
──山田兼士の詩と詩論──(11)
詩誌「QUARTETTE」カルテット創刊号・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・2016/03/10刊・・・・・・・
かねて山田先生が構想を練って来られた同人誌が発行された。
同人は、萩原朔太郎記念とをるもう賞受賞者・江夏名枝。中国人詩人・田原。歌人で山田兼士夫人・山下泉。そして山田兼士先生の計四人である。
雑誌名の通り、この四人で、これからも運営して行かれるものと思われる。
目次を引いておく。
詩
蛇いちご 江夏名枝
無題 Ⅴ 田 原
月光の背中 山田兼士
光の顎 江夏名枝
短歌
微かな時 山下 泉
翻訳
小散文詩 パリの憂愁( 46~50 ) シャルル・ボードレール
訳・解説 山田兼士
評論
歌のなかの時間──高安国世歌集『新樹』まで そのⅰ 山下泉
後記
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蛇いちご 江夏名枝
人形箪笥の奥が怖くて
からっぽに木目がだまりこくる、
ひたいを寄せて匂いを嗅いだ
天神さまの細道もここで終わっていた
探せば狐に憑かれてしまう
いつもひとに馴染まない道があり
はばかることなく
空はかならず焼けていた
人形は横に寝かせると目をつむった
おもうだけのつぼみを川に放ち
一日を供養しても
影が消えると先回りされる
朱色の糸を繰るうちに
漏れるように通じてくる細道
夕暮れの煙へと溶かれる狐らしきもの、
剥ぐように鼻のあたりを掻いている
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この詩は、かつて昭和の時代まであった「天神さまの細道」の光景を詠んだものである。
私の住む辺りも田園であるが、江夏さんの育ったところも都会ではなく、狐の出てきそうな田舎だったようである。
「蛇いちご」という題も的確である。
田原の詩は八ページに及ぶ長いもので、ここに引くことはしない。 作品の終りには「二〇一五年十一月二十六日 稲毛海岸にて」という日付が入れられている。
山田兼士の「月光の背中」の詩は「─月の光を 背にうけて(川内康範作詞「月光仮面の歌」より)」という添え書きがついている。
或る寺院の「月光菩薩」の姿と月光仮面の歌とをコラージュして三ページの詩に仕立てあげた。
江夏の「光の顎」という詩は散文詩になっている。 三ページに及ぶ長い作品である。
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微かな時 山下 泉
めざましき松の美貌を巡りゆき視線の秋のただなかにいる
秋の雨からだの外に出て降れり白鳳展にまなこ閉ずれば
「思われる。」ではなく「思う。」と文末は一重瞼の弥勒のように
夕列車むかう西方薔薇星雲のこるくまなく小籠に摘んで
エピファニー、言葉の鏡を割ろうとも鏡の言葉は光らぬままに
雨明かり木蔭にひらくハンティング・ナイフどこまでふかくふるさと
うそ寝する背中に睫毛あたるとき闇が喀きだす火のごときもの
遠くから見えているのは飾り窓つはくらめの巣や涙骨のせて
虹に会うかすかな時も運ばれて海辺の墓地のような駅まで
にんげんのすべては記憶と青年は草原の扉うしろ手に閉ず
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山下泉は、自分でも詩人というだけあって、歌の構成の仕方が「詩」的である。
ついでに書いておく。 「歌のなかの時間」という高安国世・詩論のことだが、私は京都大学で高安からドイツ語の授業を受けたことがある。
リルケの信奉者かつ研究者として知られる高安だが、母親がアララギの熱心な歌人だった関係で幼い時から短歌に親しんでいた。
実家は医者の家系で両親は医師にしたかったらしいが、彼はドイツ文学者になる道を選んだ。
この小論にも引かれているが、第一歌集の巻頭の歌
・かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり
は、そういう両親の希望に反してドイツ文学者の道を選択するという高安国世の「決意表明」みたいなものである、と私は読み取った。このことは、かって、このブログの前身で書いたことがある。
この歌は、歌のリズムとしても「かきくらし」「ふりしきり」「降りしづみ」という、畳みかけるようなルフランの効果が効いていて秀逸な、私の好きな歌である。
高安さんは子供に夭折されるなど、他にも子供のことで悩むことが多かったらしい。私の次兄・重信に絵の巧い子供の進路のことで相談に来られた、というようなことを私的にも知っているので、なおさらである。
ここでは私的なことには触れない。
アララギのリアリズムを止揚して、高安さんは「主知的リアリズム」を主張された。これは現在の永田和宏の「塔」にも受け継がれていると言えよう。
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いずれにしても、この同人誌の発刊を悦びたい。半年刊をめざしておられるようである。
ご恵送に感謝して、ここに披露する次第である。 有難うございました。

──村島典子の歌──(26)
村島典子の歌「冬の日」34首・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・「晶」93号2016/03所載・・・・・・・
冬の日 村島典子
雨を呼ぶわれであるらし雨つれて時計回りの琵琶湖周遊
湖の西ゆきゆくわれら比良をすぎ伊吹嶺めざす鬨の声あげ
左岸より湖めぐりゆく半日の旅ぞ北指すころに伊吹嶺
過去より未来へ列車よぎるか未来から過去世へゆくか曖昧ならむ
生れかはり死にかはりせむわたくしを乗せて鈍行列車はい行く
切り離されて敦賀へむかふ四輌の列車ここよりわれは旅人
各停のドアー出で入る風のありわれら旅人霜月まひる
手動ドアの珍しきかなヒラケゴマと釦を押して一人降りたり
川いくつ湖へそそげる霜月の雨のみづうみ膨らむごとし
*
けさ秋は澄明なればわがからだ青一色に染まりゆくなり
腫ればれと咲いてゐたのだアキノノゲシ然りげなきこと今日の歓び
街上に死者とわたしと行きあへりあをあをと冬のそら澄めるころ
われはいま冴えわたるらし矩形の窓辺をよぎる囁きを聴く
深きねむりの奥にて鳴きしものの声近づき来たり犬となるまで
乳母車に乗せゐるものは赤子、否、わが老耄の犬にさうらふ
乳母車に乗せゐるものは犬なれば長き耳あり尻尾をもてり
むくつけき狼などではありません赤頭巾のお祖母さんです
乳母車に乗せて廻れば犬すらや極楽ごくらくと呟くごとし
雨乞ひの地蔵のまへに畏まりわが犬のわれお辞儀をなせり
床下にもぐり匍匐前進す夢のなかにてトイレを探す
朝まだきわれは籠りて神様を呼び出したりトイレの神様
たまはりし水菜辛子菜むらさきの葉先をもてり刃物のやうな
むらさき色の辛子菜を湯に放つときアントシアニンすなはち出づる
タネ屋にて購ひし種にてむらさきの不可思議な菜の育ちしといふ
しやきしやきと歯のたつる音冬の日の夕餉のわれの菜を食める音
柚子の種酒にひたして皹のわが手の指になじませむとす
目と耳といづれ残らむこれの世のまぼろしとして耳目養ふ
おほどしの辺りあたりに満つるをこゑ擦るるまでの魍魎のこゑ
森岡貞香よみつつおもふキリストの誕生会の朝の少女聖歌隊
階段下り犬抱きにゆく夜よるをわれはもこの世の人にあらずや
鳥すらやく急くことのある暮れはてて水菜あらふと庭に出できつ
熱々の牡蠣を食べよと備長の炭運びくるおほつごもりに
焼かれつつ苦しき牡蠣は炭の上に口わひらけり食べられむとす
窓ガラス掠めゆくものま青なる空へ飛び去り離れゆくもの
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いつもながらの村島さんの作品である。
今回は秋から冬への身辺を詠われた。
ご恵贈に感謝して、ご披露するものである。

深海魚光に遠く住むものは
つひにまなこも失ふとあり・・・・・・・・・・・・・・・堀口大学
今日3月15日は詩人・堀口大学の忌日である。
先ず、彼のことをネット上から引いておく。
掲出歌に関しては、この引用記事の終りの方に書いてある。
堀口大學
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堀口 大學(ほりぐち だいがく、1892年(明治25年)1月8日 ~ 1981年(昭和56年)3月15日)は、日本の詩人、フランス文学者。
略歴
1892年、東大生堀口九萬一(のち外交官となる)の長男として、東京・本郷に生まれる。大學という名前は、出生当時に父が大学生だったことと、出生地が東大の近所であることに由来する。幼児期から少年期にかけては、新潟県長岡で過ごす。旧制長岡中学校を卒業し、上京。
17歳のとき、吉井勇の短歌『夏のおもひで』に感動して新詩社に入門。歌人として出発する。
1910年、慶應義塾大学文学部予科に入学。この頃から、『スバル』『三田文学』などに詩歌の発表を始める。
19歳の夏に、父の任地メキシコに赴くため、慶大を中退。メキシコでフランス語を学んでいた時、メキシコ革命に遭遇。メキシコ大統領フランシスコ・マデロの姪と恋愛を経験。
この頃、肺結核を患う。以後も父の任地に従い、ベルギー、スペイン、スイス、ブラジル、ルーマニアと、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。
1919年、処女詩集『月光とピエロ』、処女歌集『パンの笛』を刊行。以後も多数の出版を手がける。その仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、生涯に刊行された著訳書は、300点を超える。彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与えた。三島由紀夫もまた、堀口の訳文から大きな影響を受けた一人である。
1957年に芸術院会員となり、1979年に文化勲章を受章。1981年、歿。享年89。
娘の堀口すみれ子も詩人でエッセイスト。
1967年、歌会始で(お題は「魚」)、「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり」と詠んだ。
生物学者である昭和天皇はたいそう喜んだというが、一部には天皇に対する、本人を目の前にしての批判であると解する向きもまたある。
著訳書
月光とピエロ(1919年)
パンの笛(1919年)
訳書・夜ひらく(1924年)
訳詩集・月下の一群(1925年)
砂の枕(1926年)
人間の歌(1947年)
夕の虹(1957年)
月かげの虹(1971年)
沖に立つ虹(1974年)
ルパン傑作集(翻訳年はかなり以前で近年再版されている。)
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はじめに、昭和25年、住んでいた高田を去るときに彼が詠った詩が詩碑として残っている写真をかかげておく。

高田に残す(堀口大学詩碑)
ひかるゝおもひうしろがみ
のこるこヽろの なぞ無けん
すめば都と いふさへや
高田よさらばさきくあれ
おほりのはすよ 清う咲け
雪とこしへに白妙に
堀口大学は父親が外交官であったために、家族として同行して海外生活が長かった。
外国語に堪能であったので、西欧詩の翻訳家として出発した。
引用したところにも書いてあるように「ミラボー橋の下セーヌは流れる」というのが有名だが、近年、詩の翻訳としては、その適否について、とやかく言われている。
人間よ
知らうとするな、自分が、
幸か不幸だか、
問題は今そこにはない。
在、不在、
これが焦眉の間題だ、
灼きつくやうな緊念事。
生きて在る、死なずに在る、
感謝し給ヘ、今日も一日、
調和ある宇宙の一點、
生きものとして在つたこと。
神にでもよい、自然にでもよい、
君の信じ得るそのものに。
知らうとするな、
知るにはまだ時が早い、
人聞よ、
墜落途上の隕石よ。
(人間の歌・隕石)の詩より。(詩集『人間の歌』昭和22年宝文館刊)
この堀口大学の詩は、人の世の愁色感と一種の軽快さ漂わせ、多くの人の青春を流れていった。
先に逝った詩兄弟・佐藤春夫に胸の張れる詩が出来たといった、辞世の詩
「水に浮んだ月かげです つかの間うかぶ魚影です 言葉の網でおいすがる 万に一つのチャンスです」
というのが知られている。
昭和56年、堀口大学は永い詩人生の最期を、春一番の風雨が去ったこの日正午、急性肺炎により葉山の自宅で妻の手を握りながら静かに迎えた。
89歳という長寿であったが、今は鎌倉霊園に眠っている。写真③が、その墓碑。

以下は、この記事を書いた人のコメントである。
<ミラボー橋の下をセエヌ河が流れ われ等の戀が流れる わたしは思い出す 悩みのあとに楽みが来ると>アポリネール・ミラボー橋のこのあとにつづく、<日が暮れて鐘が鳴る 月日は流れわたしは残る>の一節は今になっても私の耳元に小波をうって渡ってくる。この高台の芝垣で囲まれた墓碑のある塋域には、広い谷から吹き上がってきた梅雨の風が抜けきれず、どことなく空しさを携えて残っていた。
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