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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(9月)月次掲示板
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東日本大震災から七年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
aaoohiganb3ヒガンバナ大判

九月になりました。
空には鰯雲、赤トンボが飛びます。

 岬遠く風吹く海に浜木綿は白き炎立つ夏の終りに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松本みよ
 われもまたおちてゆくもの透明ならせんをかすかにためらいながら・・・・・・・・・・・沙羅みなみ
 橋脚ははかなき寄る辺ひたひたと河口をのぼるゆふべの水の・・・・・・・・・・・・・・・・大辻隆弘
 安倍晋三と金正恩の会談を思ひみるなり孫と孫との・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・花山多佳子
 みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏をはこぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生
 濡れやすき花と思へり秋海棠のこされて見しかの日よりずつと・・・・・・・・・・・・・・・・福井和子
 半身は秋涛深く裁ちてゆく吃水のごと薄野を行く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三宅勇介
 ポテトチップのコンソメ味がぽっかりと頭に浮かんでいる夜歩き・・・・・・・・・・・・・・・・・・永井祐
 秋がくれば 秋のネクタイをさがすなり 朽葉のいろの胸にしたしく・・・・・・・・・・・・・ 土岐善麿
 九月一日すなはち九朔、哲久の生日にして第一歌集の名・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢口芙美
 なだれ咲く秋桜の野にふたり来つ、過去と未来の接ぎ目なす野に・・・・・・・・・・・・・・・ 高島裕
 既視感(デジャビュ)は夢にもありて前にみし夢と知りつつ夢を見てゐる・・・・・・・・・・小野雅子
 ゆつくりと夕暮の来る気配して影をうしなふ舗道(いしみち)のうへ・・・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 老いたりといえど凶暴なおんどりが犬に挑んで小屋を占拠す・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 口開くとけぽつと魚を吐き出せり宇治平等院屋根にかはせみ・・・・・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 文学の果実刹那のあまやかさナタリー・バーネイといふは源氏名・・・・・・・・・・・・・・ 阪森郁代
 新しいあなたと出会ふ朝のため床に広げてある鯨瞰図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川美南
 瓦斯燈を流沙のほとりに植えていき、そうだね、そこを街と呼ぼうか・・・・・・・・・・・・・千種創一
 ひと鳴きに序章終章法師蝉・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 切れ切れの眠りつないで明易し・・・・・・・・・・・・・・山浦純
 蟻一匹影より大き蝶担ぎ・・・・・・・・・・・・・・・・・・水上啓治
 名月を戴きこの家肉食す・・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 昭和史の影の張りつく八月よ・・・・・・・・・・・・・・ 中島伊都
 蒼ぎんなん枝にびっしりお母さん・・・・・・・・・・・・高木一恵
 青春の「十五年戦争」釣瓶落し・・・・・・・・・・・・・・金子兜太
 秋曇りうつぶせで書くものがたり・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 雑木林もう足音になった秋・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小池弘子
 頬杖ながき無為の怖さの晩夏かな・・・・・・・・・・・伊東友子
 鬼百合やひとり欠伸は手を添えず・・・・・・・・・ 川崎千鶴子
 三人四人五人六人風邪心地・・・・・・・・・・・・・・・・華呼々女
 烏瓜の花さみしさは少し塩っぽい・・・・・・・・・・・・ 伊藤淳子
 散らかしたままの女よ百日紅・・・・・・・・・・・・・・・・菊川貞夫
 新涼の道はローマへ晩節へ・・・・・・・・・・・・・・・北村美都子
 秋の蝉和む暗さの茶会かな・・・・・・・・・・・・・・・・ わだようこ
 トウキビの熟毛ほどよき男髭・・・・・・・・・・・・・ 鈴木八駛郎
 野の水に映りて毛虫焼く父よ・・・・・・・・・・・・・・・・関田誓炎
 志功天女乳房奏でる良夜かな・・・・・・・・・・・・・・・武藤鉦二
 覇気のないバーゲン中の扇風機・・・・・・・・・・・・・石川青狼
 隊員募集そんな貼り紙毛虫這う・・・・・・・・・・・・・ 大西健司
 独り赴任無人駅出て会ふとかげ・・・・・・・・・・・・・ 川口裕敏
 遠帆よ吾に東シナ海漂流記・・・・・・・・・・・・・・・・・草野明子
 禁猟区人は眉書き爪を染め・・・・・・・・・・・・・・・・・児玉悦子
 田の神にまず一礼し稲咲かせ・・・・・・・・・・・・・・・ 後藤岑生
 言の葉の戦ぎに任す晩夏かな・・・・・・・・・・・・・ 近藤亜沙美
 生きていることをおどけて法師蝉・・・・・・・・・・・・・ 大池美木
 活断層割りそこねたる大南瓜・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤暁美
 夕焼けに一歩近づく別れかな・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤一湖
 銀やんま飛ぶ寸前の発電所・・・・・・・・・・・・・・・・・山中葛子
 屈託の元はくねくね夏の果て・・・・・・・・・・・・・・・下山田禮子
 白雲の駄々と過ぎゆく晩夏かな・・・・・・・・・・・・・田口満代子
 自転車に秋刀魚と空を振り分けて・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 影少し背中を離れ今朝の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

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 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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書評「自己存在の起源を求めて」・・・・春日真木子
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──書評・評論──再掲載・初出(角川書店「短歌」平成11年9月号所載)

        「自己存在の起源を求めて」・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
              ・・・・・・木村草弥歌集『嘉木』書評・・・・・・・・・・

『嘉木』は、木村草弥氏の第二歌集。
集名は、陸羽の『茶経』の「茶は南方の嘉木なり」によるもの。
表紙の「製茶の図」が格調を示すのも「生業である<茶>に対するこだわり」のあらわれであろう。

    ・汗あえて茶を刈る時にそぼつ身を女神のごとき風通るなり
    ・<汗匂ふゆゑにわれ在り>夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ
    ・立春の茶畑の土にくつきりと生命線のごと日脚のびたり
宇治茶問屋の経営主の木村氏が、自ら茶摘みに励まれる歌。
一、二首目のヨーロッパ的教養が、茶摘みにあらたな匂いを添え、
三首目、立春の日脚の伸びる茶畑は、次の芽生えを育む光を浴び明るく健やかである。

    ・山城の荘園領主に楯つけば「東大寺文書」に悪党と呼ぶ
    ・年貢帳にいみじくも記す八十六人、三石以下にて貧しさにじむ
    ・女の名は書かず女房、母とのみ宗旨人別帳は嘉永四年
氏の住む周辺は、玉つ岡、青谷の里、つぎねふ山城、と地名うつくしく、また豊かな歴史がある。
古典、古文書を身近に引き寄せ、その上に数十首の歴史詠があるが、
抄出のように弱い立場の階級に視点をとどめる歌に注目した。
古文書の謎めいた一行が明快に甦るのも韻律の働きであろうか。
実証的な内容に雰囲気が加わり、つぎねふ山城は生命ゆたかに、木村氏の精神風土となっている。
「自らのアイデンティティを求めたのか」と川口美根子氏の帯文にある。
まことに自己存在の源を求めて郷土への執着が窺われ、この上に茶園があり、氏の四季詠がしずかに光を放っている。

<ともしびが音もなく凍る冬の夜は書架こそわれの黄金郷(エルドラド)たれ>の一首もあるが、
旺盛な知識欲と博識は、自から一集に滲む。

    ・葡萄摘むアダムの裔(すゑ)の青くさき腋窩あらはに濃むらさきなす
    ・押し合ひて群集はときに暗愚なり群を離れて「岩うつモーゼ」
    ・ヘブライの筆記のごとく右から左へ「創造」の絵はブルーに染まる
海外詠も、キリスト教的起源に触れ、英知を求めての旅であったろうか。
旧約を力づよい詩魂で描いたシャガールの図像に、知識人らしい見方がもりこまれている。

    ・黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む
    ・サドを隠れ読みし罌粟畑均されて秋陽かがやく墓地となりたり
「死の書」もサドも、日常現実のなかでうまく溶けあい、言葉の繋りにより気配が生れ、雰囲気のひろがる歌。
「詩はダンスである」、氏の心得とされるヴァレリーの言葉を重ねて味わっている。





犬蓼にある明るさよ野草園・・・・青柳志解樹
img548赤まんま本命

  犬蓼にある明るさよ野草園・・・・・・・・・・・・・・・青柳志解樹

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものに、こんなのがある。

   赤まんま幼のあそぶままごとの赤飯なれどだあれも来ない

   老いぬれば無性に親しき赤まんま路傍にひそと咲いてゐるゆゑ
・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っている。この歌も愛着のある歌で、放しがたい。

「赤まんま」または「赤のまま」などと呼ばれるが、それは赤い実の形からきている。
植物名としては「イヌタデ」という蓼の仲間である。タデ科の一年草。いたるところに自生する。
花は夏から秋にかけて咲くが、どちらかというと秋の花と言った方がよい。紅紫色の穂になって咲くが、花びらが無く、萼だけである。
役にたたない蓼ということでイヌタデと名づけられたというが、赤飯のような花なので赤まんまという。
子供のままごとに使われるというので、それが俗称の名前になった。ややメルヘンチックな印象の花である。
子供のままごとと言っても、おおよそは女の子のすることで、お招待でままごとに呼ばれることはあっても、
お義理であって男の子は、もっと乱暴な、活発な遊びがあった。しかし、赤まんまが赤飯の代りであることは知っていた。
先に書いたように、この草は、どこにでもある、ありふれた草だった。

『万葉集』に

  我が宿の穂蓼古韓(ふるから)摘みはやし実になるまでに君をし待たむ

という歌があるが、実になるまで待つと言って少女への恋の実りを待つに重ねて詠っている。
以下、赤まんまを詠んだ句を引いておく。

 日ねもすの埃のままの赤のまま・・・・・・・・高浜虚子

 手にしたる赤のまんまを手向草・・・・・・・・富安風生

 勝ち誇る子をみな逃げぬ赤のまま・・・・・・・・中村草田男

 赤のまま妻逝きて今日は何日目・・・・・・・・小川千賀

 山羊の貌朝日うけをり赤のまま・・・・・・・・坪野文子

 赤のまま此処を墳墓の地とせむか・・・・・・・・吉田週歩

 ここになほ昔のこれり赤のまま・・・・・・・・桜木俊晃

 出土土器散らばり乾き赤のまま・・・・・・・・水田三嬢

 縄汽車のぶつかり歩く赤のまま・・・・・・・・奥田可児

 


春日真木子歌集『何の扉か』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      春日真木子歌集『何の扉か』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・角川書店2018/09/10刊・・・・・・

春日真木子氏は、私の第二歌集『嘉木』の批評を角川書店「短歌」誌上に書いて下さった恩のある人である。
その書評「自己存在の起源を求めて」 ← をリンクにしてあるのでアクセスして読んでみてください。

今回の歌集は、春日氏の第十三番目の本になる。
短歌結社「水甕」代表として、かつ歌壇の重鎮として確固たる地位を占めておられる。
先生の御父上・松田常憲氏は「水甕」の主宰者として率いて来られた人で、この本にも、その思い出として巻末に「鰻─長歌と反歌」の一連が載せられている。
日本が戦争に負けた後は、占領軍の「検閲」が結社誌にもなされた。それら因む歌を引いておく。

  *孔版の黄ばみし文書はGHQ校正検閲の通達なりき
  *検閲を下怒りつつ畏れゐし父の身回り闇ただよへり
  *校正をGHQへ搬びしよわれは下げ髪肩に揺らして
  *文語脈の短歌をいかに解せしか進駐軍のきびしい検閲
  *削られし歌の行方に鬱然と空見上げゐし父は黒幹

これらの歌は巻頭の平成二十六年の歌のところに出ている。
今どきの若い人たちには想像もつかない時代だったのである。
私は敗戦時に旧制中学三年生だったので、学校に地方のGHQの出先の担当者が出向いてきているのを目撃している。
この本には父を詠った歌が、たくさん見られる。

  *新仮名は敗戦仮名と肯はずほとほと一生貫きたりし
  *岩波の万葉集は持ちゆけと父は言ひゐき出で征く君に
  *空爆下印刷所みな消失す歌誌継続のせんすべもなし
  *潔く辞めむと言ふ父潔わるく続けよと宣らす尾上柴舟
  *日本語がローマ字化さる戦きを語るわれらにながし戦後は

いまアトランダムに引いてみた。さまざまの事を考えさせる歌群である。
こういう営為があったからこそ、今の歌壇の安寧があることを知るべきであろう。

春日氏は1926年(昭和元年)のお生れであるから、お若くはないので、こういう歌がある。

  *いたはられ坐るほかなししほしほと炎昼こもるわれは「ゑ」の字に

この歌も巻頭の平成二十六年の項にある。
今年の暑さには閉口したが、平成二十六年も暑かったのである。
暑さに耐える身を「ゑ」の字、と表現したところに非凡な、表現の才(ざえ)を私は感得する。
「帯」文の裏面に五首書き抜かれているが、その中の一つに、この歌がある。
作者にとっても愛着のある歌なのだろう。佳い歌である。
この歌集一巻は、このようにして、淡々と編まれて行く。

  *さくら散る時間の光を曳きて散る 何の扉か開くやうなる

この歌は平成二十七年のところに出ている。
この歌から、この本の題名が採られている。
図版で読み取れると思うが「帯」文には、こう書かれている。

   <作歌への炎を得たいと求め、
     韻律の思惟者であり続ける日々。
     九〇歳を超えて今、開く扉とは。>

これは角川書店の編集者が書いたものだろうが、この本が編まれた意図を、的確に表しているだろう、と私は思う。
古来、日本では「花」と言えば「さくら」を指す決まりになっている。
「さくら散る光」から、さまざまな想念が去来する。それらを端的に表現したのが、この歌である。まさに「何の扉か」である。

  *法案の強行採決戦きて坐る丸椅子 あ、背凭れがない

作者は若くはないが、現下おきている事象にも敏感で、この歌は鋭い。
結句の「あ、背凭れがない」が、何とも絶妙な表現で、心うたれる。

いよいよ鑑賞を終わりたい。
  *仮睡せるわが胸覆ふは読みさしの本半開き屋根のかたちに
  *「山気 日夕に佳し」とぞ陶淵明 されば浅間の山の麓へ
  *いら草の混じる夏草踏みふみて車輪は止まる山荘の前

奇しくも、届いたばかりの角川書店「短歌」誌10月号巻頭に、春日氏の作品「ようこそ明日」28首の一連が載っている。
歌を引くことはしないが、<酷熱を逃れてゆかな山麓に>と詠われるのは、浅間の山荘である。
酷暑を逃れて、山荘での一人居に心を放っていただきたい。

巻末には先にも書いた「鰻─長歌、反歌」が載っている。
それは鰻好きであった斎藤茂吉への想いに繋がってゆくのである。

  *ひと夏を父の食みにし鰻らよ長歌百首に光添へませ  (反歌)

と詠われる。父・松田常憲の思い出へと、この一巻は連なるのである。
鑑賞を終わるにあたり、この一首を挙げておく。

  *ひつそりと垂るる朱実の烏瓜 九十路われの眼を初心にせり  

ご恵贈有難うございました。
快い読後感の「昂り」の中に沈潜していることをお伝えして拙い鑑賞を終わる。       (完)




  
  

葡萄食ふ一語一語の如くにて・・・・中村草田男
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      葡萄食ふ一語一語の如くにて・・・・・・・・・・・・中村草田男

秋は果物のおいしい季節である。ブドウもそのうちに数えられる。
品種改良されて、さまざまの種類がある。梅雨の終る頃には、もう早生種のデラウエアが出回ってくる。
岡山のマスカットのように芸術作品のような高級品ではなく、気軽に食べられるものがよい。
掲出の草田男の句は葡萄のひと粒ひと粒を口に入れながら、それを文士らしく「一語一語」と表現したのが面白い。

   葡萄一粒一粒の 弾力と雲・・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

という、いかにも前衛俳句らしい──短詩のような句も面白いと思ったが、無難な草田男の句にした。

写真②は、ブドウの若い実である。
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種無しブドウは、一種のホルモン剤のジベレリンという液にひと房づつ浸してゆく処理をするのである。
噴霧器で撒布してもよいが大半の液が無駄になるので高くつき過ぎるのでやらない。
とにかく日本の農作業は労働集約的な手間をかけるもので、世界一高い労賃が、さらにコストを押し上げて果物も一個一個が高くつく。
この段階を過ぎて実がある程度に大きくなると「摘果」といって、そのまま放置すると粒が多いままだと粒が大きくならないので、鋏で実を間引く。
これも根気の要る作業だ。さらにひと房づつ紙袋をかぶせる作業をする。もちろん殺虫剤の撒布も必要である。
商品として店頭に並ぶブドウには、こんなにもさまざまな手間がかかっている。

9.19koushuuhatake葡萄畑

写真③はブドウ畑である。レクリエーションでブドウ狩に行ったことのある人もあるだろう。
白い紙袋がかかっているのが見える。最初は完全に隠れるように袋に入っているが、完熟するにつれて紙袋の底をあけてゆく。
もちろん最初から「無袋」(むたい)といって袋かけしないものもある。
岡山のマスカットなどは「温室」栽培のもので、ものすごくコストがかかっているから、とびきり高価である。
このマスカット系の品種は皮と実が剥しにくく食べ難いので私は好みではない。

ここらで本題の文学作品の中の葡萄のことに戻る。

 のちの月葡萄に核(さね)のくもりかな・・・・・・・・夏目成美

 食むべかる葡萄を前にたまゆらのいのち惜しみて長し戦後は・・・・・島田修二

ここに引いた島田修二は、2004年9月半ばに睡眠中に死去された。もと読売新聞記者で「コスモス」の宮柊二の高弟で朝日新聞歌壇の選者だった。
島田は海軍兵学校在学中に敗戦を迎えたあと東京大学を出た。そういう人だから、「たまゆらのいのち惜しみて長し戦後は」という述志の歌になるわけである。

歳時記にも葡萄の秀句も多いが、少し引いて終る。

 天辺や腋毛ゆたかの葡萄摘み・・・・・・・・・・・・平畑静塔

 原爆も種無し葡萄も人の智慧・・・・・・・・・・・・石塚友二

 黒葡萄ささげて骨のふんわりと・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 色惜しみつつ夜明けつつ黒葡萄・・・・・・・・・・・・広瀬直人

 レマン湖のひかりに熟れて葡萄畑・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 老いてゆく恋人よ葡萄棚の下・・・・・・・・・・・・今井杏太郎

 少年がつまむ少女の掌の葡萄・・・・・・・・・・・・藤岡筑邨

 葡萄垂れ献身といふ言葉かな・・・・・・・・・・・・永島靖子

 黒葡萄聖書いつよりなほざりに・・・・・・・・・・・・山岸治子

 葡萄ひと粒を余して本題に・・・・・・・・・・・・松下美奈子

 青葡萄ひとつぶごとの反抗期・・・・・・・・・・・・宮里晄

 手秤の葡萄ひと房聖書ほど・・・・・・・・・・・・小倉通子


玉井洋子詩集『霾る』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     玉井洋子詩集『霾る』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・澪標2017/08/22刊・・・・・・

難しい漢字である。「霾」とは、れっきとした中国伝来の古い字である。
図版でも読み取れるように日本語の「訓」では「つちふる」と訓むが、いまどきの言葉で言えば「黄砂」のことである。
昔の中国人は、黄砂のように砂が巻き上げられ、空が暗くなるのは「タヌキ」が悪さをしているから、と理解したのだろう。
だから「雨かんむり」に「狸」という旁の漢字になっている。こういう「会字文字」は、一見して意味が分かりやすくて佳い。(閑話休題)
玉井さんは神戸の人で君本昌久校長の「市民の学校」の事務局を長く勤められたという。
前詩集に阪神大震災を詠んだ『震える』があるという。
この本には40篇の詩が収録されている。「たかとう匡子」さんと「倉橋健一」氏の「栞」文が挟んである。
先ず、題名になった詩を引く。

       霾る         玉井洋子

   食べてよというので
   茹でて
   おかあげにしておいた
   舞茸が
   花椒(フォアジャオ)をかけてねという
   使ったことがないので渋っていると
   いいからとせっつく
   食は広州にありというから
   ひとっ走り行ってこようかなと思ったけれど
   空も海も
   閉ざされていて
   渡れない

   オアシスに行ってみると
   棚で待っていてくれた
   花椒花椒花椒
   
   これでどうだ
   たっぷりふりかけ
   バターでいためて
   食べてやった

   おともなく
   霾る
------------------------------------------------------------------------------
<おともなく/霾る>の結句が、起承転結の「転」のようで、快く、的確である。

Ⅲ章の題名になっている詩を引いておく。

       六月どこでなにしてた     玉井洋子

   木洩れ日が文字をゆらした

   一人
   二人
   きて
   三人去った

   長い葉柄くるくる
   どこよりも早く
   風があつまる
   ポプラに
   巣
   と
   カラスが
   後になり先になり
   蠱惑的なダンスなんかしてみせて
   囮る

   二人連れが横切りました
   黒髪をシュシュで束ね
   トイレットペーパー抱えたお嬢さん
   一ロール60メーターとして
   総延長720
   小公園がぐるっと囲い込める距離
   快 快 快 食う 眠る 便々
   平和な日本
  
   六月どこでなにしてた

   高いポプラの木の上で卵呑んでた
   羽毛のようなものが喉に残った
-----------------------------------------------------------------------------
そして、もう一篇引いておく。

       ランゲルハンス島からの便り      玉井洋子

   陶器の白は
   大根の白
   まるい便器を拭きながら
   ふと考える
   大根っていいね
   切っても切っても
   まんまるで
   食べても食べても
   まっすぐで
   じんわりしぐれが降っている
      ・・・・・・・
   こうして
   大根一本まるごと味わえるようになると
   オトナだね
      ・・・・・・・
   ランゲルハンス島から便りがとどく
       ・・・・・・・
-------------------------------------------------------------------
「帯」文に書かれている通り、「霾る」という言葉が象徴する世界が展開される。
不十分な鑑賞ながら、この辺で終わりたい。      (完)       
   


エッセイ「恭仁京と大伴家持」・・・・木村草弥
800px-Miniature_Model_of_Yamashiro_Provincial_Temple.jpg
↑ 山城国分寺(恭仁京)復元模型。築地に囲まれているのが金堂(大極殿)。右が七重塔。 京都府立山城郷土資料館

──エッセイ──再掲載・初出「未来」誌2001年8月号所載ほか

        「恭仁京と大伴家持」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・・・「未来」連載特集・万葉集──この場所、この一首(8)・・・・・・・

        ──今つくる恭仁(くに)の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし──大伴家持(万葉集・巻六・1037)

私は昨年秋から恭仁京の発掘品の収蔵の必要から建設され、後に今の形となった京都府立山城郷土資料館でボランティアをする。
館の前庭脇に空外という地元の書家の筆跡による、漢字ばかりの原文の歌二首を刻んだ石碑が立っている。

     ・娘子(おとめ)らが績麻(うみを)かくといふ鹿背(かせ)の山時しゆければ京師(みやこ)となりぬ
     ・狛山(こまやま)に鳴くほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず
                              田辺福麻呂(たのべのさきまろ) (「万葉集」巻六・1056、1058)

この資料館の建つ場所は京都府相楽郡山城町上狛千両岩を地番としている。
三重奈良県境の名張あたりを源流とする木津川が西流して来て平城京の資材の揚陸地であった木津にさしかかる一里ばかり手前の現在の加茂町に恭仁京は在った。
引用した二首の歌を含めて出てくる地名だが、西流する木津川の南岸に「鹿背山」があり、北岸に相対する位置にある丘が「狛山」ということになる。
現在も木津町鹿背山という地番は実在するが、山城町上狛という地番はあるけれども狛山という名の山はない。
狛の辺りにある山──資料館のある丘がそれだろうと同定されるに至っている。
二首目の歌は狛山を対岸に望んで南岸から詠われていることになるが、川幅が広かったことが偲ばれる。
鹿背山は相楽郡木津町の東北部にあり海抜204メートルの低い丘。恭仁京の条里で言えば加茂町側の左京と、木津町側の右京とを隔てる自然物の景観でもあった。
因みに『和名抄』によれば山背(やましろ)の国とは乙訓(おとくに)・葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)・紀伊(き)・宇治・久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(さがらか)の諸郡を含み、今日の京都市南部以南の土地を指すことになる。恭仁京は、そのうちの相楽郡にある。
なお「山城」と書くようになるのは延暦13年(七九四年)の11月以後のことである。引用した歌に戻ろう。
この田辺福麻呂の歌は巻六の巻末にまとめて二十一首が載っているものである。
福麻呂は橘諸兄(たちばなもろえ)に近い人で天平20年には諸兄の使者として越中に下り当時越中国守であった家持を訪ねることになる。
天平12年(七四0年)に九州で起された藤原広嗣の謀反は、聖武天皇をはじめ朝廷首脳部に衝撃を与えた大事件であった。
年表風に記すと─こんな風になる。
天平12年9月、藤原広嗣謀反。10月23日、広嗣逮捕。同29日、天皇関東に行くと告げて離京。大伴家持も供奉同行(巻六・1029の歌作る)。12月15日、恭仁京到着。
翌13年閏3月、五位以上の官人の平城京居住を禁ずる。11月、天皇宮号を「大養徳恭仁大宮(おおやまとくにのおおみや)」と定める。
14年8月、天皇紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸し、その後も行幸頻り。15年5月、橘諸兄従一位左大臣となる。
8月16日、家持、恭仁京讃歌(掲出歌)を作る。
12月、恭仁京造営を中止。天平16年閏正月11日、難波宮に行幸。同13日、直系皇子の安積親王急逝。
2月、百官と庶民に首都の選択を計る。恭仁京から駅鈴や天皇印、高御座などを取り寄せる。翌17年5月、官人に首都の選択を計った結果、平城に決定。
市人平城に大移動、天皇平城に帰京。
ざっと、こんな様子であった。
このように短年月(五年)の間に都の所在がめまぐるしく変わるという背景には、天皇を取り巻く権力中枢部での激しい争いがあるのだが、もともと恭仁京のある山背の国は葛城(かつらぎ)王=橘諸兄(聖武天皇妃の光明皇后の異父・兄妹であり、かつ、光明皇后の妹・多比能を妻とする)の班田の土地であり、遷都については諸兄の意向が強く働いたものと言われている。
掲出歌が8月16日に詠まれているが、その12月には、もはや造営が中止されるというあわただしさである。
北山茂夫は『続日本紀』の記述を引いて「七四五年(天平17年)の危機」という把握をした上で、その年の四月以降雨が降らず、各地で地震が起こり、特に美濃では三日三晩揺れて被害甚大となり、天災は悪政によるという風説や放火が広がり、そういう状況を巧みに利用した民部卿藤原仲麻呂一派による、諸兄らの皇親派追い落としの策略を活写する。
年は明けて天平18年、家持はほぼ一年半の歌の記録の空白の後にふたたび筆を執った。そこには彼の喜悦が溢れる。
巻十七の太上天皇(元正)の御在所での掃雪(ゆきはぎ)に供(つか)へ奉(まつ)りき、という(3926)の歌、

  大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

この席には橘諸兄、藤原仲麻呂の名も見える王臣あげての盛大な宴である。雪は豊作の吉兆として喜ばれていた。その白雪に託して寿歌を上皇に奏上したのである。
その年の3月に仲麻呂は式部卿になり、家持は内舎人から宮内少輔の地位についた。
紙数にゆとりがないので橘諸兄については省略せざるを得ないが、私は第二歌集『嘉木』の中で「玉つ岡」の一連21首の歌に、その一端を詠んでおいた。
大伴家持は、その後も何度も権力騒動に巻き込まれ、中でも征東将軍として多賀城で死んだ後になっても藤原種継暗殺に荷担したとの冤罪で一切の私有財産を没収され古代の名門武門大伴一族が没落することになるのは後のことである。

私は北山茂夫の歴史家としての記述に多くの示唆を得て来た。
新潮社が本につけた帯文は「日を追い、月を追い、熾烈に燃える藤原仲麻呂の野望。名門大伴の家名を双肩に負い、大歌集編纂の大志を胸に抱き、怒濤の時代を辛くもしのぐ家持の苦衷」。
北山氏はこの『萬葉集とその世紀』の脱稿、推敲を果たした直後に昭和59年1月30日に急逝された。
私事だが、妻が大学生で京都市左京区浄土寺真如町に下宿していた家の庭を隔てた向い家に北山先生がお住いで執筆に疲れたのか、よく二階から外を眺めておられた、という。昭和20年代の奇しき因縁である。

・参考文献
1)佐竹昭広・木下正俊・小島憲之共著『萬葉集本文篇』(塙書房平成10年刊)
2)校訂及び執筆者1)に同じ『日本の古典・萬葉集(二)』(小学館昭和59年刊)
3)北山茂夫『萬葉集とその世紀』上中下(新潮社昭和59・60年)
4)『京都府地名大辞典』上下(角川書店昭和57年)

・歌番号は1)による(国歌大観による、と注記あり)

この記事は発表当時のままだから、当該地域は行政的には、現在は「木津川市」となっているので念のため。
また「昨年」などという時制も、当時のままであるから、ご放念を。

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──エッセイ──「未来」誌2001年11月号所載

     補訂・山本空外先生のこと・・・・・・・・・・・木村草弥

本誌八月号に掲載された「万葉集─この場所、この一首(8)」の私の文章「恭仁京と大伴家持」を書いたのは三月のことだ。
その中で万葉歌碑について「地元の書家・空外」の筆跡と言ったが、その後に知るところによると、この人・山本空外(本名・幹夫)先生は哲学者、浄土宗僧侶、書家として有名であることが判った。
先生は、1902年生れ。東京大学文学部哲学科卒。1929年広島文理科大学助教授で欧米に留学。二年半のヨーロッパ留学中にフッサール、ハイデッガー、ヤスパース等西洋哲学権威と親交。1935年弱冠三十二歳にして東京大学で『哲学大系構成の二途──プロティノス解釈試論』により文学博士号を受ける。
1936年から広島文理科大学教授を勤めるが原爆に遭い、その秋出家、僧籍に入り1953年京都府山城町法蓮寺住職となる。
その間1966年定年まで広島大学教授。島根県加茂町隆法寺住職も兼任し同地に財団法人空外記念館を1989年に開設。この8月7日九九歳で遷化された。
私が「地元の書家」と書いたのは自坊の法蓮寺で亡くなられたことからも間違いではないが、上記のように補訂しておく。

空外先生は日本よりも外国で有名な人のようであり日本では世俗的な名誉は望まれなかった。記念館には国内外の国宝級の書画を所蔵するという。
ここで先生の弟子である巨榧山人こと品川高文師の本『空外先生外伝』から面白いエピソードを一つ。

東京サミットの際の話。
時の中曽根首相はレーガン大統領からの土産品の要望に「空外の作品を所望」とあったのに、誰に聞いても知る人がないので困惑していた。
空外記念館のある関係から蔵相の竹下登が知っていることが偶然わかり、何とかツテを頼って空外先生の「歓喜光」の三字の書を揮毫してもらい面目を保ったという。
品川師の本にはオッペンハイマーや湯川秀樹、小林秀雄、魯山人、柳宗悦などが畏敬して教えを受けたというエピソードが面白く物語られているが、それは、また後日。

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      山城郷土資料館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                    ・・・・・・・・(角川書店「短歌」平成13年5月号所載)・・・・・・・


            ──今つくる恭仁の都は山川の清けき見ればうべ知らすらし──大伴家持

     朝霧にしとど濡れつつ佇めば木津川の波は悲傷を流す

     霧の空に太陽しろくうかびたり幻の騎馬に家持出(い)でばや
                   
     山川の清(さや)けきところ恭仁(くに)の宮は三とせ経ずしてうち棄てられき
              
     年々に花は咲けども恭仁京の大宮人は立ち去りにけり

     恭仁京の発掘品の収蔵を急(せ)かされて竣(な)る山城資料館
        
      銭司(ぜづ)といふ字(あざ)名を今に伝ふるは「和同開珎」鋳造せしところ
                  
     ボランティアのわれは郷土資料館に来たりし百人余りを案内(あない)す
                      
     「古い暮らしの民具展」企画は小学校学習課程に合はせたり

     小学校三年生が昔を学ぶと「くらしの道具」展示に群がる

     三年生はやんちゃ盛り騒(ざわ)めきて引率の教師大声を挙ぐ
               
     学研都市精北小学校の学童はバス三台にて百二十人

     笠置町教育委員会のバス着きて降り立つ子らは十二人のみ

     「へっつい」とは懐かしき竈(かまど)かつて家々の厨にありしものを展示す
                         
     竈神祀(まつ)る慣ひも廃(すた)れたり大き写真のパネルを掲ぐ
          


鈴虫を塞ぎの虫と共に飼ふ・・・・草間時彦
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  鈴虫を塞ぎの虫と共に飼ふ・・・・・・・・・・・・・草間時彦

スズムシは8月中旬から10月末まで鳴く。もともとは野原の草むらで鳴く虫だが、今では籠に入れて飼ったり、甕にいれて繁殖させて越冬させたりする。
日本では本州にいるが北にゆくほど居なくなるという。コオロギに近い種類で、黒く西瓜の種に似ている。リーンリーンと鈴を振るように鳴く声が美しい。
ただ平安時代にはマツムシと言われ、逆に松虫はスズムシと呼ばれたというから、ややこしい。
『和漢三才図会』には「夜鳴く声、鈴を振るがごとく、里里林里里林といふ。その優美(やさしさ)、松虫に劣らず」とある。清亮さが尊重されてきた虫である。

写真②はスズムシが羽を擦りあわせて鳴いているところ。
suzu0137鈴虫鳴き

スズムシの飼育の難しさは餌が切れたりすると「共食い」することである。
平生はキュウリやナスなどの野菜の切り身を食べるが、繁殖期には「カツオブシ」の削ったものなどを与えて栄養をつけさせる。
こういうスズムシの繁殖などに文字通り命をかけている人たちがいるらしい。

suzu0147鈴虫交尾

写真③はスズムシの「交尾」の様子である。こういうのを写真に撮るのもたいへん難しいものである。
交尾のエクスタシーに片方が羽を震わせている貴重な写真。
野生の状態では、カマキリと同じように、交尾が済むと雌が雄を食べて栄養分を補給したのではないか、と思われる。
飼育に際しては、それでは困るので、カツオブシの削ったものなどを与えるのである。

suzu0150鈴虫産卵

写真④は交尾が済んで受精した雌が輸卵管を土の中に差し込んで産卵しているところ。じめじめと湿気の多い、暗い環境が必要である。
飼育中は「霧吹き」で湿気を与える細心の注意が必要である。
普通は産卵の済んだ雌は死ぬが、飼育環境が良い場合は、雄も雌も生きたまま越冬することもあるという。
飼育も、その辺の域に達すると「スズムシ博士」と言われるのである。
何事も、その筋の最高権威と言われるには、口には言えない苦労と独自のノウハウが必要である。

suzu0160鈴虫卵

写真⑤は産みつけられたスズムシの卵である。
晩秋に産みつけられるので、この卵の状態で越冬し、次の年の春に、可愛いスズムシの幼虫が孵化してくるのである。
ここでも適度の湿気が冬の間も必要で、乾燥させてはならない。孵化した幼虫は何度も脱皮して少しづつ大きくなって成虫になる。
スズムシ ← このサイトでは、スズムシの脱皮なども観察でき、きれいな声も聞けるので、お試しあれ。

古来、スズムシの声を愛でて俳句などに詠まれてきた。
それを少し引いて終る。
掲出の草間時彦の句は鈴虫を直接に詠むのではなく「塞ぎの虫」と共に飼う、というところが面白い。

 飼ひ置きし鈴虫死で庵淋し・・・・・・・・正岡子規

 寝(い)も寝(いね)ず甕の鈴虫長鳴くに・・・・・・・・富安風生

 鈴虫や早寝の老に飼はれつつ・・・・・・・・後藤夜半

 鈴虫は鳴きやすむなり虫時雨・・・・・・・・松本たかし

 鈴虫や甕の谺に鳴き溺れ・・・・・・・・林原耒井

 鈴虫を死なして療者嘆くなり・・・・・・・・秋元不死男

 戸を細目に野の鈴虫の声入るる・・・・・・・・篠田悌二郎

 鈴虫の生くるも死ぬも甕の中・・・・・・・・安住敦

 膝がさみしと鈴虫育てゐるか母・・・・・・・・鈴木栄子

 鈴虫のひるも鈴振る地下茶房・・・・・・・・福島富美子

 鈴虫のりんりんと夜をゆたかにす・・・・・・・・永井博文


紫をん咲き静かなる日の過ぎやすし・・・・水原秋桜子
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  紫をん咲き静かなる日の過ぎやすし・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

紫苑はキク科の多年草で、日本の原産とある。紫色の頭状花をつける。風にも強い。
『古今集』に

  ふりはへていざ古里の花見むとこしを匂ぞうつろひにける

という歌があるが歌の中に「しをに」と紫苑を読み込んである。

私の方の菜園にも一群の紫苑が咲きかけてきたところである。

以下、紫苑を詠んだ句を引いておく。

 栖(すみか)より四五寸高きしをにかな・・・・・・・・小林一茶

 野分して紫苑の蝶々けふはゐず・・・・・・・・星野立子

 この雨や紫苑の秋となりし雨・・・・・・・・加藤楸邨

 紫苑にはいつも風あり遠く見て・・・・・・・・山口青邨

 台風の紫苑もつともあはれなり・・・・・・・・石塚友二

 紫苑といふ花の古風を愛すかな・・・・・・・・富安風生

 頂きに蟷螂のをる紫苑かな・・・・・・・・上野泰

 山晴れが紫苑切るにもひびくほど・・・・・・・・細見綾子

 古妻も唄ふことあり紫苑咲き・・・・・・・・橋本花風

 露地の空優しくなりて紫苑咲く・・・・・・・・古賀まり子

 丈高きことが淋しく花紫苑・・・・・・・・遠藤梧逸


桔梗や男も汚れてはならず・・・石田波郷
yun_448桔梗本命

  桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

キキョウも秋の七草のひとつで、古来から詩歌によく詠まれてきた。
派手さはないが清楚な花である。もっとも秋の七草に数えられる草は、みな地味なものである。
『万葉集』にいう「あさがお」は、キキョウのこととされる。
この花は漢字の音読みをして「キチコウ」と呼ばれることも多い。
この句もキチコウと読んでいる。
小林一茶の句に

 きりきりしやんとしてさく桔梗かな

というのがあるが、キキョウの特色を見事に捉えている。
きっぱりと、すがすがしい感じの花である。

掲出したは波郷の句は、「男も汚れてはならず」と詠んでいて、老いの境地にある私への「警句」のように座右に置いているものである。

写真②は白いキキョウである。
kikyou4キキョウ白

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものに、こんな、母への思いを詠んでいるものがある。

    桔梗(きちかう)の紫さける夕べにておもかげさだかに母の顕(た)ちくる

    乳ごもる肉(いきみ)の背(せな)に吾(あ)は負はれ三十路の母はまだ若かりき
・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っている。私は母の30歳のときの子である。そんな感慨を歌に込めてあるのである。

この頃では品種改良で、色々のキキョウがあるが、やはりキキョウは在来種のものが、よい。
以下、キキョウを詠んだ句を引いて終わりたい。

 桔梗の紫さめし思ひかな・・・・・・・・高浜虚子

 仏性は白き桔梗にこそあらめ・・・・・・・・夏目漱石

 かたまりて咲きし桔梗のさびしさよ・・・・・・・久保田万太郎

 桔梗やおのれ惜しめといふことぞ・・・・・・・・森澄雄

 桔梗挿す壺の暗さをのぞいてから・・・・・・・・桂信子

 我が身いとしむ日の桔梗水換へる・・・・・・・・富田木歩

 桔梗の露きびきびとありにけり・・・・・・・・川端茅舎

 姨捨の畦の一本桔梗かな・・・・・・・・西本一都

 桔梗や信こそ人の絆なれ・・・・・・・・野見山朱鳥

 桔梗やいつより過去となりにけむ・・・・・・・・油布五線





梨食ふと目鼻片づけこの少女・・・・加藤楸邨
housui015豊水梨

  梨食ふと目鼻片づけこの少女・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

梨に無心にかぶりつく少女──この情景は、梨を四分割ほどにカットして食べ易い形にしたものを想像すると面白くない。
この句の情景は、梨を丸ごと、かぶりつく、ということであろう。
「目鼻片づけ」という表現は、目も鼻もどこかへ片づけて、食べることにひたすら没頭している少女、なのである。
余談だが、俳句の「俳」の字は、もと一般人と変ったことをして人を興じさせる芸人の意味だという。俳優の語は、そこから来た、と言われている。
明治以降の「俳句」も、和歌に対抗して滑稽な詩情を開拓した俳諧から出ているが、現代の俳句はもちろん、滑稽みや軽みだけですべてが表現されるものではない。
新しい短詩形文学の一形態として多種多様な心情を盛る。
この楸邨の句は、抜群の俳味をたたえてふくよかである。昭和51年刊『吹越』所収。

「梨」については、すでに9/7付けのBLOGで、私の歌を掲出して書いた。
俳句についても、いくつか引用したので、改めて付け加えることもないが、「梨」=無し、に通じるとして昔の人は言葉忌みをして「ありのみ」などという命名をしたものである。

先日は引かなかった句を少し引いて終る。

 仏へと梨十ばかりもらひけり・・・・・・・・・・・・正岡子規

 梨売りの頬照らし過ぐ市電の灯・・・・・・・・・・・・沢木欣一

 孔子一行衣服で赭い梨を拭き・・・・・・・・・・・・飯島晴子

 有の実やわれの故山を何処とも・・・・・・・・・・・・上田五千石

 勉強部屋覗くつもりの梨を剥く・・・・・・・・・・・・山田弘子

 さみしさを八つに割りし梨一個・・・・・・・・・・・・鳴戸奈菜

 一目瞭然の室内ラ・フランス・・・・・・・・・・・・有沢榠櫨

 老成も若さも遠し梨をむく・・・・・・・・・・・・深谷義紀

 梨甘き夜を欠くるなく集ひけり・・・・・・・・・・・・塙告冬

 夕刊に音たてて落つ梨の汁・・・・・・・・・・・・脇屋善之

 ラ・フランス花のごとくに香りけり・・・・・・・・・・・・佐々木まき

 梨半分ラップに包み逝きにけり・・・・・・・・・・・・近藤紀子

 袋よりはち切れさうな梨の尻・・・・・・・・・・・・間部美智子





自が開く力に揺れて月下美人ひそけき宵に絶頂ありにけり・・・・木村草弥
2002gekkabijin0716b月下美人

  自(し)が開く力に揺れて月下美人
        ひそけき宵に絶頂ありにけり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「月下美人」は長らく名前は聞いていたが二十数年前に知人から一鉢もらって栽培していたが人に貰われて行った。
珍しい神秘的な花として当初は、わくわくだったが、栽培してみると毎年いくつも花が簡単に咲くので拍子抜けするようである。

040626蕾はじめ①

写真②が「つぼみ」の段階である。最初は垂れているが成熟するにつれて「勃起」するように花が上を向いてくる。
写真は、最初の下向きに垂れている段階。写真に写っている右の二本の蕾は、これ以上発育せずに、落ちてしまった。

月下美人は、もちろん外来の植物で「サボテン」の類である。
栽培本によると直射日光を避けるように書いてあるものもあるが、それはおかしく、本来、熱帯地方の植物であるから、寒さには弱いが暑さには強い。
私の家では半日以上直射日光の当るところに置いてある。
写真③が、その段階を過ぎて、蕾が上向きになりかけたところ。
040629蕾起き上がり

私は知人が栽培していた月下美人の鉢を、ここ一両日で咲くという段階のものを頂いた。二十数年前のことである。
月下美人の名の通り、夕方から、晩になって、とっぷりと夜のとばりが下りた夏ならば午後9時ころから開花しはじめる。
大振りの花で直径は10センチ以上ある。もちろん手入れの仕方によって花にも大小はある。
花芽は写真③に見られるように葉の切れ込みの辺りから出てくる。葉の出てくる場所も同じような処からである。
先にサボテン類と言ったが、シャコバサボテンの花芽の出方と同じである。
写真④は勃起しかけた蕾が複数ついているところ。
626_5月下美人蕾

とにかく月下美人の蕾の発育の仕方を見ていると、男性性器が平常時のしぼんだ状態から「勃起」し、かつ大きさも何倍にもなるのと同じような動きを示すので、ある意味でエロチックである。
花はとっぷり夜になってから一時間余りかけて完全に開く。
そして翌朝には完全に「しおれて」勃起していた花も下を向いて、だらんと垂れている。
この様子も、事が終ったあとの男性性器の状態を思わせて、むしろ嫌らしい感じさえする。
しおれた花は葉の付け根から、すぐに切り取る。そうしないと次の開花に影響があるようだ。
写真⑤が、そのしおれた花の様子である。
bijin-11萎んだ花

とにかく月下美人は強い植物で、冬の間は屋内の南側のガラス越しの場所に置いてやれば栽培には問題はない。
私の家では、夏場はほったらかしである。水やりは、たっぷりと毎日夕方にやる。

掲出の歌は歌集には未収録のものである。第四歌集『嬬恋』(角川書店)には収録歌数が多くなりすぎて削ったので

月下美人たまゆらの香を漂はす明日ありや花 明日ありや花

という歌だけ載せた。しかし、この歌よりも、掲出した歌の方が佳いと思って、これにした。初出は「地中海」誌に載せた7首であり、以下に、それを引用する。

  月下美人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  かのひとに賜ひし一鉢ふくらめる月下美人の咲くを待つ宵

  この宵は月も出でざれば月下美人一花乱るる刻きたりけり

  蛇皮線を弾いて月下美人の花待つと琉球の友の言ひしも愛(かな)し

  白き焔(ほ)を吐きて月下美人のひらき初む一分(いちぶ)の隙もなきしじまにて

  友の喪より帰り来たれば月下美人咲き初めむとす 梅雨ふりしきる

  自(し)が開く力に揺れて月下美人ひそけき宵に絶頂ありにけり

  月下美人たまゆらの香を漂はす明日ありや花 明日ありや花
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月下美人に驚きを感じなくなった今なら、こんな感動に満ちた歌は作れない。
詩歌は「刻の産物」と言われるが、まさに、そのことを、この一連は証明している。



月刊「茶の間」連載「木村草弥の四季のうた」第十回・・・・木村草弥
茶の間_NEW

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──月刊「茶の間」連載──(10)

     月刊「茶の間」連載「木村草弥の四季のうた」第十回・・・・・・・・・木村草弥

     
   茶畑はしづかに白花昏れゆきて いづくゆ鵙の一声鋭し

 九月という、まだ残暑の残る季節を越えて十月になった。茶園の葉蔭に茶の花が咲き揃う。
そんな季節を待ちかねたかのように、モズの鋭い高鳴きが聞こえるようになる。
モズは一年中いる留鳥だが、この季節以外では目立たない。
 秋になるとモズは「縄張り宣言」するために、高い木の先端に止まってキ、キ、キと甲高い警戒音を出す。
これがモズの高鳴きと言われるもの。
私の歌の「ゆ」というのは場所を表す助詞で、「いづくゆ」は「どこからか」という意味を表すものである。
 この歌は私の第一歌集『茶の四季』の巻頭に載せた歌で思い出深い。
ついでに書いておくとモズは「百舌」とも書くように他の鳥の鳴声の真似をするので百舌と表記される。

   白丁(はくちよう)が「三の間」に身を乗りいだし秋の水汲むけふは茶祭

   三の間に結(ゆ)ふ祝竹この年の秋の茶事とて日射しに輝(て)らふ


十月の第一日曜日に宇治の「茶祭」が催される。
宇治橋の「三の間」から汲んだ水で、興聖寺(こうしようじ)の茶会が開かれ、秋の行事の始まりを告げる。
 橋の欄干に「三の間」の出っ張りがあるのは宇治橋のみだ。
 この行事で白丁などの役目を務めるのは宇治茶業青年団で、茶問屋の従業員などで構成される。
 京都には各地に数か所の茶業青年団があり、年間を通して「闘茶会」「茶審査技術競技会」などの行事で腕を競いあう。
 秋は好季節で、茶の旨味も一段と増すのである。
昔は涼しい土蔵などに囲っておいた「茶壷開き」などの行事が行われていた。
 保存技術が発達した今では、夏場は茶は冷蔵倉庫に保管されているので鮮やかな緑色を保つことができる。

   告ぐることあるごとく肩に蜻蛉(とんぼ)きて山城古地図の甦(よみがえ)る秋  

由緒ある王城の地である京都の秋を満喫したいものである。 
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めっきりと秋めいて来た。
今年の暑さは異常だったので、この涼しさが何よりの賜物である。
そして、お茶のおいしいシーズンになってきた。
ゆったりとした気分で一服の茶を味わいたいものである。

それと、私の記事とは関係がないが、
森下典子さんのロング・エッセイ集『日日是好日「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』(新潮文庫版)を原作とする、
大森立嗣監督の映画「日日是好日」が完成し、10月13日から全国ロードショーで公開されることになった。
主演は、先日亡くなった樹木希林、黒木華などである。
今号の「茶の間」十月号の巻頭には、「お茶から学ぶ、季節のように生きる日々」の題で、この映画のことが紹介されている。
全身をガンに侵されながら自然体で生き、かつ演技した樹木希林さんの生きざまも立派であった。
映画が公開されたら、ぜひ見てみたいものである。一言、書き添えておく。


       

八十の少年にして曼珠沙華・・・・高島茂
aaoohiganb3ヒガンバナ大判
高島茂

   八十の少年にして曼珠沙華・・・・・・・・・・・・高島茂

この句は高島茂の遺句集である『ぼるが』(卯辰山文庫刊)の巻末に「原風景」(遺句11句)として載るものである。
今の晩夏から初秋の句として惹き出せる句が意外と少なく、この一連を引くことにする。
高島茂は平成11年8月3日に亡くなった。行年79歳であった。

彼については何度も書いたので繰り返さないが、当該記事のリンクを見てもらいたい。
掲出の写真は句集『ぼるが』の巻頭に載るものをスキャナで取り込んだが私の腕が未熟なので鮮明でないが、ご了承ねがいたい。
高島茂筆跡0001

写真②は、同じく句集『ぼるが』の表紙裏から「見開き」にかけて載る彼の「筆跡」である。
几帳面な、かっちりとした字が彼の性格を表すように原稿用紙の升目に並んでいる。

以下、掲出句を含む一連を引いておきたい。
なお、原文の漢字は「正字体」で書かれているが、私の独断で「新」字体に変えさせてもらったので、ご了承願いたい。

 原風景(遺句11句)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

雷鳴が腹中に棲み駆け狂ふ

つつがなく腹中を涼風ふきぬけよ

手を籠にして蕾の翁草ながめけり

黄華に咲きゐしきすげ寒風たつ

はまなすの紅実のこりて海猫遠し

崖に一羽の海鵜声なきは淋しかりし

八十年顧みしことありおぼろなり

八十の少年にして曼珠沙華

踏まれ鬼に青い蜘蛛来て糸を巻く・・・・・(七月二十一日)

 □

黒牛の地を蹴る時は戦詩興る

白牛の地にまろびしは平和なりし・・・・・(七月二十三日)
------------------------------------------------------------------------
これらの作品は高島茂の死後、ご子息で結社を引き継がれた高島征夫氏が句帖から引かれたものだが、
死の床にあって、彼の脳裏にさまざまのことが去来したのが、よく判るのである。
はじめの二句などは、体の中に取りついた死霊が惹き起こす「騒擾」との戦いを句に表現したようにも受け取れる。
「戦い」という表現は不適切かも知れない。もはや一種の「諦観」みたいなものが漂っているから、
「せめて苦しまずに死なせてくれよ、病よ」ということかも知れない。
「八十年顧みしことありおぼろなり」「八十の少年にして曼珠沙華」の句からは、幼い頃の回想が、走馬灯のように脳裏を駆け巡っている様子がみてとれる。
掲出句のように、八十になっても心は依然として「少年」なのである。
私自身が、いまや八十を超えた年齢に達しているので、彼の心中が手にとるように判る気がするのである。
終りの二句は一種の「対」句のようになっていて「戦争と平和」ということを「黒牛」と「白牛」という対比によって表現されたのであろう。
書かれるように戦争中には「戦詩」が「興っていた」ことがある。今となっては、その善悪を云々するのは止めたほうが良さそうである。
「いまわの際」になっても高島茂という優れた俳人は、詩人としての「性」(さが)を示されたと思う。
敬服に価いする立派な最期だった。
その後を継承された、ご子息の征夫氏も亡くなられた今となっては、うたた感慨新たなるものがある。


中村和雄詩集『一本橋』・・・・木村草弥
中村_NEW

──新・読書ノート──

      中村和雄詩集『一本橋』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・澪標2018/09/25刊・・・・・・

この人は私には未知の人である。
版元の澪標の松村信人氏から恵贈された。
解説を書いている細見和之によると、作者は市役所勤務をされていたらしい。
その一端が掲出した画像の文章から読み取れるだろう。
引き続き細見和之の文章を借りれば

<いきなり「ひょっとこ」ではじまり、「へび女房」、「小僧」、「八月」と不思議な寓意的世界がひょうひょうと展開してゆく。
 かっぱ、カラス、タヌキと、作品にはいわば民話的な生きものが繰り返し登場するが、それはあくまでも言葉のうえでの存在である。
 ・・・・・それらは作者の詩が動いてゆくための、一種の記号的な存在である。>

これは、この詩集の的確な要約であるだろう。

中村和雄
1955年 愛知県名古屋市生

と現住所だけ しか明かしていない。
細見の解説によると、作者は、どのような同人誌にもサークルにも属していなかったと、版元から聞いている、らしい。
全くの個人作業として、詩を作りつづけてきたのだろう。
それにしても、この詩集の完成度は高い、と私は思う。
細見は解説で「石原吉郎」との関連を書いているが、(何らかの根拠があるだろうか)私は、それは無視してもいいと思う。
それよりも細見の解説で的確なのは「帯」の文の後段の

<作品を書き継ぐことに、密かな愉悦に近いものがあったのではないか。>

という個所が読後感としては的確であろう。
私としては、ラフカディオ・ハーン『怪談』を読んだ後の雰囲気に共通するものを感じ取った。もっとも「暗く」はないが。

作品を引いてみよう。

      ひょっとこ (抄)      中村和雄

   ・・・・・
   ひよっとこを少し切るたびに
   だんだんひょっとこらしくなる
   ひょっとこのすべすべの
   切りくち
             ひよっとこになった     
             ひよっとこ
             お面と
             ちんぽこだけの
             ひょっとこ
   切りくちを舐めるとひょっとこが笑う
   どんぶりが溢れてひょっとこが踊る
   ひよっとこが踊ればちんぽこが揺れる
   ・・・・・

        一本橋 (抄)     中村和雄

   白川一本橋
   ねずみがとおる
   ・・・・・
   白川一本橋
   婆あがおちる
   ・・・・・
   白川一本橋
   たぬきがくぐる
   ・・・・・
   白川一本橋
   坊主がおどる
   ・・・・・
   白川一本橋
   すずめがさわぐ
   ・・・・・
   白川一本橋
   坊主がころぶ
   ・・・・・
   白川一本橋
   婆あがわらう

夜が明けてしまえば、一本橋とはいえただの端である。けれ
ども、橋を渡って来たものに、口をきかないしきたりは変わ
らない。橋を渡るときの、長い挨拶は変わらない。誰もが、
遠くへ行く人のように、別れの挨拶をするのである。
   ・・・・・
   白川一本橋
   ねずみがとおる
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題名になった詩を抄出した。
それぞれ付けられたキャプションとしての文章も的確だろう。

全部で23篇の作品が収録されているが、不十分な抄出になったことを、お詫びしたい。
もう若くはないが、これからも詩作を続けていただきたい。
佳い詩集を恵贈いただいて感謝します。       (完)






巡礼の旅「ヴェズレーの丘」と教会・・・木村草弥
20121206131023tpBAヴェズレーの丘と教会
 ↑ ヴェズレーの丘と教会
vezelay30ヴェズレー サント・マドレーヌ聖堂
↑ ヴェズレーの丘 サント・マドレーヌ聖堂
vezelay04サント・マドレーヌ聖堂ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
 ↑ ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
vezelay07柱頭彫刻①
 ↑ 柱頭彫刻①

──巡礼の旅──(19)

     ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖マドレーヌというのは「マグダラのマリア」のことである。
かつては娼婦であり、キリストの教えにより悔悛し、復活したキリストを最初に見た、という彼女の遺骨を納めているという。真偽のほどは置いておく。
人々がそれを信じたという事実が肝要なことなのである。
ここはスペイン西北端サンチアゴ・デ・コンポステーラへ続く大巡礼路の出発点のひとつであり、長い参道が修道院まで続く。
1146年には聖ベルナルドゥスが第二回十字軍を説いた場所でもある。西正面の外観は十九世紀の作なので大したものではない。

サント=マドレーヌ大聖堂 (Basilique Sainte-Madelaine) は、フランスの町ヴェズレーの中心的な丘の上にあるバシリカ式教会堂。
この教会と丘は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ヴェズレーの教会と丘」)。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつという歴史的重要性もさることながら、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。

Wikipediaに載る記事を引いておく。 ↓
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861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。
その際に、修道士の一人がマグダラのマリア(サント=マドレーヌ)の聖遺物を持ち帰るためにプロヴァンス地方のサン=マクシマンに派遣された。

878年には、この初期カロリング様式の教会は、ローマ教皇ヨハネス8世によって、現存する地下納骨堂ともどもマグダラのマリアに捧げられた。
ジョフロワ修道院長 (l'abbé Geoffroy) はマグダラのマリアの聖遺物を公開し、それが様々な奇跡を起こしたとされる。
これによって、巡礼者が押し寄せ、ひいてはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に組み込まれることになったのである。

こうした評価は村を都市へと発展させる原動力となった。
巡礼者たちは引きもきらず、その中にはブルゴーニュ公ユーグ2世(1084年)や、イングランド王リチャード1世(1190年に第3回十字軍遠征に先立って)、フランス王ルイ9世(1248年)なども含まれることとなる。

アルトー修道院長 (l'abbé Artaud) は、1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。
ただし、この新築にかかる費用の負担に反発した住民たちが暴動を起こし(1106年)、この時にアルトーは殺された。
なお、この時点では身廊はカロリング様式のままだったが、1120年7月25日に1127人の犠牲者を出した大火災に見舞われたことで、身廊も建て直された(1138年に完成)。
なお、今に残る正面扉上の美しいティンパヌムが彫られたのもこの頃のことである(1125年 - 1130年)。
1146年の復活祭の日(3月31日)に、クレルヴォーのベルナルドゥスは、丘の北斜面にて第二次十字軍を派遣すべきであると説いた。また、1166年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが、この教会で、イングランド王ヘンリー2世の破門を宣告した。
教会の人気は、1279年にヴェズレーへ持ち去られたはずの聖遺物と称するものがサン=マクシマンで発見されたことで、凋落の一途をたどった。
この教会は1162年にはクリュニー修道院から分離し、オータン司教からフランス王の監督下に移っていたが、1217年にはフランシスコ会に引き取られ、1537年に還俗した。
1569年にはユグノーによる略奪を受けた。その後、1790年にはフランス革命の中で小教区の一教会となった。この頃、教会参事会室だけは良好な状態で保たれた(現在も付属のチャペルとして残存している)ものの、ほかは建材調達のための石切り場と化し、自慢のティンパヌムも酷い有様だった。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。
こうした度重なる損壊に対し、プロスペル・メリメの発案に従って、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックに再建が委ねられた(1840年)。
この再建工事は1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
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一連の教会群は、ヴェズレーのなだらかな丘の上に建っている。
vezelay26ホタテガイ
 ↑ だらだら坂の舗道に埋め込まれた巡礼路を示すホタテガイ

サント・マドレーヌ聖堂のもう一つの見所は、100点にもおよぶ身廊(正面から内陣へと向かう東西に細長い空間)と側廊(身廊の左右にある通路)を仕切る柱にある柱頭彫刻である。
建築と調和したロマネスク彫刻はこの時代の美術を代表するもので、各地の文化的素地の多様性、人々の想像力の豊かさ、深い宗教精神を伝えているという。
柱頭彫刻はギリシャ時代からあったが、ギリシャのものは主に植物的な文様であり、物語的な柱頭彫刻はロマネスク芸術から始まったそうである。
一、二引いて解説してみよう。
vezelay09エジプト人を殺すモーゼ
 ↑ エジプト人を殺すモーゼ
vezelay10ダビデとゴリアテ
 ↑ ダビデとゴリアテ

ダビデは植物の花弁にのっかかって切り込んでいる。これはダビデが小さい子供であることを強調している。
ダビデが少年の頃に巨人戦士ゴリアテを倒す聖書物語は、信仰の厚いダビデの勇気と、神を嘲って武力に頼る暴虐なゴリアテの決闘の結末から、
信仰の大切さを学ぶ教訓として語られる、欧米人にとってなじみの深い話だそうである。

800px-Vezelay_Tympan12サント・マドレーヌ教会ティンバヌム
↑ 「洗礼者志願室」入口上部のティンバヌム壁画
この壁画の主題は「使徒に布教の命令を伝えるキリスト」ということだが、中心にほぼ両手を広げたキリストが居て、その手の先から神の啓示である光線が出、それらを畏怖の念で受け取る使徒たちが取り巻く。
それらの使徒の下段と外側の半円には「地上」のローマ人、ユダヤ人、アラブ人、インド人、ギリシャ人、アルメニア人などが刻まれ、これらはすべて神の宇宙にある人間であり、キリスト教の「普遍性」を意味するという。
さらに、半円形壁画の外側は十二か月の仕事を具体的に描いている。
一月は農夫がパンを切り、二月は魚を食べ、三月は葡萄の木を手入れし、四月は木の芽で山羊を育てる。・・・・・
九月は麦を櫃に入れ、十月は葡萄を収穫し、十一月は豚を殺し、十二月は男が肩に老婆を背負う。
この最後は「過ぎてゆく年月」を象徴する。したがって、これらは自然の一年の円環的構造と人間との関わりを示すとされる。
この自然の時間を基底としながらも、直線的なキリスト教的時間、すなわち前世の原罪、現世の贖罪、来世の救済が展開される。


昔は字を読めない人が大半であり、しかも時代は中世であり、終末思想が強かった時代であり、キリストに救済を求める気分が支配していた。
だから信者や修道士を脅し、戒めるような主題が柱頭に並んでいる。
写真には一部しか出せなかったことも了承されたい。




佐相憲一詩集『もり』・・・・木村草弥
佐相_NEW

──新・読書ノート──

      佐相憲一詩集『もり』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・澪標2018/06/29刊・・・・・

この本は佐相氏の九番目の詩集になる。
佐相氏のことは高名な詩人として知ってはいたが、作品を読むのは、初めてである。
今回、澪標の松村信人から贈呈されて読むことになった。
佐相憲一とは ← こういう人である。Wikipediaにリンクしているのでアクセスされたい。

詩集
『共感』 『対話』 東洋出版
『愛、ゴマフアザラ詩』 第36回小熊秀雄賞
『永遠の渡来人』 『心臓の星』 土曜美術社出版販売
『港』 詩人会議出版
『時代の波止場』 『森の波音』 コールサック社
『もり』 澪標
他にエッセイ、評論集、小説など多数。現在、文芸誌「コールサック」共同編集人。

この本は、この五年間に発表された作品群の約七分の一にあたる17篇を収録するという。
<森に関わって書き始めた前詩集のさらなる先へと追求していったものが、全体のなかに少しでも生かされたなら幸いです。>
と「あとがき」に書かれている。
収録される作品の題名を書き抜いておこう。
「虹」 「夕暮れ」 「オオカミ」 「宝石」 「 影」 「補償の森Ⅰ」 「補償の森Ⅱ」 「地下無限階」 「雲の道」 「樹海の蜘蛛」 「セツブンソウ」 「ジョーカーの時間」 「西武拝島沿線」 「天気予報」 「風の比喩」 「痛みのグラブ」 「光合成」

この詩集の「キーワード」は「もり」でる。
「あとがき」に書かれているように、それは「茂り」「盛り」多様な木々が盛んなところ、である。漢字にせずに「もり」とひらがなにしてあるところが「ミソ」である。
「群れたくない」という思いと「ひとの心に寄り添いたい」という願い、と自分のことが書かれている。

この中から「風の比喩」 「樹海の蜘蛛」の一連から引いてみる。

     風の比喩 (抄)     佐相憲一

   かたちのないもの
   吹いてくるもの
      ・・・・・
   流れるもの
      ・・・・・
   揺らすもの
      ・・・・・
   刺すもの
      ・・・・・
   奪うもの
   運ぶもの
   飛ばすもの
   届けるもの
     ・・・・・
   すきま風
   こがらし
   山おろし
   海風
   夜風
   通り風
   そよ風
     ・・・・・
   つむじ風
      ・・・・・
   からっ風
      ・・・・・
   〈パラム〉
   〈フォン〉
   〈かぜ〉

      樹海の蜘蛛 (抄)    佐相憲一

   風に飛び
   わたる命の内側から紡がれていく物語

   宇宙摂理のぶらんこに
   泰然と時を待って生きる八本脚だ
       ・・・・・
   朝に自らの糸を食して回収し
   夕方デザインを更新する 
   樹海の片隅に糸の帆を張って
       ・・・・・
   通り過ごしてきた大事なものが
   目の前に揺れている

   樹海の音階に耳を澄ます
        ・・・・・
   生の樹海を泳ぐ寄る辺ないものに
   森という生き方を思い出させてくれる
        ・・・・・
---------------------------------------------------------------------------
所詮「詩」とは「比喩」「言葉の置き換え」以外の何物でもない。
これらの詩篇は、言葉の選択も的確で、人の心を捉えるのだ。
この本の「あとがき」に
<東京の西外れの森で困難な人生行路を共に歩んでくれる愛する妻には、あらためて感謝です。>
と書かれている。
このような表白は極めて珍しいことで、私としても大きな感動を覚えたことをお伝えしたい。 
詩人としてエッセンスを極めた作品を読ませていただき感謝する。
有難うございました。不完全ながら鑑賞の一端とする。     (完)



 
生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら/水と空とに映えながら 愛は死の/死は愛の旗をうち振っている・・・大岡信
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     痛み・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

   秋 ぼくは時の階段をおりてゆく

   永遠の岸に腰をおろして

   空をわたる人の微(かす)かな足音にききいるために

   そこを一つの肉体が 時間が通る



   風がしげみを吹きわけるように

   永遠がぼくらのあいだを横切っている

   ぼくらが時おり不安にみちて

   恋人の眼をのぞきこむのはそのためなのだ



   遠い地平を魚がゆきかう暗い夜明け

   夢がふいに過去を抜けでて

   ひらきかけた唇のうえにやってくる

   誰にも知られずそこで乾いて死ぬために



   生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら

   水と空とに映えながら 愛は死の

   死は愛の旗をうち振っている

   ぼくらの中でそれにひそかに応えるものに応えながら

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この詩は学習研究社『大岡信・うたの歳時記』──秋のうた(1985年9月刊) に載るもので、書き下ろしの詩だという。
現代詩読者向けではなく、一般読者向けの平易な、分り易い詩である。
冒頭の「秋 ぼくは時の階段をおりてゆく」という出だしから、4連冒頭の「生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら」という個所など秀逸である。
題を「痛み」としたところに作者の内面を知ることが出来よう。


玉井清弘歌集『谿泉』・・・・木村草弥
玉井_NEW

──新・読書ノート──

      玉井清弘歌集『谿泉』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・角川書店2018/09/14刊・・・・・・・

この本が恵贈されてきた。
玉井さんの第九歌集である。
玉井氏は私の第一歌集『茶の四季』上梓のときに、角川書店「短歌」誌上に紹介の記事を書いていただいた恩のある方である。
その後も歌集ご出版の都度、このブログで鑑賞の記事を載せてきた。
玉井清弘というのは、こういう人である。 この本に載る略歴を引いておく。

1940年 愛媛県生
1976年 第一歌集『久露』
1986年 第二歌集『風筝』 芸術選奨文部大臣新人賞受賞
1993年 第三歌集『麴塵』 
      『鑑賞・現代短歌 八 上田三四二』
1995年 『現代短歌文庫 玉井清弘歌集』 
1998年 第四歌集『清漣』 日本歌人クラブ賞受賞
2001年 第五歌集『六白』 山本健吉賞、短歌四季大賞受賞 
2004年 第六歌集『谷風』
2007年 『時計回りの遊行 歌人のゆく四国遍路』
      第七歌集『天籟』
2013年 第八歌集『屋嶋』 詩歌文学館賞、迢空賞受賞
     他に香川県文化功労者、文化庁地域文化功労章、四国新聞文化賞など

ここに見られるように、まさに現代短歌界の重鎮であられるのである。
この題名の「谿泉」は谷間から湧き出る水のこと、と書かれている。
玉井さんについては『時計回りの遊行』など、いくつかの本について紹介してリンクになっているので、お読みいただきたい。

以下、この本について書き進める。
この本の「帯」のキャプションが読み取れると思うが、玉井さんは「遍路」をよくなさる。
三回の「歩き遍路」を結願され、今は四回目の遍路にかかられた様子である。

<四国は海に取り巻かれた繭のような島、遍路道は基本的に海沿いに円環をなしている。
 島自体が曼荼羅の世界、空海の歩いたとされる道をたどる行道である。
 歩きながら自己の成育歴、道中でのお接待への感謝などが脳裏をめぐっていた。
 四国の風土へもおのずと思いはひろがっていった。>

と「あとがき」に書かれている。
玉井さんは新聞の「短歌」欄の選者もなさっているので週単位で忙しいと思われるので、その合間を縫っての、短い「歩き」を刻んでおられるのであろう。

この本は日常について坦々と歌が詠まれてゆく。
今までの本では夫人や家族のことは全くといっていいほど登場しなかったが、この本では少し姿を見せる。

*半夏生忘れていたる昼どきにうどん屋に行こうと妻の声あり
*かぶとむし雄のみ残る飼育箱妻は朝の餌を与えおり
*ふだんより二時間近く早起きし敬老会の世話にゆく妻

微笑ましい夫婦の日常のやりとりである。
それだけ玉井さんも齢をとられたということであろうか。
二首目の歌は、恐らく、離れ住む孫が訪ねてきて置いていった飼育箱かも知れない。
三首目の歌からも、世間付き合いに携わる奥様の姿が彷彿として来る。
私などは妻のことなど多く詠んできたので、敢えて書き抜いておく。
ついでに孫と思われる人物などを詠んだ歌を引く。

*寝がえりの出来始めたる幼子にこの世きらきら万華鏡なす
*長男のきたりて厨を覗きたり飯は食べなよと言いて帰りぬ
*ここまでをよく生きたるとおどろくに誕生日祝う童女の電話
*「おいくつですか」「七十六、わかるかな」童女の声のぷつりとぎれぬ
*じいじいを祝うとちぎり絵なしくれき真っ白の髪に眼鏡を添えて

こういう歌群も今までの歌集にはみられなかったものである。
恐らく、批評では出て来ないと思うので敢えて書いておく。微笑ましい日常の景である。

以下、私が目をとめた歌を列挙して終わりたい。

*散華とう若き死ありきうろんなる世にこともなくわれは生き延ぶ
*迷いたる四国の辺地 変化とはならざりしわれ手足撫でみつ
*閉塞感濃くよどみたる時代へとぽたっとひとつ椿の落花
*四国路を時計回りにめぐりゆく螺旋をなして芯を射るべし
*若きらの働いている午後三時ごめんねと言いてわれは晩酌
*椀ひとつ欲しと仰げる泰山木空に向かって開きていたり
*天狗久の木偶並びたり夜半起きてとうどうたらり翁は舞わん
*白雲木咲けるを見よと呼びくれき その人逝きて季節また来ぬ
*しんまめと呼べるみどりの初夏の味そらまめ肴に地の酒を酌む
*香月泰男の墓石にふれしうつしみは「青の太陽」の空につつまる
*芋大根蓮根筍焚き合わす煮物のよけれ湯気に立てる香
*十九丁打ちもどりとう看板にやっぱりこの道行くと決めたり
*おんかかかび唱えてめくれと言われたり地蔵菩薩の前掛けめくる
*秋田より一白水成届きたり辛口の酒陸奥かおる
*白味噌の餡餅雑煮よろこびて新しき年のはじまり祝う
   四度目の歩き遍路を観音寺から始める。結願にいたるか・・・・。
*ひとり行く菜の花道に思いいるあの人この人亡き人ばかり
*悟故十方空われには見えずおそろしき時空にひらく白梅の花
*うつつ世に桜のあれば樹にふれて人のかなしみ語らんとする
*黒揚羽ゆらゆらと来て滝の前胸突き八丁苦しみて越ゆ
*銀やんまむくろのすがたかたちよしつまみあげたる色さらによし
*みごもれることと字源に解かれいる「包」はたっぷり「勹」をいただく
*朝一の一番釜のうどんへと並ぶ讃岐の男ら寡黙

玉井さんは酒好きである。
この本の中にも、いくつか愛惜をこめて詠われている。 そのいくつかを引いてみた。
ご恵贈に感謝して不十分ながら鑑賞を終わる。 有難うございました。   (完)


朱しるく落ちゆく夕日ゆゑもなく「叱られて・・・」の唄くちずさみゐつ・・・・木村草弥
taiyou084夕日本命

    朱(あけ)しるく落ちゆく夕日ゆゑもなく
         「叱られて・・・」の唄くちずさみゐつ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
歌の意味は、夕日を眺めていて「ゆゑ」=理由もなく「叱られて」の唄が浮かんできたというものである。
そんな経験は誰にでもあるのではないか。

kokoronouta-sikararetehirota2弘田龍太郎

「叱られて」の唄は、清水かつら作詞、弘田龍太郎作曲になるものである。写真②は弘田。
この唄は大正9年(1920年)に、清水かつらの歌詞とともに雑誌『少女号』に発表された。
現代の子供たちには、はるか昔の大正時代の村はずれの寂しさなど想像も出来ないだろう。
夕暮れともなれば灯ひとつない小径は薄気味悪いくらいに、ひっそりと静まりかえっている。ひとり家路を急ぐ自分の足音だけが、なぜかやたらに大きく聞こえる。

弘田龍太郎の曲は、詩のもつ情感をそのまま表現することに成功した。
弘田は、明治25年(1892年)高知県安芸市生まれ。
写真③は郷里に建つ「叱られて」の歌碑。

shika叱られて歌碑

ここで、この唄の歌詞を書き抜いておく。

katura2清水かつら
 ↑ 清水かつら

 「叱られて」─────清水かつら

   ①叱られて
    叱られて
    あの子は町まで
    おつかいに
    この子は坊やを
    ねんねしな
    夕べさみしい
    村はずれ
    コンときつねが
    なきゃせぬか

   ②叱られて
    叱られて
    口には出さねど
    目になみだ
    二人のお里は
    あの山を
    越えてあなたの
    花の村
    ほんに花見は
    いつのこと

この歌詞から判ることは、この子たちは、年端もゆかないのに、「山のあなたの、花の村の里」から奉公に出されて来ている少女だということである。子守りや雑用に少女たちが携わっていたのである。

清水かつら、のことは、先に彼の写真だけ出しておいたが、ネット上には次のように載っている。
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 清水かつら
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

清水かつら(しみず かつら、1898年(明治31年)7月1日~ 1951年(昭和26年)7月4日)は男性詩人。
本名は、清水桂。特に童謡詩人として知られる。

生涯
本名は清水桂。東京深川生まれ。4歳で生母と父は離縁し、12歳で継母を迎え、本郷区本郷元町に住み、父と継母に育てられた。

京華商業学校(現在の京華商業高等学校)予科修了後、青年会館英語学校に進学し、1916年(大正5年)合資会社中西屋書店(書籍・文具店、東京市神田区表神田2番、後に丸善が吸収)出版部へ入社した。 中西屋書店は少年・少女向けの雑誌を刊行するため「小学新報社」を創設し、かつらは、少女雑誌「少女号」(1916年(大正5年)創刊)や「幼女号」「小学画報」を編集した。編集者には、鹿島鳴秋(「浜千鳥」「金魚のひるね」作詞者)や山手樹一郎がいた。

編集の傍ら童謡の作詞を始め、関東大震災で継母の実家に近い埼玉県白子村・新倉村(現・和光市)に移り、ここで生涯を送った。

1927年(昭和2年)小学新報社を退社。

1933年(昭和8年)-1943年(昭和18年)の間、花岡学院の講師となる。

1951年(昭和26年)7月4日に、「酒が飲めなくなったら終りだ」とつぶやいて、享年53で永眠。同年7月11日に、文京区本駒込の吉祥寺で音楽葬が行われ、弘田龍太郎や中山晋平の弔辞の後、ビクター児童合唱団と音羽ゆりかご会が「靴が鳴る」を斉唱、最後に四家文子が「叱られて」を歌った。

墓所は、文京区本駒込の吉祥寺。

主な作品
戦前
靴が鳴る(1919年(大正8年)9月11日作曲、「少女号」同年11月号に発表、弘田龍太郎作曲)
叱られて(「少女号」1920年(大正9年)4月号に発表、弘田龍太郎作曲)
あした(「少女号」1920年(大正9年)6月号に発表、弘田龍太郎作曲)
雀の学校(1921年(大正10年)12月7日作曲、「少女号」1922年(大正11年)2月号に発表、弘田龍太郎作曲)

戦後
みどりのそよ風(1946年(昭和21年)、草川信作曲) - 新時代を象徴するような明るい曲で、現在も人気が高い。

作品集
『清水かつら童謡集』 上笙一郎、別府昭雄 編、海沼実 解説(ネット武蔵野、2008年3月) ISBN 4944237464
存命中も含めて、かつら唯一の作品集。
歌碑など [編集]
東武東上線和光市駅前に、「みどりのそよ風」、「靴が鳴る」、「叱られて」の歌詞が刻まれた歌碑がある。

東武東上線成増駅の南口に「うたの時計塔」(主な作品に掲げている5作品に、「浜千鳥」を加えた楽曲が流れる。1976年(昭和51年)8月8日設置。)、北口に「みどりのそよ風」碑、アクトホール外壁に「雀の学校」の楽譜と歌詞を刻んだプレートがある。
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蛇足的に書いておくと、私の子供の頃は、私の育った農村の村の中の道を、明け方にキツネが「ギァー」と鳴いて通ったりしたものである。
この詩で「コンときつねが」と書いてあるし、キツネが「コン」と鳴くというのは、よく見る表現だが、キツネは「コン」とは鳴かない。
キツネは犬科の動物なので、どちらかというと犬に近い鳴声といえよう。ただし「ワンワン」とは鳴かない。
私が子供の頃に戸外で鳴く声を聞いたのは、先に書いたが「ギャー」というものであった。
農村でも「子守り」を雇えるのは地主などの富裕層だけであった。多くの農民は地主さんの土地を耕す「小作農」であった。
戦後、マッカーサーの指令で「農地解放」の政策が執られたので、その後、もう60年の年月が経つから、地主と小作人との関係などについても、
日本人の大半は、何らの知識も体験もない始末である。
第一、都市生活者が多くて、彼らは農村については、何も知らないのが実情であるから、何をや言わん、である。
こんなことを書くつもりはなかったのだが、「この子」「あの子」は、「哀しい」子たちであり、ほだされて、つい筆がすべってしまった。
この辺で終わりにしよう。





クールベのゑがくヴァギナの題名は「源」といふいみじくも言ふ・・・・木村草弥
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    クールベのゑがくヴァギナの題名は
      「源」(スールス)といふいみじくも言ふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この歌に詠んだクールベの絵は、もう二十数年も前になるが、ツアーの自由時間の一日を亡妻と「オルセー美術館」に遊んだ時に「クールベ」の室で見たものである。
この絵を、ここに出すのは躊躇されるので、→ 「世界の起源」(仏: L’Origine du monde)を呼び出して見てください。
この絵のモデルなど詳しく書いてある。

サイズは46×55センチの大きさである。この作品は館の図録(当時の定価で50フランだった)にも出ていないので、今でも常設展示されているかどうか判らない。
この絵は仰臥して股をやや開いて横たわる裸婦を足先の方から描いたもので、画面の中央に裸婦の「ヴァギナ」が大写しになっている大胆な構図である。性器が、もろに描かれているのである。
クールベは、ご存じのように「リアリズム」絵画の巨匠として、フランス画壇にリアリズム絵画の潮流を巻き起こし、一世を風靡して美術史に一つのエポックを画した人である。
前衛芸術運動華やかなりし頃には、ボロクソに言われたこともあるが、美術史の上での運動として欠かすことの出来ない存在である。
絵に戻ると、その絵の題名が「源」source スールス、だと私は記憶していて歌集にも、そのように書いたのだが、上のリンクに出したように原題は「世界の起源」(仏: L’Origine du monde)というのが正式らしいので、ここに訂正しておく。
もっとも「絵画の題名」というのは後年になって付けられることが多いので、私の記憶のように、私が見たときは「source」となっていたかも知れない。
「source」も「Origine」も同じような意味である。
それにしても「世界の起源」という題名には違和感がある。仰々しすぎるのではないか。

この歌については米満英男氏が、先に書いたリンクの批評欄で「木村草弥歌集『嬬恋』──感応」という文章で

・・・・・読み下した瞬間に「なるほど」とうなずく外はない愉快な歌である。下句の<いふ><言ふ>の駄目押しが決まっている。・・・・・

と批評していただいた。 その米満氏も先年春に亡くなられた。 ご冥福を祈りたい。

 ↓ セルビアのパフォーマンスアーティスト、Tanja Ostojićは、2005年、この絵をパロディにして"EUパンティ"というポスターを制作した。
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↑ 写真③はオルセー美術館の内部の一部

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 ↑ 写真④は、その外観の一部で入り口の辺りを望むもの

よく知られるように、ここはヴィクトール・ラルーが20世紀はじめに設計した鉄道の終着駅・オルセー駅舎であり、鉄道廃止後、放置されていたのを1986年に美術館として改装したもので、写真②に見るように駅の大きなドームの構造を利用したユニークな造りになっている。
ドームの突き当たりにかかる大時計は、当時の駅にあった金ピカの豪華な大時計そのままのものである。

この美術館には多くの入場者があり、1988年には216万人を記録したという。パリの新名所として人気が高い。ここには1848年から1914年までの絵画、彫刻が集められ、それまでルーブルに展示してあったものも、ここに移された。1914年以降の作品はポンピドゥセンターに展示するという、年代別に館を分けるという、いかにもフランス人らしい合理主義の棲み分けがなされている。
このオルセーに展示される年代というと、日本人に人気の高い「印象派」の作品は、すべて此処にある。
即ち、ミレー、マネ、ルノワール、ドガ、ロートレック、ロダン、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどなどである。
この場所はセーヌ川の川岸で、オルセー河岸(Quai d'Orsay ケ・ドルセーという)という船着場のあったところ。
ここはセーヌ川を挟んで、ちょうどチュイルリー公園とルーブル美術館の向い側にあたる。
はじめに掲出した写真がセーヌ川越しにオルセーを見たもの。

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P9240985オルセー・レストラン

この館の玄関ホールの上の中二階には駅舎であった当時の極彩色で金ピカの内装を生かした「レストラン・オルセー」があり、食事をしながら下の回廊の様子を見下ろすことが出来る。
天井画も、ステキ ! 写真⑤⑥が、その内部である。
私たち夫婦も、ここで昼食を摂ったのは、言うまでもない。ぜひトライしてみられよ。
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お断り
先年、オルセーは大幅に改装された。
照明なんかも大変よくなっているらしい。
レストランも変わっているかも知れない。 念のために書いておく。


おはじきもビー玉遊びも知らぬ児の指がすばやくスマホを撫でる・・・茨城県・杉山由枝
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      おはじきもビー玉遊びも知らぬ児の
           指がすばやくスマホを撫でる・・・・・・・・・・・茨城県・杉山由枝


この歌は角川書店月刊誌「短歌」平成二十五年十月号に題詠「硝子」志垣澄幸氏の選で載るものである。
今どきの話題の「スマホ」をさりげなく取り込んだ佳作である。
今どきの子供は殆どがスマホを持っており、大人よりも、すばやく見事に操るらしい。私の身近には子供が居ないので、わからないが。

以下、題詠「硝子」の作品をいくつか引いておく。

  梅雨の朝結露に曇る硝子戸に子の落書きか「へのへのもへの」・・・・・・・鹿児島県・小村英弘

  ひんやりと冷たきガラスの台の上寝かされて撮るわれの背の骨・・・・・・・神奈川県・若月圭子

  パソコンの待ち受け画面の青空は三百六十五日真夏日・・・・・・・滋賀県・松山武

  常備薬持つ身となりて早二年眺めるだけの冷酒用酒器・・・・・・・千葉県・猪狩郁子

  窓硝子に顔を押しつけ母われを待つ幼子の鼻ぺちゃの顔・・・・・・・東京都・中村京子

  一枚の硝子へだててアカリウムにヒトという生き物見ている魚・・・・・・・青森県・中里茉莉子

  ささいなる諍ひのはて毀ちたる対のグラスの欠片をひろふ・・・・・・・青森県・平井軍治

  おそろいのブランディーグラスの一つ欠け無傷のグラスも共に廃棄す・・・・・・・宮城県・和田瑞之

  大蜘蛛がフロントガラスにはりついて十キロ先まで共に旅せり・・・・・・・熊本県・吉田尚子

  ガラス瓶梅雨の晴れ間の陽に晒し手順通りに梅干し漬けぬ・・・・・・・宮崎県・小泉千鶴子

  二重ガラス「しかも真空」とて誇るペンションなれや聴けぬ夜蛙・・・・・・・東京都・板坂寿一

  映画なる一コマ今に忘れざり硝子ごしなるリズの接吻・・・・・・・新潟県・神田弘子




東義久「B級京都論・南山城から視た異国京都」・・・・木村草弥
東_NEW

──新・読書ノート──

     東義久「B級京都論・南山城から視た異国京都」・・・・・・・・・・木村草弥
                         ・・・・・澪標2018/07/01刊・・・・・・・

東義久は1990年に『小説山城国一揆』(文理閣刊)を発表して当地では、かなり有名な人である。
この本は、「B級京都論」と謳うように、くだけたエッセイである。
この中で

<ぼくは小説を書いている。作家ですね、と訊ねられることも多くなった。
 そんなときには、いいえ小説家です、と応えるようにしている。
 この答え方は結構、気に入っている。
 なぜならぼくは大説を書いてはおらず小説、つまり小なる説を書いているに過ぎない。>

と書いておられる。
この辺のところが東氏のユニークなところである。

(京のことば)という項目で「南山城のことば」という文章がある。

<南山城のことばは京都と奈良と滋賀、大阪のことばのミックスである。
 ミックスといってもどちらかといえば、強く激しい言葉なのだ。
 誤解を覚悟でいえば本当に汚いのである。
それは奈良弁の悪いところ、大阪の河内弁、滋賀弁のそれぞれの悪いところを集約して独特の山城言葉をつくっている。>

さすがに良く観察されている。上の文で「アンダーライン」を引いたのは私である。
私は以前から「南山城の言葉は汚い」と言ってきた。
他所の人との会話には、標準語的な話し方をするが、土着の人同士が忌憚なく話す場合は、まさに、これである。
しかし、今どきの若い人は、そういうのを嫌うし、強いて、そんな話し方を意識して「避ける」ので、こういう話し方は、だんだん廃れてゆく。

見出しだけを書き抜くと、こんな具合である。
<京都という異国への架け橋><京の都の範囲は><歴史は応仁の乱以降を学んでおけばよい><山城国一揆><お茶と京都><南山城の現代文学と人><京都南山城余話><京のみやこの現代B級芸能>
などである。
版元の「澪標」の松村信人氏の話によると、ある集会があり、そこでは、この本が飛ぶように売れたそうである。

益々の、ご健筆をお祈りしたい。簡単ながら、ご紹介まで。

<地方の三文小説家「東義久」の独白> というブログがあることが分かったので、アクセスしてみてください。




古唐津で茶を飲むときにうら悲し妻が横向き涙を拭きぬ・・・・木村草弥
03-4絵唐津筒茶碗

    古唐津で茶を飲むときにうら悲し
       妻が横向き涙を拭きぬ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

写真①は「絵唐津橋農夫文筒茶碗」というもので、出光美術館蔵の桃山時代の逸品。
私の歌に詠んでいる古唐津は、もちろん無名の並物であることは言うまでもない。

先に私の歌の説明を済ませておく。
「うら悲し妻が横向き涙を拭きぬ」というのは、妻に病気が見つかって、自分の病状について妻がナイーブになっていた時期の作品である。
私としては、そういう妻を「いとしい」と思い、このような歌を残せたことを嬉しく思うものである。

さて、美術史からみた古唐津のことである。
唐津焼は肥前一帯で広範に焼かれ、生産時期も長期にわたっているため、多くの種類がある。
これを区別するため、美術史上では、主として釉薬や装飾技法の違いから、おおよそ次のように分類する。
奥高麗、斑唐津、彫唐津、無地唐津、絵唐津、青唐津、黄唐津、黒唐津、朝鮮唐津、三島唐津、瀬戸唐津、献上唐津、美濃風織部唐津など。

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↑ 写真②は絵唐津と言えば松文だが、「絵唐津松文大皿」桃山時代、出光美術館蔵。

↓ 写真③は江戸後期の松江の名君で大茶人の松平不昧公が所持していた「奥高麗茶碗」銘<秋夜>、桃山時代、出光美術館蔵。
602113-7_3奥高麗茶碗

唐津焼に限らず、伊万里、有田、薩摩などの陶器産地は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮半島から多くの陶工を日本に連れてきて、陶土の探索や製陶に従事させたものから発展してきたと言える。
当時、朝鮮半島は製陶の先進地だったのである。

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↑ 沈寿官作の薩摩焼の壺

薩摩焼の「沈寿官」家などは日本名を名乗らされてきたのを、最近になって先祖の朝鮮名を名乗るようになったものである。
これらの朝鮮半島ゆかりの陶工たちは、謂れのない民族差別に苦しんできたと思われるが、そんな中にあって、その唯一の救いは、我々は製陶の先進地から来たのだというプライドだったと思われる。
その生産品は献上品として各地の大名から喜ばれ、その故に或る程度の保護を受けられたのである。

このページは「唐津焼」について書いているので、つけたしになるが「沈寿官」家の名品を一点、写真⑤に紹介しておいた。


落雷の近しと鯵を叩きけり・・・・鈴木真砂女
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      落雷の近しと鯵を叩きけり・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

 夏は空気がよく温まるので、上昇気流が発生しやすい。
 そのため、地上付近の水蒸気が上空に持ち上げられて冷やされ、氷の粒をたっぷり含んだ積乱雲(入道雲)となる。
 積乱雲の中の氷の粒は、互いにこすれ合ったり、ぶつかったりして、静電気を大量に発生させる。
 その静電気が、別の雲にたまった静電気、あるいは、大地にたまった静電気などと結びつく際に発生する光と音が雷である。
 このうち、雲の中の静電気と大地の静電気が結びつくタイプの雷は落雷と呼ばれ、家を焼いたり、人の命を奪うこともある。
 ゆえに、雷は、「地震・雷・火事・親父」とあるように、怖いものの象徴とされてきた。

 その一方で、雷は、虎縞の模様のふんどし履いて、背中の太鼓をゴロゴロ鳴らしながら人々のへそを奪っていく、どこかユーモラスな神としても描かれてきた。

 江戸時代の俳諧において雷は、神鳴(かみなり)、あるいは鳴神(なるかみ)の形で用いられることが多かったようである。

 これに対し、現代俳句では、雷を音読みで「らい」と読ませる句が極めて多くなっている。
 雷鳴の激しさと雷光の鋭さを表現するのに、音読みが適しているということもあるだろう。

近い場所でなる激しい雷を迅雷、遠くで鳴る雷を遠雷、ドシャーンとは鳴らず、ゴロゴロと鳴る程度の雷を軽雷と表現したりする。

 また、現代俳句においても、はたた神と言う雷の異称はよく用いられる。
 小さな雷と言うより、激しい雷という印象である。

 なお、日雷(ひがみなり)は晴天時の雷である。

 雷とよく似た発光現象の稲妻は秋の季語に分類される。

掲出の真砂女の句だが、割烹料理店をやっていた彼女ならではの佳い句である。
この句の「落雷」と「鯵を叩く」には、直接の関連はない。俳句でいう「二物衝撃」のお手本のような作品である。
落雷も鯵も、どちらも「夏」の季語である。
鯵を叩いて、なめろうでも作るのであろうか。

今は、もう九月だから本来は季節外れということになるが、私は俳人ではないので大目に見てもらいたい。
この句は、或る新聞のコラム欄に引用されていて目にして、このブログに紹介したい気になった。
今日は、類句などは引かずに、この辺で失礼する。




今日も小雨が降りつづけます 人はこれを秋霖と言っています・・・木村草弥
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      今日も小雨が降りつづけます 
             人はこれを秋霖と言っています・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載るものである。
今しも秋霖─秋雨前線、秋雨─が降りつづいて嫌な天気が続いている。
所によっては集中豪雨になって被害の出ているところもある。

秋雨(あきさめ)とは、日本において8月後半頃から10月頃にかけて降る長雨のこと。秋の長雨、秋霖(しゅうりん)、すすき梅雨ともいう。

夏から秋に季節が移り変わる際、真夏の間本州一帯に猛暑をもたらした太平洋高気圧が南へ退き、大陸の冷たい高気圧が日本海や北日本方面に張り出す。
この性質の違う2つの空気がぶつかる所は大気の状態が不安定になり、秋雨前線が発生する。
梅雨前線と同じく、前線を挟んで夏の空気と秋の空気とが押し合いをしているため、前線は日本上空を南下したり北上したりする、こうして長雨が続く。

オホーツク海気団と小笠原気団のせめぎ合う中で北上する梅雨前線は、平年で8月前半頃には中国の華北地方~朝鮮半島北部~北海道付近にまで達し、勢力が弱まって次第に消滅する。
そして日本付近は小笠原気団からなる太平洋高気圧、中国大陸は揚子江気団からなる停滞性の高気圧に覆われ、東アジアのほぼ全域で本格的な夏が続く。
一方8月前半頃には、偏西風の強い部分(ジェット気流)が中国北部付近からオホーツク海付近にかけての地域に北上し、流れも弱くなる。
しかし、8月後半頃になると、次第に偏西風が南下を始め、秋の空気もそれに伴って南下してくるようになる。
8月後半頃になると、太平洋高気圧が日本列島から離れたり近づいたりを繰り返すようになる。
また、夏の間周りよりも相対的に気圧が低かった大陸の気圧が上がり始め、移動性高気圧やシベリア高気圧が勢いを増してくる。
太平洋高気圧が離れたときには、そこに偏西風が入り込んで移動性高気圧と低気圧が交互にやってきて、晴れと雨が繰り返すような天気が訪れるようになる。
このような天気が次第に増え始め、晴れ続きの夏の天気の間に雨がやってくるようになる。
これが秋雨の始まりである。8月後半頃から9月頃にかけて、北日本から東日本・西日本の順に寒冷前線が南下・東進するようになる。
このような天気を経て、次第に低気圧とともに前線が発生し、停滞するようになる。

それにしても、今年の気象は異常だった。世界的に「偏西風」が蛇行して、冬には本来あたたかいところに大雪が降ったり、春以後には集中豪雨に見舞われたりしている。

今日は、そんなことに因んで、この歌を掲出し「秋霖」のことについて少し書いてみた。
掲出した歌は「手紙」という一連10首からなっている。
全部引いてみよう。

        手紙・・・・・・・・・・・・木村草弥

  今日も小雨が降りつづけます 人はこれを秋霖と言っています

  どこか遠くの方に台風もいるそうですが こおろぎの合奏です

  ブロック塀にまいまいつぶろが抽象画を描きづつけています
  
  みんな生きていることを証しするのに夢中です 小雨にもめげずに

  生きることの試み 生きることの絶望 その絶望に狎(な)れぬこと

  生きると言えば私のように終点に近づくともう惰性のようなものです

  時には自分が人生の一番まずい道を選んだのかと考えます

  どのみち私の人生はこんなものだったのかと思いますが もがくこともありません

  遠く過ぎ去ってみれば結局は他人とたいした違いはないのです

  こんな思想が黴(かび)のように生えるのはしとしとと小雨が降りつづくからでした


この歌集を出したのは1999年のことだから、もう十九年も前のことになる。
年齢的に言うと、私は70歳になったばかりであるが、「終点」意識が濃厚に漂っているのに驚く。
「手紙」という題になっているが、今なら「秋霖」とするだろう、と思ったりする。
手紙文の形になっているが、それは別として、こういう文体を文学概念的には「アフォリズム」という。
この歌集には、こういう表現体が多いが、この頃、私は「アフォリズム」に関心があったことを示している。
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秋霖については  Wikipedia─秋雨 に詳しい。


村島典子の歌「栴檀」30首・・・・・木村草弥
晶_NEW

──村島典子の歌──(35)

     村島典子の歌「栴檀」30首・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                    ・・・・「晶」103号/2018.8所載・・・・・・

       栴檀      村島典子

            こら空を剥がすな空の裏も空  陶四郎 (種村季弘)
   険難な旅とならむよ波をどりマリンライナー飛魚となる
   いまさらに荷物の重さ感じたり手放せずゐるこの世の荷物
   この海はいづこへわれを誘へる海上の道干潟のむかう
   友の眸とわれのまなこの見るものは異なるならむ戦禍の島の
   安心立命旅にしおもふ旅こそはわたしをわたしと知らしめにけり
   雲きれて夕陽すさまじトカシクの海面にひかりの道を敷きのぶ
   日本語もまじりてをりぬ沖縄のアジアンホテルの朝のてーぶる
   市場にはアヲブダイをりアバサーをり豚足のあり海ぶだうあり
   軍用機の轟音の下われらが機出発すこし遅るるもやう
   雲に入り雲出づるとき乱気流うけてふたたび船上のごと
   巻貝はヤドカリの宿宅配に届けられたる旅の荷のなか
   荷をほどき卓上に置きし貝ひとつ夜の明けたれば行く方しれず
   巻貝の家を背負ひつ食卓を降りてヤドカリ裸身になりつ
   はるかなる旅路なりけむ荷にひそみヤドカリはわが近江に来り
   さらし首の木といふ名前もらひたりし栴檀の木は花散り終へし
   生木裂くとふことばの力もて雁皮の小枝手折りがたしも
   黄緑の春日雨ふる山すそに神と鹿あり遊びのごとく
   待合せの場所は行基の噴水の喜捨乞ふ僧のまへあたりにて
   汗だくに帰り来れば正午すぎろくろく首につれあひ待てり
   急ぎても急ぎでも夫を待たせたる五十年なり老いたるわれは
   きのふよりわが窓にきて鳴くカラス同じカラスぞなに語るべし
   もう誰も帰り来らずかの岸辺とほいとほいとカラスが言へり
   雑木といへど一年をかけて育ちしを数分の間に伐られてゆけり
   栴檀は幼木なれど朝な夕なみどり濃くせり春から初夏を
   鉄塔の下に生まれて伐られゆく運命にありきさはさりながら
   うら庭をトイレ場となしゐし黒猫の来ずなりにけりひと月がほど
   朝戸での夫ならなくにいそいそと三上のお山めざさむころか
   地震はしり車左右に跳ねしとぞ七時五十八分国道の上に
   地震の日の空に出でたり三日月をカーテンすこし開けて眺めつ
   三日月みなづきの空にかかれるを偶然としてけふを閉ぢたり
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いつもながら精細な「観察」の効いた村島さんの一連である。
出だしが「険難な旅」とあったので、どうされたかと案じるが、後には何も書かれていない。
局外者は立ち入らないことにしよう。 
この一連の題になっている「栴檀」せんだんの木というのは私は知らない。
諺にもなっている木だが、どこにでもある、ありふれた木ではないからである。
村島さんは植物にも詳しく、観察も、写生も精細である。その心根を尊びたい。

同人の志野暁子さんが新歌集『つき みつる』を上梓され、私にも恵贈され、鑑賞文を送ったところである。
今号にも、その介護の続きの歌が載っている。
志野さんは折口信夫の弟子・岡野弘彦を師としている。今号にも
  <「最后の弟子が語る折口」読みをへてつくづく思ふ「師弟は三世」> 
という歌が載っている。鑑賞文の続きとして敢えて書いておく。

有難うございました。 では、また。


 
白桃の箱の隙間の先週の山梨新聞広げてみたり・・・・東京都・飯坂友紀子
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 白桃の箱の隙間の先週の
           山梨新聞広げてみたり・・・・・・・・・・東京都・飯坂友紀子


この歌は、角川書店月刊誌「短歌」平成二十五年十二月号の題詠「隙間」に小畑庸子さんの選で載るものである。
箱詰めの「隙間」の詰め物として入っている「山梨新聞」を広げて読んでいるというもの。
何となく情景が目に浮かぶようではないか。 さりげないが、佳い歌である。

いま検索してみたが「山梨新聞」というのは存在しないようである。「山梨日日新聞」「山梨新報社」というのはあるが、ほかは全国紙の山梨版である。
だから、この歌に詠まれるのは固有名詞ではなく、「山梨の新聞」ということであろう。

この題詠で載る他の歌を引いておく。

  ルルルルル夢の隙間を潜り抜け私に還るおはよう私・・・・・・・三重県・伊藤里奈

  ガラス戸とアミ戸のはざまで思案する蛾はモンシロの仲間らしいよ・・・・・・・兵庫県・北野中

  正直に生きるかときにもどかしいヘアーウィッグと頭皮の隙間・・・・・・・神奈川県・安由衣子

  本を抜く棚の隙間に文士見え昭和の幻影鎌倉古書店・・・・・・・石川県・三宅立美

  手で顔を覆ったくせにすぐ指を開いてつくる隙間がいいね・・・・・・・岡山県・小橋辰矢

  障子戸の格子の隙間を動かずにわたしに手を擦る冬蠅がいる・・・・・・・北海道・葛西全

  君はずるいいつだって風をしたがえて私のすきまにするりと入る・・・・・・・大阪府・蒼井杏

  コンビニの冷蔵棚のペットボトル富士山の水隙間なく並ぶ・・・・・・・愛知県・湯朝俊道

  午後五時の微妙に混んだ地下鉄で見つけた隙間〇・八人分・・・・・・・神奈川県・浜本准

  歴史書の隙間に夏の風はさみ三二一頁めくる・・・・・・・神奈川県・永沢優岸

  算盤の余分な珠を弾いてしまう狭すぎるんだよ珠の隙間が・・・・・・・徳島県・戸山二三男


新じやがをほかほかと食ひ今日を謝す・・・・大野林火
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  新じやがをほかほかと食ひ今日を謝す・・・・・・・・・・・・・・・・・・大野林火

芋が、馬につける鈴に似ているので、馬鈴薯(ばれいしょ)の名があるという。オランダの船がジャワから持ってきたので、ジャガタラ芋と呼ばれていた。
早春に種芋を植えると、初夏から地中にたくさんの塊茎を作る。これが芋である。
貯蔵が効くので保存され、食用、澱粉原料、アルコール製造などに用いられる。
出来立ての「新」ジャガイモは特にホカホカしておいしいものである。ふかしたての芋にバターをつけて食べるのが美味の極みである。

FI2618484_2E.jpg
写真②は、畑に植えた種芋から新芽が出て、少し大きくなった頃の写真。
ジャガイモの大産地は、今や北海道であり、種芋の植え付けから、秋の新ジャガイモの収穫まで、すべて機械でやる。

写真③はジャガイモ畑の様子である。
imo4.7.16馬鈴薯畑

ジャガイモも日本にはジャワから伝来したというが、もともとはアメリカ大陸の原産であり、アンデスの何千メートルという高地でも主食として栽培されている。
コロンブスたちとともにヨーロッパへ齎され、冷害に苦しんでいた北ヨーロッパでは救荒作物として貴重だったことは、よく知られていることである。
日本では「男爵」「メークイン」などが主として栽培されている。
ジャガイモ栽培には種芋が必要だが、品種ものの種芋の供給地としても北海道は有名である。

imo4.6.29.04馬鈴薯花

殆どの人がジャガイモの畑も、馬鈴薯の花も見たことがないだろうと思うので、写真④にジャガイモの花を載せる。
薄紫色の可愛らしい花である。品種によって色や形などが微妙に異なる。
新ジャガイモは、もう殆どのところで収穫は済んでいる。一番遅いのは「種芋」の収穫で、これで北海道のジャガイモのシーズンは終る。

以下、ジャガイモ=馬鈴薯を詠んだ句をひいて終りにしたい。

 新馬鈴薯や農夫の掌(てのひら)よく乾き・・・・・・・・中村草田男

 新じやがのえくぼ噴井に来て磨く・・・・・・・・西東三鬼

 土間夕焼じやが藷(いも)の山夕刊のせ・・・・・・・・椎木嶋舎

 新じやが匂ふ塩焼小屋の厚き煤・・・・・・・・沢木欣一

 馬鈴薯を夕蝉とほく掘りいそぐ・・・・・・・・水原秋桜子

 幸福の靴首にかけ馬鈴薯を掘る・・・・・・・・山口青邨

 塩が力の新じやがを煮て母子生き・・・・・・・・沖田佐久子

 幸を掘るごとし馬鈴薯さぐり掘る・・・・・・・・瀬沼はと江

 じやがいもの北海道の土落す・・・・・・・・中田品女

 馬鈴薯掘る土の匂ひの日の出前・・・・・・・・山崎明子


無防備にまどろむ君よスカラベがをみなの肌にとどまる真昼・・・木村草弥
sukarabe_se.jpg
mus150スカラベ護符レプリカ

     無防備にまどろむ君よスカラベが
        をみなの肌にとどまる真昼・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

この歌では私はスカラベのペンダントをつけた「君」が夏の真昼を、まどろんでいるのを描いたのだが、本来の「スカラベ」というのは、甲虫の「フンコロガシ」のことである。
写真①は古代エジプトで崇拝された「スカラベの護符」のレプリカであり、いま土産物として手に入るもの。

volt01切手オートヴォルタ
 ↑ 写真②はオートヴォルタという国で1981年に発行された「フンコロガシ」の切手である。
この虫は日本には居ないが、世界各地には棲息していて、有名なファーブルの「昆虫記」に出てくるもので、正式には「タマオシコガネ」という名前である。
古代エジプトでは、この虫を「スカラベ」と呼んだ。

写真③は「昆虫記」の著者ジャン・アンリ・ファーブルである。
fabreファーブル

古代エジプトでは、糞玉をころがすスカラベを見て、日輪の回転を司るケペラ神の化身とみなした。世界的にも神格を与えられた昆虫は珍しいが、スカラベは、その最初の昆虫ということになる。
かくして、古代エジプトでは、スカラベを創造、復活、不死のシンボルとして崇め、四千年も前からスカラベの護符や装飾品で飾ったのである。
有名なツタンカーメンの墓からも、このスカラベの護符が「カルトゥーシュ」という「囲み枠」の中に絵文字の名前入りで造られている。他の王や女王、王妃などすべて、そうである。古代エジプトの絵文字は解読されていて、発掘された墳墓や彫刻などが、誰であるかが同定されているが、それは、この「カルトゥーシュ」という囲み枠に刻まれている名を解読すれば、すべて判るからである。

↓ 写真④はフランスで1956年に発行された切手で、ファーブルが糞ころがしタマオシコガネを虫めがねで観察している姿を描いてある。
fr11切手フランス

ネット上では糞ころがしを絵柄にした切手が世界各地で発行されているのを見ることが出来る。
オーストラリアでは「スカラベ」というと、この糞ころがしのことを指すらしい。
先に日本には糞ころがしは居ないと書いたが、それは日本には丸い糞玉にするような適当な固さの糞をする獣が居なかったことに原因があるだろう。牛の糞や人糞などはベタベタしているから、玉になりにくいだろう。

7321センチコガネ

 ↑ 写真⑤に日本にいる同種の甲虫の写真を出すが、この虫は「センチコガネ」という名のつくもので、大きさ2センチくらいのもので、センチという便所を意味する名の通り糞便を分解する虫だが、糞玉は作らない。「センチ」とは漢語で「賤地」のことである。
汚らしい話題になって申し訳ない。説明しかけると、こうなってしまうのである。

夏の季語である「こがねむし」黄金虫を詠んだ句を引いて終わりたい。金亀子とも書く。

 モナリザに仮死いつまでもこがね虫・・・・・・・・西東三鬼

 金亀子擲つ闇の深さかな・・・・・・・・高浜虚子

 恋捨つるごと金亀子窓より捨つ・・・・・・・・安住敦

 病めるわが胸より金亀子はがす・・・・・・・・加倉井秋を

 黄金虫雲光りては暮れゆけり・・・・・・・・角川源義

 死にて生きてかなぶんぶんが高く去る・・・・・・・・平畑静塔

 ぶんぶんに玻璃くろがねの関なすや・・・・・・・・・石塚友二

 金亀虫琵琶のおもてを打撙す・・・・・・・・佐野まもる
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少し余談を書いておく。
糞ころがしのことだが、この虫の作る糞玉は固くても、柔らかすぎても玉にならないらしい。
だから、この虫は山羊などの小さくて、固くて、コロコロしている糞は、苦手だと、ものの本に書いてある。
この虫が、なぜ糞玉を作って巣へ運ぶかというと、巣に帰ったら、この糞玉の中に卵を産むのである。
孵った幼虫は、この糞玉を食べて成長するという段取りである。
適当な固さで、というところに、虫と言えども「こだわり」があるのである。
何事も「こだわり」が大切らしい。では、また。




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