K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(12月)月次掲示板
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一昨年の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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本年も十二月、最終となりました。
泣いても笑っても「師走」の到来です。

 葦べ行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・・志貴皇子
 夜半すぎて天心ちかく月照るを雲は戯(そば)へて過ぐる時のま・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆
 「かがなべて夜は九夜 日には十日」の留守居の翁は鍋を焦がしぬ・・・・・・・・・・・・西村尚
 この国に生れ来しなり明日もまた生きむわられの拠るべき国土・・・・・・・・・・・・・・橋本喜典
 堤よりときをりとどく白鳥の声を窓辺にききてくれゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 板宮清治
 そらいろに君はサドルを換へながら謎だと言へり恐竜のいろ・・・・・・・・・・・・・・・・ 松本典子
 舞ひたつは愉しからむよ木枯しに吹かれて飛ぶはけやきの落葉・・・・・・・・・・・・・・三井ゆき
 つまさきを折り膝を折り肘を折り夜に格納されて眠った・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東直子
 凍蝶という語が翅を立てている 樹皮に捺された枯葉の影に・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生
 海底に塩噴く臼のあるといふ説話なかなか嬉しきものを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・恩田英明
 国家解体おもひみるかな領土なく国語なくただに<言葉>響きあふ水の星・・・・・・水原紫苑
 ななかまど紅となる傍らに今は静かにかたりべとなる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小野雅子
 しらほねの母の眠りに降る雪を告げてテレヴィの北国便り・・・・・・・・・・・・・・・・・照屋眞理子
 背より見ればしんと動きを止めし人アイフォンの面に指のみ走る・・・・・・・・・・・・・・・・山下泉
 亡き母を知る人来たり十二月・・・・・・・・・・・・長谷川かな女
 落ちてゐるからたちの実や十二月・・・・・・・・・・吉岡禅寺洞
 武蔵野は青空がよし十二月・・・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子
 わが生死食思にかかる十二月・・・・・・・・・・・・・・・相馬遷子
 御岳に雲の荒ぶる 十二月・・・・・・・・・・・・・ ・・伊丹三樹彦
 くさぐさに名付けいづれも枯さうび・・・・・・・・・・すずきみのる
 騒がしき鍋に沈むや寒卵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高井楚良
 ソムリエの金のカフスや師走の夜・・・・・・・・・・・深田やすお
 バスが来るまでのぼんやりした殺意・・・・・・・・・・・・石部明
 茶の花や煙の匂ふ服を吊り・・・・・・・・・・・・・・・・ 森賀まり
 コンテナの中は泣き損なった人・・・・・・・・・・・・・・井上一筒
 炉開の妻のオリーブ色の帯・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 ふぐちりのふぐのラップを外しゆく・・・・・・・・・・・・前北かおる
 雪が来て雪雲が来てすべて雪・・・・・・・・・・・・・・・田島風亜
 つぎつぎに翼を折りて山眠る・・・・・・・・・・・・・・・・・・高梨章
 私より古いお皿がまだ割れぬ・・・・・・・・・・・・・・・・東川和子
 狂うなら光少ない冬日かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉井潤
 金属の韓国箸の冬日和・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山田露結
 てぶくろのわめく形やまた嵌める・・・・・・・・・・・・嵯峨根鈴子
 日のいろを知る冬蝶に出会ふたび・・・・・・・・・・・・・神山朝衣
 玄冬の漢文脈の旅日記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 堀下翔
 数へるにしても短日ばかりなり・・・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 オノマトペ探してをりぬ冬の雨・・・・・・・・・・・・・・・ 津野利行
 爪上ぐる毛ガニスーパー午前二時・・・・・・・・・・・・杉山美鈴
 冴返る夜空に眠るやうな蒼・・・・・・・・・・・・・・・・・ 澤田和弥
 初雪の窓や果実の蜜を焦がす・・・・・・・・・・・・・・・佐藤文香
 初雪や人はワインの栓を抜く・・・・・・・・・・・・・・・・黒木韻石
 舟偏をつけてたゆたうのも一手・・・・・・・・・・・・・・・徳永怜子
 錠剤で作る星座や冬籠・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下つばさ
 板チョコ齧るつけまつげつける・・・・・・・・・・・・・・・田中峰代
 学校を覆う大きな病垂れ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島啓子
 底ぬけに明るい階段は嫌い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・榊陽子
 急須の蓋にたまったままの「つ」・・・・・・・・・・・・樋口由紀子
 戦争に負けて猫など飼っている・・・・・・・・・・・・田久保亜蘭
 色白で水の匂いの和綴じ本・・・・・・・・・・・・・・・・ 岩根彰子
 深読みをする癖ぬけず小豆炊く・・・・・・・・・・・・・・・ 七風姿


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ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

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この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

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著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
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ネット書店ではセブンネットショッピングLivedoor.Books、 楽天ブックスブックメール倶楽部、全国書店ネットワークe-hon でも買えるようになっています。
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本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

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 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


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枯野起伏明日と云ふ語のかなしさよ・・・・・・・・・・・加藤楸邨
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    枯野起伏明日と云ふ語のかなしさよ・・・・・・・・・・・加藤楸邨

「枯野」とは、草木の枯れた、蕭条とした野っぱらのことだが、場所や配合などによっては、さまざまな趣のものとなる。
何となく、わびしい枯野の起伏を見ながら、楸邨は、ふと「明日」という言葉の持つ「かなしさ」を感じたのである。
「かなしさ」というのが、漢字でなく、ひらがなで書かれているところに句のふくらみがあるのである。
つまり、「いとしい」の意味の「かなしさ」であり、「悲しさ」と同義ではないのである。
それが「自然」と「人事」との配合ということである。
同じ楸邨の句に

   わが垂るるふぐりに枯野重畳す

というのがある。
ふぐり(睾丸)というのは、青年、壮年の時期には、キリリと股の肌に張り付いているもので、だらりと垂れるという感じはしないが、老年期になると、だらりと垂れる感じになる。
楸邨は、そういう自分の身体的な衰えと枯野が重畳と連なる様を「配合」して一句に仕立て上げたのである。

   旅に病んで夢は枯野をかけ廻る・・・・・・・・松尾芭蕉

という「辞世」の句があるが、この句こそが枯野のイメージそのものだと言われている。
いかにも一生を「漂泊」にかけた芭蕉ならではの句である。
この句などは「巨人」の句という感じで、われわれ下々の者が、あれこれ言うのは気が咎めるものである。
いずれにしろ、枯野のイメージというものは冬の季節とともに、日本人の精神性に大きな翳(かげ)を落としてきたと言えるだろう。

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以下、枯野を詠んだ句を引く。

 戸口までづいと枯れ込む野原かな・・・・・・・・小林一茶

 旅人の蜜柑くひ行く枯野かな・・・・・・・・正岡子規

 遠山に日の当りたる枯野かな・・・・・・・・高浜虚子

 吾が影の吹かれて長き枯野かな・・・・・・・・夏目漱石

 枯野はも縁の下までつづきをり・・・・・・・・久保田万太郎

 掌に枯野の低き日を愛づる・・・・・・・・山口誓子

 土堤を外れ枯野の犬となりゆけり・・・・・・・・山口誓子

 赤きもの甘きもの恋ひ枯野行く・・・・・・・・中村草田男

 また雨の枯野の音となりしかな・・・・・・・・安住敦

 大いなる枯野に堪へて画家ゐたり・・・・・・・・大野林火

 つひに吾も枯野の遠き樹となるか・・・・・・・・野見山朱鳥

 枯野ゆく人みなうしろ姿なり・・・・・・・・石井几与子

 いつ尽きし町ぞ枯野にふりかへり・・・・・・・・木下夕爾

 枯野行き橋渡りまた枯野行く・・・・・・・・富安風生
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もうすぐ、「年が改まる」。
楸邨の句ではないが、「明日」という言葉に込められた、さまざまな「かなしさ」=愛しさ、いとしさ、哀しさ、を噛みしめて来年を迎えたい。

この私のブログは毎月最終の日付は「月次掲示板」としているので、これ以外の記事を書くことはない。
更新する日付としては、今日が終わりということになる。
「喪中」の方もいらっしゃるが、無事ご越年なさるようお祈りしたい。 では来年、また。


しんしんと雪ふりし夜にその指のあな冷たよと言ひて寄りしか・・・・・・・・・・・・斎藤茂吉
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──冬の愛欲5態──

  ■しんしんと雪ふりし夜にその指の
   あな冷(つめ)たよと言ひて寄りしか・・・・・・・・・・・・斎藤茂吉


斎藤茂吉の妻は輝子というが、輝子は斎藤精神病院の跡取り娘で、茂吉は養子である。
北杜夫などの子供をもうけているが、輝子の恋愛事件などがあって一時別居生活などをしていた。
これらのことは「アララギ」の弟子たちの伝記などで詳しく伝えられている。
この歌がいつ頃のものかなども同定されているが、いま私の手元にはないので詳しくは書けない。
今の時代となっては女性からの反発もあるが、昔は遊郭なども公認であるから「女買い」は男性の常識であって、男どもは独り身の場合は、
そういうところで性の発散をしていたのである。
赤線廃止は昭和20何年かのことである。
茂吉が、そんな赤線地帯に入り浸っていたのも実証されていることで、茂吉は日記を克明に付けることでも有名で、彼自身の手でもいろいろ書かれているらしい。

この歌の対象が誰であるかの詮索は別にして「ああ、冷たい指をしているね」なんとか言いながら、女の指を暖め、愛撫しながら、愛欲の渦に入ってゆく、という情景が、
よく詠まれている。

  ■火を産まんためいましがた触れあえる
    雌雄にて雪のなか遠ざかる・・・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆


この歌の作者・岡井隆は、ひところ前衛歌人の一翼を塚本邦雄と共に担った人である。
が、私生活では度々離婚騒動を起こしている人で、最近では、数年前に妻子と別れて自分の年齢とは半分も年下の30代なかばの画家の人と結婚したことで有名である。
この歌は若い頃の歌集『土地よ、痛みを負え』(昭和36年刊)に載るものである。
いきなり読んで誰の心にもすんなり入ってくる、という歌ではない。
二人の性的接触が精神的側面と不可分のものとして捉えられているため、歌の中で「比喩」の占める比重が、ひときわ大きくなっているからである。
「火を産まんため」とは、まさに激しい性の焔を意味すると同時に、精神的な意味での、ある創造的な焔をも意味しているだろう。
しかも作者は肉体的・官能的側面に、むしろ固執しており、そこから「雌雄」という語も出てくる。
内から突き上げる官能の衝動への賛美の念が根底にあるのだ。

  ■目瞑(つむ)りてひたぶるにありきほひつつ
   憑(たの)みし汝(なれ)はすでに人の妻・・・・・・・・・・・・宮柊二


この人も北原白秋門下にあって、のち白秋亡きあと独立して短歌結社「コスモス」を興して大きな組織に育てあげた人である。
この歌も若い頃のことを詠ったものである。はじめの恋人との交流を詠っている。
その君は、今や他人の妻となってしまった、という歌である。
「ひたぶるにあり」「きほひつつ」というくだりに、若い恋人どうしのひたむきな愛欲が詠まれている。

  ■夢のなかといへども髪をふりみだし
   人を追ひゐきながく忘れず・・・・・・・・・・・・・・・大西民子


この歌も有名な歌であり、彼女の場合は、夫が彼女を捨てて他の女に走った。
彼女は彼のことが忘れられず、数々の歌を詠っているが、この歌は、その中のひとつ。
彼女は奈良女子高等師範の出身で、卒業後東京近郊で教師をしていた。
木俣修門下の重鎮として大きな結社を支えていた。
木俣修も北原白秋門下であった。白秋亡きあと結社「形成」を主宰していた。

  ■わがためにひたぶるなりし女ありき
    髪うつくしく夜にはみだれき・・・・・・・・・・・・・・岡野弘彦


この人も現代歌壇を担っているひとりである。国学院大学で釈迢空(折口信夫)の門下として晩年の彼に身近に仕えた人である。
この人には、こういう女人のことを詠った歌が多い。齢80を超えた歳になっても、若い乙女との愛欲にまつわる幻影的な歌を作っている。
「夜にはみだれき」というくだりなどは、かなり際どい表現と言えるだろう。

ここに挙げた人たちは、現代歌人として著名な人たちであるが、文人らしく、赤裸々とも思える表現で「愛欲」を詠んでいる。
これこそ文学の徒として必須の態度であろう。


降る雪や明治は遠くなりにけり・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
001冬景色本命

    降る雪や明治は遠くなりにけり・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男

この句は草田男の数多い句の中でも、とりわけ有名な作品である。
今では作者名さえ知らずに、この句を口にしている人も多いだろう。
この句の由来は、昭和6年、草田男が20年ぶりに東京で小学校上級生当時通学した母校・青南小学校(東京、青山高樹町在住当時)を訪ね、往時を回想して作ったものという。
初案は「雪は降り」だった。
しかし、推敲された「降る雪や」の方が、ずっといい。
「雪は降り」では、雪の降る動きは示せても、下の句につながるだけで趣は出ない。
「降る雪や」と切れ字「や」と置いて、一旦ここで一拍おいたために、中7下5の叙述の印象が一段と深くなる作用をしている。
「降る雪や」という上句が「明治は遠く」という中7に、離れつつ大きく転じてゆくところに、この句の秘密というか工夫があり、有名になり過ぎたにもかかわらず、或るういういしい感慨の所在が紛れずに保たれているのも、その所為だろう。(昭和11年刊『長子』所載)

「明治は遠く」に関していうと、句が作られたのが昭和6年ということは、大正15年プラス5年(大正15年と昭和元年は重なる)で、合計20年である。
「一昔」という年月の区切りはほぼ10年と言われているから、まさに「二昔」(ふたむかし)と言えるだろう。
今年、「平成25年」は、昭和の年号が終ってほぼ二昔余りになるので、この頃では「昭和は遠くなりにけり」などと言われるようになってきた。歳月の経つのは早いものである。

今年は早くから本格的な冬が来て北国では、大雪になっている。
しかし本格的な寒波は、これから始まるのである。
ただ雪の降り方には、北と南では、全くちがうのである。
北国では西からの低気圧と寒気によって降雪が起こるのに対して、太平洋岸に雪が降るのは、俗に「台湾坊主」という低気圧が南岸を東進するときに、北から寒気が進入して雪を降らせるのである。
雪片も大きく、水分をたっぷり含んだ重い雪でベタ雪であって送電線などの倒壊などの被害をもたらす。
そんな時期は真冬というより晩冬、春先に多い。2.26事件の日の大雪などが、そうである。

日本の古来の美意識では「雪・月・花」と言って、文芸における三大季題となっている。
言うまでもないが「花」=「桜」であることを指摘しておきたい。
そんな訳で「雪」を詠んだ句も多い。

 馬をさへながむる雪の朝かな・・・・・・・・芭蕉

 市人よ此の笠売らう雪の傘・・・・・・・・芭蕉

 撓みては雪待つ竹のけしきかな・・・・・・・・芭蕉

 箱根越す人も有るらし今朝の雪・・・・・・・・芭蕉

 我がものとおもへばかろし笠の上・・・・・・・・其角

 下京や雪つむ上の夜の雨・・・・・・・・凡兆

 心からしなのの雪に降られけり・・・・・・・・一茶

 むまさうな雪がふうはりふはりかな・・・・・・・・一茶

 是がまあつひの栖か雪五尺・・・・・・・・一茶

 雪ちらりちらり見事な月夜かな・・・・・・・・一茶

などの名句がある。明治以後の句は、また後日。


雪の日の浴身一指一趾愛し・・・・・・・・・・橋本多佳子
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↑ オーギュスト・ルノワール「横たわる浴女」(1904年)

──冬の浴女三題──

     ■雪の日の浴身一指一趾愛(いと)し・・・・・・・・・・橋本多佳子

橋本多佳子は東京生まれだが、九州出身の橋本豊次郎と結婚して小倉に住んだ。
早くに夫と死別して、晩年は奈良に住まいした。
昭和38年に死去したが、晩年の多佳子をよく知る近藤英男先生によると、きれいな人であったという。
平井照敏の書くところによると多佳子は「命に触れたものを的確な構成によって詠いあげ、独自の句境に至っている」という。
「指」は手の指のこと、「趾」とは足の指、のことである。
この句は、女の「ナルシスム」とも言うべき艶やかなリリシスムに満ちている。
こういう表現は、それまでの女流俳句にも無かった句境であった。女の「命」の美しさ、はかなさ、いとほしさ、などをみづみづしく詠いあげた絶唱と言える。
この句は晩年の句集『命終』(昭和40年刊)所収。


   ■雪はげし抱かれて息のつまりしこと・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

この句も、有名な句で多佳子の代表作として、よく引用されるものである。
この句も、死別した夫との愛欲の日を思い出して作られた句だと言われている。
多佳子の句は、このように愛欲に満ちた日々を回想しながらも、赤裸々な表現ではなく、控えめな、抑制された句作りであるから、読者にほのぼのとした読後感を与えて、すがすがしい。
この句は『紅糸』(昭和26年刊)の作で、この頃、すでに夫は死去している。同じ句集に

   ■雄鹿の前吾もあらあらしき息す

という句があり、この句なども「いのち」「生命」「エロチスム」というものを読後感として感得することが出来る。
こういう句作りこそ、多佳子の真骨頂だった。


  ■窓の雪女体にて湯をあふれしむ・・・・・・・・・・・・・・・・桂信子

桂信子は大阪の人。
この人も早くに夫を亡くしている。多佳子とは違った面からだが、女体の「艶やかさ」を詠い上げた人であった。つい先年お亡くなりになった。
この句は句集『女身』(昭和30年刊)に載るもので、橋本多佳子辺りが先鞭をつけた「女の命」を詠う軌跡に則した流れというべきか。

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 ↑ ルノワール「岩の上に座る浴女」(1882年)

桂信子の、この頃の句に

 ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ

 ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜

 やはらかき身を月光のなかに容れ

 ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき


などの句があり、いずれも女の命のリリシスムを詠いあげている。


夜の書庫にユトリロ返す雪明り・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦
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     夜の書庫にユトリロ返す雪明り・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦

モーリス・ユトリロMaurice Utrilloは1883年12月26日にパリのモンマルトルに生まれた。母はスザーヌ・ヴァラドン、父のボァシヨーはアル中患者で、モーリスを認知しなかった。
1891年、スペインの美術評論家ミゲル・ユトリロの養子となった。
その後、母の住んでいたモンマニーで学校教育を受け、ロラン・カレッジに学んだ。
17、8歳の頃から飲酒癖が始まり、1901年にはアル中症状を起こして医療を受けた。
母は、その治療目的で彼に絵を描くことを教えた。初めは母の画風の影響を受け、その後ピサロのあとを追って印象画派に入った。
1907年に彼のいわゆる「白の時代」が始まることになる。
サロン・ドートンヌに出品したのは1909年が最初である。
年譜を見ると、その後、アルコール中毒症状で精神に錯乱をきたしたりして、精神病院に入れられたりして、その都度、母ヴァラドンは苦労したらしい。
51歳のとき、リュシーという年上の裕福な未亡人と結婚したが、これも母の肝いりであるが、ユトリロは年上の妻を母のように慕い、酒に溺れることもなく、ひたすら絵を描いて、しかも絵は高い値で売れたので、心身ともに安定した。
レジオン・ドヌール勲章という最高の栄誉まで貰って1955年に亡くなったが、72歳という、若い頃や中年のアル中の時期には考えられないような歳まで生きたのだった。
ユトリロの絵は、今でも結構人気があるらしい。

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 ↑ 母親シュザンヌ・ヴァラドンによるモーリスの肖像画(1921年)

私はユトリロには詳しくないので、掲出した絵がどこの風景なのか判らないが、見えているのは、モンマルトルの「サクレクール」寺院ではなかろうか。とすれば、モンマルトル風景ということになる。
安住敦の句は、おそらく「ユトリロ画集」かなんかだろう、見ていた画集を書庫に仕舞いにゆく景だろう。
今日が彼の誕生日ということなので、日付に合わせて載せてみた。

明治以後の「雪」を詠んだ句を引いて終わりたい。

 舞ふ雪や一痕の星残しつつ・・・・・・・・藤森成吉

 降る雪や玉のごとくにランプ拭く・・・・・・・・飯田蛇笏

 外套の裏は緋なりき明治の雪・・・・・・・・山口青邨

 雪に来て美事な鳥のだまりゐる・・・・・・・・原石鼎

 落葉松はいつめざめても雪降りをり・・・・・・・・加藤楸邨

 みづからを問ひつめゐしが牡丹雪・・・・・・・・上田五千石

 馬の眼に遠き馬ゐて雪降れり・・・・・・・・中条明

 雪の水車ごつとんことりもう止むか・・・・・・・・大野林火

 牡丹雪その夜の妻のにほふかな・・・・・・・・石田波郷

 病む夫にはげしき雪を見せんとす・・・・・・・・山口波津女

 深雪に入る犬の垂れ乳紅きかな・・・・・・・・原子公平

 狂へるは世かはたわれか雪無限・・・・・・・・目迫秩父

 雪あかり胸にわきくるロシヤ文字・・・・・・・・古沢太穂

 雪国に子を生んでこの深まなざし・・・・・・・・森澄雄

 雪明りゆらりとむかし近づきぬ・・・・・・・・堤白雨

 雪片と耶蘇名ルカとを身に着けし・・・・・・・・平畑静塔




黄落を振り返り見る野のたひら野はゆく年の影曳くばかり・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     黄落を振り返り見る野のたひら
        野はゆく年の影曳くばかり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
本年も師走終盤に突入して、はや旬の半ばを越えた。
辺りを見回してみると、落葉樹の木々はあらかた葉を落とし、先日までは赤や黄の「紅葉」をつけて照り映えていたのが、足もとにたっぷりと落葉の絨緞を敷き詰めたようになっている。
おかげで、野末は見晴らしがよくなって木々の根元まで陽が射すようになった。
「冬至」も先日22日に済んで、一年中で一番昼が短く、夜が長い頃である。

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「紅葉散る」というのが「冬」の季語である。
紅葉し、かつ散り始める晩秋から、紅葉散るの冬へ、季節は確実に動いてゆく。美しく散り敷くこともあり、土まみれになって貼りついていることもあり、
紅葉の在りようも、人生に似て、さまざまである。
写真は「散り敷く」紅葉である。これらはネット上で、piita3氏のページから拝借したものであり、場所は京都郊外の「勧修寺」である。
ここに名を記して御礼申し上げる。

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『夫木和歌抄』に

  秋暮れし紅葉の色に重ねても衣かへうき今日の空かな

という歌があるが、これは初冬の紅葉を詠ったものである。秋用の衣から、冬用の着物に「衣替え」するのも、憂いことである、と詠まれている。
昔の人は、こういう「痛ましい」感じのもの、「あわれ」の思いの強いものに拘ったのであった。
『古今集』に

  山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり・・・・・・躬恒

という歌があるが、落葉となる紅葉のはかなさが中心のイメージと言える。

 夕映に何の水輪や冬紅葉・・・・・・・・渡辺水巴

 冬紅葉冬のひかりをあつめけり・・・・・・・久保田万太郎

 美しく老ゆるも死ぬも冬紅葉・・・・・・・松井草一路

などの句は「冬紅葉」という季語の名句といえるだろう。
以下、「紅葉散る」「木の葉」などの句を引いて終る。

 紅葉散るや筧の中を水は行き・・・・・・・・尾崎迷堂

 尽大地燃ゆるがごとき散紅葉・・・・・・・・赤星水竹居

 紅葉散るしづけさに耳塞がれつ・・・・・・・・岡田貞峰

 今日ありてかたみに紅葉ちるを踏む・・・・・・・・藤野基一

 木の葉ふりやまずいそぐなよいそぐなよ・・・・・・・・加藤楸邨

 木の葉散るわれ生涯に何為せし・・・・・・・・相馬遷子


冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤佐太郎
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   冬山の青岸渡寺(せいがんとぢ)の庭にいでて
       風にかたむく那智の滝みゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤佐太郎


佐藤佐太郎は斎藤茂吉に師事し、茂吉に関する著書も多い。
西国三十三所第一番の札所青岸渡寺から那智の滝を遠望すると、ちょうど夢の中ででも見るような感じで、一筋の白い滝が崖から流れ落ちる。
作者は折からの冬景色の中で、滝が風を受けて、ふっと傾くのを見たのである。
「庭にいでて」とあれば文法的には、結句は「那智の滝(を)みる」となるのが自然だと思われるが、佐太郎が、
それを「みゆ」とした時、滝は言わば見る者と、見られる物という対比を超えて、ごく自然に見る者の中に入りこんで来たのである。
昭和45年刊『形影』所載。

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佐太郎の歌に描かれた風景を写真に表すならば、写真②のようになる。手前の三重の塔が青岸渡寺のものである。
遠景に那智の滝が白く見える。この滝そのものが那智大社の御神体である。
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↑ 熊野那智大社

もともとは神仏混交であって那智大社も寺も一体のものであったが、明治初期の神仏分離によって分けられたものである。今日、寺は天台宗に属する。
開基は仁徳天皇(313-399)の御代にインドから裸形上人が(釈尊入滅後882年頃)一行6人と共に熊野灘に漂着し、熊野の各地を巡歴した。
上人は今の那智大滝のところにおいて観世音を感得し、今の御堂の地に庵を作り、その後、推古天皇(593-629)の時に、大和より生き仏と言われる聖(ひじり)が来て、玉椿の大木に如意輪観世音を彫り、前の観世音を胸に納めたと寺伝されている。
 ↓ 写真④は青岸渡寺である。
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この寺は西国三十三所観音霊場の第一番札所である。巡礼は、先ず、この寺から巡礼をはじめ、笈(おいづる)や集印帖ないしは御詠歌の本に寺の朱印を押してもらうのである。
この第一番札所の御詠歌は

    ふだらくや岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つせ

と詠われているが、作者は花山法皇と言われている。西国三十三所のほとんどの歌が花山法皇の歌である。
今や「熊野古道」は世界歴史遺産としての指定を受けるに至り、日本中の注目を集めることになった。



ひともとの八つ手の花の咲きいでて霊媒の家に灯りつき初む・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    ひともとの八つ手の花の咲きいでて
        霊媒(れいばい)の家に灯りつき初む・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、この歌の続きには

  霊(たま)よせの家のひそけきたまゆらを呼びいださるる幼な子の頃・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているが、この「霊媒」とか「霊よせ」ということについては、少し説明が必要だろう。
今では青森県の下北半島の「恐山」のイタコなどに、その名残りをとどめるに過ぎないが、昔と言えば昭和初年の頃までは、
こういう「霊媒」「霊よせ」というのが、まだ伝統的に各地に残っていたのである。
大都市では、いざ知らず、私の生れたのは純農村であったから、「あの家は霊媒の家だ」という風に職業としてやっている人がいたのである。
もっとも当時は「神さん」とか「お稲荷さん」とかいう名で呼ばれていた。「コックリさん」という呼び名もあった。
科学的な解明というよりも、神がかりな「加持、祈祷」が幅を利かせていた時代である。

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「八つ手」の木というのは家の裏の日蔭の「鬼門」とかに、ひそやかに植えられているもので、八つ手の花はちょうど今頃12月頃に咲くのである。
そういう冬のさむざむとした風景の中に咲く八つ手の花と「霊よせ」の家というのが合うのではないかと思って、これらの歌が出来上がった、ということである。

八つ手の葉は文字通り八つ前後に裂けていて「天狗のうちわ」という別名もある。
八つ手の花を詠んだ句を引いて終りにしたい。八ツ手の花言葉は「分別」

 たんねんに八手の花を虻舐めて・・・・・・・・山口青邨

 八ッ手咲け若き妻ある愉しさに・・・・・・・・中村草田男

 一ト時代八つ手の花に了りけり・・・・・・・・久保田万太郎

 遺書未だ寸伸ばしきて花八つ手・・・・・・・・石田波郷

 八ッ手散る楽譜の音符散るごとく・・・・・・・・竹下しづの女

 花八つ手貧しさおなじなれば安し・・・・・・・・大野林火

 踏みこんでもはやもどれず花八ツ手・・・・・・・・加藤楸邨

 花八つ手日蔭は空の藍浸みて・・・・・・・・馬場移公子

 寒くなる八ッ手の花のうすみどり・・・・・・・・甲田鐘一路

 すり硝子に女は翳のみ花八つ手・・・・・・・・中村石秋

 かなり倖せかなり不幸に花八ツ手・・・・・・・・相馬遷子

 みづからの光りをたのみ八ツ手咲く・・・・・・・・飯田龍太

 花八つ手生き残りしはみな老いて・・・・・・・・草間時彦

 花八ッ手さみしき礼を深くせり・・・・・・・・簱こと

 どの路地のどこ曲つても花八ッ手・・・・・・・・菖蒲あや

 人に和すことの淋しさ花八つ手・・・・・・・・大木あまり


冬薔薇を剪るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    冬薔薇を剪(き)るためらひは何事ぞ
       貴きものを奪ふここちす・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので小項目名「薔薇」というところに、バラを詠った歌をまとめてあるものの一つである。

バラは何と言っても「花の女王」であることは間違いない。
在来種の野バラから、さまざまな改良が加えられて、今ではハイブリッドや遺伝子レベルの技術を駆使して新品種が産出されている。

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写真②も「レッドヒロシマ」というハイブリッドによる品種物である。
バラには痛い棘(とげ)があるのが難点だが、今ではトゲのない品種もあるのではないか。
バラの中でも、人それぞれ好みがあろうが、私は写真②のような「真紅」のバラが好きである。豪華なレディーという印象である。
バラについては、つい先日にも記事を載せたのだが、掲出歌を変えて書いてみる。
妻の入院中にはあちこちからバラの花束をいただいたことがある。妻の大学の時の友人の某大学教授N女史から、お見舞いの花のアレンジが贈られてきたことがある。
また私からも病床にある妻にオランダ直輸入のバラを贈ったこともあった。
その他、前にもさまざまの記事を載せたこともある、思い出のある花なのである。

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写真③もハイブリッドものの新品種である。なんとも色合いが華麗である。ついでに、写真④にもハイブリッドもののバラを掲出しておく。

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これも色合いが鮮やかな花である。
このバラには「ジーナ・ロロブリジーダ」の名がついている。そう言えばロロブリジーダの雰囲気が出ているバラである。
書き遅れたが写真③のバラの名は「マダム・ビオーレ」とある。N女史などは、まさに、そういう雰囲気にふさわしいとも言える。
そのN女史だが、先年、急性の脳梗塞に罹り半身不随で闘病の末、いまは車椅子の生活を余儀なくされている。

長年、歌作りをやっているとバラを詠み込んで、あちこちに歌を発表しているもので、歌集にする場合には、それらを「薔薇」という項目にまとめる、というようなことをする。
以下、ここにまとめた「バラ」の歌一連を引いておきたい。
掲出した歌の主旨は「冬薔薇」を剪る時には、万物の命の休止している冬の季節に、せっかく咲いた花を切り取るということに、極端にいうと「生き物の命」を奪うような気が一瞬した、ということである。

     薔 薇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  キーボード打てるをみなの傍(かた)へにはコップに挿せる紅薔薇にほふ

  老いびとにも狂気のやうな恋あれと黒薔薇みつつ思ふさびしさ

  飲みあけしミニチュア瓶に薔薇挿せばそこより漂ふスコッチの香り

  鬱屈のなきにもあらず夕つかた何もなきごとく薔薇に水やる

  喪に服し静もる館は薔薇垣を結界として何をか拒む

  冬薔薇を剪るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす

  冬薔薇を剪る妻の手に創(きず)ありぬ薔薇のいのちの棘の逆襲

  ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇にそそのかさるる恋よあれかし

  薔薇図鑑見つつし思ふ園生には緋の花責めの少女ゐたりき

  たまさかに鋏を持てばことごとく刺す意あらはに薔薇は棘見す

  言へばわが心さびしもしろたへに薔薇咲き初めて冬に入りたり


以下、「冬薔薇」を詠んだ句を引いて終る。薔薇は「さうび」(そうび)とも発音する。
先日引用したものと一部重複するかも知れない。お許しを。

 尼僧は剪る冬のさうびをただ一輪・・・・・・・・・・・・山口青邨

 冬薔薇(さうび)石の天使に石の羽根・・・・・・・・・・・・中村草田男

 冬の薔薇すさまじきまで向うむき・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 冬ばら抱き男ざかりを棺に寝て・・・・・・・・・・・・中尾寿美子

 冬さうび咲くに力の限りあり・・・・・・・・・・・・上野章子

 冬薔薇や賞与劣りし一詩人・・・・・・・・・・・・草間時彦

 ぎりぎりの省略冬薔薇蕾残す・・・・・・・・・・・・津田清子

 夫とゐて冬薔薇に唇つけし罪・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 孤高とはくれなゐ深き冬の薔薇・・・・・・・・・・・・金久美智子

 冬薔薇や聖書に多き科の文字・・・・・・・・・・・・原田青児

 リルケ死にし日なりき冬の薔薇の辺に・・・・・・・・・・・・脇村禎徳

 ふと笑ふ君の寝顔や冬の薔薇・・・・・・・・・・・・マブソン青眼


ひととせを描ける艶の花画集ポインセチアで終りとなりぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    ひととせを描ける艶(ゑん)の花画集
       ポインセチアで終りとなりぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌のつづきには

  ポインセチアの一鉢に似て口紅を濃くひく妻は外出もせず

  あかあかと机辺を光(て)らすポインセチア冬の夜長を緋に疲れをり


という歌が載っている。
ポインセチアは学名をEuphorbia pulcherrima というが、原産地は中央アメリカ──メキシコである。赤い花の部分は正確には苞(ほう)である。

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品種改良がすすみ、多くの花があるが写真②は2003年に産出されたばかりの「アヴァンギャルド」という新品種。
あと二つほど色違いをお見せするが、私などにはポインセチアと言えば、やはり「真紅」のものが好ましい。
すっかりクリスマスのシンボルのように扱われているポインセチアだが、その歴史は、こんな経緯である。

むかし、メキシコにアズテク族というインディアンが住んでいて、生活の中で、この植物を上手に利用していた。苞から赤紫色の色素を採り、切った時に出る白い樹液からは解熱作用のある調剤が作られた。現在のタスコ(Taxco)付近の地域を起源地とするポインセチアはインディアンにCuetlaxochitlと呼ばれて、その輝くような花は「純粋性のシンボル」とされていた。
17世紀に入り、フランシスコ修道会の僧たちが、この辺りに住み着き、その花の色と咲く時期から「赤はピュアなキリストの血」「緑は農作物の生長」を表していると祭に使われるようになった。
1825年、メキシコ駐在のアメリカ大使Joel Robert Poinsett氏(1779-1851)は優れた植物学者でもあったため、アメリカの自宅の温室から植物園などへポインセチアが配られた。「ボインセチア」の名はポインセット氏の名前に由来する。
1900年代はじめから、ドイツ系の育種家アルバート・エッケ氏などの尽力で、市場向けの生産などがはじまった。
ポインセチアは「短日性」の植物で、1日のうちで夜のように暗い状態が13時間以上になると開花する。
写真③④はマーブルとピンクの改良種である。

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歳時記に載る句を少し引いて終りにしたい。

 小書斎もポインセチアを得て聖夜・・・・・・・・富安風生

 ポインセチア教へ子の来て愛質(ただ)され・・・・・・・・星野麦丘子

 時計鳴り猩々木の緋が静か・・・・・・・・阿部筲人

 ポインセチア愉しき日のみ夫婦和す・・・・・・・・草間時彦

 ポインセチアの色溢れゐる夜の花舗・・・・・・・・宮南幸恵

 ポインセチアや聖書は黒き表紙かな・・・・・・・・三宅絹子

 ポインセチア愛の一語の虚実かな・・・・・・・・角川源義

 ポインセチア独りになれ過ぎてはならず・・・・・・・・鈴木栄子

 ポインセチアその名を思ひ出せずゐる・・・・・・・・辻田克己

 ポインセチアどの窓からも港の灯・・・・・・・・古賀まり子

 星の座の定まりポインセチアかな・・・・・・・・奥坂まや

 ポインセチア画中に暗き聖家族・・・・・・・・上田日差子

 寝化粧の鏡にポインセチア燃ゆ・・・・・・・・小路智寿子

 休日をポインセチアの緋と暮るる・・・・・・・・遠藤恵美子

 ポインセチア抱いて真赤なハイヒール・・・・・・・・西坂三穂子


平凡も非凡もあらず青木の実・・・・・・・・・・・・・・・・青柳志解樹
image04アオキの実

   平凡も非凡もあらず青木の実・・・・・・・・・・・・・・・・青柳志解樹

「青木」という木も裏庭などの片隅にひっそりと植えられている感じの低木である。
八ツ手の木と同様である。ようやく、その木の存在に気づくのが、赤い実が映える冬の季節になってからである。

作者の青柳志解樹(1929~)は 信州育ちよろしく野草に詳しく「週刊朝日」に俳句の歳時記として連載ものを書いていた。その一節を紹介しよう。

 <山村に生まれ育ったおかげで、子どものころから、さまざまの植物と交わりを重ねた。
小学校への道筋の野原には、春になるとオキナグサのビロードの花があっちにもこっちにも咲いた。
野の花らしからぬ上品さに目を奪われたものだ。
また、山菜採りのころ、山の草原にはフグリバナと呼んでいたアツモリソウが、フグリのようにふくれた花をくらべ合っているようでおもしろかったが、
いまはオキナグサもアツモリソウも全く姿を消してしまった。 トキソウもその一つだ。
山田の畦草に交じって、ほんのり紅を染めた幼顔を、はずかしそうに覗かせていたのを思いだす。
ちょうど梅雨の時季で、雨に打たれる花はいじらしく、捨てがたい風情があった。
同じ畦のホタルブクロはよく目立ったが、トキソウは隠れ花のようだった。
田の中に巣を作っているクイナがときどきキョロロロロロロロと奇妙な声で鳴きたてたこともなつかしく思いだされてくる。>
(青柳志解樹『歳時記の花たち』朝日新聞社,1999) 
青柳には最新刊の句集『四望』 (角川書店)があるが、いつか紹介したい。
他に『木の花草の花』『俳句の花』(上・下)『花の大歳時記』などの著作があり、「花」を調べるときには便利である。
亡妻が持っていた本によって私は啓蒙されたものである。
青柳の略歴などを下記に引いておく。
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青柳志解樹(あおやぎ しげき)
 昭和4年(1929) 長野県生れ。 「山暦」創刊主宰。 
 原コウ子に師事。「鹿火屋」に投句。同人を経て昭和54年「山暦」創刊。鹿火屋賞・第32回俳人協会賞受賞。

 句集:『耕牛』『杉山』『山暦』『楢山』『山霊樹魂』『松は松』『麗江』『花顔』『四望』

 年惜しむ手紙の束を火に投じ

 たんぽぽの絮ふるさとを出奔す

 月光へ目覚めて繭の中にあり

 やすらかに割りたる冬の卵かな

 月の夜の山煌々と枯るるなり
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以下、ネット上に載る「アオキの実」に関する記事を転載しておこう。
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<青木の実>
 青木の実って御存じですか?ミズキ科の常緑潅木です。庭木として植えられて いる他、関東地方以西では比較的日当たりの悪い山地でも自生しています。実を 鳥が啄(ついば)んで増えるとのこと。そういえば、我が家の裏山にもひょっこり 生えていたりしていました。

冬でも葉を落とさない緑豊かな植物です。青木の名は 若い枝が葉と同じ薄黄緑色であることからつけられました。葉は細めの小判型で、縁が等間隔の鋸葉(のこぎりば)になっています。鋸葉といっても、柊のようにきんきんに尖っているわけではありません。どちらかという と、ゆるやかに波打っているようなやさしい葉です。

 普通、冬も葉を落とさない ものは大抵表面が固かったり、松や杉のように細く尖っていたりするものですが、 青木はそのどちらにも属さない、観葉植物めいた艶味のある美しい葉を持っています。枝の先は新しい葉、元や下に行くほど大きくなり、それらの葉が天辺から 地面ギリギリまで四方に伸びています。多分、冬の弱い陽射しでも充分吸収できる ような上手い作りになっているのでしょうね。

 大きい葉は成人男性の掌を覆って余りあるくらいにもなります。年を経たであろう大きな葉は筋張って厚みが出てきますが、若い葉はしなやかに柔らかく、なんとも形容しがたいような感触を伝えます。冬なのに水分を多く含むせいか、植物なのに人の手に馴染むしっとりした感じがあるんです。一見、ぺろんとした 頼り無い感ですし特にどうということのない植物ですが、その葉は快い手触りの ひとつなのです。 

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 ↑ アオキ雌株─雌花

 青木は雌雄異株です。銀杏のように、実の生るものとならないものとあるのです。花の時期は四月はじめの頃です。
↓ アオキ雄株─雄花 
aoki4アオキ雄株─雄花

 葉について長々とお話してしまいましたが、今回のメインは実の方でした。 青木、というとまずはその紅い実が思い出される方が多いと思います。季語でも 冬期の「青木の実」は大抵の歳時記に掲載されていますが、春に位置する「青木の花」はいまひとつ通 りに欠けています。 

 実はドングリくらいの大きさで、葉が出る付け根に数個固まって色付きます。 先にお話したように、葉は冬も緑濃い状態ですから実は自然と葉の裏にひっそり 隠れるような感じになります。葉隠れに、房になって紅い実がなっています。 

 子供の頃はその葉をかき分けて実を探すことが面白く、むやみやたらに摘み取っていました。紅い衣を剥がすと、真白のスポンジ状の果 肉が表れます。林檎に 少し似ていますが、それよりもずっとぱさついた感じですね。芯の部分には蝋の ような柔らかい種があったような記憶があります。 

 じつは一度、青木の実を食べてみたことがあります。紅さに誘われ鳥が好んで啄むと言いますが、当時の自分は鳥並だったのでしょう(笑)。味はなく、青臭い、青木の葉と同じ匂いがしたような気がします。そういえば、ドウダンツツジの花やお茶の実(これは相当苦渋かった)も食べたことがありましたね。ゆっくり思い出せば、きっともっと色んなものを食べていたと思います。イマドキのお母さんが見たら仰天しそうですが、当時は結構おおらかというか、絶対食べてはいけないもの(青梅など)以外は特に駄 目だといわれていなかったような気がします。この 時も「青木食べたけどまずかったよ」と報告しても「ばっかだねぇ」と笑われる だけでしたから(笑)。

 青木の実は同時期に実をつける千両万両に比べると、どうしても一段格落ちと いう感がしないでもありません。それは、名の富貴さで既に負けているという ことがまず挙げられるでしょうし、小粒の千両万両の実の映え具合が活けるのに 手ごろであるに比べ、青木はどうしても取り入れ辛いということもありましょう。 青木はやはり屋外で眺めるのが一番です。葉が幽かに揺れる時、たまさかに紅を 見るところに冬の喜びがあるのでしょう。 

 漢名は桃葉珊瑚(とうようさんご)。あまり知られていませんが、名は体を表す 顕著な例でしょう。
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aoki3アオキ

アオキ (植物)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

学名 Aucuba japonica
和名 アオキ(青木)
英名 Japanese Aucuba
アオキ(青木)はミズキ科に属する日本特産の常緑低木で、北海道南部~沖縄までのの森林に自生する。また日陰にもよく育ち、庭園や公園の植え込みに植栽され、外国でも栽培される。常緑で枝も青いため、この名がある。属名「アウクバ」は方言名「アオキバ」による(ツンベルクの命名)。

高さは2mほど。花は3~5月に咲く。褐色または緑色で花弁を4枚有し子房下位、単性花で雌雄異株。果実は卵形の液果で種子を1個含み、秋頃から赤く(種類によっては白、黄色に)熟し、美しい。楕円形で大きさは2cmほど、11月~翌年5月頃まで付いている。葉は苦味健胃作用があり、有名な陀羅尼助(だらにすけ)に配合されている。

日本海側産の小型の亜種ヒメアオキvar. borealisのほか、果実の色、斑入りなど園芸品種も多い。同属にはA. chinensis、A. himalaicaなど3種ほどがあり、ヒマラヤ、中国南部から日本(照葉樹林帯)に分布する。

また、アオキ属は従来ミズキ科に入れられていたが、APG植物分類体系ではガリア科に近いとされ、ガリア目のガリア科または独立のアオキ科Aucubaceaeとしている。
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 ネット検索で、「アオキ」という名称の語源を調べていたら、「ヒバは昔アオキ(青木)といわれており、その大森林にちなんで青森という名称はつけられたという」との一文を見つけた( 「緑の雇用」総合ウェブサイ」)。
アオキの語源は分からずじまいだが、ま、青森という名称の所以が分かったことで、慰めとしておきたい。
但し、青森という地名(名称)の所以には他にも説があるかもしれない。

以下、青木の実を詠んだ句を引いて終わる。

 かぞへ日となりし日ざしや青木の実・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 長病のすぐれぬ日あり青木の実・・・・・・・・・・・・富安風生

 雪降りし日も幾度よ青木の実・・・・・・・・・・・・中村汀女

 青木の実こぼれて土に還るのみ・・・・・・・・・・・・滝春一

 赤き実の三つかたまりし青木かな・・・・・・・・・・・・三笠宮若杉

 停年やみなくれなゐの青木の実・・・・・・・・・・・・秋元不死男

 夕凍のにはかに迫る青木の実・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 素早さは栗鼠の身上青木の実・・・・・・・・・・・・田中水桜

 青木の実赤しみかどの終焉地・・・・・・・・・・・・滝佳杖

 青木の実濃き口紅を拭ひさり・・・・・・・・・・・・山口昭男

 手の届くところ素直に青木の実・・・・・・・・・・・・久保保徳

 坂の上の青空が好き青木の実・・・・・・・・・・・・村山さとし

 のけぞりて鵯がこぼしぬ青木の実・・・・・・・・・・・・増田卯月

 青木の実雨の降りしも宵の口・・・・・・・・・・・・村井雄花

 青木の実学者の妻の墓小さし・・・・・・・・・・・・安立恭彦

 青木の実ころころ赤し襁褓縫ふ・・・・・・・・・・・・石沢清子

アオキの赤い実と濃い緑の葉という、その鮮やかな色彩のコントラストが、瑞々しい一年を締めくくる歳末の
一日の点景として、年越しを演出するかのようである。



老いざまのかなしき日なり実千両・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
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    老いざまのかなしき日なり実千両・・・・・・・・・・・・・・草間時彦

「千両」「万両」は初冬に赤や黄の実を見せる。極めて日本的な景物である。
同じような実だが、少しづつ微妙に違う。 掲出写真は「千両」の実である。
白い実のものもある。
manryo29白千両の実

同じようなものに「南天」がある。

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも、こんな歌の一連がある。

    妻病めばわれも衰ふる心地して南天の朱を眩しみをりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

    冬の午後を病後の妻と南天の朱美を見つつただよふごとし

    古稀となる妻を見てゐる千両と万両の朱美はなやぐべしや

妻亡き今は哀切な気分になる旧作である。
南天という木はどこにでも生える強い木で、赤い実は野鳥の冬の絶好の餌で、みんな啄ばまれてしまうが、
その未消化の糞の中の種が、あちこちにばら撒かれて繁茂するのである。
南天の赤色はさむざむとした冬景色の中に点る「一点景」ではあるが、病む身を養う妻を抱えての、
私の愁いは、まことに深いものがあったのである。そんな心象を歌にしたのが、この歌である。
「千両」「万両」の実も、同様の扱いをしてもよいものである。

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以下、歳時記に載る南天、千両、万両の句を引いておく。

 実南天二段に垂れて真赤かな・・・・・・・・富安風生

 あるかなし南天の紅竹垣に・・・・・・・・滝井孝作

 南天軒を抽(ぬ)けり詩人となりにけり・・・・・・・・中村草田男

 南天の実に惨たりし日を憶ふ・・・・・・・・沢木欣一

 いくたび病みいくたび癒えき実千両・・・・・・・・石田波郷

 千両の実だけが紅し日照雨過ぎ・・・・・・・・細田寿郎

 かけ足で死がちかづくか実千両・・・・・・・・石田貞良

 千両や筧の雫落ちやまず・・・・・・・・水谷浴子

 万両や癒えむためより生きむため・・・・・・・・石田波郷

 実万両女がひそむ喪服妻・・・・・・・・高萩篠生

 雪染めて万両の紅あらはるる・・・・・・・・鈴木宗石

 いにしへを知る石ひとつ実千両・・・・・・・・伊藤敬子

 清貧は夫の信条実千両・・・・・・・・有保喜久子

 授乳といふ刻かがやけり実千両・・・・・・・・猪俣サチ

 万両を埋めつつある落葉かな・・・・・・・・山本梅史

 万両の実にくれなゐのはいりけり・・・・・・・・千葉皓史

 千両より万両赤し東慶寺・・・・・・・・中村勢津子

 抱くたびに子の言葉増え実万両・・・・・・・・野田禎男
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こうして見てくると、南天、千両、万両ともに、明るいイメージの句は少なくて、むしろ「沈潜」した句が多いことに気付く。
それは、私の歌のイメージとも重なることに驚くとともに、共感するのである。



啼くこゑの力あるこゑさざんくわのあたりより来るよき朝なり・・・・・・・・・・・・・・・福沢敦子
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    啼くこゑの力あるこゑさざんくわの
       あたりより来るよき朝(あした)なり・・・・・・・・・・・・・・・福沢敦子


この歌を含む一連を引いておく。

        雀ご・・・・・・・・・・・・・・・・・福沢敦子

     水木より黄楊の木へ土へわらわらと雀ごは来ぬ窓近くまで

     月の気配うしろにありて道にいでしわれはゆつくり呼ばれてをりぬ

     かがやきて瞬く間に過ぎし者ありとして昨日けふ思ふべく

     水にもどし手にあまるなり中国の長白山の黒木耳なる

作者は昭和16年生まれの「夏至」という歌誌に拠る歌人である。
伝統的な、しっとりとした歌作りをする人で、佳い歌に仕上がっている。描写が精細である。
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田舎でも、スズメの数が、ずいぶん減ったという印象である。
スズメは人間と共に棲息する鳥で、人家に巣を作るのだが、巣を作りにくい構造の家が増えたためではないか、と言われている。
上に引いた一連は必ずしもスズメを全部詠んではいないが、以下は「雀」についての事典の引用である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 スズメ

学名
Passer montanus
英名
Tree Sparrow
スズメ(雀、すずめ・学名Passer montanus)は、スズメ目・スズメ科(ハタオリドリ科とも)に分類される鳥。人家の近くに生息するなじみ深い小鳥である。

 特徴
全長は約14~15cmほどで、雌雄同色。成鳥は頭部は赤茶色、背中は褐色で黒斑があり、頬から腹にかけては白色をしている。くちばしの色は夏は黒色であるが、冬になると基部が淡黄色を帯びる。頬にある大きな黒い斑点は遠くからも目立ち、これが他の近似種との区別点でもある。幼鳥は全体に色が淡く、頬の黒斑がはっきりしない。

くちばしは短くて太い円錐形で、小さな餌をついばむために都合がよい構造となっている。地上では足で飛び跳ねてすばやく移動する。たまに窓から室内に入る場合がある。

ユーラシア大陸を中心に世界に広く分布する。草原、農耕地から都市部まで、およそ人の居住域付近ではごく普通に見られ、人間生活に強く密着した鳥といえる。

「雀の学校」と言われるように、非繁殖期は若鳥を中心とした群れを作って生活するが、春の繁殖期にはつがいで生活する。雨樋と屋根のすき間などに枯れ草で巣を作るので、この時期には枯れ草をくわえて飛ぶ様が見られる。また、ツバメなど他の鳥の古巣を利用することもある。広島では、スズメバチの古巣を利用した例も報告されている。人間が設置した巣箱も利用するが、この際は出入口の位置まで巣材を積み上げる習性がある。

屋根瓦の下に作られたスズメの巣および卵
木造家屋の屋根瓦の狭い空間に作られた直径5-6cm、深さ4cm程度の椀状に凹んだ巣。屋根の葺き替えの際に見つかった。卵の長径は1.5cm、短径は1cm程度で色は薄い茶色がかった灰色。巣の材質は主に枯草。瓦1枚の寸法は約30cm。

食性は雑食性で、イネ科を中心とした植物の種子や虫を食べる。また、都市部に生息するスズメはサクラの花、パン屑・菓子屑や生ゴミまで、何でも食料にする。このようなタフな雑食性が、都会でも生き残る所以といえる。

穀物を食害することから、古来より農民に敵視されてきたが、繁殖期には虫を捕食して害虫を減らすうえ、雑草の種子も多く食べる。中国では毛沢東の指示で米へ被害を与えるスズメを根絶してしまおうという「スズメ撲滅運動」が大躍進政策で行われた。その結果、たしかにスズメによる被害は減ったが、代わりに害虫が大発生し、結局収穫は大幅な減少に至った。大躍進政策における様々な無理により結果的に計数千万人の餓死者が出たとされるが、スズメ撲滅運動はその失敗例の一つとして取り上げられることが多い。ただし日本では現在も農家による限定的なスズメの駆除は認められており、狩猟対象鳥類28種のひとつ。捕獲したスズメは焼き鳥屋などで食用にされる。

アメリカ合衆国では、19世紀半ばにミズーリ州セントルイス市に移入された。広範囲に分布するイエスズメとは対照的に、現在では同市と隣接するイリノイ州の一部にのみ生息し、スズメの分布域は広がっていない。

日本での分布域
日本のほぼ全域に見られる。ただし、小笠原諸島では見られず、青ヶ島が伊豆諸島での最南端の分布域である。また太平洋の絶海の孤島である南大東島、北大東島にはスズメが大量に住んでおり、海を渡ってきた少数の個体から、温暖な気候により増殖したものと考えられている。
人間の生活に密接に関係し、人間が住み始めた集落にはスズメも居着き、逆に人間が離れ集落が無人になるになるとスズメも見られなくなるという傾向がある。
人間になじみ深い野鳥であるが、稲の害鳥とされてきた経緯もあり警戒心は強い。ただ近年都心では人間になじみ、日比谷公園などでは人目につくところに営巣したり、人が餌付けしたりする光景も見られるようになってきている。

 分類体系上の位置
スズメ目> スズメ亜目> スズメ小目> スズメ上科> スズメ科> スズメ亜科

 近縁種
スズメ属(Passer)は世界に15種がおり、そのうちの10種が人里付近に生息していると言われる。

スズメ属のなかで最も繁栄している種で、ユーラシア大陸西部、南北アメリカ、オーストラリアと広く分布している。ヨーロッパには日本のスズメもイエスズメも生息しているが、全長約16.5cmと体格に勝るイエスズメが徐々に生息域を広めている。北アメリカ大陸にはもともとスズメもイエスズメも生息していなかったが、19世紀半ばにニレの木につく害虫駆除のためにイギリスから持ち込まれたのをきっかけに、全米で繁殖するようになった。

頬に黒斑がないスズメで、東アジアに分布する。森林に生息し、人里にはあまり進出しない。樹洞に営巣し、キツツキ類の古巣をよく利用する。

他の言語の事など
スズメは、英語では「Sparrow」となる。ただし、Sparrowはスズメ科に分類される鳥の総称として用いられる。
またAmerican sparrowは、スズメ科ではなくホオジロ科に属するあるグループを指す。American sparrowは特定の種類を指さず、多くの種が含まれる。
さらにペットとして飼われるベニスズメは、カエデチョウの仲間である。日本には元々いなかったが外来種として一部の地域で野生化している。
日本ではスズメを漢字で「雀」と書く。しかし標準的な中文(中国語)では「麻雀」と表記する。なお、中文ではスズメ科 (Passeridae) は「文鳥科」であり、中文の「雀科」はアトリ科 (Fringillidae) であったりと日本とは異なり、ややこしい。

文化
穀物を食害するスズメを追い払うため、「スズメ追い」「鳥追い」などという風習が各地にあり、それに関する民謡、民話なども伝えられている。また、かかしもスズメ追いの道具として作られたものである。
追い払われる一方で、「神様のお使い」として慕われてもきた。
スズメは鳥獣保護法で狩猟鳥に指定されており、地方や人によっては食用にもする。但し、獲れる肉の量が少ないために貴重な食材とされている。
都会では、猫が捕食者として雀を狙っており食物連鎖のバランスが意外にも取られている。
突然変異により羽毛の色素が無い「白スズメ」が稀に見られ、古来より瑞鳥とされてきた。聖武天皇や桓武天皇などが白スズメの献上を受けたという記録が残っている。
「スズメぐらいの大きさのもの」ということで、名前に「スズメ」を冠した生物は多い。スズメガ、スズメバチなどは他の仲間より大きいという形容、逆にスズメノテッポウ、スズメノエンドウ等は小さいという形容である。
鳥ではないが、ガの仲間「スズメガ」の標準和名は「ガ」を省略するため「-スズメ」となる。フクラスズメというガもいるが、これはスズメガ科ではなくヤガ科である。
和文通話表で、「す」を送る際には「スズメのス」という。
雀色という色もある。

 慣用句
雀の涙 日常的に「小さい」「ごくわずか」などの形容として用いられる。
雀百まで踊り忘れず 幼い頃からの習慣は容易に変わらない
雀の巣も構うに溜まる 量が僅かでも積もり積もれば大きくなる
雀の踊り足 筆跡の拙さの形容
雀の千声鶴の一声 権限者の一声



絵葉書のような恋とは思えどもしまい忘れた椅子一つある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄
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    絵葉書のような恋とは思えども
        しまい忘れた椅子一つある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄


この人は昭和37年生まれというから50歳を少し過ぎたところであろうか。
私の娘たちと同年輩である。
今をときめく短歌結社「塔」の若手として期待される人で、評論もよくする理論派でもある。
ご夫君は松村正直という同じ結社の歌人で「塔」の編集長ということだが、略歴を見るとフリーターだったらしい。
私事をつつくようで申し訳ないが、彼は昭和45年生まれというから彼女とは七つも年下である。
この二人には「鮫と猫の部屋」という共同のホームページがある。参照されたい。
なお夫君の松村正直は2013年に「塔」の創立者『高安国世の手紙』(六花書林)という本を出され、あちこちに批評文がでるなど好評を得ている。
これは2009年から2011年にかけて「塔」に連載されたものである。
Wikipedia─「松村正直」に詳しい。

「絵葉書のような恋」というのは「絵空事のような恋」とか「もう絵葉書のように過去になってしまった恋」とかいう意味であろうか。
結句の「しまい忘れた椅子」というところに「未練がある」ということが表現されている。作者の「恋」に対する「未練」という所以である。

掲出歌と同じところに載る作品の残りを引いておく。

     日ざかり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄

   一人子は一人遊びが得意なり剣振りながら物言いやまず

   日ざかりに出でて遊べば子はもはや芯無く揺れる幼児にあらず

   もうわれは子を産まぬのか青年のような男にすがりて悲し

   牡蠣の腸(わた)そのふかみどり舐むる時かく隔たりし君のしのばゆ

この一連の最後に掲出歌が来るのである。

ここで以下にネット上に載る「尾崎」さんという人のBLOGの記事を転載しておく。
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川本千栄歌集『青い猫』(その1)
8月の「塔」全国大会でもお世話になった、川本千栄さんの
第一歌集「青い猫」を読んだ。作者に会った事があるか否かは
一冊の歌集を味読するのに関係あるのだろうか。

まず気になるのが巻頭歌と表題歌。

 竹林はそのまま山につながって登りつめれば天の群青

 青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

だいぶ雰囲気の違う二首だ。言葉は平易で辞書はほとんど必要ない。
これらの間にどんな歌があるのか?心に留まった歌、前半の部。

 タコしゃぶはしゃしゃらしゃらしゃら湯に泳ぎ情事の合間に日常がある

 われを洗い日々縮みゆく石鹸よ魚の形の受け皿の中

 月あかり指の先まで溶かし込みト音記号となり君を抱く

 髪切ってすいすいぎっちょん冬の街身隠すもの無きバッタが行くよ

 三十を超えた男の横顔はみなキリストに似ると思う日

 頭とは脳を入れたる器なり口づけらるるは蓋のあたりか

 押し入れを開け放している部屋のなか内蔵さらしたままに眠るよ

 アメリカに憧れる母「奥様は魔女」のようなる台所持つ

全体に「距離感」を感じた。隔靴掻痒ってほど近くではない位置から
第三者的にながめる視線というのかな。わたしとは違う立ち位置の
歌が多く、読んでいて「言われてみれば」「なるほどなあ」が多かった。

歌集前半は独身時代、教師としての職場詠、家族詠旅行詠をはさんで
夫君松村正直氏との恋愛、新婚時代、そして出産までを描いている。
本書を手にする前に、「塔」誌上での歌集評や100人を集めたという
批評会の報告などを読んでいたが、先入観というか他の人が本書の
ある側面をあげた批評については、一部納得できない部分もあった。

 <その2に続く>
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つづいて同じくネット上から、春畑茜という「短歌人」という結社に所属する人のサイトから引く。

『青い猫』(川本千栄歌集)を読む
『青い猫』は川本千栄さん(塔短歌会)の第一歌集。2005年12月10日砂子屋書房発行。

*
タイトルの青い猫とは何だろうかと思って読んでいくと、歌集の終り近くに青い猫が登場する一首がある。

・青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

青い猫は、まだ乳児であるわが子の玩具(ぬいぐるみかもしれない)らしい。腹這いの子は、その青い猫を振っては喜びの声を上げ、母を見上げているのだろう。母にも自分の喜びを共有して欲しいのかもしれない。そして母である川本さんのまなざしは、そのような子供の欲求をしっかりと捉えているのだ。この歌は実景描写がしっかりとしているので、母と子の情景がくっきりと目に浮かんでくる。

実は川本さんと私は同学年であり、同じ年齢の子供がいる。そういう共通点があるせいか、この歌集にはまるで自分の気持ちを代弁されたかのようなドキリとさせられる歌もある。

・来ないでよ母さんだけが若くない お前に言われる日がきっと来る

時に子供は、それほど悪意があるわけでもないのに、相手にとってひどく酷なことを言ってしまう。教師である川本さんにはそれがよくわかっているのだろう。

歌集はほぼ編年順に作品が配列されているせいか、五年間の歳月の流れが無理なく読めるようになっている。Ⅱではご主人との出会いと結婚・妊娠生活の歳月が描かれ、Ⅲでは出産と育児の日々が歌われている。Ⅱの冒頭にはこのような歌がある。

・夏に会いし君は夏の人あおあおと朝顔のような耳開きいる

「夏の人」と歌われる青年は、青々とした朝顔のような耳を持っているのだという。朝顔のような耳という直喩が面白い。朝顔は、意外に奥行きが深いところがあるのだ。そしてその耳は次のようにも歌われている。

・初めての担任をした生徒よりあなたは若い わがままな耳

また、歌集のところどころに観察眼が鋭く、描写のゆきとどいた歌があり、印象的だった。川本さんの歌にはさまざまな魅力があるが、私は次にあげるような歌たちに特に味わい深さを覚えた。

・西洋の時計のみ置く骨董屋寺町通りのガラスの向こう

・胎児らはいつまで眠る米兵のその子が孫が眺めたあとも

・ペット屋の裏手のドブに捨てられる熱帯魚たち 日本で乾く

・髪を切る女と今日は饒舌なわれとが上下に顔置く鏡

・君のシャツ拾い上げてはたたみゆく今はひとりの妻である指

そして最後に少しさびしく、しかし美しく、一番印象にのこった一首をひく。

・みごもりの日は遠くなり黄金(きん)の雨身に降るような時も過ぎたり


多くの方々にこの『青い猫』を味わっていただけたらと思う。
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余計なお喋りは慎みたいが、そろそろ中年にさしかかってきた作者が、年下の夫君に、まだまだ「恋」を求めているように私は受け取ったが、いかがだろうか。
因みに作者は、夫君らと一緒に「Darts」という評論主体の同人誌を出しておられたが、最近は更新がないようである。
なお、2009年には第二歌集『日ざかり』を出しておられる。私が引いた歌群は、ここに載るものである。





エッセイ 「恭仁京と大伴家持」・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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↑ 山城国分寺(恭仁京)復元模型。築地に囲まれているのが金堂(大極殿)。右が七重塔。 京都府立山城郷土資料館

──エッセイ──再掲載・初出「未来」誌2001年8月号所載ほか

        「恭仁京と大伴家持」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・・・「未来」連載特集・万葉集──この場所、この一首(8)・・・・・・・

        ──今つくる恭仁(くに)の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし──大伴家持(万葉集・巻六・1037)

私は昨年秋から恭仁京の発掘品の収蔵の必要から建設され、後に今の形となった京都府立山城郷土資料館でボランティアをする。
館の前庭脇に空外という地元の書家の筆跡による、漢字ばかりの原文の歌二首を刻んだ石碑が立っている。

     ・娘子(おとめ)らが績麻(うみを)かくといふ鹿背(かせ)の山時しゆければ京師(みやこ)となりぬ
     ・狛山(こまやま)に鳴くほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず
                              田辺福麻呂(たのべのさきまろ) (「万葉集」巻六・1056、1058)

この資料館の建つ場所は京都府相楽郡山城町上狛千両岩を地番としている。
三重奈良県境の名張あたりを源流とする木津川が西流して来て平城京の資材の揚陸地であった木津にさしかかる一里ばかり手前の現在の加茂町に恭仁京は在った。
引用した二首の歌を含めて出てくる地名だが、西流する木津川の南岸に「鹿背山」があり、北岸に相対する位置にある丘が「狛山」ということになる。
現在も木津町鹿背山という地番は実在するが、山城町上狛という地番はあるけれども狛山という名の山はない。
狛の辺りにある山──資料館のある丘がそれだろうと同定されるに至っている。
二首目の歌は狛山を対岸に望んで南岸から詠われていることになるが、川幅が広かったことが偲ばれる。
鹿背山は相楽郡木津町の東北部にあり海抜204メートルの低い丘。恭仁京の条里で言えば加茂町側の左京と、木津町側の右京とを隔てる自然物の景観でもあった。
因みに『和名抄』によれば山背(やましろ)の国とは乙訓(おとくに)・葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)・紀伊(き)・宇治・久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(さがらか)の諸郡を含み、今日の京都市南部以南の土地を指すことになる。恭仁京は、そのうちの相楽郡にある。
なお「山城」と書くようになるのは延暦13年(七九四年)の11月以後のことである。引用した歌に戻ろう。
この田辺福麻呂の歌は巻六の巻末にまとめて二十一首が載っているものである。
福麻呂は橘諸兄(たちばなもろえ)に近い人で天平20年には諸兄の使者として越中に下り当時越中国守であった家持を訪ねることになる。
天平12年(七四0年)に九州で起された藤原広嗣の謀反は、聖武天皇をはじめ朝廷首脳部に衝撃を与えた大事件であった。
年表風に記すと─こんな風になる。
天平12年9月、藤原広嗣謀反。10月23日、広嗣逮捕。同29日、天皇関東に行くと告げて離京。大伴家持も供奉同行(巻六・1029の歌作る)。12月15日、恭仁京到着。
翌13年閏3月、五位以上の官人の平城京居住を禁ずる。11月、天皇宮号を「大養徳恭仁大宮(おおやまとくにのおおみや)」と定める。
14年8月、天皇紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸し、その後も行幸頻り。15年5月、橘諸兄従一位左大臣となる。
8月16日、家持、恭仁京讃歌(掲出歌)を作る。
12月、恭仁京造営を中止。天平16年閏正月11日、難波宮に行幸。同13日、直系皇子の安積親王急逝。
2月、百官と庶民に首都の選択を計る。恭仁京から駅鈴や天皇印、高御座などを取り寄せる。翌17年5月、官人に首都の選択を計った結果、平城に決定。
市人平城に大移動、天皇平城に帰京。
ざっと、こんな様子であった。
このように短年月(五年)の間に都の所在がめまぐるしく変わるという背景には、天皇を取り巻く権力中枢部での激しい争いがあるのだが、もともと恭仁京のある山背の国は葛城(かつらぎ)王=橘諸兄(聖武天皇妃の光明皇后の異父・兄妹であり、かつ、光明皇后の妹・多比能を妻とする)の班田の土地であり、遷都については諸兄の意向が強く働いたものと言われている。
掲出歌が8月16日に詠まれているが、その12月には、もはや造営が中止されるというあわただしさである。
北山茂夫は『続日本紀』の記述を引いて「七四五年(天平17年)の危機」という把握をした上で、その年の四月以降雨が降らず、各地で地震が起こり、特に美濃では三日三晩揺れて被害甚大となり、天災は悪政によるという風説や放火が広がり、そういう状況を巧みに利用した民部卿藤原仲麻呂一派による、諸兄らの皇親派追い落としの策略を活写する。
年は明けて天平18年、家持はほぼ一年半の歌の記録の空白の後にふたたび筆を執った。そこには彼の喜悦が溢れる。
巻十七の太上天皇(元正)の御在所での掃雪(ゆきはぎ)に供(つか)へ奉(まつ)りき、という(3926)の歌、

  大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

この席には橘諸兄、藤原仲麻呂の名も見える王臣あげての盛大な宴である。雪は豊作の吉兆として喜ばれていた。その白雪に託して寿歌を上皇に奏上したのである。
その年の3月に仲麻呂は式部卿になり、家持は内舎人から宮内少輔の地位についた。
紙数にゆとりがないので橘諸兄については省略せざるを得ないが、私は第二歌集『嘉木』の中で「玉つ岡」の一連21首の歌に、その一端を詠んでおいた。
大伴家持は、その後も何度も権力騒動に巻き込まれ、中でも征東将軍として多賀城で死んだ後になっても藤原種継暗殺に荷担したとの冤罪で一切の私有財産を没収され古代の名門武門大伴一族が没落することになるのは後のことである。

私は北山茂夫の歴史家としての記述に多くの示唆を得て来た。
新潮社が本につけた帯文は「日を追い、月を追い、熾烈に燃える藤原仲麻呂の野望。名門大伴の家名を双肩に負い、大歌集編纂の大志を胸に抱き、怒濤の時代を辛くもしのぐ家持の苦衷」。
北山氏はこの『萬葉集とその世紀』の脱稿、推敲を果たした直後に昭和59年1月30日に急逝された。
私事だが、妻が大学生で京都市左京区浄土寺真如町に下宿していた家の庭を隔てた向い家に北山先生がお住いで執筆に疲れたのか、よく二階から外を眺めておられた、という。昭和20年代の奇しき因縁である。

・参考文献
1)佐竹昭広・木下正俊・小島憲之共著『萬葉集本文篇』(塙書房平成10年刊)
2)校訂及び執筆者1)に同じ『日本の古典・萬葉集(二)』(小学館昭和59年刊)
3)北山茂夫『萬葉集とその世紀』上中下(新潮社昭和59・60年)
4)『京都府地名大辞典』上下(角川書店昭和57年)

・歌番号は1)による(国歌大観による、と注記あり)

この記事は発表当時のままだから、当該地域は行政的には、現在は「木津川市」となっているので念のため。

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──エッセイ──「未来」誌2001年11月号所載

     補訂・山本空外先生のこと・・・・・・・・・・・木村草弥

本誌八月号に掲載された「万葉集─この場所、この一首(8)」の私の文章「恭仁京と大伴家持」を書いたのは三月のことだ。
その中で万葉歌碑について「地元の書家・空外」の筆跡と言ったが、その後に知るところによると、この人・山本空外(本名・幹夫)先生は哲学者、浄土宗僧侶、書家として有名であることが判った。
先生は、1902年生れ。東京大学文学部哲学科卒。1929年広島文理科大学助教授で欧米に留学。二年半のヨーロッパ留学中にフッサール、ハイデッガー、ヤスパース等西洋哲学権威と親交。1935年弱冠三十二歳にして東京大学で『哲学大系構成の二途──プロティノス解釈試論』により文学博士号を受ける。
1936年から広島文理科大学教授を勤めるが原爆に遭い、その秋出家、僧籍に入り1953年京都府山城町法蓮寺住職となる。
その間1966年定年まで広島大学教授。島根県加茂町隆法寺住職も兼任し同地に財団法人空外記念館を1989年に開設。この8月7日九九歳で遷化された。
私が「地元の書家」と書いたのは自坊の法蓮寺で亡くなられたことからも間違いではないが、上記のように補訂しておく。

空外先生は日本よりも外国で有名な人のようであり日本では世俗的な名誉は望まれなかった。記念館には国内外の国宝級の書画を所蔵するという。
ここで先生の弟子である巨榧山人こと品川高文師の本『空外先生外伝』から面白いエピソードを一つ。

東京サミットの際の話。
時の中曽根首相はレーガン大統領からの土産品の要望に「空外の作品を所望」とあったのに、誰に聞いても知る人がないので困惑していた。
空外記念館のある関係から蔵相の竹下登が知っていることが偶然わかり、何とかツテを頼って空外先生の「歓喜光」の三字の書を揮毫してもらい面目を保ったという。
品川師の本にはオッペンハイマーや湯川秀樹、小林秀雄、魯山人、柳宗悦などが畏敬して教えを受けたというエピソードが面白く物語られているが、それは、また後日。

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      山城郷土資料館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                    ・・・・・・・・(角川書店「短歌」平成13年5月号所載)・・・・・・・


            ──今つくる恭仁の都は山川の清けき見ればうべ知らすらし──大伴家持

     朝霧にしとど濡れつつ佇めば木津川の波は悲傷を流す

     霧の空に太陽しろくうかびたり幻の騎馬に家持出(い)でばや
                   
     山川の清(さや)けきところ恭仁(くに)の宮は三とせ経ずしてうち棄てられき
              
     年々に花は咲けども恭仁京の大宮人は立ち去りにけり

     恭仁京の発掘品の収蔵を急(せ)かされて竣(な)る山城資料館
        
      銭司(ぜづ)といふ字(あざ)名を今に伝ふるは「和同開珎」鋳造せしところ
                  
     ボランティアのわれは郷土資料館に来たりし百人余りを案内(あない)す
                      
     「古い暮らしの民具展」企画は小学校学習課程に合はせたり

     小学校三年生が昔を学ぶと「くらしの道具」展示に群がる

     三年生はやんちゃ盛り騒(ざわ)めきて引率の教師大声を挙ぐ
               
     学研都市精北小学校の学童はバス三台にて百二十人

     笠置町教育委員会のバス着きて降り立つ子らは十二人のみ

     「へっつい」とは懐かしき竈(かまど)かつて家々の厨にありしものを展示す
                         
     竈神祀(まつ)る慣ひも廃(すた)れたり大き写真のパネルを掲ぐ
          


冬海へ落ちもせざりし千枚田・・・・・・・・・・・・・・・津久井進子
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 ↑ 冬の白米千枚田

     冬海へ落ちもせざりし千枚田・・・・・・・・・・・・・・・津久井進子

掲出した句に合わせて「千枚田」の写真を載せる。これは石川県能登の輪島市にある「白米千枚田」のものである。

ここで「白米千枚田」の紹介をしておきたい。ここは輪島市内から東へ車で15分のところ。
104枚の田があるそうである。海原へ向かう斜面に、これだけの田が広がると圧巻である。

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 ↑ 田植え前の水張田の白米千枚田

imgf97469aazik5zj稔りの白米千枚田
 ↑ 稔りの白米千枚田

千枚田、棚田というのは全国各地にあり、なかでも三重県紀和町の「丸山千枚田」は丸山地区の斜面に2200枚余の田を数える日本でも最大規模の棚田だが、
残念ながら、ここは山に囲まれた山地で海に面していないから、掲出した句には合わないので見送った。

棚田は、土地の有効利用として、斜面に石垣を築いて狭い面積の田を層状に積み上げた、ものすごい手間の要るものである。
米余りの時代になって、かつ農耕の担い手がなくなり、棚田は荒廃する一方であり、今ではボランティアを募って棚田のオーナーになってもらい、
その資金で地元の農家が維持管理するという苦肉の策で運営されているというのが実情である。
棚田協議会のようなものが組織されて、全国的な連携を図ってやられている。

今日は、たまたま千枚田を詠んだ句を引いたので、千枚田のことを先に書いたが、本来は「冬の海」「冬の波」あるいは「寒潮」のことを書くのが主旨であるので、
以下、冬の海のことと、それを詠んだ句を引きたい。
「冬の海」と言えば、暗く、荒涼として、時化ていることが多い。これは主として北国の海のことで、南国の海は冬でも明るく、凪いでいることも多い。
しかし、冬の海と言えば、語感からして、やはり北国の海を連想することが多いだろう。

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↑ 写真は瀬戸内の牛窓の冬の海である。OCEAN2氏の撮られたものである。
借用した御礼を申し上げておきたい。
暗いが凪いだ瀬戸内の冬景色が、よく表れている。
以下、冬の海、冬の波、寒潮を詠んだ句を引いて終る。

 灯台のまたたき長し冬の海・・・・・・・・富安風生

 冬浜に老婆ちぢまりゆきて消ゆ・・・・・・・・西東三鬼

 鷺とんで白を彩とす冬の海・・・・・・・・山口誓子

 冬浜に人現れて消えにけり・・・・・・・・池内たけし

 一望の冬海金粉打ちたしや・・・・・・・・中村草田男

 喪の家に冬海月をあげにけり・・・・・・・・大野林火

 ひとり帰すうしろに夜の冬の海・・・・・・・・篠田悌二郎

 冬の海てらりとあそぶ死も逃げて・・・・・・・・飯田龍太

 一瞬の紅刷き冬の海昏るる・・・・・・・・逸見嘉子

 立ちあがる浪の後の冬の海・・・・・・・・平野吉美

冬波の百千万の皆起伏・・・・・・・・高野素十

 玄海の冬浪を大と見て寝ねき・・・・・・・・山口誓子

 冬の涛あらがふものを怒り搏つ・・・・・・・・富安風生

 冬波をおそれに来しか見に来しか・・・・・・・・谷野予志

 天垂れて冬浪これをもてあそぶ・・・・・・・・木下夕爾

 胸先に冬涛ひかり暮れゆけり・・・・・・・・角川源義

 立ち上りくる冬涛を闇に見し・・・・・・・・清崎敏郎

 冬浪のひかり鴎となりてたつ・・・・・・・・桑原志朗

 寒潮の涛の水玉まろびけり・・・・・・・・飯田蛇笏

 寒潮に少女の赤き櫛が沈む・・・・・・・・秋元不死男

 流人墓地寒潮の日のたかかりき・・・・・・・・石原八束

 冬潮といへどもぬくし岬の果て・・・・・・・・鈴木真砂女

 ただ寒潮灯台チヨークほどに立つ・・・・・・・・保坂春苺


佐伯泰英『二都騒乱』新・古着屋総兵衛第七巻・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     佐伯泰英『二都騒乱』新・古着屋総兵衛第七巻・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・新潮文庫2013/12/01刊・・・・・・・

    京は錦市場で謎の法師集団に拐かされた女二人、救出不能。奇計炸裂。

   京の錦市場で忽然と姿を消した桜子としげの消息は依然として知れないままであった。
   総兵衛は御堂に籠りひたすら思念を送り続ける。
   じりじりとした時間が過ぎていく中、総兵衛の奇計に薩摩の密偵が二人引っ掛かったのだが……。
   一方、江戸では、大黒屋へとつながる秘密の地下道を探り当てた元同心池辺三五郎が不穏な動きを見せ始めた。
   京と江戸、切迫する二つの危難、会心の第七巻。

「二都」とは、京と江戸ということである。
桜子としげをさらった策略は、一統の見事な連携で無事解決する。
江戸の元同心も留守居の光蔵らの手配でひそかに始末される。
事件が解決して、鳶沢家から禁裏に三百両の金子が献納されることになった。
蹴鞠の会に総兵衛が招かれ、見事な身のこなしで鞠を蹴った。
今上天皇─光格帝から言葉を賜るというようなエピソードもある。
その折りに総兵衛出自の安南のランタン祭の描写などもあり、先日行ったベトナムのホイアンでの、豪雨のために見果たせなかった行事のことなどを想起した。
そして、このシリーズの伏線として存在する「影さま」が、ただいまは「女人」の九条文女であること、など。
今後のシリーズ展開に関係する事どもが描写され、いよいよ面白くなってきた。 以下、次巻。

さわりの部分だけだが「立ち読み」も出来る。 お試しあれ。


ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇にそそのかさるる恋よあれかし・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇に
       そそのかさるる恋よあれかし・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌の前後に

  冬薔薇を剪(き)るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす

  言へばわが心さびしもしろたへに薔薇咲き初めて冬に入りたり


などの歌が載っているが、いずれも、四季咲きの薔薇のうち、初冬に咲く薔薇の命の貴重さを詠っている。

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近代バラの代表格である大輪四季咲きは、暖地では12月まで咲きつづく。
この冬バラは比較的寒さには強く、霜いたみすることもないが、剪ればもう咲いてくれない、という儚さがある。
露にしっとりと濡れた冬バラを切るときは、この地上の最も貴いものを奪うという思いのためらいがあるのである。
これらの歌は、そういう気分を表現している。
もちろん、この露地栽培のものに拘らず、温室栽培のものは季節を問わず出荷されていて、それも冬バラには相違はないが、冬薔薇(そうび)の持つ風情には及ばない。

バラと言えば思い出すのは、オランダの花の取り扱い会社「東インド会社」だが、数年前にオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの、いわゆるベネルックス三ケ国を歴遊した際に、この会社からオランダ直送の「カサブランカ」という百合を家に留守する妻と、妻と私との共通の女の友に送ってもらった。黙っていたので、妻も友人も驚いていたが、いい花で喜んでもらった。
その後、何回かバラを直送してもらってプレゼントしたことがあった。
妻亡き今となっては、いい思い出になってしまった。

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以下、冬薔薇を詠んだ句を引いて終る。薔薇は「そうび」と音読することもあるので一言。

 尼僧は剪る冬のさうびをただ一輪・・・・・・・・山口青邨

 冬ばらの蕾の日数重ねをり・・・・・・・・星野立子

 ケロイド無く聖母美し冬薔薇・・・・・・・・阿波野青畝

 しろたへに鵜匠の門の冬薔薇・・・・・・・・石原八束

 冬薔薇日の金色を分ちくるる・・・・・・・・細見綾子

 冬薔薇やわが掌が握るわが生涯・・・・・・・・野沢節子

 冬薔薇の花弁の渇き神学校・・・・・・・・上田五千石

 山国のわづかにひらく霜の薔薇・・・・・・・・福田甲子雄

 四季咲きの薔薇の小さき冬の色・・・・・・・・今井千鶴子

 冬薔薇咲きためらひて十日ほど・・・・・・・・木村有恒

 冬薔薇一輪にしてまくれなゐ・・・・・・・・吉田悠紀

 火の色に冬薔薇凍てし爆心地・・・・・・・・山田春生






初炬燵開く亡き妻在るごとく・・・・・・・・・・・・・・・沢木欣一
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   初炬燵開く亡き妻在るごとく・・・・・・・・・・・・・・・沢木欣一

もう、この時季になれば、どこの家でも「炬燵」(こたつ)を出しただろう。
もっとも、この頃では全くの洋風暮らしをしている家もあるので、一概には言えない。
炬燵には「置き炬燵」と「掘り炬燵」の二種類があるが、床板をくりぬいた「掘り炬燵」の方が、絶対に足が楽だ。
この頃では和風料理屋などでも年中、掘り炬燵式のものにテーブルを置いてあるのが増えてきた。
正座をしたり、アグラをかくのに苦手な外人などにも好評である。
わが家でも10数年前に家を建て替えた時に、座敷に「掘り炬燵」を設置した。
夏も天板を、そのまま座卓にして、足は下に垂らせるようにした。天板も和風に合うように、落ち着いた、少し立派なものにした。
冬には下半身を暖めると全身が、ほっこりする。
「書斎」にも、三面が天井までとどく万冊に及ぶ本に囲まれているが、冬になると真ん中に「置き炬燵」を据えて、そこからテレビを見たりする。
書斎は椅子式の部屋だが、出入りの大工さんに頼んで椅子から足を伸ばせる台を特注で作ってもらい、
その板の上に「置き炬燵」を乗せるので、一人かけのソファーから足が伸ばせるのである。

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写真②は昔の浮世絵の炬燵の図である。鈴木春信画とか書いてあるが真偽のほどは判らない。
うら若い娘が仲良く炬燵を囲んで、「あやとり」をしながら語らっているという構図である。

江戸の日常暦によると、神無月の行事として、上亥、中亥、下亥とある亥の日のうち、武家では上亥の日に、商家では二の亥(中亥)の日に「炬燵開き」をした、という。
コタツには蜜柑が、よく似合う。これは何と言っても季節の風物詩である。

掲出の沢木欣一の句は、妻を亡くした感慨が盛られた句なので、私の今の心情に近いものとしていただいた。

    腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

というのがあるが、これは炬燵で温まった細君が腰抜けのようなしどけない状態になってしまった、という光景であろうか。以下、コタツを詠んだ句を引いて終りにしたい。

 淀舟やこたつの下の水の音・・・・・・・・炭太祇

 思ふ人の側に割り込む炬燵かな・・・・・・・・小林一茶

 句を玉と暖めてをる炬燵か・・・・・・・・高浜虚子

 炬燵の間母中心に父もあり・・・・・・・・星野立子

 横顔を炬燵にのせて日本の母・・・・・・・・中村草田男

 淋しくもなにもなけれど昼炬燵・・・・・・・・永井龍男

 編み飽いて炬燵の猫をつつき出す・・・・・・・・原田種茅

 炬燵出づればすつくと老爺峰に向ふ・・・・・・・・加藤知世子

 切炬燵夜も八方に雪嶺立つ・・・・・・・・森澄雄

 炬燵嫌ひながら夫倚る時は倚る・・・・・・・・及川貞

 熱き炬燵抱かれしころの祖母の匂ひ・・・・・・・・野沢節子

 どつぷりとつかりてこその炬燵かな・・・・・・・・中嶋秀子

 炬燵して向ひに誰も居らぬ母・・・・・・・・千葉浩史

 調法に散らかしてある炬燵の間・・・・・・・・小畑けい

 活断層の真上に住みて炬燵かな・・・・・・・・安達光宏



村島典子の歌『マザーレイク』32首・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
晶

──村島典子の歌──(17)

       村島典子の歌『マザーレイク』32首・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・「晶」84号2013/12所載・・・・・・

        マザーレイク     村島典子

                        *七月十二日卨橋たか子死去
  わたくしの夢想そだてしかの人は神に召されたり炎暑の夜明け
  誰よりも厳しき視線神まさばかの人のごとしとある日は思ひき
  青ぶだう紫ぶだう水晶のごときしづけさ死者のいきざし
  ふるさとの墓原の辺のぶだう棚に眸をあけよ懐かしき人
  樟も篠懸けの木も百合樹もただあをあをと真夏の大地
  白桃を食めばおもほゆあしひきの山の泉に守りしやまびと
  この夏の庭の食客緑金の胴かがやかすオハグ口トンボ
  とんぼとんぼ少女のうしろ歩くときわたしは厶カシトンボなりにき
  わが少女糸をあやつり老犬の毛を小さなるクッションにせり
  ヒロシマハ行キタクナイと少年の言へりォキナハのわたしのうまご
  戦争ノ話ハシナイデと二度言ひき集団自決の島ゆ来りて
  火焰茸触るれば火傷するといふ注意書くぬぎに捲かれてありぬ
  ああ夏は炎を噴くか蝉さへも沈黙したり息を詰めをり
  公園の奧ふかくきて仰ぎをり檪の半身枯れてありけり
  キクヒムシの退治なさむと吊るされしぺットボトルの透明の首
  媚薬もとめ下りゆきたるキクヒムシ根方の壜の酒に溺るるか
  猛烈な雨の来りてにんげんのつつましき暮し打ちに打ちたり
  暴風雨そは友にあらず家を揺り庭木々を揺り山さへも揺る
  ふるさとの墓原の川あふれけり一門の墓水漬きたりけり
  秋彼岸の交野のやまの裾の川あふれあふれてみ墓をあらふ
  此岸にも曼珠沙華咲き川の辺にしばし佇むわれはひとりに

      *台風十八号がすぎし翌钥、瀬田唐橋を訪ぬ。春、唐茶色に新装されしを。
  瀬田川は汚れよごれて流れたり右岸左岸の道をあふれて
  唐茶色といふを悉に見むとして勢多の唐橋にけふは来れり
  唐茶色は黄土いろなり濁流のあふるる今朝の川のいろなり
  まんまんと水を湛へて苦しめる琵琶湖なりけり放流をせず
  動脈となりて下れる増水の瀬田川、洗堰にて留められたり
  放水を止められし湖よ宇治川の氾濫ふせぐと支流をあふる
  大きなる胎と思へりささなみの志賀のみづうみ破水せりけり
  まんまんの水漲りし胎なれば見よみづうみの苦しめるさま
  マザーレイク空を映せり近江のうみ昏き器と歌はれし日の
  「全歌集」より気の立ちのぼりたちまちに野分のあとの湖のゆふぐれ
                           * 『前登志夫前歌集』
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村島典子さんから季刊誌「晶」が届いたので、ご紹介する。
いつもながらの村島さんの見事な詠いぶりである。
沖縄に住む孫さんの言動。
琵琶湖のほとりのお住まいのめぐりの草木虫魚の佇まい。
集中豪雨をもたらし、京都・滋賀の両県に多大の被害を与えた台風十八号のこと。
などを「マザー・レイク」と題して32首の作品として昇華された。
その力量に瞠目したい。 ご恵贈に感謝する。
原文はスキャナで取り込んだので、いくつかの「文字化け」が生じる。子細に修正したが、まだあれば指摘してください。すぐに直します。 よろしく。

今どきの若者の短歌・「短歌年鑑26年版」を読んで・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
短歌

──エッセイ──

      今どきの若者の短歌・「短歌年鑑26年版」を読んで・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

年末になって、一年を回顧するような企画が雑誌に載っている。
たとえば、掲出した角川書店「短歌」別冊の「短歌年鑑26年版」などである。
画像でも読み取れると思うが、今どきの若い歌人を囲む企画などである。
たとえば「永井祐」という人などが居る。永井祐は一九八一年生まれ。早稲田大学短歌会に参加した後、現在は無所属で歌を作り続けている。
他にも京都大学の理系で歌人賞を得たりする、すごく才能のある人が居たりするが、「アンケート」なども、そういう人たちを取材している。
これらの企画に共通することは、現代の歌壇の状況を反映しているのである。
歌壇は一般的に作者が「老齢化」してきており、一方で才能ある若い新人は、既成の枠にはまらない作歌法を採っているからである。
先に挙げた永井祐の作品を少し見てみよう。 こんな風である。 

  日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる
  テレビみながらメールするメールするぼくをつつんでいる品川区
  パーマでもかけないとやってらんないよみたいのもありますよ 1円
  あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる
   ゆるくスウィングしながら犬がこっちくる かみつかないでほしいと思う
   
  会わなくても元気だったらいいけどな 水たまり雨粒でいそがしい
  ゴミ袋から肉がはみ出ているけれどぼくの望みは駅に着くこと
  新日曜美術館 美の巨人たち とりためたビデオを貸してくれる
  月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね
   ふつうよりおいしかったしおしゃべりも上手くいったしコンクリを撮る
  アスファルトの感じがよくて撮っている もう一度  つま先を入れてみる
  ぼくの人生はおもしろい 18時半から1時間のお花見 

          永井祐『日本の中でたのしく暮らす』より抄出

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ネット上では時評「永井祐ロングインタビュー」田中拓也というPDF形式による記事なども見られるので参照されたい。

永井祐の歌は、題名からも分かるように、一見「無感動」のような日常の些末なことを歌にしている。
このような「歌作り」が若い歌人の一方に現に存在するということである。
何のために歌を作るのか、といったこととは無関係である。
これらを見ると、彼は一応サラリーマンだが、「契約社員」であり、私などから見ると、好きなことをやって生きている若者だが、短歌をやる必然性とかとは無縁であり、
今後いつまでも「短歌」の世界で表現を続けて行くのか、甚だギモンに思える。
先に挙げた「インタビュー」を読めば、彼の生き方も自ずと知れるので、私の意見は、敢えて、書かない。
一方、京大短歌会なんかに拠る秀才の歌人たちも、極めて優れた歌を作るが、これからも「歌を作り続けるか」はギモンである。
後者の人たちは「学者」としても十分に食って行ける才能を持っているので、「歌人」として自立してゆく道を選択するかが見ものである。
もちろん現役でバリバリやっている永田和宏や坂井修一のような学者兼歌人という人も居るが、私から見ると、この二人なども「学者」としては影が薄い。
つまり最先端の学者というわけではない。
肩書きは元・京都大学教授であったり、現・東京大学教授だったりするが、その筋の最先端の教授という枠からは外れる、と思うからである。
「二兎を追う者」は何とやら諺は、やはり生きている。
近代短歌史上の大人である斎藤茂吉なんかも歌人としては偉大だったが、医学者としては二流、三流だったというのと同じである。


垢じみたこころ洗ひたし 冴えわたる極月の夜に月の利鎌だ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    垢じみたこころ洗ひたし 冴えわたる
       極月の夜に月の利鎌(とがま)だ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
ご存知のように「月」にはほぼ29日周期で満ち欠けがあるが、写真のような「利鎌」の形をするのは月齢の中で2回ある。
新月から満ちはじめ上弦の月から満月に至る途中の利鎌と、写真のような下弦の月から欠けが更に進んだ利鎌、である。この二つの場合には「弧」の向きが逆になる。
詳しくは「下弦の月」というのをご覧いただきたい。

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写真②は上弦の月である。↑

予めお断りしておく。はじめに掲出したのは今日の月齢の月ではない。私の歌に合わせた月齢の画像を掲げたものである。
写真①のような月は「有明月」というが、これは月齢でいうと26日頃の月である。
「有明の空」というのは夜明けの空のことで、そこに昇る月が有明月ということである。
今年でいうと12月28日頃が、ほぼこんな形の月になるだろう。
これは本来は十六夜(いざよい)以降の月の総称だが、この時期に限定すれば「暁月」と呼ぶ方が正確であろう。
古くは「二十六夜講」などの風習があった。
「新月」からはじまって月には月齢のそれぞれの時点で呼び名がある。これも詳しくは先に紹介したサイトでご覧いただきたい。
「三十日月」というのは、もうすぐ「新月」になって消えてしまうという頃の月の姿である。

私が懇意にお付き合いしていただいた 高島征夫さんのサイトには毎日の「暦」─その日の日の出、月の出などのデータが載っていたが、
京都府の場合、今日の月の出は13:34、南中時は20:02、月の入りは1:48。月齢は8.6 あたりではないかと思う。
つまり、月は昼間の午後早くに出て、夜中すぎには西に没しているのである。
高島さん亡き今となっては、聞くことは出来ないが、詳しくは、ネット上の国立天文台の「こよみの計算」にアクセスすれば簡単に知ることができる。

「利鎌」の説明をしていて、つい月の話になったが、本来、話題にすべきは「垢じみた心」を洗いたい、ということであろうか。
私のように長い年月を生きて来ると、体も心も、すっかり「垢」じみたものになってしまっている。
「冴えわたる」極月(12月の異称)の夜の月の「利鎌」を見ていると、それで自分の心の垢を削ぎ落したい、という想いに捕われるというのである。
これらは「比喩」表現であるから、言葉のあれこれの詮索は無用である。

俳句には「寒月」「冬の月」「月冴ゆる」「月氷る」「寒三日月」などの季語が見られる。
さむざむとした青白い月で、毎月見られる月ではあるが、この時期に見ると、厳冬を思わせる月の凄まじさがある。透徹した空気のため、研ぎ澄まされたような、刺すような寒さが感じられて、美しい。「寒月」と言えば、特に冷厳な凍りついたような月を言い、氷輪というようで、人を離れて寂として輝いている。「冬三日月」は仰向きはじめた形で、ひえびえと利鎌のように鋭くかかる。
『枕草子』には「すさまじきもの、おうなのけさう、しはすの月」と書かれている。
『源氏物語』朝顔の巻では「花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折りなれ。すさまじきためしに言ひ置きけむ人の、心浅さよ」とある。

 寒月や僧に行き合ふ橋の上・・・・・・・・与謝蕪村

の句は、そういう雰囲気を、よく表現し尽している。

以下、冬の月を詠んだ句を引いて終る。

 我影の崖に落ちけり冬の月・・・・・・・・柳原極堂

 冬の月をみなの髪の匂ひかな・・・・・・・・野村喜舟

 吹雪やみ木の葉の如き月あがる・・・・・・・・前田普羅

 冬三日月羽毛の如く粧ひ出づ・・・・・・・・原ヨウ子

 寝ぬる子が青しといひし冬の月・・・・・・・・中村汀女

 あたたかき冬月幸を賜はるや・・・・・・・・石田波郷

 寒月に大いに怒る轍あり・・・・・・・・秋元不死男

 人穴を掘れば寒月穴の上・・・・・・・・富沢赤黄男

 寒月や耳光らせて僧の群・・・・・・・・中川宋淵

 降りし汽車また寒月に発ちゆけり・・・・・・・・百合山羽公

 煙突と冬三日月と相寄りし・・・・・・・・岸風三楼

 寒の月酒にもまろみありとせり・・・・・・・・相生垣瓜人

 寒三日月不敵な翳を抱きすすむ・・・・・・・・野沢節子

 寒月光いつか一人となるこの家・・・・・・・・古賀まり子

 寒月の作れる陰につまづける・・・・・・・・高木貞子

 寒月にまぶたを青く鶏ねむる・・・・・・・・田中祐三郎


山茶花のくれなゐひとに訪はれずに・・・・・・・・・・・橋本多佳子
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    山茶花のくれなゐひとに訪はれずに・・・・・・・・・・・橋本多佳子

山茶花さざんかはツバキ科の常緑の小高木で、葉に光沢があり、初冬に椿に似た、一回り小型の五弁の花を開く。
この花の咲く期間は長くて11月から咲きはじめて、次々に咲きつぎ、12月中旬の今もなお咲いている。
この木にも早咲き、仲咲き、遅咲きなどの種類がある。
木の下にはハラハラと落ちた花びらが一杯散り敷いている。
色には白、淡紅のほか、しぼりなどさまざまな品種改良されたものがある。
原産地は日本だが、園芸品種として改良され、庭に植えたり、盆栽にしたりする。正しくは「茶梅」というらしい。
山茶花を音読みするとサンザカとなるが、言いにくいので語順が入れ替わって「サザンカ」となったものである。
サザンカについては先にも書いたが、掲出の橋本多佳子の句が引きたくて、出してみた。

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写真②は昔、肥後熊本城主・細川家で改良された「肥後山茶花」である。
「肥後六花」のうちの一つ。

掲出した橋本多佳子の句は、「サザンカが紅ふかく咲いたが、訪う人もなく淋しい」という意味の、老いの寂寥感のただよう作品である。
若くして夫に先立たれ、晩年は奈良で暮らした多佳子の佳品である。
図版③に多佳子の写真を出しておく。

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以下、山茶花を詠んだ句を引いて終る。

 山茶花のここを書斎と定めたり・・・・・・・・正岡子規

 霜を掃き山茶花を掃くばかりかな・・・・・・・・高浜虚子

 無始無終山茶花ただに開落す・・・・・・・・寒川鼠骨

 山茶花のみだれやうすき天の川・・・・・・・・渡辺水巴

さざんくわにあかつき闇のありにけり・・・・・・・・久保田万太郎

 山茶花の散りゆきすでに月夜なる・・・・・・・・水原秋桜子

 山茶花の長き盛りのはじまりぬ・・・・・・・・富安風生

 山茶花の貝の如くに散りにけり・・・・・・・・山口青邨

 山茶花の散るにまかせて晴れ渡り・・・・・・・・永井龍男

 花まれに白山茶花の月夜かな・・・・・・・・原石鼎

 山茶花やいくさに敗れたる国の・・・・・・・・日野草城

 山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ・・・・・・・・加藤楸邨

 山茶花の日和に翳のあるごとく・・・・・・・・西島麦南

 山茶花の咲きためらへる朝かな・・・・・・・・渡辺桂子

 山茶花の散り重なり土濡れぬ・・・・・・・・原田種茅

 山茶花の咲く淋しさと気付きたる・・・・・・・・栗原米作

 山茶花にたまさかさせる日なりけり・・・・・・・・望月健

 白山茶花地獄絵のごと蜂群るる・・・・・・・・高木雨路


ひひらぎの秘かにこぼす白花は鋭き鋸歯の蔭なるゆふべ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    ひひらぎの秘かにこぼす白花は
      鋭き鋸歯(きょし)の蔭なるゆふべ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

柊(ひいらぎ)は、悪魔を祓うとかいう言い伝えで、家の玄関脇に植えられていたりする地味な木だが、鋭いノコギリ状の葉を持っている。
この木は初冬に、その鋸歯の葉の蔭に小さな白花をつける。季節が寒い冬であり、しかも皆いそがしい12月だから、この花に気づく人も少ないだろう。
今この花の花盛りで11月下旬から咲きはじめた。、傍を通ると、すずやかな佳い香りがする。人によってはスズランに似た香りだという。花言葉は「用心」「歓迎」

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結構かわいらしい清楚な花である。図鑑を見るとモクセイ科の常緑小高木と書いてある。
柊という名前の由来は疼(ひいらぐ)で「痛む」という意味である。
疒(やまいだれ)に旁(つくり)に冬と書く。
熟語に「疼痛」(とうつう)があるのをご存じだろう。
葉の棘に触れると疼痛を起こすことから言う。「いら」とは「苛」で棘を意味する。
本来、この木は関西以西の山地に自生する暖地性の木らしい。
この頃に咲く花としては「枇杷」の花などもある。さざんか、茶の花などは、よく知られているものである。この頃に咲く花は初夏の頃に実をつける習性がある。
年が代って節分になると、この木の小枝に鰯の頭を刺して魔除けの縁起かつぎをする木として、一般に知られているが、この頃では家が小さくなって、この木が植えられる家が見られなくなって、この風習も廃れる一方であろう。
以下、この花を詠んだ句を引いて終る。

 柊の花一本の香かな・・・・・・・・・・・・・高野素十

 柊の花と思へど夕まぐれ・・・・・・・・・・・・・富安風生

 柊の花多ければ喜びぬ・・・・・・・・・・・・・中村草田男

 柊の花のともしき深みどり・・・・・・・・・・・・・松本たかし

 粥すくふ匙の眩しく柊咲く・・・・・・・・・・・・・長谷川かな女

 花柊母の伝言短くて・・・・・・・・・・・・・小西敬次郎

 柊の香がする夜昼田がねむり・・・・・・・・・・・・・森澄雄

 柊の花を見し日や眼帯す・・・・・・・・・・・・・細見綾子

 父とありし日の短さよ花柊・・・・・・・・・・・・・野沢節子

 柊の花音もなく海は夜に・・・・・・・・・・・・・村田脩

 花柊袖通すものひやひやと・・・・・・・・・・・・・永方裕子

 弥陀の扉を花柊の香へひらく・・・・・・・・・・・・・吉野義子

 花柊一つぶ髪に真野間来て・・・・・・・・・・・・・中村明子


ジョン・バンヴィル『いにしえの光』・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      ジョン・バンヴィル/村松潔訳『いにしえの光』・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・新潮社クレストブック2013/11/29刊・・・・・・・

   撮影現場から姿を消した人気女優と、あとを追うベテラン俳優。よみがえる禁断の恋の記憶――。

     最愛の娘を失った老俳優と、今をときめく人気女優の、奇妙な逃避行。
     その途上で彼の脳裏によみがえるのは、友人の母親との禁断の恋の記憶だった。
     二人きりで過ごした短い時間があんなにも光に満ちていたのは、なぜだったのか? 
     数十年の後、その手がかりが不意に明らかになる――。
     ブッカー賞、カフカ賞受賞作家による最新長篇。

ジョン・バンヴィル/Banville,John
1945年、アイルランド・ウェクスフォード生まれ。12歳よリ小説を書き始める。1970年、短篇集Long Lankinでデビュー。アイルランド紙で文芸記者として働きながら執筆を続け、『コペルニクス博士』(1976)でジェイムズ・テイト・ブラック記念賞、『ケプラーの憂鬱』(1981)でガーディアン賞、『海に帰る日』(2005)でブッカー賞受賞。2011年、フランツ・カフカ賞受賞。現代アイルランドを代表する作家であり、The New York Review of Booksなどで批評家としても活躍している。ダブリン在住。

「書評」としては出たばかりなので日本のものは少ないので海外のものなど引いておく。

▼Kawamoto Saburo 川本三郎

『海に帰る日』で遠い夏の日の少女を描いたアイルランドの作家ジョン・バンヴィルが再び、少年の日の失なわれた恋に戻ってゆく。初老の俳優が、五十年も前の初恋を思い出す。十五歳の少年は、友達の母親に惹かれた。そして年上の彼女に恋の手ほどきを受けた。記憶のなかの女性がいま、鮮やかによみがえる。二人は町の人々から隠れるようにして林のなかの廃家で密会を重ねた。隠れた恋だった。秘密だった。だからこそ五十年もたったいまも輝いている。バンヴィルは現代文学にとって、思い出が大きな主題になっていることを知っている。
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▼The Independent インディペンデント紙

光を放つ、息を呑むような作品だ。青年期の精神を、性体験に焦がれる肉体を、理性を失うほどの官能と情動を、バンヴィルは完璧に捉えている。
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▼The Observer オブザーバー紙

知の立った文章で、どの言葉も額面どおりには受け取れないのではないかと思わせられる。しかし、作中人物たちの生き生きとした心の動きや、彼らの生きる世界に向ける細心の注意も、バンヴィルはひとときも怠ってはいない。
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▼The Wall Street Journal ウォール・ストリート・ジャーナル紙

ツルゲーネフの名作「初恋」に比肩する、青年期の恋の物語。滑らかで、深遠である。心をかき乱す、美しい作品だ。
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▼The New Yorker ニューヨーカー誌

この本においてもっとも衝撃的なのは、その言語である。一行一行が詩的効果に満ち満ちている。
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▼London Evening Standard イブニング・スタンダード

ラブストーリーに必要なすべてがここにある。セクシーで、説得力があり、不可解で、滑稽で、悲しく、忘れがたい。
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この作家の本はいくつか今までにも翻訳されている。
新潮社から出た本のことを少し紹介する。

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新潮社の読書誌「波」 2010年11月号より

   ジョン・バンヴィル/村松潔訳『無限』 2010年新潮社クレストブック刊

      神のなせる業!    イッセー尾形

 アイルランドというはるか遠い国から運ばれてきた物語。さらに語り手がギリシア神話に出てくるヘルメスだという(うんとうんと遠くなった!)。もうこれは、思いがけない贈り物をもらったような気分でページを開こう。
 脳卒中の発作を起こして今は昏睡中の父親と家族や隣人を巡る話ですけど、この語り手である神様たちには「愛」と「死」というものがないらしい(こっちだって「愛」にも「死」にもそれほど詳しいわけじゃないんだけど)。でも「死」がないのなら意識不明の父親だって生きている!
 神は《早まって埋葬されるのを恐れている》と父親の心を代弁し、ケーキの粉に落とした母の涙、ゴンドラで娼館を訪れたベネチア、北欧の会議で逢った内股気味の女性などを次々、即興劇のように思い出させます。なんと気分転換に階下にいる長男の嫁に触角をするすると伸ばしたりすると、これはもう神のなせる業なのか人間の業なのか区別できません。
 長男は寝ている父親を見下ろして、子供のころ妹を砂浜に埋めた記憶を蘇らせます。その情景をすみずみまで見渡そうと考えこんだり。また妹の彼氏を迎えに行った帰りは、川と河口の境界はどこにあるのだろうかと果てしなく自問します。とどまることを知らない思考! 神様はなにものも束縛しない。これがこの物語の全容です。
 妹も世の中の病名を全てノートに網羅するという課題にとりくみつつ、聖なる井戸のそばで世界の存在について語る父親を思い出しながら、彼氏の思惑、さらには牛飼いの男へと思いは飛翔しつづけていきます。若き妻は、横たわる夫の爪を切った次には、彼の娘になったような気がしたことを思い出し、それがヒゲを剃ったときの夫のグロテスクさの記憶に繋がり、さらに修道院に入ろうかしらと思った若き日々に飛び火し、大瀑布での夫との出会いへと回想はなだれ込んでいきます。十九歳、初めて飲んだジン!
 人物たちの思考はいちいち「誰それの」と断りもなくいつの間にか始められますから、読み手もうかうかしていられません。また物語の冒頭近くでは、ヘルメスの父親ゼウスは長男に成り代わって妻を喜ばせますし、ヘルメス当人も牛飼いの体に忍び込んで年増女をその気にさせたりしますから、登場人物たちだってうかうかしていられないのです。神様たちはただただ空からおとなしく見下ろしているわけではないんです。そうかと思うと《わたしが見張りを怠っている隙に、おそらく庭でなにかがあったにちがいない》と、肝心な場面を見逃したりするところは人間っぽくもあります。リストカットを繰り返す娘にはえこひいきしている感があるし、優しい眼差しはずっと最後まで続いています。「愛」を知らないからこそ強く憧れているのです、きっと。だから眼差しというより、もっと力の入った「目を凝らす」に近いんですけど。
 どこかのページを読んでいてふと、ロスコの絵画を思い出しました。あの大きなキャンバスに二つか三つの色が四角い雲のように塗られていて、その色が向かってくるのか奥に退いていくのか、大きくなるのか小さくなるのか、色と色は浸透しあうのか、ひょっとして明日になれば全然違う色になって溶けあっているのか……いつまでもいつまでも育っていく想像。今までちんぷんかんぷんな絵だったけれど急に親近感が湧きました。
 著者の前作『海に帰る日』では、妻を亡くした男が思い出す少年時代の記憶がとめどもなく全編を覆い、自分が自分から溢れ出す経験に胸を打たれたものですが、今回は誰もかれもが溢れかえって百花繚乱。「死」がすぐ近くにあるのに、むせかえるような「生」の質量が圧倒します。やはり「贈り物」という直感は当たっていたようです。
《なぜ鉄道線路はいつも台所のガスの臭いがするのだろう》大好きな一文です。   (いっせー・おがた 俳優)


水昏れて石蕗の黄も昏れゆけり誰よりもこの女のかたはら・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    水昏(く)れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり
      誰よりもこの女(ひと)のかたはら・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、巻末の締めくくりをする歌で、私自身でも感慨ふかいものである。
自選60首にも採っているので、Web上のHPでもご覧いただける。

ツワブキは晩秋から初冬にかけて咲く花であり、今の時期の貴重な草花である。
先日採り上げた「アゼトウナ」と同じような色と季節の花である。
四国遍路の路傍にもしきりに咲いていた。
私自身は、格別に愛妻家とも思わないが、振り返ってみると、4冊の歌集の中で、数多くの「妻恋」の歌を詠ってきたことに、改めて気付くのである。
掲出した歌は、何も難しいものではないので、解説は控えるが、歌集『嬬恋』の巻末の一連の歌を引いて終りにしたい。
「石蕗」ツワブキの花は、木蔭に咲く、ひっそりとした花だが、そのイメージを妻に重ねていることを言っておきたい。
花言葉は「困難に負けない」

   嬬恋(つまごひ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  嬬恋を下りて行けば吾妻(あがつま)とふ村に遇ひたり いとしき名なり

  吾妻(あがつま)氏拠りたるところ今はただキャベツ畑が野づらを埋む

  視(み)のかぎり高原野菜まつ黒な土のおもてにひしめきゐたり

  黒土に映ゆるレタスがみづみづし高原の風にぎしぎしと生ふ

  草津なる白濁の湯にひたるときしらじらと硫黄の霧ながれ来る

  ゆるやかに解(ほど)かれてゆく衣(きぬ)の紐はらりと妻のゐさらひの辺に

  睦みたる昨夜(きぞ)のうつしみ思ひをりあかときの湯を浴めるたまゆら

  柔毛(にこげ)なる草生の湿り白根山の夕茜空汝(なれ)を染めゆく

  朱しるく落ちゆく夕日ゆゑもなく「叱られて・・・」の唄くちずさみゐつ

  本白根と地の人呼びぬしんかんとエメラルド湛(たた)ふ白根の火口湖

  水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら

「嬬恋」は長野県から入ってすぐの群馬県の地名である。また「吾妻」というのも、その近辺の地名である。
有名な草津温泉も、この一画にある。私の嬬恋の思いを、これらの地名によせて、一連の作品として綴ったものである。
嬬バカとお取りいただいても、結構である。私は「嬬恋」を宣言することに、何の衒いもない。
「おのろけ」という謗りにも敢えて甘受する。

なお、歌集『嬬恋』は2003年いい時期に上梓できたと思っている。
妻が死んだ後では、「レクイエム」になってしまうので、まだ元気なうちに、妻に捧げることが出来たのを、
妻亡き今になると切実に、いい時期に出せたと、つくづく思い知るのである。

ツワブキの花を詠んだ句も多いので、少し引く。

 石蕗黄なり文学の血を画才に承け・・・・・・・・富安風生

 けふの晴れ狭庭は既に石蕗のもの・・・・・・・・及川貞

 母我をわれ子を思ふ石蕗の花・・・・・・・・中村汀女

 石蕗咲けりいつも泥靴と並びたる・・・・・・・・加藤楸邨

 病まぬ生より病める生ながし石蕗の花・・・・・・・・石田波郷

 石蕗咲いていよいよ海の紺たしか・・・・・・・・鈴木真砂女

 讃歌(ほめうた)や地に沈金の石蕗の花・・・・・・・・文挟夫佐恵

 日もすがら碧空を恋ひ石蕗の花・・・・・・・・飯田龍太

 黄八丈色に石蕗咲き妻が着て・・・・・・・・草間時彦

 そこに日を集めて庭の石蕗明り・・・・・・・・稲畑汀子

 一隅を一切とせり石蕗の花・・・・・・・・和田悟朗

 花石蕗につねのたそがれ誕生日・・・・・・・・きくちつねこ

 大津絵の鬼が杖つく石蕗日和・・・・・・・・谷中隆子

 一族はすぐ縦列に石蕗の花・・・・・・・・坪内稔典

 石蕗咲くや沖はいちにち鉛色・・・・・・・・森田たみ

 一病が老いを早めし石蕗の花・・・・・・・・山本白雲

 野生馬に岬の断崖石蕗咲けり・・・・・・・・波江野霧石

 石蕗咲いて身になじみたる黄八丈・・・・・・・・鈴木みや子



俵万智第五歌集『オレがマリオ』・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      俵万智第五歌集『オレがマリオ』・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・文芸春秋社2013/11/29刊・・・・・・・・

この本は俵万智の久しぶりの新刊である。
ご存じのように数年前に彼女はシングルマザーとして息子を産んだ。
彼女の両親が仙台在住なので、息子を育てる手数の多くを両親に頼ってきた。
3:11の日、彼女は東京の新聞社の歌壇の歌の選者として東京に居た。 そこで東日本大震災に遭ったが四日間、息子とは連絡がとれなかった。
ようやく仙台に戻ったが友人たちから放射能の怖さなどの聞き、西へ西へと逃げ、友人の住む沖縄の石垣島に辿りつき、今はそこに定住している。
都会っ子だった息子が八重山の自然に触れて、のびのびと育つのを見て、来てよかったという心境らしい。
そんな彼女が今回の発刊にあたって話している動画などがあるので、先ず、それをご覧いただきたい。 ↓

本の話WEB自著を語る

後半では、収録された341首のなかから12首を選んで載せられている。
これらの歌は彼女自身の選になるものだから、この歌集を要約したものだと言えよう。
その12首を再録しておく。

  まだ恋も知らぬ我が子と思うとき「直ちには」とは意味なき言葉

  子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え

  「オレが今マリオなんだよ」島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ

  「ケンカしちゃダメ」と言いつつおさな子は蝶の交尾をほぐしておりぬ

  旅先の君を思えばケータイの画面に届くイルミネーション

  ストローがざくざく落ちてくるようだ島を濡らしてゆく通り雨

  抱っことは抱きあうことか子の肩に顔うずめ子の匂いかぐとき

  「おかあさんきょうはぼーるがつめたいね」小さいおまえの手が触る秋

  開花宣言聞いて桜が咲くものかシングルマザーらしくだなんて

  ゆで加減繊細すぎるパスタなり君の心の芯を残して

  愛よりもいくぶん確かなものとしてカモメに投げるかっぱえびせん

  エレベーター八階ぶんの口づけを監視カメラに残す新宿


がんがんと鉄筋のびる師走かな・・・・・・・・・・・・・・・高柳重信
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──師走の句態──

  ■がんがんと鉄筋のびる師走かな・・・・・・・・・・・・高柳重信

師走も一週間を過ぎて、いよいよ歳末のあわただしさが本格的になってきた。
今日は「師走」に因む句を採り上げる。

この句は、いかにも前衛俳句の作者としての面目躍如という句であるが、しばらく前は首都圏などでは建築ラッシュで、たとえば東京駅周辺などは様変わりしてきた。
まさに重信の詠んだような光景そのものである。
今しもアベノミクスとかで、この傾向は続くのだろうか。。。。
もっとも今では「高層建築」は「鉄筋コンクリート」ではなく「鉄骨」作りである。鉄骨を組み上げて外側に外壁パネルを組み付ける工法である。
何階から高層建築というか、など私は知らない。

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  ■極月の三日月寒し葱畑・・・・・・・・・・・・・・大谷句仏

大谷句佛(1875~1943) 明治~昭和期の真宗大谷派僧、東本願寺23世、京都生、法名・彰如、諱・光演、号・愚峰、俳号・句佛、現如上人の次男、地方各地を巡錫、門徒を督励し親鸞650回忌を勤修、画を竹内栖鳳に学び、俳句を子規・虚子らに私淑、書画・俳句に通じる風流人としても知られた。昭和18年歿67才。

十二月の呼び方としては「師走」のほかに、ここに出した「極月」「臘月」など、いろいろあるが、いずれも一年の終りとしての月の意味を孕んでいる。

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  ■極月の人々人々道にあり・・・・・・・・・・・・・・・山口青邨

写真は渋谷のスクランブル交差点である。
この青邨の句は単純でありながら、せせこましい師走の情景を捉えて過不足がない。

  ■師走もつともスクランブル交叉点・・・・・・・・・岩岡中正

という、そのものずばりの句もある。
通行人の懐がぬくいのか、金欠か、さまざまの人々が往来する。
アベノミクスに便乗して株で儲けた人も居れば、損をした人も居よう。世の中は、さまざまである。悲喜こもごもである。

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  ■法善寺横丁一軒づつ師走・・・・・・・・・・・・稲畑汀子

ここらで関西の師走の句も採り上げないと不公平だろう。

法善寺横丁
石畳が続く古い路地で、織田作之助の小説「夫婦善哉」の舞台としても有名。商売繁盛や恋愛成就を祈願した人がかけた水で、全身が苔むした水掛け不動がある。
写真④に見える「正弁丹吾亭」は大阪の文化人の溜り場で、今でも歌人の前登志夫や私の兄事する米満英男氏なども屯していたところである。
その前氏も亡くなって、もう数年が経った。米満英男氏も亡くなった。年月流転である。
織田作之助生誕百年とかで、『夫婦善哉』などがテレビドラマ化されたりしたが、ここは彼にもゆかりのあるところである。

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  ■臘月や錦市場に鯛の粗(あら)・・・・・・・・・・・・・・岡井省二

京の台所といえば、ここ錦市場である。

錦市場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

錦市場(にしき いちば)は、京都市街ほぼ中央に位置する錦小路通のうち「寺町通 - 高倉通」間の商店街で、魚・京野菜などの生鮮食材や、乾物・漬物・おばんざい(京都言葉で日常の惣菜)などの加工食品を商う老舗・専門店が集まる市場。京都独特の食材は、ほぼここで揃う。

鮮魚店400年の歴史を持ち、京都市民からは「にしき」という愛称で呼び親しまれ、「京の台所」として地元の市民はもとより、新京極商店街や寺町京極商店街とともに、観光客や修学旅行生も訪れる観光名所として活気のある市場として賑わう。

スーパーマーケットや百貨店と違い、ここでは新鮮な旬の食材の品質のよさや豊富な品揃えが支持されて市民生活と密着しているところが最大の特徴となっている。そのため価格を高めに設定する店もあるが、高品質や豊富さから「ほんまもん」(本物)を扱っていると信頼し、納得する市民は少なくない。他地域で「錦市場」を銘打つ店が増え、品質を維持するためにも京都府内の商店街で初めて「錦市場」の商標登録を取得している[1]。一方、臨時に「にしき」と銘打った食品コーナーを設ける百貨店も登場している。
京都の目抜き通り四条通の一本北の錦小路通に位置し、赤緑黄の色鮮やかなアーケードにおおわれた石畳の道の距離は、東西390メートル。商店街振興組合に所属する店は約130店舗、道幅は3.2 - 5メートル、道に迫り出して商品や商品棚を並べる店舗が少なくなく実際はもっと狭い。東の端は、新京極と交差し、その先に錦天満宮がある。

ここで業務用の食材を仕入れる割烹、料亭、旅館なども多く[2]、一般向けには京都名物の鱧など鮮魚を扱う店が20店舗以上と一番多い。そのほか伝統野菜とも呼ばれる京野菜、京漬物・豆腐や湯葉・麩・鰻・佃煮・蒲鉾・干物・乾物などから茶・菓子・パン・寿司まで京料理の食材はほとんどここで揃うといっても過言ではない。

年の暮れには正月用の食材を求める客であふれ、上野のアメ横同様の混雑となる。店舗の営業時間は、店にもよるが、おおむね午前九時から午後五時までが目安となっている。水曜日と日曜日に休業する店が多い。


伊勢からの恋文めいて枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・・坪内稔典
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  伊勢からの恋文めいて枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・・坪内稔典

「枇杷」はバラ科の常緑高木で、初冬に枝先に三角形総状の花序の花を咲かせる。花は白く香りがよい。庭木としては極めて少なくなった。
実は初夏に熟する。甘くて香りのよい果実である。
枇杷の木は葉が大きくて長楕円形で、葉の裏に毛がびっしりと生えている。葉の表面の色は暗緑色である。
『滑稽雑談』という本に「枇杷の木、高さ丈余、肥枝長葉、大いさ驢の耳のごとし。背に黄毛あり。陰密婆娑として愛すべし。四時凋れず。盛冬、白花を開き、三四月に至りて実をなす」とある。簡潔にして要を得た記事だ。
冬に咲く珍しい植物のひとつである。寒い時期であり、この花をじっくりと眺める人は多くはない。
こんな句がある。

■十人の一人が気付き枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・高田風人子

この句などは、先に書いたことを、よく観察して句に仕上げている。こんな句はどうか。

■だんだんと無口が好きに枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・三並富美

■一語づつ呟いて咲く枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・西美知子

■咲くとなく咲いてゐたりし枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・大橋麻沙子

いずれも「枇杷の花」の、ひっそりと咲く様子を的確に捉えている。

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写真②にビワの実を載せる。このブログ2009/06/26にビワの実の記事を書いた。果実として品種改良され、「茂木ビワ」が有名である。
以下、枇杷の花を詠んだ句を引いて終る。

 枇杷の花霰はげしく降る中に・・・・・・・・野村喜舟

 死ぬやうに思ふ病や枇杷咲けり・・・・・・・・塩谷鵜平

 枇杷咲いて長き留守なる館かな・・・・・・・・松本たかし

 花枇杷や一日暗き庭の隅・・・・・・・・岡田耿陽

 故郷に墓のみ待てり枇杷の花・・・・・・・・福田蓼汀

 枇杷の花子を貰はんと思ひつむ・・・・・・・・原田種茅

 枇杷の花母に会ひしを妻に秘む・・・・・・・・永野鼎衣

 枇杷の花くりやの石に日がさして・・・・・・・・古沢太穂

 枇杷の花妻のみに母残りけり・・・・・・・・本宮銑太郎

 枇杷の花柩送りしあとを掃く・・・・・・・・・庄田春子

 枇杷の花暮れて忘れし文を出す・・・・・・・・塩谷はつ枝

 病む窓に日の来ずなりぬ枇杷の花・・・・・・・・大下紫水

 花枇杷に暗く灯せり歓喜天・・・・・・・・岸川素粒子

 雪嶺より来る風に耐へ枇杷の花・・・・・・・・福田甲子雄

 枇杷の花散るや微熱の去るやうに・・・・・・・・東浦六代

 訃を告げる先は老人枇杷の花・・・・・・・・古賀まり子

 贋作に歳月の艶枇杷の花・・・・・・・・中戸川朝人

 蜂のみが知る香放てり枇杷の花・・・・・・・・右城暮石


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