K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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夕光にあからさまなる木蓮の花びら厚し風たえしかば・・・・・佐藤佐太郎
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      夕光(ゆふかげ)にあからさまなる木蓮の
          花びら厚し風たえしかば・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤佐太郎


佐藤佐太郎は明治42年宮城県生まれ。斎藤茂吉に師事。
岩波書店に勤務する。
都市生活に根ざした独自の簡勁な写実主義短歌を展開。
昭和20年「歩道」を創刊、主宰する。
昭和27年『帰潮』により読売文学賞、55年日本芸術院賞を受賞する。
昭和62年没。

この歌は風の止んだ夕方、ぼったりとした厚い木蓮の花が夕日に「あからさまに」に染まっている、という精細な写実の秀歌である。
佐太郎のファンは今でも多く、歌集もよく売れている。
以下、佐太郎の歌を引いておく。
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をりをりの吾が幸(さいはひ)よかなしみをともに交へて来りけらずや

店頭に小豆(あづき)大角豆(ささげ)など並べあり光がさせばみな美しく

地下道を人群れてゆくおのおのは夕の雪にぬれし人の香

めざめしはなま暖き冬夜にてとめどなく海の湧く音ぞする

なでしこの透きとほりたる紅(くれなゐ)が日の照る庭にみえて悲しも

つるし置く塩鱒ありて暑きひる黄のしづくまれに滴るあはれ

今しばし麦うごかしてゐる風を追憶を吹く風とおもひし

連結を終りし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音

戦(たたかひ)はそこにあるかとおもふまで悲し曇のはての夕焼

黄牛(あめうし)は体の皮たえず動かして蝿おひゐたり近づきみれば

桃の木はいのりの如く葉を垂れて輝く庭にみゆる折ふし

キリストの生きをりし世を思はしめ無花果の葉に蝿が群れゐる

金の眼をしたる牝猫が曇りつつ寒き昼すぎの畳をあるく

貧しさに耐へつつ生きて或る時はこころいたいたし夜の白雲

灯を消して吾は思ひきつづまりは人のこころは臥床に憩ふ

あたたかに冬日さすとき老いづきし項(うなじ)の汗をわびしむわれは

ヴェネチアのゆふかたまけて寒き水黒革の座席ある舟に乗る

冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ

すさまじきものとかつては思ひしが独笑(ひとりわらひ)をみづからゆるす

梨の実の二十世紀といふあはれわが余生さへそのうちにあり

遠くより柿の実みゆるころとなりいまだ濁らぬ視野をよろこぶ

日々あゆむ道に明治の赤き花豆菊咲きて父おもはしむ
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終りから5首目の歌は、いろいろ論議された歌で、結句の「みゆ」は、それまでの文脈からすると「--を見る」という他動詞でなければならないが、この歌には上句と下句には「ねじれ」があって、佐太郎としては途中を省略して、「庭に出てみたら」那智の滝が「見える」という表現になったのだろう、ということになっている。
初心者ならば、当然、先に書いたように自動詞、他動詞の関係から、不適切として直されるところである。
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img_501423_59804757_10佐藤佐太郎歌碑
 ↑ 佐藤佐太郎歌碑 関門海峡に臨む「関見台公園」

Web上に載る或る鑑賞文を引いておく。

佐藤佐太郎の平泉の歌鑑賞

-瞬間に見える真実-

佐藤佐太郎という歌人がいる。宮城県柴田郡大河原に生まれ、茨城県の多賀郡平潟町(現北茨城市)で少年時代を送った。17才で「アララギ」に入会して、斎藤茂吉の一番弟子と呼ばれた歌人であった。昭和27年(1952)佐太郎は、43才にして、歌集「帰潮」で第三回読売文学賞を受賞し、歌人として地位を不動のものとした。その翌年の昭和28年2月26日、恩師の斎藤茂吉(1882-1953)が急逝した。その時、佐太郎はこのような歌を詠んだ。

 みいのちは今日過ぎたまひ現身(うつしみ)の口いづるこゑを聴くこともなし
 しづかにてありのままなる晩年の時すぎしかばみ命終る

佐太郎が、使ったこの「み命」という言葉は、佐太郎らしい重々しく真心のこもった言葉の選び方だ。誰が亡くなっても、簡単に使用するような便利な言葉ではない。自分がこの世の中で、最高に敬愛する恩師「斉藤茂吉」という人物の大切な大切な命が消えて、ふと歌人佐太郎の中で「み命」という言葉が、彼の心の奥から湧いてきたのである。

そんな年ではあったが佐太郎は、秋になり、忙しい合間をぬって平泉を訪れて、まずは毛越寺に参詣して次のような歌を詠んだのであった。

毛越寺
 うら枯るるものの明るさや毛越寺の池のみぎはに荻(おぎ)もみぢせり
 毛越寺にわれの来しとき松風は音をつたへて池の明るさ
 古き代のこころしのばん石いくつ池中に立つ石もわが見つ
 みちのくの遠きいにしへ毛越寺の礎石のひまに松古りて立つ
 虚しきにたちて心のしづまりを惜しみしかども吾はたち去る

第二歌「・・・池の明るさ」は、佐太郎が、毛越寺の池のほとりに立った瞬間、ふっと風が吹いてきて、池にさざ波が立って、光りが揺らめいた瞬間の歌であろう。その光りの中に得体の知れないなにか、たとえば、奥州の過去の栄華のようなものの幻影でも見たのであろうか。

私は特に第三歌の「古き代のこころしのばん石いくつ池中に立つ石もわが見つ」が好きである。佐太郎は、きっと秋の大泉が池のほとりに佇みながら、池のまん中に立っている僧形石の異名を持つ石をじっと見ていて、向こうもこちらを見ているような錯覚にとらわれたのであろう。もちろん石はものを言うわけではないけれども、その石の姿や、他の石との間の中に、この浄土を偲ばせる池をこしらえた二代基衡という人物の心の有り様というものが、佐太郎の心にひしひしと伝わってきたのであろう。

昭和28年当時の、毛越寺は、今と比べてもきっとずっと寂しかったに違いない。本堂もなかったし、池の周辺だって現在のように綺麗になっていたわけではない。でも、あの池の前に佇んでじっと待っていると、何かふっと感じられるものがある。それはやはりこの毛越寺建立に込めた基衡の強烈に熱い思いなのであろう。ざわざわとする心を抑えながら、しばしの時を置いて、佐太郎は大泉が池を背にした。しかしどうしても立ち去りがたき思いがわき上がって来て、「虚しきにたちて心のしづまりを惜しみしかども吾はたち去る」と詠んで、毛越寺を後にしたのである。

次に佐太郎は、中尊寺に足を伸ばして、このような歌を詠んだ。

中尊寺
 金堂のうちのつめたき塗床(ぬりゆか)にたまたまにして金の箔散る
 金色の弥陀来迎の仏たちさむき御堂のうちに輝く
 ささやけき大日道の前庭に柿の落葉を音たてて踏む
 遠き世のかなしみ残る清衡の金の棺をまのあたり見つ
 ことごとく匂ふが如き御仏と後もしのばん朱の唇

第一歌の「金堂のうちのつめたき塗床(ぬりゆか)にたまたまにして金の箔散る」は、佐太郎の中でも名歌として知られている。まだ昭和28年、金色堂は旧鞘堂の中に収まっていた。その金色堂の床に、キラキラとして金箔が落ちているというのは、少し考えにくい感じがするのだが、とにかく光りの具合か何かで、剥がれた金箔があるように佐太郎には、見えたのであろう。この一瞬の真実を捉えて歌にするのが、「純粋短歌」というものを標榜した佐太郎の歌の真骨頂なのだ。佐太郎の「純粋短歌」の考え方は、少し小難しいが、簡単に言えば、厳選された重厚な言葉を用いて一瞬を歌に詠み込むことと解釈してよさそうだ。その意味でも、第一歌の「…金の箔散る」の歌は、佐太郎の「純粋短歌」の性格付けを見事に表している歌と言える。

金色堂を後にすると、佐太郎は大日堂の前庭を歩いて「ささやけき大日道の前庭に柿の落葉を音たてて踏む」という歌を詠んだ。そんなに柿の落ち葉があったとすれば、きっと木枯らしの後が、台風の後だったのかもしれない。ともかく冬に向かう奥州の古寺の風情が、彷彿と浮かんでくるような歌である。

そして佐太郎は、一山の宝物を納めた讃衡蔵に入る。昔の讃衡蔵は、今とまったく違っていて、木造で階段があって、迷路のように入り組んでいた。ギシギシと音を立てながら、大きな丈六仏を見上げながら歩くのは、実に風情があった。そこに佐太郎は、スリッパを履いて辺りを見渡したに違いない。そこで初代清衡の棺を見たのであろう。確か昭和25年、中尊寺金色堂では、「遺体学術調査」と称して、三代のミイラが取り出されて、様々な研究と修復がなされた年である。その成果として、新しい事実なども発表された。例えば、秀衡の棺の傍らにあった首桶もそれまでは、泰衡の弟の忠衡と思われていたが、眉間にあった梟首(きゅしゅ)の痕などの調査によって、それが実は最後の奥州藤原氏最後の御館(みたち)泰衡の首であることが判明したりした。またミイラから生前の秀衡の顔なども、復元されるなどして、歴史ファンならずとも、興味をそそられることも多かった。佐太郎が訪れたのはそれから僅か三年後であった。

ところでこれは私の最初の疑問であるが、「讃衡蔵」の中で、佐太郎は、まず最初に仏像や他の宝物ではなく、何故に清衡の棺に興味をそそられたのであろう。もしかしたら、それは恩師である斎藤茂吉の死が関係していたのかもしれない。この中に、初代の清衡が眠っていたのか、という感慨を込めながら、人として避けがたい「死」というものと、この歌人は向かいあっていたのだろうか。

次に佐太郎は、おそらく秘仏と言われている「一字金輪佛頂尊坐像」を目の当たりにして、「生」というものの不思議を見ていたはずだ。それが第五歌の「ことごとく匂ふが如き御仏と後もしのばん朱の唇」である。昨年(2000年)に讃衡蔵の中でご開帳されていたので、この仏像を見た人も多いであろう。とにかくこの仏像は、「人肌の大日」(人肌をした大日如来という意味)と言われるように妙に艶めかしく、まるで生きているような感じのする仏像である。寄せ木造りで、後半身がない仏像で、壁に掛けられていたと考えられている。三代秀衡公の持仏と伝えられており、ある説では初代清衡公の妻をモデルにして作られた像ではないかという説もある。実に精気に溢れていて、しかも女性的な仏像である。そこで佐太郎は、不遜ながらその朱(あか)い唇を見て、恋をしたのかもしれない。先の清衡の棺とそしてこの清衡の妻という説もある「一字金輪佛頂尊坐像」を対比させて、「死」と「生」のコントラストを見事に引き出した歌人佐藤佐太郎の充実振りが偲ばれる見事な歌と言えるのではあるまいか。

こうして佐太郎の歌を改めて鑑賞してみると、歌人というものが、いかにして歌を創作するのか、という過程が実によく分かる。まず歌人は、その地に足を踏み入れた瞬間、ある種の「気」のようなものを感じ取ろうとする。次にその「気」の実体がいったいどんなもので、それがどこから来るものなのか、じっと五感をすべて解き放って、その中に浸ってみるのである・・・。すると遠くから一筋の光りが現れるてきて、ゆっくりと、しかし確実に、歌人に向かって近づいてくる。光りの実体が朧気な姿を現した所で、歌人はそれを言葉に変換する。そこで大切なのは、選び抜かれた重厚なる言葉を選択することである。そしていよいよ創作の最後の段階がやってくる。歌人は選んだ言葉が醸し出す雰囲気を大切にし、あらゆる余分な観念を排除して、光りの姿にもっとも相応しい三十一文字の配列を決める。こうして歌という永遠の華が開花するのである。これは歌に限らず、どんなものにも通じる本物に近づき、感じるための良き方法である。


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