
水あふれゐて啓蟄の最上川・・・・・・・・・・・・・・・・・・森澄雄
今日は「啓蟄」(けいちつ)である。
「啓蟄」は24節気の一つで、平年は3月6日に廻って来るが、今年は閏年なので今日である。
「啓」は開くの意味。「啓蒙」という言葉があるが、これは蒙を開くの意味からきた熟語である。
「蟄」は巣ごもり、のこと。土中に冬眠していた虫が、この頃になると、冬眠から醒め、地上に姿を現しはじめる。
啓蟄を更に具体的に言った言葉に「地虫穴を出づ」「蛇穴を出づ」「蜥蜴穴を出づ」「蟻穴を出づ」などの表現がある。
この頃鳴る雷を「虫出しの雷」というが、そういうと昨晩というか未明に雷鳴とともに激しい雨が降った。
今ごろは、冬から春への季節の変わり目で、こういう気象現象が起りがちなのであろう。
いずれにせよ、地下の虫も動き出してきたか、という一種の感慨とともに、使われる言葉であり、季節感を、よく表現していると言えるだろう。
掲出写真は「ヒキガエル」の抱接だが、この類は、この頃に地中から出てきて抱接し、雌は水溜りに卵を生んで、また冬眠を続けるために地中に戻るという。
「交尾」と「抱接」とは、ちょっと違う。言葉の定義としては厳密に区別されなければならぬ。
交尾というのは雄が生殖器を雌の生殖器に挿入して受精するが、カエルの類は抱きあって、雌が放出した卵に雄が精子を振りかけて受精する仕組みになっている。
ついでに書いておくと、これと対応する言葉として「射精」と「放精」という言葉も区別して厳密でなければならない。
昨年に或る未知の歌人から歌集が恵贈されてきたが、その中に「鮭の<射精>」という歌があって、この歌を今をときめく中堅の有名歌人が採り上げていた。
これは、上に述べたように言葉の使い方が間違っている。
魚類の生殖は交尾するのではなく、雌が産んだ卵に雄が精液をかける「放精」であるからである。
この有名歌人は大学の自然科学者であるから言葉には厳密であってもらいたい、と思ったことである。余談だが少し書いておく。
森澄雄は大正8年(1919年)兵庫県姫路市生まれ。昭和15年「寒雷」創刊と同時に加藤楸邨に師事。
彼は、戦後俳壇の社会性論議の域外にあって自分の生活に執し、清新な句境を拓く。
のち古典、中国詩、宗教書に親しみ、時間、空間の広がりの中に思索的な作品世界を構築した、と言われる。
晩年は体調を損ねておられたが、読売新聞の俳壇選者などを努めておられたが、2010/08/18に亡くなられた。
森澄雄の作品を少し抜きだしてみよう。
チェホフを読むやしぐるる河明り・・・・・・・・・・・・森澄雄
家に時計なければ雪はとめどなし
明るくてまだ冷たくて流し雛
雪夜にてことばより肌やはらかし
雪国に子を生んでこの深まなざし
田を植ゑて空も近江の水ぐもり
春の野を持上(もた)げて伯耆大山を
水入れて近江も田螺(たにし)鳴くころぞ
火にのせて草のにほひす初諸子
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他の作家の啓蟄の句を少し挙げて結びにする。
啓蟄の土洞然と開き・・・・・・・・・・・・阿波野青畝
啓蟄や庭とも畠ともつかず・・・・・・・・・・・安住敦
啓蟄の大地月下となりしかな・・・・・・・・・・・・大野林火
啓蟄や解(ほぐ)すものなく縫ふものなく・・・・・・・・・・・・石川桂郎
啓蟄を啣へて雀飛びにけり・・・・・・・・・・・・川端茅舎
一番あとの川端の句の啓蟄は、出てきた「虫」のことを指しているのである。
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