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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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国勢調査もインターネットで・・・・・・・・・・・木村草弥

国勢調査_NEW

──雑文──

       国勢調査もインターネットで・・・・・・・・・・・木村草弥

国勢調査2015 によると「インターネット」回答は2015/09/20に締め切られたが回答数は19,175,769 に達した、という。
私もネット回答したのは、いうまでもない。 調査員の手間も省け、経費も減って大助かりであろう。

国勢調査は、日本国内に住むすべての人と世帯を対象とする国のもっとも重要な統計調査。国内の人口や世帯の実態を明らかにするため、統計法という法律に基づき、5年に1度実施している。

 調査は平成27年10月1日午前零時現在で実施。調査事項は、世帯員について「就業状態」「従業地または通学地」など13項目、世帯について「世帯員の数」「住居の種類」など4項目からなる。

 国内で全世帯を対象としたオンライン調査を実施するのは今回が初めてで、正確かつ効率的な統計の作成、記入負担の軽減や利便性の向上などの観点から、インターネット回答を推進している。
インターネットによる回答数は1,000万世帯を超えると想定され、世界最大級の規模になるという。

 インターネット回答にあたっては、9月10日から12日に国勢調査員がすべての世帯へインターネット回答用IDを配布。
9月10日から20日まで、パソコンやタブレット、スマートフォンから、配布された「ID」と「パスワード」を入力して、国勢調査オンライン窓口から回答することができる。

 9月26日から30日までは、インターネット回答のなかった世帯を対象に紙の調査票を配布。10月1日から7日まで、記入した調査票を調査員または郵送により提出する。

 総務省統計局では、「国勢調査2015」と題したキャンペーンサイトを開設したほか、「Yahoo! JAPAN」との特別企画による国勢調査特集ページ「未来をつくる!国勢調査2015」も紹介。
調査の流れ、インターネットでの回答方法などをわかりやすく解説しながら、調査への理解や協力を呼びかけている。

 なお、調査の結果は、平成28年2月に「人口速報集計」、平成28年10月末までに年齢別人口や世帯状況などさらに詳しい内容が公表される予定となっている。
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今年の調査は簡易調査ということになっている。 調査項目が簡単ということで、「05年」は簡易。「10年」は詳細調査ということになっている。
だから今年の調査項目は少なかった。

玉の緒の花の珠ぼうと浮きいづるいで湯の朝をたれにみせばや・・・・・・・・・・・木村草弥
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       玉の緒の花の珠ぼうと浮きいづる
           いで湯の朝をたれにみせばや・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌のつづきに

   草むらにみせばやふかく生(お)ひにけり大きい月ののぼるゆふぐれ

という歌が載っている。私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に収録したものである。
「みせばや」=玉の緒は、原産地は昨日書いた「紫式部」と同様に、日本、朝鮮半島、など東アジアとモンゴルなどに産する。
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写真②は開花前の「みせばや」である。多肉植物である。ムラサキベンケイ草属の耐寒性の多年草。
学名は、学者によって分類が異なるが、今はHylotelephium sieboldii ということになっている。
日本では、小豆島の寒霞渓にしか自生しないと言われているが、栽培種としては一般家庭でも広く栽培されている。
写真③は紅葉したミセバヤである。
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ところで「玉の緒」という名前はともかく、「みせばや」という名前は何に由来するのだろうか。
これは言葉の「綾」からきたものである。
「みせばや」という古い表現は「誰かに見せたいな」という意味であり、私の歌も、その隠された意味を踏まえて作ってある。
掲出した私の歌に立ち戻ってもらえれば、よく判っていただけるものと思う。
私の歌は一時、花の歌を作るのに、まとめて凝っていた頃があり、その頃の歌の一連である。
温泉の朝湯に豊かな肢体をさらす女体に成り代わって詠んでいる。
女性のナルシスムである。
俳句にも詠われており、それらのいくつかを引いておきたい。

 たまのをの花を消したる湖のいろ・・・・・・・・森澄雄

 みせばやのありえぬ色を日にもらふ・・・・・・・・花谷和子

 みせばやの花を点在イスラム寺・・・・・・・・伊藤敬子

 みせばやの花のをさなき与謝郡・・・・・・・・鈴木太郎

 みせばやの洗ひ場に干す五升釜・・・・・・・・福沢登美子

 みせばやが大きな月を呼び出しぬ・・・・・・・・鈴木昌平

 老母のたまのをの花さかりなる・・・・・・・・西尾一

 みせばやの半ばこぼれて垣の裾・・・・・・・・沢村昭代

 みせばやに凝る千万の霧雫・・・・・・・・富安風生

 みせばやの珠なす花を机上にす・・・・・・・・和知清

 みせばやを愛でつつ貧の日々なりき・・・・・・・斎木百合子

 みせばやを咲かせて村の床屋かな・・・・・・・・古川芋蔓
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いま「みせばや」の学名を見ていて思いついたのだが、学名の中の sieboldii というのは、かのシーボルトが命名したか、あるいは標本を持ち帰ったかの、いずれかではないか、ということである。語尾の ii を除いた名前はシーボルトの綴りではないのか。植物の学名に詳しい方のコメントを待ちたい。


今井恵子「自動短歌と偶然短歌」・・・・・・・・・木村草弥
未来山脈_NEW
34692今井恵子
 ↑ 今井恵子 近影

──新・読書ノート──

       今井恵子「自動短歌と偶然短歌」・・・・・・・・・木村草弥
                    ・・・・・・・・「未来山脈」誌2015/10月号所載・・・・・・・・

いま到着した光本恵子・主宰「未来山脈」誌2015/10月号を読んでいたら巻頭2ページ目の「視点」という欄に掲出したような記事が載っている。
全文を引いてみよう。

 自動短歌と偶然短歌      今井恵子(まひる野)

   1 動かない誰かの過去に隠された力ーブになってねじれたノート
   2 ぬくもりをあきらめて愛 永遠の死者になるまで青い五線譜
   3 左右から読んだ場合の意味合いを表すためのポイントである
   4 海水を好む貝から淡水を好む貝へと変化している

ツイッ夕—を眺めているとこのような「短歌」に出会う。
1と2は自動短歌というもので、コンビュー夕ープログラムによって自動的に作成されたもの。
引用するときは筆名を「星野しずる」とするきまりであるらしい。
3と4は偶然短歌と名付けられているもの。
それぞれ「ウイキぺディア日本語版『→Pia-no-jaC←』 より」 「ウィキぺディア日本語『比治山貝塚』より」と、出典が示されている。
散文の部分が、偶然に短歌定型となっているフレーズの、そのままの引用である。
これらの「短歌」には、近代短歌の歴史が作り上げたもっとも大きな要素、すなわち短畎作品を統べる根粋としての「われ」が見当たらない。
一首を統べる「われ」が示されないということは、自我の内部に蠢く抒情や欲望や苦悩から切り放した言葉で、一首か構成されているということだろう。
1~4を短歌として読もうとする読者は,「ノー卜」 「五線譜」 「ポイント」 「変化」について投げ出された観察と説明と解釈に対して、どのような深読みも意味づけも、感情移入も許される。
読者の勝手読みが始まる。
それは、誰の存在を脅かすこともなく、何処においても邪魔にならない作品で、未知の読者へ作品を届けようとすると、とても流通性が高まる。
1〜4を引用したのは、現代短歌が、このような自動短歌や偶然短歌のもつ傾向へと、少しずつシフトしているのではないかと感じられるからである。
このごろ「読者に任せる」読みの在り方が当たり前のように言われているが、これは問題であろう。
言われ始めた頃の「読者に任せる」には、固定的な一つの解釈から脱して、多様な解釈鑑賞を探ろうという新鮮さがあった。
しかし今では、都合のよい論争回避の言い訳になってしまっている。
「読者に任せる」と言ったとたん、相違点にそれ以上踏み込めなくなり、「受け取り方は人それぞれですから」と、話し合いが打ち止
めになってしまう。
ところで、1と2、3と4では、近代短歌が追究してきた「われ」が同じように見当たらないとはいっても、読後感に大きな違いがある。
1と2は、イメージの纏まりを拒絶しているように感じられ、読後に浮遊する言葉のとりとめなさが残る。
3と4は、本来あったが故意に隠されているように感じられるので、言葉の欠落感が残る。
このような歌を勝手読みするなら、まずは、1と2には浮遊する言葉を絡め取る「われ」を、3と4には隠れた主語を補うことが必要だ。
いずれも、コミュニケーションの楽しさとは異なる疲労感をともなう。
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今井恵子は短歌結社「まひる野」所属の歌人で「論」も達者な人で、最近も角川「短歌」の「時評」欄などにも文章を載せている気鋭の人である。
まだWikipediaには登載されていないようなので、簡単な略歴を出しておく。 掲出画像に「近影」を出しておいた。

今井恵子:早稲田大学・学生時代に空穂系短歌結社「まひる野」に入会して作歌をはじめ、今日に至る。
歌集に『分散和音』 『ヘルガの裸身』 『白昼』 『渇水期』 『やわらかに曇る冬の日』ほか、歌書に『富小路禎子の歌』、編書に『樋口一葉和歌集』がある。
第26回現代短歌評論賞受賞。現在「まひる野」運営委員。「現代歌人協会」「日本文藝家協会」会員。

ネット上で誰かが書いていたが、歌集の題名のつけ方が素敵である。

さて、本題の「論」のことである。
写実をモットーとする「まひる野」の作家らしく、近代短歌の金科玉条である「われ」が強調されている。
確かに最近の若い歌人たちは「主語」が明らかではない、極論すれば「訳のわからない」ような歌作りをする。
それは「穂村弘」に代表されるような歌の系列と言えるだろうか。
引用ばかりになって恐縮だが、角川「短歌」10月号巻頭欄に載る穂村弘の歌を二、三引いてみよう。

  ・金持ちのともだちんちのカルピスがうすくてお母さんがきれいで

  ・赤影と白影死して青影は空調関連企業の経営者

  ・「血が出ても悪い血だから気にせずにがんがん磨き続けてください」

全部で31首ある「ふりかけの町」の一連からアトランダムに引いた。
最後に引いた歌などは、今井恵子が言う「偶然短歌」のようで、歯磨き製造会社のキャッチコピーそのままのようでもある。
なまじ穂村弘の歌のような作品が、「もてはやされる」ような傾向は、確かにあるのである。
現に角川「短歌」誌の編集者が、これらの作品を巻頭に置いたという事実があるのである。
こういう「ナンセンス」歌がもてはやされる世の中である。
歌は深刻な、しかめっ面をした歌ばかり詠むのがいいと言うのではないが、世の中「無責任な」「別に・・・・」というような変な形になってしまった。
「自己主張をせず」「他人との関わりを避け」て人生を全うできる、と考えているのだろうか。
一方では、いま問題になっている新・安保に危険な動きを感じ取りデモに出かける若者も居る。
これらが適当に混じりあってゆくのがいいのではないか。
先に書いたように今井恵子は「時評」欄でも、しきりに論じている。
ここ「未来山脈」に載った記事は、短歌総合誌に書ききれなかったことを補足として書いたようにも受け取れる。

短歌における「われ」の問題は、一筋縄では語れない問題を内包している。
つまり前衛短歌運動において塚本邦雄の主張したのは古来からの「歌」の「主語=われ」からの脱却だ、と言われている一面もあるからである。

今井の言うように「お互いにコミュニケーション」も碌にとらずに「スマホ」ばかり、俯いてシコシコというのは悲しい風景ではある。
そんな意味からも、この今井恵子の論文は、現在の風潮から見て、時宜を得たものと、私は受け取った。

ネットを検索していると、今井恵子に関する批評などが見られるのでアクセスしてみられるとよい。



  
しらじらと貫井の水はおちながら日ねもす布袋草ふるふらん・・・・・・・・・・・・・片山貞美
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       しらじらと貫井の水はおちながら
            日ねもす布袋草ふるふらん・・・・・・・・・・・・・片山貞美


片山貞美は大正11年生まれの人だが、ネット上にも記載は極めて少なく資料に乏しい。
2008/12/4に酒を飲んだあと、歩行中に転倒して急死した。
伝統的な歌作りを尊重する人で、かなづかいなどでも歴史的かなづかいの誤用を厳しく指摘する人だが、いわゆる「前衛的」な歌には激しい拒否反応を示した人らしい。
私は、その運動の渦中には居なかったので、よく判らないが、記録に残るものには、それが書かれている。
角川書店「短歌」編集長、短歌結社「地中海」編集長などを勤めた。国学院大学出身。
彼についてのエピソードを二つ紹介する。
先ずは、彼の死に際しての福田龍生の追悼文から。福田は短歌結社「古今」を主宰する。

酔いどれ吹き溜り その14
超一流のバーで豆腐を食った男
................................................福田龍生

 栄一のエピソード(短歌往来)をかくならイントロには貞美のあれこれを出しにしてかいてみるかと思っていた。そして酔いどれ吹き溜りをかいていた十時二十分に電話が入り“貞美死す”との博子夫人の声。とにかく頭はまっ白、何がなんだか解からなくなり、貞美のことをかいてしまった。間を置かず、短歌往来からは「貞美の追悼特集をやるから何かかけ」と及川社主から云われた。悪口をかくならねえと考え込んでしまった。あげくが小声で「何も浮かばぬ、少しのばしてよ」とたのんだら「そうだろ、いいよ」と優しい声で快諾してくれた。やれやれの思いだった。

頑固にして固陋な酔いどれ貞美

 そこで普段着、つまりガンコな酔いどれ貞美をまとめてみる。今更のように酔いどれ先輩を考えてみたら、熊谷守一仙人をのぞいて「みんなオプティナスィ(ガンコ)な男ばかり」だった。が貞美は異質なガンコ者であった。岡山たづ子は「うちのガンコの巌は」といつも云っていたが、僕も貞美も巌センセの密造酒の試飲をさせられた。僕が今日のように酔いどれになったのはそれが原因。もちろんそれに拍車をかけたのが片山貞美であった。
 戦後の、目のつぶれそうなカストリからはじまって、何であるアイデアルの、メチールの入ったウィスキーまで飲まされた。よくぞ死ななかったもの。そんな貞美も年がたてば偉くなるもので貞美が角川の短歌の編集屋になったころ「オイ龍生ちゃん話がある」と社にやってきた。そこで神田三崎町の茶店エリカに入った。貞美はまずそうに珈琲を口にしながら「だーれも俺をバーに連れてってくれねえんだ。トリスバーじゃないぞ。ほんとのカクシキのあるところだ。みんな知らねえのじゃないかと疑ったよ。山本も白石も知ってると思うんだがな。いいとこないないか、たのむ連れてってくれ…」と云うのであった。
 僕は吹きだした。トウフの貞美と高級バーは似合わぬ。だから白石昴だって誘わないのは当然。白石とはサンスーシーにも行っているし「タンゴをくれ」なんて云って、カクテルを飲んでいたことを思いだしながら、貞美の顔をのぞきこんだ。確かにマジな面をみせていたが、オヤジと対峙して、歌の話をしているときの目をしていた。僕はちらっとツケのあまりない、銀座の馬車屋がいいと思った。ここのバーテンさんは、とびきり上等だった。
 日本バーテンダーの会長をしていたし、会報ドリンクスにカットなどかかせてくれ、ツケをパーにしてくれた。まあ僕にとっては神様のような人だった。ペイペイ時代はミソッカスで「八時までの男」だった。本番前までしか飲ませてくれなかった。だからゼニはただ同然だった。東郷青児、寺田竹雄、宮本三郎、西村愿定、大河内信敬など画家のよく集まる店だったが、やはり中心はバンカーや一流の商社マンだったがみんな紳士だった。
 こんなバーでは、まずカクテルを一杯たのむのがマナーなのだが、僕みたいなペイペイには必要なかった。その日は貞美でも飲めそうなジンリッキーをたのんだ。スピリッツの安いものである。このジンリッキーには思い出があった。ピッカピカの編集屋のころ、二科の寺田竹雄に連れられていったのだが、ある日「なに飲むんだ」と長谷川バーテンダーに云われ「ジンリッキーだ」と云うと、睨むような目をして、目の前に、十数種のカクテルグラスをずらりと並べた。なんだこれはと思った瞬間「みんなジンリッキーだ。えらそな言い方すんな、みんな飲め」と云われた。バーってのは、恐ろしいもんだなと、おずおずと僕は一杯ずつ飲み、味わったふりをしていた。
 さて、煙草を買いにいっている間に、貞美の前には、なんとなんとトウフがどんと置かれ、満足そうに箸で口に運んでいたのだ。最高級のバーでトウフを食ったのは、恐らく片山貞美が最初にして最後だったろう。「この人、歌人なんだね、それも偉い人。お前さんも歌をつくるんだってねえ」と云われた。幸か不幸か、長谷川さんもトウフが好きで、手前用の夜食のトウフを進呈したそうな。あげくが江戸切子のグラスで酒を飲んでいるのだった。いったい貞美は、どんなきっかけをつくり酒とトウフを手に入れたのだろう。このバーテンダーのボスは、本当に優しい人だったから、貞美のわがままをみんな聞いてやったのである。このにっくきわが先輩は、それこそもう大はしゃぎ。そのうちに「ここはいいなア」としきりに話してくるのだった。僕はただ憮然として杯をかさねていただけである。

貞美とかわいい呑兵衛たち

 新宿のとある露路の、とある二階に「あづま」という飲み屋があった。ここのオカミの主人は中央公論の編集屋。だから栄一の関係で、いろいろな人種がきていた。ある日の雨の夜に、貞美とノレンを分けたら一人だけ客がみえた。入ってみると阿部正路であった。僕をみた阿部は、止り木から慌てふためいて直立不動。そして深ぶかと頭を下げたのである。この男、信じられないだろうが、アルコールがまわらないときは、礼儀ただしい歌人であり国学院の教授であった。ある日オヤジが「龍生をよろしくな」と云ったところ彼は飛び上がって「龍生先生にぶんなぐられます」と云っていたと笑っていた。また短歌新聞社主の石黒清介は「あいつは頭はいいし、天才的なところがあるのにねえ、もう飲んだらいけねえなア」とうなずくように呟いていたことがある。まさに君子豹変というべき男であった。
 その日も嫌な予感が走った。うっかり貞美が迢空のことを洩らしたのが凶とでた。阿部迢空論がえんえんとはじまった。やがては壊れたレコードとなり、意味不明となった。とにかく話は噛みあわず、カンカンガクガクがつづいた。ただ一つ記憶にあるのは「歌がいい」ということだった。二人ともグデングデンのちょっと手前。なのにケンカにならなかったのが不思議。
  季(とき)は晩秋、うまいものがいくらでもあるのに、ボクの肴を「どうせ食わないんだから」と云って飲んでは食っていた。細い目はいよいよ細くなり、意味不明ではあったが「話しっぷりには味があった」し、なんとも云えぬ雰囲気があったのである。昔とは違い、ベロベロの阿部のグチグチを聞いてやっていた。
 泣きながら、栄一に反論していたころの貞美ではなかった。だから狂いはじめた阿部の言葉をかわしながら「いい子だから、少しぐらい黙って飲めよ」と云っているように僕にはみえた。老巧にして老実な貞美になっていたのであった。そのうち「先生の家に泊る泊る」と云いだし、やがてのち「いいでしょ、いいですよねぇ」と乞うている。つまりは国立の片山邸にとあいなる。水城春房もその一人だが、そんなのが沢山いたようだった。これは片山貞美の知られざる徳なのかも知れない。
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二番目は、最初に書いた「前衛狩り」云々を巡る記事である。

以下は「地中海」誌に載るもので筆者は前編集長の椎名恒治だと思う。
この「原文」には誤植が多いので念のため。
少し長いが途中で端折っては誤解を招きかねないので前後の記事もそのままにする。

<地中海でわたしが千勝重次に出会った頃、周辺はみな「千勝先生」と呼ぶ大家であったが、没年五十六歳であったとは、不思議な思いで略歴をたどっている。

・若き日におごりあそびしこともなし。いま無為にして四十ならむとす

・茫々と遠き夜の闇の底ひより澄みてきこゆるは何のこゑぞも

 こんな歌をつくられていた。精悍な風貌が今もおぽろにうかんでくる。没後三周忌に刊行された歌集「丘よりの風景」に添えられ年譜の一部を抜いたのだが、千勝二喜男(令弟)の記す、歌集『刊行記』の結びの部分を抄出しておきたい。

 昭和二十二年の冬だったと思う。その年の春から、「短歌研究」の編集にたずさわっていた故人は、当時私もともに仮寓していた世田谷上馬の家の二階に、香川さん、宮柊二さんを御案内申してきた。事の前後は、定かでないが、御自分をまはだかにしてぐいぐいと人に押し迫ってくるような気鋭の香川さんの語り口は、そのとき初対面の私に、強い畏怖を覚えさせた。私がそのとき感じた畏怖は、故人にとって深い友情として根づき、はぐくまれ、やがて「地中海」創刊に至ったことである。敗戦後の、暗い灯火の下の、それでいて妙に生き生きとした空気が、「新歌人集団」夜明け方の明るさを思わせるひと時であった。それは故人ごのみのことばでいえば「茫々」たる過去の日の断片である。

 香川進の姿が、簡明な文によくあらわれている。地中海の草創期に重く存在した千勝重次像がこの略年譜と、三善男氏の文章でいくらかでも理解できたであろうか。「編集長は地中海創立の事情から…」と『三十年記念号』に香川進が書いた真意もここで理解できたように思う。この千勝重次の推薦で片山貞美は地中海編集者となる。

 ここで話は一転飛躍する。昨年の「短歌往来」(ながらみ書房)二月号は香川進追悼特集であった。連載中の「挫折と再生の季節」(岡井隆)の文中に、雑誌「短歌」の編集者に片山貞美、石本隆一に変わったことにふれながら、香川進とのかかわりを述べて、更に三月号で補足的なことを記しているから興味深く読まれた人もあるだろう。地中海一月号で久我田鶴子も香川論の中で触れているが、それはそれとして、片山貞美、石本隆一が、角川書店の「短歌」編集者(石本は後に「俳句」の編集者)であったことをわが地中海の仲間はあまり知らないかも知れない。現に岡井隆のあの文章の内容が全くわからないという同人がいたので、参考のために記すのだが、わたしの主観で記すよりも、前田芳彦著「戦後の歌論」(短歌新聞社・平成三刊)から借用することにしたい。

 ――富士田(註・富士田元彦)の、いわば逸脱は角川幹部を極端に刺戟するもので、昭和三十七年にはそれが表面化するに至る.とくに十月三日の社内会議はあたかも彼に対する査問会であったと自ら書いている。以来、「短歌」の編集をおろされる翌年末まで、居直りといってもよいほど性急な問題提起を続けたのであった。担当は翌三十九年一月より神崎忠夫に、ついで片山貞美に移り、「前衛狩り」の季節に向うことになる。――「短歌」の編集は石本隆一(四十一年四月)を経て四十二年十月再び片山に戻り、四十五年十一月赤塚才一に渡った。片山によれば「伝統系短歌」の復活を図って前衛短歌偏向から転換したのだが、この方針はすくなくとも四十八年六月の秋山実編集まで続いた。――

 几帳面な前田芳彦はこのように穿って書いている。わたしたちは、総合誌の編集者が誰で、どんな人であるか殆どが知らないと共に、右のような歌壇の情勢と編集者との関わりなど知るよしもなく雑誌を買っている。ついでだから、前田芳彦の述べることをもう少し聞くこととする。『短歌往来』の岡井隆の言うことが理解出来ようではないか。

前田芳彦は前衛論争をさらにいろいろ解明したあとで次のように結論した。
 ――富士田は昭和三十九年六月から四十二年までの片山貞美および石本隆一編集の『短歌』は評論の上では不毛の時代であったと言う。彼がそれを言いたいのは分るが、非前衛の動きは新しい主張を盾とするものでなく、総合誌編集のあり方に対する批判から出たもので、評論の沈静は当然であったそれ故回顧的な特集や技術論・鑑賞論が誌面に復活したのを性急に負の面のみ此判するのは正しくない。戦後短歌のこのような転換期、敗戦より二十年経て“戦後”を問い直す傾向と奇しくも一致していた。――

 前田芳彦によって、総合雑誌「短歌」と、歌壇における前衛派との関わりがよく整理されている。このような歌壇の動きとは別に企業角川書店そのものの場合、この時期は拡大してゆく新しい出版物と、増大した社点数に社長角川源義は「組織と人事」に苦闘していたようだ。「経営者としての角川源義像を見てみると、源義は直感の人で、計数の人ではなかった。企画・宣伝・販売の戦略・戦術に卓抜なアイデアを出し、多くを的中させたが、データや数字を分析し合理的に詰めていくのは苦手というより嫌いだった。」(鎗田清太郎『角川源義の時代』)さらに、「足の角川」といわれ「この角川書店の人海作戦は定評があり、沖縄の離れ小島まで足を運ぶ」ほどであった、という。鎗田清太郎の同著によれば、山本友一は昭和三十八年七月から四十八年四月まで角川書店取締役をつとめている。町田市鶴川の山里のような地に「角川多摩文庫」の責任者の山本友一を訪ねたことがある。事務所の軒に燕が出入りしている、静かな環境であったことが思い出される。

 『角川源義の時代』は角川書店の五十年史でもある。波瀾万丈の角川源義の生涯と角川書店の推移が縦横に描かれていて興味深い本である。たとえば、昭和二十九年一月一日発行の「短歌」創刊に至るまでの、千勝重次、宮柊二、香川進と釈迢空、角川源義とに関わるエピソードの記録など興味津々である。角川源義と千勝重次は国学院大学の級友であった。
 なお、この著によると「ある期間、片山貞美が顧問という形で企画・編集に参画した」ごと記されてある。>

どこの世界にも「揺れ」というものはあるもので、物事は「あるがまま」に受容してゆきたいものである。
掲出歌の「貫井」は「うち抜き井戸」のことであろうか。「井筒」のことであろう。
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「布袋草」「ホテイアオイ」とも呼ばれる水草で、熱帯アメリカの原産だという。
今では世界中に広がって、たとえばナイル川にも上流からおびただしいものが流れているのを私も見たことがある。
葉柄の下がふくれて布袋腹のようなので、この名がついたという。水に浮きやすくなっている。
歳時記に載る句も多くはないので、少し引いて終る。夏の季語だ。

 布袋草美ししばし舟とめよ・・・・・・・・・・・・富安風生

 ほてい草月の面を流れ過ぐ・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 布袋草ほこりの道にすててあり・・・・・・・・・・・・星野立子

 布袋草一つはなれて花持たず・・・・・・・・・・・・山中石人

 布袋草ひつくりかへり堰越ゆる・・・・・・・・・・・・草野駝王

 汐入の水門しまり布袋草・・・・・・・・・・・・田川夏帆


宮柊二『砲火と山鳩』─宮柊二・愛の手紙・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      宮柊二『砲火と山鳩』─宮柊二・愛の手紙・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・河出書房新社・昭和63/07/30刊・・・・・・・

今年の春、宮柊二夫人の宮英子さんが98歳で亡くなられた。
角川「短歌」10月号は「追悼・宮英子」として特集記事を載せている。その中で、この本に収録されている書簡についても触れられている。
そんなことで古書で買い求めてみた。箱入りの豪華な装丁の本である。
発行当時の値段で2600円と書いてあるが、私が買い求めたのは1000円プラス送料という安価なものであった。
外装の箱は経年で多少汚れてはいるものの、中は新本と思えるほど綺麗なものである。

この本は柊二が昭和61年12月に死んで、夫人が戸棚にしまいこんであったものを出して、出版されたものである。
当然、夫人から柊二あてに出された「往」の手紙があるのだが、それは柊二は戦場に居たから帰ってくる時に持って帰れる訳もなく、現存しない。

先ず「目次」を引いておく。

目次
第1章   出会いから出征まで(昭和14年)
第2章a   戦中書簡(昭和15年)
第2章b   戦中書簡(昭和16年)
第2章c   戦中書簡(昭和17年)
第2章d   戦中書簡(昭和18年)
第3章   帰還から結婚まで(昭和18年、19年)
第4章   旅中書信ほか(昭和19年)
第5章   再応召、終戦、疎開先へ(昭和20年)
 補 注    中山礼治
 あとがき   宮英子

掲出した画像の「帯」文でも読み取れるが、この帯の裏側に、英子夫人の「あとがき」の一部が載っている。

   軍事郵便・・・・・・宮英子
・・・・・柊二を裏切るような、後めたさで私は揺れている。
ただ、一方では私を急たてる或る焦りに似た気持が突き上げてくる。
それは、日本各地にはまだ軍事郵便がたくさん残っているはずである。
しかしその所有者はもう年老いた。このままにしておいては埋没してしまうのではないかという危惧が湧く。
(略)この『砲火と山鳩』が皮切りとなって、誰方か集めて下さる奇特な方があらわれらいものだろうか。
今さら軍事郵便などねという声もあろうが、切に願わずにいられない。  (「あとがき」より)

ここで、「あとがき」の出だしの部分を引いておく。

   あとがき          宮英子

この戦中書簡は、昭和14年2月から昭和20年10月に至る期間に、柊二から英子にあてた私信である。格二の二
十七歳から三十三歳、英子二十ニ歲から二十八歲。出会いから結婚後の疎開先までの二百通あまりだが、出征し
た中国山西省からの軍事郵便が大半を占めている。「軍事郵便」という言葉は、今は耳慣れない死語であるが、
戦時中は戦地からの書簡はすべて検閱印と「軍事郵便」の判が赤く押されて届いた。
これらの手紙は、結婚してからはお互いにかえりみようともしなかったが、それでも年度毎に束ねて手文庫に
入れ、押入れの上の戸棚に蔵いこんで、いつしか忘れられていた。三十年、四十年と歳月を重ねるにつれ、いっ
たい何が書力かれていたのか、ところどころの文言隻句もうろ覚えで、また思い出したりしては今更めいて困る昜
合もあり、互いに見ない振りをしていた節もある。
昭和61年12月に柊二は死去し、亡くなってみると、生前書き散らした一片の紙片や日記の断片も大切で、反古
同様にしまい込んでいたこの戦中書簡をなつかしく取り出した。つづまるところ私に宛てた唯一の語りかけであ
る。読みかえすうちに、古びた便箋や葉書のこれ以上の手擦れが忍びがたく、 一信二信を害きうつした。そのう
ちにやむにやまれぬ気持に駆りたてられ、写経でもするように手紙の書き写しにのめり込んでいった。そして、
あたかもはじめて読んだ手紙のように、涙を流したりした。・・・・・・

柊二は戦地に居たときは「山西省」の最前線であったが、昭和18年に一旦、召集が解除されて帰国する。
書簡として、先ず引くのは、その前のものである。    ↓
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昭和18年4月23日 同前/東京市淀橋区戸塚町一 ノ三九二 滝口英子 (葉書)
四月九日附の御手紙拝受いたしました。ある命令で太原を通過するをり、時松さん夫妻にお会ひして、
時松さんがあなたにいろいろ御手紙を差上げてゐる様子を聞きました。御好意はありがたいのですが、
あまり当にしないやうに。
戦友一人内地に帰還するといふ。或る命令のもとにありて会ひがたければ。

   すがやかに帰りゆけこそ四とせほど離りをりたる日本の国へ
   敵中へ揉みこみし錐の尖ぞとも君と別れの会もせなくに
   トウチカに月照るときにあらあらしくわれはゐるとも汝を偲ばむ

といつた具合に自分達の殆どは延びて(注・1)、何時になるか判りません。只今をりますところは山の山の
中の山の上。粛然たるあけくれの中に敵を警戒してをります。若い戦友達を教へる一方、自分の勉強
もしてゐます。暁早く敵を求めてゆくときなど、林中の斑雪に月が青く照り、猪が伏し、ノロの群集
が目ざとく跳躍して逃げ、雉鳩がこもり音に鳴いたりします。文才あればバイコフの虎でなくて、柊
二の猪をものするのだが、正直申せばそんなこととは遠い切迫した状況の中にゐます。
注1 ─内地帰還を指す。
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戦中にあっても、このハガキに見られるように「歌」を作って書いてある。 立派なものである。
次に引くのは召集解除で帰国した時期のもの。  結婚式の段取りとおぼしきやりとりなどが見える。 ↓
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昭和18年10月8日/横浜市鶴見区鶴見六〇二 宮肇/東京都淀橋区戸塚町一 ノ三九二 淹ロ英子(葉書)
拝呈 只今郷里から立ち帰り御芳翰拝見いたしました。御文面の趣、父母姉らが戻りましたら申述べ
て相談いたし度い心組でゐます。
会社(注─1)には十三日頃から出社するつもり。個人的挨拶廻りは一切許して頂くつもり。一日も早く働か
ないと、戦歿した戦友や、今なほ御奉公してゐる戦友に申訳ありません。気がせかれて困ります。
先日は夜分御伺ひして大変失礼いたしました。御病気と伺つたので、何の心構へも心配りもなく伺つ
てしまひました。戦地帰りのあさはかと御許し頂きます。御従兄御夫妻にもよろしく御取りなし願ひ
たく存じます。当分は御面接申上げることも遠慮した方がよろしいでありませうか。片附けられるこ
とから早く片附けて、一月後になりますか、二月後になりますか、再度のお召しをこころから待ち度
くおもひます。
(注─1) 富±製鉄所に復職。

「再召集」され軍隊に復帰したが、戦争末期で渡航するのにも船は沈められて、無く、内地で、しかも故郷の新潟県に布陣していたようである。
先の帰国で二人は結婚して、さっそく妊娠した様子が手紙に窺える。  子供が男か女かと思案して、女の子なら「草生」という言葉が見られる。これは長女の名前となった。  ↓
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昭和20年6月20日/新潟県小千谷町東部第三六三九四部隊三宅隊 宮肇 (葉書)
〇赤ちやんは男だらうか女だらうか。よだれ掛けと夏帽子を買っておいた。いづれ外泊でも許された
ら、又はお前が面会に来られたりした時にあげる。女だつたら「草生」より「衛子」の方がよいやう
に思ふが、どちらに命名した。 (後略)
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宮柊二と歌集『山西省』 ← などについて拙ブログに載せたので参照されたい。
これを読んでいただけば、よく判ると思うが、宮柊二は戦争についても誠実な態度に終始した。
今日的な意義もあると思うので、あえて出しておく。

鳥の卵ひとつのみほすあけぼのへ冷え冷えと立つをとこののみど・・・・・・・・・・小池光
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      鳥の卵ひとつのみほすあけぼのへ
           冷え冷えと立つをとこののみど・・・・・・・・・・・・・・・小池光


卵は昔は貴重品だった。
割れないようにもみ殻に入れて保存され、精がつくからという理由で、病人への見舞いによく使われた。
やや縦長の丸い形状、割れやすい殻、とりわけ内部に命を宿しているということが、豊かな象徴性を帯びる理由なのだろう。
キリスト教では復活祭に彩色した卵を飾るが、これも生命の復活・再生を表わしていることは言うまでもない。
またお隣の韓国には卵生神話というのがあり、伝説上の英雄は卵から生まれたとされているという。
卵の持つ不思議な性質が、いかに昔の人々の想像力をかき立てたかをよく示している。

はじめに、なぜ、今日「生卵」のことを書く気になったか、を言っておく。
角川書店「短歌」10月号の「シリーズ連載・歌人の朝餉」というページに花山多佳子が、こんな記事を書いているからである。
  
    <・・・・・卵は生卵も半熟卵も食べられないので、フライパンでしっかり押しつけて焼く。
      ふんわりしたオムレツを子どもたちにも食べさせたことがない。・・・・・>

この記事から思い出すのが、同じ短歌結社の重鎮だった河野裕子が、関西人特有の「おせっかい」で、おまけに「熱々メシに生卵」をかけて食べるという人で、
結社の人々に生卵を送りつけたというエピソードを思い出したからである。
贈られた花山多佳子は、前記のような育ちの違う、食習慣の違いから多量の卵を贈られて面食らった、というエピソードである。
ご存じのように、花山は東京育ちで、高名な歌人・玉城徹の娘であり、祖父も玉城肇という学者だから、この家では「卵かけ飯」というような習慣がなかったのだろう。
はじめに書いたように昔は生卵は貴重品であり、近年まで病気見舞いには生卵を二、三十個贈る習慣があった。
「地卵」と言って、知り合いの養鶏場から生みたての、新鮮な卵を、わざわざ取り寄せたりしたものである。
こういう食習慣というのは仲々抜けないもので、肉の焼き方などでもレアかミディアムか、など難しいものである。
:掲出した小池光の歌は、「生卵メシ」どころか、生卵をそのまま「呑み干す」というのである。

以下、「卵」を詠んだ歌を引いておく。  

   突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼・・・・・・・・・塚本邦雄

   取り落とし床に割れたる鶏卵を拭きつつなぜか湧く涙あり・・・・・・・・道浦母都子

   殻うすき鶏卵を陽に透かし内より吾を責むるもの何・・・・・・・・松田さえ子

   冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし・・・・・・・・岡井隆

   冷蔵庫ひらきてみれば鶏卵は墓のしずけさもちて並べり・・・・・・・・大滝和子

   ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は・・・・・・・・穂村弘

    卵もて食卓を打つ朝の音ひそやかに我はわがいのち継ぐ・・・・・・・・高野公彦

    うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春たつ卵・・・・・・・・高橋睦郎

   卵黄吸ひし孔ほの白し死はかかるやさしきひとみもてわれを視む・・・・・・・・塚本邦雄

   生(あ)るることなくて腐(く)えなん鴨卵(かりのこ)の無言の白のほの明りかも・・・・・・・・馬場あき子

   永遠にきしみつづける蝶番 無精卵抱く鳥は眠れり・・・・・・・・錦見映理子

   鮮麗なわが朝のため甃(いしみち)にながれてゐたる卵黄ひとつ・・・・・・・・小池光

   女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ・・・・・・・・黒瀬珂瀾

黒瀬の歌では「うすくれなゐ」となっているから、卵の色は白ではなく赤玉だと思われる。
ふつう卵は白として形象されることが多い中では珍しい。
ちなみにフランスでは卵はすべて赤玉で、白いものは売っていない、と言われるが私はまだ確かめては居ない。

    卵ひとつありき恐怖(おそれ)につつまれて光冷たき小皿のなかに・・・・・・・・前田夕暮

   てのひらに卵をうけたところからひずみはじめる星の重力・・・・・・・・佐藤弓生




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