
千曲川旅情の歌 ・・・・・・・・・・・・・・・・・島崎藤村
千曲川柳霞みて
春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁(うれひ)を繋ぐ
詩集『落梅集』に納められる有名な「千曲川旅情の歌」の最終連。
千曲川の古城跡にたたずみ、戦国武将の栄枯のあとを回想し、「嗚呼古城なにをか語り/岸の波なにをか答ふ」と歎じながら、近代の旅人の愁いを歌いあげている詩だが、藤村はこの詩をのちに「小諸なる古城のほとり」と合わせて「千曲川旅情の歌」一、二番とした。
これは、そのうちの二番にあたる詩の最終連という訳である。
藤村の歌いぶりは、漢詩的な対句表現を多用したり、和歌的語法を用いたりして、伝統的な詩の美感や技法を巧みに近代的表現の中に移し得ている。
この一連では、5音7音という日本の伝統的な音数律をうまく使ってフレーズを構築し得ている。
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藤村は木曾の馬籠宿の庄屋に生まれる。
馬籠は中仙道の街道筋にあたり木曾十一宿という古い宿駅のひとつで父は明治維新まで馬籠の庄屋、本陣、問屋を兼ねていた。
滅び行く旧家の血統は、故郷の風土とともに、一人の近代日本の巨大な作家を形成するのに重大な役割を果たした。
若くして東京に遊学したが、1899年、小諸義塾の教師となる。そこで秦慶治の三女・冬子と結婚し、結婚を期に詩から散文への転換をめざす。
1912年にまとめられた『千曲川のスケッチ』や第一短編集『緑葉集』などは散文家としての最初の結実である。
『破戒』は、前年に小諸の学校を辞して帰京し、背水の陣をもって執筆にあたったという。その後『春』『家』『新生』『夜明け前』など、小説家として、その当時の文学界をリードした。
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↑ 詩碑「過ぎし世をしづかにおもへ/百年もきのふの如し」
参考のために下記を転載しておく。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『千曲川旅情の歌』(ちくまがわりょじょうのうた)は島崎藤村の詩であり、この詩に作曲した歌曲も有名である。
明治38年に発行された「落梅集」が初出。同詩集冒頭に収められた『小諸なる古城のほとり』、後半の『千曲川旅情の詩』を、後に藤村自身が自選藤村詩抄にて『千曲川旅情の歌 一、二』として合わせたものである。この詩は「秋風の歌」(若菜集)や「椰子の実」(落梅集)と並んで藤村の秀作とされ、詩に歌われた小諸城址に歌碑が建立されている。
幾度と無く曲が付けられ、多くの歌い手に歌われてきた。特に、「小諸なる…」に作曲した弘田龍太郎の歌曲作品「千曲川旅情の歌」(「小諸なる古城のほとり」)は広く演奏され、NHKのTV番組名曲アルバムなどでも度々放送されている。弘田は後半の「昨日またかくてありけり」にも作曲している。
「小諸なる古城のほとり」 -落梅集より-
島崎藤村
小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も籍(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る
あたゝかき光はあれど 野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ
暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む
「千曲川旅情の歌」 -落梅集より-
島崎藤村
昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ
この命なにをあくせく 明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る
鳴呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思へ 百年もきのふのごとし
(百年もきのふのごとし)
千曲川柳霞みて 春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて この岸に愁を繋ぐ
(この岸に愁を繋ぐ)
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