K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(5月)月次掲示板
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東日本大震災から六年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
17193df6b1fe081e4228eb7991140605d5c8e997_87_1_12_2宇治新茶
 ↑ 「宇治新茶」摘み取りイベント

新緑の五月になりました。
新人は五月病にならないようにストレスに気をつけましょう。 旧人はのんびりと。

 手に摘みしやはらかき葉よ軒先に新茶一服いただいてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内藤明
 あけぼののいろにもみづる楓の時間しづかに熟れてゐるなり・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 亡きひとが作りし薔薇の乾燥花崩るるときのおとのかそけさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池光
 シャガールの「サーカス」のごとく浮遊する 船の上なるこのひとときは・・・・・・・・・中川佐和子
 にんげんに尾があったなら性愛はもっとさびしい 風を梳く草・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大森静佳
 きみからの手紙はいつも遠浅の海が展けてゆくようだ 夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小島なお
 行く春のひかりとなりて 柿稚葉。標なき終焉へ 皆、ひた向かふ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 成瀬有
 黒糖のようなる鬱がひろがりてからまる髪をほどいておりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 野口あや子
 なまぐさく馬酔木花の匂ふころだらう生きてゐた犬は公園を駆く・・・・・・・・・・・・・・ 河野美砂子
 みづからが飛べざる高さを空と呼び夕陽のさきへ鳥もゆくのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・光森裕樹
 横穴墓掘られた頃の野やいかに田んぼの水に映る青空・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 ひとが死にあきたる穴に嵌めらるるひとつのピース くちをつぐみな・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 透明な振り子をしまふ野生馬の体内時計鳴り出づれ朝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高島茂
 近づくほどにブラジャーは紫陽花だな・・・・・・・・・・・・・・北大路翼
 行春や涙をつまむ指のうら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 八田木枯
 行き先の違う雨を帰っていく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高木架京
 あをあをと山きらきらと鮎の川・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高田正子
 田楽の跡の皿掻く串の先・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪西敦子
 青葉より澄みたる精の飛沫たる・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 赤野四羽
 初夏の口笛で呼ぶ言葉たち・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・生駒大祐
 かしはもち天気予報は雷雨とも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 上田信治
 黄昏の夢
コカコーラ飲みほしぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・大中博篤
 眠りへの入口しれず春逝きぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 晩春や猫のかたちに猫の影・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 細胞の隅々にまで新茶汲む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 表札のなき門柱に青蛙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・倉田有希
 形なきもの萬緑の海に乗る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・きしゆみこ
 飛び出せず川に一列鯉のぼり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・工藤定治
 葉桜や葬儀あるらし人の寄る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・片岡義順
 蛍烏賊地上に住んでゐて不快・・・・・・・・・・・・・・・・・・さわだかずや
 地平線まで麦秋の丘うねる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 ひきがえる歩む素股を光らせつ・・・・・・・・・・・・・・・・・すずきみのる
 目に青葉電源を切るタブレット・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野利行
 三階のジムへ柏餅飲み込んで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷口鳥子
 あかるくつて誰もゐなくてでんでん虫・・・・・・・・・・・・・・・・・・高梨章
 眼帯に葉桜の影染みてきし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・滝川直広
 移り気を蝶に誘はれふはふはす・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中塚健太
 雑草のひようと伸びたる風薫る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岬光世
 ハンカチはチェックが好きで色々と・・・・・・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 より苦きクレソン添へる銀の皿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三嶋ちとせ
 日おもてに三色菫植ゑ分けて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前北かおる
 粉を吹いて祖父は微睡む花林檎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 吉川千早
 木には木の歓びあらむしやぼん玉・・・・・・・・・・・・・・・・ 利普苑るな
 学舎を巣立ちゆく子や竹の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西村恭子
 腕を組むただそれだけの春の宵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・盛蓉子
 空袋空箱ためて四月馬鹿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 イタリアンパセリが胸毛見せている・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 リラ冷えや鏡を廻り在帰宅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

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 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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みほとけの千手犇く五月闇・・・・能村登四郎
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 ↑ 京都・三十三間堂の千手観音の一部

    みほとけの千手犇く五月(さつき)闇・・・・・・・・・・能村登四郎

今日5月24日は能村登四郎の忌日である。
それに因んで記事を載せる。

昼なお暗い五月雨(さみだれ)どき。大寺の御堂の中にたたずんでいると、不意に眼前に立つ千手観音の手がひしめくような気配を感じたのである。
この観音は多分大きな仏像であろう。
五月闇と言われるほど陰鬱な梅雨時の薄暗がりの中で、長い歳月を経た仏像に秘められている魔性が、ふとざわめいたような思いのする肌寒さ。
「千手犇く」が次の「五月闇」と重なって、仏像のある意味では不思議に官能的な側面を引き出している。
千手観音像は普通40本の手で表わされる。
掌中にはそれぞれ一眼を備え、一本の手毎に二十五有(う)を救うとされているところから、25×40=1000で「千手」と言われる。

昭和59年刊『天上華』に載る。

能村登四郎は明治44年東京生まれ。国学院大学卒。水原秋桜子に師事。「沖」主宰。
第8句集『天上華』で1984年「蛇笏賞」受賞。第11句集『長嘯』で1993年第8回「詩歌文学館賞」受賞。
平成13年没。

↓ 写真②は、石川県七尾市和倉温泉に建つ能村の句碑である。 <春潮の遠鳴る能登を母郷とす  登四郎>
略歴には、みな「東京生まれ」と書かれているが、この句のように、彼は石川県の「能登」を母郷としている、と言う。
この句碑の説明文によると、祖父が、ここの出身だという。

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すこし能村の句を引く。

 くちびるを出て朝寒のこゑとなる

 ぬばたまの黒飴さはに良寛忌

 寡作なる人の二月の畑仕事

 妻のほかの黒髪知らず夜の梅

 白鳥の翅もぐごとくキャベツもぐ

 梅漬けてあかき妻の手夜は愛す

 白川村夕霧すでに湖底めく

 優曇華や寂と組まれし父祖の梁

 秋蚊帳に寝返りて血を傾かす

 花冷えや老いても着たき紺絣

 夢の世と思ひてゐしが辛夷咲く

 男梅雨かな三日目は蘆伏して

 朴散りしのち妻が咲く天上華

 墓洗ふみとりの頃のしぐさにて

 秋蒔きの種子とてかくもこまかなる

 ほうたるの火と離れたき夜もあらむ

 今思へば遠火事のごとくなり

 ゆつくりと来て老鶴の凍て支度
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あたらしき声出すための酢牡蠣かな
おぼろ夜の霊のごとくに薄着して
きのふてふ遥かな昔種子を蒔く
すぐ帰る若き賀客を惜しみけり
たわいなき春夢なれども汗すこし
てのひらの艶をたのめる初湯かな
ひだり腕すこし長くて昼寝せり
べつたりと掌につく春の樹液かな
むばたまの黒飴さはに良寛忌
ゆつくりと光が通る牡丹の芽
よき教師たりや星透く鰯雲
ガニ股に歩いて今日は父の日か
一雁の列をそれたる羽音かな
一撃の皺が皺よぶ夏氷
一度だけの妻の世終る露の中
羽蟻ふり峽のラジオは悲歌に似て
煙管たたきて水洟漁夫の不漁(しけ)ばなし
遠い木が見えてくる夕十二月
夏つばめ同齡者みな一家なす
火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ
火取虫男の夢は瞑るまで
花冷えや老いても着たき紺絣
潟人の大長靴が枯るゝ戸に
葛の花遠つ江(あふみ)へ怨み文
気に入りの春服を出す心当て
去年よりも自愛濃くなる懐手
教師に一夜東をどりの椅子紅し
教師やめしその後知らず芙蓉の實
隙間入る雪四十なる平教師
月明に我立つ他は箒草
己が糞踏み馬たちに冬長からむ
吾子すがる手力つよし露無量
今思へば皆遠火事のごとくなり
今日の授業誤ちありし青葉木萸
紺の厚司で魚賣る水産高校生
妻死後を覚えし足袋のしまひ場所
削るほど紅さす板や十二月
鮭の切身の鮮紅に足止むる旅
子とみれば雪ゆたかなり童話劇
子にみやげなき秋の夜の肩車
子等に試驗なき菊月のわれ愉し
紙魚ならば棲みてもみたき一書あり
秋づきし母の嶺負ひし檜挽き
秋燕をくらきが吸ふ遠山家
秋風に突き当りけり首だせば
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
初あかりそのまま命あかりかな
身にしみて一つぐらいは傷もよし
甚平を着て今にして見ゆるもの
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明治44年に東京に生まれる。
国学院大卒。市川高校に40年勤務し、俳人として活躍する。戦前から水原秋桜子の「馬酔木」に投句し昭和24年に同人となる。
昭和45年俳誌「沖」を創刊し平成13年春まで主宰。
昭和31年句集『咀嚼音』で現代俳句協会賞、昭和60年句集『天上華』で蛇笏賞、平成4年『長嚼』で詩歌文学館賞を受賞し、俳壇の賞を総なめにした。
身辺の日常の中に幻想や心象を見るイメージ俳句を追求し評論もおこなっていた。
代表句に「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」がある。
平成13年5月24日八幡にて逝去。

かたつむりつるめば肉の食い入るや・・・・永田耕衣
sizen266カタツムリ

     かたつむりつるめば肉の食い入るや・・・・・・・・・・永田耕衣

永田耕衣は明治33年兵庫県生まれの現代俳壇の長老の一人だった。
戦後、東洋的無の立場を裏づけにもつ「根源俳句」の主張で注目を浴びたが、仏教とくに禅への関心が深く、現代俳句における俳味と禅味の合体、
その探求者と言えば、先ずこの作者をあげる必要があるという。
この「かたつむり」の句は、そのような俳人の面目躍如とした作で、清澄な心境と混沌たる性的世界への凝視とが一体化したような力強さと、一面、面妖な迫力がある。
「つるめば肉の食い入るや」という観察は、対象がかたつむりであるだけに、何とも粘着力のある、一読忘れ難い印象を与える。
性を詠んで性を突き抜けているのだ。昭和27年刊『驢鳴集』所載。

永田耕衣は「阪神大震災」に遭遇し、これを題材にした秀句があるが、いま手元にないので引くことが出来ない。それまでの時期の句を引きたい。
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 夢の世に葱を作りて寂しさよ

 夏蜜柑いづこも遠く思はるる

 野遊びの児等の一人が飛翔せり

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは

 梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな

 近海に鯛睦み居る涅槃像

 蛍火を愛して口を開く人

 泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む

 野を穴と思い跳ぶ春純老人

 白桃を今虚無が泣き滴れり

 夢みて老いて色塗れば野菊である

 淫乱や僧形となる魚のむれ

 生き身こそ蹤跡無かれ桃の花

 我が頭穴にあらずや落椿

 男老いて男を愛す葛の花

 薄氷や我を出で入る美少年

 いづこにも我居てや春むづかしき

 桃の花道在ることに飽きてけり

 空蝉に肉残り居る山河かな

 強秋や我に残んの一死在り

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ネット上から「もう一つの仏教学・禅学 」という記事を転載しておく。
永田耕衣のことが詳しく書いてある。写真②は「耕衣自伝」(1992年沖積舎刊)
024kouijiden耕衣自伝

根源俳句、永田耕衣
根源俳句 人間を探求した俳人
永 田 耕 衣 の 生 涯


参考文献
(A)『永田耕衣』    俳句文庫 春陽堂
(B)『生死』 「永田耕衣句集]  ふらんす堂
(C)『部長の大晩年』 城山三郎  朝日新聞社
(D)雑誌『俳句』平成10年2月(永田耕衣特集) 角川書店

「 」は、参考文献からの引用。例えば(C28)は上の参考文献Cの28頁を表す。

幸福とは言えない幼少時代
明治三十三年(1900) 1月21日、兵庫県加古郡尾上村(現在、加古川市尾上町)に生まれる。本名軍二。父岩崎林蔵は村役場収入役。
明治三十九年(1906)[6歳]父母と同居のまま母系永田家を継ぐ。 父母の仲は悪かった。母親が家を出て長く帰らぬこともあった。母が家出するころには、兄や姉も家を離れており、家には耕衣ひとり残された。
大正三年(1814)[14]兵庫県立工業学校入学。文学誌を発行。 俳句に関心を持つほか映画・演劇にも興味を持つ。
大正八年(1919)[19]勤務の三菱製紙高砂工場にて抄紙機で右指組織潰滅の負傷。

禅との出会い
このころ、禅哲学に興味を抱く。
「最初は禅そのものを求めてというより、縁を生かし、好奇心につられてのこと。この大怪我のため静養中、実家が檀家でもある祥福寺で、新住職を迎えての晋山式(しんざんしき)があり、そこで法戦が行われると聞いて出かけて行った。」(C37)
「禅に親しみ始めたのは二十歳位の頃でしたな。生まれ故郷のお寺で禅問答が公開されたのを見聞に言ったときからです。その師家に雲水が、「青島」(チンタオ)へ行ってこられたそうですが、何か珍しいことがありましたか」と問う。師僧がその雲水を説き伏せる意味で「雀はチュウチュウ、カラスはカアカア」と答えるが早いか、その雲水の肩をシッペイでパ-ンと打ったんです。そういうことが実に印象的でしたね。何となく禅というものは面白いと思いました。」(A20)
「このことがおもしろくて、耕衣は高僧の法話や座禅の催しがあると知ると出かけ、ときには、これはと思う禅寺を一人で訪問した。 秋の夕暮れ、訪ねて行った臨済宗の寺の老師は、闇の迫る中で、灯火もつけず、「禅というのは、厄介なものや」
禅修行で悟りを開いたはずなのに、一歩退いたところから、そんな風に眺める「ユトリ」といったものがあり、耕衣はさらに興味をかきたてられたりし、以後、生涯にわたって禅への関心は消えなかった。 もっとも、それはあくまで気ままに、高僧を訪ねたり、道元や西田幾多郎の著作を通じて学ぶということであって、荒行や修行の類とは無縁。その時間がないというより、それらが一つの型式、一つの型に人間をはめこみ、その中での自己陶酔になりかねぬ、と感じたからである。」(C37)

文芸活動
大正九年(1920)[20]右腕負傷のため兵役免除。結婚。毎日新聞兵庫県版付録俳句欄に初投句。 このころ大阪の俳誌『山茶花』に投句。
昭和三年(1928)[28]武者小路実篤の文学に心酔。「新しき村」入村を志すが、手の障害では農作業は無理だと断念、村外会員となる。 村の機関紙「新しき村」昭和3年6月号に短編小説『秋風』が掲載される。
昭和四年(1929)[29]このころ俳誌『山茶花』から『鹿火屋』(原石鼎主催)にのりかえる。 「鶏頭陣」(小野撫子主催)にも投句。古陶趣味の影響を撫子より受ける。このころ原石鼎敬慕。
昭和十年(1935)[35]主宰俳誌「蓑虫」を創刊。(十六号で休刊)

地元の俳誌加入を拒否される
「地元で新たな俳誌ができ、加入を申し込んだところ、耕衣が「ホトトギス」系でない「鹿火屋」誌などに関係していたという理由で拒絶された。」(中略) (原石鼎の句「淋しさにまた銅鑼(どら)打つや鹿火屋守」はーー) 「孤独の深さをうたう美しい句だが、写生中心のホトトギス系の世界からは遠いとされ、ついでに耕衣も敬遠された。

自ら、句誌「蓑虫」を創刊
俳句の世界にも、派閥や縄張り意識があるのかと、耕衣は興ざめしたが、そこでくさることなく、それならそれでと、工場内で関心のありそうな仲間に声をかけ、四十人を集めて、句誌「蓑虫」を創刊、その中の何人かを撫子の「鶏頭陣」誌にも紹介した。」(C55)
昭和十二年(1937)[37]文化趣味の会「白泥会」を結成。棟方志功・河井寛次郎らに接し、民芸の精神を養う。白泥会は、高砂の工楽(くらく)長三郎(造船、海運で財をなした)邸で行われた。

<棟方志功とのつきあい>
「長三郎は芸術や文化への関心が強く、若手の芸術家や学者を招いて、土地の同期の人々と共に話を聞く集いを持つようになった。会の名は「白泥会」。」(C22)
「耕衣は、この白泥会で志功の話を聞くだけでなく、会が無い日でも志功が工楽邸に泊まるときには、欠かさず訪ねて話こんだ。(中略) 二人には、禅や謡曲といった共通の話題もあったが、何より「もう一つの仏教学・禅学 」も創作への姿勢という面で共鳴し合った。「根源」とか「第一義」とかを問題にし、写生よりも、自己主張や観念を打ち出す。泥くさく見られたりすることなど、念頭にない。」(C22)
昭和十五年(1940)[40]「鶴」に投句、のち同人。思想弾圧下の時勢下で小野撫子より警告を受ける。

写生とは違う俳句へ
「俳壇で主流を占めてきたのは、高浜虚子が主催する「ホトトギス」派で、正岡子規の写生説を忠実に守り、花鳥諷詠を中心に置いた俳句づくりをというものであったが、一部の俳人たちはそれにあきたらず、昭和に入ってからの社会不安や軍国主義のひろがりの中で、人生や社会をも見つめ、また写生にとらわれぬ句をと、「ホトトギス」から脱退、「京大俳句」「旗艦」「馬酔木」(あしび)などの句誌を出し、俳句革新運動をはじめた。季語のない句をつくるなどもし、「新興俳句」の名で呼ばれた。
人間として爆発するように生きたいとする耕衣は、花鳥諷詠の「ホトトギス」派とはもともと波長が合わなかったが、といって「革新運動」などという組織的な活動に加わるのもにが手。
しかし、その新しい運動の中で、自分の句がどう評価されるかには興味があり、日野草城主催の「旗艦」に投句してみた。だが、思ったほどの反応がないため、一年ほどでやめ、今度は石田波郷主催の「鶴」に投句したところ、三ケ月で同人に推された。」(C63)

新興の俳人の思想弾圧
昭和15年2月「京大俳句」の平畑静塔ら8人が、治安維持法違反で検挙される。
 5月、東京の同人四人も逮捕。
 8月、西東三鬼が逮捕される。
昭和16年2月、秋元不死男が逮捕される。
 逮捕者15名中3名起訴され、残りの人は数カ月から一年拘置され、釈放されたが、「執筆禁止」を言い渡された。 こういう状況にあって、小野撫子が体制側にあって俳句を検閲していたらしく、小野から耕衣に警告の知らせが届いた。耕衣は上京し、小野にあい、しばらく句作を中断する旨、伝えた。だが、しばらくして小野に無断で、名前を変えて石田波郷の俳誌「鶴」に投句。

戦争中参禅
「早く禅の道へ踏みこんでいた彼は、俳句に注いでいた時間の一部を禅にふり向け、時間をつくっては、神戸祥福寺の臥牛軒老師を訪ね、年末の臘八接心(ろうはつせっしん)に参禅したりした。
動き出してしまうと止まらなくなるのが、耕衣の常である。祥福寺だけでなく、近くの明石や加古川の禅寺へも出かけた。また、禅に明るい哲学者西田幾多郎の著作を人にすすめられ、読みはじめると、これまた夢中になり、次々に読みふけった。 こうして禅への親しみが深まると、彼は自分一人がその法悦に浸っていては申し訳ない、という気がしてきた。
このため、会社でのクラブ活動の一つとして座禅会をつくり、加古川の寺の和尚を招いて提唱を聞くことにしたところ、工場長はじめ三十人ほどが参加するようになった。」(C77)

戦後、独自の道へ
昭和二十二年(1947)[47]石田波郷・西東三鬼が来て一泊。三鬼が耕衣の句を激賞。「現代俳句協会」会員に推される。
昭和二十三年(1948)[48]西東が中心の「天狼」同人となる。「根源探求論」を展開する。
「天狼」が「他の結社との重籍を認めず」という規約があったため、「鶴」「風」同人を辞退。

自由を縛る「天狼」に嫌気
「その句が純ホトトギス系でないという理由で、播磨の俳誌グループへの入会を断られことが戦前にはあったが、戦後、また似たようなことが始まったのか、と。

「マルマル人間」
結社があって俳人があるわけでなく、俳人たちが「マルマル人間」として自由に集まる組織が結社のはずであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもないはずではないか -。 三鬼との間に、こうして思いがけぬ隙間風が吹くようになった。」(C100)
昭和二十四年(1949)[49]「琴座」(リラザ)創刊、主宰となる。 (「琴」のギリシャ語から、リラ座と呼ぶ。)
昭和二十七年(1952)[52]三菱製紙高砂工場製造部長となる。
昭和二十八年(1953)[53]「天狼」を脱会。「鶴」同人に復帰。

孤高の道
禅僧との交わり

「耕衣は志功を訪ねたが、当時、逆に耕衣との議論を好み、須磨の家まで訪ねてきた別世界の人が居る。
神戸祥福寺の師家、山田無文。
たまたま耕衣とは同年だが、その説法は評判が高く、後に臨済宗妙心寺派管長となる。花園大学学長もつとめ、国際的にも知られた高僧だが、生活は質朴。文化勲章も拒否する気骨の人であった。」(C25) 《(注)昭和28年から祥福寺の師家。》
「手の障害のせいもあって、耕衣は旅を苦手としたが、東京出張の機会を活かし、社用が終わると、朝比奈宗源などの禅僧や、俳人たちを訪ねたが、それは耕衣がそのときどきに興味や関心を持った相手ということであって、このため、「天狼」以外の俳人とばかり接触していると、うわさする声もあった。
このため、耕衣は「天狼」を去った。
戦前、大結社の「ホトトギス系」に拒まれたため、結果的に新興俳句の流れとして扱われた耕衣だが、その流れの延長上に在る「天狼」からも離れることで、耕衣はいわゆる結社らしい結社とは無縁の生き方をすることになった。」(C116)
昭和三十年(1955)[55]定年退職。赤尾兜子・橋門石らと研鑽のため「半箇の会」を結成。 毎日新聞神戸版俳句欄選者となる。

退職後、読書に時間をさく。詩人の西脇順三郎、歌人、斎藤茂吉に傾倒。 禅に造詣の深い詩人、高橋信吉にも。
昭和三十一年(1956)[56]神戸在住の金子兜子を知る。
昭和三十三年(1958)[58]「俳句評論」創刊とともに同人となる。
昭和三十七年(1962)[62]「現代俳句協会賞」審査員。
昭和三十八年(1963)[63]初の書作展を神戸新聞会館で開く。
昭和四十四年(1969)[69]東京三越本店で「書と絵による永田耕衣展」を開催。
敬慕の西脇順三郎と初対面のほか多くの出会いを得る。津高和一展(西宮)で須田剋太と初対面。

<棟方志功が祝辞>
「昭和四十四年には、東京の三越本店美術サロンで、「書と絵による永田耕衣展」を。このときには、そのカタログに西脇順三郎らの跋(ばつ)とともに、棟方志功がいかにも志功らしい次のような祝辞を寄せた。
<禅機ということを聞く。永田耕衣氏の書は同意から生まれていると機す。書くというよりも「機す」とその意を介した方がよくまた解した事でもよい。ヨロコンダリ。ワラッタリ。ベソカイタリ。アカンベイヲ、シタリ。ナキヤマナイヨウ、ダッタリ。ダダヲコネタリ。お終いにはスヤスヤねむって仕舞って、ひとり笑いしている様な書を生むのを得意としているこの人の書は、滅多に他に無いようだ。羨ましい。>」(C139)
昭和四十六年(1971)[71]「銀花」第7号で耕衣の書画が特集される。須永朝彦・高橋睦郎来訪。
昭和四十七年(1972)[72]ラジオ関西で「山頭火について」4回放送。
昭和四十九年(1974)[74]舞子ビラにて全句集「非佛」出版記念会が開かれる。神戸市文化賞受賞。
昭和五十年(1975)[75]「琴座」300号で俳句的信条<陸沈の掟>十一ケ条を提示。
昭和五十一年(1976)[76]吉岡実編「耕衣百句」に対する丸谷才一の評文が朝日新聞に掲載される。
昭和五十六年(1981)[81]神戸新聞社「平和賞」受賞。
昭和五十九年(1984)[84]兵庫県文化賞受賞。
昭和六十一年(1986)[86]妻ユキエ死去。
平成二年(1990)[90]第2回「現代俳句協会大賞」受賞。
平成三年(1991)[91]第6回「詩歌文学館賞」受賞。

遅すぎる受賞
「長い長い積み上げがあって、耕衣句はようやく世間の目に触れるようになった。
昭和六十年には、朝日文庫の「現代俳句の世界」シリーズで、『永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集』が刊行され、平成三年には薄く小型の選句集『生死』(ふらんす堂)、その翌年には『永田耕衣』が春陽堂俳句文庫の一冊として出た。」(C199)
「俳句関係には早くから大小さまざまな賞があったが、耕衣に対する全国版の賞は、はじめてのことであった。
句歴が長いだけでなく、耕衣はたしかにここ数年も力作、異色作を発表し続けてきた。(中略)
あまりにもおそい受賞ともいえた。
俳壇から孤立というか、異端視されてきた耕衣としては、手放しでよろこぶという具合には行かない。
そこで、次の一句。
「褒貶(ほうへん)をひねり上げたり鏡餅」」(C193)
平成七年 [95歳] 一月、阪神大震災によって自宅全壊。2階のトイレに閉じ込められたが救出され、天理教の講堂に避難。
2日後、市内の同人の家に避難
半月後、寝屋川の特別養護老人ホームへ移る。車椅子が必要になる。
同人が、自宅から書籍を発掘して姫路文学館に収める。
六月、大阪で「耕衣大晩年の会」を開催、150人集まる。
平成八年 [96歳] 五月、神戸で「大晩年耕衣書画展」
朝食に向かう途中、ころんで、左上腕骨を折り、書けなくなる。
平成九年 [97歳] 『琴座一・二月合併号』で廃刊。
八月25日、死亡。泉福寺に墓地がある。(ここには埋葬されていないという


ネウマ譜の起伏のごとき午睡かな・・・・島本融
a0136223_17372262ネウマ譜
0a2ea299d8e5d845f62ae256de472611ネウマ譜

──再掲載──初出2004/04/29 Doblog──「島本融の詩と句」(再掲載にあたり編集し直しました)

     ネウマ譜の起伏のごとき午睡かな・・・・・・・・・・・・・島本融

「午睡」というのは夏の季語だが、もう夏日の気温の日がつづく昨今であるので、もう夏「仕様」で行きたい思う。
ところで「ネウマ譜」については ← Wikipediaに詳しい。
ネウマ譜というのは一般的にはグレグリオ聖歌の表示法として知られるが、「ネウマ」とは中世の単旋律歌曲の記譜で使われた記号。
旋律の動きや演奏上のニュアンスを視覚的に示そうとしたものが基本。
ネウマ譜とは、上に述べたネウマを使った記譜法。
9世紀頃現われ、高音を明示しないネウマ、高音ネウマ(ダイアステマ記譜法)を経て、やがて11世紀から「譜線ネウマ」へ移行する。
ネウマ譜は先に述べたようにグレゴリオ聖歌の表示法として知られるが、中世の世俗的歌曲も、貴族の館を中心に「吟遊詩人」の歌として流行した。
単声で、譜線ネウマ譜で表わしていた。
最初は、歌詞の上に記号をつけただけだったが、10世紀頃イタリアやイギリスで譜線が登場する。
譜線の数は1本から4本まで増え、線と線の間隔は3度間隔を示すようになり、「譜線ネウマ」と呼ばれるようになる。
後には近代5線譜で古い楽譜が写本されることもあるらしい。期間的には9世紀から14世紀にかけて、ということになる。

実は私はネウマ譜の実物か写本というものを見たことがない。
本で、その存在を知っていたに過ぎないが、2004/04/20付けの新聞で大阪の女性がネウマ譜の装飾的な美しさに引かれて写本を手掛けている、
という記事に触発されて、島本氏の、この句を採り上げる気になった。
昔のヨーロッパの本は、小説でも神学の本でもページの文頭の字は、大きく、しかも色彩的にも極彩色に装飾した「飾り文字」になっているが、
このネウマ譜も、そういう装飾文字で始まるらしい。
装飾的ということからは、この大阪の女性の写本のモデルになっているのは14世紀イタリア式譜面の装飾かも知れない。
ネウマ譜の画像をいくつか出しておいた。
GregorienA4グレゴリオ聖歌17世紀楽譜
 ↑ グレゴリオ聖歌17世紀楽譜

島本融氏については、私のWeb上のHPで一章を設けて句集『午後のメニスカス』の抄出をしてある。
島本融氏は河井酔茗、島本久恵氏のご次男で群馬県立女子大教授などを勤められた美学者である。
美学者としての教養から横文字が多いが、知的な雰囲気に満ちている。以下、句を抄出する。
------------------------------------------------------------------------

 母は闇に坐して涼しき銀河系

 吾亦紅野辺のアウラというべきか

 くすぐられてしなやかな子の夏合宿

 すこやかになまあしやはりさむいという

 てふてふの旧かなめきし羽根づかひ

 秋灯に偽書ほどほどの読みごたえ

 様式とはめだかみごとに散るごとく

 二河白道一輻だけの花の寺

 ミネルヴァの梟を言い冬学期

 十代連はチアののりにて阿波踊り

 謝恩会のゼミ学生の抜き衣紋

 青嵐におののきやめずメニスカス

 酔漢がハモってゆくや歳の暮

 波奈理児のすはだに生絹(すずし)添えまほし

 ビリティスの偽書も編みたし蔦の花


内藤恵子『詩・エッセイ・評論集成』・・・・・木村草弥
内藤_NEW

──新・読書ノート──

       内藤恵子『詩・エッセイ・評論集成』・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・エディット・パルク2017/02/04刊・・・・・・・

この本は先に紹介した詩誌「Messier」同人の内藤氏の近刊である。
先日、紹介した件の返礼として恵贈されてきたものである。
この本の奥付に載る「著者略歴」を引いておく。

1936年 東京生まれ
1959年 学習院大学独語・独文学科卒業
1964年 京都大学文学部研究科博士課程入学
1971年 シュトットガルト工科大学マスターコース終了
1986年 京都大学教育学部教育学専攻卒業
1988年 京都工芸繊維大学非常勤講師ドイツ語担当
2010年        〃      退職
著書・翻訳・評論など多数

はじめに、「献詩」として「メシエ」誌主宰者・香山雅代あての作品があるが、その一節に

<高踏
 美的
 難解たれ
 強い衝撃に突き上げられる
 魂の叫びに
 忠実たれ>

というフレーズがある。 
これは、まさに香山氏の詩の特徴を言い当てて的確であるが、翻って内藤氏の詩は、それとは反対の平易な、わかりやすいものである。
この本の題名にもなっている巻頭の詩「遠望」を引いてみる。

         遠望           内藤恵子
            母には買うことを禁じられていた駄菓子屋

  ボックス型の乳母車
  掴り立ちして
  外を眺める
  頭の上から落ちてくる
  急な坂
  上から下へ
  下から上へ
  人が歩いている
  麓には駄菓子屋
  背後には人の気配
  京都言葉がふんわり
  手に握らせてくれる温もり
  重曹の苦みの残る
  パン菓子
  甘食
  記憶の果てから
  蘇った急な坂
  刻印された
  舌の上の甘食の痕跡

  店頭で飽くことなく
  甘食を探し
  衝動買いをおさえることが
  出来ない大人の私

  食べるたび
  ふくれ上がった
  山の割れ目から
  隠れた祖父が
  姿を現す
----------------------------------------------------------------------------
この詩「遠望」は内藤氏の郷愁を綴ったものだろう。
この一篇の詩が、内藤氏の作品のすべてを代表している、と言っても過言ではないだろう。

続く「揺れる」と題する詩に

<・・・・・
  庇護され
  未来への何の不安も
  持たぬ
  幸せな時代
  ものうげな時間の記憶
 
  いくつもの苦楽を
  重ねて
  ひとり身になった今も
  爽やかな風に
  踊る葉影が
  心を揺らす
  ・・・・・>

というフレーズがある。
これこそ、先に私が書いたことの証左と言えるだろう。

Ⅱ エッセイについて触れておくと、「ゴブラン織り」「おやつの思い出」などに年少期のことが書かれていて、山の手のインテリ家庭に不自由なく育った環境が、かいま見える。
それらのことと、先に引いた詩作品とは完全にリンクしているようである。

著者には『境界の詩歌』という「独と和の異色の評論集」と題される「詩歌は言葉の壁を超え得るのか 翻訳の可能性と不可能性」に触れた評論などがあるが、ここでは触れない。

誠に不十分ながら、この本の紹介を終わりたい。
ご恵贈有難うございました。


泰山木の巨き白花さく下にマタイ受難曲ひびく夕ぐれ・・・・木村草弥
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     泰山木の巨き白花さく下に
        マタイ受難曲ひびく夕ぐれ・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にのるものである。
この歌の一つ前には

  おほどかに泰山木の咲きいでていきなり管楽器鳴りいづるなり

という歌が載っているので、これと一体として鑑賞してもらいたい。

泰山木の木は葉も花も大きいもので、葉は肉厚で落葉は昔の大判の貨幣のようである。
この頃には「青嵐」という季語もあるように季節の変わり目で突風が吹くことが多いが、そんな風に吹かれて泰山木の大きな落葉が新芽にとって代られて、
からからと転がってゆく様子は季節ならではのものである。
モクレン科の常緑高木であって、高いものは17、8メートルにもなる。
北アメリカの原産で明治のはじめに日本に渡来し公園などに植えられた。葉はシャクナゲに似、花はモクレンに似ている。
花は葉の上に出て、大きさは15センチもある。木が大きく、葉も花も大きいので「泰山木」という命名がいかにも相応しい感じがする。
花の雄大さと白い色、高い香りが焦点である。

私の歌は、そういう、いかにも西洋風な花と木に触発されて、「管弦楽」ないしは「マタイ受難曲」という洋楽を配してみたが、いかがであろうか。

YouTube 「マタイ受難曲」 ← いい演奏なので聴いてみてください。

「マタイ受難曲」 出典:Wikipedia
「マタイ受難曲」(Matthäus-Passion)とは、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲で、
多くの場合独唱・合唱・オーケストラを伴う大規模な音楽作品である。
このうち最も有名なものはヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下バッハ)の作品である。
ここではこのバッハの作品について述べる。

バッハのマタイ受難曲(Matthäus-Passion)は新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にし、
聖句、伴奏付きレチタティーヴォ、アリア、コラールによって構成された音楽作品である。
BWV244。
台本はピカンダー(Picanderは「かささぎ男」という意味の筆名であり、本名クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ、あるいはヘンリーキ)による。
正式なタイトルは「福音史家聖マタイによる我らの主イェス・キリストの受難Passion unseres herrn Jesu Christi nach dem Evangelisten Matthäus」となる。

バッハのライプツィヒ時代(1723年-1750年)を代表する作品であるとともに、その全作品中の最高峰に位置づけられる。
宗教作品であるが、様々な人間的に普遍的なドラマが描かれており、その音楽の壮大さ、精緻さ、大胆さ、精神性は、しばしばクラシック音楽、西洋音楽作品中の最高傑作とさえ評されるほどである。 バッハが作曲したとされる受難曲は、マタイ受難曲(2作あったとされるが、「2作目は合唱が2組に分けて配置される」という記述の目録があるので現在伝わっているのは2作目あるいは何らかの改作後の方であることがわかる)のほか、音楽的にはマタイほどの完成度ではないもののより劇的とされるヨハネ受難曲(BWV245、1724年)、ルカ受難曲(BWV246)、マルコ受難曲(BWV247、1731年)の計4つが数えられるが、ルカ受難曲は真作と見なされておらず、マルコ受難曲は台本のみが現存し、他は消失している。これらのなかで、マタイ受難曲は内容的にも規模的にも最も重要かつ画期的である。

初演および復活上演
初演 1727年4月11日、ライプツィヒの聖トーマス教会において初演。その後改訂が加えられ、1736年に最終的な自筆稿が浄書されている。かつては1729年4月11日の初演と伝えられ、未だに古典派・ロマン派の愛聴者の中に支持する者もいるが、完全に否定されている。この勘違いは、メンデルスゾーンの初演に用いた楽譜が1729年稿であったこと、蘇演の広告が「100年ぶりの復活演奏」と銘打ったこと、1728年に没したケーテン侯レオポルトに捧げた追悼カンタータがマタイ受難曲のパロディだったこと(教会音楽を世俗音楽に書き換えることはありえないと信じられていた)など、非科学的な思い込みによって誘発されたものである。

復活上演 バッハの死後、長く忘れられていたが、1829年3月11日、フェリックス・メンデルスゾーンによって歴史的な復活上演がなされ、バッハの再評価につながった。

この復活上演はいくつかのカットが伴われ、また古楽管楽器オーボエ・ダ・カッチャを、同じ音域のオーボエ属楽器であるイングリッシュホルンではなくバスクラリネットで代用するなど、メンデルスゾーンの時代により一般的であった、より現代に近いオーケストラの編成によって演奏された。この編成の演奏を再現した録音CDも存在する。当時の新聞評は芳しいものではなく、無理解な批評家によって「遁走曲(フーガ)とはひとつの声部が他の声部から逃げていくものであるが、この場合第一に逃げ出すのは聴衆である」と批判された。しかしこれを期に、当時は一部の鍵盤楽器練習曲などを除いて忘れ去られていたバッハの中・大規模作品をはじめとする音楽が再評価されることになったのである。
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「泰山木」は俳句にも詠まれているので、それを引いて終わりたい。

 壺に咲いて奉書の白さ泰山木・・・・・・・・渡辺水巴

 磔像や泰山木は花終んぬ・・・・・・・・山口誓子

 太陽と泰山木と讃へたり・・・・・・・・阿波野青畝

 泰山木天にひらきて雨を受く・・・・・・・・山口青邨

 泰山木巨らかに息安らかに・・・・・・・・石田波郷

 泰山木樹頭の花を日に捧ぐ・・・・・・・・福田寥汀

 ロダンの首泰山木は花得たり・・・・・・・・角川源義

 泰山木開くに見入る仏像ほし・・・・・・・・加藤知世子

 泰山木君臨し咲く波郷居は・・・・・・・・及川貞

 初咲きの泰山木に晴れつづく・・・・・・・・武内夏子


さゐさゐと鳥遊ばせて一山は楢の若葉に夏きざし初む・・・・木村草弥
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     さゐさゐと鳥遊ばせて一山は
         楢の若葉に夏きざし初む・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌の次に

     初夏の明けの小鳥の囀りにぼそと人語をさしはさむ野暮

という歌が載っているが、これも一体として鑑賞してもらいたい。

歌について少し説明しておくと「さゐさゐ」というのは漢字で書けば「騒騒」である。
先に書いたかと思うが、楢の木というのは「里山」の木であって、結構いろいろな昆虫なども豊富で、
それらの虫は小鳥たちの絶好の餌になるのであった。
だから小鳥たちが寄ってきて「騒騒」と賑やかなのであった。
こういう鳥たちとの交歓というのは杉、桧のような針葉樹の林では見られない。
針葉樹は人間にとって有用な木材としては最適であるかも知れないが、広くいろんな生物との共生という意味では、貧弱な生態系にしか過ぎないと思われる。
虫や昆虫、小鳥の多いのは広葉樹の林である。
上に挙げた歌につづいて

     みづうみを茜に染めて日の射せばひしめき芽ぶく楢の林は

というのが載っている。
これらの歌の三部作を含む項目の題は「鳥語」と私はつけた。
やはり楢などの雑木林には小鳥が豊富であり、したがって鳥の声に満ちている──つまり「鳥語」が特徴であろう。

虫が居れば成虫である蝶も居るということである。「蝶」の句を引いて終わる。
なお、ただ単に「蝶」と言えば春の季語であるが、揚羽蝶など盛夏に居る夏の蝶は、もちろん夏の季語の題材になる。「夏の蝶」「斑蝶」「セセリ蝶」など。

 ほろほろと蝶こぼれ来る木下闇・・・・・・・・富安風生

 木の暗を音なくて出づ揚羽蝶・・・・・・・・山口誓子

 夏蝶や歯朶揺りてまた雨来る・・・・・・・・飯田蛇笏

 弱弱しみかど揚羽といふ蝶は・・・・・・・・高野素十

 夏蝶の放ちしごとく高くとぶ・・・・・・・・阿部みどり女

 下闇に遊べる蝶の久しさよ・・・・・・・・松本たかし

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり・・・・・・・・黒田杏子

 一途なる蝶に身かはす木下闇・・・・・・・・佐野まもる

 下闇や揚羽の蝶の二つの眼・・・・・・・・松尾静子

 奥の院八丁とあり黒揚羽・・・・・・・・近藤笑香

 首塚の湿りを出でて揚羽蝶・・・・・・・・長田群青


今度こそ筒鳥を聞きとめし貌・・・・飯島晴子
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     今度こそ筒鳥を聞きとめし貌・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

「ツツドリ」は、人間の住むような里山には近づかず、林間に居て、鳴き声だけが遠くから聞こえてくる。
この句は、そういう筒鳥の生態を、よく捉えている。
私の歌にも、こんなものがある。

  筒鳥の遠音きこゆる木の下に九十の母はのど飴舐むる・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

筒鳥は郭公やほととぎすと同じ仲間で姿、形が似ている。これらの鳥は鳴声は田舎なら、よく聞くことがあるが、姿を見ることはめったにない。
この種類の鳥は子育ての際に、独特の「托卵」という習性があることが共通している。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも

   み熊野の出で湯に宿るあかときにぽぽろぽぽろと筒鳥の声

という歌を載せている。
掲出の歌のことだが、私の母は93歳で亡くなったが、この歌は90歳の頃のことを詠んでいる。母には曾孫も出来ていたから文字通り悠々自適の晩年だった。
初夏のむせかえるような陽気の日には大きな木の蔭でのんびりと過ごしていた。
「のど飴」を舐める母、というところに私の歌作りの工夫を込めたつもりである。

以下、歳時記に載る句を少し引いて終わりたい。

 つつ鳥や木曽の裏山木曽に似て・・・・・・・・加舎白雄

 筒鳥を幽かにすなる木のふかさ・・・・・・・水原秋桜子

 筒鳥なく泣かんばかりの裾野の火・・・・・・・・加藤楸邨

 筒鳥や楢の下草片敷けば・・・・・・・・石田波郷

 筒鳥鳴けり腕を撫でつつ歩むとき・・・・・・・・大野林火

 旅にして聴く筒鳥も辰雄の忌・・・・・・・安住敦

 筒鳥やひとの名彫られ一樹立つ・・・・・・・・中島斌雄

 筒鳥や涙あふれて失語症・・・・・・・・相馬遷子

 筒鳥や分れて道は火山灰ふかく・・・・・・・・皆吉爽雨

 筒鳥や思はぬ尾根に牛群れて・・・・・・・・堀口星眠

 筒鳥や山に居て身を山に向け・・・・・・・・村越化石

 筒鳥の遠音近づくことのなし・・・・・・・・森田峠

 筒鳥の風の遠音となりにけり・・・・・・・・三村純也

 筒鳥やこんにやく村はすぐ陰る・・・・・・・・茂木連葉子

 筒鳥や豆が双葉となりし朝・・・・・・・・矢上万理江



高階杞一『詩歌の植物 アカシアはアカシアか』・・・・・木村草弥
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──高階杞一の詩──(9)

       高階杞一『詩歌の植物 アカシアはアカシアか』・・・・・木村草弥
                      ・・・・・澪標2017/05/20刊・・・・・・・

この本は詩誌「びーぐる」に連載されたものを纏めて上梓された、詩歌に出てくる植物について書かれたエッセイである。
「あとがき」に書いておられるが、高階先生は大学の農学部を出て、造園技師として勤めておられたことがあり、植物の専門家である。
そんな立場から、蘊蓄を傾けて、こんな本が誕生したということである。 少し「あとがき」を引いてみる。

<こうした植物にまつわる文章を書く最初のきっかけとなったのは、四十年近くも前、ニセネムノキなる樹木が出てくる詩を読んだことだった。
 何だこりゃ? こんな名前の木があるのかと疑問に思い、その正体を解き明かす文章を当時発行していた同人誌に書いた。それが本書第一章の「アカシアはアカシアか?」の元になっている。・・・・・ >

紹介したからには、もっと詳しく引く必要があるが長い文章なので、お許しいただきたい。
代わりに「目次」を引いて、お茶を濁したい。

「目次」
⒈ アカシアはアカシアか?
⒉ あれは菜の花?
⒊ 春にはなぜ白と黄色の花が多いのか?
⒋ 白いコウホネ?─『海潮音』の植物
⒌ バラもあれこれ─夢見る薔薇やもののけの薔薇
⒍ 小出新道の謎
⒎ 種はなくてもタネはある
⒏ 中也の植物 道造の植物
⒐ なぜ葉は散っていくのだろう?
⒑ ツバキは唾の木?─ツバキとサザンカ
⒒ ネズミもいればブタもいる─植物名の中の動物
⒓ はっかけはばあにくっつき虫─植物の異称あれこれ
⒔ 王と宰相─ボタンとシャクヤク
⒕ 屋根の上のアイリス─アヤメ科の植物あれこれ
⒖ 蓮喰いびとの<蓮>とは何か
⒗ アジアの足跡─踏まれても忍ぶ草
⒘ 植物もヘンシーン!

詩歌と植物とに「執拗に」拘って、ものされた珠玉のエッセイである。 ぜひ、ご一読を。

Wikipedia─高階杞一

まことに不十分で申し訳ない。 ご恵贈に感謝して終わる。有難うございました。


目には青葉/山時鳥/初鰹・・・・・山口素堂
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     目には青葉/山時鳥(ほととぎす)/初鰹・・・・・・・・・・・・・山口素堂

この句は作者名を知らなくても、多くの人に愛誦されている代表格のものだろう。
元の句には区切りなど無いが、意味をはっきりさせるために敢えて区切りを入れてみた。了承されたい。
なぜ「山時鳥」というのかについては ← のところで書いたので参照されたい。
「目に青葉」と読む人があるが、正しくは、字余りになっても「目に青葉」と読んでもらいたい。

山口素堂は芭蕉と親交のあった江戸の俳人。句は「鎌倉にて」という前書きがある。
目のためには一帯の山の青葉。耳のためにはほととぎす。鎌倉の初夏はすばらしい。
その上に、相模の海の名物の初鰹とは、何とよい土地柄だろう、というのである。初物好きの江戸っ子の美意識が強く感じられる。

大島蓼太の句にも

    鎌倉は波風もなし鰹つり

というのがあるが、相模湾は、その昔、マグロやカツオの漁でも有名だった。
同じ江戸中期の国学者で歌人の賀茂真淵には

    大魚(おほな)釣る相模の海の夕なぎに乱れて出づる海士(あま)小舟かも

という爽快な漁場風景を詠んだ歌がある。
なお、念のために申し添えておくが、「青葉」「ほととぎす」「初鰹」ともに俳句の世界では「夏」の季語である。つまり一句の中に季語が三つあることになる。
今は一句の中に複数の季語を入れることを喧しく指摘する宗匠もあるらしいが、そんなことに拘らない「大らかさ」が、この句にはあり微笑ましい。
旧暦の四月(卯月)、新暦の五月からは「夏」になる。
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d0080223_19245841ホトトギス

ここでは、「ほととぎす」にまつわる句歌を少し引いておく。

    谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま・・・・・・・・・・杉田久女

結句の「ほしいまま」というのが鳥の自由奔放な命の発露を言いとめている。
この句の前書きには「英彦山」とある。福岡、大分両県にまたがる修験道の霊山である。
久女は昭和5年高浜虚子選で行われた全国新名勝俳句に応募のため、英彦山に登ってこの句を得、金賞を獲得した。
しかし同じ句を「ホトトギス」に投句した時には没だったという話もある。
久女の浪漫的で大胆な句風は女流俳人中で異彩を放ったが、なぜか昭和11年理由不明のままホトトギスから除名された。悲運の閨秀作家である。

    ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞわすれぬ・・・・・・・・式子内親王

詞書には「いつきの昔を思ひ出でて」とある。
「いつき(斎)の昔」というのは、式子内親王が賀茂神社の斎院として青春の十年間を神に奉仕する身であった時代を回想してという意味である。
「そのかみ」と「かみ山」とは掛け詞で、後者は賀茂神社のある森のことを神山(こうやま)と今でも言う。
「旅枕」は賀茂の祭礼のとき、社殿の脇の神館に斎院が一夜泊るしきたりを、旅になぞらえたのである。
ほととぎすよ、その昔、賀茂の神館に旅寝した夜明け、お前がほのかに鳴いて過ぎた、あの時のことが忘れられない、という意味である。
口ずさめば歌は縹渺たる時間と空間を呼び起し、恋歌のような情緒さえ刺激する。
現在では「上賀茂神社」と一般的に呼称する。
「神山」の辺りには今は京都産業大学のキャンパスが広がっている。
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山口素堂についてネット上から転載しておく。

山口素堂(やまぐち そどう)

(寛永19年(1642)5月5日~享保元年(1716)8月15日、享年75歳)

 甲州白州巨摩郡教来石山口(現山梨県北杜市白州町。現在では、近くにサントリー白州ディストラリーがある)の人と言われている。
父山口市右衛門の長男として誕生し、甲府魚町で家業の酒造業を営んでいたが、向学心に燃えて家督を弟にゆずり江戸に出て、漢学を林春斎に学ぶ。
芭蕉とは2歳ほど年上だが、相互に信頼しあって兄弟のような交わりをした。儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた当時稀有な教養人であった。(以上『甲斐国史』による)
 名は信章<しんしょう>、字は子晋<ししん>、通称は勘兵衛。
俳号素仙堂・其日庵・来雪・松子・蓮池翁など多数。子晋・公商は字。趣味も多彩で、蓮を好んだことから「蓮池翁」などと呼ばれた。
延宝4年には『江戸両吟集』を、延宝6年には『江戸三吟』を芭蕉との合作で発表。75歳で死去。
「四山の瓢」参照。

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素堂の代表作

目には青葉山ほとゝぎす初がつを (『あら野』)

池に鵞なし假名書習ふ柳陰 (『あら野』)

綿の花たまたま蘭に似たるかな (『あら野』)

名もしらぬ小草花咲野菊哉 (『あら野』)

唐土に富士あらばけふの月もみよ (『あら野』)

麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし (『あら野』)

髭宗祇池に蓮ある心かな (『炭俵』)

三か月の隠にてすヾむ哀かな (『炭俵』)

うるしせぬ琴や作らぬ菊の友 (『續炭俵』)


まざまざと夢の逃げゆく若葉かな・・・・寺田寅彦
konara小楢本命

     まざまざと夢の逃げゆく若葉かな・・・・・・・・・・・・・・寺田寅彦

今や見渡すかぎり、みどり一色の若葉である。 この句は、そんな季節感を巧く作品化している。
作者の寺田寅彦 ← というのは、こんな人である。物理学者だが夏目漱石に師事し俳句やエッセイなどをよくした。

私の歌にも、若葉を詠んだ、こんなものがある。

   日が照ればエーテルのごとく香を放つ楢の若葉よ午前六時だ・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

写真は小楢の若葉である。ちょうど開花期で雄花序が垂れ下がっている。
ナラ、クヌギの類は人家に近い、いわゆる「里山」の木で、薪にされてきたもので、伐採した後には株元から次の新芽が出てきて林が更新するのである。

konara4コナラ青

写真②はナラの実、いわゆるドングリである。ナラの実は細長い。クヌギの実は、もっと丸い形をしている。

里山は薪などに加工して、伐採して世代更新をしないと木は大きくなりすぎて逆に荒廃する。
この頃では農村でも台所では電気やプロパンガスを使うので薪の使い場所がない。
ようやくシイタケ栽培のホダ木としてシイタケの菌を打つ位であるが、そのシイタケが中国産に押されて価格が下がり日本産は採算が合わないとかで、栽培は減っている。
五月に入ると里山も気温がぐんぐんあがり、天気のよい、湿気の多い日には林はむっとむせかえるような様子になる。
yun_1079白糸の滝

私の歌は、そういう楢の林が新緑に満ちた朝六時の光景を詠っている。
新芽からはツンとする新緑特有の香りが立ち、太陽が中天にさしかかると、むせかえるような空気に包まれる。
「森林浴」というのは本来、ロシアで言われてきたことで、針葉樹の木から出る「フィトンチッド」というエーテル系の成分が体によいことを指したのだが、
今では広葉樹の森の森林浴も含めて言われるようになってしまった。しかし、いずれにせよ森林浴というのは、いいものである。

俳句にも「新緑」「新樹」など多く詠まれているので、それを引いて終わりたい。

 大風に湧き立つてをる新樹かな・・・・・・・・高浜虚子

 夕風の一刻づつの新樹濃し・・・・・・・・中村汀女

 阿蘇も火を噴くと新樹のきのふけふ・・・・・・・・百合山羽公

 夜の新樹詩の行間をゆくごとし・・・・・・・・鷹羽狩行

 若葉して御目の雫拭はばや・・・・・・・・松尾芭蕉

 若葉して手のひらほどの山の寺・・・・・・・・夏目漱石

 動くもの皆緑なり風わたる・・・・・・・・五百木瓢亭

 槻若葉雫しやまずいつまでも・・・・・・・・加藤楸邨

 青葉若葉しかすがに逝く月日かな・・・・・・・・中川宋淵

 青葉満ちまなこばかりの稚魚誕生・・・・・・・・加藤一夫

 新緑やうつくしかりしひとの老い・・・・・・・・日野草城

 新緑の天にのこれりピアノの音・・・・・・・・目迫秩父

 摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・・・・鷹羽狩行

 水筒の茶がのど通る深みどり・・・・・・・・辻田克己

 まぶたみどりに乳吸ふ力満ち眠る・・・・・・・・沖田佐久子


金雀枝や基督に抱かると思へ・・・・・石田波郷
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       金雀枝(えにしだ)や基督に抱かると思へ・・・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

エニシダの咲き誇る季節になった。
もともとエニシダはヨーロッパ原産の植物である。
私にはキリスト教と深く結びついている木のように思える。
私の歌に次のような作品がある。

    金雀枝(えにしだ)は黄に盛れどもカタリ派が暴虐うけしアルビの野なる・・・・・・・・・・・木村草弥

エニシダは地中海原産で、ヨーロッパに広く野生化している。日本には中国を経て、延宝年間に入ってきたと言われる。
オランダ語ではゲニスタやヘニスタと呼ばれていたが、日本ではエニスタと言われるようになり、今のエニシダになったという。マメ科の落葉低木。

この歌は1998年5月に南フランスに旅した時にボルドーの内陸部のアルビに立ち寄った時の歌である。
アルビというと、画家ロートレック(日本では慣習的に「ロートレック」で呼ばれるが、正しくは「トゥルーズ=ロートレック(ロトレック)」でひとつの姓である)の故郷で、
その美術館も見たが、ガイドがさりげなく説明した「異端審問」で、この地でカタリ派が受けた暴虐を思い出して歌にしたものである。
アルビの野は、それらのカタリ派の無惨な血の記憶が染み付いているのである。


エニシダは初夏の花である。この歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載っている。
この歌のすぐ後には

   まつすぐにふらんすの野を割ける道金雀枝の黄が南(ミディ)へつづく

が載っている。高速道路の路傍には、文字通り「エニシダ」の黄色が果てしなく続くのであった。

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「異端審問」あるいは「魔女狩り」というのは、キリスト教の歴史の中でも「負」の遺産として語り継がれているが、旅の中でも、こうした心にひびく体験をしたいものである。
そして、深く「人間とは」「神の名のもとに」という愚かな蛮行を思い出したい。

そんな意味からも、掲出した石田波郷の句は、私には関連づけて読みたい作品だったので、引いてみた。

「カタリ派」については、← ここにリンクした「世界宗教大辞典」の記事に詳しい。長いものだが参照されたい。


以下、エニシダを詠んだ句を少し引く。

 えにしだの黄色は雨もさまし得ず・・・・・・・・高浜虚子

 えにしだの夕べは白き別れかな・・・・・・・・臼田亜浪

 エニシダの花にも空の青さかな・・・・・・・・京極杞陽

 金雀枝(えにしだ)や基督に抱かると思へ・・・・・・・石田波郷

 金雀枝やわが貧の詩こそばゆし・・・・・・・・森澄雄

 金雀枝の咲きそめて地に翳りあり・・・・・・・・鈴木東州

 金雀枝の黄金焦げつつ夏に入る・・・・・・・松本たかし



香山雅代編集・詩誌「messier」49号から・・・・・木村草弥
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      香山雅代編集・詩誌「messier」49号から・・・・・・・・・・・木村草弥

          羽音を聴いた日       香山雅代

  宙を 歩んでいる風(ふう)だった
  ふたりは
  ひろい階段の上から 半ばまで
  夢みるように
  手を 携え
  ほとんど 宙に浮かんでいるといった具合に 軽く ふぅわり 風を摑んで
  降りてゆくのだ
  消えゆくように こころに微笑を浮かべながら その微笑で いっそう軽くなって
  透けた翼に 風圧を 孕んでゆく
  祝祭の 気風が あたりに立ちこめ
  振り返り みあげると
  段上のそこに 現れた幻像こそ
  頭部の欠けた 大理石の 考古の憂い
  かの サモトラケのニケの
  渦巻く 息吹き 芬芳の乱れ

----------------------------------------------------------------------------

          金継教室        佐伯圭子

    (前略)
  それぞれが
  ひび割れたもの欠けたものを
  胸に抱いて辿りつき
  前にならべている
  
  落とされ 当てられ
  ほうり投げられ
  ぶつかり損なわれた
  器たちが
  今 待っている

     (中略)
  整えられて 
  塗られ付けられ
  磨かれたあと
  金粉をふりかけられて
  そっと待っている

  ひと晩 風呂の端に置いて
  眠らせてと 教えられ
  携えて帰る
  ふと見るとわたしの躰も
  繋がって ヒトに返っている

------------------------------------------------------------------------------

          色彩幻想      安部由子

  ヴァイオリンを弾きながら
  昏い舗道に
  あなたは立ち尽くす
  放射する遠心力を指先に集め
  眩い光のなかに疾走する感性を
  そこだけ明るく溶かして
  あなたがある
  色彩は退嬰する街を投影して
  日々の祭りが続く

----------------------------------------------------------------------------------

          好日     内藤恵子

  天空に
  火星の笑窪をつけた
  新月が浮ぶ

  茜色の残照に
  斜形のシルエット
  深紫を深め
  波うつ鋭角の稜線も
  眼下に引きつれて
  浮ぶ雲を手繰り寄せ
  胸に抱き
  頭にかざし
  裾を覆い
  姿を隠す

  だが あけぼの
  すっぱり全身を曝け出す
  白色の潔さが
  紺碧の空にそびえ立つ

    (後略)
----------------------------------------------------------------------------
佐伯圭子の「金継教室」が、言いたいことと選択した言葉との調和という点で秀逸である。
内藤恵子の作品の最終連「今日日是好日」は蛇足であるから (後略)とした。

これらは、もとより私の独断であるが、もっと厳しい批評会があったことを書いて、終わりたい。
ご恵贈ありがとうございました。



   

茶師なれば見る機もなき鴨祭むらさき匂ふ牛車ゆくさま・・・・木村草弥
g08葵祭

   茶師なれば見る機(をり)もなき鴨祭
     むらさき匂ふ牛車(ぎつしや)ゆくさま・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。
この歌は塚本邦雄氏が読売新聞の「短歌時評」で採り上げて下さった2首のうちの一つである。
葵祭5月15日(雨天順延)に行われるが、この歌の主旨は、私が「茶」を生業としていたので、丁度その頃には新茶の製造時期であり、
それどころではない忙しい日々を過ごしていたので、じっくりと祭を見物する機会もなかった、ということである。
この祭は古来、俳句などでは五音に収まるというので「鴨祭」と通称されてきたのである。
京都には三大祭といって、葵祭、祇園祭、時代祭のことだが、一番古いのが、この葵祭である。もともと京の先住民とも言える賀茂氏の祭だった。
現在の上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)という賀茂氏の神社で五穀豊穣を祈願する祭が、平安遷都を境に国家的な祭になって行った。
さわやかな新緑匂う皐月の頃、藤の花で飾られた牛車(ぎっしゃ)や輿に乗った「斎王代」を中心にした行列が、
御所を出て下鴨神社から上賀茂神社を巡幸する祭の光景は、
平安の昔をそのままに、都の雅(みやび)そのものを展開すると言える。

写真の説明をしておくと写真①が御所をでる行列、写っているのは牛車。写真②は、牛車の側面──藤の花の房で飾られている。写真③は輿に乗る斎王代。
hyosi牛車

saio-03輿に乗る斎王代

現在の祭の主役は「斎王代」だが、この斎王代が主役となっての祭の歴史は新しい。
斎王代とは、その名の示すように、斎王に代わるもの、代理である。
斎王は伊勢神宮や賀茂の神社に奉仕した未婚の内親王、女王のことである。
平安の昔、この祭が国の祭であった頃、賀茂の宮には斎王が居られ葵祭に奉仕しておられた。
お住いを斎院と言い、祭のときに出御し、勅使の行列と一条大宮で合流する習いだったという。
写真④は下鴨神社のみたらし川での斎王代の禊の様子。祭の数日前に行われる。
saio-01斎王代みそぎ

葵祭の始まりは平安時代初期、弘仁元年(810年)、嵯峨天皇が伊勢神宮にならって、賀茂社にも斎宮を置いた。
この初代斎王─有智子内親王から鎌倉時代はじめの礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで、約400年にわたって続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府との政変、承久の変で途絶する。
以後、葵祭は勅使は出るものの、斎王が復活することはなかった。
saio-02女人行列

それを昭和28年に葵祭復活後、行列を華やかに盛り上げるために、葵祭行列協賛会などの努力で「斎王代」を中心にした女人行列(写真⑤)などを加えて、今日に至るのである。
斎王代は民間の未婚の女性が選ばれることになっている。
これに選ばれることは名誉なことであるが、選ばれることによる持ち出しも大変なもので一千万円にも及ぶ出費を覚悟しなければならず、
高額所得のある社長令嬢しか、なれない役目である。

参考までに申し上げると、三大祭の他の二つは、
「祇園祭」は中世に京の都が荒れ果て、病気が蔓延していた頃、「町衆」が立ち上がり世の平穏と病魔退散を願って立ち上げたのが祇園祭であり、別名を町衆の祭と言われている。
だから、この祭には勅使なども一切参ることはない。昨年にも書いたが「大文字の送り火」も町衆の発起したものである。
もう一つの「時代祭」は、明治になって平安神宮が郊外の岡崎の地に造営されたのを機会にはじめられた時代行列である。まったく新しい祭である。
都が東京に遷都して京都の町が疲弊していたのを立て直すイベントとして考案されたもの。

以下、葵祭を詠んだ句を引いて終わりたい。

 草の雨祭の車過ぎてのち・・・・・・・・与謝蕪村

 賀茂衆の御所に紛るる祭かな・・・・・・・・召波

 地に落ちし葵踏みゆく祭かな・・・・・・・・正岡子規

 しづしづと馬の足掻きや加茂祭・・・・・・・高浜虚子

 懸葵しなびて戻る舎人かな・・・・・・・・野村泊月

 うちゑみて葵祭の老勅使・・・・・・・・阿波野青畝

 牛の眼のかくるるばかり懸葵・・・・・・・・粟津松彩子

 賀茂祭り駄馬も神馬の貌をして・・・・・・・・伊藤昌子
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「葵祭」の名前の由来は、この儀式全体を通じて「葵」─フタバアオイの葉っぱを延一万本も飾ったり掲げたりすることによる。これを「挿頭」(かざし)という。
写真⑥がフタバアオイの葉っぱである。
今までは、この葵は神社の境内に自生しているものから摘み取って使ってきたが、枯渇してきたので神社奉賛会などの努力で、苗を各地で栽培してもらって提供していただいているという。
牛車の脇に垂らされるのが「葵」の花なのか「藤」の花なのか。フタバアオイの花は写真に写るようなものとは全然別のものであるからフタバアオイの花である筈がないのである。
だから今の季節の華やかな花である「藤」の花が垂らされているようである。
フタバアオイの花の咲くのは一ヶ月も後であり、そのフタバアオイの花の写真⑦もつづいてお目にかける。
断定はいたしかねるが、私の文章では、だから「藤」の花としておいた。ご了承願いたい。
なお掲出した写真は、いずれも過年度のものである。


藤目俊郎撮影「富士山・田貫湖~本栖湖と野の花」・・・・木村草弥
田貫湖の富士2
 ↑ 田貫湖の富士
本栖湖畔のハルリンドウ
 ↑ 本栖湖畔のハルリンドウ
路傍のニリンソウ
 ↑ 路傍のニリンソウ

──藤目俊郎画像集──(3 )

      藤目俊郎撮影「富士山・田貫湖~本栖湖と野の花」・・・・・・・・・・木村草弥


藤目俊郎氏から画像が送られてきた。 ご紹介する。 以下は藤目氏のメール文 ↓

<富士山麓一周ウォーク第二回田貫湖~本栖湖に行ってきました。
雨は免れて二日とも晴れでしたが、初日山頂見えず二日目春霞でコントラストなしというわけで富士山は散々でした。>




昨夜の雨二上山を洗ひ練供養・・・・石垣青葙子
taima-oneri1練供養

    昨夜の雨二上山を洗ひ練供養・・・・・・・・・・・・・・石垣青葙子

奈良県の二上山麓の当麻寺(たいまでら)では5月14日16時から「中将姫」ゆかりの「練供養」行列が催行される。
この日は、この寺に当麻曼荼羅をもたらした中将姫の忌日にあたる。

中将姫(写真②の坐像)とは、どういう人なのだろうか。
187中将姫坐像

当麻寺境内の「中将姫」説明板によると、姫は奈良時代の右大臣・藤原豊成の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられが嫌われ、ひばり山に捨てられた。
その後父に再会し都に戻ったが、姫の意向を無視して当麻寺に入れられたが、称賛浄土経一千巻の写経をなしとげ、17歳で中将法如として仏門に入り、
曼荼羅を織ることを決意した。
百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、これを井戸にひたすと糸は5色に染まった。そして、その蓮糸を、一夜にして一丈五尺もの蓮糸曼荼羅を織り上げた。
姫が29歳の春、雲間から一条の光明とともに、阿弥陀如来をはじめとする25菩薩が来迎され、姫は現身のまま成仏して西方極楽浄土へ向かわれたと伝える。

03当麻曼荼羅

写真③は曼荼羅堂の曼荼羅だが、公開されているのは1502年に作られたレプリカで、原本は国宝で痛みがひどく非公開。

練供養の25菩薩は当番の人が面をかむり、娑婆堂から曼荼羅堂まで高い引摂橋が組まれ、観音、勢至が中将姫の像を守り、25菩薩を先導する。
これは弥陀来迎のさまを表現したもので、恵心僧都がはじめたという。中将姫の曼荼羅の奇跡に弥陀来迎の信仰を、目で見る信仰とした昔の芝居けたっぷりの行事と言える。

関西では有名な行事だが、俳句に詠まれるものは多くはない。それを引いて終わる。

 練供養二つの塔を望み来し・・・・・・・・青木月斗

 一役のかなひし父や練供養・・・・・・・・松岡汀月

 葉ばかりとなりし牡丹や練供養・・・・・・・森田木亭

 雨雲の塔に振り来し練供養・・・・・・・・徳岡洋子

 練供養待ちくたぶれし久米の子ら・・・・・・・民井とほる

 附き人が菩薩を煽ぐ練供養・・・・・・・・右城暮石

 日は西に二十五菩薩練りにけり・・・・・・・・山口峰玉

 脚長き菩薩増えたる練供養・・・・・・・・高松早基子

 もの言うて菩薩親しも練供養・・・・・・・・今井妙子

 菩薩みな頭でつかち練供養・・・・・・・・成瀬桜桃子



母ありといふなしといふ母の日に・・・・小坂順子
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     母ありといふなしといふ母の日に・・・・・・・・・・・・・・小坂順子

今日5月14日は第二日曜日で「母の日」である。
母に感謝を捧げる日とされ、カーネーションの花を贈ったり、胸につけたりする。
花言葉は「婦人の愛」ということになっている。母のない人は白を、母のある人は赤をつける。
この日が選ばれた起源はアメリカのウェブスター在住のアンナ・ジャーヴィスが
1908年、この日に白いカーネーションを教会の友人たちに分けたことに由来する。
1914年5月9日、ウイルソン大統領により「母の日」として制定された。
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この花は2000年以上も前の古代ギリシアから鑑賞がはじまった。
「冠飾の花」coronation flower が変化してカーネーションになったとか、原種の花の色(濃いピンク)からラテン語のincarnation(肉色) が語源との説もある。
学名は Dianthus caryophyllus というが、これはギリシア語の dios(神、ゼウス)+anthus(花)が語源。
花言葉は先に書いたものの他に「あらゆる試練に耐えた誠実」「純粋な愛情」「貞節」など。
この花を「国花」にしているのは、スペイン、モナコ、ホンジュラスなど。

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カーネーションを詠んだ句を引いて終わりたい。

 母の日や大きな星がやや下位に・・・・・・・・中村草田男

 母の日の花を身につけ駅に入る・・・・・・・・横山白虹

 母の日やそのありし日の裁ち鋏・・・・・・・・菅裸馬

 母の日や忙を楽しむ母にして・・・・・・・・徳永山冬子

 母の日のひばりのあがる麦畑・・・・・・・・轡田進

 母の日の母包紙大切に・・・・・・・・安良岡昭一

 母の日が母の日傘の中にある・・・・・・・・有馬朗人

 母の日のてのひらの味塩むすび・・・・・・・・鷹羽狩行

 母の日の母の記憶やめくら縞・・・・・・・・矢ケ崎雅雲

 母の日や童女のごとき母連れて・・・・・・・・恩田秀子

 母の日や病み臥すこともなく八十路・・・・・・・・高村寿山

 宅急便来て母の日に誰も来ず・・・・・・・・畑中律子

 母の日や母恋ふことに終りなし・・・・・・・・山崎泰世



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夏草や兵共がゆめの跡・・・・松尾芭蕉
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       夏草や兵共(つはものども)がゆめの跡・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

夏草の一句を挙げよ、と言われれば、余程のことがないかぎり、芭蕉の上の一句をあげる人が多いだろう。

元禄2年5月13日、芭蕉の『おくのほそ道』の旅は、この日平泉に到達する
今日の日に拘ってBLOGをアップする所以である。
もっとも、この日付は旧暦であるから、新暦では六月中旬であり、年によって前後するので、敢えて旧暦の日付のままに載せた。

平泉で繰り広げられた奥州藤原氏三代の栄華もはかなく消えて、華美を尽した秀衡の館も田や野に変わっていた。
芭蕉は、衣川が、その下流で北上川に合流する、もと源義経の館だった高館(たかだち)にのぼる。
辺りは夏草が生い茂り、その昔、ここで討ち死にした義経主従の奮戦も一場の夢と化していた。
芭蕉は「国敗れて山河あり、城春にして草青みたり」という杜甫の詩『春望』を思い出し、栄枯盛衰に涙して、この句を作ったと『おくのほそ道』は記述する。

以下、少し、かの地に触れて書いてみる。
岩手県西磐井郡平泉町だが、平泉駅から西へ500メートルの毛越寺(もうつうじ)の山門をくぐると、
境内の右手の植え込みの中に「夏草や兵どもが夢の跡」の新旧2基の句碑がある。
はじめに掲出した画像は、その左側の句碑である。
この句碑は明和6年(1769年)、碓花坊也寥が建立。
彫られている筆跡は芭蕉の字から起こしたもので、芭蕉の真筆といわれる。
碓花坊也寥とは、宮城県柴田郡柴田町の大高寺第十四世環中道一和尚のこと。
ここに画像は載せないが、右側の石碑は、それから後、文化3年(1806年)、慈眼庵素鳥建立のもので芭蕉の筆跡ではないという。

医王山毛越寺は本尊が薬師如来、平安時代末期の東北に覇を唱えた藤原氏二代目・基衡の建立で、
盛時には堂塔40、僧坊500を数える大伽藍だったと言われ『吾妻鏡』が「わが朝無双」と讃えたほどであったらしい。

義経の館跡という高館にのぼると、小高い丘の上には、正面に義経堂があり、中には義経像が祀られる。
また東側は断崖で、芭蕉の「高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也」という『おくのほそ道』の一文のように、くろぐろと流れ、
彼方には束稲山(たばしねやま)が裾を引いている。
二度平泉を訪れた西行は、

  聞きもせず束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしやは(山家集)

の歌を残しているが、当時この山は京都東山を模して1万本の桜が植えられ、花の名所だった。
芭蕉が平泉に足跡を印したのは、西行が建久元年(1190年)河内の弘川寺で亡くなって丁度500年後の元禄2年(1689年)のことで、
芭蕉の『おくのほそ道』紀行の目的には、その生涯を通じて畏敬した西行への500回忌追善や、
この高館で悲運の最期を遂げた義経への追悼が含まれていたという。


そのことを裏付けるように、

「さても義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」

という記述に芭蕉の感動がうかがえる。さらに文末に据えられた「夏草や」の句は絶唱である。

高館を下り、北進して中尊寺の山内に入る。
初代・清衡が関山中尊寺の建立に着手したのは長治2年(1105年)、その規模は堂塔40余宇、禅坊300余宇と『吾妻鏡』は誌している。
21年の歳月を費やし、竣工から2年後、清衡は権勢の永続を念じながら73歳で没した。

konnziki2金色堂覆堂
↑金色堂覆堂   ↓金色堂
dab912046829718bf54019a977e38eef_2金色堂

芭蕉が、

  五月雨の降のこしてや光堂

 と詠んだ金色堂は、本坊から200メートルほど奥になる。
覆堂(さやどう)に納められた内陣の須弥壇は三段あり、それぞれに金色の阿弥陀如来を本尊として、観音・勢至菩薩が脇に従い、
さらに三体づつ、これも金色の六地蔵、壇の前には持国天・増長天が仏界を守護するように、破邪の形相で立っている。
そして中央の壇には初代・清衡、左が二代・基衡、右が三代・秀衡の遺体と四代・泰衡の首級が安置され、
昭和25年の学術調査では、三代ともミイラ化していたことが判明し、内外に大きな感動を与えたという。
泰衡だけが首級だったのは頼朝の奥州征伐のためであるが、藤原氏が滅んだ文治5年(1189年)奥州の旅から戻った西行は、河内の弘川寺に草庵を結んでいた。
弟の義経を庇護したことが仇になり、頼朝に滅ぼされた藤原氏の悲運を、源氏嫌いの西行が、どんな想いで聞いたであろうか。
西行が平泉を訪れた頃は、まだ覆堂はなく、自然の中にじかに建つ金色堂を目のあたりにした筈なのに、彼は一字一句もその印象を残していない。

500年後、金色堂を訪れた芭蕉の「光堂」の句には、覆堂を取り払ってみたいもどかしさが感じられる。
同時代人として悲劇を直視せざるを得なかった西行と、追善の涙に身をゆだねた芭蕉との違いであろうか。

5/09付けで、那須の原で、芭蕉が西行ゆかりの「遊行柳」の傍の田で詠んだ句を載せたが、そこにも書いたように四月中、下旬のことであり、
支援者の家に世話になったりして北上して、芭蕉一行は、この日に平泉に着いたのだった。
その間、ほぼ二旬の日時が経過したことになる。
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中尊寺については、中尊寺執事長を勤められた、中尊寺仏教文化研究所所長の佐々木邦世『中尊寺千二百年の真実』(祥伝社黄金文庫)、
『平泉の文化遺産を語る』(大正大学出版会)の本に詳しい。


高島屋史料館『与謝野晶子と百選会─作品と資料』・・・・・・木村草弥
高島屋

──新・読書ノート──(再掲載・初出2015/05/10)

     高島屋史料館『与謝野晶子と百選会─作品と資料』・・・・・・・・・・木村草弥
                     ・・・・・・・・高島屋史料館2015年4月刊・・・・・・・・・

戦前「百選会」は「上品会」を生み、戦後は「ヌーベルモード」「シャンブル・シャルマント展」など、洋装や家具、インテリア分野の高島屋オリジナル催事の基になった。
海外ブランドのカルダンなど他店に先駆けて取り入れている。
このような、高島屋における進取の気性やチャレンジ精神は、生活に美や潤いをもたらそうとする呉服店時代から培われていたが、
大正デモクラシーやモダニズムの進展を背景に、百貨店草創期の「百選会」によって育まれた伝統である。
百選会の趣意・テーマづくりや染織業界との協調などの新しいシステムは、高島屋独自の企業文化を生んだ。
百選会はまさに高島屋の「ものづくり」の原点と言えよう。
与謝野晶子招聘(1917年)の役割を果たした宣伝部員・川勝堅一は、のちに取締役就任(1936年)に際し晶子から
   <人に過ぎ抱く心の深ければ世を幸ひす行はんこと>
をはじめ、祝いの歌15首を贈られている。
百選会が一企業の流行催しという枠を超えて美学者、美術家、文学者、詩人・歌人、著名文化人らを集め、文化サロンのような広がりを見せて文化事業と評価されたのには、
与謝野晶子と川勝堅一のベスト・コンビによる二十年余の活動が大きく働いている。
百選会を舞台にした彼女の「きもの賛歌」は、その象徴にほかならない。しかもそれは、ものづくりに精進した人たちへの応援歌であり、人間賛歌でもある。
百選会で、晶子が最後に詠った
  <今ののち世を美しく包むべき朝霧いろと思はるるかな>(1940年)の歌から七五年が経過した。そして彼女の詩歌の全容が初めてまとめられた。

この本には、解説として
「前衛的な百選会と与謝野晶子の貢献・・・・・・・木村重信(大阪大学・京都市立芸術大学名誉教授)」
という13ページに及ぶ文章が載せられているが、この本は同氏から贈られたものである。

この百選会に出品された呉服に寄せて、晶子が詠んだ歌、あるいは晶子の発想によって呉服が製作された、など、百選会と晶子の歌とは、切り離せない関係にある。
詠まれた歌も、みな優れた、芸術性高いもので、与謝野晶子作品集にも未採録と思われるので、関係者によって全集に加えられるよう要望したい。

ここで、百選会に晶子が寄せた歌のいくつかを引いておきたい。

  わたつみのうしほの色を上に着て風流男(みやびを)達へものいひてまし

この歌は百選会に初めて賛歌を所望されたときの冒頭の歌。1921年大正10年、第17回春の回に寄せたものである。

  銀糸もて倭模様を衣におく楊家の女さへしらぬことかな

「楊」とは玄宗皇帝に寵愛された楊貴妃のことである。

  あなめでた秋のものとて少女子(をとめご)もマロンの色を許されにけん

  いにしへの清女も書きぬわれも言ふ春は曙むらさきの佳し


「清女」とは、枕草子の清少納言のことである。

  鹿の子刺繍(ぬひ)しぼり摺箔古代をばひとり忘れぬ高島屋かな

  うぐひすは霧の金紗の手ざはりに胸の迫ると暁に鳴く

  高円の蔦も立田のもみぢ葉もまたたをやめに添ふ日となりぬ

  いつまでも流行の衣が心ひくおのれを保ち行くよしもがな

  新しくルイ王朝のロココをばとりなす色の臙脂と鬱金

  友染も籠も紫雲英(げんげ)と蒲公英(たんぽぽ)を盛りぞ集むる少女子のため


  金糸をば間道とするすさびなど心憎かる機少女かな

  追ひ風の源氏の君の身に沁みし桂の色を衣に着なまし

  この店に購ひがたきものも無し一世紀をば守りこし故


この歌は1932年春のもので、高島屋の創業百年に祝意を表したものである。

  羽の色を人に許してうたふなり鳥の中なるかなりやの貴女

  海越えて来し南国の木の実をば銀の地に織るくれなゐの糸


百選会に寄せた晶子の歌は総数470 に達するという。 ここに引いたのは、ほんのささやかなものに過ぎないが、ご了承を得たい。 
なお、ここに書いた文章は、本誌に載る表田治郎「あとがき」と「きもの賛歌」の記述と、晶子の短歌の引用に多くを頼ったことを明記し、ご了承と、お許しを願いたい。
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この記事を「再掲載」したのには理由がある。
私の兄・木村重信が今年の一月末に亡くなり、表田治郎氏から電話をいただいた。
此処に載せた冊子の出版にあたって表田治郎氏は何度も重信宅を訪問されたらしい。
兄が死んで、何度か連絡を取ろうとされたが繫がらないので私のところに電話して来られたようだ。
しばらく時期を置くように申し上げたが、死の前後というのは仕方のないものである。
そんな経緯があったので、時期的にも二年目となるので敢えて「再掲載」させてもらった。





 


清水あすか詩集『二本足捧げる。』・・・・・木村草弥
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 ↑ 第三詩集『二本足捧げる。』

──新・読書ノート──(再掲載)初出2013/05/11

     清水あすか詩集『二本足捧げる。』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・南海タイムス社2012/05/30刊・・・・・・・・

清水あすかさんは、この詩集によって第三回「萩原朔太郎記念とをるもう賞」を受賞された。
第一詩集から、すでに優れた詩人として注目され、「ユリイカ」や「現代詩手帖」などに作品を発表されている。

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↑ 第一詩集『頭を残して放られる。』 南海タイムス社2007/06/16刊

第一詩集『頭を残して放られる。』に、こんな詩がある。先ず、それを引いておく。

    そのふくふくとしてやらかいもの。・・・・・・・・・・清水あすか

   子どもはふくふくとやらかいものをくばるので
   ママはわたしをとしょうりのところに連れて行く。

   子どもはてぇげぇはんけなので
   ぼけたみかんを大わらいして
   二つたべて、三つたべて、四つめを半分こしてたべられる。
   子どもはこたつの角にさす西日を
   きれいと思い、
   たいくつを転がして
   しかし笑いながら、
   指先でその影をなぞってあそぶことができる。

   子どもはしわしわの千円札の、
   価値がわからなくても、意味を見ることができる。

   今日会ったとしょうりが近いうちまるぶのは、
   とてもよくあるおはなしなので、わたしは名前をおぼえたりしない。
   ママはわたしを色んなとしょうりのところへ連れて行くので、
   初めて会うとしょうりに、ぼうくなって、と言われると
   その人が知ってるわらいがおになれる気がする。
   最後にわたしに会えてうれぇしかったろうあの人は、とママがゆうので
   わたしはママの、ありがとうねぇ、ということばだけおぼえて
   その人がまるぼことはわすれる。

   ふくふくとやらかいものを置いて帰る道で
   ママは、としょうりは子どもを見るとうれぇしけだら、とゆうので
   ふくふくとやらかいとはわたしのうれしけことと知る。

   ママは少し小さくなったので
   わたしは左右にゆれながらちぃと大またに歩いて
   だからふだんもまっすぐに歩かない。
  わたしはママのもってる千円札も
   きっとしわしわなんだろうとおもっている。

   しかしてぇげぇとしょうりは先にまるばぁんて
   時々おもう。ふりかえったら
   だれもいない。しかし
   だれもいないところから来て、
   だれもいないところにわたしは帰ってしまうから
   だれもいないのは始めからかと
   おもい出して、ママとふたり
   左右にゆれて、歩いて帰る。
   
   右手にさっき半分にわったみかんを持っている。
   西日のときの影は、長くてあたまはねぇこくて
   わたしは影の、あたまの先を
   手をのばしてなでてみる。


   そのふくふくとしてやらかいもの。

第一詩集『頭を残して放られる。』についての阿部嘉昭の評が見られる。いい批評である。アクセスされよ。
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清水あすか 略歴

1981年八丈島生まれ。文化学院創造表現科卒。
在学中から絵、詩、エッセイなどの創作に取り組み、個展「やわらかな世界」(05年7月)、二人展「満ちて行く。」(06年7月)を開く。
卒業制作として詩集を編み、それをベースに、17編の詩を収めた「頭を残して放られる。」(南海タイムス社刊)を自費出版した。
収録作品の多くは八丈島が土台になっている。「そのふくふくとしてやらかいもの。」はその中の1編。
「島は本土との間に海という絶対的な距離があり、誰かが亡くなるような大事な時でも、帰れないことがある。
 自分の力だけではどうにもならないことがあるのだと教えてくれたのが、島」だという。 
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 ↑ 第二詩集『毎日夜を産む。』 南海タイムス社2009/06/25刊

この詩集に載る詩を引いておく。

     ここから今にいらっしゃい。・・・・・・・・・清水あすか

   わたしは子どものほほに指をつけ
   一つを噛み、口うつし、またことばを噛み、言って聞かせる。
    「まるで今まで生まれた子のように、わたしはおまえがかわいらしい」

   水海山とはまるで海のがん、水の湧こ山と言おじゃ。
   耳元に言われたとき、くすぐった息が出て
   わたしはそこへ建つという、一般廃棄物管理型最終処分場を身ごもったのです。

   この体の毛穴にぶったつ木を伐採し
   口から腕を刺し、中を掻いて工事する。
   男衆が土を掘り道具を洗い、女衆が土を固め道具を研ぐ。わたしはそして
   十月十日を守り、ふくらびた腹からのうたに応える。
    「洋洋、周りはみんな、おまえを女の子だと知っていますよ」

   雨が透明にふくらむ水場、いもりの腹は手に付いてぬぐう程赤い太陽の沈む色。
   さびた背中は青寒く、ここで卵を産む。水が
   からだをまあるく指なぞり、金の目がほそい声で方方にうたう。
    「知っていたことでありましょうが、
     子どもがこがんいとおしく生まれました」

   プレハブのお堂で、となりととなりとも手を持ってじゅずでつなぎ、
   なむあみだぶつ。詠唱をする。なむあみだぶつ。終わったら
   としょうりは急いでゴザを寄らせて、子どもに駆けつけ
   又はこしらえたばかりのよだれかけを、早くしたかったと、地蔵の首にかける。
    「わかってあることではありましたが、 
     子どもが生まれるとはうれしけことでございます」

   としょうりが足で水をはね
   その音にいもりは固まって、右を見る、左見る。
   4tトラックがアスファルトの上、土を運ぶ、石を運ぶ、木を運ぶ
   和讃を運ぶ、昔も運ぶ、女を運ぶ、山びこを運ぶ、手拍子を運ぶ
   あの搬入道路こそ、わたしの産道でございます。

   旧水海山地区一般廃棄物管理型最終処分場
   それからわたしを産んで下さい。

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書評

「起きたことを、起きたままの重さに見る」

 末吉・清水あすかさん(26)(注・2008年時点での年齢)の詩「ここから今にいらっしゃい。」が、現代詩手帖6月号に掲載された。
同誌からの執筆依頼を受けて書き下ろした作品で、特集「新鋭詩集2008」の一編として紹介された。
 清水さんは第1詩集「頭を残して放られる。」が中原中也賞の最終選考に残るなど、注目を集めている。
今回は詩とともに、「今詩を書くということ」のテーマで、400字のエッセイも掲載された。
その中で清水さんは、「詩を書くのに必要なことの一つは、当事者であることだと思います。
自分の前の物事を、それによって発生する全ても含めて、そのものを引き受けること。評価するのでなく常に、真っ只中に立つこと、そして見ること。
考えのでかくなりすぎた頭から、一つの体そのものに帰ってきて、起きたことを、起きたままの重さに見ようとするとき、そこには本当の実感があり、それは私の詩のことばになります。道に一つ落ちた石からも、新聞を覆う事件からも、そこにある途方もない責任によって、私は詩を書いていきます。」と、自らの詩作へのスタンスを表明している。
(08年6月13日付 南海タイムス)
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清水さんについては詩誌「びーぐる」18号から連載詩「詩は種なす」と題して、第一回、第二回が発表されているので紹介する。

     紙に点滅する。・・・・・・・・・・・清水あすか

   声でなく
   まだか、と言った時間も追悼として染んだ紙は
   もう水気を失って固く波打つ。

   浮浪者が積み上げた荷車は
   自分の納まるところを知っているか。紙は重く
   彼は道を寄り、片寄り
   車輪がよじれた線になり、信号を
   赤にならないで渡りきれるか。

   めくるのはくりかえした昔ではなく、それを得た身体である。
   思われるを書き重ねられた皮フはずいぶんと
   乾きバリつく紙のよう。この手はこれからも
   どれ程の束を積み
   荷車を押す
   まだか、と言い、まだか、と言われるところ。
   目を赤らませてこらえる息を。 
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      息による地層。・・・・・・・・・・清水あすか

   わたしはひれ伏したまま手をのばし
   その上に土がかぶさり、石が吹いて
   アスファルトはなめされ
   葉は落ちて積もり、積もる。

   三千年たったわたしをわたしが掘り出して
   顔の泥をすり、まるで涙の線になる。
   「おぼえているよ」
   ああ、おまえが生まれた、初めてやさしくしようとしたときを思い出す。

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清水さんのタイトルなどは特異で、必ず「。」が打たれる。詩集の題名だけでなく、詩の題名にも、打たれる。
彼女については「びーぐる」17号に「対論・この詩集を読め」第三詩集『二本足 捧げる。』が細見和之、山田兼士によって採り上げられ、
7ページにわたって詳しく論証されている。長いので、ここには引ききれないので省略するが、期待されてきた人であった。
とても良い批評なので、ぜひ覗いてみてもらいたい。
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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ2012/08/13に「清水あすか個展」と題した記事がある。 引いてみる。  ↓ 
 
先週金曜日には廿楽順治さんと六本木でひらかれていた清水あすかさんの個展に行った。
画廊の白壁にクロッキー用の太い鉛筆でみずから書かれた清水さんの詩篇と、これまた清水さんみずからの手になる絵画がしずかなスパークを発している。

清水さんの絵画は清水さんの詩集の自装からイメージできるかもしれない。全体は暗い色調。クレヨンで色彩分布的な重ね塗りをおこなったあとで、細針で細密模様の「傷」をつけてゆき、原初エネルギー的かつ装飾的な抽象画が迫力をともなってうかびあがっている。清水さんの島の詩篇とおなじく、それは第一観的には森の様相に近づいているが、同時に海底光景にも、着物の布地(八丈島は名前のとおり「八丈」の産地だ)にもみえ、描かれたものが何かは決定できない。その意味で絵画の立ち位置が詩篇と通底している。

問題は「削ること」だろう。詩を「書く」ではなく、「紙面に削りを入れて傷つけること」だとする詩作者の系譜がある。ツェランがそうで、現在なら杉本真維子がそうだ。書くことは手首をひねることではなく、筆圧を絶望的にぶつけること。清水さんの字は角張って稲妻のように荒れて強いが、その筆圧が白壁に書かれた詩篇の書体に、同時に、重ね塗りしたクレヨンを削った針の痕跡に共有されている。つまりその画廊に入ることは、筆圧の森に侵入して、侵入したからだを刺されることだった。

画廊に清水さんご本人がいらして、いろいろと話をする。なぜ「清水あすか論」が書きにくいか。八丈島方言と古語と異言の問題はクリアできるとして、地縁を基盤としたサーガ形成的、土地交歓的な詩篇では、地縁成員における自他の弁別がなくなる。結果、たとえば子供のいる主体が描かれた詩で、その主体が清水さん自身なのか、他の地縁者なのか、判断ができなくなる(カマをかけてみたが、清水さん自身、既婚・子持ちかの想像はご自由に、というスタンスだった)。

もうひとつ、清水さんの詩行は「。」「、」を繰り込み、長くなるときに独特のうねり、リズムが生ずる(それが文法破壊と相まって、異言性となる)。都市的でない、強靭なリズム。その詩法を文法的に要約すれば「冗語法」となるのだろうが、となると彼女の推敲も、通常のように圧縮ではなく、増殖に向けられた推敲なのではないだろうか。そう言うと、自分は増殖と圧縮を交互させるような推敲をするタイプだとおもう、と語っていらした。

いずれにせよ、「土地の力」を身に装填し、高い筆圧で削りの詩を書く清水さんは、「土地」の域的微差に繊細で、そのかぎりで彼女の詩業は、松岡政則さんと並行しているように見える。しかも最新詩集『二本足捧げる。』では形容詞の名詞化、という松岡的文法が駆使されだした。それで松岡さんからの影響を問うと、清水さんは「読んだことがないんです」という意外な返答をなさった。そうか、それでも「土地」に立脚することで、「書く」がおなじ場所にながれこんでくるのだと、なにか納得した気になった。ところがこの「納得」が、たぶん「清水あすか論」を書きにくくさせているものの正体なのだ。
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asuka_shimizu1.jpg
 ↑ 清水あすかの絵(『二本足捧げる。』のカバー絵)
清水さんの絵が、どんな絵かは他にもmoleskinerieというサイトに少し載っているので覗いてみられよ。

さて、いよいよ本題の第三詩集『二本足捧げる。』である。
この本の巻頭に載る、標題詩を引いてみる。

    二本足捧げる。・・・・・・・・・・清水あすか

  人間が、もうとっくに人間のかたちをとっておけない。
  約束の仕組みをとっておけない。
  最初は火で燃やせばあとも残らない簡単な骨組みであったのに
  今では村ごとダムに沈めるも時代遅れで
  声が死ぬのを待って
  土地からも蒸発してしまうのを、待って。でも本当は
  カレンダー裏食い込むだぶついた短歌や
  廃校になる小学校の壁を叩きつけた何文字か
  その、手で退ければすぐ
  書類と書類の間に挟まる声こそが
  水にも染む
  何百年、何百年でも風景に飲まれ脈になるを
  一番古いおびえとして覚えてて背骨震わす。

  時間のかかるよう複雑な手続きは組み上げたくせに
  身体はもう何万年と進化をしないでいて
  言わないけれど、まだ暗闇がこわい。
  通りすがりそっと渡される呪いがこわい。
  水にひたった風景が覚えている風景がこわい。
  こんなにたくさん見たことない青白い光を我れ先に覗き込んでも
  なにが映ってる。
  約束を交わす、さもなくばと
  ふりあげる土器の重さ
  いくら燃やしても骨が弾けるにおいは消えなくて
  それでも頭わ上に乗せて生きていかなければいけない
  そのすべての始まりの仕組みがこわい。
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     我が無く、ふるえ。・・・・・・・・・清水あすか

  おまえの「と、思った」は
  農協の跡地にあるよ。
  今資材置き場になつてるとこだよ。

  そこに、この世でない、があるよ。
  木材下、西日から伸びるどくだみの花の白さ
  ぶっちゃられた、足が短い引き出しの見とれる木目
  そんな余白におまえ
  立っていたを、知っているよ。
  アスファルトの突起でできた影や
  としょうりがくわえて歩いてった煙っ端に
  おそろしい、になる前のおそろしいや
  うつくしい、になる前のうつくしいがある。

  ね、そこらへんの石一つを
  おまえの墓石にしたって、いいんだよ。
  だいじょうぶ。

  あぁたしかに、さびしい、はあるねぇ!
  あのふくらみにふくらんだ、
  空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりつけてゆらつく自転車。
  あそこに入っているのは、さびしい、になる前のさびしいだ。
  花の白さにも、木目にも
  影にも煙のきわにもあったものだ。そして
  そこへ立っていたおまえにも。
  資材置き場を見つけたね。余白を
  そこらへんの石一つに
  託したって、
  いいよ。

この詩集は大項目として、第一章 二本足捧げる。 第二章 我が無く、ふるえ。 の二つから成っている。
その題名になっている詩を引いた。
先ず言っておくが、題名になっている「二本足捧げる」というフレーズが何を意味するのか、まだ私には判らない、と謝っておく。
彼女の詩は、意味を辿っては、いけない。
詩の一連に意味の繋がりは、ない。 フレーズはオブジェのように、ぽつんと置かれていると思ったら、いい。

前の詩に「だぶついた短歌」というフレーズがあるが、彼女の詩は、そういう、ずらずらした抒情を拒否する。
しかし、それでも彼女の発想が全くの空想から発していると思うのは間違いである。
「農協の資材置き場」とか「空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりつけてゆらつく自転車」とかは、彼女の見た実景だろう。
それは恐らく浮浪者か、定職のない生活困窮者の「空き缶」「ゴミ集め」の行動を子細に見つめた上での「さびしい」だろう。
引用しないが、他の作品に「石の言う。」というのがあり、そこにも同じような情景がある。
彼女の視線は、彼らに対しても軽蔑ではなく、暖かい。そこが救いである。

かつて「八丈島」は流人の地だった。「配流」の地だった。そこには流人たちの深い深い「怨念」が籠っているだろう。一つだけ引いてみよう。

     問いも食らう。・・・・・・・・清水あすか

  ここにある木との距離は
  わたしと島の距離
  わたしとわたしの死との距離。等しく
  いつも等しく離れている。手を取る。抱きとめる距離。
  伐採する木は、私の死の基礎となる工事で積む。何の
  痛みにもならない、臓器への痣。
  木に通る雨水を
  体では血といって
  山では水脈という。ならばわたしは、疑わず満ち満ちる。
  積んでいく一日の死、それを作る血のために必要な血管。木の幹、
  山鳴りという
  うなり。髪一本一本の葉脈、行き渡る
  行き渡る水路。体わ伏せて、背中に水を注ぎ貯めるべく反らし、
  背骨という稜線。枝で枝でくりかえす
  木の肌に書く
  昔語り。声とは
  雨にふる。
  島は水に貯めたおびただしい死を
  集めてすぼませ、ちぎり生んだわたしの
  死をまた口に含んで育つ。

  呼ぶ時には
  呼ばれて振り向き・・・・・・・・・(後略)

ここには明らかに、この島の抱える「歴史」が綴られているのは自明である。だが、先に述べたように、その視線は暖かい。
ここには八丈島の抱える土俗性に根ざす「土臭さ」と、方言を多用するレトリックの有効さ、がある。
彼女の詩は、都会の垢抜けた表現では成功しない。
八丈島在住という特性を生かした、彼女独特の詩作方法を身に付けられたと言えるだろう。

萩原朔太郎も独特の表現と語法で燦然と光っている。
そんな「萩原朔太郎記念・とをるもう賞」という栄誉を得られたのを、祝福したい。
なお贈呈式は、7月6日(土)午後2時から八尾市プリズムホールで行われる。  

「チルチンびと広場」というサイトに彼女の紹介と絵画展などの予定が出ている。参照されたい。

ネット上では同名の女格闘家が有名らしく、たくさん出てきて紛らわしいが仕方がないので、取捨されたい。
なお、清水あすかホームページがあるが殆ど更新されていない。
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その「萩原朔太郎記念・とをるもう賞」だが、2015年度からは催行されないことになったらしい。
もともと、この賞は、萩原朔太郎の出身地が八尾であることを記念して、八尾市教育委員長などを歴任した三井葉子さんの「政治力」で実現したものだが、
三井さんが亡くなると、とたんに廃止されることになった。現在の地方都市の「文化」度なんていうものは、この程度のものである。
「子供の詩」を募集するのを残すだけで、お茶を濁すこととなったらしい。
特に、ここに記しておく次第である。





  
真向ひて恵那山は観るべしつつじ原・・・・松本たかし
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   真向ひて恵那山は観るべしつつじ原・・・・・・・・・・・・・松本たかし

躑躅(つつじ)は桜のシーズンが終ったあとで一斉に訪れる。
ツツジは、このように難しい字を書くが、それは、中国で毒性のあるツツジを羊が食べて、足踏みしてもがき、うずくまってしまったというので、
この字を宛てたという。発音としては「テキチョク」と読む。

ツツジと総称されるが数十種類あると言われている。一般に植えられているツツジの他に、山つつじなどがある。
数年前に奈良県の葛城山のツツジを見に行ったことがあるが五月の連休の前後だったが、すごい人出で頂上に昇るケーブルカーの順番待ちで二時間も待った。
仕方ないので下で昼食を済ませた。
ここのツツジは山頂から少し下がった斜面に数万株がピンク色に密集して咲いている。

写真②のような白いツツジも趣のあるものだ。
tutuji6つつじ③

ツツジの花には蜜があるが、この山には猿が生息しており、花の時期には、この花を摘まんで食べるという。
私も子供の頃、ツツジの花の蜜を吸ったことがあるがおいしいものである。
九州にゆくと雲仙のツツジも有名であり、長野県の須坂市の奥にある五味池破風高原は100万株を超えるツツジで名高いらしい。
226226つつじ④

満天星(どうだん)つつじというのがあるが、普通のツツジとは別のものであり、花には白、ピンクがあるが、馬酔木の花のような形をしている。
秋になると葉が紅葉して美しい。
写真④が、それ。
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ツツジというと、京都市水道局の蹴上浄水場にはたくさんのツツジが植えられており、
この花のシーズンだけ一般に開放されて市民が見物に押しかけるので有名である。
桜では大阪造幣局の桜の通り抜けが有名だが、浄水場は背の高い木は落葉などの関係で植えられないので、
背の低いツツジが斜面の芝生に植えられているのだ。

rengetutuji2レンゲツツジ

写真⑤には、毒性があるというレンゲツツジをお見せする。山つつじの一種であろうか。

「ツツジ」は、古来さまざまの形で句に詠まれてきた。それを引いて終る。

 盛りなる花曼陀羅の躑躅かな・・・・・・・・高浜虚子

 山の娘のすこやかにゆく躑躅かな・・・・・・・・日野草城

 死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり・・・・・・・・臼田亞浪

 吾子の瞳に緋躑躅宿るむらさきに・・・・・・・・中村草田男

 花終へしつつじ野けふの虹立たす・・・・・・・・大野林火

 夕つつじ美しくしてひとり病む・・・・・・・・加藤霞村

 日の昏れてこの家の躑躅いやあな色・・・・・・・・三橋鷹女

 白つつじこころのいたむことばかり・・・・・・・・安住敦

 山つつじ照る只中に田を墾く・・・・・・・・飯田龍太

 躑躅より地に着いて蜘蛛走り出す・・・・・・・・川崎展宏

 人に会はん気遅れ少し躑躅かな・・・・・・・・榑沼清子

 つつじ山暗きところにけものの眼・・・・・・・・田村一翠

 仏性の火炎となりし白つつじ・・・・・・・・椎橋清翠



天橋立「玄妙庵」から伊根へ・・・・・・木村草弥
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↑ ↓ 天橋立の説明碑 (小林あかね氏撮影)
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      小旅行・天橋立「玄妙庵」から伊根へ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

ゴールデン・ウィークの終りの五月六日、七日に長女夫妻のお誘いで、天橋立「玄妙庵」から伊根への小さな旅に出かけることになった。
当地から京都北部へは「京都縦貫自動車道」が貫通して一時間半ほどで短時間に辿りつけるようになった。
当日は午後一時半頃に自宅を出た。
天橋立には何度か訪れている。
古くは戦争中の昭和十八年の夏に「水練学校」と称して、松並木の「回旋橋」のたもとの「松吟楼」という木造三階建の旅館に一週間泊まり込んだことがある。

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↑ 玄妙庵のパンフレットとコースター

「玄妙庵」 ← このHPに詳しい。
このHPの巻頭に載っている通り、目の前に天橋立の雄大な景観を眺めることが出来る名旅館である。
玄関脇には昭和天皇が昭和二十六年に宿泊されたときに詠まれた御製の歌が吉井勇の筆で書かれた石碑が立っている。
部屋からも、風呂からも天橋立が眺められる。
長女たちは橋立の松並木の散歩に出かけたが、私は何もせず、ぼーっと海を眺めていた。
夕食も翌朝の朝食も和風の料理で美味であった。
因みに、ここの当主と長女の婿とは同志社高校の同級生という関係なのであった。

『天橋立』は、陸奥の『松島』・安芸の『宮島』とともに、日本三景とされている特別名勝のひとつ。
江戸時代のはじめ、全国を行脚した儒学者・林春斎が「日本国事跡考」で“三処奇観”と記したのが『日本三景』のいわれの始まりで、『天橋立』は全長3.6km、幅20~170mの砂嘴(さし)で、大小約8000本もの松が茂っている。
その形が「天への架け橋」のように見えることから『天橋立』の名が付いた。
今から約4000年前、世屋川をはじめとする丹後半島の東側の河川から流出した砂礫が海流により流され、野田川の流れからくる阿蘇海の海流とがぶつかったことにより、ほぼ真っ直ぐに砂礫が海中に堆積しできたものといわれている。
『丹後風土記』によると、その昔、天橋立は「天への架け橋」といわれていた。
 イザナギノミコト(男神)が、イザナミノミコト(女神)の住む地に、天上から通うために天と地の間に長いハシゴをかけて行き来していたと言われおり、ある日イザナギノミコトが寝ている間に、そのハシゴが倒れて天橋立となったという神話が残っている。

翌朝はロビーでおいしいコーヒーを飲んで玄妙庵を後にした。
文殊院の近くに、玄妙庵の経営するコーヒー・ショップがあるらしい。 その傍を通って行く。
その日は一路「伊根」を目指すことになる。
昔は伊根は海からしか辿りつけなかった僻地だったが今は道路が整備され短時間に、たやすく行けるようになった。
途中、天橋立対岸の山の中にある「成相寺」に立ち寄る。
今は橋立の文殊側の高みに「ビューランド」なるものが出来て、玄妙庵と同様の景観(飛竜観という)を見ることが出来て「股覗き」も、こちらが本家のようになってしまったが、本来の「股覗き」は成相寺側の「笠松公園」からのものが古いので、ご留意を。

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↑ 成相寺 本堂

ここ成相寺は「西国二十八番札所」で、西国三十三札所の終末近くにある寺である。
ここには、もう十年近くも前に﨑川君の車で訪れたことがある。 いかにも雪国らしく、お堂の木材も年月を経て、くすんだ感じのする寺のたたずまいである。

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↑ 伊根の「舟屋」
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 ↑ 向井酒造の店舗  (小林あかね氏撮影) 道を隔てた反対側に仕込み蔵がある。
伊根 酒蔵
↑ 向井酒造のパンフレット

伊根について、展望台から伊根湾の全景を見たあと、宿で呑んだ「玄妙庵」名の酒の醸造元の向井酒造で、古代米「赤米」から仕込んだロゼのような色合いの「伊根満開」という酒を買い求めた。
ここの当主の杜氏は女の人で、東京農大を出た人で、女性杜氏という珍しさもあって話題性に富んでいるので得をしている、と言えるだろう。

後は一路、帰途へ。




      
田一枚植ゑて立ち去る柳かな・・・・・松尾芭蕉
田植え

    田一枚植ゑて立ち去る柳かな・・・・・・・・・・松尾芭蕉

この句は『おくのほそ道』に載るもので、西行ゆかりの「遊行柳」の陰にたたずみ、しばし懐古の情にふけって、ふと気づくと、田植え女は、すでに田一枚を植え終わっている。
ああ思わず時が経ったなと、思いを残して柳のもとを立ち去ったことだ、という意味の句である。
芭蕉については古来、研究がすすんでおり、この「遊行柳」は謡曲『遊行柳』に、西行

     道のべの清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ

 と詠んだとある芦野の里の遊行の柳と特定されている。
↓ 現在の「遊行柳」
yanagi48遊行柳

この芦野の里というのは、現在の所在地は栃木県那須郡那須町芦野で、那須町の公式ホームページには次のように出ている。

<芦野支所より北方300メートル、通称、上の宮と呼ぶ温泉神社の社頭にあり、別名「朽木の柳」ともいう。
柳を訪ねると、地元産の「芦野石」の玉垣をめぐらした中に、一本の柳が植えられ、傍らには、芭蕉の作「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句碑、
更には蕪村の「柳散清水涸石處々」の句碑とが並び、道の反対側には、西行の「道の辺……」の歌碑が立っており、多くの観光客が訪れる名所となっている。
 遊行柳の近くには無料休憩所「遊行庵」があり、また、食堂と直売所が隣接しており、食事や地場産品の販売をおこなっている。>

その頃は、那須郡芦野三千石の領主・芦野民部資俊の知行地。江戸深川に下屋敷があり、芭蕉とは旧知の間柄であったという。
芭蕉が西行を敬慕すること極めて深く、「おくのほそ道」の旅も、西行500年忌を記念するものであることは、あまたの研究者によって解明済みのことである。

この句の前書きに芭蕉は

<清水流るるの柳は芦野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。
この所の郡守、戸部某の、「この柳見せばやな」と折々に宣ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳の陰にこそ立ち寄り侍りつれ>

と書いていて、西行に寄せる気持ちのなみなみならぬものがあったのが判る。
同行した「曾良旅日記」によると4月16日~18日には那須郡高久の庄屋、覚左衛門邸に泊っているので、その頃の作句と考えられる。
4月20日には白河の関所跡に到着している。

<白河の関越ゆるとて>の前書きで

      風流のはじめや奥の田植うた 

の句を作っている。この句からは、奥州ののどかな田植え歌を流しながら田植えがおこなわれた情景が浮かびあがるようだ。
「おくのほそ道」には須賀川の駅に旧知の相楽等窮を訪ね「白河の関、いかに越えつるや」と問われて、この発句を詠み、歌仙を巻いた、とある。
鄙びたみちのく情緒を讃え、これからの旅で味わう風流への期待感もこめた挨拶句。4月22日の作。

この続きには

      早苗とる手もとや昔しのぶ摺 

の句が何日か後に書かれている。「しのぶ摺」とは忍草の葉を布に摺りつけて染めたもの。
『伊勢物語』初段にも「みちのくの忍ぶ文字摺りーー」と見えて古来有名、とある。「昔を偲ぶ」に掛けたもの。

 <文字摺の石は福島の駅より東一里ばかり、山口といふ処にあり。
里人の言ひける、「行き来の人の麦草をとりてこの石を試み侍るを憎みて、この谷に落し侍れば、石の面は下ざまになりて、茅萱の中に埋れ侍りて、
いまはさる業することなかりけり」となん申すを>

という長い前書きの後に

    早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺
    五月乙女(さをとめ)に仕形望まんしのぶ摺


の句が「真蹟懐紙」や「曾良書留」に見られる。

このようにして芭蕉の「おくのほそ道」の文章を辿ると、きりがないが、紀行文は、とても面白い。
こうして読んでくると、芭蕉は多くの知人が江戸にいて(句の指導をしたり歌仙を巻いたりしたのだろう)奥州の旅の前には、
それらの人々に予め予定到着日時を知らせたりしてあったので、現地でも泊るところも手配されていたと思われる。
「曾良旅日記」というサイトに旅の日程が載っているので参照されたい。
何事も日記その他記録しておくものだ。



牛放てば木の芽の風のやはらかに袂に青き大那須が原・・・・与謝野寛
1-7那須高原

   牛放てば木の芽の風のやはらかに
      袂(たもと)に青き大那須が原・・・・・・・・・・・・・・与謝野寛


与謝野寛(鉄幹)については、妻・晶子の輝かしい名声に覆われて、不当に忘却されているきらいがあるが、
彼が明治新詩運動──詩歌全体の革新運動に果たした功績は不朽のものである上に、天馬空をゆく観のあった詩才の輝きも、
改めて正当に評価される必要があるだろう。
彼には、まだ然るべき全集さえないというのは残念なことである。
この歌は、彼が新詩社の指導者として「明星」発刊後の得意の絶頂期にあった頃の作品。
当時の彼の歌としては異色で、自然界に素直に心を解き放っている平らかな歌で、のびやかな才能に満ちた、すがすがしい歌である。
明治35年刊『うもれ木』に載るもの。
充分な資料もないが、寛の歌を少し引いてみる。
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野の生ふる、草にも物を、言はせばや。
 涙もあらむ、歌もあるらむ。

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子

母にそひてはじめて菫わが摘みし築土ふりたり岡崎の里

京の子は舞のころもを我にきせぬ北山おろし雪になる朝

わかき子の秋に堪へずと小指かみてかきし血の文十とせ我手に

髪さげしむかしり君よ十とせへて相見るえにし浅しと思ふな

相見しは大き銀杏の秋の岡金色ながすひかりの夕

君なきか若狭の登美子しら玉のあたら君さへ砕けはつるか

若狭路の春の夕ぐれ風吹けばにほへる君も花の如く散る

わが為めに路ぎよめせし二少女一人は在りて一人天翔る

この終りの三首は若狭の山川登美子が死んだ時に作られたもの。山川登美子は一時、晶子と三角関係のような形で寛の愛を争っていた時期があった。
登美子が身を引く形で晶子が寛を独占することになった。登美子が死んで、彼も、その頃のことを思って歌にしている。
故郷・若狭では、近年「山川登美子文学賞」なるものを創設して短歌の隆盛に寄与している。

濃き青の四月の末の海に浮く水母の如く愁白かり

冷飯を法師のごとく清水もて洗ひて食ひぬ夏の夕ぐれ

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与謝野寛は明治6年京都市岡崎うまれ。
妻・晶子とともに「明星」を拠点にして浪漫主義文学運動の推進者で、北原白秋など多くの詩人、歌人を育てた。昭和10年没。
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165px-Tekkan_Yosano与謝野寛

与謝野鉄幹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

与謝野 鉄幹(よさの てっかん、1873年2月26日 ~ 1935年3月26日)は、日本の歌人。本名は寛。鉄幹は号。与謝野晶子の夫。後に、慶應大学教授。

経歴
京都府岡崎(現・京都市左京区)に僧侶・与謝野礼厳の4男として生まれる。父・礼厳は庄屋・細見家の次男としてうまれたが京都府与謝郡(現在の与謝野町字温江)出身ということから、明治の初め「与謝野」と名乗るようになったという。なお正しい姓は與謝野。漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により現表記となる。

当初、山口県徳山市(現:周南市)の徳山女学校で国語の教師を4年間勤めるも女子生徒との間に問題を起こし、退職。20歳で上京。落合直文の門下に入る。明治27年短歌論『亡国の音』を発表、つづく明治29年歌集『東西南北』、翌明治30年歌集『天地玄黄』を世に出し、質実剛健な作風で『ますらおぶり』と呼ばれた。明治32年「東京新詩社」を創立し、翌年「明星」を創刊。北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見出し、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした。しかし明治33年、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(のち鉄幹夫人)との不倫が問題視され、文壇照魔鏡なる怪文書で様々な誹謗中傷の事件が鉄幹に仕立て上げられた。だが、晶子の類まれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、妻滝野と離別、明治34年晶子と結婚した。六男六女の子宝に恵まれた。

結婚後の鉄幹は極度の不振に陥る。明治44年晶子の計らいでパリへ行く。のち晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪する。だが、創作活動がさかんとなったのは晶子の方で、鉄幹は依然不振を極めていた。再起を賭けた労作、訳詞集『リラの花』も失敗するなど、栄光に包まれる妻の影で苦悩に喘いだ。大正4年(1915年)の第11回総選挙に故郷の京都市選挙区から無所属で出馬したが、落選した。また、大正11年の森鴎外の死は鉄幹にとって有力な庇護者を失うに等しい打撃であった。

昭和5年雑誌『冬柏』を創刊。昭和7年、上海事変に取材した軍歌『肉弾三勇士』の歌詞に応募、見事一等入選し鉄幹健在を示した。昭和10年気管支カタルがもとで死去。晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」という悲痛な追悼の歌を捧げた。

次男与謝野秀は外交官として活躍。東京五輪事務長を歴任。秀の長男が衆議院議員与謝野馨である。

閔妃暗殺事件と鉄幹
明治28年(1895年)10月8日に三浦梧楼ら日本官権と他の右翼壮士とともに当時の朝鮮王朝の王妃、閔妃の暗殺を計画したという説が韓国側から言われている。これは朝鮮王朝が親露政策により清と日本の圧力を排除しようとし、それに危機感を感じた日本が起こしたという主張である。当時、朝鮮王朝は笞刑(朝鮮笞刑令)、拷問をはじめ前近代的な刑罰、法体系であり邦人保護の観点から、治外法権となっていたので、鉄幹は日本に送られ広島の地方検察庁で裁かれた。当時、鉄幹は落合直文の弟、鮎貝槐園とともに朝鮮の日本人学校、乙未義塾の教師として当地に在留していたが、事件当日は槐園たちと木浦(モッポ)に出かけて事件の起きたソウルにはいなかったことにより不起訴となった。


卯の花の/にほふ垣根に/時鳥/早も来鳴きて/忍音もらす/夏は来ぬ・・・・佐佐木信綱
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 ↑ 卯の花
hototogisu_1_qvgaホトトギス

      卯の花の
    にほふ垣根に
    時鳥(ほととぎす)
    早も来(き)鳴きて
    忍音もらす
    夏は来ぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐佐木信綱


一般に小学唱歌として知られている、佐佐木信綱作詞の「夏は来ぬ」である。
この唱歌は五番まであるが、たとえ二番以下は忘れてしまっていても、この一番の歌詞は歌えるという人が多いだろう。
この唱歌を小学校で習った頃は「ホトトギス」が「ハヤモキナキテ シノビネモラス」という辺りの意味は、よく判らないのに、
妙に快く入ってくる語感には魅力を感じたものだった。
佐佐木信綱は明治、大正、昭和三代にわたって、歌人として、また早稲田大学で歌学者として巨大な業績を積み上げた人だが、
この「夏は来ぬ」を作詞した当時は、弱冠24、5歳の青年だった。
この詩については諸家の研究によって、鎌倉時代末期女流歌人の第一人者・永福門院の歌

  ほととぎす空に声して卯の花の垣根もしろく月ぞ出でぬる

という歌の「本歌取り」であると言われている。
若き日の信綱は、小学生のための唱歌の作詞を依嘱された時、この古典の秀歌を踏まえて、それに新しい息吹を吹き込むことを考えたのであろう。
彼は、それを見事に実現した。それは、原和歌の57577ではなくて、
詩として575775という音数律にしたところに新鮮な歌謡としてのリズムを産出し得ている。

永福門院の生きた昔は、鳥の分類も厳密ではなかったから、郭公や筒鳥、十一(古名では慈悲心鳥ともいう)というようなホトトギス科の鳥と混同されていたことも多かったらしい。
「古今和歌集」の夏の歌は34首であるが、そのうち時鳥を詠んだもの28首で9割近い多さである。

ここで、平安時代の頃のホトトギスを詠んだ歌を少し抽出しておく。「古今和歌集」の巻頭歌に

 わがやどの池の藤波さきにけり
    山郭公(やまほととぎす)いつか来鳴かむ・・・・よみ人しらず


「わがやど」の「やど」に「宿」の字を宛てるのは間違いで、意味としては「屋外」(やど)─つまり「庭」のこと。
平安朝の貴族の邸宅は、寝殿造りの家屋に庭という様式だった。庭には池が造られ、そこに松や藤などの四季折々の花や樹木を植えて楽しんだのである。
「藤波」とは藤を波になぞらえたもので、藤の花盛りを指す。
ホトトギスは渡り鳥だが、昔の人は、季節になると「山」から下りて里へ来るものと考えていたので、ヤマホトトギスと呼び習わした。
それは花を追って里へやって来るということは、花である女を慕って通ってくる男のイメージに重なる、という訳である。

 郭公まだうちとけぬしのびねは来ぬ人を待つわれのみぞ聞く・・・・・・・・白河院

「時鳥」の「しのびね」が、来る筈なのにやってこない人を心待ちにしている、人知れぬつらい思いとイメージにおいて重なり合っていることは言うまでもない。
訪れてくる恋人を待ちに待っている女心を余情にした「恋歌」と読めるものである。

 聞かでただ寝なましものを時鳥なかなかなりや夜半の一こゑ・・・・・・・・相模

 いかにせむ来ぬ夜あまたの時鳥待たじと思へば村雲の空・・・・・・・・藤原家隆


「時鳥」と「恋」を連想させて、歌人たちが好んで詠ったのも、これで判るだろうか。
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この記事をご覧になったmilk3氏からコメントをいただいた。
<忍び音を初声とされていますが、これは明かな誤りです。辞書にそのように載っていますが、辞書その物が誤っているのです。正しくは旧暦五月になる前の鳴き声のことです。一度ブログ「うたことば歳時記」の中の「ほととぎすの忍び音」をご覧下さい。失礼は重々承知しておりますが、ほととぎすが本当のことを知ってほしいと泣いていますので・・・・。ご免なさい。>

もとより私は「鳥」に関しては素人である。
ホトトギスの、かんだかい「ほととぎす」と鳴く声は、よく聴くが、「忍び音」なるものが、どんな声なのかは判らない。
milk3氏が言われる根拠については、ここ→ 「ほととぎすの忍び音」をご覧いただきたい。
言われるところに従って「初音」の字句を削除しておく。

他のところでも書いたが、ホトトギス類は「托卵」という習性を持っている。
托卵される鳥にとっては迷惑きわまることで、私はホトトギスは好きではない。
私の記事を、よく読んでくださり、有難いことである。 念のため書き添えておく。




パンにバタたつぷりつけて春惜む・・・・久保田万太郎
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 ↑ 久保田万太郎生誕地の碑

    パンにバタたつぷりつけて春惜む・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

今日5月6日は久保田万太郎の忌日で、死んだのは昭和38年5月6日である。
梅原龍三郎邸訪問中、食事誤嚥下による気管支閉塞のために急死した。享年73歳。
以下、ネット上に載る経歴を転載しておく。

小説家、劇作家、俳人の久保田万太郎は明治二十二年(1889)東京に生まれました。
中学時代から俳句を作り、慶應義塾大学在学中、機関誌「三田文学」に小説「朝顔」、戯曲「遊戯」を掲載し文壇に登場します。
以来、下町情緒を描く独自の作風で、「末枯」「春泥」「市井人」などの作品を著わしました。
大正八年から七年間慶大の嘱託となり、文学部予科で教鞭をとります。
大正十五年久米正雄とともに東京中央放送局の嘱託となり、後に文芸課長に就任し、放送演劇の振興に貢献しました。
昭和七年築地座が結成されると演出も手がけ、十二年には岸田国士、岩田豊雄らと劇団文学座を結成して活躍し、演劇界の指導的地位を占めました。
俳句は、岡本松浜、松根東洋城に師事し、俳誌「春燈」を主宰します。
俳句は小説や戯曲の片手間につくる余技としながらも、句集に「道芝」「ももちどり」「流寓抄」などがあります。昭和三十八年(1963)七十三歳で亡くなりました。
鎌倉には、昭和二十年空襲で東京の家を失ったため、友人の計らいで材木座に居を定め、三十年に再び東京へ戻るまで十年間住みました。
その間、鎌倉ペンクラブ会長を務めるなど、鎌倉文士との交流を深め、瑞泉寺には句碑があります。

「芸術院会員」に選ばれ、また「文化勲章」を受けた。

2013033018183295e万太郎句集

久保田万太郎については、このBLOGでも再三採り上げた。
万太郎は、俳句を「余技に過ぎず」としたが、自由軽妙、しかも生のありようをかなしく詠う。余技ゆえに絶妙なところがあった。
「傘雨忌」とも言うが、傘雨は一時の俳号である。
「万太郎忌」という季語になっているが、彼を偲んで、こんな句が知られている。

 こでまりのはなの雨憂し傘雨の忌・・・・・・・・・・・・安住敦

 万太郎逝きて卯の花腐しかな・・・・・・・・・・・石田波郷

 あぢさゐの色には遠し傘雨の忌・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

 居流れて閨秀多し傘雨の忌・・・・・・・・・・・・久永雁水荘

 傘雨忌や「春泥」よりの一読者・・・・・・・・・・・・小林旭草子

 万太郎忌ことしのあやめ咲く遅し・・・・・・・・・・・・成瀬桜桃子

 万太郎忌らしくなく晴れあがりたる・・・・・・・・・・・・西山誠

 万太郎忌川のあちこち弟子のゐて・・・・・・・・・・・・大井戸辿

今、私のBLOGで「久保田万太郎」を検索してみたら、なんと114件もの引用をしていることが分かった。先にも書いたが、私は彼の自由軽妙な句作りが好きである。
2009/02/09に採り上げた「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の最晩年の句の寂しさが、今の私の心に、惻々と迫ってくるものがある。


幸さながら青年の尻菖蒲湯に・・・・秋元不死男
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   幸さながら青年の尻菖蒲湯に・・・・・・・・・・・・秋元不死男

今日五月五日は「端午の節句」であり、昔は「菖蒲を入れた湯」を焚いて入浴したものである。
今日は明るい、健康的な句を採り上げた。「幸さながら」「青年の尻」など心地よい句である。

「端午」とは、五月の端(はじめ)の午(うま)の日の意味であり、のちに五月五日に固定されて、こう呼ばれることになった。
五月五日と「五」が重なるので「重五」という。「菖蒲の節句」なども夏の季語である。
菖蒲が咲く頃に、この花で邪気を祓ったので「菖蒲の節句」という。言わば、この日は「菖蒲」が主役の日である。
この日には粽(ちまき)を作って食べるが、その起源は、昔、中国の屈原という人が、汨羅(べきら)に入水したとき人々が五色の粽を作って弔った故事に因む。
武家が好んだ行事であり、男の子を祝う節句となったのである。

なお、菖蒲湯に使う菖蒲とは、現在ふつうに見られる花菖蒲とは別個のものであるから下記の記事を引いておく。
私が掲出した画像は花菖蒲のものである。念のため。
下の画像のように「穂」も全く形も似もつかぬものである。 ↓
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450px-Acorus_calamus1ショウブ

ショウブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

学名
Acorus calamus var. angustatus
和名
ショウブ(菖蒲)
英名
sweet flag

特徴
茎は湿地の泥の中を短く横に這い、多数の葉をのばす。葉は左右から扁平になっている。花は目立たない黄緑色の肉穂花序で5月ごろ咲く。花茎は葉と同じ形で、花序の基部には包が一枚つくが、これも花茎の延長のように伸びるので、葉の途中から穂が出たような姿になる。

菖蒲湯
中国では古来より、ショウブの形が刀に似ていること、邪気を祓うような爽やかな香りを持つことから、男子にとって縁起の良い植物とされ、家屋の外壁から張り出した軒(のき)に吊るしたり、枕の下に置いて寝たりしていた。日本でも、奈良時代の聖武天皇の頃より端午の節句に使われ始め、武士が台頭してからは「しょうぶ」の音に通じるので「尚武」という字が当てられるようになる(勝負にも通じる)。また、芳香のある根茎を風呂に入れ、菖蒲湯として用いたりする。漢方薬(白菖、菖蒲根)にもなっている。

同じ「しょうぶ」の名前をもち花の咲くハナショウブと混同されることもあるが、両者は全く別の植物である。古くは現在のアヤメ科のアヤメではなく、この植物を指して「あやめ」と呼んだ。

近縁のセキショウ(石菖)はやや小柄な、深緑色の草で、渓流ぞいにはえる。根茎は、昔から薬草として珍重されており、神経痛や痛風の治療に使用した。サウナでは、床に敷いて高温で蒸す状態にしてテルペン(鎮痛効果がある)を成分とする芳香を放出させて皮膚や呼吸器から体内に吸収するようにして利用する。
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私の住む辺りは地下水の豊富なところで、それを汲み上げて花菖蒲や海芋(かいう)カラー、花蓮などの花卉栽培が盛んで、今は花菖蒲の切り取りで忙しい時期である。
以下、菖蒲湯、粽、鯉幟などの句を引いて終わりたい。

 さうぶ湯やさうぶ寄りくる乳のあたり・・・・・・・・・・加舎白雄

 沸きし湯に切先青き菖蒲かな・・・・・・・・・・・中村汀女

 菖蒲湯の香の染みし手の厨ごと・・・・・・・・・・及川貞

 菖蒲湯の菖蒲片寄り沸き居たり・・・・・・・・・・篠原温亭

 菖蒲湯を出てかんばしき女かな・・・・・・・・・・日野草城

 菖蒲湯に永浸る妻何足るや・・・・・・・・・・石田波郷

 ある露地に菖蒲湯あふれ来たりけり・・・・・・・・・・石橋秀野

 菖蒲湯に端然と胸乳ふくまする・・・・・・・・・・細見綾子

 笹粽ほどきほどきて相別れ・・・・・・・・・・川端茅舎

 粽結ふことにもしつけ厳しけれ・・・・・・・・・・池内たけし

 一つづつ分けて粽のわれになし・・・・・・・・・・石川桂郎

 写真また鬼籍へひとり笹粽・・・・・・・・・・中島斌雄

 結び目の愛しき粽ほどきけり・・・・・・・・・・加倉井秋を

 鯉幟きそふ緑のありてよし・・・・・・・・・・後藤夜半

 町変り人も変りし鯉のぼり・・・・・・・・・・百合山羽公

 幟立てて嵐のほしき日なりけり・・・・・・・・・・正岡子規

 はたはたと幟の影の打つ如し・・・・・・・・・・中村汀女

 ここら町空幟も見えず寂れけり・・・・・・・・・・富田木歩

 起伏の丘みどりなす吹流し・・・・・・・・・・角川源義

 雀らも海かけて飛べ吹流し・・・・・・・・・・石田波郷

 森の上に幟の鯉の泳ぎいづ・・・・・・・・・・水原秋桜子





消しゴムの孤島に犀を飼わんとす言語漂流記をなつかしめ・・・・寺山修司
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    消しゴムの孤島に犀を飼わんとす
        言語漂流記をなつかしめ・・・・・・・・・・・・寺山修司


今日5月4日は「寺山修司」の忌日である。
2008年、彼の秘書として身辺にあった田中未知が彼の遺稿を整理して歌集『月蝕書簡』として岩波書店から刊行された。 
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1973年から10年かけて作られた短歌は,いろいろな紙片にメモされ,私の手元に残された.
 そのうちでも,短冊形に切られた紙に1首ずつ,4Bの鉛筆できれいに清書したと思われるものは,一応完成作品と判断した.これが60首ほどを占める.
 『月蝕書簡』に収録されたいくつかは,見慣れないまったく新たなイメージ,日常を一つのダイナミズムとしてとらえていくバネをも感じさせる.
それは確実に20年前の青春時代の作品とは異なり,シュールなコンセプチュアルを内包した詩的世界,21世紀の現在に至ってなお,「前衛短歌」と呼べる新鮮さにあふれている.
(田中未知「『月蝕書簡』をめぐる経緯」より)

田中未知(たなか みち)
1945年生まれ 作曲家 「演劇実験室・天井桟敷」の旗揚げからのメンバーとして制作,照明を担当.自らの創作活動のかたわら,秘書として寺山修司の死までの16年間,寺山の仕事を支えつづけた.主な著書に『質問』(アスペクト),『空の歩き方』『寺山修司と生きて』(新書館)ほか.
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この歌は、その中に載るものである。メタファーが歌の全体を覆っている寺山らしい作品である。
前書きに「消しゴムの孤島」と題される一連である。

霧の中に犀一匹を見失い一行の詩を得て帰るなり・・・・・・・・・・寺山修司

地平線描きわすれたる絵画にて鳥はどこまで墜ちゆかんかな

王国を閉じたるあとの図書館に鳥落ちてくる羽音ならずや

剥製の鷹抱きこもる沈黙は飛ばざるものの羽音きくため
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寺山修司については、上記のものだけでは舌足らずなので、以下に詳しい記事を載せる。

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   マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
      身捨つるほどの祖国はありや・・・・・・・・・・・寺山修司


この歌は寺山修司の名歌として、よく引用されるものである。
この歌の言わんとするところは、現下の状況下で、逆説的な意味をたくさん含んでいると思うが、いかがであろうか。
寺山修司は昭和10年青森県三沢市生まれ。
高校生の頃は俳句に没頭する。
早稲田大学に入学、同年、第二回短歌研究新人賞受賞。以後、前衛短歌運動の一翼を担う。やがて映画、演劇に進み、次第に短歌から遠ざかるが、その青春性や土俗性に根ざした作品は今も多くのファンを持つ。昭和58年没。
近年、彼の名を冠した「寺山修司短歌賞」なるものが開設された。以下、彼の歌をみてみよう。
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    海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

    ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

    雲雀の血すこしにじみしわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌

    ドンコサックの合唱も花ふるごとし鍬はしずかに大きく振らむ

    人間嫌いの春のめだかをすいすいと統べいるものに吾もまかれむ

    一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき

    茛火を床に踏み消して立ちあがるチエホフ祭の若き俳優

    アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ

    夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず

    小市民のしあわせなどに遠くわれが見ており菜屑うかべし河口

    うしろ手に春の嵐のドアとざし青年はすでにけだものくさき

    ある日わが貶めたりし夫人のため蜥蜴は背中かわきて泳ぐ

    地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり

    地下鉄の汚れし壁に書かれ古り傷のごとくに忘られ、自由

    木曜日海に背かれきて眠るテーブルをわが地平線とし

    大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ

    売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

    生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある 一本の釘

    亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり

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1311寺山修司

寺山修司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年(昭和10年)12月10日~ 1983年(昭和58年)5月4日)は日本の劇作家、詩人、作家、映画監督、競馬評論家など幅広い分野で活躍した。

1935年(昭和10年)12月10日生まれ。
母ハツによれば、青森県弘前市紺屋町生まれ。
寺山によれば、「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」など、出身地に関して異なった記述が見られる。寺山のこうした記述には多分に創作が混じっていると言われる。
戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている。これもハツによれば、「父の仕事が忙しく、母ハツは産後保養していたため」という。本籍地は青森県上北郡六戸村(現・三沢市)。
父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける。父・八郎は当時弘前警察署勤務。父の転勤のため、県内各所を転々とする。
1941年(昭和16年)八戸市へ転居。
父八郎出征のため、母と青森市へ転居。青森市マリア幼稚園入園。
1942年(昭和17年)青森市立浦町尋常小学校(現浦町小学校)入学。
1945年(昭和20年)青森空襲。青森市街地をほぼ焼き尽くす、B29による集中砲弾攻撃だった。母ハツとともに命からがら逃げ惑い、焼け出される。家も焼けて一面焼け野原。
ハツの兄を頼って、六戸村古間木(現三沢市)の古間木駅前(現三沢駅)に転居。古間木小学校に転校。中学2年までを過ごす。ハツは米軍キャンプで働く。
米軍差し押さえの民家に移る。
1948年(昭和23年)古間木中学校入学。
秋、青森市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校
1951年(昭和26年)青森県立青森高等学校進学。文学部に所属。高校文学部会議結成。同期生に沢田教一。
1954年(昭和29年)早稲田大学教育学部国語国文学科に入学。在学中から歌人として活動。18歳で第2回「短歌研究」新人賞受賞。
在学1年足らずで中途退学。
1967年(昭和42年)演劇実験室・天井桟敷を結成。劇作家・詩人・歌人・演出家として活躍。
1970年3月24日、人気漫画「あしたのジョー」の登場人物・力石徹の“葬儀”で葬儀委員長を務める。
1971年、『書を捨てて町へ出よう』で劇映画に進出した。
1983年、東京都杉並区河北総合病院にて、肝硬変で死去。享年47。
その後、天井桟敷の劇団員を中心に演劇実験室「万有引力」結成。現在に至る。青森県三沢市に寺山修司記念館あり。

歌集
句集

寺山修司青春歌集


長編叙事詩・李庚順
未刊詩集ロング・グッドバイ
寺山修司少女詩集

評論など
幅広く評論をしており、ジャンルは漫画、歴史人物、小説、映画などジャンルは広い。 竹宮恵子の「風と木の詩」1巻に寺山修司の解説有り、また「サザエさんの性生活」について書いた事がある。

脚本
ラジオ
テレビ


映画
(監督作品を除く)

みな殺しの歌より 拳銃よさらば(1960年)
乾いた湖(1960年)
わが恋の旅路(1961年)
夕陽に赤い俺の顔(1961年)
涙を、獅子のたて髪に(1962年)
初恋・地獄篇(1968年)
無頼漢(1970年)
サード(1978年)
怪盗ジゴマ 音楽篇(1988年)

長編

演劇
「演劇の文学ばなれ(戯曲ばなれ)」を主張し続けた。戯曲に書かれて完結した世界を、舞台でそのまま再現することが演劇なのか。「一度、『戯曲』として書き、きちんと幕を切ってしまったものを、どうしてもう一度、生身の人間を使って現場検証してみようとするのか」。演劇は、演劇という独自の表現なのであり、創造のきっかけとなるキーワードとしての「台本」(「戯曲」とは異なる)のみ許される、とした。
演劇の重要な構成要素であるはずの観客に焦点を当てる作品も上演した(「観客席」)。「俳優座や文学座があって、どうして観客座という名の劇団がないのか」。
彼の考え方は生前の演劇界においては異端視され、主に海外で評価されることになった。没後20年以上経った現在では、数多くの劇団が寺山作品を上演し、新たなる観客との出会いを試み続けている。

主な作品
毛皮のマリー
犬神
盲人書簡
邪宗門
阿片戦争
中国の不思議な役人
青ひげ公の城
身毒丸
奴婢訓
レミング

映画

長編
書を捨てよ町へ出よう(1971年)
田園に死す(1974年)
ボクサー(1977年)
草迷宮(1979年、1983年)
さらば箱舟(1984年)

短編
猫学(キャットロジー)
檻囚
トマトケチャップ皇帝
ジャンケン戦争
ローラ
蝶服記
青少年のための映画入門
迷宮譚
疱瘡譚
審判

消しゴム
マルドロールの歌
一寸法師を記述する試み
二頭女―影の映画
書見機

作詞
涙のオルフェ(1968年、フォーリーブス)
新 初恋(1968年、江夏圭介)
時には母のない子のように(1969年、カルメン・マキ)
涙のびんづめ(1969年、伊東きよ子)
さよならだけが人生ならば(1969年、六文銭)
首つりの木(1970年、J.A.シーザー)
酔いどれ船(1970年、緑魔子)
あしたのジョー(1970年、尾藤イサオ)
戦争は知らない(1971年、本田路津子)
孤独よ おまえは(1971年、ザ・シャデラックス)
勇士のふるさと(1972年、ヤング101)
人の一生かくれんぼ(1972年、日吉ミミ)
君にお月さまをあげたい(1973年、郷ひろみ)
海猫(1973年、北原ミレイ)
新宿港(1974年、桜井京)
浜昼顔(1974年、五木ひろし)
元気ですか(1976年、JOHNNYS'ジュニア・スペシャル)
ぼくの消息(1976年、豊川誕)
与謝野晶子(1978年、朝丘雪路)
もう頬づえはつかない(1979年、荒井沙知)
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terayama寺山修司記念館

寺山修司記念館

 当館は遺族の寺山修司の母:はつ氏より三沢市に寄贈された遺品を、保存公開するために約3年の歳月をかけ建設されました。寺山修司と親しかった粟津潔氏のデザインをもとに、九條今日子氏をはじめとする元天井棧敷のメンバーなど数多くの関係者のアドバイスを得て平成9年7月に開館を迎えました。延床面積約833m2の展示棟とホワイエ棟が渡り廊下でつながり、上空から見るとその様はテラヤマ演劇・映画の小道具として登場した「柱時計」を彷彿とさせます。ホワイエ棟外壁には149枚の陶板が貼り込まれ、寺山修司と交流のあった約30人のメッセージ陶板がテラヤマ作品を題材にしたものとともに、にぎやかに彩っています。テラヤマ芸術はもとより、当市の総合芸術発信基地としての一翼も担っています。
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職業は、寺山修司です

 寺山修司は、昭和10年12月10日に寺山八郎、はつの長男として出生しました。9歳の時、青森空襲で焼け出され、父親の実家がある三沢市で小学校4年生から中学校1年生まで過ごしました。父親が戦死、母親は九州へ働きに出るようになり、そのため、青森市の母親の親戚宅である映画館歌舞伎座で生活し、青森高校へ進学します。
 学生時代は短歌や俳句などに没頭しました。早稲田大学教育学部国文学科へ入学し、18歳の時、『チェホフ祭』を発表し、第2回「短歌研究」新人賞を受賞しました。腎臓の難病ネフローゼとの3年半にわたる闘病生活を経て、ラジオドラマ『中村一郎』を発表し、民放祭会長賞を受賞した後、シナリオライターとして歩み始めました。ラジオドラマから、演劇、映画、テレビドラマへと活動範囲を広げていき、31歳の時に、横尾忠則、九條映子らと演劇実験室「天井棧敷」を設立しました。専用の劇場を備えた「天井棧敷館」を所有し、47歳で亡くなるまでの17年間、2千人近い団員が入れ替わり立ち代わり参加しました。国内だけでなく海外での公演活動も多く、特にヨーロッパでは前衛芸術への評価が高く、毎年のように招待されて公演を行いました。
 寺山修司は、いつも斬新な企画にあふれ、病身にもかかわらず演劇や映画の現場に参加し、死の直前まで執筆活動を続けました。詩や短歌、俳句、映画、演劇、ラジオドラマ、文学から競馬やボクシングにいたるまでの幅広い評論、小説、作詞、エッセイなど多領域にわたる前線で活躍していたため、「職業は、寺山修司です」と名乗っていました。
 時代の先駆者として疾走し続けた寺山修司が、故郷として振り返るのはいつも三沢でした。自叙伝的作品にはいつも、多感な少年時代を過ごした三沢市近郊の風景や同窓生の名前が登場します。

記念館の散策道に立てられた「文学碑」に彫られた彼の文章

― 百年たったら帰っておいで、百年たてばその意味わかる ―

 世代を超え、時代を超えて、人々の心に強烈に作用しながらテラヤマワールドは生き続けます。
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寺山修司については、高校生の頃には俳句に没頭していたが、のち短歌を手がけるようになって賞を得たが、他人の俳句作品からの「剽窃」であるとの指摘を受けた。
しかし、彼は一切頓着しなかったらしい。
今なら、それは通らないと思われるが、とにかく彼は強烈な個性の持ち主であったようだ。
また自分の経歴なども「でたらめ」な記述をしたし、彼の死後も母上はご存命であったが、創作(歌など)の中では(私の引いた歌の一番最後の歌のように)「死なせて」しまっている。
だから彼の言うこと、書くことは、すべて「創作」「虚構」と受け取ったほうが無難である。
俳句や短歌という古い世界に固執する性分ではなかったから、奔放な、太く短くという一生を遂げたと言えよう。


和合亮一詩集『詩の礫 起承転転』『廃炉詩篇』・・・・木村草弥
和合②
↑ 徳間書店2013/03/11刊
和合①
 ↑ オンデマンド思潮社2013/04/01刊(販売Amazonのみ)

──新・読書ノート──(再掲載)初出2013/05/03

     和合亮一詩集『詩の礫 起承転転』『廃炉詩篇』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
        
img_1511484_61085400_0和合亮一
 ↑ 和合亮一

東日本大震災・大津波から丸六年が経った。 今日は「フクシマ」の惨禍の意味するものは何だったのか、振り返る意味で、これを「再掲載」しておく。了承されたい。

先にも採り上げたことがあるが、和合亮一は福島の地にあって、福島原発の爆発事故の直後から、ツイッターを駆使して詩を発信して、
現地のなまなましい現実を送信して、放射能の危機を世界に訴え続けてきた。
それは、こんな呟きから始まった。

   <放射能が降っています。 静かな夜です。>

2011年3月16日のツイートから二年。 原発事故は収束したか、福島は変わったか。
この国は刻まれた痛みを忘れてはいないか───。

『詩の礫 起承転転』は、2011年に発表した『詩の礫』の続編であって、未だ事態は解決していないので、<起承転結>ならぬ『詩の礫 起承転転』と題してある。
『廃炉詩篇』は、廃炉を訴える詩7篇を収めたものである。いずれも「朝日新聞」や「現代詩手帖」に発表されたものが再録されている。
この本は図版をよく見ていただくと判るが、吉増剛造の写真を天地逆に配置してある。
彼とは和合亮一が詩人として駆け出しの頃に福島の地に招いて講演をしてもらったりして以来の親しい仲だという。
大地震、大津波という天地がひっくり返った災難が起こったのに因んで、写真を逆にした演出は的確である。
『詩の礫 起承転転』の画像を、よく読んでもらいたい。
<いいのか なかったことに されちまうぞ。>
<俺たちはやはり 再びの 時間の稼働を 認めてしまうのだろうか>
と、なしくずしの原発の再稼働その他の動きを、世人に強く訴えて、無関心の進行に警鐘を鳴らしているのである。
とかく詩人や文化人というのは、権力者や世の中の多数に対して、反対のポーズを採るのを文学的と錯覚する風潮がある。
岡井隆の、歌集『ウランと白鳥』以来の「原発は悪くない」とか、死んだ吉本隆明の同様の発言とか、がそうである。
またオウム真理教‎の事件─1984年(昭和59年)、麻原彰晃(本名・松本智津夫)たちの起こした「サリン」を使った一連の殺人を含む騒動に際しても、
岡井隆のエピゴーネンたちの、当時オウム真理教のスポークスマンだった「上祐さ~ん」という短歌の発表なども、私の記憶に生々しい。
日本人の大多数のコンセンサスと良識を逆なでするような、茶化すようなポーズは、人々の反感と憤りを買ったものであった。
知らない人のために少し書いておく。
岡井隆の歌集『ウランと白鳥』という奇妙な題名の由来は、こういうことである。
もう、ずっと前だが、岡井は電力会社か電気事業連合会かの誘いで原発の視察に出かけた。その近くに白鳥の飛来地があったというわけである。
これで判るように、彼は、その頃から電力会社の金で視察をし、彼らの言う通りの「支持者」となったのである。
だから原発爆発事故の今となっても、先に書いたような言動になっているということである。
「原子力発電所」というものが、ポツンとオブジェのように存在するのではないのだ。
人間は間違いを犯すものであり、その人間が作った原子力発電というシステムが暴走したのである。
私は、岡井隆や吉本隆明の思想ないしはポーズを断じて認めるわけには行かないことを、ここに断言しておく。
岡井隆に至っては、かつては左翼の闘士のような態度を取りながら、今や宮中の歌会始の選者や宮内庁御用掛を務めて皇族に歌の指導をしているらしいが、
何らかの世俗的栄誉の恩典に預かろうとする魂胆が見え見えである。
文学作品と、それを書いた作者の世界観とは切り離せないものである。日本では、とかく、それらが軽視されるのが残念である。

少し話が脱線するが、吉本隆明のことだが、彼が死んでから一年ということで記事が出たりしたが、今になってくると彼の言についての「負」の話が出てきている。
彼は原書が読めなかったので、すべて翻訳書に頼っている。
日本では注目すべき哲学者として扱われていたので、フーコー、ガタリ、イリイチ、ボードリアルなどが吉本と逢っている。
当然、会話も出来ないだろう。
フーコーとは往復書簡をやりとりする約束になったが、議論は生産的には進まなかった、という。
ヨーロッパのインテリは、母国語のほかに二か国語は読み書きできるのが普通である。つまり英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語などのことである。
それらが出来ないということになれば、向こうの連中には先ず尊敬はされないだろう。インテリとは認められない。
また彼の歴史的な内容を基盤にした著書も、さまざまの時代の事象や言説を、その時代の歴史的事情を考慮せず超時代的にまとめたものが多いと言われる。
また彼は批判に対して過剰なまでに反応して罵倒に至ることもしばしばだったという。
つまりダイアローグないしはデイスカッションではなく、ディベートに終始して、相手を言い負かすことに執心した、と今になると言われだした。
一種のデマゴギーというべきだろう。当時、私が何となく「うさん臭い」と感じていたことが、彼の死後いっきに明るみに出てきたという感じである。閑話休題。

ネット上の「産経ニュース」で彼・和合は、こう語っている。

福島 起承転転(中)詩人・和合亮一 怒り鎮める鬼の踊り
2013.3.20 03:39

<〈私は ある詩人に こんなふうに叱られた 「あなたは黙ることを知らない 困った詩人だね」 それは 違うよ 詩人さん 黙っているのは この目の前の世界なのさ 何も語らないのは ほら 数字だけ 0.912(平成24年5月27日)〉

 --震災後の活動や詩が詩壇の一部で厳しい批判にさらされた。新刊「詩の礫(つぶて) 起承転転」には、そうした批判に対する思いが率直につづられています

 和合 (厳しい声には)やはり傷つきました。これまで20年間、ずっと仲良くしてくれていた先輩が離れていったり、詩を書くことを応援してくれた大学の後輩や飲み友達の中にも離れていく人がいたり。孤独も深くなる。自分の行動は間違っているのか? 同じことを続けることが逆に福島を見つめたくないという気持ちを招き、風化を早めるのでは? 何度も自問しました。でもそうしたことをすべて受け止めて言葉にしていくのが自分の文学だ、とも思ったんです。ずっと励ましてくれた詩人もいましたから。教員として落ち込む生徒に「おまえのことを助けてくれる友達は必ずいる」と普段は言っているけれど、「この言葉、自分にも当てはまるよなあ」なんて思いましたね(笑)。

 --来月には現代詩集「廃炉詩篇」も刊行される。震災前に和合さんが追求してきた抽象度が高く、難解な詩が並んでいます

 和合 「詩の礫」を続けながら、震災前までやってきた縦書きの現代詩を書けるだろうか?とずっと不安でした。「詩の礫」は降ってきた思いをすぐに直球で投げる。現代詩集の「廃炉詩篇」の方は、一つの詩に1カ月くらい時間をかけて、言葉の結晶度を高めている。比喩が込められ抽象性も高い。「廃炉詩篇」では震災のことを書きながら、違う次元のことを書きたいと思ったからです。普遍性のあるものに昇華させよう、と。

 --創作のアプローチが違います

 和合 一昨年に「詩の礫」を出したときは、自分の中でも「今までやってきた詩とは全く違う。実況中継のような感じだな」と思っていた。でも今回「廃炉詩篇」のようなシュールレアリスム(超現実)の現代詩を書いて、即時性のある「詩の礫」とも自分の中で重なりあっていく感触があった。思いはどちらの詩集も同じなんですね。方法が違うだけ。「この福島の現実を描きたい」という気持ちは変わらない。

 〈私の中には 鬼がある 鬼よ 恐ろしい形相の鬼たちよ どうか これらの地獄の季節を 剣を持ち 舞いながら 鎮めて欲しい この世の 残酷さを 無念さを 食べてしまって欲しい(平成25年2月16日)〉

 --今年に入って、ツイッターに「鬼」のイメージを多用した詩が出てきます

 和合 2月に北上市(岩手県)のデパートで伝統芸能の「鬼剣舞(おにけんばい)」を見る機会があって、鬼のイメージがずっと頭の中にあったんです。日本には鬼の話や踊りがいっぱいある。鬼というのは、災いで人々が感じた悲しみや怒り、嘆きを、その人たちに代わって厳しい顔をして踊ってくれるものでは…と僕は考えたんです。だから今回の震災を機に、新しい鬼の踊りを福島でつくりたいと思う。踊りの謡いや前口上に詩を入れる。それが震災の意味を伝える象徴的な何かになるのではないか、と。100年後に残そう、と考えたときにツイッターの詩だけではだめ。結晶度の高い現代詩の言葉とも交ぜ合わせながら、後々まで伝えられる言葉を探したい。(取材記事・海老沢類) >
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詩を引きたいのだが、いずれも長いので引き切れない。
先の『詩の礫』以後、2012/03/16から「一歩のために」というツイッター詩を発信し始めた。

<今日のこの日 私たちに 再び 渡された 日本よ 世界よ 宇宙よ 福島よ たった一人の私よ たった一人のあなたよ>
<失った一人一人を 想っています>
<一つの命の後を 手に入れられなかった 無念の人々のために 私たちは 私たちへ誓う 生きるのだ 燃えあがるように生きて いのちをかなえるのだ>
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一年経った2013/02/16には、こう締めくくられる。
<海なのか 太陽なのか 月なのか 土なのか 風なのか 雨なのか 「危険ですから雨には触らないで下さい」 そんなアナウンスをずっと記憶している 何かに嚙みつきたくて いつ探し回っている 恐ろしい形相 激怒だけが鬼に棲んでいる 彼の歩く後ろには 憤りだけがある>
<私も あなたも 命も 魂も 言葉も ふるさとも たった一つ>
<どうた どうた どどとうた どうた どうた どどどうた どうた どうた どどどうた どうた どうた どどどうた 足 踏みならす 決して あきらめない 夜明けまで 踊るのだ>
<通信3 昨年の3月15日から続きました「起承転転」は、今日で一区切りになります。およそ1年の区切りとしたいと思います。>
<お願いです 私に 詩を とうか 詩を 書かせて下さい>
<春に 僕は 春を 生きていく 決心 をしたのだ>
<祈る 三度目の 春に/つぶやく 詩を もっと 書かせて下さい/もっと 詩を/詩よ 詩を>

これらは詩の朗読のために書かれているので、読者の皆さんも、口に出して朗読していただけば、より趣が出ると思う。
これらの詩を、権力者や原発安全神話を振りまいて原発の危険性を軽視して安全策を怠った電力会社や、文学者をきどる「エピゴーネン」たちに、ぶつけたい。
和合の態度は、原発を廃止したいという、大多数の日本国民の良識を代表するものである。 


和合亮一とは、こういう人である。 ↓ Wikipediaから。

和合 亮一(わごう りょういち、1968年 - )は、日本の詩人。福島県福島市出身。

来歴
福島県立福島高等学校、福島大学教育学部卒業。同大学院修了。福島県の高校教諭の傍ら詩作活動を行う。
1998年、第一詩集『AFTER』で第4回中原中也賞受賞。2006年、第四詩集『地球頭脳詩篇』で第47回晩翠賞受賞。
2013年、第30回NHK東北放送文化賞受賞。
ラジオ福島でラジオ番組『詩人のラヂオ 和合亮一のアクションポエジィ』のパーソナリティを務めるなど、多彩な活動を展開している。
「歴程」同人、「六本木詩人会」主宰。

2011年の東日本大震災では自らも被災し、現場からtwitterで「詩の礫」を発表し続け注目を浴びた。 当日は福島県伊達市の福島県立保原高等学校で入試の合否判定会議中であった。
遠藤ミチロウ、大友良英らとともに、NPO法人「プロジェクトFUKUSHIMA!」を立ち上げ、福島を盛り上げる活動をしている。

著作
詩集
『AFTER』思潮社、1998年
『RAINBOW』思潮社、1999年
『誕生』思潮社、2002年
『地球頭脳詩篇』思潮社、2005年
『入道雲入道雲入道雲』思潮社、2006年
『黄金少年 ゴールデン・ボーイ』思潮社、2009年
「詩の礫 2011.3.16-4.9」(『現代詩手帖』2011年5月号収録、思潮社)
『詩ノ黙礼』新潮社、2011年
『詩の礫』徳間書店、2011年
『詩の邂逅』朝日新聞出版、2011年
『私とあなたここに生まれて』写真:佐藤秀昭、明石書店、2012年
『ふたたびの春に』祥伝社、2012年

ノンフィクション・エッセイ
『パパの子育て奮闘記―大地のほっぺたに顔をくっつけて』サンガ、2008年
『ふるさとをあきらめない フクシマ、25人の証言』新潮社、2012年

共著
谷川俊太郎『にほんごの話』青土社、2002年
佐野眞一『3.11を越えて― 言葉に何ができるのか』徳間書店、2012年

その他の作品

作詞
「福島県立喜多方桐桜高等学校校歌」(作曲:新実徳英)
「箱根中学校校歌」(作曲:新実徳英)
福島市制施行100周年記念讃歌「ふくしまをてのなかに」(作曲:新実徳英)


藤原光顕の歌「あんまりな日々(3)」15首・・・・木村草弥
芸自_NEW

─藤原光顕の歌──(32)

     藤原光顕の歌「あんまりな日々(3)」15首・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・「芸術と自由」No,308/2017.5.1所載・・・・・・・・

         あんまりな日々(3)        藤原光顕

  また覚めてしまったみたいな朝のため買い置きしてあるちょっと雑炊

  説明を読んでまた見て15分後ふわ玉きのこ炒めらしきものができる

  なんとなく味噌の具合もわかってきて白菜スープ朝晩に飲む

  自炊も一年半かと食後のウーロン茶飲む 日に三度何かを食べる

  蕗の薹6つ庭で見つけたこと 食べ頃まで覚えているだろうか

  逝って早や二年になるか 林檎の皮ひとつながりに剥き終わる

  私が死ぬまで見ていてくれる笑顔 もうどこにも行かない遺影

  なんにも言わず見ていたくれるだけでいいひとりの酒は不味い淋しい

  なんにも言わず笑っているがほんとうにあんな一生でよかったのか

  進行を止めるだけです治りませんそんな薬を日に三度飲む

  洗濯籠に三日溜まっていた山が今日はストーブの前に積まれて

  眠るために眠剤を飲む死ぬために毒薬を飲むドラマ終わって

  何に怯えていた一日かとりあえず冷える足から眠らせてゆく

  とりあえず安泰と受けとっておく「春になるまでじっとしてます」

  何があるというでもないがとりあえずひたすら春を待っております
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いつもながらの藤原節である。
この頃の藤原さんの詠いぶりは哀しい。
奥さんへの追慕が痛々しい。
藤原さんの食事は、同じく独り暮らしの私のものよりもバラエティがあるようだ。
今年の冬は寒かったので、終連の「ひたすら春を待っております」が的確であり、かつ痛切である。
ご恵贈ありがとうございました。



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