哭くや曼珠沙華・・・・・・・・飯田蛇笏

 曼珠沙華消えたる茎のならびけり・・・・・・・・後藤夜半

 考へて疲るるばかり曼珠沙華・・・・・・・・星野立子

 論理消え芸いま恐はし曼珠沙華・・・・・・・・池内友次郎

 つきぬけて天上の紺曼珠沙華・・・・・・・・山口誓子

 曼珠沙華南河内の明るさよ・・・・・・・・日野草城

 曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり・・・・・・・・中村草田男

 四十路さながら雲多き午後曼珠沙華・・・・・・・・中村草田男

 まんじゆさげ暮れてそのさきもう見えぬ・・・・・・・・大野林火

 曼珠沙華抱くほどとれど母恋し・・・・・・・・中村汀女

 彼岸花鎮守の森の昏きより・・・・・・・・中川宋淵

 寂光といふあらば見せよ曼珠沙華・・・・・・・・細見綾子

 曼珠沙華逃るるごとく野の列車・・・・・・・・角川源義

 西国の畦曼珠沙華曼珠沙華・・・・・・・・森澄雄

 曼珠沙華忘れゐるとも野に赤し・・・・・・・・野沢節子

 曼珠沙華わが去りしあと消ゆるべし・・・・・・・・大野林火

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子・・・・・・・・金子兜太

 五欲とも五衰とも見え曼珠沙華・・・・・・・・鷹羽狩行

ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥
20121206131023tpBAヴェズレーの丘と教会
 ↑ ヴェズレーの丘と教会
vezelay30ヴェズレー サント・マドレーヌ聖堂
↑ ヴェズレーの丘 サント・マドレーヌ聖堂
vezelay04サント・マドレーヌ聖堂ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
 ↑ ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
vezelay07柱頭彫刻①
 ↑ 柱頭彫刻①

──巡礼の旅──(19)

     ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖マドレーヌというのは「マグダラのマリア」のことである。
かつては娼婦であり、キリストの教えにより悔悛し、復活したキリストを最初に見た、という彼女の遺骨を納めているという。真偽のほどは置いておく。
人々がそれを信じたという事実が肝要なことなのである。
ここはスペイン西北端サンチアゴ・デ・コンポステーラへ続く大巡礼路の出発点のひとつであり、長い参道が修道院まで続く。
1146年には聖ベルナルドゥスが第二回十字軍を説いた場所でもある。西正面の外観は十九世紀の作なので大したものではない。

サント=マドレーヌ大聖堂 (Basilique Sainte-Madelaine) は、フランスの町ヴェズレーの中心的な丘の上にあるバシリカ式教会堂。
この教会と丘は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ヴェズレーの教会と丘」)。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつという歴史的重要性もさることながら、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。

Wikipediaに載る記事を引いておく。 ↓
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861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。
その際に、修道士の一人がマグダラのマリア(サント=マドレーヌ)の聖遺物を持ち帰るためにプロヴァンス地方のサン=マクシマンに派遣された。

878年には、この初期カロリング様式の教会は、ローマ教皇ヨハネス8世によって、現存する地下納骨堂ともどもマグダラのマリアに捧げられた。
ジョフロワ修道院長 (l'abbé Geoffroy) はマグダラのマリアの聖遺物を公開し、それが様々な奇跡を起こしたとされる。
これによって、巡礼者が押し寄せ、ひいてはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に組み込まれることになったのである。

こうした評価は村を都市へと発展させる原動力となった。
巡礼者たちは引きもきらず、その中にはブルゴーニュ公ユーグ2世(1084年)や、イングランド王リチャード1世(1190年に第3回十字軍遠征に先立って)、フランス王ルイ9世(1248年)なども含まれることとなる。

アルトー修道院長 (l'abbé Artaud) は、1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。
ただし、この新築にかかる費用の負担に反発した住民たちが暴動を起こし(1106年)、この時にアルトーは殺された。
なお、この時点では身廊はカロリング様式のままだったが、1120年7月25日に1127人の犠牲者を出した大火災に見舞われたことで、身廊も建て直された(1138年に完成)。
なお、今に残る正面扉上の美しいティンパヌムが彫られたのもこの頃のことである(1125年 - 1130年)。
1146年の復活祭の日(3月31日)に、クレルヴォーのベルナルドゥスは、丘の北斜面にて第二次十字軍を派遣すべきであると説いた。また、1166年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが、この教会で、イングランド王ヘンリー2世の破門を宣告した。
教会の人気は、1279年にヴェズレーへ持ち去られたはずの聖遺物と称するものがサン=マクシマンで発見されたことで、凋落の一途をたどった。
この教会は1162年にはクリュニー修道院から分離し、オータン司教からフランス王の監督下に移っていたが、1217年にはフランシスコ会に引き取られ、1537年に還俗した。
1569年にはユグノーによる略奪を受けた。その後、1790年にはフランス革命の中で小教区の一教会となった。この頃、教会参事会室だけは良好な状態で保たれた(現在も付属のチャペルとして残存している)ものの、ほかは建材調達のための石切り場と化し、自慢のティンパヌムも酷い有様だった。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。
こうした度重なる損壊に対し、プロスペル・メリメの発案に従って、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックに再建が委ねられた(1840年)。
この再建工事は1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
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一連の教会群は、ヴェズレーのなだらかな丘の上に建っている。
vezelay26ホタテガイ
 ↑ だらだら坂の舗道に埋め込まれた巡礼路を示すホタテガイ

サント・マドレーヌ聖堂のもう一つの見所は、100点にもおよぶ身廊(正面から内陣へと向かう東西に細長い空間)と側廊(身廊の左右にある通路)を仕切る柱にある柱頭彫刻である。
建築と調和したロマネスク彫刻はこの時代の美術を代表するもので、各地の文化的素地の多様性、人々の想像力の豊かさ、深い宗教精神を伝えているという。
柱頭彫刻はギリシャ時代からあったが、ギリシャのものは主に植物的な文様であり、物語的な柱頭彫刻はロマネスク芸術から始まったそうである。
一、二引いて解説してみよう。
vezelay09エジプト人を殺すモーゼ
 ↑ エジプト人を殺すモーゼ
vezelay10ダビデとゴリアテ
 ↑ ダビデとゴリアテ

ダビデは植物の花弁にのっかかって切り込んでいる。これはダビデが小さい子供であることを強調している。
ダビデが少年の頃に巨人戦士ゴリアテを倒す聖書物語は、信仰の厚いダビデの勇気と、神を嘲って武力に頼る暴虐なゴリアテの決闘の結末から、
信仰の大切さを学ぶ教訓として語られる、欧米人にとってなじみの深い話だそうである。

800px-Vezelay_Tympan12サント・マドレーヌ教会ティンバヌム
↑ 「洗礼者志願室」入口上部のティンバヌム壁画
この壁画の主題は「使徒に布教の命令を伝えるキリスト」ということだが、中心にほぼ両手を広げたキリストが居て、その手の先から神の啓示である光線が出、それらを畏怖の念で受け取る使徒たちが取り巻く。
それらの使徒の下段と外側の半円には「地上」のローマ人、ユダヤ人、アラブ人、インド人、ギリシャ人、アルメニア人などが刻まれ、これらはすべて神の宇宙にある人間であり、キリスト教の「普遍性」を意味するという。
さらに、半円形壁画の外側は十二か月の仕事を具体的に描いている。
一月は農夫がパンを切り、二月は魚を食べ、三月は葡萄の木を手入れし、四月は木の芽で山羊を育てる。・・・・・
九月は麦を櫃に入れ、十月は葡萄を収穫し、十一月は豚を殺し、十二月は男が肩に老婆を背負う。
この最後は「過ぎてゆく年月」を象徴する。したがって、これらは自然の一年の円環的構造と人間との関わりを示すとされる。
この自然の時間を基底としながらも、直線的なキリスト教的時間、すなわち前世の原罪、現世の贖罪、来世の救済が展開される。


昔は字を読めない人が大半であり、しかも時代は中世であり、終末思想が強かった時代であり、キリストに救済を求める気分が支配していた。
だから信者や修道士を脅し、戒めるような主題が柱頭に並んでいる。
写真には一部しか出せなかったことも了承されたい。




比喩のやうに宙のかなたから飛んで来る君のEメール詩句の破片が・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
aaookanokoカノコユリ

     比喩のやうに宙(そら)のかなたから飛んで来る
       君のEメール詩句の破片が・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。この歌だけ単独で取り出すと何のことやら判らないが、「ドメイン」というインターネットを詠んだ一連8首の中のものである。

この一連の最初の歌は

  野兎の耳がひらひらしてゐるね<草原の風に吹かれてるんだ>・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

というものである。
これは「詩」である。
この詩句のあとを受けて、掲出した歌がある、のである。
「君のEメール」というところに、インターネットで発信された詩句であることの存在証明をしていると言えるだろう。
「Eメール」という言葉を修飾するものとして「比喩のやうに宙(そら)のかなたから飛んで来る」というフレーズを、私は選択した。
「比喩」という語句を辞書で引くと①「たとえること」②「類似したものを使って印象深く説明する表現法」というようなことが書いてある。これは辞書によって文句に違いはあるが、ほぼ大同小異といえよう。
「詩」というものは、極論すると「比喩」表現に尽きる、と言える。
その「詩」が成功するかどうかは、その「比喩」がぴったりと収まって、読者に十全に受け入れられるかどうか、によって決まる。

ここに挙げた歌が成功しているかどうか、私には何とも言いようがない。いかがだろうか。


ほつこりとはぜてめでたしふかし藷・・・・・・・・・・・・・・・・富安風生
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  ほつこりとはぜてめでたしふかし藷(いも)・・・・・・・・・・・・・・・富安風生

昔、私の子供だった頃はこれからの時期のおやつというと必ず「ふかし藷」だった。
お腹をすかせて学校から帰ると、台所には、ほっかりとふかしたサツマイモが湯気を立てて待っているのだった。
私たちの辺りで栽培していた「赤いも」は皮膚は赤いが中身は白くて、甘くて、おいしい品種だった。
掲出の風生の句の風景そっくりだった。

サツマイモ──甘藷も原産地は中央アメリカだという。多年生の蔓草で、寛永年間に薩摩の前田利右衛門が琉球から持ち帰り、青木昆陽が享保年間に関東地方へ普及させた。
サツマイモというのは、渡来の順路を知らせる命名である。
蕃藷、唐藷、琉球藷、薩摩芋という各地の呼び名は、この藷の渡来の経路を知らせるもので「薩摩」では「琉球」藷と呼んでいた。
サツマイモも青木昆陽の普及により「救荒作物」として関東以西に広がり、飢饉から人々を救ったのである。
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都会人でも子供の頃に田舎に「イモ狩り」に出かけた記憶のある人があろうが、どういう栽培をするのか知らない人が大半だろう。
サツマイモは寒さに弱いので、昔は秋に収穫した種芋を地中に貯蔵して冬を越した。今は定温倉庫で20度くらいで保管する。
春になると、それを出して苗床に定植し保温しながら発芽させて育て、初夏になると伸びてきた蔓を長さ25~30センチに切り取り、畑に挿して定植する。
どんどん蔓が延びて畑一面を覆うようになり、根に新しい芋が出来る。

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写真③がサツマイモの葉である。先に言ったように、この蔓の茎を葉っぱもつけたまま、切り取って土に挿すのである。
苗は土に横たえる状態で土に植える。その挿した地中の部分から芋が生育するのである。種を蒔くというようなことはしない。
第一、本州ではサツマイモの花が咲くことは、ないのである。
植えた苗が生育すると畑一面を覆うので雑草などは余り生えないから、管理はどちらかというと楽である。
戦争中は食べるものがなくて、このサツマイモの蔓が貴重品として、よく食べられた。
写真④がサツマイモ畑の全体の様子である。
satsuma-1サツマイモ畑

サツマイモにもさまざまな品種があり、真っ赤なもの、ピンクのもの、白いものなど。
今どきはサツマイモというと「焼き芋」として一般的に知られていると思うがビタミンCなども豊富であり、
また食物繊維が多いのでダイエット食としても適しているという。
最近ではサツマイモの生産地は徳島県(鳴門金時という焼き芋専用種を開発した)、鹿児島県(昔はアルコール原料にサツマイモを広く栽培していたが、
醸造用アルコールの需要の衰退とともに減り、今は鹿児島茶産地として静岡県に次ぐ茶の大産地となった。
今は焼酎ブームとあって、芋焼酎の原料として広く栽培されている)が知られる。
1407im8白芋
↑ 写真⑤は芋焼酎の原料の「白芋」である。
白芋は昔からあったが、甘みの少ない、生食した場合には、おいしくない芋であった。
この芋焼酎原料専用の白芋も、おそらく甘みのない、澱粉質のみの品種だろう。なまじ甘みがあると製造工程で、うまくないのだろう。
澱粉だけだと酵素によって多くがアルコールに転換できるのであろうか。芋の名前も「サツマ・・・・」とついている。
今しもアルコール飲料の中で、空前の「しょうちゅう」ブームである。私の知っている人でも老齢者は皆しょうちゅうである。
年取ると糖尿病に罹る人が多く、さりとてアルコールは飲みたいということで、糖類を含んでいないから、焼酎が持て囃されるのであろう。
私は糖尿病っけは全くないので、ワイン、ビール、日本酒など「味」のある酒を少量たしなんでいるので、焼酎は旨いとは思わない。

以下、サツマイモ=甘藷を詠んだ句を挙げて終る。

 君去なば食はむ藷君に見られしや・・・・・・・・石田波郷

 藷たべてゐる子に何が好きかと問ふ・・・・・・・・京極杞陽

 甘藷穴より突き出て赤き農夫の首・・・・・・・・野沢節子

 甘藷掘りを牛はかなしき瞳もて待つ・・・・・・・・才記翔子

 八方へ逃げゆく藷を掘りあぐる・・・・・・・・神生彩史

 藷掘られ土と無縁のごと乾く・・・・・・・・津田清子

 新甘藷を一本置けり童子仏・・・・・・・・中山純子

 生きて会ひぬ彼のリュックも甘藷の形(な)り・・・・・・・・原田種茅

 甘藷穴のひとつは満ちて掃かれけり・・・・・・・・遠藤正年

 やはらかき土につまづく藷集め・・・・・・・・市村究一郎

几帳面な玉蜀黍だと思はないか・・・・・・・・・・・・・・・櫂未知子
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  几帳面な玉蜀黍だと思はないか・・・・・・・・・・・・・・・櫂未知子

トウモロコシは高さ2メートル程に伸び、夏の終りに茎の上に芒の穂のような雄花を咲かせ、葉腋に雌花穂をつける。
雌しべに花粉がつくと稔って、雌しべ穂は茶褐色の毛のように苞の先端に残る。
『和漢三才図会』には「蛮舶将来す。よつて南蛮黍と称す。その形状、上に説くところははなはだ詳らかなり。ただし、苞の上に鬚を出だす。赤黒色にして長さ四五寸、刻煙草に似たり。その子(み)、八月黄熟す」と記述しており、特徴をよく捉えている。
夏の終りの時期の北海道の名物で、実を焼いて露店などで売る秋の味覚の風物詩である。
写真①は畑の状態である。原産地はアメリカ大陸である。インカの民は、これを主要な食料源としている。
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写真③は畑の状態だが、実の鬚が上端からはみ出ているのが見られるだろう。
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この頃では実を採取するのが目的でなく、茎と葉を家畜の飼料として刈り込む品種のものもあるようだ。これを「デントコーン」という。
北海道に行くと、よく見られる。
家畜を養うには莫大な量の飼料が必要で、トウモロコシのほかに麦なども配合飼料として使われる。
日本は家畜用の配合飼料の完全な輸入国で、殆どをアメリカに依存している。
考えてみるとアメリカ大陸由来の植物が多い。ジャガイモ、トマトなどもアメリカ原産である。
昔はヨーロッパでは冷害による飢饉に瀕していたが、救荒作物としてのジャガイモの到来によって救われた、という。

掲出の櫂未知子の句は、きっちりと並んだ実の粒の様子を見事に捉えていて秀逸である。
以下、トウモロコシを詠んだ句を引いて終わりにする。

 もろこしを焼くひたすらになりてゐし・・・・・・・・中村汀女

 唐黍の影を横たふ舟路かな・・・・・・・・水原秋桜子

 唐黍の葉も横雲も吹き流れ・・・・・・・・富安風生

 唐黍やほどろと枯るる日のにほひ・・・・・・・・芥川龍之介

 もろこしを焼いて女房等おめえ、おら・・・・・・・・富安風生

 貧農の軒たうもろこし石の硬さ・・・・・・・・西東三鬼

 唐黍焼く母子わが亡き後の如し・・・・・・・・石田波郷

 海峡を焦がしとうもろこしを焼く・・・・・・・・三谷昭

 唐もろこし焼く火をあふり祭の夜・・・・・・・・菖蒲あや

 充実せる玉蜀黍を切に焼く・・・・・・・・本田青棗

 中腰の唐黍焼きに昔あり・・・・・・・・石川桂郎

 雷の遠く去りたる唐黍をもぐ・・・・・・・・横山丁々

 唐黍と学生帽と一つ釘・・・・・・・・上野鴻城

 


「インド文学散歩」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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↑ カジュラホ──ミトゥーナ交合図群像

──エッセイ──初出・同人誌「鬼市」10号1999年6月掲載──
    
     「インド文学散歩」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

1999年の正月休みを利用して北インドを9日間旅した。もちろん短期間のことであり、
テーマのある旅ではなく単なるツーリストに過ぎないものであるが、以前から書物を通じ
て知っていたことを自分の目で確かめられてよかったと思っている。
少しインド文学について書いてみたい。
1913年にノーベル文学賞を受けた、ベンガル(東インド)の詩人タゴールの定型詩集『ギ
ータンジャリ』(歌の捧げ物、の意)の冒頭の詩は

わが頭(かうべ) 垂れさせたまへ 君がみ足の 塵のもと (渡辺照宏訳)

で始まる。この「君」と親しみと敬意をこめて呼びかけられるのは他ならぬ神である。
この神とは、古代インドの神秘的な教説ウパニシャット、中世インドのヴィシュヌ神信仰
に根ざす、と言われている。
この詩は、叙事詩ではない。分類すれば抒情詩と言うべきだろう。タゴールは神の姿を描
くのに、そのような伝統の継承にとどまらない。
彼は「このバアラタ(インドのこと。インドという命名は西欧人がつけたもので対外的に
はリパブリック・オブ・インディアのように使用されているが、今でもインドの正式名称
は、このバーラタとされる)
の人多(さわ)の海の岸辺へアアリア人もアナアリア人もドラ
ビタ人も------一つとなりぬ」(渡辺訳)と、インドの諸民族の融合のさまを確かめながら、
人はすなわち神だ、としている。そしてまた、インドを呪縛している身分制度のさまを
「痛ましわが国 人が人を侮るゆゑに汝侮らるべし 衆人(もろびと)とともに人並の扱ひ
を人々に拒み」と見据えて、近代インドの現実に強い批判を加えている。
だが現代のインドの現実は、身分カーストの上に職業カーストが二重に存在して、がんじ
がらめとなっている。このカーストの下には更に、アンタッチャブルと呼称される不可触
賎民も存在するのである。貧富の差は大きく、75%の人が住む農村は貧しい。農村と言
わず都市と言わず巷には人口9億と称する人間があふれている。
筆が脱線したが、タゴールの故郷シャーンティ・ニケータンはカルカッタの西へ列車で
4時間の地だが、この地名は「静寂の地」「平和郷」という意味らしい。インド人は宗教的
なめでたい時に「シャンティヒ」を三度唱えるという。この地はタゴールの父デーヴェン
ドラナートが1863年に、真理探究のためにアーシュラム(道場)を開設したのがはじまりで、
タゴールが小さな学校を作り、ノ-ベル賞の賞金で学校を拡充させた。この学校は1921年
にヴィシュヴァ・バーラティ大学に昇格、41年にはインドの五つの国立大学の一つに
なった。
すべての存在の中に神を認めるというタゴールの「汎神論」は自然愛、人類愛の思想と
一体であるとされる。日印の文化交流に貢献した岡倉天心とタゴールとの親交はよく
知られている。
また岡倉天心(覚三)と詩人プリヤンバダ・デーヴィー女史との「愛の手紙」は『宝石の声
なる人に』(大岡信訳)という本になっている。これはタゴールとの交遊の派生によるもの
だが、この「宝石の声なる人に」という呼びかけは1913年8月21日付の覚三の手紙のは
じめのイントロである。そして、この手紙が最後のものである。
この本が出版されたのは1982年10月平凡社刊であり、フランス装であるために本の
ページをペーパーナイフで切りながら読んだのを思い出す。
詩の一節は

いつ私に初めて関心を持ったのですか。カルカッタを出発した後、
それとも---------             (デーヴィー)
私は終日、浜辺に坐し、逆巻く海を見つめています-------------------
いつの日か、海霧の中から、あなたが立ち上がるかも知れないと
思いながら。                 (覚三)

タゴールの「汎神論」というのは何も彼一人のものではないことを、インドを旅すると、
実感させられる。
例えば、ヴィシュヌプールという町がある。これは先にも触れたヴィシュヌ神の住む町と
いう意味である。「プール」と語尾につくのはヒンズー教に由来する地名である。ほかに
「バード」と語尾につく地名はイスラム教に由来することを示す。(例えばハイデラバード
など)このことは旅の全行程を共にしたインド人ガイドのメーラ君に聞いた。
ヒンズー教は本質的に多神教である。神様の数は枚挙にいとまがないが、シヴァとヴィシ
ュヌとブラフマーが古来より三大神とされる。
シヴァ神は荒ぶる神である。しかし、恵み深い神でもあり、また踊りの名手で「ナタ・ラ
ージャ」と呼ばれ舞踊を志す人々は、この踊るシヴァ神を信仰する。
ヴィシュヌは太陽の光を神格化したものとされ、十あるいは二十四の化身を表すに至る。
仏教の開祖ゴーダマ・ブッダもその一つとされる。ヴィシュヌ信仰がインド全体に普及し
たのは、この化身の思想による。
ヒンズー教のバイブル『パガヴァット・ギーター』には、「道徳が衰え不道徳が栄えるた
びに余は自身を創出する」と説かれる。この考えによりヴィシュヌはさまざまな姿をとっ
て世の人々を救うのである。
インドを旅するとヒンズー教寺院の薄暗がりに、ぬっくと立つリンガに出会う。さらに目
をこらせば、リンガを包む丸いヨーニがある。
「リンガ」(またはリンガム)も「ヨーニ」(またはヨニ)も共にサンスクリット語でそ
れぞれ「男根」「女陰」を意味する。リンガはシヴァ神をシンボライズしたものであり、
すべての生きとし生くるものは男性原理と女性原理の合一によって万物の生成を見るから
である。
因みに私は、サンスクリット語というのは中世の言語で、現在は死語だと思っていたが、
西インドのプーナ大学で博士号を得られた阿部慈園氏の本を読むと、インド全土でサンス
クリット語を自由に会話、読み書き出来る人が五千人はいるという。1990年代の現在
の話である。だから同大学のサンスクリット学科では集会や行事はすべてサンスクリット
語で挙行されるという。ヨーロッパで公式行事の時、例えばイギリス議会の開会式でエリ
ザベス女王がラテン語で一席語るというよりも更に一歩実用性は深いというべきである。
この文章はインド文学を語るがテーマだから、ここで昨年亡くなった「地中海」代表の香
川進の歌集『印度の門』に収録の歌に触れる。

*革命は観念ならねばまだかれら貧し軒ばを蛍飛びゆく
*乾糞(ふん)の火があぐるけむりを透過して月萌ゆ氷の冷たさもちて
*しかばねは物質、川にうち沈むる時いたるべく祭らるるしじま
*この国に乞食なき日の必ず来ん聖ガンジーも死にて久しき

などである。彼は旅行者ではなく商社の駐在員であつたが、一首目三首目などは実景をと
らえて心象に迫っている。四首目の歌は楽観的過ぎるしガンジー死後五十年を経ても事態
は基本的に変わっていない。
また「近代化」というのがどういう意味を持つのか。「発展」ということが良いのか悪い
のか、などインドの現実は様々のことを突き付ける。
私の歌の中に出てくる「ミトゥーナ」というのは直訳すると「性交する人」という意味で
ある。それは先に書いたようにヒンズー教に由来するが、そんな、すべてを飲み込んだ教義
と芸術作品と現実生活との、まさに「混沌」と表現すべきものがインドの現実であることを
実感させられるのである。そこにはキリスト教にいうような「原罪」というようなものは
存在しない。
書店や高級ホテルのショップでは英文のカラー刷りの『カーマ・スートラ』や、インド古
来の表現様式である「細密画」のうちで日本の浮世絵の「春画」にあたる画集の美しい本
が売られている。性風俗の表現についてもインドには「禁忌」(タブー)は存在しないよ
うだ。これらも東アジアの、特に漢文化の「儒教」思想に侵されていない、したたかな文
化の「雑草」性をかいま見させてくれる。 (完)

この本の別項に私の歌が 載っているので下記に引いておく。
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     国原-----インド・日本、冬から春へ-----・・・・・・・・・・木村草弥

天霧らひ山たたなはる峡(かひ)村は畳々とつらねて冬の棚田の                      

ふたたびは逢はぬ人かも胞衣(えな)塚は石重ねたり 和讃こごゑせよ                   

叙事抒情これを創りしものを讃(ほ)むマハーバーラタ、ギーダ・ゴーヴィンダ
                              
男根(リンガム)に花輪を捧げ燭を供ふるサリーの女よ<道順は彼女に訊く>
                             
AD(アノ・ドミニ) その時代区分などしゃらくせぇBC二千年モエンジョ・ダーロだ
                              
人はみな自が守り神を持つと言ひ運転手はバスに香を焚きをり

象神(ガネーシャ )は富をもたらす神となる父シヴァ神に首すげ替へられて
                           
インド洋プレート押し来る亜大陸その地溝帯をガンガー流る

ガンガー地溝に堆積する土砂二千メートル平均勾配一キロメートル当り十四センチ

恒河(ガンガー)に死を待つ人が石階ゆ喜捨を待つなり乞食(こつじき )と紛ひ
                 
しづけさのひかりとどめて天竺葵(ゼラニウム )咲き男は不意に遺されゐたり
                          
薺(なづな)咲く道は土橋へ続きけりパールヴァティは花を抱へて
                         
コーダル川の畔にカジュラホー村ありぬ天女(アプサラ )ミトゥナの愛欲や濃き
                              
手放しにのろけてもみよマハーデーヴァ寺院の壁の女神の陰(ヨニ )は
                                 
数学は難解クローバーの園に編めるも愛(かな)しかの日のレイは
                             
ミトゥナのアクメのさまを彫りけるはシャクティ原理のタントラの道

背位ありクリニングスあり壁面に説かれてゐたるカーマ・スートラ

桜草(プリムラ)や男弟子けふ入門すそしらぬ顔の女弟子たち
                     
ガンジーの屍を焚ける火葬場(ガート)ゆこの国に暗殺(アサシン )多きは如何に
                
驢馬駱駝徒歩ゆき自転車のろきバスゆき警笛かしまし

<警笛をどうぞ>(ホーン・プリーズ)遅速緩速さまざまの人馬ゆき交ふ時速十五キロメートル
                        
-----------------------------------------------------------------------------------------
たまきはる命をここに節分会の真白き紙の人形(ひとがた)を截る
                     
白毫寺みち遠けれどこれやこの題辞(エピグラフ)に何をエピステーメー
                         
このあたりもと宇治郡(こほり )しろがねの衾(ふすま)の岡辺はこべ萌え出づ
                   
土筆(つくし)生ふ畝火雄々しも果たせざる男の夢は蘇我物部の
                          
あり無しの時の過ぎゆく老い人にも村の掟ぞ 土筆闌けゆく

野火止の焦げしはたてに生を祝(ほ)ぐ脚長うして土筆の出でし
                            
夜の卓に土筆の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず

淋しさのあるとき惨め酸葉(すかんぽ )を噛めばことごとく指弾されゐて
                           
当麻道すかんぽを抜き噛みにつつ童女の眸(まみ )も春風のなか
                              
*固有名詞の解説*
『マハーバーラタ』はもう一つの『マーラーヤナ』と双璧をなすヴィーヤーサ仙の
作とされるBC数世紀からAD4世紀までに編まれたインドの叙事詩。
『ギータゴーヴィンダ』(牛飼いの歌)は最高神ヴィシュヌの十の化身の一つクリシュナと
牛飼い女ラーダーとの恋物語を書いた12世紀の詩人ジャデーヴァの抒情詩。
<道順は彼女に訊く>は片岡義男の長編ミステリーの題名から借用した。




新涼のいのちしづかに蝶交む・・・・・・・・・・・・・松村蒼石
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  新涼のいのちしづかに蝶交(つる)む・・・・・・・・・・・・・松村蒼石

秋になって感ずる涼しさのことを「新涼」という。
「涼しさ」だけでは夏の暑さの中で味わう涼しさで、新涼とは別のもの。
本意としては「秋になりて涼しき心をいふなり」と『改正月令博物筌』にある。

  秋来ぬと思ひもあへず朝げより初めて涼し蝉の羽衣・・・・・・・・新拾遺集

の歌が知られている。また

  秋涼し手毎にむけや瓜茄子・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

の句が「新涼」「秋涼」「爽涼」「初涼」「涼新た」などの類語の季語の本意とされている。
心地よい涼しさの中に一抹の「寂しさ」「心細さ」をも伴う感覚である。
掲出の蒼石の句は、その「新涼」の季節の中で、ひそかな「生命力」の凄さを一句の中に凝縮した、みごとなものである。

以下、これらの類語の句を引いて終る。

 新涼の月こそかかれ槇柱・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 爽涼と焼岳あらふ雲の渦・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 新涼や白きてのひらあしのうら・・・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 新涼の身にそふ灯かげありにけり・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 新涼の咽喉透き通り水下る・・・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 新涼やたしなまねでも洋酒の香・・・・・・・・・・・・・・中村汀女

 新涼の水の浮べしあひるかな・・・・・・・・・・・・・・安住敦

 新涼の剃刀触るる頬たかく・・・・・・・・・・・・・・西島麦南

 新涼の画を見る女画の女・・・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 新涼や尾にも塩ふる焼肴・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

 新涼や白粥を煮る塩加減・・・・・・・・・・・・・・久米はじめ

 新涼や相見て妻の首ながし・・・・・・・・・・・・・・細川加賀

 新涼や素肌といふは花瓶にも・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 新涼の母国に時計合せけり・・・・・・・・・・・・・・有馬朗人

 新涼の山に対へる木椅子かな・・・・・・・・・・・・・・水田清子

 新涼や掌のくぼにある化粧水・・・・・・・・・・・・・・高山夕美

 新涼の道の集まる凱旋門・・・・・・・・・・・・・・村上喜代子

 新涼の豆腐を崩す木のスプーン・・・・・・・・・・・・・・浜田のぶ子

 新涼の水にこつんと鬼やんま・・・・・・・・・・・・・・中拓夫

 新涼の香ともハーブを刻みけり・・・・・・・・・・・・・・鈴木喜美恵

 灯を入れずおく新涼の青畳・・・・・・・・・・・・・・貝瀬久代


丈高く咲いて風よぶ紫苑には身をよぢるごとき追憶がある・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  丈高く咲いて風よぶ紫苑(しをん)には
   身をよぢるごとき追憶がある・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「紫苑」の花言葉には追憶とか身をよじる思慕、とかがある。
この歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものだが、ひところ花言葉を読み込んだ歌に集中していた時期があり、この歌は、その一つである。

紫苑はキク科の多年草で、日本の原産とある。紫色の頭状花をつける。風にも強い。
『古今集』に

  ふりはへていざ古里の花見むとこしを匂ぞうつろひにける

という歌があるが歌の中に「しをに」と紫苑を読み込んである。

私の方の菜園にも一群の紫苑が咲きかけてきたところである。

以下、紫苑を詠んだ句を引いておく。

 栖(すみか)より四五寸高きしをにかな・・・・・・・・小林一茶

 紫をん咲き静かなる日の過ぎやすし・・・・・・・・水原秋桜子

 野分して紫苑の蝶々けふはゐず・・・・・・・・星野立子

 この雨や紫苑の秋となりし雨・・・・・・・・加藤楸邨

 紫苑にはいつも風あり遠く見て・・・・・・・・山口青邨

 台風の紫苑もつともあはれなり・・・・・・・・石塚友二

 紫苑といふ花の古風を愛すかな・・・・・・・・富安風生

 頂きに蟷螂のをる紫苑かな・・・・・・・・上野泰

 山晴れが紫苑切るにもひびくほど・・・・・・・・細見綾子

 古妻も唄ふことあり紫苑咲き・・・・・・・・橋本花風

 露地の空優しくなりて紫苑咲く・・・・・・・・古賀まり子

 丈高きことが淋しく花紫苑・・・・・・・・遠藤梧逸


オータン「サン・ラザール大聖堂」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
Autun_Panoramic_Photoオータン・パノラマ
↑ オータンの街の俯瞰
img_1245225_39606459_1オータン サンラザール大聖堂
 ↑ オータン サンラザール大聖堂
103597188_624サンラザール大聖堂タンパン
 ↑ 西正面扉口のタンパン「最後の審判」1135年頃
m_bIMG_2724E79CA0E3828BE3839EE382AEE381B8E381AEE3818AE5918AE38192サンラザール大聖堂・展示室にある「眠るマギヘのお告げ」
 ↑ サンラザール大聖堂・展示室にある「眠るマギヘのお告げ」
10064864806今はロラン美術館にある「エヴァ」1120~1135年頃
 ↑ ロラン美術館にある「エヴァ」1120~1135年頃

──巡礼の旅──(18)

     オータン「サン・ラザール大聖堂」・・・・・・・・・・・・・木村草弥

オータン(仏: Autun)はブルゴーニュ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県にある都市。オータンの住民はオーチュノワ(仏: Autunois)と呼ばれる。

オータンは歴史ある都市で、紀元前1世紀ごろにローマ帝国の初代皇帝、アウグストゥスの勅許によって建設された。
当時の名称はアウグストドゥヌム(Augustodunum, アウグストゥスの砦、の意)であり、現在の市名はこれが転訛したものである。
ナポレオン・ボナパルトと兄ジョゼフはこの地のリセの出身である(そのリセは現存する)。
1788年-1790年にかけては、シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールがこの都市の司教であった。
2002年の2月にはユルスリーヌ国際文化センターが開設されている。

サン・ラザールとは、「マグダラのマリア」の兄弟で、キリストが蘇生させたラザロのことである。
ここは、そのラザロの遺骨を祀っている。
この遺骨はアヴァロンにある同名の聖堂から盗まれたもので、当時はよくあったことだと言われている。
オータンにはかつて古代ローマの都市があり、遺跡も多い。
大聖堂の建築も古代ローマの遺跡を参考にしたと言われている。
ここでは建物よりも「彫刻」に注目したい。 
主なものは冒頭に、続けて画像を出しておいた。

二番目に出した、西正面扉口のタンパン「最後の審判」1135年頃の彫刻だが、その中央に置かれる大きなキリストの足元に「ジルベルトゥスがこれを作った」という言葉が彫られている。
これは建築家であり彫刻家でもあった人物の署名と考えられている。
この世界の終わりにキリストが再び天から降臨し、すべての死者が蘇って裁きを受ける場面で、向かって左に天国、右に地獄が配される。
キリストのすぐ右では大きな天秤で死者の魂が計量され、天使と悪魔が「魂」を鑑定する。
賢明な読者であれば勘付かれると思うが、この「秤」というのは古代エジプト起源であり、それは十字架のイメージとともにキリスト教の中に入り込んできたものである。
また、それらの計量をめぐって聖ミカエルが悪魔と対峙しているが、後者の足首には蛇がまきついているのは「堕落の誘惑」を象徴する。

三番目に出した「眠るマギへのお告げ」では、クレープのような布団に包まれ一緒に裸で眠る東方からやってきた博士たちの一人の手に、天使が指先でそっと触れて、ヘロデ王のもとに帰らず別の道で帰るようにお告げをする。一人目覚めたマギの目は何を見ているのだろうか。

四番目の「エヴァ」の像は、かつて大聖堂の北扉口にあった浮彫の断片である。
左手で智恵の木の実をつかみ、右手を口に当て、今は失われたアダムに囁きかけている。智恵の木の枝には、これも失われた悪魔の爪が残る。
よく知られた『原罪』の場面である。エヴァの泳ぐような体勢は、横長の枠に彫られたというせいでもあるが、罪を犯した彼女が示す「悔い改め」の身振りでもある。
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私の短歌の作品の連作に「エッサイの樹」という一連があるが、これは、この教会の見聞を元にしている。
参照されたい。


村島典子「蜻蛉の滝」32首・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
晶

──村島典子の歌──(16)

     村島典子「蜻蛉の滝」32首・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・「晶」83号2013.9所載・・・・・・・・・・

        蜻蛉の滝      村島典子

   ししくしろ春の熟睡(うまい)の只中へ人はきたりて犬を呼びをり
   すくすくと君は行きませ鳰鳥のかづく湖辺に立ちて送らむ
   今津より旅をして来しみづならむ岸辺うつ波はつなつの湖
   単純にわたしを糺す朝の野にはじめてのやうに陽がのぼりきて
   半世紀まへの少年かたはらにしやがめばはつかわれら羞ぢらふ
   語らはず交換せし本に挟まれし短き手紙中学時代の
   半世紀へだてはじめて聴く声のはや少年の声にはあらず
   野薔薇咲くゆふぐれあはき花あかりもう明日あたりあなたはゐない
   「西の魔女は死んだ」と指文字に記しおくべし朝の戸口に
   垂足三角形白紙(しらかみ)の上に作りをり鬱はもすこし去りたるけはひ
   体おもく沈むばかりの水中に右足そろり左足そろり
   棹若葉の木下待てば花しぐれさみどりの降る昼やはらかし
   信号の変りしみじかき時の間を去年逝きにし君が過れり
   鱗(いろこ)千まいしろく光らせわが厨に一尾の魚はまなこをあける
   いさきと言ふ美しき魚竜宮の物語せよ地上のひとに
             *
       野洲に平家終焉の地あり。平宗盛父子は嫌倉から京への移送の途次、
        この近江国篠原にて斬首され、首は京へ、胴のみここに埋葬されしとふ。

   生き恥も死に恥もさらしし宗盛の父子のねむれる胴塚に来つ
   工場の脇のをぐらき木叢なか胴塚はあり力ップ酒供ふ
   幽かなる父子の墓石しづもりぬ幻ならむ今生もまた
   首洗ひの池の伝承工場に埋め立てられて小さしあはれ
   見るべきほどのことは見つとし死の際に平家の末裔(すゑ)と言ひきりし父
   生きるとふさびしきことの願文のしろたへの布まきし狛犬
   八千矛の神の妻問ふ神語り思ひみるかな兵主(ひやうず)の斎庭に
   葦原の瑞穂のくにの野洲の田の早苗に神の風吹きわたる
   田植ばな空木のしろき花の山ゆきゆくパスは獣めきたり
   岩根(いはがね)のこごしき山にしづまります渡来の人の彫りし仏は
              *
   義経の逃げてきたりし西河(にじつこ)の山里ふかく滝の音せり
   半月の周期に水の顕れしといふ音無川の橋わたりけり
   音無川の川へそそぐと六月のみづは落下す蜻蛉の滝
   淹つぼの深くすずしき岩盤をうがちて夏のみづくだる見ゆ
   滝口に覗けばこの身誘はる落下するどき井光(ゐひか)なるベし
   たかおかみ滝のしぶきに清められ鎮められたりひとつ魂
   岩濡らしひかり曳くなり古代(いにしよ)ゆ岩を彫りつぐ清凉のみづ
-----------------------------------------------------------------------------
「晶」83号が送られてきた。
敬愛する村島典子さんの新作が載っている。
いつもながら、心に深く沁みる歌群である。 鑑賞されたい。

(お断り)
歌の部分はスキャナで取り込んだので、どうしても多くの「文字化け」が生じる。子細に修正したが、まだあれば指摘されたい。すぐに直します。


桔梗の紫さける夕べにておもかげさだかに母の顕ちくる・・・・・・・・・・・木村草弥
yun_448桔梗本命

  桔梗(きちかう)の紫さける夕べにて
   おもかげさだかに母の顕(た)ちくる・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


キキョウも秋の七草のひとつで、古来から詩歌によく詠まれてきた。
派手さはないが清楚な花である。もっとも秋の七草に数えられる草は、みな地味なものである。
『万葉集』にいう「あさがお」は、キキョウのこととされる。
この花は漢字の音読みをして「キチコウ」と呼ばれることも多い。
私の歌もキチコウと読んでいる。
小林一茶の句に

 きりきりしやんとしてさく桔梗かな

というのがあるが、キキョウの特色を見事に捉えている。
きっぱりと、すがすがしい感じの花である。
写真②は白いキキョウである。
kikyou4キキョウ白

掲出した私の歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、母への思いを詠んでいる。
この歌のつづきに

乳ごもる肉(いきみ)の背(せな)に吾(あ)は負はれ三十路の母はまだ若かりき

という歌が載っている。私は母の30歳のときの子である。そんな感慨を歌に込めてあるのである。

この頃では品種改良で、色々のキキョウがあるが、やはりキキョウは在来種のものが、よい。
以下、キキョウを詠んだ句を引いて終わりたい。

 桔梗の紫さめし思ひかな・・・・・・・・高浜虚子

 仏性は白き桔梗にこそあらめ・・・・・・・・夏目漱石

 かたまりて咲きし桔梗のさびしさよ・・・・・・・久保田万太郎

 桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・石田波郷

 桔梗やおのれ惜しめといふことぞ・・・・・・・・森澄雄

 桔梗挿す壺の暗さをのぞいてから・・・・・・・・桂信子

 我が身いとしむ日の桔梗水換へる・・・・・・・・富田木歩

 桔梗の露きびきびとありにけり・・・・・・・・川端茅舎

 姨捨の畦の一本桔梗かな・・・・・・・・西本一都

 桔梗や信こそ人の絆なれ・・・・・・・・野見山朱鳥

 桔梗やいつより過去となりにけむ・・・・・・・・油布五線





病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
Cathedral_in_Lourdes_Summerルルド大聖堂

  ──巡礼の旅──(5)─再掲載─

   病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

先に2013/07/28付で聖女ベルナデッタゆかりのサン・ジルダール修道院教会の記事を載せたので、その彼関連として、再掲載だが、この記事を出しておく。

夜、蝋燭を手にした人々がルルドの「無原罪のお宿り聖堂」の周りに集まって来る。
その蝋燭の揺らめきとライトアップされた聖堂によって聖地に不思議な雰囲気が漂う。
ここに集う人々の中には、看護師に付き添われた車椅子の人、ベッドに寝たままの人も居る。
さまざまの国の、さまざまな人々が静かに時間の来るのを待つ。そして二十一時をまわる頃、神父がミサの始まりを告げる。
人々はアヴェマリアを唱えながら「無原罪のお宿り聖堂」の前までやって来る。
冬の寒い一定の時期を除き、多少の雨の中でも行われる蝋燭ミサ。参加する人の数は数十人のときもあれば数百人のこともある。
闇夜にひびく参列者のアヴェマリアの歌声を耳にすると、キリスト教徒か否かは問わず、心に沁みるものがある。
私も参加したこともあるユーラシア旅行社による動画 ↓


ルルド(Lourdes) は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもと、フランスの南西部のオート=ピレネー県の人口15000人ほどの小さな町。
聖母マリアの出現と「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地ともなっている。

150px-Bernadette_Soubirousベルナデッタ・スビルー
1858年2月11日、村の14歳の少女ベルナデッタ・スビルーが郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれている。
ベルナデッタは当初、自分の前に現れた若い婦人を「あれ」と呼び、聖母とは思っていなかった。
しかし出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始める。
ベルナデッタ・スビルー聖母出現の噂は、当然ながら教会関係者はじめ多くの人々から疑いの目を持って見られていた。
ベルナデッタが「あれ」がここに聖堂を建てるよう望んでいると伝えると、神父はその女性の名前を聞いて来るように命じる。
神父の望み通り、何度も名前を尋ねるベルナデッタに、ついに「あれ」は自分を「無原罪の御宿り」であると、ルルドの方言で告げた。
それは「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・クンセプシウ」(Que soy era Immaculada Councepciou=私は無原罪のやどりである(フランス語:Je suis l'Immaculée-Conception.))
という言葉であった。
これによって神父も周囲の人々も聖母の出現を信じるようになった。
「無原罪の御宿り」がカトリックの教義として公認されたのは聖母出現の4年前の1854年だが、家が貧しくて学校に通えず、読み書きも満足にできない田舎の少女が知り得るはずもない言葉だったからである。
以後、聖母がこの少女の前に18回にもわたって姿を現したといわれ評判になった。
1864年には聖母があらわれたという場所に聖母像が建てられた。
この話はすぐにヨーロッパ中に広まったため、はじめに建てられていた小さな聖堂はやがて巡礼者でにぎわう大聖堂になった。

ベルナデッタ自身は聖母の出現について積極的に語ることを好まず、1866年にヌヴェール愛徳修道会の修道院に入ってシスター・マリー・ベルナールとなり、外界から遮断された静かな一生を送った。
ベルナデッタは自分の見たものが聖母マリアであったことをはっきりと認めていた。
例えば1858年7月16日の最後の出現の後のコメントでも「私は、聖母マリア様を見るだけでした」とはっきり述べている。
1879年、肺結核により35歳で帰天(病没)し、1933年ベルナデットは教皇ピオ11世から聖人に列聖された。
彼女の遺体は腐敗を免れ、修道女の服装のまま眠るようにヌヴェールに安置されている。

lourdesiルルドの洞窟
ルルドの泉 ベルナデッタが見た「聖母」は、ルルドの泉に関して次のような発言をしている。
「聖母」はまずベルナデッタに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言った。
近くに水は無かったため、彼女は近くの川へ行こうとしたが、「聖母」が「洞窟の岩の下の方へ行くように指差した」ところ、泥水が少し湧いてきており、
次第にそれは清水になって飲めるようになった。これがルルドの泉の始まりである。

また、スタンデンというイギリス人が、町中の人々が情熱を持って話している洞窟での治癒の奇跡についてベルナデッタに話したが、
彼女が奇跡に関して無関心であったことに考えさせられたという記録がある。
行きすぎたことの嫌いな彼女は話を簡単にしてしまい、はじめ「この類の話に、本当のことは何一つありません」と言うのであった。
この後にも、ある訪問者に奇跡について聞かれた際、彼女は無関心な態度を示して次のように言ったとされる。「そういう話は聞かされたけど、私は知りません。」驚いた訪問者が真意を正すと、彼女はこう答えた。
「私はじかに見ていないので、知らないと言ったんです。」
泉に関連した治癒は当初から何件も報告され、医者がその奇跡性を認めざるを得ないケースもいくつもあったが、ベルナデッタはこれに関与していなかった。
しかし彼女がそれを信じていない、あるいは否定したという発言も残っていない。
彼女自身は、気管支喘息の持病があったが一度もルルドの泉に行くことはなく、より遠方の湯治場へ通っていた。

なお、ベルナデッタの遺体は1909年、1919年、1925年の3回にわたって公式に調査され、特別な防腐処理がなされていないにもかかわらず腐敗が見られないと言われている。
これは「目視では明確な腐敗の兆候が見られなかった」と言うことである(実際には腐敗が始まっていたという報告もある)。
遺体が腐敗しないことは列聖のための有力な材料となるが、それ自体は奇跡的な出来事ではない。通常死体は地上で温下では数ヶ月で崩壊、白骨化する。
1925年の調査では、ローマとルルドの修道院に送るため聖遺物(右側肋骨2本、両膝の皮膚組織、肝臓の一部)が摘出された。
また、過去の調査の際の洗浄の影響によって皮膚の黒ずみと黴・異物の沈着、ミイラ化したために鼻梁と眼窩が落ち窪むなど容姿が若干変異していたため、
顔と両手の精巧な蝋製マスクが作られ、かぶせられた。これは見る者に不快感を与えないために、遺物に関してフランスではよく行われる処理。

現在では、ルルドの聖母の大聖堂が建っており、気候のよい春から秋にかけてヨーロッパのみならず世界中から多くの巡礼者がおとずれる。
マッサビエルの洞窟から聖母マリアの言葉どおり湧き出したといわれる泉には治癒効果があると信じられている。
「奇跡的治癒」の報告は多いが、中にはカトリック教会の調査によっても公式に認められた「科学的・医学的に説明できない治癒」の記録さえ数例ある。
カトリック教会が「奇跡的治癒」を認めることは稀であり、認定までに厳密な調査と医学者たちの科学的証明を求めている。

泉の評判が広まってから現代まで1億人以上がこの泉を訪れたとされているが、そのうちカトリック教会に奇跡の申請をしたのは7,000人ほどである。
そのうちカトリック教会が認めた奇跡はわずか67件で、直近の40年に限れば10年に1件の割合でしかない。
20世紀前半に奇跡と認められたもののうち、いくつかは具体的な症状の記録が残されており、その中には奇跡とは呼べないものも含まれている。
これはカトリック教会が求める科学的証明の水準が当時は現代よりも低かったためと考えられる。
「奇跡」のうち、ほとんどは結核、眼炎、気管支炎など自然治癒あるいは近代医療で回復するもので、損傷した脊椎の回復など、重篤な障害、病気が治癒したという事実はない。
ルルドには医療局が存在し、ある治癒をカトリック教会が奇跡と認定するための基準は大変厳しい。
「医療不可能な難病であること、治療なしで突然に完全に治ること、再発しないこと、医学による説明が不可能であること」という科学的、医学的基準のほか、
さらに患者が教会において模範的な信仰者であることの人格が査定される。
このため、これまで2,500件が「説明不可能な治癒」とされ(つまり、奇跡的な治癒だが公式な「奇跡」とは認定されないケース。患者に離婚歴があるというだけでこれに相当する)、
医療局にカルテが保存されているにもかかわらず、奇跡と公式に認定される症例は大変少数(67件)となっている。
特に信仰の世俗化が危惧されている現代において、これらの基準を満たすことが大変難しくなっていることは想像に難くない。

赤まんま幼のあそぶままごとの赤飯なれどだあれも来ない・・・・・・・・・・・・・木村草弥
img548赤まんま本命

  赤まんま幼のあそぶままごとの
   赤飯なれどだあれも来ない・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、この歌のつづきに

   老いぬれば無性に親しき赤まんま路傍にひそと咲いてゐるゆゑ

という歌が載っている。この歌も愛着のある歌で、放しがたい。
「赤まんま」または「赤のまま」などと呼ばれるが、それは赤い実の形からきている。
植物名としては「イヌタデ」という蓼の仲間である。タデ科の一年草。いたるところに自生する。
花は夏から秋にかけて咲くが、どちらかというと秋の花と言った方がよい。紅紫色の穂になって咲くが、花びらが無く、萼だけである。
役にたたない蓼ということでイヌタデと名づけられたというが、赤飯のような花なので赤まんまという。
子供のままごとに使われるというので、それが俗称の名前になった。ややメルヘンチックな印象の花である。
子供のままごとと言っても、おおよそは女の子のすることで、お招待でままごとに呼ばれることはあっても、
お義理であって男の子は、もっと乱暴な、活発な遊びがあった。しかし、赤まんまが赤飯の代りであることは知っていた。
先に書いたように、この草は、どこにでもある、ありふれた草だった。
だから、二番目に掲出した歌のように「老いぬれば」こそ、この草の平凡さ、目立たなさ、に心が引かれてゆくのである。
『万葉集』に

  我が宿の穂蓼古韓(ふるから)摘みはやし実になるまでに君をし待たむ

という歌があるが、実になるまで待つと言って少女への恋の実りを待つに重ねて詠っている。
以下、赤まんまを詠んだ句を引いておく。

 日ねもすの埃のままの赤のまま・・・・・・・・高浜虚子

 手にしたる赤のまんまを手向草・・・・・・・・富安風生

 勝ち誇る子をみな逃げぬ赤のまま・・・・・・・・中村草田男

 赤のまま妻逝きて今日は何日目・・・・・・・・小川千賀

 山羊の貌朝日うけをり赤のまま・・・・・・・・坪野文子

 赤のまま此処を墳墓の地とせむか・・・・・・・・吉田週歩

 ここになほ昔のこれり赤のまま・・・・・・・・桜木俊晃

 出土土器散らばり乾き赤のまま・・・・・・・・水田三嬢

 縄汽車のぶつかり歩く赤のまま・・・・・・・・奥田可児

 犬蓼にある明るさよ野草園・・・・・・・・青柳志解樹


妻を恃むこころ深まる齢にて白萩紅萩みだれ散るなり・・・・・・・・・・・・・木村草弥
aaoohagi001萩大判

  妻を恃(たの)むこころ深まる齢(よはひ)にて
   白萩紅萩みだれ散るなり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので「牧神の午後」という項目の中の一つである。自選50首にも入っているのでWeb上でもご覧いただける。
萩にもいろいろの色があり、栽培種として品種改良されている。
昔は、一番美しいのは「みやぎのはぎ」ということで、紅紫色か白で、庭などに植えられた。
hagi_M2萩白

秋の七草の筆頭になる花で、字で書くと草かんむりに秋と書くように、秋を代表する花とされた。
古来、芭蕉の句に

    一家に遊女も寝たり萩と月

    しをらしき名や小松吹く萩すすき

    白露もこぼさぬ萩のうねりかな


などの名句もあり、また曽良の句の

    行き行きてたふれ伏すとも萩の原

なども有名である。

私の歌は、齢を取ってくると妻を恃む気持ちが、だんだんと強くなってくる心情を詠んでいる。若い時の愛情とは、また変った心境が生れるからである。
また、妻の病気が進行して介護の日々が殆どとなり、支えてやらなければならないという気持ちと、裏腹になったような微妙な気分をも含んでいる。
私たちは、そんな風にして、お互いを支えあって生きてきたのである。
妻亡き今となっては、懐かしい追憶の歌となってしまった。
今は、私は一人で生きてゆかなければならない。
同じ歌集に

  萩に蝶の風たつとしもなきものをこぼして急ぐいのちなりけり・・・・・・・・・・木村草弥

という歌も、すぐ後に載っている。
蝶が来るだけで、はらはらと花を散らす萩の姿を見て、そこに、はかない「いのち」を見たのである。
以下、歳時記から萩の句を引いて終わりにしたい。

 三日月やこの頃萩の咲きこぼれ・・・・・・・・河東碧梧桐

 日の暮は鶏とあそびつ萩の花・・・・・・・・福井艸公

 萩の花何か急かるる何ならむ・・・・・・・・水原秋桜子

 低く垂れその上に垂れ萩の花・・・・・・・・高野素十

 もつれ沿ふ萩の心をたづねけり・・・・・・・・阿波野青畝

 雨粒のひとつひとつが萩こぼす・・・・・・・・山口青邨

 せはしなき萩の雫となりにけり・・・・・・・・五十嵐播水

 ある日ひとり萩括ることしてをりぬ・・・・・・・・安住敦

 手に負へぬ萩の乱れとなりしかな・・・・・・・・安住敦

 萩の風一文字せせり総立ちに・・・・・・・・田村木国

 降り止めばすぐ美しき萩の風・・・・・・・・深川正一郎

 みごもりしか萩むらさわぎさわぐ中・・・・・・・・渡部ゆき子

 白萩のやさしき影を踏みゆけり・・・・・・・・山内きま女

はたはたのつるみてぬぎしもののなし・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
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    はたはたのつるみてぬぎしもののなし・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも

  小さき雄が背中に乗りてオンブバッタ交尾の様も秋空の下・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。

バッタ類の雄はみな雌よりも格段に体が小さい。交尾のために雄が雌の背中に乗っていると、まるで子供がおんぶしているように見える。
この虫はおんぶしている場面をよく見られるので、名前までオンブバッタとつけられてしまった。
この虫は畑といわず野っぱらにも、やたらにいる虫で、葉っぱを食べる害虫である。

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バッタの仲間には40種類くらいのものがいるらしいが、写真②は「いなご」の雌雄である。
これも雄は小さい。漢字では、蝗と書くが、これは稲につく害虫である。
掲出の歌のオンブバッタは別名「きちきち」ともいう。飛んで逃げるとき、きちきちという羽音をたてて飛ぶからである。
これも「聞きなし」のものである。また地方によっては「はたはた」と呼ぶらしい。これも飛ぶ音からの命名だろう。
私の地域ではオンブバッタのことを「おんめ」と呼ぶ。
これは交尾のオンブの姿勢でみられることが多いので「雄雌」がつづまって「おんめ」となつたと思われる。
この虫は後ろ足を持つと体を揺するので「機織バッタ」とも呼ぶ。私の住む地域では子供が「おんめ、機(はた)織れ」とはやして後ろ足を持ったりする。

この私の歌の収録されている一連の歌を引いておく。

  草 刈・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

田の平に立ちて眺むるふるさとは秋のさ中の青谷百町歩

わが盆地幅三里ほど南北長し右は生駒山系ひだりは笠置山系

草を刈るあとを追ひ来る鳥のむれ生きゆく知恵ぞ虫を啄む

めざとくも雲雀来たりて虫を食(は)む警戒しつつ鴉もくるよ

人が草を刈れば虫が食へるといふ生き物の知恵いぢらしきかも

小さき雄が背中に乗りてオンブバッタ交尾の様も秋空の下

草刈機の振動の余韻とどまりて腕(かひな)と指の揺るるを覚ゆ

湯浴みして洗ひたれども我の身に草の匂ひの残る宵なり
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歳時記から「おんぶばった」「いなご」の句を少し引いて終りにする。

 きちきちといはねばとべぬあはれなり・・・・・・・・富安風生

 はたはた飛ぶ地を離るるは愉しからむ・・・・・・・・橋本多佳子

 はたはたのゆくてのくらくなるばかり・・・・・・・・谷野予志

 はたはたのおろかな貌がとんで来る・・・・・・・・西本一都

 はたはたの脚美しく止りたる・・・・・・・・後藤比奈夫

 はたはたの空に機織りつづけつつ・・・・・・・・平井照敏

 ふみ外す蝗の顔の見ゆるかな・・・・・・・・高浜虚子

 一字(あざ)や蝗のとべる音ばかり・・・・・・・・水原秋桜子

 豊の稲をいだきて蝗人を怖づ・・・・・・・・山口青邨

 蝗の貌ほのぼのとして摑まるる・・・・・・・・原田種茅

 蝗とび蝗とび天どこまでも・・・・・・・・平井照敏




こほろぎや眼を見はれども闇は闇・・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女
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  こほろぎや眼を見はれども闇は闇・・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

秋に鳴く虫で人家近くで鳴くのは蟋蟀(こおろぎ)で、立秋頃から晩秋まで鳴く。
日本には10数種類いるそうで、掲出の写真はエンマコオロギで、鳴き声はコロコロと聞こえる。
その他にリーリーと鳴くツヅレサセコオロギ。
チ、チ、チと鳴くオカメコオロギなどがいる。
真砂女の句は、コオロギの、特にエンマコオロギの顔を見たときの、大きな眼の特徴を巧みに捉えている。

古今集時代から江戸時代まで、コオロギのことを「きりぎりす」と呼んでいたと言い、混同しやすい。
コオロギを「いとど」と呼ぶ地方もあるようだ。
コオロギの声はマツムシに次いで賞せられ、秋の虫の音の代表的なものとされてきた、という。
以下、コオロギの句を引いておく。

 蟋蟀や乳児が寝返り打つて力む・・・・・・・・森澄雄

 こほろぎや入る月早き寄席戻り・・・・・・・・渡辺水巴

 こほろぎの覗いて去りぬ膳の端・・・・・・・・吉川英治

 闇にして地の刻移るちちろ虫・・・・・・・・日野草城

 中尊寺うばたまの暗つづれさせ・・・・・・・山口青邨

 蟋蟀の無月に海のいなびかり・・・・・・・・山口誓子

 蟋蟀が深き地中を覗き込む・・・・・・・・山口誓子

 蟋蟀に覚めしや胸の手をほどく・・・・・・・・石田波郷

 こほろぎの真上の無言紅絹(もみ)を裂く・・・・・・・・平畑静塔

 こほろぎやいつもの午後のいつもの椅子・・・・・・・・木下夕爾

 こほろぎのこの一徹の貌(かほ)を見よ・・・・・・・・山口青邨

 地の闇となり蟋蟀の一途なる・・・・・・・・山口草堂

 つづれさせ身を折りて妻梳(くし)けづる・・・・・・・・長谷川双魚

 若くて俗物こおろぎの土塊草の中・・・・・・・・金子兜太


馬追がふかき闇より来て青き・・・・・・・・・・・・・・・・・上林白草居
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  馬追がふかき闇より来て青き・・・・・・・・・・・・・・・・上林白草居

スイッチヨは「馬追」のことである。キリギリスより少し小さく、体は緑色。翅はぴったりと烏帽子のように背中で合わされる。
7月末から鳴きだす初秋の虫。スイッチョ、スイッチョと鳴くのが普通である。
その鳴き声が馬を追う声に似ているというので「馬追」の名がある。この虫は、1カ所にとどまらず、移動して鳴く特徴がある。
掲出の句は、とっぷりと暮れた深い夜の闇の中から出現した青いスイッチョを捉えて巧みである。

以下、歳時記からスイッチョの句を引いておく。

 馬追や海より来たる夜の雨・・・・・・・・内藤吐天

 すいつちよや闇に人ゐて立去れり・・・・・・・・池内たけし

 馬追や更けてありたるひと夕立・・・・・・・・星野立子

 馬追の身めぐり責めてすさまじや・・・・・・・・角川源義

 馬追が機の縦糸切るといふ・・・・・・・・有本銘仙

 馬追や水の近江の夜は暗く・・・・・・・・小林七歩

 すいつちよのちよといふまでの間のありし・・・・・・・・下田実花

 すいつちよの髭ふりて夜ふかむらし・・・・・・・・加藤楸邨

 馬追のうしろ馬追来てゐたり・・・・・・・・波多野爽波

 馬追の見えゐて鳴かず短編集・・・・・・・・野沢節子

 すいつちよの酒呑童子となりにけり・・・・・・・・平井照敏



入りつ陽のひととき赫と照るときし猛々しく樹にのぼる白猫・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   入りつ陽のひととき赫(かつ)と照るときし
     猛々しく樹にのぼる白猫(はくべう)・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

私は猫は好きではないが、黒猫とか白猫とかの作品がいくつかある。
それらは、猫を詠ったものというよりも、或る主題の引き立て役として使っているに過ぎないが、珍しく、この歌は白猫を正面から詠っている。

猫は暑いときは、ぐうたらに涼しい所を求めて寝そべっていたり、寒いときはコタツに潜り込んだりと、余り活動的な姿態を見ることは多くないが、発情期とか仲間と争う時、夜間などには違った一面を見せるようである。
私の歌に詠んだように、何のはずみか、何か獲物でも見つけたのか、猛々しく樹にのぼる光景を目の当たりにして、とっさに出来た歌と言えようか。
s011白猫

考えてみれば、人間に飼いならされているとは言え、もともと猫は猛獣の端に連なる種類ではないか。
そう考えると、この猫の行動も納得がゆくのである。

およそ世の中には「猫好き」という人は多い。世界的にみても、そうである。
ギリシアのエーゲ海のサロニコス湾一日クルーズの船に乗ると、猫がやたらに多い島に寄港する。
いま島の名が、とっさに出て来ないが、とにかく猫だらけで波止場に着くと、先ず猫の出迎えである。
だから、この島は「猫島」と仇名がついているらしい。
「猫島」として有名になったので、あちこちから要らなくなった猫もここに持ち込まれるのではないか。
そして何よりも、この島に来た観光客が餌を与えるので栄養が豊富で、ますます数が増えるのではないか。エーゲ海の島であるから、漁師たちも屑の魚を与えるかも知れない。
とにかく猫は人間に寄生しているという印象が、私には強い。
私が猫嫌いである最大の理由は、何度も書くが、臭い臭い糞を私の方の庭に垂れ流されるのに困り果てているからである。
いろんな駆除の手段をとっても猫のことであり、神出鬼没で恐れ入る。

以下、猫を詠んだ歌を引いておく。

  みちのくの夜空は垂れて電柱に身をすりつける黒猫ひとつ・・・・・・・・・・岡部桂一郎

  生みし仔の胎盤を食ひし飼猫がけさは白毛となりてそよげる・・・・・・・・・・葛原妙子

  目的は何もなきゆゑ野良猫の来て寝のべりぬわが窓の下・・・・・・・・・・安田章生

  飼猫にヒトラーと名づけ愛しゐるユダヤ少年もあらむ地の果て・・・・・・・・・・春日井建

  さびしきは老か命かかの小猫庭のおち葉を追ひてよろこぶ・・・・・・・・・・・松村英一

  やがて発光するかと思うまで夕べ追いつめられて白猫膨る・・・・・・・・・・永田和宏

  蜘蛛ひとつおりくる空の透明に爪ひからせて猫はうかがう・・・・・・・・・・上川原紀人

  負けて帰りし猫抱きをり手に触れてふぐりぬくきを哀れがりつつ・・・・・・・・・・青木ゆかり

  眠りつつ時にその耳動かせり猫といへども夢をみるらし・・・・・・・・・・大塚布見子

  まどろみて四肢弛む猫わが膝に防備を解けるものをいとしむ・・・・・・・・・・高旨清美

  歩みつつ小さき舌を出す猫も今日のさびしき生きものの眼か・・・・・・・・・・河野愛子

  一日に一度はみせ場をつくるまで猫一匹を飼いならしたる・・・・・・・・・・高瀬一誌

  ひそやかに猫の眠りのなかをゆく痙攣といふ肉の気配は・・・・・・・・・・斎藤佐知子

  引き寄せしわれを拒みて飼ひ猫が自らを抱く形に眠る・・・・・・・・・・村松秀代

  好きなのかあんなところが自転車のサドルにいつも乗っている猫・・・・・・・・・・池本一郎

  春幹に爪とぐ猫を笑ひ合へばこちらを見たりまじまじと見る・・・・・・・・・・花山多佳子

  肛門をさいごに嘗めて目を閉づる猫の生活をわれは愛する・・・・・・・・・・小池光

  出会ひ頭の猫を蹴飛ばす 老妻に言ひつのられし後の腹いせ・・・・・・・・・・米口実
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猫嫌いの私などと違って、猫好きの人がいかに多いか。こんな歌が、まだまだあるのである。


諍ひて朝から妻にもの言はぬ暑い日なりき、月が赤いな・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  諍(いさか)ひて朝から妻にもの言はぬ
   暑い日なりき、月が赤いな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せた歌である。
「諍い」とは「口げんか」のことを言う。
この歌は上4句までは、すらすらと出来たが、結句の7音がなかなか出来なかったので、半年ばかり放置してあったが、何かの拍子に、
この言葉が見つかり、くっつけた。私自身でも気に入っている歌である。
この歌は『茶の四季』の「族の歌」でWeb上でもご覧いただける。

「赤い月」というのは、月が出始めの低い位置にあるとき、または月の入りで西の空低くにあるときに、地球の表層の汚れた空気層を通過するときに、
空気に含まれる塵の作用で、赤く見えることがある。
月が中空にあるときには、めったに赤い月にはならない。

この歌は、妻と口げんかして、お前なんかに口もきくものか、とカッカしている気分のときには頭に血がのぼっているから、
赤い月が見えたというのは、絶好の舞台設定で、ぴったりだった。
歌作りにおいては、こういう、時間を置くことも必要なことである。
一旦、作った歌でも、後になって推敲して作り直すということも、よくある。
妻亡き今となっては、懐かしい作品になった。 ここで、この歌を含む一連を引いておく。

     月が赤いな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  路地裏の畳屋にほふ鉾町へしとどに濡れて鉾もどりけり

  ガラスを透く守宮(やもり)の腹を見てをれば言ひたきことも言へず 雷鳴

  諍ひて朝から妻にもの言はぬ暑い日なりき、月が赤いな

  手花火が少し怖くて持ちたくて花の浴衣(ゆかた)の幼女寄り来る

  手花火の匂ひ残れる狭庭には風鈴の鳴るほど風は通らず

  機械音ふつと止みたる工場に赫、赫、赫と大西日照る

  季節の菓子ならべる京の老舗には紺ののれんに大西日照る

  秋季リーグ始まりにつつ球(たま)ひろふ明日の大器に大西日照る

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掲出の「赤い月」の写真はWeb上で拝借したものだが、撮影者の名前(市川雄一)や撮影日時が明記されており、著作権は撮影者にあることを言っておきたい。
この写真の場合の「赤い月」は皆既月蝕という特殊な環境下での赤い月である。





星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。・・・・・・・・・・・清少納言
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星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。
  尾だになからましかば、まいて。・・・・・・・・・・・・・・・・・・清少納言


これは『枕草子』236段に載るものである。
この文の意味については、下記の解説の中で書いてある。 ↓

日本ではプレアデス星団のことを「昴」すばる、と呼ぶ。
以下にネット上から記事を引いておく。
「昴」というと、谷村新司の曲が思い浮かぶ。 動画を出しておくが削除されたらゴメンなさい。

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プレアデス星団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

プレアデス星団 (M45) は、おうし座にある、散開星団である。 地球から400光年の距離にあり、肉眼でも輝く5~7個の星の集まりを見ることが出来る。
双眼鏡で観測すると数十個の青白い星が集まっているのが見える。
比較的近距離にある散開星団であるため狭い範囲に小さな星が密集した特異な景観を呈しており、このため昔から多くの記録に登場し、
各民族で星座神話が作られてきた。

1769年にメシエカタログの45番に加えられた。M45は、3回に分けて刊行されたメシエカタログの最初のカタログの最後の天体であった。

約6千万~1億歳と若い年齢の青白い高温の星の集団である。 多くの核融合の速度が速いため寿命は比較的短いと予想されている。
星団を構成する星の周囲には青白く輝くガスが広がっている。これは、星々とは元々関係のない星間ガス(IC349)が、星団の光を反射しているためである。

構成
プレアデス星団の構成プレアデス星団を構成する星のうち、以下の主要な明るい星にはギリシア神話での人物名がそれぞれに名付けられている。
(プレアデス星団にまつわるギリシア神話の内容については当該項目を参照されたし)

なお、名称後の括弧内は、それぞれの実視等級を示す。

アトラス(3.62) - 星団の左端に位置する明るい星。
プレイオネ(5.09) - アトラスの上に位置する星。
アルキオネ(2.86) - 星団中央の明るい星。星団の中では一番明るい。昔、トレミーやアル・ズーフィが記録した4個の星のうちに、この星がないため増光したのではないかとする説がある。
メローペ(4.17) - アルキオネの右下に位置する明るい星。
マイア(3.86) - アルキオネの右上(メローペの上)に位置する明るい星。
エレクトラ(3.70) - メローペの右上(マイアの右下)に位置する明るい星。
ケラエノ(5.44) - エレクトラの上、マイアの右に位置する星。
タイゲタ(4.29) - マイアの右上に位置する星。
アステローペ - マイアの上に位置する二連の星。
うち上側はアステローペI(5.64)、下側がアステローペII(6.41)。

観測
通常の視力の人が好条件のもとで、6~7個の星を数えることができる。大変視力が鋭い人が25個もの星を肉眼で見たとする記録が残されている。
昔イギリスのTV放送でアンケートを取ったところ、73%は6~8個だったという。
ホメロスは6個、トレミーは7個、アル・ズーフィは5~7個、ハイドンは7個見えたと記している。
望遠鏡を使えば飛躍的に星数も増し、ガリレオは36個の星を見ている。

双眼鏡で最も美しく見ることができる。
口径10cmの望遠鏡では星団としてのまとまりは無くなるが、代わりに星団の背後にある散光星雲が見えてくる。
メローペを囲む散光星雲(IC349)は、1859年にテンペルが口径10cmの望遠鏡で発見した。「鏡の上に息をかけたときにできるような、にじんだ光が見える。
大きさは約35'×20'で、メローペの南から広がっている。新彗星かと思ったが、次の日にも同じ所に見えていた」と記している。
1875年ミラノ天文台のスキャパレリは星雲がメローペからエレクトラ、ケレノまで広がっているのを確認した。
ウェップは「口径2インチで見え、11インチでは見えない。大口径では見えないが、時折どうにか見える。しかし、ファインダーではよく見える」としている。
通常は散光星雲IC349を見るためには口径20cm以上の望遠鏡を必要とする。

名称
プレアデス星団は肉眼でも見ることが出来る明るい星々の集まりであり、様々な文化で人々の興味を引き、聖書や伝説、民話、星座物語に登場し、数々の名称を持つ。

ギリシア神話
プレアデス星団の名前は、ギリシア神話に由来し、巨人アトラスとニンフのプレイオネの間に生まれたプレイアデス7人姉妹(アステロペ、メロペ、エレクトラ、マイア、タイゲタ、ケラエノ、アルキオネ)を指している。プレイアデスは女神アルテミスに仕えていた。

また、同じくおうし座にあるヒアデス星団のヒアデスの7姉妹は、アトラスとアエトラの娘たちであり、プレイアデス姉妹とは異母姉妹の関係である。

中国
中国では二十八宿から昴宿(ぼうしゅく)と呼んだ。

日本
日本では、プレアデス星団をすばる(昴)とも呼ぶ。
元々は、一つに集まっているという意味の「すまる」から転じて「統ばる(すばる)」と呼ばれていたとされる。
その後、中国でプレアデス星団を指す昴宿から「昴」を当てた。他にも地方によって、「六連星(むつらぼし)」や「羽子板星」などと呼ばれた。
奈良時代に成立したとされる『丹後国風土記』逸文に「其七豎子者(七人の童子)、昴星也。其八豎子者、畢星也」という記述があり、
それぞれ隣り合っているプレアデス星団、アルデバランとヒアデス星団の事と見られる。
日本でプレアデス星団について言及した最古の記録は、平安時代に醍醐天皇皇女勤子内親王の命で作成された百科事典『倭名類聚抄』だと考えられている。
この中で、昴星の和名は須八流と記されている。
清少納言は『枕草子』236段で「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。」と書いている。
(星はすばる、ひこぼし、宵の明星が良い。流れ星も少し趣がある。尾を引かなければもっとよいのだけれど。)


マオリ
ニュージーランドのマオリ族は、プレアデス星団をマタリキ(Matariki)と呼ぶ。マタリキとは、"小さな目"との意味を持つ言葉である。
また、マオリ族の人々は、プレアデス星団が見えるようになる時期を新年の基準としており、マタリキには新年という意味もある。

その他
西欧では「七人の姉妹」あるいは「七人の乙女」の名が通っている。ギリシャでは「ぶどうの房」という名もある。
アラブでは「群衆」や「小さきもの」、フランスでは「雛箱」、ドイツでは「とやについた牝鶏」、イタリアでは「小さな牝鶏」、スペインでは「小さな牝山羊」、イギリスでは「七人の乙女」の他「ひよこと牝鶏」とも呼ばれている。
ハワイのマウナケア山頂にある国立天文台の光学赤外線望遠鏡の名称は一般公募の中から選ばれ、すばる望遠鏡と命名された。
ハワイ語では「マカリイ」と呼ばれる。1994年にハワイ島で建造された航海カヌーの船名ともなっている。
ヘシオドスは夏の間、40日も太陽の後ろ側に隠される事に注目した。
プレアデス星団が、太陽から離れ、初めて暁の東天の地平線に姿を現す天体現象は古代には重要な出来事であるとされた。
ユリウス・カエサルは5月の暦にこの日を記した。
プレアデス星団は、スバルのブランド名で日本車を生産している富士重工業のロゴマークに採用されている。
これは富士重工業の創業時に合併した6社の旧中島飛行機系の企業を表す。(ただし現在使用しているマークは実際のプレアデス星団とは形が異なる)。
またアルシオーネ・マイア・アステローぺなど車名に星の名前が用いられている。
ヨブ記38章31節には「あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。」という文章がある。
ニューエイジ思想には、プレアデスに地球人と同等かそれ以上の知性・霊性を持つ地球外生命体がいると説くものがある。
そればかりでなくチャネリングの相手とされることもある。



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