K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201507<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201509
POSTE aux MEMORANDUM(8月)月次掲示板
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東日本大震災から四年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
011紅蜀葵
 ↑ 紅蜀葵(こうしょっき)

八月になりました。
今月は鎮魂と非戦の誓いの月です。

 天保の時代に顕微鏡をうたいたる短歌が話題 話しつつ行く・・・・・・・・・・・・・・・佐佐木幸綱
 戦ひを中に措きたる九十年辛くも生き得し吾ここに在り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 清水房雄
 思ふべしネルソン・マンデラ九十五歳の顔を作りし人間の世を・・・・・・・・・・・・・・米川千嘉子
 くすり服むたびにおもへり一兵の柊二が師より賜びし「薬」を・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武田弘之
 むき出しの額に銃弾撃たれしをだれか写しぬだれかを憎む・・・・・・・・・・・・・・・・ 中川佐和子
 野鳥らは地球の地震察知するや ふと思ひつつこゑを仰げり・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 松阪弘
 釘ぬきに抜かるる釘の鈍き音に浮かび来父の太き親指・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・時田則雄
 わりなけれわりなけれどもわが目交をひるがへり過ぐるを蝶も時も・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 ファシズムの影濃くなりてすでにわが帰る国にはあらず日本は・・・・・・・・・・・・・・・ 渡辺幸一
 炎熱の路面は白く明るめりいゆく生類の影一つなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 春日真木子
 手花火の賑はひ聞けば遠き日のわが子のすがた目にうかびくる・・・・・・・・・・・・・・小野雅子
 人は人を亡くせしのちも生きてゆく死とはさういふものにしあれば・・・・・・・・・・・・・・雨宮雅子
 ニューハーフは兵役免除といふ規定あるやも昭和100年の日本・・・・・・・・・・・・・・栗木京子
 見せられたままを信じる素朴さを昭和のどこかに置き忘れけり・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 滝壺をやがて去る水青き真昼・・・・・・・・・・・・・・・・・山本勲
 ナガサキ全滅の報耳にあり夏野 ・・・・・・・・・・・・・舛田瑤子
 バラジャムを食みて着陸準備かな・・・・・・・・・マブソン青眼
 夏うぐいす自己陶酔のありにけり・・・・・・・・・・・・・平山圭子
 猫が触れゆくしずかな柱夏の家・・・・・・・・・・・・・森央ミモザ
 あんたがたどこさ翡翠がうしろにも・・・・・・・・・・・・森田緑郎
 逃げ水のどこにも逃げ場なき瓦礫 ・・・・・・・・・・・・有村王志
 古本に昭和を嗅ぎぬ蝉時雨 ・・・・・・・・・・・・・・・・・わだようこ
 黄身潰す朝の儀式やかなかなかな・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 むつごとは遠きしろはなさるすべり・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 しばらく遠出鳥の手紙をふところに・・・・・・・・・・・・・小池弘子
 空蝉や脳に沁みたる未完の詩・・・・・・・・・・・・・・吉田透思朗
 夏山に雨の襞なす無辺なり・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤紀生子
 鬼百合やひとり欠伸はを手添えず・・・・・・・・・・・ 川崎千鶴子
 竜神の潟辺に住んで盆踊り・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 舘岡誠二
 金曜日炎帝の吹くトランペット・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 佃悦夫
 遠ざかる漢(おとこ)のごとく八月も・・・・・・・・・・・・・ 柚木紀子
 抑止力てふ恐ろしき大夕焼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鈴木幸江
熱帯夜言葉出て行く歯の透き間 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 水上啓治
 体臭や向日葵の海ぎらぎらす・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木義雄
 星の寿命の最後は爆発合歓の花・・・・・・・・・・・・・・・高橋明江
 辞儀交す乳房の気配百日紅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今野修三
 かたつむりあしたは海へゆくつもり・・・・・・・・・・・・ 北村美都子
 スーパームーン蛍袋は墓標です・・・・・・・・・・・・・・・・河原珠美
 秋さがす拾った言葉はポケットに・・・・・・・・・・・・・・・・石山一子
 熱帯夜おのれ自身がお荷物で・・・・・・・・・・・・・・・・・・市原正直
 口中のガレの葡萄が熟れてくる・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 痩蛙拒食日記は終わらない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。
「月別アーカイブ」は30件表示するようになっています。30件以上ある場合は「NEXT」を押して進んでください。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の記事は、引用、リンク、転載フリーです。事後でもお知らせ下さると嬉しいです。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください。

私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する ★ ──登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


banner99条守ろう

  9条守ろう!ブロガーズ・リンクに参加しています(0215)
 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

Banner_125x125_0003_D.jpg

   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
  と想像してみてください。」
──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
土曜美術社出版販売「詩と思想」
文芸春秋社・書籍ショールーム





きりぎりす生き身に欲しきこと填まる・・・・・・・・・・・・・・・野沢節子
img012きりぎりす

     きりぎりす生き身に欲しきこと填まる・・・・・・・・・・・・・・・野沢節子

キリギリス科の虫で体長は3.5センチほど。翅は腹部を包むようにたたむ。緑色で褐色の斑がある。
チョン、ギースを繰り返して鳴く。ギースチョンとも聞きなす。秋の半ばまで昼に鳴く。
翅脈は鋸の歯のようになっていて、こすりあわせて鳴く。

平安時代から江戸時代まで「コオロギ」のことを「キリギリス」と呼んでいた、らしい。
つまり古今集時代から江戸時代まで、コオロギのことを「きりぎりす」と呼んでいたと言い、混同しやすいので留意したい。
芭蕉の句の「むざんやな甲の下のきりぎりす」というのも、もちろん「コオロギ」のことである。

以下、キリギリスを詠んだ句を引く。

 スカートを敷寝の娘きりぎりす・・・・・・・・滝井孝作

 一湾の潮しづもるきりぎりす・・・・・・・・山口誓子

 きりぎりす時を刻みて限りなし・・・・・・・・中村草田男

 泥濘におどろが影やきりぎりす・・・・・・・・芝不器男

 わが胸の骨息づくやきりぎりす・・・・・・・・石田波郷

 曲らむと鉄路かがやききりぎりす・・・・・・・・軽部烏頭子

 崖下に道なし崖のきりぎりす・・・・・・・・山口波津女

 きりぎりす腸(わた)の底より真青なる・・・・・・・・高橋淡路女

 山の鉱泉に父の晩年きりぎりす・・・・・・・・高島茂

 夜の底に泣く貌もてりきりぎりす・・・・・・・・辛島睦子

 きりぎりす生あるかぎり紅をさす・・・・・・・・久米富美子

 きりぎりす胸に組まれる死者の指・・・・・・・・大井雅人

 きりぎりすチョンを忘るるときもあり・・・・・・・・岡本無漏子
-----------------------------------------------------------------------
引用した一番はじめの句の「敷寝」の意味が判る人も少なくなっただろう。
女子学生が制服のスカートのヒダを、夜、蒲団の下にキチンと整えて寝ている間にヒダをきれいに圧し直すことをいう。
今ではベッドで寝る人が殆どであり、こういう光景には、お目にかかれないと思われる。
因みに、この作者の滝井孝作は小説家として有名な人。


鰯雲人に告ぐべきことならず・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
083鰯雲

      鰯雲人に告ぐべきことならず・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

夏の雲は山際にもくもくと立ち上がる「積乱雲」が特徴であるが、秋に入ってくると、写真のように、小さい雲片が小石のように並び集る「巻積雲」いわゆる「鰯雲」が季節の雲となる。
写真のように、規則的にさざ波のように並んでいることもあるが、はなればなれになっていることもある。
高空に出て、鰯が群れるように見えるので鰯雲、鱗のように見えるので鱗雲、鯖の斑紋のように見えるので鯖雲などと呼ぶ。
『栞草』には「秋天、鰯まづ寄らんとする時、一片の白雲あり。その雲、段々として、波のごとし。これを鰯雲といふ」と書かれていて、
鰯雲の特徴を見事に捉えている。
名前に味があり、俳句に愛用される季題のようである。

掲出の楸邨の句は、鰯雲という自然現象の中に「人に告ぐべきことならず」という私的な人事を詠みこんで、見事な主観俳句の秀句とした。
以下、歳時記から鰯雲の句を引く。

 鰯雲日和いよいよ定まりぬ・・・・・・・・高浜虚子

 いわし雲大いなる瀬をさかのぼる・・・・・・・・飯田蛇笏

 松島の上にひろごり鰯雲・・・・・・・・田村木国

 鰯雲昼のままなる月夜かな・・・・・・・・鈴木花蓑

 鰯雲こころの波の末消えて・・・・・・・・水原秋桜子

 鰯雲個々一切事地上にあり・・・・・・・・中村草田男

 妻がゐて子がゐて孤独いわし雲・・・・・・・・安住敦

 鰯雲ひろがりひろがり創痛む・・・・・・・・石田波郷

 鰯雲予感おほむねあざむかず・・・・・・・・軽部烏頭子

 葬られてしまひしものに鰯雲・・・・・・・・中川宋淵

 鰯雲動くよ塔を見てあれば・・・・・・・・山口波津女

 いわし雲城の石垣猫下り来・・・・・・・・森澄雄

 豆腐二丁はなれて沈みいわし雲・・・・・・・・酒井鱒吉

 鰯雲子は消しゴムで母を消す・・・・・・・・平井照敏


浴して我が身となりぬ盆の月・・・・・・・・・・・・・・・小林一茶
moon3満月

      浴(ゆあみ)して我が身となりぬ盆の月・・・・・・・・・・・・・・・小林一茶

今日は陰暦の7月15日、名月の丁度1ト月前の満月である。これを「盆の月」とお盆の行事に因んで、こう呼ぶ。
まだ暑さ盛りであり、盂蘭盆の灯明も消えたばかりの時期で、独特の雰囲気の月である。
関西では、もう「地蔵盆」の行事も終わった。
今朝、いつもの早朝の散歩に4時50分ごろに出たら、西の空に、山の端ちかくに、うすい靄がかかっていたので、うすら赤い大きな満月がかかっていた。
これこそ「盆の月」なのであった。

掲出の一茶の句は、盂蘭盆でさまざまな祖霊供養の行事に明け暮れた一日を終り、湯浴みして、ようやく、うつしみの我が身に帰った、という哀感のともなう佳い句である。
以下、「盆の月」の句を引いておく。

 山里の盆の月夜の明るさよ・・・・・・・・高浜虚子

 うす雲のただなかにして盆の月・・・・・・・・長谷川かな女

 盆の月真夜中いつかくもりけり・・・・・・・・中村伸郎

 盆の月ひかりを雲にわかちけり・・・・・・・・久保田万太郎

 盆の月拝みて老妓座につきし・・・・・・・・高野素十

 むささびのとびし吉野の盆の月・・・・・・・・高野素十

 胡桃の葉透かし明るし盆の月・・・・・・・・山口青邨

 盆の月虧けゆき母の忌も過ぎぬ・・・・・・・・五十嵐播水

 盆の月遥けきことは子にも言はず・・・・・・・・松村蒼石

 生れたるのみのふるさと盆の月・・・・・・・・大橋敦子

 生くる二人に鬼灯ほどの盆の月・・・・・・・・村越化石

 盆の月父亡く母に遠く住む・・・・・・・・筒本れい子

 金泥を海に流せり盆の月・・・・・・・・沢木欣一

 膝頭老いゆく盆の月明り・・・・・・・・戸川稲村



田土成彦歌集『糸遊伝説』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
田土_0001

──新・読書ノート──

      田土成彦歌集『糸遊伝説』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・・九曜書林2015/08/12刊・・・・・・・・・

この本が恵贈されてきた。
田土さんは短歌結社「地中海」の編集委員をなさっている。 本職は、もう退職なさったが「生物学徒」である。
この歌集は『遠隔会話』 『陽炎軌道』 『樹下黄昏』 『空中回廊』につづく第五歌集である。
2005年から2014年までの300首弱を収録している。 
「あとがき」に

< もともと寡作で、十年の歳月を経てこれだけのものかという忸怩たる思いもあります。
  しかし、ほぼ十年を区切りとして第五歌集にまでたどり着くことが出来たのは、蒲柳の質の私としてはまあ幸運としなければならないでしょう。 >

と書かれている。 因みに田土さんは1943年のお生まれである。
先ず、書名の「糸遊」という漢語の意味を引いてみよう。

デジタル大辞泉の解説

いと‐ゆう〔‐ゆふ〕【糸遊】

1 陽炎(かげろう)。《季 春》「―に結びつきたる煙かな/芭蕉」
2 「糸遊結び」の略。
[補説](1)語源未詳で、歴史的仮名遣いを「いとゆふ」とするのは、平安時代以来の慣用。
(2)「糸遊」は和語「いとゆふ」が陽炎の意の漢語「遊糸(ゆうし)」の影響を受けてできた表記。
(3)晩秋の晴天の日にクモが糸を吐きながら空中を飛び、その糸が光に屈折してゆらゆらと光って見える現象が原義で、漢詩にいう遊糸もそれであるという。
「―などの末濃の御几帳」〈栄花・音楽〉

と載っている。
この本の場合は上記の(3)にあたると言えるだろう。 さすが生物学徒としてぴつたりの命名だろう。
この本の巻頭に「糸遊」の項目の七首の歌がある。

   ・かぜ強き今日は晴天糸遊のための草の穂つんと突き出る
   ・草の穂に待ちゐる風を得し蜘蛛の尻あげて吐く糸が日に照る
   ・かぜを読み風に乗りゆく蜘蛛の子のゆくへは知らずその生も死も
   ・蜘蛛の子の芥子粒ほどが散りゆきぬ千にひとつの幸運求め

都会暮らしでは目にすることは出来ないだろうが、田舎暮らしの私などは、こういう光景は目にすることが出来る。
こういう光景が見られるのは晴れた晩秋のことである。
私も拙ブログに、これに関連する記事と画像を載せたことがある。
しかし、こういう光景を観察できるのは、自然を仔細に見ていなければならない。
生物学徒としての田土さんならではの巻頭の優れた一連である。

「福音書」という項目がある。
   ・マグダラのマリアがイエスの妻といふどこかやすらぐ異教徒われは
   ・二〇〇〇年前のイエスのささやきを聞くごとくユダ福音書
   ・キリストが人であるとふ単純はわれの頭脳にも理解しやすい

「マグダラのマリア」とは、かつては娼婦、悔い改めてイエスの弟子になった女の人で、イエスが処刑されたあと、「復活」したときに、その姿を最初に見せたのが、マグダラのマリアだった。
だから、こういう話を元にして先年、或る本が出版された。カトリックの法王庁はそれを読むのを禁止した。
この項目の歌は、それを描いている。
私もマグダラのマリアのことは何度もブログに書いたし、エルサレムには、このマグダラのマリアを祀る教会もあるのである。

「入院」という項目がある。
   ・二月六日自転車転倒立ち上がることさへできぬままの入院
   ・旅行予定歌会予定を取り消して月例詠草いかにしのがむ
   ・チタンの骨わが大腿に金属のその光沢の輝きてゐむ
   ・生くるとは必ず排泄のことあると身動き出来ぬ身に沁みて知る

私には初めて知る田土さんの体験である。 それらの経緯が淡々と歌にされていて秀逸である。
以下、私の目にとまった歌を引く。

   ・野ざらしの礎石の一つがわれに向き座りませんかと声掛けてくる
   ・マスコミと国が振りまく嘘多しフクシマ以後に見えて来しもの
   ・〇・二ミリシーベルトのレントゲン被爆の実感もなく受けてゐる
   ・軒ふかく残る朱のいろ千年といふさびしさを人は生き得ず (当麻寺)
   ・みかへれば頭の形に窪みゐる枕は今朝のわれの形代
   ・一寸ほど頭を出して錆つけるこの釘何の役目負ひゐし
   ・絶食の一八六九日息絶えしダイオウグソクムシ何に抵抗
   ・喧噪のとだへし朝よひさびさにミル廻し熱き珈琲淹れむ

そして、巻末の歌は

   ・見てをりし夢の続きのやうなおとありて秋霖の広葉うるほす

まだまだ引きたい歌も多いが、ひとまず鑑賞は、このくらいにしたい。
私なんかとは、まだまだ若い田土さんである。 ますますのご健筆を祈って終りにしたい。
ご恵贈ありがとうございました。




藤原光顕歌集『椅子の時間』・・・・・・・・・・・・木村草弥
藤原_NEW

──藤原光顕の歌──(21)

     藤原光顕歌集『椅子の時間』・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・・・芸術と自由社2015/07/29刊・・・・・・・・・・・

この歌集は藤原さんの第六歌集になる。 因みに「自由律短歌」である。
前歌集『時間以後』の後の536篇の作品が収録されている。
「目次」を見ると、
「垂水区上高丸」 「Sentimental Journey」 「やさしい未来」 「奥海印寺太鼓山」   となっている。
「垂水区上高丸」とは元の神戸のお住まいの住所であり、 「奥海印寺太鼓山」とは現在のお住まいの地番である。
収録された歌は、それぞれの土地で詠まれた、ということであろう。 或いは、その土地に因む歌ということもあろう。
「Sentimental Journey」とは旅行詠であるようだ。

以下、数が多いので私の好きな歌を引いてみよう。

「垂水区上高丸」から

*あと数時間で切り替わる人生と思いながらしつこい苦情に頭を下げている
*残っていたのど飴・楊枝・眼鏡拭きなどを捨てて無臭の抽斗にする
*からっぽの抽斗をたしかめ最後に検印を捨てるこれでおしまい
*ご苦労さまでしたと妻が頭を下げる給料日とは少し違う感じでいう

「定年前後」という項目のはじめである。
後に「かづら橋」「家郷いちにち」という項目が見られる。歌を引くことはしないが、これは藤原さんの「故郷」「田舎」を詠ったものであろうか。

*死に場所ときめていた畳一枚 引っ越しと決まった日からそつ気なくなる
*見慣れた窓に三十年の空が広がる おおむね晴れていたと思う
*どしゃ降りの予報が外れて小雨の引っ越し この程度にはついている
*二十年の時間を吸い集める がらんとした部屋に掃除機をかける

「引っ越します」という項目の歌である。 寂しさが満ちている。

「Sentimental Journey」にはGermany・ Switzerland・ France という副見出しがついている。
あと「オキナワ」「广州・桂林」「台湾」「マレーシア・シンガポール」「ソウルまで」「北京点描」と続く。 少し歌を引く。

*ブローニュの森は秋 思いの中に見尽くしたように枯葉が散る
*国境とは何 隣国の火事の煙にかすむシンガポール
*あれがソウル駅と指し 歴史のさりげなさで日帝支配を言う
*五輪フィーバーの北京郊外 あれが盧溝橋と指し多くは語らぬ

「やさしい未来」から

*ハジメニDNAアリ オワリニDNAアリ ソレガスベテダ
*ドウセゲームデアル 神ハヤッパリサイコロヲ振ッタノダ
*奇蹟ハナイ無限ノ記憶素子スベテ完全ニ整合サレテイル

不気味な一連である。

「奥海印寺太鼓山」から

*京都府長岡京市奥海印寺太鼓山まちがいなくここが終いの住処

*初めての駅の周りを歩いてみる うろついている浅野英治を追うように
*ティオ舞子の喫茶店で海を見ている 二度と来ない梅木さんを待ってみる

この二首の歌には哀惜の念がこもっている。
はじめの歌には「倚子」を主宰していた浅野英治のことが詠われている。
二番目の歌には麗しいタッチのイラストを描いた梅木望輔さんのことが詠われる。今でも「たかまる通信」の表紙に使われる。
私の好きなイラストである。

*眠くなるまで待てば眠れると言い とりあえずハルシオン14日分くれる
*相槌の間 上高丸の家並みが浮かぶ 褪せた二階の畳が浮かぶ
*「坐った犬の後ろ姿ってせつないね」「なんかオレより哀しいみたい」
*チミモウリョウをチョウリョウバッコさせる魑魅魍魎跋扈と辞書に見るまで
*「美しい国」では〈おまえはアホか〉というギャグで暮らす芸人もいて
*太鼓山にも春が来て 風が光る 水が光る 七十二歳が光る
*八月 グリーンスタジアムよかったなァ イチローがいたオリックス

日常茶飯事を詠んだようで、ところどころに厳しい「諧謔」が光っている。

この本の題名になった「椅子の時間」という一連から

*おとろえた陽ざしへ覚める いつからか椅子の時間の一部になって

*何をどう判定するのか設問18あなたは人の役に立っていると思うか
*九月六日ふいにくる秋 阪急電車は駅を出るなり左へ曲がる
*薄い陽差し 瓦礫を重機が混ぜ返し何があったかもうわからない
*「バックします、バックします」あれは車だ わたしの声ではない
*裏おもて活字の賀状でいいのですお元気ならそれでいいのです
*暴力団員でない署名して農協で通帳一冊つくってもらう
*延命処置不要家族葬で可と書いただけで終活はまた頓挫してます
*つかのまの日射しを見せてすぐに降る 曲がりくねって春が来る

藤原さんのことについては拙ブログで「たかまる通信」が届くたびに紹介してきた。
今あらためて一冊になってみると、懐かしい歌々が連なる。
この春、藤原さんは長年苦楽を共にされてきた夫人を亡くされた。
これからもお元気で「老いの哀歓」を歌に詠んでいただきたい。
不十分ながら、紹介を終わりたい。 有難うございました。



告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて山城古地図の甦る秋・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
dragonfly01アカトンボ本命

     告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて
       山城古地図の甦る秋・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、自選50首にも入れてあるのでWeb上でもご覧いただける。
この歌は歌会で「告ぐることあるごとく」という比喩と「山城古地図」の甦りとが巧みに照応して見事だと褒められて高点を得た思い出ふかい歌である。
とんぼは晩春から晩秋まで見られる虫だが、むかしから秋の季語とされている。
肉食で、昆虫を捕えて食べる。種類は日本で120、30種類棲息するが、均翅亞目の「かわとんぼ」「いととんぼ」は夏の季語となる。
これらは止まるとき翅を背中でたたむ。
不均翅亞目は止まるときも翅を平らにひろげ、後翅が前翅より広い。とんぼの多くは、こちらに属する。
図鑑の説明を読むと、なるほど、そうか、と納得する。
これから「赤とんぼ」の飛ぶ季節だが、古来、この赤とんぼ、あるいは「秋あかね」と呼ぶとんぼが、色も赤いく目立って多いので、秋の季語となったのではないか。
写真②は大型の「やんま」の種類である。
FI1703458_2Eケンスジヤンマ

掲出した歌の載る一連を引いておく。

 牧神の午後(抄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて山城古地図の甦る秋

黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む

妻の剥く梨の丸さを眩しめばけふの夕べの素肌ゆゆしき

サドを隠れ読みし罌粟(けし)畑均(なら)されて秋陽かがやく墓地となりたり

花野ゆく小径の果ての茶畑は墓を抱きをり古地図の里は

秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は空の青さの点となりゆく

秋蝿はぬくき光に陽を舐めて自(し)が死のかげを知らぬがにゐる

牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさに見つ

おしろいばな狭庭に群れて咲き匂ふ妻の夕化粧いまだ終らず

一茎のサルビアの朱(あけ)もえてをり老後の計画など無きものを

つぎつぎに死ぬ人多く変らぬはあの山ばかり生駒嶺見ゆる




隅田有 詩集『クロッシング』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
隅田

──新・読書ノート──

      隅田有 詩集『クロッシング』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・・空とぶキリン社2015/09/01刊・・・・・・・・・・

この詩集が贈呈されてきた。 私には未知の人である。
私は高階杞一さんと親しくさせていただいているので、高階さんが私の方に贈るように言われたものだろう。
この詩集には全部で20篇の作品が収録されているが、初出は詩誌「びーぐる」の投稿欄に投書されたもののようである。
私も「びーぐる」は読んでいるが、「投稿欄」の作品は碌に見たことがないので、気づかなかった。
作者の年齢など経歴については何も分からないが「バックパッカー」で外国を放浪していたらしい。
「あとがき」に、それらしいことが書かれている。
隅田氏の詩は、いわゆる「現代詩」らしい難解な詩で、私のような老人で近代詩─現代詩でも、せいぜい三好達治あたりまでが好きな詩だという人間には「歯が立たない」ことを告白しておこう。
この詩集の「目次」を見ると、「章」建てが凝ったものになっている。 つまり「初」 「男」 「女」 「雑」 「切」である。
「初」は「序」であるらしく、「切」は「終」「畢」らしい。 「雑」というのは俳句や連句の季節分けの「雑」の意味であろうか。

「地名」などの固有名詞には「喚起力」というものがあり、私の知る地名などを手がかりにして「判る」作品に少し触れてみたい。

まず題名として採られた「クロッシング」という詩は、中東のヨルダンから川を渡ってイスラエルに入る「クロッシング」─川の渡河地点の意味だが─が詠われている。
私も2000年─いわゆるミレニアムの年にイスラエルを十日間旅したが、もちろん五人という小人数とは言え、ツアーのものであり、ヨルダンには入らなかったし、アレンビー橋も知らない。
ここには「死海」があるが、そこに注ぎ込む川はヨルダン川一本のみであり、酷暑の土地で水分の蒸発の方が多いという地形である。
こんな極限のような厳しい土地にユダヤ教、キリスト教、イスラム教という同根に発する宗教が発生したことに瞠目するのである。

       クロッシング・・・・・・・・・・・隅田 有

  エンジン
  合図のクラクション
  震える車体
  セルビスは走りだした
  すり鉢の斜面をぐるりと登りきり
  アラブの市街地を後にする
  晴天を確信する夜明け
  土ぼこりのフ口ントガラス越し
  まるで狩るように
  私たちは薄い月を追う
  田舎道を飛ばし
  T字路を曲がると“橋”は近い
  Kmg Hussein / Allenby crossing

  月は銀細工に姿をかえて
  ベイビーブルーの彼方に逃げた

        *

  パレスチナの女たちの
  山吹色の荷物に埋まる国境
  外国人用窓口に並ぶ
  私たちの手から溢れ落ちたのは
  山に染み入る雪どけの水であり
  大きな車輪が回転するような
  どっしりとした人間たちの営み
  旅券を持つのは片方の私
  国を越えるごとに一人ずつ
  私はもう片方の私を残してゆく
  とどまる私の名は
  エルミラであり
  ワダケイイチであり
  アルビノの犀
  ジュリアン・デルフィー
  ナイト・クラブの青ネオン
  バザ—ルのナツメ
  燃え落ちたロウソク
  国境を超えて自在に吹きぬける
  ジェリコの風
  ああ、きっと
  この土地の秋の匂いだ
--------------------------------------------------------------------------------
難解な詩が多い中では、この詩は判り易いものだろう。
私のように自作でも「抒情詩」のようなものを書いている人間にもぴったり来る。
詩というのは、もっぱら「比喩」である。 その比喩が読者にぴったり来る、かどうか、ということである。
「詩語」という特別の言葉があるのではない。 日常使う平易な言葉─日常語を、いかに「詩語」に転化させるか。
ヨルダンには二回行った、と作者は言うが、この「クロッシング」という作品は、それなりに作者の中で消化されて、優れた詩として「昇華」した。

もう一篇、詩を引いてみよう。

       日時計・・・・・・・・・・・・・隅田 有

  花畑はクローゼットの中
  土の句いに湿っていた
  壁ぎわ、梅毒病みの牧神が酔いつぶれ
  崩れた鼻にタンポポの綿毛をはりつけ
  二階の寝室は遠心力のバランスを失い
  中庭にむかって脱臼していた
  その日、 visitorである私は五歳
  クローゼットの集会を主催し
  参加し
  運営し
  辛うじて生きていた五歳
  口を開くかわり
  ハンガーで鋤き返してばかり
  両目を日時計にして
  荘園にアブを逃がした

  階下の食堂では連夜
  女優きどりの二シンが喜劇的な死を遂げていた
  鶴嘴でめった突きにするのは
  言い負かされた情夫だった
  外階段に座って飽きもせず鑑賞するけれど
  五歲の私は泣きはしない
  そんな時
  午睡から醒めた牧神は
  酒臭い息を吐いて
  優しく
  優しく
  私の髮を撫ぜる
  頰をよせて
  笑いあう味方に安堵する

  夜の顔に変わった私の庭は
  いつせいに爆ぜ
  無数の胞子は
  五歳の私の息の根に巣食う
--------------------------------------------------------------------------------
この詩の「五歳」というのが現実のものかどうかは知らない。 ある回想であることは間違いなかろう。
この詩の末尾の四行は、この本の「帯」にも引かれているが、この詩集の或る要約として捉えられるだろう。

「帯」からの関連でいうと、この帯文の

     < 記憶の地図をリュックにつめて、異郷を旅する鮮烈な第一詩集。 >

というキャッチコピーは、この詩集一巻を、うまく要約し得ている、と言えるだろう。
「ヨルダン・イスラエル旅日記」http://u777u.info/no5C  というサイトもお知らせいただいたが、辿りつけなかったことを書いておきたい。
好漢、ますます自在に飛翔されよ。   ご恵贈ありがとうございました。


夾竹桃東京砂漠灼けはじむ・・・・・・・・・・・・・・・千代田葛彦
aaookyouch1夾竹桃赤

      夾竹桃東京砂漠灼けはじむ・・・・・・・・・・・・・・・千代田葛彦

夾竹桃は夏の花である。私の子供の頃には夾竹桃なんていう木は、そんなには生えていなかったが、今やあちこちに盛っている。
キョウチクトウは葉が狭く、花が桃に似ているという漢名をそのまま転用している。
夾竹桃は原産地はインドだが、江戸時代に中国から渡来して、当初は仏縁の木として寺院に植えられたが、後に一般に植栽されるようになった。
花は6月頃から咲きはじめ9月一杯咲きつづける。
とにかく炎暑が好きな木であり、強健な木なので公害にも強く、高速道路や工場地帯の隔離壁の作用をする木として多用されている。
花の色は紅色、赤色、白色などさまざまである。
aaookyouch夾竹桃白

炎天下に咲く花というのは限られており、夾竹桃は夏の花として欠かすことの出来ない花となった。
日本人には八月の原爆記念日、敗戦記念日など炎暑の時期に重い、辛い記憶の日々がめぐって来るが、
それらの折々の風景として夾竹桃が強く脳裏に焼きつくのである。
生命力の強さに励まされるという人も居る。ただ毒を持っているので敬遠される向きもある。
明治維新の後の「西南戦役」の際に兵士が、この木で箸を作って十数人が死亡したということが伝えられている。
私の歌にも夾竹桃を詠んだものはあるが、今回は遠慮して、歳時記に載る俳句を引いて終わる。
句に詠まれるのも多く、俳人には好まれる花のようだ。

 夾竹桃戦車は青き油こぼす・・・・・・・・中村草田男

 夾竹桃旅は南へばかりかな・・・・・・・・福永耕二

 夾竹桃花のをはりの海荒るる・・・・・・・・桂信子

 夾竹桃昼は衰へ睡りけり・・・・・・・・草間時彦

 白は目に涼し夾竹桃さへも・・・・・・・・稲畑汀子

 うらごゑのどこからかして夾竹桃・・・・・・・・高島茂

 歯を抜きてちから抜けたり夾竹桃・・・・・・・・角川照子

 夾竹桃河は疲れを溜めて流れ・・・・・・・・有働亨

 夾竹桃燃ゆる揺れざま終戦日・・・・・・・・松崎鉄之介

 夾竹桃しんかんたるに人をにくむ・・・・・・・・加藤楸邨

 夾竹桃奈良のほとけの雀いろ・・・・・・・・角川春樹

 夾竹桃造船の音ぶつかり来・・・・・・・・矢島渚男

 夾竹桃直線の道空港へ・・・・・・・・宮川杵名男

 鬱勃たる夾竹桃の夜明けかな・・・・・・・・平井照敏


浅間曇れば小諸は雨よ蕎麦の花・・・・・・・・・・・・・・・杉田久女
sobaソバの花

      浅間曇れば小諸は雨よ蕎麦の花・・・・・・・・・・・・・・・杉田久女

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも

  粟谷は山より暮れてゆく辺り夜目にも白く蕎麦(そば)の花咲く

  窯元へぬかるむ道のつづきけり蕎麦の畑は白とうす紅

  風かるき一と日のをはり陶土練る周囲ぐるりと蕎麦の畑ぞ
・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌群が載っている。
私の住む辺りは大都会の近郊農村で、平地で、蕎麦は昔から栽培されるのを見たことがない。
ということは都会にも近く、かつ温暖で水の便もよく救荒作物である「ソバ」のようなものの世話になる必要のない土地だったということになろうか。

写真①は蕎麦の草を接写したものだが、蕎麦畑の全体像は写真②のようなものである。
buckwheat-6ソバ畑

ソバは夏蒔きと秋蒔きと2回時期があるらしいが、いずれにしても稔るのが早く、2~3カ月で収穫できるらしい。
荒地を厭わないので救荒作物として高冷地では広く栽培されたという。
写真③で「ソバの実」をお見せする。
buckwheat-5ソバの実

この写真は、まだ脱穀したばかりで色が白いが時間が経つと皮が黒っぽくなる。
この実を臼で挽いて出来るのが「ソバ粉」で、粉に少し黒っぽい色がついているのは、皮が混ざっているためである。

 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 山畑や煙りのうへのそばの花・・・・・・・・与謝蕪村

 道のべや手よりこぼれて蕎麦の花・・・・・・・・与謝蕪村

 山畑やそばの白さもぞつとする・・・・・・・・小林一茶

というような昔の句にも詠まれているように、そのさりげない蕎麦の花の風景が愛(め)でられていたのである。
写真④はソバの花を接写したものである。
buckwheat-7ソバの花

今では「そば」と言えば食べるソバがもてはやされて、どこそこの蕎麦が旨いとか、かまびすしいことである。
しかし文芸の世界では「蕎麦の花」がもてはやされる。
食べる「そば」では実態を描きようがないからである。食べる「そば」は味覚の問題であって、文学、文芸上で描写する対象にはなり得ない。
仮に描写することが出来ても、そこから広がる世界、連想、想像を推し量ることには限界がある。

img_22ソバの草

以下、俳句に詠まれた作品を引用しておく。

そばの花山傾けて白かりき・・・・・・・・・山口青邨

 花蕎麦のひかり縹渺天に抜け・・・・・・・・大野林火

 蕎麦の花下北半島なほ北あり・・・・・・・・加藤楸邨

 蕎麦畑のなだれし空の高さかな・・・・・・・・沢木欣一

 山脈の濃くさだまりてそばの花・・・・・・・・長谷川双魚

 蕎麦咲きて牛のふぐりの小暗しや・・・・・・・・中条明

 山村といふも四五戸や蕎麦の花・・・・・・・・長沢青樹

 月光の満ちゆくかぎり蕎麦の花・・・・・・・・古賀まり子

 母にまだとる齢あり蕎麦の花・・・・・・・・村松ひろし


這ひながら根の消えてをり浜昼顔・・・・・・・・・・・・・・・・高橋沐石
hamahiru021浜昼がお

     這ひながら根の消えてをり浜昼顔・・・・・・・・・・・・・・・・高橋沐石

「昼顔」は、およそ野生のもので、よく目にするものとしては「浜昼顔」であろうか。
ヒルガオ科の蔓性多年草で、各地の海岸の砂地に自生する。
砂の中に地下茎が横に走り、地上茎も長く伸びて砂の上を這い、丸くて厚く、光沢のある葉を互生する。
旺盛な繁殖力で、ときに広い面積に群生しているのを見かけることがある。
地域によって異なるが5、6月ごろ葉腋に長い柄を出し、淡い紅色の花を上向きに開く。

この句は、浜昼顔の生態をよく観察したもので、海辺に咲く浜昼顔を過不足なく描写して秀逸である。

私には昼顔や浜昼顔を詠んだ歌はないので、歳時記から句を引いて終わる。

 きらきらと浜昼顔が先んじぬ・・・・・・・・中村汀女

 浜昼顔咲き揃ひみな揺れちがふ・・・・・・・・山口草堂

 浜昼顔風に囁きやすく咲く・・・・・・・・野見山朱鳥

 はまひるがほ空が帽子におりてきて・・・・・・・・川崎展宏

 浜昼顔タンカー白く過ぎゆける・・・・・・・・滝春一

 浜ひるがほ砂が捧ぐる頂きに・・・・・・・・沢木欣一

 昼顔のあれは途方に暮るる色・・・・・・・・飯島晴子

 海高し浜昼顔に跼む吾に・・・・・・・・森田峠

 浜昼顔鳶が落とせし魚光り・・・・・・・宮下翠舟

 浜昼顔廃舟錨錆び果てぬ・・・・・・・・小林康治

 潮泡の音なく崩れ浜昼顔・・・・・・・・稲垣法城子

 天日は浜昼顔に鬱(ふさ)ぎつつ・・・・・・・・中村苑子

 浜昼顔島の空港影もたず・・・・・・・・古賀まり子

 風筋は浜昼顔を駈け去りし・・・・・・・・加藤三七子

 つつつつと浜昼顔の吹かるるよ・・・・・・・・・清崎敏郎

 海鳴りや浜昼顔の引けば寄り・・・・・・・・下鉢清子

 浜昼顔に坐すやさしさの何処より・・・・・・・・向笠和子


地蔵会や高くひびくは母の鉦・・・・・・・・・・・・・・・中村若沙
109地蔵盆

    地蔵会や高くひびくは母の鉦(かね)・・・・・・・・・・・・・・・中村若沙

8月23、24日は地蔵菩薩の縁日、この日の祭りが地蔵盆である。
お盆の行事と結合したので地蔵盆という。
毎月24日はお地蔵さまの縁日なのだが、上に書いたようにお盆の行事と一緒になって、この日に開かれるようになった。
地蔵菩薩は末法の世の末に46億7000万年かの先に衆生を救いに来ると言われている。
特に子供の守り本尊で、写真②のような路傍の地蔵堂のお地蔵さまに、子や孫の順調な生育を願って、涎掛けや頭巾を手縫いしてお地蔵さまに着せる、
ということがされる。
扉の前に垂れる鈴鳴らしの紐には願をかける子や孫の名前と年齢を書き込むのが普通である。
4-13-3地蔵祠
お地蔵さまはお寺の境内に祠として祀られているものもあるが、多くは町や村の路傍──辻や三叉路などに建っているのが多い。
この地蔵盆という行事は関西、特に京都で派手に催される。
京都市内では8月22日頃から3日間、町内の大人たちが総出で接待をする。主役は子供である。
この日には路傍にあるお地蔵さんも祠から出して、町内の集会所あるいは当番の役員宅などに場所を設営して、
提灯を飾り、縁日のように金魚すくいなどをする。
しかし、基本は宗教的な行事なので「数珠繰り」などを子供たちにさせるなどする。
はじめには町内の僧侶が読経をすることになっている。

ji06地蔵盆
写真③では、ちょうど僧が拝んでいる後姿が見える。地域によって祭りの様子は様々である。
私の住む地域では町内役員がやっていたが、今では子供会に任せて、収入も一切、子供会のものとして自主財源として使えるように変えた。
私の所は田舎であり、京都市内のような大掛かりなことは昔から、しない。開催日も子供会の親の集りやすい、前後の日曜や土曜日にすることが多い。
ji01地蔵盆②

地蔵盆は子供のお祭とはいっても、やはりお地蔵さんを祀る宗教行事の一環であるから、写真④のように「数珠繰り」などもさせる。
数珠繰りとは108玉の大きな数珠を「南無阿弥陀仏」とお経を唱えながら手でたぐって廻すものである。
写真の中に祭壇に向かって読経する僧の姿が写っている。こういう行事の次第は地域によって違う。
この地蔵盆の費用は、どうするのか、ということだが、町内の各家から「お賽銭」または「お供え」のかたちで何千円かのお金を包んでお供えする。これは町内の戸数によって違うから総額には大きな開きがあるだろう。
因みに、田舎だが私の町内(自治会)は現在120戸くらい、私たちの小さい頃は60戸くらいだった。
もちろん地域や大きさによって、まちまちであることは言うまでもない。

ji08地蔵盆③
写真⑤は子供の余興で「金魚すくい」をさせているところ。
こういうのは専門の露天商を呼んで来て、費用は町内会もちで、子供たちには無料でさせる。
上に書いた「幻燈」などは、教養的要素のものと言える。
暑い夏の盛りであるから、かき氷の機械を据えて「かき氷」を振舞うこともあるようだ。
今は少子化の時代であり、小学校も統合、廃校になる時代であるから、こういう地蔵盆の在り方も少しづつ変わってゆくだろう。
今では郊外に新興住宅地も増え、そういう地域では「お地蔵さん」のないところが多いので、そういう地域対象にお地蔵さんの「貸し出し」をするお寺があるそうで、
この時期になると新聞、テレビの絶好のニュースとなる。

大変な数のお地蔵さんを大小取り揃えてあるそうで、好みの大きさのお地蔵さんを借りてゆくそうだ。
時代は変わっても、こういう伝統的な行事とは縁が切れないのが、人間社会の辛いところである。
首都圏の人には、こういう風習もないから理解が及ばないことが多かろう。

以下、地蔵盆を詠んだ句を少し引いて終りにする。先に言ったように地域性のある行事なので有名俳人の句は、余り、ない。

 地蔵会や芒の中に灯のともる・・・・・・・・長谷川零余子

 幻燈はいま西遊記地蔵盆・・・・・・・・・大堀たかを

 さまよへるちさき蛍や地蔵盆・・・・・・・・五十崎古郷

 地蔵盆とみに露けくなりにけり・・・・・・・・河原白朝

 涎掛け取替え在す地蔵盆・・・・・・・・松井蕪平

 両の手の吾が子よその子地蔵盆・・・・・・・・宮城きよなみ

 六波羅はいま陋巷の地蔵盆・・・・・・・・西尾砂穂


六斎や久世も桂も盆休み・・・・・・・・・・・・・・・中嶋黒洲
bouzu壬生六斎踊②

       六斎や久世も桂も盆休み・・・・・・・・・・・・・・・中嶋黒洲

仏教では1カ月に6つの「斎日」というものがあり、それは8、14、15、23、29日と晦日の6日。
これらの日には斎戒謹慎し仏の功徳を修し、鬼神に回向して善心を発起すべきとされた。これが六斎日である。


この六斎念仏踊りという行事は関西それも京都に伝わるもののようであり、これを詠んだ句にも有名人のものはないようである。
京都には嵯峨野念仏保存会、壬生六斎念仏などが保存会を結成して保存につとめている。写真①②は壬生六斎念仏の踊りの一場面である。
kumo2壬生六斎踊①

■踊り念仏とは
飢饉や疫病に苦しむ人々を救うこと、念仏を分り易く民衆に伝えることを目的に採用された宗教的手法のことである。

鎌倉期に一遍が開いたという時宗は、この流れに属するが、六斎念仏はそれより前に平安時代に空也が始めたものが源流である。
壬生六斎念仏では、空也上人が托鉢に用いる鉢を叩いて「南無阿弥陀仏」と唱えながら市中を練り歩いたという伝承に起源を求めている。
嵯峨野、壬生とも空也系だと称し、ほかにも流派があるらしい。
写真③④とも嵯峨野六斎念仏保存会に伝わる木札と無形文化財の指定書である。
fuda六歳念仏札
syojo六歳念仏指定書

■六斎念仏の由来
「六斎」という言葉の文献上の初出は『日本書紀』に持統天皇の5年(691年)2月に公卿らに詔して六斎を行なわしめたという記事がある。
念仏踊りは、いつしか六斎日と結びついて、六斎念仏と呼ばれるようになり、いつごろからか、お盆信仰と深く結びつけられるようになり、
今ではほとんどの六斎保存団体が、現在はすっかりお盆行事の一環という位置に定着してしまった。
六斎念仏踊りは8月16日の壬生六斎念仏をはじめとして、地蔵盆の頃に地蔵盆の行事とも結びついて催行されるのが多く、遅くは8月29日催行というのもある。
B035吉祥院六斎踊

写真⑤は吉祥院六斎念仏のもので8月25日午後8時吉祥院天満宮の境内で催行されるという。
桂六斎念仏(8月23日奉納)のHPは鳴り物入りで写真も多く詳しいサイトだったのだが、今は「休会」となっているようで残念である。
ここも地蔵盆の一環という感じであり、神社の境内で催行というのも神仏習合で面白かったのだが。。。。

先に書いたが、六斎念仏は京都を中心とする地域性が強く、詠まれた句も多くはないが、以下に書き抜いておきたい。

 清水の舞台灯すや六斎会・・・・・・・・水茎春雨

 六斎の太鼓打つ子に父の笛・・・・・・・・岸本久栄

 六斎や身を逆しまに打つ太鼓・・・・・・・・高崎雨城

 六斎の念仏太鼓打ちてやむ・・・・・・・・中田余瓶

 息合ひて六斎太鼓乱れ打ち・・・・・・・・つじ加代子

 六斎は太鼓を抛りあげにけり・・・・・・・・田中告天子


つくつくし尽きざる不思議ある山に・・・・・・・・・・・・・・・・中川宋淵
tukutukuつくつくぼうし

     つくつくし尽きざる不思議ある山に・・・・・・・・・・・・・・・・中川宋淵

私の歌にも、こんなのがある。
  
   法師蝉去(い)んぬる夏を啼きゆくははかなきいのちこそ一途(いちづ)なれ・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。

法師蝉というのはつくつくぼうしのことである。
こういう虫の声や蝉の鳴き声、鳥の鳴き声などは「聞きなし」と言って、鳴き声から名前がついたりする。
つくつくぼうしも「おーし、つくつく」とも聞きなしされる。夏の終り頃から鳴きはじめる。
いよいよ夏も去るのか、という感慨の起る鳴き声である。

「つくつくぼうし」は立秋の頃から晩秋まで聞かれる秋の蝉の代表である。小型で羽は透明、体は緑かかった黒。
先にも書いたが鳴き声に特徴があり『和漢三才図会』には
「按ずるに、鳴く声、久豆久豆法師といふがごとし。ゆゑにこれに名づく。関東には多くありて、畿内にはまれなり」とある。また「秋月鳴くものなり」という。
鳴き声の面白さと、秋鳴く点に、かえって或るさびしさが感じられ、それが法師蝉の名にもこめられているようである。

歳時記にも多くの句が載っているので、それを紹介して終りたい。

 高曇り蒸してつくつく法師かな・・・・・・・・滝井孝作

 法師蝉煮炊といふも二人きり・・・・・・・・富安風生

 また微熱つくつく法師もう黙れ・・・・・・・・川端茅舎

 法師蝉しみじみ耳のうしろかな・・・・・・・・川端茅舎

 飯しろく妻は祷るや法師蝉・・・・・・・・石田波郷

 繰言のつくつく法師殺しに出る・・・・・・・・三橋鷹女

 つくつくし尽きざる不思議ある山に・・・・・・・・中川宋淵

 我狂気つくつく法師責めに来る・・・・・・・・角川源義

 山へ杉谷谷へ杉坂法師蝉・・・・・・・・森澄雄

 法師蝉あわただし鵙けたたまし・・・・・・・・相生垣瓜人

 島山や鳴きつくさんと法師蝉・・・・・・・・清崎敏郎

 法師蝉むかしがたりは遠目して・・・・・・・・高野寒甫

 法師蝉雨に明るさもどりけり・・・・・・・・冨山俊雄

 くらがりに立つ仏体に法師蝉・・・・・・・・三島晩蝉

 黒潮とどろく岩にひた鳴く法師蝉・・・・・・・・高島茂

 法師蝉なきやみ猫のあくびかな・・・・・・・・高島征夫


「人魂で行く気散じや夏の原」わしも老いこんで妻も弟子も去りよった、わしゃ人魂で飛ぶぞ・・・・・・・・・・木村草弥
img0406-02北斎お岩

     「人魂で行く気散じや夏の原」わしも老いこんで
        妻も弟子も去りよった、わしゃ人魂で飛ぶぞ・・・・・・・・・・木村草弥


葛飾北斎は晩年には妻も弟子も去ってしまい、悲惨な最期を遂げた、と言われている。
掲出した歌の「」内は、北斎の辞世の句と言われているもの。
その句を取りこんで私は第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)の中で「辞世②」でコラージュの作品として発表した。

掲出の写真は北斎の怪奇画「百物語 お岩さん」という作品。
夏の風物詩、お化け屋敷ではないが、「怪談もどき」でいいではないか。
v221神奈川沖波裏

v233凱風快晴

葛飾北斎の作品としては二番目の写真の富嶽三十六景図のなかの「神奈川沖波裏」や三番目の写真「凱風快晴」などが、一般によく知られる傑作とされる。
これらの作品は誰の目にも違和感なく受け入れられるものである。
しかし、北斎の活躍は多岐にわたっており、四番目に掲げる「大首絵」のように芸者や吉原の遊女を描いたものも多く、
北斎の真骨頂は美人画にあり、と断言する人もいる。
megane大首絵

これらの他に北斎には、いわゆる「春画」の傑作も数多い。
私のコレクションにも春画の傑作の複製画や、「万福和合神」という春画の絵読本なども先にアップしたので、ご覧いただいた人もあろうか。
よく知られているように喜多川歌麿の美人画や大首絵、春画などは輪郭の線の美しさが特徴である。
これに比較して、北斎の春画の特徴は輪郭の線も太く、繊細さには欠けるが、代りに一種のおどろおどろしさ、が漂っている。
葛飾北斎は宝暦10年(1760年)から嘉永2年(1849年)を生きた人だが、いわゆる幕末で、もうすぐ明治という直前の時代である。
明治元年は1868年である。
一番はじめに書いたように北斎の晩年は妻にも弟子にも去られて悲惨なものであったらしい。
そういう事実を知ればこそ、この北斎の辞世の句と言われるものも、一層真に迫ってくるし、さればこそ私は、その北斎の境遇に思い至って、
こんなコラージュの作品に仕立てたのである。一番はじめの写真の絵も辞世の句にふさわしい、と思うものである。

四番目の写真の大首絵には「風流無くてななくせ遠眼鏡」という詞書がついており、
何を覗いているのか美人芸者が遠眼鏡(望遠鏡)を覗いている図が描かれている。
あるいは他所の部屋で繰り広げられている痴態を覗き見しているのかも知れない。
v212両国橋夕陽見

五番目の写真は「両国橋夕陽見」という風景図である。
広重や北斎の絵は西洋画に大きな影響を与えた、とされる。
いずれにしても北斎89年の生涯は、まさに波乱万丈の一生だったようだ。その頃の年齢としては89歳という歳は長寿の部類に入るだろう。
彼については2009/01/23付けで「画狂人─葛飾北斎の生涯」という記事を載せたので、ご覧いただきたい。

北斎のことは、このくらいにして、私のコラージュの作品を読み返してみて、我ながら面白いと思うので、後日あらためて披露してみたい。

天の川怒涛のごとし人の死へ・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
natuama天の川②

     天の川怒涛のごとし人の死へ・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

「天の川」は一年中みえるが、春は低く地平に沿い、冬は高いが光が弱い。
夏から秋にかけて、写真のように起き上がり、仲秋には北から南に伸び、夜が更けると西の方へ向かう。
「銀漢」という表現もあるが「天の川」のことである。

天の川の句としては芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」などの秀句がある。
天の川は英語では「ミルキー・ウエィ」というが、これはギリシア神話の最高神ゼウスの妻・ヘラの乳が天に流れ出したものというところから由来する。
実際は、銀河系の淡い星たちの光が重なりあって白い帯となって見えるもの。
銀の砂のように美しく、七夕伝説とも結びついて「星合」の伝統となっている。
『万葉集』に山上憶良の歌

  天の河相向き立ちてわが恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな

の歌が、古くからあり、美しさと星合の七夕伝説とが結びついてイメージされている。
以下、歳時記に載る天の川の句を引いておく。

 北国の庇は長し天の川・・・・・・・・・・・・正岡子規

 虚子一人銀河と共に西へ行く・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 別るるや夢一筋の天の川・・・・・・・・・・・・夏目漱石

 天の川人の世も灯に美しき・・・・・・・・・・・・沼波瓊音

 草原や夜々に濃くなる天の川・・・・・・・・・・・・臼田亞浪

 銀河より聞かむエホバのひとりごと・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 けふありて銀河をくぐりわかれけり・・・・・・・・・・・秋元不死男

 遠く病めば銀河は長し清瀬村・・・・・・・・・・・・石田波郷

 妻と寝て銀漢の尾に父母います・・・・・・・・鷹羽狩行

 ちちははに遠く銀河に近く棲む・・・・・・・・・・・・上村占魚

 天の川逢ひては生きむこと誓ふ・・・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 乳足りて息やはらかし天の川・・・・・・・・・・・・石塚悦郎

Per_20080813_0414sペルセウス2008

この句とは直接の関係はないが、私はこんな歌を創ったことがある。
(第四歌集『嬬恋』所載)

わがいのちいつ終るべきペルセウス流星群の夜にくちづける・・・・・・・・・・・木村草弥

銀河からの連想であるが、今しもペルセウス流星群の活動の激しい時期である。






月見草ぽあんと開き何か失す・・・・・・・・・・・・・・・文挟夫佐恵
matsuyoigusaaオオマツヨイグサ

    月見草ぽあんと開き何か失す・・・・・・・・・・・・・・・文挟夫佐恵

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)にも

    月見草ほのかなる黄に揺れをればけふの情(こころ)のよすがとやせむ・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。

「月見草」というのは俗称で、月見草というのは別の花である。正しくは「待宵草」という。
南米チリの原産で、わが国には1851年に渡来したという。繁殖力旺盛で、今では海辺や河原、鉄道沿線、河川の堤防などに広く分布する。

太宰治が

<富士には月見草が、よく似合う>

と言ったのも、この待宵草のことである。

いずれにしても、黄色の、よく目立つ花で、私がいつも散歩する木津川の堤防にもたくさん咲いている。
何となく女の人と待ち合わせるような雰囲気を持つ花で、ロマンチックな感じがするのである。

以下に歳時記から句を引くが、みな「待宵草」を詠んだものだという。

 乳色の空気の中の月見草・・・・・・・・高浜虚子

 月あらぬ空の澄みやう月見草・・・・・・・・臼田亞浪

 月見草蛾の口づけて開くなり・・・・・・・・松本たかし

 項(うなじ)一つ目よりもかなし月見草・・・・・・・・中村草田男

 月見草ランプのごとし夜明け前・・・・・・・・川端茅舎

 開くより大蛾の来たる月見草・・・・・・・・高橋淡路女

 月見草はらりと地球うらがへる・・・・・・・・三橋鷹女

 月見草咲き満ち潮騒高くなりぬ・・・・・・・・道部臥牛

 月見草河童のにほひして咲けり・・・・・・・・湯浅乙瓶

 月見草夜気ともなひて少女佇つ・・・・・・・・松本青石

 月見草歩み入るべく波やさし・・・・・・・・渡辺千枝子

 月見草怒涛憂しとも親しとも・・・・・・・・広崎喜子

 月見草夕月より濃くひらく・・・・・・・・安住敦

 月見草馬も沖見ておとなしく・・・・・・・・橋本風車


『高階杞一詩集』・・・・・・・・・・・・木村草弥
高階①

──高階杞一の詩──(8)
      
        『高階杞一詩集』・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・ハルキ文庫2015/08/18刊・・・・・・・・・・

この詩集が著者から恵贈されてきた。 既刊の詩集のアンソロジーである。
一冊の詩集から四、五篇くらいの作品が抄出されている。
高階杞一の詩については ← に書いたので参照されたい。

まず、はじめに巻末に載る谷川俊太郎の「エッセイ」という解説を引く予定だったが、高階さんから著作権の問題もあるから縮めよ、との指摘があり、削ると意味不明になるので、
全文を別の場所に置き、ここには「リンク」として読めるようにした。 → 『高階杞一詩集』付属「谷川俊太郎・エッセイ」
-------------------------------------------------------------------------------
51FDHFHB9VL__SX301_BO1,204,203,200_高階杞一
 ↑ 第五詩集『早く家へ帰りたい』

私がブログに書いた文章の中にも、この第五詩集『早く家へ帰りたい』(偕成社)に触れたものはない。
谷川俊太郎が「エッセイ」の中でも触れているが、この本は他の詩集と違って「リアリズム」風の作品になっている。
おそらく、それだけ死の衝撃が強かったせいかと思われる。
谷川の文章で、ほぼ尽きているいるかと思うが、詩を引いてみる。

    催促
      雄介九ケ月、四度目の手術の前に

  春の土から
  草が萌え出すように
  小さな歯茎から
  小さな歯が二本
  生えてきた

  何か
  噛むものをちょうだい
  まるで催促でもするように

  それにまだ
  応えられないのが
  つらい

   
     

  こどもがはじめて笑った日
  ぼくの暗がりに
  ひとすじの強いひかりがさしこんだ
  生まれてはじめて見るような
  澄んだあかるいひかり
  その時
  ぼくの手の中で
  愛
  という形のないものが
  はじめて〈愛〉という形になった

  そして
  ぼくの〈愛〉はまだ病んでいる
  病院の小さなベッドで
  「苦しい」とか「痛い」とか
  そんな簡単な言葉さえ
  いまだ知らずに


    早く家へ帰りたい (部分)

  旅から帰ってきたら
  こどもが死んでいた
  パパー と迎えてくれるはずのこどもに代わって
  たくさんの知った顔や知らない顔が
  ぼくを
  迎えてくれた
  ゆうちゃんが死んだ
  妻が言う
  ぼくは靴をぬぎ
  荷物を置いて   (後略)
-------------------------------------------------------------------------------
高階氏については → Wikipedia─高階杞一 を見られたい。
残余の詩集については、先にあげた私のブログの「カテゴリ」を見てもらいたい。
この詩集には自筆による詳しい「年譜」が載っており、私生活にも及ぶ高階さんの半生が読み取れる。
高階さんは酒が大好きであられるようで、食道ガンなどの手術を再三なさっている。
これからも頑張っていただかないといけない人だから、節制に努められるようお願いして拙文を終わりたい。
有難うございました。


大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・・・木村草弥
daimonji_map大文字マップ

        大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・・・木村草弥

公式記録の残っていない大文字の送り火
これだけの行事でありながら、大文字の起源や由来について公式記録は残っていない、という。
長らく日本の首都であった京都の行事は、朝廷による公式の記録が残っているが、公的な行事でなかったためか、記録は一切ないという。だから「いつ、だれが、何のために」始めたのか不明である。
因みに「祇園祭」も町衆の祭であったために公式な記録はない、というが運行のための町衆の記録というものがあり、ほぼ解明されていると言えるが、大文字の送り火については、現在までのところ、見つかっていないという。
先のBLOGで「慶長年間」から始まったらしい、というのも、ある人の日記風の記録に大文字見物のことが書かれ、日付があるので、その時点では、もう始まっていたのは確実ということである。
弘法大師がはじめたとか、いろいろの説が出ているのも、そういう事情によるらしい。

掲出の図は大文字の配置図である。直線化して描いてあるので、位置関係を示すものとして見てもらいたい。

苦難の時代
現在では五山で執り行われているが、明治以前には十山で行なわれていたという。
それは、今の五山のほかに、「い」の市原、「一」の鳴滝、「蛇」の北嵯峨、「長刀」の観空寺村、「竿に鈴」の五つである。
明治になり、大文字や祇園祭は迷信であるとして、明治初年から10年間、この両者は禁止された。
その後、再開されはしたが、公的、私的に援助を受けられず、昭和初期までに次々と無くなり、現在の五山となった。

無くなった送り火
無くなった五山とは、先に書いたものであるが、そのうち「竿に鈴」は大正初期まで点火されていたにも拘らず、その場所が一乗寺だったか、静原だったのか、西山(松尾山)だったとか、方角も真反対の場所もあり、もうすでに明らかではなくなってしまった。
人間の記憶というものは、何というあやふやなものであろうか。とにかく「記録」するということが、いかに重要かということになる。
「い」とか「一」とかいうのは点火する火床の形である。漢字で書くと「蛇」になるが北嵯峨のは、蛇がとぐろを巻いた形だったのではないか。
「長刀」というのはナギナタの形、「竿に鈴」は竿の先に鈴がつけてある形であろう。

明治新政権になってからの「皇国史観」強制のための尖兵として強行された「廃仏棄釈」の記録も全く残っていない、という。
薩摩藩は、以前から藩内で、このような政策を取ってきたというが、貴重な仏教美術や彫刻などが外国に流出している。
こういう排外的な新政権の政策に表だって反対することは破滅に繋がるので、みな口をつぐんで、見て見ぬふりをしたものであろう。
この頃にはすでに「新聞」も出ていたと思われるのに、権力を恐れてか、あるいは強力な弾圧があったのか、「廃仏棄釈」に関する記事は報道というか、記録に残っていない。
大文字についても、それに類した弾圧政策に毒されたものであろうか。





燃えさかり筆太となる大文字・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
dai2002大文字

     燃えさかり筆太となる大文字・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子

8月16日には各家庭に還っていた御魂が送り火に送られて、あの世にお帰りになる。
京都では、各家庭で送り火を焚くことはなく、東山の如意ケ岳で行なわれる「大文字」(だいもんじ)の巨大な送り火に代表させて焚くことになる。
この山は通称・大文字山と言われ、多くの奉仕する人々の力によって毎年おこなわれる。
この日は山腹に薪を焚く石の台座が据えられ、薪を井桁に組んで積み上げ午後8時を期して点火する。
この「大」の字は第一画73メートル、第二画146メートル、第三画124メートル。
字画に沿って4メートル間隔に75個の穴を掘り、松の薪を使用する。松は火付きがよいからである。
この行事は慶長年間からはじまったという。
この後に8:10分に松ケ崎の「妙法」、8:15に西賀茂正伝寺の「船形」と金閣寺のうしろ山の「左大文字」、
8:20に洛西曼陀羅山で「鳥居形」の順に間隔を空けて、火をつけてゆく。
京都の街は東山、北山、西山と三方を山に囲まれ、南は加茂川が流れる地形のように開けている。
火は東山から北山、西山と順に移ってゆくのである。掲出した写真のうちに「左大文字」はない。
「左大文字」は「大文字」の真向かいにあたり、字体も「大文字」の反対の書き方と考えてもらえば判りやすい。

myo2002妙

hou2002法

「妙」「法」は横に並んで一体となっている。
これらの山それぞれには別々の「火の講」があり、真剣な宗教的行事のようなものと考えれば理解しやすい。
知らない人は「大文字焼」などということがあるが、これは、あくまでも盆の送り火という宗教的行事であるから、間違った呼び方はしてほしくない。

写真④は「船形」である。
fune2002船形

点火される薪の湿り具合とか、いろんな要素のために火床にも場所によって火の勢いに違いがあり、それがまた趣きのあるところである。
先に言ったように10分から15分づつずらして点火されるから、当然、最初に点火された「大文字」と、後から点火されたものとは火勢に違いが出てくる。
そういう火色の違いを眺めるのも面白いものだ。昔は今のような高層建築がなかったから、市内のどこからでも見られたが、今では高層ビルの屋上でなければ見られない。

torii2002鳥居形

「鳥居形」は愛宕山と言えば分りやすいだろう。曼陀羅山というのは愛宕山の支峰である。
愛宕山は火伏せの神として「火の用心」の神様で、古来、京都市民は交代で月参りをして火災からの鎮撫を祈ってきた山である。
愛宕山の上り口には鳥居が建っており、鳥居形は、それに因んだものかも知れない。
鳥居形が点火されるまでに、この間30分。京の三山は火の色に彩られる。

京都の夏は初夏の葵祭に始まり、七月の祇園祭を経て、このお盆の大文字の送り火で、ひと夏を送ることになる。
千年余の都として、これらの行事は、いずれも大がかりなもので、さすがに王朝の首都としての貫禄に満ちている。
さればこそ、古来、先人たちは詩歌に詠んできたのである。

以下、大文字を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 いざ急げ火も妙法を拵(こしら)へる・・・・・・・・小林一茶

 大文字やあふみの空もただならね・・・・・・・・与謝蕪村

 大文字の残んの火こそ天がかり・・・・・・・・皆吉爽雨

 送り火の法も消えたり妙も消ゆ・・・・・・・・森澄雄

 筆勢の余りて切れし大文字・・・・・・・・・岡本眸

 大文字消えなんとしてときめける・・・・・・・・佐野青陽人

 大文字畦の合掌に映えゐたり・・・・・・・・米沢吾亦紅

 はじめなかをはり一切大文字・・・・・・・・岩城久治

 一画もおろそかならず大文字・・・・・・・・田中千鶴子

 さびしさのことにも左大文字・・・・・・・・藤崎さだゑ
--------------------------------------------------------------------
2007年はNHKが全国に「京都の五山の送り火」を75分にわたって中継の放映をした。
この送り火が宗教行事であること。また、これを維持管理するのに、各送り火ごとに特色のあること、などを採り上げた。おおむね妥当な、いい放映だった。
また地元の京都新聞夕刊は、同年の8/6~11まで「五山の送り火」と題する特集記事を6回にわたって掲載した。
内容はNHKが解説で採り上げたのと同様だったが、「火」を支える「人」の面から詳しく取材されて、時宜を得たいい記事だった。

先年起こった東日本大震災で二万人にのぼる人が命を落したので、その鎮魂の意味をこめて大文字の送り火を拝したことである。


無音の谷ひとすじ 川遊びから戻ると戦争に負けていた・・・・・・・・・藤原光顕
db21a112cc944aff6e3b61e7c5540d90敗戦日
 ↑ 敗戦後の「焼け跡」

       無音の谷ひとすじ 
          川遊びから戻ると戦争に負けていた・・・・・・・・・藤原光顕


今日は、昭和二十年八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏して、第二次世界大戦が終結した日である。
今しも、A級戦犯・岸信介を祖父に持つ安倍晋三が「ポツダム宣言」「戦勝国・連合国」「敗戦国条項」などに異論を唱えて、素直に戦争責任を認めず、特にアジアの近隣諸国から非難を浴びている。
マスコミの名前を出して失礼するが、
七月下旬の「京都新聞」は、五十五年前の「安保」成立の頃の総理大臣・岸信介の名前を挙げて、「安倍晋三は自身を岸信介になぞらえて自己陶酔している」と評した。
まさに的確な言質というべく、敢えて、ここに引いておくものである。


戦後70年経ったからと言って、日本が近隣諸国を侵略し、何百万人の命と財産を奪い、大きな損害を与えたことは消し難い、厳然たる事実である。
「絶対的平和主義」なんていう意味不明の言辞を弄して、責任の所在について、素直に謝ろうとしないのは、愚の骨頂である。
歴代首相たちが表明してきたことを、そのままの言葉で踏襲したらいいのである。
何らかの「目新しい言辞」を作り出すことなど不必要なのである。
70年という年月は長いようであっても、侵略された国にとっては一瞬のことなのであり、忘れ難い年月なのである。
八十五年生きた私からすると、艦載機の機銃掃射に逃げまどった戦争末期の出来事は、つい昨日のような思い出なのである。
当時、私は中学三年生だったが、授業は一切なく、学徒動員で軍需工場で旋盤工としてロケット弾を削ったりしていた。
もはや日本軍には制空権はなく、日本近海には多数のアメリカの航空母艦が居て、そこから発進する艦載機が飛びまわって爆弾を落とし、機銃掃射を浴びせてきた。

戦中、敗戦後の苦労も知らない戦後生まれの「お坊ちゃん」に、とやかく言われて近隣諸国と無用の摩擦など、やってほしくないのである。
今しも中国の「覇権主義」が尖閣諸島や南国で事件を引き起こしている事実はある。 摩擦も起こっている。
さればこそ、無用の摩擦を事前に防ぐためにも「仲良く」して関係を良くしておく必要がある。それが「外交」というものではないのか。
祖父の岸信介が今の日米安保体制を作った。だから孫である私・安倍晋三が、祖父に並び称される「新」安保を成立させて歴史に名をとどめたい、というのが彼の心中だろう。
先に引用した京都新聞の「自己陶酔」云々という意味は、そういうことであろう。

安倍の評判は悪く、支持率も急速に下がっているので、最近は極めて慎重な言動に終始している。
「戦後七十年談話」も、村山富市などの「お詫び」の文言を談話の中に書き込むことになった。
しかし文面はずらずらと長たらしいもので、率直な「お詫び」の文章にはなっていない。「お詫び」も「引用」であって、彼自身の「お詫び」の言葉は、無い。お詫びの「主語」が無い。
中韓との関係を今以上に悪化させることは避けなければならない。
ともあれ敗戦の日を前にして「談話」が出されたことは、先ずはよかったとしよう。
言いたいことはたくさんあるが、最低限にとどめて、敗戦あるいは終戦について詠まれた句を引いて、戦没者のご冥福を祈り、近隣諸国にはお詫びの一日としたい。

掲出した歌は「芸術と自由」誌No:301─2015/7月号に載るものである。
私が敬愛する藤原氏は1935年生まれ、本年で満80歳になられる。
日本が戦争に負けたときは「少年」であった。本作は、そのときの「敗戦」記である。「自由律短歌」である。
敗戦記念日である今日に、敢えて掲載する意味を汲んでもらいたい。


  堪ふる事いまは暑のみや終戦日・・・・・・・・及川貞

  朝の髪一つに束ね終戦日・・・・・・・・菖蒲あや

  木々のこゑ石ころのこゑ終戦日・・・・・・・・鷹羽守行

  いつまでもいつも八月十五日・・・・・・・・綾部仁喜

  高館は雨のくさむら終戦日・・・・・・・・石崎素秋

  敗戦記念日の手花火の垂れ玉よ・・・・・・・・三橋敏雄

  敗戦日少年に川いまも流れ・・・・・・・・矢島渚男

  敗戦忌燃えてしまった青年ら・・・・・・・・北さとり

  この空を奈落より見き敗戦日・・・・・・・・岡田貞峰

  初心ありとせば八月十五日・・・・・・・・小桧山繁子

  敗戦忌海恋ふ貝を身につけて・・・・・・・・山本つぼみ

  終戦忌声なき声の遺書無数・・・・・・・・以東肇

  海原は父の墓標や敗戦忌・・・・・・・・中村啓輔

  終戦忌何も持たずに生きてきて・・・・・・・池田琴線女

  荼毘のごと燃やす破船や終戦日・・・・・・・・野村久子

---------------------------------------------------------------------------------
掲出した藤原作品に照応するものとして、矢島渚男の句が、きらりと屹立している。
当該句はゴチック体にしておいた。



資料『高階杞一詩集』付録「谷川俊太郎・エッセイ」
     資料 『高階杞一詩集』付録「谷川俊太郎・エッセイ」

   エッセイ

         ずっと ずっと  いっしょ       谷川俊太郎

今日は一日外での用事がないので、うちでゆっくり高階さんの詩を読んでいる。する
と何だか終わりのない変奏曲を聴いているような気持ちになってくる。バッハの「ゴル
トベルク」やべートーベンの「ディアベリ」やレーガーの「モ—ツァルトの主題によ
る」など、ぼくは変奏曲という形式が好きで、人生そのものが日々の暮らしという変奏
によって成り立っているのではないかと思うほどだけど、じゃあ元になる主題は何かと
問われると、困る。
人生のテーマは愛であると言う人、信じることだと言う人、魂の進化と言う人などい
ろんな言い方があるけれど、それを言葉で名付けることはほんとは出来ないんじやない
かな。高階さんの詩についても同じことが言えて、その繊細な変奏の元になるものを名
指そうとしても、音楽なら譜面に書けるかもしれないけれど、言葉の明示的な意味では
とらえることが出来ない。
初めっから高階さんは書いている。〈忘れていることが/憶いださなければならない
ことが/何かあるような気がしてくる> (「石像」)、これはぼくが〈何かとんでもないお
とし物〉(「かなしみ」)と書き、朔太郎が〈のすたるぢや〉と言い、中也が〈名辞以前〉、
賢治が〈無意識即〉と書いたのに通じる心の動きなんじゃないかと思える。
そういう生きることの素が気になるのは、何も詩人に限らない。詩なんかに無関心で
暮らしている人たちだって、(特に若い人は)ふっと自分がどこから来てどこへ行くの
かなんて考えることがあるだろう。でもほとんどの人はそんなことは世間での生活に、
日々の喜怒哀楽に紛れてすぐ忘れてしまう。高階さんだってお勤めの場では忘れている
かもしれない。でもドローン(無人で空飛ぶ奴じゃなくて、音楽の持続低音のほう)の
ように、心の深みに途切れずに続いている響きは、いったいどんな言葉になって出現す
るのか。

   二日に一度
   この部屋でキリンの洗濯をする  (「キリンの洗濯」)


   ゆうゆうと
   夕焼けは焼けて
   なくなった       (「ゆ」)

   忘れ物をした電球が
   犬を連れて帰ってくる     (「電球」)

日常会話の言葉とも、法律や契約の言集とも違うとんでもない言菜がどこからか湧い
てくる、それが詩の言葉だ。だけどその言葉は見かけはそうは見えなくても、私たちの
毎日の生活と地続きなのだ。平成六年九月、高階さんは三歳の息子、雄介くんを亡くし
た。この苦しい経験を髙階さんは詩に書いて他者と分かち合い、そうすることで自身の
内面で深めようとしたと思う。それは言語をもった人間という生きものの本能みたいな
ものだった。
「早く家へ帰りたい」と題された作は、平明な行分け散文で書かれていて、他の作に出
てくる〈とんでもない言葉〉はひとつもない。高階さんは意識してそういう文体を択ん
だのではないと思う。ぼくも「父の死」という作で気がついてみたら自然に、同じよう
な文体で書いていたことがある。死という曰常的な現実でありながらそこからはみ出す
出来事は、それ自体が詩的と言っていい深さをもっているから、かえって散文的な表現
を作者に求めるのではないかとぼくは思う。死という事実にひそむ詩は、事実に即した
散文によってかえって明らかになるという逆説。
今日は土曜日のせいか電話もファックスもほとんどない。窓の外に眼をやると、あじ
さいがほころびかけている。チャイを淹れて一休み。去年、癌の手術をしたと年譜で読
んだから、高階さんはどうしてるかなあと思う。子どもを亡くした悲しみよりもっと前
からあった哀しみ、この世では癒されようもない、あの世にまで続いているかのような
哀しみ……。
たとえばハ口ーワークへ行っても仕事がなかった杜子春、イヌにもキジにもサルにも
死なれてもうすることがない桃太郞、「靴がない/病院に忘れてきた」という新参の死
物の父、——─パパさん、おやつをちようだいと言い、やらないとひっくりかえって泣く
犬、高階さんは悲しみをユーモアに翻訳(?)することで、ささやかなカタルシスを自
分と読者にもたらす。
活字で読んでいても詩から声が聞こえてくるのが高階さんの詩だ。その声は彼の暮ら
しの中での肉声とつながっている。〈ずっとずっといっしょだよ〉という一行が、
「夏の散歩」の中で他の行とは違う組み方をされているのを読むと、レトリックとは無
縁のこの言葉が、まるでぼくがぼく自身の愛する存在に向かって囁いた言葉であるかの
ように胸に迫る。
自分という一個人から書き始める高階さんの詩が、かつての私小説のような狭さに陥
らず、〈ずっといっしょ〉への切ない魂のひろがりを保っているのは、詩という形式の
おかげではないかとぼくは思う。

    愛
    という形のないものが
    はじめて〈愛〉という形になった       (「愛」)

    からだの形を失った後も、〈愛〉は言菜の形を得てよみがえる。


そろそろ自然の光が人工の光に変わる時間だ。今日はこれでマックを閉じよう。
高階さんにぼくの近況を伝えて。


    高いところが苦手になった
    階段から転がり落ちる心配が
    杞憂どころじやなくなって
    一か八かで上がったり下がったり

  二〇一五年五月             (たにかわしゅんたろう/詩人)
雑念満ちゐたりいちじくを開き食ふ・・・・・・・・・・・・・・桂信子
72737_20050930213531いちじく

       雑念満ちゐたりいちじくを開き食ふ・・・・・・・・・・・・・・桂信子

無花果(いちじく)はアラビア原産で、江戸時代に日本に入ってきたという。
私の住む辺りでも、田圃に畔(くろ)を作って土を盛り上げ、無花果を作っている。無花果と書くが、花がないわけではなく、これは中国名のインジェクフォが訛って、こうなったという。
イチジクの木は放置すると3メートルから6メートルにも達する落葉喬木であるが、
日本では栽培する木は収穫し易いように1メートルくらいの高さで枝を横に整枝する。
実は新しい枝に生るので、冬には徹底して旧徒長枝を切り詰める。

fig11いちじく木②

写真②のように多くの実が生るが、生育のよいものを残して摘果する。八月頃から実が熟しはじめ10月頃まで生る。軟弱果実であり、痛み易い。
アラビア原産ということだが、アダムとイブが蛇にそそのかされて「禁断の木の実」を食べたというのが、このイチジクである。
事実、中東ではイチジクが多い。向うも暑い土地なので、生食というよりも「乾燥いちじく」として多くが売られている。

itijikuzaruドライいちじく

写真③が乾燥させたイチジクである。ギリシア、トルコ、イスラエルなどに行くと、いたるところで売られている。
フニャフニャに柔かくはなく、噛み応えのあるドライフルーツである。日本にもドライいちじくの形で輸入されている。
品質にはピンからキリまであり、一流の取り扱い店のものは、おいしい。私も向うへ行ったときは何度も買って帰った。
なお、中東産のドライいちじくは皮の色が白い品種で、日本でみられる皮の黒いものとは品種が違うので念のため。

私の歌にも、こんなのがある。  ↓

   星に死のあると知る時、まして人に快楽(けらく)ののちの死、無花果熟す・・・・・・・・・木村草弥

この歌は、私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、Web上でもご覧いただける。

d020701aいちじく

写真④が箱詰めされて商品として出荷される生イチジクである。生食としては1、2日しか日持ちしない。
熟しすぎたものはいちじくジャムとして食べても、おいしいものである。

以下、歳時記から無花果の句を引いて終りにする。

 無花果の古江を舟のすべり来し・・・・・・・・高浜虚子

 乳牛に無花果熟るる日南かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 いちじくのけふの実二つたべにけり・・・・・・・・日野草城

 無花果のゆたかに実る水の上・・・・・・・・山口誓子

 天地(あめつち)に無花果ほどの賑はひあり・・・・・・・・永田耕衣

 雑念満ちゐたりいちじくを開き食ふ・・・・・・・・桂信子

 蜂が吸ふいちじく人は瞬時も老ゆ・・・・・・・・細見綾子

 無花果や目の端に母老いたまふ・・・・・・・・加藤楸邨

 無花果や永久に貧しき使徒の裔・・・・・・・・景山旬吉

 無花果にパンツ一つの明るさ立つ・・・・・・・・平畑静塔

 無花果食べ妻は母親ざかりなり・・・・・・・・堀内薫

 日本海黒無花果に無言なり・・・・・・・・黒田桜の園


挑みゐし青蟷螂の眼なりけり・・・・・・・・・・・・・・・石塚友二
020925ookamakiri3.jpg

        挑みゐし青蟷螂の眼なりけり・・・・・・・・・・・・・・・石塚友二

「かまきり」蟷螂(トウロウとも音読みで発音する)は、頭は逆三角形、眼は複眼で上辺にあり、下辺の頂点が口である。
前胸に前翅後翅があり、後翅で飛ぶことが出来る。前脚が鎌のようになっていて、獲物を鋏み込んで捕らえる。
動くものには飛びつく性質があり、自分より大きなものにも飛びかかる。
「蟷螂の斧を振るう」という古来の表現そっくりの習性である。
掲出の石塚友二の句は、そういうカマキリの生態の特徴を巧みに表現している。この句の場合は蟷螂=「とうろう」と訓(よ)む。
010909m02かまきりイラガ食べる

写真②はカマキリが「イラガ」の幼虫を捕まえて食べようとしているところ。
菜園などをやっているとよく分るが、カマキリは害虫をもりもり食べてくれる益虫である。
写真の「イラガ」は毒を持っており、それに刺されると痛くて皮膚が腫れあがるが、カマキリには、そんな毒も役に立たない。
もりもりと片端から食べつくしてしまう。雄と雌が交尾する時も、交尾の最中でも雄の頭や胸を食べながらやることがある。
交尾が終ると雄は体全部が食べられてしまう。
img021かまきり雌

写真③は交尾が済んで腹に卵をたくさん抱えた雌である。産卵は秋が深まってからであるが、それまで、もりもりと虫を捕らえて食べる。
雄は、もう雌に食べられて居ないが、雌の命も一年かぎりである。木の枝などに、泡のような卵胞の中に卵をきちんと、たくさん産む。
そのまま冬を越して、初夏に小さなカマキリの子供が、わっと集団で孵化する。
いかにカマキリといえども、幼いうちは他の鳥などについばまれて食べられ、生き残ったものが八方に散って虫を捕らえて大きくなるのである。
幼い小さなカマキリは、いとおしいような健気な姿である。
写真④のカマキリは、まだそんなに大きくない頃のものである。
b332ec94786d68072a29e1505c142c4dかまきり

以下、蟷螂を詠んだ句をあげておきたい。

 風の日の蟷螂肩に来てとまる・・・・・・・・篠原温亭

 かりかりと蟷螂蜂の皃(かほ)を食む・・・・・・・・山口誓子

 蟷螂のとびかへりたる月の中・・・・・・・・加藤楸邨

 かまきりの畳みきれざる翅吹かる・・・・・・・・加藤楸邨

 蟷螂は馬車に逃げられし御者のさま・・・・・・・・中村草田男

 胸重くあがらず蟷螂にも劣る・・・・・・・・大野林火

 突張つてゐる蟷螂を応援す・・・・・・・・片桐てい女

 蟷螂の腹をひきずり荷のごとし・・・・・・・・栗生純夫

 蟷螂の枯れゆく脚をねぶりをり・・・・・・・・角川源義

 蟷螂の祷れるを見て父となる・・・・・・・・有馬朗人

 いぼむしり狐のごとくふりむける・・・・・・・・唐笠何蝶

 蟷螂の天地転倒して逝けり・・・・・・・・古館曹人

 秋風や蟷螂の屍骸(むくろ)起き上る・・・・・・・・内藤吐天



フォントネーのシトー会修道院・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Abbaye_de_Fontenay-EgliseBatimentsフォントネー修道院
 ↑ フォントネー修道院
Fontenay20フォントネー中庭の回廊
 ↑ フォントネー修道院 中庭の回廊

──巡礼の旅──(17)再掲載・初出2013/08/17

     フォントネーのシトー会修道院・・・・・・・・・・・木村草弥

フォントネー修道院はブルゴーニュ地方コート=ドール県モンバール市内にある修道院。
サン=ベルナール渓谷とフォントネー川の合流点にあたる森の中で静かにたたずむ最古のシトー会修道院で、外観・内装とも華美な装飾性を一切排している。

フォントネー修道院は1118年にクレルヴォーのベルナルドゥスによって設立され、1147年にローマ教皇エウゲニウス3世によって聖別された。
教皇アレクサンデル3世は、1170年の勅書において修道院の財産を確認し、修道士たちが選挙によって修道院長を選出することも許可した。
この頃に修道院では、近隣で採れる鉱物を用いた製鉄業や冶金業が発達した。

1259年にはフランス王ルイ9世があらゆる収税権を免除した。
1269年には修道院は王国修道院 (l'abbaye royale) となり、ジャン2世、シャルル8世、ルイ12世らも寄進を継続した。
こうした王家の保護にもかかわらず、ブルゴーニュ地方を荒らした数度の戦乱の折には略奪の憂き目にも遭った。
それでも16世紀までは伸長する諸勢力から恩恵を受けつつ発展した。
しかし、王家の利益となるように修道院長選挙の廃止が強制されたことで、修道院の凋落が始まった。
18世紀には、修道士たちは資金的な遣り繰りに窮し、食堂を取り壊さざるを得なかった。
そしてフランス革命中の1791年には、修道院は敷地ごとクロード・ユゴーに78000フランで売却され、以降100年ほどの間、製紙工場に転用されていた。
なお、1820年に所有権はモンゴルフィエ兄弟の一族であるエリー・ド・モンゴルフィエに移った。

1906年にはリヨンの銀行家で芸術愛好者だったエドゥアール・エイナールの手に渡った。
彼は1911年までかつての修道院の姿を取り戻させるべく修復工事を行い、製紙工場も解体した。
フォントネー修道院は現在でもエイナール家の私有物ではあるのだが、主要部分は観光客にも公開されている。

観光客に公開されている部分

Fontenay30フォントネー付属教会
 ↑ 修道院付属教会
これは1127年から1150年に十字形の設計に基づいて建築されたものである。
長さ66メートル、幅8メートルで、翼廊は19メートル。幅8メートルの身廊は両側に側廊を持っている。
拱廊(アーケード)はシトー会則をうっすらと刻んだレリーフの付いたランセオレ様式の柱頭を持つ柱に支えられている。
内陣は正方形で身廊よりも低い。中世には、正面入口はポーチに先行されていた。

800px-Fontenay_church_maryフォントネー聖母子像
 ↑ 内部では12世紀の聖母子像が目を惹く。
これはもともと隣接するトゥイヨン村の墓地で長く野ざらしになっていたものである。
聖母は左手で幼子イエスを抱え、イエスは右手を母の首に回し、左手で翼を拡げた鳩を胸に押し抱いている。

その他内部にはこのほかに特筆すべきものはない。
オリジナルのスタール(背の高い椅子)は湿気で劣化してしまったため、それへの対策として18世紀末には床から1メートル近く持ち上げなければならなかった。

Fontenay25フォントネー参事会内部
 ↑ 教会参事会室
付属教会を別とすれば、修道院生活の中で最も重要なものである。ここではベネディクトゥスの戒律の一章を朗誦したあとに共同体に関する決定がなされた。
この部屋は中庭回廊の東の通路に面している。もともとはオジーヴ穹窿をもつ3つの大きな梁間から形成されていたのだが、3つ目の梁間は1450年頃の火災で焼失した。
なお、20世紀初頭には参事会室と面会室 (parloir) を仕切っていた隔壁が取り壊された。

修道士部屋
回廊東側通路の参事会室からさらに南(付属教会から見て遠い方)に足をのばすと、修道士部屋 (Salle des moines) がある。
ここでは写本の作成などが行われていたと推測されている。この部屋の長さは30メートルで、6つの梁間を形成する12のオジーヴ穹窿で覆われている。

Fontenay34フォントネー寝室
 ↑ 修道士寝室
寝室は参事会室の2階にある。そこへ行くには20段ほどの階段を使う。ここは15世紀に火災に遭った後、現在の船体をひっくり返したような骨組みの部屋になった。
ベルナルドゥスの戒律は、個室を認めておらず、また、床に直にわら布団を敷いて寝る事を課した。

Fontenay11フォントネー鍛冶場
 ↑ 鍛冶場
敷地の南端に、オジーヴ穹窿に覆われた縦53メートル、横30.5メートルの建物がある。
これは12世紀に修道院が保有する丘陵から採取される鉱石を利用するために建てられた。
フォントネー川の流れを変えて、槌を動かすための水車を回すようになっていた。
----------------------------------------------------------------------------------
ここは深い森の泉のほとりにあるが、今も泉は絶えることなく溢れている。
森の中の清明な空気と、湧き出る新鮮な泉は彼ら修道士の生活と精神を養い、活力を維持するのに必要だった。
水の便は常に重要視されるが、水は飲み水と同時に、水流によって鍛冶工場の作業の動力として必要だった。

しかも「泉」は、その本義上、絶えず新たにされる信仰の比喩である。
「フォントネー」とは「泉」フォンテーヌに語源を持ち、「泉に泳ぐ人」という意味である。身体論的にも清らかさを感じさせる。

ただ単に見物するだけでなく、こういうことにも意を尽くして見学したいものである。


陽が射せばトップレスもゐる素裸がティアガルテンの草生を埋む・・・・・・・・・・・・木村草弥
BERLIN~1
800px-Berlijn_tiergarten_park.jpg

    陽が射せばトップレスもゐる素裸が
          ティアガルテンの草生(くさふ)を埋む・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は最新刊の私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。
「ティアガルテン」とは、ドイツの首都・ベルリンの中心部に広がる広大な公園で、掲出写真二枚のようなものである。
プロイセンの頃は、王族の狩猟地だった。
写真①のロータリーの真ん中に立つのが「ジーゲスゾイレ」というプロイセンの勝利の塔であり、ここに上るとベルリンが一望できる。
Wikipediaには、次のような記載がある。

<大ティーアガルテン (Großer Tiergarten) はベルリン中心部、ミッテ区のティーアガルテン地区に位置する広大な公園。

単に「ティーアガルテン」といった場合には、この大ティーアガルテンのことを指す場合が多いが、同じくミッテ区のモアビート地区にもティーアガルテンという名の公園があるため、ティーアガルテン地区のものには「大」を、モアビート地区のものには「小」を冠して区別している。

総面積は210ヘクタールで、これはロンドンのハイド・パーク(125ヘクタール)やニューヨークのセントラルパーク(335ヘクタール)と並ぶ規模である。

かつては王家の狩猟場だった。1818年からと1832年-1840年の2回、造園家ペーター・ヨセフ・レンネによって現在の形に整備される。中心部に戦勝記念塔が建ち、公園内を6月17日通りが通る。西にエルンスト・ロイター広場、南西にベルリン動物園、東にブランデンブルク門がある。>

同じ歌集には、掲出の歌につづいて

  半年の長き冬なれば夏の間は陽に当らむと肌さらしゐつ

  湖と森の都のベルリンは<ゲルマニアの森>の逸話おもはす
・・・・・・・・・・・木村草弥

の歌があるので一体として鑑賞してもらいたい。

広大な森だが、ところどころに広い草生があり、夏の間は市民たちが、こぞって真裸になって「日光浴」をする。そんな写真をいくつか出しておく。 ↓

mm20120524101230_145044581日光浴
38f951d3-s.jpg
20071203_Kate_Moss_Bikini_Mexico_Tits5s.jpg

ベルリンは東西ドイツに分かれていたときは「東ドイツ」に属していたので、長らく開発から置き去りにされてきたが、東西が一体化されて、ドイツの首都となったので、
以後の変貌は著しいものがある。
今回の拙歌集『昭和』に載せたのは「ベルリンの壁崩ゆ」──1990年夏── というものであり、ベルリンの壁が崩された1989年の翌年の夏の紀行が基になっている。

この項目のはじめに

  金髪のビルギュップ女史きらきらと腋毛光らせ「壁」さし示す

  金色の腋毛光れりベルリンの壁跡指して苦難は言はず
・・・・・・・・・・・・木村草弥

の歌があるが、今どきならば、こんな光景はあり得ないが、当時は特に共産圏では「腋毛」を剃るという習慣はなかったのである。
西欧においても、パリなどでは「男の腋毛は良くて、女の腋毛は剃れ、なんておかしい」という運動さえあったのである。
この歌に登場するビルギュップ女史は、私たちのツアーのガイドなどなさっていただいたが、東欧華やかなりし頃は、政治家や学会などの重要な会議の通訳などをされたらしい。
世が世ならば、われわれ下々のツアーのガイドでお茶を濁すような人ではなかったのだが、東欧が崩壊して、仕事が無くなったので、働いておられるのだった。
私はベルリンには、数年後にもう一度行ったが、そのときはベルリンは大改造中で、歌集の中にも歌を載せた「パラストホテル」という東ベルリン有数の名ホテルも解体中だった。
「パラスト」というのは英語でいうと「パレス」宮殿の意味で、旧プロイセンの王宮の跡に建っていた。
つまりパレスホテルということなのであった。当然このホテルは東欧、東独のトップクラスの要人たちが屯するホテルだったようで、その「悪しき」権力のイメージが付き纏い、
なんども経営母体を替えたようだが、解体のやむなきに至ったらしい。
その、まさに解体最中のときに私の二回目のツアーが遭遇して、大きなショックを受けたことを、今も覚えている。
同じ一連に載る

  ヒロシマの原爆ドームのごとくしてウィルヘルム教会廃墟を残す・・・・・・・・・木村草弥

という教会も、歌集を読まれた三浦好博氏の手紙によると、「廃墟」ではなくて、最低限の補修をして「記念堂」として機能しているという。
今の写真を、下記に。 ↓ 右側のノッポの塔のようなのが「新」教会。

379PX-~1

事ほど左様に、ベルリンの変貌は著しい。

  「ベルリンの壁」とり去りて道となす傍に煤けし帝国議事堂・・・・・・・・・・木村草弥

と詠んだ議事堂も、二回目に行ったときは改修されて「新」ドイツ議会として、新たにドームも付加されたりして観光客を迎えていた。
どれもこれも、浦島太郎のような心境に陥る変貌ぶりであった。 ↓ 今の写真を出しておく。
1280px-Reichstag_panoドイツ国会議事堂

ここは1930年代に、ヒトラーが共産党に罪をなすりつけようと「放火事件」をデッチあげたことで有名だったが、敗戦、東西ドイツ分断などで放置されていた。
それらの経緯が、私の歌からも読み取れよう。

そういう意味でも、 この一連は私にとって「記念碑的な」ものと言えよう。歌集に敢えて収録した所以である。


サン=マルタン・デュ・カニグー修道院・・・・・・・・・・木村草弥
450px-Saint_Martin_du_Canigou_04カニグー修道院
 ↑ カニグー修道院 俯瞰
DSC_0136カニグー回廊中庭③
 ↑ 回廊中庭─花が咲いている
DSC_0143カニグー修道院回廊①
 ↑ 回廊
DSC_0142カニグー回廊②
 回廊の柱頭彫刻
DSC_0131-08154カニグー回廊④
 ↑ 柱頭彫刻の「サロメの舞い」とは、修道院生活とどう関連するのか

──巡礼の旅──(16)再掲載・初出2013/08/15

     サン=マルタン・デュ・カニグー修道院・・・・・・・・・・木村草弥

山頂あるいは山上ちかくに建てられる修道院もある。
ニーチェが信仰は別として <私はそこに座ってもっともよい空気を吸った。ほんとうに天国の空気を。>と言ったような僻地のことである。

サン=マルタン・デュ・カニグー修道院 (フランス語:Abbaye Saint-Martin du Canigou、)は、フランス、ピレネー山脈にあるカトリック教会の修道院。
短縮してカニグー修道院とも呼ばれる。ピレネー=オリアンタル県の小さなコミューン、カストイユに属する。
修道院はカニグー山の岩がちな尖峰の奥に佇んでいる。1889年、フランス歴史記念物に指定された。

この修道院はサルダーニャ伯ギフレ2世の発案によって設置された。初めて文献に登場するのは997年であり、このころには建設工事が始められていたと考えられる。
これ以降に夥しい数の寄進が行なわれており、建設が間断なく着実に行われていたことを示している。

教会は1009年11月10日、エルヌ司教オリバによって聖別され、聖母マリア、聖マルタン、聖ミシェルへ献堂された。
そのしばらく後に聖ゴデリックの聖遺物を授かっている。これに際して修道院と教会堂が拡張され、再び聖別された(正確な年代は未詳であり1014年か1026年とされる)。サルダーニャ伯ギフレ2世はこの修道院で余生をおくり、1049年に没した。

しかしながらこの修道院の衰えは早く、早くも12世紀にはサント=マリー・ド・ラグラス修道院(オード県ラグラス)に併合された。
この併合は摩擦の原因となったが、これは最終的にローマ教皇の仲裁により解消されている。しかし修道院は回復の困難なほどの衰退に陥ることとなった。

またカタルーニャ地方に多くの爪痕を残した1428年2月のカタルーニャ大地震により深刻な被害を受け、教会はどうにか破壊を逃れたものの多くの建物が破壊され、鐘楼は先端が損なわれた。修復にはアルヌ司教座が動員されたものの財力が不足しており、再建工事は非常に長引くこととなった。

1506年に修道院はフランス王家の管理下に置かれ、1782年、ルイ16世によって教会財産は国有化された。

フランス革命後の恐怖政治時代、最後の修道士らが追放された後で修道院は閉鎖され、修道院内の財物は四散した。その後、建物の石材は周辺住民によって建設資材として転用され、回廊の柱頭や彫刻・家具などは持ち去られた。

修道院の再興は20世紀初頭を待たねばならなかった。
1902年にカタルーニャ人であるペルピニャン司教ジュール=ルイ=マリー・ド・カルサラード・デュ・ポン(Jules-Louis-Marie de Carsalade du Pont)が再建に着手したが、この時点では鐘楼、一部崩壊した教会堂、および下層部回廊の3歩廊しか満足に残されていなかった。この再建作業は1932年までかかることとなる。
1952年から1983年にかけて司祭ベルナール・ド・シャバンヌが修道院の修復工事を行い、宗教生活を復興した。

いずれにしても、ここはベネディクト会系の修道院であり、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の途中にあるのである。
交通の不便な山奥で、バスなどの便もないのだが、熱心なツアー客が、遠く日本からもやってくるのである。


樹々の記憶を求めて ここは何処?自由というのは怖い・・・・・・・・・・・・・木村草弥
樹々の記憶0001

      樹々の記憶を求めて ここは何処?
        自由というのは怖い・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた一連の一行である。
以前から何度も『樹々の記憶』から引用してきたので、この本について書かなければならないと思って、今回は、この本を採り上げる。
掲出した写真がカバー装丁である。写真は娘・ゆりから提供してもらった。
では、この一連を引用する。

  樹々の記憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

瞬間(とき)の迷路を辿れば ここは何処?地平線まで歩いてゆこう

月は動き続け波はうねり続け わたしは歩き続けよう

柔らかな言葉が織り成ししなやかな波が引いてゆく 夢ではない

時を紡ぐ糸から手を放し 道は一つ曲がり角ではよく考えて

新月に導かれるまま夢の森へと それが私の生き方になるかも

樹々の記憶を求めて ここは何処?自由というのは怖い

私はどこから来たか 今ここにいる私という希望と自由

夢を約束できる人などいない 「時」は絶望を与えることもある

思い出されるのは楽しいことばかりではない 樹々の記憶は遠く

<日々これが己に輝く最後と信ぜよ>聖なる警句に従って生きよう


-------------------------------------------------------------------------
エンヤ



この「樹々の記憶」という題名は、丁度その頃聴いていたアイルランドの歌姫・エンヤのCDのアルバムが 「The memory of trees」 というのであり、
そこから借用したものである。このアルバムの歌詞からも多くの示唆をえている。
厳密に言うと、エンヤのアルバムの場合、このアルバムに限らず、歌詞はニッキー・ライアンとその妻・ローマの力によるものが多いようである。
ケルトの旋律を世界中に知らしめたのは何と言ってもエンヤの力である。
エンヤの音楽は聴き手である我々に、深いイマジネーションを喚起する。
解説者によると、これは「ケルト的叡智」に発するものだと言ったりする。
アルバムに添えられた歌詞の原文を見ると、ケルト語(ゲール語)らしきものが書かれており、それらの響きが我々をケルト的な雰囲気にひたらせるのであろうか。
因みに、エンヤのことについて少し触れておく。

1962年にドニゴール州グウィードアに生れたエンヤは芸名を<enya>と表記するが、本名はEithne Ni Bhraonain と綴ってエンヤ・ニ・ブレナンと発音する。
Ni は~家の娘という意味を持ち、つまり「ブレナン家の娘エンヤ」というわけである。
エンヤの父親がパブをやっているとかで、先年アイルランドに行く機会があったので聞いてみたが、私たちのツアーのルートからは相当離れていて、無理だった。
このことは紀行文「タラの丘に還る─アイルランド紀行」にも書いた。

私の詩の、この一連は、およそ楽しい雰囲気のないものに終始しているが、この本を出した頃も妻の体調がよくなく、そういう私の憂愁が全体に流れている。
それに「自由というのは怖い」というようなフレーズは、その頃、自由律歌人と言われる人たちと付き合いはじめた私だが、
彼らの作品が詩としての「韻律」から遠いことに幻滅し、「自由律というのは詩としての韻律を離れれば、ただの散文になってしまうぞ」
という私からの強烈なメッセージをも秘めているのである。
だからこそ「自由というのは怖い」という表現になっているのである。
こういう私の発するメッセージに気づいてくれる人がいなくて、歯がゆい思いをしていた頃である。

エンヤの曲は書き物をしたりしている時にも、BGMのように流しながら物を書いても差し支えがなく、私の友人のフランス文学者のT君なども推奨していた歌姫である。
このエンヤのCDと私のこの本は、私の中で一時代を形作るものとして、私の中に深く根ざしている。





秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・・・・・・・・藤原敏行
FI2618441_5E.jpg

     秋来ぬと目にはさやかに見えねども
        風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・・・・・・・・藤原敏行


今日は「立秋」である。
この歌の詞書(ことばがき)に「秋立つ日によめる」とあるように、立秋の日に詠んだ歌である。
現実には、まだまだ暑い夏だが、二十四節気では、もう「秋」に入ることになる。
「風」のほんのかすかな「気配」によって秋の到来を知る。
この事実を詩にしてみせたことが、季節感に敏感な日本人の心に強くひびきあって、この歌を、今につづく有名な歌として記憶させて来たのである。

FI2618441_4E.jpg

この歌は『古今集』巻4・秋の歌の巻頭歌である。
藤原敏行朝臣という人が権力的にはどういう地位にいた人か、私は詳しくないが、この一首で後世に名を残すことになった。

『古今集』は「夏歌」の最後を凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の次の歌でしめくくっている。

  夏と秋と行きかふ空のかよひぢは かたへすずしき風やふくらむ

この歌には「みな月のつごもりの日よめる」の詞書がついている。
夏と秋とがすれ違う情景を空に一筋の季節の通路を想像して詠んだ歌である。
夏の終りの日に、片側の道から夏が過ぎ去ると、その反対側からは涼しい秋風が吹き始めてすれちがってゆくだろうか、と空想している歌であるが、
現実の季節はまだ暑さの中にあったろう。しかし暦の上では、すでに秋が来ている。

先に書いたように『古今集』の「秋歌」の最初は、それを受ける形で、掲出の藤原敏行朝臣の歌で始まるのである。
このように目に見えない風が、目に見えない秋を運んでやって来たのである。
この歌は実景を詠っているというよりは、むしろ「時の流れ」を詠っている。
こういう人間の「感性」の微妙な働きに対して、繊細に、敏感に耳目をこらす、こういう美意識が、
古来、先人たちが大切にしてきた日本人の季節感なのである。
この美意識は、次の『新古今集』になると、ますます研ぎ澄まされ、危ういほどの言葉の結晶になってゆく。

  おしなべて物をおもはぬ人にさへ心をつくる秋のはつかぜ

西行法師の歌である。
「心をつくる」秋のはつかぜといった表現には、『万葉集』はもちろん、『古今集』にも見出されない、内面化された風であると言える。

次いで式子内親王の歌

  暮るる間も待つべき世かはあだし野の 末葉の露に嵐たつなり

こういう歌、こういう物の見方になると、風はもう作者の心象風景の中を蕭条と吹き渡っている無常の時そのものになっているとさえ言えるのである。

しかし『古今集』『新古今集』の、いわば虚構の美意識は『万葉集』には、まだあまり鮮明には見られない。
万葉の歌人たちは「秋」を意識する場合にも、現実に秋風に吹かれている萩の花、雁、こおろぎ、白露などの具体物を先ずみて、
その目前の秋の景物を詠んだ。
 例えば

  秋風は涼しくなりぬ馬竝(な)めていざ野に行かな芽子(はぎ)が花見に

  この暮(ゆふべ)秋風吹きぬ白露にあらそふ芽子の明日咲かむ見む

  芦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る


このように吹く秋風についても、詠う対象は風そのものではなく、野に咲く萩であり、遠ざかる雁の声を詠うのである。
susukiすすき原②

いずれにしても、日本の詩人は、季節の節目節目を、先ず敏感に感じ取らせるものとして、風を絶えず意識していた。
おそらく、それは、四方を海に囲まれ、気象条件も海に支配されている島国に住む民族として、
風によって生活と精神生活の両面で左右されてきたということと無縁ではないだろう。
今日8月8日は立秋である。その日に因んで、この歌を掲げた次第である。




私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー・・・・・・・・・・・・・木村草弥
FI2618444_1E.jpg

      私は化粧する女が好きだ
         虚構によって切り抜けるエネルギー・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた「化粧」と題する一連の中の一行である。ただしWeb上では、ご覧いただけない。
以下、この一連を引いておく。
掲出の写真は「アカバナユウゲショウ」という花である。
野草のように、どこにでも生えている花である。

  化 粧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

虚構を持たない女なんて退屈な家政婦にしか過ぎない

お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

化粧はエロチックだ 女のナルシスムと決めつけてはいけない

化粧する女は淋しがりやだ。化粧なしの素肌では不安なのだ

素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

女の体はお城である、中に一人の少女がかくれている

女の体はお城である、中に一人のセックス上手が住みついている

旅をする風変りなドレスを着てみる寝てみる 腋の下を匂わせる女


---------------------------------------------------------------------
「化粧」を「虚構」と把握するのは、詩の上ならばこその表現である。詩の場合には、こういう極端な飛躍した物言いを、よくする。それが「非日常」ということである。
この一連を発表したとき、今はもう亡くなった人だが、関西に住む或る女性歌人から女性差別の思想だと、あらぬ攻撃を受けたことがある。この一連の、どこに「女性差別」の思想があるというのだろうか。的外れもいいところである。その人も、その後、言いすぎたと思ったのか、的外れの指摘だったと思ったのだろう。一緒にお酒を飲みたい、などと手紙が来たが、私は深く傷ついたので、以後、絶交した。
詩の判らない人である。 この人は先年亡くなった。

copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.