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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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ひろひ読み拾ひよみつつふとはぐれる終りに近き此の物語・・・・・・木村草弥
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    ■ひろひ読み拾ひよみつつふとはぐれる
          終りに近き此の物語・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
同じ一連につづく歌を、引いておく。

    ■あの空の向うは楕円の空洞か
      ずるい蝙蝠(かうもり)が俺を追ひつめる・・・・・・・・・・・木村草弥


これらの歌は、いずれも「比喩」になっているもので、私の人生を「此の物語」と表現してみた。
無慈悲な歳月の推移を「ずるい蝙蝠」と描いてみたが、いかがだろうか。
掲出した図版は「源氏物語絵巻・朝顔」の段のもので、私の歌とは直接の関係は全く無い。「物語」からの連想である。

現代短歌の世界では、現代詩と同様に、こういう「比喩」表現が盛んに使われる。
もちろん、そういう「比喩」を一切しない人もあるが、リアリズム・オンリーでは歌に深みが出ない。
「比喩」には「直喩」「隠喩」など多くのやりかたがあるが、一般的に一番多いのが「ごとく」というような、単純な直喩を使ったものである。
この場合には、よほどしゃれたものでないと、読者を揺さぶるような感動を与えない。
私は短歌の世界に入る前には現代詩をやっていたので、短歌の世界に入っても、そういう「比喩」表現を採用するのに、何の抵抗もなかった。
この歌も、もう二十年も前の作品だが、先に引いた歌と同様に、すでに老境を意識したものになっている。
「ずるい蝙蝠」と言ってみたが、果たして、現実の蝙蝠が「ずるい」かどうかは判らない。
蝙蝠には悪いが、私の直感が、そう書かせたということである。
ヨーロッパの文学の世界でも、蝙蝠は良い印象を与える描き方はされていないので、そういう潜在意識を私も受け継いだと言えるだろう。

次に引用するのはネット上で見つけたものだが、東京大学の入試問題らしい。
「比喩」「蝙蝠」などに関係するので、よければ読んでみてほしい。 作曲家の三善晃の文章らしい。
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東大1996年
《第五問 現代文/芸術論(個と普遍)問題文(約1600字)
【出典】「指に宿る人間の記憶」三善晃

五 次の文章を読んで,後の設問に答えよ。
 谷川俊太郎さんの詩《ポール。クレーの絵による「絵本」のために》のなかの一編<死と泉>は,「かわりにしんでくれるひとがいないのでわたしはじぶんでしなねばならない」と始まる。それで,「わたしはわたしのほねになる」。そのとき私の骨は,この世のなにものも携えてゆくことができない。「せめてすきなうただけは きこえていてはくれぬだろうか わたしのほねのみみに」。
 この十年ほど,ときどき右腕が使えなくなる。細かい五線紙に音譜を書き揃える仕事のためか,頸椎が変形か摩耗かして,痺れと痛みが何カ月か続く。その間,右手はピアノも弾けない。鍵盤のうえに指を置いて触るだけだ。
 しかし,そうすると,ピアノの音が指の骨を伝って聴こえてくる。もちろん,物理的な音が出るわけでない。だが,それはまぎれもなくピアノの音,というよりもピアノの声であり,私の百兆の細胞は,指先を通してピアノの歌に共振する。こうして,例えばバッハを”弾く”。すると,子どものとき習い覚えたバッハの曲は,誰が弾くのでもない,大気がずっと歌い続けてきている韻律のように”聴こえて”くる。
 骨の記憶のようなものなのだろう。それは日常の意識や欲求とは違って,むしろア私とはかかわりなく自律的に作動するイメージである。多分,子どものときから腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して聴覚イメージを喚起する,ということなのだろう。だが,そうして私に響いてくる韻律は,私の指の運動を超えている。それは私の指が弾くバッハではなく,また,かつて聴いた誰かの演奏というものでもない。バッハの曲ではあるが,そのバッハも韻律のなかに溶解してしまっている。
 日常の時空を読み取る五感と意識の領域でなら,私は絶えず「自分」と出会っている。改めて振り返るまでもない日常の小さな起伏と循環……そこに出会い続ける「自分」は,丸山圭三郎さんの言われた「言分け」(言葉で理解する)と「身分け」(身体で理解する)を借りて言えば,最終的にはいつも「身分け」る自分だった。
 私は,私が他者のなかに生き,私の言葉が他者のためにしかなく,私の仕草が他者にしか見えないことを「身分け」ている。蝙蝠が自ら発する音波の反響で自分の位置を知るように,私は自分では決してなることのできない他者の鏡を借りて,絶えず自分を見続けていることも,私は「身分け」ている。そのような生き方をどのように「言分け」ても,その「言分け」は,「身分け」られる生き方を超えることはできない。例えば,どんなに死を「言分け」ても,それは私自身の生の「身分け」を超えることができない。それでもなお私は,その「身分け」を「言分け」し続けなければならない。
 だから私は,イ自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた。しかし,「わたしのほね」になるほかない私の指が,私の内部で私にだけ響かせるものは,他者を介在させることなく私を凝視める「自分という他者」の声なのだ。
 私のなかに,「分け」ようとする私と絶縁した私がいる。それはウ私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>でもあるだろうか。
 私が音を書こうとするのは,その人間の記憶のためであり,また,その記憶に操られてのことなのかもしれない。それならば,いつか私が「わたしのほね」になるときに,私は「自分という他者」として自分と出会い,人間の記憶に還ることができもしようか。

[注]丸山圭三郎---一九三三~一九九三。哲学者。

(一)「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」(傍線部ア)とは,どういうことか,説明せよ。
(二)「自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた」(傍線部イ)とあるが,なぜか,説明せよ。
(三)「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」(傍線部ウ)とは,どういうことか,説明せよ。


《第五問》現代文解説・解答

●(一)「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」(傍線部ア)とは,どういうことか,説明せよ。
【解説】「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」という傍線部の主語は「それ」で,「それ」は前文によれば「骨の記憶のようなもの」になる。また「骨の記憶のようなもの」は前の段落末尾から,「誰が弾くのでもない,大気がずっと歌い続けてきている韻律」→「何か普遍的な韻律」ぐらいになろうか。そこで傍線部の「イメージ」は「何か普遍的な韻律」と置き換えられる。
 「私とはかかわりなく」は,傍線部を含む一文の直前に「それは日常の意識や欲求とは違って,むしろ」とあるわけだから,「日常の意識や欲求」と関わりなくという意味であろう。
 また,「自律的に作動する」の同意部は,直後の,事実上,「つまり」でつながれた「多分,子どものときから腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して聴覚イメージを喚起する,ということなのだろう。」になる。「腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して喚起される」ということである。
 合成してみると,「私の日常の意識や欲求と関わりなく,腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して喚起される,空間に遍在する韻律のこと。」
【解答例】
私の日常の意識を超え,身体に蓄積された運動イメージが鍵盤の手触りに条件反射して喚起される,何か普遍的な韻律のこと。

●設問(二)「自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた」(傍線部イ)とあるが,なぜか,説明せよ。
【解説】まず主語は「私」である。次に傍線部を含む一文の直前に,「だから」とあるから,傍線部の理由が直前の形式段落にあることは明白である。単純に言えば「そのような生き方をどのように『言分け』ても,その『言分け』は,『身分け』られる生き方を超えることはできない。(例えば,…。)それでもなお私は,その『身分け』を『言分け』し続けなければならない」から,が答になる。しかし,これでは筆者独特の術語(いわば論理的比喩)が混ざっていてよくわからない。もう1つ前の形式段落まで行くと,「言分け」は「言葉で理解する」,「身分け」は「身体で理解する」と説明されている。つまり,「私は,そのような生き方をどう言葉で理解しても,身体での理解を超えられないのに,それでも言葉で理解し続けなければならないから」ということになる。また,「そのような生き方」の指示内容はその前にあり,それは「私は,私が他者のなかに生き,私の言葉が他者のためにしかなく,私の仕草が他者にしか見えないことを『身分け』ている。(蝙蝠が…は比喩)。私は自分では決してなることのできない他者の鏡を借りて,絶えず自分を見続けていることも,私は『身分け』ている。」を指す。「他者を通して自分を見続ける生き方」ぐらいにまとめられる。合成する。

【解答例】
他者を通して自分を見続ける生き方は,身体で理解するしかないのに,なお言葉で理解しようとし続けなければならないから。

●設問(三)「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」(傍線部ウ)とは,どういうことか,説明せよ。
【解説】傍線部の主語は「それ」であり,指示内容は直前の「『分け』ようとする私と絶縁した私」である。そこで,「身体による理解と言葉による理解,つまり,理解することと縁を切った自分」ということになる。
 さらに「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」の同意部分を探してみよう。まず設問(一)では「骨の記憶のようなもの」があった。「私の身体に蓄積された何か普遍的な韻律」ということであった。
 さらに「『わたしのほね』になるほかない私の指が,私の内部で私にだけ響かせるものは,他者を介在させることなく私を凝視める『自分という他者』の声なのだ。」が見つかる。「私の内部に蓄積されている,他者が介在することがない『自分という他者』」ぐらいにまとまる。『自分という他者』は「個の中の普遍的なもの」ぐらいの意味だろう。
 「理解することと縁を切った自分」「私の身体に蓄積された何か普遍的な韻律」「私の内部に蓄積されている,他者が介在することがない『自分という他者』」「個の中の普遍的なもの」を合成する。
【解答例】
たとえば韻律のように,他者を通した自分への理解とは無縁の,人間の個の身体の内部に蓄積されている普遍的なもののこと。

以上。

★文章寸評(読解とは関係ありません。)
 もう少しわかりやすく書いてもらえないかなあ,三善先生!


ふりむけば障子の桟に夜の深さ・・・・・・長谷川素逝
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  ふりむけば障子の桟に夜の深さ・・・・・・・・・・・・・・・・長谷川素逝

障子というと、昔はもっと広い呼称であったが、今では「明り障子」のみを「障子」という。
掲出の写真は「雪見障子」と呼ぶもので、これにも、いろいろの形のものがある。
「明り障子」には美濃紙や半紙などを貼るが、やはり無地のものが佳い。
紙を越した光線はやわらかく、落ち着いた感じがして好ましい。
今風の家でも一部屋くらいは座敷があり、障子があるだろう。

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写真②は「葦簾障子」というもので、夏になると障子や襖を、この「よしず障子」に入れ替えたものである。
「よしず」の一本一本に隙間があり、夏の蒸し暑さから「通風」を保って、多少なりとも和らげようとの思惑の産物であった。
この頃では、よほどの古い家か大きな家でないとお目にかからない。
冬になれば外して収納しなければならないから、その収納スペースも大変である。
障子は、防寒、採光のための建具だが、また奥ゆかしい空間を作り出す用具でもあった。
一年に一度は、紙を張り替える「障子貼り」というのが年中行事として行なわれていた。
障子の枚数の多い家など大変である。
「障子紙」の用意からはじまり、糊を炊き、障子を外して古い紙の剥しと、水洗いが、また大変であった。

昔のわが家では「障子の張替え」は、専ら母の仕事だった。
父は仕事で忙しかったから、そういう家事は殆ど手伝わなかった。子供たちにも手伝わせなかった。
田舎の家だから障子の枚数も多かった。母は手際がよかったから、貼る障子紙も、「桟」の幅に合せて事前に剃刀で、きれいに切り揃えて用意してあった。
貼って糊が乾いてから、霧吹きで水を吹き付けると、乾いたときにピンと張ってきれいに仕上がるのだった。
今の我が家は、すっかり洋風になって「障子」は四枚だけになった。 夏用の「よしず障子」も無い。

以下、障子の句を引いて終わりにしたい。

 美しき鳥来といへど障子内・・・・・・・・原石鼎

 しづかなるいちにちなりし障子かな・・・・・・・・長谷川素逝

 死の如き障子あり灯のはつとつく・・・・・・・・松本たかし

 柔かき障子明りに観世音・・・・・・・・富安風生

 うすうすと日は荒海の障子かげ・・・・・・・・加藤楸邨

 われとわが閉めし障子の夕明り・・・・・・・・中村汀女

 涛うちし音かへりゆく障子かな・・・・・・・・橋本多佳子

 嵯峨絵図を乞へば障子の開きけり・・・・・・・・五十嵐播水

 枯色の明り障子となりにけり・・・・・・・・山口草堂

 煎薬の匂ひ来る障子閉ざしけり・・・・・・・・角川源義

以下ネット上に載る長谷川素逝の記事を転載しておく。
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写真は下の記事中にも書かれている句碑。
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津の生んだ俳人 長谷川素逝
俳誌『阿漕』
 阿漕浦の岩田川寄り、ヨットのマストが林立している伊勢湾海洋スポーッセンターの前の海岸堤防の所に、わりあい大きな石碑が立っている。これが津の生んだ、全国的にも有名な俳人長谷川素逝の句碑で、次の句が刻まれている。
 遠花火海の彼方にふと消えぬ
 この句は、昭和10年7月下旬に詠まれた。その当時、津中学校の国語教師をしていた素逝は、夕方から乙部の自宅に集まってきていた俳友たちと、夫人と妹さんを伴って、涼を求めて海の方へ散歩に出掛けた。贄崎海岸から新堀に出て、そこの渡しで岩田川を渡って、阿漕浦へ出た。浜辺を歩くうちに、暗い海の彼方に遠く花火の上がるのが見られた。音もなく、ふと消える遠花火の風情を素逝はそう詠んだ。このエピソードは、俳友七里夏生氏の直話による。

 素逝長谷川直次郎は、明治40(1907)年大阪に生まれた。父が大阪砲兵工廠の技師だったからで、本籍は津市。大正4(1915)年、父の退職によって津に帰り、養正小学校に転入。津中学校を経て、京都の第三高等学校文科入学、俳句を田中王城・鈴鹿野風呂に師事した。昭和4年、「京鹿子」(野風呂主宰)の同人となり、「ホトトギス」初入選は昭和5年。昭和7年、三島重砲連隊幹部候補生として入隊している。除隊後、津の自宅に帰り、母校の関係で「京大俳句」の創刊に参加し、一方地元三重の俳句の振興を目指して俳誌「阿漕」を昭和8年創刊、主宰した。昭和9年4月、京都伏見商業学校の教員となるが、その9月津中学校の教員となって津に帰った。ところが、昭和12年中国との戦争が始まると程なく砲兵少尉として応召。昭和13年12月、病を得て入院、内地送還となった。翌年、その間の句を収録した句集「砲車」を出版してその名をうたわれた。

 その後は、病をいやしながら句作に励み、句集「三十三才」「ふるさと」「村」「暦日」と編んでいく。その静寂な自然凝視の句は、「ホトトギス」を通じて全国の俳人たちに親しまれた。落葉を詠んだ句が多かったので、"落葉リリシズム"ともいわれた。一時、甲南高等学校教授となったこともあったが再入院し、戦後は各地に転地療養したが、ついに昭和21年10月10日、旧大里陸軍療養所で没した。享年わずかに40歳であった。

 高浜虚子は、その死をいたんで、「まっしぐら炉に飛び込みし如くなり」の句を寄せた。


私の心もとない半生のミスプリントに朱線を引かう・・・・・・木村草弥
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   私の心もとない半生の
      ミスプリントに朱線を引かう・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
この歌は、私の経てきた人生を「喩」的に表現したものである。
長い生の中では、いくつかの失敗や間違いを重ねたので、それを「ミスプリント」と表現してみた。
掲出した画像は、原稿の「校正」の見本である。 編集・校正には一定の約束ごとがあり、出鱈目にやるものではない。

私は第一歌集を出したときに角川書店の担当が呉れた編集手帳に載る「校正記号」で勉強した。
詳しくは、「校正記号表」 ← というサイトを参照されよ。PDFだが、荒瀬光治著より引用されたもの。

いろいろやってみると面白いものである。
私も第六歌集『無冠の馬』(角川書店)まで上梓したが、そのときには「筆者校正」を「三校」にわたってやった。
この歌集は私のパソコンに保存してある原稿をCD-Rで出版社に届けたもので、この原稿に私のミスのないかぎり、出版社や印刷所による「入力ミス」というのは起こらないので、
以前のような「活版」印刷と違って、校正個所は大幅に少ない。

「朱線」というのは、赤い線を引いて「抹消」または「訂正」するときに使うもので、例えば、次に引用するような場面にも使われる。

以下は、Yahoo! JAPAN - My Yahoo! 「智恵袋」という質問サイトに載るものである。
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質問

「離婚歴があると,戸籍に☓がつけられる。それが,バツイチの語源だ」という話を母が言っていました。本当の話でしょうか。

ベストアンサー に選ばれた回答

本当です。

戸籍謄本の配偶者を書きこむ欄に、離婚すると朱線のバツ(☓)が記されるところから、そういわれます。

余談ですが。。。

本籍地を移すと、「☓」が消えます。
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このサイトの記事の必要な部分のみに要約したことを了承されたい。

妻が亡くなって、いろいろの法的処置が必要になって、私の戸籍謄本を取り寄せたが、その謄本には妻の記載欄に大きく☓印が入れられて「抹消」されている。
私の手元にあるのは謄本であるから黒線に見えるが、原本は「朱線」で抹消されているのであろう。
同じく、私の娘たちも結婚して出て行ったものは、私の戸籍から☓印をつけられて「抹消」されている。
謄本が手元にあるので、それを掲出できたらいいのだが、プライバシーにわたるので、それは見せられない。



季節はああ次々とやつて来る私はもう急ぐこともない・・・・・・・木村草弥
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    季節(シーズン)はああ次々とやつて来る
        私はもう急ぐこともない・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

「生き急ぎ」という言葉があるが、これは反面では「死に急ぎ」にも通じることである。
今しも、年末にさしかかってきて、友人、知人、親戚などから「喪中はがき」が連日のように舞い込む始末である。
私のような歳になってくると、友人の死の知らせに接することが多い。
そんなハガキに添え書きしてあるペン字には、自分自身の体のことで「胃がんで全摘出した」とか「パーキンソン病になってしまった」とか書いてある。

掲出した私の歌は、もう二十年以上も前の旧作だが、この頃に、私はもう、こんな「死生観」を濃密に抱いていたということである。
私は十代の思春期の頃に、長兄や姉や祖父や妹やら、叔父の死などが連続して異様な感覚に打ちのめされた。
「死」ということに、否応なく直面させられたのである。
この頃から、私の身近に「死」が存在した、と言えるだろう。
だから、私自身にとっては、掲出歌のような心境は不思議でも何でもないのである。

私の掲出歌とは直接の関係はないが、必要があってネット上をサーフィンしていたら、下記のような記事に出会ったので載せておく。
いつごろの記事なのかも不明。
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「死急(しにいそぎ)温泉」 (宮城県)

 温泉には、様々な成分が溶けこんでいて、それが健康にもよいのだが、中には成分があまりにも強烈で、注意しないと体に悪いような温泉もある。この死急温泉はその代表的なものである。

 岩風呂にたたえられたお湯は、ちょっと見ただけでは何の変哲もないきれいな湯である。ただ、よく見れば湯面に、羽虫や小動物の死骸が浮かんでいることに気がつくだろう。そして、鼻をつく強烈な臭い。

 ここの温泉は、硫酸をかなりの濃度で含んでいるので、長時間入っていると体が溶けてしまう。慣れた人で一分。初心者は十秒くらいつかるだけにするのが安全であろう。

 東北本線黒勝田からバスと、電車で乗りついでくるこの死急温泉は、その名の通り地獄の一丁目のような恐ろしいムードのところである。馬車を降りると、そこにはポツンと、一軒の古びた宿があるだけ。宿のすぐ横は墓場で、時々火の玉がふわふわ漂っている。

 そんなところまで来たのは、あなた以外にひとりもいない。そこで宿の扉を開け、ごめん下さい、と言う。三度ほど叫んだところでやっと奥から、
「ふはーい」
 と言って前歯が一本もない皺だらけの老婆が腰を曲げて出てくる。
「今晩泊めてもらえませんか」
「えっ。そしだらもしかすっど、おめえは、お、お、お、お客さんだばや」
「そうです」
「そうか」
 
 なぜか急に老婆は無口になる。ジロリ、とあなたを見つめて、小さな声でこう言ったりするのだ。
「死んでも、知らんぜよ」
 背中に冷たい水をあびせかけられたように、ゾーッとするであろう。

 しかし、私はこの死急温泉へ何度も行き、その卒塔婆館を経営する老夫婦をよく知っているのだが、そのお婆さんは小比類巻ミチといって、本当はとても親切な人である。

(中略)

 宿の裏手に、露天風呂がある。前述したように、初心者は十秒くらいしか入ってはいけない湯なので、岩などにつかまってすぐにあがれるように身構え、ちゃっと入って、十数えたらすぐ出るようにしよう。その時体のバランスを崩して湯に頭から落ち、強い酸を飲んでしまい、げぼっ、とむせたりし、我を忘れて暴れまわり、足をすべらせて掴みどころを見失ったりしていると、足元のほうから、ジューッと体が溶けていくので大変な悲劇となる。そういう意味では、恐ろしい温泉である。

交通 東北本線黒勝田駅からバス25分で死出路へ。死出路から乗合馬車で1時間。車で行ける道はない。
泉質 硫酸。55度。
効能 機敏性を養う。度胸試し。
宿 1軒。
◆卒塔婆館 Cランク。収容10人。経営者が不気味。
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何とも異様な温泉があるものである。「死に急ぎ」という言葉を使ったので、その関連で「検索」に引っかかった言葉端であると、お許しいただきたい。

いずれにしても、「生き急ぎ」「死に急ぎ」はするものではない。物事や歳月の推移も、あるがまま受け入れたいものである。



冬が来た。白い樹樹の光を体のうちに蓄積しておいて、夜ふかく眠る・・・・・・前田夕暮
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  冬が来た。白い樹樹の光を体のうちに
      蓄積しておいて、夜ふかく眠る・・・・・・・・・・・・・・・・前田夕暮


この歌は、「口語自由律短歌」と呼ばれるものである。
「白い樹樹の光」というのを、たとえば雪を被って白くなった樹木と捉えることも出来るが、それだと詩的な面白味は薄れる。
むしろ葉が落ちて、裸になった樹木にあたっている冬の日の光そのものを、作者は「白い」と感じているのだろう。
この歌は、白い樹樹の光を「体のうちに蓄積しておいて」という捉え方も面白いが、それを受けて「夜ふかく眠る」と続くところに、作者のすぐれた資質がよく出ている。
詩句における昼から夜への移行が、歯切れのいい転換によって新鮮さとふくらみを生んでいる。
昭和15年刊『青樫は歌ふ』所収。

いま歳時記を繰っていて気がついたのだが、「裸木」という季語は載っていない。
「冬木」というのはあるが、ものすごく詳しい歳時記なら載っているかも知れないが、私などは「裸木」という表現の方が、好きである。
「冬木」と言ってしまっては、葉を落とした樹木の感じを、表現の面で狭めてしまうと思うのである。
「裸木」の方が季節感を限定せずに膨らみがあり、読者の想像に任せる面が多いのではないか。
歳時記の見出し語としては「枯木」というところに入れられている。
表現として「枯木」と「裸木」では、趣きが違うのではないか。

前田夕暮については、前にも採り上げたことがある。
この歌などは強いて「短歌」と呼ばなくても「短詩」としてのリズムも的確で、すぐれた作品である。
前田夕暮は自然主義的な定型短歌から出発し、昭和ひと桁の頃に自由律に転換し、掲出したような歌を作った。
その後、戦争さなかには自由律に対する弾圧の時代が来て、戦争末期に定型短歌に復帰するに至るのだが、
自由律の作品にも、この歌のように佳いものもあるが、全体としてみると、自由律のものは散漫な作品が多く、私などは「定型」の作品の方が、粒が揃っている、と思う。

枯木の句を少し引いて終る。

 枯木中少年の日の径あり・・・・・・・・川口松太郎

 犬細し女も細し枯木中・・・・・・・・高野素十

 真青に海は枯木を塗りつぶす・・・・・・・・山口青邨

 妻は我を我は枯木を見つつ暮れぬ・・・・・・・・加藤楸邨

 大枯木しづかに枝をたらしたる・・・・・・・・長谷川素逝

 鞦韆を漕ぎはげむ木々枯れつくし・・・・・・・・橋本多佳子

 赤く見え青くも見ゆる枯木かな・・・・・・・・松本たかし

 千曲川磧(かはら)の先の桑も枯る・・・・・・・・森澄雄


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