K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(10月)月次掲示板
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一昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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十月になりました。
の季節です。味覚の秋、体育の秋です。

 そよや風われはその声知らねども百舌鳴くやうな夕暮れ来たる・・・・・・・・・・・・・・内藤明
 ひと隅を占めて咲きいる慎ましさつゆの乾ぬまのむらさきしきぶ・・・・・・・・・・・・三枝浩樹
 青空のふかく澄む日は 聞こえるかきんもくせいの老人のこゑ・・・・・・・・・・・・小島ゆかり
 流離(さすら)わず七度目の干支擦り抜けむせめても遠き祖霊相連れ・・・・・・・・田島邦彦
 歳月をひとめぐりして立ち寄ればぬすびと萩に種の実れり・・・・・・・・・・・・・・・横山未来子
 高きたかき脚立の上より声かけて下されし写真家の若かりし声・・・・・・・・・・・・ 中野照子
 息抜きにゼブラフィッシュのしましまの模様のでき方の論文を読む・・・・・・・・・・・・永田紅
 沖縄のかがやく碧よ、北国の蒼き冥さよ 海めぐる国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 森山良太
 声の限り心の限り大泣きの児はあかあかと紅葉に並ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 晩秋の沼の面の水馬は微かな光の輪を踏みて立つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三井修
 年々の花よりまぼろし歳々を生死のことにほうとしわれは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・成瀬有
 赤の飯炊かば佳き日のよき思ひかへらむか小豆煮えつつぞある・・・・・・・・・・蒔田さくら子
 あなたがやめた多くを続けてゐる僕が何ももたずに海にきました・・・・・・・・・・・・光森裕樹
 葉をすべてくれなゐにして花水木児らの去りたる園庭にたつ・・・・・・・・・・・・・・・ 小野雅子
 追憶の彼方の恋や夕暮の空へ振るため人は手を持つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 不信という信もありなん霧の日の自画像をもつ樹林を往かん・・・・・・・・・・・・・・・・・山下泉
 十月や
顳顬さやに秋刀魚食ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
 秋の航一大紺円盤の中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
 蛇消えて唐招提寺裏秋暗し・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
 石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり・・・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男
 カステラが胃に落ちてゆく秋の昼・・・・・・・・・・・・・・・・大野林火
 秋暁や胸に明けゆくものの影・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
 玉垣の内の羽音も日短・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阿波野爽波
 足もとはもうまつくらや秋の暮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
 秋の夜や紅茶をくぐる銀の匙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城
 にせものときまりし壺の夜長かな・・・・・・・・・・・・・・・・・木下夕爾
 機関車の底まで月明か 馬盥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子
 点鬼簿に入りしその名を虫のこゑ・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 柘榴打ちリリーマルレーン唄ふべし・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 壁の絵は不矩のカトレア秋灯・・・・・・・・・・・・・・・・・・対中いずみ
 新神輿金銀よりも白木美し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中西夕紀
 ビーカーの水の沸騰鰯雲・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・橘いずみ
 口中に一枚の舌神の留守・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩永佐保
 にはとりの千羽鎮もる月夜かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・林昭太郎
 文語的暗がりに柿点りゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・峯尾文世
 回転鮨はこの世の果ての如くあり・・・・・・・・・・・・・・・・海地大破
 紀の国の水澄みて杉澄みまさる・・・・・・・・・・・・・・・・・ 堀本裕樹
 湖へ出て大根の切れつぱし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 榎本享
 二の酉を紅絹一枚や蛇をんな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・太田うさぎ
 本郷に軍人の墓黒麦酒・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五十嵐秀彦
 夕ぐれを飛ぶ木耳の笑いけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久保純夫
 かどのある数字が星のよりどころ・・・・・・・・・・・・・・・・・鴇田智哉
 秋蝉やP氏このごろきてくれず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彌榮浩樹
 人声は月に届かず月涼し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 村上鞆彦
 秋灯の照らすレコード裏がへす・・・・・・・・・・・・・・・・・・山田露結
 笑ふ眼に涙滲みて秋の蝶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中由つこ
 アンメルツヨコヨコ銀河から微風・・・・・・・・・・・・・・・・・・西原天気
 さやけしやいつか来た道とうりゃんせ・・・・・・・・・・・・・・・・ 七風姿


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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

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著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第五歌集『昭 和』は、下記のところで買えます。   
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ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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 日本国憲法九条
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永久にこれを放棄する。
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( 旅行記 ) 「秋の韓国周遊」大邱、慶州、釜山3日間・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Korea-Busan-Beomeosa_Iljumun_6410-07梵魚寺一柱門
↑ 梵魚寺一柱門
2590c3061d546be03289295526ff468c八公山紅葉
 ↑ 八公山紅葉とロープウエー
samugetan-5yrサムゲタン
 ↑ 「参鶏湯」(サムゲタン)
db4f1b2eeb2b31a9_Sアワビのお粥
 ↑ アワビのお粥
53c7ae21石焼ビビンパ
 ↑ 石焼ビビンパ
b0f0365d06ab7f33b2e4ac9d0df0247cアシアナA320
Map-Korea-Province-South-Gyeongsang韓国地図
 ↑ 韓国南東部地図─慶尚北道・慶尚南道
韓国マップ
 ↑ 韓国全図地図(折り畳みを広げると全地図) 
韓国通貨
 ↑ 韓国通貨1000ウォン(日本円で百円)
トラピクス

        「秋の韓国周遊」大邱、慶州、釜山3日間(1)・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・・阪急交通社トラピックス催行10/27~29・・・・・・・・・

急に思いついての韓国南部への小旅行である。 韓国の「紅葉」鑑賞ということである。 日本よりも寒いので紅葉も少し早い。
天気は気になるが、予報によると三日間とも「晴」らしい。気温は最高17~19度、最低8~10度くらいらしい。雨に遭わないのを願うばかりである。

はじめに「韓国」には初めて行くことの説明をしておく。
亡妻も私も外国旅行は好きで、よく出かけたのだが、韓国は近いし、いつでも行けるという気持があったし、
特に、朝鮮半島は日本が苛酷な「植民地」支配を強制した「負」の遺産の記憶が私には強くて、私は子供だったので、私自身が責任を感じることはないのだが、
何となく積極的に行きたい国ではなかった。
今どき「アベノミクス」とかで、過去の日本軍国主義の「侵略」という「加害」を忘却するような言動には私は与しないので、
加害者としての最低限の「礼儀」と「謝罪」の気持は持っていたいと思うのである。
私は戦中派の一員として、戦後生まれの人々、特に為政者である政治家の人々には、そういう謙虚な態度を求めたいと思うのである。
最近は韓国ドラマの影響などもあり、特に若い女性の「韓国好み」が流行しているが、先に言った「歴史的」事実をよく理解して行動してもらいたいものである。
とは言っても中国には何度も行ったし、韓国以上に中国には、ひどい侵略をしたので、私の態度には矛盾があるかも知れない。
これは理屈ではないので、この矛盾については、うまく説明できないが、お許しあれ。 とにかく、私は初めて韓国の地を踏むことになった。

ここまで書いたついでとして、過日、このブログに載せた「従軍慰安婦」その他に関連する記事を、そのまま、ここに、転載しておくのでお許しあれ。 ↓
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最近、韓国で「従軍慰安婦の像」が設置されて、いろいろ物議を醸している。
「従軍慰安婦」に関連して、私の若い頃のエピソードを書いておく。
「従軍慰安婦などは無かった」という論者の意見というのがあるが、この「従軍慰安婦」という言葉は後になってから概念として付けられたもので、
当時には、そんな言葉で言われたものではない、ことを明確にしておかなければならないだろう。
日本軍当局の「意向」を受けて、いわゆる「女郎屋」の経営者が、従事する女を募る。
いわば、最末端の汚れ役に良家の女が応募するわけもなく、当時の植民地として悲惨な境遇にあった朝鮮人などが募集に応じたということである。
別の「キレイ」な仕事と騙されて募集に応じた女も居ただろう。 そういうことである。

「従軍慰安婦」というのは現実に存在していた、と断言できる。

昔は赤線(あかせん)と言って、 日本で1958年以前に公認で売春が行われていた地域があったのである。
この法律が施行されて以後、そういう地帯は無くなったし、「公娼」と言われていた女たちは「自由恋愛」という「私娼」となった。
それまでは男たちは、そういう「赤線地帯」=遊郭で性欲を処理していたのである。
それはインテリと言われる人たちでも同様であり、短歌の関係でいうと、有名な斎藤茂吉なんかの遊郭通いは事実として記録されている。
それは彼がすでに東大医学部の医師をしていた頃の話である。
 嘘だと思う人はネットを子細に検索されよ。
そういう時代だったのである。 ほんの数十年前のことである。 キレイゴトではないのである。

私がまだ若かった頃、近所のおじさんが茶飲みに事務所に遊びにきて、いろいろ世間話を聞かされたものである。
その人─仮にAさんとしておこう。 彼は戦争に召集されて最初は中国大陸、敗戦時にはビルマ(今のミャンマー)に居たのである。
その彼が中国での兵隊たちの性欲処理の場面を話してくれた。
いわゆる「慰安所」というのが開設されると兵隊たちが、行列をつくって順番を待っていて、コトは数分で済んだという。
「女」は寒いときには下着を脱ぐこともなく、厚い毛糸のズロースの局所だけ穴の開いているのを履いていて、その穴にペニスを挿入してコトを済ませる。
性病の感染を恐れた当局からはコンドームの使用を勧められたという。
今どきの感覚から言えば、そんなことまでして性欲を発散させるというのは理解できないだろうが、自分で手淫で処理するよりは、
局所に挿入して射精するというのが兵隊たちにとっては精神的に満足感が得られたものであろうか。
ついでに書いておくと、その人は先にも書いたようにビルマで悲惨な敗走を体験するのだが、その頃には年月を経て古参の下士官で経験豊富だったから、
敗走に当たっては武器は一切捨て、食糧だけを持って逃げた、という。武器を携えていた連中は「みんな死にましたなア」と言った。
戦争というのは、そういう苛酷なものである。
そういう戦争の苛酷さについては、前にこのブログでも書いたことがあるが、日中戦争のときに従軍記者として参加した石川達三『生きてゐる兵隊』という小説があった。
この本は、彼が軍部からの「おしきせ」の情報による記録でなく、自分から兵隊たちの生活の中に入って行って体当たりで書いた従軍記だった。
だから当局から「発売禁止」の処置を受け、彼自身も裁判にかけられた。敗戦により裁判は中止となり、戦後この小説は復刻され、少年の私も読んで大ショックを受けた。
この小説には「現地人の非戦闘員」虐殺や性のことなどが赤裸々に活写されている。
南京事件は無かった、とか主張する人には、私は、この小説を読むように勧めている。
ネット上の関連記事を見ていると、従軍慰安婦関係の東西の国の対応には、いろいろの違いがあった。
第2次大戦中の日独は軍が管理する慰安所型、米英は民間経営の売春宿利用型、そしてソ連はレイプ黙認型だった。

これも私の若い頃の体験である。
ソ連を解放軍として美化するような風潮のあった戦後すぐの頃、満洲からの引き揚げ者だったM氏の話。
ソ連軍は軍紀がでたらめで、女と見れば「強姦」して、あげくには銃殺されたりした。
皆を仰向けに並んで寝させ、胸をさわって乳房が手に触れれば女として引き摺りだして強姦したという。
だから日本人の女は胸に「晒」をきつく巻いて胸の段差をなくして男のような恰好をして難を逃れるようにしたという。

石川達三の小説にしろ、このソ連軍の兵隊の話にしろ、そんな理不尽な、今では有り得ないことが、平然と行われていたのである。
それが「戦争」というものである。 戦争は「キレイゴト」ではないのである。
私自身は、まだ少年だったので兵歴もないが、戦争中は授業からは引き剥がされて、軍需工場で旋盤工をしていた。いわゆる「学徒動員」である。
日本が戦争に負けたとき、私は中学三年生だった。
戦争末期には日本の空には「制空権」はなく、アメリカ軍の艦載戦闘機が飛びまわり、私たちもグラマンなどの艦載機から機銃掃射を受けて逃げまどった。
私たちは「非戦闘員」だった。だけど、戦争中は、そんなことは無関係に「殺戮」された。アメリカの残虐行為は日本だけでなくヨーロッパでも多くあった。
それが「戦争」というものである。

私は「勇ましいこと」を言う人は信用しない。戦争という理不尽な、悲惨な様相を見て、体験してきたものとして、言うべきことは言っておく義務を持っている。
憲法改正にしろ、靖国神社のことにしろ、「勇ましいこと」を言うならば、古今東西の歴史的事実をよく学んだ上で発言してもらいたい。
いま安倍首相なんかも、発言の言葉尻をとられて軌道修正しているようだが、「こう発言すれば、こう反応が返ってくる」と、よく勉強してから発言すべきである。
何度も言うが私は「勇ましいこと」は信用しない。
戦後生まれで、戦争の悲惨さも知らないくせに、ろくに調べもせずに「歴史的事実」を否定するのは止めてもらいたい。
「歴史的事実」は、率直に認めよ。 すべては、そこから始まらなければならない。
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私が、韓国旅行を躊躇するのには、こういう背景もあるのだ、と理解してもらうために敢えて引いておく。

関西空港11:55発アシアナ航空OZ143便釜山行きで出発。
日本と韓国との間には時差はなく、日本時間で推移する。
ただし、九州よりも西になるので、朝の明けるのは遅く、夕方の暮れるのも遅い、のは当然のことである。
私たちの住む関西地方とは一時間ほどの時間的ズレがあるようだ。
13:20釜山着。
総勢は35名ということだが、混成で私と同じ三日間の人は七人だけ。
あとの二十八人は四日間のコースでソウル近くの紅葉の名所にも回るのだという。第一日だけ合同で観光する。
現地ガイドは慮(の)さん。拡声マイクで案内するが、韓国語なまりで聞き取りにくい。

        釜山北の郊外・金井山へ。<紅葉ポイント①>「梵魚寺」・・・・・・・・・・・・木村草弥

img_402663_44572188_3金井山城北門
 ↑ 金井山城北門
800px-Korea-Busan-Beomeosa_Iljumun_6410-07梵魚寺一柱門
↑ 梵魚寺一柱門
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↑ 梵魚寺説明版
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 ↑ 四天王のうち二天王
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 ↑ トイレの標識
caption梵魚寺紅葉
 ↑ 梵魚寺紅葉

一旦、高速道路に乗り、釜山北の郊外・金井山へ。<紅葉ポイント①>「梵魚寺」へ。
ここは韓国五大寺院に数えられる屈指の名刹である。
梵魚寺(ぼんぎょじ、ポモサ)は、 釜山広域市金井区にある仏教寺院。韓国仏教界の最大勢力である曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)の第14教区本寺である。

新羅時代の 678年(新羅文武王18年)に、海東華厳宗の開祖である義湘大師が創建した。梵魚寺は華厳十刹の一つに数えられた。
李氏朝鮮の太宗による1407年(太宗7年)の仏教弾圧の際、存続を許された88寺院の中に梵魚寺の名前はなく、廃寺になったようである。 世宗による1424年(世宗6年)の仏教弾圧の際も、存続を許された36寺院の中に梵魚寺の名前はなく、引き続き廃寺のままだったようである(朝鮮の仏教#李氏朝鮮時代の仏教弾圧)。
1592年(宣祖25年)、日明戦争によって寺は焼失したが、1602年(宣祖35年)に再建された。その後また焼失したが、1613年(光海君5年)に再建された。
日本統治時代の1911年、寺刹令施行規則(7月8日付)によって、朝鮮三十本山に指定された(1924年以降は朝鮮三十一本山)。
2010年12月15日、天王門が放火と思われる火事で全焼した。
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ガイドさんの説明によると、現今は韓国も「山歩き」ブームとかで、色とりどりの山歩きの服装をビシッと決めた人が多い。
韓国人は「赤い」色が好きである。山登り用のストックを持った人も多い。
本殿では喜捨をして祈っている人も多いが、これは日本のセンター試験のように、十一月八日に「統一試験」があり、それに子供や孫たちが受かるようにとの祈りという。

      高速道路で大邱へ・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              
高速道路で大邱へ移動するが、日曜日で車が多く、また交通事故があったようで車が大渋滞である。
さすがに韓国車ばかりで日本車は見当たらない。現代自動車が圧倒的。六割がHyundai。KIAも見えるが起亜自動車だが一旦つぶれて今は現代の傘下にあるという。
ヨーロツパでも、この二つのブランドの車がよく走っている。
沿線ではよく植林されているが松の木が多い。
日本以上に山脈が多い印象。

1124589211韓国交通標識
img_1413837_28454768_1韓国街頭

      ハングル万能。漢字は使わない。・・・・・・・・・・・・木村草弥

私はハングルは全く勉強していないので、街角でも、道路標識でもハングルばかりでチンプンカンプンである。
せめて漢字を混ぜてあればいいのだが、ハングルばかりで疲れてしまう。
ガイドに聞いてみると、小学校では教えるのはハングルだけ。「漢字」は中学校で九百字、高校で九百字、合計1800字習うという。
後にガイドの成(ソン)さんに聞いてみたところ、釜山は「プサン」と言うが、これは米軍などが使った発音で、「ブサン」というのが韓国で発音される正式なので、
今は道路標識のローマ字表記に見られるように「BUSAN」と書くのが正しいという。
「慶州」も「キョンジュ」ではなく「ギョンジュ」と発音するのが正しい、という。そう言えば道路標識も、そうなってる。「清音」が「濁音」になる。

夕方遅くに大邱に到着。大邱薬令市場を歩いて見物。

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 ↑ 薬令西門─四隅の白い石像は韓方薬を刻んだりする作業をしている。
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big_94768韓法薬の原料①
big_94769big_94769韓方薬の原料
 ↑ 韓方薬の原料

韓国三大薬令市の一つ、大邱の韓方市場
韓国第三の都市、大邱の観光でおすすめの大邱薬令(ヤンニョン)市場は、350年の歴史がある韓方市場。約800mの通りに韓方薬局や韓医院(ハニウォン)、韓方薬材卸売店が密集。
「薬令市韓方祭り」も毎年開かれ、多くの人で賑わう。大邱が誇る名物通りで、古くから伝わる韓方の魅力に触れられる。

大邱薬令市場は、大邱市内の中心部に位置しており、最寄り駅の地下鉄1・2号線半月堂(パンウォルダン)駅から徒歩3分で到着する。
韓方の匂いがプンプン漂うストリートに350もの韓方関連店が軒を連ね、歴史を感じる建物も多く、見て回るだけで楽しめる。
韓方通りの西側にはこの通りのシンボルとなる薬令西門(ヤンニョンソムン)があり、門の屋根と柱には薬材として使われる植物などが描かれている。

朝鮮王朝孝宗9年(1658年)から始まった大邱薬令市場。
当時の王に質の良い薬材を供給するために作られたこの市場は、国内だけでなく日本や中国、ロシアなど世界各地の漢方薬が集まる拠点として発展した。
現在は韓方薬の購入だけでなく、韓方をテーマにした博物館なども楽しめる観光地となっている。

今日は日曜日なので大半の店は閉まっていた。 ただ見て歩くだけ。

日本では「漢方薬」というが、こちらでは中国本土から伝わったものの、朝鮮半島(こちらでは「韓半島」と言う)で独自に改良されたので「韓方薬」という。

朝鮮半島は地続きであり、何千年来、中国本土に支配され「属国」扱いされてきたので、それへの反発が物凄い。
今に始まったものではなく、李氏朝鮮の頃からであり、「漢字」支配から脱するために発明されたのが「ハングル」という表記法なのである。
こんなことを言うと韓国人はカンカンになって怒るだろうが、歴史的、客観的に見ると、こうなるのである。
筆が滑った。 ご寛恕あれ。


     夕食は「サムギョプサル」を賞味する・・・・・・・・・・・・木村草弥

Korean_food_8サムギョプサル
 ↑ 「サムギョプサル」

私は韓国料理を正式に食べたことがない。
断片的に「キムチ」とか「マッコリ」を食べたり、飲んだりにとどまるので、「サムギョプサル」という料理名は初体験である。
日本国内でも韓国料理店、焼き肉店はたくさんあるが、私は行ったことがない。
肉料理と言えば、ビーフステーキとか鉄板焼きとかで、煙のもうもうと出る、いわゆる焼肉屋には行かない。
ホルモン料理的なものも、ずっと昔には食べた記憶があるが、今は積極的には行かない。
焼いた肉をハサミで切って食べる、というのも話では聞いていたが、初体験であり、個人的には好きではない。
それに「箸」が金属製というのも違和感がある。むかし韓国は貧しかったので無駄にならない金属製のものを多用する文化が出来たのではないか。
そういう意味では、私は韓国好みではないのかも知れない。

以下、Wikipediaから引いておく。  ↓

サムギョプサル(三겹살、삼겹살)とは韓国の肉料理のひとつ。
「サム」は数字の3、「ギョプ」は層、「サル」は肉を表し、日本でいう三枚肉すなわちばら肉の意味だが、日常「サムギョプサル」と言えばこの豚の三枚肉の焼肉料理のことを指す。発音はパッチムと濃音化で発音は「sam-gyeopssal」となる。

概要
韓国の飲食店や家庭における一般的な調理法・食べ方は以下のようなものである。

味付けしていない豚の三枚肉を厚めにスライスし、鉄板上で表面がカリッとなる程度に焼く。
鉄板は斜めになっていたりジンギスカン鍋のように中央が盛り上がっていたりするが、これは余分な脂身を落とすためである。

焼けた肉は、岩塩を溶いたごま油につけたり、青唐辛子のスライスやネギの和え物、生もしくは一緒に鉄板上で焼いたニンニク、少量のサムジャン(味付け味噌や白飯などと一緒にサンチュやエゴマの葉などに巻いて食べる。食べる者が自由にアレンジできるようにするため、サムギョプサルひとつ頼むと食卓上は調味料や葉菜類の器がところ狭しと並ぶことになる(写真参照)。

サムギョプサルに、皮とカルビ肉の2層を加えた「オギョプサル(五枚肉、五겹살、오겹살)」もある。また、食べる際に魚の塩辛を使う事もある。
豚の三枚肉だけではなく牛肉の「ウサムギョプサル(牛三겹살、우삼겹살)」もある。

多様化するサムギョプサル
それまで大衆的な焼肉だったサムギョプサルだが、2000年前後から江南などソウルの人気スポットに登場したファッショナブルな店で、ワインに漬け込んだ「ワインサムギョプサル」や各種ハーブを使って香り付けをした「ハーブサムギョプサル」を提供するようになると、新たなイメージで若者を中心に人気を拡大することとなった。

ワインサムギョプサルは、ワイン漬けにして竹筒の容器の中で熟成させた豚肉を、まずブロック状のまま焼きながら、店員が途中でスライスしていく。焼きあがった肉の食べ方も、一般的な「ごま油+塩」や「サンチュ+サムジャン」のほか、ハニーマスタードやバーベキューソースにつけたりきな粉をまぶしたりと、その選択肢を増やしている。店によっては、サラダバーのように調味料や葉菜類を並べて好きなように取れるコーナーを作ったところもある。

こうした新しいスタイルのサムギョプサルの登場により、スタンダードなサムギョプサルにも、肉塊から焼き始めてスライスしたり、キムチを同時に焼いたりすることが定番になりつつあるなど、変化が生じている。外食産業では新規参入した店が差別化のために新しいサムギョプサルを開発することから多様化が進み、以下のようなものが登場している。
ワインサムギョプサル ─ ワインに漬け込み熟成させてある。
ハーブサムギョプサル ─ バジル、オレガノなどのハーブをまぶしてある。
緑茶サムギョプサル ─ 緑茶パウダーをまぶしてある。
コチュジャンサムギョプサル ─ コチュジャンで下味がつけてある。
トックサムギョプサル ─ 焼けた肉を薄い餅で包んで食べる。
テペサムギョプサル ─ 鉋(かんな)で削ったように薄い肉を焼く。
チーズサムギョプサル ─ チーズフォンデュの様に、熱して溶けたチーズと共に食べる。
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ただ、今回行った店は最低である。店内にトイレはなく、一旦店の外に出て、公衆トイレで用を足す始末。
この「サムギョプサル」も感心しなかった。
韓国に入って初めての食事が、これだったので参った、参った、である。
この夕食では「酒」類は呑めなかった。マッコリは大きな瓶しかないし、私の座ったテーブルの人たちは誰も酒を呑む人は居なかった。

11915660844705db04f29de_daeguprince大邱プリンスホテル
 ↑ 大邱プリンスホテル

大邱中心に位置するアクセス便利な特2級ホテル。
1988年にオープンした大邱プリンスホテルは、地上12階・地下4階の本館と、地上7階・地下3階の別館とでなりたっています。大邱の中心地に位置しているため交通の便もGOOD!地下鉄明徳(ミョンドッ)駅から徒歩圏内の特級ホテルです。
客室は全部で117室。ツイン、オンドル、オンドルベッド、デラックスダブル、デラックスツイン、デラックスオンドル、スイート、オンドルスイート、ロイヤルスイートの10タイプに分かれています。客室は柔らかい色使いでゆったりと落ち着けます。また、1階のコーヒーショップ『プリンセス』は都会的なインテリアが印象的。商談の場としてよく使用されるそうです。
テグの遊園地として、またテグタワーが建つテグのランドマーク的存在の友邦タワーランドまでは、ホテルからタクシーで10分程の距離です。 その他、聖母堂、大邱郷校、コブクバウィ、コンドゥルバウィなどの観光地もあります。

夕方すっかり暗くてからホテルに入る。 上の記事では、こう書いてあるが細部にはアラが目立ち、私の評価は低い。韓国伝統の「オンドル」ホテルのような感じ。  
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       「秋の韓国周遊」大邱、慶州、釜山3日間(2)・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・・阪急交通社トラピックス催行10/27~29・・・・・・・

         タロ・クッパの朝食・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

第二日である。 今日から七人のみのツアーである。ガイドは「成」(ソン)さん。
この人の発音の方が聞き取りやすい。七人だけなので楽である。
ホテルを7:30に出て、市内で朝食を摂る。ホテルで朝食を摂らないで外で食べるというのも初体験である。大邱名物「タロ・クッパ」というものである。
タロ・クッパとはどんな料理なのか。 → 「一度は食べたい大邱のローカルフード」 に詳しい。

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 ↑ タロ・クッパ
とにかく、こんなものである。 ↓
<大邱(テグ)の郷土料理の一つにタロクッパがあります。
クッパとはスープの中にご飯が入っている料理を言いますが、タロクッパは、タロ(「別」の意味)という名前の通り、ご飯とスープが別々に出されます。
1950年の朝鮮戦争の際に始まったと言われるタロクッパ。
当時大邱に集まった避難民の中で名家の家柄の人々が、庶民たちがご飯とスープを混ぜて食べる姿を見て品がないと思い、別々に注文したことがタロクッパの由来になっているそう。
現在は滋養強壮のためのスープや、二日酔いの朝に飲むヘジャンクッとしても親しまれています。>

ネット上に載る記事を引いておくが、わざわざ外まで食べにゆくようなレベルのものではない。
韓国料理は、どれを食べても同じようなものが出てくる。取り合わせのキムチとかの「菜」は同じである。
そしてトウガラシがまぶしてあり、とにかく辛い。 しかし日数が経つと慣れてくるから不思議である。

 韓国の紅葉を求めて<紅葉ポイント②>八公山へ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

南韓国最大の紅葉の名所「八公山道公園」へ。 ロープウエイで展望台に上がり展望する。 <紅葉ポイント②>である。
2590c3061d546be03289295526ff468c八公山紅葉
 ↑ 八公山紅葉とロープウエー
八公山ロープウエイ切符
 ↑ 八公山ロープウエイ切符
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↑ 八公山ロープウエー頂上から更に奥の山頂のアンテナ塔などを眺望

八公山は大邱広域市の中心から慶尚北道永川市、軍威郡などにかけて広がっており、海抜1,192mの毘盧峯を中心として東峯(別名、弥陀峰1,155m)と西峯(別名、三聖峰1,150m)が肩を並べている。
行政区域としては大邱広域市東区に属しており、広さは30.593㎢ほどになる。八公山は仏教文化の中心地のひとつで、大韓仏教曹渓宗第9教区本山である桐華寺をはじめとして、冠峰石造如来座像(カッパウィ)、元暁寺、千聖寺、仏窟寺などの数多くの寺院と仏教文化の遺跡が点在している。
o0800106711447970902カッパウィ 八公山
 ↑ 冠峰石造如来座像(カッパウィ)
「カッパウィ」は海抜850mの八公山の冠峰に屏風のように切り立った岩壁を背景として作られた座仏像である。
「カッパウィ」という名前は、仏像の頭にかさ(韓国語でカッ)のような平らな石(韓国語でパウィ)がかぶせてあるためにこのように呼ばれている。
9世紀の巨大な仏像群を代表する傑作品のひとつで宝物第431号に指定されている。
「真心を込めて祈ると願い事をひとつを叶えてもらえる」という伝説があるため、大学入試期間には合格祈願に訪れた人々の行列が一日中続く。
1月1日には初詣と日の出を見に来る人々で賑わう。
八公山は年間を通して観光客の足が絶えない名山で、春には鮮やかなツツジの花が咲き、夏には鬱蒼とした木が生い茂って清らかな水が流れ、秋は色とりどりの紅葉が循環道路沿いに16.3kmに渡って続き、四季折々の美しい風景が楽しめる。
ただ私たちは「カッパウィ」までは行かない。だから参考画像として見てもらいたい。

tour023_a桐華寺
o0500033312470167487桐華寺
 ↑ 桐華寺
桐華寺
 ↑ 桐華寺パンフレット

桐華寺(とうかじ)は、大韓民国大邱広域市東区にある仏教寺院。韓国仏教の最大宗派である曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)の第9教区本寺。

曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)は寺の創建を新羅の炤知王の時代の493年(炤知王15年)としている。このとき極達和尚によって創建された瑜伽寺を桐華寺の前身と主張している。
新羅の興徳王(在位826年 - 836年)の時代に心地王師が寺を再建した際、冬にもかかわらず桐の花が咲いたため、「桐華寺」と名づけられたという言い伝えがある。
李氏朝鮮の太宗による1407年(太宗7年)の仏教弾圧の際、存続を許された88寺院の中に桐華寺の名前はなく、廃寺になったようである。
世宗による1424年(世宗6年)の仏教弾圧の際も、存続を許された36寺院の中に名前はなく、引き続き廃寺だったようである。
現在の桐華寺は1732年(英祖8年)に再建されたものである。
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↑ レストラン「大湖」
山を下りて、慶州途中のレストラン「大湖」で昼食。

d0115136_3285655マッコリ
 ↑ 「生」マッコリ
20090218170047虎マッコリ
 ↑ 「虎」マッコリ

      韓国の酒・マッコリのこと・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

Wikipediaには、このように書かれている。 ↓
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マッコリ(막걸리)とは、朝鮮の大衆向け醸造酒の1つ。日本のどぶろくに相当する。仮名表記では、マッカリ、マッコルリとも書く。
マッコリは米を主原料とするアルコール発酵飲料で朝鮮半島の伝統酒の一種。
アルコール度数は6-8%程度で、同じく米を主原料とするが段仕込みと割水を経る日本酒、にごり酒の半分程である。
麹により糖化された米の強い甘味があり、またタンパク質やビタミン類に富む。
乳酸醗酵により雑菌の繁殖が抑えられる点は日本酒と同じであるが、一般にマッコリでは乳酸菌飲料のような微かな酸味と炭酸発泡の味がより顕著である。
醗酵を止めていないものも多く、醗酵の進み過ぎたマッコリは酸味と炭酸が強烈になる。生マッコリは劣化が早いので長期保存が不可能である。

語源は「マッ+コルダ」(막 거르다、粗雑に+濾す)という朝鮮語から来ており、「粗く濾した酒」という意味である。
その見かけから「濁酒」(タクチュ、탁주)、「滓酒」(ジェチュ、재주)と呼ばれる他に、昔は農作業をしながら水代わりに飲まれていたことから「農酒」(ノンジュ、농주)と呼ばれたり、家ごとに自家醸造し振舞われていたことから、「家醸酒」(カヤンジュ、가양주)とも呼ばれていた。

マッコリは朝鮮の固有語であるため漢字表記はないが、漢字を用いる中国語では「馬格利」と表記される。「ン」以外に子音のみの表記の無い日本語では、子音のみの「l」を「ル」で補って「マッコルリ」とも書かれてきたが、「マッコリ」の表記が一般化してきている。
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昔、学生の頃、友人の朝鮮人の家に行ったら「ドブロク」を飲ませてくれた。日本ではアルコール類の自家生産は禁止されていたから、今から思えば「密造」だった。
日本の「濁り酒」ドブロクとは、見かけは似ているが製造法も違うようである。
この頃では日本でも売られており、女子ゴルフのプレーヤーなんかも「JINRO」とかいう銘柄のキャップを被っていたりする。
サントリーも輸入して販売しているようである。750mlで400円台だから高いものではないので、何度かマッコリを呑んだことがある。
料理の種類によっては合うのである。
アルコール度数も低いので、こちらに来てからも「マッコリ」を呑むことが多い。 こちらでは「生」マッコリで、しかも発泡性なので清涼感がある。
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samugetan-5yrサムゲタン
c588ce146a878d5c_Sサムゲタン②
 ↑ 「参鶏湯」(サムゲタン)

     昼食は韓国伝統の薬膳料理「参鶏湯」(サムゲタン)を賞味・・・・・・・・・木村草弥

これについてはWikipediaは、こう書いている。 ↓
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サムゲタン(参鶏湯)は 韓国、北朝鮮に広まった料理でありチキンスープの一種である。
鶏肉と、高麗人参、鹿茸、ファンギ(牙なおぎ)などの漢方ともち米、くるみ、松の実、ニンニクなどを入れて煮込んだ料理であり、薬膳料理や補身料理(ポシン料理・滋養食)ともされている。

概要
鶏肉に高麗人参、もち米などを入れて煮込んだスープである。熱いスープ料理であるが夏の料理として提供する専門店が多い。
韓国において、日本の土用の丑の日におけるウナギのように「三伏の日に食べると健康に良い」とされ、夏バテ時の疲労回復としてよく食べられている。夏の間だけ提供する食堂が多いが、専門店では一年中食べることができる。
ただし韓国風の、高麗人参が入っているものは、風邪などで熱がある時に食するのは動悸を誘発するため禁忌である。

丸鶏を水炊きして塩などで食べるペクスク(白熟、漢方入り鶏煮込み)と、もち米で作る粥がひとつになってできたタックク(鶏肉のスープ)がサムゲタンの原型とされているが、このうちタッククが韓国で初めて文献に登場するのが、1917年に朝鮮料理研究家の方信榮が著した『萬家必備・朝鮮料理製法』(京城・新文館発行)であり、ペクスクが初めて登場するのは1924年に李用基が著した『朝鮮無双新式料理製法』(京城・永昌書館発行)である。1920年代当時朝鮮総督府は鶏卵生産のため、朝鮮全土の農村に副業として養鶏を始めるよう奨励しており、これがタッククなど参鶏湯の前身となる鶏肉料理の誕生に寄与したと考えられている。 やがて粉末で入れていた高麗人参が丸のままとなり、1955年ごろ鷄蔘湯(ケサムタン)と呼ばれるようになったが、その後1960年代に入り、高麗人参の効能を強調するために蔘鷄湯(サムゲタン)とされた。ペクスクは参鶏湯と似た料理であるが、鶏肉をスープから出して皿に乗せて供することや、肉を食べた後にスープで炊いた粥が出てくることなどが異なる。台湾の麻油鶏などの他の薬膳と混同しているケースも見られる。

参鶏湯は材料さえ入手できれば家庭でも作ることはできる。韓国内ではサムゲタン用に若鶏を処理したものが販売されており、冷凍ものを扱う韓国食材店もある。
また調理されてパックされたレトルトパックも販売されている。
専門店では、烏骨鶏の肉を用いたオゴルゲタン(烏骨鷄湯、)や漆の木と一緒に煮込んだオッケタン(漆鶏湯)を出すところがあるが、通常のものより高級品とされ、値段が高い。

参鶏湯は鶏一羽を丸ごと入れて作る事もあり、高カロリーの食品である(レトルトで一人前とされている800g入りで720kカロリー。大象ジャパンが輸入している製品の場合)。

作り方・食べ方
鶏の腹から内臓を出して、そこに高麗人参と洗ったもち米、さらに干しナツメ、栗、松の実、ニンニクなどを詰めた後、水に入れて最低2~3時間じっくり煮込む。
長い場合は丸一日煮込むこともある。煮込む際に長ネギなどを加えることもある。ひとり1羽ずつ、熱々のスープに入れてトゥッペギ(小さい土鍋)で供する。

韓国風では調理時に味付けはほとんど行なわず、食卓で塩・コショウ、キムチなどで味を整えて食べる。
小皿に塩を入れ、少量のスープで溶き、そこに肉片をひたすという食べ方もある。よく煮込んだ場合には簡単に骨がはずれ、また軟骨まで食べることができる。
小骨も食べられるとされるが、鶏の小骨は鋭くとがった形に砕けて胃を傷つけるので食べないほうが安全である。スープを残し、そこにご飯を入れることもある。
572a3f5d9494fe31_Sサムゲタン③
↑ 「参鶏湯」(サムゲタン) いろいろのバリエーションがある。
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 ↑ この店のスプーンカバー紙─漢詩が何ともステキ

このレストランは建物も立派だし、清潔感もある。
「参鶏湯」(サムゲタン)は今まで食べたものの中で一番口に合う。薬膳料理というのも、うなづける。

ここで初めて韓国の酒にありつく。マッコリを注文する。ドブロクに発泡性を加えた感じ。
後でもマッコリを愛飲するが、店により味がそれぞれ違う。 缶入りのものは発泡が強くて清涼感がある。

あと一路、慶州へ。

     石窟庵と仏国寺 <紅葉ポイント③>・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

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 ↑ 石窟庵石仏
石窟庵チケット
 ↑ 石窟庵チケット
石窟庵パンフ
 ↑ 石窟庵パンフレット
keisyu仏国寺
 ↑ 仏国寺
仏国寺チケット
 ↑ 仏国寺チケット
仏国寺パンフ
 ↑ 仏国寺パンフレット

石窟庵と仏国寺(ソックラムとブルグクサ、석굴암과 불국사)は、大韓民国の慶州市の南にあるユネスコの世界遺産(文化遺産)登録施設名。

慶州周辺は、紀元前1世紀から10世紀に栄えた新羅王朝の都が置かれていた。石窟庵と仏国寺は、8世紀ごろ新羅の景徳王の時代、宰相の金大城により建立。
石窟庵と仏国寺は、新羅美術の最高峰・集大成という呼び声もある。
石窟庵は、東向きに作られており、日の出、月の出の名所でもある。
1995年に、ユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録。

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 ↑ 仏国寺の紅葉
worldheritage133_1_20120403005536参道の石彫
↑ 参道の石彫

「石窟庵」も「仏国寺」も歩くところが多い。 そこに団体客や修学旅行生や外人も多い。
とにかく列を成して大混雑である。

       古墳公園・天馬塚・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

古墳公園の中にある「天馬塚」 ← については、ここが詳しい。

korea_tenma07大陵苑
 ↑ 「大陵苑」 入口
大陵苑パンフ
 ↑ 大陵苑パンフレット
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 ↑ 古墳公園大陵苑 俯瞰
korea_tenma17天馬塚
 ↑ 「天馬塚」
天馬図
 ↑ 「天馬」画像 本物は慶州博物館に保存される
 
3万8000坪にのぼる「大陵苑」には古墳が23あり、ぐるりと石垣で囲ま れている。付近一帯では古墳が155見つかっている。

実は「天馬塚」は1973年、偶然に見つかった。
石舞台でわかるように日本の古墳は石槨(せっかく)で守られているが、 韓国の古墳は木槨(もっかく)で作られその上に赤ちゃんの頭ぐらいの石を積んで作っている。
長い年月の間に木槨の部分が崩れ、石積みの古墳は崩壊する。
発見当時、この付近の古墳は崩れ落ち、平らになって、あるものは畑とな り、あるものはその上に民家が建っていたという。

だから、いまある「天馬塚」も点在する古墳も、日本の仁徳天皇陵や高松 塚古墳のように築造された当時のものではなく、30年前に復元したものだ。
ここだけが内部が公開されている。
修学旅行生が一杯、引率されてくる。六年生が大体ここに来るらしい。
古墳内部に展示されている出土品は本物ではなく、全部レプリカで、本物は慶州博物館にある。

古くは「白村江(はくすきのえ)の戦い」、豊臣秀吉の文禄・慶長の役、そし て朝鮮戦争など幾多の侵略、戦火を経てきた朝鮮半島で歴史的な建造物が創建当時のまま残っていることが奇跡なのだ。

     「高麗青磁」の窯元で、青磁の「一輪挿し」を買う。・・・・・・・・木村草弥

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慶州窯元

慶州最後の立ち寄り所として、郊外の山裾の「高麗青磁」の窯元に寄る。
女主人は、もう初老の人だったが、きれいな関西弁で、恐らく日本は関西育ちだと推察した。
細かい作業の工程を説明してくれて「登り窯」も遠くから見て、製品の陳列の見物である。
私は青磁の「一輪挿し」を買った。少し負けてもらって一万円ちょうどである。
高いのか安いのか、どうでもいい。私の気に入った品だから。
掲出した写真は、帰宅してから私が撮ったものだが、光線の具合が、うまく行かない。現物は、文字通り緑色あざやかな美しいものである。 
次女・ゆり が一時、修行中にカタログ制作の助手をしていたことがあるが、こういうものは光線配置が完備したスタジオでないと無理だと、いま理解した。

    夕食は慶州名物の「サムパブ」を賞味する・・・・・・・・・・・木村草弥

7f4066feサムパブ料理
 ↑ サムパブ料理

「食べ方」について ↓ こんな記事がある。
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野菜いっぱい、ヘルシーなサムパブで至福のときを
日本人の友人によくリクエストされるのが「サムパブ」です。野菜にご飯を包んで食べるこの料理は、韓国人にはもちろん、外国人にもヘルシー料理として大人気。
テーブルに出された15~20種類もの野菜に、アツアツご飯とサムジャンを載せてほおばっていると、それだけで幸せになれます。

タレには食べる分だけそのつど漬けて食べたほうが、私はおいしいと思います。タレには食べる分だけそのつど漬けて食べたほうが、私はおいしいと思います。

サムパブ定食の肉は牛肉と豚肉から選べる
メニューは「サムギョプサル」と「サムパブ定食」の2種類。せっかくこの店に来たからには「サムパブ定食」がオススメです。
牛肉と豚肉から選べるので、どちらかお好きなほうを。ちなみに、私は豚肉派です(豚肉は韓国産、牛肉は外国産なんです……)。
テーブルには、山いっぱいの野菜と各種おかず、そして肉が出されます。薄くスライスされた肉は自分でタレに漬けて焼きます。
タレの漬け込み具合は好みですが、私はあまり漬けすぎないほうが好きです。野菜のお代わりも自由なので、思う存分、お召し上がりを。

2人で食べるなら一度に4枚ぐらいがベター。それ以上焼くと、焦げた肉も食べることになりそう。

肉は薄くてしゃぶしゃぶ肉のよう。どんどん焼けてくれます。私はよく、一度にたくさん鉄板に載せて、食べきる前に焦げてしまうという失態を犯します。
丁寧に1枚ずつ焼くゆとりが大事なのですね。肉は追加料金で注文できます。
ただ、定食に付いてくる肉よりも量が多いので1人前ずつ頼んだほうが後悔しなくて済みます。
なにせ、味噌チゲやナムル、魚と大根の煮物など、おかずだけでもおなかがいっぱいになりますから。
最後におこげスープが出されますが、お茶代わりにどうぞ。
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今夜の泊りは「コモド慶州チョースン ホテル」  ↓
119139876147034d697cc2a_commodoregyeongjuコモド慶州チョースン ホテル

< 1979年に慶州ウェリッチ朝鮮ホテルとしてオープン、2001年10月に現在の商号に変更したコモドホテル慶州朝鮮は、レストラン・ビジネスセンターなどの付帯施設はもちろん、カジノまである特1級ホテル。映画『ブラザーフッド(原題:太極旗を翻して)』の撮影時にチャン・ドンゴンとウォンビンが宿泊したホテルとしても有名です。
そして、慶州でカジノを楽しめるのはこちらのホテルだけです。日本には存在しないカジノを試してみるのはいかがですか?カジノ内でプレイしている人には無料ドリンクのサービスもあるのでぜひご利用を!そしてなんと、ホテル直営の36ホールのゴルフコースも完備しています。昼はゴルフ、夜はカジノで楽しむのもいいですよ!
客室は全部で262室です。お部屋はシックな色合いでまとめられているため、ゆっくりと安らげるスペースになっています。そして普門湖に面しているため、お部屋のベランダからは湖が一望できますよ。遊覧船乗り場もすぐそこですので普門湖を探索してみるのもオススメです!>

このように書かれているが、このホテルは近代的な西洋風のホテルで快適である。
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 ↑ ホテル自室(七階)からの紅葉の眺望─朝なので光度不足で画像が暗い。 

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         「秋の韓国周遊」大邱、慶州、釜山3日間(3)・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・・阪急交通社トラピックス催行10/27~29・・・・・・・・・

いよいよ最終日である。
この朝もホテルは素泊まりで、ホテルを歩いて出てすぐのレストランで「アワビのお粥」の朝食を摂る。 ↓
db4f1b2eeb2b31a9_Sアワビのお粥
中国でも「お粥」が出てくることがあるが、白粥が普通で、ここのような少し茶色に色づいたのは初めて。
朝にお粥だけの食事を摂っておくと腹の調子がよい。
朝食後、釜山へ向け出発。

     韓国では住宅でも「風水」を重視する。・・・・・・・・・木村草弥

長い移動時間に、ガイドさんが色々話してくれる。
韓国では、住宅を選ぶ際にも「風水」を重視するという。背後に山、前に水があるのが尊ばれるらしい。
それに、ひょろ高いマンションが見られるが、これは韓国人は大きな建物で長い廊下があるような集合住宅は嫌う。一階にエレベーターを挟んで一戸づつ、計二軒というのを好むので、ノッポになってしまう。
同じ開発業者の団地でも、そういう考えから、鉛筆のような細長い二十階くらいのマンションを少しづつ間隔をあけて十棟、二十棟と建てる、という。
建てても、建ててもどんどん売れるので、値下がりすることはないという。

韓国では、少子化、晩婚化、一人暮らしの増加、自殺者が多い、などの問題が出てきている。
それらの問題が、住宅事情にも反映して、いつか「住宅バブル」が起こる危険性はあるだろう。
日本の過去の経験からの忠告である。

       朝鮮戦争のことは「南北戦争」という・・・・・・・・・木村草弥

日本では、1950年から始まった北朝鮮対南朝鮮の戦争を「朝鮮戦争」と呼ぶが、こちらでは「南北戦争」と称するらしい。
「北」が攻めてきて、米韓は負けて、押されて追い込まれたが、釜山を前にして「洛東江」で食い止めた。
「洛東江」というのは、そういう記念碑的な川でもある、川幅の広い川である。
朝鮮では「川」とは言わず「江」と表現する。
また「朝鮮」という言葉は韓国では使わない。「北韓」「南韓」などと呼ぶ。何事にも、北朝鮮と差別化しようとする意図がみえみえである。
「朝鮮半島」☓、「韓半島」〇 というような具合である。
南北融和を主張した大統領も居たが、北朝鮮の挑発的な行動もあり、南北統一は極めて難しいと言えるだろう。


     釜山観光は龍頭山公園。チャガルチ市場など・・・・・・・・・・・・・木村草弥

釜山に入って、すぐ「LOTTE DUTY FREE」の店に入る。頼まれていたシャネルのネイル液を買う。
あと龍頭山公園と釜山タワーに上る。
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 ↑ 龍頭山公園と釜山タワー

釜山タワー切符
 ↑ 釜山タワー切符(4000ウォン)
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↑ ↓ ↓ 釜山タワーからの眺望
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龍頭山公園(ヨンドゥサンこうえん)は、大韓民国釜山広域市中区にある公園。龍頭山と呼ばれる丘が公園となっており、山頂部には釜山タワーがある。

釜山南部の繁華街・南浦洞に隣接し、商店街からエスカレータで登ることができる。
公園からは釜山港や影島を一望でき、また釜山タワーの下には李舜臣の巨像がそびえ立っている。
朝鮮王朝後期(日本の江戸時代)には、この山を含む一帯は倭館(草梁倭館)の敷地であり、釜山開港後は日本人居留地となった。
龍頭山には倭館時代に社が建てられ、のちに龍頭山神社となった。
現在、公園の一隅にこの周辺が倭館だったことを記す石碑が建てられている。
「李舜臣」の銅像も鮮明な写真が撮れたのだが、取り込もうとすると何度やっても横になった画像にしかならないので、残念ながら割愛する。

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 ↑ チヤガルチ市場
ja017チヤガルチ市場
photo600-38チャガルチ市場

チャガルチ市場(-いちば)は、大韓民国釜山広域市南部、中区南浦洞から西区忠武洞にかけての海岸部にある、韓国最大級の海産市場。

「チャガルチ」は砂利・小石を意味する。チャガルチ市場ビル周辺部にも露店街が発達しており、観光地となっている。

この付近にできた最初の市場は、1924年8月に開設された南浜市場である。
しかし、この市場の「チャガルチ市場」としてのアイデンティティの起源は、朝鮮戦争の頃、釜山に集まった避難民や戦争未亡人、在外韓国人たちが、南浦洞の露店で海産物の取引や加工を行い、「チャガルチ魚貝類処理場」と呼ばれたところに求められている。
1960年代、露店街は当局との間に摩擦も生じさせたが、1969年に露店主たちによって社団法人釜山魚貝類処理組合が結成され、海岸部の埋め立て地に1970年に3階建てのビルが建設されることで、露店群が市場として整備されるようになった。
1986年1月に改築を行ったあと、2006年8月、地下2階・地上7階の現在のビルに建て替えられた。



     昼食は「石焼きビビンパ」を賞味・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

53c7ae21石焼ビビンパ

朝がお粥だったので、腹もよく空いていたので「石焼きビビンパ」は、おいしくいただいた。
今回の旅行は、どこに行っても、日本人観光客は阪急交通社・トラピックスばかりだった。ここは商売熱心なので、急速に勢力を伸ばしている。
ただ別に起きた阪急系列ホテルの食品偽装事件のように、若干「儲け主義」の気味がある。

あと韓国食料品店に寄ったりして、釜山空港へ。 
16:00 アシアナ航空OZ146で、関西空港へ17:25 に到着。


たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき・・・・・・・・・・・・近藤芳美
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    たちまちに君の姿を霧とざし
        或る楽章をわれは思ひき・・・・・・・・・・・・近藤芳美


この歌は近藤芳美の、戦後まもなくに発表した「相聞」の歌として有名なものである。
作られたのは戦前で、とし子夫人との甘やかな新婚時代あるいは婚約中の交際時期のものであろうか。
『早春歌』昭和23年刊所載。
近藤芳美は東京工業大学出の建築家が本職。建築技師や大学教授などを務めた。
広島高等学校在学中に中村憲吉について「アララギ」入会。
戦後は新風十人などとして嘱望され、アララギの若き俊英と呼ばれる。
昭和26年短歌結社「未来」創刊、30年より朝日歌壇選者。近年、「未来」編集を岡井隆に譲る。
この歌のように、いかにもインテリらしい作風と処世の態度を一貫させてきた。
左翼運動さかんな頃も、それに共感を寄せつつも、それに溺れることはなかった。
また前衛短歌運動の時期も、ある一定の距離を置いて接してきた。
それらの運動の退潮期を経た今は、むしろ近藤芳美の生き方、処し方が自由な姿勢として評価されている。
以下、近藤芳美の歌を少し引く。

  落ちて来し羽虫をつぶせる製図紙のよごれを麺麭で拭く明くる朝に

  国論の統制されて行くさまが水際立てりと語り合ふのみ

  送りかへされ来し履歴書の皺つきしに鏝あてて又封筒に入る

  果物皿かかげふたたび入り来たる靴下はかぬ脚稚(をさな)けれ

  コンクリートの面にひそかに刻みおきしイニシヤルも深く土おほはれつ

  あらはなるうなじに流れ雪ふればささやき告ぐる妹の如しと

  手を垂れてキスを待ち居し表情の幼きを恋ひ別れ来りぬ

  果てしなき彼方に向ひて手旗うつ万葉集をうち止まぬかも

  鴎らがいだける趾の紅色に恥(やさ)しきことを吾は思へる

  営庭は夕潮時の水たまり処女(をとめ)の如く妻かへりゆく

  売れ残る夕刊の上石置けり雨の匂ひの立つ宵にして

  耳のうら接吻すれば匂ひたる少女なりしより過ぎし十年

  生き死にの事を互ひに知れる時或るものは技術を捨てて党にあり

  乗りこえて君らが理解し行くものを吾は苦しむ民衆の一語

  帰り来て踏まれし靴を拭くときに吾が背に妻は抱かむとする

  傍観を良心として生きし日々青春と呼ぶときもなかりき

  講座捨て党に行く老いし教授一人小さき一日の記事となるのみ

  身をかはし身をかはしつつ生き行くに言葉は痣の如く残らむ

  離党せむ苦しみも今日君は告げ売れざる暗き絵を置きて行く

  反戦ビラ白く投げられて散りつづく声なき夜の群集の上

  森くらくからまる網を逃れのがれひとつまぼろしの吾の黒豹
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近藤芳美は90歳を越えても現役歌人として大きな地歩を占めてきたが、2006年6月21日に亡くなった。
作品数も膨大なものである。上には初期の歌集『早春歌』『埃吹く街』『静かなる意思』『歴史』から引いた。
これらを読むだけでも、先に書いた近藤芳美の生き方が作品の上にも反映していることが読み取れるだろう。
私としても一時は「未来短歌会」に席を置いたものとして無関心では居られない。
事典に載る記事を下記に引いておく。
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近藤芳美
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年5月5日 - 2006年6月21日)は、日本の歌人である。

本名は近藤 芳美(読みは同じ)。戦後の歌壇を牽引する歌人として活躍し、文化功労者に選ばれた。長年「朝日歌壇」(朝日新聞)の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持つ。

生涯
1913年、父の赴任先であった旧朝鮮(現・大韓民国)・慶尚南道の馬山で出生。12歳で帰国し、父の郷里・広島市鉄砲町(現・広島市中区鉄砲町)で育つ。広島二中(現・広島観音高)時代の教師に影響を受け、短歌に関心を抱いた。旧制広島高校(現広島大学)在学中に、広島市近郊で療養中の歌人中村憲吉を訪ね、「アララギ」に入会、本格的に作歌を始めた。以後、中村及び土屋文明に師事した。

東京工業大学卒業後、清水建設に入社。設計技師として勤務する傍ら、アララギ同人としての活動を継続した。戦時中は中国戦線に召集された。終戦後の1947年、加藤克巳、宮柊二ら当時の若手歌人と「新歌人集団」を結成。同年、評論『新しき短歌の規定』を発表した。またこの頃、鹿児島寿蔵や山口茂吉、佐藤佐太郎らと共に「関東アララギ会」を結成している。

1948年、妻で歌人のとし子(本名=年子)への愛情などを綴った処女歌集『早春歌』を上梓。同年刊行の歌集『埃吹く街』と共に注目を集め、戦後派歌人の旗手としてのデビューを飾った。

1951年、岡井隆、吉田漱、細川謙三らと共にアララギ系短歌結社「未来短歌会」を結成、同時に歌誌『未来』を創刊し、これを主宰。石田比呂志、大田美和、道浦母都子など多くの歌人を育成した。また、現代歌人協会の設立に尽力し、1977年以来約15年に亘って同協会の理事長の任にあり続けた。神奈川大学の教授も務めた。

このほか、朝日新聞をはじめ、中国新聞、信濃毎日新聞などの短歌欄の選者として、市井の人々による短歌に対し積極的な評価を行った。殊に朝日新聞の「朝日歌壇」では、1955年から2005年1月まで約半世紀に亘って選者を務めた。

2000年から2001年にかけて、これまでの歌集や評論をまとめた『近藤芳美集』(全10巻、岩波書店)が刊行された。

2006年6月21日午前10時1分、心不全(毎日新聞によれば、前立腺癌)のため、東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去。93歳。遺志により、葬儀・告別式は親族のみで行い、後日未来短歌会主催による「しのぶ会」を開く予定。

思想
芯からの反戦主義者として知られる。自らの戦争体験から、平和を強く希求するようになった近藤は、終戦記念日に日本戦歿学生記念会(わだつみ会)が開催した反戦集会に参加するなど、戦争に反対する主張を一貫して展開した。その姿勢は自らの評論や短歌のみならず、新聞の短歌欄における選歌にも反映されており、「朝日歌壇」で彼が選ぶ歌の中には、反戦に関する作品が必ずといって良いほど含まれていた。教育現場での日の丸・君が代強制問題が浮上した時期には、強制に反対する立場から詠まれた歌を複数回採用している。 そのためか、朝日歌壇は一部の愛国者から「時事詠が多すぎる」と批判されている事もある。

年表
1913年 出生
1932年 「アララギ」に入会
1947年 「新歌人集団」を結成
評論『新しき短歌の規定』発表
1948年 歌集『早春歌』、『埃吹く街』を刊行
1951年 6月、歌誌『未来』を創刊、編集発行人に就任
1956年 現代歌人協会設立
1969年 『黒豹』(1968年)で第3回迢空賞を受賞
1977年 現代歌人協会理事長に就任(~1991年)
1986年 『祈念に』(1985年)で第1回詩歌文学館賞を受賞
1991年 『営為』(1990年)で第14回現代短歌大賞を受賞
「近藤芳美方」としていた『未来』発行所を、東京都中野区東中野に移転。同時に発行人名義を岡井隆に譲る
1994年 『希求』(1994年)で第6回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞
2006年 死去

近藤芳美の歌碑が此処にあるのでご覧あれ。彼の出身地である広島のことも書かれている。
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この掲出歌の対象と思われる「近藤とし子」夫人も、2010年秋に亡くなられた。
その件について、こんなツィッターがネット上に出ているので引いておく。

@caille2006
うずら

近藤年子氏、2日に死去。92歳。向山のご自宅によく芳美先生の原稿を頂きに伺った。
リリアン・ギッシュのような可憐な姿は「早春歌」の名歌「たちまちに君の姿を霧とざし」の「君」そのままだと思ったものだった。
06年に芳美先生が亡くなってからのお辛さが偲ばれる。楽になられただろうか。合掌。
11月4日 TweetMe for iPhoneから
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これによると2010/11/02に亡くなられたようだ。本名は年子だが、ペンネームは「とし子」だった。
ご夫妻の間には子供はなかったので、淋しい晩年だった、と思われる。ご冥福をお祈りする。

彼一語我一語秋深みかも・・・・・・・・・・・・・高浜虚子
05曽爾高原すすき

    彼一語我一語秋深みかも・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

「深み」の「み」は、形容詞の「深し(深い)」の末に添えて名詞化する接尾語で、「秋深み」は秋の深まった状態を言う。
天地の間に置かれた二人の人物。
一方がポツリと一語を発すると、もう一方も一語ポツリと返す。言うに言われぬ時が流れて、二人の男も、発した言葉も、深い秋のまつただなかにある。
『六百五十句』昭和30年刊所収。
高浜虚子は何と言っても俳句界の巨人であって、作句も多く、私も何回も採り上げてきた。
以下、重複しないように気をつけて虚子の句を少し引く。

    海に入りて生れかはらう朧月

    蚊帳越しに薬煮る母をかなしみつ

    ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
    ・・・・・9月14日。在修善寺。東洋城より電報あり。曰く、センセイノネコガシニタルヨサムカナ トヨ
         漱石の猫の訃を伝へたるものなり。返電。・・・・・(明治41年)

    春風や闘志いだきて丘に立つ

    露の幹静かに蝉の歩き居り

    冬帝先づ日をなげかけて駒ケ岳

    石ころも露けきものの一つかな

    道のべに阿波の遍路の墓あはれ

    鎌倉に実朝忌あり美しき

    我が生は淋しからずや日記買ふ

    風生と死の話して涼しさよ



帚木蓬生『白い夏の墓標』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート・・・初出Doblog2007/11/11──

     帚木蓬生『白い夏の墓標』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・新潮文庫16刷・初版昭和54年・・・・・・・・・・・

先日、同じ作者の『聖灰の暗号』を採り上げたが、多くの小説が書かれているので、引き続いて読んでみたいと思い、bk1から十数冊取り寄せた。
この小説は帚木の初期の作品で昭和54年(1979年)に新潮社から発表されたが「直木賞」候補に挙げられ注目を浴びている。
サスペンスの体裁を取りながら、採り上げているテーマが、いわゆる「細菌兵器」開発にまつわるということで、今日的意義を持っている。
細菌兵器開発といえば、古くは旧関東軍731部隊が知られているが、今でもアメリカをはじめ先進国でも、ひそかに開発が進められているらしい。
この小説は、「遺伝子」操作のことにも触れているように、極めて「身近な」危険性について考えさせる。
現代科学は、一体、われわれ人類をどこに連れてゆこうとしているのか、という不安をかきたてるが、利用の仕方ひとつで救世主にも悪魔にもなり得る現代科学の両面性を、この本は気づかせてくれる。

筋書きは、肝炎ウィルス国際会議に出席すべくパリを訪れた北東大学の教授、佐伯をストーリー・テラーとして、フランスおよびピレネー山中の小国アンドールを舞台に展開してゆく。
主人公は、仙台型肺炎ウィルス、いわゆる「仙台ヴァイラス」の研究で、米軍にその能力を買われて渡米した若き細菌学徒「黒田武彦」である。彼は発表した英文の論文を米軍によって発見され、細菌兵器開発のために「仙台ヴァイラス」株と一緒に連れ去られ、ピレネー山中の小国「アンドール」にある研究所に詰め込まれる。
研究者が発見し開発した「培地」が、大学からも強引に持ち去られたのには、日本の敗戦後数年という時期が関係していて占領軍である米軍の「強権」によるものである。
米軍が目をつけたのは、黒田の開発した「細胞融合」という手法にあった。
そして黒田は、その地でいったい何を研究していたのか?その結果いかなる運命に巻き込まれたのか?彼の死をめぐる真相は?

興味津々たるそれらの謎を、作者は佐伯の目を通して一枚、一枚はぎとってゆく。パリにおける佐伯とベルナール(黒田の所属した研究所の所長だった)との邂逅、佐伯と黒田との学生時代へのフラッシュバック、次いで舞台は現代に戻り、佐伯のウスト(ピレネー山中の現地)行き、一転して「黒田の手記」という形で、謎の核心が語られてゆく。

見所は、何と言っても第4章に登場する「黒田の手記」だろう。そこでわれわれは、ウイルスに憑かれた一人の男の秘められた生い立ちを知ることになる。<ウイルスは人間よりもきれいだ>と言い切るまでに至った男の苦闘をかいまみることになる。そこで暴露される細菌兵器開発の実態は、人類に背を向けた「逆立ちした科学」の不条理を明瞭に物語っていると言える。現代科学の暗い狭間に身を置いた黒田の「煩悶」が描かれる。
『聖灰の暗号』でも「マルティの手稿」なるものが、重要なキーになっていたが、帚木は、こういう主人公の「手記」なるもののプロットという手法を得意としているようだ。

物語は後半、黒田の死をめぐる真相に焦点が絞られる。アンドールの病院における黒田とジゼル・ヴィヴの出会い、二人の恋、そして決死の脱出行、など。

帚木は東京大学文学部仏文科を出ているのでフランス語には堪能で、小説の舞台にもフランスは、先の『聖灰の暗号』同様たびたび出てくる。
この小説でもフランス南西部の、いわゆる「カタリ派」の舞台が登場し、カタリ派のことにも、さらっとだが触れられる。「モンセギュール」の山も出てくる。『聖灰の暗号』では重要な場所であるが、ほぼ30年のちに書かれる小説の素材というか、素地が、すでにこの小説に「芽生えて」いることは興味深い。
「アンドール」という国名は、「アンドラ公国」として私たちが知っている国であろうか、アンドールとは、この国のフランス語読みの発音であろう。

時代と切り結ぶ先鋭なテーマ、それを生かす緊密な「プロット」と、清冽な文体──欧米の優れたミステリーのように、プラス・アルファの面白さを備えた、知的なエンターテイメント・ノヴェルと言えるだろう。
先にも書いたが帚木は、フランス文学を専攻後にTBSに勤めたのち、九州大学医学部に入り直し、医学を修めているから医学の知識も豊富で、付け刃でない緊密性のある文体を書ける人である。今は「精神科医」として開業しているようだ。
一年に一作という節度のある執筆態度も、好ましい。 いい小説である。


岸原さや歌集『声、あるいは音のような』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
岸原さや

──新・読書ノート──

      岸原さや歌集『声、あるいは音のような』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・書肆侃侃房2013/09/30刊・・・・・・・・

この歌集は岸原さやさんの第一歌集である。
著者略歴
静岡県三島市に生まれる。
早稲田大学教育学部国語国文科卒。以後東京に在住。
2006年、短歌をつくりはじめる。
2007年、未来短歌会に入会、加藤治郎に師事。
ブログ「さやかな岸辺」http://blog.goo.ne.jp/kishisaya/arcv

年齢は書いてないので判らない。
彼女とは、三井修編集の短歌誌「りいふ」で知り合った。
2012年七月、私の第五歌集『昭和』読む会を東京で開いてもらった際に「りいふ」誌を知り、そこに載る彼女の歌を私のブログに紹介した縁による。
若い人たちの歌を読むのは気持がいい。
先ず、この「声、あるいは音のような」という題名の付け方が今風の短歌らしくて、清々しい。
この題名は、この歌集一巻を通底する雰囲気を、如実に表している。
この本は、書肆侃侃房版「新鋭短歌」シリーズ第一期全12冊の九番目として刊行された。
監修は加藤治郎と東直子の二人である。
彼女の師匠である加藤治郎が「解説」を書いているので、先ず、それを引いておく。

       解説   薄闇に      加藤治郎

  ふみふみと泣く子の夢を今日も見たふみふみとただふみふみと泣く    「かなしくなくて」

ふと立ち止まる。歌というよりも音だった。夢のことだから何もわからない。その子はだれな
のか。なぜ泣いているか、わかるはずもない。ただ泣いている。
いくたびもその子は夢にやってくる。いつも同じ姿だ。うずくまっているように思われる。童
話の挿絵のような泣きかたである。
ふみふみという音が沁みてくる。泣き声のような、しぐさのような、ただかなしみだけが,伝わ
つてくる。
読者は自分の姿を映せばいい。あまりにつらい日々である。世の雨風を想像することも自由だ。
ざりがにの眠りを見たの横むきに浮いて眠るの深夜の水槽       「  貯蔵庫」
薄闇に(ほんとはね)って言いかけて、ふっと(ほんとう)わからなくなる      同
信号を待つひとならぶ街路樹のひとつひとつに小さな柩         「むかし海で」
遠い夏くすりの糖衣なめました 苦いところにとどくすれすれ         「薬壜」

Ⅰ から引いた。うすぼんやりした世界である。そこは、眠りと死が混じり合っている。境界が
あいまいである。濃い闇ではない。かすかな光がある。
ざりがにの眠り。横むきに浮いて眠っている。不思議な姿である。夢を見ないものにとって、
眠りと死は等しいのではないだろうか。そこはただ暗がりである。では、あなたは夢を見ますか。
わたしは、どこにいるのか。薄闇とはどこか。(ほんとはね)というのは、わたしのつぶやき
らしい。でもまだ声にはなっていない。言いかけた言葉である。すると(ほんとう)と返ってき
た。ほんとはね、こうなんだよ…と言う前に(ほんとう)と聞こえたのだ。だれが答えたのかさ
えもわからない。意識が霞んでいる。
信号と街路樹。曰常的なスケッチである。大勢の人が信号が変わるのを待っている。街路樹の
葉が柩にみえたのか。おそらくそうではないだろう。どの街路樹にも小さな柩があったのだ。ず
っと続く街路樹。いうまでもなく、どこにでも死はある。いかなる生も一瞬で終るのだ。たから
通行人の数だけ柩は用意されている。
 遠い夏。病といえば、風邪か腹痛しか知らないころのことだ。糖衣錠をなめている。ほんのり
甘い。でも、やがて薬が剝き出しになることを知っている。苦いところがあるのだ。もう少しな
めていてもいい。まだ、いい。すれすれのところまで行けるのだ。糖衣を越えた苦いところが闇
なのである。

    二〇〇九年一月二十四日、笹井宏之急逝。
  件名は「訃報」の二文字 ひらいても閉じても消えない訃報の二文字    「真っ白」
  声だった、とても静かな声だった。楡の木蔭の泉のような            同
    三月十五日、零時過ぎ。
  あたたかいまだあたたかいから耳の奥へ声さし入れる、おかあさん     「七日間」
  オルガンの和音をさがすでたらめな幼いゆびを母は咎めず            同
  入る門 出る門うすい闇のなか鈍色をして立っているのか            同

本歌集は、Ⅱで転調する。かけがえのない二人の死が、だしぬけに訪れたのだ。笹井宏之さん
と母親の死である。
二〇〇九年一月二十四日、笹井宏之さんの訃報。一期一会となった『ひとさらい』の批評会を
思い起こす。博多で開かれた会だった。静か声が耳に残っていたのである。
わたしは、仲間とともに「彼井宏之を傯ぶ会」を準備する。三月十四日、その会場の下見の日に
知らせがあった。母が飛び降りたというのだ。三月十五日「おかあさん」という声を母の最期
に捧げる。なんという七日間だろう。三月二十日「整井宏之を偲ぶ会」がとり行われたのである。
事実をつなげるとこうなる。二人の死が交差したのである。劇的な調子はむしろ抑えられた一
連である。背後に、かなしみはひっそりとある。母の死の無念は紛れない。それは声高に語られ
ることはなく、韻律に滲んでいる。オルガンを弾く幼い指を母は見つめていた。和音という言葉
の穏やかさが救いになっている。

  耳につよく受話器をあてる震災のきみのいのちにつながりたくて       「哭いてるひと」
  僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむる、へんにあかるい共同墓地で    「ホログラフィ—」
  噴水のつぶつぶのようわたしたち落ちてふたたび噴きあがるみず        「花と火と水」
  ほんとうは苦しかつたと言えばいい野菜室には乾いた葱が           「アマリリス」
  空洞も友となりゆくゆうぐれに濡れたドロップいろの信号            「さみどりの葦」

 Ⅲ から引いた。歌が成熟したように思う。 I と比べて「僕たち」「わたしたち」という意識が
現れている点に注目したい。連带というほど強固なものではない。おそらく、それは他者を願い
求める心だろう。
 東日本大震災のとき、通信が途絶えた。当たり前のように享受していたコミュニケーシヨンが
実は脆いものであることを知ったのである。それゆえ、きみの声が聞こえたときの喜びは大きか
った。繋がりたいのは、きみのいのちそのものであることを知ったのである。
 共同墓地というのは、この歌集の中では、痛烈な批評である。共同墓地で生きるという奇妙な
捻じれは絵空事ではない。
 わたしたちが「ふたたび噴きあがるみず」であることに希望を抱きながら、この歌集を閉じて
よいだろうか。たぶん、よいだろう。苦しみを言い放つところから始めればよい。 そういうとこ
ろに出口を見つけたのだ。
 この歌集が多くの読者に届くことを願っている。
     二〇一三年八月三十一日

加藤治郎の「解説」の全文を引いた。
ここには、この歌集の要約が、ほぼ完全な形でなされていると思う。
私が下手な鑑賞を書くまでもない。
以下、私の目に止まった歌をいくつか引いて終わりたい。

  かなしみがかなしくなくてくるしみもくるしくなくて熱だけのある

  胸にある祈りのような白きもの そっとそっと光のなかへ

  悲の器 愛の器 無の器 うつわでしかなかったわたくし

  聖なるかなこのちっぽけなわたくしをひえびえ紡ぐ天体運行図(ホロスコープ)に

  きみのもつきみの記憶が懐かしいラピスラズリの青の手触り

  果てたあとのきみの胸うつ鼓動きく どっどっどっどっ 生きている音

  茫として歯科医の椅子で薬壜の紺と緑に魅せられいてる

  もとめては淡く遠のく繭いろのひかりのほうへ精霊飛蝗

  いつからか手のとどかない白濁の領域があり空を見ている

  件名は「訃報」の二文字 ひらいても閉じても消えない訃報の二文字

  胸にいつか兆していた雲「飛び降りた!」父の電話のうわずった声

  あたたかいまだあたたかいから耳の奥へ声さし入れる、おかあさん

  夏季休暇ほそく削った鉛筆で辺境の名を白地図に書く

  あおむけに転倒をしたペンギンの取りもどせない空の青さよ

  やわらかなめまいが今朝もおとずれて耳の螺旋におりくる微風

  少年が昆虫図鑑をめくりゆく音が響いて木の図書室は

  きみはもうとおい烈風パラソルを飛ばして海へなだれていった

  雪うさぎの親子がいてね、ひもじくて雪を掘っては根をかじるのよ

  終了のタブをクリック(シヤットダウンしています)しています しています

  朝ひらく放射線量予測地図いびつな舌のその下にいる

  やすらかに死ねなかった人たちがあちら側から見るホログラフィー

  ぼたん雪 降りしきるおと傘にうけ人材派遣の登録にゆく

  納期まで二ケ月を切るぼむぼむと新たな人が雇われ増える

  残業が多くなる日々貼り紙に「スピード!スピード!スピード!スピード!」

  新しい求人情報、履歴書を書き直しまた書きなおす夜

  まだ海をみたことのない猫が聴く 波のCD すこし睡ろう

  たえまない削除と更新、センターを十九時に発つ長距離トラック

  枯れ葦をつつむかたちに萌えているさみどりの葦、鳥はいますか

  ひっそりとなにかが終わり夜があける名づけられない世界を生きる

彼女は I T 業界で、情報処理のような仕事をしているらしい。いくらかでも彼女の実像に迫れるような歌を選んでみた。
「派遣社員」のような立場に居るようである。
そんな、ふわふわした存在感が歌のあちこちに浮遊している。
今の若い人の歌には、そういう「実体の捉えどころのない」詠い方が多い。
ぴしり、と断定しないような歌作りと言ってもいいだろう。
そういう歌作りは、彼女の実生活が詠わせるのである。
この歌集の「あとがき」で、彼女は、こう書く。

   <声にならない声がふと洩れるようにして始まったもの。
    それが私にとっての短歌でした。>

この彼女自身による「要約」こそ、この一巻の性格をぴったりと言い表している、と私は思う。
掲出した「帯」文に、加藤治郎が

  <きみの歌声が聞こえる。
   ここが、私たちの辿り着いた世界である。
   現代の生きる悲しみを綴った珠玉の作品集。>

と書く所以である。
この一巻は「ひらがな書き」を多用したもので、これも今の若い人の作品に見られる現象である。
今の世の中では、街中の医院の看板に見られるように、平易な漢字でも「ひらがな」書きにする傾向がある。
例えば、「田中外科」→「たなか外科」、「上村内科」→「うえむら内科」、「堀内医院」→「ほりうち医院」など。
私は、韓国で新聞などが「漢字ハングル混じり文」にしないで、ハングル文字のみで記事を書くようなのと似ていると思う。

私は、この歌集作りで、「古事記」の一文や、「村上春樹」の文章が「挿入」されているのに好感を持った。
実は私にも、そういう傾向があるからで、同好の人を得たような感じを持ったことを言っておきたい。
ここにも彼女の豊富な読書の蓄積を見る思いがするのである。

私の引いた歌には、加藤治郎が触れた歌、「帯」に引かれた歌は、なるべく引かないようにしたが、加藤治郎の引いた歌などに、この歌集の特徴がよく出ているのを言っておきたい。
加藤治郎の言うように「珠玉」の一巻だった。 ご恵贈に感謝して拙い鑑賞を終わる。 今後のご健筆を。

(お断り)
加藤治郎の文はスキャナで取り込んだのだが、スキャナはどうしても「文字化け」が生じる。
子細に修正したが、まだあれば指摘してください。 すぐに直します。 よろしく。




驢馬の背に横座りしてゆく老婦大き乳房の山羊を牽きつつ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──ギリシア紀行(2)──

  驢馬の背に横座りしてゆく老婦
   大き乳房の山羊を牽きつつ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


昨日付けで載せたものの続きである。
繰り返しておくと私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に「エーゲ海」の一連15首として載せたものである。
この旅は2002年6/26から7/7に行ったものである。
私のWebのHP「エーゲ海の午睡」に詳しい。
この歌の前後の歌を引いておく。

  鄙びたる小さき教会と風車一基丘の高みの碧空に立つ

  どの家も真白にペンキ塗りあげて窓枠は青エーギアン・ブルー

  歩く我に気づきて「やあ」といふごとく片手を挙ぐる戸口の老は

  戸口の椅子二つに坐る老夫婦その顔の皺が語る年輪

  愛よ恋よといふ齢こえて枯淡の境地青い戸口の椅子に坐る二人


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掲出した写真二枚について、何も説明を要しないだろう。先に写真があって、それを見ながら、これらの歌が出来たということである。
この歌の場面は、ミコノス島で私ひとりで島の坂道を散歩したものである。

↓ その他のミコノス島の風景写真を出しておく。
Mykonos_windmills.jpg
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ミコノス島は、町の反対側が「ヌーディスト」の浜パラダイスビーチとしてヨーロッパに有名で、各国から裸を見せびらかしたい連中が、やって来る。
ただし、この写真は私の撮ったものではない。 ↓
Essey91g.jpg

次の歌は2首だけだが、それを描いた歌である。

  ミコノスの浜べはヌーディスト陽を浴びる美女の乳房の白い双丘

  男も女も一糸まとはずとりどりの恥毛光らせ浜辺を歩く


残りのギリシア各地の歌と写真は、また折をみて載せたい。
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「ミコノス島」については、このWikipediaの記事を参照されたい。まだ書きかけの段階だが。。。


クレタ人ゑがける海豚つぶらなる目をしてゐたり四千年経て・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──ギリシア紀行(1)──

  クレタ人ゑがける海豚(いるか)つぶらなる
   目をしてゐたり四千年経て・・・・・・・・・・・・・木村草弥


Web上のHP「エーゲ海の午睡」には詳しく載せているが、この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に「エーゲ海」の一連15首として載せたものである。
自選60首にも入れているのでWeb上でもご覧いただける。

掲出の絵は有名な壁画で「ミノア文明」期のものである。
この歌の前後には

  海の民クレタ人築きし文明のクノッソス宮殿あをぞらの下

  描けるは海豚五頭の壁画なりはるばる逢ひに来し我なるか

  海豚はも人なつつこく寄るものぞミノアの世にも今の時代も


が並んでいる。この壁画は現在は剥されてクレタ島の「イラクリオン考古学博物館」に展示されている。
元の絵にはイルカが五頭いるが、絵が小さくなりすぎるので二頭だけにした。
これらの歌のつづきには

  牛頭の酒杯(リュトン)に光る金の角凍石製は三千六百年前

が載っている。

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写真②が、それである。これも同じ博物館に、大きなもの、小さいものなど膨大な数の展示品とともに並んでいる。
この博物館は好きな人には何日かかっても見飽きない見事なものである。これらについては先に書いたWebのHP「エーゲ海の午睡」に詳しい。
ギリシアについては本土の古代ギリシアの文物もいいが、エーゲ海の各地に散らばる歴史的文物も蒙を啓かれる。

このエーゲ海への旅は2002年6/26から7/7まで日通旅行の主催でタイ航空ビジネスクラス利用で、途中からはイタリア船籍の客船で島々を巡ったものである。
この一連の最後は、次の歌でしめくくっている。

  ミノア人の統べし多島(エーゲ)海はこぞりたつ文明のはざまの交差点たり

  線文字Aいまだ解読されずして渦巻く象形《フェストスの円盤》

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「クレタ島」については、このWikipediaの記事に詳しい。
なお「イラクリオン考古学博物館」について ↓ の動画を出しておくが、ここでの重要な物について余り触れられていないのが残念だが一応出しておく。


他にも色々と紀行文が出ているが一長一短がある。
「和田フォト」というサイトなどは写真も大きく美しいが、採り上げる対象に偏りがあるがご覧あれ。



帚木蓬生『聖灰の暗号』上・下・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート・初出Doblog2007/11/03──

     帚木蓬生『聖灰の暗号』上・下・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・・新潮社2007/07刊・・・・・・・・・・

この小説で採り上げられている「カタリ派」なるものについては私の歌に

   金雀枝は黄に盛れどもカタリ派が暴虐うけしアルビの野なる・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載る。
カタリ派については2009/05/19に記事を載せたので、ご覧いただきたい。

先ずはじめに彼の経歴を引いておく。
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帚木蓬生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

帚木 蓬生(ははきぎ ほうせい、1947年1月22日 - )は、日本の小説家、精神科医。福岡県小郡市生まれ。本名、森山 成彬(もりやま なりあきら)。
東京大学文学部仏文科卒、九州大学医学部卒。ペンネームは、『源氏物語』五十四帖の巻名「帚木」と「蓬生」から。

経歴
東京大学仏文科時代は剣道部員、卒業後TBSに勤務。退職後九州大学医学部を経て精神科医に。その傍らで執筆活動に励む。1979年、『白い夏の墓標』で注目を集める。1992年、『三たびの海峡』で第14回吉川英治文学新人賞受賞。八幡厚生病院診療部長を務める。現在は、福岡県中間市にて「通谷メンタルクリニック」を開業。開業医として診察をしながら、人間の心と社会倫理を鋭く射抜く、ヒューマニズムあふれる作品を世に出し続けている。

医学に関わる作品が多く、また自身(精神科医)の立場から『ギャンブル依存とたたかう』を上梓している。

2008年に急性骨髄性白血病に罹り、半年間の入院生活を余儀なくされた。現在は復帰している。

受賞歴
1975年 - 『頭蓋に立つ旗』で第6回九州沖縄芸術祭文学賞
1990年 - 『賞の柩』で第3回日本推理サスペンス大賞佳作
1992年 - 『三たびの海峡』で第14回吉川英治文学新人賞
1995年 - 『閉鎖病棟』で第8回山本周五郎賞
1995年 - 福岡県文化賞
1997年 - 『逃亡』で第10回柴田錬三郎賞
2010年 『水神』で新田次郎文学賞

著書
白い夏の墓標 1979年4月 新潮社 / 1983年1月 新潮文庫)
十二年目の映像(1981年6月 新潮社 / 1986年1月 新潮文庫)
カシスの舞い(1983年10月 新潮社 / 1986年11月 新潮文庫)
空(クウ)の色紙(1985年2月 新潮社 / 1997年12月 新潮文庫)
賞の柩(1990年12月 新潮社 / 1996年2月 新潮文庫)
アフリカの蹄(1992年3月 講談社 / 1997年7月 講談社文庫)
三たびの海峡(1992年4月 新潮社 / 1995年8月 新潮文庫)
臓器農場(1993年5月 新潮社 / 1996年8月 新潮文庫)
閉鎖病棟 1994年4月 新潮社 / 1997年5月 新潮文庫)
空夜(1995年4月 講談社 / 1998年4月 講談社文庫)
総統(ヒトラー)の防具(1996年4月 日本経済新聞出版社 / 1999年5月 新潮文庫 上下巻 改題『ヒトラーの防具』)
逃亡(1997年5月 新潮社 / 2000年8月 新潮文庫 上下巻)
受精(1998年6月 角川書店 / 2001年9月 角川文庫)
安楽病棟(1999年4月 新潮社 / 2001年10月 新潮文庫)
空山(2000年6月 講談社 / 2003年6月 講談社文庫)
薔薇窓(2001年6月 新潮社 / 2004年1月 新潮文庫 上下巻)
エンブリオ(2002年7月 集英社 / 2005年10月 集英社文庫 上下巻)
国銅(2003年6月 新潮社 / 2006年3月 新潮文庫 上下巻)
アフリカの瞳(2004年7月 講談社 / 2007年7月 講談社文庫)
ギャンブル依存とたたかう(2004年11月 新潮選書)
千日紅の恋人(2005年8月 新潮社 / 2008年4月 新潮文庫)
受命(2006年6月 角川書店 / 2009年9月 角川文庫)
聖灰の暗号(2007年7月 新潮社 / 2010年1月 新潮文庫 上下巻)
インターセックス(2008年8月 集英社)
風花病棟(2009年1月 新潮社)
水神(2009年8月 新潮社 上下巻)
ソルハ(2010年4月 あかね書房)
やめられない ギャンブル地獄からの生還(2010年9月 集英社)
蠅の帝国 軍医たちの黙示録(2011年7月 新潮社)

翻訳
精神医学の二十世紀 ピエール・ピショー 大西守共訳 新潮選書 1999.10

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内容(「MARC」データベースより)
南フランスのピレネー山麓にその古文書は眠っていた…。謎めいた文字が躍る羊皮紙、行間に滲む火刑審問、声なき叫び。「手稿」が長き眠りから目を覚ます時、ヴァチカンの闇が再び動く。人間の救済と信仰の真実を問う歴史大作。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
読み始めると止まらないくらい面白い。ハハキギはいつも道具立てが秀逸で、登場人物がちょっと不思議なんだけど、今回も若干その傾向。とはいえ、主人公の須貝明は行動力もあるし、周辺人物も魅力的で、交流もよく描かれている。フランスの食べ物もおいしそうだし。

初めのうち、主人公の行動にどうも疑問が残った。新発見の重大な証拠となる古文書を保全しようとしないとか、そのために関係の無い人を巻き込んでも余り動揺していないところとか。言い訳は、何よりも700年前の悲痛な叫びに突き動かされて、第二,第三の手稿を探し求めずにはいられなかったということらしいのだが。

でも、それも半分くらいはうなずけるほどに、古い手稿の記述が迫力に満ちていたため、途中からは気にならなくなった。異端として拷問にかけられたカタリ派の聖職者たちの火を噴くような舌鋒が克明に記されて、胸に深く突き刺さる。これが全くの創作であるなら、作者はよほど深くキリスト教とカタリ派の教義を研究したにちがいない。

カタリ派はキリストの復活を信じないのが異端とされた最大の理由らしいが、彼らの言葉はどれも確信に満ちている。
「父と子そして聖霊が人の肉体の形を取ることはありえない」
「この世にあるすべての目に見えるものは、神の意志や栄光をあらわすものではなく、教会も礼拝堂も、その他もろもろの城と同じく、神とはゆかりのないものであり、祈りは洞窟の中、小屋の内、森の空地でなされるべきもの」
として、その理由をよどみなく何ヶ所も聖書の中から引いて語る、情熱に満ちた博識。

中でも、審問の記録係を務めてその問答を聞くドミニコ会修道士レイモン・マルティの胸に深く響いた「神の社はあなたの中にある。野にいても山にいても、町の中にいても」という言葉のすがすがしい単純さは、読み手の胸をも深く打つ。これが信仰の核心でなくて何だろう。この原点から離れてしまった宗教がどれほど多いことか。というより、宗教は何とたやすく原点から離れてしまいがちなものか。

常にその警鐘を鳴らしながら物語は進んでいく。カタリ派の聖職者<良き人(ボノム)>であるアルノー・ロジェそしてピエール・サンスと、審問の記録係であるマルティとのひそやかな交流は、息を呑むクライマックス。特に、最後の<良き人>ピエール・サンスとの場面は、互いに心の寄り添うもので、胸に迫る。

ミステリとしての完結はあっさりしたものなのだが、古文書の探索と謎解きだけでも十分に面白い。かつ、その古文書には信仰の本質にかかわる大きなドラマが幾つも書き記されているので、上下巻を読み通すと、単なるミステリにとどまらない深い感情が揺り起こされ、激しく熱い信仰のまっすぐな姿に触れたかのように粛然とする思いが残った。
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この小説中にも書かれていることだが、「カタリ派」という呼び方は、カタリ派が自称したものではない。
ローマ教会が押し付けたものである。
語源はドイツ語の Ketter だと目されている。<神から愛される者>という意味がそこにこめられていた。当時のイタリアではそれを Cathare と呼んだので、弾圧と審問の過程でその呼び名が定着してしまったという。
カタリ派信仰の萌芽は10世紀で、小アジアやシチリア島、ドイツで起こったと考えられている。当初からカタリ派の聖職者はローマ教会の司祭とは異なり、現在のギリシア正教と似て長髪で髭を生やしていた。実生活では独身を通し、菜食を厳守し、祈りと肉体労働の日々を送った。形式と権威だけにしがみついていたローマ教会に、人々はもう「信」を置かなくなったのが十世紀で、ここにカタリ派が生長する下地が出来ていたと言えよう。
──完全な信仰者になりたければ、行きなさい。お前の所有する物をすべて売り、貧しい者に与えなさい。そうすればお前は天に財宝を築くだろう。来なさい、私に従うのです。──余りにも有名な「マタイによる福音書」の一節だが、カタリ派の聖職者はこの聖句そのものの生活をし、信徒たちもその生活信条を理想とするようになったという。
信徒に男女の区別がなく、聖職者にも女の人が就いていた。

小説の題名の「聖灰」とは、処刑された聖職者アルノー・ロジェとピエール・サンスの、火あぶりにされて燃やされた「遺灰」のことを指す。
全体はドミニコ会の修道僧で、カタリ派として処刑された人を父母に持ちながら、火あぶりの刑の通訳をさせられたレイモン・マルティの三つの「手稿」と共に暗号として隠されるという筋書きなのだった。
上巻の扉のところに名前が明記されているが、

 A Patrick
30年前共にモンセギュールに登って以来、
カタリ派の哀しみを語り続けたその熱意が
なければ、本書は成らなかった。

のようにパトリックのカタリ派に対する執念が、この書を書かせたということである。

上に引いたWikipediaの記事には書かれていないが、彼の経歴として下記のことは欠かせない。

79~80年、フランス政府給費留学生としてマルセイユ・聖マルグリット病院神経精神科、80~81年、パリ病院外国人レジデントとしてサンタンヌ病院精神科で研修。

ということである。フランス語と医学について精通していることが、その後の彼の著作の基礎になっているのである。


和 訶 羅 河・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 木津川に架かる「流れ橋」(上津屋橋) (文中に説明あり)
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↑ 京田辺校地にある同志社大学ラーネッド記念図書館

──エッセイ──

    和 訶 羅 河・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
     
私は運動のために木津川堤をほぼ毎日ウォーキングする。
私の住いは東岸にあるので、徒歩の場合は専ら東岸のみだが、自転車の場合は西岸も使って「流れ橋」を渡って往復十数キロを動く。
この西岸は北は嵐山から南は木津まで三十キロ余りがサイクリング路として整備されている。
因みに「流れ橋」とは洪水の時も材木が流失しないように金綱で連結してある。
欄干がない橋桁だけの木橋で時代劇の撮影によく使われるので有名。

木津川は三重県に源流を発し奈良県境から京都府に入り、琵琶湖を源とする宇治川と京都盆地北部を源とする桂川と三川合流して、淀川と名前を変えて大阪府へ入り大阪湾に達する。
見出しに見慣れない「和訶羅河」(わからがわ)と書いたが、これが木津川の一番古い名称である。
古事記中巻・崇神天皇の条、建波邇安王(たけはにやす・おう)の反逆の記事中にみえる。(日本書紀には輪韓河と表記される)。
一般的には木津川の古名は「泉川」あるいは「山背川」(やましろがわ)として知られるが、それより古い呼び名があったと知ったのは最近のことである。
ただしこの名称が何に由来するかは、まだ知らない。
付け加えておくと「山背国」という呼称が「山城国」と表記されるのは、桓武天皇による平安京建都以後のことであるので、ご留意を。

 わが「山城盆地」は大和盆地に隣接し、淀川を通じて瀬戸内海とつながり、琵琶湖を通じて丹後、北陸と通じる交通の要衝であり、朝鮮半島から渡来する文明が早くから到達した地域であった。
南山城には「上狛」「高麗」などの地名が現存し渡来人の有力者が居住していたことが判る。

 木津川西岸の京田辺市の丘陵地(天神山古墳と言われる)には先年、同志社女子大学の全学部、同志社大学工学部、同志社大学の一、二年生(教養課程)の田辺キャンパスが開校し、
木津川堤からは赤褐色の煉瓦建の校舎が、よく見える。一きわ高く尖塔の見えるのは女子大学のチャペルである。
もっとも、私立大学のこういう郊外地に新キャンパスを立地させる動きは地価の落着きとともに創立地に回帰する動きが首都圏でもあり、
同志社大学でも創立地である今出川校地の周辺を買収して、回帰する傾向にあり、同志社大学の教養課程も今出川校地に戻ることになっている。
女子大学も恐らく今出川校地に戻るだろう。
とすると、京田辺校地には工学部と、今もある帰国子女のための同志社国際高校と、これから新設される理工系、医系学部などが立地するものと思われる。

 この丘陵地には古代には筒城宮(つつきのみや)が在ったとされており、この宮は継体天皇の宮都が置かれていた所と言われている。
継体天皇は即位までに河内、筒城宮、大和と長い年月をかけて大和に入ったという、謎の多い天皇である。

PN2009080801000466_-_-_CI0003イタセンパラ
↑ 二枚貝に産卵しようとするイタセンパラ
参考までに、木津川、淀川には「イタセンパラ」という絶滅危惧種の淡水魚が「わんど」という岸辺の窪みに生息していると言われている画像を出しておく。

 私の日々の散歩コースからの雑感である。
(このエッセイは短歌結社「地中海」誌2004年一月号のエッセイ欄「送風塔」に載せたものに加筆した)
以下に、この堤防に因む私の旧作(ただし未発表)を掲げておく。

        木津川堤・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  日々あゆむ我が散歩みち歩数計が八千五百を示せば戻る

  狼煙(のろし)台がありしと聞けり飯岡(いのをか)は木津川に張り出だしたる丘

  イタセンパラは絶滅危惧種の魚なり木津川の<わんど>の潜みゐるといふ

  あまたなる謎の遍歴ありしとぞ継体天皇の筒城宮(つつきのみや)跡

  筒城宮ありたる辺り同志社女子大学の赭 (あか)きチャペル見ゆ

  小春日を浴びつつ展(ひら)く茶畑に茶の花白く咲き初めにけり

  「三川合流点から十三km」木津川の堤防の標(しるべ)よぎりつつゆく

  三川合流すなはち宇治川、桂川、木津川あひ合ふ地点いふなり

  音如ケ谷瓦窯(おんじょがたにごよう)跡あり平城(なら)京の瓦を焼きし跡と伝ふる

  窯跡は相楽台なる新興の大住宅地に囲まれにけり

  黒木美千代住む住宅地すぎゆけば楢の並木の黄葉つもる

  丸瓦軒平瓦鬼瓦刻印瓦、ヘラ書き瓦ありき

  古書しるす一貫百文、瓦窯二烟作工七十九人功人別十四文

           八幡、西山廃寺出土
  瓦焼く職人の戯画線刻の人面と名前裏面に残す



芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ・・・・・・・・・・・・・・・長塚節
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    芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ
       子芋は白く凝りつつあらむ・・・・・・・・・・・・・・・長塚節


長塚節は正岡子規の高弟。
初期「アララギ」を伊藤左千夫とともに主導した歌人・小説家。茨城県に旧家の地主の長男として生まれ、育った。結核のため36歳で没。
写生の歌に独自の境地を開き、鋭い観察と冴えた感覚には完成された風格があった。

掲出の歌は里芋の葉から地面に落ちつづける夜の露。その白玉の露がしみて、地中の芋は白く輝きながら実りつつあるだろう、という。
地中を凝視する目と想像力がもたらした印象鮮やかな歌。
ただ「芋」というと里芋のことである。
里芋は学名を Colocasia antiquorum var. esculenta というが、インドからマレーシアにかけての南アジアが原産地。
ミクロネシアなど南方に広がったタロイモは、その野生種に近いと言われる。
サトイモの方は、寒さに適応してアジア北部まで広がった品種で、中国では紀元前から栽培の記録あり。
日本では稲作が始まった時期よりも古く、縄文中期から栽培されたと考えられる。
つまり古代日本では、サトイモ栽培が稲作と共存していたが、連作が効かないサトイモに対して、
一度田んぼを作ると毎年連作できる稲作の方が日本の国土に合っていたのだろう。稲作が出来ない畑地などに、ようやく生き残ってきた。
東北地方で河原などで開かれる「芋煮会」の芋というのもサトイモのこと。むかしはサトイモはよく食べられた。
種芋を植えて親芋として太らせ、子芋、孫芋を増殖させて10月に収穫する。

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地方によって呼び方は違うと思うが、関西では写真(2)を「子芋」と呼ぶ。

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写真(3)は子芋の味噌和えの煮付けだが、子芋自体は甘みもない淡白なものなので、どんな料理にも合う反面、特徴のある味ではないので、人すきずきである。
親芋は京都では「頭(かしら)芋」と言い、お正月の雑煮に入れて、一家の家長に「頭にふさわしく」と言って食べさせるが、余りうまいものではない。
「衣被(きぬかつぎ)」というのは皮のついたままの子芋を茹でたもの。
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写真(4)(5)にサトイモの調理例を出しておく。(4)はサトイモと鶏肉の煮付け、(5)は鶏肉ミンチとのそぼろあんかけである。
サトイモが調理上嫌われるのは手がかゆくなるヌルヌルのためだが、その正体は蓚酸カルシウムの針状結晶のしわざ。
皮をむくときに皮膚について刺激する。茹でれば問題ないが、防御としては芋をむくときに、手に酢か塩をつけること。
濡らしたキッチンタオルで皮ごと一つ一つくるんで電子レンジにかけてから皮をむくとよい。
この一見やっかいな里芋のヌルヌルにはガラクタンという脳細胞を活発にする物質や消化酵素が含まれているので体によいものであるから毛嫌いせずに使いたい。
電子レンジ調理が一番手軽である。

俳句にも古くは松尾芭蕉の

   芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

という有名な句があるが、現代俳句にも秀句があるので、それを引いておく。

 芋の露連山影を正しうす・・・・・・・・飯田蛇笏

 地の底の秋見届けし子芋かな・・・・・・・・長谷川零余子

 芋照りや一茶の蔵は肋あらは・・・・・・・・角川源義

 案山子翁あち見こち見や芋嵐・・・・・・・・阿波野青畝

 雀らの乗ってはしれり芋嵐・・・・・・・・石田波郷

 芋掘りし泥足脛は美しく・・・・・・・・平畑静塔

 箸先にまろぶ子芋め好みけり・・・・・・・・村山古郷

 風の神覚むるや芋の煮ころがし・・・・・・・・野中久美子

 芋の露天地玄黄粛然と・・・・・・・・平井照敏


病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出・・・・・・・・・・・・・・・・・・北原白秋
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  病める児はハモニカを吹き夜に入りぬ
   もろこし畑の黄なる月の出・・・・・・・・・・・・・・・・・・北原白秋


私の子供の頃は「ハーモニカ」全盛の時代だった。
ハーモニカ演奏の名手だった宮田東峰という人がいて伝説的な話を聞かされたりした。
今でも「ミヤタ」ブランドのハーモニカがあると思うが、この名前は、この人に因んでいる。

掲出したハーモニカは今のもので「クロマチック・ハモニカ」というらしい。画面右側に見えるボタンを操作して半音とかの切り替えをするらしい。
私は楽器には素人なので間違っていたらゴメンなさい。昔は、こんな機能のあるハモニカはなかった。

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写真②はネット上で見つけたハーモニカのカタログからのもの。
私たちの子供の頃は原始的なハーモニカだったが、その頃からさまざまな、複雑な演奏のできるハーモニカがあったようだ。
吹く穴と吸う穴が同じなのは、今も同じだろうか。
私は音楽、楽器音痴だったので何も知らない。

この白秋の歌は、白秋の子供がまだ小さかった頃のものであろうか。
病んでいる子という人事と「もろこし畑の黄なる月の出」という叙景が、うまく一首のなかで溶け合っている。
その後どこかで読んだ文によると、この歌の「子供」というのは、フィクション上の子供だ、ということらしいので、ここに付記しておく。
「ハーモニカ」という季語はないし、短歌に詠われている作品も目下は見出せないので、この辺にしておく。以下は余談である。



だいぶ以前に、NHK-BSでマカロニウエスタンの、その名も「ウエスタン」という映画を視たことがある。
チャールズ・ブロンソンの吹くもの悲しげな「ハモニカ」が響いて、アメリカの西部劇とは一味違った佳い映画だった。
エンリコ・モリコーネの曲だということである。
↑ それに関連する動画を見つけたので埋め込んでおく。
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新潮社の読書誌『波』2004年10月号に庄野潤三の「けい子ちゃんのゆかた」連載10回のなかに、ハモニカに関連する次のような文章が載っていたので、紹介する。

ハーモニカ(2月4日)
夜のハーモニカは、昨日に続いて「どこかで春が」を吹く。一日の仕事が終り、あとはフロに入って寝るだけというときに、妻は書斎の本棚の前においたハーモニカの箱をとって来て、こたつの上におく。「夜のハーモニカ」の時間である。何にしようかといって、曲をきめ、私の吹くハーモニカに合せて妻が歌う。昔の唱歌や童謡のなかから選ぶ。これが私たちの大切な日課となってからどのくらいたつだろう?十年になるかも知れない。その季節の歌を吹く。二月の「早春賦」、九月ごろの「赤蜻蛉」は、二人のいちばんのお気に入りのレパートリーである。四月の「春の小川」も好きで、よく吹く。
「どこかで春が」もいい。「どこかで春が生れてる」で始まり、「どこかで水が流れ出す」と続くところがいい。「どこかで芽の出る音がする」というのもいい。百田宗治の作。この人のことはよくしらないが、「どこかで春が」一作で尊敬すべき詩人であることが分る。好きな童謡だ。
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この連載は「私小説」の作者らしく、日記風に身辺の雑事が描かれている。別の日付に「誕生日」という2月9日付けの記事があり、孫(次男の子)の文子ちゃんから82歳のお誕生日おめでとうございます、という手紙が来る、というのを見ると作者の年齢が判る。2004年に82歳だから2009年は87歳ということになるが、その庄野潤三さんは同年9/21に亡くなられた。
毎日新聞ネット版の記事を引いておく。

訃報:作家、庄野潤三さん死去 88歳

作家の庄野潤三さん=2004年4月 「静物」や「夕べの雲」など日常生活を静かな筆致で描き、「第三の新人」を代表する一人として活躍した作家、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)さんが21日、老衰のため死去した。88歳。葬儀は28日午後1時、川崎市多摩区南生田8の1の1の信行寺春秋苑。自宅は多摩区三田5の9088。喪主は妻千寿子(ちずこ)さん。

 大阪市生まれ。九州帝大東洋史学科卒業後、海軍予備学生として出征。復員後、島尾敏雄らと同人誌を創刊した。中高教師、朝日放送勤務などのかたわら「舞踏」「恋文」などを発表。1955年、平凡な暮らしにひそむ危機をとらえた「プールサイド小景」で芥川賞受賞。詩情豊かに生活の細部を描いて、安岡章太郎氏や吉行淳之介、遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれた。

 夫婦の亀裂を描いた「静物」(60年、新潮社文学賞)は戦後文学の名作に数えられる。その後も「夕べの雲」(65年、読売文学賞)、「絵合せ」(71年、野間文芸賞)、「明夫と良二」(72年、毎日出版文化賞)など人生の機微を追求する家庭小説を書いた。一方で「浮き燈台(とうだい)」「流れ藻」など見聞に基づいてストーリーを構成した作品も好評に迎えられた。

 「ガンビア滞在記」(59年)、ロンドン紀行「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」(84年)、脳内出血後の記録「世をへだてて」など、随想にも秀作が多い。90年代後半からは自身の日常生活を題材に「貝がらと海の音」「庭のつるばら」などを主要文芸誌に書き継ぎ、健在ぶりを示した。それは06年3月刊行の「星に願いを」に至っている。「庄野潤三全集」(全10巻・講談社)がある。

 父貞一さんは帝塚山学院を創設した教育者。児童文学作家の庄野英二さんは実兄。78年に日本芸術院会員になった。

 ▽作家、阿川弘之さんの話 従来の私小説とは微妙に異なる、清純な家庭小説を多く書いた。子や孫を大事にする作風が心に残っている。やるべき仕事をやり終えた一生だったと思う。

 ▽女優、大浦みずきさんの話 亡父(作家、阪田寛夫)とのご縁から公演を熱心にご覧くださり、もう一人の父親が見守ってくれているようで、心強く思っておりました。いつも優しく厳しい目で見てくださり、幸せでした。本名(なつめ)も芸名も付けていただき、名前に恥じないよう、一生懸命生きていこうと思います。心よりご冥福をお祈りします。

毎日新聞 2009年9月22日 15時29分(最終更新 9月23日 0時48分)

ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』上・中・下三巻・・・・・・・・・・・木村草弥
ダ・ヴインチ・コード

──新・読書ノート──初出・Doblog2007/10/24

  ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』上・中・下三巻・・・・・・・・・・・木村草弥

昨日、イスラエル紀行の一環として「マグダラのマリア」について少し触れた。
その時、この本についても書いたが、今日は、この本について書いてみる。
下手な私の要約よりもWeb上に載る下記の記事を転載しておく。
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ダ・ヴィンチ・コード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目では小説版の『ダ・ヴィンチ・コード』について記述しています。映画版の『ダ・ヴィンチ・コード』についてはダ・ヴィンチ・コード (映画)をご覧ください。

『ダ・ヴィンチ・コード』(The Da Vinci Code)は、ダン・ブラウンの長編推理小説。
アメリカで2003年に出版された。『天使と悪魔』に次ぐ「ロバート・ラングドン」シリーズの第2作目。

レオナルド・ダ・ヴィンチ作品の謎にはじまり、多くの流説を結びつけた内容は世界的にヒットし、44言語に翻訳され7000万部の大ベストセラーとなった。
筆者が、事実に基づいているとしたため大衆に注目され、多くの研究者の議論が行われている。

日本では、2004年5月に角川書店から上下巻で刊行された(現在、角川文庫で上中下巻の廉価版が発売されている)。翻訳者は越前敏弥。
日本国内での単行本・文庫本の合計発行部数が1000万部を突破した。(角川書店の発表によると2006年5月24日現在、単行本が237万部、文庫本が770万部、計1007万部)

2006年、トム・ハンクス主演で映画化。
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注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
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あらすじ
深夜、パリのホテル・リッツに宿泊していたハーバード大学の宗教象徴学教授であるロバート・ラングドンの下に、フランス司法警察の警部補が訪ねてきた。急用による同行を請われ、到着した場所はルーヴル美術館だった。そこでラングドンは、ルーヴル美術館館長ジャック・ソニエールの遺体が猟奇殺人にも似たウィトルウィウス的人体図(右図)を模した形で発見されたと伝えられる。

警察は宗教象徴学者の立場から、ラングドンの事件に対する見解を聞きたいと協力を要請した。しかし、実際はソニエールと会う約束をしていたラングドンを第一容疑者として疑い、逮捕するために呼んだのである。

ラングドンはソニエールの孫娘にして司法警察の暗号解読官でもあるソフィー・ヌヴーの協力と機転により、その場を脱した。ソフィーは祖父の状態を祖父が自らに遺した、自分にしか解けない暗号であると見抜き、ラングドンの潔白に確信を持っていた。これを上に報告しても一笑に伏されると感じたソフィーはラングドンの協力を得るため、彼を逃がしたのだ。しかし彼はそのことによってソフィーともども司法警察に追われる事になってしまう。

一方でソニエールを殺した犯人とその黒幕は、かつてソニエールが秘匿したとされる聖杯の秘密を追っていた。それが「教会の名誉を守る」という狂信に踊らされて…。そして、その毒牙もまたラングドンたちを追い続ける事になる…。

登場人物
ロバート・ラングドン……ハーヴァード大学教授・宗教象徴学専門。
ソフィー・ヌヴー……フランス司法警察暗号解読官。ジャック・ソニエールの孫。
ジャック・ソニエール……ルーブル美術館館長。
アンドレ・ヴェルネ……チューリッヒ保管銀行パリ支店長。
リー・ティービング……イギリスの宗教史学者。ナイトの爵位を持っている。聖杯の探求に生涯をかけている。
レミー・ルガリュデ……ティーピングの執事。
マヌエル・アリンガローサ……オプス・デイの代表。司教。
シラス……オプス・デイの修行僧。色素欠乏症。
ジョナス・フォークマン……ニューヨークの編集者。
ベズ・ファーシュ……フランス司法警察中央局警部。
ジュローム・コレ……同警部補。

作品内に登場する観光名所
エッフェル塔
サン・シュルピス教会
ルーブル美術館
ウェストミンスター寺院
ナショナルギャラリー
キングズ・ガレッジ資料館
テンプル教会
ロスリン礼拝堂

その他
フィクションであるにもかかわらず、冒頭に実在の組織名を挙げ、
「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。」と述べているために、扱われている内容の真偽について議論が起きた。
とりわけキリスト教、とくにカトリックの教義に深く関わる部分は大きな反響を巻き起こし、2006年3月には米国カトリック司教会議(USCCB)が、教義について反論するウェブサイトを開設している。
プロットの下敷にアイデアが盗用されたとして、ノンフィクション、『レンヌ=ル=シャトーの謎』の著者たちから訴えられたが、ロンドンの高等法院は原告側の訴えを退ける判決を下している。
批判の一環として、特別番組『ダ・ヴィンチ・コードの嘘』が放送された。また、「日経エンタテインメント!」は『大名所で原作のウソを発見!』と題し原作で描かれている名所と実際の名所の相違点を挙げている。
作品内でドラクロワの壁画で知られるカトリックの教会、サン・シュルピス教会の中にある日時計(ローズライン)に秘密を解く鍵が隠されていると記されている。これを鵜呑みにしたメディアが押し寄せた為、教会側は入り口に「日時計はローズラインと呼ばれた事もなければ、異教徒の陣の名残でもない。」という張り紙を張った。サン・シュルピス教会は観光名所ということもあり、書かれている文字は何ヶ国語かに訳されている。(日経エンタテインメント)。
ルーブル美術館館長のジャックは殺されたとき76歳だが、フランスの定年は65歳である。

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注釈
『ウィトルウィウス的人体図』、『モナ・リザ』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』など
オプス・デイは実在する組織である。シオン修道会は「秘密結社」とされているのに、「実在する組織」というのは変である。「秘密儀式」も想像上のもの。『秘密文書』なるものについては「シオン修道会」の項を参照のこと。
レオナルド・ダ・ヴィンチ作品の謎、キリスト教における異説や、聖杯伝説に関する解釈、メロヴィング朝の由来など。多くは『レンヌ=ル=シャトーの謎』からの借用。
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以上の記事では、小説の「あらすじ」は、殆ど触れられていないことになる。
2004年5月に単行本として角川書店から出版されたときは2巻であり、私の買った文庫版は上・中・下3冊であって、結構よみごたえのあるものだが、
サスペンス仕立ての小説であり、面白くて途中で止められず、一日で読了した。
私も聖書や外典のいくつかは読んでいるが、資料には、よく当たっているようだ。
マグダラのマリアに触れた部分などは少ない。聖書の当該箇所などは、クリスチャンであれば周知のことなので敢えて改めて触れられていないものであろう。
図版③は、Jan van SCORELのマグダラのマリアの絵である。
mary_magdaleneマグダラのマリア

この翻訳本の「解説」で荒俣宏が書いていることだが、「聖杯伝説」が文献に残されるようになった中世から多くの研究がなされてきたが、
それはキリスト教の教義からのアプローチだったのに対して、現代のアプローチは「神秘学」「歴史学」「図像学」「語源学」
さらに「美術」や「科学」など多面的になっているところに特徴がある。
異端とされて徹底的に、むごたらしい惨劇のもとに抹殺された「カタリ派」のことなどもある。
帚木蓬生の『聖灰の暗号』などは、これを描いたものである。
ヴァチカン当局が、この本や映画を見ないように、との「触れ」を出したというのは当然であって、今まで「聖書」の記述してきたことが覆されるのだからである。
欧米で大ヒットした本書も、むしろキリスト教を知らない、あるいは信仰していない人間にとっては新鮮な面白さを十分に味わえるのではないか。
ただ、この小説は「聖杯」のミステリーと「争奪」についてサスペンスタッチで描くのに大半のエネルギーが費やされているので、その面の面白さが主になっているとは言えるだろう。
とにかく未読の人には、ぜひ読まれることをお勧めする。


娼婦たりしマグダラのマリア金色の教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・・・・・・・・・木村草弥
lrg_11707601マグラダのマリア教会

──イスラエル紀行(4)──

  娼婦たりしマグダラのマリア金色(こんじき)の
   教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「マグダラのマリア」については、ここに改めて書くまでもないが、リンクできるようにしてあるので、ご覧いただきたい。

「マグダラのマリア教会」は同じ名の教会が世界各地にいくつかあるが、もともとの物語の発祥の地であるイスラエルのエルサレムにある教会は、
1888年ロシア皇帝アレキサンダー3世が、マグダラのマリアと母后マリアの二人を記念して建てたものである。
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)には、掲出した歌につづいて

  「マリアよ」「先生(ラボニ)!」ヨハネ伝20章に描かるる美(は)しき復活の物語

という歌が載っている。
キリスト磔刑の死後3日目、復活したイエスをはじめて見たのはマグダラのマリアだった、と言われている。
キリストを深く、心から敬愛した彼女なればこそ、復活したイエスが誰よりも最初に「姿」を見せたのが彼女なのであった。
マグダラのマリアは「聖女」に列せられている。
キリストの聖母もマリアという名である。
そんなこともあって、キリスト教世界では女の子に「マリア」という名をつけるのが大変多いのである。
英語名では「メアリー」と発音される。
絵画の世界でもマグダラのマリアは、さまざまに描かれてきた。
一例として、ティツィアーノの描いた絵を挙げておく。
magdelene3ティツィアーノマグラダのマリア像

この絵については、こんなエピソードがある。

いろんな画家の伝記を書いたことで有名なヴァザーリ(いちおう本業は画家だが)
いわく
「髪が乱れほつれたマグダラのマリアの半身像で、
その髪は瀧のように肩、喉、胸にかかっている。
彼女は頭を上げ、その目はしっかりと天を見据えている。
その赤く泣きはらした目は悔悛の表れであり、
涙は犯した罪に対する悲しみの表れである。
このような絵であったから、それを見る者ははげしく心を動かされた。
さらに彼女の姿は非常に美しかったが、
その美は情欲をそそるものではなく、
むしろ深い哀れみの情を誘うものであった」
・・・と。
ここまで言われたら、画家冥利というものである。
あ、ここにもマグダラのマリアの象徴である香油の入った小瓶が描かれている。(左下)
膝の上の骸骨は「限りある命」の象徴なんだそうである。
「香油」というのは、死んだ人の体を香油で拭い、清めて「葬り」の儀式に備える聖なる儀式の一環なのである。
参考までに図版③に、カラヴァッジヨの同名の絵を載せておく。
carav028カラヴァッジョマグダラのマリア

この絵も、有名な画家であるから、よく採り上げられる絵ではあるが、題名がマグダラのマリアでなければ、どこかの庶民の女の午睡なんかと解されるのではないか。
だから宗教画としては二流だと言えるだろう。
この絵にはマグダラのマリアという歴史上の人物──それもキリスト教における重要人物を描くという必要条件を欠いている。
強いて言えば、椅子の下にこぼれている「小物」──切れたロザリオと香油瓶──がマグダラのマリアを描いた宗教画であることを、僅かに示唆するに過ぎない。
図版④はカルロ・クリヴェッリの描くマグダラのマリアである。
1354976クリヴェッリマグダラのマリア

こうなると、典型的な、というか、類型的なというか伝統的な宗教画を一歩もでていない。
こうして比較してみると、テイツィアーノの絵が、いかに優れているかが判る。
とは言っても、美術というものは各人さまざまに鑑賞されるものであるから、好き好きであっていいのである。

とにかく、オリーヴ山 というのは聖書あるいはキリスト教の世界では重要な歴史的場所なのである。
私が行ったときは、実は「マグダラのマリア教会」には立ち寄らなかった。
ネット上のイスラエル旅行記を見ても、ツアーでは、ここに立ち寄らなかったという記載が多い。マグダラのマリアに対する「偏見」が、あるいは関係しているのかも知れない。
したがって、この教会の写真が遠景からのもので小さいことをお詫びしたい。

オリーブ山麓には、
lrg_11707600万国民の教会

万国民の教会(写真⑤)─別名苦悶の教会と呼ばれ、最後の夜イエスが苦悶しながら過ごしたと言われている─がある。
この教会は新しいもので、聖書のエピソードに因んで、最近に建てられたものである。
この教会に隣接して ゲッセマネの園というのがある。
イエスが頻繁に訪れた場所で「最後の晩餐」のあとイエスは弟子とともに訪れ、受難を予言した場所。名前の通り、オリーヴの木が茂るところである。

ここから少し離れたところに金ピカの「マグダラのマリア教会」はある。
この教会は、見れば判るように典型的な「ロシア正教」の様式である。
玉ネギ坊主の屋根といい、ダブル十字架の下の段の横棒が「キ」の字にならずに、「斜め下」に傾いでいるのもロシア正教特有のものである。
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小説『ダ・ヴィンチ・コード』及び、これを原作にした映画は先年に大きな話題を呼んだ。
この本については明日10/19付けで記事を載せるので、よろしく。
キーパーソンとして「マグダラのマリア」が存在する。キリストが死んだとき、マリアは腹にキリストの子を宿していた、というフィクションが「キー」になっているのだ。
昔から聖書や福音書などには「外典」というものが存在し、小説は、それらを好んで題材にしてきた。
ローマ法王庁は、この本および映画を読んだり、見たりしないように信者に呼びかけた。

2010/09/06に、私の歌

   紺ふかき耳付の壺マグダラのマリアのやうに口づけにけり

を引いて、マグダラのマリアのことについて少し書いている。ご参考までに。
そこに載せたJan van SCORELのマグダラのマリアの絵の方が趣きがある。



終末に向き合ふものの愛しさかハル・メギドの野は花に満ちたり・・・・・・・・・・・木村草弥
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──イスラエル紀行(3)──

  終末に向き合ふものの愛(かな)しさか
   ハル・メギドの野は花に満ちたり・・・・・・・・・・・木村草弥


はじめに「ハル・メギド」の野ということについて少し説明しておく。
新約聖書の「ヨハネの黙示録」に「ハルマゲドン」の最終戦争、というようなくだりがあり、一般人にも、このハルマゲドンという言葉が知られるようになったのは、
サリン撒布事件などを起した麻原一派の恣意的な解釈、からである。
聖書の中の、この記述は邪悪な悪魔と、正しい信仰ないしは正しい人生との戦いを言ったものであり、本来的に「ハルマゲドン」とはイスラエルにある地名である。
紀元前何世紀かの戦場跡と言われている。現地の発音に忠実にいうと「ハル・メギド」と言うのが正しい。
「ハル」とは「丘」の意味である。今は草花の咲く草原である。


イスラエルで売られる本には、そのハル・メギドの草原の写真が載っている。
掲出の写真①はアネモネ属の花で、イスラエルでは、アネモネは「国花」になっている。
春になると野原一面に咲くアネモネ。
赤・白・黄色・紫・ピンク・青と、さまざまな美しい色で、気持ちを明るくさせてくれる。
イスラエルに行く機会のある人は、是非この季節のアネモネの一群を見てもらいたいものだ。

麻原一派の事件が起こった時、私は、すでにこういういきさつは知っていたので、こんな歌を作った。
第二歌集『嘉木』(角川書店)に載.る。

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   ハルマゲドンそは丘の名と知らざるや世紀末なる憂愁深く

   くるふ世とみな言ふべけれ僧兵が毒液ふりまく擾乱(ぜうらん)なれば

   ハルマゲドンかの丘原に展(ひら)けしは「たましひ救へ」の啓示ならずや


はじめに 掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも採っているのでWeb上でもご覧いただける。
top野の花④

イスラエルという土地は旧約聖書などを読んでも、昔から、川の流れる流域以外は砂漠の不毛の地だったらしい。
今でも農耕が行なわれ豊穣の土地と言われるのは「約束の地」と呼ばれる限られた地域だけである。
その風土的な極端な特徴がユダヤ教などの宗教が発生する精神的なものの基礎を形成したことは確かである。
だから、当然、その肥沃な土地をめぐる争奪戦が繰り返されたのも理解出来よう。
百聞は一見に如かず、であり、本で読んで知っていても、実際に現地を見てみると、十全に理解できる。
私は2000年5月に訪問して、このことをはっきりと知ったのである。
かの地ハル・メギドの野に咲く花のいくつかを写真にして掲出するが、詳しくは私は知らない。

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ハニタのアイリスという草花

私は、掲出した、この歌で「終末に向き合ふものの愛(かな)しさかーー」と呼びかけたが、
これには聖書の「ハルマゲドン」の記述や西洋のキリスト教会で見られるタペストリーの絵解き物語を踏まえている。
「哀しさ」「悲しさ」とは、私は言っていない。「愛(かな)しさ」と言っている。この言葉は「いとしさ」と言い換えてもよい。
その表現の中に、私は未来に対する希望を盛ったのである。
あと二、三イスラエルの野の花を載せておく。

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カルメラ

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ルリハコベ属の花

現地イスラエルに行くと、この歌の背景の豊穣の土地を外れると、砂ばかりの不毛の地が続く。
同じ歌集に載る私の歌の

   断念を繰り返しつつ生きゐるか左に死海、右にユダの沙(すな)

ガリラヤ湖周辺の肥沃な地を離れて、ヨルダン川沿いに南下してゆくと、上の歌のような風景が現出する。
ユダ沙漠は広大なもので、この沙漠を越えて西に行ったところにエルサレムの街がある。エルサレムの街は、東から入るにしても西から入るにしても、うねうねとした道を延々と登り下りした高い丘の上にある。
旧市街は高い城壁に囲まれている。新市街は、その城壁の外に広がっている。

   あたらしき千年紀(ミレニアム)に継ぐ風景は?パソコンカフェのメールひそかに

同じ歌集に載る私の歌のひとつである。ここにも私の問いかけと願いをこめてあるのは、勿論である。
イスラエル紀行の歌は、歌集に載せたものだけでも80首を越えるが、いずれも愛着のあるものだが、今日は、この辺でくぎりにする。




君とゆく曽爾高原の萱原の銀のたてがみ風吹きすぎぬ・・・・・・・・・・・木村草弥
susukiススキ
e0118641_1659595c曾爾高原

    君とゆく曽爾(そに)高原の萱原の
     銀のたてがみ風吹きすぎぬ・・・・・・・・・・・木村草弥


曽爾高原は奈良県宇陀郡曽爾村にあり、曽爾高原と言えばススキとハギが秋の草として有名である。春、すっかり焼き払われたあと、地中から芽を出す。
若い葉は、さほど剛くはなくチマキを包むのに適している。お月見の頃、平地より10日ほど早く紫の穂を出す。
すっかり出揃った穂は草原一面を紫に染め、風が起こると繊毛運動を見るように一斉に波打つ。
野分の吹く頃、実が出来て銀色の毛が逆光に美しい。実がとび去ると穂はほうけて、わびしくなる。
この頃から屋根葺き用に注文があれば地元の人によって刈り取られる。
ススキ──イネ科の多年草。カヤ(萱)、オバナ(尾花)とも呼ばれる秋の七草のひとつ。薄、芒など、さまざまの字が使われる。
写真③④に曽爾(そに)高原の遊歩道と地図を載せた。
b曽爾遊歩道

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ススキと共に高原の秋を代表する植物と言えば、ハギを挙げなければならない。
紫の小さな蝶形花が集って短い総状花序をなしている。花はやがて青紫色になってこぼれ落ちる。
茎は70~150cm、お箸か鉛筆ほどの太さだから、花時には花の重みで湾曲する。葉は互生し3枚の小葉に分かれている。
「萩」と書くように秋の花、秋の七草のひとつ。晩秋に刈って筆軸や柴垣に作られる。
写真⑤はハギである。
hagi_L4萩②

この高原には多くの植物と動物が生息しているが、例えば、キイチゴは5月~8月に遊歩道や草原周辺の道端に白い5弁の梅花形の花をつける。
茎や枝は細い蔓ののようで、鋭いトゲがある。花が終ると粒々した桑の実のような実が出来る。
実は小さい核果が集合したもので、赤く熟したものは甘い液を含み、おいしく食べられる。いわゆるベリーである。
木苺の仲間は落葉低木で茨(イバラ)とも言う。

掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたものである。
この歌の一連のはじめの部分を少し引いておく。

    土 偶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  君とゆく曽爾高原の萱原の銀のたてがみ風吹きすぎぬ

  この夏の終りに蜩(ひぐらし)鳴きいでてそぞろ歩きのうつせみの妻

  わがいのちいつ終るべきペルセウス流星群の夜にくちづける

  流砂のごと流るる銀河この夏の逝かむとしつつ霧たちのぼる

  みづがめ座われのうちらに魚(いを)がゐてしらしらと夏の夜を泳げり

  呼ばれしと思ひ振りむくたまゆらをはたと土偶の眼窩に遇ひぬ

  萱原に立てば顕ちくる物影のなべては人に似るはかなしも

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なお、万葉集には、ススキを詠んだものとして17首、をばなを詠んだものとして19首、萱を詠んだものとして10首、出てくるという。もっとも、私は全部をあたってみた訳ではない。


北天の雄「アテルイ、モレ」伝説・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 京都・東山 清水寺境内、音羽の滝近くに建つ顕彰碑
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 ↑ 同顕彰碑の裏面の銘文

    北天の雄「アテルイ、モレ」伝説・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

アテルイ(生年不詳 ~ 延暦21年8月13日(802年9月17日)歿)は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。
789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。
いま表題に「伝説」と書いたが、没年も史実に残るレッキとした実在の人物である。詳しい資料もないので伝説としたものである。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。
坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。フルネームは大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。
アテルイと共に処刑された母礼(モレ)についても史書に記載する。
以下、Wikipediaに載る記事の当該部分のみを引用しておく。
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史料にみるアテルイ
アテルイは、史料で2回現れる。一つは、衣川から巣伏にかけての戦い(巣伏の戦い)についての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。
もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。

史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。
802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。
「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。
「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。
確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。
しかしここにアテルイの名はない。

巣伏の戦い
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。
アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。
この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。
紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。
北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。
この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。
そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。
その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。
朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。
この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。
5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない。

朝廷軍の侵攻とアテルイの降伏
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたらしい。田村麻呂は、802年(延暦21年)に、胆沢の地に胆沢城を築いた。

『日本紀略』は、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことを記す。
2人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入った。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言した。
しかし、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決めた。アテルイとモレは、8月13日に河内国で処刑された。
処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない。
「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであり、比定地とみなす説があった。
しかし発掘調査の結果、宇山にあったマウンドは古墳であったことが判明し、「植山」=宇山説はなくなった。

現代のアテルイ像
評価 坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。
明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在であった。

再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。
学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めたことと、一般社会において地方の自立が肯定的に評価されるようになったことが、背景にある。
アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一躍歴史上の重要人物に伍することとなった。

これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。

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↑ 「伝 阿弖流為・母禮之塚」碑(枚方市・片埜神社)

石碑、顕彰碑
上述の枚方市宇山にかつて存在した塚と、その近くの片埜神社の旧社地(現在は牧野公園内)に存在する塚を、それぞれアテルイとモレの胴塚・首塚とする説があり、
1995年(平成7年)頃から毎年、岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社がその祭祀をしている。
但しこのうち「胴塚」については発掘の結果、アテルイの時代よりも200年近く古いものであることが判明している。
また枚方市藤阪にある王仁博士のものとされている墓は、元は「オニ墓」と呼ばれていたものであり、実はアテルイの墓であるとする説もある。

田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。
牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。

2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。
同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、
一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。

又、JR東日本は、東北本線の水沢駅 - 盛岡駅間で運行している朝間の快速列車1本に、彼の名前を与えている。

創作
1990年代からは、アテルイを題材とした様々な創作活動が起こった。
2000年(平成12年)吉川英治文学賞を受賞した高橋克彦著「火怨」や、これを原作としたミュージカル「アテルイ」(わらび座)などである。
後者は2004年(平成16年)『月刊ミュージカル』誌の作品部門で10位にランクイン。タキナ役の丸山有子は小田島雄志賞を受賞している。
他に高橋克彦原作による漫画「阿弖流為II世」(「火怨」とは無関係)や2002年(平成14年)新橋演舞場で公演された市川染五郎主演「アテルイ」(松竹株式会社)が有名である。
2002年(平成14年)には没後1200年を機に、長編アニメーション「アテルイ」が制作された。

モレ
モレ(母礼)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、上記のアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。フルネームは磐具公母礼(いわぐのきみもれ)。

参考文献
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀』五(新日本古典文学大系 10)、岩波書店、1998年。ISBN 4-00-240016-6
黒板勝美『新訂増補国史体系[普及版] 日本紀略』(第二)、吉川弘文館、1979年。ISBN 4-642-00062-3
大塚初重・岡田茂弘・工藤雅樹・佐原眞・新野直吉・豊田有恒『みちのく古代 蝦夷の世界』、山川出版社、1991年。ISBN 4-634-60260-1
新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年。ISBN 4-642-06627-6
新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』、吉川弘文館、1994年。ISBN 4-642-07425-2
細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏『岩手県の歴史』(県史3)、山川出版社、1999年。ISBN 4-634-32030-4
岡田桃子『神社若奥日記』、祥伝社、2003年。ISBN 4-396-31339-X
馬部隆弘「蝦夷の首長アテルイと枚方市」『史敏』2006春号、史敏刊行会、2006年。ISSN 1881-2066
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今までは一部の識者だけに知られていた蝦夷地──東北の地だが、今回の大震災・大津波などによって脚光を浴びることになり、
この地と人物についても見直されるようになってきた。
『続日本紀』と同様の古代の史書である『日本三代実録』に載る「貞観大津波」については先に触れた。
なぜ大和朝廷政権は、多大な人的損害を蒙りながら辺境の地である蝦夷地を攻めたのか。それには、かの地で「砂金」が採取されたからと言われている。
後の藤原氏三代の栄華も、この砂金の掌握によっていると、今では言われている。これについてはネット上にも記事があろうかと思うので検索されたい。

蝦夷地は「大和朝廷」政権に長らく反抗し、平定された後も、例えば明治維新の「戊辰戦争」の際には会津は抗戦し多大の損害を蒙った。
その記憶は「恨」となって、今も「東京」への反感となっているようである。特に福島では原発の爆発事故による放射能撒き散らしなど被害意識は物凄いものがある。
最近発行された角川書店月刊誌「短歌」2011年十月号に載る、吉川宏志「何も見えない」30首の歌によると、こんな歌がある。

 とめどなく東京を怨む声を聞く干し魚のふくろを手に取りながら

 こだなことになったらわしらを差別して・・・・・・東京から来たのか 否と逃れつ


当然のことだろう。管轄する電力会社も違う土地にまで「越境」してきて「原発安全神話」を、さんざ撒き散らした挙句の、この大事故である。
因みに、この歌の作者・吉川宏志は京都在住の壮年の歌人で、今をときめく短歌結社「塔」の選者を務める人である。

今日は、吉川の歌から「北天の雄・アテルイ、モレ」のことを書いてみた。


水は水で、樹のきららかな葉といふ葉に/やがておのれが露となつて入つてゆく・・・・・・・・大岡信
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    水樹府(すいじゅふ)・・・・・・・・・・・・大岡信

   樹は樹で、
   張りつめた水を足もとに見おろすとき
   よこたはる精霊が低く嘯(うた)つてゐるのを見る。

   水は水で、
   そびえる樹を根もとから見あげるとき
   手をかかげた精霊が高く嘯(うた)つてゐるのを見る。

   だが、心やすい挨拶をかつてかはさず
   夜が明ければ、水は水の、
   樹は樹の、別別の、唯一の朝に目覚める。

   根にすべらかな蛇を眠らせ
   ごつごつの樹皮の下には虫の卵、かすかな蛆(うじ)の糞。
   鬱勃と水を吸つて、樹はしげる。

   水は水で、樹のきららかな葉といふ葉に
   やがておのれが露となつて入つてゆく
   涯(は)てのすがたを見つめてゐる。

   だが、心やすい挨拶をかつて交さず、
   樹は樹の虚空をかぎりなく突き、
   水は水の充満にかぎりなく散り。

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この詩は、いかにも「現代詩」らしいもので、決して平易な詩ではない。暗喩を駆使して作られている。
しかも「旧なかづかい」になっている。
漢和辞典で「水樹府」を引いてみたが、
「水樹」というのが、水辺に建てられた「四阿(あずまや)」あるいは「水亭」という熟語が載っているのみであり、この言葉は大岡信の造語であると思われる。
この詩は1985年秋刊の学習研究社『大岡信・うたの歳時記』秋のうた、に載っているものである。
書き下ろしか旧作かは判らない。

じっくりと、この詩を眺めていると、水と樹との様態が、巧みに捉えられ、表現されているのを読み取れるだろう。
また、水と樹とに宿る「精霊」を縦糸にして、この詩が組み立てられているのを知るだろう。
アニミズムである。
そのようにして読み解くと、この詩も何となく親しめ、判ってくるというものである。
掲出写真には「四阿」(あずまや)を採り上げてみた。


玉井清弘歌集『屋嶋』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
玉井

──新・読書ノート──

      玉井清弘歌集『屋嶋』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・・角川書店2013/09/25刊・・・・・・・・

玉井清弘さんは、私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)を出したときに、角川「短歌」誌上で一ページにわたって紹介の文章を書いていただいた。
これは上のリンクにしたところでお読みいただける。 ↑

この歌集は玉井さんの第八歌集ということになる。
玉井さんの本については『時計回りの遊行 歌人のゆく四国遍路』や第七歌集『天籟』について、このブログに記事を書いた。

歌集名の『屋嶋』のことである。
玉井さんは高松市の「高松町」という、本家の高松にお住まいなのだが、近年、ご自宅から屋島へのウォーキングを日課にしているという。
行ったことのある人には判るが、屋島は台形状になった高台で、源平の頃の古戦場だったところ。
7世紀天智天皇6年に瀬戸内海を防衛するための古代山城の屋嶋城(やしまのき)が建造されたが、この歌集名は、これに因んでいる。
ここには「屋島寺」もある。
少し歌を引いてみよう。

   春の雨こおろこおろと降り来れば石蕗の薹たけてしまいぬ

   古道ゆくわれは小石を踏みしめて尾を持つ人の供となりたり (熊野古道)

   やさしさの切実に欲し一合の冷酒を立ちてのみどにおとす

   二周目を歩き終わりてなに見えしなんにも見えずまた歩くべし (歩いての四国遍路二度目を結願)

   屋嶋城あたりに鳴きしほととぎすむこうの谷に声しぼり鳴く

   音高く響るときの来ぬウォーキングシューズに踏みて石径をゆく

   幾つ岬遍路ころがし越えて来し人と握手す言葉なきまま

   たのもさん懐かしき語の連れ戻す 少年の日の伊予の日だまり

   すすりたるさぬきうどんの白たえは体の奥へはしり下りぬ

   はんみょうにであううれしさ行先をかえて從きゆく屋島山頂

歌に特別の解説は不要だろうが、玉井さんは二度の四国遍路をはじめとして、「歩き」を、よくなさるようである。
和歌山の「熊野古道」も歩かれたらしい。そういう歌があるからである。
終わりから三首目の歌から、玉井さんが伊予─愛媛県で生まれ、育ったことが判る。
大学を出て、香川県で教職につかれて、人生の大半を、ここで過ごされたので、香川県が故郷のようになってしまった。
「あとがき」に、それらのことに触れた文章がある。

   開花宣言待ちている日に届きたる師の訃報なりすべなくいたり (武川忠一逝去)

玉井さんは武川忠一主宰の短歌結社「音」の創刊同人で居られる。
この一首に師を喪った万感の思いが籠っている。

   塩麹はやる世にてあまがらき時代は熟しくずれんとする

   五本指の靴下をはく人体に指を持ちいるこの身の不思議

   ほどほどのうどん好きにはなりにけり讃岐うどんの本場に住みて

今の時代の流行りのことどもにも、さりげなく触れた作歌態度が微笑ましい。

   あの人をどうするのかと問われたりいきなりの問言葉を失う

私は、この歌の前で立ち止まったが、何の解も、ない。

別のところでも書いたが、玉井さんは奥さんとか家族のことは皆無と言っていいほど、歌には詠まない人である。
この本には珍しく「息子」「孫」を詠んだ歌がある。 少し引く。

   あんなにも子のめんどうをたのしみてなす息子かとおどろきて見つ

   このような家族望みていたのかと息子のなせる育児にみはる

   じいじいの蜜柑を食べる顔面に眼ん玉ずれて左右ふぞろい

玉井さんは息子の育児ぶりに驚いているが、今の若者の在りようは、男と女が育児にかまけるのが普通なのである。
三首目の歌は幼子の書いた「じいじい」の絵であろうか。

   朝酒の力をかりて選歌せり四肢にみなぎる力あるうち   

   救いがたくひとりの思い満天の星の下にて放尿なせば

   生きし世の何の序列に並ばんか死後整列の号令あらば

巻末に載る歌である。
ときどき「酒」の歌が出てくるが、酒好きの様子である。
短歌教室などの選歌をなさるのである。
今回の歌集の作品は、総体に平易なものが多い。
最後の歌などは、先生に「老い」のはしりを感じるのは私だけだろうか。
佳い歌集を恵贈いただき感謝申し上げ、拙いが鑑賞を終わる。


 
   
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」声高くイエス叫びて遂に息絶えぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──イスラエル紀行(2)──

   --------「わが神、わが神、いかで余を見捨てしや」
   ------------------------(マルコ伝15章33-39)
  「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」声高く
     イエス叫びて遂に息絶えぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


かぎ括弧内の言葉はイエスが息絶える最後の言葉として有名だ。
前書きの形で引用した部分が日本語にしたものである。
一般的には「エリ、エリーー」のように翻訳されているものが多いが、私がイスラエルから持ち帰った資料には「エロイ」の言葉が使われていたので、私はそれに従った。
この言葉はイエスの「人間的」な生の声として私たちの心を打つものがある。

写真①はゴルゴダの丘の「聖墳墓教会」の内部である。
写真②は聖墳墓教会内の、十字架から降ろされたイエスに葬りのための香油を塗ったとされる塗油台である。
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この歌の前に

  ゴルゴダは「されかうべ」の意なりイエスは衣を剥がれ真裸とされし

という歌を載せている。ゴルゴダの丘というのは、そういう意味を含んでいるのである。
10/10付けで載せたものに続くものとして私の第四歌集『嬬恋』からのものであるが、紀行文としての「ダビデの星」もお読みいただきたい。
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写真③はエルサレム近郊にある町・ベツレヘムの「聖生誕教会」の中のイエスが生まれた場所とされている所。今は銀の星型が地面にはめこまれている。
このベツレヘムの町はパレスチナ自治区の管轄下にありパレスチナ警察が厳重に固めている。
聖地巡礼のキリスト教徒の、凄い行列が出来ている。ガイドが警備員に便宜を図ってもらって、行列に並ばずに横から入れてもらった。
この教会も丘の上に位置している。

  主イエス、をとめマリアから生れしと生誕の地に銀の星形を嵌む

  一人では生きてゆけざる荒野なり飼葉桶には幼子入れて


私のベツレヘムでの歌である。
言いおくれたが、ゴルゴダの丘の聖墳墓教会は、キリスト教各派がそれぞれの管理権を主張する世俗的空間である。
ローマカトリックやギリシア正教、コプト派などが内部を分割管理している。詳しくは「ダビデの星」の解説文を読んでほしい。
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写真④はイスラエル北部にあるガリラヤ湖畔のナザレにある「受胎告知教会」の外観である。
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イエスの母マリアは、このナザレでイエスを身籠った啓示を受けたとされる。
なお「ナザレ」とは「守る」「信仰を守る」の意味である。
この教会は世界各地からの信徒の寄進で建てられた新しいモダンな教会で、内部には世界各地の信徒の画家が描いたいくつものイエス像のモザイクや絵が壁面を埋めている。
詳しくはリンクに貼った ↑ ところをクリックしてご覧ください。

  主イエスを日本の姿(なり)に描きたる長谷川ルカの真珠のモザイク

という私の歌にある通りである。つまりイエスを日本の着物姿で長谷川ルカは描いたのであった。
詳しくは、リンク設定したページにアクセスしてもらえば見られる。
イエスは伝承によれば、
ベツレヘムで生まれ、このナザレをはじめとするガリラヤ湖周辺で育ち、数々の説教と奇蹟を起したイエスは、次第に民心を捉え、一部で熱狂的な支持を得ていた。

  大き瓶(かめ)六つの水を葡萄酒に変へてイエスは村の婚礼祝ふ─カナ婚礼教会─

  サボテンと柘榴のみどり初めなる奇蹟にひたるカフル・カナ村


この地での私の歌である。

イエスはもともとユダヤ教徒である。しかしユダヤ教の律法学者はイエスの説く教義が律法をないがしろにするものだと考えた。
それはイエスが自分を「神の子」と称したからである。そして、人々の心を捉えたイエスの力を脅威と感じ、結果的に十字架磔刑へと導いて行ったのである。
ローマ提督ピラトから死刑の宣告を受けてから、
十字架を背負って歩くゴルゴダへの道はヴィア・ドロローサ Via Dolorosa 悲しみの道(正しくは痛みの道)と称する約1キロメートルである。
新約聖書の記述にしたがって道すじには、歴史的場所として「ポイント」(英語ではステーション)が置かれている。
毎週金曜日にはフランシスコ会の修道士が十字架を担ぎながらイエスの行進を再現する。詳しくは私の「ダビデの星」の叙事文を見られたい。

  異教徒われ巡礼の身にあらざるもヴィア・ドロローサ(痛みの道)の埃に塗(まみ)る

の私の歌の通りである。
今まではローマ提督ピラトはイエスを捕らえて磔刑に処した極悪人とされてきたが、
今日では、先に書いたようにユダヤ教の律法学者たちが、イエスを捕らえ、処刑するように仕向けた、というのがキリスト教内部での通説となっている。

  「視よ、この人なり」(エッケ・ホモ)ビラト言ひきユダヤの律法に盲(めし)ひし民に

だから私は、このように歌に詠んでみたのである。
今日はエルサレム及び近郊のキリスト教に因む聖地を辿りながら、少しキリストについて書いてみた。
エルサレムの地は一昨日にも書いた通り、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地である。
したがって、ユダヤ教の聖地も多いというより、ユダヤ教の聖地は最近のユダヤ迫害による歴史的事物の展示が主となっている。
ユダヤ教とキリスト教は切り離せない。新約聖書はキリスト教の聖典であるが、旧約聖書はユダヤ、キリスト教共通の聖典である。
更に言うと、イスラム教も、この旧約聖書は教典として認めているのである。こういうところから、これらの3つの宗教は「同根に発する」と言われる所以である。

  ------------母ラケルが難産の末いまはの際に、その子をベン・オニと名づけたが
  ------------------------父ヤコブは彼をベン・ヤミンと呼んだ(創世記35-18)
   行く末を誰にか問はむ生れきたる苦しみの子(ベン・オニ)はた幸ひの子(ベン・ヤミン)

私は、この歌で旧約聖書の創世記に載る、このエピソードを元に、現下のイスラエルの置かれている厳しい現実を、この歌の中に盛り込んだ。
それは「行く末を誰にか問はむ」という呼びかけの形である。こういうのを「比喩」表現と言える。

  「永遠に続く思ひ出」(ヤド・ヴェシェム)と名づけたるホロコースト記念館に「子の名」呼ばるる

現下のホロコーストの哀しい思い出の、「ホロコースト記念館」での歌である。スピーカーから幼くして虐殺された子供たちの名前が読み上げられて流される。

写真⑤は、ユダヤ教会──シナゴーグに掲げられる幕である。
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聖墳墓教会や聖生誕教会、聖受胎告知教会など「リンク」を貼ったページは、私の記事に不足する写真などを補足してくれると思う。
「前のページ」や「リンク」など、次々と検索できるので、ご覧になっていただきたい。


木犀の香や年々のきのふけふ・・・・・・・・・・・・・・・・西島麦南
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  木犀の香や年々のきのふけふ・・・・・・・・・・・・・・・・西島麦南

金木犀の爽やかな香りが漂う季節になった。例年、東京オリンピックを記念した「体育の日」前後というところである。日本は広いから地域によって異なるだろう。
関西では今頃である。私の父は10月14日に亡くなったが、金木犀の強く薫る頃であった。
写真は花を接写で撮ったもので、花は十字の形をしている。地面に散り敷いた時は一面金色で見事なものである。
掲出の句は、「年々のきのふけふ」と詠んで、歳月の無慈悲な推移を、情緒ふかく句にまとめた。

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キンモクセイは雌雄異株だが、日本には雄株しか入って来なかったと言われている。
キンモクセイは中国南部の桂林地方が原産地。中国語では「桂」は木犀のことを指し、「桂林」という地名も、木犀の木がたくさんあることに由来する。
有名な観光地である漓江下りの基地であり、現地に行ってみると、そのことがよく判る。
中国には「月には木犀の大木が茂っている」という伝説があるそうである。
夢見心地にさせてくれる花の香りが、地上のものとも思えなかったのであろう。
花言葉は「謙遜」。中国の酒に「桂花陳酒」というのがあり、木犀の香りのついた名物の酒である。

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写真③は和知小学校にあるキンモクセイの巨木である。キンモクセイの巨木では三嶋大社のものが有名で樹齢1200年と言い、天然記念物に指定されている。
キンモクセイは学名を Osmanthus fragrans var. aurantiacus というが、一番はじめのOsmanthus というのはモクセイ属というものだが、
このオスマンサスはギリシア語の「osme(香り)プラス anthos(花)」というのが語源。
因みに学名には末尾にMAKINO とついているものもあるが、それは牧野富太郎博士の命名か整理による故だろう。
ついでに言えば fragrans=芳香のある、 aurantiacus=橙黄色の、の意味である。
木犀には銀木犀というのもある。私の家の旧宅の庭にあったが、今の家に引っ越す時に庭に入り切らずに植木屋にもらわれていった。
木犀を詠んだ句を引いて終りにする。

 木犀や月明かに匂ひけり・・・・・・・・山口青邨

 浴後また木犀の香を浴びにけり・・・・・・・・相生垣瓜人

 沈黙は金なり金木犀の金・・・・・・・・有馬朗人

 夜露とも木犀の香の行方とも・・・・・・・・中村汀女

 木犀の香がしてひとの死ぬる際・・・・・・・・小寺正三

 金木犀手鞠全円子へ弾む・・・・・・・・野沢節子

 木犀が髪にこぼれてゐて知らず・・・・・・・・神戸はぎ

 富士に雪来にけり銀木犀匂ふ・・・・・・・・伊東余志子

 身の饐えるまで木犀の香に遊ぶ・・・・・・・・鷹羽狩行

 金木犀の香の中の一昇天者・・・・・・・・平井照敏

 妻あらずとおもふ木犀にほひけり・・・・・・・・森澄雄

 犬の睾丸ぶらぶらつやつやと金木犀・・・・・・・・金子兜太

 木犀や同棲二年目の畳・・・・・・・・高柳克弘


<国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ殺しあふなり 地球(テラ)はアポリア・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──イスラエル紀行(1)──

  <国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ
   殺しあふなり 地球(テラ)はアポリア・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


2000年5月にミレニアム記念の年にエルサレムを訪問できたのは幸運だった。
その年の秋にはシャロン首相の「黄金のドーム」強行視察に反発してパレスチナ人との間に果てしない流血の衝突が起り、今日に至る泥沼化した紛争の起因となってしまった。

掲出した写真はオリーヴ山からの「黄金のドーム」の遠景である。
掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』((角川書店)に載せたもので、歌以外の叙事文はイスラエル紀行「ダビデの星」をWeb上で見ることが出来るのでアクセスしてもらいたい。
歌集には、この叙事文も全文収録してあるが、Webでは収録していないので、紀行文「ダビデの星」をみてもらいたい、という意味である。
短詩形としての短歌は事実を叙事するには適していないので、私は慣例を破って、この歌集の中で歌と叙事文を併用するという手段を採ったものである。
写真②はエルサレム旧市街を囲む城壁である。
028エルサレム旧市街城壁

写真③は、エルサレム旧市街の壁の中にある「嘆きの壁」と称されるところで、黒づくめの服と帽子に身を包んだユダヤ人がブツブツと経文を唱えながら壁に向かってお祈りする場所である。
この壁の上段にイスラム教の「黄金のドーム」がある。
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なぜエルサレムが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地として古来、たびたび争奪戦の対象になってきたのか、
などについて私の紀行文「ダビデの星」に詳しく書いてあるので、お読みいただきたい。

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写真④が「嘆きの壁」に向かうユダヤ人。立っている人もたくさん居る。ここには厳重なイスラエル警察の護衛と監視つきで短時間立ち入ることができる。
イスラエル国民にはユダヤ教徒だけではなく、イスラム教徒も、他の信徒も居るが圧倒的多数はユダヤ教徒であるが、
ユダヤ人が寛容の精神でエルサレム市を運営するかぎり、みな共存共栄の関係なのである。
パレスチナ人(イスラム教徒)も肉体労働や車の運転手などの仕事をユダヤ人からもらって生活しているのである。
暗殺されたラビン首相は穏健派だったので両者の関係は蜜月時代だった。
今では強硬派のシャロン首相が、そういう危うい両者の関係を破壊してしまい、果てしない殺戮と報復の泥沼に入ってしまった。
余談だが、そのアリエル・シャロンが2006年に病気で倒れ人事不省になり、今はどうしているのか、死んだという報道もないが、人騒がせな政治家であった。
今のネタニアフ首相も強硬派であり、事態は一向に進展しない。

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写真⑤は記念館に展示される「2000年前のエルサレムの街の模型」である。
エルサレムは東西の交易路の交わるところとして、古来、重要な位置を占めてきた。
そういう場所であるだけに、事がこじれてしまうと、血を血で洗う紛争の地と化してしまうのである。
私は歌集の中で

   山 翻 江 倒 海 巨 瀾 捲 奔 騰 急 萬 馬 戦 猶 酣─────毛沢東

という毛沢東の詩を「引用」の形で挿入した。これは私の友人・西辻明 が自作の詩の中に使ったのを了解を得て使わせてもらった。
全部は理解できなくても、漢字ひとつひとつの意味するところから何となく、現代を表現し得ていると思えるではないか。
毛沢東は晩年には文化大革命などの間違いを犯したが、間違いなく20世紀を代表する偉大な政治家・哲学者であった。

イスラエルやエルサレムについては、旅の途中にガイドのニムロード・ベソール君から色々話を聞いて、まだ書いていないこともあり、
いつか機会をみて書いてみたいと思うが、ユダヤ人の中でも人種の違いによって明らかな「差別」が存在するのである。
白人のユダヤ人が優位で、有色人のユダヤ人は差別されている。
また我々には理解しにくいことだが、ユダヤ教典の中では「働くな」と書かれているらしい。
だから現在のイスラエル国民のうちで、保守派の連中は、教典に集中するという名目で働かず、国家の助成で暮らしている、という。
これはガイドのベソール君から聞いた。
大体、保守派はヒゲを生やし、黒づくめの服装をしているから一見して判るが、湖水地方などの保養地でモーターホード遊びなどをして、はしゃいでいるのは、
そういう保守派の連中の子弟である。だから、ベソール君は「間違っていますね」と言うわけである。
ベソール君については私の紀行文を読んでもらいたいが、イスラエル国民は、決して強硬派一色ではない。
暗殺されたラビン首相のように平和裡にユダヤもパレスチナも共存する方策を模索した勢力が、今でも多数いるのである。
民族、国家の古さから言えば「ユダヤ人」「イスラエル」「ユダヤ教」は一番古いのである。

私の歌集では、この歌の後に

  夕暮は軋む言葉を伴ひて海沿ひに来るパレスチナまで

  目覚むるは絆あるいはパラドックス風哭きて神をほろほろこぼす

  何と明るい祈りのあとの雨の彩(いろ)、千年後ま昼の樹下に目覚めむ


と続けて、この歌集の「ダビデの星」の章を終っている。もちろん私の願望を込めてあるのは当然である。
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「エルサレム」や「嘆きの壁」「ダビデの星」など「リンク」を貼ったページは、私の記事に不足する写真などを補足してくれると思う。
「前のページ」や「リンク」など、次々と検索できるので、ご覧になっていただきたい。



木村草弥歌集『嬬恋』──感応・・・・・・・・・・・・米満英男(黒曜座)
嬬恋

──書評・評論──初出・『霹靂』16号2004/05/01所載

     木村草弥歌集『嬬恋』──感応・・・・・・・・・・・・米満英男(黒曜座)
                 ──その多様な発想と表現に向けての恣意的鑑賞──

 今、眼前に、四八二首を収載した歌集『嬬恋』がある。まずその歌の抱える幅の広さと奥行の深さに圧倒された。
東はユカタン半島から、西はエーゲ海に到る<規模雄大> なる覊旅の歌にも目を瞠ったが、その現地体験もなく、宗教や風習にも全く疎いと気付き直し、
敢えてそれらの歌からは、紙数の関係もあって降りることにした。
 私が平素上げている専用のアンテナに、強く優しく伝わってくる歌からの電波をとらえて、私なりの気ままな読み取りを行い、それを返信の言葉に代えて述べてみることにする。

①目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を
②父を詠みし歌が少なし秋われは案山子(かかし)やうに立ちてゐたりき
③うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり
④夜の卓に土筆の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず
⑤石ひとつ投げし谺がかへりくる花の奈落の中に坐れば
⑥うつしみは欠けゆくばかり月光の藍なる影を曳きて歩まむ

 いずれの作品も、まさに現代短歌の本筋とも言うべき、肉眼と心眼、写実と抽象、正視と幻視が一元化した上で、さらに濃密性と透明感を秘めた歌に仕上がっている。
 一首ずつ、恣意的に味わってみる。
 ①の歌、目つむれば常に花の向うから現れる母の姿。おそらくは母が纏う甘い匂いも嗅ぎ分けていよう。
②の作品、父と同様、作者自身も、父となった以後は、子から見れば孤独な存在に過ぎない。
③真昼間の春爛漫のさくらではない。若気の至りを越えた後をふり返りつつ、その回想を子に聞かせている。
④上句にこめられている妖気が、下句の願望を妨げ作者の口を閉ざさしめる。
⑤花にかこまれて坐っている自分の姿を、奈落の中と観じた刹那、投げた石の谺のひびきがわが身を禊ぐ。
⑥の歌、白い月光の下、藍色の影を曳きゆくほどに、うつしみの欠落部分が、いよいよつよく感じられると詠じている。
 次に、上掲の歌とがらりとかわって、何とも言えぬユーモア、あるいは洒脱な語り口からくる、本音に近い発想の楽しさを湛えている作品を抜き出してみよう。

⑦重たげなピアスの光る老の耳<人を食った話> を聴きゐる
⑧手の傷を問ふ人あれば火遊びの恋の火傷と呵々大笑す
⑨クールベのゑがくヴァギナの題名は「源」(スールス)といふいみじくも言ふ
⑩春くれば田んぼの水に蝌蚪(おたまじやくし)の語尾活用を君は見るだらう
⑪園芸先進国オランダ開発のミディトマト「レンブラント」と名づけられた
 ⑦の作品、車内で見た<老婦人>であろう。隣の老人の語る<人を食った話>、つまり人を馬鹿にした話をじっと聴いている。
そしてその話をまた作者自身も、思わず聴いてしまう。
⑧は、これまた、何とも鮮やかな応答である。結句の<呵々大笑>の締めがよく効いている。
⑨読み下した瞬間に「なるほど」とうなずく外はない愉快な歌である。下句の<いふ><言ふ>の駄目押しが決まっている。
⑩さてさて、こういう発見もあったのかと頷き返す。<君> が何者かと思案する楽しさも残されている。
⑪<レンブラント>という重々しい命名のトマト─是非食べてみたい。
こういう、絶妙な軽みを持つ歌を随所に据え置いているのも、作者のすぐれた<芸> の内であろう。

 さて、ここら辺りで、題名の『嬬恋』にぴたりと即した作品をとり上げてみよう。
⑫雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)まぬがれがたく病む人のあり
⑬億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
⑭生き死にの病を超えて今あると妻言ひにけり、凭れてよいぞ
⑮ゆるやかに解(ほど)かれてゆく衣(きぬ)の紐はらりと妻のゐさらひの辺に
⑯水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら
ありきたりの感想など入れる隙間などない、まさに絶唱としか言いようのない作品である。が、それではいささかこちらが無様すぎるので、敢えてひとこと述べてみる。

 ⑫雷鳴が葵というはかない存在を経て、病む人につながるその緊迫感。
⑬永遠の時間に比べれば、人のみならずすべての生き物は瞬間の命しか持ち得ないという詠嘆。
⑭四句から結句に至るその間に付けられた<、>の重さによって、<凭れてよいぞ>という作者の肉声が何とも切なく伝わって来る。
⑮若かりしころの艶なる妻の姿態がふと浮かぶ。歳月の流れ。
⑯一歩踏み出せば一種の惚気とも取られかねない際どい線の手前に踏みとどまって、己れの身をその<女>(ひと)に委ねている。

 好き勝手な、自己流の鑑賞──というよりも、一方的な受容と合点を行って来た。そこであらためて気付いたのは、この歌集のもつ多様性であった。
しかもそれは、歌の表層部分の言葉の置き換えから来るものではなく、作者自身のその場その時における情念と直感が導き出す重厚にして膨みのある、ユニークな詠嘆であった。 
 その詩的詠嘆の、さらなる充溢と進展に向けて、惜しみなき拍手を送りたい。 (完)


藤井幸子歌集『椒魚』抄・・・・・・・・・・・木村草弥
藤井

──新・読書ノート──

        藤井幸子歌集『椒魚』抄・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・・角川書店「平成歌人双書」2011/02/18刊・・・・・・・・

   栗の花燦燦白しこれの世に享けし一人の男を喪ふ

   敗戦忌今日わが誕生日 踏みいづる朱夏にして玄冬の遊行期へ

   病む者と日々を籠れば木犀の香りの濃さのいたきばかりに

   いちにんを送る迎ふるどこか似る体がしきりに酸きものを欲る

   桃生つたちぎらな包まな紙なしホイ 桃匂ふときとほきジャンケン

   熱日没りて琥珀の地平 ウヰスキーは薄めて飲むことなかりし漢

   婚五十五年は結合ならず化合にて片側削がれし界面の糜爛

   線香立の掃除をせよと住職に叱られ始まる君の一周忌

   真夜の雨にものの芽動くざわめきを生の音と聴く死の音とも聴く

この歌集は
<婚五十五年の夫君との永訣の身を、椒魚(別称半裂)に譬え、削がれた傷より滴る思いに生きる。
情念は濃く、言葉は優美に、時にエスプリも漂わす確固たる表現世界。>
と春日真木子師は書く。
一篇は「青、朱、白、玄」と一年を青春、朱夏、白秋、玄冬の四季に分ける故事に則り、情趣深く編まれた。

ここで筆者の個人的感慨に浸たるのを許されよ。
拙第二歌集『嘉木』上梓の際、春日師は角川書店「短歌」誌上で<自己存在の起源を求めて>と題して一ページにわたる批評文を賜った。
ここで春日師は、私のペダンチックに陥りがちな性癖を見事に見抜き、私の詠みたい本質を捉えて、的確な批評をしてくださったのである。
だから、以後、私は春日師を第二の師匠として敬慕しているのである。

この歌集は、先に引いた春日師の「帯」文の通りに、読者の心に沈潜して届く。
ご夫君は、陸軍士官学校を経て、敗戦後、転身され、経営学学徒として、後は営利会社のマネージメントの現場に身を置かれたようだ。
歌に詠まれたものからの類推であり、間違っていたら許されよ。
その夫君との一世を振り返り、「結合ならず化合にて」と詠まれ、死なれてみると「片側削がれし界面の糜爛」と表現される。
表現は簡潔ながら、この一句に万感の思いが籠っている。
また五首目に引いた歌のように自在な表現に目を止めた。

昨年、私の第五歌集『昭和』をお届けした中から
 <エリカ咲く日影のけぶるむらさきも孤りなるゆゑ思ひ出でつも>
の一首を抽出された的確な鑑賞眼に敬服する次第である。
ここに歌の数首を抽出し、ご恵贈の御礼に替えるものである。
短歌誌「水甕」の選者として、会員たちの指導に当たられるとともに、益々のご健筆をお祈りするものである。



地球(テラ)はアポリア・・・・・・・・・・・秋山律子
嬬恋

──書評──木村草弥歌集『嬬恋』(角川書店)「未来」誌2004年1月号 所載


    地球(テラ)はアポリア・・・・・・・・・・・秋山律子

『嬬恋』は木村草弥氏の第四歌集にあたる。
その歌集名と響きあうようなスリランカの岩壁画という「シーギリア・レディ」のフレスコ画のカバーが印象的である。
十数年来の念願が叶って実際に見に行かれたそうだが、かすかに剥落しながら浮かび上がっている豊潤な像に女性への、妻への思いが象徴されているのだろう。
『嬬恋』は群馬県北西端の村の名に因んでいるが、それは二度の大患を乗りこえて戻ってきた吾が妻へのそのままの気持ちであると記す。

  ・妻病めばわれも衰ふる心地して南天の朱を眩しみをりぬ
  ・羽化したやうにフレアースカートに着替へる妻 春風が柔い
  ・壺に挿す白梅の枝のにほふ夜西班牙(スペイン)語の辞書を娘に借りにゆく
  ・嬬恋を下りて行けば吾妻とふ村に遇ひたり いとしき名なり
  ・睦みたる昨夜(きぞ)のうつしみ思ひをりあかときの湯を浴めるたまゆら

という風に、妻や娘を詠むときに匂うような視線がある。
そういった家族への濃い思いもこの歌集の特徴だが、一方でもう一つ大きなテーマとして、アジアや中東を旅し、
その土地から発信する幾つかの連作に、旅行詠を越えた力作が並ぶ。
その中の一つ「ダビデの星」というイスラエル、エルサレムを旅した時の散文を含んだ一連は、この歌集のもう一つの要であろう。

  ・今朝ふいに空の青さに気づきたりルストゥスの枝を頭(づ)に冠るとき

に始まる八十余首の連作は、イエスが十字架を背負って歩いたヴィア・ドロローサの歴史的場所の十四のポイント(ステーション)を辿るのも含めて、そのほとんどを叙事に徹しながら、自らの足を運び、自らの目で視ることの迫力で一首一首を刻んでゆく。

  ・主イエス、をとめマリアから生まれしと生誕の地に銀の星形を嵌む
  ・ほの赭きエルサレム・ストーン幾千年の喪ひし時が凝(こご)りてゐたる
  ・異教徒われ巡礼の身にあらざるもヴィア・ドロローサ(痛みの道)の埃に塗(まみ)る
  ・日本のシンドラー杉原千畝顕彰の記念樹いまだ若くて哀し
  ・「信じられるのは銃の引金だけ」そんな言葉を信じるな! 君よ
  ・<国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ殺しあふなり 地球(テラ)はアポリア

宗教、民族の紛争地のただ中を歩みながら事実のあるがままの呈示の中に、自分の思念を映し出す。
そして連作の最後に置く一首

  ・何と明るい祈りのあとの雨の彩、千年後ま昼の樹下に目覚めむ

その他風景を詠ったものなど詩情豊かだ。
  ・月光は清音(きよね) 輪唱とぎるれば沈黙の谷に罌粟(けし)がほころぶ
  ・睡蓮は小さき羽音をみごもれり蜂たちの影いくたびよぎる

そして、本歌集の最後に置かれた一首

  ・水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら

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秋山律子 ← Wikipediaにリンクあり。

「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
img008エッサイの樹
 
   「はじめに言葉ありき」てふ以後われら
     混迷ふかく地に統べられつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「エッサイの樹」というのは、「旧約聖書」に基づいてキリストの系譜に連なるユダヤ教徒の系統図を一本の樹にして描いたものであり、
西欧のみならず中欧のルーマニアなどの教会や修道院にフレスコ画や細密画、ステンドグラスなど、さまざまな形で描かれている。
掲出の写真はブロワの聖堂の細密画である。

誤解のないように申し添えるが、「ユダヤ教」では一切「偶像」は描かない。
キリストは元ユダヤ教徒だが「キリスト教」の始祖でありカトリックでは偶像を描くから、エッサイの樹などの画があるのである。
偶像を描かないという伝統を、同根に発する一神教として「イスラム教」は継承していることになる。

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも収録したので、Web上でもご覧いただける。「エッサイの樹」と題する11首の歌からなる一連である。

p10-11エッサイ南面フレスコ

写真②はルーマニアのヴォロネッツ修道院の外壁の南面に描かれた「エッサイの樹」のフレスコ画である。
ルーマニア、ブルガリアでは、こういう風に修道院の外壁にフレスコ画が描かれることが多い。西欧では、先ずお目にかかれない。

「ステンドグラス」に描かれたものとしてシャルトルの大聖堂の写真を次に掲げておく。
右端のものが「エッサイの樹」。
f0095128_23431642シャルトル大聖堂エッサイの樹

img028今治教会のステンド
写真④に掲げたのは、今治教会のエッサイの樹で、シャルトルのブルーといわれるシャルトル大聖堂のエッサイの樹の複写である。細かいところが見てとれよう。

なお先に言っておくが「エッサイ」なる人物がキリストと如何なる関係なのか、ということは、後に引用する私の歌に詠みこんであるので、
それを見てもらえば判明するので、よろしく。
いずれにせよ、昔は文盲の人が多かったので、絵解きでキリストの一生などを描いたものなのである。
p03000エッサイの樹の祭壇

写真⑤はブラガ大聖堂の「エッサイの樹」の祭壇彫刻である。
こういう絵なり彫刻なり、ステンドグラスに制作されたキリストの家系樹などはカトリックのもので、プロテスタントの教会には見られない。
とにかく、こういう祭壇は豪華絢爛たるもので、この「エッサイの樹」以外にもキリストの十字架刑やキリスト生誕の図などとセットになっているのが多い。

私の一連の歌はフランスのオータンの聖堂で「エッサイの樹」を見て作ったものだが、ここでは写真は撮れなかったので、失礼する。
以下、『嬬恋』に載せた私の歌の一連を引用する。

  エッサイの樹・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「エッサイの樹から花咲き期(とき)くれば旗印とならむ」とイザヤ言ひけり

エッサイは古代の族長、キリストの祖なる家系図ゑがく聖堂

ダビデ王はエッサイの裔(すゑ)、マリアまたダビデの裔としキリストに継ぐ

その名はもインマヌエルと称さるる<神われらと共にいます>の意てふ

聖なる都(エルサレム)いのちの樹なる倚(よ)り座(くら)ぞ「予はアルパなりはたオメガなり」

樹冠にはキリストの載る家系樹の花咲きつづくブルゴーニュの春

オータンの御堂に仰ぐ「エッサイの樹」光を浴びて枝に花満つ

とみかうみ花のうてなを入り出でて蜜吸ふ蜂の働く真昼

大いなる月の暈(かさ)ある夕べにて梨の蕾は紅を刷きをり

月待ちの膝に頭(かうべ)をあづけてははらはら落つる花を見てゐし

「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ
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ここに掲出した歌の中の「はじめに言葉ありき」というのは、聖書の中の有名な一節である。あらゆるところで引き合いに出されたりする。
それが余りにも「規範的」である場合には、現在の地球上の混迷の原点が、ここから発しているのではないか、という気さえするのである。
だから、私は、敢えて、この言葉を歌の中に入れてみたのである。
前アメリカ大統領のブッシュが熱心なクリスチャンであったことは良く知られているが、彼は現代の「十字軍」派遣の使徒たらんとしているかのようであった。
中世の十字軍派遣によるキリスト世界とアラブ世界との対立と混迷は今に続いている。
はっきり言ってしまえば「十字軍派遣」は誤りだった。今ではバチカンも、そういう立場に至っている。
頑迷な使徒意識の除去なくしては、今後の世界平和はありえない、と私は考えるものであり、
この歌の制作は、ずっと以前のことではあるが、今日的意義を有しているのではないか、敢えて、ここに載せるものである。
2007年に起こったアフガニスタンでの韓国人「宣教団」の人質事件なども同様の短慮に基づくものと言える。
イスラム教徒はコーランに帰依して敬虔な信仰生活を営んでいるのであり、それを「改宗させよう」などという「宣教」など、思い上がりもいいところである。
誘拐、人質と騒ぐ前に、お互いの信仰を尊重しあうという共存の道を探りたいものである。


白丁が「三の間」に身を乗りいだし秋の水汲むけふは茶祭・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   白丁が「三の間」に身を乗りいだし
        秋の水汲むけふは茶祭・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日10月6日、京都府宇治市で茶業の基礎を築いた3人の祖──栄西、明恵、利休に感謝し、宇治茶の発展を願う「宇治茶まつり」が開かれる。
法要式典会場の興聖寺や塔の島周辺で開かれ、野点の席や、茶の飲み比べコンクールなどが催される。

写真①は宇治橋の「三の間」から白丁に扮した人が宇治川から水を汲む様子である。
この「三の間」という欄干の出っ張りは他の橋には見られないもので宇治橋独特と言われている。
むかし太閤秀吉が手ずから、ここから水を汲んだという故事が伝えられる。

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写真②は茶祭の法要の会場の興聖寺である。
この催しは今年で60回を迎える行事で、午前9時から「名水くみ上げの儀」を行なった後、茶業者らが平等院前を通り、興聖寺まで行列する。

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写真③は宇治平等院の鳳凰堂である。10円玉でおなじみだ。
興聖寺では午前10時から「茶壺口切り」や裏千家による供茶、使い切った茶筅(せん)に感謝する茶筅塚供養が営まれる。

ここで茶業の基礎を築いた3人を紹介しておこう。
すなわち、日本に初めて茶の実を持ち込んだ栄西禅師、宇治に茶園を拓いた明恵上人、茶道の祖である千利休、の三人である。
「宇治茶まつり」は例年10月の第1日曜日に催される。
この頃は、まだ結構暑くて、そのことは私の歌の中にも描いてある。
「祝竹」というのは三の間の写真にも出ているが正式には「忌竹」というが一般的には祝い事なのにと違和感があるので「祝竹」と改めた。
ほぼ、こんな行事進行だということが私の歌を見てもらえば理解していただけよう。もっとも私がこの一連を作ったのは15年も前のことである。
私の掲出の歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せた11首の一連である。
ただし自選50首には採っていないのでWeb上ではご覧いただけない。

  茶 祭・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

白丁が三の間に身を乗りいだし秋の水汲むけふは茶祭

三の間に結ふ祝竹この年の秋の茶事とて日射しに輝(て)らふ

青竹の水壺五つささげゆく琴坂あたりうすもみぢして

水壺の渡御のお供はみな若し即ち宇治茶業青年団

汲みあげて散華の雫となすべけれ茶祖まつる碑に秋日が暑く

一位の実色づく垣の橋寺の断碑に秋の風ふきすぎぬ

口切は白磁の壺の緋房解く美青年汝(な)れは青年団長

口切の茶は蒼々と光(て)りいでて御上水もて今し点つるも

茶の香りほのかににほふ内陣に茶祖の語録の軸かかげらる

秋空へ茶筅供養の炎(ひ)はのぼり茶の花は未だ蕾固しも

たそがれて皆ゐなくなる茶の花の夕べを妻はひとりごつなり
------------------------------------------------------------------
宇治橋の「三の間」に因んでだが、私の家の座敷に、三の間から翁が水を汲む絵と「若鮎や雨にもあらぬ峡の雲──俊宣」という俳句を書いた額が架かっている。
描いた人が誰かわからないが、絵の中の水を汲む人物は太閤さんだと仄聞するが、本当かどうかは判らない。ご愛嬌までに。

田中貞夫『島は劇場』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
田中

──新・読書ノート──

      田中貞夫『島は劇場』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                     ・・・・・・・2013/09/30刊私家版・・・・・・・・

この本は、色々の文化活動のプロデューサー、プロモーターとして活動してきた田中貞夫が、ベネッセ・コーポレションが瀬戸内のいくつかの島々で繰り広げる「瀬戸内アート・フェスティヴァル」について書いた「伝記」である。
私は今「伝記」と書いたが、田中貞夫は、資料を駆使しながら、こういうイベントなどの「概要」をまとめる名手なのである。
彼の書くものは「創作」ではないし、「評論」でもない。敢えて名付けるとすれば「伝記」以外に表現しようがないからである。


掲出した、この本の装丁は久谷政樹の手になるものである。
久谷政樹のプロフィール。グラフィックデザイナー。1970年・日本万国博覧会貴賓室壁画制作。
1975年・日本新聞協会賞。1982年・ブルノ国際グラフィックビエンナーレ銀賞。1989年・SDA賞奨励賞。
1990年・京都大学ロゴマークデザイン。1990年・花の万博「国際陳列館」アートディレクション。
1998年・京都市地下鉄サインデザイン。2005年・神戸空港サインデザイン。2008年・源氏物語千年紀ロゴ ...など。

久谷政樹 MASAKI HISAYANI 1940年京都生れ。
1968年エスボ都市設計国際コンペ3等受賞以来 国内および国際的な受賞、多数。
国内、国外での展覧会出品と個展、多数。
「所属」
京都造形芸術大学教授
(社)京都デザイン協会常務理事
(社)日本グラフィックデザイナー協会
(社)日本サインデザイン協会

かつて私は一昨年(2011)の夏の終りに、この地に旅して、その感想をブログに載せた。  ↓
「貸切クルーズで行く瀬戸内アードめぐり直島・豊島・犬島の旅」二日間

私の旅は限定的なもので、全貌には至っていないが、巨象の一部分には触れていると思うので、「リンク」になっているので参照されたい。

田中の本によると
第1回瀬戸内国際芸術祭は 2010年夏から秋への105日間 直島、豊島、女木島、男木島、小豆島、大島、犬島、高松港周辺 で行われたらしい。
18ケ国・地域から75組のアーチスト
来訪者 93万人

第2回瀬戸内国際芸術祭は 2013年春/夏/秋の108日間 開催中 である。
新しく参加する会場は 沙弥島、本島、高見島、粟島、伊吹島、宇野港周辺
23ケ国・地域から210組のアーチスト   が参加するらしい。 開催中なので、今年度の来訪者の数字は、まだ、ない。

私が訪れた2011年は、こういう特別のイベントのない中間の年だったので、何だか、そっけない対応の島々だったことを今になって気づくのである。
したがって、上記の私のブログに載せた文章は、悪口ばかりを書いたようで、割引いて読んでもらいたい。


さて田中貞夫の『島は劇場』とは、よくぞ名付けたものである。


はじめに、福武總一郎が強力なリーダーシップで率いる「ベネッセ」という企業がどういうものかWikipediaから引いておく。 ↓

株式会社ベネッセコーポレーション(英: Benesse Corporation)は、通信教育、出版などの事業を行なう、岡山県岡山市に本社を置く日本の企業。ベネッセと略称される。

本項では同社の完全親会社である持株会社の株式会社ベネッセホールディンクスについても述べる。

概要
かつては文芸誌「海燕」や「福武文庫」を出し、文芸・人文の出版も活発に行っていたが1990年代後半までに全面撤退し、現在は「教育・語学・生活・福祉」の分野を中心に事業を進めている。 出版事業においては、妊娠から出産・育児までの子育て情報誌「たまごクラブ」「ひよこクラブ」、情報・交流・学びなど多様な面で支援する事業領域として、生活マガジン「サンキュ!」、愛犬や愛猫との暮らしに役立つ「いぬのきもち」「ねこのきもち」、幼児〜小学生の子どもがいる家庭向けの食生活応援マガジン「ボンメルシィ!」などを展開している。

通信教育事業においては、乳幼児の発達段階に合わせた「こどもちゃれんじ」、小中高生用の進研ゼミ(小学講座・中学講座・高校講座・難関私立中高一貫講座・東大特講・京大特講)などを展開しており、特に教育・受験産業の分野を強みとした大手の出版社である。また、瀬戸内海に浮かぶ離島・直島(香川県直島町)で「ベネッセアートサイト直島」をはじめとした現代アートを通じた活動も行っている。

旧社名は「株式会社 福武書店」。社名変更後も「福武文庫」など語学関係の書籍に福武のブランドが用いられてきた。現在では『福武国語辞典』など一般向けの辞典に用いられている。

激変する教育環境に対応する商品・サービスを通して、改めて「教育のベネッセ」として事業強化を推進しており、教育事業の業績は好調である。2005年(平成17年)より産業再生機構の要請によりPC教室アビバの支援スポンサーとなり、採算性を改善し2009年(平成21年)3月期には黒字転換を果たした。しかしアビバ単独での業務拡大は困難と判断したことやベネッセの他事業との相乗効果が見られなかったことを理由として、2010年(平成22年)3月に全株式をスリープログループに譲渡し、アビバはグループから外れた。

2007年(平成19年)4月下旬に全国一斉に行われた文部科学省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)では、小学生におけるデータ集計業務全般を担当した。

持株会社であるベネッセホールディングスは東証第1部に上場している(証券コード:9783)。筆頭株主は従来、会長の福武總一郎個人であったが、福武および福武の妻・れい子が所有する全株式が、福武の個人会社である「イーエフユー インベストメント リミテッド」に移管され、日本マスタートラスト信託銀行に信託財産として拠出されているため、外面上の筆頭株主は2013年(平成25年)3月現在、日本マスタートラスト信託銀行となっている。

ゆとり教育などの教育方針の転換などに合わせた教材に力を入れている。その一方で顧客情報を元にダイレクトメールを送付するダイレクトマーケティングを強みとするが、それを批判する意見もある。→詳しくは進研ゼミ#ダイレクトメールを参照。

SNSやクラウドコンピューティングを教育に取り入れる一環でUstreamなどを利用した教育も行っている。

沿革
1955年(昭和30年)1月28日 - (旧)株式会社福武書店設立。生徒手帳の制作などから事業をスタート。
1973年(昭和48年) - 通信添削講座の名称を進研ゼミに変更統一。
1987年(昭和62年)4月 - 休眠会社のタバイサイエンス株式会社が(旧)株式会社福武書店を吸収合併し(2代めの)株式会社福武書店に商号変更(いわゆる株式額面変更目的の合併)。
1990年(平成2年)8月 - 岡山市南方に本社ビルが完成。それまでは岡山市南方(現本社の北側、創業の地)⇒岡山市番町(現同社番町研修センター)⇒岡山市高柳東町の順で本社が移転していた。
1994年(平成6年) - 第二の業務拠点である福武書店東京ビルが東京都多摩市に竣工(現在はベネッセコーポレーション東京ビルに改称)。 本社ビルは1992年(平成4年)の第33回BCS賞に、東京ビルは1995年(平成7年)の第36回BCS賞に、それぞれ受賞している。

1995年(平成7年)4月 - 商号を株式会社ベネッセコーポレーションに変更。
2006年(平成18年)10月 - 首都圏の予備校お茶の水ゼミナールを買収。
2007年(平成19年) 2月21日 - 前代表取締役社長兼CEO 森本昌義が辞任を表明し、福武總一郎が代表取締役会長兼社長兼CEOに就任。
4月27日 - 取締役兼執行役員専務福島保が、代表取締役社長兼COOに就任。

2009年(平成21年)10月1日 - 持株会社に移行。株式会社ベネッセコーポレーションが、商号を株式会社ベネッセホールディングスに変更し、同時に、会社分割(新設分割)を行い、完全子会社として新たに株式会社ベネッセコーポレーション(2代目)を設立。
2010年(平成22年)3月 - パソコン教室事業を行う子会社アビバをスリープログループに売却。また、介護施設事業を行うボンセジュールを買収し、グループインさせる。

社名・企業理念の由来
社名の「ベネッセ」(Benesse)は、ラテン語の bene (よい、正しい)と esse (生きる、暮らす)を組み合わせた造語である。1991年(平成3年)4月、第2次CI計画のなかで企業理念として発表され、1995年(平成7年)4月には社名として制定された。 「一人ひとりが主体的に人生を切り開いていくことを「教育・語学・生活・福祉」の分野でお手伝いする会社になろう、という決意」を表したものと説明される。
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当グーループの創業者・福武哲彦ならびに現・会長・福武總一郎は岡山県の生んだ「立志伝中」の人物であり、蓄えた芸術作品「国吉康雄」の絵などを有する。
瀬戸内の産業公害被害などで疲弊した島々を復興し、再生するのに地元から頼りにされる存在なのである。

賢明な読者ならば気がつかれたと思うが、福武哲彦は、息子の名前に「大原美術館」などを設立した「大原總一郎」にあやかれ、と「總一郎」と名付けたのである。

この本『島は劇場』の中にもベネッセの企業としての特徴や事業の進め方が巧みに筆写される。
田中の書くように、これらの島々は福武のリードのもとで、安藤忠雄や中坊公平やらの尽力によって「蘇り」「再生」した。
その様子は、さながら「劇場」で演じられる芝居のようであり、そのゆえに田中が「島は劇場」と名付けたのは、まさにぴったり、だと思うのである。

私がブログでも少し触れたように「芸術家というのは一人よがり」の存在である。
強い個性を持つ彼らに作品を作らせ、一つの、また、複合の作品群にまとめるのは並外れた根気の要るものである。
それは、強力なリーダーである福武總一郎だから出来たことであろう。
例えば、安藤忠雄である。
彼は「コンクリート打ちっ放し」の建物を得意とする。
だが、彼の、そんな作品ばかりに続けざまに接していると「疲れて」しまう。
私が「芸術家は一人よがり」という所以である。
また、これらの作品群は、大変に「不親切」である。それぞれの美術館なりの「パンフレット」などを読まないと、よく判らない。
本来、芸術作品というのは、そんな資料を読むまでもなく、見た、感じた「イメージ」で感受し、「パッション」で享受するものである。
それに、これらの作品群へのアプローチが長くて、遠い。
私が行ったときは夏の終りで、今年の夏ほどではなかったが、暑くて流汗淋漓だった。
せめて鑑賞期間を春と秋の気候のいい時期に限定するとかの配慮が欲しかった。
芸術家の責任ではないが、福武總一郎にも、そういう頭(ず)の高いところが感じられる。
大ざっぱに言えば、これらの島々は、いわゆる「観光」目当ての人は「お呼び」じゃないと言える。
私が、すっと受け入れられたのは「豊島」の、内藤礼と西沢立衛の「水滴」のオブジェが面白くて、癒された。

私の行った年以後に、いくつかの島々に芸術作品が追加されたようである。
この本で私は新しい作品群を知った。
春か秋の穏やかな季節に行って、ゆっくり鑑賞したいものである。
何度も言うが、この本は「島は劇場」と名付けられて、まさにびったりである。国際ビエンナーレの作者などが出品しているので外国の方が有名らしい。
田中貞夫の本は、まさに時宜を得た好出版物であると褒めておく。福武財団の喜ぶ本である。
田中は色々のプロモーターをやってきたので、主催者などが喜ぶ勘どころを心得ていると言えるだろう。

彼も参考資料に挙げているが、ヴィジュアルなものとして、新潮社・とんぼの本『直島瀬戸内アートの楽園』などの本を読むことをお勧めしたい。

なお、田中も持病があったりして、少し気力が落ちたのか、「校正」を他人に任せたのか、誤植や脱字などが、この本には散見されるので指摘しておきたい。
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(追記)
この本の出版を祝い<『島は劇場』を肴にして秋の味覚と酒を楽しむ会>が2013/10/25に
「馳走いなせや」京都市中京区柳馬場三条上がる で開催され約三十人が集まった。
著者・田中貞夫は播州の造り酒屋の息子で、日本酒をこよなく愛する男である。
この「いなせや」の主人などとも親しく、当日は「清酒シャンパン」なるものを初めて賞味させてもらった。
この「清酒シャンパン」は白酒だが瓶の中で後醗酵させたもので、後から炭酸ガスを封入したものとは違い、製法も難しいと聴いた。
主人が瓶の栓を慎重に抜くと、大きな爆発音がしてシャンパンの泡が噴き出た。大きな容器で予め受けておき、それを「片口」に注いで皆に配られた。
何とも爽やかな酒で、まさに清酒シャンパンと言える代物だった。
会は、そんな余興も交えてなごやかに始まり、この文章のはじめのところに書いた「久谷政樹」教授の挨拶が先ずあった。
続いて、詩人の有馬敲(ありま・たかし)が挨拶した。彼はもうずっと以前から「国際詩祭」に関係していて、外国詩人とも交流が深い。また座の中頃に自作の詩の朗読をした。
会には、田中の学内での交友もあって色々の分野の教授たちも集まった。
田中は京都造形芸術大学の経営母体の学校法人「瓜生山学園」の常務理事という枢要なポストに居たが、彼の発案で「通信教育講座」が発足したのだが、スクーリングが東京などでも催されるので大人気講座となり、今や通信教育講座が学園の主要な収入源になっている、などの内輪話も披露された。
付け加えておけば彼・田中貞夫の亡夫人は学園理事長・徳山詳直の妹であり、文字通り、この学園・大学は彼の身内のようなものである。

瀬戸内の、産業廃棄物の後処理で名高い「豊島」の件で尽力された中坊公平氏のことは有名だが、中坊の下で実務を支えた伊田波弁護士などと親しい木原康男なども挨拶した。
こういう風に、田中の周りには色々の分野でのスペシヤリストが居て人材豊富なのであった。

心地よい、ほろ酔いの気分のうちに午後三時頃散会した。 ほんとに佳い会だった。手土産に京都・伏見の「月の桂」吟醸酒を拝受する。
なお、田中貞夫の息子の嫁・悦子は姑である亡夫人の介護に尽くし、今は前立腺ガンの予後を抱える田中貞夫を、よく支えている。
今度の会でも世話人として尽力された。 ここに特に名を出して彼女の労をねぎらいたい。
彼女は田中の亡夫人に似て、色白の美人である。

「京を詠った私の一首」─宇治・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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↑ 宇治橋「断碑」古代の碑文
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↑いまは「覆い屋」で保護される。境内から発見された古い碑の断片(上部)と江戸時代に復元・継足した部分(下部)が明白に判別できる。

──エッセイ──

   「京を詠った私の一首」─宇治・・・・・・・・・・・・・木村草弥
       ・・・・・・・(角川書店「短歌」2001年3月号・大特集<旅に出てみませんか・歌めぐり京の旅>⑤ 所載)・・・・・・・・


      ■一位の実色づく垣の橋寺の断碑に秋の風ふきすぎぬ・・・・・・・・・・・木村 草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』に「茶祭」の題で収録した十五首の歌の一つである。
 毎年十月に宇治茶業青年団の奉仕で催される「茶祭」は年中行事として定着した。
「橋寺」というのは宇治川の川東にある寺で、川底から引き揚げられたことで有名な「断碑」を安置してある。
 昨年11月に私が訪れたら台座を修理中で他へ預けられていたが、今は元通り置かれている。

ここには平成3年に上田三四二の初めての歌碑が建立された。それは

<橋寺にいしぶみ見れば宇治川や大きいにしへは河越えかねき>

という歌で、原文には濁点はふらず、歌は四行書きで、結句の文字は万葉仮名で「賀祢吉」と書かれている。
この歌碑の写真は、このホームページで見られる。

京都と奈良の中間にある「宇治」は、この歌に詠まれているように古来、「宇治川の合戦」をはじめ歴史的に枢要な土地であった上に平等院などの史跡にも富む。
源氏物語の「宇治十帖」に因んで十年前に創設された「紫式部文学賞」と、川東に建つ「源氏物語ミュージアム」が成功して、
特に秋のシーズンには観光客で、ごった返すようになった。
因みに昨年の紫式部文学賞の記念フォーラムはNHKの桜井洋子さんの司会で俵万智、江国香織、川上弘美他の各氏が「愛と恋と文学と」と題して盛況であった。

(お断り)
この文章は2001年に発表したものであるから、記事中の「昨年」などの記載は、現時点のものではないから、予め読み替えていただきたい。

磬三たび打てど不在か師の寺を訪ふ門に紫式部のつぶら実が輝る・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  磬(けい)三たび打てど不在か師の寺を
   訪ふ門に紫式部のつぶら実が輝(て)る・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


磬(けい)というのは、もともと中国の石製楽器で、それが青銅製のものに作られ、仏教の儀式などに使用されたものである。
上部の紐穴に紐を通し、木製の磬架につるして鳴らす。

掲出の私の歌は第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたものだが、この歌の場合は、この「ケイ」は宗教儀式用のものではなく、師が中国から新作ものだが、古代の石製楽器に模したものを買って帰り、
門に呼鈴かわりに吊るしてあるものである。石製なので、カンカンという甲高い澄んだ音がするものである。庫裏の入口に掲げてあった。

中国の石製「ケイ」の写真をbittercup氏から教えていただいたので、中国のオリジナルの虎纹石磬の写真を出しておく。↓
出所は中国の「国家博物馆馆藏精品特展」という簡略体のサイトである。(草弥注・今はこのサイトは削除された) 
御礼申し上げて、ここに追記しておく。
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この歌のつづきに

  紫を禁色(きんじき)と誰(た)がさだめけむ紫式部のむらさきの実よ

という歌が載っている。もちろん日本朝廷が権威の象徴として高貴な僧などに限って着用を許したことは知っている。しかし、それを「誰かさだめけむ」と、ぼかすところが詩なのである。

ムラサキシキブについては先に採り上げたので、それを参照されたい。
私としては「ケイ」を詠った歌を採り上げたかったので重複する部分があるが敢えてアップした。
収録してある歌集も違うからである。
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この楽器についての解説をネット上から引いておく。

磬(けい)は古代の打楽器であり、中国で最も古い民族楽器の一つでもあります。素朴で古風な感じのする楽器で、とても精巧に作られています。磬の歴史はとても古く、遠い昔の《母系社会》で、磬は「石」や「鳴る球」と呼ばれていました。当時、人々が漁や狩猟で生計を立てていた頃、一日の仕事が終わった後にこの石を叩きながら様々な獣を真似た踊りを踊ったということです。このとき叩かれていた石がその後、徐々に改良され打楽器の磬となりました。
磬は当初人々の踊りや歌の中で演奏されていましたが、その後は編鐘(へんしょう)と同じように、古代の権力者が戦や祭りなどの場面で使うようになりました。

磬は使われる場所や演奏法によって特磬と編磬の二種類に分けられます。特磬は皇帝が天地と祖先を祭祀する時に演奏され、編磬は主に宮廷音楽に使われるもので、幾つかの磬からなる楽器で木製の棚に並べて演奏します。2000年ほど前の戦国時代、楚の編磬製造技術は既に比較的高いレベルに達していました。

1978年8月、中国の考古学者が湖北省随県の擂鼓墩で2400年ほど前の古墳(曽侯乙墓)を発掘したとき、その古墳の中から古代・楚文化の特徴を表す編鐘、編磬、琴、瑟、簫、鼓など120点余りの古代楽器や多くの文化財が出土しました。そのなかに32枚の曽侯乙編磬があり、上下に配置された青銅製の磬が棚の上に並んでいます。これらの編磬は石灰石や玉などから作られていて、通常は澄んだ明るい音色を出しますが、残念なことに出土した大多数がボロボロでヒビが入っており、音が出ない状態でした。1980年に湖北省博物館と武漢物理研究所が協力して作成した曽侯乙編磬の複製品は、本来の編磬とほぼ同じ美しい音色を再現しました。

1983年、湖北省音楽団が十二平均律に従い32枚の石製編磬を作ったほか、1984年9月には蘇州の民族楽器工場と玉彫刻工場が碧玉で18枚の編磬を作りました。

鑑賞曲:『竹枝詞』(曽侯乙編磬の複製品での演奏) ←この部分はリンクになっていない(草弥・注)



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