K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂・・・・・・・・・・・木村草弥
450px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_04ストラスブール大聖堂
Strasbourg_Cathedralストラスブール大聖堂
 ↑ ノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂

──巡礼の旅──(21)

     ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂・・・・・・・・・・・木村草弥

アルザス地方というのは、ドイツ領とフランス領に何度も支配の変更を繰り返してきた土地である。
その中心地がストラスブールである。 この教会は、その街の象徴的な建物である。     
「ノートルダム」とは「聖母マリア」のことであり、聖母マリア信仰の強いカトリック圏では、いたるところに同名の教会がある。

ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂(フランス語: Cathédrale Notre-Dame-de-Strasbourg、 ドイツ語: Liebfrauenmünster zu Straßburg)は、フランスのストラスブールにあるカトリックの大聖堂である。その大部分はロマネスク建築だが、一般にゴシック建築の代表作とされている。主な建築者としてはエルヴィン・フォン・スタインベックがいる。1277年から1318年に死ぬまで建設に関わった。

高さ142メートルで、1647年から1874年まで世界一の高層建築だった。1874年にハンブルクの聖ニコライ教会に高さを追い抜かれた。現在は教会としては世界第6位の高さである。

ヴィクトル・ユーゴーは「巨大で繊細な驚異」と評した。
アルザス平原のどこからでも見え、遠くはヴォージュ山脈やライン川の反対側にあるシュヴァルツヴァルトからも見える。
ヴォージュ産の砂岩を建材として使っており、それによって独特なピンク色を呈している。

ストラスブールがアルゲントラトゥムと呼ばれた時代にはこの場所に古代ローマの聖域があり、その後ストラスブール大聖堂が建設されるまでいくつかの宗教建築物が次々とここに建てられた。
7世紀にストラスブール教区の司教である聖アルボガストが、聖母マリアに捧げられた教会を元にして大聖堂を建設したことが知られているが、全く現存していない。
古い大聖堂の遺物は1948年と1956年の発掘で出土しており、4世紀末期から5世紀初頭のものとされている。これは現在の聖エティエンヌ教会の位置から出土した。
8世紀、最初の大聖堂はカール大帝の時代に完成したと推測されているより重要な建築物に置き換えられた。
司教レミギウス(レミ)は778年の遺言でその建物の地下霊廟に埋葬されることを望んでいる。842年のストラスブールの誓いがこの建物で結ばれたことは確実である。最近行われた発掘調査により、このカロリング朝の大聖堂には3つの身廊と3つのアプスがあったことが明らかになった。司教 Ratho(Ratald または Rathold とも)の詩によると、この大聖堂は金や宝石が装飾されていた。このバシリカは873年、1002年、1007年とたびたび火事にみまわれた。

1015年、司教 Werner von Habsburg がカロリング朝のバシリカの廃墟に新たな大聖堂の基礎となる最初の石を置いた。彼はロマネスク様式の大聖堂を建設した。この大聖堂は1176年、身廊の屋根が木製だったため火災で焼け落ちた。

この惨事の後、司教 Heinrich von Hasenburg はそのころちょうど完成したバーゼルの大聖堂よりも美しい大聖堂を建設することを決めた。
建設は既存の構造の基礎を利用して始まり、完成に百年ほどかかった。司教 Werner の建てた大聖堂の地下聖堂は焼け残っていたため、そのまま残し西側に拡張した。

800px-Choeur_-_Cathedrale_de_Strasbourgクワイヤ
 ↑ クワイヤ
France_Strasbourg_Magi三博士
↑ サンローラン玄関にある東方三博士と聖母子像

建設はクワイヤと北の翼廊からロマネスク様式で始まり、記念碑的側面や高さの面で皇帝大聖堂と呼ばれる建物に着想を得ていた。しかし1225年、シャルトルから来たチームがゴシック建築の様式にすることを示唆し、建設方針が大転換された。身廊は既にロマネスク様式で建設が始まっていたが資金不足に陥ったため、教会は1253年に贖宥状を発行して資金を集め、この資金で建築家と石工を雇った。シャルトルのチームの影響は彫刻にも見られる。有名な「天使の柱 (Pilier des anges)」は南の翼廊の天文時計の隣にあり、最後の審判を柱で表現している。

ストラスブール市自体と同様、この大聖堂はドイツ風のミュンスターとフランス文化の影響を受ける一方、東側の構造(例えば、クワイヤや南の玄関)は特に窓よりも壁が強調されている点からロマネスク様式の特徴が色濃く残っている。

とりわけ数千の彫刻で装飾された西側のファサードはゴシック時代の傑作とされている。尖塔は当時最先端の技術を駆使したもので、石が高度に直線的に積まれ、最終的な見た目は一体となっている。それまでのファサードも確かに事前に設計した上で建設されたが、ストラスブール大聖堂のファサードは事前設計なしでは建設不可能だった。ケルン大聖堂と共に設計図を使った初期の建築物とされている。アイオワ大学の Robert O. Bork の研究によれば、ストラスブール大聖堂のファサードの設計はほとんど無作為にも思える複雑さだが、一連の八角形を回転させた図形を使って構成されていることを示唆した。

1439年に完成した尖塔は1647年(シュトラールズントのマリエン教会の尖塔が焼け落ちた年)から1874年(ハンブルクの聖ニコライ教会の尖塔が完成した年)まで世界一高い建築物だった。ファサードを対称にするためもう1つの尖塔が計画されていたが作られることはなく、独特な非対称の形状になった。見通しがきく場所なら30kmの距離から塔が見え、ヴォージュ山脈からシュヴァルツヴァルトまでライン川沿いで見える。塔は四角い柱体部分を Ulrich Ensingen、八角形の尖塔部分をケルンの Johannes Hültz が建設した。Ensingen は1399年から1419年、Hültz は1419年から1439年に建設を行った。

1505年、建築家 Jakob von Landshut と彫刻家 Hans von Aachen が北の翼廊の外にあるサンローラン玄関 (Portail Saint-Laurent) の修復を完了した。この部分はゴシック後期、ルネサンス前期の様式が目立つ。ストラスブール大聖堂の他の玄関と同様、設置されている彫像の多くはレプリカで、本物はルーヴル・ノートルダム美術館に移されている。

中世後期、ストラスブール市は大司教の支配を脱して自由化することに成功し、帝国自由都市となった。15世紀は Johann Geiler Kaysersberg の説教と宗教改革の萌芽で彩られ、16世紀にはジャン・カルヴァン、マルチン・ブーサー、ヤコブ・シュトゥルム・フォン・シュトゥルメックといった人物が活躍した。1524年、市議会はこの大聖堂をプロテスタントの手に委ねることを決定した。そのため聖像破壊運動の影響を受けて建物に損傷が生じた。1539年、文献上最古のクリスマスツリーがこの大聖堂に設置された。

1681年9月30日、ストラスブール市はルイ14世の支配下に入り、同年10月23日、王と領主司教 Franz Egon of Fürstenberg が出席して大聖堂でミサが行われた。これにより大聖堂はカトリックに戻され、対抗宗教改革で改訂された典礼に従って内装の再設計が行われた。1682年、1252年に設置された内陣障壁を取り払ってクワイヤを身廊に向かって拡張した。この内陣障壁の一部はルーヴル・ノートルダム美術館とクロイスターズ(メトロポリタン美術館の別館)に展示されている。主祭壇はルネサンス初期の彫刻だったが、同年取り壊された。その一部はルーヴル・ノートルダム美術館に展示されている。

1744年、Robert de Cotte の設計した丸いバロック様式の聖具保管室が北側の翼廊の北西に追加された。1772年から1778年にかけて、大聖堂の周囲に出店していた商店群を整理するため、大聖堂の周囲に初期ゴシック・リヴァイヴァル様式の回廊を建設した(1843年まで)。

1794年4月、ストラスブール市を支配したアンラジェ(過激派)は、平等主義を損ねているという理由で尖塔を引き下ろすことを計画し始めた。しかし同年5月、市民が大聖堂の尖塔に巨大なブリキ製フリジア帽(アンラジェも被っていた自由の象徴)を被せたため、破壊を免れた。この人工物は歴史的コレクションとして保存されていたが、1870年に完全に破壊された。ストラスブール包囲戦の際、プロイセン軍の放った砲弾が大聖堂に当たり尖塔の金属製十字が曲がった。また、クロッシングのドームにも穴が開いたが、後により雄大なロマネスク・リヴァイヴァル様式で再建された。

Virgen_estrasburgo_UEステンドグラス
↑ 「ストラスブールの聖母」はクワイヤの窓になっている
800px-Strasbourg_Dom_Detail_9ストラスブール大聖堂詳細
 ↑ 柱頭彫刻の一部

第二次世界大戦中、ストラスブール大聖堂は両陣営から象徴とみなされた。アドルフ・ヒトラーは1940年6月28日にストラスブールを訪問し、大聖堂を「ドイツ人民の国家的聖域」にしようとした。1941年3月1日、フィリップ・ルクレール将軍は「クフラの誓約」として「ストラスブール大聖堂の上に再び我々の美しい国旗がたなびくまで、決して武器を置かない」と誓った。また、ドイツ軍はストラスブール大聖堂のステンドグラスを74枚取り外し、ドイツ本国のハイルブロン近郊の岩塩鉱山に隠した。戦後、アメリカ軍がこれを発見し、大聖堂に返還した。

大聖堂は1944年8月11日のストラスブール中心部への英米軍の空襲で被害を被った。1956年、欧州評議会は Max Ingrand 作の有名なステンドグラス窓「ストラスブールの聖母」を大聖堂に寄付した。この戦争での損傷が完全に修復されたのは1990年代初頭のことである。

800px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_03後陣
 ↑ 巨大な建物を支える外側の「フライング・バットレス」

ここでストラスブールの街の写真をいくつか出しておく。

800px-Strasbourg_PanoNE2ストラスブール
 ↑ ストラスブール俯瞰
800px-Strasbourg-6-8_GrandRueストラスブール木組みの家
 ↑ 「木組みの家」
800px-Strasbourg,_Quai_des_Bateliersストラスブール運河沿いの木組みの家
 ↑ ストラスブール運河沿いの木組みの家




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