K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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夏草や兵共がゆめの跡・・・・松尾芭蕉
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       夏草や兵共(つはものども)がゆめの跡・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

夏草の一句を挙げよ、と言われれば、余程のことがないかぎり、芭蕉の上の一句をあげる人が多いだろう。

元禄2年5月13日、芭蕉の『おくのほそ道』の旅は、この日平泉に到達する
今日の日に拘ってBLOGをアップする所以である。
もっとも、この日付は旧暦であるから、新暦では六月中旬であり、年によって前後するので、敢えて旧暦の日付のままに載せた。

平泉で繰り広げられた奥州藤原氏三代の栄華もはかなく消えて、華美を尽した秀衡の館も田や野に変わっていた。
芭蕉は、衣川が、その下流で北上川に合流する、もと源義経の館だった高館(たかだち)にのぼる。
辺りは夏草が生い茂り、その昔、ここで討ち死にした義経主従の奮戦も一場の夢と化していた。
芭蕉は「国敗れて山河あり、城春にして草青みたり」という杜甫の詩『春望』を思い出し、栄枯盛衰に涙して、この句を作ったと『おくのほそ道』は記述する。

以下、少し、かの地に触れて書いてみる。
岩手県西磐井郡平泉町だが、平泉駅から西へ500メートルの毛越寺(もうつうじ)の山門をくぐると、
境内の右手の植え込みの中に「夏草や兵どもが夢の跡」の新旧2基の句碑がある。
はじめに掲出した画像は、その左側の句碑である。
この句碑は明和6年(1769年)、碓花坊也寥が建立。
彫られている筆跡は芭蕉の字から起こしたもので、芭蕉の真筆といわれる。
碓花坊也寥とは、宮城県柴田郡柴田町の大高寺第十四世環中道一和尚のこと。
ここに画像は載せないが、右側の石碑は、それから後、文化3年(1806年)、慈眼庵素鳥建立のもので芭蕉の筆跡ではないという。

医王山毛越寺は本尊が薬師如来、平安時代末期の東北に覇を唱えた藤原氏二代目・基衡の建立で、
盛時には堂塔40、僧坊500を数える大伽藍だったと言われ『吾妻鏡』が「わが朝無双」と讃えたほどであったらしい。

義経の館跡という高館にのぼると、小高い丘の上には、正面に義経堂があり、中には義経像が祀られる。
また東側は断崖で、芭蕉の「高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也」という『おくのほそ道』の一文のように、くろぐろと流れ、
彼方には束稲山(たばしねやま)が裾を引いている。
二度平泉を訪れた西行は、

  聞きもせず束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしやは(山家集)

の歌を残しているが、当時この山は京都東山を模して1万本の桜が植えられ、花の名所だった。
芭蕉が平泉に足跡を印したのは、西行が建久元年(1190年)河内の弘川寺で亡くなって丁度500年後の元禄2年(1689年)のことで、
芭蕉の『おくのほそ道』紀行の目的には、その生涯を通じて畏敬した西行への500回忌追善や、
この高館で悲運の最期を遂げた義経への追悼が含まれていたという。


そのことを裏付けるように、

「さても義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」

という記述に芭蕉の感動がうかがえる。さらに文末に据えられた「夏草や」の句は絶唱である。

高館を下り、北進して中尊寺の山内に入る。
初代・清衡が関山中尊寺の建立に着手したのは長治2年(1105年)、その規模は堂塔40余宇、禅坊300余宇と『吾妻鏡』は誌している。
21年の歳月を費やし、竣工から2年後、清衡は権勢の永続を念じながら73歳で没した。

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↑金色堂覆堂   ↓金色堂
dab912046829718bf54019a977e38eef_2金色堂

芭蕉が、

  五月雨の降のこしてや光堂

 と詠んだ金色堂は、本坊から200メートルほど奥になる。
覆堂(さやどう)に納められた内陣の須弥壇は三段あり、それぞれに金色の阿弥陀如来を本尊として、観音・勢至菩薩が脇に従い、
さらに三体づつ、これも金色の六地蔵、壇の前には持国天・増長天が仏界を守護するように、破邪の形相で立っている。
そして中央の壇には初代・清衡、左が二代・基衡、右が三代・秀衡の遺体と四代・泰衡の首級が安置され、
昭和25年の学術調査では、三代ともミイラ化していたことが判明し、内外に大きな感動を与えたという。
泰衡だけが首級だったのは頼朝の奥州征伐のためであるが、藤原氏が滅んだ文治5年(1189年)奥州の旅から戻った西行は、河内の弘川寺に草庵を結んでいた。
弟の義経を庇護したことが仇になり、頼朝に滅ぼされた藤原氏の悲運を、源氏嫌いの西行が、どんな想いで聞いたであろうか。
西行が平泉を訪れた頃は、まだ覆堂はなく、自然の中にじかに建つ金色堂を目のあたりにした筈なのに、彼は一字一句もその印象を残していない。

500年後、金色堂を訪れた芭蕉の「光堂」の句には、覆堂を取り払ってみたいもどかしさが感じられる。
同時代人として悲劇を直視せざるを得なかった西行と、追善の涙に身をゆだねた芭蕉との違いであろうか。

5/09付けで、那須の原で、芭蕉が西行ゆかりの「遊行柳」の傍の田で詠んだ句を載せたが、そこにも書いたように四月中、下旬のことであり、
支援者の家に世話になったりして北上して、芭蕉一行は、この日に平泉に着いたのだった。
その間、ほぼ二旬の日時が経過したことになる。
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中尊寺については、中尊寺執事長を勤められた、中尊寺仏教文化研究所所長の佐々木邦世『中尊寺千二百年の真実』(祥伝社黄金文庫)、
『平泉の文化遺産を語る』(大正大学出版会)の本に詳しい。


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