K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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天橋立「玄妙庵」から伊根へ・・・・・・木村草弥
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↑ ↓ 天橋立の説明碑 (小林あかね氏撮影)
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      小旅行・天橋立「玄妙庵」から伊根へ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

ゴールデン・ウィークの終りの五月六日、七日に長女夫妻のお誘いで、天橋立「玄妙庵」から伊根への小さな旅に出かけることになった。
当地から京都北部へは「京都縦貫自動車道」が貫通して一時間半ほどで短時間に辿りつけるようになった。
当日は午後一時半頃に自宅を出た。
天橋立には何度か訪れている。
古くは戦争中の昭和十八年の夏に「水練学校」と称して、松並木の「回旋橋」のたもとの「松吟楼」という木造三階建の旅館に一週間泊まり込んだことがある。

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↑ 玄妙庵のパンフレットとコースター

「玄妙庵」 ← このHPに詳しい。
このHPの巻頭に載っている通り、目の前に天橋立の雄大な景観を眺めることが出来る名旅館である。
玄関脇には昭和天皇が昭和二十六年に宿泊されたときに詠まれた御製の歌が吉井勇の筆で書かれた石碑が立っている。
部屋からも、風呂からも天橋立が眺められる。
長女たちは橋立の松並木の散歩に出かけたが、私は何もせず、ぼーっと海を眺めていた。
夕食も翌朝の朝食も和風の料理で美味であった。
因みに、ここの当主と長女の婿とは同志社高校の同級生という関係なのであった。

『天橋立』は、陸奥の『松島』・安芸の『宮島』とともに、日本三景とされている特別名勝のひとつ。
江戸時代のはじめ、全国を行脚した儒学者・林春斎が「日本国事跡考」で“三処奇観”と記したのが『日本三景』のいわれの始まりで、『天橋立』は全長3.6km、幅20~170mの砂嘴(さし)で、大小約8000本もの松が茂っている。
その形が「天への架け橋」のように見えることから『天橋立』の名が付いた。
今から約4000年前、世屋川をはじめとする丹後半島の東側の河川から流出した砂礫が海流により流され、野田川の流れからくる阿蘇海の海流とがぶつかったことにより、ほぼ真っ直ぐに砂礫が海中に堆積しできたものといわれている。
『丹後風土記』によると、その昔、天橋立は「天への架け橋」といわれていた。
 イザナギノミコト(男神)が、イザナミノミコト(女神)の住む地に、天上から通うために天と地の間に長いハシゴをかけて行き来していたと言われおり、ある日イザナギノミコトが寝ている間に、そのハシゴが倒れて天橋立となったという神話が残っている。

翌朝はロビーでおいしいコーヒーを飲んで玄妙庵を後にした。
文殊院の近くに、玄妙庵の経営するコーヒー・ショップがあるらしい。 その傍を通って行く。
その日は一路「伊根」を目指すことになる。
昔は伊根は海からしか辿りつけなかった僻地だったが今は道路が整備され短時間に、たやすく行けるようになった。
途中、天橋立対岸の山の中にある「成相寺」に立ち寄る。
今は橋立の文殊側の高みに「ビューランド」なるものが出来て、玄妙庵と同様の景観(飛竜観という)を見ることが出来て「股覗き」も、こちらが本家のようになってしまったが、本来の「股覗き」は成相寺側の「笠松公園」からのものが古いので、ご留意を。

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↑ 成相寺 本堂

ここ成相寺は「西国二十八番札所」で、西国三十三札所の終末近くにある寺である。
ここには、もう十年近くも前に﨑川君の車で訪れたことがある。 いかにも雪国らしく、お堂の木材も年月を経て、くすんだ感じのする寺のたたずまいである。

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↑ 伊根の「舟屋」
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 ↑ 向井酒造の店舗  (小林あかね氏撮影) 道を隔てた反対側に仕込み蔵がある。
伊根 酒蔵
↑ 向井酒造のパンフレット

伊根について、展望台から伊根湾の全景を見たあと、宿で呑んだ「玄妙庵」名の酒の醸造元の向井酒造で、古代米「赤米」から仕込んだロゼのような色合いの「伊根満開」という酒を買い求めた。
ここの当主の杜氏は女の人で、東京農大を出た人で、女性杜氏という珍しさもあって話題性に富んでいるので得をしている、と言えるだろう。

後は一路、帰途へ。




      
田一枚植ゑて立ち去る柳かな・・・・・松尾芭蕉
田植え

    田一枚植ゑて立ち去る柳かな・・・・・・・・・・松尾芭蕉

この句は『おくのほそ道』に載るもので、西行ゆかりの「遊行柳」の陰にたたずみ、しばし懐古の情にふけって、ふと気づくと、田植え女は、すでに田一枚を植え終わっている。
ああ思わず時が経ったなと、思いを残して柳のもとを立ち去ったことだ、という意味の句である。
芭蕉については古来、研究がすすんでおり、この「遊行柳」は謡曲『遊行柳』に、西行

     道のべの清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ

 と詠んだとある芦野の里の遊行の柳と特定されている。
↓ 現在の「遊行柳」
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この芦野の里というのは、現在の所在地は栃木県那須郡那須町芦野で、那須町の公式ホームページには次のように出ている。

<芦野支所より北方300メートル、通称、上の宮と呼ぶ温泉神社の社頭にあり、別名「朽木の柳」ともいう。
柳を訪ねると、地元産の「芦野石」の玉垣をめぐらした中に、一本の柳が植えられ、傍らには、芭蕉の作「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句碑、
更には蕪村の「柳散清水涸石處々」の句碑とが並び、道の反対側には、西行の「道の辺……」の歌碑が立っており、多くの観光客が訪れる名所となっている。
 遊行柳の近くには無料休憩所「遊行庵」があり、また、食堂と直売所が隣接しており、食事や地場産品の販売をおこなっている。>

その頃は、那須郡芦野三千石の領主・芦野民部資俊の知行地。江戸深川に下屋敷があり、芭蕉とは旧知の間柄であったという。
芭蕉が西行を敬慕すること極めて深く、「おくのほそ道」の旅も、西行500年忌を記念するものであることは、あまたの研究者によって解明済みのことである。

この句の前書きに芭蕉は

<清水流るるの柳は芦野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。
この所の郡守、戸部某の、「この柳見せばやな」と折々に宣ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳の陰にこそ立ち寄り侍りつれ>

と書いていて、西行に寄せる気持ちのなみなみならぬものがあったのが判る。
同行した「曾良旅日記」によると4月16日~18日には那須郡高久の庄屋、覚左衛門邸に泊っているので、その頃の作句と考えられる。
4月20日には白河の関所跡に到着している。

<白河の関越ゆるとて>の前書きで

      風流のはじめや奥の田植うた 

の句を作っている。この句からは、奥州ののどかな田植え歌を流しながら田植えがおこなわれた情景が浮かびあがるようだ。
「おくのほそ道」には須賀川の駅に旧知の相楽等窮を訪ね「白河の関、いかに越えつるや」と問われて、この発句を詠み、歌仙を巻いた、とある。
鄙びたみちのく情緒を讃え、これからの旅で味わう風流への期待感もこめた挨拶句。4月22日の作。

この続きには

      早苗とる手もとや昔しのぶ摺 

の句が何日か後に書かれている。「しのぶ摺」とは忍草の葉を布に摺りつけて染めたもの。
『伊勢物語』初段にも「みちのくの忍ぶ文字摺りーー」と見えて古来有名、とある。「昔を偲ぶ」に掛けたもの。

 <文字摺の石は福島の駅より東一里ばかり、山口といふ処にあり。
里人の言ひける、「行き来の人の麦草をとりてこの石を試み侍るを憎みて、この谷に落し侍れば、石の面は下ざまになりて、茅萱の中に埋れ侍りて、
いまはさる業することなかりけり」となん申すを>

という長い前書きの後に

    早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺
    五月乙女(さをとめ)に仕形望まんしのぶ摺


の句が「真蹟懐紙」や「曾良書留」に見られる。

このようにして芭蕉の「おくのほそ道」の文章を辿ると、きりがないが、紀行文は、とても面白い。
こうして読んでくると、芭蕉は多くの知人が江戸にいて(句の指導をしたり歌仙を巻いたりしたのだろう)奥州の旅の前には、
それらの人々に予め予定到着日時を知らせたりしてあったので、現地でも泊るところも手配されていたと思われる。
「曾良旅日記」というサイトに旅の日程が載っているので参照されたい。
何事も日記その他記録しておくものだ。



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