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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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ダン・ブラウン/越前敏弥訳『インフェルノ』・・・・・・・・・・・・木村草弥
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─新・読書ノート───

        ダン・ブラウン/越前敏弥訳『インフェルノ』上・下・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・角川書店2013/11/28刊・・・・・・

九月下旬に行った「アルザス・ブルゴーニュの旅」のエピソードとして書いておいたダン・ブラウン『インフェルノ』の邦訳本が、十一月二十八日に発売された。
先ず、この本についての → 「ダン・ブラウン公式ホームページ」に詳しい紹介が出ている。
ここには「プロモーション・ムービー」や「荒俣宏」の解説や、翻訳者「越前敏弥」の話など、とても参考になる。
私の懇意にしている角川の編集者なども、ぜひ買ってくれるようにと興奮して語っていた。
ここで題名が採られているダンテのことについて触れておく。 Wikipediaから引用。
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Michelino_DanteAndHisPoemダンテの肖像画
 ↑ ダンテ・アリギエーリの肖像画
Portrait_de_Danteダンテ肖像画
 ↑ サンドロ・ボッティチェリ画「ダンテの肖像」1495年

『神曲』(しんきょく、伊: La Divina Commedia)は、13世紀から14世紀にかけてのイタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作である。

地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る、全14,233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられる。イタリア文学最大の古典とされ、世界文学史にも重きをなしている。当時の作品としては珍しく、ラテン語ではなくトスカーナ方言で書かれていることが特徴である。

題名『神曲』の由来
原題は神聖喜劇 (La Divina Commedia) である、 ダンテ自身は、単に喜劇 (Commedia) とのみ題した。「喜劇」としたのは、「悲劇」とは逆に円満な結末を迎えるためや、比較的平易に読める当時の俗語で書かれているためだという。出版史上では『神曲』の最初期の写本では、『ダンテ』『三行韻詩』などの題がつけられていた。15世紀から16世紀頃にはダンテの詩が活版印刷で出版されるようになり、1555年に刊行のヴェネツィア版により神聖喜劇 (Divina Commedia) の題名が定着した。

日本語訳名『神曲』は、森鴎外の翻訳の代表作アンデルセン『即興詩人』の中で用いられた。その一章「神曲、吾友なる貴公子」において『神曲』の魅力が語られ、上田敏や正宗白鳥ら同時代の文人を魅了し、翻訳紹介の試みが始まった。

『即興詩人』が最初期の『神曲』紹介であり、日本における『神曲』受容はここから始まったとも言える。故に今日でもほぼ全ての訳題が、原題直訳の『神聖喜劇』ではなく『神曲』で統一されている。

『神曲』の成立
ダンテが『神曲』を世に出した背景には、当時のイタリアにおける政争と自身のフィレンツェ追放、そして永遠の淑女ベアトリーチェへの愛の存在が大きい。またダンテはヴェローナのパトロンであるカングランデ1世 (it:Cangrande I della Scala) への書簡で、人生における道徳的原則を明らかにすることが『神曲』を執筆した目的であると記している。

『神曲』地獄篇は1304年から1308年頃に執筆されたと考えられている。1319年には地獄篇と煉獄篇は既に多くの人に読まれており、ダンテは名声を得ていたことが分かっている。天国篇は1316年頃から死の直前、1321年にかけて完成された。『神曲』は当時の知識人の共通語であったラテン語ではなく、トスカーナ方言で執筆されたことも、多くの人に読まれた理由である。

ベアトリーチェ
『神曲』では実在の人物の名前が多々登場する。ウェルギリウスに地獄界の教導を請い、煉獄山の頂上でダンテを迎えるベアトリーチェは、ダンテが幼少のころ出会い、心惹かれた少女の名である。しかし、のちにベアトリーチェは24歳で夭逝してしまう。ダンテはそれを知ってひどく嘆き悲しみ、彼女のことをうたった詩文『新生』をまとめた(ダンテ・アリギエーリの項も参照)。

『神曲』に登場するベアトリーチェに関しては、実在した女性ベアトリーチェをモデルにしたという実在論と、「永遠の淑女」「久遠の女性」としてキリスト教神学を象徴させたとする象徴論が対立している。実在のモデルを取る説では、フィレンツェの名門フォルコ・ポルティナーリの娘として生れ、のちに銀行家シモーネ・デ・バルティの妻となったベアトリーチェ(ビーチェ)を核として、ダンテがその詩の中で「永遠の淑女」として象徴化していったと見る。非実在の立場を取る神学の象徴説では、ダンテとベアトリーチェが出会ったのはともに9歳の時で、そして再会したのは9年の時を経て、2人が18歳になった時であるというように、三位一体を象徴する聖なる数「3」の倍数が何度も現われていることから、ベアトリーチェもまた神学の象徴であり、ダンテは見神の体験を寓意的に「永遠の淑女」として象徴化したという説を取る。

いずれにせよ、ベアトリーチェは愛を象徴する存在として神聖化され、神学の象徴ともあると考えられている。地獄と煉獄を案内するウェルギリウスも実在した古代ローマの詩人であり、神曲の中では「理性と哲学」の象徴とされている。

フィレンツェの政争
ダンテが『神曲』を執筆するきっかけの1つには、当時のイタリアでの教皇派(グエルフ)と皇帝派(ギベッリーニ)の対立、および党派抗争を制したグエルフィ内部での「白党」と「黒党」による政争がある。ダンテは白党に所属しており、フィレンツェ市政の重鎮に就いていたが、この政争に敗れてフィレンツェを追放されることになる。『神曲』には、ここかしこにダンテが経験した政治的不義に対する憤りが現れており、自分を追放したフィレンツェへの怒りと痛罵も込められている。またダンテを陥れた人物は、たとえ至尊の教皇であろうと地獄界に堕とし、そこで罰せられ苦しむ様子も描かれている。ほかにもダンテは自由に有名無名の実在した人物を登場させ、地獄や煉獄、天国に配置しており、これによって生まれるリアリティが『神曲』を成功させた理由の1つであると考えられる。

『神曲』の構成

『神曲』は、
地獄篇 (Inferno)
煉獄篇 (Purgatorio)
天国篇 (Paradiso)
の三部から構成されており、各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から成る。このうち地獄篇の最初の第一歌は、これから歌う三界全体の構想をあらわした、いわば総序となっているので、各篇は3の倍数である33歌から構成されていることになる。
また詩行全体にわたって、三行を一連とする「三行韻詩」あるいは「三韻句法」(テルツァ・リーマ)の詩型が用いられている。各行は11音節から成り、3行が一まとまりとなって、三行連句の脚韻が aba bcb cdc と次々に韻を踏んでいって鎖状に連なるという押韻形式である。各歌の末尾のみ3+1行で、 xyx yzy z という韻によって締めくくられる。したがって、各歌は3n+1行から成る。
このように、『神曲』は細部から全体の構成まで作品の隅々において、聖なる数「3」が貫かれており、幾何学的構成美を見せている。ダンテはローマカトリックの教義、「三位一体」についての神学を文学的表現として昇華しようと企図した。すなわち、聖数「3」と完全数「10」を基調として、 1,3,9(32),10(32+1),100(102,33×3+1) の数字を『神曲』全体に行き渡らせることで「三位一体」を作品全体で体現したのである。

なお、地獄、煉獄、天国の各篇とも、最終歌の末節は星 (stella) という言葉で結ばれている。また地獄篇はキリスト教新約聖書外典である「ペトロの黙示録」で語られている世界観を踏襲している。

あらすじ
ユリウス暦1300年の聖金曜日(復活祭前の金曜日)、暗い森の中に迷い込んだダンテは、そこで出会った古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれ、地獄、煉獄、天国と彼岸の国を遍歴して回る。ウェルギリウスは地獄の九圏を通ってダンテを案内し、地球の中心部、魔王ルチーフェロの幽閉されている領域まで至る。そこから、地球の対蹠点に抜けて煉獄山にたどりつく[1]。煉獄山では登るにしたがって罪を清められていき、煉獄の山頂でダンテはウェルギリウスと別れることになる。そしてダンテはそこで再会した永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天し、各遊星の天を巡って至高天(エンピレオ)へと昇りつめ、見神の域に達する。

地獄篇 Inferno
地獄篇の冒頭。気が付くと深い森の中におり、恐怖にかられるダンテ。 ギュスターヴ・ドレ による挿絵
西暦(ユリウス暦)1300年の聖金曜日(復活祭直前の金曜日)、人生の半ばにして暗い森に迷い込んだダンテは、地獄に入った。作者であり主人公でもあるダンテは、私淑する詩人ウェルギリウスに案内され、地獄の門をくぐって地獄の底にまで降り、死後の罰を受ける罪人たちの間を遍歴していく。ウェルギリウスは、キリスト以前に生れたため、キリスト教の恩寵を受けることがなく、ホメロスら古代の大詩人とともに未洗礼者の置かれる辺獄(リンボ)にいたが、ある日、地獄に迷いこんだダンテの身を案じたベアトリーチェの頼みにより、ダンテの先導者としての役目を引き受けて辺獄を出たのである。

冥界の渡し守カロンが死者の霊を舟に乗せてゆく。地獄篇の挿絵より。
『神曲』において、地獄の世界は、漏斗状の大穴をなして地球の中心にまで達し、最上部の第一圏から最下部の第九圏までの九つの圏から構成される。かつて最も光輝はなはだしい天使であったルチフェロが神に叛逆し、地上に堕とされてできたのが地獄の大穴である。地球の対蹠点では、魔王が墜落した衝撃により、煉獄山が持ち上がったという。地獄はアリストテレスの『倫理学』でいう三つの邪悪、「放縦」「悪意」「獣性」を基本としてそれぞれ更に細分化され、「邪淫」「貪欲」「暴力」「欺瞞」などの罪に応じて亡者が各圏に振り分けられている。地獄の階層を下に行くに従って罪は重くなり、中ほどにあるディーテの市(ディーテはプルートーの別名)を境に地獄は比較的軽い罪と重罪の領域に分けられている。

Botticelli_ChartOfDantesHellボッティチェリ「地獄図」
↑ ボッティチェッリの 「地獄」の図 c. 1490年

『神曲』の地獄において最も重い罪とされる悪行は「裏切り」で、地獄の最下層コキュートス(嘆きの川)には裏切者が永遠に氷漬けとなっている。数ある罪の中で、「裏切り」が特別に重い罪とされているのは、ダンテ自身がフィレンツェにおける政争の渦中で体験した、政治的不義に対する怒りが込められている。

地獄界は、まず「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と銘された地獄の門を抜けると、地獄の前庭とでも言うべきところに、罪も誉もなく人生を無為に生きた者が、地獄の中に入ることも許されず留め置かれている。その先にはアケローン川が流れており、冥府の渡し守カロンの舟で渡ることになっている。地獄界の階層構造は以下のようになっている。

地獄界の構造
地獄の門 - 「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘が記されている。
地獄前域 - 無為に生きて善も悪もなさなかった亡者は、地獄にも天国にも入ることを許されず、ここで蜂や虻に刺される。
アケローン川 - 冥府の渡し守カロンが亡者を櫂で追いやり、舟に乗せて地獄へと連行していく。
第一圏 辺獄(リンボ) - 洗礼を受けなかった者が、呵責こそないが希望もないまま永遠に時を過ごす。
地獄の入口では、冥府の裁判官ミーノスが死者の行くべき地獄を割り当てている。
第二圏 愛欲者の地獄 - 肉欲に溺れた者が、荒れ狂う暴風に吹き流される。
第三圏 貪食者の地獄 - 大食の罪を犯した者が、ケルベロスに引き裂かれて泥濘にのたうち回る。
冥府の神プルートーの咆哮。「パペ・サタン・パペ・サタン・アレッペ!」
第四圏 貪欲者の地獄 - 吝嗇と浪費の悪徳を積んだ者が、重い金貨の袋を転がしつつ互いに罵る。
第五圏 憤怒者の地獄 - 怒りに我を忘れた者が、血の色をしたスティージュの沼で互いに責め苛む。
ディーテの市 - 堕落した天使と重罪人が容れられる、永劫の炎に赤熱した環状の城塞。ここより下の地獄圏はこの内部にある。
第六圏 異端者の地獄 - あらゆる宗派の異端の教主と門徒が、火焔の墓孔に葬られている。
二人の詩人はミノタウロスとケンタウロスに出会い、半人半馬のケイロンとネッソスの案内を受ける。
第七圏 暴力者の地獄 - 他者や自己に対して暴力をふるった者が、暴力の種類に応じて振り分けられる。 第一の環 隣人に対する暴力 - 隣人の身体、財産を損なった者が、煮えたぎる血の河フレジェトンタに漬けられる。
第二の環 自己に対する暴力 - 自殺者の森。自ら命を絶った者が、奇怪な樹木と化しアルピエに葉を啄ばまれる。
第三の環 神と自然と技術に対する暴力 - 神および自然の業を蔑んだ者、男色者に、火の雨が降りかかる(当時のキリスト教徒は同性愛を罪だと考えていた)。

第八圏 悪意者の地獄 - 悪意を以て罪を犯した者が、それぞれ十の「マーレボルジェ」(悪の嚢)に振り分けられる。 第一の嚢 女衒 - 婦女を誘拐して売った者が、角ある悪鬼から鞭打たれる。
第二の嚢 阿諛者 - 阿諛追従の過ぎた者が、糞尿の海に漬けられる。
第三の嚢 沽聖者 - 聖物や聖職を売買し、神聖を金で汚した者(シモニア)が、岩孔に入れられて焔に包まれる。
第四の嚢 魔術師 - 卜占や邪法による呪術を行った者が、首を反対向きにねじ曲げられて背中に涙を流す。
第五の嚢 汚職者 - 職権を悪用して利益を得た汚吏が、煮えたぎる瀝青に漬けられ、12人の悪鬼であるマレブランケから鉤手で責められる。
第六の嚢 偽善者 - 偽善をなした者が、外面だけ美しい金張りの鉛の外套に身を包み、ひたすら歩く。
第七の嚢 盗賊 - 盗みを働いた者が、蛇に噛まれて燃え上がり灰となるが、再びもとの姿にかえる。
第八の嚢 謀略者 - 権謀術数をもって他者を欺いた者が、わが身を火焔に包まれて苦悶する。
第九の嚢 離間者 - 不和・分裂の種を蒔いた者が、体を裂き切られ内臓を露出する。
第十の嚢 詐欺師 - 錬金術など様々な偽造や虚偽を行った者が、悪疫にかかって苦しむ。

最下層の地獄、コキュートスの手前には、かつて神に歯向かった巨人が鎖で大穴に封じられている。
第九圏 裏切者の地獄 - 「コキュートス」(Cocytus 嘆きの川)と呼ばれる氷地獄。同心の四円に区切られ、最も重い罪、裏切を行った者が永遠に氷漬けとなっている。裏切者は首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす。 第一の円 カイーナ Caina - 肉親に対する裏切者 (旧約聖書の『創世記』で弟アベルを殺したカインに由来する)
第二の円 アンテノーラ Antenora - 祖国に対する裏切者 (トロイア戦争でトロイアを裏切ったとされるアンテノールに由来する)
第三の円 トロメーア Ptolomea - 客人に対する裏切者 (旧約聖書外典『マカバイ記』上16:11-17に登場し、シモン・マカバイとその息子たちを祝宴に招いて殺害したエリコの長官アブボスの子プトレマイオスの名に由来するか)
第四の円 ジュデッカ Judecca - 主人に対する裏切者 (イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダに由来する)

地獄の中心ジュデッカのさらに中心、地球の重力がすべて向かうところには、神に叛逆した堕天使のなれの果てである魔王ルチフェロ(サタン)が氷の中に永遠に幽閉されている。魔王はかつて光輝はなはだしく最も美しい天使であったが、今は醜悪な三面の顔を持った姿となり、半身をコキュートスの氷の中に埋めていた。魔王は、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダ、カエサルを裏切ったブルートゥスとカッシウスの三人をそれぞれの口で噛み締めていた。

2人の詩人は、魔王の体を足台としてそのまま真っ直ぐに反対側の地表に向けて登り、岩穴を抜けて地球の裏側に達する。そこは煉獄山の麓であった。
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長すぎる引用になったかも知れないが、ダン・ブラウンの小説のプロットとして知っておいてもいいと思うからである。
 
引用文中で、この詩の形式「テルツァ・リーマ」三韻詩のところには「下線」を入れておいた。
現在、日本の詩壇でも「連句」が営まれているが、この形式で連句が巻かれることもあるので、全く無関係ではないのである。
その積極的な推進者である鈴木漠さんの名前を挙げておく。 私の敬愛する詩人である。

先に挙げた「ダン・ブラウン公式ホームページ」には、
別項目として「作品ガイド」「キャラクター・ファイルの謎解き」「キーワード辞典」「作品舞台」「ダン・ブラウン解析・ロバード・ラングドック解析 地獄篇」などが見られる。
ぜひアクセスされたい。

無題ダンテのデスマスク
 ↑ ダンテのデスマスク

ダン・ブラウンの小説は、ハーヴァード大学教授ラングドン・シリーズとして書き継がれているが、この小説では
キーワードとして
  「フィレンツェ」→ 「ダンテ・新曲」→ 「現在進行形の謎とき」としてフィレンツェ市庁舎の大広間にかかる大きな絵の裏にヒントがある。
ボッティチェリの「地獄の見取り図」の絵のことである。

多少のネタばれをしておくと、ラングドンのツィード・ジャケットの隠しポケットには、チタン製バイオチューブbiotubeが入っていた。
この中には、奇妙な彫り物を施された、象牙か骨でできた円筒が。
そして、その円筒は、自己発電式で、デジタル・イメージを壁に投光する仕掛けになっていた。
投光される絵が、上記の『地獄の見とり図』である。
また、今回も「シエナ・ブルックス」というIQ208という天才美女が大きな役割を果たす。

第15章にこんな部分がある。

<「ロバート」シエナが、壁のイメージに近づきながら言った。「あれを見て!」彼女は、漏斗の形をした地獄の、底近くのエリアを指さした。
彼女が指さしたエリアは、マルボルジMalebolgeとして知られる。意味は『邪悪な堀』だ。
そこは、8番目の、そして終わりから2番目の地獄の環ringで、10個の独立した堀ditchに分けられている。それぞれが、特有の形の欺瞞に割り当てられているのだ。>

また、後半になって国連の保健衛生機関WHOが大きな役割を果たす、など虚実入り混じっての展開となるので、息を継げない。



明るい日暗い日嬉しい日悲しい日 先ずは朝を祝福して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   明るい日暗い日嬉しい日悲しい日 
   先ずは朝を祝福して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せたもので自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
掲出した写真①は神戸港の朝日である。
この歌のつづきに

 生きているものは 先ずは朝を祝福して 一日の暮らしがはじまる

という歌が載っている。
これらの歌は「自由律」の歌と言って、57577という「定型」の枠に収まってはいない。しかし、それなりに一定のリズムを計算して作ってある。

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写真②も神戸港の朝日である。この写真には港湾荷役のクレーンがアクセントになっている。
私は定型の短歌作りに入る前には、現代詩をやっていたので<非>定型の歌づくりにも、何らの抵抗もなかった。
今では、しばらく定型を離れて、現代詩を書きはじめている。『草の領域』の一連の詩などが、それである。
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写真③は写真家の緑川洋一氏の「瀬戸の曙」という、彼の故郷・岡山県の虫明海岸からの作品である。

私の歌のことに戻ると、この歌は、人の一生の中で、さまざまな「朝」があることを詠いたかった。ここで、この一連の歌を引いてみる。

    朝のうた・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 きらきらと陽が昇る 裸木の高みに鵯が朝のうたを歌っている

 鵯は気持よさそうに歌う 早朝のしじまの中を澄んだ声が透る

 明るい日暗い日嬉しい日悲しい日 先ずは朝を祝福して

 もう春だから鵯は帰ってゆく よいペアはみつかったか

 雨が雪になりそうな早春しんみりとした曇り日 梅はもう散ったか

 真昼間なのに静かだ 「晩年」というのはこんな日を言うのか

 妻が心臓カテーテル検査で入院する 冠動脈の狭窄はどうなったか

 昨年の暮れの忙しい時 風船で75%の狭窄を押し拡げたのだ

 この一羽の鵯は 私に語りかけ励ましてくれるのだ ありがとう

 生きているものは 先ずは朝を祝福して 一日の暮らしがはじまる

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こうして読み返してみると、この頃は妻の心臓冠動脈の「狭窄」くらいで、二度の大手術を経て死んでしまった今から考えると夢をみているような気分になるものである。
掲出した歌ではないが、「明るい日暗い日嬉しい日悲しい日」であることか。


アゼトウナ黄色輝くひとひらをいつくしむ二人ともに老いつつ・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
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  アゼトウナ黄色輝くひとひらを
   いつくしむ二人ともに老いつつ・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


アゼトウナ Crepidiastrum keiskeanum (キク科 アゼトウナ属)
アゼトウナは本州の伊豆半島から紀伊半島、四国、九州(宮崎県、大分県)の太平洋岸に分布する。
海岸の岩場に生え、高さは10センチほど。
主幹は葉をつけるだけで、株そのものは数年間生育した後、側枝を出して花をつけて果実ができるとふつう枯死する。
側枝は主幹の葉腋から出て10センチほど地を這った後上向して密散房状の花序をつける。
花期は夏の終わりから冬の初めまでで、頭花は黄色。画像は徳島県海部郡日和佐町で撮影した。
澄んだ青い海に面した崖地には、本種やシオギクの黄色い花が彩りを添えていた。
(文は森定伸氏による。写真は別のもの)

四国遍路で辿る山道の側には、四季それぞれに、さまざまの野草が咲いているが、多くは私の名も知らぬものである。
このアゼトウナの花は、たまたま名前が判ったもので、記事にしてみる気になった。

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写真②が花を拡大したものだが、写真の様子からして野生のものではなく、栽培されているものらしい。
アゼトウナは漢字で書くと「畔唐菜、畔冬菜」となるように暖地ならば冬でも花をつけるので、この名がついたと思われる。
アゼトウナの花言葉は「変わらぬ愛」という。鳥海さんの歌は、この花言葉を巧みに取り込んで秀逸である。
ネット上に載る読売新聞の記事を引いておく。 ↓
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海上の道の要衝に初冬の輝き
 淡路島の南に浮かぶ周囲10キロの沼島(ぬしま)。国生み神話の「おのころ島」ともされる島は、源氏方の水軍の拠点になるなど時代を通して海上の道の要衝だった。
タブやシイなどの照葉樹に包まれた海沿いの道は、ツワブキやアゼトウナなど初冬の花で黄金色に彩られていた。

 対岸の土生(はぶ)から船で10分、港が近づくと八幡神社の背後の木々に覆われた小山が迫ってくる。上陸するとすぐに石段を上がり社の右手から森に入った。
草やツルをかきわけて進むと、スダジイやタブなど照葉常緑樹の大木が現れる。
その中に根元近くから五つの幹に分かれ、それぞれが高く広く伸びるホルトノキがあった。
大人が手をつないで11人分の根回りを持ち「八又」と呼ばれている巨木に違いない。
大きさに圧倒されていると、暗い森に真紅のヤブツバキの花が一つ二つと咲き始めていた。

 沼島小学校の校長でもある宮司の沼津知明さんは「樹齢800年の木もあるとみられ、神体山として人の手が入っておらず、島の元々の自然が残されています」。
タブやホルトノキのまとまった林は淡路本島では見られないという。沼島では自然の条件に加えて、原初の島の神域の森を守ろうとする気持ちが強かったのだろう。

 厚い森を突っ切るのは無理なので、港に戻って海を見下ろしながら島を一周できる道をたどった。
島の西側から山道を登ってイザナギ、イザナミの二神をまつるおのころ神社に参り島の東側に出た。
南西に四国、東には紀伊半島の対岸を遠望しながら快適に歩くと、切り立った崖の上の斜面にツワブキの群落が広がっている。
深い黄色の花と、つややかな丸い大きな葉は空と海の青さによく映える。

 林の中にはヤツデの丸い白い花もよく目に付く。
ツワブキもヤツデも庭にひっそりした感じで植えられていることが多いが、海岸近くで見ると鮮やかな表情で花を開いている。

 変化の続く崖や岩礁の間から上立神岩(かみたてがみいわ)が見えてきた。海の中から垂直に突き出した岩は遠くからでも目をひき、神秘的だ。
道沿いに岩場が続き、その岩壁をはうようにして黄金色のアゼトウナの花が広がっている。
ツワブキと同じキクの仲間だが、他の植物が育たない岩のすきまに根を伸ばして密集する様はたくましい。
南淡町教委の藤平明さんらの調査では、この花が見られるのは兵庫県でも淡路島の南側海岸と沼島に限られるという。

 もう一度登り道をとって「山の神」と呼ばれる山ノ大神社に上がる。朱色の小さな鳥居が参道に沿って続き、「海上安全」「四季豊漁」など漁業者が祈願している。
この社の宮司でもある沼津さんによると、かつてここで灯明がたかれて舟の目印にしたそうで、「山の神」が魚業者の信仰を集めていたこともうなづける。
山といっても標高100m少しだが、島の東端のここまで来ると紀州の陸地も随分近くに見える。

 常緑樹の緑の中にハゼの紅葉が混じる山道を下り、沼島の歴史にくわしい神宮寺住職の中川宜昭さん(67)を訪ねた。
「古事記や日本書紀に書かれたおのころ島がどこを指すかは淡路島でもいくつか説がありますが、海洋民族が島伝いに移動する時、まず小島に拠点を築くとされています。鉄器を携えた海人族が淡路島より前にまず沼島に渡り、その原風景を語り伝えて記紀に留めたのではないでしょうか」というのが中川さんの考えだ。

 おのころ島の場所は別にして、深い照葉樹林や印象的な海岸地形を見ると、この島には一小島にはない特別なものが詰まっている気はする。

 長く中学教師を務めた中川さんには一つの思い出がある。
中学生の時荒れていた教え子が大人になって沼島に来て「先生、ここで釣り糸を垂れていると自分を見つめ直すことができるな」と話したことだ。
「それまでのしがらみを捨てて渡り、再生して帰ることができる場所に沼島がなるのでは…」と中川さんは感じている。

(小泉 清)
(2004年12月06日 読売新聞)
 よみがえる梶原景時と沼島水軍
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歳時記に当ってみたが、「アゼトウナ」の花は載っていなかったので句を引くことが出来ない。
ご了承を。


京響574回定期演奏会を聴く・・・・・・・・・・・・木村草弥
京響

──京都市交響楽団を聴く──(1)

      京響574回定期演奏会を聴く・・・・・・・・・・・・木村草弥

演目  ■ショスタコーヴィチ:祝典序曲op.96(6分)
     ■ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第2番op.126(35分)
          チェロ:エンリコ・ディンド

     ■シューマン:交響曲第2番ハ長調op.61(36分)

であった。  
ディンドの演奏は素晴らしく、拍手が鳴りやまなかった。 アンコールとしてバッハの曲をディンドが弾いた。
このショスタコーヴィチの曲は難しいらしく、陽気な広上にとっても真剣な表情だった。
この第二番が演奏されるのは珍しいようだ。
プログラムには、その成立の詳しいいきさつも書かれている。
どちらかというと「現代音楽風」の作品で、メロディアスではないので、後に演奏されたシューマンの曲とは違いが際立った。
シューマンの曲に対するアンコールには「椿姫」から小曲が演奏された。

広上の指揮は初めて見たが、指揮の仕方は指揮法に忠実だった。
ぞんざいな指揮をする人が居るが、広上は、指の一本一本から指示が的確で、演奏するパートに顔の表情まで使って指示を出す。
小柄な体をしなやかに使って見事な指揮をする。
そんなところが、彼の人気をもたらす要因なのかと思った。

広上淳一

東京に生まれ、東京音大指揮科に学んだ広上淳一が「第1回キリル•コン
ドラシン国際青年指揮者コンクール」に優勝したのは1984年9月、 26歳の時
であった。その審査員の1人だったアシュケナージは広上を特に高く評価し、
翌年ピアニストとしてNHK交響楽団と協演した際には彼を指揮者に指名
(広上のN響初協演)したほどである。
1986年以降、広上の世界への快進撃が始まり、フランス国立管弦楽団やべ
ルリン放送交響楽団、コンセル卜へボウ管弦楽団、モントリオール交響楽団、
イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン交響楽団、ウィーン交響
楽団などメジャーなオーケストラへの客演が展開されていった。1991~95年
にはノールショビング交響楽団(スウェーデン)の、1998〜2000年にリンブ
ルク交響楽団(オランダ)の各首席指揮者を、1997〜2001年ロイヤル・リ
ヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団首席客演指揮者を歴任、このうち
ノールショピング響とは1994年に「来日」公演を実現している。この間、
1988年に日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会でマーラーの《交響曲第
6番》を指揮し成功を収め、1991~2000年にはその正指揮者をつとめて、
1996年の欧州演奏旅行を指揮したほか、R・シュトラウスの《英雄の生涯》
やハイドンの交響曲など、多くの瑞々しく壮大な快演を残した。
近年では、ヴアンク一ヴァー響、ミラノ・ジュゼッぺ-ヴエルディ響、サ
ンクトペテルブルク・フィル、ボルティモア響、シンシナティ響、力ルガ
リー・フィル、スタヴアンゲル響、ライプツィヒ・ゲヴアントハウス管、
ポーランド放送響、、スロヴェニア・フィル、サン・バウ口響等へ客演。
2006~2008年米国コロンバス交響楽団の音楽監督を務め、ヨー・ヨー・マ、
ミドリをはじめ素晴らしいソリストたちとの数々の名演とともにDenon
レーベルにはチャイコフスキーの録音を残し、その実力を内外に知らしめた。
2007年夏にはサイトウ・キネン・フェスティバル松本に招聘され、ハイド
ンとラフマニノフのプログラムを指揮、2008年5月には小澤征爾の代役で急
遽、水戸室内管弦楽団定期演奏会を指揮、モーツァルト、ベートーヴェンほ
かのプログラムで聴衆、批評家からともに絶賛された。
才ペラ指揮の分野でも1989、 1990年のシドニ一歌劇場におけるヴェルディ
の《仮面舞踏会》や《リゴレッ》が高く評価されたのをはじめ、最近では
新国立劇場《椿姫》、日生劇場《フィガ口の結婚》が記憶に新しい。
また、多忙な指揮活動と並行して、母校東京音楽大学教授としても後進の
育成に情熱を注いでいる。京都市立芸術大学客員教授。2013年1月「第32回
藤堂音楽賞」受賞。
2008年4 月から京都市交響楽団第12代常任指揮者、2014年4月からは第12
代常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザ一に就任。

エンリコ・ディンゴ

エンリコ・ディンドは、6歳でチェロを始め、アントニオ・ヤニグロに師
事。1997年、パリのロストロポ一ヴィチ・コンクールで優勝、この偉大なる
マエストロはディンドについて「稀有の才能を持ったチェリストだ。イタリ
ア人の伸びやかな声のように流れる並外れた音を持つ、完全な芸術家であり
完成した音楽家だ」と絶賛、世界に知られることとなった。
以来、彼はソリストとしてのキャリアをスタートし、BBCフィル、口ッ
テルダム・フィル、フランス国立管、トウ一ルーズ・キヤピトル国立管、ス
カラ・フィル、RAI国立響、ローマ・サンタチェチーリア管、ライブツイ
ヒ•ゲヴァントハウス管、hrフランクフルト放送響、サンクトぺテルブル
ク・フィル,サン・バウ口響、NHK響、トロント響、ピッツバーグ響、シ
カゴ響など数々の名門オーケストラに招かれている。また、リッカルド・
シャイ一、アルド・チェッカート、ジャナンドレア・ノセダ、チョン・ミュ
ンフン、 ィヴァン・フィッシャー、ダニェレ・ガッティ、パーヴォ•ヤル
ヴィ・ ワレリー・ゲルギエフ、リッカルド・ムーティ、そしてムステイスラ
フ・ロストロボーヴイチ等、権威ある指揮者たちと共演。またーロンドン
(バ一ビカン)、パリ、ウイーン、エヴィアン、モンペリエ、サンティアゴ・
デ・コンポステーラ、ブタペストの春、ストレーザの音楽週間、サンクトぺ
テルブルクの白夜祭、ドブロヴニク、口ッケンハウスなどの音楽祭、コン
サ—トホールにたびたび招聘されている。これまでジュリオ-カスタニョ一
リ、 カルロ・ボッカドーロ、カルロ・ガランテ・ロベルト・モリネッリ等の
数々の作曲家がディンドに作品を献呈している。
エンリコ.ディンドは名門デッ力から2011年にバッハの無伴奏チェロ組曲、
2012年にヴィヴァルディの協奏曲をリリース。またシャンドスからは、デン
マーク国立響とジャナンドレア・ノセダとの共演で,ショスタコーヴィチの
チェロ協奏曲をリリースしている。

使用楽器は,プロ・力ナーレ財団貸与の1717年製ピエトロ •ジヤコモ・口
ジェーリ(ex-Piatti)。
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久しぶりに「京響」の演奏を聴く機会が続いている。
ご存じのように「京響」は、自治体の経営する管弦楽団としては初めて設立されたが、発足当初は楽団員も寄せ集めで、例えば、私の知っている人は消防音楽隊から移った。
その人の悪口をいうつもりはないが、やはり正式の音楽過程の教育を受けた人が最低限必要である。
楽団員も京都市の職員だった。
昔は京都市職という労働組合も強くて、経営は大変だったらしい。芸術性との両立というのも必要だからである。
その後、有名な指揮者の招聘などのこともあり、京都コンサートホールという音響効果の素晴らしい建物も出来、質と量の両面が充実してきた。
ただ聴衆動員という面では苦労がつづき、今では独立法人として独立採算の方式が採られるともに、特に、今の広上さんになってから、
聴衆とのコミュニケーションに努め、練習風景を見せるとか、演奏前に「会話」を入れるなどが成功し、2013年度の「友の会」は満員。
今回の演奏会の券は完売したという。
それにつれて楽団員にも素質のある人の応募があり、質的にも有名楽団として数えられる域に達したと言えよう。
今後、「京響」を聴く機会も増えると思うので「カテゴリ」に「京都市交響楽団を聴く」を設けることにした。
定期演奏会は昼間に開催されるので、田舎暮らしで、かつ老人の私には、こういう「マチネー」は有難い。

私の三女は、曲りなりにも音楽過程を専門に学んだので音楽家のはしくれだと思うが、もうずっと以前になるが、フォーレの「レクイエム」合唱つき、で
臨時に編成された合唱団に入って、京響と、このホールに出演して歌ったことがある。
このときは亡妻も元気なときで、私たちの娘たち一家そろって聴いたものである。
彼らと幕間に「ホワイエ」で呑んだワインの旨さが今でも思い浮かぶのである。
そんなことで、このコンサートホールと「京響」には多少の縁(えにし)があることを記しておきたい。

上に書いたように最近は「京響」も満席がつづき、聴衆が多いので、幕間になっても、ホワイエが満員でワインなども、碌に呑めない始末である。

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