
大空のあくなく晴れし師走かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎
今日は「師走」という言葉について、少し書いてみたい。
「師走」とは陰暦十二月の異称で、ほぼ太陽暦の一月の時期に該当するが、他の陰暦の月の名称と違って、師走だけは太陽暦の十二月にも使う。
師走の語源として「お経をあげるために師僧も走るほど忙しい」とする説から、年末の多忙を表わす語として定着したためだろうと言われている。
はじめに申しあげておくが「師走」の読み方としては「しわす」ではなく「しはす」と訓(よ)みたいものである。
『万葉集』巻8・冬雑歌(歌番号1648)に
十二月(しはす)には沫雪降ると知らねかも梅の花咲く含(ふふ)めらずして
という「紀少鹿女郎」の歌として載っている。
この歌の原文は
十二月尓者 沫雪零跡 不レ知可毛 梅花開 含不レ有而
しはすには あわゆきふると しらねかも うめのはなさく ふふめらずして
であって、これを上記のように訓み下しているわけである。
この訓み下しが誰によってなされたかは知らないが、万葉集の頃に、すでに「十二月」が「しはす」と読まれていたという証明にはならない。
つまり「しはす」という訓みが、十二月=しはす、ということが、すでに定着していた頃に「訓み下された」に過ぎないからである。
書き遅れたが、万葉集の頃には、日本にはまだ文字はなかったので、日本語を書き表わすには、漢字を借用して表記された。
だから漢字の「音」オン「訓」クンを漢字に当てはめている。万葉集では、それに「漢文」の「反り点」のように(上の歌の例の③⑤のフレーズ)文章が綴られている。
以前に書いたことだが、分かりやすい例をあげてみる。
有名な柿本人麻呂の歌(巻1・歌番号48)の
ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ
は名歌としてもてはやされるが、これは賀茂真淵が訓み下したものであって、原文は
東 野炎 立所レ見而 反見為者 月西渡
であって、「月西渡」を「月かたぶきぬ」と訓むのは「意訳」ではないか、人麻呂は単純に「月にしわたる」としたのではないか、という万葉学者の異論もあるのである。
万葉集の「訓み下し」に深入りして脱線したので、本論に戻そう。
「角川俳句大歳時記」の「師走」の考証欄には以下のように書かれている。
元禄11年に出た『俳諧大成新式』という本に
<ある説に、およそ亡き人の来ること、一とせに二たびなり。盂蘭の盆内と年の尾にありて、いにしへは大歳(おほどし)にも魂(たま)迎へせしよし、兼好のころもなほありと見えたり。それをとぶらふ僧と、仏名の師と、道もさりあへず走りありくゆゑに、師走といふなりとあり。>
と書かれているのが、今日、一番妥当な説として定着しているらしい。
ここで「師走」を詠んだ句を引いて終る。
隠れけり師走の海のかいつぶり・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉
エレベーターどかと降りたる町師走・・・・・・・・・・・・高浜虚子
極月や晴をつづけて巷ある・・・・・・・・・・・・松根東洋城
極月の人々人々道にあり・・・・・・・・・・・・山口青邨
病む師走わが道或はあやまつや・・・・・・・・・・・・石田波郷
青き馬倒れていたる師走かな・・・・・・・・・・・・金子兜太
がんがんと鉄筋のびる師走かな・・・・・・・・・・・・高柳重信
法善寺横丁一軒づつ師走・・・・・・・・・・・・稲畑汀子
極月の舞台悪党ぞろぞろと・・・・・・・・・・・・馬場駿吉
極月の書棚に置きし海の石・・・・・・・・・・・・高室有子
自転車よりもの転げ落ち師走かな・・・・・・・・・・D・J・リンズィー
極月の罅八方にかるめ焼・・・・・・・・・・・中村弘
ソムリエの金のカフスや師走の夜・・・・・・・・・・・・深田やすを
赤札を耳に師走の縫ひぐるみ・・・・・・・・・・・・大町道
迷いなく生きて師走の暦繰る・・・・・・・・・・・・田島星景子
関所めく募金の立ちし街師走・・・・・・・・・・・・杉村凡栽
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