K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(1月)月次掲示板
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東日本大震災から三年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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     謹 賀 新 年・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

2014年となりました。
政治の動きのことはともかく、今年は「午年」で私の八回目の廻り年です。
健康には留意したいものです。 老来、冬の寒さが身にこたえるようになってきて、すっかり意気地なしになってしまった。
十年一日のような私の記事ですが、よろしくお付き合いください。

 新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大伴家持
 春にあふと思ふ心はうれしくて今一年の老ぞそひける・・・・・・・・・・・・・・・・・・凡河内躬恒
 乾風の 砂捲く道に日は洩れて、睦月八日の空片ぐもる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 釈迢空
 昨年のいつ落ちしにや新年の影もちてまろぶ松笠二つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 宮柊二
 うつくしきものは匂ひをともなひて晴着のをとめ街上を過ぐ・・・・・・・・・・・・・・・上田三四二
 初御空ことばかろらに仰ぎけり太初の青を空に恋ひつつ・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 声涸らし「ああ許すまじ原爆を」と歌ひしわれら皆すでに老ゆ・・・・・・・・・・・・・・・来嶋靖生
 うすきグラスに松の香の酒みたしたり八十葉影さすふたり正月・・・・・・・・・・・・馬場あき子
 芽ふくらむ楊柳を飾り削りたる楊柳の箸を妻とつかひつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤一彦
 戦争のはざまはざまに平和あり短き平和今がその時・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清水房雄
 花水木 赤い実がなることを知るはじめて君の唇が欲し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・立花開
 水仙のひややかにしてまよなかのひかりのなかにあなたはひらく・・・・・・・・・・・・加藤治郎
 初富士の朱の頂熔けんとす・・・・・・・・・・・・・山口青邨
 恵方へとひかりを帯びて鳥礫・・・・・・・・・・・・佐藤鬼房
 えんぶりの笛恍惚と農夫が吹く・・・・・・・・・・・草間時彦
 八つ口をほころばせたり老の春・・・・・・・・・阿波野青畝
 誰とて黙ってただただ雪降る世相か・・・・・・荻原井泉井
 狎れるてふことを戒め去年今年・・・・・・・・・・・千原叡子
 闇の白壁弾にはじかれつつくづる・・・・・・・・・・三橋敏雄
 冬の水一枝の影も欺かず・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
 群抜けし寒潮の魚左利き・・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 遠い火事ぼくには口内炎がある・・・・・・・・・・・大穂照久
 オリオンを眺めて眠るところかな・・・・・・・・・・・五島高資
 ブイのまはりはくまなく海や冬の鳥・・・・・・・・・佐藤文香
 凍鶴のわりにぐらぐら動きよる・・・・・・・・・・・・・西村
麒麟
 寒禽や瞼ぴしと眼球に・・・・・・・・・・・・・・・・・・生駒大祐
 大旦産土神はうすむらさき・・・・・・・・・・・・・・・黒木韻石
 雪しまき音成す前の音とゐて・・・・・・・・・・・・・杉山美鈴
 鶴のこゑ絵具をしぼりだすごとく・・・・・・・・・・・・八田木枯
 マフラーに大き黒子の隠さるる・・・・・・・・・・・・山下つばさ
 金網の先に広がる瓦礫。愛は愛だ・・・・・・・・・・・福田若之
 試合果てスケートリンク冷えて来し・・・・・・・・・・・杉原祐之
 冬至柚子もらふ到着ロビーかな・・・・・・・・・・・・前北かおる
 つぎつぎに翼を折りて山眠る・・・・・・・・・・・・・・・・・高梨章
 牡丹の芽きのふの雨がまだ空に・・・・・・・・・・・・上田信治
 寒鯉や雨はすべてを濡らし行く・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 てぶくろのわめく形やまた嵌める・・・・・・・・・・・嵯峨根鈴子
 白梅に立ち上りたるはるかな肩・・・・・・・・・・・・・神山朝衣
 胎にゐて止まぬ吹雪を聴いてをり・・・・・・・・・・・・中塚健太
 コンテナの陸揚しづか雪催・・・・・・・・・・・・・・・・・・村越敦
 正月を返上しての口内炎・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野利行
 人日の誤植を見つけたくなりぬ・・・・・・・・・・・・・・・堀下翔
 白鳥の磔刑のさま星座とす・・・・・・・・・・・・・すずきみのる
 初明かり磁器を透かせばミルク色・・・・・・・・・・・・・吉井潤
 聞き耳を立ててつめたき耳であり・・・・・・・・・・・・平井岳人
 元日やマラソンの息しづかに過ぐ・・・・・・・・・・・・山田露結
 天辺で淋しいゲーム繰り返す・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 空の青海の青みを冬日和・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

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著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
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本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

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茶圃の施肥はじめむとする頃ほひは三寒四温北風さむし・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
茶園

    茶圃の施肥はじめむとする頃ほひは
       三寒四温北風さむし・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集「嬬恋」(角川書店)に載るものである。
「寒」に入った寒さも、一本調子ではなく、強弱のリズムを刻んで進んでゆくものである。こういうのを中国の古人は「三寒四温」と呼んだ。
峻烈を極めていた寒さも、この言葉通り「三寒」と「四温」が交互に来るようになってきた。 嬉しいことである。

木津川堤 003

写真②が私たちの「木津川」沿いの「冬」の茶園の集団である。朝なので霜が降りている。
この茶園は玉露、抹茶原料の碾茶用の高級茶の茶園で「手摘み」である。

茶の芽が動き出す前の冬季に「寒肥」という油粕などの有機質の肥料を与える。
大半の肥料は晩秋から初冬にかけての「秋肥」の時期に与えてしまうが、その補助的な施肥である。茶の樹の場合には化学肥料は殆ど与えない。
特に最近は「有機栽培」ということが、やかましく言われるが、茶に関しては昔から魚粕や油粕などを与えてきた。これらの肥料は茶の樹を養うためのものである。
お茶は他の農作物と違って、茶の葉を摘み取るものであるから、茶の樹をしっかり生育させなければならない。

「三寒四温」を詠んだ句は多くはないが、それらを引いて終る。

 凍てつぎて四温たまたま石蕗の濡れ・・・・・・・・飯田蛇笏

 軒しづく頻りに落つる四温かな・・・・・・・・・・白 樹

 三寒の心小さく炭をつぐ・・・・・・・・・・洲 風

 藁かごに乳のみ児あそぶ四温かな・・・・・・・・・・青水草

 三寒の日は蒼かりし山おもて・・・・・・・・・・三宅一鳴

 白珠の四温の星のうるむなり・・・・・・・・・・白葉女

 胎中の胎児三寒四温越ゆ・・・・・・・・清水基吉

 三寒四温ゆゑ人の世の面白し・・・・・・・・大橋越央子

 三寒の四温を待てる机かな・・・・・・・・石川桂郎

 雪原の三寒四温浅間噴く・・・・・・・・相馬遷子

 四温の日低き歓語の碁石たち・・・・・・・・吉田銀葉

 三寒のくらがりを負ふ臼一つ・・・・・・・・八重津苳二

 父の日の花買ひに出し四温かな・・・・・・・・細田寿郎



京言葉もて寄鍋の世話をする・・・・・・・・・・・・・・・・奥田可児
P1010510寄せ鍋

──季節の一句鑑賞──季節の鍋2態──

  ■京言葉もて寄鍋の世話をする・・・・・・・・・・・・・・・・奥田可児

冬の団欒の食べ物としては「鍋」ものがいい。
今日は「寄せ鍋」と「鍋焼きうどん」を採り上げる。
「寄せ鍋」に入れるものは何でもよいのである。
魚、貝、鶏肉、野菜などを味付けした汁で煮て食べてもよいし、「水炊き」にしたものを「ポン酢」とおろし大根で食べても、おいしい。
地域によっては「たのしみ鍋」とも呼ばれたらしい。季節のいろいろな材料をとりまぜて煮て食べる鍋料理である。
海鮮の材料が多いものは「沖なべ」「沖すき」などと称する。

image01寄せ鍋

 又例の寄せ鍋にてもいたすべし・・・・・・・・高浜虚子

 寄鍋やたそがれ頃の雪もよひ・・・・・・・・杉田久女

 寄鍋や剥き蛤のふくむつゆ・・・・・・・・関谷嘶風

 寄鍋の湯気やはらかし家長たり・・・・・・・・戸川稲村

 寄鍋や酒は二級をよしとする・・・・・・・・吉井夏生

 よせ鍋や松葉模様のちりれんげ・・・・・・・・塩川星嵐

 沸々と寄鍋のもの動き合ふ・・・・・・・・浅井意外

 寄せ鍋や酔へば口つく国訛・・・・・・・・森野敏子
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085-l鍋焼きうどん

  ■鍋焼や芝居で泣いて来たばかり・・・・・・・・・・・・・・三宅絹子

「鍋焼き」は本来、土鍋に鶏肉や魚を入れ、野菜を加えて醤油で味付けして煮て食べるもの。
「土手焼き」というのは土鍋に味噌を塗り、魚、せりなどを入れて煮ると味噌が焦げて香りとなり、また汁と溶けて、よい味になる。
この頃では「鍋焼きうどん」の方を専ら指すようになった。
饂飩(うどん)に、かまぼこ、ねぎ、ほうれん草、鶏肉などを加えて、汁をたくさんにして土鍋で煮る。真ん中に生卵をひとつ落したりする。

udon豆乳鍋焼き

写真④は「豆乳鍋焼きうどん」である。
水の代りに「豆乳」を使うところがミソで、豆乳特有の甘みがあり、大豆なので極めて健康的である。

 鍋焼の火をとろくして語るかな・・・・・・・・尾崎紅葉

 鍋焼ときめて暖簾をくぐり入る・・・・・・・・西山泊雲

 酒よりも鍋焼を欲り老い兆す・・・・・・・・滝春一

 なべ焼食べて子は子の家に戻るべし・・・・・・・・安住敦

 鍋焼を吹いて食べさす子守婆・・・・・・・・滝沢伊代次

 ねもごろに鍋焼饂飩あましけり・・・・・・・・村上麓人

 鍋焼の屋台に細き煙出し・・・・・・・・・富永ひさし


急流のごとき世なれどおでん酒・・・・・・・・・・・・・・・・・・・百合山羽公
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  急流のごとき世なれどおでん酒・・・・・・・・・・・・百合山羽公

「おでん」は外でも家でも、冬の代表的な、あたたかい料理である。
『語源由来辞典』によると、「おでん」は「田楽(でんがく)」の「でん」に、接頭語の「お」をつけた女房詞、だという。
つまり、もともとは「煮込み田楽」の略称だった。東京が本場で味付けも濃いが、関西では「関東煮」(かんとだき)と言われていたが、今では、どこでも「おでん」で通る。
もともとは焼き豆腐に味噌をつけたものだったというが、こんにゃくが使われ、菜飯田楽になり、やがて煮込みのこんにゃくとなって、今日の煮込みおでんに変わったという。
焼き豆腐、こんにゃく、がんもどき、はんぺん、竹輪、すじ、だいこん、鶏卵などを煮込んだもので、芥子をつけて食べる。

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屋台やおでん屋では、おでんに燗酒、茶めしなどを組み合わせて食べられる。今では晩秋の頃から「コンビニ」のカウンターでも、おでんがクツグツ煮えている。
私の家の近所に大きな蒟蒻製造会社があるが、そこは先年から、コンビニのセブンイレブンに、おでん材料を売り込んでいるらしい。
とにかく、いろいろの種や具があり、冬の季節には、温まる、庶民的なたべものである。

掲出の句は「急流のごとき世」という出だしが、今の世相にぴったり合うのでいただいた。

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以下、おでんを詠んだ句を引いて終わる。

 戸の隙におでんの湯気の曲り消え・・・・・・・・高浜虚子

 人情のほろびしおでん煮えにけり・・・・・・・・久保田万太郎

 亭主健在おでんの酒のよいお燗・・・・・・・・富安風生

 おでん食ふよ轟くガード頭の上・・・・・・・・篠原鳳作

 おでん屋の月夜鴉の客ひとり・・・・・・・・龍岡晋

 すべて黙殺芥子効かせておでん食ふ・・・・・・・・佐野まもる

 おでん酒うしろ大雪となりゐたり・・・・・・・・村山古郷

 煮えたぎるおでん誤診にあらざるや・・・・・・・・森総彦

 大根細く侘しきことやおでん鍋・・・・・・・・中江百合

 おでんやは夜霧のなかにあるならひ・・・・・・・・久永雁水荘

 おでん屋に同じ淋しさおなじ唄・・・・・・・・岡本眸

 おでん鍋の湯気を小さく皿に頒つ・・・・・・・・手塚七木

 おでん屋の背の灯のいまだ更け足らず・・・・・・・・・久米正雄

 おでん屋に溜る払も師走かな・・・・・・・・日野草城

 おでん酒酌むや肝胆相照らし・・・・・・・・山口誓子

 雨だれにおでんのゆげのすぐもつれ・・・・・・・・阿波野青畝

 例へばやおでんの芋に舌焼く愚・・・・・・・・安住敦


中西弘貴詩集『虫の居所』・附『右原厖全詩集』を読む・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
中西弘貴
 ↑ 『虫の居所』外箱

──新・読書ノート──

     中西弘貴詩集『虫の居所』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・・・思潮社1999/11/20刊・・・・・・・・・

この人「中西弘貴」については ← この記事に書いたことがある。リンクになっているのでお読みいただきたい。
長らく「右原厖(うはら・ぼう)」に師事して作品を磨いて来られたが、大阪文学学校などにも関わって来られた。
先日亡くなった三井葉子さんとも親しく、「三井葉子詩集『灯色醗酵』を読む」評を書いたりされた。
今回、三井葉子さん死去の関係から、アマゾンの中古本で、この詩集を買い求めた。新品同様のものである。
画像で見られるが、この本の装丁は本人がやられたそうで、カット画なども面白いものである。
この詩集の後に出された『飲食』は2008年度の第19回富田砕花賞を受賞している。
私は、この受賞の前に出た本書『虫の居所』こそ受賞に至る伏線として重視したい。 先ずは題名になっている「虫の居所」の詩を引いてみる。

     虫の居所・・・・・・・・・中西弘貴

   かわいそうに と
   祖母がいう
   お前の気立が悪いのは
   お前の身中に
   悪い虫が棲んでいるからだ

   だからおまえは と
   かさねていう
   朝飯の前
   毎日 門口に立って
   外に向って
   悪い虫をば吐き出さねばならん

   ハァーと吐いた
   グォアーと出した
   ときには
   声を殺して
   白い息だけ吹いて

   以来
   なんじゅうねん
   祖母が喝破したわが内なる虫は
   出たか
   出たか
   いまだ出てはおるまい
   それが証拠に
   理由(わけ)もなく渡世の怒りが胃袋をせり上り
   名状しがたい哀しみが胸を絞めるのだ

   虫よ
   ここか
   それとも ここか
----------------------------------------------------------------------------
俗に「虫の居所が悪い」などという「気分」のことであろう。
彼はかなりの激情家らしいと私は見る。

彼・中西弘貴は1942年京都生まれ、と詩集の略歴に書いてある。
著書として
  詩集『消息』(1978年10月)
  詩集『水獄』(1984年月)
  詩集『花街』(1990年10月)
  詩集『虫の居所』(1999年11月)
  詩集『飲食』(2007年8月1日)
がある。
この本『虫の居所』の「あとがき」に

< 九年前、『消息』『水獄』に続く『花街』を出し、三部作を完結した。
  そのあとがきにこう記した。
  「私自身の存在に付着する〈花街〉の吐瀉に、三冊の詩集を必要とした」と。
  二十六年の歳月がかかった。
  以後詩作を断ったが、実生活上に思いがけない変化があって、初めて京都を
  離れ、相模湾に面したかつての魚村でのひとり暮しを重ねることとなった。
  静かな時間、〈花街〉の〈人〉が花のかたちに変幻して、私のなかを去来した。
  私のなかに棲む虫がさわいで火のかたちを求めた。
  もう詩集を編むことはあるまいと、と思っていたのだが、ぼちぼちの連作が本
  稿である。
  『花街』で果せなかった《遊び》と《祈り》のただなかを浮遊する軽みのよう   
  なものを書きとめたいと希っているが、・・・・・・ >

と書いている。
『花街』以前の詩集が今てもとにないまま、何かここに書くのは適当ではないと思うので控えておく。
ただ「私自身の存在に付着する〈花街〉の吐瀉に、三冊の詩集を必要とした」という記述は重い表白だろうと思う。

     虫のかたちで・・・・・・・・・中西弘貴

   ひと以上と
   だいそれたことは
   よう云わんが

   ひとなみに
   何事かを為そうとし

   ひとなみの
   労も苦もなめてもきた


   ひとしれず
   歯ぎしりの
   憂き世の取捨も選択も

   為しえなかった何事かは
   語らず
   まあ ええやないか
   事も無く
   こはこれでよしとせにゃ と
   ささやくカミもホトケもいて

   老いた虫は得心した。

   なればこそ
   ここはいちばん
   事の始末はつけねばならん

   ドウジャ と
   あおむけに寝転んで
   手足で印を結んで

   ひとなみではない
   虫のかたちで

この詩集には全部で34篇の作品が載っているが、ⅡとⅢには、いわゆる「花街」のことが詠われている。
つまり前詩集の後を引いているということである。
先に引いた「あとがき」の「私自身の存在に付着する〈花街〉の吐瀉に、三冊の詩集を必要とした」という部分は、「相模湾に面したかつての魚村でのひとり暮しを重ね」ても、
「吐瀉」は終わっていなかったように見える。
人間だれしも、簡単に「線を引ける」ものではない。
作者以上に馬齢を重ねてきた私なぞには、よく判るのである。「過去」「現在」「未来」は、ひと連なりのものである。
作者が、花街で、どういう役割の生活をしてきたのかは知らないが、次の詩集『飲食』では、それらを乗り越えたように感じる。
その「走り」になったのが、本書の巻頭にのる「虫」の一連九つであろう。
「花街」から『飲食』に至る「橋」になっている作品群かと思うのである。
その意味では、この詩集を『虫の居所』と題されたのは成功しているだろう。

Ⅱ.から二つほど作品を引いておく。

     花客・・・・・・・・・中西弘貴

   花を求めて来たと
   言ってよいか
   両手に余る歳月をかけて
   宿借り継いで来たと
   語ってよいか
   およそ暮れ急ぐ方角を見定めて
   橋渡って来たと
   謡ってもよいか

   時なるかな 客
   いかなる花の
   いかなる風体を
   おもいめぐらせたか

   切実には
   花に時節なく
   花に情事なく
   花 客を待たず

   客 過ぎゆくのみ
   遠方へ

      花の始末・・・・・・・・中西弘貴

   咲きかたは知らず
   咲かせかたには思案およばず

   秘せねば花になるべからず   
   と
   思いの深さも
   約束の固さもあり

   トンと背中を突かれて
   この身ひとつの
   花への捨身

   湯舟に浸る
   裸身をはんなり染め
   散りかたは
   何事かを秘することによって
   始末をつける
-----------------------------------------------------------------------------
私のような多弁な、散漫な叙述ではなく、言葉を吟味した寡黙な詩である。
右原厖に師事して作品を磨いて来られたことが伺われるような作品である。

     『右原厖全詩集』を読む・・・・・・・・・木村草弥

右原
 ↑ 2004/05/19編集工房ノア刊

中西弘貴の関連と言っては何だが、厚さ五センチもある『右原厖全詩集』というのをアマゾン中古本で格安に買った。
「編集」者として名前の出ている「日高てる」「中西弘貴」「田子登代子」の三人のうちの著者の長女である田子登代子の名前の載る謹呈札が入っている。
本にかかっている硫酸紙が手摺れしている他は新本同様の本である。
この全詩集は、生前、右原厖さんが熱望していたということで刊行されたもののようだが、「謹呈」された本が、碌に読まれずに売り払われる現実が悲しい。

巻末の「年譜」によると、本名・中井愛吉。1912年奈良県・現・橿原市生まれ。1934年奈良師範学校卒業。1973年深江小学校を退職するまで教職にあった。
先に、日高てるさんの文章に「エンジニア」とあったので、そう信じていたが、本職は教師だったと判明。
エンジニアというのは、「推進者」という意味の日高さんによる比喩だったと知る。 2001年10月1日90歳で死去。
それにしても「右原厖(うはら・ぼう)」などという難しいペンネームをつけたものである。
小野十三郎の始めた「大阪文学学校」の講師を長らく勤められた。中西弘貴は、ここでの通信教育の生徒であったという。
この大阪文学学校の関係から三井葉子さんとも親しかったのであろう。

この本は膨大な内容のものなので、どこから手をつけたらいいか判らないので、二、三私の好きな詩を引いておく。

     村・・・・・・・・・右原厖

   一列ポプラが立ち並び
   村では兎を飼つていた。
   廂につるした千頭葱の光沢もまばらに
   ひとかたまりの雲の下、
   子とははは
   当来のきのこのじくを裂いていた。
   世は 時は また何事もなかつた。
   首を弓にして啼くにわとりにこたえ
   雞舎を覗けば
   うみおとしたばかりの卵子を
   赤腹の夜守の奴が抱き占めていた。
   往還とおく、 人往かず
   ひと来らず、
   三里四方を立ちのぞむ屋根に上から
   抜きとつたぺんぺん草を風に捨てる。
   梯を倒す横木の中。
   かすかな櫛目できんの微雨は光るのだが
   ねつからつちは濡れてない。
   微恙の身は。
   日没を逐うて草野にひろがるかの大きい耳雲のうしろ   
   オパールの馬を見た。                    詩集『砦』より

      いちじくの木の下に・・・・・・・・右原厖

   バイブルの一頁をひらくように
   一日があけ あさの雨に
   いちじくの木の枝股がぬれている
   バイブルの一頁よりも小さな裏庭の
   隣家ざかい
   いちじくの木の下に闇が存在する
   ははの遺髪をそこに埋めた日からだ
   たばねてまいた毛髪の
   闇はいくすじそだっている
   闇は土中にそだっている
   一日は一日として 一年は一年として
   百年 千年
   砂漠にそだった呪詛と狂気
   の うらがえしの書
   バイブル
   花なくて実となりふくらんで自ら裂けては鳥けだものの餌食となる
   そのいちじくの木の中で
   そだっているまっくら闇
   血の闇
   わたしはぶあついバイブルを持たない
   いちじくの木のあるところ
   禁欲をかたくまもって根土のうえを踏むことはない
   樹液が闇を吸いあげる 日毎
   ぬれ 又
   さらにかわき
   砂漠に砂をまきかえすように
   バイブルにまきちらされた活字どもだ          詩集『それとは別に』より

      ノラの貞節・・・・・・・・右原厖
   
   樹木たちがかたくかたく夜をかい抱いてはなさないので
   昼は どうしても時間の内部へ這入れない
   おちてくる陽ざしはハガネの飛沫となってくだけとび
   すずしい樹影は賢明に身をかわして逃げのびる
   一の枝から二の枝へ 三の枝から四の枝へ
   樹木は垂直な階段だから きみはかけ上る
   きみは鳥となって 飛びたつ
   その羽根櫛を折るために ケシ粒大の二つの眼をついの盲とするために
   見上げる紫紺のそらのまん中に解放されるのは
   誰だろう 眼くらみ ─── ノラは素裸になりだがっている        詩集『神々のフラスコ』より


この詩集の「栞」に中西弘貴が「師・右原厖」という文章を書いている。8ページ半に及ぶものだが、何年間にもわたって数十篇の詩を提出し、厳しい反応にあったと書いている。
その甲斐あっての今の自分があるというが、厳しい中にも心温まる師弟愛である。
不完全ながら紹介を終わりたい。








     
冬日よりあをしイエスを描きたる・・・・・・・・・・・・・・野見山朱鳥
rouault_35ルオー キリスト

  冬日よりあをしイエスを描きたる・・・・・・・・・・・・・・野見山朱鳥

「冬日」とは、冬の太陽のこと、とも、冬の一日のこと、を指すこともある。
冬至が過ぎたので、昼の長さもどんどん長くなり、日差しも斜めから差していたものが、だんだん中天に向かって高くなってくる。
とは言え、まだまだ弱々しい太陽光線である。冬日というものを映像的に示すのは難しい。だから、掲出の野見山朱鳥(あすか)の句を挙げることにした。

rouault_20ルオー キリスト

写真はジョルジュ・ルオーの連作<ミゼレーレ>の描く「キリスト」像である。
野見山朱鳥という人については私は多くを知らないが、先にも引用したが

 北風へイエスの言葉つきまとふ・・・・・・・・野見山朱鳥

の句にもある通り、或る拘りがあるのは確かだろう。クリスチャンかも知れない。
「冬日よりあをし」という把握の仕方が独特である。ルオーの<ミゼレーレ>の連作のキリストは、確かに「青いキリスト」を描いているのである。

ここでジョルジュ・ルオー Georges Rouault について少し書いておきたい。
ルオーは1871年パリ北東部のラ・ヴィレット街で生れる。はじめステンドグラス職人の徒弟になる。1890年エコール・デ・ボザールに入学、エリ・ドローネの教室に入る。
92年ドローネの後任としてギュスターヴ・モローが教授に就任、ルオーはモローに師事。
98年モローが亡くなり悲嘆にくれるが、5年後の1903年モロー邸がモロー美術館になり、ルオーは初代館長となる。同年サロン・ドートンヌの創設に参加。
1924年レジオン・ドヌール勲章を受章。1958年2月13日、パリの自宅で死去。87歳だった。国葬がサン・ジェルマン・デ・プレ教会で営まれた。
フランスは熱心なカトリックの国であり、ルオーが生涯をかけてキリストを描いたという縁で絶大な国民的支持を得ていたからである。
キリストの生涯を Miserere ミゼレーレという把握の仕方で描く、という独特の視点を持った画家であり、世俗的にもレジオン・ドヌール勲章受賞や国葬という最高の待遇を受けたのであった。

ルオーの紹介が長くなったが、話を「冬日」に戻したい。

 冬の日や馬上に氷る影法師・・・・・・・・松尾芭蕉

という句が、総じて、日照時間の短い、弱々しく、うすぐらい太陽のことを描いた典型として知られている。
以下、冬日ないしは冬日和、冬晴、冬麗(うらら)などを詠んだ句を引いて終わる。

 冬の日の刈田のはてに暮れんとす・・・・・・・・正岡子規

 山門をつき抜けてゐる冬日かな・・・・・・・・・高浜年尾

 冬の日や前に塞がる己が影・・・・・・・・村上鬼城

 翔けるものなく天城嶺の冬日かな・・・・・・・・五所平之助

 冬の日を鴉が行つて落して了ふ・・・・・・・・橋本多佳子

 死や生や冬日のベルト止むときなし・・・・・・・・加藤楸邨

 冬落暉檻のけものら声挙げて・・・・・・・・三谷昭

 遺書父になし母になし冬日向・・・・・・・・飯田龍太

 山国や夢のやうなる冬日和・・・・・・・・阿波野青畝

 父の死顔そこに冬日の白レグホン・・・・・・・・森澄雄

 寒入日影のごとくに物はこばれ・・・・・・・・桂信子

 冬晴れの晴着の乳を飲んでをる・・・・・・・・中村草田男

 冬日和心にも翳なかりけり・・・・・・・・星野立子

 冬麗や赤ン坊の舌乳まみれ・・・・・・・・大野林火

 冬麗口紅のこる微笑仏・・・・・・・・古館曹人

 冬麗の微塵となりて去らんとす・・・・・・・・相馬遷子


誰彼の生死気になる冬ごもり・・・・・・・・・・・・・・古賀まり子
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    誰彼の生死気になる冬ごもり・・・・・・・・・・・・・・古賀まり子

「立春」を目前にして、今に「冬ごもり」の作品を挙げておかないと時期を失するので急遽のせることにする。

「冬籠」ふゆごもり、とは冬の寒さを避けて、あたたかくした一間にこもって暮らすことをいうが、現代生活においては、そういうことは不可能である。
暑くても寒くても出かけて行って仕事などをしなくてはならないからである。
北国では外に出ずに家にこもる。こたつ、いろり、ストーブの周りで寒さを避けている。
樹木は支えをつけ、花の木も雪囲いをし、家の周りには雪を防ぐ特別の囲いをする。
古代では、冬のうちは、人は静止的な物忌みの禁欲生活に入り、仮死のような状態にあり、復活によって蘇生し、物忌み状態を脱却するのが「はる」であると考えられていた。
自然物も冬には同様の状態になる。それが「冬ごもり」であった。
俳諧では専ら「人」について言うようになった。

松尾芭蕉の

     冬籠りまたよりそはん此の柱

     折々に伊吹を見ては冬籠り

     金屏の松の古さよ冬籠り

与謝蕪村の

     桃源の路地の細さよ冬籠り

黒柳召波の

     住みつかぬ歌舞伎役者や冬籠り

などの句が「冬籠り」の典型的なものであるとされている。
今日では、多分に「比喩」的な意味で「冬ごもり」という表現を捉えた方がよいだろう。
中国からもたらされた表現だが、「一陽来復」という言葉があるように、それまでの季節は、せいぜい忍耐の、雌伏の季節だろうということである。
その方が、「春」になつたときの開放感、喜びも大きい、というものである。

去年の夏は記録的な酷暑だったので、暑気を越せなくて、老人がたくさん死んだ。
私のような齢になると、一年一年が勝負である。 まさに掲出のような心境である。

以下、「冬籠り」を詠んだ句を引いて終わる。

 書きなれて書きよき筆や冬籠・・・・・・・・正岡子規

 冬籠人を送るも一事たり・・・・・・・・高浜虚子

 冬籠座右に千枚どほしかな・・・・・・・・高浜虚子

 人間の海鼠となりて冬籠る・・・・・・・・寺田寅彦

 いまは亡き人とふたりや冬籠・・・・・・・・久保田万太郎

 死んでゆくものうらやまし冬ごもり・・・・・・・・久保田万太郎

 鏡とりて我に逢はばや冬籠・・・・・・・・原月舟

 読みちらし書きちらしつつ冬籠・・・・・・・・山口青邨

 香の名をみゆきとぞいふ冬籠・・・・・・・・竹下しづの女

 夢に舞ふ能美しや冬籠・・・・・・・・松本たかし

 木の洞にをる如くをり冬籠・・・・・・・・上野泰

 相寄りしいのちかなしも冬ごもり・・・・・・・・安住敦

 冬籠伴侶の如く文机・・・・・・・・上野泰

 戦へる闇と光や冬籠・・・・・・・・・野見山朱鳥

 もう急がぬ齢の中の冬籠・・・・・・・・村越化石

 冬ごもり鶏は卵を生みつづけ・・・・・・・・鈴木真砂女

 冬籠文来ぬは文書かぬゆゑ・・・・・・・・高木時子



みぞるるとたちまち暗し恐山・・・・・・・・・・・・・・・・・五所平之助
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──季節の一句鑑賞──冬の風雨3態──

  ■みぞるるとたちまち暗し恐山・・・・・・・・・・・・・・・・・五所平之助

「霙」ミゾレとは、雨と雪が同時にまざり降るのをいう。冬のはじめや春のはじめに降ることが多い。
ちょっとした気温の変化で、雨になったり、雪になったりするし、同じ町の山手は雪なのに、下町ではミゾレのこともある。
掲出の句は映画監督の五所平之助の作品で、私も初めて目にするものである。
私も一度だけ、ここ陸奥(みちのく)の下北半島の「恐山」(おそれざん)には行ったことがある。
ここの祭事のときでもない限り、ただの茫漠とした荒地という感じである。ただ硫黄の匂いが鼻をつき、噴火口なのだと実感する。
霊よせの「いたこ」などが集う時期だけが、おどろおどろしい雰囲気になるのだと思う。
写真①はその風景のひとつ。

「霙」という名詞に対して、この句では「みぞるる」という「動詞」になっている。

 おもひ見るや我屍にふるみぞれ・・・・・・・・原石鼎

 霙るるや灯(ともし)華やかなればなほ・・・・・・・・臼田亜浪

 霙るると告ぐる下足を貰ひ出づ・・・・・・・・中村汀女

 みぞれ雪涙にかぎりありにけり・・・・・・・・橋本多佳子

 霙るるや小蟹の味のこまかさに・・・・・・・・松本たかし

 夕霙みんな焦土をかへるなり・・・・・・・・下山槐太

 みちのくの上田下田のみぞれけり・・・・・・・・角川源義

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  ■樹には樹の哀しみのありもがり笛・・・・・・・・・・・・木下夕爾

冬、風が吹いて、垣根の竹や竿竹などに当たるとき発するひゅーひゅーという音のことを「虎落笛」(もがりぶえ)という。
「もがる」というのは「反抗する」「さからう」「我を張る」「だだをこねる」などの意味を表す言葉で、竿や棒にあたる風が笛のように立てる音である。

 虎落笛子供遊べる声消えて・・・・・・・・高浜虚子

 日輪の月より白し虎落笛・・・・・・・・川端茅舎

 胸郭の裡を想へば虎落笛・・・・・・・・日野草城

 みちのべの豌豆の手も虎落笛・・・・・・・・阿波野青畝

 虎落笛吉祥天女離れざる・・・・・・・・橋本多佳子

 余生のみ永かりし人よ虎落笛・・・・・・・・中村草田男

 虎落笛叫びて海に出で去れり・・・・・・・・山口誓子

 虎落笛ひとふしはわが肺鳴れり・・・・・・・・大野林火

 虎落笛こぼるるばかり星乾き・・・・・・・・鷹羽狩行

 灯火の揺れとどまらず虎落笛・・・・・・・・松本たかし

 来ずなりしは去りゆく友か虎落笛・・・・・・・・大野林火

 牛が仔を生みしゆふべの虎落笛・・・・・・・・百合山羽公

 今日と明日の折り目にふかきもがり笛・・・・・・・・永作火童

001冬景色本命

  ■北風やイエスの言葉つきまとふ・・・・・・・・・・・・野見山朱鳥

冬の季節風は北風で、強く、かつ寒い。シベリア高気圧が発達して、アリューシャン大低気圧に向かって吹く風だと今までは言われてきたが、
今では地球規模の気圧変動が北半球では「偏西風」に乗ってやって来るのだという。
昨年の冬のはじめにヨーロッパに寒波をもたらしたものが、どれだけかの日時を経て、日本に到達したのが、昨年暮からの寒波だという。
おまけに、この偏西風が大きく南に蛇行して寒気を南まで吹き降ろしたものだという。
その偏西風の蛇行の結果、アメリカでは中西部に続いて、北東部でも激しい豪雪に見舞われて大変である。
とは言え、日本海側は吹雪、太平洋側は空っ風というのは変わりないことである。

「北風」と書いて、単に「きた」と読むこともある。
この句で詠まれている「イエスの言葉」というのは、どんな言葉だろうか、読者の方、お教え願いたい。

 北風(きた)寒しだまつて歩くばかりなり・・・・・・・・高浜虚子

 北風にあらがふことを敢へてせじ・・・・・・・・富安風生

 くらがりやくらがり越ゆる北つむじ・・・・・・・・加藤楸邨

 北風(きた)の丘坂なりにわが庭となる・・・・・・・・加藤楸邨

 北風や青空ながら暮れはてて・・・・・・・・芝不器男

 耳傾く北風より遠き物音に・・・・・・・・大野林火

 北風荒るる夜のそら耳に子泣くこゑ・・・・・・・・森川暁水

 北風鳴れり虚しき闇につきあたり・・・・・・・・油布五線

 北風の砂丘を指す馬ならば嘶かむ・・・・・・・・金子無患子


温石の抱き古びてぞ光りける・・・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏
antigorite蛇紋石

──季節の一句鑑賞──冬の暖房3題──

  ■温石(をんじゃく)の抱き古びてぞ光りける・・・・・・・・飯田蛇笏

温石オンジャクとは昔なつかしいものである。
写真①は「蛇紋石」を細工して磨き上げ、いわゆる「温石」用にしたもの。
石を熱湯で暖め、布で包んで身体にあてて暖めたのである。この句の作者は山梨県の昔の人であるから、この頃には普通に見られたものであろうか。
歳時記を見ると、長野県高遠辺で採れる黒い石─その名も温石石も広く用いられたという。また石の代りに「こんにゃく」なども茹でて使われたという。
これを器具化したものが「懐炉」であり、これにも色々のものがあった。
私の母も懐炉のことを「おんじゃく」と呼んでいた。これも「温石」の本来のものの呼び名が変化して使われていたものである。

 草庵に温石の暖唯一つ・・・・・・・・高浜虚子

 温石のただ石ころとさめにけり・・・・・・・・野村喜舟

 温石や衾に母のかをりして・・・・・・・・小林康治

 温石の冷えて重しや坐薬了ふ・・・・・・・・木附沢麦青

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  ■みたくなき夢ばかりみる湯婆(たんぽ)かな・・・・・・・・久保田万太郎

「ユタンポ」は今でも使われているもので、ブリキ製、プラスチック製、ゴム製などさまざまある「保温器具」である。 掲出したのは「銅」製で高価なもの。
中に入れるのは熱湯だから、それ以上には過熱しないから、安全で、むっくりした温さのものであった。
『和漢三才図会』には「湯婆 太牟保(たむぽ)。唐音か。按ずるに湯婆は、銅をもつてこれを作る。大きさ、枕のごとくして、小さき口あり。湯を盛りて褥傍に置き、もつて腰脚を暖む。よりて婆(うば)の名を得たり。竹夫人とこれと、もつて寒暑懸隔の重器たり」と書かれている。寒さの折の身辺の必要品であったことを面白く記している。
折しも厳しい寒さの今冬とあって、しかも節電も言われて「ユタンポ」が見直されて、よく売れているらしい。
私は二月七日生まれだが、この年は大変寒い年で、私は病弱でもあったから、「陶」製の、かまぼこ型のユタンポを体の両脇に二個抱えて寝かされていたらしい。
上部に穴があって、お湯を注ぐ式のものである。 母から、よく聞かされた。

 碧梧桐のわれをいたはる湯婆かな・・・・・・・・正岡子規

 湯婆の一温何にたとふべき・・・・・・・・高浜虚子

 寂寞と湯婆に足をそろへけり・・・・・・・・渡辺水巴

 老ぼれて子のごとく抱くたんぽかな・・・・・・・・飯田蛇笏

 湯婆や忘じてとほき医師の業・・・・・・・・水原秋桜子

 湯婆抱く余生といふは侘しくて・・・・・・・・栗生純夫

 ゆたんぽに足あたたかく悲しかり・・・・・・・・三浦ふみ

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  ■手あぶりや父が遺せる手のぬくみ・・・・・・・・・・・北さとり

「手焙」とは小さな個人用の火鉢で、手をあぶるのに使うが、膝に乗せるほどのものもある。陶器、金属などで作る。形も色々である。
蓋がついて穴の開いているもの、つるや紐をつけて持ち運びできるようにしたもの、籐のかごをかぶせたものなどある。
数人から十数人の宴席などでは、その人数分の「手あぶり火鉢」を各人の席の横に配置する。
昔は建物や部屋全体を暖めるということはしなかったから、「火鉢」というのが唯一の暖房器具だった。「手炉」とも言う。
今では、こういう小さな火鉢は室内装飾用に売られていて、一個数千円からある。

 ぼんのくぼ夕日にむけて火鉢かな・・・・・・・・小林一茶

 手あぷりに僧の位の紋所・・・・・・・・高浜虚子

 かの巫女の手焙の手を恋ひわたる・・・・・・・・山口誓子

 彫金の花鳥ぬくもる手炉たまふ・・・・・・・・皆吉爽雨

 かざす手の珠美しや塗火鉢・・・・・・・・杉田久女

 手あぶりや雪山くらき線となりぬ・・・・・・・・大野林火

 縁談や手焙の灰うつくしく・・・・・・・・・萩原記代

 手炉の火も消えぬお経もここらにて・・・・・・・・森白象





瀬田川の霧も立木の観世音峰吹く風に晴るる身の憂さ・・・・・・・・新西国三十三ケ所霊場第20番ご詠歌
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   瀬田川の霧も立木の観世音
     峰吹く風に晴るる身の憂さ・・・・・・・・新西国三十三ケ所霊場第20番ご詠歌


立木観音は京都府と滋賀県の府県境─厳密に言うと大津市域にある。
瀬田川洗堰(南郷洗堰)から瀬田川沿いに南に2キロほど下がると、右手に立木観音(正式名は安養寺=浄土宗)の登り口が見えてくる。

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鹿跳(ししとび)渓谷に向かって聳える立木山、その斜面の急な石段を約700段ほど登りつめると、小さいながら落ち着いた雰囲気の立木観音の境内が広がる。
700段の階段というと、四国の金毘羅さんの石段の数より多いと、同行のS君は言う。私は金毘羅さんは知らないが、彼は行ったことがあるので間違いなかろう。
ここで立木観音の由来について。
石段途中に説明文が立っており、そこに詳しく書いてある。
弘仁6年(815年)、諸国を修行中の弘法大師が、瀬田川のほとりに立ち寄ったところ、対岸の立木山に光を放つ「霊木」があるのが目にとまった。
しかし急な流れの瀬田川を渡りあぐねていると、突然白鹿が現われ、その背に弘法大師を乗せて、霊木の前まで導き、そこで観世音菩薩に変化し、虚空の中に消え去った。

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 ↑境内にある「白鹿に乗る弘法大師」の像。

この奇蹟に感じ入った弘法大師が、霊木に観世音菩薩像を刻んだのが、立木観音の始まりという。
弘法大師が観音さまを刻んだのが、ちょうど42歳の厄年ということで、古くから厄除け観音として親しまれているという。
これらの伝承は、現在も「地名」などに残っており、少し下流に架かる橋は「鹿跳橋」(ししとびばし)と呼ばれる。この橋の辺りから下流は「宇治川」と名前が変わる。
新年に厄除けの初詣に参詣する人が多く、松の内は登りも下りも混雑する。
先年は同じくS君の案内で1月3日に詣でたが、人が多くてトコロテンのように後から押されるので、息が切れても、足が痛くても、ろくに休息できないので、
今年は1月中旬の平日の一日を選んで参詣した。人が少なくて、途中で休むのも自由で、体が楽だった。
私は石段の下りに弱く、先年は膝がガクガクして、俗にいう「膝が笑う」症状で数日泣いたのである。

前年にいただいた「お札」を返納し、ご祈祷をしてもらい、新しいお札をいただいて帰る。
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 ↑ 本堂の裏側

ここから急な狭い石段を二百メートルほど行くと「奥の院」がある。

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↑ 奥の院

掲出した和歌だが、ここは新西国三十三ケ所霊場の第20番にあたり、このお寺を詠んだものである。
「霧も立木の」という言葉は「懸けことば」になっており、「霧も立ち」の意味を懸けてあるのである。
西国ご詠歌にも同様の趣向の歌が多い。
ついでに言うと、「西国三十三ケ所霊場」の寺は天台宗、真言宗が殆どである。
それらに含まれない他宗派の寺を集めて「新西国三十三ケ所霊場」が発願されたものと思われる。


三井修歌集『海図』を読む・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
海図

──新・読書ノート──

      三井修歌集『海図』を読む・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・株式会社KADOKAWA 2013/12/27刊・・・・・・・

いつもお世話になっている三井修氏の八番目の歌集である。
先ずは旺盛な作歌活動に敬意を表しておきたい。
三井さんは今をときめく短歌結社「塔」の選者であり、また角川書店・月刊誌「短歌」の巻頭作家でもあられ、他の短歌総合誌からの原稿依頼も多いので、歌の数も多いのは当然である。
この歌集には550首の歌が収録されているという。2008年から2012年までの歌だが、前歌集『薔薇図譜』収録のものと時期的に重なっている。

はじめに発行元の「株式会社KADOKAWA」なる見慣れない出版社について解説しておく。「角川書店」のことである。
昨年、統括会社である「角川ホールディングス」は角川書店、角川学芸出版など数社を合併して、この会社として上場した。
むかし風雲児として一世を風靡していた西某のアスキーなども吸収合併したのである。
しかし、いずれにしても社名などを弄り過ぎである。
出版事業だけではなく、角川映画などもあるので会社としての実体に合わなくなったのは理解できるが、「角川書店」の名は「ブランドカンパニー」という見慣れないセクションになった。
せめて本の表示には、「角川書店」の名を出してほしかった。
角川書店から殆どの本を出してもらった一人としての「想い」である。敢えて書いておく。

さて、三井修氏の本のことである。
この歌集の題名の「海図」は、「あとがき」によると

    風の吹く晩秋の午後一枚の海図を求め街へ出でたり

という歌から採られているという。
題名に選ばれた通り、この歌は、この歌集一巻を通底するものとして秀逸である。
上にリンクに貼ったWikipediaに載る略歴の通り、三井さんはアラビア語の専門家として大手貿易商社のアラブ駐在員として、かの地に長く居られた。
いわば、現代のマルコポーロのような存在であったから、その足跡を辿るには「海図」が必要だった。

先にも書いたが歌の数が550首と多いので、私の引く歌の数も多くなってしまうが、ご了承を得たい。

     *帰り道車窓より見る能登の海無数のうさぎがしきり跳びいる
     *六十年前に私が生まれたる川二筋の流れる街よ
     *生まれたる金沢育ちたる能登の いずれも美しいずれも遠し
     *金沢の道路はなべて鍵曲りどこの庭にも雪吊り見せて
     *祝祭のごとくに川を遡上する素魚あるべし能登は今年も
     *父母なくて長の兄すら亡くなりて我が育ち地に知る人少なし
     *バーボンの水割り灯下にふふみつつ思えり月の河ゆく鮎を
これらの歌には、故郷・能登のことが詠われている。
掲出した本の画像に読み取れると思うが、編集者は「帯」に

   <異国で暮らした経験と、
    年ごとに募る望郷の念。>

と書く。 けだし当たっているだろう、と思う。
一首目の「うさぎが跳ぶ」というのは、海に起つ三角波のことを、能登では、こう表現するのだという。
二首目の川二筋というのは、男川と呼ばれる「犀川」と、女川と呼ばれる「浅野川」のことだという。
   <変哲もなき寺にしてこの庫裏に室生照道泣きていたるか>
という歌が、この項目の並びに載っていて、庶子として生まれて寂しい少年期を過ごした「室生犀星」のことどもに触れていて秀逸である。
五首目の歌の「素魚」とは、シロウオ(素魚、学名 Leucopsarion petersii )のことで、、スズキ目ハゼ科に分類される魚の一種である。一種のみでシロウオ属 Leucopsarion を構成する。
透明な体の小魚で、日本、韓国に分布し、食用に漁獲される。シラウオとは生態や姿が似ていて混同しやすい。

     *半年に一回必ず見る夢でパスポート失くし飛行機に乗れぬ
     *神保町一誠堂の二階隅イスラム書あり今も変わらず
     *ニッポンに生まれ働き歌作りアラブへ行きたり のう石仏よ
     *アラビアの黒き原油を封じたるペーパーウエイトに茂吉を押さえる
     *アラビアにありし七年七度を日本の紅葉に逢わざりしかな
     *中東を講じて歌の会に出て家事すれば一日はオムニバスなり
     *入社して覚えしことの一つにて綿糸基準番手デニール換算表
     *句読点一つ打つがに職退きぬIDカード保険証返し
     *ムスリムで宦官鄭和の出帆は永楽三年夏の日のこと

これらの歌には総合商社の駐在員としての「たつき」の日々のことが詠われている。
一首目の歌は、前の歌集でも詠われたことがある記憶があるが、それだけ真に迫った「夢」なのだろう。
夢というのは現実には有り得ないことも「深層心理」として突然出てくるもので,同様な夢は私にも経験がある。
それも壮年期、初老の頃のことで、今の私のように老年期に入ってしまうと、見ることもなくなるのが、むしろ哀しいものである。
六首目の歌のように、中東の専門家として、シンポジウムなどの講師として話をさせられるのである。そして、歌会に出席し、家事をこなす、忙しい作者の姿が彷彿とする。
「オムニバス」という表現が何とも、ぴったりである。こういう日常の些事も歌になるという「お手本」のような歌である。
その次の歌の「綿糸基準番手デニール換算表」というのも、商社マンとして「売り込みなど」何でもやらなければならない立場を想像させて秀逸である。
最後の歌にある「ムスリムで宦官鄭和」というのは不明にして私は知らなかったので、蒙を啓いていただいた。感謝申し上げる。

この歌集には「継母」を詠ったのがいくつかある。
ここに引用することはしないが、亡くなった実母と、継母との関係というのは、さぞや微妙なものがあるのであろう。

     *眠りへと落ちゆく刹那胸中の雪野を母が過りぬ 多分
     *スポイトに冬のインクを吸い上げる兄の形見の黒パーカーに

ここに詠まれる「母」が実母なのか継母なのか、私には判じかねる。
二首目には早く亡くなった兄のことが詠まれる。

     *この朝磯菊咲きたり長の子に赤子が生まれ磯菊咲きたり
     *一年に二時間のみを帰りくる長の子寡黙その二時間も
     *髪切りてうなじ涼しき幼子は二十二世紀までを生くべし
     *乙の子は大学院生この朝も洗面台で鉢合わせする
     *卓上の子のケータイに着信の点滅あれど触れないでおく

これらの歌からは作者には二人の男の子があり、そのうちの長男は、すでに結婚して「孫」が居ること。
めったに実家には来ないことなどが判る。今どきの家庭事情などというものは、みな、こんなものであろうか。
息子にしろ、娘にしろ今どきの親子関係なんて、こんなものであろうか。濃密な親子の会話など望むべくもないか。
一首目の歌は「磯菊咲きたり」というフレーズのルフランが生きている。修辞上の手本のようで的確である。 学ばれよ。
以下、私の好きな歌を順不同で引いて終わりたい。

     *蝶ひとつ宙に放ちて少年は自が指先の銀微光見る
     *尻尾すと立ててすっくと四肢伸ばし猫はたまさか直線から成る
     *国立の駅近くなる<邪宗門>壁に蔦這う茶房なりしが
     *見舞いには鶏卵なりき籾殻を探れば白きぬくとさありき
おっしゃるように昔は病気見舞いというと「卵」を持参した。 農村では自家で飼うニワトリの卵だった。
「鶏卵」で思い出すのは、「塔」主宰夫人の河野裕子が親しい人には「玉子ご飯」にせよと生卵を贈る癖があったらしい。
「塔」の某女史にも、そんなつもりで贈ったが、その家はインテリで、「生卵のご飯かけ」というような習慣がなかったので困惑したという話が巷間伝わっている。
いかにも河野裕子らしい、関西人らしい「おせっかい」の典型である。 その裕子も死んで何年も経つ。儚いものである。
     *ドロップの缶を逆さに振りて出す最後の一粒薄荷味なり
     *スプーンにて朝の卵の頭を叩くルッコラの苦さ噛みしめながら
     *思いいしよりも小さき流れなり野火止用水雨の中なり
     *身の丈に生きむ例えば夏の土手次々追い越されながら歩まん
     *昼に飲む焼酎<残波>紫の薄く透けいるカットグラスに
この歌は巻末に載るもので、「波」と「ひる」という言葉を使った題詠の試みによるものである。
主宰される同人誌「りいふ」の企画によるものだと思われるが、そんな企画を離れても、佳い歌である。
     *「御主ゼス・キリスト御パッションの事」フロイス訳福音書の一章
     *平文氏著『和英語林集成』は動詞を<活きコトバ>と称す
この二首はルイス・フロイスの辞書に当たったところから作歌されたものであろうが、読書人として秀逸の歌である。
     *今日のわがVAIOは機嫌悪ければひと休みさせ水割り作る
     *ハングルの如き文字と思いつつ「咎」という字を白紙に書く
     *設定を誤りトースト焦げいたり機密情報漏洩したり
この歌は、掲載順から見て、以前の作だろうが、現今の「機密情報漏洩」罪などと考え併せて、今日的意味を有していると思う。
     *朝得たる比喩の一つを抱卵のごとくにひと日温めいたり
     *富士見坂今は富士など見えずして春の猫行くしたり顔して
     *木箆よりベシャメルソースの滴垂る創世神話の第一章めき
     *今日のこの空こそ真澄というべしや発ちたる鳥のたちまちに消ゆ
     *伝言板いつから駅に消えたるや昆虫の如き若きら行き交う

こうして見てくると、作者の「才」(ざえ)が、さりげなく詠まれながら、きらりとして光るのを感じ取るのである。
多くの読者の共感を得るのは間違いない巧著である。
ご恵贈に感謝して、ここに紹介する次第である。 有難うございました。


   

霜柱踏めばくづるる犯したり・・・・・・・・・・・・・・・油布五線
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  霜柱踏めばくづるる犯したり・・・・・・・・・・・・・・・油布五線

この句は、霜柱を踏むと、ざくりと崩れる様子を、人間が「犯した」と表現して秀逸である。
こういうのを「擬人化」した描法というが、きわめて的確な表現である。

「霜柱」は、寒さがきびしい冬でないと見られない。
土の中に含まれる水分が凍って、毛細管現象によって、その下にある水分が次々と供給されて氷の柱が成長し、厚さ数センチから10センチ以上にもなるのである。
霜柱は、土があるところなら、どこでも発生するものではない。
私の子供の頃には、今よりも寒さが厳しかったので、学校へ行く道すがらの脇の畑などでも、よく見かけて、わき道に逸れてザクザクと踏んでみたものである。
総体として「暖冬化」の傾向が進んでいるので、霜柱は段々見られなくなってきた。

otenki07-02霜柱本命

写真②は発生した霜柱がカール(反った)したものである。
関東ローム層の土粒の大きさが、霜柱の発生に丁度よいそうである。
岩波書店刊の「中谷宇吉郎全集」第2巻に、自由学園で行われた「霜柱の研究」について書かれたものが載っている。
それによると紅殻の粉や、澱粉類、ガラスを砕いた粉などを用いた霜柱の発生実験をしているが、赤土だけから霜柱が発生したそうである。
その赤土も、粒の粗いもの、細かいものに分けてやったところ、粒が粗くても、細かくても霜柱は発生しなかったという。
なお、中谷宇吉郎は、世界で初めて雪の人工結晶を作った学者で、これらの文章は戦前に書かれたものである。文筆上では夏目漱石に私淑した。
雪のエッセイなどは私の子供の頃に読んだ記憶がある。

simoba1植物シモバシラ

写真③は「シモバシラ」という名の植物である。
この草はしそ科の植物で学名を keiskea japonica という。これは明治時代の日本の本草学者の伊藤圭介氏に因むものである。
秋10月頃に枝の上部の葉の脇に片側だけにズラッと白い花を咲かせる。
冬になると、枯れた茎の根元に霜柱のような氷の結晶が出来ることから、この名になったという。
冬に枯れてもなお水を吸い上げるが、茎がその圧力に耐えきれずに破裂してしまい、水が外にブワッと出て凍る、という。

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植物のシモバシラの凍結した写真を見つけたので④に載せておく。
写真はリンク ↑ に貼ったサイトから拝借したものである。気象条件によって「氷」の形も、いろいろあるらしい。

以下、霜柱を詠んだ句を引いて終る。

 掃きすてし今朝のほこりや霜柱・・・・・・・・高浜虚子

 霜柱ここ櫛の歯の欠けにけり・・・・・・・・川端茅舎

 落残る赤き木の実や霜柱・・・・・・・・永井荷風

 霜柱しらさぎ空に群るるなり・・・・・・・・久保田万太郎

 飛石の高さになりぬ霜柱・・・・・・・・上川井梨葉

 霜柱枕辺ちかく立ちて覚む・・・・・・・・山口誓子

 霜柱俳句は切字響きけり・・・・・・・・石田波郷

 霜柱倒れつつあり幽かなり・・・・・・・・松本たかし

 霜柱顔ふるるまで見て佳しや・・・・・・・・橋本多佳子

 霜柱傷つきしもの青が冴え・・・・・・・・加藤楸邨

 霜柱兄の欠けたる地に光る・・・・・・・・西東三鬼

 霜柱歓喜のごとく倒れゆく・・・・・・・・野見山朱鳥

 亡き友は男ばかりや霜柱・・・・・・・・秋元不死男

 霜柱深き嘆きの声に溶け・・・・・・・・野見山朱鳥

 霜柱踏めばくづるる犯したり・・・・・・・・油布五線

 霜柱踏み火口湖の深さ問ふ・・・・・・・・横山房子




大寒の茜消ゆるに間ありけり・・・・・・・・・・・・・・・河合未光
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     大寒の茜消ゆるに間ありけり・・・・・・・・・・・・・・・河合未光

今日1月20日は二十四節気の「大寒」である。寒さの最もきびしい時である。
今年は、特に北極の寒気団が南に蛇行して、寒気が日本列島にも襲いかかり、厳しい寒さになっている。
とは言え、そろそろ梅、沈丁花、水仙、椿などが咲きはじめる。
もちろん日本列島は南北に長いから、場所によっては遅速があるのは当然である。
私の記事は、住んでいる「京都」を基準としているので了承されたい。

この頃の寒さを形容して、『年浪草』には、「栗烈として極まれり」という。
そのような峻烈な寒さの中で、寒さに強い花から咲きはじめて、春が用意されてゆく。
日本人の感性というのは、寒さに対しても、さまざまの表現を見せる。

「寒」に関していうと、寒に入って4日目が「寒四郎」、9日目を「寒九」と表現する。
北陸では「寒の入り」の日に「あずき餅」を食べ、これを「寒固」(かんがため)と称するらしい。
これは寒の入りに小豆を食えば、寒気にあたらず、という験(げん)かつぎらしい。

 うす壁にづんづと寒が入りにけり・・・・・・・・小林一茶

 宵過ぎや柱みりみり寒が入る・・・・・・・・小林一茶

のような句は、寒の感じをよく捉えている。
大陸高気圧が強いか弱いかによって、寒さや雪の程度が決まる。
この寒さの最もきびしい30日間の中に、小寒、大寒と呼び名を定めて、心の身構えをしたわけである。
以下、寒、大寒などの入った句を引いて終る。

 禽獣とゐて魂なごむ寒日和・・・・・・・・西島麦南

 背にひたと一枚の寒負ふごとし・・・・・・・・原子公平

 寒きびし一刀彫のごとくなり・・・・・・・・鈴木青園

 胎動を夫と分つや寒ゆるむ・・・・・・・・上田紀代

寒三日月凄しといひて窓を閉づ・・・・・・・・藤田烏兎

 松籟も寒の谺も返し来よ・・・・・・・・小林康治

 大寒の埃の如く人死ぬる・・・・・・・・高浜虚子

 大寒や転びて諸手つく悲しさ・・・・・・・・西東三鬼

 大寒や老農死して指逞し・・・・・・・・相馬遷子

 大寒の一戸もかくれなき故郷・・・・・・・・飯田龍太

 大寒の牛や牽かれて動き出す・・・・・・・・谷野予志

 薄日さし荒野荒海大寒なり・・・・・・・・福田蓼汀

 大寒の力いつぱい落つる日よ・・・・・・・・下村非文

 大寒ののつしのつしと来る如く・・・・・・・・中嶋音路

 大寒の堆肥よく寝てゐることよ・・・・・・・・松井松花

 大寒の鶏目を張つて摑まるる・・・・・・・・芦内くに



みちのくの町はいぶせき氷柱かな・・・・・・・・・・・・・・・・山口青邨
gal18.19つらら

   みちのくの町はいぶせき氷柱(つらら)かな・・・・・・・・・・・・・・・・山口青邨

もうすぐ「大寒」であり、一年中で一番寒い時期である。
京都も連日、日中の最高気温も4度、5度という冷たさで、冷蔵庫、冷凍庫の中にいるような日がつづく。
今日は、そんな寒さに因んで、「氷」「氷柱つらら」「氷湖」などについて書きたい。

掲出句については、少し解説が必要だろう。
青邨の句には「いぶせき」という、あまりなじみのない表現がある。
古語辞典を引くと「いぶせし」という「ク活用の形容詞」は
①気が晴れない。うっとうしい。②様子がわからず気がかりだ。気が休まらない。③不快である。の意味だと書かれている。
言葉の意味は、①②③のように挙げられているが、一番元の意味は①であり、番号が増える順に派生した用法ということになる。
この句の場合の「いぶせき」というのは、「いぶせし」の連体形ということだが、意味としては、②の「気が休まらない」辺りがぴったり来るだろうか。

われわれ暖地に住むものは、雪が何メートルも積もる映像を見ては、「こんなところに住んでみたい」などと簡単に言うが、
そんな豪雪地帯に毎日居住する人にとっては、雪との格闘の毎日であり、深刻な「気が休まらない」「鬱陶しい」ことなのである。
話は飛ぶが、台湾の人は亜熱帯であるから、平生に雪は知らないわけで、台湾からの観光客には北海道の冬は人気があるらしい。
というのは、先に私が書いたことと同じ心理状態ということになる。地元の悩みも知らずに、珍しいもの見たさ、ということである。

 櫓の声波を打つて腸(はらわた)氷る夜や涙・・・・・・・・松尾芭蕉

 氷上や雲茜して暮れまどふ・・・・・・・・原石鼎

 蝶墜ちて大音響の結氷期・・・・・・・・富沢赤黄男

これらの句は「凍てる」風物を単に写生するのではなく、鋭く「心象」に迫るものがある。
三番目の赤黄男の句は「前衛」俳句と呼ばれるものである。
以下、「つらら」を詠んだ句を引いて終る。

 遠き家の氷柱落ちたる光かな・・・・・・・・高浜年尾

 一塊の軒の雪より長つらら・・・・・・・・高野素十

 楯をなす大き氷柱も飛騨山家・・・・・・・・鈴鹿野風呂

 絶壁につららは淵の色をなす・・・・・・・・松本たかし

 夕焼けてなほそだつなる氷柱かな・・・・・・・・中村汀女

 月光のつらら折り持ち生き延びる・・・・・・・・西東三鬼

 胃が痛むきりきり垂れて崖の氷柱・・・・・・・・秋元不死男

 嫁ぐ日来て涙もろきは母氷柱・・・・・・・・・中尾寿美子

 ロシア見ゆ洋酒につらら折り入れて・・・・・・・・平井さち子

 みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ・・・・・・・・鷹羽狩行



火事を噴きあげては町の密集す・・・・・・・・・・・・・・百合山羽公
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   火事を噴きあげては町の密集す・・・・・・・・・・・・・・百合山羽公

「火事」というのは「冬」の季語である。そう言われると、冬には火事が多いから、なるほど、と納得する。
一年中、火事はどこでも起こっているし、化学的な火災もあるが、俳句の題材になるのは、何と言っても「人家」の火事だろう。
近年は民家の火事が多い。暖房器具の不始末か、焼け死ぬ人も多発しており、消防が広報の車を出して注意を呼びかけている昨今である。
逃げ遅れて死ぬのは老人と子供が多い。可哀そうなことである。

kasai5s火事

私の住む所には、今は常設の「消防署」があるが、昔の村のときには、そんなものはなく、 「消防団」が唯一のものであった。
僅かな金額の手当ては出たが、基本的にはボランティアであったが、土着の住民にとっては青年期に達すると半ば強制的に入らざるを得ない性質のものだった。
少年期を脱したばかりの頃は「前髪」と称する使い走りをさせられるのであった。農村青年にとっては、一種の「通過儀礼」のようなものであった。
私は学校に行っていたので、そういう「前髪」的なことは経験したことがない。
私が家に帰って「消防団」に入ると、すぐ役員をさせられた。二三年後には旧村単位の「分団」長をさせられた。
私たちの「市」(当時は「町」であった)には分団が四つあったのである。私の下には副分団長以下、支部長四人、総勢約100名が居たのだった。
私の任期は一年だけで助かった。火事は任期中に一度あっただけだが、この仕事は火事だけではなく、水害などにも狩り出された。
治安を保つ一面も担わされていたのだった。
分団長の上には本団の団長、副団長が居た。
昔は田舎では、それらの役に就くことは名誉なこととされていたから、分団長クラスから上は、もっぱら飲み食いや遊興が主な仕事で、30代の血気盛んな頃であるから、
よく飲み歩いたものである。
その頃から私は酒には弱く、付き合いには閉口したが、逃げるわけにはゆかず、今から考えると、よく勤めたものだと思う。

以下、歳時記に載る「火事」の句を引いて終る。

 火事鎮むゆらめきありて鼻のさき・・・・・・・・飯田蛇笏

 火事見舞あとからあととふえにけり・・・・・・・・久保田万太郎

 粥腹はうつつの夢によべの火事・・・・・・・・石川桂郎

 火事といへば神田といへば大火かな・・・・・・・・岡本松浜

 寄生木やしづかに移る火事の雲・・・・・・・・水原秋桜子

 遠き火事哄笑せしが今日黒し・・・・・・・・西東三鬼

 火事を見る脳裡に別の声あげて・・・・・・・・加藤楸邨

 焼跡の夜火事の雲や押しこぞり・・・・・・・・石田波郷

 泣く人の連れ去られゐし火事明り・・・・・・・・中村汀女

 火事遠し白紙に音のこんもりと・・・・・・・・飯田龍太

 暗黒や関東平野に火事一つ・・・・・・・・金子兜太

 また青き夜天にかへる火事の天・・・・・・・・谷野予志



鰤網に縋る蟹あり夜明けつつ・・・・・・・・・・・・・・・・・吉沢卯一
352鰤網漁

    鰤網に縋る蟹あり夜明けつつ・・・・・・・・・・・・・・・・・吉沢卯一

鰤(ぶり)のおいしい季節になってきた。
鰤の産地としては「富山」湾が有名である。「鰤網」という大きな定置網で捕えるのである。
鰤は「出世」魚と言われて、関西ではツバス→ハマチ→メジロと大きくなってブリとなる。
念のために書いておくが、関東では呼び名が異なり、同じ時期のものが、ワカシ→イナダ→ワラサからブリとなるという。
掲出写真は「鰤網漁」の体験催しのものである。玄人の漁師は救命胴衣などはつけない。

6f4397f3f4c4659bfacee095c623922a鰤

ブリは、ぶり科の魚で、紡錘形の体形、青緑の体色で、体の中央に黄色い線が走っている。
秋から春にかけて、産卵のために陸地沿いに回遊する。
先に書いたように成長して「出世」し、90センチ以上になって、はじめてブリと呼ぶのである。
寒中に獲るので「寒鰤」と称する。漁期にあたる12月、1月に鳴る雷を「鰤起し」と呼ぶ。
『本朝食鑑』に「およそ冬より春に至るまで、これを賞す。夏時たまたまこれあるといへども、用ふるに足らず。かつて聞く、鰤連行して東北の洋より西南の海をめぐりて、丹後の海上に至るころ、魚肥え脂多くして味はなはだ甘美なり。ゆゑに丹後の産をもつて上品となす」とある。
当時は都が京都であったから、最寄りの海というと丹後ということになるので、ここの産が珍重されたのであろう。

鰤の料理としては、刺身のほかに照り焼き、ブリ大根、鰤の「沖すき」鍋なども季節の味覚である。

20080224_434337鰤大根

鰤ないしは鰤網を詠んだ句は多くはないが、それを引いて終る。

 鰤網を越す大浪の見えにけり・・・・・・・・前田普羅

 鰤網を敷く海くらし石蕗(つは)の花・・・・・・・・水原秋桜子

 鰤敷や隣鰤場も指呼の中・・・・・・・・鈴鹿野風呂

 血潮濃き水にしなほも鰤洗ふ・・・・・・・・山口誓子

 鰤が人より美しかりき暮の町・・・・・・・・加藤楸邨

 二三言言ひて寒鰤置いてゆく・・・・・・・・能村登四郎

 大き手もて鰤つかみ佇つ老いし漁婦・・・・・・・・柴田白葉女

 青潮のもまれ躍れり鰤と見ゆ・・・・・・・・出羽里石

 鰤と蜜柑夕日どやどや店に入る・・・・・・・・小原俊一

 虹の脚怒涛にささり鰤湧く湾・・・・・・・・楠美葩緒

 鰤来るや大雪止まぬ越の岬・・・・・・・・羽田岳水

 鰤網に月夜の汐のながる見ゆ・・・・・・・・原柯城

 鰤敷や海荒れぬ日は山荒るる・・・・・・・・西本一都

 
古暦雑用帖にまぎれけり・・・・・・・・・・・・・・・・・正岡子規
暦

   古暦雑用帖にまぎれけり・・・・・・・・・・・・・・・・・正岡子規

昨日は1月15日いわゆる「小正月」であった。7日までを「松の内」というが、昔は「小正月」までが、お正月だった。
戦後の一時期、この日が「成人の日」となったことがあるが、近年では「成人の日」は移動休日になって、「第二月曜日」が、この日となって、何だか締まりのない休日になってしまった。
私の地方では、1月14日の夜に町内の者が寄って「日待講」を催し、小正月の朝を迎え、当日の朝に「注連飾り」や「古暦」、神社や寺院の「お札」などを持ち寄って
「とんど」という焚火を焚いて、それらを燃やしたものである。
「小正月」には「小豆かゆ」を炊いて、その中に鏡餅の固くなったものを刃物で細かく切って食べたものである。

掲出した子規の句は、無用になった昨年の「暦」が、うち捨てられて粗末に扱われる様を、うまく描いている。

    古暦吹かるるや三輪の町はづれ・・・・・・・・与謝蕪村

この蕪村の古句は大和の三輪明神の町はずれの風景を心象ふかく描出している。三輪山を御神体とする「三輪」ならではの心象である。他の町の名には置き換えがたいものである。

    一日もおろそかならず古暦・・・・・・・・高浜虚子

この句も「古暦」への、なみなみならぬ愛着を盛っている。今は「古暦」になったとは言え、旧年中は、さんざお世話になった暦なのである。
現代は、こういう「暦」などにも世話になることはないが、昔は何事をするにも「暦」にはお世話になったのである。農事なども旧暦でする方がぴったり来たものらしい。

    大安の日を余しけり古暦・・・・・・・高浜虚子

この句は、まだ正月前の暮のことであろう。年内に、まだある「大安」の日のことが気になって「古暦」を捨てられずに居る、という意味であろうか。

    古暦日々の消えゆくたしかさに・・・・・・・・井沢正江

光陰矢のごとし、というが「日々の消えゆくたしかさ」という把握の仕方が秀逸である。

    古暦ひとに或る日といふ言葉・・・・・・・・長谷川照子

歳月というものは水の流れのようで、堰き止められるものではないが、人は誰しも「或る日」というのを記憶に留めたがるものである。そんな心象に迫るものとして非凡である。

    古暦焚く束の間の焔なりけり・・・・・・・・菊地久城

この句も「古暦」に多分の愛着を示して、それを燃やした後になっても「束の間の焔」というところに未練を残していて忘れがたい。
みなさん、いかがだろうか。


オモシロク狂ツテ舞ヘバ/身ハ幽谷ニ浮ク鶴ノ/声ハ大気ヲツン裂イテ/スガタハ空ノ青ニ染ム・・・・・・・・大岡信
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       閑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

     ハツ春ノ
     空ニタチマチ湧キイデテ
     羽音モタテズ狂ヒタツ
     雪サナガラノ思ヒカナ

     オモシロク狂ツテ舞ヘバ
     身ハ幽谷ニ浮ク鶴ノ
     声ハ大気ヲツン裂イテ
     スガタハ空ノ青ニ染ム

     閑閑タリ
     ヒトリ遊ビノ
     小宇宙

     巌ニ星モ エイ
     咲カシテミシヨウ
----------------------------------------------------------------------
この詩は学習研究社1985年12月刊の「うたの歳時記」─冬のうた、に載るものである。
5、7という日本の伝統的な音数律に則った詩作りになっている。
日本の現代詩作家も、こういう日本古来の韻律に時には立ち返ることもあるのである。

掲出した写真は北海道の鶴居村で舞う鶴の姿である。
鶴は春の繁殖期を前にして、もう番いの間で愛を確かめる愛技ともいえる「舞い」をはじめるのである。
涙ぐましい自然の摂理とも言えようか。
今日は「小正月」というハレの日であるから、「瑞鳥」である鶴に因む詩を掲げる日として、ふさわしい、と思って出しておく。



干鮭も空也の痩せも寒の中・・・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉
c0061761_1244391干し鮭
  
  干鮭も空也の痩せも寒の中・・・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

1月5日に二十四節気の「小寒」に入った。いわゆる「寒の入り」であり、大寒の1月20日を経て、節分(立春の前日)までの30日間を「寒」という。
この間を「寒の内」と言い、寒さの一番きびしい頃である。
今年は北極寒気団が大きく蛇行して偏西風で流れ、アメリカでは中西部などで厳しい大寒波襲来で凍え切っている。
日本の寒さも、アメリカほどではないが、それと似た別の蛇行による寒気によるものである。
この冬は、昨年暮れからプレ・クリスマス寒波と、年末押し詰まってから今冬一番の寒波が襲来して、また今年に入っても上旬から中旬にかけて寒波が来て、ところによっては吹雪嵐になり、
今年一番の寒さとなった。例年のような「三寒四温」とはなっていない。これは、しばらく続くと言われている。

10空也上人像

芭蕉の句に因んで、写真①には「干し鮭」を、写真②には「空也上人像」を載せた。
空也上人像については、多少の説明が必要だろう。
「空也」上人は「念仏行者」の始祖と言われる人で「南無阿弥陀仏」と唱えながら京の町や、日本中の村々を歩いて「念仏」行を提唱して回ったという人である。
上人像はあちこちにあるらしいが、この像は、京都の北西の端に聳える愛宕山の尾根を東に30分ほど下る月輪寺にある。
この寺は、寺伝によると藤原京時代の大宝4年(704年)に泰澄が開山した寺で、空也はここで修行したという。
像の口の前に変なものが出ているが、これは「仏」さまが数体、空也の口から出ているもので、その意味は、空也が「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて行をしたので、有難い仏さまが空也の口から出て来る、ということを表しているらしい。
どこの像も、みなこのようになっているという。

芭蕉の句にある空也の像が、どこのものかは判らないが、芭蕉の旅日記があるから、恐らく解明済みであろうと思われる。
諸国を行乞して歩いた空也であるから、像の上人も、ひどく痩せている。芭蕉の句は、その「痩せ」を寒の歳時として峻しく捉えて句にしている。

結城音彦氏からお聞きしたところによると、この句の制作場所について、参考になるかとお知らせいただいたので載せておく。
それにによると、元禄13年12月、48歳、京都での作、ということである。
また、この句の出だしは「乾鮭」となっている。私の読んだ資料には「干鮭」となっていたので、こう引用したが、「乾鮭」が原典に合致しているのであろう。
また、結城氏の意見では「空也」=「空也僧」とされており、この句には
「都に旅寝して、鉢叩きのあはれなる勤めを夜毎に聞き侍りて」という前書きがあるようで、この解釈が正確なのであろう。
だから、掲出句は「空也」像を見ての作句ではないのである。
その結城音彦氏も先年、突然亡くなられてしまって寂しい限りである。
ここに結城氏の御教示を載せて、ありし日を偲ぶよすがとしたい。

「寒の入り」あるいは「小寒」「寒」を詠んだ句を引いて終わりたい。

 きびきびと万物寒に入りにけり・・・・・・・・富安風生

 校正の赤きペンもつ寒の入り・・・・・・・・山口青邨

 寒の入り心あやふき折には旅・・・・・・・・中村草田男

 寒に入るわが跫音は聴くべかり・・・・・・・・加藤楸邨

 百はある鶏卵みがく寒の入り・・・・・・・・及川孤雨

 中年のどれも足早や寒に入る・・・・・・・・宮尾苔水

 小寒のひかり浸して刷毛目雲・・・・・・・・火村卓造

 一切の行蔵寒にある思ひ・・・・・・・・高浜虚子

 捨水の即ち氷る寒に在り・・・・・・・・池内たけし

 黒き牛つなげり寒の真竹原・・・・・・・・水原秋桜子

 乾坤に寒といふ語のひびき満つ・・・・・・・・富安風生

 約束の寒の土筆を煮て下さい・・・・・・・・川端茅舎

 痩せし身をまた運ばるる寒の内・・・・・・・・石田波郷

 寒の日の爛々とわれ老ゆるかな・・・・・・・・中川宋淵


一人退き二人よりくる焚火かな・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎
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    一人退(の)き二人よりくる焚火かな・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

この頃では「焚火」も簡単には出来なくなってしまった。
条例で「野焼き」が規制されているのに表れているように、ダイオキシン規制の影響でもあろうし、「火」を焚くことに世の中が神経質になっているからである。

「たきび」という童謡の風景は、今や死語と化してしまった。

00376巽聖歌
 ↑ 巽聖歌

この歌は、作詞は巽聖歌、作曲は渡辺茂。(今風の表記になっているので了承を)

     <かきねの かきねの まがりかど
      たきびだ たきびだ おちばたき
      「あたろうか」「あたろうよ」
      きたかぜぴいぷう ふいている>

     <さざんか さざんか さいたみち
      たきびだ たきびだ おちばたき
      「あたろうか」「あたろうよ」
      しもやけ おててが もうかゆい>

     <こがらし こがらし さむいみち
      たきびだ たきびだ おちばたき
      「あたろうか」「あたろうよ」
      そうだん しながら あるいてく>

という唄などは、もはや郷愁の中の一風物となってしまったのである。

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この童謡「焚き火」の作詞者・巽聖歌に因む土地として伝えられるのが ↑ ここである。
中野区上高田にある『たきび』の歌発祥の地。一般人の住居であるが、中野区による説明板がここの傍にある。
歌詞冒頭の垣根の風情が現在も見ることができる。

当時、巽は東京都中野区上高田に在住していたが、自宅の近辺には樹齢300年を越す大きなケヤキが6本ある「ケヤキ屋敷」と呼ばれる家があった。その家にはケヤキの他にもカシやムクノキなどがあり、住人はその枯葉を畑の肥料にしたり、焚き火に使ったりしていた。「ケヤキ屋敷」の付近をよく散歩していた巽は、その風景をもとに詞を完成させた。
同年の9月に、「幼児の時間」のコーナーの「歌のおけいこ」12月分で放送するために巽の詞に曲を付けて欲しいと、NHK東京放送局から渡辺のもとに依頼があった。詞を見て「ずっと捜し求めていた詞」だと感じた渡辺は、「かきねのかきねの」「たきびだたきびだ」などの繰り返す言葉を気に入り、詞を口ずさんでいるうちに自然にメロディが浮かび、10分ほどで五線譜に音符を書き込み完成させた。

今でも「行事」としての「どんど」「とんど」という大掛かりな焚火もあるが、これらは予め届け出て許可をもらったものである。
この唄にもある通り、「落葉焚き」というのは自然現象とは言え、降り積もる落葉という厄介ものを処分する良い方法だったのである。
この燃えた灰の中にサツマイモを入れて「焼き芋」にして、ほかほかの熱いのを食べるのは、冬の子供の楽しみのひとつだったのに。。。
古来、洋の東西を問わず、「火」というものは「穢れ」を浄化するものとして崇められてきた。

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 ↑ 写真に掲げる「那智の火祭り」などは、その一例である。
ヒンズー教や仏教における「火葬」の風習なども「穢れ」を浄化する意味以外の何ものでもない。
京都の夏を彩る「大文字の送り火」なども、そういう意味であり、それに「鎮魂」「魂送り」の意味も含まれる。
「火」はあたたかい。万物を焼き尽くすものでありながら、「冷たく」はない。
輪廻し転生する思想が「火」には含まれているのである。

「焚火」を詠んだ句も、古来たくさんある。それらを引いて終る。

 焚火かなし消えんとすれば育てられ・・・・・・・・高浜虚子

 燃えたけてほむらはなるる焚火かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 離れとぶ焔や霧の夕焚火・・・・・・・・原石鼎

 夜焚火に金色の崖峙(そばた)てり・・・・・・・・水原秋桜子

 道暮れぬ焚火明りにあひしより・・・・・・・・中村汀女

 紙屑のピカソも燃ゆるわが焚火・・・・・・・・山口青邨

 とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな・・・・・・・・松本たかし

 ねむれねば真夜の焚火をとりかこむ・・・・・・・・長谷川素逝

 焚火火の粉吾の青春永きかな・・・・・・・・中村草田男

 隆々と一流木の焚火かな・・・・・・・・西東三鬼

 安達太郎の瑠璃襖なす焚火かな・・・・・・・・加藤楸邨

 若ものとみれば飛びつく焚火の秀・・・・・・・・能村登四郎

 夕焚火あな雪ぞ舞ひ初めにけり・・・・・・・・石塚友二

 わめきつつ海女は焚火に駈け寄りぬ・・・・・・・・稲垣雪村

 焚火中身を爆ぜ終るもののあり・・・・・・・・野沢節子

 ひりひりと膚にし響かふ焚火かな・・・・・・・・青木敏彦




凍仏小にしてなお地にうもれ・・・・・・・・・・・・・・・鈴木六林男
2701ac241df72953e782a5738387d041化野念仏寺

    凍仏(いてほとけ)小にしてなお地にうもれ・・・・・・・・・・・・・・・鈴木六林男

嵯峨野の化野(あだしの)念仏寺の辺りは千年前には「風葬」の地であった。
風葬とは、今でもチベットなどで行われる死体を野っぱらに放置して、獣や鳥に肉を食わせ、あるいは腐るに任せる葬送の方法である。
この寺は現在は浄土宗に属する寺だが、およそ1000年前、空海が、ここに五智山如来寺を開創し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したことにはじまるという。
「あだし野」というと『徒然草』にも「あだし野の露消える時なく、鳥辺野の烟立さらでのみ住み果る習なれば、如何に物の哀もなからん世は定めなきこそいみじけれ」と書かれている、
かつての葬送の地に建ち、境内に集められたおびただしい数の石仏が、葬送地としての過去を彷彿とさせる。
寺の本尊は阿弥陀如来で、湛慶の作。本堂は江戸時代に再興されたもの。
夏の8月23~24日の地蔵盆のときの「千灯供養」は有名である。
この寺の地番は 京都市右京区嵯峨鳥居本化野町 という。

写真②に夏の「千灯供養」の様子を出しておく。

PN2010082301000790_-_-_CI0003千灯供養

掲出句は、夏の千灯供養が、凄絶ではありながら、火の力によって温もりを感じるのに対して、きびしく凍てる京都の冬の名も無き石仏のみじめな姿を、
よく活写しているというべきだろう。

 石くれ仏ひしめく限り冬茜・・・・・・・・文挟夫佐恵

 あだし野に日の一すぢの霰かな・・・・・・・徳永山冬子

 石仏の首から首へ虎落笛(もがりぶえ)・・・・・・・・鷹羽狩行

 冬ざれの片寄せ小さき仏たち・・・・・・・・二橋満璃

 化野のひとつづつ消ゆ冬灯・・・・・・・・間中恵美子
 
 鼻寒きわれに鼻なき餓死仏・・・・・・・・秋元不死男

 風葬の明るさの原ひかりは凍(し)み・・・・・・・・榎本冬一郎

のような句も、同じく冬の季節のあだし野の石仏を描いて秀逸である。
他の季節の、あだし野を詠んだ句は、また後日。
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長い間、都の置かれてきた京都の地には土塁をめぐらせた「街区」が仕切られていた。そのなごりが、豊臣秀吉によって再整備された「お土居」である。
この区域より外は人間の住む場所ではなく、その「お土居」の外は「葬送」の地であった。
庶民の死者は、この「お土居」の外に置かれ、いわゆる「隠亡」(おんぼう)と呼ばれる葬送の専門職の人間が、
ここ、あだし野や、東山の鳥辺野、洛北の蓮台野などに死体を放置(風葬)したのであった。
今では京都市北区に「蓮台野町」という地番があり、住宅地になっていて、人々は何も知ることもなく平気に暮らしているが、
もともとは葬送地であったから、地名にそれが残っているのである。

冬つばき世をしのぶとにあらねども・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎
c0007122_7415486寒椿

   冬つばき世をしのぶとにあらねども・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

久保田万太郎の句は私も大好きなので何度も採り上げてきた。
万太郎は夫人を亡くされてから「隠棲」された。
身辺には或る女の人が寄り添っていたが、その人にも先立たれて沈潜した生活をしていた時期があるが、この句はその頃のものであろうか。

「寒椿」または「冬椿」とも書かれるが、この花はツバキ科で、山茶花や茶とは同じカメリア属である。
椿は、なかでも「薮椿」と呼ばれるものは、学名をCamellia japonica と言うように、日本の固有種である。
日本では、初冬から晩冬にかけて寒中に咲くものを「寒椿」と称している。
寒椿の学名はCamellia sasanqua cv. Fujikoana と言うが、ラテン語の学名の付けかたの世界では「cv」とは「園芸品種」とされている。
藪椿が、日本固有の椿の原種ということであろうか。詳しいことは学名のページを見てもらいたい。

写真①は、「獅子頭」(ししがしら)という品種の寒椿で、物の本によっては「山茶花」に分類されているのもあるとのことで、まことに紛らわしい。
椿や山茶花については先に詳しく書いたが、椿と山茶花との区別の仕方として、ツバキは花が散るときに萼(がく)のところから、花がポロッと全体が落ちるのに対して、
サザンカは花びらが一枚づつばらばらと落ちる、という違いがあるとされている。
しかし、寒椿の花は、サザンカと同じように花びらがばらばらに散るものもある、というから、余計にややこしい。
一般的にツバキは、いま書いたように花全体がポロッと落ちるので、昔の武士は縁起が悪いと嫌がったという。
先に書いたように、学名でもCamellia sasanqua までならサザンカなのである。
なお、Camellia というのは17世紀のチェコの宣教師Kamell氏の名に因んでいることも、椿のところで書いたと思う。

123450987245516312944寒椿・白

写真②は白の寒椿である。山茶花か寒椿か、紛らわしいと追求されても私には判定は出来ない。
歳時記を見ると、一重咲きの早咲きには白に紅の絞りの「秋の山」、桃色の「太郎冠者」があり、
八重のものには白の牡丹咲きの「白太神楽」、紅絞りの「白露錦」というような品種があると書いてあるが、
それらの写真がないのは残念である。

寒椿を詠んだ句を引いて終わりたい。

 竹薮に散りて仕舞ひぬ冬椿・・・・・・・・前田普羅

 冬椿落ちてそこより畦となる・・・・・・・・水原秋桜子

 寒椿つひに一日の懐手・・・・・・・・石田波郷

 寒椿落ちたるほかに塵もなし・・・・・・・・篠田浩一郎

 山の雨やみ冬椿濃かりけり・・・・・・・・柴田白葉女

 寒椿朝の乙女等かたまりて・・・・・・・・沢木欣一

 白と云ふ艶なる色や寒椿・・・・・・・・池上浩山人

 妻の名にはじまる墓碑や寒椿・・・・・・・・宮下翠舟

 海女解けば丈なす髪や冬椿・・・・・・・・松下匠村

 寒椿嘘を言ふなら美しく・・・・・・・・渡辺八重子

 花咲いておのれをてらす寒椿・・・・・・・・飯田龍太

 寒椿月の照る夜は葉に隠る・・・・・・・・及川貞



十日戎所詮われらは食ひ倒れ・・・・・・・・・・・・・・・・・・中本圭岳
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  十日戎所詮われらは食ひ倒れ・・・・・・・・・・・・・・・・・・中本圭岳

「十日戎」は大阪の今宮戎神社の祭礼である。
一年はじめの1月10日は「初戎」として何十万の人が、一説では百万人が、さほど広くはない境内に押すな押すなの様相を見せる。 ↑ 今宮戎のホームページを見てもらいたい。
前日の9日夜は「宵えびす」、11日は「残り福」と称して、わざと、この日に参詣する人もある。社殿の裏に廻って、羽目板をどんどん叩いて「えべっさん、頼んまっせ」と大声で言うのが上方風である。
掲出した写真が当日の神社の境内の様子である。参拝のあと、「福笹」という笹の枝に小判やらをぶらさげたものを買い求めて、肩にかついで帰る。笹は笹だけで売られ、それにつける小判などは、別途金を払って追加するのである。東京の「熊手」に福面をつけたりするのと同様のことである。

k-00030福笹
写真③が福笹。
『年浪草』という本に「諺にいふ、この神は聾にましますとて、参詣の諸人、社の後の板羽目を敲く。その音、昼夜にかまびすし。これ、今日参詣して諸願を訴ふる謂ひなり。」とある。
近年は「福娘」と称して公募して福笹の売り子を募っているが、応募者が多いので、なるべく美人を選ぶという。今年は45人採用したという。
1月10日前後には南地の花柳界の芸妓の綺麗どころを「宝恵かご」と称する駕籠に乗せて近在を練り歩く行事がある。これも神社の宣伝のためとは言え、人気がある。

過去の「宝恵駕籠行列」については、昨年のものをYoutubeで出しておく。 ↓ 


ネット上では、他にも動画などがたくさん見られる。お試しあれ。
今年は1月10日に盛大に練られる。

以下、十日戎を詠んだ句を引いて終る。

 福笹をかつぎ淋しき顔なりし・・・・・・・・高浜年尾

 地下道を華やぎ通る福笹持ち・・・・・・・・橋詰沙尋

 初戎ねがひのうなじうつくしく・・・・・・・・牧野多太士

 残り福得んと人出に押されけり・・・・・・・・吉川一竿 

 大阪を好きも嫌ひも宵戎・・・・・・・・吉田すばる

 小火騒ぎありて今宮宵戎・・・・・・・・後藤鬼橋

 福笹にきりきり舞の小判かな・・・・・・・・倉西抱夢

 きらきらと賽銭舞へり初戎・・・・・・・・金田初子

 福笹の大判小判重からず・・・・・・・・嶋杏林子

 凶くれて残り福とは面白し・・・・・・・・細見しゆこう

 雑踏を夫にかばはれ初戎・・・・・・・・上野美代子

 残り福疲れし声をあげて売る・・・・・・・・大戸貞子

 吉兆や佳人に足を踏まるるも・・・・・・・・大野素郎

 初戎笹の葉一枚づつの福・・・・・・・・三島敏恵





蝋梅が咲くとろとろととろとろと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青柳志解樹
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  蝋梅が咲くとろとろととろとろと・・・・・・・・・・・・青柳志解樹

蝋梅は年末から年始にかけて咲くが、花期は長いので今がポツポツ咲きはじめたというところである。
この句の「とろとろと とろとろと」というオノマトペが秀逸である。
この句に添えた彼のコメントには「老人がローバイの花を見ながら、日向でとろとろと、うたた寝している」様という。
蝋梅は、丁度いま年末から新年の時期にかけて咲く花である。
花期は寒い時期なので満開になるには一ヶ月くらいは綺麗に見られる。
昨年末からプレ・クリスマス寒波が来たりしたが、まだ葉が残っていて、葉が残っていると、黄色の花が見え難いので葉をむしって落したりする。
蝋梅は学名をChimonanthus praecoxというが、中国には広く分布している。
花びらが芯まで黄色一色なのが「素心蝋梅」という。花びらが「蝋」に似ているので蝋梅という。
いかにも蝋細工で出来ているという感じの花である。

sosin-roubai3蝋梅

花は下向きにつく。
下から見上げると青空に花びらが少し透けて見える。

sosin-roubai2蝋梅の実

写真③は蝋梅の実である。この実が地に落ちて新芽が出てきて新しい幹が育つ。日当たりのよい場所を好むが、条件が整えば、やたらに増える木である。
梅と同じく、花は旧い枝につき、その年に伸びた徒長枝にはつかない。放っておくと木はどんどん大きくなって始末に負えないので、成長期には徒長枝は、どんどん切る。
中国から渡来したので「唐梅」の名もあるが、梅とは別種のもの。
きわめて香りの強いもので、屋内であれば頭痛を起すのではないかと思われる。
私の家の庭の一角にも、他所から頂いた蝋梅が位置を占めているが、樹形を大きくしないように維持するのに苦心している。
放っておくと大きくなりすぎて、他の木を日蔭にしてしまうので始末に悪い。
しかし花の少ない冬の景物として貴重な存在である。
以下、蝋梅を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 蝋梅のこぼれ日障子透きとほす・・・・・・・・菅裸馬

 蝋梅のかをりやひとの家につかれ・・・・・・・・橋本多佳子

 蝋梅の咲くゆゑ淡海いくたびも・・・・・・・・森澄雄

 蝋梅に斎庭(ゆには)は雪を敷きにけり・・・・・・・・宮下翠舟

 蝋梅やいつか色ます昼の月・・・・・・・・有馬朗人

 蝋梅の光沢といふ硬さかな・・・・・・・・山上樹実雄

 蝋梅のぬかるみ匂ふ鯖の道・・・・・・・・吉田鴻司

 蝋梅の蕾の数が花の数・・・・・・・・倉田紘文

 蝋梅に虻は上向きつつ移る・・・・・・・・高木石子

 蝋梅につめたき鳥の貌があり・・・・・・・・岸本尚毅

 蝋梅の蕾ながらも黄の目立つ・・・・・・・・江口竹亭

 蝋梅の咲く日溜りを皆好む・・・・・・・・佐藤兎庸

 蝋梅の花びら重し花透けて・・・・・・・・安田建司
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なお蛇足だが、橋本多佳子の句にあるように、「香る」という言葉の歴史的かなづかいは「かをる」が正しい。「香り」ならば「かをり」である。
布施明が歌ってヒットした歌 「シクラメンのかほり」 というのがあるが、なまじ大ヒットしたが故に、この仮名づかいが正しいように誤解されているが、
これは作者の小椋佳の勘違いによる間違いであり、いつまでも恥を曝しているようなものである。
知ったかぶりをして、歴史的かなづかい(旧かな)にしたために間違ったのである。ここは素直に「新」かなづかいにしておいたら、恥をかかずに済んだのである。
ブログ上でも、これにつられて「かほり」と書いてあるのを時々見かける。念のために申し上げておく。
ただし「人名」である場合は、この限りではない。


喪中欠礼の葉書数葉脇に置き生ける人らに賀状書き継ぐ・・・・・・・・・・米満英男
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──季節の歌鑑賞──年頭の歌風景いくつか

  ■喪中欠礼の葉書数葉脇に置き
     生ける人らに賀状書き継ぐ・・・・・・・・・・米満英男


米満氏は私の兄事する歌人であった。昭和三年生まれ。一昨年亡くなられた。
亡くなられたときにブログに記事を書いた。
この歌は角川書店「短歌年鑑」の過年度(2008年)の「自選作品集」に載るもので、
「賀状欠礼」と題する5首のうちのものである。
前後に載る歌を引くと

・しんかんと大根抜かれし畑の穴満月の下いよよ冥(くら)かり・・・・・・・・・米満英男
・朝夕に向かふ食卓この狭く温き平面を日常と呼ぶ
・目頭が目尻を詰(なじ)り言ふことにお前すこしはその尻拭へ
・この歳まで生くればついで百歳まで生くるべしなんて はい冗談冗談

とあり、何とも洒脱なものである。以下、引用は同じところから。

  ■新(にひ)年のふるさとの山明けそめて
    はろばろとおもふ <春はあけぼの>・・・・・・・・・・・・・・・志野暁子

  ■波の穂に止(とど)まれるかにかもめ飛び
    沖ほの暗し冬の日本海・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金子正男

  ■無尽数の雪片意思をもつごとく
    海に降り陸(くが)に降り人間(じんかん)に降る・・・・・・・・橋本喜典

前後に載る歌を引く。

・この年の初の買物ずつしりと上下二冊の『道元禅師』・・・・・・・・・・・橋本喜典
・白き葉を紅がつつめる寒椿眼を遣るたびにわれをみつむる
・初出勤の朝戴きしチョーク箱いづれはわれの柩に入れよ
・少(わか)き日の疑問の奥に在りしもの解らねばいまだ老いに到らず

この人は早稲田高校の校長をされた人である。

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  ■ふるふると宇宙に地球が浮いてゐる
    サッカーボールのやうな淋しさ・・・・・・・・・・・・・・由良琢郎


地球は、まさに宇宙に宙づりに浮いているのであるが、それを「サッカーボール」のような「淋しさ」と捉えたところが凄いと思う。
いつも言うことだが、詩というのは陰影を深めるためには「比喩」表現に尽きる。
そういう観点から見ても、この歌は詩として自立し得ているだろう。

「凄い」と言えば、この歌の前に載る作品を引く。

・このごろのわれの自在は一瞬に物忘れする凄さもち初む・・・・・・・・・・・・・・・由良琢郎
・夜半覚めてふとかなしめり抽出しに余分の時計刻(とき)きざみつぐ

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  ■いつの日か惚け行くらむ素焼の皿に
    盛らるる夢のはんなりとあり・・・・・・・・・・・・・・・山中加寿


ここに引く何人かの人の歌群は、いずれも「老い」の寂寥を湛えていて、それぞれの様相の違いはありながら、いずれも秀逸である。
この山中さんの歌は「素焼きの皿に盛られる夢」という表現が、何とも「詩的」である。
この後につづく歌には

・箒持つをりに嗚咽の始まりぬ梅雨のさなかに南瓜はな持つ・・・・・・・山中加寿

この歌は、2008年春四月に亡くなった師・前登志夫の死を思っての「嗚咽」であろう。

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 ↑ モンブラン万年筆

  ■パイロットインクをずっと使ってた
    あなたに遭えたころのブルーよ・・・・・・・・・・・・・・・上野久雄


上野久雄氏は2008年秋9月17日に亡くなった。
この一連は死の前に投稿されていたものである。
上野氏は昭和二年生まれ。短歌結社「未来」創刊以来の同人で、「みぎわ」という自分の歌誌を創刊して才能ある歌人を育てられた。
私なども若い頃は万年筆のインクはパイロットの「ブルーブラック」のインク壺を愛用していた。ご冥福を祈りたい。
この歌は、「未来」の主宰者だった近藤芳美の若い頃の「相聞歌」そっくりの趣を湛えている。

この歌の前後につづく一連を引いて、終りたい。

・一切れのロールケーキを食いて立つ死はたしか四時過ぎであるから・・・・・・・上野久雄
・午後からは編集会に行くのだと晴れた球場の空に手を振る
・稀にしてああ病感のなき目覚め味噌汁の具に今朝はしじみを
・西空に集まっている雲たちや一番知っているのは俺さ


藤原光顕の歌「背伸びして」 「その辺で」計25首・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
藤原①
 ↑ 「たかまる通信」No.93 2014/01/01刊

──藤原光顕の歌──(14)

     藤原光顕の歌「背伸びして」 「その辺で」計25首・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

           「背伸びして」15首・・・・・・・・・・・・藤原光顕

   お世辞も言うし憎まれ口もたたくへんなじいさんまであと一息だ
   花を買った啄木など思い 隣席の素早い指の動き見ている
   おどろかないで私ですよ そんな出会いがありそうな秋風である
   ふりむけば昭和の街で 神戸の秋をスカートで来る妻がいる
   もう秋やね トイレットペーパーの芯持って機嫌よく朝へ出てくる
   黙って雲を見ている横顔 淋しければ淋しいと言っていいんだ
   背伸びして背伸びして生きているのにまた身長が4ミリ縮んだ
   やさしい顔に誑かされていたのかも 紅葉の裏が寒い日の暮れ
   あれから何年になるか 見せびらかすように杖をついた秋があった
   あの人は自転車を押して歩いている ひと月ほども経って気がつく
   飛行機雲うすれるほどの刻過ぎてまだ坐っていた公園のベンチ
   都心が好き雑踏が好き人工庭園の風のコスモス八歩で終わる
   捨てる何か 拾う何か 乗換の須磨駅でしばらく海を見ている
   数本の木立が「阿弥陀堂前」でまもなくニュータウン終点です
   山裾のあの陽だまりから六十年 故里のなつかしさで初冬が来る


藤原②
↑ 「芸術と自由」No.292 2014/01/01刊

        「その辺で」10首・・・・・・・・・・藤原光顕

   秋はこんな狭い町にも知らない道があってまた行き止まる
   秋雨の一日かけたジグソーパズル ささやかな花舗開店させる
   マラソンの横浜は晴れ あの街のどこかに山口利春 老いる
   人生に i f はないという わかっているさと時雨へ出ていく
   秋刀魚一尾たいらげて買い忘れた大根のことなど何をいまさら
   金木犀の角を曲がればゆるい坂 古い時間へ踏み入るほどの
   凩一番が吹きすぎた停留所 まだ乗ったことのないバスが出ていく
   カレンダーを掛けた画鋲がまた落ちる重たい月日みたいではないか
   秋雨は三日続く 雨の向こうはたぶん雨よりうっとうしい
   電脳の中<アラエイ>もちゃんといて その辺で秋の一日暮れる
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同時に、昨年の大晦日に到着した二冊である。
いつもながらの「光顕」ぶし、である。
藤原さんには、長年住んだ神戸の土地が懐かしいらしく、時々は電車で行って、訪れているらしい。
今号の表紙を飾っている梅木望輔との思い出がこもる土地でもある。
そんな感慨が、前者の連作の中に、ある。
ご恵贈に感謝して、ここに採録しておく次第である。 向寒の折から、ご自愛を。




  
人日や江戸千代紙の紅づくし・・・・・・・・・・・・・・・・木内彰志
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  ■人日(じんじつ)や江戸千代紙の紅づくし・・・・・・・・・木内彰志

  ■人日の日もて終りし昭和かな・・・・・・・・・・・・・・・稲畑汀子


先に書いたように元日から六日まで「六日年取り」として過し、七日は年改まる日と考えられていた。
今日、七日は七種(ななくさ)粥を食べる風習が平安時代から行われ、今に続いている。
一年の無病息災を祈りつつ粥を食べる日であり、七日に門松などの正月飾りを外す地域も多い。
「人日(じんじつ)」 という呼称の由来については、五日付けで先に書いた。
「七種粥」についても、昨年までに何度も書いたので参照されたい。↓ 参考までに「春の七草」の画像を出しておく。

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正式には、七日の前日に、今日七日朝に食べる七種の草の材料として用意したものを賞味するのである。
昨日付けで書いたものを再録すると、天明頃の本『閭里歳時記』に「七種の菜を採りて明朝の粥にまじへ食ふこと、旧きならはしなり。城下にてはわづかに芹・菘等を用ひて、必ずしも七草を用ひず。今夕、かの菜を魚板に置き、桶の上にあげ、擂木(すりこぎ)・魚箸(まなばし)等をも載せて、菜を割りながら節あり、<七種なづな、唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に>と、はやすなり。時々にはやして暁に至る。家々にすることなり」とある。

二番目に掲出した稲畑汀子の句について言うと、昭和天皇の亡くなったのは昭和64年の1月7日だった。
翌日1989/01/08をもって、元号は「平成」と改まったのであった。
私は、その時、ニュージーランドのオークランドからオーストラリアのシドニーへの飛行機の中に居て、そのニュースを聞いたのだった。
思えば、昭和も遠くなったものである。
なお「元号一覧」について考えてみるのも面白いので見てみてください。

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  ■人日や古き映画に原節子・・・・・・・・・・・・・・・木内満子

「原節子」は往年の大スターだった。キリッとした美貌が、まぶしかった。
一時代を画した彼女の写真を掲げておく。

1949年の『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の主題歌「青い山脈」とともに大ヒットとなった。また同年から1961年まで、小津安二郎監督と組んだ6作品は、日本映画を代表するものとして、国際的にも有名になった。
1962年の『忠臣蔵』を最後に映画界を引退。1963年、小津安二郎監督の葬儀に姿を見せて以降、公の場に姿を現さないように隠棲。その後は神奈川県鎌倉市で親戚と暮らしているという。

ここでは、「人日」に因む句を引いて終る。

 何をもて人日の客もてなさん・・・・・・・・・・高浜虚子

 人の日や読みつぐグリム物語・・・・・・・・・・前田普羅

 人日のこころ放てば山ありぬ・・・・・・・・・・長谷川双魚

 人日の厨に暗き独言・・・・・・・・・・角川源義

 人日の夕凍み頃をふらり行く・・・・・・・・・・佐藤鬼房

 人日やにぎたまもまた臓のうち・・・・・・・・・・野沢節子

 人日の納屋にしばらく用事あり・・・・・・・・・・山本洋子

 人日の肝胆沈む枕かな・・・・・・・・・・宇多喜代子

 人日や粥に小匙の塩加減・・・・・・・・・・伊藤白雲

 人日の空のぼりつめ観覧車・・・・・・・・・・星野恒彦

 人日の暮れて眼鏡を折り畳む・・・・・・・・・・岩城久治

 人日や日暮れて鯛のすまし汁・・・・・・・・・・秋篠光広

 人の日の墓に備への竹箒・・・・・・・・・・熊田侠邨

 人日や昭和を楯のわれも老ゆ・・・・・・・・・・江ほむら

 人日や海鵜は高き杭を得て・・・・・・・・・・玉木郁子

 人日の日を分け合ひし烏骨鶏・・・・・・・・・・天野きく江





一きほひ六日の晩や打薺・・・・・・・・・・・・・鬼 貫
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↑ 北野天満宮2014年「午年」絵馬
 
  ■一きほひ六日の晩や打薺(なづな)・・・・・・・・・・・・・鬼 貫

  ■祓はれて馬の嘶(いなな)く六日かな・・・・・・・・・・・・・・原茂美


節日である七日正月の前夜である。
天明頃の本『閭里歳時記』に「今日七種の菜を採りて明朝の粥にまじへ食ふこと、旧きならはしなり。城下にてはわづかに芹・菘等を用ひて、必ずしも七草を用ひず。今夕、かの菜を魚板に置き、桶の上にあげ、擂木(すりこぎ)・魚箸(まなばし)等をも載せて、菜を割りながら節あり、<七種なづな、唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に>と、はやすなり。時々にはやして暁に至る。家々にすることなり」とある。
また文化五年刊の『改正月令博物筌』に「今日を馬日とす。○六日年越し、七日は式日なれば、今日をいふにや」とある。
「馬日」に因んで、北野天満宮2014年「午年」絵馬の写真を出してみた。

「正月六日」を詠んだ句も多くはないが、それらを引いて終る。

 六日はや睦月は古りぬ雨と風・・・・・・・・渡辺水巴

 凭らざりし机の塵も六日かな・・・・・・・・安住敦

 六日夜も灯のついてゐる手術室・・・・・・・・石井保

 眠りの森の美女を見にゆく六日かな・・・・・・・・須川洋子

 冷えきつて賀状の戻り来し六日・・・・・・・・福井隆子

 海を見に来てゐて松も六日かな・・・・・・・・中野あぐり

 活け直し六日の床を新たにす・・・・・・・・鵜飼濃尾女

 朝食をはやばらばらに摂る六日・・・・・・・・細川洋子

 賀状来し人の訃へ発つ六日かな・・・・・・・・伊藤真代

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今日も記事が短いので、いつも拝見している小池正博(如月和泉)氏の「週刊川柳時評」12/06号から、そのまま転載させてもらう。

     (転載)ゆく川の流れは絶えず―川柳誌逍遥 ・・・・・・・・小池正博

短歌誌「ES」26号が発行された。今号の誌名は「マナ」である。マナ(manna)とは旧約聖書で神が天から降らせた食物で、カナンの地に着くまでの40年間、イスラエルの民の命をつないだという。マナ(mana)という超自然の呪力をあらわす別語もあるらしい。短歌にはこちらの方が関係深いかもしれない。
江田浩司は次のように書いている。

「飢えることを知らないことと、飢えることをしっていることのどちらがより幸福なのだろうか。言うまでもなく、飢えることを知らないことであると誰もが思うだろう。飢えることのない生活が一生続けば、これほど穏やかな生涯はなく、そこに贅沢を追い求めなければ、静かな幸福がもたらされるだろう。
しかし飢えることを知らない人には、飢えないことの本当の意味はわからない。飢えることを知らなければ、飢えないことの悦びを味わうことはできない。
天からマナが降って来るのは、飢えることを本当に知っている者のみのところではないだろうか。そして、天から降るマナが詩歌としての悦びを分かち与えてくれるのは、飢えることを怖れず、むしろ、飢えることの中に生きることの真の意味を見いだす者に対してではないかと思われるのである」

飢え求めているものにこそ詩歌の悦びが天啓として与えられる、と江田は言っているようだ。神からのマナを与えられることの少ない川柳の場合はどうだろうか。高齢化や財政難などの様々な理由で、終刊してゆく川柳誌も多い。
「水脈」35号の巻頭に新井笑葉が〈「原流」の軌跡〉を書いている。
北海道の旭川市で発行されていた川柳誌「原流」は、昭和61年1月に創刊、今年の5月(通巻224号)で終刊した。その間に掲載された作品のいくつかを新井の文章からピックアップしておく。

風邪を引くのは横着な猿だ           京野弘
一徹がまだ続いてる死者の硬直         新井笑葉
戦争はいやだと乳房だから言える        進藤一車
詩を書かなくなったバーテンがいる 秋の酒場  大島洋
ニワトリが産みつづけているのは他人      浪越靖政

第1回原流大賞の際に、選者のひとりだった曲線立歩(きょくせん・りっぽ)が特選該当作品なしにしたエピソードが印象に残る。曲線立歩は新興川柳期からの長い柳歴をもち、句集『目ん玉』を残して平成15年に亡くなった。私の愛惜する川柳人のひとりである。
「川柳界の高齢化。一人の柳人が複数の柳社に所属して補われている現実。もはや数の論理から質の論理へ移行する時代に来ている」と新井は締めくくっている。

新しく誕生する川柳誌もある。
熊本市で「川柳裸木」が創刊された。編集・発行人は、いわさき楊子。「裸木」は「らき」と読ませるようだ。この雑誌はメール句会を母体としている。「@くまもとメール川柳倶楽部@」が2年前に発足し、月2回のメール句会が10名ほどの参加で続けられてきた。
「手紙や電話、まして面と向かっては決して言えないメール言語世界が存在する。記録の蓄積もたやすい。あとで深夜に読み返して至福の時をもたらすこともある。この至福というのは作句のモティベーションとしては最高の条件だ」と、いわさきは述べている。
メール句会はクローズドな世界だが、それをオープンなかたちにしようと紙媒体の本誌が発行されることになった。作品をピックアップする。

混ぜるな危険原液のこどもたち     久保山藍夏
少しだけ幸せ遠慮して ずるい     前田秋代
わかってはいないなあんな笑い方    上村千寿
感じるな考えるんだ空燃える      川合大祐
さりげなく立っているのは難しい    阪本ちえこ
かなもちてととくこひふみちれつたゐ  北村あじさい
一堂に集まったのは峰不二子      樹萄らき
地獄絵が楽しそうにみえるのです    いわさき楊子

いわさきから新誌創刊の話を聞いたときは、誰が参加しているのか分からなかったが、川合大祐や樹萄らき(じゅとう・らき)など、以前「旬」で活躍していた人たちがメンバーに入っている。メール句会ではいろいろなつながりが生まれるものだ。
永田満徳、松永千秋などの句評が添えられているのも、作品を読む参考になる。
オープンにするということは批判にさらされることでもあるから、けっこうエネルギーが要るけれども、他者の視線を浴びることは必ず実作に反映してゆくものと思う。

時事川柳も少し紹介しておこう。
「触光」35号(編集発行人・野沢省悟)は野沢の評論集『冨二という壁』の書評を掲載している(枽原道夫)。ここでは渡辺隆夫選の「触光的時事川柳」からピックアップ。

消費税おんぶお化けに進化する    高瀬霜石
元総理もぐらの顔をぬっと出す    伊藤三十六
半世紀ケネディ女史の目尻皺     鶴賀一声

「日本経済新聞」の夕刊、田口麦彦の「現代川柳のこころ」がスタートした。現代川柳の入門講座である。毎週木曜日、4回連載の予定(12月26日まで)。


江ノ島や五日の磯に人のせて・・・・・・・・・・・・・・・星野恒彦
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  ■江ノ島や五日の磯に人のせて・・・・・・・・・・・・・・・星野恒彦

  ■牛日や駅弁を買いディスク買い・・・・・・・・・・・・・・・木村美智子


正月の各日に獣の名を宛て、元日=鶏日、二日=狗日、三日=猪日、四日=羊日、五日=牛日、六日=馬日とし、七日=人日つまり人を占い、人を尊ぶ日、とされていた。
人勝節などとも言い、中国の前漢時代に定められた日だという。

元日から六日まで、天候によりその年の禽獣や農作物が豊かかどうかを占い、七日は人の世界の運勢を占ったらしい。
昔の『歳時故実』という本に「牛日といふ。○木造り始め 禁裏にあり。千寿万歳ならびに猿楽等来たる」とある。
掲出した二句目に「牛日」とあるのは、その意味である。

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図版②は葛飾北斎「富嶽三十六景」相州江ノ島の図である。

歳時記に載る「正月五日」の句は多くはないが、引いて終る。

 水仙にかかる埃も五日かな・・・・・・・・松本たかし

 黒燦々正月五日の護美袋・・・・・・・・林 翔

 五日まだ賀状整理に更くる妻・・・・・・・・水島涛子

 蛸干すや五日の凪を讃へつつ・・・・・・・・中村君永

 歳徳の護符の舞い落つ五日かな・・・・・・・・渋谷天眠

 五日舞ふ大袖の振り潮を呼ぶ・・・・・・・・猪俣洋子

今日は「寒の入り」である。二十四節季でいう「小寒」ということである。
昨年は十一月末から寒かった。初雪などが早い新記録などと言われた。
昨年十二月には「プレ・クリスマス寒波」と言われる第一波に続いて「年末寒波」と来襲して北国では大雪で寒かったが、年末・年始も冷凍庫の中に居るような寒さになった。
今日から「寒」に入って、いよいよ寒さも本格的になるということである。
昨日の夜半には雷がゴロゴロと鳴っていた。いわゆる「寒雷」である。
これが鳴ると、間もなく天気が悪くなるという予兆だと言われているが、果たしてどんな寒さになるだろうか。
当地(京都)でも未明から電線がヒューヒューと鳴っている。この音を聞くと寒くなるなぁ、と実感させられる。

「寒の入り」に合せて本格的な冬になるということで、季節の推移というものは正直なものである。
なお「大寒」は一月二十日ということである。
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今日は記事が短いので、いつも見せてもらっている小池正博(如月和泉)氏の「週刊川柳時評」11/29号から、そのまま転載させてもらう。

 (転載)第16回俳句甲子園公式作品集 ・・・・・・・・小池正博

俳句甲子園について私はよく知らなかったのだが、今年は「川柳カード」の大会に佐藤文香を招いたり、「大阪連句懇話会」に久留島元に来てもらって俳句甲子園の話を聞いたりしたことがあって、けっこう関心が高まった。『第16回俳句甲子園公式作品集』が11月1日に発行されたので、さっそく注文して読んでみた。昨年の『第15回俳句甲子園公式作品集』が創刊号で、今年のは第2号ということになるらしい。全国大会だけでなくて、地方大会の作品も全作品が掲載されていて、このイベントの全貌がわかるものになっている。大会参戦記・大会観戦記もあって、200ページを越える立派なもの。発行は「NPO法人俳句甲子園実行委員会」。

夕焼けや千年後には鳥の国      青本柚紀

今回の最優秀賞を受賞した作品である。
優秀賞作品・入選作品からもピックアップして紹介する。

はちすから鳥が生まれてきたやうな  日下部太亮
親指を血はよく流れ天の川      吉井一希
太陽に指先触るるバタフライ     下楠絵里
花は葉に指は風切羽となる      西田龍史
原稿は白紙でみんみんが近い     河田将英
乱暴な私ゼリーのような君      尾上緋奈子
バカとだけ手紙に書いて雲の峰    皆越笑夢

言うまでもなく、これらはすべて高校生の作品である。「夕焼」「蓮」「指」「ゼリー」「紙」が兼題だったようだ。

巻頭言「俳句甲子園との出会い」で日野裕史(第16回俳句甲子園実行委員長)が次のように書いている。

〈俳句甲子園の歴史は俳句文化を軽んじているという非難や、誹謗中傷との戦いの歴史でもありました。「俳都松山」と謳われるほど多くの俳人を輩出し、俳句が盛んでありながら閉鎖的なこの街で、俳句甲子園が受け入れられるようになるには長い年月と、実行委員会の先輩方の地道な活動が必要でした。大会が始まって間もないころは仕事の合間を縫って愛媛県内のすべての高校を訪問し、大会参加のお願いをして廻ったり、地元の俳人に審査員の協力要請をしても誰も応じてもらえず、逆に松山の恥とまで非難されたこともあったそうです〉

9月に「川柳カード」の大会で佐藤文香の話を聞いたときに、俳句甲子園のようなイベントがあって、若い俳人が育っていることにずいぶん羨ましい思いをしたのだが、俳句甲子園が広く認知されて軌道にのるまでには、夏井いつきや松山青年会議所のメンバーの言うに言われぬ苦労があったわけである。
実際の運営はどのように行なわれているのだろうか。
黒岩徳将の「一般ボランティアの活動」がその一端を伝えている。

「俳句甲子園はOBOGスタッフだけでなく、多くの一般ボランティアの方に支えられています。」
「一般ボランティアとは、毎年春頃から募集され、大会一日目に活動するスタッフのことで、学校担当とタイムキーパーの二種類があります。学校担当は主に選手を誘導したり、試合中に短冊をめくったり、その日一日担当チームをサポートします。選手の入退場でプラカードを持っているのも、この学校担当スタッフです。タイムキーパーはストップウォッチで試合中の時間を計り、選手や観客にディベートの残り時間を伝える重要な役割をします」

この作品集に収録されている地方大会の記録にも旧知の名前がスタッフ欄に散見され、いかに多くの俳句を愛好する人たちがこのイベントにボランティアとして関わっているかがわかる。

「関西の俳縁」として「関西俳句会ふらここ」の対談が掲載されているのにも注目した。
黒岩徳将は「関西俳句会ふらここ」の運営もしている。関東では主な大学ごとに俳句会があるようだが、関西では単独の大学だけでは俳句会が成立しにくいようで、大学生や10代・20代の俳人や俳句甲子園のOB・OGを中心に「ふらここ」の活動をしている。通常の句会のほか、みんなで裁判を傍聴したあとに行われた「裁判句会」や、会議室が借りられなかったのでセンターの調理室を借りて焼きそばを作りながら行われた「料理句会」など、なんだか楽しそうだ。

関西発の俳句イベントとして、「俳句Gathering Vol.2」が12月21日(土)に神戸の生田神社会館で開催される。昨年に続く第2回目であるが、若手俳人だけでなく俳句に関心のある若い世代の人たちが集うエネルギーあふれる場として生成発展してゆくことを期待したい。


一人居の四日の風呂を溢れさす・・・・・・・・・・佐怒賀直美
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──季節の一句鑑賞──正月「四日」3

■一人居の四日の風呂を溢れさす・・・・・・・・・・佐怒賀直美

正月四日となった。
「二日」「三日」と書き続けてきたが、念のために申しておくが、これから書く「四日」「五日」「六日」「七日」というのは、いずれも、これらの日は「正月の季語」であるから、ご注意願いたい。
つまり「四日」と言えば、正月四日の日を指すということなのである。


三が日の正月行事が終り、職人は仕事の道具を揃え、農家では軽く農事をおこない、仕事始めとして祝う。
サラリーマンもこの日から出勤することが多いが、本年は六日からの出勤が多いだろう。

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  ■ひとり分珈琲豆を碾く四日・・・・・・・・・・・・・・染谷佳之子

コーヒー愛好者には、凝る人が多い。
写真②はプジョー社製のコーヒー・ミルである。
クラシックな機能のもの。
コーヒーを淹れるのにもサイフォンとか、いろいろあるが、単純に「ドリップ」式のものが風情がある。
淹れ方よりも、コーヒー豆のブレンドの配合の方が、私なんかは重要視したい。
外に出て、有料で飲むコーヒーにも値段の割りにおいしくないものが多い。
つい最近になって知ったことだが、エチオピア産の「モカ」の豆から残留農薬が検出されて輸入禁止になったため、コーヒーのメーカーはブレンドに困っているいるという。
「モカ」豆の「酸味」はコーヒーの風味を左右するもので、ブレンドには欠かせないが、先に書いた「おいしくない」云々という件に、このことが影響しているのかも知れない。この影響は当分つづくだろう。
以上、ひとこと書き加えておく。
私が六ヶ月に一度、定期診察にゆく京都大学病院の玄関フロアに出店する「ドトールコーヒー」のカプチーノを私は、値段の割りにおいしいと愛用している。

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  ■舟一艘二艘三艘四日かな・・・・・・・・・・・・・・・渡辺恭子

写真③は銚子港に停泊する漁船である。
東日本大震災の時は、大震災・大津波と原発爆発による放射能飛散により、千葉県も大きな影響を蒙った。
しかし、銚子港は魚の水揚げが好調で、漁民は久々の活気に浸ったという。

以下、「四日」を詠んだ句を列記して、終る。

 コンドルの貧乏歩きも四日かな・・・・・・・・飯島晴子

 気が付けば頬杖癖も四日かな・・・・・・・・小桧山繁子

 合点してざぶざぶ使う四日の湯・・・・・・・・宇多喜代子

 磨ぎ終へし四日の米の白さかな・・・・・・・・若井新一

 心音を拾ふ四日の聴診器・・・・・・・・細川洋子

 好きなものゆつくりと煮て四日かな・・・・・・・・大橋麻沙子

 俎にのせて四日の豆腐かな・・・・・・・・今関淳子

 卓袱台は昭和の匂ひ四日かな・・・・・・・・端山日出子
 
 ビードロとビーチグラスと四日かな・・・・・・・・高島征夫
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a0ed6080-e8ac-40b0-8551-3596451d584c「しぶんぎ座流星群」
↑ 北斗七星を貫く「しぶんぎ座流星群」2001/01/04AM1時台 撮影者─gazoo.com

一月四日未明は「しぶんぎ座流星群」の見られる特異日であるが、今年は雲が多く、かつ月明があったりして観測できないなかったところが多かったらしい。
上に掲げた画像は過去のものである。撮影者と時刻は書いてある通りである。
撮影者である著作権所有者に御礼申上げて、ここに記しておく次第である。


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