K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(3月)月次掲示板
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東日本大震災から六年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
kohakucyou02-1コハクチョウ飛翔

弥生三月になりました。 3.11の哀しみと鎮魂の日が巡ってきます。
寒暖を織りまぜながら春は一歩づつ深まり、白鳥の「北帰行」も始まっています。

 「ちゃんと除染していますから」お辞儀して拝観料のお釣りくれたり・・・・・・・・・・・・斎藤芳生
 ふくしまの雪が静かに地に沁みて辺野古のジュゴンの瞼を濡らす・・・・・・・・・・・・平山良明
 塚本邦雄いまさばいかに歌ひますや 苦艾は淡黄の花つけるとふ・・・・・・・・・・・・雨宮雅子
 <凍土壁>は凍らぬといふ ひそひそと血のごとく滲みうごく地下水・・・・・・・・ 米川千嘉子
 どこかには埋めねばならずどこかなるそのどこかとふ実存が要り・・・・・・・・・・・・梶原さい子
 乗りたくて後先みずにバスに乗るいづれこの世のどこかに着かむ・・・・・・・・・・ 蒔田さくら子
 米国と戦争したるを日本の若者三割知らざるといふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋葉四郎
 つくりだしちゃってしでかしちゃってにんげんが海に命を奪わせている・・・・・・・・・・・ 俵万智
 死はそこにあるかと思ふあかるさに菜の花咲けりその花を食ふ・・・・・・・・・・・・・・・・ 外塚喬
 いつまでも暮れない空にくたぶれて門鎖しにゆく草匂ふところ・・・・・・・・・・・・・・ 河野美砂子
 いつの間にか武器売る国となり居しか逃れなくここに塊として・・・・・・・・・・・・・・ 大河原惇行
 民主主義の数の力がつっぱしる係留杭を引き抜きながら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・永田紅
 噛むほどに干し烏賊の滋味しみわたりやがて上書きされゆく昨日・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 アルカディアはギリシャの地名巴旦杏を一粒のせた焼き菓子もまた・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 ひとが死にあきたる穴に嵌めらるるひとつのピース くちをつぐみな・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 春の旅はげしき海に出会ひけり・・・・・・・・・・・・・ 阿部みどり女
 一燭に春寧からむ伎芸天・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阿波野青畝
 蟇ないて唐招提寺春いづこ・・・・・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
 麗しき春の七曜またはじまる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
 目つむれば風かすかなり花の雨・・・・・・・・・・・・・さわだかずや

 霾のグリエに春闇ジュレ添えて・・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 行く雁やぐづぐづ曇りつづきなる・・・・・・・・・・・・・・・前北かおる
 春を唄へば浅草の筈である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・堀下翔
 目の隅まで桜を入れてガムを噛む・・・・・・・・・・・・・・・上田信治
 山笑ふアダム・ブラボー・チャーリーは・・・・・・・・・・ハードエッジ
 抜く腸もぷりぷりとして春鰯・・・・・・・・・・・・・・・・・ すずきみのる
 理科室の棚に鍵あり梅の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 陽炎や歩いてもなお遠からず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・葛城蓮士
 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 パンケーキの断面ましろ涅槃西風・・・・・・・・・・・・・・・青木ともじ
 救いなど求めず生きて私を抱いて・・・・・・・・・・・・・・・・・畠働猫
 しやぼん玉吹く子吹かれて泣きたる子・・・・・・・・・・・・杉原祐之 
 三月のひかりに壜の傷あらは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青本瑞季
 ひかりのなかでおもいだすひかり・・・・・・・・・・・・・・・・藤井雪兎
 黄水仙色鮮やかに独りなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 工藤定治
 草摘むや衣一枚薄くして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 片岡義順
 海女擲てば拳のなかの桜貝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青山青史
 花馬酔木ほそき煙となる手紙・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 滝川直広
 ずるいなあと母のつぶやく春の山・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高梨章
 雪とけて秋の残骸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 本間鴨芹
 最後通牒みたいに満開・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 松田畦道
 春草の冠電話越しに編む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三島ちとせ
 竹叢のさうさうと鳴る涅槃の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岬光世
 傲岸な仔猫の如くハイヒール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉川千早
 あるときは鴉を濡らし春の水・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 利普苑るな
 鶴帰るとき置いてゆきハルシオン・・・・・・・・・・・・・・・ 金原まさ子
 セーターに恋の話をしてをりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・篠塚雅世
 花叩く雨を聴く夜更かしして何かを待ってる・・・・・・・小笠原玉虫
 青空からハトが降りてきて何か食う・・・・・・・・・・・・・・・・渋谷知宏
 終日カレーの工夫を考えのたりのたり・・・・・・・・・・・・・・白川玄斎
 後は土になる花がある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・天坂寝覚
 山の腹も菜の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬場古戸暢
 後れ毛を指から逃がす春の夢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中惣菜
 戻り寒大鋸の刃の尖り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 うたた寝の夢の中へと落椿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥田隆夫
 春めくや五段活用したくなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 盛蓉子
 恋猫や馬酔木は狸寝入りして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子  
 なにかみな似たものばかり今朝の春・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
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椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ・・・・・池田澄子
t-syuzan周山椿

      椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ・・・・・・・・・・・・・・・池田澄子
 
今回は、そろそろ咲きはじめる「椿」を採り上げる。
椿には何百という栽培品種があるようだが、関西で産出された椿の写真を四つお目にかける。
トップ掲出の写真①は「周山」椿というもので、周山というのは京都市の北方にある町の名前である。そこで産出されたものだろう。

掲出句は、類句にはない前衛性がある。 「話し言葉」をさりげなく採り入れて、秀逸である。注目されている作家である。
詳しくは → Wikipedia─池田澄子

写真②は「谷風」という椿である。
t-tanikz谷風(関西)

写真③は「淡粧」という命名を持つピンク系の椿である。
t-tanso淡粧(関西)

椿と「さざんか」は同じツバキ科の木であり、この花は一見するとサザンカに似ているが、
椿とサザンカの違いは、サザンカは花びらが、ばらばらと落ちるの対して、ツバキは萼の付け根から花全体がぽろりと一度に落ちる、という違いがある。
だから昔の武士は首が落ちると言ってツバキを嫌ったという。
ツバキの名前だが、それぞれ趣向を凝らしてつけてある。花と名前を比べて見られよ。
写真④は「百合椿」という命名である。
t-yuri百合椿(関西)

先に書いたように、ここに挙げる4点のツバキは、みな関西で産出されたものである。
④のものは花びらの形が独特である。唇を尖がらしたような特異な形をしている。
育種に携わる人は根気のある人なのだろう。たくさんのツバキの中から突然変異で出て来たものを品種固定することもあろうし、
今ではバイオテクノロジーの技術を駆使することもあろうが、それにしても手間のかかることである。

写真⑤は「酒中花」という名前の「やぶ椿」である。
syucyuka00801やぶ椿

伝統的なやぶ椿の系統らしいが、縁取りに薄紅色の「ふくりん」というのかボカシが入っており、
これが何だか酔っ払っているようで「酒中花」という名がついたようである。

豊臣秀吉の椿好きは有名で、
俳人では石田波郷も、椿を好んだと言われている。

    一つ咲く酒中花はわが恋椿・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

この句から彼の句集『酒中花』の題名が採られている。

文芸では「万葉集」以来、詩歌に詠われてきた。「玉椿」はツバキの美称である。
「つらつら椿」は連なり生えた椿のことで「万葉集」巻1(歌番号54)につらつら椿の有名な歌がある。

   巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲ばな巨勢の春野を・・・・・・・坂門人足

咲いている椿よりも「落ち椿」を文人は好んで詠った。

   水入れて鉢に受けたる椿かな・・・・・・・・鬼貫

の古句なども、そういう詠みぶりのものである。

椿を詠んだ句は古来たいへん多いが、「落ち椿」を詠んだものを少し引いておく。

 落ちざまに虻を伏せたる椿かな・・・・・・・・・・夏目漱石

 掃くは惜し掃かぬは憂しや落椿・・・・・・・・阿波野青畝

 はなびらの肉やはらかに落椿・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 椿つなぐ子に父問へばウン死んだ・・・・・・・・・・渡辺水巴

 椿流るる行衛を遠くおもひけり・・・・・・・・・・杉田久女

 椿見る落ちよ落ちよと念じつつ・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 愛すとき水面を椿寝て流る・・・・・・・・・・秋元不死男

 椿落つおろかにものを想ふとき・・・・・・・・・・稲垣きくの

 いま一つ椿落ちなば立去らん・・・・・・・・・・松本たかし

 落椿美しければひざまづく・・・・・・・・・・田畑美穂女

 落ちる時椿に肉の重さあり・・・・・・・・・・能村登四郎

 海女の村昼の男に椿満つ・・・・・・・・・・飯田龍太

 犇きて椿が椿落としけり・・・・・・・・・・岡本眸

 落椿われならば急流へ落つ・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 はいてもはいても女人禁制の庭椿・・・・・・・・・・・仁平勝

 神が来し海上の道岬椿・・・・・・・・・・本井英

 椿千われ白骨と化する日も・・・・・・・・・・永島靖子



聞酒に誘はれ口にふふみたる此の旨酒の銘は「神奈備」・・・・・木村草弥
kikizake04利き酒茶碗

    聞酒(ききざけ)に誘はれ口にふふみたる
        此の旨酒(うまさけ)の銘は「神奈備」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


冬は日本酒の「仕込み」のシーズンであり、今はおいしい新酒が出来て来ている。今日は「利き酒」の話題を。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この「神奈備」という銘は私が勝手につけた名前で実在しない。
全国どこかにあるかも知れないが、この歌とは関係がない。
私が参加した「利き酒会」は平凡な名前の蔵で、歌に詠む時には乗り気になれなかったので、架空の名にした。

写真①の茶碗は「審査茶碗」と言って、利き酒をする場合に使用する独特の茶碗である。
「神奈備」というのは、大和の三輪山その他、全国各地に存在する地名で「神の坐(いま)す地」という意味で、古代から信仰の対象として崇められてきた。

写真②③は、私の住む所から木津川を隔てて対岸の丘にある「神奈備神社」である。

kannabi_shrine_2神奈備神社

kannabi_shrine神奈備神社

写真でも読み取れるが「式内」社の字が見え、この字のつく神社は古代はじめからの神社であることを示している。
この山一帯は甘南備山と呼ばれ、一帯には古代の古墳が多数存在する。継体天皇の「筒城宮」もこの一角にあったとされる。
ついでに言うと、この丘の一角に近年、同志社大学が「田辺校地」を構え、女子大学と工学部の全部と各学部の「教養課程」の2年間の学生が通学していた。
チャペルも設置され、丘の上の煉瓦づくりの校舎が遠望できる。
もっとも、全国的な傾向だが、大学発祥の地に回帰するのが風潮で、同志社も京都市内の「今出川」校地の周辺を買収して校地を広げて、
今では教養課程も今出川校地に戻ってしまった。だから田辺校地に残るのは女子大学と工学部だけとなる。
それと海外からの帰国子女のための「同志社国際高校」がある。
教養課程が此処にあった頃は、学生目当てのマンションが盛んに建てられたが、これらのマンションは「空室」に泣いているという。
また、この丘の麓には「一休禅師」が晩年隠れ住んで、森女と愛欲のかぎりを尽したという「一休寺」がある。
このいきさつについては私は第二歌集『嘉木』(角川書店)の中で「狂雲集」という一連で歌にしておいた。
そのうちの一首を抜き出すと

    一休が森手をみちびき一茎を萌えしめし朝 水仙かをる・・・・・・・木村草弥

というものである。
これはメタファーに仕立ててあるので、解説すると「森手」というのは「森女」の手ということであり、「一茎」というのはpenisのことであり、
「水仙」というのは文芸の世界ではvaginaのことを指す隠語として定着しているのである。

「利き酒」から話題が逸れたようだが、そういう「いわれ」のある名前を私は歌の中で使いたかったのである。
私が酒の蔵元だったら、この「神奈備」の名前を必ずつけるだろう。

写真④⑤には全国的にも銘酒の誉れ高い京都伏見の蔵元の写真を掲げておく。

kiki01大倉

kiki02黄桜カッパカントリー

清酒醸造石数トップクラスの「月桂冠」の大倉酒造(現・月桂冠)と、新興勢力だが醸造石数もトップクラスに躍り出た「黄桜」の黄桜酒造(現・黄桜)の本社である。
黄桜はコマーシャルでも才を発揮し、この本社も「黄桜カッパカントリー」と称している。これらのところでは有料だが、利き酒と料理が楽しめる。
京都の観光コースにも入っていて、工場見学と「利き酒」と料理などがセットになっているものもある。

清酒・日本酒業界は日本酒離れに見舞われ、出荷量は最盛期の半分に落ち込んでいるという。
下記に引いた資料のように2010年度には「白鶴」がトップになっている。
誤解のないように申し添えると、現在では大手の酒造会社では、工場、蔵全体が空調になっていて、年中休みなく醸造する、いわゆる「四季醸造」になっている。
だから冬の間だけ酒を仕込むということがない。また酒仕込みに特有の「杜氏」(とうじ)という専門職は無くなって、
彼らの「ノーハウ」をコンピュータ制御の数値化して、工場の従業員が扱える蔵になっているのである。
もちろん「生きている」発酵菌を扱うのであるから、それなりの苦労があるのは自明のことである。
正確に言うと、「杜氏」という出稼ぎの専門職が無くなって、年中働く、連休もボーナスもある、健康保険も有給休暇もある、普通の工場労働者になったということである。
もちろん「酒作り」という特殊な技能を持った技能者であるのは当然のことである。

ついでに付け加えておくと、以前は国税庁が清酒の仕込みの「酒米」の石数を割り当てていて、制限があった。
だから地方の小さな蔵元は醸造した酒を「桶売り」と称して、大手酒造に買い取ってもらっていたのである。
中には酒の仕込みもせずに割り当ての原料米の権利だけを売り渡していたところもあったという。
私の村にある酒造会社も、ひところは月桂冠に「桶売り」していた。
そんな枠もなくなって仕込みは自由であるが、地方の小さな蔵元は販売先を確保するのに大変であり、また独自の吟醸酒などに特化して、
それなりの成功を収めているところもある。清酒だけでなく「梅酒」を作ったりして門戸を広げて生き残りに必死である。
なお参考までに以下のような統計記事をお見せする。最新の統計数字が手に入らないので少し古いが。。。
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「日本酒出荷ランキング」によると

2010年(1月から12月)の出荷数量

          589,779kl(326万9440石)、前年比93,1%

今年こそはと「底打ち」が期待された中での、60万石(350万石)割れという厳しい数字です。
その出荷内容を見ると2ℓ、3ℓの大容量パックの比率が36%(前年29%)と一気に伸び、全体の3分の1を超える数量になりました。
その一方で小瓶化が進んでいますから、一升瓶の比率は11,5%位にまで下がっています。

上位20社の出荷状況

順位   銘柄    都道府県   出荷量(kl)  (千石)  前年比%

 1    白鶴     兵庫県    59,710    331    97,5
 2    月桂冠   京都府    50,329    279    95,7
 3    松竹梅   京都府    45,819    254   100,1
 4    大関     兵庫県    35,176   195     95,1
 5    オエノンG 東京他    25,332   141    104,0
 6    日本盛   兵庫県    25,219   140    94,3
 7    世界鷹G  埼玉他    24,095   134    97,0
 8    黄桜     京都府    19,482   108     95,7
 9    菊正宗   兵庫県    17,859    99    98,4
10    白雪    兵庫県    12,955    72     92,8
11    清洲桜   愛知県    12,319     68    94,2
12    白鹿     兵庫県    12,122    67    96,8
13    沢の鶴    兵庫県     9,606    53    91,0
14    剣菱     兵庫県     7,543     42    94,5
15    朝日山   新潟県     7,487     42    102,6
16    菊水    新潟県     5,769     32     93,6
17    高清水    秋田県     4,766     26     94,5
18    北冠    栃木県     4,378     24    100,1
19    爛漫    秋田県    4,225     23     92,7
20    立山    富山県    3,965     22     94,1

どのメーカーも努力されてはいますが清酒飲酒の減少傾向は続いています。
この清酒減少傾向は、トレンドですのでこの流れが変化する様子は今のところ見られません。
食生活や消費者の意識が少しでも変化し、変化の兆候が見られれば傾向は変る可能性が有りますが、今のところ変化の兆候は見られません。

清酒に取って現在は受難の時代なのです。
昭和48年を境に清酒の減少傾向が今も続いています、
ピーク時の半分以下です、焼酎にも抜かれてしまいました。
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私の住む村にある「城陽酒造」も色々工夫して頑張っておられるので、遅くなったが書き添えておく。
 ↑ アクセスしてもらいたい。

野ゆき山ゆき海辺ゆき/真ひるの丘べ花を藉き/つぶら瞳の君ゆゑに/うれひは青し空よりも・・・・・佐藤春夫
佐藤春夫記念館

   少年の日・・・・・・・・・・・・・・・佐藤春夫

     野ゆき山ゆき海辺ゆき

     真ひるの丘べ花を藉(し)き

     つぶら瞳の君ゆゑに

     うれひは青し空よりも


この「少年の日」という詩の全文は、下記の通りである。

      1.
     野ゆき山ゆき海辺ゆき
     真ひるの丘べ花を藉(し)き
     つぶら瞳の君ゆゑに
     うれひは青し空よりも。

      2.
     影おほき林をたどり
     夢ふかき瞳を恋ひ
     なやましき真昼の丘べ
     花を藉(し)き、あはれ若き日。

      3.
     君が瞳はつぶらにて
     君が心は知りがたし。
     君をはなれて唯ひとり
     月夜の海に石を投ぐ。

      4.
     君は夜な夜な毛糸編む
     銀の編み棒に編む糸は
     かぐろなる糸あかき糸
     そのラムプ敷き誰がものぞ。

佐藤春夫は小説家でもあったが、大正10年刊の第一詩集『殉情詩集』以来、大正、昭和の詩壇に特異な地位を占めた。
多く恋愛詩から成る、この詩集は、詩形においては古格を守りつつ、盛られた詩情の鮮烈さ、憂愁の情緒、鋭敏な神経のおののきによって、多くの人の心を捉えた。
掲出の詩は「少年の日」と題する四行詩四章の初期作品で、「四季」に分けられており、掲出のものは一番「春」である。
表現が古風な型を守っているため、却って少年の恋ごころを、よく歌い得て、愛唱された。

この詩は7、5調のリズムで作られており、日本の伝統的な音韻構造を採っていると言える。

掲出した写真は故郷の新宮市にある「佐藤春夫記念館」のパンフレットである。
佐藤春夫は創作を止めた後は、多くの弟子をとり文筆指導で多額の指導料を得ていた。
今では見られない処世術であったと言える。文壇に絶大な影響力があり、文化勲章の受章にも至っている。



NHK朝ドラ「べっぴんさん」のモデルについて・・・・・・木村草弥
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↑ 石津謙介
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↑ 「ファミリア」創業者・坂野惇子

──映画鑑賞──

     NHK朝ドラ「べっぴんさん」のモデルについて・・・・・・・・・・・・・木村草弥

このドラマは実在した神戸の会社「ファミリア」などがモデルになっている。
このドラマについてはWikipediaなどに詳しい。
ドラマに登場する人物などの詳しいブログ「べっぴんさんのモデル・坂野惇子の立志伝」というサイトはドラマの進行に合わせて読めるので、ご覧ください。
ここでは、それらの事実について追っかけることはしない。
私の青春時代にも存在した事象に触れて、回想的に書くことになる。

キアリスのモデルは老舗子供服メーカーの「ファミリア」
連続テレビ小説『べっぴんさん』がいよいよ今週をもって終わる。
清川あさみさんが刺繍担当されたオープニングにはじまり、夢に向かって邁進する女性たちの姿に、朝から元気をもらえた。
ドラマで躍動する4人の女性たち、「きみえ」「あけみ」「りょうこ」「すみれ」。
それぞれの頭文字をとって「キアリス」と名付けられたメーカー。
そのモデルとなっているのが、今でも多くの人々に愛される老舗子供服メーカー「ファミリア」である。
主人公・坂東すみれのモデルとなった人物が、ファミリアの創業者の一人、坂野惇子(ばんのあつこ)氏。

●坂野惇子
レナウン創業者佐々木八十八の3女として誕生した坂野さんは、戦後の神戸山の手で、労働経験の少ない女性友人たちと力を合わせベビー洋品店を開店。「子どものため、ママのため」の服作りに情熱を注いだ。
昭和25年に創業したメーカー「ファミリア」は、阪急百貨店への出店を皮切りに、その後多くの百貨店に出店を続け、今や皇室御用達の子供服メーカーになるまで成長を遂げた老舗子供服メーカーである。

この店舗はママ同士がコミュニケーションを取りやすいように設計されており、ワークショップやパーティーイベントなども数多く企画されている。
創業当時の「子どものため、ママのため」というコンセプトが、今なお強く受け継がれていることがわかる。

株式会社ファミリアは神戸市に本社を置くベビー・子供服メーカーの名門だ。終戦まだ間もない1948(昭和23)年に4人の主婦が始めた「赤ちゃんにも、お母さんにも、誠実な製品作り」をポリシーにしたビジネスは堅調に成長した。いまや社員825名(男性88名、女性737名)を擁し、年商は119億9200万円(いずれも2016年1月期)に達する。
 創業〝主婦〟の一人・坂野惇子さんの孫で、同社代表取締役社長・岡崎忠彦氏(46)はこう語る。
 「小さい頃、実家から近かったので、毎週末、おじいちゃん・おばあちゃんの家に泊まりに行きました。その際に、明日着る服やズボン、靴をおばあちゃんにプレゼンテーションします。『この洋服にはこれを合わせて、この靴を履きます』といった感じです。でも、ダメだしが出ることもあるんですね。その時には家までダッシュで帰り、別のコーディネートを提案します。今思うと、これが私のセンスを磨くのにとても役立ちましたね」
 ファミリアを創業した主婦とは、坂野惇子、田村光子、田村枝津子(のちに江つ子と改名)、村井ミヨ子の4氏である。その中で岡崎社長が愛情を込めて「おばあちゃん」と呼ぶ坂野惇子さんが、NHK朝ドラ「べっぴんさん」のヒロインである「坂東すみれ」のモデルにほかならない。
 惇子さんと夫・通夫みちお氏との間にできた一人娘は、神戸を拠点とした岡崎財閥の流れをくむ岡崎晴彦氏(のちのファミリア2代目社長)に嫁ぎ、2人の間にできた長男が忠彦氏だ。忠彦氏は惇子さんにとっての初孫にあたる。

 4人の創業者の中で最も年上なのが田村光子さんで1907(明治40)年に生まれた。以下、18(大正7)年生まれの坂野惇子さん、19(大正8)年生まれの田村枝津子さん、23(大正12)年生まれの村井ミヨ子さんと続く。
 この4人の主婦には極めて特徴的な共通点がある。いずれも正真正銘、筋金入りの「深窓の令嬢」だったという点だ。
 惇子さんは佐々木営業部(現・株式会社レナウン)の創業者で貴族院議員を務めた佐々木八十八氏を父にもつ。光子さんの父も同じく貴族院議員で、洋反物卸問屋・神田屋田村商店(現・田村駒株式会社)の創業者・田村駒治郎氏だ。また、光子さんの義妹であり、惇子さんと甲南女学校で同級生だった枝津子さんの父は、ゴムベルトを製造する阪東調帯護謨株式会社(現・バンドー化学株式会社)の社長・榎並充造氏である。最後のミヨ子さんは日綿実業株式会社(現・双日株式会社)の東京支店長で、海外赴任も長かった中井栄三郎氏を父にもつ。

このドラマの中で英輔として登場するが、ドラマはあくまでもフィクションであり、モデルの生きた事実とは違う。
モデルになったのは、私たちの青春時代に一世を風靡した「ヴァン・ルック」を創始した石津謙介である。

石津 謙介(いしづ けんすけ、1911年10月20日 - 2005年5月24日)は、20世紀に活動した日本のファッションデザイナー。「ヴァンヂャケット(VAN)」の創業者。高度経済成長期にあたる1960年代の日本に登場した男性ファッション「アイビールック」の生みの親で、“メンズファッションの神様”と呼ばれた。日本メンズファッション協会最高顧問。岡山県岡山市出身。
明治大学在学時には自動車部や航空部を創部した
岡山の紙問屋の次男として生まれる。岡山師範学校附属小学校から旧制第一岡山中学(現・県立岡山朝日高校)を経て、明治大学商科専門部に入学。スポーツ万能であるとともに流行の先端をいく遊びに長け、明大在学中はオートバイ・クラブ、自動車部、航空部などを創部した他、ローラースケート、乗馬、水上スキーなどにも興じた。また、現在の金額にして約40万円程度にもなる背広を誂え、当時最先端の流行・風俗を楽しむという学生生活を送った。
明大卒業後は実家の紙問屋の経営を引き継ぐ。趣味でグライダーを自製・操縦し、日本軍航空兵の訓練の教官などもしていた。1939年には妻子とともに中華民国・天津の租界に移住し、服飾関連の仕事に従事した。太平洋戦争終戦後、米国東海岸の名門大学(アイビーリーグ)出身者である米国兵士の通訳を担当し、伝統を活かしたアイビーファッションの魅力を学んだ。
帰国後は佐々木営業部(レナウン)勤務を経て、1951年に独立し、大阪市南区に石津商店を設立。1954年には「有限会社ヴァンヂャケット」に改組し、「VAN」ブランドを発表する。ネーミングは「前衛」「先駆」を意味するヴァンガード (Vanguard) にちなんでおり、写真評論家の伊藤逸平が出版していた風刺雑誌「VAN」から使用許可を得ていた。
特にブレザーとボタンダウンシャツをベースとした学生のファッションスタイルを「アイビールック」として紹介し、若者のファッション文化に改革をもたらした。さらに銀座にある「みゆき通り」をそれを着た若者で埋め尽くす「みゆき族」まで登場した。

このドラマに「坂東営業部」として登場するのは、「レナウン」である。
「レナウン、レナウン」と連呼する華やかなコマーシャルなどは、今も耳に残る。それは、こんな会社。 ↓

株式会社レナウン(Renown Incorporated)は、東京都江東区に本社を置くアパレル企業である。中国の繊維会社大手、山東如意グループ(山東省)の連結子会社。
創業者の佐々木八十八が、1902年(明治35年)に大阪で衣料品の販売を手掛ける「佐々木商会」を設立。その後メリヤスを中心とした繊維商品の製造も手掛けるようになり、1923年(大正12年)から、その前の年にイギリスの皇太子エドワードが訪日した際の御召艦「レナウン」にあやかり、「レナウン」を商標に登録し用い始める。また、グループ内のダーバンも、供奉艦として「レナウン」に同行していたイギリス巡洋艦「ダーバン(英語版)」からの命名である。
1960年代より、若い女性向け衣料品メーカーとして人気を博した。NETテレビ(現:テレビ朝日)の『日曜洋画劇場』でCMを放送し、特に小林亜星作曲によるCMソング「レナウン娘」と「イエイエ」でなじみの、弘田三枝子歌唱による「ワンサカ娘」のプロモーションは、ポップなファッショナブルさと女性を全面的に押し出した内容で、日本で初めて日本国外のCM作品賞を受賞し「日本のCM製作レベルを国際級に押し上げた」と評されている。また、1980年代には、CMのサウンドロゴに電子音を用いるという、現在でも画期的な試みをしたこともある。(1990年1月にロゴマークを一新していた。

しかし繊維産業の浮沈はひどく、レナウンも今や中国企業の子会社となっているのである。




来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり・・・・・水原秋桜子
asebi3あせび

   来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

この句には前書きに「三月堂」と書いてある。
奈良の東大寺の境内にある三月堂である。
時しも、東大寺の二月堂では3月1日から14日まで「修二会」という、俗に「お水取り」という行事が進行中であった。

アセビ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

学名
Pieris japonica
和名
アセビ

アセビ(馬酔木、学名Pieris japonica (Thunb.) D. Don)とは、ツツジ科の植物である。あしび、あせぼともいわれる。

本州、四国、九州の山地に自生する常緑樹。やや乾燥した環境を好み、樹高は1.5mから4mほどである。
早春になると枝先に複総状の花序を垂らし、多くの白くつぼ状の花をつける。果実は扇球状になる。
有毒植物であり、葉を煎じて殺虫剤とする。 有毒成分はアセボトキシン。

馬酔木の名は、馬が葉を食べれば苦しむという所からついた名前であるという。 多くの草食ほ乳類は食べるのを避け、食べ残される。
そのため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多くなることがある。
たとえば、奈良公園では、鹿が他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多くなっている。
逆に、アセビがやたら多い地域は、草食獣による食害が多いことを疑うこともできる。

アセビは庭園樹、公園樹として好んで植栽される外、花もの盆栽等としても利用される。

asebi2あせび赤

 蟇(ひき)鳴いて唐招提寺春いづこ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 馬酔木咲く金堂の扉(と)にわが触れぬ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

少し秋桜子の馬酔木にかかわる句を抜き出してみた。

水原秋桜子について少し触れてみる。
産婦人科医で宮内省侍医などを務めた。東大俳句会を興す。「ホトトギス」で頭角をあらわし、四Sの一人として一時代を画す。
昭和六年「馬酔木」を主宰して独立、芸術性高い「主観俳句」を唱導。石田波郷、加藤楸邨らを育てた。
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馬酔木を詠んだ他の人の句を少し挙げて結びにする。

 花馬酔木春日の巫女の袖ふれぬ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 春日野や夕づけるみな花馬酔木・・・・・・・・・・・・日野草城

 馬酔木咲く星を小出しに繭の村・・・・・・・・・・・・田部井利夫

 花あしび昔女帝のおはしけり・・・・・・・・・・・・阿片瓢郎

 耶馬台の春ととのへり花あしび・・・・・・・・・・・・小原菁々子

 こころみに足袋ぬぎし日や花あしび・・・・・・・・・・・・林翔

 花あしびかづきて鹿の子くぐり出づ・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 花馬酔木小暗き奈良の骨董屋・・・・・・・・・・・・鎌田和子

 里坊の主は若し花馬酔木・・・・・・・・・・・・寺井谷子

 花馬酔木われ瞑想の椅子の欲し・・・・・・・・・・・・小宮山勇

 あせび野の落暉鹿呼ぶ声しぼる・・・・・・・・・・・・水谷岩雄



昨日今日比良八荒といふ寒さ・・・・・・鈴木光紫朗
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     昨日今日比良八荒といふ寒さ・・・・・・・・・・・・・・・鈴木光紫朗

比良八講または八荒というのは関西だけに通用することで関東その他では意味が判らない行事ないしは言葉である。
「比良八講」というのは、本来は旧暦2月24日に比良大明神=白鬚神社で比叡山の僧が比良山中で行なっていた修法。
天台宗の僧侶が法華経全8巻を、それぞれ朝夕一巻づつ4日間読経する法会で、天台宗の試験を兼ねた大切な法会であったが、戦後に復活された、という。
今では日を固定して3月26日に行なわれる。

「源氏物語」には、この法会の場面が出てくるという。
この行事の頃、琵琶湖ないしは近畿地方では、寒気がぶり返し、突風が吹いたりするので「比良八講の荒れじまい」などと言われ、
季節の一つの目安とされているのである。
これが終ると湖国にも本格的な春が訪れるという。

行事の解説をしておくと、法会は日吉大社西本宮に集合して、志賀町の打見山頂で取水行事をし本福寺に至る。
3月26日午前9時、大津市長等3丁目の本福寺を出発した僧や修験者らが、ホラ貝を響かせながら大津港までお練りをし、
浜大津港から船に乗って、比良山系から取水した「法水」を湖面に注ぎ、物故者の供養や湖上安全を祈願する湖上修法と浄水祈願を行ないながら、堅田へと向かう。
堅田に到着後は「びわ湖タワー」で護摩供法要が営まれ、これで行事は終る。
ところが「船」で移動するという行事は桟橋の老朽化や経費が多くかかる、などの理由から、本年から廃止されることになった。
この行事については、この記事に詳しい。

「琵琶湖哀歌」に歌われている昭和16年(1941年)の金沢の旧制四高ボート部遭難事件も比良八講(八荒とも書く)によるものと言われている。

極めて地域的な言葉、風習であるから、文芸作品にも詠んだものは多くない。

     比叡おろし今日もまた吹く舞姫の恋やぶれよと伝ふがごとく・・・・・・吉井勇

以下に「比良八講(または八荒)」を詠んだ句を引いて終わる。

 比良八荒沖へ押し出す雲厚し・・・・・・・・・羽田岳水

 八講や魞を流しし比良颪・・・・・・・・・・吉田冬葉

 八荒の雲とも見えて比良の方・・・・・・・・・・能村登四郎

 比良八荒波蓮殻を打ち上ぐる・・・・・・・・・・岡井省二

 伊賀に吹く比良八荒の余り風・・・・・・・・・・宮田正和

 比良八荒波濤にまさる山の音・・・・・・・・・・松本可南

 農鳥の身を削り飛ぶ比良八荒・・・・・・・・・・西村和子

 洗堰にも八講の荒れ及ぶ・・・・・・・・・・三村純也

 八荒や鵜の見え隠る波頭・・・・・・・・・・蟇目良雨

 竹生島比良八荒の浪に乗る・・・・・・・・・・大竹萌

 八講の比良山見ゆれ枯木原・・・・・・・・・・松瀬青々

 杉山の杉擲つ風や比良八講・・・・・・・・・・梶山千鶴子

 松籟も比良八講の荒びかな・・・・・・・・・・向田貴子

 法螺の音に比良八講の船出づる・・・・・・・・・・田中由子

 湖荒るる比良の八講春縮む・・・・・・・・・・岩本愛子

 比良八講らしさの湖の騒立ちに・・・・・・・・・・成宮紫水

春日野の飛火の野守出でて見よ今幾日ありて若葉摘みてむ・・・・・よみ人しらず
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↑ 「春の七草
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 ↑ 奈良・飛火野

   春日野の飛火の野守出でて見よ
        今幾日(いくか)ありて若葉摘みてむ・・・・・・・・・・・・・・・よみ人しらず


この歌は「古今集・春上巻」にある歌であるが、よみ人しらず、となっている。
奈良の春日野の飛火野の野守よ、外に出て野の様子を見ておくれ。あと何日したら若葉が摘めるだろうか。という歌である。
この歌は「古今集」に収められてはいるが、春日野周辺で暮らしている人々の実感が濃く出ている。
だから、古い時代の歌に属するだろう、と言われている。

ここで、若葉摘みに関する歌を、少しまとめて見てみよう。

 春日野に煙立つ見ゆをとめらし春野のうはぎ摘みて煮らしも・・・・・万葉集・巻10、作者不詳

この歌の「うはぎ」というのは「嫁菜」のことだという。
春の若草のいろいろを摘んで、煮て食べるのは、若々しい命を願い、長寿を祈る初春の大切な行事であったらしい。
奈良一帯に住んでいた万葉時代の人々にとっては、この歌の情景は、まことに親しみ深いものだった筈である。

 春日野の若菜摘みにや白妙の袖ふりはへて人の行くらむ・・・・・・・古今集・春上巻、紀貫之

「ふりはへて」は振り合う意と、わざと目立つようにの意とをかけて用いた言葉。
京都の都の生活者となっている平安貴族の一人たる貫之は、この歌を、すでに空想の中の美しい早春の情景として作っている。
古京奈良の春日野は、懐古の情をかきたてる地名となっていて、詩的空想の源泉としての「歌枕」になりつつあるのである。

 春日野に若菜つみつつ万代(よろづよ)を祝ふ心は神ぞしるらむ・・・・・古今集・賀、素性法師

これは素性の兄・藤原定国の40歳の賀宴にあたり、その邸の屏風絵を見て詠んだ作。
全くの空想の歌である。

このように見てくると、「若草」や「若菜」を詠んでも、時代、土地、人々の生活の違いによって、自然界との接し方、その表現方法にも、著しい違いがあるのが判る。
「古今集」の歌人たちも、京都盆地の自然を前にして、詠ったには違いないが、次第に、自然詠そのものよりも、自然の季節の推移から、「時の移ろい」という観念的なものを詩の主題にするようになったということである。

万葉の実景を重視する力強い歌が好きか、古今の観念的な、美意識の強い歌が好きか、人それぞれであろうが、あなたは、どう感じられるだろうか。

以下、季語「摘み草」の句を引いて終る。

 寝転んで若草摘める日南かな・・・・・・・・小林一茶

 摘草や嬋妍さして人の指・・・・・・・・山口青邨

 川上のむかうの岸に草摘める・・・・・・・・中村草田男

 さびしさに摘む芹なれば籠に満たず・・・・・・・・加倉井秋を

 蓬摘む一円光のなかにゐて・・・・・・・・桂信子

 蓬摘み摘み了えどきがわからない・・・・・・・・池田澄子

 万葉の風立つ蓬摘みにけり・・・・・・・・大嶽青児

 つくしんぼ遠(をち)の淡海にかざし摘む・・・・・・・・佐怒賀正美

 草摘めり蜂蜜いろの夕日浴び・・・・・・・・大関靖博

 車座のひとりが抜けて草を摘む・・・・・・・・古田紀一

 日の温みもろとも摘めり蓬籠・・・・・・・・永井芙美

 野洲川の一揆の跡や蓬摘む・・・・・・・・西村康子

 ひかり合ふまほろばと吾と蓬籠・・・・・・・・今井君江



倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし・・・・・・古事記
hondenn大神神社

     倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣
         山隠(ごも)れる 倭しうるはし・・・・・・・・・・・・・・・・・・古事記


『古事記』に上のように詠われる大和盆地。その東の山裾に沿って、日本最古の道といわれる「山の辺の道」がある。
その道に沿って南の端に「大神神社」(おおみわじんじゃ)がある。
大和の国には古い社が多いが、日本最古の社としては、この神社をおいて他には、ない。
「三輪山」の麓にある大神神社は、三輪明神と呼ばれる。
大神と書いて「おおみわ」と読むのは、昔は神様と言えば、三輪さんのことだったのである。

記紀神話では、悠久の昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国家の政治に行き詰まり、祈念したところ、海を照らして神がやってきた。
「我は汝の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)である。我を祀れば平らかになるだろう。我を倭の青垣、東の山の上に斎(いつ)きまつれ」という託宣を受けた。
そこで、大和の東の青垣に、その神「大物主大神」(おおものぬしのおおかみ)を祀ったのである。その地が現在の三輪山だという。
この神社には本殿、すなわちご神体を鎮座させる建物がない。
古代の信仰そのままに、三輪山そのものをご神体とし、参拝者は「拝殿」から山を直接拝む。
熊野那智大社が「那智の滝」をご神体にするのと同じ扱いである。
写真①は拝殿である。拝殿の奥、神体山の「禁足地」の間に「三ッ鳥居」がある。
文字通り三つの鳥居が合体したもので、平安時代以前の創建とされるが、禁足地のため一般には見られないので、「摂社」の桧原神社の三ッ鳥居を写真②に掲げておく。

hibara1桧原神社三つ鳥居本命

なお桧原神社には拝殿も本殿もない。この三ッ鳥居があるのみである。
この三ッ鳥居を拝んで、その背後の三輪山を拝する、というものである。

miwa1三輪山

「三輪山」は、三輪の神奈備と呼ばれる円錐形の秀麗な山。
写真③は穴師というところから撮影。
山中には大岩が露出して、頂上の奥津磐座、中腹の中津磐座、麓の辺津磐座があり、それぞれ大物主大神、大巳貴神(おおなむちのかみ)、小彦名神(すくなひこなのかみ)が鎮まるという。
磐座(いわくら)は、神が降臨する神聖なところとされる古代祭事遺跡。
三輪山そのものを御神体として古くから信仰されている。
先に書いた「桧原神社」は、北へ1.5キロほど上がったところにある「摂社」だが、この桧原の地こそ、天照大神が祀られていた大和の笠縫邑(かさぬいのむら)だという。
ここから倭姫命(やまとひめのみこと)の伊勢への旅が始まったという。
ちなみに、三輪から、ほぼ真東、つまり日の出の方角に「伊勢神宮」があるのである。だから、「元伊勢」と別称されるのである。

ここで「三輪」の由来について書いておく。それは三輪の「環緒」(おだまき)塚の伝承である。
イクタマヨリ姫は、大変美しい乙女だった。
ある夜、姫のもとにこの世のものとも思われぬ立派な男が現われ、二人はたちまち恋に落ちて結ばれ姫は身ごもった。
不思議に思った両親が「床のまわりに赤土を撒き、巻いた麻糸(おだまき)の糸先に針をつけ、男の着物の裾にさしておくように」と言いつけ、姫が言いつけ通りにして、翌朝になってみると、糸は入口の戸のカギ穴から外に出ており、辿ってゆくと美和山の社まで来ていたので、男が神の御子であることが判った。
麻糸の残りが家の中に三勾(みわ)あったので、ここを三輪と呼んだ。
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「まほろば」については辞典にあたってみてもらいたい。
参考までにWeb上のフリー百科事典Wikipediaに載る英文の記事を引いてみる。

Mahoroba
From Wikipedia, the free encyclopedia

Mahoroba is an ancient japanese word describing a far-off land full of bliss and peace. It is roughly comparable to the western concepts of arcadia, a place surrounded by mountains full of harmony and quiet.

Mahoroba is now written only in hiragana as まほろば. The origins of the word are not clear; it is described in a poem in the ancient Kojiki (古事記) as being the perfect place in the mythical country of Yamato:

Poem from the Kojiki
Japanese Romanized version
大和 は
国のまほろば
たたなずく
あおかき山ごもれる
やまとしうるわし。

Yamato ha

Kuni no mahoroba

Tatanatsuku

Awo-kaki yama-gomoreru

Yamato shi uruhashi

(Note that the Kojiki itself did not use hiragana; the above is a modernized version)
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この英文の解説は「まほろば」を西欧でいう「アルカディア」と同じようなものと書いているのは、けだし名解説であろう。
なお、古事記についても、その頃にはまだ「ひらがな」は無かったことも明記されていて正確である。

 




セント・マイケルズ・マウントからグラストンベリー・トーへ・・・・・木村草弥
The_Death_of_King_Arthurアーサー王の死
 ↑ 「アーサー王の死」(アーサー王と三人の湖の乙女)
黒い頭巾を覆い包むモーガン・ル・フェイは魔導書を探り、アーサー王の命を救う方法を尋ねたことがあった。
その時、モーガン・ル・フェイはアーサー王の臨終の時の守護者のような役割でもある。
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 ↑ セント・マイケルズ・マウント島
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 ↑ セント・マイケルズ・マウント島

──巡礼の旅──(9)

     セント・マイケルズ・マウントからグラストンベリー・トーへ・・・・・・・・・・・・木村草弥

<古代遺跡群を地図上に結ぶと不思議な直線が現れる>
1921年アルフレッド・ワトキンスが唱えたこの説は、以来多くの論争を呼んでいるが、現にそれは存在する。
謎に満ちた英国最長の「レイライン」(牧草地・leyから来ている。イギリスでは牧草地をよぎって、ストーンサークル、塚、古墳、聖なる泉、スタンディンク・ストーンなどさまざまな宗教的事績が一直線上に並ぶこと)が、ここにある。

セント・マイケルズ・マウント島
普段は湾に浮かぶ島、そして干潮時には陸から一筋の道が伸びる不思議、聖ミカエルの為の壮麗な修道院が建つ聖地であり、現代では世界で最も人気のある世界遺産の一つに数えられる北フランスのモン・サン・ミッシェル・・・。
しかし、実はここはモン・サン・ミッシェルではない。ドーバー海峡を挟んで反対側にあるイギリスのセント・マイケルズ・マウントと呼ばれる場所なのだ。
モン・サン・ミッシェルとはフランス語で聖ミカエルの山という意味だが、セント・マイケルズ・マウントは英語では同様の意味である。
そしてこのイギリスのセント・マイケルズ・マウントは、モン・サン・ミッシェル同様に干潮時のみに渡る事が出来る島なのだ。

何故このような不思議な対称ができたのか。もちろん一緒に建てられた訳ではなく、フランスのモン・サン・ミッシェルの方が歴史が古い。
イギリスのセント・マイケルズ・マウントはモン・サン・ミッシェルの実質的な成立の約300年後に築かれた。
元々この地はキリスト教が至る前から聖地として信仰の対象になっていたようだが、12世紀頃に最初の修道院が建てられた。
海で分断されているが、フランスのブルターニュ地方とイギリスのコーンウォル地方はもともとケルト系住民が多かっためていたという共通点を持っており、
後の百年戦争に象徴される犬猿の中のライバル同士が競って建てたというより、恐らく文化が近い物同士が同じ流れを汲む建築と信仰を持ったという方が正しい。
規模ではフランスに少々劣るものの、イギリス側のセント・マイケルズ・マウントも神秘性では見劣りしない。
モン・サン・ミッシェルのように観光客で溢れかえるような事もなく、至って静かなのも良い。

アヴァロン(Avalon、おそらくケルト語でリンゴを意味する「abal」から)、またはアヴァロン島はイギリスのどこかにあるとされる伝説の島であり、美しいリンゴで名高い楽園であったとされる。このような「恵みの島(Isle of the Blessed)」、「リンゴ島」や「幸運の島」という概念は、インド=ヨーロッパ系の神話には同様の例が多くあり、たとえばアイルランド神話のティル・ナ・ノーグ(Tír na nÓg)やギリシア神話のヘスペリデスの園(Hesperides、同様に黄金のリンゴで知られる)などが有名である。

アヴァロンはまた、イエスがアリマタヤのヨセフとともにイギリスを訪れ、後にそこがイギリス最初のキリスト教会となったという伝説の場所としても語られる。
この場合のアヴァロン島の場所は、今日のグラストンベリーではないかと考えられている。

ここで、「アーサー王伝説」との関連について書いておく。

アヴァロンはアーサー王物語と特に強く結びついている。アヴァロンはアーサー王の遺体が眠る場所とされる。
モードレッドとの戦いで深い傷を負った彼は、アヴァロン島での癒しを求めて三人の湖の乙女(あるいは異父姉のモーガン・ル・フェイ)によって舟で運ばれ、この島で最期を迎えた。いくつかの異説によれば、アーサー王は未来のいつかに目覚めるため、ここで眠っているだけだという。

アーサー王とアヴァロン島は、12世紀の歴史著作家であるジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』において初めて結び付けられ、それによるとアーサーはモードレッドとの戦いで致命傷を負い、その傷を癒すためにアヴァロン島に運ばれたとある。

ジェフリー・オブ・モンマスの別の著作『マーリンの生涯』によれば、アヴァロンの地域を統治する九姉妹は:
1.モーガン・ル・フェイ(Morgan le Fay)
2.モロノエ(Moronoe)
3.マゾエ(Mazoe)
4.グリテン(Gliten)
5.グリトネア(Glitonea)
6.クリトン(Cliton)
7.ティロノエ(Tyronoe)
8.ディティス(Thitis)
9.モルゴース(Morgause)

であり、モーガンは九人姉妹の筆頭女性で、医術と変形術に長ける。そして、ディティスはシターンの演奏が上手、巧みである。

ほかにグラストンベリー・トー説というのがあるのだ。 ↓

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 ↑ グラストンベリー・トー
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 ↑ グラストンベリー修道院廃墟の「アーサー王の墓所」

リチャード獅子心王の治世の1191年、グラストンベリー修道院の墓地でアーサー王の古墓が発見されたとの発表がされた。
ギラルドゥス・カンブレンシス(「ウェールズのジェラルド」の同時代の著述(1193年頃)によれば、当時のグラストンベリー修道院長をつとめるヘンリー・ド・サリー)の指導のもとに墓の探索が行われ、5メートルの深さから樫の木でできた巨大な棺のようなものと二体の骸骨を発見。また、そこには通常の習慣どおりの石蓋ではなく敷石がおかれ、石の裏側に貼りつけるようになって密接した鉛製の十字架があり:
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 ↑ 墓碑銘十字架。(ウイリアム・キャムデン著『ブリタニア』挿絵より)

「ここにアヴァロンの島に有名なるアーサー王横たわる。第二の妻ウェネヴェレイアとともに」
(ラテン語: Hic jacet sepultus inclitus rex Arthurus cum Weneuereia vxore sua secunda in insula Auallonia)

と刻印されていた。
王墓の探索に着手したそもそもの理由については、リチャードの父ヘンリー2世がまだ存命の頃、年老いたブリトン人(ウェールズ人)の歌人から、墓がそのくらいの深さから発見されるはずだ、という暗示を受けたからだとギラルドゥスは釈明している。 しかし、ある僧侶が、とりわけその場所にこだわって埋葬されることを切に望み、その遺志の場所を掘り起す作業に当たっているとき、単なる偶然で発見されたものだという、やや後年のラドルフス(ラルフ・オヴ・コッゲスホール))の記述もある。ギラルドゥスもラドルフスも、発見された場所は、2基のピラミッド状建造物のあいだだとしている。 ウィリアム・オヴ・マームズベリ は、アーサーの墓には触れないが、修道院に建っていた高さの異なるピラミッドには詳述しており、それらには人物の立像があり、"Her Sexi"や"Bliserh"等々の刻名がされていたという。

アーサー王と王妃の遺骸は、1191年当時、立派な大理石の石棺に移していったん安置されているが、1278年にエドワード1世夫妻臨席の元、検分が行われ、グラストンベリー修道院の主祭壇の前の地下に、大掛かりな儀式とともに再埋葬された。宗教改革でこの修道院が破壊され廃墟と化す前は、主祭壇下の埋葬地は巡礼たちの目的地になっていたという。

しかし、グラストンベリーの伝説は有名ではあるが眉唾物だと受けとめられていることが多い。中でも、棺にあった刻印は、6世紀の出来事とされるアーサー王伝説より時代が後にずれていると見られており、棺を発見した修道院による秘められた動機があるものと考えられる。これは当時のグラストンベリー修道院長が、他の修道院と競い自分の修道院の格を上げるため、様々な伝説を利用したと見られている。その結果、アーサー、聖杯、ヨセフが一つの物語の中で結び付けられることとなった。

はじめに書いたように、このように、「レイライン」を成して、牧草地をよぎって、宗教的事績が一直線上に並ぶ不思議が出現するのであった。

その他、アヴァロンと考えられている場所はフランスのブルターニュ半島沿岸にあるリル・ダヴァル(l'Île d'Aval)またはダヴァル(Daval)という島だという説や、あるいはかつてハドリアヌスの長城沿いにアバラヴァ(Aballava)という砦のあったイングランド最北部カンブリア州の村、ブラフ・バイ・サンズ(Burgh by Sands)という説もある。


村島典子の歌「あいまい」31首・・・・・・・・・木村草弥
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──村島典子の歌──(29)
    
     村島典子の歌「あいまい」31首・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                      ・・・・・「晶」97号2017/03所載・・・・・・・

             あいまい         村島典子

  ヴィオロンの音色かなしきこの秋は耳傾くる犬のあらなくに
  そのやうに綺麗なこゑに鳴く鳥はくぬぎ林の木末(ぬれ)の方に
  あいまいな夕べの時間たそがれの空を来たれり地を覆ひたり
  屑かごに捨てにしわれの歌の反故音たつるなり間をおきて二度
  卓上に秋日を曳きてさ緑の冊子あらはる「続・森岡貞香歌集」
  図書館にて一日まへに借りたりしわが卓上の「森岡貞香断章」
  この日ごろあの世にいます人の書物読みふけるなりたか子と貞香
  声だして笑つてしまふ貞香のうた事故さへふしぎな図形をもてり
     「けふここに人と車と衝突し白墨をもて描きありたり」 (『黛樹』)
  毒ガスといかで読みつる垂れて来しゴム管は酸素と人の言ひしを
     「酸素ぞとゴム管かほの上に垂れてきぬ息のしづまり死なざりしかも」 (『未知』)
  いかでわが曖昧ならむ出掛けむと立つときスリッパちぐはぐに履く
  川端の草ぐさ見むと迂回せり数珠玉もある長沢川には
  野ぶだうの瑠璃のつぶ実を目の端におきてぞ歩く長沢川端
  屈折のわたしの心立ち直りなはしろぐみの一枝折りきつ
  「生椎茸」とふ箱より出づるは椎茸の菌床なりき面妖なるもの
  蓬莱山のすそに立つなり冬の虹ふとき脚もつ全きかたちに
  虹めざし車をかくる太き虹の近づくたびに道退きにけり
  このあたり岩切さんの住まひあらむ琵琶湖大橋はし詰わたる
  高島の勝野のあたりもう一つ虹出づるみゆみづの息たつ
  変形のセコイアをいふあけぼのすぎ対称形のもみぢの樹林
  野坂山のもみぢ背向に黄葉をはじむる杉のなみだぐましも
  ぞろぞろと車も人もゆくものか五百本の黄葉樹林
  メタセコイアの葉のぎざぎざの鋸歯見あぐ巨大なる鳥五百羽の鳥
  強風にちぎれし枝ののこぎり葉振りあるくひと幾人も見つ
  拾ひたるメタセコイアのもみぢ葉をしばらく持ちしが道端に捨つ
  垂直に樹はたつものを水平に過りゆくなり人も車も
  五百本の曙杉がいつせいに黄の葉を降らす静寂(しじま)をおもへ
  返事もらへぬ手紙百通書きしこと一途な恋をけさ思ふなり
  極月のあしたの月のもちづきの湖の上にあり嘉(よみ)するごとし
  できるだけ長生きをして俺よりは先に死ぬべしと息子の言へり
  声がはりせし三人のうしろから末の子のボーイソプラノが来る
  十人の食事つくればわたくしの七十二歳も生き生きとせり
----------------------------------------------------------------------------- 
村島さんから恒例の「晶」誌を賜った。
いつもながらの旺盛な作歌に敬意を表する。
琵琶湖西岸に位置する高島市のメタセコイアの並木道は有名らしい。
写真を撮る人のマナー違反がニュース種になったりしている。
私はまだ見ていない。 昨年初夏に体調不良になって以来、すっかり出無精になってしまった。
おまけに、この一月末の実兄の重信の死にショックを受けている。 虚弱児だった私と違って兄は頑健だったので定期的な検診をしていなかったらしい。
悪性リンパ腫の見落としで体調が悪くなったときは末期で手の打ちようがなかったらしい。
余計な愚痴をこぼしてしまった。 
ご恵贈ありがとうございました。 これからも益々のご健詠を。


蝌蚪生れて白き窓もつ文学部・・・・・原田青児
img1098ヒキおたまじゃくし
 
       蝌蚪生(あ)れて白き窓もつ文学部・・・・・・・・・・・・・・原田青児 

「蝌蚪」(くわと)とは「おたまじゃくし」のことだが、以前にも書いたが、この字は中国の上代に、竹簡に漆の汁をつけて字を書き、その字の形が頭が大きく尾が小さい、おたまじゃくしに似ているので、そう名づけられ、それを明治以降、俳人たちが「音読」利用しているものである。
なお「生れて・ウマレテ」という言葉は、古来、「あれて」と読むようになっているので、念のため。「音数揃え」のためである。
類句はいくつもあるが、掲出句は「白き窓もつ文学部」と詠んでいて、かつて文学部に居たことのある私として、懐かしくて、頂いた。

私の歌にも
   
    春くれば田んぼの水に蝌蚪(おたまじゃくし)の語尾活用を君は見るだらう・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

私の歌は、「おたまじゃくし」の尻尾を、日本語の「語尾活用」と捉えて、いわば「比喩」的に表現したものである。一種のユーモアと受け取ってもらっても結構である。
歌としては、取り立てて、どうという歌ではないが、「比喩」表現を理解する人には好評だった。
歌作りでは、こういう「凝った」作り方を時としてやってみたくなるものである。
所詮は短歌も「歌遊び」「言葉遊び」であるから、さまざまの趣向を考えることが必要だろう。
こういう「言葉遊び」を理解しようとしない頭の固い人が往々にして存在するので、困るのである。
いかがだろうか。

「おたまじゃくし」は俳句の世界では「春」の季語で、歳時記には多く見られる。
先に引いたものと多少は重複するかも知れない。ご了承を。

 川底に蝌蚪の大国ありにけり・・・・・・・・・・村上鬼城

 蝌蚪の水わたれば仏居給へり・・・・・・・・・・水原秋桜子

 流れきて次の屯へ蝌蚪一つ・・・・・・・・・・高野素十

 枕べに蝌蚪やすみなき手術以後・・・・・・・・・・石田波郷

 蝌蚪に足少しいでたる月夜かな・・・・・・・・・・長谷川双魚

 蝌蚪つまむ指頭の力愛に似て・・・・・・・・・・金子兜太

 吾のため歌ふ子蝌蚪の水昏るる・・・・・・・・・・佐藤鬼房

 蝌蚪かくも群れて天日昏めたる・・・・・・・・・・桑田青虎

 蝌蚪沈みゆけり頭を真逆さま・・・・・・・・・・大橋敦子

 蝌蚪の水少年のなほ女声・・・・・・・・・・辻田克巳

 心ざし隆々たりし数珠子かな・・・・・・・・・・大石悦子

 散り散りの幼な馴染や蝌蚪の陣・・・・・・・・・・船平晩秋

 蝌蚪離合集散のたび数を増す・・・・・・・・・・長田等

 うたたねのはじめに蝌蚪の紐のいろ・・・・・・・・・・鴇田智哉

 紐を出て紐に縋れる蛙の子・・・・・・・・・・木場瑞子

 泡一つ置きに来て蝌蚪沈みけり・・・・・・・・・・江川虹村

 やはらかき泥にくすぐりあうて蝌蚪・・・・・・・・・・高田正子

 蝌蚪生(あ)れてまだよろこびのほかしらず・・・・・・・・・・和田知子

 尾を振つて蝌蚪と生れたる嬉しさよ・・・・・・・・・・井上松雄

 底深く動かぬ蝌蚪の生きくらべ・・・・・・・・・・谷口栄子



春雷やかの日の銀の耳飾り・・・・・坪内稔典
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       春雷やかの日の銀の耳飾り・・・・・・・・・・・・坪内稔典 

季節が冬から春に移ってゆく頃に「春雷」が鳴るものである。 夜明けなどに鳴ることが多い。
この句は「かの日の銀の耳飾り」とだけ詠んで、多くを語らないが、読者にさまざまに想像させて、秀逸である。
「春雷」は別名「虫起し」とも言い、そのことは3/5付けの「啓蟄」のところでも書いた。

私の歌にも

    春雷一閃あやとりの糸からみつつ迷路(ラビュリントス)をくぐりゆくらし・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌を発表したときも評判は良くなかった。やはり判り難いということである。
この歌は「春雷一閃」「あやとりの糸」「からみつつ」「ラビュリントス」などの言葉が日常生活の情景と、どう関わるのか、というわけである。
この一連は「神経叢」という標題のもので8首の歌から成るが、全体として「暗喩」を利かした歌作りになっている。
ここで、そのメタファーを解き明かすことは、しない。いいように鑑賞してもらえば有難い。
一つだけヒントを差し上げると、掲出した写真の春雷の「いなづま」が「あやとりの糸」に見えないだろうか。
要は「想像力」の問題である──「メタファー」というのは。

以下「春雷」を詠んだ句を引いて終わる。

 下町は雨になりけり春の雷・・・・・・・・・・・・正岡子規

 比良一帯の大雪となり春の雷・・・・・・・・・・・・大須賀乙字

 再びの春雷をきく湖舟かな・・・・・・・・・・・・富安風生

 春雷や俄に変る洋の色・・・・・・・・・・・・杉田久女

 春雷や刻来り去り遠ざかり・・・・・・・・・・・・星野立子

 春雷や三代にして芸は成る・・・・・・・・・・・・中村草田男

 春の雷焦土しづかにめざめたり・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 あえかなる薔薇撰りをれば春の雷・・・・・・・・・・・・石田波郷

 句縁ただ仮りそめならず春の雷・・・・・・・・・・・・石昌子

 三山の天心にして春の雷・・・・・・・・・・・・沢木欣一

 春雷の闇より椎のたちさわぐ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 春雷の七十歳はなまぐさき・・・・・・・・・・・・伊藤白湖

 春雷を殺し文句のやうに聴く・・・・・・・・・・・・鈴木栄子

 春雷の余喘のわたる野づらかな・・・・・・・・・・・・鈴木貞雄

 窯出しの壺がまづ遇ふ春の雷・・・・・・・・・・・・辺見京子

 鞭のごと女しなえり春の雷・・・・・・・・・・・・岸本マチ子

 鶸飛べり出雲平野の春の雷・・・・・・・・・・・・葛井早智子

 幸せも過ぎれば不安春の雷・・・・・・・・・・・・黒田達子



老いづけるこころの修羅か春泥のの濁りにひるがへる紅絹・・・・・木村草弥
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    老いづけるこころの修羅か春泥の
        池の濁りにひるがへる紅絹(もみ)・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでも、ご覧いただける。

掲出した写真が「紅絹(もみ)」の裏地である。この紅色は「紅花」を揉みだした色素で染める。
この鮮やかな緋色の長襦袢もある。
これを着物の下着として身に着けたり裏地としたりして、歩くとか、あるいは身をくねらせるとかの時に着物の裾から、ちらりと、この紅絹の緋色がこぼれ見えるというのが、
和服の「色気」というものである。
こういうチラリの美学というのを古来、日本人は愛したのである。
あからさまに、大げさに見せるのではなく、つつましやかな所作のうちに「情(じょう)」を盛る、というのが美学なのである。
もちろん、愛する人のために着物を脱いで寛ぐ場合には、この紅絹の緋色が、もろに、愛し合う男女の情感をあくまでも刺激すると言うのは、野暮であろう。

この歌も「玄人」好みの歌作りに仕立ててある。
春になって池の水も何となく濁る、これを古来「春泥」と表現してきた。寒い間は池の底に潜んでいた鯉も水面に姿を見せるので、春泥である。
人間界もなんとなく「なまめかしい」雰囲気になる春であるから、私は、それを少し大げさだが「修羅」と表現してみた。
読者のご批評を賜りたい。

「春泥」というのは、季語では「春のぬかるみ」のことを指す。泥んこ道も指すが

    鴨の嘴(はし)よりたらたらと春の泥・・・・・・・・・・高浜虚子

という句があり、この句は類型的な「春泥」の句とは一線を画して、春の池の泥のことを詠んでいる。
この句は、掲出した私の歌に言う「春泥」に通じるものがあるので、一言つけ加えておく。

以下、「春泥」を詠んだ句を引く。

 春泥や石と思ひし雀とび・・・・・・・・佐野良太

 春泥や遠く来て買ふ花の種・・・・・・・・水原秋桜子

 春泥に押し合ひながらくる娘・・・・・・・・高野素十

 春泥にいゆきて人を訪はざりき・・・・・・・・三橋鷹女

 北の町の果てなく長し春の泥・・・・・・・・中村汀女

 月読の春泥やなど主を避くる・・・・・・・・中村草田男

 放吟や高校生に春の泥・・・・・・・・石橋秀野

 春泥の恋文横丁今いずこ・・・・・・・・戸板康二

 春泥に手押車の鳩かたかた・・・・・・・・横山房子

 春泥の靴脱ぐひまもほとけ恋ふ・・・・・・・・伊丹三樹彦

 踏み滑る泥や春こそめでたけれ・・・・・・・・三橋敏雄

 午前より午後をかがやく春の泥・・・・・・・・宇多喜代子

 春泥やお伽草子の碑にまゆみ・・・・・・・・高岡すみ子

 
砂浜にまどろむ春を掘りおこし/おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う/は静かに草色の陽を温めている・・・・・大岡信
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         春のために・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

     砂浜にまどろむ春を掘りおこし
     おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う
     波紋のように空に散る笑いの泡立ち
     海は静かに草色の陽を温めている

     おまえの手をぼくの手に
     おまえのつぶてをぼくの空に ああ
     今日の空の底を流れる花びらの影

     ぼくらの腕に萌え出る新芽
     ぼくらの視野の中心に
     しぶきをあげて廻転する金の太陽
     ぼくら 湖であり樹木であり
     芝生の上の木洩れ日であり
     木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘である
     ぼくら

     新らしい風の中でドアが開かれ
     緑の影とぼくらとを呼ぶ夥しい手
     道は柔らかい地の肌の上になまなましく
     泉の中でおまえの腕は輝いている
     そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて
     静かに成熟しはじめる
     海と果実
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この詩は1986年8月刊学習研究社『うたの歳時記』恋のうた・人生のうた、に載るものである。
みづみづしい現代詩の息吹に触れてもらいたい。

今日の記事は短いので ↓ イブ・モンタンの動画を出しておく。「春」を唄うシャンソンである。
私など古い人間には懐かしいが、もう古いかな。




賞味期限切れた顔ねと言ひながら鏡の中の妻は紅ひく・・・・・木村草弥
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     賞味期限切れた顔ねと言ひながら
            鏡の中の妻は紅(べに)ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「賞味期限」とは食品に付けられている期限の数字であるが、今では、日常会話の中でも、よく言われるようになっている。
亡妻が実際に、この言葉を言ったのか、それとも私が作品化するときに採り入れたのか、今となっては判然としないが、いずれにしても面白い歌に仕上がっている。
掲出した写真は、もちろん妻のものではない。この写真の女の人などは、まさに「賞味期限」最中である。
化粧品会社のサイトから拝借したものである。

女の人が、お化粧しているのを、こっそり眺めるのは面白いものである。
私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)の中で「化粧」という一連10首を作ったことがある。その中に

   私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

   お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

   化粧はエロチックだ 女のナルシスムだと決めつけてはいけない

   化粧する女は淋しがりやだ。 化粧なしの素肌では不安なのだ

   素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

   化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

というような歌がある。この歌集は「自由律」のものなので定型をはみ出た自由なリズムで作っている。
いかがだろうか。
もっとも、この頃では男も化粧に精を出すような時代になった。
着るものも「ユニセックス」の時代と言われ、男性、女性という区別が明確ではなくなり、「中性」の時代とも言われている。
男性と女性とが「結婚」するという時代でもなくなり、同性同士の結婚が、法的に認められるところも出てくる、という時勢なのである。
私などは時代に取り残された「骨董品」的な価値しかないかも知れない。
それでも、私でも女の人に「まぁ、おしゃれね」と言われたら嬉しいのだから、何をか言わんやである。
この辺で、退散しよう。チャオ!
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この記事は2006/02/19に初出のもので、当時これをご覧になったChibisaruさまが、こんなコメントをお寄せになった。

   <私はコンタクトを入れるときは「ウロコをいれる」といい
    お化粧するときは「化ける」もしくは「変装する」といい
    着替えるときは「武装する」といいます
    家から一歩でると私にとっては戦場なのかな?(笑)>

とても面白くて、的確な表現なので、ここにご紹介しておく。
その人もDoblogの廃止騒動前後の頃から音信不通である。




唐国の壺を愛して梅を挿す妻の愁眉や未だ寒き日・・・・・木村草弥
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      唐国の壺を愛して梅を挿す
           妻の愁眉や未だ寒き日・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、妻の体調が悪くなりかけた頃のものである。
それは「妻の愁眉」という個所に表現してある。
自分の体調に愁眉の愁いを表わしながら、妻が唐国の壺に梅を活けている、という歌である。
この歌は自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。

梅の開花は、その年によって遅速があるが今年は寒さが厳しく遅れていたが、ようやく満開になった。
何度も書いたことだが、私の住む「青谷村」は鎌倉時代以来、梅の名所として規模は大きくはないが、伝えられてきた。
「万葉集」では、「花」というと「梅」のことだった。今では俳句の世界では「花」と言えば「桜」を指すことになっている。
「和歌」「短歌」でも同じである。気候的にも桜の咲くころは春まっさかりという好時期であり、日本人は一斉に花見に繰り出すのである。
しかし、「梅」には、馥郁たる香りがあり、しかも花期が極めて長くて、長く楽しめる。
梅の産地生まれだからというわけではなく、どちらかというと、私は「梅」の方が好きである。

hana565_1_ume紅梅

梅の花については、先に姉・登志子のところでも挙げたが、私は梅の歌をいくつも詠んでいる。
掲出した歌の次に

     壺に挿す白梅の枝のにほふ夜西班牙(スペイン)語の辞書を娘に借りにゆく

という歌がある。実は、私の次女は外国語学部でスペイン語が専攻だった。

歳時記にも「梅」の句は多い。それらを引いて終りたい。

 梅が香にのつと日の出る山路かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 むめ一輪一りんほどのあたたかさ・・・・・・・・服部嵐雪

 二もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・与謝蕪村

 梅一枝つらぬく闇に雨はげし・・・・・・・・水原秋桜子

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・中村草田男

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・石田波郷

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・星野立子

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・西島麦南

 白梅のあと紅梅の深空あり・・・・・・・・飯田龍太

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・古賀まり子
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普通、紅梅は白梅よりも時期があとになることが多い。

猫の恋パリの月下でありにけり・・・・山田弘子
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        猫の恋パリの月下でありにけり・・・・・・・・・・・・山田弘子
 

猫の繁殖期は春と秋の二回あるが、春のものは、まだまだ寒い今の時期に始まる。
去勢手術をしてある猫ならいざ知らず、何もしていない猫は、このシーズンになると、狂気にとりつかれたように昼も夜も相手を求めて鳴きながら徘徊する。
夜など家の周りでギャーギャー鳴きたてられては安眠妨害である。
このような現象は、野良猫であろうと、由緒ただしい血統書つきの猫であろうと違いはない。
掲出写真は、いわゆる「ブランド猫」と呼ばれる由緒正しい、高価な猫の画像である。

掲出句は、猫の恋には東西の区別はなく、フランスはパリでも、同じ現象があることの句であり、微笑ましい。

私の歌にも
  
   いねがたき夜半にしあれば血統をかなぐり捨てて恋猫が鳴く・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

私の歌の趣旨は、先に書いたようなことである。

私は基本的に「猫嫌い」である。
というのは、わが家の庭は、放し飼いにされた猫たちの通り道に当り、臭い臭いウンチはされるわ被害甚大で、
通り道に忌避剤を撒いたり、灯油を撒いたりして対応しているが、じきに効力がなくなり困り果てているからである。
猫を飼っている人の言い草も気に入らない。
「犬は毎日、散歩に連れてゆかなければならないが、猫は一人で、どこかでしてきてくれるから楽だ」。
そのトバッチリが私の方に降りかかっているのである。
いつか散歩をしていたら、猫に手綱をつけて散歩させている飼い主さんに出会った。
「猫の散歩とは珍しいですね」と言ったら「猫のウンチも迷惑ですから」という返事があって感心したものである。
こんな人は滅多に居ない。

    大比叡の表月夜や猫の恋・・・・・・・・・・鈴木花蓑

という句があるが、これなどは猫の恋を美的に、大きな景物の中に捉えて成功している。
猫の交情というのは、観察した人の文章などを見ると、凄まじいらしい。
猫の交尾というのは何回も執拗に雄、雌を問わず求めるようで、お互いを挑発したりして延々とつづくらしい。私は見たこともない。
交尾期が終わって家に戻ってきた猫は毛は傷つき、精力を使い果たしたようになっているらしい。
ライオンの交尾というのをテレビで見たことがあるが、腹ばいの雌の上に、雄がかぶさるようにするらしい。
猫も同じ種らしいから交尾の姿勢も同じらしい。人目につかない夜などが多いそうである。
犬の交尾は人が居ようがお構いなしで、これはこれで凄まじいものであるが、犬の交尾と狐の交尾は、種が同じだから、そっくりだという。

歌に戻ると、うるさくて安眠妨害のときはバケツに水を用意しておいて、ぶっかけて追っ払ったりする。
野良猫でもボス的なものが居て、やはり強いものの遺伝子を受け取りたいという雌の本能があるのか、多くの雌に種付けするようだ。
私の他の歌にも「猫」を詠ったものもあるが、それらはあくまで「道具建て」として使ってあるに過ぎない。
それらの歌のいくつかを引いて終わりたい。

   三毛猫の蹠(あしうら)あかく天窓の玻璃に五弁の花捺しゆけり・・・・・・・・・・木村草弥

   入りつ陽のひととき赫と照るときし猛々しく樹にのぼる白猫

   菊の香のうごくと見えて白猫の音なくよぎる夕月夜なる

   黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む

歳時記の春を見ると季語「猫の恋」として、たくさん載っているので、それを引いて終わりたい。

 菜の花にまぶれて来たり猫の恋・・・・・・・・小林一茶

 おそろしや石垣崩す猫の恋・・・・・・・・正岡子規

 色町や真昼ひそかに猫の恋・・・・・・・・永井荷風

 恋猫の丹下左膳よ哭く勿れ・・・・・・・・阿波野青畝
 
 恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく・・・・・・・・加藤楸邨

 老残の恋猫として啼けるかな・・・・・・・・安住敦

 悪猫が舐めあふ春の猫の味・・・・・・・・三橋敏雄

 奈良町は宵庚申や猫の恋・・・・・・・・飴山実

 あらすぢも仔細もあらぬ猫の恋・・・・・・・・三田きえ子

 八車線渡り切ったる猫の恋・・・・・・・・出口善子

 エジプトの恋猫の闇青からむ・・・・・・・・布施伊夜子

 借りて来し猫なり恋も付いて来し・・・・・・・・中原道夫

 山形訛り恋猫をわしづかみ・・・・・・・・今井聖

 恋をしてわが家の猫と思はれず・・・・・・・・小圤健水

 よれよれになりたる恋のペルシャ猫・・・・・・・・藤井明子

 西鶴の墓にかしまし恋の猫・・・・・・・・倉持嘉博



妻消す灯わが点す灯のこもごもにいつしか春となりて来にけり・・・・木村草弥
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     妻消す灯わが点(とも)す灯のこもごもに
        いつしか春となりて来にけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
この歌については若干の思い出がある。
近藤英男先生と一緒に同道して出雲の「空外記念館」を訪ねたりしたことがあるが、先生は脚がお悪いので、往復の飛行機や乗物、ホテルなど、その面倒などを私がみたことがあり、
そのお礼にと何か「書」を先生が言われたので、いただけるなら前衛的な書ではなく、伝統的な「かな書」の水茎麗しいものを所望しておいたところ、
先生の旧知の後輩の奈良教育大学書道科の吉川美恵子 教授の書をお手配くださった。
吉川先生は日展書道部の現役作家として数々の賞に輝く逸材であられる。また読売書法展などでも活躍される。
その時に吉川先生が書いて下さった私の歌が、掲出したものである。
二つ書いていただいた、もう一つは

    かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫り深きゆふぐれ

というものである。この歌については先に、このBLOGで採り上げたことがあると思う。
「灯り」(あかり)と言っても、その種類はさまざまである。
掲出の歌を作った頃は、妻が病気になりはじめた頃ではないか、
と思う。この歌の続きに

    丹精の甲斐もあらずて大根の花を咲かせて妻病んでをり

の歌が並んでいるからである。
わが家では一番遅くに寝るのが妻であり、「妻消す灯」である。
朝ないしは夕方に私が灯を点すこともある。
それが「わが点す灯」ということである。誰が消すか、誰が点すか、ということは逆でもいいのである。
そういう順序にこだわってもらっては困る。
そういう日々の何気ない繰り返しがわが家の日常であった。
妻も私も元気であった頃は、そんなことは考えもしなかったが、妻が病気がちになって、こういう日常の何気ない光景が、貴重なことに思えるようになったのである。

この「書」二つは奈良の有名な店で表装してもらい掛け軸にし、吉川先生には「箱書」をお願いした。
妻亡き今となっては、この歌と掛け軸は、深い思い出とともに、この時期になると床の間に掲げて、妻を偲ぶのである。

奈良東大寺二月堂の「お水取り」が終ると関西では春らしくなるという。
その修二会は3月1日から14日間行なわれるのであった。
この言葉通りに、とは行かずに最近は厳しい寒さのぶり返しであるが、そのうちに暖かい日も来るようである。
今年は「寒」に入ってから寒かったので、地虫が穴から出てくる「啓蟄」さながらに、戸外に出るのが愉しくなってきてほしいものである。
その「お水取り」も、いよいよ14日で終わる。いよいよ本格的な「春」の到来である。


下山山下『江戸は川柳 京は軽口』・・・・・木村草弥
江戸は川柳京は軽口

──新・読書ノート・・・初出Doblog2005/10/21──(再編集)

   下山山下『江戸は川柳 京は軽口』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この本は1992年山手書房新社刊のものである。
著者の「下山山下」という名前からして、人を食っているではないか。
この本の裏表紙のキャッチコピーに

 京童も人の子
 笠づけ句集「軽口頓作」
 夫婦ぜんざい・甘味辛味
 こども・いとし子・邪魔なガキ
 どら息子・いろ娘
 恋心・欲目流し目
 金、金、金の世の中
 仕事・商売・メシのタネ


と書かれている。けだし、この本の特長を巧く要約している。

江戸は川柳京は軽口0001

この本の出だしに、こう書かれている。

「たまには京都へ遊びに行きたいなあ」なんて考えるときがあるでしょう。そういうとき、京都の何を思い浮かべますか。
・・・・・「古都」のイメージでわれわれは京都に憧れてる、たぶん。その京都に、江戸時代のことだが、こういう句を詠んだ人がいた。

 むづかしい・しゃもじなんどと御所の内

「しゃもじ」というのは、もちろん飯をよそったりする「杓子」のことだが、御所では、品がないといって「しゃ文字」と呼んだ。
湯具(女の腰巻)を「ゆ文字」、髪の毛を「か文字」というのも、この類。今でも、これらの言葉は標準語としても生きている。・・・・・・

江戸は川柳京は軽口0002

上に引いた句の5、7、5のはじめの5のあとに「・」を置いたのは著者であるが、これは「川柳」に対抗する「笠句」という文芸であることを示すためである。
「笠づけ」と言われて、「冠句」のように上5が課題として出されるものである。
文芸としてのジャンル上では「雑俳」と呼ばれるものである。
つまり、これは笠づけ句集「軽口頓作」という句集に入っているということである。
川柳とは違う文芸が三百年も陽の目を見ずに埋もれていたのに陽を当てたということである。
以下、この本に載る名作・迷作を少し紹介する。

 これはこれは・つめたい足を夫(とと)どうぞ

 よいものじゃ・つめたい足じゃがかかゆるしゃ

 どうしても・足がさはれば手がさはる


房事での夫婦のやり取りである。「軽口頓作」の句は「口語」(はなしことば)で書かれていることがわかる。
江戸時代の川柳に「末摘花」というエロっぽいアンソロジーがあるが、そこに載る句では

 あっためてくれなと足をぶっからみ

ということになる。
これについて、著者は、次のように書く。

・・・・・この、言葉がキリッと締まった都会人的センス。「軽口頓作」のブヨブヨノロノロした調子とはまつたく対照的だ。なぜこうも違うんだろう。
時代が古い。それもある。「軽口頓作」は1709年の出版。片や川柳の最初の句集は、それより五十年以上あとだった。
京都と江戸という違いもある。平安遷都から900年も天皇を戴いてきた京都と、わずか100年前に武士が幕府を開いた江戸。気候風土も違う。
それから、たぶん作者の中身も違う。「軽口頓作」の句の作者は全然わからないが、たぶん商人や職人、つまり町人と言われる階層の人々が多かった筈で、そういう人たちが詠んだ句の中から雲鼓という宗匠が選んで出来たのが、この句集である。
江戸は武士の町で、彼らは知識階級であり、幼いときから中国の古典なんかも読んでいる。
川柳は「河井川柳」という人が始めた文芸なのである。

この句集でも、やはりメインはエロっぽい句が主流を占める。

 にくいもの・あんまり仲のよい夫婦(めをと)

それが、川柳の「柳多留」という、これも有名な句集では

 そこ掻いてとはいやらしい夫婦仲

となる。どちらがよいか、は読者の判断に任せよう。

 大事ない・毛虫が留守じゃながうなれや
 ・・・・・・・・・・・・・親をさして云也・・・・・・・・・・・(こういう注釈がつく)

 しうとめの留守の炬燵に顔二つ

川柳では、こうなる。(「・」の区切りのあるのが「軽口頓作」である今後は一々断らない)

 くたびれる・ずんずとのびる娘の背

 背がのびりゃ苦は色ぐるひですばいの

 娘もふ筆をかくして使ふなり

 十六で娘は道具ぞろひ也

これは、すなわち、ヘアが生える齢。お月さんはすでに始まってるから、これですっかり女の支度ができた、そういう年齢というわけ。

 ゆだんせぬ・二八ばかりの生ざかな
 ・・・・・・・・・・・・・・・娘子也・・・・・・・・・・
「二八」は2×8で十六歳。いちばん娘盛りの時期。

江戸は川柳京は軽口0003

愛憎が行き着くと「恋に恨み」はつきもの。
図版④は図の下にも説明がある通り「呪いの釘を打つ女」とある。

 ようはする・にくければとて時まいり

いわゆる丑の刻参りを「時まいり」とも言う。江戸でもこれをやったが、京都では貴船神社へお参りするのが代表格だった。
「ようはする」は「よくやるものだよ」くらいの意味。

 何とせう・貴船様めもぬかに釘

肉欲の楽しみを詠んだ句を少し。

 あぢをやる・ろの字なんどのよさはいの

味なもんだよ。「ろの字」の良さったらないもの。ひらがなの「ろ」は、漢字の「呂」の字を崩したもの。
この漢字をよく見ると「口」という字が二つ繋がっている。つまり口と口を重ねるということ「キス」である。
「よさはいの」は「良さつたらないの」である。キスのことは日本では古来「口を吸う」と表現する。

 めにかけて・ちんぷんかんと女子の乳
 …・・・・・・唐人は女の乳をよろこぶもの也・・・・・・・・
長崎出島の廓の風景である。

 小きみよい・日本人でもをなごの乳

この句は、先の句のパロディであろうか。

 丸山の客の騒ぎはチンプンカン

 身を入れてはたらく下女は両用い

 あんのじゃう・旦那の御作玉が腹

 ・・・・・・・・・・・・下女也・・・・・・・・・・・

 おきおきに・下女とらまへてむごいぞよ

 いやならばいいが女房(かかあ)にそう言ふな

 させぬのみならず女房に言っ付ける


江戸は川柳京は軽口0004

図版⑤は「鍛冶や」の図である。

 なるものじゃ・気がいってつに刀鍛冶

 我知らず歯をくいしばる細字書き

 ちがひます・具足屋の気と鑓(やり)屋の気


精を出す職人の働き振りには、率直には感動して、けなさずに描かれている。
いよいよ、この本も終わりにしよう。
「早乙女」を詠んだ、少しエッチな句である。

江戸は川柳京は軽口0005

 かしましや・こらへかねてぞ田へつぶて

 五月女をうしろから見ておやす也


田植えをする女たちが、一斉にこちらへ尻を向けて苗を植えてくる。
それを見て男どもが、いやあ、こりゃたまらん、と石つぶてを可愛いお尻めがけて投げつける、という図である。

 早乙女の股ぐらを
 鳩がにらんだとな
 にらんだも道理かや
 股に豆を挟んだと、ナヨナ


という民謡があったらしい、と書かれている。お分かりかナ。 

 つとめとて・あほと呼ばれてはあいはい

この句には、現代に通じるものがあり、涙がちょちょ切れる。 では、また。
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最近になって、同じ著者による、こんな本を手に入れた。 ↓
下山弘
下山弘

後者の本の版元である太平書屋の主人によると「下山山下」というペンネームは下山弘氏の著作の初期に使われたものだという。
なお、下山弘氏は2011年の秋に亡くなられたという。まだまだこれからだというのに、惜しいことである。

下山弘 略歴。
1938年群馬県前橋市生まれ。青山学院大学文学部卒業。
江戸生活感情史を研究する東京古川柳研究会会員。
著書に『遊女の江戸』 『江戸古川柳の世界』 『江戸川柳─男たちの泣き笑い』
『お江戸怪談草子』 『川柳 江戸の四季』。
それに、今回採り上げた本─『江戸は川柳 京は軽口』があるのは当然である。

あとの二冊については、読み込んで後日、詳しく書きたい。 乞う、ご期待。


東岸西岸の柳 遅速同じからず/南枝北枝の梅 開落已に異なり・・・・・慶滋保胤
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  東岸西岸の柳 遅速同じからず

  南枝北枝の梅 開落已(すで)に異なり・・・・・・・・・・・・・・・慶滋保胤


作者は慶滋保胤(よししげのやすたね)、平安中期の著名な文人で、その作『池亭記』は鋭く社会の変貌を捉えて鴨長明の『方丈記』に影響を与えた、とされる。
出典は『和漢朗詠集』巻上「早春」から。
保胤は白居易に傾倒し、この詩も白居易の詩句「北の軒 梅晩(ゆふべ)に白く 東の岸 柳先づ青みたり」や「大庾嶺上の梅 南枝落ち北枝開く」を踏まえているが、謡曲「東岸居士」その他に多く引かれ愛唱された。

同じ春とは言え、地形や場所によって季節の到来には遅速がある。
開く花あれば、散る花あり。
造化の妙は、そんな違いにも現れて、感興の源泉となる。

ume3白梅

なお、

   二(ふた)もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

の句は、この保胤の詩句を踏んだ句と言われている。

今しも、柳の新芽が芽吹く頃である。梅も、そろそろ咲き揃う頃である。
以下、柳の新芽を詠んだ句を引いて終わる。

 柳の芽雨またしろきものまじへ・・・・・・・・・・久保田万太郎

 芽柳に焦都やはらぎそめむとす・・・・・・・・・・阿波野青畝

 芽柳や成田にむかふ汽車汚れ・・・・・・・・・・石橋秀野

 芽柳の花のごとしや吾子あらず・・・・・・・・・・角川源義

 芽柳のおのれを包みはじめたる・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 風吹いてゐる綿菓子と柳の芽・・・・・・・・・・細川加賀

 芽柳を感じ深夜に米量る・・・・・・・・・・平畑静塔

 あれも駄目これも駄目な日柳の芽・・・・・・・・・・加藤覚範

 芽柳や銀座につかふ木の小匙・・・・・・・・・・伊藤敬子

 芽柳の揺るる影浴び似顔絵師・・・・・・・・・・太田嗟

 利根万里風の序曲に柳の芽・・・・・・・・・・三枝青雲

 芽柳のほか彩もなき遊行かな・・・・・・・・・・今村博子

 水色に昏るる湿原柳の芽・・・・・・・・・・神田長春


なで肩のたをやかならむ真をとめがパットの肩をそびやかし過ぐ・・・・・木村草弥
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──初出・2006/02/21 Doblogを再構成──

    なで肩のたをやかならむ真をとめが
         パットの肩をそびやかし過ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』((角川書店)に載るものである。
この歌を作ったのは、もう二十数年前になるので、いま女の人の服の肩がパットを入れた「いかり肩」の流行になっているのか、どうか知らない。
当時は「いかり肩」が全盛期だったので、「私は、なで肩の女らしい方が好きなのになぁ」という気持で作ったものである。
掲出写真は「アカプルコの海」という昔のエルヴィス・プレスリーの1963年の映画のマギー役のエルサ・カルデナスのものである。
彼女は典型的な「なで肩」の美人と言える。
対照するために、同じ映画の、マルガリータ役のウルスラ・アンドレスの典型的な「いかり肩」の写真を出しておく。
因みに、外国人に圧倒的に人気があったのは、後者のアンドレスだという。 ↓

e0123392_2355559いかり肩

日本の女の人には「なで肩」の人が多いと言われている。
外国人の場合は、どうなのだろうか。
私は、そういう日本人の女の人の「なで肩」が好きである。
なで肩の線が、何ともなく、艶めかしくて、見ていても、いい気分になる。
それを、わざわざパットを入れて「いかり肩」にどうしてするの、というのが、この歌の趣旨である。

この頃では余り「ウーマンリブ」というような言葉を聞かないが、ひところは盛んに主張されたことがある。
そのことの良し悪しを、私は言っているのではない。
なで肩が好きという、あくまでも私の個人的な感想に過ぎない。
女性の社会進出は年々ますます盛んで、女性がそれぞれの分野で重要なポストを占めるようになってきた。
そんな時代になっても、女の人には「ユニセックス」のような状態にはなってほしくない、と私は思うのである。
社会の重要なポストを占めながら、なお「女性」としての魅力を失ってほしくはない、のである。
女としての魅力を「売り物」にする人もあるだろうが、それでも、いいのではないか。

なで肩の歌というのではないが、女の後姿その他の歌を引いて終わる。

   後肩いまだ睡れり暁はまさにかなしく吾が妻なりけり・・・・・・・・千代国一

   泣くおまえ抱(いだ)けば髪に降る雪のこんこんとわが腕に眠れ・・・・・・・佐佐木幸綱

   たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき・・・・・・・・近藤芳美

   とことはにあはれあはれは尽すとも心にかなふものか命は・・・・・・・・和泉式部
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この記事の初出は2006/02/21のもので、当時、この記事をご覧になったFRANK LLOYD WRIGHTさんが、下記のコメントを寄せられた。

<なで肩は、
中国で言えば、華南とか上海とか海沿いの地域はなで肩ですね。
つまり、海から離れた北京とかはいかり肩が多い。満州も内陸部はそうですね。
日本・韓国は、島国・半島国家ですから言わずとしたなで肩。海沿いです。
東南アジアはおしなべてなで肩。海に関係するからですかね?
インドなんて、北インドはいかり肩で、南インドはなで肩。ドラビタ系はなで肩が多い。
スリランカは、同じ家族でいかり肩、なで肩がとびとびに。
インドからの移住と現住のドラビタとの血の現れでしょうか?>

私には新しい知識だが、面白いので、ご紹介しておく。


映画・チア☆ダン〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜・・・・木村草弥
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──映画鑑賞──

   映画・チア☆ダン〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜・・・・・・・・・・・・木村草弥

2009年3月、福井県立福井商業高等学校のチアリーダー部JETSが、全米チアダンス選手権大会で優勝した―――
この実際に起こった奇跡のような出来事は、普通の女子高生たちと彼女たちを支えた一人の教師との絆の物語でした。
それはそれは誰も観たことのない青春感動サクセスストーリーがあったのです。
今作は、この実話をもとに「サッカー部に所属する憧れの男子生徒を応援したい」という軽い気持ちでチアダンス部に入部してしまったごくごくフツーの女の子が、顧問の先生からの鬼のような厳しい指導、チームメイトの支えによって成長し、たった3年でチアダンス部が全米大会を制覇するまでの軌跡を描いた感動のエンターテインメント作品です。
決してきれいごとだけでは語れない、大きな大きな夢への挑戦。幾多の困難に遭いながらも、情熱と忍耐で乗り越えた彼女たち。
クライマックスで魅せるその笑顔は、今がんばっている人、そしてかつてがんばったことのある人には、きっと届くはず。
あなたの人生をも応援してくれる、そんな作品です。

キャスト
友永ひかり - 広瀬すず
玉置彩乃 - 中条あやみ
紀藤 唯 - 山崎紘菜
東多恵子 - 富田望生
永井あゆみ - 福原遥
山下孝介 - 真剣佑
村上麗華 - 柳ゆり菜
矢代浩 - 健太郎
絵里 - 南乃彩希
大原櫻子
大野 - 陽月華
ひかりの父 - 木下隆行(TKO)
多恵子の母 - 安藤玉恵
教頭先生 - 緋田康人
校長先生 - きたろう
早乙女薫子 - 天海祐希

スタッフ
監督:河合勇人
脚本:林民夫
音楽:やまだ豊
主題歌:大原櫻子「ひらり」
挿入歌:大原櫻子「青い季節」
企画プロデュース:平野隆
プロデューサー:辻本珠子、下田淳行
共同プロデューサー:前田菜穂、原公男
音楽プロデューサー:桑波田景信
チアダンス振付・指導:前田千代
ラインプロデューサー:及川義幸
撮影:花村也寸志
照明:永田英則
美術:金勝浩一
装飾:湯澤幸夫
録音:小松崎永行
編集:瀧田隆一
VFXスーパーバイザー:小坂一順
スクリプター:杉本友美
助監督:李相國
制作担当:高瀬大樹
特別協力:一般社団法人 日本チアダンス協会
スペシャルサンクス:福井県立福井商業高等学校チアリーダー部 JETS
配給:東宝
制作会社:ツインズジャパン
製作:映画『チア☆ダン』製作委員会
メディアミックス
『チア☆ダン 「女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話」の真実』(角川文庫)




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若い人のエネルギーを注入してもらおうと、久しぶりにイオンシネマ高の原で映画を見てきた。
本日、封切られたばかりの映画である。実話を映画化したもので現実感がある。 佳い映画だった。
足を振り上げてのラインダンスは圧巻だった。
終わって出てきたら、三月の土曜日ということで、ロビーは幼稚園、小学生たちの団体でゴッタ返していた。


三月十一日の悲劇を忘れないために・・・・・木村草弥
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↑ 東電・福島第一原発3号機の爆発の写真。当初は余りの惨状に政府は非公開にしていたもの─アメリカの新聞が公開。

──再掲載──

       三月十一日の悲劇を忘れないために・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今日は東日本大震災が起こって、地震と大津波が襲来した日である。
地震の被害もさることながら、大津波によって大被害が起こり、あまつさえ「福島原発」が大爆発し、核燃料が溶けるメルトダウンを起こした悲劇は今に続いている。
この「メルトダウン」については、チェルノブイリ発電所での事故と同様であるが、日本では原発事故当初から、「影響は少ない」という「ウソ」の報道が政府などからなされている。
爆発した原子炉の片付けが進んできた昨今になって、メルトダウンの状況が予想以上に深刻であることが判ってきた。
チェルノブイリでは解けた燃料を取り出すのが不可能なので、建物全体をコンクリートで覆って、いわゆる「死の棺」として数十年経ったのだが、経年劣化でコンクリートが崩壊しだしたので、それを更に再び覆う工事が着手されようとしている。
溶けた原料の塊は「象の足」と呼ばれているが、フクシマの場合も、その象の足と同様の状態であるらしい。
放射線が強くてロボットのカメラも壊れて実情を写すことすら出来ない、ということである。
これらの真実に鑑みて、この悲劇を忘れないために、これに関連する過去記事を再掲載しておくので読んでみてください。  ↓

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佐藤

──新・読書ノート──

     いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め
            原子炉六基の白亜列(つら)なる・・・・・・・・・・・・・・・佐藤祐禎

         ・・・・・佐藤祐禎歌集『青白き光』2004年初版・短歌新聞社。2011年再版・文庫版いりの舎・・・・・・・・・

大熊町に在住され福島の原発を以前から告発し続けていた、歌集『青白き光』の佐藤祐禎(さとう・ゆうてい)さんは2013年3月12日に亡くなられた。 83歳であった。
初版の「あとがき」で
<七十五歳にして初めての歌集である>
と書いているように、遅くからの歌の出発であった。
「アララギ」から始まり、アララギ分裂後は宮地伸一の「新アララギ」に拠られた。序文も宮地氏が書いている。
「あとがき」にも書かれているが「先師」とあるように「未来短歌会」の近藤芳美の弟子を標榜されていて、桜井登世子さんと親しかったようである。
角川書店「短歌」六月号に、桜井さんが追悼文を書いておられる。

生前の佐藤さんのことは私は知らない。
原発の大事故のあと、事故前、それも十年ほども前に原発の事故を予測したような歌を発表されていると知って衝撃を受けた。
その歌集が『青白き光』である。
彼が短歌の道に入ったのは五十二歳のときで、遅い出発だった。
この歌集には昭和56年から平成14年までの歌511首が収録されている。
もちろん原発関連の歌ばかりではなく、羈旅の歌もあり、海外旅行の歌などもある。
ここでは、それらの歌には目をつぶり、原発関連の歌に集中する勝手を許されよ。

  いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる・・・・・・・佐藤祐禎

この歌は、この歌集の最後に置かれたものだが、題名も、この歌から採られているが、まるで「予言」のような歌ではないか。

彼・佐藤祐禎は再版に際して、別のところで、次のようなことを書いているので引いておく。 ↓      
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   『青白き光』を読んでくださる皆様へ    佐藤祐禎

私共の町は、新聞テレビで、充分世にまた世界にフクシマの名で知れ渡ってしまいましたが、福島県のチベットと蔑まれて来ました海岸の一寒村でした。
完全なる農村でして、一戸あたりの面積は比較的多かったのですが、殆ど米作りの純農村故に収入が少なく、農閑期には多くの農民が出稼ぎに出て、生活費を得た状態でした。

そこへ天から降って来たような感じで、原子力発電所が来ると知らされたのです。

この寒村に日本最大の大企業が来れば、一気に個人の収入も増え、当然町も豊かになるだろうと、多くの人は両手を挙げて賛成しました。
わずかに郡の教員組合などは反対したようですが、怒涛のような歓迎ムードの中では、表に出ることはありませんでした。
常識的に言って、これほどの大事業を興すには多くの問題が山積みするはずでしたが、ここでは全く問題は起きなかったのです。

先ず、用地ですが、ここには宇都宮航空隊の分教場があったのです。
敗戦となり、飛行場が撤収された跡には、面積92万坪つまり300ヘクタールの荒れ地が残っていました。
それが地元民の知らない内に、3分の2が、堤財閥の名義になっていました。
どのような経緯があったのかは未だわからないのですが、当時の衆議院の議長は西武財閥の祖、堤康次郎であったことを考えると、自ずから分かる気が致します。
あとの3分の1の殆どは、隣の双葉町7人の名義になっていました。

これらの土地は、全くの痩地で、生産性が殆どありませんでしたので、かつては、軍のために無償で提供した夫沢の地区の人らは顧みることもありませんでした。

当時、東京電力の社長・木川田は、福島県出身であり、建設省に絶大なる影響力を持っていた衆議院議員、天野は、ここ大熊町の隣の双葉町の出身だったのです。
そういう立場ですから、同県人として地元の為にと、木川田は考えたのだろうと思います。
そこに、天野は、俺の故郷には、うってつけの土地があると言いました。

立地条件として、第一に、相当広い土地。
第二に、1キロ以内に人家が全くないこと。
第三には、海水が充分確保できること。
第四に、土地取得に障害がないこと。
これらの条件が全て解決できるところが双葉郡大熊町夫沢地区だったのです。


東電の意志が県に伝えられ、双葉郡そして我が大熊町に伝えられ、トントン拍子に ことが運んだようです。
そんな訳で土地の価格が、驚くなかれ、一反歩「300坪」当時で5万円。
地上の樹木「矮小木」5万円。併せて10万円だったのです。
白河以北、一山百文といわれた東北でしたから、単に売買するとしたら一反歩5,000円か、1万円くらいにしか思っていませんでしたから、地権者は喜んで手放しました。
びっくりしたのは東電だったようで、後で聞きましたら、買収予算の4分の1で済んだとのことでした。
後に大きな増設問題が出ました7号炉、8号炉の建設予定地となった厖大な土地は、その余った予算で買った
ということです。

いよいよ工事が始まり、全てのものが大きく変わってゆきました。
数千人という作業員が入り、20キロ離れた山から岩石を切り出して、工事現場に骨材を運ぶトラックが延々と続きます。
労賃も飛躍的に上がりました。
今までは、小さい土木会社の手間賃が700~800円だったのが、数倍に跳ね上がったのです。
農家の人たちは早々と農事を済ませて、我がちに作業員として働き始めたのです。
年間の収入は飛躍的に増加したものですから、原発さまさまになって行きました。

それまでは収入が少なかったものですから、家を建てる時も村中総出で手伝い合い、屋根葺きなども「ゆい」という形で労力を出し合っていましたが、一日数千円の労賃が入るということで、助け合いなどすっかりなくなってしまったのです。
「町は富めども こころ貧しき」とも私は歌いました。

人口一万弱の町に、30軒以上の飲み屋、バーがあったといいます。
下戸の私などは一回か二回くらいしか行かなかったはずで、その実態などはよく分かりませんが大凡の見当はつきます。

原発に関する優遇税はどんと入りますし、原発に従事する人達の所得税は多くなりますし、何か箱物とか運動場とか施設を造る度に、原発からは協力費として多額の寄付金がありました。
いつの間にか県一の貧乏村が分配所得県一になってしまいました。

ここだけではありません。
となりの富岡町には、111万キロの原子炉が4基出来ましたし、そのとなりの楢葉町と広野町には、100万キロの火力発電所が4つ出来ました。
原発10基と火力4基から生み出される電力は、全て首都圏に送られ、地元ではすべて東北電力の電気を使ってまいりました。
東京の人達に、ここをよく理解してもらいたいと切に願うものです。

私の反原発の芽生えは、一号炉建設の頃、地区の仲間たちが皆そうであったように、どんな物だろうと好奇心を持って少しのあいだ働いた時です。
ある時、東芝の社員の方がこう言ったのを今でも覚えています。
「地元の皆さんは、こんな危険なものをよく認めましたね」という言葉でした。
その時は、変なことをいう人だなと思いましたが、だんだんと思い当たるようになったのです。

最初に気づいたのは、小さいけれども工事の杜撰さでした。
誤魔化しが方々にあったのです。
小さい傷も大きな災害にひろがることがあります。
それらは末端の下請け会社の利を生むためには、仕方がないというのが、この世界の常識だったらしいのですが、ただの工事ではないのです。
核という全く正体の分からない魔物を扱う施設としては、どんなに小さい傷でも大きな命取りになるはずです。
次第に疑念を持ち始めた私は、物理の本を本気になって読み始めました。
そして、それを短歌に詠みました。

   <この孫に未来のあれな抱きつつ窓より原発の夜の明り見す>・・・・・・・・・・佐藤祐禎
    
                                   (後略)
----------------------------------------------------------------------------
この文章を読むと、かの地に福島原発が、大した反発もなく建設し得たのかの疑問が氷解する。
上の文章の中のアンダーラインの部分は、私が引いたものである。

「資本の論理」と言われるが、まさに巨大財閥と巨大企業による「犯罪」とも言える行為である。
こんなことは、事前も事後も、日本のマスコミは一行も書かなかった。

さて、本論の佐藤さんの歌である。
多くの歌は引けないので、はじめに掲出した歌を含む巻末の平成十四年の歌の一連を引いておく。

     平成十四年    東電の組織的隠蔽

  三十六本の配管の罅(ひび)も運転には支障あらずと臆面もなし

  原発の商業主義も極まるか傷痕秘してつづくる稼働

  さし出されしマイクに原発の不信いふかつて見せざりし地元の人の

  破損また部品交換不要と言ひたるをいま原発のかくも脆弱

  原発などもはや要らぬとまで言へりマイクに向かひし地元の婦人

  原発の港の水の底深く巨大魚・奇形魚・魔魚らひそまむ

  「傷隠し」はすでにルール化してゐしと聞くのみにして言葉も出でず

  ひび割れを無修理に再開申請と言ふかかる傲慢の底にあるもの

  ひび割れを隠しつづくる果ての惨思ひ見ざるや飼はるる社員

  埋蔵量ウランは七十年分あるを十一兆かけるかプルサーマルに

  法令違反と知りつつ告発に踏み切れぬ保安院は同族と認識あらた

  面やつれ訪問つづくる原発の社員に言へりあはれと思へど

  組織的隠蔽工作といふ文字が紙面に踊る怖れしめつつ

  原発推進の国に一歩も引くことなき知事よ県民はひたすら推さむ

  いつ爆(は)ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列(つら)なる

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極めて不十分な鑑賞だが、この辺で終わりにする。 ぜひ取り寄せて読んでもらいたい。

この歌集の「初版」は短歌新聞社から刊行されたが、そのときに担当されたのが「玉城入野」氏であった。ちょうど、その頃、彼は短歌新聞社で編集者だった。
その後、短歌新聞社は社長の石黒氏の高齢のために解散されたので、初版本は絶版となった。
フクシマ原発事故の後、佐藤さんの「予言」のような歌を覚えていて、ぜひ再版をと働きかけて再版に至り、よく売れて、私が買ったものは第三刷である。
因みに、この玉城入野氏は、高名な玉城徹の息子さんであり、きょうだいに「塔」所属の歌人として有名な花山多佳子が居る。
玉城徹 ← については私の記事にあるので参照されたい。

梅の奥に誰やら住んで幽かな灯・・・・・夏目漱石
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──季節の一句鑑賞──梅題──

    ■梅の奥に誰やら住んで幽(かす)かな灯・・・・・・・・・・・・夏目漱石

梅の花が本格的に咲き揃う時期になって来たので、今日は梅に関する「三題ばなし」を書くことにする。
掲出の句は夏目漱石の作品で、彼独特の諧謔性に満ちた句である。
「誰やら住んで」というところが面白いし、「幽かな灯」というのも広い梅林を想像させて奥行がある。
漱石は俳句を余技としてたくさん作っている。
漱石は英文学者として出発したが、小説家として主に朝日新聞を拠り所にして、次々と作品を発表した。
当代一の文化人であったから、師弟関係にあった文学者、科学者などが多い。
科学者なども──たとえば中谷宇吉郎など、いずれも文筆でも優れた文章を残している。
漱石における俳句はあくまでも「余技」であったが、伝統的な文学として、漱石は深く愛していた。

t-konoesiro近衛白(関西)

  ■片隅で椿が梅を感じてゐる・・・・・・・・・・・・林原耒井

林原耒井(らいせい)は、明治20年福井県に生まれ、昭和50年に没した。
号の耒井は本名の耕三の「耕」の字を分解したもの。
旧制一高時代から夏目漱石の門に入り、漱石作品の校正を任されるなど愛弟子の一人であった。英文学徒として旧制松山高等学校で教えていたことがある。
俳句は臼田亞浪の「石楠」(しゃくなげ)に参加、論客として知られ、特に『俳句形式論』は重要な著作とされる。
掲出句は『蘭鋳』(昭和43年刊)から。

椿は春の花とされ、梅に引続いて咲きはじめる。
時期的には咲くのが重なることもあるので、この句では、それを「片隅で椿が梅を感じてゐる」と表現する。
先に挙げた漱石の句の諧謔性に相通じるものがあるではないか。師弟の関係の妙である。
「明暗」というサイトに漱石と林原との記事があるので見られるといい。

hana565_1_ume紅梅

  ■白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり・・・・・・・・・・飯田龍太

紅梅は白梅よりも少し遅れて咲きはじめることが多い。
白梅の「白」のあとにグラーデーションのように「紅」色が色を増してゆく、というところが面白い。
それに花の上の「空」を「深空」と表現したのも秀逸である。
飯田龍太は飯田蛇笏の子として幼少の頃から俳句に親しんできたが、父の死後、俳誌「雲母」の主宰者を継承して俳壇で重きをなしてきたが、十余年前に結社を解散した。
俳誌などの世襲制に対する批判などもあるが、主宰制は、いくたの欠点もある。
そういうことを自覚した上での、いさぎよい決断だ。まだまだ影響力があった全盛期での決断だった。2007/02/25没。
飯田龍太については、 ← のWikipediaに詳しい。

以下、「梅」「椿」を詠んだ句を引いておく。

 梅一輪踏まれて大地の紋章たり・・・・・・・・・・中村草田男

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・・・中村草田男

 悲しめば鱗のごとく梅散りしく・・・・・・・・・・原コウ子

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・・・石田波郷

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・・・星野立子

 梅が香に襲はれもする縋られも・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・・・西島麦南

 静けさのどこか揺れゐて梅白し・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 月光に花梅の紅触るるらし・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 うすきうすきうす紅梅によりそひぬ・・・・・・・・・・池内友次郎

 紅梅の燃えたつてをり風の中・・・・・・・・・・松本たかし

 紅梅や熱はしづかに身にまとふ・・・・・・・・・・中村汀女

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは・・・・・・・・・・永田耕衣

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・・・古賀まり子

 赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・・・・・・・河東碧梧桐

 落椿投げて暖炉の火の上に・・・・・・・・・・高浜虚子 

 御嶽の雲に真つ赤なおそ椿・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 人仰ぐ我家の椿仰ぎけり・・・・・・・・・・高野素十

 落椿かかる地上に菓子のごとし・・・・・・・・・・西東三鬼

 椿見て一日雨の加賀言葉・・・・・・・・・・森澄雄

 火の独楽を回して椿瀬を流れ・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 雪解けの底鳴り水に落椿・・・・・・・・・・石原八束




鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・三橋鷹女
h-rno6ルノワールぶらんこ

       鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・・・・・・・・三橋鷹女     

鞦韆(しゅうせん)とは「ぶらんこ」のことである。
中国では、北方の蛮族のものが紀元前7世紀に輸入されたと言い、それほど古くから中国では行なわれていたという。
唐の玄宗皇帝は羽化登仙の感じがあるとして「半仙戯」の名を与えている。
唐詩などにもよく詠われ、それが日本にもたらされた。中国では古来、春の戯れとしたという。
和語では「ふらここ」ともいう。詩歌では、この言葉が愛用される。

掲出した写真はオーギュスト・ルノワール(1841-1919)の絵である。オルセー美術館蔵。
春になって暖かくなったので、若い女性が公園でブランコに乗っている図である。

先に書いたように「鞦韆」は漢字で書いて「しゅうせん」と音読みにする他に「ふらここ」と和語読みにすることもある。
以下、ブランコを詠んだ句を引いておきたい。

 鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す・・・・・・・・高浜虚子

 鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな・・・・・・・・松瀬青々

 鞦韆や春の山彦ほしいまま・・・・・・・・水原秋桜子

 ふらここを揺りものいはずいつてくれず・・・・・・・・・・中村汀女

 鞦韆やひとときレモンいろの空・・・・・・・・石田小坡

 鞦韆に腰かけて読む手紙かな・・・・・・・・星野立子

 鞦韆の十勝の子等に呼ばれ過ぐ・・・・・・・・加藤楸邨

 鞦韆や舞子の駅の汽車発ちぬ・・・・・・・・山口誓子

 鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・・・・三橋鷹女

 達治亡きあとはふらここ宙返り・・・・・・・・石原八束

 ふらここのきりこきりこときんぽうげ・・・・・・・・鈴木詮子

 鞦韆と雲一ひらと遊ぶなり・・・・・・・・加藤望子

 島の子のぶらんこ島を軋らせて・・・・・・・・谷野予志

 ブランコの子に帰らうと犬が啼く・・・・・・・・菅原独去

 鞦韆の綱垂る雨の糸に浴び・・・・・・・・堀葦男


かたまつて生くるさびしさ蝌蚪も人も・・・・・島谷征良
img1098ヒキおたまじゃくし

      かたまつて生くるさびしさ蝌蚪も人も・・・・・・・・・・・・・・島谷征良

一般に蛙は、まだ寒い頃に穴から出てきて、相手を見つけて抱接し、雌は田の水溜りに卵を産み、また土の中に戻って冬眠をつづけるという。
その間に水の中で卵は成長し、「おたまじゃくし」になって水中の微生物を食べて大きくなる。
親蛙たちはゆっくり冬眠して水温が、そこそこになるまで出て来ない。というのは蛙は「変温動物」であるから気温が低ければ活動できないからである。

私の歌に

    水底に動くものあり見つむれば蛙の卵(らん)の孵(かへ)りはじめぬ・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、「風二月」の一連の中にある。

写真②は卵嚢に入った蛙の卵。 ↓

img1035ヒキ卵

掲出した歌の前に

    田の水に映るものにも春兆し風は二月の光に触れ来(く)・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているのが、掲出した歌の舞台背景ということになる。

「おたまじゃくし」のことを漢字では「蝌蚪」(かと)と書くが、この字は中国の上代に、竹簡に漆の汁をつけて字を書き、
その字の形が頭が大きく、尾が小さい、おたまじゃくしに似ていたので、そう名づけられ、それを明治以降俳人たちが音読利用しているものという。

そんなことで俳句にも、よく詠まれているので少し引いて終りにする。

 天日のうつりて暗し蝌蚪の水・・・・・・・・高浜虚子

 川底に蝌蚪の大国ありにけり・・・・・・・・村上鬼城

 蝌蚪曇りなほ三月の日のごとき・・・・・・・・山口誓子

 蝌蚪の水山ふところにありにけり・・・・・・・・富安風生

 蝌蚪見れば孤児院思ふ性を棄てよ・・・・・・・・中村草田男

 蝌蚪の上キューンキューンと戦闘機・・・・・・・・西東三鬼

 税の数字よ小学生の日の蝌蚪よ・・・・・・・・加藤楸邨

 病みて長き指をぬらせり蝌蚪の水・・・・・・・・石田波郷

 蝌蚪を見る病後の杖を抱きかがみ・・・・・・・・皆吉爽雨

 蛙の子飼つて孤独の性(さが)子にも・・・・・・・・安住敦

 蝌蚪に打つ小石天変地異となる・・・・・・・・野見山朱鳥

 蝌蚪に肢不思議な平和充満し・・・・・・・・北登猛

 あるときはおたまじゃくしが雲の中・・・・・・・・飯田龍太

 蝌蚪の水少年のなほ女声・・・・・・・・辻田克己

 おたまじやくしにも青雲の志・・・・・・・・宮坂静生

 一つ出ておたまじやくしのどろけむり・・・・・・・・石田郷子

 かたまつて生くるさびしさ蝌蚪も人も・・・・・・・・島谷征良

 かたまれる蝌蚪に行末ひとつづつ・・・・・・・・まついひろこ

 うちみだれ蝌蚪の疑問符感嘆符・・・・・・・・新明紫明



菜の花の黄のひろごるにまかせけり・・・・・久保田万太郎
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     菜の花の黄のひろごるにまかせけり・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

菜の花は早いところでは、もう一月はじめには咲きはじめて、遅いところでは満開は四月になる、という息の長いものである。
早春を告げる花として庶民的な親しみの持てる花である。
「菜の花」というのは、昔は「菜種油」を採るために栽培されていたのだった。
ずっと昔、電気のない頃は灯心に「菜種油」を注いで明りにしていた。
電気が来てからは、神棚や仏壇の灯明として終戦後も長く使われていたものだった。
菜種油を採る実を振い落したあとの「菜種柄」は、竈などの焚きつけに使われたが、蛍の出るシーズンになると、
それを持ち出して蛍をはたき落すのに使ったものである。
この頃ではエコロジー運動の一環として菜種油で軽油の代わりにディーゼル車を動かそうというような企てもある。

私の歌に

   春が来た春が来たよと菜の花よ生きるは愉(たの)し生きるは哀(かな)し・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
掲出した私の歌は、「生きる」ということは「愉しい」ことでもあり、また或る一面では「生きる」というのは「哀しい」ことでもある、
という哀歓を詠んだものである。
「菜の花」を詠んだ歌を、この歌集からまとめて引いておく。

    咲きほこる菜の花いつぽん切りとりて花瓶に挿せり危ふく挿さる・・・・・・・・・・・木村草弥

    春が来た春が来たよと菜の花よ生きるは愉し生きるは哀し

    菜の花を花瓶に挿せば風景が青き地図埋めたちまち展(ひら)く

    見ひらける瞳のかなた産土(うぶすな)のひろごる視野は黄なる菜の花

この頃では「菜の花漬」として蕾の花と茎の先端の部分を塩漬けにして芥子を少しあえて「菜の花漬」というものが季節の浅漬け、
あるいは「おひたし」としてスーパーなどでも盛んに売られている。あっさりしておいしいものである。
時代とともに、菜の花の利用法も変わってくるのである。

俳句の世界でも、芭蕉、蕪村の頃から「菜の花」は盛んに詠まれてきた。
以下、それらを引いて終りにしたい。

 菜畑に花見顔なる雀かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 菜の花や月は東に日は西に・・・・・・・・与謝蕪村

 菜の花やかすみの裾に少しづつ・・・・・・・・小林一茶

 菜の花の野末に低し天王寺・・・・・・・・正岡子規

 菜の花といふ平凡を愛しけり・・・・・・・・富安風生

 菜の花や夕映えの顔物を言ふ・・・・・・・・中村草田男

 菜が咲いて鳰も去りにき我も去る・・・・・・・・加藤楸邨

 菜の花に昔ながらの近江富士・・・・・・・・山口波津女

 三輪山の裾ひろがりや菜の花に・・・・・・・・滝井孝作

 家々や菜の花色の灯をともし・・・・・・・・木下夕爾

 菜の花の地平や父の肩車・・・・・・・・成田千空

 菜の花や西の遥かにぽるとがる・・・・・・・・有馬朗人

 一輌の電車浮き来る花菜中・・・・・・・・松本旭

 菜の花の怒涛のごとき黄なるかな・・・・・・・・辰巳あした



三毛猫の蹠あかく天窓の玻璃に五弁の花捺しゆけり・・・・・木村草弥
16810猫足裏

    三毛猫の蹠(あしうら)あかく天窓の
         玻璃に五弁の花捺(お)しゆけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

猫の足裏は「肉球」と呼ばれ、猫にとっては足裏の重要な感覚器官であるらしい。
足形は、ちょうど五弁の梅の花のような形をしており、これは梅鉢形と似ている。
私の歌は、別にとりたてて、どうという歌ではないが、明り取りの天窓のガラスを渡って行った三毛猫の足裏を五弁の梅の花と捉えて、即興的に詠んだものである。

世の中には「猫好き」の人が多くて、ネット上でもさまざまの記事や写真が出ている。
私自身は「猫嫌い」である。
というのは、私の家の庭は猫の通路になっていて、臭い臭い糞をしたり、小便をひっかけたりするので、被害甚大である。
家の中だけで飼い、下のものの始末も砂箱を用意したりする心がけのよい愛猫家なら私は何も言わないが、得てして、「犬は毎日散歩させなければならないから面倒だが、猫は自分で用を足してくるから楽だ」などとほざく手合いが大半なのである。
そのトバッチリが私の家に廻ってきているのだ。
農家も困っている。種などを蒔いて白い砂で表面をきれいにしてある畑を足でかき回したり、敷き藁の上に糞をしたりと、悪さをするばかりである。
おまけに犬の糞は固くて、そんなに臭くはないが、猫の糞はべちゃべちゃに緩い便で、しかも限りなく臭い。
私が「猫嫌い」になった理由である。
そんな私が猫を歌に詠んだというのだから、褒めてもらいたい気分である。
今しも当地は「梅の花」の咲くシーズンである。梅の花と似た足裏を持つゆえに、先ずは許しておこう。


いづこにも貧しき道がよこたはり神の遊びのごとく白梅・・・・玉城徹
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    いづこにも貧しき道がよこたはり
          神の遊びのごとく白梅・・・・・・・・・・・・・・玉城徹


玉城徹は大正末期の生まれで、東京大学美学科卒業という人である。
彼の私生活ないしは辿ってきた道程については知らないが、高校教師をしていたらしい。その頃、教員組合の幹部として政治活動にも携わったらしい。
歌人としては、専攻した学問の教養もあって優れた作品を残し、結社「うた」を主宰していたが、先年解散した。
後継の結社も、「うた」を継承するようなことは許さなかったらしい。彼の父親は玉城肇という高名な学者である。
今をときめく短歌結社「塔」の選者をしている花山多佳子が玉城の娘であり、「うた新聞」を発行しているいりの舎玉城入野は彼の息子であり、西欧文学の翻訳家でもある。
因みに、この人は2010/07/13に八十六歳で亡くなられた。
追悼記事で篠弘は言う

<論作の両面においてディレッタンティズムに徹したひとで、「ことば」をもって新たなる現実を構成しようとする志向は、後続する世代にすくなからぬ影響をもっていた。
まずディレッタントであった証左に、戦後短歌のリアリズムに反発する。
「既成の技法に近代的擬装をほどこし得たに過ぎない」と、果敢に批判視する。・・・・・・・>

この歌は、メタファーによって構成された歌である。
「貧しき道」というのも、いろいろに解釈は出来るが、本当のところは作者自身の自歌自注を聞かないと判らない。
「神の遊びのごとく」というフレーズが独特であり、かつ、この歌の眼目である。白梅が「神の遊びのごとく」咲いている、という表現によって、
漂う雰囲気から、すがすがしい白梅であることが推察される。
言葉を替えれば「神の造化」の力によって──つまり、それが「神の遊び」なのだが──この清らかな、すがすがしい「白梅」が作られた、というわけである。

先に言ったように玉城徹については私は何も知らないし、資料もないが、彼の作品を少し抄出しておきたい。
阿木津英のホームページにも彼のことが記事にしてあるので、参照されたし。
以下、彼の歌を少し引いておく。

宝石のごときがそらに巣を張りて犠牲(いけにへ)を待つ敢へて払はず

足羽川秋の終りのかがやきを越えて入りゆく曙覧の山へ

悄然とゐるにもあらず硝子戸にうつりてわれは李太白読む

夢に聴く箴言一つ棒を把らば棒の力に動かされなむ

おのれよりほつれ出でたる一筋の糸に爪さきのかかりてころぶ

ひばりの音(ね)そらに満つるを縫ふごとくセツカ鳴くなりひねもす浜に

語るべきことにあらねど焼跡の東京に日の沈みゆく見き

海の辺に三年住みつつ今朝われの松原歩む形容(かたち)老いたり

方代の歌碑の石見むと右左口の村に今日くれば桃の花照る

春雷の昨夜(よべ)わたりける朝空を鎮めて富士は雪あらたなり

椅子を起(た)つ。──図録取(と)う出てブラックが晩年作に鳥を見るべく

力なく信なき衆多(あまた)群れ集ひ塔造らむとはたらく見やる

海ばらは白波たてり双ぶごとあひ背くごと限りも知らに

第一次の大戦に出でモダニストのその幾人かいのちを殞(おと)す

軍歌一つ唱へとわれに要(もと)めて言ふカウンターの暗き隅より一人

吾れやこれいかなる手にも把(つか)まれず挙げられざりし觴(さかづき)のごと

今の世に既視感(デ・ジャ・ヴュ)といへることなども書きとどめたり兼好法師

香貫野は田は鋤きにけり日のひかり土くれに沁み午ちかづきぬ

侵略はつねに防衛の名によりきこの単純を言はざるべからず

ワカキヒニモオイタルヒニモイクタビモハゲマシクレキキミハイマナキカ
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いま手元にある資料から歌を抽出したが、さすがに深い教養に裏打ちされた歌群である。いくつかは解説が必要だが、今回は省略する。



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