K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(6月)月次掲示板
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東日本大震災から四年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
sizen266カタツムリ

六月になりました。 嫌な梅雨が始まります。
この梅雨は米作りや飲料水の確保などに必要ですから我慢いたしましょう。


 燕飛ぶ夕まぐれこの幸福は誰かを犠牲にしてゐるならむ・・・・・・・・・・・・・・・・大崎瀬都
 店先のあをき
榠樝の量感をながめをりけふの想ひのごとく・・・・・・・・・・・・・・横山未来子
 虹をくぐるための切符 にぎりしめた掌すこし汗ばんで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡亜紀
 生誕をことほぐべしとクリムトは初めて全裸の妊婦を描ける・・・・・・・・・・・・・・・・・ 篠 弘
 をりをりに風の集へる欅の木ざわと出て行く先は知らない・・・・・・・・・・・・・・・・・香川ヒサ
 「鳥の歌」パブロ・カザルス 若き耳には届くなかりしこの弦の音や・・・・・・・・・・三枝浩樹
 曇天をひるがへり飛ぶつばくらの狂ふとも見え喜ぶとも見ゆ・・・・・・・・・・・・・・・・ 松阪弘
 いつかこの古代湖は海につながるらしい水底に秘す一切とともに・・・・・・・・・・・・・林和清
 遠目には桐かあふちかふぢの花いづれかいづれかすむむらさき・・・・・・・・・・・ 沢田英史
 食べるまへも食べても独り わたくしに聞かせるために咳ひとつする ・・・・・・・・永田和宏
 このごろを死者に親しくわがあればなべてうつくし現し世のこと・・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 むせかえる青葉の樹下を行くならば一気に過ぎよ老いてしまうから・・・・・・・・・・佐伯裕子
 夏の家の水栓とざし帰るとき魚鱗もつ水息ひとつ吐く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下泉
 かき上げるしなやかな指はつか見ゆ風が大樹の緑の髪を・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 赤富士に鳥語一時にやむことあり・・・・・・・・・・ 富安風生
 航跡に碧湧き出す朝曇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 表情で伝へ合ふなり夏野菜・・・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 身一つの勝負に出たラムネ玉・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 麦秋の中なるが悲し聖廃墟・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
 走り梅雨コンビニの傘よく売れる・・・・・・・・・・・・工藤定治
 星条旗の下に広がる麦の秋・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 うららかに蟻を潰してゐるあなた・・・・・・・・・・さわだかずや
 溢れゆく梅雨の匂いや犬が死ぬ・・・・・・・・・・・・・大中博篤
 ゆふぞらの糸をのぼりて蜘蛛の肢・・・・・・・・・・・・上田信治
 夏雨のあかるさが木々に行き渡る・・・・・・・・・・・・生駒大祐
 文学に夏が来れりガルシア=マルケス・・・・・・・・・赤野四羽
 声帯のゆつくり延びる苗木市・・・・・・・・・・・・・・五十嵐秀彦
 あやめ咲く箱階段を突き上げて・・・・・・・・・・・・・・八田木枯
 蝸牛二段梯子の先頭に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森島裕雄
 青梅雨や部屋がまるごと正露丸・・・・・・・・・・・・・・小林苑を
 初燕来てをり君も来ればよし・・・・・・・・・・・・・・・・相子智恵
 新緑や愛されたくて手を洗う・・・・・・・・・・・・・・・・ 対馬康子
 Tシャツで十七歳で彼が好き・・・・・・・・・・・・・・・降矢とも子
 青梅雨や電車の隅に目をつむり・・・・・・・・・・・・・冨田拓也
 万緑やどの木ともなく揺れはじむ・・・・・・・・・・・・村上鞆彦
 初蚊帳のしみじみ青き逢瀬かな・・・・・・・・・・・・・日野草城
 麦の秋ゴホは日本が好きであった・・・・・・・・・・・京極杞陽
 影が私を見守るふるさと・・・・・・・・・・・・・・・・・大久保さく子
 夢の中まで遠い国のテロル・・・・・・・・・・・・・・・・・平山礼子
 のれん押し上げて客は初夏の風・・・・・・・・・・・・・富永順子
 あれこれ忘れて生きたふりする・・・・・・・・・・・・阿部美恵子
 私の墓場に蝶が来ている・・・・・・・・・・・・・・・・・・野村信広
 もう母でない母と座っている・・・・・・・・・・・・・・・・・島田茶々
 拭いても磨いても老いていく鏡・・・・・・・・・・・・・・・富永鳩山
 夕暮れがもっと一人にする・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中亜美
 順風も逆風も鳴り分けている風鈴・・・・・・・・・・・平田キヨエ
 紫陽花はロココ調です六分咲き・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子 
 奇数日をわすれてしまう麦の秋・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿 


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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

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 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


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 日本国憲法九条
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永久にこれを放棄する。
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「詩と思想」2015年7月号掲載・新作詩『寒椿』・・・・・・・・・・・・木村草弥
詩と思想
t-konoesiro近衛白(関西)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(82)

      寒 椿・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
         ・・・・・・「詩と思想」2015年7月号掲載・・・・・・・・・


          寒 椿            木村草弥   
              ──寒椿嘘を言ふなら美しく  渡辺八重子──

   「寒椿」または「冬椿」とも書かれるが、
   この花はツバキ科で、山茶花や茶とは同じカメリア属である。
   椿は、なかでも「薮椿」と呼ばれるものは、
   学名をCamellia japonica と言うように、
   日本の固有種である。
   日本では、初冬から晩冬にかけて寒中に咲くものを「寒椿」
   と称している。
   寒椿の学名はCamellia sasanqua cv. Fujikoana と言うが、
   ラテン語の学名の付けかたの世界では
   「cv」とは「園芸品種」とされている。
   藪椿が、日本固有の椿の原種ということであろうか。
   「獅子頭(ししがしら)」という品種の寒椿があるが、
   物の本によっては「山茶花」に分類されているのもあるので、
   まことに紛らわしい。
   椿と山茶花との区別の仕方として、
   ツバキは花が散るときに萼(がく)のところから、花がポロッと全体
   が落ちるのに対して、
   サザンカは花びらが一枚づつばらばらと落ちる、という違い
   があるとされている。
   しかし、寒椿の花は、サザンカと同じように花びらがばらば
   らに散るものもある、というから、余計にややこしい。
   一般的にツバキは、いま書いたように花全体がポロッと落ち
   るので、
   昔の武士は縁起が悪いと嫌がったという。
   先に書いたように、学名でもCamellia sasanqua までなら
   サザンカなのである。
   なお、Camellia というのは十七世紀のチェコの宣教師
   Kamell氏の名に因んでいることも、書いておこう。
   白い寒椿もある。

       冬つばき世をしのぶとにあらねども    久保田万太郎

   久保田万太郎の句は私も大好きで何度も採り上げてきた。
   万太郎は子供を亡くされてから「隠棲」された。
   身辺には或る女の人が寄り添っていたが、
   その人にも先立たれ沈潜した生活をしていた時期があるが、
   この句はその頃のものであろうか。
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かねて注文を受けていた新作詩が本日発売の「詩と思想」2015年7月号に載って発売されたので、ここに載せておく。
時期的にはマッチしないが、ご了承ねがいたい。






白南風や裏木戸を開けて日輪・・・・・・・・・・・・・・・野崎憲子
5361062白南風
海程

      白南風や裏木戸を開けて日輪・・・・・・・・・野崎憲子

この句は、私の友人から貰った金子兜太・主宰「海程」誌に、秀句として、主宰が抽出したものである。
「白南風」の説明として、下記を引いておく。  ↓

< 鳥羽・伊豆の漁師は、梅雨始めの強い南風を黒南風、梅雨期間中の強い南風を荒南風(あらはえ)、梅雨明けを白南風と呼ぶという。
九州西北部では、今でもこのことばを使っているが、白や黒は、雲の色からの命名である。
すなわち、梅雨中の陰雲な日の南風が黒南風で、そよそよと吹く季節風である。ただし、荒南風は黒南風が強くなって、出漁などに好ましくない風のこと。
白南風は、梅雨が明けて黒雲が去り、空に巻雲や巻層雲が白くかかるころ、そよ吹く南からの季節風のことである。

歳時記では、黒南風は仲夏(六月六日~七月六日)、白南風は晩夏(七月七日~八月七日)の季語に配されている。
「おもろさうし」には、黒南風に相当する語は見当たらない。しかし、梅雨明けのころの南風のことをうらしろ(浦白)と言っている。
まはえ(真南風)という語もある。これも白南風と見て良い。唐・南蛮から富を運んだ風のことだろう。いわゆる夏至南風のことである。夏至南風という語は「おもろ語」にはない。
案外あたらしいことばなのかも知れない。
なお、久高島には、フシ・アギ(星上げ)という風に名がある。この風は黒南風に相当するだろう。 >

「黒南風」と「白南風」のことについては先日のブログで書いた。 「白南風」と言ってもイメージ化出来ないので、イメージとして掲出のような画像を出しておく。
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ここに引かれている他の句を挙げておく。
もちろん引用は私の独断で、季節に合うものを引いたことを了承されたい。

   夏うぐいす自己陶酔のありにけり・・・・・・・・・平山圭子

   死後少し残る聴力夕かなかな・・・・・・・・・松本夕二

   熱帯夜言葉出て行く歯の透き間・・・・・・・・・水上啓治

   母の来て小鳥をつかむ仕草かな・・・・・・・・・水野真由美

   ぼーっと灯り一重瞼を閉じにけり・・・・・・・・・三井絹枝

   草いきれ皮虜は牢のようでもあり・・・・・・・・・茂里美絵

   猫が触れゆくしずかな柱夏の家・・・・・・・・・森央ミモザ

   撫でるごとトマト湯むきす子は遠し・・・・・・・・森岡佳子

   滝壺をやがて去る水青き真昼・・・・・・・・・山本勲

   遠さかる漢(をとこ)のごとく八月も・・・・・・・・柚木紀子
   
   逃げ水のどこにも逃げ場なき瓦礫・・・・・・・・・有村王志

   捨て犬を連れてジューンブライドや・・・・・・・・・石川義倫

   夏橙その手ざわりの過去(むかし)を言う・・・・・・・・・伊藤淳子

   ずぶ濡れの姉が桑の実くれしかな・・・・・・・・・大西健司

   屋根裏に蛇這う音の昭和かな・・・・・・・・・奥山津々子

   雨立ち込めて昆虫展の奥に人・・・・・・・・・小野裕三

   泡となる金魚のことば戦の匂い・・・・・・・・・狩野康子

   鬼百合やひとり欠伸は手を添えず・・・・・・・・・川崎千鶴子

   大ぶりの蜘蛛の巣いい仕事してるなあ・・・・・・・・佐々木香代子

   夏山に雨の襞なす無辺なり・・・・・・・・・佐藤紀生子



青蛙喉の白さを鳴きにけり・・・・・・・・・・・・・・松根東洋城
00164-1モリアオガエル

     青蛙喉の白さを鳴きにけり・・・・・・・・・・・・・・松根東洋城

厳密に言うと「青蛙」という種類はちゃんと居るのだが、この句の場合、そんな厳密な区別をして作ってあるとは思えない。
一般的に「緑色」の蛙ということだろう。
写真は「モリアオガエル」である。大きくなっても体長6~7センチくらいのカエルである。
「青蛙」という種類は緑色の体長7センチくらいのカエルで、シュレーゲルアオカエルという、れっきとした名前を持っている。
「モリアオガエル」は本州、四国、九州の平地の低い木や草に棲む。指先に吸盤がある。

00164-2モリアオガエル卵塊

写真②はモリアオガエルの卵塊である。
浅い池や沼のあるところで枝先が水面に張り出した低い木の葉の先に卵を産む。孵った蛙のオタマジャクシは水面に落ちるという工夫である。
写真のように枝先の白っぽい塊が卵塊である。

370742雨蛙

↑ 雨蛙は住宅地なんかの草や木にも繁殖する。
天気が雨模様になってくると、湿気を感知してキャクキャクキャクと鳴く。
私の家の辺りにもたくさん居るが、どこで卵、あるいはオタマジャクシになるのか、いまだに知らない。

 ↓ 上に書いた「青蛙」シュレーゲルアオガエルの写真
9395020シュレーゲル・アオガエル

「シュレーゲル」なんていう外国名がついているが、れっきとした日本の固有種である。
Wikipediaに載る記事を下記に引いておく。
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シュレーゲルアオガエル
Rhacophorus schlegelii

学名
Rhacophorus schlegelii
(Günther, 1858)
和名
シュレーゲルアオガエル
英名
Schlegel's green tree frog
シュレーゲルアオガエル(Rhacophorus schlegelii)は、両生綱無尾目アオガエル科に分類されるカエル。
名前はオランダのライデン王立自然史博物館館長だったヘルマン・シュレーゲルに由来する。
「シュレーケルアオガエル」とも言われる。

分布
日本の固有種で、本州・四国・九州とその周囲の島に分布するが、対馬にはいない。

形態
体長はオス3cm-4cm、メス4cm-5.5cmほど。体色は腹側は白く背中側は緑色をしているが、保護色で褐色を帯びることもある。虹彩は黄色。

外見はモリアオガエルの無斑型に似ているが、やや小型で、虹彩が黄色いことで区別できる。また別科のニホンアマガエルにも似ているが、より大型になること、鼻筋から目、耳にかけて褐色の線がないこと、褐色になってもまだら模様が出ないことなどで区別できる。

生態
水田や森林等に生息し、繁殖期には水田や湖沼に集まる。繁殖期はおもに4月から6月にかけてだが、地域によっては2月から8月までばらつきがある。

食性は肉食性で昆虫類、節足動物等を食べる。

繁殖期になるとオスは水辺の岸辺で鳴く。鳴き声はニホンアマガエルよりも小さくて高く、「コロロ・コロロ…」と聞こえる。卵は畦などの水辺の岸辺に、泡で包まれた3cm-10cmほどの卵塊を産卵する。泡の中には200個-300個ほどの卵が含まれるが、土中に産卵することも多くあまり目立たない。孵化したオタマジャクシは雨で泡が溶けるとともに水中へ流れ落ち、水中生活を始める。

なお、地域によってはタヌキがこの卵塊を襲うことが知られる。夜間に畦にあるこの種の卵塊の入った穴を掘り返し、中にある卵塊を食うという。翌朝に見ると、水田の縁に泡と少数の卵が残されて浮いているのが見かけられる。
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以下、青蛙ないしは雨蛙を詠んだ句を引いて終わりたい。

 梢から立小便や青かへる・・・・・・・・小林一茶

 青蛙おのれもペンキぬりたてか・・・・・・・・・・芥川龍之介

 青蛙ばつちり金の瞼かな・・・・・・・・川端茅舎

 軒雫落つる重たさ青蛙・・・・・・・・菅裸馬

 青蛙影より出でて飛びにけり・・・・・・・・中川宋淵

 空腹や人の名忘れ青蛙・・・・・・・・井上末夫

 雨蛙人を恃みてうたがはず・・・・・・・・富安風生

 雨蛙ねむるもつともむ小さき相・・・・・・・・山口青邨

 枝蛙喜雨の緑にまぎれけり・・・・・・・・西島麦南

 掌にのせて冷たきものや雨蛙・・・・・・・・太田鴻村


をさなごのひとさしゆびにかかる虹・・・・・・・・・・・・日野草城
990930a虹

     をさなごのひとさしゆびにかかる虹・・・・・・・・・・・・日野草城

この句は、幼子と虹を見ている情景を、微笑ましく描写して秀逸である。

ここで虹の句を歳時記から少し引く。

 虹立ちて忽ち君の在る如し・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 虹のもと童ゆき逢へりその真顔・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 虹といふ聖なる硝子透きゐたり・・・・・・・・・・・・山口誓子

 虹なにかしきりにこぼす海の上・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 野の虹と春田の虹と空に合ふ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 天に跳ぶ金銀の鯉虹の下・・・・・・・・・・・・・山口青邨

 いづくにも虹のかけらを拾ひ得ず・・・・・・・・・・・・山口誓子

 虹消えて了へば還る人妻に・・・・・・・・・・三橋鷹女

 目をあげゆきさびしくなりて虹をくだる・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 虹を見し子の顔虹の跡もなし・・・・・・・・・・・・石田波郷

 虹が出るああ鼻先に軍艦・・・・・・・・・・・・秋元不死男

 虹二重神も恋愛したまへり・・・・・・・・・・・・津田清子

 海に何もなければ虹は悲壮にて・・・・・・・・・・・・佐野まもる

 別れ途や片虹さらに薄れゆく・・・・・・・・・・・・石川桂郎

 赤松も今濃き虹の中に入る・・・・・・・・・・・・・中村汀女

「虹」は、ギリシア神話では、女神イリスが天地を渡る橋とされるが、美しく幻想的であるゆえに、文学、詩歌で多くの描写の素材とされて来た。
終わりに私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せた「秘めごとめく吾」と題する<沓冠>15首のはじめの歌を下記する。

 げんげ田にまろべば空にしぶき降る 架かれる虹を渡るは馬齢・・・・・・木村草弥


ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
450px-Naomi_Shemer27s_graveナオミ・シェメルの墓
イスラエルの作詞・作曲家、ナオミ・シェメルの墓。ガリラヤ湖のほとりにあり、ユダヤ人の習慣で訪問者が小石を置いている。

  ──巡礼の旅──(1)─再掲載・初出2011/06/26(再掲載にあたり構成し直しました)

      ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今日はイスラエルの作詞・作曲家ナオミ・シェメルの忌日である。
ナオミ・シェメル(1930年7月13日 ~ 2004年6月26日、英文:Naomi Shemer)は現代イスラエルの最も有名な女性作詞・作曲者で、
イスラエル建国後の重要な場面で多くの歌を発表して、国民から愛唱され、特に「黄金のエルサレム」は第2のイスラエル国歌とまで言われている。

200px-Neomi_shemerナオミ・シェメル
ナオミ・シェメルは1930年に、ガリラヤ湖のほとりのキブツに生まれている。
両親は1920年代にリトアニアから第3次シオン帰還運動で移動してきたユダヤ人で、このキブツの創始者の一家族であり、ナオミは子供時代から特に母からきびしい音楽教育を受けた。
長じてイスラエル国防軍の慰問団で働き、この間にエルサレム音楽・舞踏アカデミー(Jerusalem Academy of Music and Dance)で学んでいる。
結婚して、2児を得ている。2004年、ガンのため73歳で亡くなった。

ナオミ・シェメルは自分で作詞・作曲しているが、女性詩人のラヘル・ブルーシュタイン(Rachel Bluwstein)などの有名な詩にも作曲をしたり、
ビートルズの曲にヘブライ語の作詞をしたりもしている。
イスラエル建国と発展の各過程で依頼されて作った歌も多く、人々の喜び・悲しみ・希望を歌い、多くの人々に愛唱されている。1983年、イスラエル国民栄誉賞を受賞している。

「黄金のエルサレム」 (英語字幕つき) ← クリックして聴いてください。

↑ 一番有名な歌は、1967年のイスラエル独立記念日の音楽祭の招待曲として作られた「黄金のエルサレム」(エルシャライム・シェル・ザハヴ、英文:Jerusalem of Gold)である。
歌の内容はイスラエルの歴史から現代の希望までをカバーしており、含蓄の深いものとなっている。
この歌が作られて直後に六日戦争(第三次中東戦争)が起きて、後でイスラエルがこの戦争で勝ち取った東エルサレムについて(そこにユダヤ人にとって大切な「神殿の丘」と「嘆きの壁」がある)についての4番目の歌詞が追加されている。
この歌があまりにも有名になったため、1968年に国会でイスラエル国歌「ハティクヴァ」に代わる国歌にしようとする動きもあったが、これは否決されている。

今年はイスラエル建国から六十九年。
ユダヤ人にとっては悲願の建国であったが、歴史的にみると、今から三千年も前に古代イスラエル王国は築かれた。
神殿の丘には、エルサレム神殿が建てられ、ユダヤ教の礼拝の中心地として栄えていた。
しかし、紀元66年に始まったローマとのユダヤ戦争で、エルサレムはローマ軍によって陥落し、神殿は壁一枚を残して完全に破壊されてしまった。
神殿の西側に位置するため「西壁」と呼ばれるが、これがいわゆる「嘆きの壁」である。

ユダヤ戦争は、最後の拠点だったマサダの要塞の陥落をもって終結する。
以降、ユダヤの民は世界に離散し流浪の歴史を辿ることになった。
二十世紀になり、第二次世界大戦後にはナチスに迫害されたユダヤ人国家の建国機運が高まり、1948年に国連はイスラエル建国を宣言した。
すると周囲のアラブ諸国は猛反発し、その後の中東戦争へと足を踏み入れることになる。

この歌が作られた1967年当時、エルサレム旧市街やエリコを含むヨルダン川西岸地域はヨルダン領であり、ユダヤ人は自らの聖地で祈りを捧げることも出来なかった。
故郷への想いが綴られた歌詞の一部を下記に紹介する。

      黄金のエルサレム

  1番
  山々の風はワインのように冷ややかで、松のにおいが
  夕方の風に乗って太鼓の音と共に漂っていく。
  そして木も石もまどろんで夢の中に休むとき、
  ただ一人立つこの町は城壁の中にある。
  (繰り返し)黄金のエルサレムよ、そして銅と光の町よ、
  貴方にとって私は竪琴でありたい。

   2番
  水ためはどこへ行ったのか、市場は廃墟のようだ。
  そして誰も古代の都市エルサレムにある神殿を散策しようとしない(できない)
  岩山の洞窟では風がうなりを揚げ(るだけ)、
  そしてジェリコを通って死海に下る者は誰も居ない。

   3番
  ああ、あなた(エルサレム)の歌を歌う日が来たときに、そしてあなたに王冠をかぶせるときに、
  私はあなたの子供の中でもっとも若い者よりも小さくなり、あなたの歌い手たちの最後尾につきたい。
  さもなくば、あなたの名前が、天使の口付けで私の唇を焼き尽くしてしまう
  もし私が、全てが金のあなた、エルサレムを忘れることがあるとしたら。

   4番
  我々は水ためへ、そして市場に、野原に帰ってきた
  つのぶえは神殿の丘に、古代の町(エルサレム)に、響き渡る。
  そして岩山の洞窟には、何千もの太陽が昇り輝き、
  私たちはジェリコの道を通って、死海へと戻り下っていく。

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この歌が発表された僅か三週間後、第三次中東戦争により、たった六日間でイスラエルは歴史的勝利を収めることになる。
この歌「黄金のエルサレム」は、まるで将来を予言していたかのようだった。
「嘆きの壁」が解放されると市民たちは、そこで真っ先に「黄金のエルサレム」を歌ったという。
↓ 「嘆きの壁」
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エジプトのムバラク政権が倒れて、イスラエルとの共存の模索は宙に浮いた形になってしまった。
ムバラクに徹底的に弾圧されてきたイスラム政党が息を吹き返すのは自明のことであり、彼らがイスラム原理主義に突き進むのかが気がかりである。
「アラブの春」ともてはやされた各国の革命も、その後の推移を見ると、期待外れの観が多い。
政権を取った為政者が強権的な支配を進めることが多く、化石燃料から来る収入も一般庶民には「富」として配分されず、一部の人が恣意的に独占している。
一般庶民は貧しいままで、物価だけが値上がりしているらしい。

イスラエルのユダヤ教徒の中にも対立があり、アラブとの「共存」をめざしていたレビン首相が二十世紀末に暗殺され、以後歴代首相は対アラブ強硬派が政権を占め、
国連決議を無視してヨルダン川西岸にユダヤ人入植地建設を強行してきた。
ナオミ・シェメルは決して無分別の人ではなかったので惜しい人を亡くしてしまった。
イスラエルの生きる道は周辺諸国との「共存」なくしては在り得ないことを認識すべきだろう。

イスラエルについては、後日、十月に記事を四回ほど載せる予定である。




枇杷の木の少年枇杷を一つ呉れる・・・・・・・・・・・・・・・秋篠光広
biwa004びわの実②

    枇杷の木の少年枇杷を一つ呉れる・・・・・・・・・・・・・・秋篠光広

これもウォーキングする道端の家の庭に、たわわに枇杷(びわ)の木に実が生っているのを見たので、載せる気になった。
ビワの実は、今が時期である。
販売用には、栽培種で「茂木」ビワが有名である。
ビワは種が大きくて、食べるところは周囲の果肉で、あんまり食べるところが多くなくて、人によって好き嫌いがあるようである。
高級品は薄い紙に包まれていたりする。

枇杷というのは、花が初冬の十二月頃に咲いて、果実は翌年の梅雨の頃に熟する。
写真②が枇杷の花。地味な、目立たない花である。
biwaびわの花12月

枇杷の葉はかなり大きめのもので、この葉は薬草としても珍重される。
ものの本によると、枇杷の花は白く小さいが、香りがよい、と書いてあるが、嗅いだことはない。
寒い時期だから、この花を仔細に観察した人は多くはない筈である。
栽培種でなく、庭木として植えられているのは写真③のような、小ぶりの実である。
biwa2びわの実

毎日通る道筋で、たわわに実っている庭木があるが、今日通ったら、その一部に紙袋が被せられていた。
肥料も、ろくに与えていない庭木だから、さほど美味しい枇杷が採れるとも思わなかったが、やはり果実として世話をしてみたいのであろうか、
と歩きながら考えたことである。

枇杷の実を詠った句を引いて終わりたい。

 枇杷の雨やはらかしうぶ毛ぬらしふる・・・・・・・・太田鴻村

 枇杷熟れて古き五月のあしたかな・・・・・・・・加藤楸邨

 やはらかな紙につつまれ枇杷のあり・・・・・・・・篠原梵

 枇杷の柔毛(にこげ)わが寝るときの平安に・・・・・・・・森澄雄

 枇杷買ひて夜の深さに枇杷匂ふ・・・・・・・・中村汀女

 枇杷の種つるりと二男一女かな・・・・・・・・橋間石

 枇杷を吸ふをとめまぶしき顔をする・・・・・・・・橋本多佳子

 船室の明るさに枇杷の種のこす・・・・・・・・横山白虹

 袋破れ一顆は天へ枇杷実る・・・・・・・・稲垣法城子

 枇杷たわわ朝寝たのしき女の旅・・・・・・・・近藤愛子

 菩提寺の枇杷一族のごとこぞる・・・・・・・・中田六郎

 枇杷山の眩しさ海に近ければ・・・・・・・・畠山譲二

 枇杷に点る色のはるばる着きしごとし・・・・・・・・宮津昭彦

 灯や明し独り浴後の枇杷剥けば・・・・・・・・石塚友二

 枇杷啜り土佐の黒潮したたらす・・・・・・・・渡辺恭子

 走り枇杷すでにひさげり火山灰の町・・・・・・・・大岳麗子



完全にわれを無視蛇の直線行・・・・・・・・・・・・・菅八万雄
aodai20041青大将

    完全にわれを無視蛇の直線行・・・・・・・・・・・・・菅八万雄

蛇には、いくつかの種類が居るが、掲出の写真は「青大将」である。
蛇は以前に私の歌を引いて書いたので、詳しくは書かない。
蛇は私の地方では「くちなわ」という。
語源は「朽ちた縄」の意味であり、古来「くちなは」として古語にもあるので、その古い表現が今でも残っているということである。
青大将は日本に居る蛇の中では一番長い。私の子供の頃の記憶では、もっと青い(緑がかった)蛇だったように記憶するが、あてにはならない。

写真②は「しまへび」「(縞蛇)である。青大将とは、ずっと小型で細い。
sw-1upシマヘビ

蛇は野ネズミなどを食べるので有益な生き物なのだが、その姿から嫌われ、手ひどい仕打ちを受けることが多い。
日本に棲む蛇で有毒なのは「まむし」(蝮)、「やまかがし」である。 沖縄には「はぶ」が居る。

私の旧宅には大きな庭石が前栽にあり、その石の下に、わが家の「主」の青大将が棲んでいた。体の紋の記憶から、そうだとわかる。
この主が居たので、わが家に巣を作るツバメが何度も雛を呑まれたことがある。
雛が大きくなって巣立ち間際になる絶好のタイミングを知っていて、未明の薄暗い頃に呑み込むのである。
冬眠から「啓蟄」の頃に出てくるが、体の成長につれて「皮」を脱いで大きくなる。
蛇は「巳」(み)と言うが、「巳成金」と言って利殖の神様とされ、その「抜け殻」を財布の中に仕舞っている人が居るほどである。
だから私の家では、追っ払うことはあっても、決して打ち殺すようなことはしなかった。
「巳ぃさん」と敬称をつけて呼ばれていた。

以下、蛇を詠んだ句を引いて終わる。

 とぐろ巻く蛇に来てゐる夕日かな・・・・・・・・原石鼎

 尾のさきとなりつつもなほ蛇身なり・・・・・・・・山口誓子

 水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首・・・・・・・・阿波野青畝

 吾去ればみ仏の前蛇遊ぶ・・・・・・・・橋本多佳子

 見よ蛇を樹海に落し鷹舞へり・・・・・・・・及川貞

 蛇打つてなほまぼろしの蛇を打つ・・・・・・・・宮崎信太郎

 蛇去つて戸口をおそふ野の夕日・・・・・・・・吉田鴻司

 蛇逃げて我を見し眼の草に残る・・・・・・・・高浜虚子

 蛇の眼にさざなみだちて風の縞・・・・・・・・松林朝蒼

 蛇の衣傍にあり憩ひけり・・・・・・・・高浜虚子

 袈裟がけに花魁草に蛇の衣・・・・・・・・富安風生

 老斑の手にいま脱ぎし蛇の衣・・・・・・・・山口草堂

 平凡な往還かがやく蛇の殻・・・・・・・・沢木欣一

 蛇の衣いま脱ぎ捨てし温もりよ・・・・・・・・秋山卓三

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f-yamakagasi04ヤマカガシ
 ↑ ヤマカガシ

「Wikipediaヤマカガシ」に詳しい。  写真で見る「赤い斑点」が不気味である。「まむし」と並んで毒蛇だと言われている。




『無冠の馬』私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・・・小林サダ子
mukannouma (2)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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      『無冠の馬』私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・・・小林サダ子(「からの」会員)

(前略)
  ・筆づかひの途切れにも似て一ところ火勢の強き火床が見ゆる

  ・大文字消えゆくときに背後にはくらぐらと比叡の山容ありぬ

  ・三香原布當の野辺をさを鹿は嬬呼び響む朝が来にけり

  ・山の端の羅(うすもの)引きて朝日いづ茶畑の丘の緋の朝ぼらけ

  ・あしひきの州見の山ゆ見かへれば朝霧のおぼに流るる泉川

  ・あららぎの丹の実光れる櫟坂(いちさか)は寧楽と山城へだつる境

何と美しい、思考の美しさが読む者のこころに言い難い味わいを残してくれる “州見山” 四首。
このような歌が私には、こよないものとして残りました。このよろこびをいただきましたこと、ありがたきことと存じます。
「大文字」の二首も、あの大景を写し取ることのむずかしさに思わず脱帽でした。
良い風景の中にゆたかにお暮しのお方ならではの作品と存じます。
私も奈良に心ひかれて何年もかけて、何十回も旅をしました。まことに国のまほろばですもの。
ありがとうございました。
これからも、どのような歌を作られますことか、楽しみに拝読させていただきます。   (後略)
   六月十九日                      小林サダ子



ポン=タヴァン「トレマロ礼拝堂」・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
img_1602294_50211404_0ポンタヴァン トレマロ礼拝堂
 ↑ トレマロ礼拝堂
E38388E383ACE3839EE383ADE7A4BCE68B9DE5A082トレマロ礼拝堂
 ↑ 礼拝堂 背面から
lrg_10163633黄色いキリスト磔刑像
 ↑ 黄色いキリスト磔刑像

──巡礼の旅──(11)─再掲載・初出2013/06/27

     ポン=タヴァン「トレマロ礼拝堂」・・・・・・・・・・・・木村草弥

フランス北西部、ブルターニュ地方の小さな村ポン=タヴァン。
村はずれの山道を上りつめると、この地方独特のどっしりとした石造りの礼拝堂が見えてくる。
森の中でひっそりと佇む礼拝堂の中に、その「黄色いキリスト磔刑」像がある。

ポール・ゴーギャンが、辺境の地ブルターニュを初めて訪れたのは1886年。
産業革命で近代化著しい大都会パリに疲れた多くの芸術家たちは、対極的なものを求めてブルターニュにやってきた。
そこには昔ながらの田舎の風景があり、フランス人の起源─ケルトの文化が息づいていたのである。
女性は黒いスカートに「コワフ」という髪飾りをつけており、その姿は、いくつかゴーギャンの作品の中で見ることが出来る。
もともと株の仲買人をしていた彼は、印象派の影響を受けて画家への道に踏み出したのだが、彼の作品が三度にわたるブルターニュ滞在で徐々に印象派から脱してゆく。
そして太い輪郭線で区切った中に平坦な色合いで構成する独特の様式を確立してゆくことになる。
カトリック信仰が色濃く残るブルターニュで、ゴーギャンがキリストの受難や聖書の物語、そして「黄色いキリスト」を題材に描いたのも自然な選択だった。
gauguinゴーギャン 黄色のキリスト像といる自画像
 ↑ 「黄色いキリストと居る自画像」
lrg_10271563黄色いキリスト 拡大
 ↑ 別の「キリスト磔刑像」の絵

ブルターニュ滞在を含む四年間で、ゴーギャンはさまざまな画家と交流し、パナマへも旅をし、やがて未開の地への憧れを抱くようになる。
ここに引いた「黄色いキリストと居る自画像」はオルセー美術館所蔵のもので、1891年、終焉の地となるタヒチに旅立つ数か月前の作品である。

ここは今でも画家の村として有名なところ。
なお本によると「ポン・タヴエン」と書かれていることがあるが、ポン・タヴァン(Pont-Aven)がフランス語としては正確であることを指摘しておきたい。
この地の写真を載せておく。
061101_copyポンタバン①
061102_copyポンタバン②
061104_copyポンタバン③
紫陽花に置いたる五指の沈みけり・・・・・・・・・・・・・・川崎展宏
ajisai40アジサイ

    紫陽花に置いたる五指の沈みけり・・・・・・・・・・・・・・川崎展宏

「紫陽花」の時期としては6月中旬が最盛期で、今日では少し時期を失しているかも知れない。
何といってもアジサイは梅雨の花である。
あじさいの「あず」は集まる、「さい」は真藍の語からきたもので、古語ではアズサイと呼んだ。
落葉低木で、もともとは日本の山野に自生していたガクアジサイから改良されたものという。
ajisai30アジサイ

ajisai7紫陽花③

庭園や寺院などの鑑賞植物として梅雨期の花として、おおらかに、みづみづしく咲くものとして目立つ存在である。
わりに花期が長くて、小さくて多い四弁の花を、毬状に群がって咲かす。花弁に見えているのは「萼(がく)」で、花はその中で細かな粒になっている。
白、淡緑、紫そして淡紅色と花の色が変化するので「七変化」と称される。
花の色が変わるのはフラポン系の物質が変化するためと言われている。
また植えられている土が酸性かアルカリ性かによって花の色が左右されるという。
日本の山野に自生していたガクアジサイを西洋に持って行ったのはシーボルトだと言われるが、
これが西洋で品種改良されて、こんにち我々が目にするさまざまの園芸種の西洋アジサイになったという。
今ではヨーロッパでもアジサイはすっかり定着してしまったらしい。
「万葉集」には、左大臣橘卿の

  あぢさゐの八重咲くごとく弥つ代にをいませわが背子見つつ偲ばむ

という歌の他に1首が載っている。

私の住む近くでは西国三十三ケ所霊場巡りの札所でもある宇治市の三室戸寺が広い庭園の木の下に何千本ものアジサイを植えて有名である。

俳句にもたくさん詠まれているので、少し引いて終わりたい。
写真④はガクアジサイである。
ajisai27ガクアジサイ
 
 紫陽花や帷子(かたびら)時の薄浅黄・・・・・・・・松尾芭蕉

 紫陽花に雨きらきらと蝿とべり・・・・・・・・飯田蛇笏

 ゆあみして来てあぢさゐの前を過ぐ・・・・・・・・山口誓子

 紫陽花やはかなしごとも言へば言ふ・・・・・・・・加藤楸邨

 あぢさゐの花より懈(たゆ)くみごもりぬ・・・・・・・・篠原鳳作

 あぢさゐや軽くすませる昼の蕎麦・・・・・・・・石川桂郎

 あぢさゐは初花のうすいろにこそ・・・・・・・・松村蒼石

 大仏の供華鎌倉の濃紫陽花・・・・・・・・百合山羽公

 紫陽花の真夜の変化はわれ知らず・・・・・・・・鈴木真砂女

 紫陽花の醸せる暗さよりの雨・・・・・・・・桂信子

 紫陽花や家居の腕に腕時計・・・・・・・・波多野爽波

 あぢさゐや逢はばすずしくもの言はむ・・・・・・・・細見綾子

 紫陽花を買ふ夕暮の河の色・・・・・・・・有馬朗人

 紫陽花や恋知らぬ間のうすみどり・・・・・・・・林翔

 紫陽花剪るなほ美(は)しきものあらば剪る・・・・・・・・津田清子

 絹の服着なじむ午後を日の四葩(ひら)・・・・・・・・鍵和田釉子

 父の日の紫陽花ふかく切られけり・・・・・・・・日下部宵三

 考へのまとまりかかり濃紫陽花・・・・・・・・成瀬正俊



どの谷も合歓のあかりや雨の中・・・・・・・・・・・・角川源義
img70合歓の花本命

     どの谷も合歓のあかりや雨の中・・・・・・・・・・・・角川源義

いつも散歩というかウオーキングというか、の道の途中に合歓の木が三本ある。
ネムの花は、これからが丁度、花どきである。
この木はマメ科ネムノキ属。本州、四国、九州および韓国、台湾、中国、さらに南アジアに広く分布するという。
落葉高木で高さ6~9メートルに達し、枝は斜めに張り出して、しなやか。葉は羽状に細かく分かれた複葉で、夜になるとぴたりと合わさる。
そのゆえに葉の睡眠として「ネム」の名がつけられた。この図鑑の説明を読んでから、実際の木を見てみると、まさにその説明の通りである。

この句の作者・角川源義も俳人だったが、「角川書店」の創業者として著名な人である。

芭蕉の句に

 象潟や雨に西施がねぶの花

というのがあるが、「合歓」の花は、そういう悲運の女性を象徴するもののようで、この二つのものの取り合わせが、この一句を情趣ふかいものにした。
合歓の花については多くの句が詠まれている。少し引いてみよう。
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 総毛だち花合歓紅をぼかしをり・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 雲疾き砂上の影やねむの花・・・・・・・・・・・・三好達治

 銀漢やどこか濡れたる合歓の闇・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 花合歓や補陀落(ふだらく)といふ遠きもの・・・・・・・・・・・角川春樹

 合歓に来る蝶のいろいろ花煽・・・・・・・・・・・・・星野立子

 合歓咲いてゐしとのみ他は想起せず・・・・・・・・・・・・安住敦

 花合歓の下を睡りの覚めず過ぐ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 合歓咲けりみな面長く越後人・・・・・・・・・・・・森澄雄

 合歓の花不在の椅子のこちら向く・・・・・・・・・・・・森賀まり

 合歓咲くや語りたきこと沖にあり・・・・・・・・・・・・橋間石

 風わたる合歓よあやふしその色も・・・・・・・・・・・・加藤知世子

 山に来て海を見てゐる合歓の花・・・・・・・・・・・・菊地一雄

 花合歓の夢みるによき高さかな・・・・・・・・・・・・大串章

 葉を閉ぢし合歓の花香に惑ひけり・・・・・・・・・・・・福田甲子雄

 霧ごめの二夜三夜経てねむの花・・・・・・・・・・・・・藤田湘子
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私にも合歓を詠んだ歌がある。第二歌集『嘉木』(角川書店)に

 夕されば仄(ほの)と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある・・・・・・・・木村草弥

この歌は、この歌集の「つぎねふ山城」の章の「夏」に載る。「待つ人」とは、もちろん妻のことである。
その妻が亡くなった今となっては、一層想いは深いものがある。
念のために、その一連を引用してみよう。

 若き日の恋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

咲き満ちて真夜も薔薇(さうび)のひかりあり老いぬればこそ愛(いと)しきものを

夕されば仄と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある

はまなすの丘にピンクの香は満ちて海霧(じり)の岬に君と佇ちゐき

茎ほそき矢車草のゆれゐたる教会で得し恋いつまでも

むらさきのけぶる園生の遥けくてアガパンサスに恋の訪れ

幸せになれよと賜(た)びし鈴蘭の根が殖えをりぬ山城の地に

原爆を許すまじの歌ながれドームの廃墟に夾竹桃炎ゆ

ガーベラに照り翳る日の神秘あり鴎外に若き日の恋ひとつ

百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと

藤房の逆立つさまのルピナスは花のいのちを貪りゐたり

しろじろと大きカラーの花咲きて帆を立てて呼ぶ湖の風

これらの歌は、それぞれの花の「花言葉」に因む歌作りに仕立ててある。それぞれの花の花言葉を子細に調べていただけば、お判りいただけよう。
もう十数年以上も前の歌集だが、こうして読み返してみると、感慨ふかいものがある。「合歓の花」からの回想である。


河瀬直美監督・樹木希林主演・映画『あん』を観る・・・・・・・・・・・・木村草弥
あん①
あん②
あん③
あん④

──映画鑑賞──

     河瀬直美監督・樹木希林主演・映画『あん』を観る・・・・・・・・・・・・・木村草弥

樹木希林主演の映画を観るのは『わが母の記』以来、久しぶりである。イオンシネマ高の原で観た。
冒頭から黄色い電車がしきりに走る場面があり、見たことのある車両だなと思っていたら西武電車の車両だった。
ほぼ全編が東村山市内で撮影されたらしい。
ロケ地となった国立ハンセン病療養所「多磨全生園」のシーン。
撮影場所となった園内や西武線久米川駅前の桜並木、空堀川の河原などである。

主演は樹木希林、どら焼き屋を演じる永瀬正敏、店を訪れる女子中学生・内田伽羅などである。

ストーリーは、
「萌の朱雀」で史上最年少でカンヌ国際映画祭新人監督賞を受賞、「殯の森」ではカンヌ国際映画祭グランプリを受賞した河瀬直美監督が、2014年に旭日小綬章を受章した名女優・樹木希林を主演に迎え、ドリアン助川の同名小説の映画化。
あることがキッカケで刑務所暮しを経験し、どら焼き屋の雇われ店長として日々を過ごしていた千太郎。
ある日、店で働くことを懇願する老女、徳江が現れ、彼女が作る粒あんの美味しさが評判を呼んで店は繁盛していく。
しかし、徳江がかつてハンセン病を患っていたという噂が流れたことで客足が遠のいてしまい、千太郎は徳江を辞めさせなければならなくなる。
おとなしく店を去った徳江だったが、彼女のことが気にかかる千太郎は、徳江と心を通わせていた近所の女子中学生ワカナとともに、徳江の足跡をたどる。
千太郎役に永瀬正敏、ワカナ役には樹木の孫娘である内田伽羅が扮した。



動画の引用で申し訳ないが、ストーリーを知ってもらいたいためである。

<あんを炊いているときのわたしは
 いつも、小豆の言葉に、耳をすましていました。
 それは、小豆が見てきた雨の日や晴れの日を、想像することです。
 どんな風に吹かれて小豆がここまでやってきたのか、
 旅の話を聞いてあげること。
 そう、聞くんです>

映画の中での、徳江のセリフである。

原作はドリアン助川の『あん』(ポプラ文庫)で、この本が出て、樹木希林と河瀬直美に一冊づつ贈呈して映画化を望み、ここに実現したのだという。

買ってきた「あん」オフィシャルブックの中で、監督・河瀬直美が、こう書いている。  ↓

    慈しみあう世界の扉へ     河瀬直美

桜は死をイメ ージする花だ。
あんなにも狂喜的に乱れ咲き、あんなにも潔く散り急ぐ花もほかにはないだろう。
だから人は、その人生を託すように桜を愛でるのか……。

そんな満開の「桜」の木の下で出会った二人。千太郎と徳江。
彼らの生きてきた時代やその人生は明らかに違うが、それぞれの魂がさまよっている場所は限りよく近い。
社会はいつも人の希望を叶えるとは退らない。
時に希望を奪う場所でもある。

前半三分の一あたりで徳江がかハンセン氏病患者であるということが明かされてからのこの物語は、
一気に深みを増し、人間の本質的なありようを克明に描きはじめる。
わたしは、この人生の宿命のようなものを、「あん」という物語にのせて映像で表現することに出逢えた悦びを、今、かみしめている。
複雑な時代背景をべースに人間の悟りを得る、高らかなものであればと思う。

またこの物語において「壁」の存在は特別な意味を持つ。
その「壁」は、彼らの人生を確実に思盧深くする。
千太郞が味わった壁は、自らのあやまちによって。
対して、徳江のそれは、否応もなくそうさせられてしまった時間の、それも膨大な人生のほとんどに影響する。
すべてを否定され、人格を奪われ、子を産むことも許されなかった時代。そんな中で、徳江が悟った世界──。
彼女の感じる「幸せ」のありようは、私たち現代社会を生きる人間に多くを学ばせる。
この時代に誕生されるべくして誕生する物語。
それは、人間の尊厳を奪われてもなお「生きよう」とした人の物語である。

桜の咲く時期に出逢ったふたりが、季節を一巡してまた桜の時期に魂と魂で出逢うこの物語は、「ものの声を聴く」という行為から結実してゆく。
千太郎の告白と徳江の告白。それらは知らないふりをしていればやり過ごせること、やり過ごしてきたことを、再度、つなぎなおす作業でもある。
そうしてやがて、自分たちは「人間である」とうその一点にしがみつき、誇りを持って「生きる」ということの真実がたち現れるのだ。

閉ざされた「壁」の存在を超えた心でつながりあえる作品として、この世に誕生されるべき「あん」という映画。
人は幾度の挫折を釆り越えて、その高みに行くことができるのだろう。
もの言わぬものと向き合い、もの言わずともそれらが変化しはじめるとき、その交歓を描く作品になればと思う。
人生の後悔。自暴自棄。この世で自分はまったく役にたっていないのではないかという焦燥感。
それでも、いやそれだからこそ持ち続ける、かけがいのない未来への想い──。

わたしが観なければ、夜空にあらわれた満月も存在しないのと同じだ。
ただそこに在るだけではない。わたしがいるから、それが存在する。

お互いがお互いをそう想いあい慈しみあう世界への扉が、ここにある。
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深刻だが、佳い映画だった。
樹木希林はガンに侵され、闘病中の身であるという。 ご自愛を祈りたい。

河瀬直美 永瀬正敏 樹木希林 内田伽羅 の皆さんの詳しくは、 ← このリンク先で。




黒南風の岬に立ちて呼ぶ名なし・・・・・・・・・・・西東三鬼
kurohae練り切り黒南風

   ◆黒南風(くろはえ)の岬に立ちて呼ぶ名なし・・・・・・・・・・・西東三鬼

    ◆白南風(しろはえ)にかざしてまろし少女の掌・・・・・・・・・楠本憲吉


「黒南風」とは、梅雨に入り、空が暗く長雨がつづく陰鬱な頃に吹く南風で、柔らかい風だが、低気圧や梅雨前線が通り、荒い風が吹くときは「荒南風」となる。
「白南風」とは梅雨が明けて明るい空になり、晴れて吹く南風が、これである。
また梅雨の間でも、晴れようとする様子のときの南風も白南風という。
空や雲の様子から、白、黒を南風(はえ)にかぶせたもの。
ここでは「黒南風」と「白南風」の句を並列に並べて掲出してみた。

「風」というのは、視覚化できないので、ネット上から某菓子舗の「練り切り」の菓子を写真にする。
以下は、その「説明書」である。

<風は季節によって、ほぼ方向が定まっています。
春は東風、秋は西風、冬は北風で、
夏季の「南風」は、「みなみ」とか「はえ」とも読みます。
この「はえ」、中国・四国・九州地方など主に西日本の言葉で、
特に、梅雨時のどんよりと曇った日に吹く南風を、黒南風と呼ぶそうです。
梅雨入りの頃はこの風が吹いて空が暗くなる、というのがこの名の由来。
ちなみに梅雨明け頃の南風は、吹くと空が明るくなるので、「白南風(しらはえ)」と呼ばれています。
どんよりとした梅雨空を黒ゴマ入りの煉切で表し、一陣の風を、力強い一筆書きのように水色で描きました。
ジメジメと鬱陶しい季節ですが、まぁ、お茶とお菓子でも…。 >

掲出の西東三鬼の句は、私には亡妻に対する「レクイエム」のように受容できるもので 、「呼ぶ名なし」などと言われると、私のことのようで身に沁みるのである。

以下、「黒南風」「白南風」を詠んだ句を引いて終わる。

 黒南風や島山かけてうち暗み・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 黒南風に水汲み入るる戸口かな・・・・・・・・・・・・原石鼎

 黒南風は伏屋のものを染めつくす・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 黒南風や潮さゐに似て樹林鳴る・・・・・・・・・・・・占 魚

 沖通る帆に黒南風の鴎群る・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 和歌の浦あら南風鳶を雲にせり・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 あらはえや雲のちぎれに月さやか・・・・・・・・・・・・桂 居

 黒南風や屠所への羊紙食べつつ・・・・・・・・・・・・中村草田男

 黒南風に嫌人癖の亢ずる日・・・・・・・・・・・・相馬遷子

 白南風の夕浪高うなりにけり・・・・・・・・・・・・芥川龍之介

 白南風やきりきり鴎落ちゆけり・・・・・・・・・・・・角川源義

 白南風や永病めば土摑みたし・・・・・・・・・・・・香取哲郎

 いや白きは南風つよき帆ならむ・・・・・・・・・・・・大野林火

 海南風死に到るまで茶色の瞳・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 クラリネット光のごとく南風(はえ)にきこゆ・・・・・・・・・・・・川島彷徨子

 汐満てりはえとなりゆく朝の岬・・・・・・・・・・・・及川貞

 のけぞれば吾が見えたる吾子に南風(みなみ)・・・・・・・・・・・・中村草田男



コンク「サント・フォア教会」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
cq34コンク サント・フォア修道院
 ↑ フランス中部オーヴェルニュの南限にある「サント・フォア教会」
800px-Conques_doorway_carving_2003_IMG_6330サント・フォア修道院
 ↑ 「サント・フォア教会」半円形壁面

──巡礼の旅──(10)─再掲載・初出2013/06/21

     コンク「サント・フォア教会」・・・・・・・・・・・・木村草弥

フランス中部オーヴェルニュの南限にあるコンクの「サント・フォア教会」は、もともとは修道院として発足したもので、スペインのサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路にあたる。

799px-Conques_JPG01コンク

コンク (Conques、オック語:Concas)は、フランス、ミディ=ピレネー地域圏、アヴェロン県のコミューン。
中世、コンクは聖アジャンのフォワの聖遺物を祀る地として巡礼地であった。

フランスのミディ・ピレネ地方のコンクはル・ピュイを出発地とするスペインのサンチアーゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の経由地として、
ここコンクは、サント=フォワ修道院教会とドゥルドゥ川に架かる橋がユネスコの世界遺産に登録されている。
また、フランスの最も美しい村にも選ばれている。

Conques_pont_romainコンク ローマ橋
 ↑ 14世紀に架けられたローマ橋

コミューンはドゥルドゥ川とウシュ川の合流地点にある。
この地形がホタテガイに似ていたため、コンク(ラテン語ではconcha、オック語ではconcas)という名称を与えられたとされる。
県都ロデーズの北にあり、サント=フォワ修道院周囲に密集する中世以来の町並みが、陽光差す山の中腹に現れる。
生け垣に囲まれた住宅は、正午頃にそのファサードに日が当たる。ホタテガイの意匠が目立つ。通りの舗装、屋根に至るまで石が使われている。
扉や窓の縁飾りのために切石が使われ、灰色やピンク色の砂岩、さらに花崗岩が使われることは非常にまれである。
cq14コンク
cq50コンク

歴史
一説によると、5世紀から、この地に聖ソヴールを祀った小修道院とそれを囲む定住地があったとされる。
この小修道院は、イスラム教徒の北進で壊され、730年以降にカール・マルテルの子ピピン3世の支援で再建された。
同時期、修道士ダドンが修道院を建て、819年にはベネディクト会の規則を採用した。
社会組織が非常によくできていたこの修道院は、重要な領地を次第に統合し、9世紀の経済減退期に繁栄する小島のような状態となった。

864年から875年のこの時期、コンクの修道士アリヴィスクスが、アジャンの教会に安置されていた聖フォワの聖遺物を盗み出すことに成功するという、歴史的な事件が起きた。
聖フォワは303年、アジャンにて12歳で殉教した少女である。 この敬虔なる移動が、すぐに奇跡を誘発し、多くの巡礼者をコンクへ引き寄せたのだった。

同時期、聖ヤコブの墓がサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見されたとヨーロッパ各地に伝わった。
955年から960年の間、ルアルグ伯は使徒を敬い、ガリシアで報いの御礼を述べるべく最初の巡礼の一人となった。
30年あまり後、彼の息子レーモンはバルセロナにてイスラム教徒を撃退した。謝意の証として、彼は大規模な戦闘を物語る贈り物をコンクへ贈った。
銀に鞍の彫り物がされた祭壇飾りである。それを用いて修道士たちは大きな十字架をつくった。

11世紀の間、聖フォワは、スペインでのレコンキスタに赴く十字軍騎士たちの守護聖人であった。2人のコンクの聖職者が、ナバーラとアラゴンで司教となった。
1077年以降にパンプローナ司教となったピエール・ダンドック、1100年にバルバストロ司教となったポンスである。
アラゴン王ペドロ1世は、その後に聖フォワへ献堂した修道院を建てている。

コンクを出発後、クエルシーへ向かうものと、モワサックの修道院へ向かうそれぞれの道程をつなぐ巡礼路がある。
最短のものはオーバンへ向かう、ドゥルドゥ川に架かる古い橋である。しかし、グラン=ヴァブル村の小集落ヴァンズルと北西のフィジャックを通過する道程が主流であった。
13世紀、コンクのサント=フォワ修道院は強力になり、その経済力は頂点に達した。しかし14世紀から15世紀に衰え、1424年12月22日、ついに世俗化された。

フランス革命後に廃れていたコンクは、1837年、当時歴史文化財の検査官でもあったプロスペル・メリメによって再発見された。
宝物や教会の正門は住民の手で完全な状態で保存されていたが、教会には幾らかの補強が必要だった。

1873年、ロデーズ司教ブールは、プレモントレ修道会の再建者エドモン・ブルボンによって、聖フォワ信仰と巡礼地コンクの復活を依頼された。
1873年6月21日から、白い修道服をまとった6人の修道士たちが、ロデーズ司教の命令により厳かにかつての修道院に居住するようになった。
フランス第三共和政初期、コンクの住民たちは、既に失われた信仰の記憶が甦るのを目撃したのだった。

1911年、中世以来の宝物を保管する博物館が建設された。聖フォワの聖遺物は1875年に取り戻され、1878年から巡礼が敬意を表しに現れた。

サント=フォワ修道院と教会
この壮大なロマネスク様式の建物は、11世紀から12世紀にかけて建てられた。ファサード両側の2本の塔は、19世紀のものである。
ティンパヌムは特筆されるものである。修道院と教会には、カロリング朝美術の独特の美が保存されている。
内部はピエール・スーラージュによるステンドグラスで飾られている。

サント・フォアの名前を頂いた教会は巡礼路のあちこちに建てられている。
というのは、彼女こそそれらの巡礼路の「守護聖人」だからである。
この地についてはこのサイトに詳しい。アクセスされたい。

図版②に掲げた「半円形壁面」について少し触れておきたい。
「半円」という意味は神の「宇宙」であるから、いわば「円蓋」(ドーム)に対応するイメージであろう。
東方ビザンチンに多い「集中方式」(上から見て円が大きな円蓋を柱にして集まること)を水平軸から眺める場合、半円は砂漠をベースとした天空で、星をちりばめた形となる。
したがってそれは宇宙の像であり、神の支配する空間と見るのも不思議ではない。
そこに多様な主題が刻まれたり、描かれたりするのである。
ここコンクのサント・フォアの場合は「最後の審判」を主題とする。言うまでもなく「ロマネスク」期にはもっとも多いものである。
「世の終わり」が近づきつつあるという人々の心性の表現である。
中心に神が位置し、上部には天使が舞う。挙げた右手の側には「善き人々」が聖母マリアの先導にしたがって神を目指している。
その中にこの教会の設立に力があったというシャルルマーニュ大帝の姿も見える。
その反対側は地獄であり、いましめを受け、拷問にあっている罪人たちの中心には悪魔(サタン)が居る。
その左前には「淫乱」の罪を犯した男女が立っている。
一説によればオーヴェルニュ地方のクレルモン・フェランにあるノートル・ダム・デュ・ポール教会の柱頭の一つに刻まれた人名、ロベールなる職人の組合が、
この壁面を刻んだという。
ピレネー山脈に近いラングドック地方の流麗な様式と異なり、ずんぐりとして、しかもどこか童画的な印象である。
先に書いた「このサイト」には詳しい説明が載っているので参照されたい。
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蛇足① 聖人・聖女たちは、名前の頭に「聖」をつけて呼ばれるが、男性の場合はフランス語などのラテン語系の場合には「Saint」であり、語尾の「t」は発音されないので「サン」だが、
女性名詞の場合には「Sainte」となり「サント」と発音される。今回の、この教会は聖女なので「Sainte-Foy」サント・フォアと発音される。
ただ、上にも書かれている「サンチアゴ・デ・コンポステーラ」Santiago de Compostela の場合は「男性」だが、名前の頭に母音があり、
本来なら無音の「Saint」の語尾の「t」と頭の母音とが「リエゾン」となってサンティアゴと発音されていいるのである。
ヤコブの名前はスペイン語では「iago」というので、聖ヤコブ=Santiago となる次第である。
蛇足② 上の記事の中で、聖フォアの表記が、「サント・フォア」や「サント=フォア」となっているのは、表記の仕方の違いで、間違いではないので念のため。
これらの単語は、本来一まとめのもので、それを日本語表記にする場合に「・」「=」を使ったりするからである。
多くの場合には「・」で済まされることが多いが、厳密に区別する人は「=」を使用するので、こんなことになる。
余計なことを書いてしまったが、ご了解をお願いしたい。


私信と『無冠の馬』歌抄出・・・・・・・・・・・・伝田幸子
mukannouma (2)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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      私信と『無冠の馬』歌抄出・・・・・・・・・・・・伝田幸子(「潮音」会員)

(前略)
歌集名の『無冠の馬』からは作者の思いの寓意性が感じられました。
帯文の自選五首はさすが素晴らしい作品だと思いました。と申しますのも、一冊を拝
見させて頂き、私が付箋を付けました作品の中に全て網羅されておりました。
従って、それ以外に感動いたしました作品を抄出させていただきます。

   沈丁の香の強ければ雨ならむ過去は過去なり今を生きなむ

   鬱と咲き鬱と落ちたる椿なれ一輪の朱に重さありにけり

   夜の藤ひとりでゐたき時もあり月も光を放たずにゐよ

   盆栽に水遣り拒みし少年の我にバケツの水をぶつかけし父

   妻に効く抗癌剤なしのご託宣、異郷の空に夕光(ゆふかげ)赤く

   桜ちる頃に死にたる母と妻、お供にと母が連れたまひけむ

   助からぬ病と知りてゐたれども死なれてみればわれは孤(ひと)りよ

   〈朝立ち〉を告ぐれば「それはおめでたう」何がおめでたいだ 今は虚しく

   けふ一と日誰とも言葉交はさざりき初夏のゆふべを小綏鶏の鳴く

   哀しみとポテトチップスと比べつつしあはせ計れば鳴る赤ケトル

   さまざまの過去を抱きて来し人ら菜の花の黄に鈴鳴らしゆく

   睦みあひもだえしのちは寂しくも泥のごとくに眠れるわれら

これらのどの作品からも一歌人、一男性の寂寥感、哀感が窺えて、生きているとい
うことの切なさが伝わってまいりました。一方、また、生きているからこその素晴ら
しさも伝わってまいりました。

   沈丁の香の強ければ雨ならむ過去は過去なり今を生きなむ

この作品のように、前向きに生きていくことが、亡き人を安心させることなのだと、
今回改めて思いました。
(中略)
木村様が、母上と奥様をほぼ同じ時に亡くされたことを思いますと、その虚無感、
切なさはいかばかりかと、改めて思わずにはおれませんでした。
今回の『無冠の馬』の作品は、人間の本質に触れており、私性が濃くうかがえる作
品群でございます。
すなわち、作品の背後に作者の顔がはっきりと見えてまいります。
久しぶりに感激した歌集に巡り合わせていただき深く心に響きました。   (後略)
 平成二十七年六月十四日           伝田幸子
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長野市にお住まいの伝田幸子さんから、ご懇篤なお手紙をいただいた。
手紙の終りに
<長野市の善光寺御開帳が終わりまして、街の中がもとの静かさにもどりました>
とお書きになっていて、記念切手をご恵贈いただいた。 大切にして手紙の差出しに使いたい。
伝田さんには、もう十数年前になるが、「未来山脈」の会合のときにお目にかかったことがあるが、
お綺麗な方である。 ここに記して厚く御礼申し上げる。



ねそびれてよき月夜なり青葉木莵 森かへてまた声をほそめぬ・・・・・・・・・・・・穂積忠
oaobazukuあおばずく

    ねそびれてよき月夜なり青葉木莵(あをばづく)
       森かへてまた声をほそめぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・穂積忠


アオバズクは梟の一種で、鳩くらいの大きさ。「ほうほう」と二声づつ含みのある調子で鳴く。
オーストラリア辺りから渡ってくる夏の渡り鳥だという。

夏の、よい月の夜、寝そびれて、ふと聞きとめた青葉木莵の声。
途絶えたと思うと、思いがけない方角の森で、また鳴きはじめた。
声を細めて鳴きはじめるのが何とも言えず、ゆかしい感じがする。
引き込まれてアオバズクの声を追っている気持が「森かへて」や「声をほそめぬ」によく表れている。
鳥声に心もいつか澄んでゆく。

穂積忠は明治34年静岡県の伊豆に生まれ、昭和29年に没した。教育者だった。
中学時代から北原白秋に師事したが、国学院大学で折口信夫(釈迢空)に学んで傾倒、歌にもその影響が見られる。
昭和14年刊『雪祭』所載。

アオバズクは四月下旬頃に南方から飛来し、都市近郊の社寺などの森に棲んで5、6月頃に産卵、十月頃南方に帰る、という。
そして夜間に活動して、虫や小鳥、蛙などを食うらしい。名前の由来は、青葉の森の茂みの暗がりと声の感じがよく合って、この命名となったものか。
俳句にも、よく詠まれる題材で、少し句を引いてみる。

 こくげんをたがへず夜々の青葉木莵・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 夫(つま)恋へば吾に死ねよと青葉木莵・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 青葉木莵月ありといへる声の後・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 青葉木莵さめて片寝の腕しびれ・・・・・・・・・・・・篠田悌二郎

 眠れざる者は聞けよと青葉木莵・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 青葉木莵おのれ恃めと夜の高処・・・・・・・・・・・・文挟夫佐恵

 五七五七と長歌は長し青葉木莵・・・・・・・・・・・・高柳重信

 青葉木莵産着のかたち縫ひ急ぐ・・・・・・・・・・・・杉山岳陽

 青葉木莵次の一語を待たれをり・・・・・・・・・・・・丸山哲郎

 考えを打ち切る青葉木莵が鳴く・・・・・・・・・・・・宇多喜代子

 眼を閉ぢてさらに濃き闇青葉木莵・・・・・・・・・・・・山口速

 うつぶせに寝る癖いまも青葉木莵・・・・・・・・・・・・石川美佐子

 青葉木莵遠流百首を諳じる・・・・・・・・・・・・野沢晴子

 青葉木莵夜もポンプをこき使ふ・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 青葉木莵木椅子を森の中ほどに・・・・・・・・・・・・井上雪


村島典子の歌「春のくぢら」30首・・・・・・・・・・・・・木村草弥
晶

──村島典子の歌──(23)

      村島典子の歌「春のくぢら」30首・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・「晶」90号2015/06所載・・・・・・・・

        春のくぢら         村島典子

   雲海の只中およぐごとくゆく春のくぢらにわれはなりたし
   東北に星屎(ほしくそ)のあり沖縄に印部石(しるびいし)あり春のにつぼん
   はたはたと琉球の地図風に鳴るしるびいしとふ石のありけり
   しるびいし置かれてのちに琉球の古地図は成りき十八世紀
   清国を経て琉球に伝ひ来しフランス三角点測量法は
   国の位置は王の位置たりルイ十四世も乾隆帝も尚敬王も
   行きしことなけれど今もアラゴーの北指す国の子午線の石
           *
   神宮の社にかるたの声ひびき木霊かへれるきさらぎの湖
   寒の雨みづをもぬらす君はまたはらからひとり見送りたりし
   むかしより姉はかなしき掟もつと見送る坂に氷雨ふり来る
   大津皇子を送りし姉のかなしみに近江湖北の雪を見にきつ
         二月九日、湖西から湖北、湖東へとJRを乗り継ぎて、琵琶湖をー周す。
   胎内をくぐりゆくごとトンネルをいでて列車は雪原に生る
   われらいま比良雪嶺の裾をゆく雪けむりあげ対向車すぐ
   歌はねばまぼろしとなる雪原を列車すぎたり雪けむりあげ
   近江なる今津、塩津のみづうみの消えてしまひぬ霏々と雪ふる
   雪照りの近江塩津の時間待ちホIムの雪に君は触れにゆく
   安曇川は雪原のなか黒々と一筋のみづ墨ひくごとし
   天恵の雪とおもへり高月の観音さまの御堂のうへに
   ふぶきたる雪に伊吹の山みえず余呉湖もみえず非在のごとし
   ささなみの志賀のみづうみ廻る日のたふとき時間きらきらとせり
   とほき日の歌誌ひらきたり夕ぐれのひかりの中に歌零れたり

        「流星の尾が打ち降ろす一瞬を人は壊るるために生れにし」
                        小林幸子「O」Ⅳ号「河づくし」より

   こんなとき汀子さんなら何とせむ黙して君の背をさするほか
   二子橋のてすりの柱かぞへつつ母に会ひたき姉とおとうと
   おとうとは多摩川わたりかの岸へかの日のごとく母に逢ひしや
   斯くありてあなたの中を旅します「晶」創刊号から八十八号
   「アフリカの詩」より太鼓が鳴りはじむいのち森く大地の歌よ
   振りかへる隙にあなたは階段を妖精のやうに駆け上りたり
   天上に一番星ののぞくとき渋谷松涛町春のゆふやみ
   春はまためぐり来たれど君まさず地上あはあは花につつまる
   むざむざと死なせし人にあらなくに夕べさくらはわれを泣かしむ
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今号は「晶」の創刊同人であった原田汀子さんの追悼号である。 94歳だった。 八冊の歌集を上梓されているようだ。
ここに引いた村島さんの歌の後半は、原田汀子さんの追憶が詠まれている。
第三者には判らない経緯が歌にされているが、情趣ふかい内容になっている。
他の人の追悼文などによると、「ヤママユ」創刊者の前登志夫の薫陶も受けて来られたようで、「晶」として、ここに集まる人々との繋がりが、ようやく判った。
現責任者の小林幸子さんも村島さんも前登志夫の高弟でいらっしゃる。 勿論、「ヤママユ」以外の系譜の方も、いらっしゃる。
村島さんの懇切な追悼文もあるが省略させてもらう。
今号の「あとがき」に、以下のような村島さんの文章があるので、引いて筆を置く。  ↓
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あとがき
★三月の半ば、那覇まで映画を見に行った。
1泊二日の旅。半世紀の後に封印を解かれた
「イザイホウ」という1966年の久高島の
神事の記録作品である。12年に一度午年の
旧暦十一月十五日に行われるイザイホーは、
久高島の成巫儀礼の祭事。 1978年を最後
に消滅する。島で生まれ育った、三十歲から
四十一 歳までの女性(両親も夫も島人)の神
女となる儀式である。1942年にはほぼ完
全な秘祭であったが、12年ごとに学者、見
学者、マスコミに少しずつタブーが犯されて
いく。その上、ノロの高齢化、過疎化で肝心
の該当者が激減する。
モノクロの映像、小さな劇場に息を張り詰
める。「えーふぁい」「えーふぁい」という掛
け声が、夕闇のなかでいっそう遠く連呼され
る。一日目の「夕神遊び」は裸足に洗い髮で
「七つ橋わたり」を繰り返す。その場面を注
視していたのに、度々わたしは睡魔に引き込
まれた。「見てはならぬ」と命じられたように。
1967年の島での試写でこの秘祭は上映
を封印されたのだった。往復の機上は、春の
雲海の上。ふしぎな旅だった。 (村島)


白雨の隈しる蟻のいそぎかな・・・・・・・・・・・・・・・・三井秋風
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    白雨(ゆふだち)の隈しる蟻のいそぎかな・・・・・・・・・・・三井秋風

三井秋風は芭蕉と同時代の俳人。京都の富豪三井氏の一族で、洛西の鳴滝にあった別荘には、芭蕉らの文人が、よく往来したという。
いわゆる「旦那衆」パトロンという役回りと言えよう。
芭蕉が秋風を訪ねた時に残した一句に「梅白しきのふや鶴をぬすまれし」という中国の神仙趣味の句があり、高雅を旨とした交友関係が偲ばれる。
秋風には「柳短ク梅一輪竹門誰がために青き」のような、西山宗因の談林派の影響下にある初期の漢詩風の破調句から、
上に掲出した句のような、夕立に急いで物かげに逃げてゆく蟻を詠む、といった平明な蕉風に近い句まであって、
当時の俳諧一般の作風の変化の推移のあとまで見えて、興味ふかい。『近世俳句俳文集』に載る。

この句の冒頭の「白雨」ゆふだち、という訓み、は何とも情趣ふかいものである。
広重の江戸風景の版画に、夕立が来て、人々が大あわてで橋を渡る景がある。

hiro-atake-b広重

これなどは、まさに白雨=夕立、の光景である。
もともとの意味は「白日」の昼間に、にわかに降る雨のことを「白雨」と称したのである。
こういうところに漢字の表記による奥深い表現を感じるのである。
以下、歳時記に載る蟻と夕立の句を引く。

 ぢぢと啼く蝉草にある夕立かな・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 小夕立大夕立の頃も過ぎ・・・・・・・・・・・・高野素十

 祖母山も傾山も夕立かな・・・・・・・・・・・・山口青邨

 半天を白雨走りぬ石仏寺・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 熱上る楢栗櫟夕立つ中・・・・・・・・・・・・石田波郷

 夕立あと截られて鉄の匂ひをり・・・・・・・・・・・・楠本憲吉

 蟻の道雲の峰よりつづきけん・・・・・・・・・・・・小林一茶

 木蔭より総身赤き蟻出づる・・・・・・・・・・・・山口誓子

 大蟻の雨をはじきて黒びかり・・・・・・・・・・・・・星野立子

 夜も出づる蟻よ疲れは妻も負ふ・・・・・・・・・・・・大野林火

 蟻殺すしんかんと青き天の下・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 ひとの瞳の中の蟻蟻蟻蟻蟻・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

 蟻の列ここより地下に入りゆけり・・・・・・・・・・・・山口波津女

 蟻の列切れ目の蟻の叫びをり・・・・・・・・・・・・・中条明

 蟻の道遺業はこごみ偲ぶもの・・・・・・・・・・・・・・雨宮昌吉


京都新聞「京都文芸」欄6/16付『詩歌の本棚』新刊評・・・・・・・・・・・・・真中朋久
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   草弥の詩作品<草の領域>
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      that is question. me free !
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京


      京都新聞「京都文芸」欄6/16付『詩歌の本棚』新刊評・・・・・・・・・・・・・真中朋久(「塔」選者)

木村草弥『無冠の馬』(角川学芸出版)は第六歌集。著者は城陽市在住。

 ・白もくれん手燭のごとく延べし枝(え)の空に鼓動のあるがに揺るる

 ・十戦十勝かつ英国首位種牡馬(しゅぼば)─セントサイモンは≪無冠馬≫だつた

 ・午年(うまどし)生まれ ましてや無冠のわれながら馬齢を重ね八十五となる

 ・紅茶の産地ヌワラエリヤは高地にて涼しく気温二十度といふ

 ・うつしみははかなく消えて失せにけり肉(しし)の記憶もおぼろとなりて

種牡馬として活躍した英国の競走馬に心を寄せる。
自身の病があり妻の死があり、肉を持ってこの世に生きることのかなしみが滲(にじ)む。
白木蓮(はくもくれん)の花も生々しく、エロスは<死>と地続きであることを改めて思う。
旅の歌も多いが、茶園を経営していただけあって、スリランカの茶園を見る視線に独特なものを感じた。
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畏敬する真中朋久氏が、私の作歌の意図を完璧に捉えていただいて上記のような批評をお書きくだった。
厚く御礼申し上げて、ここに全文を引く次第である。

真中 朋久という人は、こんな人である。 ↓

真中 朋久(まなか ともひさ、1964年6月2日 ~ )は、歌人、気象予報士。茨城県出身。朝日カルチャーセンター講師、毎日新聞「兵庫文芸」選者。

京都大学理学部卒業、同大学院地球物理学専攻修士課程修了。1991年に「塔」入会、現選者。
2002年に第1歌集『雨裂』で第46回現代歌人協会賞を受賞。2010年には第3歌集『重力』で第15回寺山修司短歌賞を受賞。

著書
歌集『雨裂』 雁書館、2001年10月
歌集『エウラキロン』(塔21世紀叢書 第51篇) 雁書館、2004年7月
歌集『重力』(塔21世紀叢書 第135篇) 青磁社、2009年2月(ISBN 978-4861981135)
歌集『エフライムの岸』(塔21世紀叢書 第236篇) 青磁社、2013年7月
歌集『火光』(塔21世紀叢書 第261篇) 短歌研究社、2015年6月



 沙羅の花捨身の落花惜しみなし・・・・・・・・・・・・・石田波郷
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       沙羅の花捨身の落花惜しみなし・・・・・・・・・・・・・石田波郷

私の歌にも「沙羅」を読んだ作品がある。 こんなものである。

   散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は一期(いちご)の夢に昏(く)るる寺庭・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

沙羅の花を詠んだ私の歌としては

   沙羅の花ひそかに朝の地(つち)に還りつぶやく言葉はウンスンかるた

   畳まで緑に染まる沙羅の寺黙読の経本を蟻がよぎりぬ

   地獄図に見し死にざまをさまよへば寺庭に咲く夏椿落つ


『嬬恋』『茶の四季』(いずれも角川書店)に載っている。これらも一体として鑑賞してもらえば有難い。

「沙羅」の花あるいは「沙羅双樹」というのは6月中旬になると咲きはじめるが、
これは平家物語の

  <祇園精舎の鐘の声、
   諸行無常の響きあり、
   沙羅双樹の花の色、
   盛者必滅の理をあらはす>

に登場する有名な花であるが、実はインドの沙羅双樹とは無縁の木であり、「夏椿」を日本では、こう呼んでいるのである。 ↓  
aaoonatutu夏椿大判

こういうことは、よくあることで、たとえば「菩提樹」と言う木は沙羅の木と同様にインドの木で仏教でお釈迦さまの木として有名だが、
ヨーロッパにもベルリンのウンター・デン・リンデン大通などにある木も菩提樹と呼ばれているし、歌曲にも菩提樹というのがあるが、これも全く別の木である。

「夏椿」は一日花で次々と咲いては、散るを繰り返す。
その儚(はかな)さが人々に愛された所以であると言われている。
沙羅の木=夏椿は、その性質上、寺院に植えられていることが多い。
京都のお寺では有名なところと言えば、
妙心寺の塔頭(たっちゅう)の東林院
                城南宮
                真如堂
                法金剛院
                宝泉院

などがある。その中でも東林院は、自ら「沙羅双樹の寺、京都の宿坊」とキャッチコピーを冠している程で「沙羅の花を愛でる会」というのが、この時期に開催されている。
この寺をネット上で検索すると、今年の会は6/15~30ということである。

6_sara30616to11夏椿落花
写真③に見られるように、この時期には散った花が夏椿の木の下に一面に散り敷くようになり、風情ある景色が現出するのである。
いわば沙羅の花は「散った」花を見るのが主眼であるのだ。
だから私は歌で、わっと派手に散った花よりも咲く花が「ひそか」である、と表現したのである。
なお沙羅の字の読み方は「さら」「しゃら」両方あるが私としては「しゃら」の方を採りたい。

俳句にも詠まれているので、それを引いて終わりたい。「沙羅の花」が夏の季語。

 踏むまじき沙羅の落花のひとつふたつ・・・・・・・・日野草城

 沙羅散華神の決めたる高さより・・・・・・・・鷹羽狩行

 沙羅は散るゆくりなかりし月の出を・・・・・・・・阿波野青畝

 沙羅の花もうおしまひや屋根に散り・・・・・・・・山口青邨

 天に沙羅地に沙羅落花寂光土・・・・・・・・・中村芳子

 秘仏の扉閉ざして暗し沙羅の花・・・・・・・・八幡城太郎

 沙羅の花見んと一途に来たりけり・・・・・・・・柴田白葉女

 齢一つ享けて眼つむる沙羅の花・・・・・・・・手塚美佐

 沙羅咲いて花のまわりの夕かげり・・・・・・・・林翔

 沙羅の花夫を忘るるひと日あり・・・・・・・・石田あき子

 沙羅落花白の矜持を失はず・・・・・・・・大高霧海

うっかりして忘れていたが、My Documentsの中に「夏椿の実」というのがあったことを今思い出したので、写真④に出しておく。
夏椿見

東林院でも、そうだが、この頃はインターネット時代で、神社仏閣も、競ってHPを作って参拝者を募っている。
私の友人で歌人仲間で奈良の藤原鎌足ゆかりの談山神社の神官二人がいるが、そのうちの一人はHPを担当して神社のHP製作にあたっている。
HPを開いてから参拝者が3倍になったという。そんな世の中になったのである。
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参考までに、インドに生えている「正当」な沙羅双樹の樹の写真を下記に載せておく。
写真の中に、この樹の「花」が咲いているのが見えるので、ご留意を。
この写真は「yun」の無料提供のものを拝借した。原寸は大きいが縮小した。

yun_3615x.jpg

この写真に添えた「yun」氏のコメントに、こう書いてある。

タイのバンコクにあるワット・ポー内に生えていたサラソウジュ(沙羅双樹)の木(フタバガキ科、学名:Shorea robusta、原産地:インド)です。釈迦(しゃか)が亡くなったときに近くに生えていたことで有名な「沙羅双樹」は平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり,沙羅双樹の花の色,盛者必滅の理をあらはす」でも有名。ただし、日本では育たないので夏椿を代用しています。写真内には花が咲いているのが確認できます。

引用に感謝して、ここに御礼申し上げる。

蜥蜴照り肺ひこひことひかり吸ふ・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
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     蜥蜴照り肺ひこひことひかり吸ふ・・・・・・・・・・・・・・山口誓子

ウォーキングしていて、道端の石の上を蜥蜴(とかげ)が横切ったので、急にトカゲのことを書く気になった。
トカゲは色々の種類が居るが、写真のような「青とかげ」が美しい。
掲出の句は、トカゲの呼吸で喉がひこひこと動いている、と観察眼するどく描いている。

私も蜥蜴を詠んだ歌があるが、多くはないので、いま見つけられないので、この句を掲出する。
変温動物なので冬は冬眠する。
春とともに活動をはじめ、7、8月に土を掘って十個ほど産卵するというが、田舎暮らしながら、私は、まだ見たことがない。
爬虫類はどことなく不気味だが、蜥蜴は可愛い感じの小動物である。
その怜悧そうな目や、喉の動きなどは、動きのすばやさとともに印象的である。

蜥蜴を詠んだ句を引いて終わる。

 三角の蜥蜴の顔の少し延ぶか・・・・・・・・高浜虚子

 歯朶にゐて太古顔なる蜥蜴かな・・・・・・・・野村喜舟

 石階の二つの蜥蜴相識らず・・・・・・・・富安風生

 さんらんと蜥蜴一匹走るなり・・・・・・・・小島政二郎

 父となりしか蜥蜴とともに立ち止る・・・・・・・中村草田男

 薬師寺の尻切れとかげ水飲むよ・・・・・・・・西東三鬼

 直はしる蜥蜴わが追ふ二三足・・・・・・・・石田波郷

 いくすぢも雨が降りをり蜥蜴の尾・・・・・・・・橋本鶏二

 交る蜥蜴くるりくるりと音もなし・・・・・・・・加藤楸邨

 蜥蜴かなし尾の断面も縞をもつ・・・・・・・・中島斌雄

 高熱の青き蜥蜴は沙(すな)に消え・・・・・・・・角川源義

 青蜥蜴おのれ照りゐて冷え易し・・・・・・・・野沢節子

 青蜥蜴オランダ坂に隠れ終ふ・・・・・・・・殿村莵糸子

 蜥蜴楽し青き牛蒡の葉に乗つて・・・・・・・・沢木欣一

 人に馴ることなく蜥蜴いつも走す・・・・・・・・山口波津女


草づたふ朝のほたるよみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ・・・・・・・・・・斎藤茂吉
s-109蛍

   草づたふ朝のほたるよみじかかる
      われのいのちを死なしむなゆめ・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤茂吉


蛍は農薬の使用などで一時ものすごく数が減ったことがある。
この頃は蛍復活作戦とか言って、蛍の餌となる巻貝「カワニナ」の養殖や放流、農薬使用の自粛などで、あちこちで復活しつつある。
六月中旬になると、そろそろホタルが出はじめる。あいにく梅雨に遭うと蛍狩は中止である。
私の子供の頃は──と言っても、もちろん戦前のことである、蛍狩りには菜種の実を振い落した「菜種がら」を棒の先にくくりつけて、
暗くなると家族や友人たちと川べりに繰り出したものである。川べりと言っても、大河ではない。
せいぜい幅1、2メートルの田圃の中の水路などに蛍は居る。
川べりに着くと、中には悪童がいて、ゴムパチンコに花火弾をつけて人に向かって発射する悪戯をする連中がいた。
運悪く私の腹にあたり火傷をさされて、泣いて家に帰ったことがある。私が小学生の下級生の頃のことだ。
その頃、蛍は文字通り、うじゃうじゃといた。蛍籠に入れて持ち帰り、蚊帳の中に放して明りを消して楽しんだものである。
掲出したのは「ホタルブクロ」という草花である。白花と紅花とがある。
私の家にも一鉢があり、しばらく前からぼつぼつと咲きはじめた。

この茂吉の歌は蛍に感情移入して、蛍の短い命に心をよせて詠んでいる秀歌である。
今日は趣向を変えて俳句、短歌ごちゃまぜに蛍に関するものを採り上げたい。
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 うつす手に光る蛍や指のまた・・・・・・・・・・・・炭太祇

「うつす」は直接には「移す」で、捕まえた蛍を相手の掌中に移しているところだろう。
その蛍が指の股を透かして光っている。相手はうら若い女性か、それとも子供同士か。
いずれにせよ「うつす」が「映す」の語感を伴っている句作りが、全体にふっくらした味をかもしだしている。
炭太祇は江戸中期の俳人。江戸に生れて、京都を永住の地とした。蕪村より7歳年長だったが親しく交わり、影響を与えあった。
人情の機微をとらえた人事句に優れ、特色ある句が多い。

 <初恋や灯籠によする顔と顔>

 <寝よといふ寝ざめの夫や小夜砧>

 大蛍ゆらりゆらりと通りけり・・・・・・・・小林一茶

 蛍這へる葉裏に水の速さかな・・・・・・・・長谷川零余子

 夏草のしげみが下の埋れ水ありとしらせて行くほたるかな・・・・・・・後村上院

 恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす・・・・・・・・山家鳥虫歌

一番終わりのものは和歌ではなく、7、7、7、5という音数律の「都都逸」と称するものである。
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歳時記から「蛍籠」「蛍狩り」の句を少し引いて終わりにする。

 蛍籠ともり初むれば見ゆるなり・・・・・・・・・・・・後藤夜半

 蛍籠極星北に懸りたり・・・・・・・・・・・・山口誓子

 あけがたやうすきひかりの蛍籠・・・・・・・・・・・・大野林火

 蛍籠霧吹くことを愛として・・・・・・・・・・・・山口波津子

 吾子の死へ朝が来てゐる蛍・・・・・・・・・・・・時田光子
 
 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

この「蛍籠」という季語は古いものではなく、明治38、9年頃から使われはじめたもののようである。

 蛍待つ幽に山のたたずまひ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 夕焼の橋に遊んで蛍待つ・・・・・・・・・・・・鈴木花蓑

 磧(かはら)石蹠にあらく蛍狩・・・・・・・・・・・・高浜年尾

 闇にふむ地のたしかさよ蛍狩・・・・・・・・・・・・赤松恵子

 ひとすぢのこの川あふれ蛍狩・・・・・・・・・・・・前田野生子

池水は濁り太宰の忌の来れば私淑したりし兄を想ふも・・・・・・・・・・・木村草弥
庄助日誌

    池水は濁り太宰の忌の来れば
       私淑したりし兄を想ふも・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

今日6月13日は小説家・太宰治の忌日である。
昭和23年6月13日、彼は山崎富栄と三鷹上水に入水、同月19日に遺体が発見されたので忌日は今日だが、毎年墓のある禅林寺で行われる「桜桃忌」は19日になっている。

この歌は私の長兄・庄助が私淑していた太宰に、昭和18年に死んだ時に「療養日誌」を送り、それを元に太宰の『パンドラの匣』が書かれたことを意味している。
歌の冒頭の「池水は濁り」のフレーズは、太宰が入水に際して、仕事場の机の上に書き残して置いた、伊藤左千夫の歌

  池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨ふりしきる

に由来している。
この年は雨の多い梅雨で、太宰が、この伊藤左千夫の歌を引用した心情が、よく理解できるのである。

7c3d1b83太宰治
 ↑ 太宰治
太宰治のことについては、ここでは特別に触れることはしないが、『パンドラの匣』のモデルが兄であることは作品の「あとがき」にも明記されているし、
全集の「書簡集」にも兄と太宰との交信の手紙や兄の死に際しての太宰の父あての悔み状などが掲載されている。
写真①は2005年末に次兄・重信の手で上梓された、亡兄・庄助の『日誌』である。
この本については私の2009/04/17付けの記事に詳しい。
太宰治研究家で私宅とも親交のある浅田高明氏が「解説」を書いていただいた。
太宰研究者は、この本に書かれているようにたくさん居るが、兄の「療養日記」と「パンドラの匣」の、モデルと小説との異同や比較研究は浅田氏の独壇場であり、太宰研究者の中では知らぬ人はいない。
これらに関する浅田氏の著書は4冊にも上る。詳しくはネット上で検索してもらいたい。
「木村庄助」については ← のWikipediaの記事に詳しい。写真も見られる。
兄は昭和十八年に亡くなっているので、太宰治の晩年の「無頼」な生活は知らないのは良かったと思う。
兄・庄助は、そんな無頼に憧れていたのではないからである。

太宰治については、このBLOGでも何度か書いたので詳しくは書かない。
この歌の前後に載っている私の歌を引いておく。

   宿痾なる六年(むとせ)の病みの折々に小説の習作なして兄逝く

   私淑せる太宰治の後年のデカダンス見ず死せり我が兄

   座右に置く言の葉ひとつ「会者定離」沙羅の花みれば美青年顕(た)つ

   立行司と同じ名なりし我が祖父は角力好めり「鯱ノ里」贔屓(ひいき)

   我が名をば与へし祖父は男(を)の孫の夭死みとりて師走に死せり


「桜桃忌」という季語も存在しているので、それを詠んだ句を引いて終わりたい。

 太宰忌の蛍行きちがひゆきちがひ・・・・・・・・石川桂郎

 太宰忌やたちまち湿る貰ひ菓子・・・・・・・・目迫秩父

 太宰忌や青梅の下暗ければ・・・・・・・・小林康治

 太宰忌や夜雨に暗き高瀬川・・・・・・・・成瀬桜桃子

 眼鏡すぐ曇る太宰の忌なりけり・・・・・・・・中尾寿美子

 太宰忌の桜桃食みて一つ酸き・・・・・・・・井沢正江

 濁り江に亀の首浮く太宰の忌・・・・・・・・辻田克己


塚本靑史『わが父・塚本邦雄』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
塚本

      塚本靑史『わが父・塚本邦雄』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                      ・・・・・・・白水社2014/12/25刊・・・・・・・・・

「塚本青史」 ← とは、こういう人である。
正式には「靑史」であるが、表記の関係からWikipediaでは「青」の字の表記となっているので、念のため。
念のため、Wikipediaの記事を引用しておく。  ↓

塚本 靑史(つかもと せいし、1949年4月9日 - )は、日本の歴史小説作家。岡山県倉敷市生まれ。父は歌人の塚本邦雄。
靑史が産まれた当時、父・邦雄は商社員として倉敷に在勤していた。邦雄の叔父外村吉之介が館長をしていた倉敷民藝館に間借りしており、靑史はその敷地内で生まれた。
1ヵ月後、邦雄の転勤に伴い島根県松江市へ転居。その地で3年を過ごす。
1952年、大阪府中河内郡盾津町(現東大阪市南鴻池町)へ居を移し、幼稚園から社会人に至るまでその地で育つ。
少年時代の靑史は、野球、魚釣り、昆虫採集が好きなアウトドア派で、父と違ってあまり活字に親しむことはなかったという。
邦雄を訪ねてきた寺山修司や福島泰樹を駅まで迎えに行ったり、三島由紀夫からの手紙をメイルボックスから取り出した青少年時代の経験が、後日文筆に目覚めた動機になっているらしい。
大阪府立清水谷高等学校ではバスケットボール部に所属。同志社大学文学部時代には同人誌『ゐまあごを』に参加し、イラスト作品を発表する。
大学卒業後、京都に本社を置く日本写真印刷(株)へ勤務する。1977年、東京支社へ異動となり、以後は千葉県に在住。
勤務のかたわらイラストレーターとしても活動し、1978年と1981年の『年鑑日本のイラストレーション』(講談社)に作品が掲載されている。
1989年、第11回「小説推理新人賞」(双葉社主催)の最終候補となる。1991年、候補作も含めたミステリ短編集『迫迫』に8篇分の扉絵を配し出版(花曜社)。
靑史は、この一冊で小説家としての地歩を固めた。以後中国史を題材にした歴史小説も展開し、1996年出版の『霍去病』(河出書房新社)が話題になり、文壇デビューを果たした。
1999年3月、日本写真印刷(株)を退職。2000年、父の看病のため東大阪へ帰省(邦雄は2005年6月9日に没)。以後も精力的に作品を発表している。

2012年4月、日本作家クラブ随筆賞受賞。『いすくはし』(平成23年、随筆手帖49号)。
2012年6月、『煬帝』(上下)で「第1回 歴史時代作家クラブ作品賞」受賞。
2014年10月、『サテライト三国志』(上下)で[1]「第2回 野村胡堂文学賞」受賞。

塚本邦雄の著作権継承者でもあることから、塚本邦雄創刊歌誌「玲瓏」の発行人になって、短歌結社の活動を手助けしている。
2003年から、『短歌研究』(短歌研究社)の奇数月号には、邦雄にまつわる逸話を連載している。
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この本の「帯」で、「後記」から引いて、こう書かれている。

<もともと父親の日常など、息子は問題にはしていない。しかし、同じ空間で日常生活してきたことから、不断は公にしていない卑近なことを見聞きしている。
無論、他人に語るべきではないこともあろうが、私しか書けず伝えなければならないこともある。>

この本に関して、アマゾンの書評欄に載る文章を、ひとつ引いておく。

投稿者 大寺萌音 投稿日 2015/5/31

正直なところ、短歌(和歌)や俳句よりも漢詩の方に馴染みがある。
漢詩にかかわる本のレビューはいくつか書いているが、短歌(和歌)にかかわるレビューは『戦後和歌研究者列伝―うたに魅せられた人びと』だけで、しかも同書は「和歌」そのものについて書かれているものではない。そういった私が知る数少ない現代歌人が塚本邦雄である。

本書は、その塚本邦雄について、息子である著者が書いたもので、歌人としての塚本邦雄論ではなく、塚本邦雄という人間に迫るものである。

全体は時系列に沿って、塚本邦雄の人生を辿っている。子どもの頃から辞書を読んでいたこと、戦争中のことなど、いかにもという感じである。
歌人として長く結社に属することなかったものの、幾人かの歌人に強く惹かれ、雑誌を刊行している。
ただ、深く交わった杉原一司は早世(早逝)し、寺山修司はマスコミの寵児となって多忙になり、それぞれの雑誌に熱意を失っていくことも書かれている。
また、愛妻・慶子に寺山、後半生においてマネージメントなどを担当した政田岑生にも先に旅立たれるなど、歌人としての成功とは裏腹な晩年の孤独と軽度だったとはいえ認知症には、胸が痛む。
特に政田とのかかわりで描かれる負の側面については、功成り大家となった人間にありがちなことだけに、塚本邦雄もその弊から逃れられなかったことが悲しい。
(中略)
完全に調べて書いた部分と著者自身の記憶と調査を合わせて書いた部分が混じり合うが、面白いのは著者自身が実際に見聞している後半生だろう。
様々な矛盾を抱えながらも、短歌に深くのめり込む姿が生き生きとしてる。
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上の書評にも少し書かれているが、邦雄の晩年の痴呆症の描写は、なまじ邦雄が有名人であり、博識で古典にも明るく、緻密な頭脳の持ち主であった、と知るだけに、痛々しい。
慶子夫人の死が、そのボケに拍車をかけるようになったらしい描写も迫真的である。
息子だから書けることであり、それを赤裸々に書いた態度こそ「文学者」だと言える。
また「書肆季節社」「政田岑生」に触れた個所なども、近親者なればこそ書けることである。
書肆季節社から本を何冊も買ってきた者として、そうだったのかという感想を抱いた。
荻原裕幸、西田政史らとの葛藤なども初めて知った。
晩年には靑史が邦雄の家に引っ越して面倒を見ていたのたが、2004年頃から、邦雄は靑史に対して「敬語」を使うようになった。
「僕が誰か判ってるんやろな?」 「私の、兄上とお見かけいたします」 「何で兄の方が若いねん?」 「それが唯一、不思議でした」などの描写は痛ましい。
足腰の機能が低下してきたので、邦雄はショートステイのリハビリに行かせていたが、そこで「昼食を喉に詰まらされて、呼吸困難になられましたので病院へお運びしました」と関西医科大学付属病院で亡くなった。
2005年6月9日(木)午後三時五十四分死去。 84歳だった。
前にこのブログにも書いたことがあるが、久保田万太郎の死と同じである。彼も梅原龍三郎邸で誤嚥で死んだのである。

先日六月九日に、塚本邦雄の忌日に彼の記事を載せたので、この本を買ったのも、何かの縁か、符合するものを感じている。


あめんぼと同じ身軽さ職退けり・・・・・・・・・・・・岡崎伸
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 ↑ 「水馬」あめんぼう

      あめんぼと同じ身軽さ職退けり・・・・・・・・・・・・岡崎伸

「あめんぼう」は漢字で書くと「水馬」となる。

私の歌にも、こんな作品がある。

   水馬(あめんぼう)がふんばつてゐるふうでもなく水の表面張力を凹ませてゐる・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

「あめんぼう」は小さな、体重の軽い水生昆虫だから、細く長い脚の先で、巧みに水の表面張力を利用して、六本の脚で立って、ひょいひょいと水面を移動する。
私は幼い頃から、内向的な性格で、こんな虫や蟻などの生態を、じっと眺めているのが好きだった。と言って「昆虫少年」になることもなかった。

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 ↑ 「ミズスマシ」

歳時記を見てみると「みずすまし」という名前が、間違って、この「あめんぼう」のこととして呼ばれていたらしい。
「みずすまし」というのは全然別の虫であって、1センチほどの紡錘形の黒い虫である。↑ 上に出した写真の水棲昆虫が、それ。

「まいまい」という名前がある通り、水面をくるくると輪をかいて廻っている。水中に潜るときは、空気の玉を尻につけている。
『和漢三才図会』には <常に旋遊し、周二三尺輪の形をなす。正黒色、蛍に似たり> と書かれている。
「あめんぼう」(水馬)については <長き脚あって、身は水につかず、水上を駆くること馬のごとし。
よりて水馬と名づく> 
と書かれていて、なるほどと納得する。
「あめんぼう」という命名は、飴のような臭いがするので、この名があるという。
以下、「あめんぼう」についての俳句を少し引くが、その中で「水すまし」とあるのは間違いということになる。
読み替えていただきたい。 念のために本当の「水すまし」の写真を出しておいた。
以下に引く句の一番最後に掲出した西嶋あさ子の句の「水すまし」も間違った使用法であるから、念のため。

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 水馬水に跳ねて水鉄の如し・・・・・・・・・・・・村上鬼城

 水隈にみづすましはや暮るるべし・・・・・・・・・・・・山口誓子

 夕焼の金板の上水馬ゆく・・・・・・・・・・・・山口青邨

 水馬交み河骨知らん顔・・・・・・・・・・・・松本たかし

 打ちあけしあとの淋しき水馬・・・・・・・・・・・・阿部みどり女

 八方に敵あるごとく水すまし・・・・・・・・・・・・北山河

 水馬はじきとばして水堅し・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 水玉の光の強き水馬・・・・・・・・・・・・八木林之助

 水路にも横丁あつて水馬・・・・・・・・・・・・滝春一

 あめんぼと雨とあめんぼと雨と・・・・・・・・・・・・藤田湘子

 恋に跳ね戦ひに跳ねあめんぼう・・・・・・・・・・・・村松紅花

 あめんぼうつるびて水輪ひろがらず・・・・・・・・・・・・長谷川久々子

 風来の風風来の水馬・・・・・・・・・・・・・・・・・的野雄

 ナルシスの鏡を磨く水馬・・・・・・・・・・・・宮下恵美子

 水すまし水くぼませて憩ひけり・・・・・・・・・・西嶋あさ子


飲みはじめてから/酔いが一応のレベルに達することを/熊本で/「おさが湿る」というそうな・・・・・・・・川崎洋
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index酒器

        乾盃の唄・・・・・・・・・・・・・・・・・川崎洋

     飲みはじめてから
     酔いが一応のレベルに達することを
     熊本で
     「おさが湿る」というそうな
     「おさ」は鰓(えら)である
     きみも魚おれも魚
     あの女も魚
     ヒトはみな形を変えた魚である
     いま この肥後ことばの背後にさっとひろがった海へ
     還ろう
     やがて われらの肋骨の間を
     マッコウクジラの大群が通過しはじめ
     落日の火色が食道を赤赤と照らすだろう
     飲めぬ奴は
     陸(おか)へあがって
     知的なことなんぞ呟いておれ
     いざ盃を
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この詩を見るかぎりでは、川崎洋は、結構な「呑んべえ」だったらしい。
「飲めぬ奴は/陸へあがって/知的なことなんぞ呟いておれ」というところなど、痛快である。

この詩の解説で彼は

<川崎洋>は本名である。生まれたのは東京都大森(現大田区)で、大森海岸に近い。太平洋戦争中、中学二年の時、父の郷里である福岡県へ転居した。有明海に臨む筑後の地で、ここで私は敗戦をはさむ七年間を過ごした後、現住地の神奈川県横須賀市に居を移し現在に到る。横須賀はご存じのように東京湾に面した市だ。
つまり私はずーっと海の近くに住み続けてきたことになる。体が潮を含んだ空気に馴染んでいて、生理的に安らぐからだろうが、そればかりではないような気がする。
日本民族は各地からやってきた諸民族の混交だとはよく言われるところだが、だとすると私は、南太平洋地域から流入した祖先の血をかなり色濃く受け継いでいるように思えてならない。・・・・南へは、行けば行くほど精神は弛緩し、手足はのびのびとする。南の持つ楽天性、向日性、陽気・・・。私の嗜好を並べ立てれば、たぶん歳時記の<夏>に属する項目が目につくだろう。
この詩は、私のなかの南が書かせたに違いないと、不出来の責任を祖先になすりつけたいというのが、いまの心境である。

と書いている。
川崎洋は1930年1月26日生まれで、2004年10月21日に死んだ。
私は彼より年長だと思っていたが、調べてみると私は同年の2月7日生まれだから彼の方が数日早く生まれている。
彼の詩は言葉はわかりやすいが、内容に深遠な思想を湛えているものがある。それについては後日に機会があれば紹介したい。
00000673_10ぐい呑

「盃」などの酒器の写真を載せたが、私は酒は嗜む程度だが、老年期になるまでは日本酒が嫌で、鼻の先に持ってくるだけで不快でビールなどを飲んでいたが、
不思議なことに老年になるとビールを飲むと腹が冷えて、また腹がふくれるばかりで好みではなくなった。
その代わりに日本酒が嫌でなくなり、チビチビと小さい盃で飲むのが性に合ってきた。
加齢によって嗜好も変るのである。
ただし、深酒をして酔いつぶれる人が身近にいて苦労したので、いわゆる「酒飲み」は嫌いである。
少量の酒を肴に文学論など戦わせるような酒が、よい。


ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜・・・・・・・・・・・・・・・桂信子
s-109蛍

    ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜・・・・・・・・・・・・・・・桂信子

写真は白花ホタルブクロに止まるゲンジボタルである。

日本には十種類ほどが居るというが、一般的にはゲンジボタルとヘイケボタルである。
ゲンジの方が大きく、光も強い。
水のきれいなところに棲み、6月中旬ころから出はじめる。ヘイケは汚水にも居るといわれるが確認はしていない。
幼虫は水中に棲み、カワニナなどの巻貝を食べて成長する。
成虫の発光器は尾端腹面にあり、雄は二節、雌は一節だという。
この頃では農薬などの影響で蛍はものすごく減った。今では特定の保護されたところにしか居ない。
0003蛍狩

昔は画像②の絵のように菜種殻で作った箒で田んぼの中の小川に蛍狩りに出たものである。すっかり郷愁の風景になってしまった。
古来、多くの句が作られて来た。

 草の葉を落つるより飛ぶ蛍かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 手の上に悲しく消ゆる蛍かな・・・・・・・・向井去来

 大蛍ゆらりゆらりと通りけり・・・・・・・・小林一茶

などが知られている。 以下、明治以後の句を引いて終わりたい。

2_photほたる

 蛍火の鞠の如しやはね上り・・・・・・・・高浜虚子

 瀬がしらに触れむとしたる蛍かな・・・・・・・・・日野草城

 人殺す我かも知らず飛ぶ蛍・・・・・・・・・前田普羅

 蛍火の流れ落ちゆく荒瀬見ゆ・・・・・・・・山口誓子

 蛍火やこぽりと音す水の渦・・・・・・・・山口青邨

 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす・・・・・・・・橋本多佳子

 初蛍かなしきまでに光るなり・・・・・・・・中川宋淵

 死んだ子の年をかぞふる蛍かな・・・・・・・・渋沢秀雄

 蛍くさき人の手をかぐ夕明り・・・・・・・・・室生犀星

 蛍火や女の道をふみはづし・・・・・・・・鈴木真砂女

 ひととゐてほたるの闇のふかさ言ふ・・・・・・・・八幡城太郎
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余談だが、掲出した写真①の白花ホタルブクロが今ちょうど咲いていて、その鉢を先日から玄関に飾ってある。
なよなよした草で紐で周囲を囲ってある。
茎立ち5本で十数輪咲いているが、しばらくは蕾が次々に咲くが花期は20日ほどしかもたない。
後の一年は、もっぱら根を管理するだけである。

はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる・・・・・・・・・・・・・・塚本邦雄
226051970_2ad524a66a保険会社

     はつなつのゆふべひたひを光らせて
          保険屋が遠き死を売りにくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本邦雄


今日六月九日は、塚本邦雄の忌日である。 それに因んで作品を引いた。
塚本邦雄は、言うまでもなく前衛短歌運動の旗手の一人として、もう一人の岡井隆とともに昭和20年代の後半から30年代にかけて疾風のように短歌界を駆け抜けた。
2005年に亡くなるまで、多大の影響を短歌界に及ぼしてきた。今もなお、その影響力が及んでいると言えるだろう。
すでに多くの人が、塚本その人と作品について論及している。
私などが、それらに触れることは、おこがましいことであるので、ここでは作品を挙げて引くことに徹する。

掲出歌は、塚本の歌の中では割合に判りやすい歌である。
塚本の歌は「比喩」と、本歌取りをはじめとする「引用」に満ちているので、読者自身も広い読書の蓄積を要求される。
「保険」というものは「死」を前提にした商品であって、この歌は、そういう保険の持つ性格をうまく比喩的に作品化した。
この歌から広がるイメージこそ、前衛短歌の基本である。
本来「短歌」というのは、「作者」=歌の中の「我」、という構図で古来作られて来た。
前衛短歌は、そういう構図を、先ずぶち壊し、歌の中の「私性」を引き剥がした。
明治以後、前衛短歌までの歌を「近代」短歌と規定するなら、前衛短歌以後の歌が「現代」短歌だと、規定することが出来よう。
「近代短歌」に聳える巨人の一人として斎藤茂吉を挙げることが出来る。
「現代短歌」の巨人としては、この塚本邦雄と岡井隆の二人を挙げなければならないだろう。
塚本の歌を少し引いて責めを果たしたい。
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春きざすとて戦ひと戦ひの谷間に覚むる幼な雲雀か

海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も

五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる

イエスは三十四にて果てにき乾葡萄噛みつつ苦くおもふその年歯(とし)

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

暗渠詰まりしかば春暁を奉仕せり噴泉・La Fontaine

ロミオ洋服店春服の青年像下半身なし * * * さらば青春

カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子

ペンシル・スラックスの若者立ちすくむその伐採期寸前の脚

壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず

馬を洗はば馬のたましひ沍ゆるまで人恋はば人あやむるこころ

レオナルド・ダ・ヴィンチと性を等しうし然もはるけく蕗煮る匂ひ

壮年の今ははるけく詩歌てふ白妙の牡丹咲きかたぶけり

父となり父を憶へば麒麟手の鉢をあふるる十月の水

ノアのごと祖父ぞありける秋風にくれなゐの粥たてまつるべし

紅鶴(フラミンゴ)ながむるわれや晩年にちかづくならずすでに晩年

文学の塵掃きすててなほわれの部屋の一隅なるゴビ砂漠

死のかたちさまざまなればわれならば桜桃を衣嚢に満たしめて

またや見む大葬の日の雨みぞれ萬年青(おもと)の珠実紅ふかかりき

春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状
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塚本邦雄というと、天皇制や戦争ということに拘って作歌して来たと言われている。後の二首は昭和天皇崩御に際しての歌である。
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塚本邦雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

塚本邦雄(つかもと くにお、1920年8月7日~ 2005年6月9日)は、日本の歌人、詩人、評論家、小説家。

寺山修司、岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と称され、独自の絢爛な語彙とイメージを駆使した旺盛な創作を成した。別名に菱川紳、鴻池黙示などがあるが、著書目録にある単行本や文庫本には、これらの著者名で出版されたものはない。 長男は作家の塚本靑史。

人物
滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)に生まれる。母方(外村家)の祖父は、近江一円に弟子を持つ俳諧の宗匠だったという。1922年生まれという説もあるが、これは中井英夫が邦雄のデビュー当時、2歳若くすることで20歳代歌人としてやや強引に紹介したことから生まれた俗説である。1938年、神崎商業学校(現・滋賀県立八日市高等学校)卒業。彦根高商(現・滋賀大学)卒という説もあるが、本人が書いた履歴書にそのような記載は一切ない。卒業後、又一株式会社(現三菱商事RtMジャパン)に勤務しながら、兄・春雄の影響で作歌を始める。1941年、呉海軍工廠に徴用され、1943年に地元の短歌結社「木槿」に入会。終戦の年、投下された原爆の茸雲を仰ぎ見た記憶がいつまでも残ったと言う。

戦後は大阪に転じ、1947年に奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事する。1948年5月10日、「青樫」の竹島慶子と結婚。山陽地方に転勤。翌年の4月9日、倉敷で長男・靑史誕生。その後、松江に転勤するが、鳥取在住の杉原一司と「日本歌人」を通じて知り合い、1949年に同人誌『メトード』を創刊。だが杉原は1950年に他界してしまった。

1951年、杉原一司への追悼として書かれた第一歌集『水葬物語』を刊行。同歌集は中井英夫や三島由紀夫に絶賛される。

翌年大阪へ転勤となり、中河内郡盾津町(現東大阪市南鴻池町)へ転居。当地を終の棲家とした。1954年、結核に感染したことが判明し、大東勝之助医師の指示に従い、2年間自宅療養に専念して克服する。回復後も商社勤務を続け、1956年に第二歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』、1958年に第三歌集『日本人靈歌』を上梓。

以下24冊の序数歌集の他に、多くの短歌、俳句、詩、小説、評論を発表した。歌集の全冊数は80冊を越える。だが、邦雄の業績で特筆に値するのは、岡井隆や寺山修司とともに1960年代の前衛短歌運動を成功させたことである。またその中にあって「日本歌人」から離れ、永らく無所属を貫いていたが、1985年に短歌結社『玲瓏』を設立して機関誌『玲瓏』を創刊、以後(没後も)一貫して同社主宰の座にある。さらに近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。

晩年にも旺盛な活動を続けていたが、1998年9月8日に妻・慶子が他界、2000年7月には自らの健康を損ねた。そのため、晩年を慮った息子の靑史が帰省し、同居して最期を看取った。2005年6月9日没。尚、玲瓏の会員らを中心に、以後、忌日は『神變忌(しんぺんき)』と称するようになっている。 以降に靑史の手で資料の整理がなされ、2009年1月末、自宅にあった邦雄の蔵書・直筆原稿・愛用品や書簡など様々な遺品が日本現代詩歌文学館へ寄贈されている。牧師で倉敷民藝館館長であった叔父・外村吉之介の影響で、聖書を文学として愛読したが、終生無神論者であった。 現在「塚本雄」は商標登録されており、商標権者は著作権継承者と同じく塚本靑史になっている。

作風
反写実的・幻想的な喩とイメージ、明敏な批評性と方法意識に支えられたその作風によって、岡井隆や寺山修司らとともに、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与えた。その衝撃は坂井修一、藤原龍一郎、中川佐和子、松平盟子や加藤治郎、穂村弘、東直子らのいわゆるニューウェーブ短歌にも及んでいる。作品では一貫して正字歴史的仮名遣い(旧字旧仮名)を貫いた。

よく知られた歌には次のものがある。
「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」(『水葬物語』巻頭歌)
「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(『日本人靈歌』巻頭歌)
「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(『日本人靈歌』)
「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(『感幻樂』)

補遺
塚本邦雄の研究者として、島内景二による文学史的な研究のほか、安永蕗子、岩田正、坂井修一らによる短歌解説などには定評がある。またインターネット上では松岡正剛の解説が比較的よく知られている。

弟子には、研究者でもある島内景二の他、塘健、山城一成、江畑實、阪森郁代、和田大象、林和清、尾崎まゆみ、小黒世茂、大塚ミユキ、松田一美、佐藤仁、魚村晋太郎、小林幹也、森井マスミなどがおり、また北嶋廣敏、笠原芳充、酒井佐忠、橋本治、北村薫、中条省平、茅野裕城子、山口哲人ら多くの信奉者を得た。

邦雄についての資料には、齋藤愼爾篇『塚本雄の宇宙』(2005年・思潮社)や、弟子の楠見朋彦著『塚本雄の青春』(2009年・ウェッジ文庫、2010年ながらみ書房主催の前川佐美雄賞受賞)、塚本靑史が『短歌研究』へ奇数月に連載中の『徒然懐旧譚』などがある。

受賞歴
1959年 『日本人靈歌』で第3回 現代歌人協会賞 受賞
1987年 『詩歌變』で第2回 詩歌文学館賞 受賞
1989年 『不變律』で第23回 迢空賞 受賞
1990年  紫綬褒章 受章
1992年 『黄金律』で第3回 斎藤茂吉短歌文学賞受賞
1993年 『魔王』で第16回現代短歌大賞受賞
1997年  勲四等旭日小綬章 受章

作品
以下は一部のみ。著書の一覧表や在庫の有無については、玲瓏誌や玲瓏の会HPを参照。
ゆまに書房で『塚本邦雄全集』(全15巻別巻1、1998-2001年)が刊行。

短歌
水葬物語(1951年)
日本人霊歌
装飾樂句
水銀伝説
綠色研究
感幻樂
星餐図
蒼鬱境
青き菊の主題
されど遊星 
天変の書
詩歌変
黄金律
汨羅変(1997年)
約翰傳僞書
初學歴然、透明文法 等、間奏歌集や肉筆歌集を入れた歌集の総数は全80余冊。選歌集も多数あり。 『清唱千首―白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった絶唱千首』

(撰著 「冨山房」で愛蔵版と新書版:冨山房百科文庫、各1983年)

樹映交感
ウルムスのかどで―横浜市立釜利谷南小学校校歌歌詞(木下大輔作曲)

俳句
断弦のための七十句、花鳥星月、青菫帖、燦爛、裂帛、甘露、流露帖

小説
藤原定家―火宅玲瓏
紺青のわかれ
連彈
菊帝非歌―小説後鳥羽院
獅子流離譚―わが心のレオナルド(集英社、1975年)
荊冠伝説―小説イエス・キリスト

評論
定型幻視論
序破急急
花隠論―現代の花伝書
麒麟騎手―寺山修司論
詩歌宇宙論
言葉遊び悦覧記
国語精粋記―大和言葉の再発見と漢語の復権のために
世紀末花伝書
百珠百華―葛原妙子の宇宙
新古今集新論
ほか多数

文庫
定家百首 良夜爛漫  河出文庫 1984年
十二神将変 同上 1997年
けさひらく言葉 文春文庫 1986年
源氏五十四帖題詠 ちくま学芸文庫 2002年
定家百首・雪月花〈抄〉 講談社文芸文庫 2006年
百句燦燦 現代俳諧頌 同上 2008年
王朝百首 同上 2009年7月
西行百首 同上 2011年3月
花月五百年 ゝ 2012年11月
茂吉秀歌 『赤光』百首 講談社学術文庫 1993年
茂吉秀歌 『あらたま』百首 同上 1993年  以下同
茂吉秀歌 『つゆじも』から『石泉』まで百首 1994年 
茂吉秀歌 『白桃』から『のぼり路』まで百首 1994年
茂吉秀歌 『霜』『小園』『白き山』『つきかげ』百首  1995年



あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ・・・・・・・・・・・・小野茂樹
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    あの夏の数かぎりなきそしてまた
       たつた一つの表情をせよ・・・・・・・・・・・・小野茂樹


過ぎ去った二人の輝かしい夏、あのとき君の表情は、一瞬一瞬変化する輝きそのものだった。
変化に満ちた数かぎりない表情、そして、また、そのすべてが君の唯一の表情に他ならなかった、あの夏の、あの豊かさの極みの表情をせよ、と。
恋人の「数かぎりなき」表情が、同時に「たった一つの」表情であるという「発見」に、この歌の要があることはもちろん、この発見は理屈ではない。
青年の憧れと孤愁も、そこには織り込まれて、心理的陰影が色濃く反映されている。

この歌および小野茂樹については短歌結社「地中海」誌上および「座右の歌」という短文に詳しく書いたことがある。

それを読んでもらえば私の鑑賞を十全に理解してもらえると思うが、ここでも少し書き加えておきたい。
小野茂樹は昭和11年東京生まれ。
河出書房新社の優れた編集者として活躍していたが、新鋭歌人としても将来性を嘱望されていたが、
昭和45年、退社して自宅に戻るべく拾ったタクシーの交通事故に巻き込まれ、あたら30有余歳の若さで急死した。
夫人の小野雅子さんは私も面識があり、原稿依頼もして頂いた仲である。
茂樹と雅子さんは、東京教育大学の付属中学校以来の同級生の間柄で、お互いに他の人と結婚したが、うまく行かず、
たまたま再会して、お互いの恋心に気づき、その結婚を放棄して、初恋の人と再婚した、というドラマチックな経過を辿っている。
それらのことについても、上記の私の「座右の歌」という文章にも書いておいた。
この歌は昭和43年刊の第一歌集『羊雲離散』所載である。

「座右の歌」という文章を読めば判る、というのでは、そっけないので、少し歌を引く。

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ひつじ雲それぞれが照りと陰をもち西よりわれの胸に連なる・・・・・・・・・・・・・・・・小野茂樹

五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声

強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し

くぐり戸は夜の封蝋をひらくごとし先立ちてきみの入りゆくとき

いつしんに木苺の実を食らふとき刻々ととほき東京ほろぶ

かの村や水きよらかに日ざし濃く疎開児童にむごき人々

ともしびはかすかに匂ひみどり児のねむり夢なきかたはらに澄む

くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ

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愛しあう若者のしぐさなども、さりげなく詠まれている。それに学童疎開の経験が彼の心に「苦い記憶」として刻まれていた歌が、いくつかある。
引用した一番あとの歌のように、彼の歌には「孤愁」とも言うべき寂しさがあり、私は、それが彼の死の予感みたいなものではなかったか、と思う。
これについて「座右の歌」には詳しく書いてある。
ぜひ「座右の歌」という私の文章にアクセスして読んで、十全に鑑賞してほしい。
ここにリンクにしたのは「原文」であり、このHPの文章には、いくつか誤植があるので了承いただきたい。
なお、彼の歌に詠まれる夫人は小野雅子さんというが、先年夏に、東京で開いてもらった私の第五歌集『昭和』を読む会には、ご出席いただいた。

先年、第四歌集『白梅』を出版されたが、その記事は6/8付けに載せた。ここに載せた文章では誤植は極力なおしたので書き添えておく。
感謝して、ここに書いておく。


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