
枯野起伏明日と云ふ語のかなしさよ・・・・・・・・・・・加藤楸邨
「枯野」とは、草木の枯れた、蕭条とした野っぱらのことだが、場所や配合などによっては、さまざまな趣のものとなる。
何となく、わびしい枯野の起伏を見ながら、楸邨は、ふと「明日」という言葉の持つ「かなしさ」を感じたのである。
「かなしさ」というのが、漢字でなく、ひらがなで書かれているところに句のふくらみがあるのである。
つまり、「いとしい」の意味の「かなしさ」であり、「悲しさ」と同義ではないのである。
それが「自然」と「人事」との配合ということである。
同じ楸邨の句に
わが垂るるふぐりに枯野重畳す
というのがある。
ふぐり(睾丸)というのは、青年、壮年の時期には、キリリと股の肌に張り付いているもので、だらりと垂れるという感じはしないが、老年期になると、だらりと垂れる感じになる。
楸邨は、そういう自分の身体的な衰えと枯野が重畳と連なる様を「配合」して一句に仕立て上げたのである。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る・・・・・・・・松尾芭蕉
という「辞世」の句があるが、この句こそが枯野のイメージそのものだと言われている。
いかにも一生を「漂泊」にかけた芭蕉ならではの句である。
この句などは「巨人」の句という感じで、われわれ下々の者が、あれこれ言うのは気が咎めるものである。
いずれにしろ、枯野のイメージというものは冬の季節とともに、日本人の精神性に大きな翳(かげ)を落としてきたと言えるだろう。

以下、枯野を詠んだ句を引く。
戸口までづいと枯れ込む野原かな・・・・・・・・小林一茶
旅人の蜜柑くひ行く枯野かな・・・・・・・・正岡子規
遠山に日の当りたる枯野かな・・・・・・・・高浜虚子
吾が影の吹かれて長き枯野かな・・・・・・・・夏目漱石
枯野はも縁の下までつづきをり・・・・・・・・久保田万太郎
掌に枯野の低き日を愛づる・・・・・・・・山口誓子
土堤を外れ枯野の犬となりゆけり・・・・・・・・山口誓子
赤きもの甘きもの恋ひ枯野行く・・・・・・・・中村草田男
また雨の枯野の音となりしかな・・・・・・・・安住敦
大いなる枯野に堪へて画家ゐたり・・・・・・・・大野林火
つひに吾も枯野の遠き樹となるか・・・・・・・・野見山朱鳥
枯野ゆく人みなうしろ姿なり・・・・・・・・石井几与子
いつ尽きし町ぞ枯野にふりかへり・・・・・・・・木下夕爾
枯野行き橋渡りまた枯野行く・・・・・・・・富安風生
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もうすぐ、「年が改まる」。
楸邨の句ではないが、「明日」という言葉に込められた、さまざまな「かなしさ」=愛しさ、いとしさ、哀しさ、を噛みしめて来年を迎えたい。
この私のブログは毎月最終の日付は「月次掲示板」としているので、これ以外の記事を書くことはない。
更新する日付としては、今日が終わりということになる。
「喪中」の方もいらっしゃるが、無事ご越年なさるようお祈りしたい。 では来年、また。
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