K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201310<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>201312
POSTE aux MEMORANDUM(11月)月次掲示板
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
aaootuwabuつわぶき

十一月になりました。
いよいよ冬に入ります。文化の香りも。

 一年の過ぎるはやさやガス台にこよひひとりの秋刀魚を焼ける・・・・・・・・・・・・ 小池光
 こつぴどく誰に撲たれし顔なるかでこぼこの実の黄のくわりんは・・・・・・・・・・伊藤一彦
 あれは秋の死のくるめきか澄みのぼる鳥を目守りき点となるまで・・・・・・・・・長岡千尋
 十歩ほど互みに過ぎて気づき合ふ秋の半ばのすずめいろどき・・・・・・・・・・・高旨清美
 恋むひとつ投げやらむかな枯野原淋しと呼ばふ声するあたり・・・・・・・・・・照屋眞理子
 歩み来し最後の一歩をここに止め死せるカマキリ落ち葉の上に・・・・・・・・・・北沢郁子
 里芋の大葉にたつぷり陽の溜りそのたつぷりを風がこぼせり・・・・・・・・・・・・沢口芙美
 句の中の戦後間もなき青空よ 林檎も雁も晩秋の季語・・・・・・・・・・・・・・・佐佐木幸綱
 晩秋の沼の面の水馬は微かな光の輪を踏みて立つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三井修
 インクのごとき色水となりインド綿のスカートは夏の汚れも晒す・・・・・・・・・・・小野雅子
 男系の途切れとぎれの精管を通りてわれに立ち暗むとき・・・・・・・・・・・・・ 佐々木六戈
 からすうりの赤きが枝に二つ三つ裏山の冬の木はやわらかし・・・・・・・・・・・・ 斎藤芳生
 顔と顔が出会いほのかに流れいし霧を引きとる瞬刻があり・・・・・・・・・・・・・・・・山下泉
 十一月あつまつて濃くなつて村人・・・・・・・・・・・阿部完市
 十一月いづくともなき越天楽・・・・・・・・・・・・・・・滝沢和治
 山の子が独楽をつくるよ冬が来る・・・・・・・・・ 橋本多佳子
 難民はムンクの叫び冬が来る・・・・・・・・・・・・山上樹実雄
 冬がくるドレッシングの分離層・・・・・・・・・・・・・ふけとしこ
 冬ざれや瀬音ま近く湯にひたる・・・・・・・・・・・・・角川源義
 たはごとや芒はなびくばかりなる・・・・・・・・・・・・油布五線
 空き瓶を持ち上げ雌雄確かめる・・・・・・・・・・・・・・丸山進
 DDDD圧倒的にDの海・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木貴子
 町名のここより変る白芙蓉・・・・・・・・・・・・・・・・・・村田篠
 トラックの胴に歌麿冬ざるる・・・・・・・・・・・・・・・・山下和子
 ドリンク剤ひと息に飲み秋祭・・・・・・・・・・・・・・小早川忠義
 くるぶしの高さに差なし秋簾・・・・・・・・・・・・・・・・今泉礼奈
 水晶の向かうは雪が降つてゐる・・・・・・・・・・・・・高勢祥子
 鷹病まれオナニー尽くし晩成す・・・・・・・・・・・・・・・・仁平勝
 鶏を乳白色に煮て白露・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北川美美
 この世からはがれた膝がうつくしい・・・・・・・・・・・・倉本朝世
 めだかああママなんて言う人はきらいです・・・・・・内田遼乃
 ふはふはの冬田横切り真夜帰る・・・・・・・・・・・・・・玉田憲子
 連雀やぱっと消えたる男伊達・・・・・・・・・・・・・・・・上田信治
 轢死のあった踏切を渡る夕暮れ・・・・・・・・・・なかぎりせいじ
 青胡桃にちいさいしろい歯が二本・・・・・・・・・・・・金原まさ子
 歯医者から本一冊を借りてくる・・・・・・・・・・・・・安黒登貴枝
 コップひとつ割って日蝕が終わる・・・・・・・・・なかはられいこ
 二枚貝恍惚として紐がある・・・・・・・・・・・・・・・・・・柿本多映
 着地するたび夢精するオスプレイ・・・・・・・・・・・・・・滋野さち
 あかんべいをしてするすると脱ぐ国家・・・・・・・・・・・・石部明
 あおむけになるとみんながのぞきこむ・・・・・・・・・佐藤みさ子
 留守らしい軒をかざって貴船菊・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 ジオラマのあの街角に月を置く・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」「CM」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。
ただしカレンダーの無いものもあります。
「月別アーカイブ」は30件表示するようになっています。30件以上ある場合は「NEXT」を押して進んでください。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の記事は、引用、リンク、転載フリーです。事後でもお知らせ下さると嬉しいです。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください。

私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第五歌集『昭 和』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
一般書店からの取り寄せは、角川書店の配本部門・角川グループパブリッシング発売、と指定されたい。
ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する ★ ──登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


banner99条守ろう

  9条守ろう!ブロガーズ・リンクに参加しています(0215)
 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

Banner_125x125_0003_D.jpg

   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
  と想像してみてください。」
──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
土曜美術社出版販売「詩と思想」
文芸春秋社・書籍ショールーム

恋ともちがふ紅葉の岸をともにして・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子
misebaya4ミセバヤ紅葉

   恋ともちがふ紅葉の岸をともにして・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

今日は「紅葉」を採り上げることにする。
写真①は「みせばや」の紅葉である。ミセバヤは別名を「玉の緒」とも言う。この細かい、丸い葉が薄紅色に紅葉する様子は、あでやかなものである。
「ミセバヤ」については2009/10/06に載せたので参照されたい。

いよいよ11月も終わりになって、いろんな木や草が紅葉の季節を迎える。
写真②は「夏椿」の紅葉である。
natutubaki6夏椿紅葉

ナツツバキというのは「沙羅の木」として梅雨の頃に禅寺などの庭で「落花」を観賞する会が行われる木であるが、もみじの季節には、また美しい紅葉が見られるのである。
緑の季節には落花に儚さを感じ、紅葉の季節には、くれないの葉の散るのを見て、人の世の無常に涙する、という寸法である。
「夏椿」については2009/06/20に載せたので参照されたい。

①と②に、平常は余り見ることの少ない草と木の紅葉を出してみた。
いかがだろうか。
写真③は普通の「カエデモミジ」の紅葉である。
aaookaede01カエデモミジ

「紅葉」は、また「黄葉」「黄落」とも書く。
京都は紅葉の季節は一年中で一番入洛客の多い時期だが、今年は夏が終っても暑い日が多く、11月中に紅葉の盛りが来るかどうか心配されてきたが、
果たして染まり具合は、どうだろうか。

以下、紅葉を詠んだ句を引いて終りたい。

 山門に赫つと日浮ぶ紅葉かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 障子しめて四方の紅葉を感じをり・・・・・・・・星野立子

 夜の紅葉沼に燃ゆると湯を落す・・・・・・・・角川源義

 紅葉に来文士は文を以て讃へ・・・・・・・・阿波野青畝

 近づけば紅葉の艶の身に移る・・・・・・・・沢木欣一

 紅葉敷く岩道火伏神のみち・・・・・・・・平畑静塔

 すさまじき真闇となりぬ紅葉山・・・・・・・・鷲谷七菜子

 やや傾ぐイエスの冠も紅葉す・・・・・・・・有馬朗人

 城あれば戦がありぬ蔦紅葉・・・・・・・・有馬朗人

 天辺に蔦行きつけず紅葉せり・・・・・・・・福田甲子雄

 黄葉はげし乏しき銭を費ひをり・・・・・・・・石田波郷

 黄葉樹林に仲間葬りて鴉鳴く・・・・・・・・・金子兜太

 へくそかづらと言はず廃園みな黄葉・・・・・・・・福田蓼汀

 黄落や或る悲しみの受話器置く・・・・・・・・平畑静塔

 黄落の真只中に逢ひえたり・・・・・・・・・小林康治

 黄落や臍美しき観世音・・・・・・・・堀古蝶

 ゆりの木は地を頌め讃へ黄落す・・・・・・・・山田みづえ

 黄落やいつも短きドイツの雨・・・・・・・・大峯あきら



妥協とは黙すことなり冬ざれのピラカンサなる朱痛々し・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
aaoopirakaピラカンサ本命

  妥協とは黙(もだ)すことなり冬ざれの
   ピラカンサなる朱(あけ)痛々し・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

ピラカンサはPyracantha と言うが、誤ってピラカンサスと書かれているものもあり、私も原作はピラカンサスと間違って歌集にも載せたが、
塚本邦雄氏の文章を読んで、間違いに気付き、改作した。
ピラカンサは写真②のように5月はじめ頃、このように白い花をたくさんつける。

FI2618558_2E.jpg

ピラカンサは樹高せいぜい2メートルまでの低木で、枝にはバラのように鋭いトゲがたくさんついている。
写真のように晩秋になると真っ赤な実がびっしりと生るが、野鳥たちの冬の絶好の餌となり、冬中には、すっかり食べ尽くされてしまう。
補足して書いておくと、ピラカンサ=「火+トゲ」を意味するギリシア語からの造語、と言われている。
ピラカンサはバラ科の常緑低木。中国が原産地だが、日本へは明治中期に、フランスから輸入されたという。
高さ1、2メートルで刺のある枝を密生し、葉は革質で厚い。庭木としてよく見られるが、生垣になっている場合が多い。
晩秋に球状の実が黄橙色に色づいて枝上に固まって着く。だんだん赤橙色になり、冬になっても、その色を失わない。
南天なども、そうだが、冬ざれの中の「赤」は冬の一点景とは言え、却って「痛々しい」感じが、私には、するのである。
この歌の一つ前には

  沈黙は諾(うべな)ひしにはあらざるを言ひつのる男の唇(くち)の赤さよ・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているので、これと一体のものとして鑑賞してもらえば、ビジネスマンの人などにも、共感してもらえるのではないか。
そういう、生々しい「人事」の歌である。

いま歳時記を開いてみたが、ピラカンサの句は殆ど載っていない。
僅かに、次の一句だけが見つかったが、これも「ピラカンサス」と誤って使われている。

 界隈に言葉多さよピラカンサス・・・・・・・・・・・・森澄雄



干柿の緞帳山に対しけり・・・・・・・・・・・・・・・・百合山羽公
FI2618557_1E.jpg

  干柿の緞帳山に対しけり・・・・・・・・・・・・・・・・百合山羽公

「干し柿」「吊るし柿」と言っても、さまざまな柿の形がある。写真②は丸い形の柿である。

FI2618557_2E.jpg

私の方の南山城地方の柿は「鶴の子」柿といって大振りでない砲弾形の柿である。
専門的に作る農家では竹や杭で骨組みを立ち上げ、菰などで周りを囲い、風通しは良くした素通しの「柿屋」というものに柿を吊るさずに、藁で編んだ菰や莚の上に平らに並べて干す。
柿を剥く時に、柿の「蔕」(へた)も取り去る。「古老柿」ころ柿と称している。
冷たい風が吹きすぎるようになると、順調に白い粉のふいた干し柿になるが、気候が暖かいと、よい製品が出来ないという。
自家消費の場合は量が限られているので、納屋の窓の外などに「吊るし柿」にして陽にあてることが多い。
以下、吊るし柿を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 吊し柿すだれなしつつ窓を占む・・・・・・・・和知清

 吊し柿作りて老婆いつまで生く・・・・・・・・長井哀耳

 干柿を軒に奥美濃雪を見ず・・・・・・・・塩谷小鵜

 甘柿の粉を吹く風の北となる・・・・・・・・梅田久子

 軒端より起れる恵那や柿を干す・・・・・・・・大橋桜坡子

 干柿や同じ日向に猫がゐて・・・・・・・・榎本虎山

 夜空より外しきたりぬ吊し柿・・・・・・・・八木林之助

 


団栗の己が落葉に埋れけり・・・・・・・・・・・・・・・渡辺水巴
d0056382_20162867クヌギの実

   団栗の己が落葉に埋れけり・・・・・・・・・・・・・・・渡辺水巴

団栗ドングリは、本来は櫟クヌギの実のことを指すが、一般的には落ちる木の実を言うようである。
時には樫の実のように「常緑樹」の実も含められるが、せいぜい譲っても、クヌギと同属の落葉樹、コナラ、ミズナラ、アベマキ、カシワなどまでに留めた方がよいだろう。
掲出写真のように、クヌギの実は丸い。
P1070816-11クヌギ青実
↑ 写真①はクヌギの実の青いものである。実の周りにトゲトゲの萼で包まれている。

写真②は、そのクヌギの新芽である。
ha02クヌギ新芽

雑木林の典型的な木である。昔は、この木でタキギ薪を作った。
今では燃料としての用途はなくなり、コナラなどの木とともに椎茸栽培の「ホダ木」に使われるに過ぎない。
こういう雑木はほぼ十数年のサイクルで伐採され、伐採された株元や落ちたドングリから次の世代が芽を出して、更新して新しい雑木林が出来るという循環になっていたのである。
こういう人の手の加わった人工林を「里山」という。

mizunara582ミズナラ実
↑ 写真③はミズナラの実である。
『和漢三才図会』に「槲(くぬぎ)の木、葉は櫧子(かし)の木に似て、葉深秋に至りて黄ばみ落つ。その実、栗に似て小さく円きゆゑに、俗呼んで団栗と名づく。蔕(へた)に斗ありて、苦渋味悪く食すべからず」とある。
小林一茶の句

     団栗の寝ん寝んころりころりかな

は、その実の可愛らしさを、よくつかんでいる。

konara4コナラ青
↑ 写真④はコナラの青い実である。

いま広葉樹の森が有用でないとかの理由で伐採され、面積が減少しているので、復活させようとドングリ銀行なるものを提唱して団栗を大量に集めて、
森を作る運動がおこなわれている。
針葉樹の森は生物の生きる多様な生態系から見て、単純な森で、多様性のある生態系のためには広葉樹の森が必要であると言われている。
常緑樹である樫(かし)の木も広葉樹であり、常緑か落葉かは問わず、広葉樹には違いはないし、樫の木にもドングリは生るのである。
↓ 写真⑤はマテバシイの葉である。この木からも団栗が採れる。
ha03マテバシイ葉
mi02マテバシイ

以下、団栗を詠んだ句を引いて終りたい。

 団栗を掃きこぼし行く箒かな・・・・・・・・高浜虚子

 雀ゐて露のどんぐりの落ちる落ちる・・・・・・・・橋本多佳子

 団栗に八専霽(は)れや山の道・・・・・・・飯田蛇笏

 樫の実の落ちて駆けよる鶏三羽・・・・・・・・村上鬼城

 団栗を混へし木々ぞ城を隠す・・・・・・・・石田波郷

 孤児の癒え近しどんぐり踏みつぶし・・・・・・・・西東三鬼

 しののめや団栗の音落ちつくす・・・・・・・・中川宋淵

 どんぐりが乗りていやがる病者の手・・・・・・・・秋元不死男

 抽斗にどんぐり転る机はこぶ・・・・・・・・田川飛旅子

 どんぐりの坂をまろべる風の中・・・・・・・・甲田鐘一路

 どんぐりの頭に落ち心かろくなる・・・・・・・・油布五線

 どんぐりの山に声澄む小家族・・・・・・・・福永耕二

 どんぐりの拾へとばかり輝けり・・・・・・・・藤野智寿子



藤原光顕の歌「ローマの猫は」10首・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
光顕

──藤原光顕の歌──(13)

     藤原光顕の歌「ローマの猫は」10首・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・・・・「芸術と自由」NO.291所載・・・・・・・・

        ローマの猫は・・・・・・・・・藤原光顕

  ヘリコプターの音が軽くなったと見上げる空がふいに 秋である

  生涯をこの世に振り当てられたこと今さら言ってみたりして 秋

  あれが岐路だったのか 振り返る遠い木に秋の陽が降っている

  スーパーの自転車置き場に秋がきて ローマの猫は塀の上にいた

  相哀れむ思いどこかにあったかと乗り換え駅の陽ざし見ている

  三日ほど前たしかにここは森だった 新しい切り株に陽が鮮らしい

  あの人のあの家はまだあるだろうか 土手の芒に風は通うか

  駅を出てもう疲れてくる まごつくたびに余所者の顔をしたりして

  七十余年の選択の果てとふと思いむらさき色の夕暮れにいる

  懲りもせずまた来て悔いる敬老会 お弁当食べて「ふるさと」唄う

---------------------------------------------------------------------
いつもながらの光顕ぶし であるが、藤原さんの歌には「詩」がある。
当今の「新」短歌と称する作品は、多くが事実をズラズラと羅列するだけのものが多く、「詩」が感じられない。
そんなものは「詩」ではない。
「詩」とは「非日常」である。それが詠われなければ詩ではない。
光顕作品は「ローマの猫は」という題名からして、読者の意表を突く。
私は「新」短歌も「短詩」として把握している。

光顕作品の末尾に「敬老会」を詠んだものがあるが、年寄りだからと「お仕着せ」の観が強い。
私は老人会には出ない。
体のどこそこが痛い、だの、誰それが死んだ、なの、そんな「後ろ向き」の人生はイヤである。
歳はとっても新しいもの、若いものを求めて、新たな日々を生きたい。
そんなことどもを考えさせてくれる光顕作品だった。
この雑誌はもっと前にいただいたのだが、ベトナム旅行前とて、日延べさせてもらった。
有難うございました。 ご健詠を。


草紅葉ひとのまなざし水に落つ・・・・・・・・・・・・桂信子
FI2618556_1E.jpg

     草紅葉ひとのまなざし水に落つ・・・・・・・・・・・・桂信子

草紅葉クサモミジは野草や低木が初冬になって色鮮やかに色づくことを、こう形容する。特別に「草紅葉」という名の草や木がある訳ではない。
写真①のような鮮やかな場所は、どこにでもあるものではない。オトギリソウ、オカトラノオ、トウダイグサなどは特に美しい。

草紅葉を、古くは「草の錦」と呼んだが、『栞草』には「草木の紅葉を錦にたとへていふなり」とある。
けだし、草紅葉の要約として的確なものである。
そして、その例として

  織り出だす錦とや見ん秋の野にとりどり咲ける花の千種は

という歌を挙げている。霜が降りはじめる晩秋の、冷えびえとした空気を感じさせる季語である。

FI2618556_2E.jpg

FI2618556_3E.jpg

秋芳台のように草原と露出した岩石のコントラストが見られる所の草紅葉が趣があって面白い。(写真②③)
この季語は、小さく、地味で目立たない草が紅葉することによって、集団として錦を織り成す様子を表現しているのである。
その結果として、「荒れさびた」感じや「哀れさ」を表すのである。
古来、詩歌にたくさん詠まれてきたが、ここでは明治以降の句を引いておく。

FI2618556_4E.jpg

 猫そこにゐて耳動く草紅葉・・・・・・・・高浜虚子

 くもり日の水あかるさよ草紅葉・・・・・・・・寒川鼠骨

 帰る家あるが淋しき草紅葉・・・・・・・・永井東門居

 草紅葉へくそかつらももみぢせり・・・・・・・・村上鬼城

 大綿を逐うてひとりや草紅葉・・・・・・・・渡辺水巴

 内裏野の名に草紅葉敷けるのみ・・・・・・・・水原秋桜子

 たのしさや草の錦といふ言葉・・・・・・・・星野立子

 草紅葉磐城平へ雲流れ・・・・・・・・大野林火

 絵馬焚いて灰納めたり草紅葉・・・・・・・・吉田冬葉

 白根かなしもみづる草も木もなくて・・・・・・・・村上占魚

 山芋の黄葉慰めなき世なり・・・・・・・・百合山羽公

 鷹の声青天おつる草紅葉・・・・・・・・相馬遷子

 菜洗ひの立ちてよろめく草紅葉・・・・・・・・小野塚鈴

 草もみぢ縹渺としてみるものなし・・・・・・・・杉山岳陽

 酒浴びて死すこの墓の草紅葉・・・・・・・・古館曹人

 吾が影を踏めばつめたし草紅葉・・・・・・・・角川源義

 良寛の辿りし峠草紅葉・・・・・・・・沢木欣一

 屈み寄るほどの照りなり草紅葉・・・・・・・・及川貞

 学童の会釈優しく草紅葉・・・・・・・・杉田久女

FI2618556_5E.jpg

2008年初夏に旅した「能取湖畔のサンゴ草の紅葉」 ← も有名なところなので、ここにリンクに貼っておく。

( 旅行記 ) 「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
topimg01ハロン湾 本命
 ハロン湾  ↑ ↓ ↓
4b7858a87b40f9ea27567e410dfca76aハロン湾
2c141be6ハロン湾
ベトナム地図
 ↑ ヘトナム地図
Vietnam-World-Heritage-site-Mapベトナム世界遺産地図
 ↑ ベトナム世界遺産地図
ベトナム通貨
 ↑ ベトナム通貨2000ドン(日本円で10円)
プレミアム
ツーリズム_0001

     「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(1)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・・・・

        関西空港からベトナム・ホーチミンへ・・・・・・・・・・木村草弥

ベトナムの季節配置を見てみると、十一月は雨季の最終期で、まだ降雨のある時期らしい。行程中、雨に遭わなければいいが、と思うのみである。
ベトナムは南北に長い国なので、北のハノイと南部のホチミンでは気候が大変異なる。

折しも台風30号(アジア名ハイエン)がフィリピンに上陸し、レイテ島などに大被害を与えたあと、ベトナム沿岸を北上したらしい。
ベトナム中部から北部に向け海岸線を北上する形でトンキン湾へ進み、11日にかけ北部に上陸する見通し、と報道された。(共同)
「世界の天気」や「ベトナム通信」など毎日ネットで見ていたが、天気が一転して悪くなったようで心配していた。
どうも雨具が欠かせない旅になりそうである。

この心配が現実になって雨に遭うだけでなく、旅程中止などの事態を招くことになる。 詳しくは当該個所で書く。

ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。(日本は北東から南西へ約3000㎞)
インドシナ半島の太平洋岸に平行して南北に伸びるチュオンソン山脈(アンナン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。
細長いS字に似た国土の形状を、ベトナムでは米かごを吊るす天秤棒に喩えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。
北のデルタは、紅河(ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市ハイフォンが位置する。南のデルタはメコン川によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。
沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。
ホーチミンで最高気温33度のときにハノイでは25度とある。夏用と秋用の服装を用意しなければならないかと思ったりした。
日本に居るときから現地の天気は毎日見てはいたが、気になるところである。

ベトナム航空直行便で10:30関西空港発ホーチミンへ。 VN321便 JL5009と共同運航である。所要時間 約五時間四十分。現地時刻14:10着である。
ベトナムと日本との間には時差が二時間である。
空港の搭乗口の表示によると、中華圏向けのものとしては「胡志明」となっている。 なるほど巧く表現したなあと思う。
今度の旅の同行者は18名で、このくらいの人数が丁度いい。 ツアーディレクターは蔵本泰子さん。
蔵本さんに聞いて、今も米ドルがベトナムでは有効な流通通貨だと聞いて、一万円を米ドル100ドルに交換する。端数は小銭で追加した。
10ドル5枚、5ドル10枚にしたが、1ドル札を多くすべきだったと後悔することになる。
 
640x640ベトナム航空
 ↑ 機材:A330-200 

もとサイゴンと呼ばれていた、この町には、カンボジアに行ったときに短時間トランジットで降りたのみである。
現地時間 14:10 に着いてホーチミン市内観光を少しする。
主だったところは「サイゴン大教会」「中央郵便局」、「ドンコイ通り」のみであり、あとは明日に観光することになる。

     サイゴン大聖堂と中央郵便局、ドンコイ通りなど・・・・・・・・・・木村草弥

サイゴン大教会
450px-HCMC_Notre_Dame_Cathedralサイゴン大聖堂
captionサイゴン大教会
vi07サイゴン大教会
20110605131853903サイゴン大教会

サイゴン大教会(サイゴンだいきょうかい、Nhà thờ Đức Bà Sài Gòn, サイゴン聖母大聖堂)はベトナムのホーチミン市1区にあるカトリックの大司教座大聖堂である。
聖マリア大聖堂とも呼ばれる。サイゴンがフランスの植民地だった1863年から1880年にかけて建設された。
1962年にバシリカ (Basilique)となっている。

サイゴン中央郵便局の横にある。ドンコイ通りが付近のロータリーから始まり、サイゴン川に向かって一直線に延びている。

フランス植民地時代に建設されたもので、ネオ・ゴシック様式の教会である。
カトリック教徒も多いベトナムにおいては休日のミサともなれば多くの敬虔なホーチミン市民によってごった返し、入りきれなかった信徒が建物正面の広場にも溢れかえるほどである。
その建物の荘厳さから普段は観光地としても人気がある。

サイゴン中央郵便局
hcmc-central-post-officeサイゴン中央郵便局
hcmc-central-post-office内部
 ↑ 郵便局内部
サイゴン中央郵便局は、ベトナムのホーチミン市1区にある郵便局。1891年に当時のフランス領インドシナの郵便・電信施設として建築された。
パリのオルセー美術館(当時駅舎)をモデルにしたといわれ、鉄骨設計はギュスターヴ・エッフェルが手がけた。
2012年現在でも通常の郵便・通信業務を行っており、コロニアルスタイルの観光名所としても著名である。

建物中心ホールの中央部および建物両翼は観光客相手のみやげ物売り場となっているが、ホール外周のカウンターでは現在でも郵便をはじめとして各種通信・金融サービスカウンターが並び、国際電話用の電話ボックスやそれを模したATMが設置されている。
ここで買った切手の画像を出しておく。  ↓
切手②
切手①
切手③

こんな公共機関でも米ドルで買えるのには驚きである。普通どこの国でも公共機関は自国通貨のみしか通用しないのに。
記念切手シート(使用済みのもの)は5米ドルだった。
為替相場は、1米ドル=21000ドンである。
日本円との換算は末尾のゼロを二つ取り、残りの数値を2で割ったものが日本円の価格。

外気は33度、湿気が多く、むっとする。 こんな気温は、ここホーチミンだけだった。
ベトナムの人口9000万人のうち10%が、ここホーチミンに住むという。

ドンコイ通り
VIET_20130802_01ドンコイ通り
sgn1201ドンコイ通

ドンコイ通りは、ベトナムのホーチミン市にある通り。
ホーチミン市の主要通りの1つで、サイゴン大教会付近のロータリーからサイゴン川にかけて一直線に延びており、グエンフエ通りと並走している。
ルイ・ヴィトンやグッチなどの高級ブランド品店やデパート、レストランやカフェ、雑貨店が多く、その数も徐々に増えている。
また、古くからホーチミン市の繁華街であったため、歴史的建造物やコロニアルホテルなどもあり、元フランスの植民地であるベトナムの「シャンゼリゼ通り」といった扱いを受けることが多い。

CLBXPIGAホーチミン
xy4aFh8mRqoOM-0バイク

↑ ホーチミン市内は、ものすごいバイクの数、怒涛のように押し寄せる。信号待ちのバイクが、ひしめくように連なるのは壮観である。
当然「空気」は排ガスで悪い。神経質な方にはマスクが必要。
ただし今回は雨模様で空気が湿っていて、マスクは不要。

「バイク」のことを少し書いてみる。
ヘトナムでは日本のホンダが一番はやく進出したので、バイクのことは代名詞として「ホンダ」と呼ぶ。
二人乗り、三人乗りが多いので排気量は100cc以上が多いらしい。
それにしても、こちらのバイクのエンジン音は静かである。軽やかな音である。バリバリというような騒音ではない。
値段も数万円だから、さほど物凄い出費ではないし、どこにでも気軽に行けるので普及している。
四輪車は極めて少ない。政府としても輸入には高額の関税をかけているので超富裕層でなければ車は買えない。
現地ガイドの話では、日本で買う三倍くらいするという。
いたるところで「交通警察」が検問している。日本でいう「ネズミとり」も盛んに行なわれていて、バス運転手などは、きわめて慎重な運転である。
そんなこんなで、道路の悪さも手伝って国道の移動には時間がかかることになる。 工事も人海戦術である。
四輪車はトヨタなどの日本車が多い。タクシーはトヨタ・カローラである。
韓国のKIAのタクシーも見られる。
バスは韓国のHyundaiが多い。新車か中古車かは、見た目では判らない。
ただし、後でも書くが、リゾート開発にしろ、車にしろ韓国の進出はめざまいものがあるようだ。
中国は「南沙諸島」などで覇権主義による対立を抱えているので、ベトナム政府の意向もあるのか、ものすごい進出はみられないようだ。

話は変わるが、現代中国では「電動バイク」が主流であり、こんなガソリンを焚いて走る光景は見られない。
電動バイク専用の車線が指定され、そこを二列になった電動バイクが、音もなく粛々と行くのは、まさに見ものである。
その代りに四輪車の数が物凄く多く、渋滞と、排ガスで大気汚染がひどいことは先刻ご存じのことである。 話のついでに書いてみた。

ベンタイン市場
Ben_Thanh_marketベンタイン市場
ホーチミン市最大の観光市場、「ベンタイン市場(cho Ben Thanh)」とは?
毎日観光客でごった返し、ガイドブックには必ずといっていいほど載っているこの市場。バスターミナルの正面、市内最大の大通りともいえるレロイ通りに面している。
約1万平方メートルの場内に2000軒を超えるお店がびっしり。朝賑わうのは、裏手にある生鮮食品を扱うエリア。
実は地元の人の大切な台所である。昼間は観光客であふれる場内。夜は場外に出現するナイトマーケット。3つの顔を持つベンタン市場は必見である。
hcmmarket81.jpg
ea4393ab87a22a0b_Sベンタイン
3d5459668d7651a3_Sベンタイン

ここについては → 「ベンタイン市場の一日を探検してみよう」のサイトが写真入りで詳しい。

「ベトナム」というと、私などのような年配者は、果てしない泥沼のような「ベトナム戦争」を思い出す。
世界の共産主義の防波堤たらんとしたアメリカが、遠く離れた越南の地で介入したものである。
最初は北のホーチミン率いる共産政権と、アメリカの傀儡政権だった「南ベトナム政府」の抗争だったが、南の劣勢にアメリカが直接介入した。
それでも事態は改善せず、一村みな殺し作戦とか、ゲリラの潜む密林を枯葉剤で丸坊主にする作戦など「非人道的な」戦術の限りを尽くしたが、
アメリカ本国での「介入反対」「引き揚げ」の抗議行動に耐え切れずに、最後はベトナム解放戦線の総攻撃でもろくも崩れ、打ち切りとなった。
少し後に出すが、当時の南政府の大統領官邸にT5戦車が突入するニュース映像などは、今も私の脳裏に濃く焼き付いている。
「枯葉剤」の後遺症は今も残っており、奇形双生児のベトちゃん、ドクちゃんのことなども悲惨な話題となった。
参考までに[閲覧注意]ベトナム枯葉剤作戦の犠牲者の画像 を出しておく。

この国は正式には「ベトナム社会主義共和国」と言い、「ベトナム共産党」の一党独裁下にあり、その他の政党は存在しない。
そういう特異な国である、ということを先ず頭に入れておく必要があるだろう。

特に中国(中華人民共和国)との間には「南沙諸島」の領有権などの厳しい対立点を抱えている。
Wikipediaには、下記のような記事が見られるので、引いておく。 ↓
-------------------------------------------------------------------------------
中国との関係
ベトナムは長い歴史の中、中国歴代王朝から繰り返し侵略を受けた。
紀元前111年から約1000年もの間、中国歴代王朝はベトナムを支配下に置いたが、938年にゴ・クェン(呉権)が白藤江の戦い (938年)で南漢軍を破って独立を果たした。
この間、1世紀にベトナムで初めて中華王朝、後漢の圧政に立ち上がったハイ・バー・チュン(チュン姉妹)は英雄視され、その名はベトナムの都市の街路名等に使われている。
また、大元ウルスの侵攻に対して陳興道率いる陳朝ベトナム軍が白藤江の戦い (1288年)で勝利した。
15世紀初頭に明朝の永楽帝にベトナムが支配された際にも、1418年にレ・ロイ(黎利)の蜂起により、明軍を撃破し、黎朝を建国している。
その功績は、ベトナムの大小都市の街路名として、至る所で見かける事ができる。
13世紀-19世紀に中国の漢字をベースとしたチュノムがエリート層を中心に浸透したが、一般庶民までは浸透しなかった。

南北ベトナム統一後も、親中派の民主カンプチアに対する親ソ派のベトナムによる侵攻(カンボジア・ベトナム戦争)を巡って1979年に中華人民共和国との大規模な戦争を起こし(中越戦争)、1989年までたびたび交戦(中越国境紛争)をしている状態であった。

また、最近では南シナ海にある南沙諸島(ベトナム語名チュオンサ諸島)・西沙諸島(ベトナム語名ホアンサ諸島)の領有権問題も抱えている(1988年には人民解放軍によるスプラトリー海戦によって、駐留していたベトナム人民海軍水兵を虐殺され、ジョンソン南礁を占拠されている)。
その為、中華人民共和国に対する関係も悪く、南沙諸島の領有権問題で、普段は禁止されているデモも2007年12月に公安(警察)の取り締まりもなく、半ば公然と行われた。

また、中華人民共和国が南沙諸島と西沙諸島を含む南シナ海の島嶼部を『三沙市』(通称:牛の舌)の成立を勝手に宣言した事に対して、ベトナム外務省は猛烈に抗議をし、ベトナム社会主義共和国は、領有するに十分な歴史的証拠と法的根拠を持っているという見解を示し、中華人民共和国の三沙市設置はベトナムの主権を侵害することであり、両国間合意に違反するともに、中越両国が海洋領有問題解決を目指し開始した交渉を妨害するものである、と抗議した。2012年6月21日、ベトナムの国会は、南シナ海の南沙諸島・西沙諸島の領有権を定めた「ベトナム海洋法」を可決、これに対し中華人民共和国政府は強い抗議声明を発表、ベトナム社会主義共和国もまた中華人民共和国の抗議に対して「中華人民共和国の道理に反した批判は強く拒絶する」と非難する声明を発表した。ベトナムにとって、中国からの独立は、国家としてのアイデンティティでもある。
更に、2012年5月から中華人民共和国で新規発行されたパスポートの査証ページ上に南シナ海の三沙市の行政区画が印刷されており、ベトナム社会主義共和国の領土主権を主張し実効支配している西沙諸島・南沙諸島を否定する図となっている事が発覚、ベトナム外務省は中華人民共和国に対して猛烈に抗議をし、新パスポート所持者に対しては、入国審査官が入国・出国スタンプの捺印を拒否、ベトナム政府が用意した別紙にて入国・出国スタンプを捺印する事で、新しい中華人民共和国のパスポート上に捺印する事を拒否している。 この様な中華人民共和国の一連の出来事に対して、毎週日曜日にハノイ市にある、駐ベトナム中華人民共和国大使館前にて、ベトナム人民が抗議のデモ活動をしている。

しかし、北京オリンピックの聖火リレーでは、表立って非難はされなかった。
対中関係は首脳レベルでの会議は行われるものの、領土・領海紛争問題で対立を続けている。
中華人民共和国とは陸続きの為、中国製品(Made in China)も多く流通しているが、ベトナムでは華人(主に漢民族)が急増し、不法滞在・不法就労も多発している事から、過去の侵略された歴史を含めて、反中感情を抱く者は非常に多い。

↓ ホーチミン宿泊のホテル
ニュー ワールド サイゴン ホテルの写真
ニューワールドサイゴンホテル  ← クリックするとホテルの概要などがスチール写真で次々に紹介される。

DSCF0258.jpg
↑ ホテル前の公園で体操などをする人たち
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

        「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(2)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・・・・

いよいよ第二日である。

       クチ地下トンネル・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

郊外約40㎞にある「クチ地下トンネル」の見物に。 地図を見ると、すぐカンボジアとの国境である。
入場料は9万ドンということだった。団体切符なので入場券は貰えなかった。
トンネル内は湿気と人間の体臭などが籠って、気分はよくない。 私は「閉所恐怖症」なので、中には入らなかった。

クチトンネルパンフレット
 ↑ 「クチトンネル・パンフレット」
クチ地下トンネル
DSCF0261.jpg
↑ トンネルに入ろうと並ぶ私たちの列
VietnamCuChiTunnelsクチ地下トンネル
2093_4クチ地下トンネル

クチの地下トンネルは、ベトナムホーチミン市クチ県(ベトナム語: Củ Chi、市中心部から北西約40km)にある、全長200kmの地下トンネルネットワークである。
ベトナム戦争中に、南ベトナム解放民族戦線 によって作られた。ここよりカンボジアとの国境付近までトンネルが張り巡らされていた。
周辺には落とし穴などのトラップも数多く見られ、また戦時中は米軍に見つからないように、様々な工夫をして身を潜めて暮らしていた様子を知ることができる。

あとホーチミン市へ戻る。

    貴賓の来訪で突然に「統一会堂」公開中止。代りにベトナム歴史博物館見学・・・・・・木村草弥

統一会堂
SG-Attr-ReunificationPalace1_0統一会堂

1966年に、南ベトナムの建築家のゴ・ベト・チューによる4階建ての現代建築として再建され、ベトナム戦争終結まではベトナム共和国の大統領府及び官邸とされ使用された。
最初に使用した大統領(供用当時の肩書は「国家指導評議会議長」。1967年9月3日に正式に大統領に就任した)はグエン・バン・チューで、その後計3代の大統領が使用した。

1975年4月8日には、北ベトナム軍が鹵獲したノースロップF-5戦闘機による爆撃を受けた。

同年4月30日のベトナム戦争終結時に、サイゴン市内に突入した北ベトナム軍の戦車が当時は大統領府であったこの建物のフェンスを破り突入、南ベトナムの首都サイゴンは陥落した。
800px-T-54(attack_Reunification_Palace)_01突入したT5戦車
↑ 突入したT5戦車

その際の映像は「一つの国が消滅する瞬間」として全世界に配信され有名となった。現在でも、その当時のソ連製の戦車が敷地内で展示されている。

ベトナム歴史博物館パンフレット
 ↑ 「ベトナム歴史博物館パンフレット」

あと、ドンコイ通りで名物の「ココナッツアイス、ケム・チャイ・ズア」を賞味する。
217ec657ココナッツアイス
 ↑ 特製ココナッツアイス、ケム・チャイ・ズア(KEM TRAI DUA)


    夕刻、空路ホーチミン → ダナン → バス移動でホイアンへ・・・・・・・・・・・・・木村草弥

夕刻、空路、国内線で18:30発VN1328便でダナンへ。約一時間ちょっとのフライト。
低気圧が通過中とかで大気の状態が悪く、機体がはげしく揺れる。
地上では大雨で道路は水びたしである。
着後、ダナンの街でおそい夕食を摂ったあと、バスでホイアンに移動してホテルに入る。十時を過ぎている。強行軍である。

ダナン市(越:Thành phố Đà Nẵng・英: Da Nang City)とは、ベトナム中部の中央直轄市。ベトナムの主要な港湾都市である。行政的には7区に分かれる。
仏領インドシナ時代にはトゥーラン(Tourane)と呼ばれ、中国語では峴港と呼ばれる。
16世紀には広南政権の首府フエの外港ホイアンでは南蛮貿易が行なわれていたが、ダナンは小漁村に過ぎなかった。

18世紀になるとトゥボン川の河口にあるホイアン港が上流から運ばれた砂の堆積によって、次第に使用できなくなったため、ハン川の河口にあるダナン港が成長し始めた。
1835年、阮朝の明命帝は全ての欧州船にダナンに入港するよう勅令を発したため、ダナンがベトナム中部最大の港となった。
1847年4月15日、ダナンの戦い。1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊、ダナンに進行し、コーチシナ戦争(1858年-1862年)が勃発。
1883年6月、トンキン戦争(1883年6月 - 1886年4月)が勃発。1887年10月、フランス領インドシナ連邦の成立。
1889年、フランスのインドシナ総督府はダナンをクアンナム省から切り離し、トゥーランと命名して、総督直轄地とした。
20世紀始めのトゥーランはインフラストラクチャーが整備されて、食品加工業や造船業が発達し、ハイフォンやサイゴンと並んでベトナムの主要貿易港となった。

1965年3月、ベトナム戦争の際には、朝鮮戦争以来のアメリカ海兵隊が上陸して、大規模な米軍基地を建設し、1967年には中央直轄市となった。
1968年の旧正月に南ベトナム解放民族戦線がダナン駐留米軍に大攻勢をかけたテト攻勢はベトナム戦争の激戦の一つである。
ベトナム戦争後、ダナンはクアンナム省と合併して「クアンナム=ダナン省」となった。
ダナンには空港、港湾、倉庫、銀行、工場などが次々に建設され、大規模な産業都市に発展する。1996年7月6日には再びクアンナム省から分離して中央直轄市となり、現在に至る。

800px-Marble_Mountains,_Vietnamダナン郊外の五行山
↑ ダナン郊外の五行山(マーブルマウンテン)──ダナンの名所として名高い。 大理石が採れる。石細工の店が多い。

ダナンは遊覧しなかったので、YouTubeの動画を載せておく。 ↓
ダナンはベトナム第三の都市であり、ベトナム戦争でひどい被害を受けたが、その復旧めざましいという。


ダナン市はベトナム中部に位置し人口約80万人、ハノイ、ホーチミンに次ぐベトナム第3の都市。
2011年12月にダナン国際空港新ターミナルビルが日本の協力の元で完成し、綺麗になった玄関で観光客を出迎える。
ハノイ、ホーチミンとは違い街に流れる時間はゆっくりしており、行き交うバイクの運転も穏やか。自然も多く、近年ではビーチリゾートの建設が続いている。世界遺産のホイアン、フエ、ミーソンへも近くベトナム中部観光の拠点として便利である。

気候はホーチミンとは違い、9月~1月ごろが雨季という。ベトナム中部の雨季は一日中雨が降り続くことも多く、洪水もしばしば発生する。
逆に乾季になるとホーチミンよりも気温は高く強い日差しが照りつける。この日差しはとても強いが、その分海や自然を綺麗に見せてくれる。

↓ ホイアン宿泊のホテル
スイス ベルホテル ゴールデン サンド リゾート & スパの写真
スイス ベルホテル ゴールデン サンド リゾート & スパ  ↑ ↓

別棟に分かれたホテルで、すぐ傍は海。海が荒れて怒涛の音が響いていた。
DSCF0264.jpg
 ↑ 私の泊まった棟─部屋は二階だった
DSCF0266.jpg
DSCF0268.jpg

「スイス・ホテル」というインターナショナルのホテル・チェーンがあるが、ここが、その系列らしい。
このホテルには二泊したので、その行き帰りに、私たちの泊まるホテルの海岸線の並びに建設されるマンションやリゾートホテルをたくさん見かける。
韓国企業の進出が旺盛なようである。
海岸沿いに建つ現地人の住宅を立ち退かせ、建設が進んでいる。
中にはカジノの建設計画もあるらしい。
もっとも金融引締めの噂などが出て、新興国から資金を引き揚げることがあると計画はとん挫して廃墟のような姿をさらすことになる。
こういう開発計画の苦しいところである。「乱開発」になりはしないか。
日本のように厳しい規制があるわけではないので、開発業者の「したい放題」を心配する。 
人間の「慾」には限度がなく、また、こういう開発業者たちの強欲は、よく知られるところであるから、計画が順調に進むことを祈るばかりである。

現地ガイドが話してくれるところによると、ベトナムの土地、建物に関する規制は、中国とは少し違うようである。
中国は、土地は原則、国家のもので「私有」は出来ない。国から借りる形になる。地上に建てた建物は私有できる。
だから土地に高層のものを建てて極限まで有効利用しようとするから高層の建物が林立することになる。
ベトナムでは、国に金を払えば、土地も「私有」できる、という。
ただし外国人は私有できないので合弁事業の形になるのだろう。

「マクドナルド」の進出は遅れている。代りに韓国の「ロッテリア」が広く進出しているという。
アメリカはベトナムに極めて大きな惨禍を与えた「旧敵国」であり、それらのことも関連してるのだろうか。

外国人、白人の姿をよく見かけるが、フランス人が観光客としては多いという。
「クチ・トンネル」でも「フエ」の街でも、レストランでも、とても多い。ベトナム料理でも巧みに「箸」を操っているのは微笑ましい。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

      「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(3)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・

      ミーソン遺跡見学、ホイアン観光は中止。代りに「チャム彫刻博物館」見学・・・・・・木村草弥

先ず、公式ホームページから記事を引いておく。↓

 チャム彫刻博物館は各地で発見されたチャンパ彫刻を広く収集、保存している施設で、ダナン市の観光名所にもなっています。チャンパ彫刻の一級品の多くは、フランスのギメ美術館に持って行かれてしまい、それ以外はハノイの国立美術館に収蔵されているため、チャム彫刻博物館にあるものは1.5級品と言われています。しかし、美術史や歴史学的には非常に価値のあるものが多々収蔵されており、絶対に一見に値します。

 チャム彫刻博物館は、最初個人のコレクション所蔵から始まりました。1892年にCharles LemireがTourane Gardenにいくつかの彫刻を持ち込んだのが始まりであるとされています。その後1908年に、チャンパ研究者アンリ・パルマンティエによって将来的な博物館構想が提出され、1915年に博物館が建設されました。1919年に一般公開され、1928年には増え続けるコレクションに対応して増築が行われ、新たに両翼が増設されました。そして、1936年11月に「アンリ・パルマンティエ博物館」と名前が付けられました。

 その後、抗仏独立戦争やベトナム戦争などの相次ぐ戦渦の中で、所蔵品が盗まれる等の被害があったものの、博物館を管理する人々の粘り強い努力によって盗品の回収がおこなわれました。1963年に、「ダナン博物館」と改名し、地質学者としてアンリ・パルマンティエを補佐してきたグエン・スアン・ドンが館長となり、名実ともにベトナムの博物館となりました。これが、現在のチャム彫刻博物館の前身となっています (Tran 2001) 。

 チャム彫刻博物館の所蔵品の写真を紹介したいのですが、これらはベトナムの観光資源であり、彼らの財産です。そのため、ここで公開するわけにはいきません。是非ともダナンに足を運んで、自らの目で見てきてください。
500_14273775チャム彫刻博物館
 ↑ チャム彫刻博物館
2402e94d42122fdb_S2チャム彫刻博物館①
e1838bb8fb826bbc_S2チャム彫刻博物館②
 ↑ ガネーシャ像
c3b78e1e0f7ab71e_S2ガルーダ像
 ↑ ガルーダ像

ここで30ドルで買ってきた現代画家の絵(少し周りが縮小されている) ↓
買った絵

-------------------------------------------------------------------------------
以下は行けなかったので「参考資料」として載せておく。

       (参考資料)古代チャンパ王国のミーソン遺跡・・・・・・・・・・木村草弥

20120725102752_807104979_2092_9ミーソン遺跡
 ↑ ↓ ↓ ↓ ミーソン遺跡 (一部は ミーソン遺跡展示館より)
ec340bbbbb066fac_Sミーソン遺跡①
d2e388a901705925_Sミーソン遺跡②
t7ミーソン遺跡③

ミーソン聖域(ミーソンせいいき、越:Thánh địa Mỹ Sơn/聖地美山)はベトナム中部クアンナム省にある古代チャンパ王国の聖なる遺跡。1999年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

サンスクリットによる正式名称をシュリーシャーナバドレーシュヴァラといい、チャンパ王国の宗教(ヒンドゥー教シヴァ派)の聖域であり、聖山マハーパルヴァタを望むクアンナム省ズイスエン県ミーソン圏谷にある。
ミーソンにはレンガ作りのチャンパ塔など7世紀から13世紀にかけての遺構が残っているが、ベトナム戦争当時の爆撃によってかなり破壊されている。
遺跡の近くを大河トゥーボン川が流れており、川の女神を祀る秋盆夫人祠とサンスクリット碑文がある。
トゥーボン川の中流には王都チャキエウ遺跡があり、河口には近世に日本人町が栄えた港町ホイアンがある。

チャンパ王国はサンスクリットによる正式名称をチャンパープラ / チャンパーナガラといい、シュリークシェートラ(ビルマ)、ドヴァーラヴァティー(タイ)、カーンボージャ(カンボジア)、シュリーヴィジャヤ(インドネシア)などと同じ東南アジアにおける中世インド化国家である。チャンパ王国は今日のベトナム中部沿海及び中部高原を支配した。その支配民族は不明であるが、遺跡からはサンスクリット碑文と共にマレー系(オーストロネシア語族西インドネシア語派)に属する古チャム語碑文が出土しており、チャンパ人(古チャム人)は現在のチャム族の祖先であると考えられる。ミーソンの現在の住民はモン・クメール系のベト族(キン族)であるが、本来はモン・クメール系のカトゥ族の勢力範囲であったことから、カトゥ族の祖先(古カトゥ人)もまた古チャム人と共にチャンパ王国の構成員であったと考えられる。

建造物はグプタ様式や先アンコール期の影響が見られる。建造物にはセメントや漆喰などの接着剤を使った形跡が無く、チャンパ人の当時の技術力の高さを物語っている。
チャム族の伝承によれば、チャンパの彫刻工人、建塔工人の多くは徴用労働者として動員された山岳民族である。周囲に住む山岳民族カトゥ族は現在でも有名な木彫職人を輩出している。

ミーソン聖域は20世紀初頭にフランス人によって発見され、フランス極東学院 (EFEO) のパルマンチェ、クレイらにより数次にわたり修復、補強がなされた。
その一方、フランス統治時代に盗掘を受け、美術品の多くが失われた。また、ベトナム戦争でアメリカ軍の空爆を受け、大半の遺跡が破壊された。
ベトナム戦争後はポーランド文化財保護アトリエ (PKZ) のカジミエシュ・クヴィアトコフスキ、ベトナム文化情報省文化財修復公司のホアン・ダオ・キンらにより補強がなされた。
日本のトヨタ財団、アメリカのワールドモニュメントウォッチ財団による保護助成が行われ、現在はイタリア隊が調査を行っている。
500_14261784ミーソン遺跡展示館
 ↑ また、2005年3月には日本の国際協力機構の技術協力により「ミーソン遺跡展示館」が完成した。

       (参考資料)ホイアン・・・・・・・・・・・・・木村草弥

20130922005942_1015979053_9ホイアンの街並み
↑ ホイアンの街並み

ホイアン(越:Hội An・英: Hoi An, チュノム:會安)は、ベトナム中部クアンナム省の都市であり、ダナンの南方30キロ、トゥボン川の河口に位置する古い港町である。人口121,716人。
ヨーロッパ人にはファイフォ (Faifo) と呼ばれたこともある。
中国人街を中心に古い建築が残り、1999年(平成11年)に「ホイアンの古い町並み」としてユネスコの世界遺産に登録されている。

概要
チャンパ王国時代からの古い港町で、16世紀にチャンパは南に後退し、フエに広南阮氏政権が樹立されるとその外港となった。
ホイアンの名称はその頃に成立したと思われる。16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が来航し国際貿易港として繁栄した。
1601年には広南阮氏は徳川家康に書簡を送って正式な国交を求め、江戸幕府との取り引きが急速に拡大した。
約30年間にわたる朱印船貿易のうち、広南には71隻が入港した。
ホイアンには大規模な日本人街や中国人街が形成され、1623年にはオランダ東インド会社の商館も設けられるなど繁栄をみせたが、間もなく江戸幕府の鎖国により日本人の往来が途絶え、オランダの商館も1639年に閉鎖された。
17世紀後半、清朝と鄭氏台湾との対立から遷界令が出されたことは、さらにこの地域の交易を停滞させ、一時期の繁栄は失われていった。
1770年代には西山(タイソン)党の乱によって町は完全に破壊されたが、やがて再建され、19世紀まで繁栄した。
しかし、ホイアンと海を結ぶトゥボン川に土砂が堆積して浅くなり、港の繁栄はダナンに移った。

一方で、街並みは残され、ベトナム戦争時代に破壊されることもなく、現在に至るまで当時の繁栄ぶりを今に伝えている。

主な建築物

来遠橋(日本橋)
XmXAiDr7kg96o-0ホイアン来遠橋
 ↑ 来遠橋(日本橋) 中国風の屋根付橋だが、1593年に日本人が建設したと伝えられる。

ホイアンの旧市街地
800px-PhoCoHoiAnホイアン旧市街
d0148902_1045835ホイアン福建会館
 ↑ 福建会館 中国・福建省出身者が建てたもの
d0148902_1053445ホイアン福建会館②
 ↑ 福建会館 
d0148902_1016792ホイアン海のシルクロード博物館
 ↑ 「海のシルクロード博物館」の展示
d0148902_10171430ホイアン海のシルクロード博物館中庭
 ↑ 「海のシルクロード博物館」中庭
800px-Chua_Ong_Hoi_Anクワン・コン寺(関帝廟)
 ↑ クワン・コン寺(関帝廟)
800px-Trieu_Chau_Assembly_Hallホイアン潮州会館
 ↑ 潮州会館 潮州出身者の建てたもの
Good_88_sum640_1328275180ホイアン・チャンフー通り
 ↑ ホイアンの目抜きの通り──チャンフー通り

5e1ac90b43242932_S2ランタンはホイアンの名産
 ↑ 「ランタン」はホイアンの名産──町を華やかに彩る。

毎月、旧暦の十四日(満月)に「ランタン祭」が催行される。今日がまさに、その夜なのである。
今回のわれわれのツアーの日程も、この日に合わせて催行されたとのことだが、華やかなランタンの灯の余韻を満喫できず残念。
HUE106E3838AE382A4E38388E3839BE382A4E382A2E383B32028229ランタン祭①
4c5d8b133dba67e9a6386a04a0ec2f8cd48795721372511743ランタン祭②
無題ランタン祭③
 ↑ 来遠橋(日本橋)のランタン
ac_130613_pic8灯篭ひとつ一ドル
 ↑ トゥポン川に流す紙の灯篭 ひとつ1ドル 子供もお手伝い
------------------------------------------------------------------------------

         ベトナム庶民の足・シクロ・・・・・・・・・・・・・木村草弥

観光できなかった代りに、水に浸かっていない新市街の街を、しばらくベトナム庶民の足・シクロに乗って遊覧する。

img_1064052_31723498_0シクロ④
img390a293bzik2zjシクロ③

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

      「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(4)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・

      中国文明の影響の濃い阮朝の街・フ エ・・・・・・・・・・・木村草弥

昨夜というか今朝というか、腹が張っていて夜中に目覚めたが、昨夕食が食滞していて、梅肉エキスを嘗めたり、腹をさすったりして、ようやく胃が動きだし、
五時すぎに排便がたくさんあり、お尻をシャワーで洗ったりして、あとよく眠る。
今朝は朝食は抜く。梅肉エキスを水で飲んでおく。 以後、帰るまで、朝食は抜くことで調子を整える。

すごい湿気である。あらゆるものが湿っている。クーラーの効いた室内に置いておいたカメラはレンズが曇って撮影出来ない。
明け方にも、ざっと強いにわか雨。 雨にたたられる旅である。

ホイアンからフエまでは約三時間半かかる。 移動に時間がかかるのが、ツアーは難である。
途中、山にさしかかったところで長い「ハイヴァン・トンネル」を抜ける。
このトンネルは日本がODA資金で建設したもので、この個所の通過時間が大幅に短縮された。
現地ガイドが、しきりに日本のお蔭と力説する。

行き交う車からの様子を出しておく。 ↓
豚
あひる

ホーチミンは高校生の頃フエの高校で学んでいた
バスの車窓から、その高校が見える。フエの街の、すぐ外れである。
男子校と女子校とが隣接していたが、今は共学になり、ベトナム屈指の進学校として有名らしい。入るのも、とても難しいという。
名もホーチミン高校というらしい。 とにかく、こちらではホーチミンは最大の尊敬すべき人なのだから。写真は無い。

20120726233721_1861228207_2092_9カイディン帝廟
 ↑ カイディン帝廟
20120726233729_1309317829_2092_9西洋色の強いカイディン帝廟
 ↑ 西洋色の強いカイディン帝廟

歴代の皇帝は、中国式の庭園を作成しているが、この皇帝は庭園は造らず、あくまで建物の中身に凝ることに集中している。

内部の壁は、全面モザイクで装飾されているのだが、その材料が面白い。
中国陶器や日本の陶器を割ったもの、その中に日本の戦前のビール会社「大日本酒造」と書かれた”ビールビンのかけら”まであった。

kaidinimperi_1カイディン帝廟室内写真
↑ カイディン帝廟室内写真

この「カイディン帝廟」については、「猫的生活」というサイトに詳しいのでアクセスされたい。

20120726233712_1558580708_2092_9グエン王宮
 ↑ 阮朝(グエン)王宮
hue1フエ王宮「午門」
 ↑ フエ王宮「午門」
Good_204_sum640_1367822759フエ王宮塔門
 ↑ フエ王宮塔門
img_1048327_43556542_6フエ・ティエンムー寺
 ↑ ティエンムー寺


ティエンムー寺を見たあと、すぐ脇のフォン河をドラゴン船に乗ってしばらくクルーズする。
クルーズと言っても、クラブツーリズムが名付けたもので、豪雨で濁った川を下流に架かる橋の手前まで行くだけである。

昼食には、フエ名物の麺・ブンボーフエを賞味する。
後で、これもベトナム名物の「フォー」の画像を出すが、それとは少し違う。
91E682U98b8B8D83s838A90h83X815B83v95C495B296CB81F83u8393837B815Bブンボーフエ

ブンボーフエは、ベトナム中部都市フエ名物の米粉の麺と牛肉を用いた料理。太麺を用いた牛肉ライスヌードルで、庶民に親しまれている。
“ブン”はビーフン、“ボー”は牛を意味し、“フエ風の牛肉汁ビーフン”の意味で、日本で“フエの牛肉麺”或いは“フエの牛肉うどん”と呼ばれることもある、ライスヌードルの一種。

フエは旧南ベトナムと旧北ベトナムの間に位置するベトナム中部の都市で、このブンボーフエは中部ベトナムで代表的な麺となっているが、
近年袋麺やカップ麺も売り出され、いまではベトナム全土で食べられるようになっている。

スープの味付けにはレモングラスと赤唐辛子を炒めて作った調味料サテ(sa tế)とニョクマム(魚醤)を使う。
スープのだしは、レモングラス、フエ産の塩辛、豚足、牛肉などから取り、具としては、ベトナム風の蒲鉾などの練り物や牛の腿肉の外、薄荷葉、空芯菜、甘蕉の茎、糵、香草など、野菜をたっぷりのせてスープをかける。それら野菜を盛った皿と共に供される場合もある。

レモングラスと赤唐辛子の香辛料が効き、酸っぱくてピリッと辛いのが特徴だが、さらに赤唐辛子を加えて食べるのが一般的。
北部名物の米の平打ち麺フォーとよく対比される。
-------------------------------------------------------------------------------
フ エ(Huế)は、ベトナム中部の都市で、トゥアティエン゠フエ省の省都である。

フランス語風にユエと呼ばれることもある。フエは化の漢字音 hoáの変化したものといわれる。漢名・順化(トゥアンホア)は中国語として現在も用いられている。

ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」が登録されている。

地理
香江(Hương Giang、フオンザン)が市の中央を流れ、およそ15キロメートル下流で南シナ海に注ぐ。年間平均気温帯25度。

歴史
1558年以降、広南阮氏の本拠地となり、タイソン朝による中断の後、1802年に成立した阮朝の都が置かれた。フエが位置する北中部2省―クアンチ省、トゥアティェン・フエ省は1306年まではチャンパ王国の烏里(ウリク)州であり、大越陳朝の領有後に北の順州(現クアンチ省)と南の化州(現トゥアティエン・フエ省)に分割され、現在に至る。広南阮氏時代の名称は順化都城、阮朝時代の正式名称は富春京師。
10世紀 - チャンパ王国(チャム族)の中心都市の1つ。
16世紀~18世紀 広南阮氏政権の都。
18世紀後半の西山党時代(西山党の乱)、西山阮氏三兄弟の1人、光中帝(阮文恵)に占領され、その拠点となった。
1802年 - 初代皇帝嘉隆帝(阮福暎)により阮朝の首都になる。
1883年 - フランスに占領され、8月、癸未条約(第1次フエ条約、アルマン条約)を結び、安南(アンナン)保護国となる。
1884年 - 6月、甲申条約(第2次フエ条約、パトノートル条約)をフランスと締結し、保護国化を確認する。 フランス領インドシナでもフエには皇族(阮福族)が宮廷を構えており、日本など各国の領事館があった。

1968年 テト攻勢の激戦地となった(フエの戦い、1月30日 - 3月3日)。南ベトナム解放民族戦線占領下では解放勢力によって南ベトナム政府関係者や無関係の民間人(保守派知識人、キリスト教神父、外国人医師など)への虐殺が発生し、また解放勢力からの奪還後は逆に容共派知識人や学生活動家への虐殺が発生するなど(合わせてフエ虐殺と呼ぶ)、今も市民の記憶に暗い影を落としている。

市内は香江を挟んで旧市街と新市街に分かれ、中心は新市街にある。旧市街は碁盤の目状の方形都市であり、その南側に世界遺産の王宮南門、宮殿と帝廟がある。一部には園宅(ニャーヴオン)と呼ばれる旧貴族・皇族の住宅が残っており、首里城や京都御所のような佇まいがある。

嘉隆帝(ザロン帝)が1805年から造営させたフエ城の城郭は、フランス帰りの建築家レー・ヴァン・ホク(Lê Văn Học、黎文学)が設計したもので、五稜郭と同じフランス式の星型城郭で、ヴォーバン様式と呼ばれる。城郭内部の建築は構造的には中国建築とは無関係なベトナム特有のもので、全国から招聘された職人の流派の影響で北部・中部や會安(ホイアン)華人の様式が融合している。後期の建築物にはこれにフランスの影響が加わる。阮朝第4代嗣徳帝(トゥドゥク帝)は広南阮氏の正史『大南寔録正編』を編纂させたことで知られるが、建築も大々的に行い、現存する市内の王宮及び郊外の帝陵は彼によって整備された。

第二次世界大戦終戦までは宮殿の多くの建物が残っていたが、ベトナム戦争の激戦地となったため多くの建物が破壊された。現在、復元に向けて調査などが行われている。

「ベストウエスタン・プレミア・インドシナ・パレス・ホテル・フエ」に泊まる。 
3348019_11_bフエ・ベストウエスタン・インドシナ・パレス・ホテル
DSCF0278.jpg
DSCF0280.jpg
DSCF0286.jpg
DSCF0277.jpg
 ↑ ↓ ホテル9階の自室からの眺望
DSCF0276.jpg

↓ フエ宿泊の「The BEST WESTERN PREMIER INDOCHINE PALACE HOTEL HUE」の公式ホームページを出しておく。スチール写真が次々と出る。 クリックされたい。
今回の旅のホテルはみな良かったが、ここのホテルが最高だった。
ホテルのパンフレットによると、BEST WESTERNには三つのグレードがあり、PREMIERは最高級のグレードだという。設備といい、従業員の接遇といい申し分ない。

INDOCHINE PALACE HOTEL

------------------------------------------------------------------------------
夕食は、宮廷音楽を聴きながら「フエ宮廷料理」を賞味する。

1701_1フエ宮廷料理①
857d9b9d1e34c726_Sフエ宮廷料理②
宮廷料理
↑ ここで撮られた集合写真
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

        「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(5)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・・

        フォンニャケバン国立公園・・・・・・・・・・・木村草弥

移動する国道1号線は幹線塘路でありながら穴ぼこだらけのところや、狭い部分もありバスのスピードが出ない。
往路の途中、クアンチ省のところに南北ベトナム分断の頃の「17号線非武装地帯」があって、現在ここに「モニュメント」が建っている。 ↓
khe-sanh-28-08-2009-08717号線モニュメント

これは家族が戦争に行った父を思う気持ちを表現したものという。
遥か彼方の画像なので見にくいが、よろしく。

フォンニャ=ケバン国立公園(フォンニャ=ケバンこくりつこうえん、越:Vườn quốc gia Phong Nha-Kẻ Bàng/𡑰國家峯牙-几榜)は、ベトナムのクアンビン省にある国立公園である。
2003年7月3日、ユネスコによってベトナムで5番目となる世界遺産に登録された。4億年以上前にできたとされるアジア最古、世界最大の岩山が集まる地域。

フォンニャ=ケバン国立公園は、約86,000haの面積をもつ。
公園の94%は原生林で、専門家によると568種の植物、876種の動物(大きな獣類113種、爬虫類と両生類81種、魚類72種、鳥類259種、鳥類302種)が生息しているという。
植物には世界とベトナムのレッドブックに入っているものも多い。

大小約300の洞窟がある。これらはまだ詳しく調査されていないが、フォンニャ洞、ティエンソン洞、ヴォム洞など一部が開発されている。
洞窟はそれぞれ多様で、鍾乳洞は非常に美しく幻想的だ。
英国の王立地理学会の報告によると、フォンニャ洞の長さは7,729m、その美しさ、大きさ、広さなどから最高の評価を与えられている。

概要
フォンニャ洞窟はベトナム最大の洞窟で、2億5千年前に形成された。フォンニャとは「歯の洞窟」という意味である。多くの観光客が訪れる。
9 - 10世紀にチャム族が仏教の聖域として利用し、1990年に英国の探検隊が地下及び水中の地図を作成し、総延長を計測した。
ベトナム戦争中は、武器庫または病院として利用され、アメリカ軍の爆撃の標的となった。

フォンニャ・ケバンはベトナム中部に位置しており、ラオスとの国境近くの山岳地帯にある。
フォンニャケバン国立公園内にはフォンニャ洞窟、ケバン洞窟がある他、近隣には天国のような景色といわれる天国洞窟、そして世界最大のソンドン洞窟などを含めて数多くの洞窟がある。
この特異な自然が評価され、2003年に世界自然遺産として登録された。

洞窟の周辺にも小さなホテルなどがあるが、基本的には40kmほど離れたドンホイという街から訪れるのが一般的で、ドンホイは外国人が観光で訪れるような街ではないので、フエからのバスツアーがある。
観光客はこちらが一般的だということで我々もフエから約四時間かけて見にゆく。
フエからは約200キロ離れており、観光ツアーによって入場する洞窟が異なるらしい。

鍾乳洞の画像を順不同で出しておく。 ↓
DSCF0285.jpg
 ↑ 国道二号線に面して立つ山に掲げられた洞窟の看板
o0640042811795557114鍾乳洞入口
2013-05-03-09_43_26-540x405フォンニャケバン鍾乳洞③
cave23-570x880フォンニャケバン鍾乳洞②
worldheritage117_1_20120519134333フォンニャケバン①
worldheritage117_1_20120519133956フォンニャケバン②
worldheritage117_1_20120519134119フォンニャケバン③
6967903771_8df6834d64_zフォンニャケバン④
6821780690_b04b59a739_zフォンニャケバン⑤
洞窟での写真
 ↑ 洞窟での写真

片道四時間、往復八時間に加えて洞窟見物三時間なので、フエのホテルに、くたくたに疲れて帰る。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

       「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(6)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・

       空路フエ → ハノイ。四時間かけてハロン湾へ・・・・・・・・・・木村草弥

今日は、フエから空路ハノイに約一時間十分かけて移動して、あとハロン湾までバスで四時間かけて移動して、と「移動日」に終始した。
フエ空港発10:50、VN1540便。ハノイ着12:00である。

今夜はハロン湾に連泊である。
夕食は早めに、ベトナムの麺・フォーや生春巻きなどのベトナム料理を賞味する。

        ベトナムの麺・フォー・・・・・・・・・・・木村草弥

650foフォー①
20080428014302フォー②
07b99180e8aedecb_Sフォー③

フォー(ベトナム語: phở)はベトナム料理を代表する平打ちの米粉麺である。
形は日本のきしめんに似るが、原料は米粉と水であり、ライスヌードルの一種である。
水に漬けた米を挽いてペースト状にしたものを熱した金属板の上に薄く流し、多少固まったものを端から裁断して麺の形状にする。
中国広東省潮州市の粿條、広州市の河粉、広西チワン族自治区 桂林の「切粉(中国語: チエフェン)」などと酷似している。

多くの場合、鶏や牛から出汁を取った透明なあっさりしたスープにコシのない米麺を入れ、鶏肉や牛の薄切り肉、肉団子などが典型的な具材として乗る。生卵を追加できる店舗もある。
最後にライムの絞り汁や、チリソース、ニョクマム、唐辛子やスライスしたニンニクをつけ込んだ酢などを加えて各人が好みの味に仕上げる。
またサイドメニューにクワイquẩyという油条をオーダーし、汁に浸して食べることも多い。牛肉入りフォーの場合は、牛肉の茹で具合をリクエストすることも可能である。

一般に、本場とされるハノイのフォーは肉の他はネギを入れる程度のシンプルな盛りつけが多い。
一方、南部のフォーは甘めの味付けで、たっぷりのバジル、コリアンダー、ニラ、青唐辛子などのハーブや生のモヤシなどをトッピングして食べる。
トッピング自体もテーブルの上に置いてあって無料で好きなだけ投入できる店舗が多い。

ベトナムでは高級レストランから街角の屋台までフォーを作っており、朝昼晩の3食すべてで食されるほどに極めて生活に密着した食べ物である。
最近ではチェーン店の進出が目覚しい。ただし家庭で作ることはあまりなく、基本的に外食する料理であり、多くの店舗でテイクアウトすることが可能である。
本国では生麺使用が基本だが、生麺の入手が難しい日本など国外のベトナム料理店では乾麺を使っているところも多い。

派生メニューとしては、スープにワインソースで牛肉を煮込んだものを使用するフォー・ソットヴァン(phở sốt vang; ソットはソース、ヴァンはワインのこと)、
フォーの麺を使った具だくさんの焼きそばであるフォー・サオ(phở xào ; フォー・アプチャオ(phở áp chảo)とも言う)などがある。

        ベトナム料理の本命・生春巻き・・・・・・・・・・木村草弥

5526227生春巻き 本命
4252765354_0515115227生春巻き
img_621282_13378798_0揚げ春巻き
 ↑ 揚げ春巻き

↓ ハロン湾宿泊の「NOVOTEL HLONG BAY HOTEL」
ノボテルハロンベイの写真
「ノボテルハロンベイ」
「スーペリア・ベイヴュー・ル-ム」ということで、ハロン湾を望める部屋に連泊である。 ↓ ホテル11階の自室からの眺望
DSCF0287.jpg
DSCF0288.jpg
DSCF0289.jpg

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

       「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(7)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・

        終日ハロン湾クルーズ 約六時間・・・・・・・・・・木村草弥 

先ず、ハロン湾の概要を少し書いておく。

ハロン湾(越:Vịnh Hạ Long/泳下龍)は、ベトナム北部、トンキン湾北西部にある湾。漢字表記は下竜湾。
クアンニン省のハロン市の南に位置し、カットバ島のほか大小3,000もの奇岩、島々が存在する。
伝承では、中国がベトナムに侵攻してきた時、竜の親子が現れ敵を破り、口から吐き出した宝石が湾内の島々になったと伝えられている。
カットバ島以外の島は現在は無人だが、約7,000年前の新石器時代にはわずかに人が住んでいた。
また、数世紀前までは海賊の隠れ家として利用され、また モンゴル軍の侵攻の際には軍事的に利用された。

彫刻作品のような島々の景観は、太陽の位置によって輝きが変化し、雨や霧によってまた趣のある雰囲気を醸し出す。
地質学的には北は桂林から、南はニンビンまでの広大な石灰岩台地の一角である。石灰岩台地が沈降し、侵食作用が進んで、現在の姿となった。
1994年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録。

ハロン湾クルーズというと、通常、ツアーでは三時間ほどのようだが、我々の旅では丁寧に六時間かけてビューポイントや鍾乳洞を訪れる。
画像を順不同で出しておく。

DSCF0292.jpg
↑ 乗った船
03782xハロン湾洞窟
 ↑ 洞窟(Hng Sung Sotの鍾乳洞)
halong22ハロン湾①
1645855ハロン湾②
DSC_3922ハロン湾③
無題ハロン湾④
hanoi_2010-1014ハロン湾⑤
DSCF0299.jpg
↑ ↓ Ti Top島の展望台と眺望
DSCF0301.jpg
DSCF0296.jpg
↑ 「闘鶏岩」
DSCF0295.jpg
DSCF0293.jpg
 ↑ ↓ 湾内で飼われているイケスの魚
DSCF0294.jpg


       夜、水上人形劇鑑賞・・・・・・・・・・・・木村草弥

「ベトナム水上人形劇」については ← このサイトに詳しい解説があるので参照されよ。
画像を順不同で出しておく。

311571_base_13621930679351水上本命
15c0743aecbcd9cf9d70b0f9c2a3a3161水上①
bf07fd37e4ea3296216617f5d7611195水上②
Tr00100420090507194021587水上③
14_2水上④
Vietnam20Water20Puppet_jpg_opt605x259o0,0s605x259水上⑤

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

       「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(8)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・・ 

       ハノイ郊外・陶器のバッチャン村。水牛車に乗る・・・・・・・・・木村草弥 

ここは、ハロン湾からハノイへの途中にある陶器生産の村。
以下、画像を順不同で出しておく。

500_10568478バッチャン村①
500_22115275バッチャン村②
500_22115276バッチャン村③
500_22115385バツチャン村④
500_22115580バッチャン村⑤
500_22115489バッチャン村⑥

a11f17バツチャン村水牛車
 ↑ バッチャン村水牛車

       ハノイでの昼食はミンパレスで飲茶料理・・・・・・・・・木村草弥 

ここは「ソフィテル・プラザ・ホテル」にある。
ソフィテル・プラザ・ハノイ SOFITEL PLAZA HANOI は湖畔にそびえ立つ高層の大型ホテル。 ↓

pict1044ソフィテル・プラザ・ハノイ

街の中心からは少し外れるが、時間を忘れるくらいゆっくりくつろげる。各国のVIPや著名人の利用も多く、客室は設備も揃い華麗な空間を演出。
レストランはアジアン&インターナショナル料理の「BRASSERIE WESTLAKE」や広東料理とベトナム料理の「ミン・パレス」などの料理を堪能出来る。
極めつけは最上階の「サミット・ラウンジ」。ハノイの夜景が20階から360度で眺められる。プールは開閉式の温水プールなので一年中利用できる。
2011年に大改装されて設備が格段に良くなったようだ。

hioki_111025_4ミンパレス
 ↑ 「ミンパレス」 

         ハノイ市内観光・・・・・・・・・・・・木村草弥

午後はハノイ市内観光である。
先ずハノイの概要をWikipediaから引いておく。 ↓
-----------------------------------------------------------------------------
ハノイ市(ベトナム語: Thành phố Hà Nội, 漢字:河內)とは、ベトナム社会主義共和国北部に位置する同国の首都。
ホーチミン市に次ぐ同国第2の都市であり、政治と文化の都である。
地名の「河内」は当時の街(現在のホアンキエム・バーディン・ドンダー・ハイバーチュンの4区にほぼ相当)が紅河とトーリック川(蘇瀝江)とに囲まれていたことに由来する。
2009年の人口は650万人。紅河の右岸にあり、国内の工業の中心地で、農産物の集散地ともなっている。また、一柱寺など史跡も多い。

歴史
詳細は「ハノイの歴史」、「:vi:Biên niên sử Hà Nội」、「:en:Timeline of Hanoi history」、および「:gl:Historia urbana de Hanoi」を参照

ハノイがベトナムの中心都市となったのは、7世紀頃のことである。
唐代には雲南と南シナ海を結ぶ交易路上にあったこともあり、安南都護府がおかれ唐による南方支配の拠点となった。
唐末に安南都護府の支配は形骸化し、さらに紅河が当時の海上交易網から外れていったため、その重要性は一時低下した。
しかし、11世紀の李朝はこの地を都と定め、農業地帯を統治する拠点とした。李朝の成立以降、1802年に阮朝がフエに都を移すまで王都として繁栄。
その間は昇竜(タンロン)、東京(トンキン)など様々な名で呼ばれてきたが、1831年に現在の名称になった。
1873年にはフランスに占領され、1887年以降はフランス領インドシナの中心地となった。

1940年、日本軍の仏印進駐により、日本の事実上の占領下となるが、1945年8月にその占領状態は終了し、9月2日にハノイでベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立が宣言された。
その後、1946年から1954年の第一次インドシナ戦争においては、ハノイも戦場となり、一時フランス軍が占領した。
しかし、ベトナム側が戦争に勝利したことにより、ハノイはベトナム民主共和国の首都となった。

ベトナム戦争中は、橋などの交通施設を中心にアメリカ軍の爆撃を受けた。1976年には南北ベトナムの統一に伴い、ベトナム社会主義共和国の首都となった。

2010年は、1010年に李太祖がハノイに遷都して1000年目にあたることから様々な記念行事が行なわれた。同年10月10日には軍事パレードも行なわれている。

行政
2008年5月29日、ハタイ省全域とヴィンフック省メリン県、ホアビン省ルオンソン県の4村 (Đông Xuân, Tiến Xuân, Yên Bình, Yên Trung) がハノイ市に合併されることが決定し、2008年8月1日に合併した。この合併により面積は約3.6倍、人口は約2倍となった。[2]同年12月11日、ハドン市を区(Quận, 郡)とし、ソンタイ省直轄市(thành phố)から「市」(thị xã, 市社)とすることが決定された。

vietnam2010_108ホチミン廟
 ↑ ホ・チ・ミン廟
ホー・チ・ミン廟(ホーチミンびょう)とは、ベトナムのハノイにあるホー・チ・ミンの霊廟である。
2年の歳月をかけて建てられ、1975年9月2日に完成した。
兵士によって厳重に警備されていて、一年中冷房の効いた内部の部屋に永久保存処置を施されたホー・チ・ミンの遺体が安置されている。
廟の中は軍人により警護されており、私語厳禁で立ち止まることは許されない。また、事前にカメラなどを預けておく必要がある。

ホー自身は存命中に自己顕示的行動におよぶことは殆どなく、その死に際しても本人は火葬および北部(トンキン)、中部(安南)、南部(コーチシナ)に分骨を望んでいた、という。

一柱寺
Chua_Mot_Cot一柱寺

ハノイ観光のハイライト、「ホーチミン廟・ホーチミンの家」に隣接する一柱寺。
一本柱で支えられ、池に浮かぶ蓮の花のような建築と形容される一柱寺は、そのユニークな外観から、フランス統治時代の建物と並び、ハノイを代表する歴史建造物。

一柱寺が浮かぶ池は「霊沼池(リンチエウ;Linh Chiểu)」と言い、季節になると睡蓮の花が足元を飾る。
この柱は地上からの高さが4m、直径が1.2mあり、上に3㎡の御堂をのせている。
御堂の中には「蓮花台」という扁額が掲げられ、八本手の黄金色をした観音像が中央に据えられている。

一柱寺とは、その形状から来る俗称で、この南向かいにある本堂とその脇の祖師堂も含めて、正式名を「延祐寺(ジエンヒウ;Diên Hựu)」と言い、
一本柱の一柱寺は延祐寺の楼閣にあたり、この部分のみを単独で「蓮花台」とも呼んでいる。

ハノイの旧市街といえば、ハノイ観光には欠かせない名所だという。
ホアンキエム湖の北に位置し、 古くから手工業者の居住区が集中し、 同時に彼らの商いの土地として栄えた場所である。

ハノイ旧市街は世界遺産でもあるタンロン(Thăng Long)城址の東側に位置し、まさに城下町として歴史を刻んできた。

といっても、 現在では城郭は一部を残して姿を消し、 旧市街との位置関係をパッと見て確認することは困難である。

タンロン城郭は、 周囲4キロを超える長さを持つ巨大な建造物だったようである。

現在、その城址の内部には、 首相府や外務省がバーディン広場を中心に位置し、その西には建国の父ホー・チ・ミンが眠るホーチミン廟、
南には赤星旗がはためくフラッグタワーが立つなど、 政治関係の建物やロケーションが集中していることがわかる。
そして、 城郭外部の東側の地区が、ハノイ旧市街なのである。

ハノイ城・タンロン城遺跡(Di tích Hoàng Thành Thăng Long)
2010年、ハノイ市ドンダー区、ホアンジエウ通りの東側のハノイ城と、西側のタンロン城遺跡を合わせた区域が、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
ハノイ城は当時のまま残されている門などがあり、タンロン城は、建物の遺構や建築遺物などが発掘されている。

タンロン城
1010年、ベトナム最初の長期王朝リー(李)朝の初代皇帝リー・タイトー(李太祖)は、都をタンロン(昇龍)(現在のハノイ)に定めた。
唐(中国)の高駢が9世紀末に築いた城壁(大羅城)の土台を基礎としてタンロン城は築かれ、 その後歴代王朝により何度も再建されていった。
しかしグエン(阮)朝時代(1802~1945)を迎えると、1802年、初代ザーロン帝は都をタンロンからフエに移した。
遷都するにあたって、重要な建築物は分解されて運ばれ、フエで再度組み立てられた。

タンロン城遺跡
タンロン城遺跡パンフレット
 ↑ 「タンロン城遺跡パンフレット」
DSCF0308.jpg
 ↑ 国旗のひるがえる塔門
hanoijouhashimon1タンロン城・端門
↑ タンロン城・端門
201107Hanoi-1009タンロン・龍の階段
 ↑ 龍の階段


グエン朝期、タンロンはハノイ(河内)と改名、ハノイは一地方都市として扱われ、1804年から1805年にかけて規模が縮小されたハノイ城が建てられた。
四代皇帝トゥ・ドゥック帝は、更にその一部を壊し縮小したという。そして1884~86年には、フランス植民地政府によって、部分的に破壊されてしまった。
フランス軍が1954年に撤退した後、1975年まではベトナム人民軍の最高司令部がハノイ城に置かれ、2004年にハノイ市に受け渡されるまで国防省の管理下にあった。
1999年より建物の修復が行われ、2000年の遷都990年を記念して一部(瑞門、後楼、北門)の公開が始まり、その十年後2010年には遷都千年にあわせて残りの部分(敬天殿跡、D67の家)も一般公開が開始された。

タンロン城址遺跡は入場して見学するが、上にも書いた通り、解体してフエ王朝の建物に再利用されたので、めぼしいものは残っていない。

ここの広場には多くの若い人たちが正装して集まっており、何事かと聞いてみると、卒業は六月なのだが、卒業証明書が出るのが今なので、記念に写真撮影をしている、という。 ↓

DSCF0306.jpg
DSCF0307.jpg
DSCF0309.jpg

DSCF0305.jpg

ホアンキエム湖
img_1192103_37318187_6ホアンキエム湖

ホアンキエム湖(越:Hồ Hoàn Kiếm/湖還劍?)は、ベトナムのハノイにある湖の1つである。ハノイの主要な景観スポットでもある。
(お断り)この池に着いたのは夜のことであり、だから、この写真は、参考資料として見てもらいたい。
この池の近くが、ハノイの繁華街である。多くのショップや飲食店、喫茶店などがひしめいている。

以前に紅河が何度も氾濫を繰り返した際にできた湖の一つである。かつては紅河とも繋がっており、"hồ Lục Thuỷ"(緑水湖)として知られていた。
その後湖は2つに分かれ、一つがホアンキエム湖となり、もう一つが "hồ Thuỷ Quân"(水軍湖)となった。
水軍湖にはベトナム水軍の訓練場が置かれていたが、現在は埋め立てられている。

伝説では、黎利が湖の宝剣を手にし、その剣によって明との戦いに勝利した。
その後、黎利は湖の上で金の大亀 (Kim Qui) から平和になったので持ち主である竜王に剣を返すように啓示され、湖の中心近くにある小島で剣を返した。
それゆえ、湖は現在の名前で呼ばれるようになった。この物語は水上人形劇で観ることができる。小島にはその後、亀の塔 (Tháp Rùa) が建てられている。

湖の北岸の近くにあるもう一つの島には、18世紀に建てられた玉山祠 (Đền Ngọc Sơn) が建っている。
それは13世紀の元に対する戦いで活躍した陳興道、文昌帝 (Văn Xương Đế Quân)、1864年に寺の修理を担当した儒者者で作家の阮文超 (Nguyễn Văn Siêu) らを祭っている。
島と岸の間には、赤く塗装された木製のフク橋(Cầu Thê Húc, 棲旭橋)が架けられている。

湖の中のシャンハイハナスッポンおよびいくつかの種の大型の軟殻亀は、皇帝の名誉たる "Rafetus leloii" と名づけられている。
その種はきわめて危機にさらされていて、湖の中の個体数は不明である。
1968年には湖で体重250キログラムの大亀が発見され、伝説の亀とされて玉山祠に剥製が祭られている。剥製の大きさは長さ210センチメートル、幅120センチメートル。

-------------------------------------------------------------------------------
結局、このツアー中ずっと雨か曇りで晴天は拝めなかった。
雨に祟られたツアーだった。 この時期を選んだのか悪かったということである。
気温も高くなく、ハノイなどでは寒いくらいだった。


ベトナム悪天候のこと、日本では詳しく報道されていたようで、メル友たちから心配のメールをもらった。
日本は公平に報道するのだと実感した。
ベトナムでは海外ニュースは乏しく、テレビもBBCもCNNも碌に受信できなかった。
都市により日本のNHKが時差二時間進みの状況で見られたが。
WiFiが普及しだして、二つのホテルでは繋いでみた。
私のブログはアメリカ籍のFC2で「.com」なので、さすがにインターナショナル、すぐに立ち上がったが、BLOG友の「ne.jp」サイトなどは、なかなか立ち上がらなかった。
そんなこんなで色々の体験をさせてもらった旅だったことに感謝したい。

長い長い移動の途中で現地ガイドが色々の話を聴かせてくれた。
現在、ベトナムの人口は9000万人を超えたこと。中でも14歳以下の子供が人口の半数を占めるとのことで、まさに発展途上の若々しい国である。
アセアン地域では突出した大国である。

私たちの乗ったバスは、みな韓国のHyundai製で、握り棒の取っ手がちぎれていたり、座席のシートの固定が緩んでいて後ろに倒れたり、とかしたが、
ハングルの文字の表記があったりしたのは、これらのバスは、実は韓国で使われていたものの中古車で、標記をそのままに使っているからだという。
ずっと前に行ったミャンマーが、そうだった。
これも発展途上の国としては仕方のことだと実感した次第である。


夕食後、深夜00:30にベトナム航空直行便VN330便(JL5006便と共同運航・機材はA321)でハノイ発、一路、関西空港へ。 機内泊。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

        「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(9)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・・・
      
朝、06:40 関西空港着。 帰りはハノイからなので、飛行時間が短く、所要時間約四時間半である。偏西風の関係もあろうか。 着後、入国審査を経て、解散。

書き忘れなどは、思い出した都度「追記」することがあるので、ここに申し上げておく。

---------------------------------------------------------------------------
ベトナム語というのは、どういう言語なのだろうか

Wikipediaに載るのを引いておく。

クオック・グー(越:Chữ Quốc Ngữ/)とは、ラテン文字を使用してベトナム語を表記する方法。
アクセント符号を併用することにより、ベトナム語の6声調を表記し分ける。「クオック・グー」とは、「国語」のベトナム語読みである。

1651年フランス人宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードが作成した『ベトナム語-ラテン語-ポルトガル語辞典』において、ベトナム語をラテン・アルファベットで表記したものに起源をもつ。ベトナムのフランス植民地化後、公文書などで使用されるようになったことから普及し、1945年のベトナム独立時に漢字に代わりベトナム語を表記する文字として正式に採択され現在に至る。

使用するアルファベットは、次の29文字(下線をつけた子音字は音節末に立つことができる)。
A Ă Â B C D Đ E Ê G H I K L M N O Ơ(O') Ô P Q R S T U Ư(U') V X Y
また、2字の組み合わせで1子音を表すものがある。以下の8種類:
ch, gi, kh, ng, nh, ph, th, tr 


ベトナム語

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(CJK統合漢字拡張A・B、ラテン文字拡張)が含まれています(詳細)。

言語系統
オーストロアジア語族 モン・クメール語派 ベト・ムオン語群 ベトナム語

表記体系
ラテン文字(クオック・グー)

統制機関
ベトナム社会科学院言語学研究所 (Viện Ngôn ngữ học, Viện Khoa học xã hội Việt Nam)

語(越:Tiếng Việt/㗂越)とは、ベトナム社会主義共和国の総人口のおよそ 87% を占めるキン族の母語であり、ベトナムの公用語である。
キン語や安南語ともいい、ベトナムの少数民族の間でも共通語として話されるほか、中国と台湾など周辺諸国のキン族/ジン族、アメリカ合衆国、フランスなど在外ベトナム系移民によっても話される。

歴史
東南アジア大陸部の言語は、通常インド文化の影響を強く受けているが、ベトナム語は例外的に日本語・朝鮮語・チワン語などと同様に中国語と漢字文化の強い影響を受けている。

現在のベトナムの北部は、秦によって象郡が置かれて以来、中国の支配地域となった。この地を含む華南は「百越」と総称される諸民族が住んでいた地域で、そのひとつが、現在のキン族の祖先であった。「ベトナム (Việt Nam)」は漢字で書けば「越南」であり、「越」は現在浙江省周辺にあった国の名でもあるが、広東省を指す「粤」と同音の類義語で、これらの南にある地域のために「越南」と呼ばれた。

しかし、系統的にはシナ・チベット語族やタイ・カダイ語族ではなく、オーストロアジア語族に属すると解することが一般的である。この説に従えば、話者数でクメール語(カンボジア語)を上回るオーストロアジア語族で最大の言語ということになる。また、中国語などの言語の影響を受け、声調言語になった。

表記法の歴史
中国の支配を受けていたため、ベトナムの古典や歴史的な記録の多くは、漢字による漢文で書かれており、漢字文化圏である。現代語をみても、辞書に載っている単語の 70% 以上が漢字語であり、漢字表記が可能である。対応する漢字が無い語については、古壮字などと同じく、漢字を応用した独自の文字チュノム(越:Chữ Nôm/𡨸喃*?)を作り、漢字と交ぜ書きをすることが行われた。しかし、1919年の科挙廃止、フランス総督府によるクオック・グー教育の推進により漢字、チュノムの使用頻度は次第に減少、1945年の阮朝滅亡とベトナム民主共和国の成立により、ベトナムの国字として漢字に代わりクオック・グーが正式に採択されたことで、漢字やチュノムは一般には使用されなくなった。公式な漢字の廃止は1954年であり、南北に分断したこの年にベトナム民主共和国紙幣における漢字使用は廃止されている。現在では日常生活で漢字が見られるのはテト(旧正月)や中秋節などの伝統行事や仏事、冠婚葬祭などである。漢字の理解者も、高齢者の一部や、国文学や歴史学などの研究者、書道家や仏僧、日本語及び中国語の学習者などに限定される。

これに取って代わったものは、17世紀にカトリックの宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードが考案し、フランスの植民地化以降普及したローマ字表記「クオック・グー(越:Quốc ngữ/國語)」であった。植民地期にはクオック・グーはフランスによる「文明化」の象徴として「フランス人からの贈り物」と呼ばれたが、独立運動を推進した民族主義者はすべてクオック・グーによる自己形成を遂げたため、不便性と非効率性を理由にして漢字やチュノム文は排除され、クオック・グーが独立後のベトナム語の正式な表記法となった。現在、クオック・グーを公式の表記法とすること自体への異論はあまり存在しないが、漢文や漢字チュノム文を理解運用できる人材が少ないため、人文科学、特に歴史研究の発展に不安をもつ知識人の間には、中等教育における漢字教育の限定的復活論がある。

文字
現在の正書法であるクオック・グーでは、ラテン文字と、それに補助記号をつけたものが用いられる。ただし、F, J, W, Z は用いられない。

文法
語順はSVO型(主語-動詞-目的語)である。

修飾語が基本的に被修飾語の後に置かれる点は、オーストロ=アジア語族の言語をはじめとする東南アジアの多くの言語と共通である。
たとえば、「ベトナム社会主義共和国」は、"nước Cộng hòa Xã hội chủ nghĩa Việt Nam" (国-共和-社会主義-ベトナム)となる。

古典的類型論からみると孤立語的特徴をもっており、形態変化をせず、接辞をあまり用いず、統語的関係はもっぱら語順によって表されること、使役、受動を動詞に先行する前置詞句構文で表すこと、動詞に補語を後置して動作の方向や結果を表すこと、事物の存在を表すための特別の構文が存在することなどは、中国語(普通話)と共通する特徴である。
----------------------------------------------------------------------------------
余り難解になってもいけないので要点のみに要約した。

声調言語というのは、俗な説明をすれば、現代中国語でみられるような「四声」法の抑揚発音のことであり、ベトナム語も同様だということ。

声調
ベトナム語には 6 種の声調があり、各音節は必ずいずれかの声調を持つ。ただし南部方言では thanh hỏi と thanh ngã が合流し、5 声調になっている。

ベトナム語の属するオーストロアジア語族のほとんどは声調を持たない。その後、頭子音の無声/有声に従って各声調が二つに分かれ、今日の 6 声調になった。

ベトナム人の話しているのを聴くと、確かに「声調」があることが判る。


  
京訛やさしき村の媼らは「おしまひやす」とゆふべの礼す・・・・・・・・・・・木村草弥
higakizo.jpg
 
     京訛やさしき村の媼(おうな)らは
         「おしまひやす」とゆふべの礼(ゐや)す・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選歌にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
「媼」(おうな)というのは、男の「翁」に対応する言葉で、「老婆」という意味である。
私の歌の中では、媼とは、私の母も含めた老婆の意味で使っている。
「おしまひやす」とは、夕闇が迫ってきて、道を行き交う時にかける当地の掛け声で、この頃では若い人たちは滅多に使わない言葉だが、
「お仕舞いになさってくださいよ」という、「方言」と言えるが、私は、これを愛でて「京訛やさしき」と表現してみた。
この掛け声は、やはり今の時期──秋か初冬の夕暮にふさわしい、と思う。 
「礼」(ゐや)という見慣れないフリガナが振ってあるが、日本の古語やまとことば、にはこんな呼びかたが存在するのである。
短歌は古くは「和歌」と称したが、「漢語」の固い言葉よりも、「やまとことば」の柔かさを尊びたい。
東北地方の田舎ならば、夕方の挨拶に「お晩です」と言うのを想像してもらえば、よい。

この歌の一連を引いておきたい。抄出である。

    母の世紀・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  この世紀はじまる年に生まれ来て戦(いくさ)も三たび経し我が母は

  田舎もんは田舎が良いといふ母は九十年をこの村に棲(す)む

  鼻眼鏡ずり落ちさうにかけゐつつ母はこくりと日向ぼこする

  筒鳥の遠音きこゆる木の下に九十の母はのど飴舐むる

  ちとばかり大事な客と老い母は乾山の鉢に粽(ちまき)を盛りぬ

  仏壇に供ふる花の絶えたりと母は茶花の露けきを挿す

  しぐれつつ十二月七日明け初めて母九十一、われ六十一

  九十を越えてうれしき誕生日祝の鯛を食みをり母は

  口あけて入歯はづして眠りゐる母は世紀末の夢を見てゐむ

  かさかさと葦の音させ粽食む九十の母の機嫌よき顔

  老い母は言葉しづかに煮わらびの淡煮の青を小鉢に盛りぬ

  到来の葛餅を食む老い母の唇(くち)べの皺の機嫌よきこと
--------------------------------------------------------------------------
私の母は西暦1900年の生まれであり、93歳まで生きたから、文字通り二十世紀を生きたことになる。
歌集に収録するときに、この一連の歌の項目名に「母の世紀」と付けた所以である。

掲出の写真は熊本県に伝わる「桧垣の媼」の坐像である。蓮台寺に伝わるという。
「媼」という題なのだが、それにふさわしい写真がないのでWeb上から検索して拝借した。
そのゆかりについて少し長くなるが一筆しておく。

「桧垣」とは平安時代の延喜(901年)から寛和(986年)頃までの女流歌人である。
若い頃は京都や大宰府に住み、貴族と親交を結び、その美貌と文才で名声を得ていたが、藤原純友の乱の後、肥後白川のほとり、蓮台寺付近に辿りつく。
ここにささやかな庵を構えて住んだ。
ある日、時の肥後国司が通りかかり、媼に水を求めたところ、思いがけなくも、むかし都で鳴らした桧垣の老い果てた姿であることに気づく。
桧垣は純友の乱(939年)で家も焼け、一切の財産を失い落ちぶれていたのである。国司は着ていた自分の着物を脱いで桧垣にあたえたという。
その際、桧垣が詠んだのが

 年ふればわが黒髪も白川のみづはくむまで老いにけるかも

という歌である。
この国司こそ『後撰集』の選者で「梨壺の五人」の一人として有名な清原元輔──清少納言の父親であり、時の歌壇の大御所でもあった。
以後、桧垣は国司官邸に出入りし、任期が終って元輔が都に帰るとき、惜別の歌として桧垣は

  白川の底の水ひて塵立たむ時にぞ君を思ひ忘れむ

と詠んでいる。「媼」という字からの連想と言えようか。お許しあれ。
-----------------------------------------------------------------------
なお、「能楽」に謡われる桧垣について、「熊本雑学辞典」というサイトに詳しいので、ご参考までに見てください。
なお伝説には、いろいろの説があるらしく、ゆかりの寺の名前なんかも異同があるので、ご了承ください。


あけびの実親指人差指で喰ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・橋本美代子
akebixaアケビ裂けたもの

   あけびの実親指人差指で喰ふ・・・・・・・・橋本美代子

「あけび」は漢字では「通草」と書く。
雑木林などに生える落葉の蔓低木である。栽培のものもあるかも知れないが、野生のものであろう。
今ではアケビなんて言っても、知る人も少ないし、むかし食べたときは甘くておいしかったが、いまなら食べても美味とは思わないのではなかろうか。
写真①が熟して果皮が裂けた実である。黒い実のまわりの白い果肉を食べる。

アケビは春4月に写真②のように花を咲かせる。

akebi4aアケビの雄花と雌花4月

名前の由来は、裂けた「開け実」が転じてアケビになったと言われている。
果肉は甘くて、山の味覚として賞味されたが、果皮のことは、私は何も知らなかったが、干しアケビや塩漬けにしたりするらしい。
山形地方には春の彼岸の決まり料理として干しアケビを食べる習慣があるらしい。また秋の彼岸には、先祖がアケビの船に乗って来るという言い伝えから仏壇に供え、あとキノコ類を詰めて焼いて食べるという。

akebixcアゲビ若い実

夏に写真③のように緑色の若い実になり、秋になって熟して、果皮は紫色に熟して、果皮が縦に裂けて果肉が見えるようになる。
茎は「木通」モクツウ、果実を「肉袋子」ニクタイシと言うらしい。漢方では生薬として使われるし、蔓は籠などを編み、葉や茎は草木染の染料となる。
俳句にも詠まれているが、カラスなどが食べているのを見て、そこにアケビがあることが判明したりするらしい。
写真④は果皮が裂ける前のアケビの実である。

akebixbアケビ裂ける前

以下、俳句に詠まれる句を引いて終りたい。

 鳥飛んでそこに通草のありにけり・・・・・・・・高浜虚子

 むらさきは霜がながれし通草かな・・・・・・・・渡辺水巴

 主人より烏が知れる通草かな・・・・・・・・前田普羅

 垣通草盗られて僧の悲しめる・・・・・・・・高野素十

 通草食む烏の口の赤さかな・・・・・・・・小山白楢

 夕空の一角かつと通草熟れ・・・・・・・・飯田龍太

 滝へ行く山水迅き通草かな・・・・・・・・山口冬男

 採りたての通草を縁にぢかに置く・・・・・・・・辻田克己

 もらひ来し通草のむらさき雨となる・・・・・・・・横山由

 通草垂れ藤の棚にはあらざりし・・・・・・・・富安風生

 何の故ともなく揺るる通草かな・・・・・・・・清崎敏郎

 あけびの実軽しつぶてとして重し・・・・・・・・金子兜太

 通草熟れ消えんばかりに蔓細し・・・・・・・・橋本鶏二

 山の子に秋のはじまる青通草・・・・・・・・後藤比奈夫

 あけび熟る鳥語に山日明るくて・・・・・・・・福川ゆう子

 通草手に杣の子山の名を知らず・・・・・・・・南部憲吉

 口あけて通草のこぼす国訛・・・・・・・・角川照子

 山姥のさびしと見する通草かな・・・・・・・・川崎展宏

 のぞきたる通草の口や老ごころ・・・・・・・・石田勝彦

 八方に水の落ちゆく通草かな・・・・・・・・大嶽青児

 一つ採りあとみな高き通草かな・・・・・・・・嶋津香雪

 山の神留守のあけびを採りにけり・・・・・・・・浅井紀丈

 あけびなぞとりて遊びて長湯治・・・・・・・・阿久沢きよし


ペン胼胝の指を擦ればそのさきに言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
FI2618551_1E.jpg

     ペン胼胝(たこ)の指を擦(さす)ればそのさきに
           言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

今どきの若い人のペンの持ち方は変な指使いになっているので、ペン胼胝が、指のどの辺に出来るのか、あるいは出来ないのか、私には判らない。
いちばん自然なペンの持ち方をすれば、親指と人差し指でペンをつまんで、中指に添えて握るので、ペン胼胝は中指の第一関節の前あたりに出来るのが普通である。
「事務屋」として人生の大半を過ごした人には、この「ペン胼胝」があるのが普通だろう。
もっとも、この頃では事務処理もコンピュータになったから入力も「キーボード」で、したがって指先を使うことが多い。
以前は手書き伝票などは何枚複写かになっていて、力を入れて書く必要があったから、職業病として「ペン胼胝」は、その人の証明書のようなものであった。
「ペン胼胝」のことを長々と書いたが、私の歌の本題は「言葉乞食」ということにあるのだった。

FI2618551_2E.jpg

文芸表現者の端くれとして長年やってきたが、文芸表現というものは、つまるところ斬新な「言葉」探しに尽きると言えるだろう。
それを、私は「言葉乞食」と言ってみた。言葉探しにうろうろと歩き回る乞食のような存在だということである。
聖書の言葉に「はじめに言葉ありき」というのがある。
これは、キリストの言葉(教え)が、すべてに優先する、というのが厳密な意味ではあるが、この言葉をもじって言えば、文芸表現者にとっては、何よりも「言葉」が大切であって、
いかに表現する言葉を選ぶかに腐心するかに執着するからである。
「言葉」探しは、散文よりも「詩」においては、特に大切である。
なぜなら、詩は短いから、言葉を、より的確に選ばなければならない。

何度も書くので恐縮だが、ポール・ヴァレリーの言葉に

  <散文は歩行であるが、詩はダンスである>

というのがある。この言葉に初めて遇ったのは、まだ20歳くらいの頃、三好達治の文芸講演会があって、彼の口から聞いて、他のことは忘れたが、この言葉だけは、
今も鮮明に記憶の中にあるのだった。
これこそ、散文と詩との違いを過不足なく、的確に言い表したものであろう。
「詩」の用語というのは、それだけ吟味して選び抜く必要があるということである。
私の詩や歌が、果たして、それを勝ち得ているかどうかは心許ないが、その方向に努めているということだけは言えるだろう。
どうしても「日常」に堕してしまいがちなので、日常の「陳腐」な言葉に埋没してしまっては、いけない。
もっとも、日常の陳腐な言葉でも、使い方によっては「詩語」に転化できるということは、ある。
要は、それらの言葉の使い方が「斬新」であるか、どうかが問題になって来るのである。

ひととせの寒暖雨晴の巡り経て茶の実熟す白露の季に・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
6910252953f3茶の花本命

    ひととせの寒暖雨晴の巡り経て
       茶の実(さね)熟す白露の季に・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今が茶の花の咲き始めるシーズンである。この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の巻頭を飾る歌である。
WebのHPでも載せているのでご覧いただける。

私は半生を「茶」と共に過ごしてきたので、これに対する思いいれは尋常なものではない。
だから、第一歌集の題名を「茶の四季」とした所以である。
茶の樹はツバキ科としてサザンカなどと同じ種類の木である。晩秋から初冬にかけて花をつける。お茶の花は主に茶樹の下の方に咲く。
茶の株の上部に花が咲くようだと、その茶園はあまり管理が良いとは言えない。植物の花や実がつく状態とは葉や茎があまり育たない状態である。
お茶は「葉」を収穫する作物だから、花や実は、むしろ好ましくない。一般に「剪定」をすると花つきは良くない。
予めお断りしておく。 歌の中に「白露」というのがあるが、これは二十四節季の一つで、すでに九月七日頃にあった。
この頃に茶の実が熟しはじめる、ということであって、今はもう十一月も下旬で「小雪」の候であるから、茶の花は咲いているが「白露」の季節ではない。誤解なきよう。


otya-m茶の実

写真②は茶の実である。これは昨年の初冬に花が咲いて、一年かけて実になったもので植物の中でも息の長いものである。
掲出の私の歌は、その様子を詠んでいる。
この実を来春に蒔けば発芽して茶の木になる。
こういうのを「実生」(みしょう)というが、他の茶樹の花粉と交雑して雑種になるので、栽培的には「挿し木」で幼木を育てるのが一般的である。
今はやりの言葉で言えば「クローン」である。写真の実の形からすると、実は4個入っている。この実の形が三角形なら実は3個ということになる。
初冬になると、外皮が割れて、中の実が地面に落ちる。
物を作るというのは生産的で、収穫の時期など心が浮き立つものである。
掲出した歌のつづきに以下のような歌がつづいているので引いてみる。

   茶の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 茶畑はしづかに白花昏(く)れゆきていづくゆ鵙の一声鋭し

 酷暑とて茶園に灌(そそ)ぎやる水を飲み干すごとく土は吸ひゆく

 たはやすく茶の花咲くにあらざらめ酷暑凌ぎて金色の蘂(しべ)

 ひととせの寒暖雨晴の巡り経て茶の実(さね)熟す白露の季に

 白露してみどりの萼(がく)に包まるる茶の樹の蕾いまだ固しも

 川霧の盛りあがり来てしとどにぞ茶の樹の葉末濡れそぼちゆく

 初霜を置きたる茶の樹に朝日さす葉蔭に白き花ひかりつつ

先にも書いたように私の半生をかけた「茶」のことでもあり、また第一歌集でもあるので「茶」についての歌は非常に多い。
また季節に合わせて私の「茶」にまつわる歌を採り上げたい。


食むといふ営為はかなし今たべし蜜柑の香りををとめはまとふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
img10532573020_convert_20091122091459.jpg

     食(は)むといふ営為はかなし今たべし
         蜜柑の香りををとめはまとふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


早生みかんのシーズンが終って、本格的な「蜜柑」のおいしい頃となった。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、体に食べたばかりの蜜柑の香りを漂わせている少女の姿から
「食むといふ営為はかなし」という想いに至った心境を述べている。
この歌集を上梓して、すぐ親しい友人から、日野草城の句に

 をとめ今たべし蜜柑の香をまとひ

というのがあると言い、これは盗作とまぎらわしく、まずいのではないか、と言われた。
調べてみると歳時記の蜜柑の項に、確かに、この句が載っている。
以前にこの句を私が見て、それが私の頭の中に「フレーズ」として存在して、たまたま、この歌を作った時に浮かびあがってきて、私の歌の中のフレーズとなるに至ったのであろう。
短詩形の場合には、こういうことはあり得ることで、私自身では、仕方のないことだと思っている。
考えてみると、古来、こういうことは多々あったと思われ、自分独自の発想と思っていることが、すでに類型として存在する、ということはあり得ることである。
私の歌の弁明は、このくらいにして「蜜柑」の話題に戻る。

私の子供の頃、近在で栽培している蜜柑というのは秋の間は酸っぱくて、それをムシロなどで囲って寒い冬のさなかになると、
甘みが出てきて、おいしくなる、というような種類のものであった。
今は、皮が薄くて剥きやすく、中の皮も薄くて皮ごと食べられるような品種の蜜柑が多くなった。その代り保存は利かず、じきに腐ったりする。
蜜柑はリンゴなどのように包丁で皮を剥く必要もなく、手で簡単に剥けるので食べやすい果物である。
それに1個あたりの値段も高くなく手ごろである。今では愛媛県、福岡県などの大産地が出てきて和歌山県の有田ミカンなどの影は薄くなった。
しかし和歌山の「新堂」ミカンなどは、多少値は張るが、やはり美味である。

mikan1.jpg

蜜柑の句を引いて終りにしたい。

 蜜柑山の雨や蜜柑が顔照らす・・・・・・・・西東三鬼

 かの夫人蜜柑むく指の繊(ほそ)かりしが・・・・・・・・安住敦

 闇ふかく蜜柑をひとつ探りえつ・・・・・・・・加藤楸邨

 蜜柑吸ふ目の恍惚をともにせり・・・・・・・・加藤楸邨

 死後も日向たのしむ墓か蜜柑山・・・・・・・・篠田悌二郎

 蜜柑山の中に村あり海もあり・・・・・・・・藤後左右

 蜜柑ちぎり相模の海のあをきにくだる・・・・・・・・川島彷徨子

 蜜柑むいてそれから眩しい灯と思ふ・・・・・・・・原田種茅

 子の嘘のみづみづしさよみかんむく・・・・・・・・赤松憲子

 蜜柑摘み昔は唄をうたひしに・・・・・・・・山口波津女

 蜜柑むくはてこんなことしてゐては・・・・・・・・星野麦丘人

 子をなさずゆくてゆくての蜜柑山・・・・・・・・永島靖子

 蜜柑むくめくるめく思い鎮むまで・・・・・・・・豊口陽子

 蜜柑島夜は漁火もて囲む・・・・・・・・三好曲

 伊予の蜜柑花のかたちに剥きたまへ・・・・・・・・森賀まり

 みかん吸ふ袋かぞえをたのしみて・・・・・・・・小川恭生

 蜜柑捥ぎ海のきららを手で包む・・・・・・・・徳田千鶴子


倖あれと友が掌に置く実むらさき・・・・・・・・・・・・石田あき子
img_629514_26200550_0ムラサキシキブ実

   倖あれと友が掌に置く実むらさき・・・・・・・・・・・・石田あき子

この句に詠まれているのは「ムラサキシキブ」の実のことである。
なお、この句の作者は石田波郷の夫人である。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも、秋の花のところに次のような歌がある。

  才媛(さいゑん)になぞらへし木の実ぞ雨ふればむらさきしきぶの紫みだら・・・・・・・・・・・・木村草弥

私宅にもムラサキシキブの小さい株が一つあるが、今年は太い虫(名前不詳だが、揚羽蝶の種類の毛のない毛虫)に、油断していたら、葉がすっかり食べられて、結局、実は一つもつかなかった。
事典を読むと、俗にムラサキシキブと呼ばれているものは正しくは「コムラサキ」というのが多いそうである。白い実のものもあるそうだ。 
ネット上から、下記の文章を載せておく。
----------------------------------------------------------------------
1734450コムラサキシキブ実
↑ コムラサキの実

 ムラサキシキブとコムラサキ
朝から冷たい雨の降る休日は、先日本屋の店先で見つけた毎日新聞社発行の「東京の自然」のページを繰って過ごす一日になりました。 「コムラサキの小さな秋」と題した項には、コムラサキがムラサキシキブと呼ばれることが多く、その名前に混乱があるとあり、千代田区大手町の北の丸公園でも「ムラサキシキブ」と名札を付けられた植物が、コムラサキのようだったと紹介しています。

牧野植物図鑑に「優美な紫色の果実を才媛紫式部の名をかりて美化したものである」
と牧野博士は述べています。 コムラサキは実のつきがが良いことから最近では生け
垣用に多く植えられているようですので、こうした記事を読むと、私達がムラサキシ
キブと称し果実の美しさを愛でているものには意外にコムラサキが多いような気がし
てきました。

   ムラサキシキブ最も早く実を持てど最も早く鳥の食い去る・・・・・・・・・・・・・土屋 文明

以前に発行された「趣味の園芸」11月号(NHK)に「ムラサキシキブとコムラ
サキ」と題して、園芸店でムラサキシキブを買ってきて楽しんでいたらこれは「コ
ムラサキ」だといわれたが、どう違うのかとの問があり答えが載っています。
回答では、園芸店ではコムラサキを通りが良いのでムラサキシキブとして売っている
ようだとの前談から、日本にはムラサキシキブ属(クマツヅラ科)のものには数種が
あり、このうち園芸店では、コムラサキ、ムラサキシキブ、シロシキブ(正確には白
実のコムラサキ)の三種が良く売られていること、そしてわりにコンパクトに仕立て
られて実つきが良く見栄えがするという点でコムラサキに人気があると記してます。
-----------------------------------------------------------------------
Callicarpa20japonica20f_20albibacca20m1白式部
 ↑ 「白式部」と呼ばれる白いムラサキシキブ

別の事典には、次のような記載がある。

学名:Callicarpa japonica
 別名:ミムラサキ(実紫),コメゴメ
 花期:夏

 山野に生える落葉低木です。庭などに植えられて「ムラサキシキブ」と呼ばれるのはコムラサキ(小紫)のことが多いと思います。コムラサキに比べて実のつき方がまばらで,素朴な感じです。
---------------------------------------------------------------------
murasakisikibuL3ムラサキシキブ花
 ↑ ムラサキシキブの花。6月頃に咲き始める。花言葉は「聡明」。

俳句にも多く詠まれているので引いておく。

 冷たしや式部の名持つ実のむらさき・・・・・・・・・・・・長谷川かな女

 うち綴り紫式部こぼれける・・・・・・・・・・・・後藤夜半

 渡されし紫式部淋しき実・・・・・・・・・・・・星野立子

 うしろ手に一寸(ちよつと)紫式部の実・・・・・・・・・・・・川崎展宏

 むらさきしきぶかざせば空とまぎれけり・・・・・・・・・・・・草間時彦

 地の冷えの色に出でてや実紫・・・・・・・・・・・・林 翔

 実むらさきいよいよものをいはず暮れ・・・・・・・・・・・・菊池一雄

 眼(まなこ)よりこぼれて紫式部かな・・・・・・・・・・・・鈴木鷹夫

 胸焦がすほどの詩欲し実むらさき・・・・・・・・・・・・小沢克己

 室の津の歌ひ女の哀実むらさき・・・・・・・・・・・・志摩知子

 寺に駕籠寺領にむらさきしきぶかな・・・・・・・・・・・・嶋野国夫

 月光に夜離れはじまる式部の実・・・・・・・・・・・・保坂敏子

 休日は眠るむらさき式部の実・・・・・・・・・・・・津高里永子

 ゆづり合ふ袖摺坂や実むらさき・・・・・・・・・・・・由木まり

 象牙玉小粒かたまり白式部・・・・・・・・・・・・石原栄子



生殖を目指さぬ愛とたれか言ふいいや分けられぬ一つの行為・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆
6321.jpg
注解する者0001
 ↑ 2010/07/25 思潮社刊─「注解詩」という新たな領域を切り拓いたとされる

     生殖を目指さぬ愛とたれか言ふ
        いいや分けられぬ一つの行為・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆


この歌は岡井隆の第16歌集『神の仕事場』に載るものである。
まずネット上に載る記事を転載しておく。
-----------------------------------------------------------------------
岡井隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岡井 隆(おかい たかし、1928年(昭和3年)1月5日 - )は、日本の歌人・文芸評論家。未来短歌会発行人。日本藝術院会員。

略歴 愛知県名古屋市出身。父は日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)の技術者で、後に専務取締役も務めた。旧制愛知一中(現愛知県立旭丘高等学校)、旧制第八高等学校、慶應義塾大学医学部卒。医学博士。内科医師として、国立豊橋病院内科医長などを歴任した。

若くから作歌を始め、1946年「アララギ」に参加、土屋文明の選歌を受ける。1951年、近藤芳美を中心として「未来」創刊。浪漫的な生活歌から出発したが、1955年、塚本邦雄との交流が始まり、寺山修司とも知り、青年歌人会議、東京歌人会などの活動に参加、前衛短歌運動を推し進めた。大学卒業後は北里研究所付属病院の医師として勤務していたが辞職して九州に隠遁、5年後に復帰。1989年より1998年まで深作光貞の誘いにより京都精華大学人文学部教授。1983年、『禁忌と好色』で迢空賞、1990年、『親和力』で斎藤茂吉短歌文学賞、1995年、『岡井隆コレクション』で現代短歌大賞、1999年、『ウランと白鳥』で詩歌文学館賞受賞。

1993年から歌会始選者、1996年紫綬褒章、2004年旭日小綬章受章、2005年、第56回読売文学賞詩歌俳句賞を『馴鹿時代今か来向かふ』で受賞、2007年、『岡井隆全歌集』で藤村記念歴程賞受賞。2009年、『ネフスキイ』で小野市詩歌文学賞受賞。2007年から宮内庁御用掛。2009年芸術院会員に選出。2010年、『注解する者』で第40回高見順賞受賞。2011年、『X-述懐スル私』で第18回短歌新聞社賞受賞。

評論では、斎藤茂吉論が多い。

門下に小嵐九八郎、池田はるみ、山田富士郎、加藤治郎、大辻隆弘、田中槐、紀野恵、大滝和子、東直子、高島裕、嵯峨直樹、笹公人、岡崎裕美子、中沢直人らがいる。

著作
単著
斉唱 白玉書房 1956
土地よ、痛みを負え 白玉書房 1961
海への手紙 歌論集 白玉書房 1962
朝狩 白玉書房 1964
眼底紀行 思潮社 1967
現代短歌入門 危機歌学の試み 大和書房 1969 のち講談社学術文庫
戦後アララギ 短歌新聞社 1970
岡井隆歌集 思潮社 1972
茂吉の歌 夢あるいはつゆじも抄 創樹社 1973
辺境よりの註釈 塚本邦雄ノート 人文書院 1973
鵞卵亭 六法出版社 1975
慰藉論 吉本隆明から斎藤茂吉 思潮社 1975
韻律とモチーフ 大和書房 1977
岡井隆歌集 国文社(現代歌人文庫 2) 1977 
歳月の贈物 国文社 1978
天河庭園集 国文社 1978
遥かなる斎藤茂吉 私流「茂吉の読み方」思潮社 1979
時の峡間に 現代短歌の現在 岡井隆評論集 雁書館 1979
ロマネスクの詩人たち 萩原朔太郎から村上一郎まで 国文社 1980
前衛短歌の問題 現代職人歌から古代歌謡まで 短歌研究社 1980
メトロポオルの燈が見える 砂子屋書房 1981
近藤芳美と戦後世界 蒼土舎 1981
人生の視える場所 思潮社 1982
歌のかけ橋 六法出版社 1983
花を視る人 砂子屋書房 1983
古代詩遠望 続・前衛短歌の問題 短歌研究社 1983
斎藤茂吉 人と作品 砂子屋書房 1984
岡井隆の短歌塾 入門編 六法出版社 1984
茂吉の万葉 現代詩歌への架橋 短歌研究社 1985
αの星 短歌新聞社 1985
岡井隆の短歌塾 鑑賞編 六法出版社 1986
岡井隆全歌集 1-2 思潮社 1987
犀の独言 砂子屋書房 1987
今はじめる人のための短歌入門 角川選書 1988
人麿からの手紙 茂吉の読み方 短歌研究社 1988
けさのことば 2 砂子屋書房 1988
鵞卵亭談論 六法出版社 1989
岡井隆の短歌塾 鑑賞編・古代歌謡 六法出版社 1989-90
親和力 砂子屋書房 1989
文語詩人宮沢賢治 筑摩書房 1990
宮殿 沖積舎 1991
太郎の庭 砂子屋書房 1991
愛の茂吉 リビドウの連鎖 評論集 短歌研究社 1993
斎藤茂吉と中野重治 砂子屋書房 1993
岡井隆コレクション 1-8 思潮社 1994-96
禁忌と好色 短歌新聞社 1994
茂吉の短歌を読む 岩波セミナーブックス 1995
短歌の世界 岩波新書 1995
茂吉と現代 リアリズムの超克 短歌研究社 1996
前衛歌人と呼ばれるまで 一歌人の回想 ながらみ書房 1996
夢と同じもの 短歌研究社 1996
歌を創るこころ 日本放送出版協会(NHK短歌入門) 1996 
けさのことば 3 砂子屋書房 1996
月の光 詩集 砂子屋書房 1997
大洪水の前の晴天 砂子屋書房 1998
ウランと白鳥 短歌研究社 1998
前衛短歌運動の渦中で 一歌人の回想 ながらみ書房 1998
ヴォツェック/海と陸 声と記憶のためのエスキス ながらみ書房 1999
詩歌の近代 岩波書店 1999 (日本の50年日本の200年)
ことばの朝風 中日新聞社 2000
挫折と再生の季節 一歌人の回想 ながらみ書房 2000
臓器 砂子屋書房 2000
E/T 書肆山田 2001
短歌-この騒がしき詩型 「第二芸術論」への最終駁論 短歌研究社 2002
吉本隆明をよむ日 思潮社 2002
〈テロリズム〉以後の感想/草の雨 砂子屋書房 2002
旅のあとさき、詩歌のあれこれ 朝日新聞社 2003
伊太利亜 書肆山田 2004
馴鹿時代今か来向かふ 砂子屋書房 2004
『赤光』の生誕 書肆山田 2005
岡井隆全歌集 全4巻 思潮社 2005-06
ぼくの交遊録 ながらみ書房 2005
わかりやすい現代短歌読解法 ながらみ書房 2006
二〇〇六年水無月のころ 角川書店 2006
岡井隆の現代詩入門 短歌の読み方、詩の読み方 思潮社 2007
家常茶飯 砂子屋書房 2007
初期の蝶/「近藤芳美をしのぶ会」前後 歌集 短歌新聞社 2007
鴎外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え 書肆山田 2008
ネフスキイ 書肆山田 2008
瞬間を永遠とするこころざし 日本経済新聞出版社 2009 日本経済新聞「私の履歴書」をまとめたもの
私の戦後短歌史 小高賢聞き手 角川書店 2009
注解する者 詩集 思潮社 2009
X-述懐スル私 歌集 短歌新聞社 2010
静かな生活-短歌日記2010 歌集 ふらんす堂 2011
共著・編著
短詩型文学論 金子兜太 紀伊国屋新書 1963
『天使の羅衣(ネグリジェ)』思潮社・組詩(佐々木幹郎と共著) 1988
あなたと短歌を 角川書店 1995
集成・昭和の短歌 小学館 1995
現代百人一首 朝日新聞社 1996 のち文庫
俳句・深層のコスモロジー 雄山閣出版 1997 (Series俳句世界 5)
斎藤茂吉-その迷宮に遊ぶ 小池光,永田和宏 砂子屋書房 1998
『短歌と日本人 第7巻 短歌の創造性と象徴性』岩波書店、1999
『けさのことば』中日新聞・東京新聞に長年にわたって連載中。
---------------------------------------------------------------------------
転載の記事が多くて申し訳ないが、2005年に『馴鹿時代今か来向かふ』で「読売文学賞」を受賞したときの記事を引いておく。↓
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
 戦後の短歌史と重なるといってもいい歌歴は、華々しくも起伏に富む。

 「アララギ」の歌人である両親のもとで10代から作歌し、1951年の「未来」創刊に参加。やがて始まった塚本邦雄氏とこの人との交流が前衛短歌運動を推し進め、吉本隆明氏との「定型論争」など、活発な評論活動を繰り広げた。

 だが、70年に突然、家庭も医師としての職場も捨てて九州に出奔し、5年間短歌から遠ざかった。92年には宮中歌会始選者への就任が論議も呼んだ。

 長い歌歴の中で、作風も変化を重ねた。受賞作にはそれが反映して、幅の広い多彩な作品が並ぶ。選考委員は「成熟した歌集。熟練と危うさが拮抗(きっこう)している」「自らのキャリアや立場に対する意識が薄まり、自由さを得た」と評した。

 「去年あたりから背負っているものが軽くなった気はしています。若い人に仕事がまかせられるようになったし、私生活では子供たちが自立してきた」

 <ゆつたりと廂に到(いた)る大いなる反(そ)りこそ見ゆれ雨絶えまなく>
といった韻律の美しい格調高い作の一方に、実験的な時事詠や口語体の作品がある。朗読のための連作、ことば書きや注の多用も特徴的だ。

 若い歌人とも積極的にかかわってきた。ライトバースの文体をいち早く評価したり、10年ほど前から、東京を始め関西や名古屋で若手中心の研究歌会を指導したり。だが、与えるばかりではない。若者の言葉遣いや発想の新しさを吸収して、より高度な形で自作に取り入れてしまう。
<窓際まで行かない、枯れ木の撓むのを見ない今日こそ〈始まる〉のかも>
実にやさしい笑顔を見せるのに、「岡井さんはこわい」とささやかれてしまうゆえんだ。

 数年前、30歳以上年の離れた妻と結婚した。
<よこになつて休めといふから寝てゐると側(そば)に来て傘(かさ)見せ寝かさないえり子>。
2人の関係を詠んだ歌は多い。「短歌は作者の背景を下敷きにして読まれるということも大切ですから」。あとがきに自らの履歴を織り込んでみたのも一つの試みである。

 一風変わった標題は
<かつてまだ定義されたることのない馴鹿時代今か来向(きむ)かふ>の一首による。

 「馴鹿はシカでもカモシカでもなく、家畜かと思えば野性味もあるとらえどころのない動物。現代という“世代”が失われ、家族が揺らぎ、個人と個人が裸で対しているような、定義しがたい奇妙な時代に、その名を付けてみたんです」

 時代を、社会を、自分自身を、鋭敏に感じ取り、先端を走り続けてきた歌人は、自在さを増してさらに旺盛に詠み続けるのだろう。(小屋敷 晶子記者)

『馴鹿時代今か来向かふ』
岡井隆
出版社:砂子屋書房
発行:2004年10月
ISBN:4790408167
価格:¥5250 (本体¥5000+税)
--------------------------------------------------------------------------
FI2618530_2E.jpg

『神の仕事場』は平成6年に刊行されたもので岡井の六十代後半のものである。今年で85歳になる。
先に引用した記事にもある通り、作風も変幻自在、また生き方の変遷にも何度もの離婚、再婚など彼の身めぐりには「女」の影がつきまとう。
「変身」のたびに配偶者を替えてきたと言える。
また「神の仕事場」という歌集の題名からして、言わば「人を食った」ようなところがあり、出版の際にも、さまざまの話題を呼んだものである。
同じ歌集から少し歌を引く。

 ミサイルが蛍のやうにとび交ふを愛咬の図とくらべて果敢無(はかな)

 ひさかたの倦怠(けたい)の雲のたなびきにエスプレッソの苦きなごりの

 長鼻の「ひかり」が着きてゆつたりと五月雨の下に眼(まなこ)を閉ぢぬ

 自転車をナジャと名づけてあしたまで駅の早霜にうたせて置かむ

 つきづきし家居(いへゐ)といへばひつそりと干すブリーフも神の仕事場

 くだりゆくエスカレーター羅(うすもの)の多くなりたる売場に映えて

 冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし

 耐へがたいほどの快楽(けらく)が四肢に来て或る契約に署名せりけり

 卓上にめがねを置きぬなに故に置きしや盲(めし)ひつつ抱かむがため

 食道をくだるチーズを一盃(ひとつき)の酒に追はせてゐたりけるかも

 砂庭にはなびら散らふ寂けさや午後の講義の想(さう)ひとつ浮く

この頃、彼は東京から京都の精華大学への出講のために往復していて、京都にしばらく滞在するなどの生活をしていた。また前夫人との離婚の話が進行中で、ここに引いた歌の中の「或る契約」うんぬんというのは、それに由来する。前夫人との間には子供があり、その成人までの養育費などの仕送りが必要で執筆などにも追われていたという。
しかし、ともあれ言葉の取捨選択は的確で、「比喩」にも秀でて第一人者の面影躍如たるものがある。
島田修三は<生殖を目指さぬ愛><耐へがたい>などの歌を引いて「おのれのリビドーへの深い傾斜」を指摘する。「韻律への楽しげな試みがうかがえるが、断固<意味>を去らぬ理由の一つが、おそらくこの辺にある」として、ことば遊びにとどまらない若々しい生命力に裏打ちされることに着目する。

長い紹介文と島田の解説などでもわかるが、ここで私なりの「解題」を書いてみる。

次々と女を替え、最近では30歳以上も年下の若い妻を娶るなど、彼は相手の女から若さと生命力を得てきたと言える。世間では、こんなに年の離れた妻だから、「生殖を目指さない愛欲だろう」などと噂するが、どうしてどうして俺は配偶者が望むなら子を生(な)してもいいんだよ、という言挙げの歌なのである。
彼の歌は先にも書いたように「比喩」のオブラートでくるんであるから、つい騙されるが、年月が経って当該の歌を読み返してみると、彼の実生活がこまめに詠まれているのである。
私がここに引いた十数首の歌は私が「恣意的」に引いたものではない。
実は、これらの歌は、篠弘編『現代の短歌100人の名歌集』(三省堂2003年刊)に載るもので、生存中の作家については作家によって「自選」されたものだからである。
つまり、この引用の一連には岡井隆の自分の歌に対する深い思いがこめられていると言えるのである。

先のネットからの引用文にある

<よこになつて休めといふから寝てゐると側(そば)に来て傘(かさ)見せ寝かさないえり子>

をみると今の若い妻は「えり子」というらしい。あるいはこれも「仮名」かも知れないが、いずれにしても若い妻「えり子」が可愛いくて仕方がない、という愛欲べたべたの歌である。彼女は「画家」だと言う。
私の引いた歌とは別の歌集の歌ではあるが、関連があるというか、一貫しているのであるから、この一連はそれを、さらりと表現してあるので嫌らしい感じはしないが、まあ、そういうことである。
「愛咬の図」とか「干すブリーフ」とかの生々しさもあるのに、目立たない。
そういう「生活臭」を比喩などの表現で巧みにくるんで「文芸」の域に高めてある技巧は素晴らしい。
「干すブリーフ」と「神の仕事場」との取り合わせなど、絶妙の限りで、意表をつく見事さである。
ワープロ入力しているときに「変換」で神 → 紙などと出てくるが、これを捉えて「紙の仕事場」のもじりだとすると、面白いと思うのだが、いかがだろうか。
玩味するほど味の出てくる作品群である。賞味されたい。



山茶花は咲く花よりも散つてゐる・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子
FI2618538_1E.jpg

     山茶花は咲く花よりも散つてゐる・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子

私の家の前栽の生垣の一番西の端にあるサザンカが咲き始めた。4、5日前から咲きはじめたと思ったら、もう一斉に咲いて満開に近い。
サザンカにも遅速はあり、この木は例年一番早い。亡妻などは「あんまり早く咲きすぎる」と文句を言っていた。
というのは今なら菊などの花の彩りもあるからで、冬が深まって周りに花の色がない時に咲いてほしい、という願いである。
サザンカは「山茶花」と書くが字の通りに発音すれば「サンザカ」となるが発音し難いので、いつしかサザンカとなったという。
原産地は日本で、学名を Camellia sasanqua というが、ここでも日本の発音通りの命名になっている。
椿科というけれど椿との違いは、ツバキは花が落ちる時にはボテッと全部一緒に落ちてしまう(このことから斬首刑を連想するのか、武士は椿の花を嫌ったという)が、
サザンカは花びらが一枚一枚づつばらばらに落ちる。
サザンカは長崎の出島のオランダ商館に来ていた医師ツンベルクがヨーロッパに持ち帰り西欧で広まったという。
なお、学名の前半の Camellia は椿のことで17世紀にチェコスロバキアの宣教師 Kamell カメルさんの名に因むという。
サザンカはさまざまに改良され、もともとは5弁の茶の花に似ている花だったが今では色も花弁の枚数も多様である。

FI2618538_2E.jpg

写真には色々のものを載せてみた。
和漢三才図会』には「按ずるに、山茶花、その樹葉花実、海石榴(つばき)と同じくして小さし。その葉、茶の葉のごとく、その実円長、形、梨のごとくにして微毛あり。・・・・・およそ山茶花、冬を盛りとなし、海石榴の花は、春を盛りとなす」とある。
的確な表現である。なおサザンカは正式には「茶梅」と書いて「さざんくわ」と読むのが正しいという。
サザンカは茶に近いものであるから、この説は了解できる。

ここでネット上に載る記事を引いておく。
---------------------------------------------------------------------
FI2618538_3E.jpg

サザンカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サザンカ

分類
界: 植物界 Plantae
門: 被子植物門 Magnoliophyta
綱: 双子葉植物綱 Magnoliopsida
目: ツバキ目 Theales
科: ツバキ科 Theaceae
属: ツバキ属 Camellia
種: サザンカ C. sasanqua

学名
Camellia sasanqua
和名
サザンカ
英名
Sasanqua

サザンカ(山茶花)は、ツバキ科の常緑広葉樹。秋の終わりから、冬にかけての寒い時期に、花を咲かせる。野生の個体の花の色は部分的に淡い桃色を交えた白であるのに対し、植栽される園芸品種の花の色は赤から白まで様々である。童謡「たきび」(作詞:巽聖歌、作曲:渡辺茂)の歌詞に登場することでもよく知られる。漢字表記の山茶花は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。

自生地
日本では野生種は山口県から九州および四国、沖縄である。なお、ツバキ科の植物は熱帯から亜熱帯に自生しており、ツバキ、サザンカ、チャは温帯に適応した珍しい種であり、日本は自生地としては北限である。

品種
園芸品種は花の時期や花形などで3つの群に分けるのが一般的。サザンカ群以外はツバキとの交雑である。

サザンカ群
サザンカ Camellia sasanqua Thunb.

カンツバキ群
カンツバキ (寒椿) は、サザンカとツバキ C. japonica との種間交雑園芸品種群である。

カンツバキ Camellia sasanqua Thunb. ’Shishigashira’(シノニムC. x hiemalis Nakai,C. sasanqua Thunb. var. fujikoana Makino)

ハルサザンカ群
ハルサザンカ Camellia x vernalis (Makino) Makino
--------------------------------------------------------------------
FI2618538_4E.jpg

サザンカは古来よく詠まれて来た花で芭蕉一門の連句などにも、よく登場する。
以下、サザンカを詠んだ句を引いておく。

 霜を掃き山茶花を掃く許りかな・・・・・・・・高浜虚子

 無始無終山茶花ただに開落す・・・・・・・・寒川鼠骨

 花まれに白山茶花の月夜かな・・・・・・・・原石鼎

 山茶花やいくさに敗れたる国の・・・・・・・・日野草城

 山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ・・・・・・・・加藤楸邨

 山茶花の散るにまかせて晴れ渡り・・・・・・・・永井龍男

山茶花のくれなゐひとに訪はれずに・・・・・・・・橋本多佳子

 山茶花の咲きためらへる朝かな・・・・・・・・渡辺桂子

 山茶花の咲く淋しさと気付きたる・・・・・・・・栗原米作

 白山茶花地獄絵のごと蜂群るる・・・・・・・・高木雨路

 山茶花の落花並べば 神遊び・・・・・・・伊丹三樹彦

 さざんくわにあかつき闇のありにけり・・・・・・・久保田万太郎

 さざん花の長き睫毛を蘂といふ・・・・・・・・野沢節子

 不忠不孝の人山茶花の真くれなゐ・・・・・・・・飯島晴子

 山茶花の咲きて病ひの淵に入る・・・・・・・・保坂敏子


日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴス「木村重信インタヴュー1」2010/05/29
木村重信著作集④

──雑文──

  日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴス「木村重信インタヴュー1」2010/05/29


暇にまかせてGoogleで「木村草弥」ネットサーフィンしていたら、こんな記事が載っていた。
これがリンク → 「木村重信インタヴュー1」2010/05/29

京都芸術大学で一緒に教師仲間でもあった梅原猛が言っていたことだが、「学会三大おしゃべり」のピカ一が木村重信だ、と。
そんな彼の面目躍如たるのが、このインタヴューである。
とても長いが、美術に関心のある人には面白いと思うので、読んでみてください。
とにかく多弁で博識で、かつ交友関係の広さが判るだろう。





へそまがり曲りくねつてどこへゆく抜き差しならぬ杭の位置はも・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
FI2618552_1E.jpg

    へそまがり曲りくねつてどこへゆく
        抜き差しならぬ杭(くひ)の位置はも・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌も具体的な「杭」というのではなく、「抜き差しならぬ杭」という表現で、人生における「ままならぬ」ことどもを「心象」として表現したものとして受け取ってもらえば有難い。
この歌も私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
自選50首にも採っているので、WebのHPでも、ご覧いただける。
私の歌では単なる「杭」だが、そんな写真はないので南紀・串本の「立杭岩」を掲出しておく。

Web上で「杭」と検索すると、圧倒的に多いのが建設業界のサイトであり、その中でも「中国語」のサイトが多いのが目につく。
こういう「杭」のような単純な加工品では労賃の安い中国の優位が目立ち、売り込みのサイトなのであろうか。

「杭」というものは、例えば牧場などの境界を区切るものとして、また農作業では支柱を立てたりするときの「杭」として必要なものである。
そのような「杭」の置かれた立場として、時として「抜き差しならぬ」という場面が出てくるもので、昔の人も、そのような立場を「抜き差しならぬ」という慣用句として確立したのである。
それは、単なる「杭」の位置を離れて、人生一般についての「譬え」として広く用いられるに到るのである。
私の歌も、そういう類の「隠喩」として捉えていただくと有難い。


死後は火をくぐるべき我が躯にあれば副葬の鏡に映れ冥府の秋・・・・・・・・・・・・・木村草弥
611px-Bronze_Mirror_in_Ancient_Japan.jpg
 
    死後は火をくぐるべき我が躯(み)にあれば
          副葬の鏡に映れ冥府(よみ)の秋・・・・・・・・・・・・・木村草弥


余り明るい、楽しい歌でなくて申訳ないが、この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので自選歌のなかにも収録しているのでWebのHPでもご覧いただける。
一般受けする歌ではないが、心ある人たちからは好評であった。私自身も好きな歌である。

写真①には私の住む近くの木津川市の椿井大塚山古墳出土の「三角縁神獣鏡」を掲げてみた。
我々が死ぬと日本では通常「火葬」いわゆる「荼毘」(だび)に付される。
これはインド伝来の死体の処理方法であるが、ここで「火」というものの「神聖さ」が表れているように思う。

FI2618550_2E.jpg

写真②は「那智の火祭り」であるが、これは神事に関係する「火」の浄らかさの表現である。
これに対する火葬の「火」もまた、人間の肉体処理についての「浄化」の思想の表現である、と言われている。
インドへ行ったことのある人なら、ガンジス川の畔での火葬の光景を目にしたことがあろう。
ここでは「火葬」を巡っても身分差別、貧富による死体の扱い、火の入れ方の違いに直面することになるが、今は、それは置いておこう。
シンボル、イメージの世界では、「骨」は死後も滅びないので復活の象徴とされている。
ローマ・カトリック教会(バチカン)が今なお火葬に反対しているのは、一つにはこのためであり、また原始的な社会の殆どでは、骨に同様な象徴的な意味を認めている。

FI2618550_3E.jpg
写真③はインドのクシーナガルの釈迦の入滅の地の「荼毘塚」と呼ばれるラマバル塔である。
写真④の説明を先にしておくと、ここでは線香、花など参拝のあとがうかがえる。

FI2618550_4E.jpg

お釈迦さまの最期だが、クシーナガルに着いた釈迦は、アーナンダに、こう言う。

さあ、アーナンダよ。私のために、2本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。私は疲れた。横になりたい。

いわゆる「北枕」で横たわるのだが、中村元先生が、インドの或る知識人から聞いたところ、頭を北にして寝るというのは、インドでは今日でも教養ある人の間では行なわれているという。
北枕で右脇を下にして西に向かって臥すというのは、インドでも最上の寝方とされるようである。
釈迦の最期の言葉は

<さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう。「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ」

この言葉には「万物流転」という真理が簡潔に表現されている。仏教のあまたの教義は、この単純な言葉に集約されている、と言っても過言ではないと思う。

FI2618550_5E.jpg

「荼毘」に関連するものとして写真⑤に大阪市浪速区元町1丁目にある「鉄眼禅師荼毘処地」の石碑を掲げておく。
鉄眼は寛永7年(1630年)肥後の生まれ。13歳で出家。明の僧「隠元」の来日に遇い、明暦元年(1655年)その門に入り黄檗宗の熱心な布教者となった。
また「一切経」の完全な開版を志し、喜捨を求めて全国を歴訪し、10年余の苦心の末、延宝6年(1678年)に版木6万枚の完成をみるが、その間、延宝2年の大坂の洪水、天和2年の全国的な飢饉の時など、折角の喜捨を全て、その救済にあてた。天和2年過労のために53歳で没した。
なお「一切経」の版木は本山の宇治の万福寺に収蔵されている。偉い人がいるものだ。

帚木蓬生『受命』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
51XHXKFVTBL__SS500_.jpg
 
──新・読書ノート・・・・初出Doblog2007/11/17──

     帚木蓬生『受命』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・角川書店2006年6月刊・・・・・・・・・・

今度は、集中的に読んでいる帚木の表題の小説である。
はじめにWebKADOKAWAに載る同社の紹介記事をそのまま転載しておく。
作者へのインタビューも載っている。
----------------------------------------------------------------------
日系ブラジル人医師、津村リカルド民男は、北京の国際学会で平壌産院の許日好(ホ・イルホ)と知り合い、北朝鮮に知識と技術を伝え、指導して欲しいと熱心に勧誘される。返事を保留した津村は、その後、旧友のいる延吉(イェンチー)を訪れる。そこは、中国東北部、豆満江(トマンガン)を境に北朝鮮と隣り合う朝鮮族自治州。旧友の車世奉(チャ・セボン)は脱北者を支援するNGO活動を行っていた。津村は、車世奉にガイドされ、川向こうの国を眺めているうちに、招聘医師として北朝鮮に行く決意を固める。北園舞子は、在日朝鮮人の平山会長が経営するスーパーの庶務課で働いていた。北朝鮮との強いパイプがある会長の目にとまった舞子は、万景峰(マンギョンボン)号に乗船して会長とともに元山(ウオンサン)に向かう。ツアー・コンダクターの寛順(カンスン)は、亡くなった恋人の弟・東源(ドン・ウオン)とともに、中国国境から北朝鮮への潜入を敢行する。三者三様の北朝鮮入国。だが、彼らの運命が交錯するとき、現代史を塗り替える事件が勃発する。国際サスペンス書き下ろし1000枚。
1947年、福岡県生まれ。東大仏文卒後、TBS勤務の後、九大医学部卒。現在、精神科医。93年「三たびの海峡」で吉川英治文学新人賞、95年「閉鎖病棟」で山本周五郎賞、97年「逃亡」で柴田錬三郎賞受賞。他に「受精」「国銅」「薔薇窓」「エンブリオ」「千日紅の恋人」などがある。

●日曜作家の平日
─このたび、新刊『受命』が刊行されました。昨年八月に『千日紅の恋人』を出されてから十カ月。平日は夕方まで精神科医としてのお仕事もありますし、また、一千枚強の枚数を考慮しますと、非常に速いペースではないかと思いますが、いかがでしょうか。
帚木 いえいえ。だいたい年に一作ですからね。枚数も一日四枚程度。例年一千枚ぐらいは書きますから、普通のペースではないでしょうか。

─ 一日の生活のリズムは、どんな感じでしょうか。
帚木 四時に起床して五時まで執筆して、その後、お風呂に入ったり、朝食をとったり、ジョギングしたりして、それから出勤するまでに、また一時間くらい執筆することが多いです。二時間ありますから、四枚は書けますね。

─クリニックを退勤した後、夕方から夜にかけてはいかがですか。
帚木 クリニックは五時に終わりますから、帰宅して夕食をとり、執筆はせいぜい一時間くらいです。疲れているときは、三十分くらいで、八時には寝るようにしています。本職はやっぱり精神科医ですから、まあ、日曜作家のように書いているというところでしょうか。

─この作品の構想から脱稿までは、どんな流れだったのでしょうか。
帚木 九二年に『三たびの海峡』で朝鮮半島のことを書いていましたし、いつかまた書かなければいけないという気持ちは、以前からありました。ただ、北朝鮮の傍若無人というか、言語道断で理不尽な国をきちんと取り上げる必要があるなという気持ちを持ったのは、もっと後のことでしたが。五年くらい前から資料集めを始めて、これなら行けるという感触があったのが三年くらい前でしょうか。また、『受命』は角川書店から刊行された『受精』のシリーズ作品ですから、シリーズとしての制約もあります。それと組み合わせてできるようになったのが二年前くらいです。執筆には、去年丸々一年間かけました。

●北朝鮮の取材旅行
─平壌の街の様子や田舎の自然描写など、読みながら眼前に映像が浮かんでくるようでしたが、北朝鮮に取材旅行はされたのでしょうか。
帚木 昨年、執筆している間は行けなかったのですが、北朝鮮には、この四年の間に三度行っています。もちろん作品に出てきたところ全部は歩けなかったですけど、平壌、元山、開城と見て回りましたので、行けなかったところも、だいたいこんな感じかなというイメージをつかむことはできました。

─北朝鮮には、どのようにして入られたのですか。
帚木 旅行会社のツアーに普通に申し込んで、北京から飛行機で入りました。その旅行会社に応募すれば、犯罪とか怪しい組織に加わってなければ行けるんじゃないんでしょうか(笑)。何も問題はなかったですから。しかし『受命』刊行後は、要注意人物となって入国できないでしょう。

─北朝鮮ツアーの印象はいかがでしたか。
帚木 一言で言うと、お仕着せの旅行ですね。観光バスに乗って、主体思想塔や革命博物館などお決まりの見せなければならないコースを回らせられるという感じです。街には看板が一切ないし、スケジュールが途中で変更されます。ツアーで実際に回るコースを最後まで観光客に知らせないというのも向こうの手ですね。そのため、こちらはずっとついていくしかない。写真を撮るのもダメです。ツアーガイドがどこへでも必ずついてきて、単独行動はできないですね。このあたりのことは『受命』に書いてある通りです。

●変化する日朝関係
─『受精』の刊行が一九九八年になります。それから八年の間、日朝関係が随分変わりましたが。
帚木 そうですよね。八年前は北朝鮮のことは、それほど頭にはなかったです。拉致が判明したのが四年前ですが、やっぱりあのあたりからですね。これはとんでもない国だということが分かってきた。そのうえ核査察も拒絶していた。さらに、だんだん脱北者が増えてきて、あの国が見え出してきたということもありますね。それでこれはもう放っておけない、これを題材にしなくては、作家としていけないんじゃないかという気がしました。それは前に『三たびの海峡』を書いているからではなくて、世界にとって北朝鮮の現状は最も憂慮すべき問題ですから。これが本当の意味での動機です。ただ、角川書店での発行ですし、前作『受精』との結びつきは、課題としてどこか頭の隅にはありました。ようやく結びつくと思ったのが二、三年前ですね。取材もそれで本格化してきました。

─拉致問題が明るみに出たのが二〇〇二年九月。このとき、小泉首相が訪朝し、北朝鮮の指導者が正式に認め、謝罪したわけですが。
帚木 そうですね。でも、拉致問題は昔から囁かれてはいましたよね。それを日本政府は否定してきた。被害者の家族たちの訴えはずっとあったのです。これは日本の暗部でもあるのです。この問題が出てはっきりしたことは、北朝鮮という国は、絶対に見過ごしてはいけない国だということです。ところが、韓国は北朝鮮のほうを見ないようにして生活していますし、中国は北朝鮮に存在してほしいという腹があります。それから、米国も強硬な態度を見せてはいますが、この地球上から北朝鮮がなくなっては困るというところもあるのではないでしょうか。そのへんの力学みたいなものも、小説の中でちゃんと整理したいという気持ちがありました。

─ここへきて、韓国政府もようやく動き出した様子です。横田めぐみさんの夫が韓国人拉致被害者かどうか、DNA鑑定を行い、きわめて可能性が高いと認めました。
帚木 韓国の拉致被害者は、五百人はいるといわれていますが、それがやっぱりうやむやにされてきました。いうなれば北朝鮮というライオンを前にして立ちすくんでいるネズミかなにかの状態が、韓国ではないでしょうか。強いことが言えないですしね。金大中前大統領の「太陽政策」もその表れで、聞こえはいいですが、要するにご機嫌取りだったということではないでしょうか。

●多角度からの視点
─さて、作品の内容にふれていただきますが、北京での国際医学会で津村が北朝鮮の平壌産院にスカウトされる冒頭のシーンに続いて、津村が延吉に赴きます。
帚木 北朝鮮と国境を接している中国のあのあたりは、延辺朝鮮族自治州といって六市二県から成っています。

─中国の東北部に日本の九州より大きな朝鮮族自治州があること自体、驚きでした。
帚木 中国には朝鮮族が二百万人いますが、そのうち半数近くがこの地域に集中しています。昔は国境もなかったに等しいわけで、脱北者が出始めて監視が厳しくなるまでは、自由に行き来していたのではないでしょうか。今はもう寸断されている形ですが。

─実際にご覧になられたのですか。
帚木 延吉には一度行きました。国を隔てる川の幅が狭いから、向こう側の建物も見えるぐらいです。

─作中でも津村が川の向こうにある北朝鮮を眺める場面がありました。
帚木 表向き、張りぼてを並べて、本当に劇場国家みたいです。ショーウィンドウだけを見てるという印象でした。

─津村は延吉に赴いて、脱北者を支援するNGO活動を行っている車世奉に案内されるのですが、この車世奉という人物は中国に対してものすごく批判的ですね。
帚木 作中にも書いてますが、中国と北朝鮮を隔てるあの壁さえなくせば、北朝鮮は間違いなく崩壊します。自由にあそこから出入りができるようになれば、かつての東欧がそうであったように、どんどんそこから人々が流出しますからね。ところが、中国はそうさせない。そして、難民を難民として認めていない。まったくとんでもない話ですが、そんな国が国連の安全保障理事会の常任理事国をやっているのです。それから、今年、北朝鮮の指導者が特別列車に乗って広東あたりまで行ったのを、中国は手厚くもてなしている。旧正月前の民衆が最も忙しい時期に、極悪非道の指導者をあんなふうに手厚くもてなすなんて、もう本当に狂気の沙汰だと思います。それぐらい、中国としては北朝鮮に、現体制のまま存続してほしいということではないでしょうか。

─脱北者を北朝鮮に引き渡す、その一点に中国の本質があると車世奉に言わせています。とても印象に残りました。
帚木 絶対にそうです。この一点をもって推して知るべしです。やっぱり真実というのは、そんなに複雑なことではない。一つのことが分かれば、あとは全体が見えてくるのではないでしょうか。韓国の立場もそうだし、中国の立場もそうだし、アメリカの立場もそうです。たとえば、北朝鮮がなくなれば、日本も韓国も脅威を感じなくなり、アメリカ軍は不要になってしまう。そうさせたくないのがアメリカの立場ではないでしょうか。そういう意味では、この小説を執筆しながら配慮したのは、いろんな視点から北朝鮮を見つめるということでした。一つは、今お話に出た車世奉。これは中国側からの視点。また東源と寛順は韓国側からの視点。朝鮮総連に尽くした平山会長は在日朝鮮人としての視点です。ブラジル国籍を持つ主人公の津村は、より第三者的な目で北朝鮮を観察しますし、平凡な日本人女性の舞子もそうです。

●地に落ちた理想主義
─北朝鮮の外部からもそうですが、内部からも観察者の目が光っていました。たとえば姜将軍は、生き証人のようにこの国の歴史を見続けてきました。
帚木 姜将軍は七十代で、やっぱり建国時の朝鮮のよさを知っている世代ですからね。新しい国が戦いの後に生まれるという期待を抱いて、エリートの軍人になっていったはずですけど、途中で変質してしまった。当初の理念はこんなふうではなかったという思いは強い。そして、だんだん世代を重ねるにつれて貧しくなってゆくのを感じ出した世代ですね。そのうえ知性もあるし、理性もあったから、このままではいけないということは、肌で感じていたはずです。

─建国時の朝鮮のよさという言葉が出てきましたが、作中では先代の指導者が政権の座に就いたときから、民衆を欺く虚偽があったと書かれておりましたが。
帚木 たしかにそうですが、そのこと自体はみんな最初は知らない。それに先代の指導者には、やはり初代なりの理想主義があったのではないでしょうかね。やっぱり初代ですから物笑いにはされたくない。そう思って必死にやってきた面はあるのではないでしょうか。ところが、二代目になると、それがもう上辺だけの、劇場だけの、少数生き残りの政策に、まさしく変質してしまったということですよね。

─食料の配給を止めたというのが象徴的です。
帚木 九〇年代に入った頃から、配給が止まり出したのではないでしょうか。二代目は現実的には八〇年代に実権を握っていましたから。もちろんそういう情報は父親には隠蔽していた。やはりこうなってしまったのは、失政が原因でしょうね。農業政策を後回しにして、工業一辺倒になりましたし、上辺の数字だけを合わせればいいような政策ですからね。配給をストップして自給しろと言われても工場の機械を売るしかない。売れば工場では何もできないですしね。

─北朝鮮に潜入した東源と寛順を誘導する康春花は、身分の低い一庶民の視点から北朝鮮の国情をつぶさに語っていますね。
帚木 生理用品もない、口紅もない、化粧品はイワシの臭いがするとかですね。女性が美しくありたいのに、スカーフもろくに手に入らない。靴だって。

─こんなのは国じゃないと、康春花に言わせています。
帚木 そのように多角的に、外側からも内側からも見て、やっぱり辻褄が合ってしまうということですね。その辻褄というのは、非道なことが行われている国だということです。それも一人の指導者によって。一般国民は自由を奪われ、何もできないようにされている国。これを書かずにはおられないですよ。やっぱり作家として。

─ともすると敬遠してしまいがちなテーマですが、まさに帚木さんならではのお仕事と感じました。
帚木 まあ、そんなことはないですが。ただ、家族とか恋愛とか、そういうものも大切ですが、私にとっては、このテーマを放置して、他のテーマというのはないですね。アメリカ人の作家には書けないし、ましてや韓国人の作家には書けない。また中国人の作家にもそこまでの資料調べはできないでしょうしね。そういう意味では日本人の作家が一番いい位置にありますしね。

●日本と韓国のヒロイン
─ところで、前作『受精』に登場したヒロイン、舞子と寛順が『受命』でも再登場します。彼女たちは恋人を失った後、ブラジルのサルバドールの病院に行って、非常に辛い思いをして帰国するという共通の過去を背負っています。舞子は、その後、在日朝鮮人の平山会長が経営するスーパーチェーン店の庶務課で働き、たまたま路上でうずくまっている会長を救護したことが縁で、万景峰号に乗船することになります。『受精』からの読者には待ちに待った舞子の登場という感がありますが。
帚木 私はいつも続編を書くときは、数年の間隔を経て書くわけですけど、前作の登場人物にまた会えたなという嬉しさはありますね。続編ですから、たしかに制約はありますけど。ただ、登場人物が、生きてたんだね、懐かしいねという感じで筆が進んでいく続編のよさというものを感じます。

─舞子は会長から一緒に北朝鮮に行かないかと誘われますが、一旦は迷います。彼女の背中を押したのは何だったのでしょうか。
帚木 やはり津村が平壌の病院にいるというのが大きかったですね。津村は『受精』でも助けてくれた恩人だし、恋人を失った傷はそう簡単には癒えないわけで、それがようやく四、五年経過して癒えてきて、二人が互いに接近してゆく素地が揃ってきたということでしょうね。

─寛順の場合は、いかがですか。
帚木 亡くなった恋人の弟が北朝鮮に潜入すると聞いて、寛順としては心が動かないわけはなかったでしょうね。恋人の面影を残してますし、自分の弟のように思って面倒を見てやりたいという気持ちがあった。東源と寛順は、いわば東振(東源の兄)という太い絆で結ばれています。

─今後、津村と舞子、寛順と東源の関係がどう進展していくか非常に興味深いです。
帚木 そうですね。ですが、今は全力投球を終えたところで、その先を思いやる元気はありません(笑)。また数年すると、力が湧いてくるかもしれません。
---------------------------------------------------------------------------
私の下手な要約や解説よりも、作者じきじきの、この文章の方が、はるかに判りやすい。
ただ、この紹介記事には、読者に「結末」をさらけ出すことは避けているので、結末は判らない。
少しだけ書いておくと「将軍様」一家はボツリヌス菌を醤油に入れられて絶命する。
このプロットが、現実には、今後どう展開するか。小説と現実の政治の世界とは違うから誰にもわからないと思う。小説だから、サブの登場人物は、みな死んでしまった。
これが創作という「虚構」のいいところである。
ほぼ一日かけて読了したが、いつもながらお見事な文章力とプロットである。
ぜひ、ご一読を。


帚木蓬生『臓器農場』・・・・・・・・・・・・木村草弥
51GQXA61AQL__SS500_.jpg

──新・読書ノート・・・初出・Doblog2007/11/16──

   帚木蓬生『臓器農場』・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・新潮文庫(初版1993年)・・・・・・・・・・

先日来、この著者の本を集中的に読んでいるので、今回は、これを採り上げる。
著者は、東大仏文科からTBS勤務ののち、九大医学部に転身し、精神科の医者のかたわら、医療を通して現代に生きるということを問う一連の小説を執筆している。
『臓器農場』は、九州のとある総合病院を舞台とした、臓器移植をめぐっての医者や看護婦、患者の葛藤を描き、医療の暗部を剔りだしたサスペンス小説である。無脳症の胎児から臓器を移植し、難病の子どもたちを救う。誰もが反論できないような人助けの医療行為。しかし、そこでは無脳症の胎児の「いのち」はまったく顧みられることはなかった。 この小説が書かれたのち、脳死は人の死という法案が国会を通過した。
私たちにとって親密な人の死を、国家によって、あるいは専門家によって一方的に線引きされることに、多くの人は違和感を覚えるだろう。この小説は、医学の専門家である著者の知見を生かしながら、人を救う努力が人を排除することにつながる現代の医療のアポリアを見事に描いている。

ここでネット上に載る或る読後記事を引いておく。
---------------------------------------------------------------------------
主人公規子が、初めて勤めだした病院では、子供への臓器移植が盛んな病院。
その臓器が、どうしてこの病院に沢山集まってくるのか。
一方で、病院近くのレストランで、無脳症児を出産しようとしている女の声を聞く。
無脳症児、読んで字のごとく、先天的に脳を持たないという障害を持ち、出生後100%死ぬ運命。そんな子供を産もうとしている事と、臓器移植の臓器提供元に疑問を持った規子は、同僚の看護婦と、親しくなった医師と共に、調べ始める。
サスペンス長編と、裏表紙には書いているが、サスペンスな部分よりも、人として何処までいのちというものを、扱っていいのか。生きていないと、生きられないの差は何なのか。
考えても答えはあるのか。色々考えてしまう作品。
***
めちゃめちゃ簡単に説明すると、その病院では、胎児を無脳症児にする方法を発見したんで、無脳症児を産んでもいいっていう女の人を探してきては、妊娠させて、その無脳症児を買い取っていたんよね。でもって各臓器を、移植する家族に、寄付金という形で高値で売りつけ、儲けてたわけだ。
その真相を知った、同僚の看護婦と、親しくなった医師は、事故や自殺に見せかけて殺されてしまう。警察もどうもぐるになっているらしい中、規子は殺されそうになりながらも、真実を暴いていく。
結局最後には、2人の死を怪しんでいた刑事によって、めでたしめでたし。
(かなり簡単しすぎかも。だってこれ文庫本600ページ。厚さにして15ミリほどのかなりの長編。)
***
この臓器農場に関わっていた人の中で、ただ金儲けのための経営者たち、自分の研究のためだけの医師、純粋に子供のいのちを1つでも助けたいという気持ちの看護婦が出てくる。
(間島)看護婦は言う。
「無脳症児は神様の贈り物。それによって先天性の奇形を持った赤ん坊が全部救われる。」
赤ん坊だけではなく、無脳症児を身ごもった母親も、無意味な妊娠いやそれよりも天罰の妊娠(と、妊婦が思いこむ)から、重要な妊娠へとなり、救われることになる、という意志の元、臓器農場に取り組む。
ただ規子は、無脳症児を人工的に作り出すことや、それで私腹を肥やしていたことにではなく、無脳症児の臓器を移植に使うこと自体に疑問を抱く。脳死からの臓器移植だと本人の意思によって行われるが、無脳症児の場合本人の意思は無視される。いや無視しようにも最初から意志なんて存在しない。
もし私が、先天性の奇形を持った赤ん坊の母親、無脳症児を身ごもった母親、双方どちらの立場になったとしても、きっと疑問を持たずに移植を進めるだろう。もし持ったとしても、その後にあるいのちを取るに違いない。
上の看護婦の台詞に規子は言う。
「頭が無くても、心臓や手足が動いていれば、そこにいのちが宿っている気がします。いのちは脳にあるのではなく、全体にあるのです。考えることや感じることはできなくても、いのちはあります。」
じゃあ、いのちはいつから存在するのだろう。胎児にももちろん動く手足がある。でも、無脳症児の場合、無脳症と分かった時点で、人工流産させる。人工流産は許されて、臓器移植が許されないのは何故なのか。どちらもいのちを1つ消すということに、代わりはない。
本の最初の方で、臓器移植をしてまで生きたくない、と言った母親にある医師が反論する。
「あなたのお子さんがそうだったらどうしますか?」
「人間を冒涜するとか、天命に逆らう行為だとか言って非難する人は、自分がその渦中に身を置いていないからだ」と。
この台詞にさらに反論することは、私には、どうしてもできない。
***
えらい堅くなってしまったよう。うーん、でもこれは簡単に話をまとめられる内容じゃない。多分、読む人の立場や、生き方によって、どれが正しいのか別れる、もしくは、考えるほどに分かんなくなる小説。読み終わってから思ったことは
「ブラックジャックなら、どうするだろう?」だった。(笑)
「ふたり死ぬのがひとりになった。文句があるか?」
と一喝して去っていきそうなんやけど。どう思います?
-----------------------------------------------------------------------
FI2618546_2E.jpg

1995年10月に米国から、次いで同年12月には日本の厚生省から、女性が妊娠中にビタミンAを過剰に摂取すると「奇形児」を産むリスクが高くなるという警告が発表された。さかのぼって1980年代半ばには、やはり米国で、皮膚病治療の目的でビタミンAを大量に服用した婦人から「無脳症児」が生れて大きな社会問題になったという。ビタミンAは生命活動に必須の物質であるが、妊娠初期に大量に摂取すると胎児に奇形が誘発されるという事実は動物実験によって確認されている。ビタミンAは、生体にとって正に「両刃の剣」と言えるのである。
この小説は、この科学的事実をプロットとして取り込み、医学の今日的課題である臓器移植と巧みにリンクさせた。おまけに、この作品では「無脳症児」を人工的に妊娠中に作りだし、出産させ、病院の「隠し施設」で、移植可能時期まで「飼育」するというプロットを描き出してみせる。これが、この作品の一番の迫真部分である。
これが「犯罪」として小説の大きな筋書きとなるのだが、レシピエント(被移植患者)の家族から1500万円とか2000万円とかの大金が秘密裏に徴収され、そのうち三分の二くらいが「無脳症児」を分娩した女の家族に支払われる、という空恐ろしいことが描かれる。

「脳死」ないしは「脳死患者からの臓器摘出」にも異論を唱える人が居るが、私は、それには異議はない。
意識を失い、呼吸が停止すれば心臓もやがて止まる。それが「死」だった。
「脳死」という概念が出てくるのは「人工呼吸器」という過剰な「生命維持装置」が発明されてからのことなのである。生きている人の治療に「人工心肺」装置が操作されるのには誰も異論はなかろうが、もはや打つ手がない時期にさしかかってもなお、生命維持装置の作動が必要かどうか。いわゆる「尊厳死」の問題である。
私の母は93歳で亡くなったが、生前、その問題に触れて過剰な「生命維持」は不要という意思表示をしていたので、意識不明に陥ったとき私も妻も、医師と相談して過剰な処置はとらなかった。私の妻も死ぬときはあっけなかったが、常日頃、意識や呼吸のなくなったときの「人工呼吸器」などの処置は不要と言っていた。医師にも、それは伝えられていた。
お釈迦様は飢えた虎に自らの肉体を差し出して食べさせる、というエピソードがある(これを捨身と言う)ように、霊魂と肉体とを緊密不可分のものと考える意見を私は採っていないが、人工的に、しかも金銭的に、しかもそれによって利益を得て「命」を操作することには反対である。
主人公の看護婦・規子の言うように、無脳症児にも「命」はあるのである。
この小説も、いろいろ考えさせるが、ぜひ一読をお勧めする一冊である。
-------------------------------------------------------------------------
-------------------------------------------------------------------------
51jcYNdnUZL__SS500_.jpg

    帚木蓬生『三たびの海峡』・・・・・・・・・・・木村草弥

この小説にひきつづいて私は同じ著者の『三たびの海峡』(新潮文庫・初版平成4年刊)を読んだ。
これは第二次世界大戦末期に日本体制側が朝鮮半島から人々を労働者として「徴用」してきて、過酷な労働やリンチによって死なせたことを生々しく描いたものである。
作者の筆致は誠実なもので、今の韓日関係を想起して、私は感銘を受けた。
これこそ「日韓史」の深部を誠実に描くものと言える。
なお、この本は平成5年に「吉川英治文学新人賞」を得ている。
「あらすじ」を辿るためにネット上から記事を引いておく。
---------------------------------------------------------------------
■ 内 容
一代で財を成し、釜山のスーパーマーケット・チェーンの会長となっていた河時根(ハー・シグン)は、昔の仲間で今も日本にいる徐鎮徹(ソ・ジンチョル)から山本三次がN市の市長になっており、再選のための公約として、いまだ手付かずのボタ山を取り払い商工業地に変えようとしているとの手紙をもらった。河時根は三たび海峡を渡る決意をする。1度目は病弱の父に代わり、山本三次に連行された強制労働者として、2度目は祖国解放後、父母の待つ故郷を目指して、そして3度目は・・・。長年、音信不通にしていた日本人妻との間に出来た息子・時郎との再会も目的の一つであったが、彼は他にも、大きな決意を抱いて海峡を渡る。海峡をフェリーで渡る彼の心に、50年前に地獄のような苦しみを味わいながら海峡を渡った日の想いが蘇る・・・。

■ 人間の本質について考えさせられる
河時根や同胞たちが落とされた境遇はあまりにも悲惨です。これはフィクションですが、同じ様な事が行われていただろう事は推察出来ます。
人間はこうも残酷になれるのか・・・現代の河時根は、「彼らも戦争と言う非常時が作り出した被害者だ。」との考えに至るのですが、そんな小心翼々たる小市民ばかりでない事は、河時根はちゃんと知っているのです。彼の恨みがそうでない者たちに向けられるのは当然です。
この事からは人間の本質ついて考えさせられます。
非常時だからこそ、人それぞれの本質が露呈するのでしょう。同じ境遇にいても、人間性を失う者と失わない者、屈しない強さを持つ者と屈してしまう者。この作品の中にも、その両者が描かれています。それは朝鮮人日本人に拘りません。民族の違いなど関係なく、人間の本質の違いなのだと作者は言いたかったのでは、と思います。

■ 執筆動機は
しかし、この作品を著者に書かせた一番の動機は、過去の日本の行状に対する現代の私たちの無理解、無関心に対する憤りだったのではないでしょうか。
私自身、強制連行問題、従軍慰安婦問題など、TV・新聞などで見聞きして、朝鮮の方たちに同情もし、当時の日本の悪辣さや今の政府の反応の悪さに怒りを覚えたりもしていましたが、朝鮮の方たちの怒りを実感として感じてはいなかったと思います。過去の国の過ち・・・と、どこか傍観し、知識として知っているだけという感じでした。しかし、当事者の方たちには今もなお続いている・・・いえ、死んでも忘れられない屈辱の体験で、怒り覚めやらぬのも無理のない事。また、政府を始めとした私たち戦後の日本人の問題に対する鈍感さに、その怒りは更に強くなったのではないかと感じました。

■ 結末について

<以下は重要な内容に触れています。構わない方のみ下の*をクリックしてお読みください。>
<*>

一度として侵略された事の無い国・日本に住み、また、民族問題に直面した事も無いから言えるのだ、と思いますし、だから説得力が無いのはわかっていますが・・・。
今起こっている民族紛争は、見え隠れしながらも昔から脈々と続いている恨みの連鎖の結果だと思います。報復が報復を呼び、果てしなく殺し合い、傷付け合っているように見えます。その悪しき連鎖を断ち切り、理性を持って事に当たらなければ、民族紛争は永遠に続くように思えます。

ですから、河時根には殺人と言う手段でだけは決着をつけてほしくありませんでした。
自分の所業に苦しみもせず、悔いてもいない者には、それなりの末路が用意されています。勧善懲悪的な結末ですが、納得は行きます。寧ろ、罰が与えられなければ、読んでいる方もスッキリしませんし、彼らの所業はそれに値するものだと思います。同胞でありながら彼らに最も残酷な仕打ちをし、祖国に対する愛着も誇りも持たない康元範(カン・ウォンボム)が、全く心の痛みも無く、いまだに山本とツルみ、甘い汁を吸いながら大きな顔をしているのですから、報いを受けるのは当然でしょう。殺す以外には晴らせないと思うほどに深く恨みを抱くのも無理のない事だとも思います。そして、河時根の決着の付け方を潔い、見事だ、と<他の小説だったら>感じると思います。
しかし、同胞同士とは言え、民族問題の絡む作品の主人公に暴力的な報復をさせるのは、どうでしょう。あれだけの恨みなら仕方が無い? 殺人と気付かれないから、自らも死ぬのだから良い? 他の作品ではご自分の理想に忠実な作者が、あの結末を書いたのは何故だろうかと不思議に感じます。心情を重視したという事なのでしょうか。河時根の心情は非常に良くわかりはするのですが・・・。

日本人の身でこの作品を書くには大変な勇気が要ったと思います。国のため、天皇のための美名の下、日本がどんな卑劣で残忍な事をして来たかを、日本人として反芻するのは辛い事です。また、このような内容を日本人が書く事に対する朝鮮の方たちの反応も気になったのではないでしょうか。しかし、日本人によって書かれた事がこの作品の重みを一層増していると思います。
(2004.7.28)
--------------------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------------------
FI2618546_4E.jpg

   帚木蓬生『受精』・・・・・・・・・・・・木村草弥

ひきつづいて『受精』(角川文庫4版・初版1998年刊)を読んだ。
ここで、ストーリーを辿るために、ネット上に載る記事を引いておく。
-------------------------------------------------------------------------
「受精」 帚木蓬生
 2001.9.25 角川文庫 1998.6単行本初版「受精-Conception」

 文庫本で723Pと分厚い本。

 読み始めて50Pほど進んだところで、あれっ、と気づいた。登場人物の名前をどこかで見たような。そうだ、昨年読んだ「受命ーCalling」と同じではないのか。そうか、この本は、「受命」の前編となる本だったんだ、と。

 舞子と寛順、2人がそろったところで気づき、あとで、DR.ツムラが登場して確信した。

 読んでいるうちに、何か引っかかるものがあり、212Pあたりで確信に変わった。

 舞子は、愛する明生を結婚を決めた矢先に交通事故で失う。自ら死を決意して、昔、明生といったあるお寺を訪れる。そこで、外人の僧に声をかけられ、不思議な体験(明生と出会う)をする。そして、明生の子供を産めると言われ、ブラジルへと旅立つ。

 ソウルで合流した寛順も、結婚前日に、東振がこれも交通事故で死亡、お寺で僧に声をかけられ、東振の子を産むため、ブラジルへと向かう途中だった。

 ブラジルの病院であったユゲットも、フランスの協会で同じような経験をし、ブラジルに来ていた。

 3人とも、お寺や教会に、以前に恋人と訪れている。そして、病院には、彼女たちの食べ物の好みから、家族構成まで、あらゆるデータが揃っているという。

 あまりにも共通したシチュエイション、何か仕組まれているのではないか?本はあと500Pもある。陰謀の匂いがしてくる。

 病院で、同じように入院していた女性バーバラが殺害される。たまたま、舞子と寛順は、殺害直後の彼女の死体を見てしまう。ところが、病院は、飛び降り自殺として処理してしまう。

 舞子の担当主治医で、殺された女性の主治医でもあった、日系3世のDR.ツムラも彼女の死に不審を抱き始める。

 バーバラの叔父に会いに行く舞子、寛順、ユゲット。死の直前の彼女の様子を聞き、自殺するような人間ではないこと、叔父に何かを告げたがっていたこと、などを知る。
叔父もバーバラの死に不審を抱き、患者として病院に入院する。

 徐々に、巨大な悪の組織の存在が明らかになって行く。

 著者は、精神科医であり、心理学的な要素、そして、1998年当時の遺伝子研究の到達点を元に、この物語を形作っている。その知識は、賞賛ものである。またご紹介しようと思うが、次作「受命」の発想と構成力には驚かされたが、どちらの物語も、ある種、現代への問題提起ではないかと感じる。
 また、海亀の産卵シーンや、豊かなブラジルの自然も、鮮やかに描き出している。分厚い本ではあったが。一気に読み通してしまった。
-------------------------------------------------------------------------
この記事では結末を載せていないが、彼らは「ナチス・ドイツ」の生き残りの組織であり、この小説の中では「逆まんじ」と書かれているが「ハーケンクロイツ」というナチスのシンボルマークが「伏線」として小説の初期から出てくる。サスペンスたる所以である。
彼らの組織はドイツ民族の純血を守るために「ヒトラー総統」の「精液」を冷凍保存しておいたものを、これと目星をつけた女の子宮に注入して妊娠させ、その血統を後世に残す活動をしていたのだった。

私は『受命』という本を、まだ読んでいないが、上に引いた記事には、これは『受精』の前編にあたると書いてあるので、乞う、ご期待である。



菊の香のうごくと見えて白猫の音なくよぎる夕月夜なる・・・・・・・・・・・・・木村草弥
aaookiku001大判

    菊の香のうごくと見えて白猫(はくべう)の
       音なくよぎる夕月夜(ゆふづくよ)なる・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
今や「菊」真っ盛りのシーズンだが、あちこちで「菊花展」が盛んであるが、菊という花は、どことなく、うら淋しい気分がするものである。
私は第一歌集『茶の四季』(角川書店)に

   一の峯二の峯越えて詣づれば秋の奢りの菊花百鉢・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌を載せたが、これなども心底からの明るい歌とは言い難い。それは「秋」という季節の持つ性格から来るものであろう。
掲出の歌の前後の歌を引いておきたい。

         残 菊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  身めぐりに祝ふべきこと何もなし水引草の花あかけれど

  ひようろりと残んの菊と成り果てて庭のかたへに括られてゐつ

  菊の香はたまゆら乳の香に似ると言ひし人はも母ぞ恋しき

  菊の香のうごくと見えて白猫(はくべう)の音なくよぎる夕月夜なる

  白菊に対ひてをればわが心しづかなりけり夕茜して

  嵯峨菊が手花火のごと咲く庭に老年といふ早き日の昏(く)れ


「菊」というのは、春の桜と並びたつ秋の花とされる。中国から渡ってきたもので日本でさまざまに改良されてきた。
私は菊作りは、しない。春の挿し芽にはじまり、朝夕の水遣り、それも天候、降雨を勘案して、やらなければならないし、葉を虫に食われたり、欠いたりしてはならない。
茎立ちの寸法も重要な審査項目となる。
これでは、私のような旅行好きとは両立しない。以前は多い時には年間50日くらいは海外に出かけていたが、今では国内旅行が主で、こまぎれの旅をするばかりである。

十月末に近所に住む菊作りの友人が、見事な三本たちの菊二鉢を持ってきてくれた。
玄関に飾ってあるが、花も、もうそろそろ終りである。 有難いことである。

菊を詠んだ句を少し引いて終りたい。

 黄菊白菊其の外の名はなくもがな・・・・・・・・服部嵐雪

 有る程の菊なげ入れよ棺の中・・・・・・・・夏目漱石

 かにかくに明治は恋し菊膾・・・・・・・・富安風生

 国原や到るところの菊日和・・・・・・・・日野草城

 菊白く死の髪豊かなるかなし・・・・・・・・橋本多佳子

 白菊とわれ月光の底に冴ゆ・・・・・・・・桂信子

 白菊や暗闇にても帯むすぶ・・・・・・・・加藤知世子

 菊の棺とともに焼かれしわが句集・・・・・・・・平井照敏


「佐藤しのぶ」を聴く・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
しのぶ
しのぶ②

──エッセイ──

           「佐藤しのぶ」を聴く・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・京都市交響楽団オペラ・アリア&新世界・・・・・・

2013/11/08 京都は下鴨の京都コンサートホールで、標記のコンサートがあって、「佐藤しのぶ」のソプラノを聴いた。
演目などは画像に出したようなものである。
佐藤しのぶ の声は綺麗だが、体が、がりがりに痩せて、二の腕など今にもポキンと折れそうだった。
声楽家としては、オペラ歌手としては「体幹」の肉づきに歌を響かせて効果を高めるのが常道であろう。
佐藤しのぶも結婚して、子供を産んだころは、もっとふっくらしていたのに、現今のダイエット・ブームのせいで、痩せて魅力が無くなった。
痛々しい感じがするので敢えて書いておく。
佐藤しのぶ への花束贈呈に門川京都市長が羽織、袴姿で登場したのは微笑ましいことだった。
京都市は何かの行事があるときには「着物」を着用するように指導しているのである。

いまWikipediaにあたってみたところ、こう載っている。 ↓
-------------------------------------------------------------------------------
佐藤 しのぶ(さとう しのぶ、本名:現田しのぶ、1958年8月23日 - )は、日本のソプラノ歌手。声楽家。夫は指揮者の現田茂夫。

経歴
東京都生まれ。その後、大阪府高槻市に引越す。音楽とは無縁の一般家庭に育つ。大阪音楽大学付属音楽高等学校(現在は閉校)、国立音楽大学声楽専攻卒業。
文化庁オペラ研修所に最年少で入所し首席で修了。文化庁芸術家在外研究員としてイタリアミラノへ留学。「椿姫」でデビューにして主役を演じる。

帰国後のリサイタルではイタリアオペラを歌い、衛星放送を通して世界へ披露された。その後「トスカ」、「蝶々夫人」等のタイトルロールを次々に演じた。1987年から4年連続「NHK紅白歌合戦」に出演。「トスカ」で指揮助手を務めていた現田茂夫と知り合い結婚。1991年に長女を出産。

ブラティスラヴァ国際フェスティヴァル80周年のオープニングに、「トスカ」のタイトルロールで招聘され、ヨーロッパデビューを飾る。初のCDアルバムは、1990年1月、シュナイト指揮ベルリン放送交響楽団の演奏で、ベルリンにてモーツァルトのオペラアリア集を録音。その後も、ヴェルディ、プッチーニ等のオペラアリアのCDをヨーロッパ各地で録音した。

ウィーン国立歌劇場での「蝶々夫人」を皮切りに、ケルン市立歌劇場やベルリン・ドイツ・オペラなどヨーロッパ各地で公演。1996年韓国政府から初めての日本人正式招聘歌手として、5万人のソウルスタジアムでチョン・ミュンフン指揮KBOと共演。1997年新国立劇場開場記念オペラ『建』乙橘姫役。

1999年プラハにて世界首脳が列席の中、「ビロード革命10周年記念演奏会」でアシュケナージ指揮、チェコ・フィルと共演し、ニュースとして世界に放映。

2005年8月被爆60年平和巡礼コンサート(長崎・広島)、2009年4月「天皇皇后両陛下ご成婚50周年&ご即位20周年記念コンサート」に出演。また、2009年11月「天皇陛下御即位二十年をお祝いする国民祭典」に出演し、3万人を前に歌う。

共演した指揮者は、コリン・デイヴィス、クリスティアン・ティーレマン、クリストフ・エッシェンバッハ、小澤征爾、エリアフ・インバル、シャルル・デュトワ、ピンカス・スタインバーグ等、オーケストラはローマ・サンタチェチーリア国立アカデミー管弦楽団、フランス国立管弦楽団、フランクフルト放送交響楽団、バイエルン放送交響楽団、チェコ・フィル、シカゴ交響楽団等。

文化放送音楽賞、都民栄誉章、ジロー・オペラ賞大賞、マドモアゼル・パルファム賞、Federazione Italiana Cuochi、日本文化デザイン賞大賞等を受賞。

1999年からテレビ神奈川「佐藤しのぶ 出逢いのハーモニー」のパーソナリティを務める。CDは11枚リリース。著書に『佐藤しのぶ出逢いのハーモニー』、『歌声は心をつなぐ』(東京書籍)がある。声楽を島田和子、中山悌一、田原祥一郎に師事。   
----------------------------------------------------------------------------
奇しくも、昨夜は夫・現田茂夫の指揮の下で唄った次第である。
彼女も、もう結構いい歳になったものである。

話は変わるが、ドヴォルザークの「新世界」については、大学も同級生の友人Y・Kが、この曲が大好きで、先年、黄綬褒章を受賞したお祝いの会が、
京都・蹴上のウエスティン都ホテルで開催された際、この第二楽章の出だしの部分に乗って彼夫妻が入場するという一幕があったのを思い出した。

大ホールをほぼ八割がた聴衆が埋めて盛況だった。修学旅行生らしい制服姿の高校生の団体も多かった。
開演前にホワイエで呑んだ赤ワインも、おいしかった。

ミューズ_0003
 ↑ フレンチ・レストラン「La Muse」のコースター

このコンサートを聴く前に、このホール附属のレストラン「ラ・ミューズ」で食べた料理と赤ワインは美味しかった。
食後のコーヒーも久しぶりにおいしいコーヒーだった。
この頃は、おいしいコーヒーに仲々いきあたらないので、一層そういう感じになったのである。
京都に用事があって上洛した友人と、一昨年できたばかりの「ホテル近鉄京都駅」という、近鉄京都駅のホームの上に建てられたホテルに一緒に泊まった。


甘谷の水は菊水『菊慈童』の七百歳のいのちこそ憶へ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
FI2618545_1E.jpg

    甘谷の水は菊水『菊慈童』の
        七百歳のいのちこそ憶(おも)へ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので「菊」の一連の中にある。

いま菊の花の真っ盛りであるので、菊の花に因んで書いてみる。
「菊慈童」については解説が必要だろう。
写真①は彦根の井伊家に伝わる能楽に使われる菊慈童の「能面」である。
写真②は菊慈童の能楽の一場面。
FI2618545_2E.jpg

「菊慈童」というのは中国の古典を題材にした能楽の作品。
お話は、こうである。

中国・魏の文帝は、山に薬の水が湧くと聞き、臣下に霊水の源を探れとの命令を下した。
臣下が秘境の奥深く入ってゆくと、菊の乱れ咲く里があり、慈童という仙人が薬小屋に住んでいた。
尋ねると、慈童は700年も昔、周の穆王に仕えていたが、ある日、王の枕をまたいだ罪で、この山に流されたという。
700年前ということを信じない臣下に対して、慈童は、流罪されるにあたり王は憐れみ、枕に法華経の偈を書いて与えた。
その経文を菊の葉に書くと葉の露が不老不死の霊薬となり、以来それを飲みつづけて齢を取らなくなった、と述べた。
そして慈童は勅使に菊の葉の酒を勧め、自分も飲むと喜びの舞楽を舞い、法華経の功徳と枕に感謝し、700年の長寿を文帝に捧げて祝福し、仙家の中に消えてゆく。
能楽では観世流のみが「菊慈童」という演名で演じるが、他流派は「枕慈童」という演目である。
能楽だけでなく、日本画にも度々描かれ、菱田春草のものなど有名である。
↓ 写真③が春草の絵の部分。(絵の全体は大きなもので、この部分は下の方に描かれている)
mir815-2菱田春草「菊慈童」
ご参考までに写真④に横山大観の同名の絵を出しておく。↓
皆さんは、どちらを選ばれるだろうか。
mir545-2横山大観「菊慈童」

また小説にも採り上げられ円地文子の作品などがある。芥川龍之介も書いている。

FI2618545_3E.jpg
写真⑤は熊本県八代市の「宮之町」の菊慈童の笠鉾である。立派なものである。。
京都の祇園祭に「菊水鉾」という大きな鉾があるが、この鉾も「菊慈童」から着想されたと言われている。写真⑥⑦に菊水鉾を載せる。
写真⑥は菊水鉾の全景である。とにかく背の高い鉾で全景となると絵が小さくなるのは、お許しいただきたい。写真⑦は「胴掛け」の部分である。
FI2618545_4E.jpg

FI2618545_5E.jpg

すっかり「菊慈童」の話題だけになってしまったが仕方がない。
ここで歌集に載る前後の歌を抄出して、終りにしたい。他にも「菊」の歌があるので、それは次回にしたい。

     窯 元・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   しがらみの多き世の中たはやすく暮らすにあらね菊うつろひて

  はきだめといふ名の菊のありと聞く波郷一葉忌を隣りとし

  甘谷の水は菊水『菊慈童』の七百歳のいのちこそ憶(おも)へ

  をみなへしあまた剪りきて瓶に挿す蕪村ゆかりの商家の床の間

  <秋草をごつたにつかね供へけり>結びし紐を解くは悲しも
  *久保田万太郎

  秋草にまろべば空も海に似て泊り重ねし波止の宿おもふ

  秋草の波止場の旅籠(はたご)に蛸壺のセールスマンと泊りあはせし



やまもとあつこ詩集『ぐーらん ぐー』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
やまもとあつこ

──新・読書ノート──

      やまもとあつこ詩集『ぐーらん ぐー』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・空とぶキリン社2013/10/30刊・・・・・・・

この詩集は、やまもとあつこさんの第三詩集になる。
やまもとさんは高階杞一さんの詩誌「ガーネット」の会員である。
今までに『子犬のしっぽをかみたくなった日』 『まじめなひび』の二冊の詩集を、いずれも「空とぶキリン社」から出している。
彼女の作風は、師匠の高階杞一さんに似て、平易な、メルヘン調の詩に終始している。
この詩集に収録されている詩「犬が」について、北爪満喜‏さんがツイッターに、こんな呟きをされている。 ↓

< 北爪満喜 ‏ 2011年7月11日 - 0:31
やまもとあつこさんの詩、「犬が」。もう胸がいっぱいになりました。
「いままでの犬が/みんな生き返って/六匹そろって/ならんだら」
「わたしに気づいたら」「まっすぐに 駆けてくる」のです。 >

高階杞一さんの「犬好き」は有名で、どの詩集にも犬が一杯出てくるが、やまもとさんも犬をたくさん飼って来られたようだ。
先ず、その作品を引いてみよう。

      犬が・・・・・・・・やまもとあつこ

   いままでの犬が
   みんな生き返って
   六匹そろって
   ならんだら

   「ごん」
   「ジョン」
   「ジョニー」
   「ジョリー」
   「きんとき」
   「ひめ」
   それと
   いま 生きている
   「こもも」
   みんなで七匹
   ならんだら

   どうしようか

   みんな
   いっぺんに
   わたしに気づいたら

   風をきって
   
   まっすぐに 駆けてくる
     駆けてくる

   駆けてくる

   わたしは
   なきながら
   振り向かずに
   逃げなければ
   ならない

-------------------------------------------------------------------------------
この作品は、以前「ガーネット」誌に載ったもので、それを見た北爪さんが、上記のツイートを呟かれたのであろう。

掲出した、この詩集の「帯」に

 < ぐーらん ぐーらん
   ぐーらん ぐー
   揺れながら過ぎていく時間。
   脱力系の詩人が読者を未知の場所へ連れて行く。 >

と書かれている。恐らく高階さんが書かれたキャプションだと思われるが、作者の詩の特徴を見事に捉えている。
「脱力系」の詩人とは、言い得て絶妙な評である。

この詩集には題名になった詩「ぐーらん ぐー」をはじめ全部で21篇の詩が収録されている。

     ふーっ・・・・・・・・・やまもとあつこ

   いいかんじだ

   こんなふうに

   はこばれていくんだ

   でこぼこではなく

   すいこまれていく

   からだがしみこむほうへ

   すこしずつ

   すこしずつ

   ちいさくなっていく

   うれしさ

--------------------------------------------------------------------------------------
まさに「脱力系」という表現が、ぴったりの詩人だ。題名の「ふーっ」というのが、いい。

      夜・・・・・・・・・・やまもとあつこ

   細い虫の足になって

   ピアノの鍵盤を

   踏んでみる

   面積が違いすぎる

   と思ってはみるのだが

   力をこめて踏む

   そのことに集中して

   何度も踏みしめる

   それでも

   びくともしない白い床は

   動かないことの快感を

   夜の中に

   めざめさせていく

----------------------------------------------------------------------------------------
この詩は「虫の足」になりきって書かれている。
「脱力系」でありながら、かそかな「虫」になりきるところが優しい。

      快晴・・・・・・・・やまもとあつこ

   とびはねていくこころを
   つかまえようと
   からだが

      まえに

     まえに

   とびだすので
   あしがからだを
   おいかけて

      はしる

     はしる

    はしる

   だれがなんといったって

         はしる

        はしる

   そうしたら
   わたしたちのまえに
   モンシロチョウがあらわれて

        こころの

      まねを

   するんだ

-------------------------------------------------------------------------------------
これも「なりかわり」の詩である。

「ひざの上」という作品があるが、これは先に引いた犬「こもも」のことが書いてある。
他にも、日曜日の公園で「はしる犬」などにも犬が登場する。


      この山は・・・・・・・・ やまもとあつこ


   登り坂ばかり
   ゆっくり
   歩く

   この山はずっと登りばかりだよ
   と
   聞いてはいたけど

   本当に
   登り坂ばかり
   ゆっくり ゆっくり

   歩く

   歩く

   5時間歩いて
   やっと出合えた
   平らな道
   からだはよろこんで
   前へ前へいくんだけれど
   足が登りの着地の場所に
   地面を求めるので
   思いちがいを正しながら

   一歩 一歩
   足が思うところよりも
   足を伸ばして
   着地していくことになる

   ぎこちないわたしの歩みは
   風に吹かれながら
   頂上直下のお花畑を
   すすんでいく

   ときどき
   雲のきれはしに包まれて
   からだを冷やしながら

   山

   ゆっくりではなく
   動いていく

-------------------------------------------------------------------------------------------
つい今しがた詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)に載った当該詩集の書評がネット上に出たので、ご覧いただきたい。

また「Poem & Gallery Cafe 中庭ノ空」にも書評が出たので紹介しておく。

五月に、同じ「空とぶキリン社」から原田亘子詩集『忘れてきた風の街』が出て、恵贈されて感想文を載せた。
原田さんの作品もメルヘン調の佳い詩だったが、今回も「脱力系」の作品に「未知の場所」に連れてきてもらった。
感謝して、ここに載せておくものである。 益々のご健詠を。


返り咲く暴を老木も敢てせり・・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人
IMGP0388aシャクナゲ返り花

   返り咲く暴を老木も敢てせり・・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

「返り花」とは、小春日和に誘われて、春に咲く草木が季節はずれの花をつけることを言う。
主にサクラについて言うが、ツツジやヤマブキ、タンポポなどにも見られる。
掲出した写真は「シャクナゲ」の返り花である。
花がほとんど無い季節だけに、自然からの授かり物のように思える。
和歌、連歌の題にはないが、俳諧では盛んに詠まれたという。
この瓜人(くわじん)の句は「老木」の癖に「返り咲く」というような無謀(暴)なことをしたものだ、という意味だが、
この句を見つけたとき、わが身にひきつけて思わずドキリとした。
「返り花」は、はかないものであるが、それがまた文人たちに愛されたのだった。

私の敬愛する松本氏のサイト「硯水亭歳時記Ⅱ」2009/11/05付けに「冬の桜~妙見大悲は北の北」という記事が載っている。
この記事は「返り花」のことに直接言及しているものではないが、「冬桜」と「返り花」が混同されて誤解されている場合もあるようなので、ご参考までにアクセスされたし。

なお松本氏は桜に詳しいが、それは或る財団の理事長をしておられる故である。
日本中に、山櫻を植え廻ろうというNPOである。
ちょうど各地の櫻の名所では「補植」の時季になっている関係上、各地の行政庁中心に需要が来ているようである。
よく知られる財団法人日本さくらの会は半分以上は公的機関であるのに対して、「僕たちは故人である前理事長の残した資産だけで、すべて民間で管理運営しております。櫻山を造ることも夢の一つです。」とおっしゃっている。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
相生垣瓜人は1898年兵庫県高砂市生れ。本名は貫二。東京美術学校製版科を卒業。浜松工業学校教師となる。俳句は水原秋桜子に師事。
角川書店の第10回「蛇笏賞」を昭和51年に『明治草』他で受賞。百合山羽公と俳誌「海坂」を発行する。1985/02/07に死去している。

ネット上を見ていたら下記のようなcogito,ergo sumという面白いサイトを発見したので貼り付けておく。
-------------------------------------------------------------------------
藤沢周平と海坂(うなさか)
「三屋清左衛門残日録」を読んで藤沢周平作品の虜になり、「蝉時雨」「暗殺の年輪」等々、10数編を次々と読んだ。
今から既に十年以上前のこと。時代小説作品の裏に潜む人間性がたまらなく好きだった。

その藤沢周平の作品の舞台になっているのが出羽の国海坂(うなさか)藩。海坂藩は勿論架空の藩ではあるが、周平の生地に当たる山形県庄内地方を領してきた庄内藩を母型として作られた名前で、周平自身が「海辺に立って一望の海を眺めると水平線は緩やかな弧を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である」と述べている。

しかし彼が海坂藩と名づけた由来はもっと単純で、その昔彼が会員の一人として投句していた俳句雑誌の誌名「海坂」からとってきていると言うのが本当の所である。

俳誌「海坂」は、水原秋桜子主宰の俳誌「馬酔木(あしび)」の同人で俳句界最高の賞と言われる蛇笏賞を共に受賞した、百合山羽公(うこう)、相生垣瓜人(あいおいがき かじん)が中心となって発行された俳誌で、その伝統が今も生き続け今年の6月号で通巻710号を数える。

藤沢周平の、「海坂」会員として活躍していた時代の作品の一つに、

 天の藍流して秋の川鳴れり

があり、きりりとして美しい作品だと思う。
-------------------------------------------------------------------------
以下、「返り花」「帰り花」「返り咲き」「忘花」「狂花」「狂咲き」などの句を引いて終わる。

 凩に匂ひつけしや帰花・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

 かへり花暁の月にちりつくす・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

 あたら日のついと入りけり帰り花・・・・・・・・・・・・小林一茶

 真青な葉も二三枚返り花・・・・・・・・・・・・高野素十

 返り花三年教へし書にはさむ・・・・・・・・・・・・中村草田男

 返り花日輪さむく呆けたり・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 死神のへつらい笑う帰り花・・・・・・・・・・・・橋間石

 帰り花身は荒草(いらくさ)の花ながら・・・・・・・・・・・・中村苑子

 返り花咲けば小さな山のこゑ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 返り咲く花はさかりもなく散りぬ・・・・・・・・・・・・下村梅子

 いのちには終りあるべし帰り花・・・・・・・・・・・・加藤三七子

 帰り花空は風音もて応ふ・・・・・・・・・・・・広瀬直人

 一度しか死ねぬとこそ知れ返り花・・・・・・・・・・・・折笠美秋

 返り花知己のひとりは国の外・・・・・・・・・・・・友岡子郷

 約束のごとくに二つ返り花・・・・・・・・・・・・倉田紘文

 返り花そは一輪がよかりけり・・・・・・・・・・・・渡辺恭子

 雑言のなかの金言返り花・・・・・・・・・・・・木内彰志

 眉墨で書き留む一句帰り花・・・・・・・・・・・・宮下みさえ


秋暮れて歯冠の中に疼くもの我がなせざりし宿題ひとつ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
gmikaduki三日月

     秋暮れて歯冠の中に疼くもの
        我がなせざりし宿題ひとつ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも入れているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌は、今からだと、もう十数年前の作品になるが、私の経て来た人生を溯ると、数々のやり残したこと、果たせなかったこと、などのもろもろが浮かんで来て、
それを「宿題」という言葉で表現したもので、作った頃から私自身の気に入った作品だった。
具象だけを詠う人には、判りにくいなどの批判も受けたが、歌というものは目につく具体だけを詠んだらいい、というものでもない。
この歌は以前から、ぜひ記事にしたいと思っていたが「秋暮れて」という季節の言葉が入っているので、今日まで時季を待っていたのである。
気がつくと、もう時雨の降る11月半ばになってしまったので、この時期を外すわけにはいかないので、今日づけで載せることにする。
この歌は「原風景」と題する章名のところに入っているもの。この歌の前後の歌を引いておく。

     寧楽(なら)山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  突き抜けるやうな青空秋ふかみ世渡り下手で六十路すぎゆく

  ねこじゃらし風の言葉にうなづきて白雲ひとつ遊ぶ秋の野

  淋しうて西へ歩けばいとほしきものの一つよ野菊咲きゐる

  老鹿がふぐりを垂れて歩みゐる寧楽山あたり秋澄みわたる

  秋暮れて歯冠の中に疼くもの我がなせざりし宿題ひとつ

  茶祭を終へ来て辿る琴坂の萩の白さよ秋も闌(た)けゆく

  私が死んでもやはり陽はのぼり地球の朝がきらきらはじまる

---------------------------------------------------------------------
私の歌だけでは芸がないので、もう立冬は済んだのだが「秋の暮れ」を詠んだ句を引いておく。

 誰彼もあらず一天自尊の秋・・・・・・・・飯田蛇笏

 彼の女今日も来て泣く堂の秋・・・・・・・・河野静雲

 鯉も老いこの寺も古り幾秋ぞ・・・・・・・・高浜年尾

 驚けば秋の鳥なる烏骨鶏・・・・・・・・加藤楸邨

 天を仰げば身の錆おつる秋なりけり・・・・・・・・高柳重信

 しとしては水足す秋のからだかな・・・・・・・・矢島渚男

 白樺や秋は風からかと思ふ・・・・・・・・高田風人子

 しみじみと共に老醜寺の秋・・・・・・・・石川風女

 星はみな女性名詞や羅馬の秋・・・・・・・・マブソン青眼

 ヴィクトリア駅より秋の終列車・・・・・・・・友田喜美子

 蛇の縞まで美しく見せて秋・・・・・・・・山下しげ人

 朝は鳥夕べはけもの啼きて秋・・・・・・・・和田耕三郎

 愉しまず晩秋黒き富士立つを・・・・・・・・山口誓子

 帰るのはそこ晩秋の大きな木・・・・・・・・坪内稔典

 残り時間気にしています晩秋です・・・・・・・・湯山珠子


小出裕章『原発のウソ』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
31SinXRBsyL__SS400_.jpg

──新・読書ノート──

     小出裕章『原発のウソ』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・・扶桑社新書2011/06刊・・・・・・・・・・・

この本は新刊ではなく、随分前に出ている本であるが、今この人の言うことが一番信頼できると思うので採り上げた。
先ず、この人がどういう人か、下記のWikipediaの記事を見てもらいたい。ただし便宜上「原発や原発事故」に関するものに限って取捨した。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
小出裕章(こいで ひろあき、1949年8月- )は日本の科学者(原子力工学)。京都大学原子炉実験所助教 兼 京都大学大学院工学研究科都市環境工学専攻助教。研究分野は原子核物理学、原子力学、環境動態解析、原子力安全、放射性物質の環境動態。所属学会は日本保健物理学会、エントロピー学会。東京都台東区上野出身。熊取六人衆の1人。工学修士。

概略
東京出身。開成高等学校を経て、1972年に東北大学工学部原子核工学科卒業。1974年、東北大学大学院工学研究科修士課程修了(原子核工学)。1974年、文部教官に採用され、任京都大学原子炉実験所。

開成高校時代には「地質部」で、野外で岩石や地層を追い求めながら自然に親しんだ。大学入学時は「これからは石油・石炭でなく原子力の時代」と考え原子力工学を志したが、現代の原子力工学における放射線被害の実態を知ったことで、所属機関の趣旨と逆の、原子力発電に反対するスタンスをとるようになったとしている。以後現在まで一貫して「原子力をやめることに役に立つ研究」を行なっている。

人形峠における内部被曝の問題
原子燃料公社による鳥取県と岡山県の県境にある人形峠のウラン鉱床の開発に伴い、周辺民家近くに放置されたウラン残土による健康被害が問題となり、1963年に閉山後に癌の発症や体調を崩す人が続出し、公社を引き継いだ旧動燃に全面撤回を求める住民や市民団体の運動の支援に加わり、調査によって土壌、湧き水、稲などから放射性物質のラドンが検出された。

動燃側は坑内労働者の被曝量の推定値を公表したが、1958年11月以前はラドン濃度のデータがないため、被曝線量の評価はそれ以降のデータに基づいたとしており、さらに、坑内労働者の半数未満しか被曝線量を測るためのフィルムバッジが着用されていないなど、内部被曝の把握を不十分なままにして、被曝実態の過小評価に繋がる点がいくつかあったことを指摘している。残土の撤去を訴えた裁判では住民側の証人として意見書の提出を行った。

東京電力福島第一原子力発電所事故
東京電力福島第一原子力発電所事故‎を受けて、初期の段階で格納容器が破壊されている可能性について指摘し、警戒を行っている。放射能汚染に対する政府の対策に対して、「原発事故と今後を憂うるサイエンティスト有志」に加わり、原子力工学の専門家として内部被曝の問題を提起し、とくに幼児や妊婦などの置かれた状況を改善するよう提言を行なっており、2011年5月23日、参議院行政監視委員会の参考人として、政府のこれまでの原子力政策についての意見を開陳した。

福島第一原発の事故後も、政府・電力会社・経済界などから、定期検査などで止まっている各地の原発の安全性を確認した上で原発を再稼働しようという声が高まったことについて、著書「原発はいらない」のあとがきの中で、「安全な原発などはなく、安全性を確認できるようなことは金輪際ない」と述べている。また、政府・電力会社・経済界などが原発再稼働に向かおうとする理由を大きく四つ挙げている。「①独占企業である電力会社は、原発を作れば作るほど、稼働すればするほど儲かる仕組みになっている。」「②原子炉の製造を三菱重工、東芝、日立などの大企業が担い、そのまわりに「原子力村」の住人である政治家、官僚、地方自治体、関連企業が群れ集まり、原子力利権を分け合う構造を手放すことができない。」「③「原子力開発=核兵器開発」であり、日本の政府は一貫して核兵器をいつでも製造できる態勢を維持することに努めてきた。その国策を、「たかが原発事故」くらいで変更はできないと思っている。」「④悲しい事態だが、原発交付金、補助金などによって財政の首根っこを押さえられている地方自治体は、雇用の問題もあり再稼働を容認せざるを得ない。」と述べている。

エピソード
東北大学在学中、当時女川町に建設予定だった原子力発電所に対し地元住民が反対する現状を知る。このとき、彼らが主張する「(原発が)安全ならば、なぜ仙台市に建設しないのか」という問いに対する答えを見出さなければならないと考え、答えを導き出す。その答えとは、「(原子力とは)都会では引き受けられないリスクを持っている。したがって、電力消費地に近い都会では建設が困難なため、こうしたリスクを過疎の街に押し付けようとしている」というものであった。この答えに到達して以降、自らの原子力に対する考えと人生についての選択肢を180度転換させる。「この事実はとても認めることはできない、止めさせよう、これからは原子力を止めさせる方向へ自らの力を注いでいこうと決心した」
現在所属する京都大学原子炉実験所には反原発の研究者も共存していることについて「ここは基礎的な学問を研究する場であり、東大とは違った、京大の学風や気質である」と述べている。
福島原発に関して内閣官房参与を辞任した小佐古敏荘は、立場のまるで異なる論争相手であった。小佐古の内閣参与辞任について朝日ニュースターの番組でコメントを求められ、「なぜそうしたのか、いまだに理解できないのですが」と前置きしつつ、今回の行動については支持するとした。
「人が人を差別することは許せない」とし、社会に存在する差別の問題に対して否定的な立場をとっている。

福島原発事故以降、自著「原発のウソ」が売れている事に関し、みのもんたの朝ズバッ!のインタビューで「うれしくないです。売れているということは、原発の事故が起きてしまったから」と答えている。

著書
単著
『放射能汚染の現実を超えて』(1992年1月、北斗出版)ISBN 4-938427-57-5
『隠される原子力・核の真実 原子力の専門家が原発に反対するわけ』(2010年12月、発行:創史社 発売:八月書館)ISBN 978-4-915970-36-8
『放射能汚染の現実を超えて』(2011年5月、河出書房新社)ISBN 4309245528
『原発のウソ』(2011年6月、扶桑社新書)ISBN 4594064205
『原発はいらない』(2011年7月、幻冬舎ルネッサンス)ISBN 4779060486

共著
『原発の安全上欠陥』(1979年、第三書館)共著:小林圭二、久米三四郎、今中哲二ほか
『人形峠ウラン公害ドキュメント』(1995年4月、北斗出版)共著:榎本益美 ISBN 493842780X
『原発事故…その時、あなたは!』(1995年6月、風媒社)共著:瀬尾健 ISBN 4833110385
『原子力と共存できるか』(1997年11月、かもがわ出版)共著:足立明 ISBN 4-87699-339-4
『人形峠ウラン鉱害裁判』(2001年1月、批評社)共著:土井淑平 ISBN 4-8265-03211
『知ればなっとく脱原発』(2002年、七つ森書館)共著:高木仁三郎、西尾漠、久米三四郎ほか ISBN 4822802515
『imidas特別編集 完全版 放射能 地震 津波 正しく怖がる100知識』(2011年7月、集英社)監修:河田恵昭, 小出裕章, 坂本廣子 ISBN 4087814807
---------------------------------------------------------------------
長い引用になったが、原発の放射能の危険についての政府の報道や対応ぶり──マスコミの報道ぶりも「危険に関する真実」を正確に伝えるというものではなく、
なしくずし的に、小出しにという対応で、私は大不満である。
福島原発周辺の放射能の危険性についても、いつか時期が来れば「戻れる」かのごとき対応が取られているのは危ない。
この本で小出氏は「恐れずに現実を直視すれば、将来にわたって無人地帯とせざるをえない状況です。
大変言いにくいことですが、おそらく周辺住民の皆さんは元に戻れないでしょう」
と言っている。
なぜ政府や日本のマスコミは、このことを率直に国民に周知しようと努力しないのか。その神経を疑う。

この本を読んだ読者の「レビュー」の一部を下記に引いておく。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
恥ずかしながら、私はだまされていました 2011/6/3 By 0401(^^) ──Amazonより。
私は恥ずかしながら、小出裕章氏に出会うまで、電力会社のプロパガンダに長年だまされ続けていました。

原子力はクリーンなエネルギーだ。電気代も安い。世界は原子力が主流だ。
原油や石炭といった化石燃料は枯渇する。そして原発は安全だ。

電力会社をスポンサーとする、新聞、テレビは、長年それを垂れ流し続けました。

しかし、それは全てウソ、いや大ウソです。本書はそのウソを徹底的に暴きます。

いまだにテレビでは、原発避難民は明日でも帰れるかのように報道しています。

しかし小出氏は、はっきりとこう述べます。
「恐れずに現実を直視すれば、将来にわたって無人地帯とせざるをえない状況です。大変言いにくいことですが、
おそらく周辺住民の皆さんは元に戻れないでしょう」

さらに新聞では、原発を廃止すると電気料金が高騰すると私たちを脅します。

小出氏はこれに対してこう内情を暴露します。
「電力会社は原発を造れば造るほど電力料金を値上げできるシステムになっている。電力会社は「レートベース」
に「報酬率」という一定のパーセントを掛けて利潤を「決める」のです(略) 原発は建設費が膨大で、1基造ると
5000億円、6000億円。核燃料も備蓄できるし、研究開発などの「特定投資」も巨額です。それら全てが「資産」と
なって、利潤を決める際のベースをつり上げてくれます。とにかく巨費を投じれば投じるほど電力会社が儲かるシ
ステムです。」

それが私たちの電気料金に上乗せされ、日本の電気料金は世界一高くなってしまったとは、もう滅茶苦茶です。

本書には、電力会社、政財界、そしてマスコミにとって、即発禁にしたい内容が隠さずに堂々と書いてあります。

もう私たちは、だまさてはいけない。

そんな強い意志を感じる良書です。
------------------------------------------------------------------------
今回の震災・津波の当初から私の言い続けてきたことであるが、遅まきながら、ここに再び警告を繰り返す意味で敢えて採り上げた。ご了承されたい。



かなしめば鵙金色の日を負ひ来・・・・・・・・・・・加藤楸邨
FI2618536_1E.jpg

  かなしめば鵙(もず)金色の日を負ひ来(く)・・・・・・・・・・・加藤楸邨

モズは百舌とも書かれ、「留鳥」と言われるが晩秋から冬季以外に人の耳目にかかることは少ない、と思われる。
モズの存在に気づくのは木の先端などに止まって、ききききき、とけたたましく啼く冬季の「高鳴き」であろうか。これはモズの縄張り宣言だと言われている。写真①はモズの雄。

FI2618536_2E.jpg
写真②はモズの雌。
モズの学名はLanius bucephalus というが、雄は嘴から目を通る過眼線が黒く、嘴はカギ状で翼に白斑があり、雌は過眼線は茶色く、腹部に波模様がある。
中国東北部、朝鮮半島周辺部に分布し、日本でも北海道から九州まで広く分布して繁殖するという。
「留鳥」だが、楸邨の句のように俳句では「秋」の季語になっているように人の耳目に触れるのは「高鳴き」をする冬季になってからである。
昆虫、カエル、大型の虫など何でも食べるが、スズメを襲って食べることもあるという。
捕らえた獲物を小枝などに刺しておくことがあり「モズのはやにえ(早贄)」と呼ばれる。
写真③は、その一例でトカゲの串刺しである。
FI2618536_3E.jpg

モズは冬季になると一羽づつ縄張りを持つようになり、ききききき、あるいはギチギチギチギチギチ、と鳴くのは「警戒音」だと言われている。
他の鳥の鳴き真似をするのがうまいというので「百舌」と呼ばれる所以である。
2月中旬頃に雄の縄張りに雌が訪れて、雌の一方的選択で一夫一妻が成立する。
と見られてきたが、DNA指紋法によって「婚外交尾」があることが明らかにされた、という。
巣作り、子育ては夫婦で一緒にやる。
求愛ダンスの最中の囀りに、雄はウグイス、ヒバリ、ホオジロなどの他の鳥の鳴き真似を入れるらしい。
求愛給餌は、番いの成立から、巣立ちに至るすべての時期に見られるという。
私も長年、田園地帯に住んでいるが、モズの地鳴きがどんなものか、いまだによく判らない。
モズを詠んだ句を引いて終りたい。

 我が心今決しけり鵙高音・・・・・・・・高浜虚子

 われありと思ふ鵙啼き過ぐるたび・・・・・・・・山口誓子

 たばしるや鵙迸る野分かな・・・・・・・・石田波郷

 逢はざるを忘ぜしとせむ雨の鵙・・・・・・・・安住敦

 鵙鳴けり日は昏るるよりほかなきか・・・・・・・・片山桃史

 夕百舌やかがやくルオー観て来たり・・・・・・・・小池文子

 鵙高音死ぬまでをみな足袋を継ぐ・・・・・・・・渡辺桂子

 鵙鳴いて少年の日の空がある・・・・・・・・菊地麻風

 鵙の贄叫喚の口開きしまま・・・・・・・・佐野青陽人

 青年を呼びつつありき鵙の贄・・・・・・・・永田耕衣

 鵙の贄閉ぢし田小屋の戸の釘に・・・・・・・・太田嗟

 てつぺんはかわくかわくと鵙の贄・・・・・・・・小桧山繁子

 まだ乾びちぢむ余地あり鵙の贄・・・・・・・・寺島ただし

 鵙の贄思ひ出さねば過去は無し・・・・・・・・岡崎るり子

 いま沈む日輪を刺し鵙の贄・・・・・・・・星野衣子


真実とはいかなる象なすものか檀のまろき実くれなゐ深く・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
FI2618533_1E.jpg

  真実とはいかなる象(かたち)なすものか
   檀(まゆみ)のまろき実くれなゐ深く・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので2003年10月に開いてもらった出版記念会で光本恵子氏が採り上げていただいた歌である。
自選60首にも入れているので、出版記念会の光本氏の批評とともにWeb上でもご覧いただける。
この歌につづいて次の歌が並んでいる。

  <生るは青く、熟すれば淡紅、裂ければ内に紅子三四粒>と檀を記す
    *和漢三才図会

  秋くればくれなゐ深く色づきて檀の喬木山をいろどる

檀(まゆみ)は錦木(ニシキギ)科の種類で、ヤマニシキギという。
学名をEuorymus Sieboldianus というが、ここにもシーボルトの名前が見え、シーボルトの命名か分類によるものと思われる。
写真②は春に花が咲いたところである。

FI2618533_2E.jpg

「檀」というのは「真」「弓」の意味であって、すなわち弓をつくるのに最適の有用な木、ということである。信州などの寒い地方にも育ち、木目の緻密な木質なのであろうか。
光本氏の家の庭にも、この木があり寒くなると彩りが鮮やかだと話された。

FI2618533_3E.jpg

写真③は外皮から赤い実が頭を見せたところ。場所によって違いはあるが、10月頃のことである。
私の二番目の歌に描いたのが、丁度その頃と言える。
「マユミ」は園芸用の栽培種でもなく一般的には、余り知られていない木といえようか。
写真は掲げないが「ウメモドキ」という木があり、上に引いた歌のつづきに、次の歌が載っている。

  伊賀人の誇り高きぞ梅もどきのほてりの艶(ゑん)あり榊莫山邸

ウメモドキはモチノキ科の木で学名を Ilex serrata というが雌雄異株だという。

先に引用した「和漢三才図会」の文章のつづきには「・・・・その葉、秋に至りて紅なり」と書かれている。
マユミを詠った句を少し引いて終る。

 檀の実割れて山脈ひかり出す・・・・・・・・福田甲子雄

 檀の実圧し来る如く天蒼し・・・・・・・・望月たかし

 真弓の実華やぐ裏に湖さわぐ・・・・・・・・杉山岳陽

 檀の実まぶしき母に随へり・・・・・・・・岸田稚魚

 日の逃げて風のみ急ぐ檀の実・・・・・・・・太田秦樹

 旅にをり旅の日和の檀の実・・・・・・・・森澄雄

 大工老いたり檀の実ばかり見て・・・・・・・・六角文夫

 まゆみの実寄りくるものをいとほしむ・・・・・・・・きくちつねこ

 檀の実ひそかに裂けし月夜かな・・・・・・・・菅原鬨也

 西の山人居てまゆみの実を握る・・・・・・・・金子兜太

 舞妓ゐて外にぎやかや檀の実・・・・・・・・渡辺純枝

 ほほゑみを分かちたくなる檀の実・・・・・・・・平林孝子

 泣きべそのままの笑顔よ檀の実・・・・・・・・浜田正把

 岩峰に雲触れ流れ檀の実・・・・・・・・石原栄子




copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.