FC2ブログ
K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201809<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201811
POSTE aux MEMORANDUM(10月)月次掲示板
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東日本大震災から七年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
c0085874_23145441ホトトギス
 ↑ ホトトギス草

十月になりました。
の季節です。味覚の秋、体育の秋です。

 そよや風われはその声知らねども百舌鳴くやうな夕暮れ来たる・・・・・・・・・・・・・・・内藤明
 ひと隅を占めて咲きいる慎ましさつゆの乾ぬまのむらさきしきぶ・・・・・・・・・・・・・三枝浩樹
 うから集ふ法要のなか父の子のわれはもつとも濃き血の嚢(ふくろ)・・・・・・・・小島ゆかり
 ほしいままに生きてきたとわれのことを言ふか さう見えるのか・・・・・・・・・・・・・・真中朋久
 歳月をひとめぐりして立ち寄ればぬすびと萩に種の実れり・・・・・・・・・・・・・・・・横山未来子
 かへらざる人を思へばこの幾日記憶の断片をてのひらに置く・・・・・・・・・・・・・・・・・外塚喬
 たくさんの失意の果てにひろがれる老年といふ荒野に立つか・・・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆
 帰巣本能われにあるなら老耄のはてにいづくに戻りゆくならむ・・・・・・・・・・・・杜沢光一郎
 声の限り心の限り大泣きの児はあかあかと紅葉に並ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 晩秋の沼の面の水馬は微かな光の輪を踏みて立つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三井修
 耳も目も衰ふる老いのただなかに春に十七になる犬がゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・中野昭子
 年増とかいかず後家とか出戻りとか地下鉄後尾の揺れにまかせて・・・・・・・・・・・松平盟子
 こころざし忘じ果てたるしずけさか岬の端に陽のあたる見ゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・奥田亡羊
 天心のあれは失くしたおっぱい、と虚にささめく声ある月夜・・・・・・・・・・・・・・・・・ 佐藤弓生
 追憶の彼方の恋や夕暮の空へ振るため人は手を持つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・照屋眞理子
 萩もみぢとらへがたなきあかるさの 窓辺に充ちて、仮の世この世・・・・・・・・・・・ 中西洋子
 霧立ちてふいに涼しくなりにけり牛の体も濡れてゆくべし・・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 甘栗を好み剥きゐし母の爪くらくらと今焼かれゐるなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伝田幸子
 声が来て神経叢をさやがせり無限自在のわれゐるどこか・・・・・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 はしがきもあとがきも無き一冊を統べて表紙の文字の銀箔・・・・・・・・・・・・・・・・・ 阪森郁代
 拝むやうに右手左手近づけてトカゲは今日も電話が欲しい・・・・・・・・・・・・・・・・・ 石川美南
 爽健美茶とBOSSを買って河口でふたりは蟹をみつけた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・千種創一
 八ヶ岳の一滴は諏訪湖にそそがれ太平洋まで龍となって駆け抜ける・・・・・・・・・ 光本恵子
 十月や
顳顬さやに秋刀魚食ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
 十月や見上げて駅の時刻表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬場公江
 石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり・・・・・・・・・・・・・・・ 富沢赤黄男
 山畑に
蒟蒻育て霧に寝る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金子兜太
 独語して夜にぶつかる羊歯胞子・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 空ばかり見ている地べた もう昏い・・・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 あかあかと在りたき晩年烏瓜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池弘子
 紙魚走るカミュを跨ぎサルトルへ・・・・・・・・・・・・・・・・・塩野谷仁
 街灯の暗さにありて秋の月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉浦圭祐
 ハツカネズミを窺う風神雷神図・・・・・・・・・・・・・・・・・・武田伸一
 衰えてたまるか刻の尾を摑め・・・・・・・・・・・・・・・・・野間口千賀
 カーンと晴れ風の出て来し銀杏黄葉・・・・・・・・・・・・・・森田緑郎
 はたた神ひとりぼっちを見つけたぞ・・・・・・・・・・・・・・・山中葛子
 大ぶりの蜘蛛の巣いい仕事してるなあ・・・・・・・・・佐々木香代子
 ぼーっと灯り一重瞼を閉じにけり・・・・・・・・・・・・・・・・・三井絹枝
 印度カレーとナン完食の清涼感・・・・・・・・・・・・・・・・・・相馬澄枝
 路地裏におぼろの墓ある那覇の街・・・・・・・・・・・・・・岸本マチ子
 母死後の記憶のなかに蕎麦の花・・・・・・・・・・・・・・・鈴木八駛郎
 毛虫焼く空気一切朝なり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・矢野千代子
 晩節や恋など知らで胡麻叩く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山中伸
 直進の鬼やんまの瞳の少年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤和
 齢とは今まといつく蚋払う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・稲葉千尋
 顛末は消えてしまった蟻の列・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本愛子
 殿様の馬暴れた原にソーラー発電・・・・・・・・・・・・釈迦郡ひろみ
 爽やかや語らずとも母の鼻歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わだようこ
 出棺の警笛野分おしあげよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・則包秀子
 水害地虫は語れど皆無言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米岡清四郎
 身にしむや胸に罅持つ微笑仏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑野恵
 口笛の忘れし顔や赤とんぼ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佳夕能
 一枚の天の深さやつくつくし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 秋祭男の
艶めいて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川澄枝
 ジルバだフレアースカートだ夏蜜柑・・・・・・・・・・・・・・・ 岩根彰子
 つつつうと涙はほほに秋日和・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。
「月別アーカイブ」は30件表示するようになっています。30件以上ある場合は「NEXT」を押して進んでください。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の記事は、引用、リンク、転載フリーです。事後でもお知らせ下さると嬉しいです。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください。

私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

Wikipedia─木村草弥

Facebook─木村草弥

Twitter─木村草弥

ランキングを確認する ★ ──登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


banner99条守ろう

  9条守ろう!ブロガーズ・リンクに参加しています(0215)
 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

Banner_125x125_0003_D.jpg

   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
  と想像してみてください。」
──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
土曜美術社出版販売「詩と思想」
文芸春秋社・書籍ショールーム





ひともまた弧影曳きをり穴まどひ・・・・鈴木孝一
FI2618943_1E.jpg

  ひともまた弧影曳きをり穴まどひ・・・・・・・・・・・・・・鈴木孝一

夏の間活動してきた蛇は、「変温動物」なので、気温が低くなると活動が鈍くなる。
晩秋になると「冬眠」のために穴に入る。秋の彼岸頃と言われているが、実際にはもっと遅い。
数匹から数十匹がどこからともなく集まり一つ穴に入り、からみあって冬を過ごすという。
固まることによって、体温を維持し、体温の極端な低下を防ぐためである。
彼岸過ぎても穴に入らないものを俳句では「穴惑い」という。
沖縄では十二月まで活動するらしい。
写真①は「ジムグリ」というナミヘビ科の日本に棲む蛇である。

写真②は、シマヘビのうち、色が真っ黒に特化したものでカラスヘビ黒化型という。

FI2618943_2E.jpg

春の季語に「啓蟄」とか「蛇穴を出る」とかいうのがあるが、これらは蛇や爬虫類、両棲類、虫などが、暖かくなってぞろぞろ地中から這い出てくることをいうが、
秋になって冬眠のために穴探しをするのを「蛇穴に入る」という現象である。
蛇は自分では穴を掘ることが出来ないので、蟻などの掘った穴を利用するらしい。

世の中には蛇嫌いの人が多くて、見つけると狂気のように打ちのめしたりする人が居るが、マムシなどの毒蛇でない限りは、概して野ネズミなどを食べる有益な生物である。
古来、日本では「巳成金」と言って蛇は利殖の神様として扱われ、蛇の脱皮した「抜け殻」を財布などに仕舞う風習がある。

掲出句は、そんな秋の蛇の行動を、人の姿に引きつけて詠んでおり、面白いと思って、いただいた。

以下、冬眠前の秋の蛇、穴惑いを詠んだ句を引いて終る。

 穴撰みしてやのろのろ野らの蛇・・・・・・・・小林一茶

 今日も見る昨日の道の穴まどひ・・・・・・・・富安風生

 蹤き来る妹には告げぬ秋の蛇・・・・・・・・山口誓子

 身を結び身を解き孤り穴惑ひ・・・・・・・・中村草田男

 穴惑刃(やいば)の如く若かりき・・・・・・・・飯島晴子

 フォッサ・マグナの南端を秋の蛇・・・・・・・・原田喬

 穴惑ひ畦をまたぎてゆくところ・・・・・・・・清崎敏郎

 真二つに折れて息する秋の蛇・・・・・・・・宇多喜代子

 落胤のやうに去にけり秋の蛇・・・・・・・・伊藤白潮

 穴惑ばらの刺繍を身につけて・・・・・・・・田中裕明

 落日に影を曳きゆく穴まどひ・・・・・・・・秋篠光広

 耳遠き世はこともなし穴まどひ・・・・・・・・奥野桐花

 うろたへてあとはすらりと秋の蛇・・・・・・・・広瀬直人

 追はれては水を走れり穴まどひ・・・・・・・・岡村寿美

 身の丈に若さ残せり秋の蛇・・・・・・・・笠原興一

 百匹の蛇穴に入る楢木山・・・・・・・・御崎敏枝

 落日の刻はかりゐる穴まどひ・・・・・・・・松本節子



木曽川の今こそ光れ渡り鳥・・・・高浜虚子
0759b2a65ef370a366c0c0f4a5d39b22メダイチドリ

    木曽川の今こそ光れ渡り鳥・・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

海を越えて渡る「候鳥」(こうちょう)の渡りの時期は春と秋と二回あるが、春の渡りは集団となっての渡りではなく、小規模でばらばらとやって来る、
と言われるのに対し、秋の渡りは集団なので注目される。
ツバメなどが南に去ると、ツグミ、アトリ、マヒワなどが、シベリア、カムチャツカから大群をなして飛来する。

掲出した句に木曽川という川の名が入っているので写真①には、渡り鳥の「メダイチドリ」を出してみた。
この写真は雌雄であろうか。恋人同士のように、しぐさが仲むつまじく微笑ましい。
この鳥はカムチャツカ以北のロシア、アラスカで繁殖するらしい。左側が雌である。
俳句で「渡り鳥」という場合には「主として小鳥のことを言う」という但し書きが書かれているので、それにふさわしく写真②には「鶫」(つぐみ)を出しておく。
15922529ツグミ

これらの小鳥は日本の中を移ってゆくときも群れをなしてゆくという。
ヒヨドリ、シギ、チドリ、などのものも渡り鳥と言うが、それらの大群の羽音高く過ぎゆくことを鳥雲、鳥風などと表現されている。
なお、シギ類は越冬地は、もっともっと南の国だということで、日本は通過地に過ぎないらしい。
シギ類は通過の途中で川や海の干潟が採食地で、ゴカイやカニなどを啄ばんで食べているらしい。
掲出した句の「木曽川」の河口に、そんな干潟があるかどうか判らないが、間違いがあれば指摘してもらいたい。訂正いたします。
雁や鴨などのやや大型の鳥も渡り鳥には違いないが、別の季語の表現として「雁渡る」「鴨来る」などとして別に分類されるようだ。
中秋から晩秋にかけての集団をなしての渡り鳥は、空が暗くなり、雲が動くようで、大きな音を立てるという。
私の住む辺りは海に面してはいないし、盆地なので、このような大群の鳥の渡りを目にすることはないのではないか。
この推測も、もし間違っていたら指摘してもらいたい。
ツグミなどはミミズや虫などの動物性の餌を食べているから、雪の降った朝など木の根元などを雪を取り除いておくと餌を求めてやってくるのであった。
今はどうか知らないが、私の子供のころは、器用な友人などは、そうやって罠を仕掛けてはツグミを獲っていた。
今では環境保護の立場から鳥獣についても保護され、各地に「禁猟区」が設けられている。
私の近くでは琵琶湖は全面的な禁猟区に指定されている。
秋になって本州に「渡ってくる」ものと、南に「去る」ものと両方の「渡り」があるので、念のため。

以下、歳時記に載る「渡り鳥」の句を引くが、上に書いた「但し書き」に触れるかどうか私には判らない。

 四つ手網あがる空より渡り鳥・・・・・・・・水原秋桜子

 鳥渡る大空や杖ふり歩く・・・・・・・・大谷碧雲居

 むさし野は鳥こそ渡れ町つづき・・・・・・・・林原耒井

 渡鳥仰ぎ仰いでよろめきぬ・・・・・・・・松本たかし

 渡り鳥微塵のごとしオホーツク・・・・・・・・大野林火

 渡り鳥がうがうと風明るくて・・・・・・・・加藤楸邨

 渡り鳥空搏つ音の町にしづか・・・・・・・・太田鴻村

 鳥わたるこきこきこきと缶切れば・・・・・・・・秋元不死男

 鳥渡る終生ひとにつかはれむ・・・・・・・・安住敦

 樹海晴れてはや渡り来る小鳥かな・・・・・・・・中川宋淵

 佐渡の方より一沫は渡り鳥・・・・・・・・篠田悌二郎

 大空の美しきとき鳥渡る・・・・・・・・深川正一郎

 渡り鳥消えて欅の空残す・・・・・・・・石塚友二

 鳥渡り夕波尖りそめしかな・・・・・・・・勝又一透

 わが息のわが身に通ひ渡り鳥・・・・・・・・飯田龍太

 渡り鳥幾千の鈴ふらし過ぐ・・・・・・・・赤城さかえ

 胸ポケットの老眼鏡や鳥渡る・・・・・・・・菱沼杜門


『修学院幻視』 私信と詩集評・・・玉村文郎ほか
修学院_0001_NEW
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


       『修学院幻視』 私信と詩集評・・・・・・・・・・・玉村文郎 (同志社大学名誉教授・日本語学・言語学専攻)

秋たけなわの好季節になり、過ぎし暑い夏を想い出しております。
此の度ご上梓の『修学院幻視』を頂きました。お祝いとお礼を申しあげます。

美しい詩集──これが小生の印象です。

ページ、ページには、人名のよみやことばに関する部分も多く、なるほど、なるほどと同感したり、学んだりしながら読み進めました。
祖母が修学院出身だったので“お茶屋の山”と言っていたのを、なつかしく想起したりしました。

ちょっとキザな表現ですが、、エロスとパトスの縫い込められたケンランたる一篇だと思いました。

いろいろと歴史的・文学的な調査をされた作業の結晶になっています。
よくもこれだけ丹念に調べられたことと感じ入った(オドロイタ)次第です。
心からお礼申しあげます。
中に出てきます宗政氏は、大学院時代の知己の一人でした。小生は、国語国文の科目の方をたくさん受講していましたもので。

よくしらべ、よくこなし、それを典雅な文章にされたタクミの技に感じ入りました。
今後とも、お元気で、この道を進まれることを願っております。
私の方は、あと二か月少しで米寿となります。(尤も元来は数え年で呼んだものでしょうが)

( ちょっと、気付いた点を記します。
 62ページに 仰言られ(おっしゃられ)とありますが、「おほせあり」が敬語なので、レル、ラレルという助動詞は付けません。
 一筆する次第です。 )

ますます、お元気で、詩作をおつづけ下さるよう念じております。
右、お礼と感想をしたためました。      不一
  2018/10/26        玉村文郎(同志社大学名誉教授・日本語学・言語学専攻)


(草弥・記) 玉村君は大阪外語フランス語科以来の親友である。
国語・国文学の専門家であり、また外国人への日本語教育のパイオニアである。
著書に『日本語学を学ぶ人のために』などがある。
この本に書いた堀井令以知の後を受けて「新村出記念財団代表理事」を勤めている。
私は本を出すたびに差し上げてきたが、その都度、私の文の間違いや、文法などを指摘していただいて多大な教示を受けていることを記して謝意と敬意を表しておく。有難うございました。  
-----------------------------------------------------------------------------------

      私信・・・・・・・・・・・・・・・村島典子・歌人「晶」同人

この度は、御著『修学院幻視』のご上梓おめでとう存じます。
・・・・・山田兼士様のお言葉通り、「詩論詩」だと存じます。
青年のようで、老練なお作品、その集名も奇抜で、くらくらします。
私がどうにか追随できますのは「水馬」です。・・・・・
後水尾天皇のこと、興味ふかく、今頃、歴史の面白さを楽しんでいます。
・・・・・昨日、御著を手に長浜を往復して、そのスパークする詩のおことばを味読いたしました。
私には従いて行くことができない箇所もありましたが、ご本を携えて数時間、列車に揺られております内に、何か、気のようなものをまとったらしく、詩の醸すエネルギーを実感したことです。・・・・・・

  2018/10/26         村島典子  歌人「晶」同人

-------------------------------------------------------------------------------

      私信・・・・・・・・・・・・・・・西井弘和 (小説家)

『修学院幻視』拝受。もの凄う応えました。
これまでご恵贈いただいた歌集、詩集群、すべて大変なものであろうかと思ってはおりましたが、なんせ、無知蒙昧の小生、よくわからぬまま、架蔵するのみでした。
しかし、この度は、この豪邁な帝王の物語、詩なのか歌なのか散文なのか、歴史書なのか小説なのか、あえて分別ならず、ただただ、大兄の博識、蘊蓄の豊富なること、
表現の妙、その遊び心のままに自由に言葉を駆使されていることに、ほとほと感動いたしました。実に面白い。
・・・・・ひとり、孤塁を守って万丈の気を吐く大兄のあとについて、小生も何か頑張りますので、今後ともよろしく。・・・・・
   2018/10/24            西井弘和 (小説家)





秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は空の青さの点となりゆく・・・・木村草弥
03-kumo-02蜘蛛①

   秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は
     空の青さの点となりゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

掲出写真は、俗に「黄金蜘蛛」と呼ばれる大型の蜘蛛の雌である。正式には「ナガコガネグモ」というらしい。

写真②は「草蜘蛛」である。
kusagumo178草蜘蛛

写真③に、その草蜘蛛の巣をお見せするが、名前の通り、草などに巣を張るクモである。
83N83T83O8382草蜘蛛の巣

クモというと身近にいる虫だが、嫌がる人が多い。しかし飛ぶ虫などを食べてくれる「益虫」といえる。
農作物などでも害虫を食べてくれる貴重な存在であるが、農薬を使うと、クモなども一緒に駆除されてしまうので、天敵が居なくなり、悪循環に陥りがちである。
この頃では「生物農薬」というような名前で、こういう益虫を利用するのが出はじめてきた。

秋は、そういうクモの子の「旅立ち」のシーズンである。
どんな種類の蜘蛛も、こういう巣立ち方をする訳ではないが、掲出した草蜘蛛などは晩秋の雨あがりの、カラッと晴れた風の強くない日で、
肌をかすめる大気の流れの感じられる日に、クモの子の旅立ちが始まる。
草蜘蛛の子は高い草の先端に登り、まず、尻から糸を出し、風に流し、次に自分も風に乗る。
空に糸がキラキラ光って飛んでゆく。文字通り、どこに着くか風まかせである。
冒頭に挙げたナガコガネグモの子も、風まかせの飛翔をするらしい。

e0032399_185844蜘蛛の子
写真④は孵化したばかりのクモの子である。左側の丸い塊が「巣」で、その中から巣立ってきたのである。
この後、クモの子はちりぢりになって、先に書いたような方法で風に乗ってゆくのである。
こんなクモの子の巣立ちは、田舎でないと見られない。
蜘蛛にも多くの種類がおり、このような巣立ち方をしないクモもたくさん居る。
そんな蜘蛛は、孵化した近くに新しい縄張りを張り、一本立ちしてゆくのであるが、私はクモに関しても詳しくないので、それ以上のことは書けない。
なお、基本的なこととして「蜘蛛」は「昆虫」ではないことを確認しておいてほしい。
昆虫は「脚が6本」だが、蜘蛛は「脚が8本」で、別の分類をする。
普通のクモは、ネットを毎日張り直すが、コガネグモ、ジョロウグモの仲間の網の張り方は大雑把で、蜘蛛の巣の形は汚らしい。
ジョロウグモ、コガネグモは大きく、強いので獲物が引っかかったら、すぐにとんで行って獲物を捕らえられるからであろうか。
網の糸も、とても強くて、釣り糸ほどの太さもある。こんなものに人間が引っかかると、体に糸がからみついて取れない。
クモが夕方に網を張るのを見ていると、まさに芸術的とも言える作業である。
クモの脚は、張った糸のネバネバにもくっ付かない構造になっているらしい。
私は昆虫少年でもなかったが、内向的な少年で、そんなクモの作業を、じっと見つめているのが好きだった。

haya109_asinagakumoアシナガグモ
写真⑤はアシナガグモである。
蜘蛛の種類によっては全然巣を張る習性のないものもあり、そこらじゅうを歩きまわって獲物を探すものもある。
家の中に入ってきて、みんなを驚かすのも、こういう種類のクモであり、びっくりするような大きさになるものもある。
蜘蛛類は、捕らえた虫は糸でがんじがらめにした後、口から「消化液」を獲物の体内に注入して、液体状に半消化したものを吸い込んで取り入れる。
だから、掛かった獲物の体の形は残っているが、カラカラに乾いて中身はカラツポである。
蜘蛛の巣のあちこちに、体液を吸われた虫の残骸が引っかかっているのが見られる。

↓ 写真⑥は巣を作らず、屋内などを歩きまわって獲物を探す「ハエトリグモ」と呼ばれる蜘蛛の種類。
onigumoD337蜘蛛④

女郎蜘蛛の生態については ← オス、メスの区別のことなど、ここが詳しい。
昆虫写真家の海野和男さんのサイトによると、スズメバチがナガコガネグモを襲ってくるらしい。

掲出した私の歌は、私の少年の頃の幼い観察の記憶を濃厚に止めている記念碑的な作品と言える。


檀の実爆ぜて色濃くなりにけり・・・・小泉良子
mayumi4まゆみ10月

   檀の実爆ぜて色濃くなりにけり・・・・・・・・・・・・・・・・小泉良子 

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも「檀」を詠った歌がある。
  
  真実とはいかなる象(かたち)なすものか檀(まゆみ)のまろき実くれなゐ深く・・・・・・・・・・・木村草弥

檀(まゆみ)の実は晩秋にかけて熟す。
『和漢三才図会』に「生るは青く、熟すれば淡赤、裂ければ内に紅子三四粒あり。その葉、秋に至りて紅なり」とある。
↓ 写真②は「まゆみ」の春の開花の様子である。
mayumi2まゆみ開花

↓ 写真③は、秋になって実が割れて中身が露出したところ。
mayumiまゆみ

実の色が美しいだけでなく、葉の紅葉が美しい、という。
「真弓」とも書くが、これは昔、この木から弓を作ったことに由来する。

   秋くればくれなゐ深く色づきて檀の喬木山をいろどる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は先に掲出した歌につづくものである。
寒い土地ほど、この檀の紅葉は美しい、と信州の友人は言う。紅葉の写真を出しておく。↓
b0068793_82538マユミ紅葉

以下、檀の実を詠った句を引いて終る。

 旅にをり旅の日和の檀の実・・・・・・・・森澄雄

 檀の実遠景は日のとどかざる・・・・・・・・鷲谷七菜子

 大工老いたり檀の実ばかり見て・・・・・・・・六角文夫

 まゆみの実寄りくるものをいとほしむ・・・・・・・・きくちつねこ

 奉納の神楽に高き檀の実・・・・・・・・・横山仁子

 檀の実ひそかに裂けし月夜かな・・・・・・・・菅原鬨也

 檀の実圧し来る如く天蒼し・・・・・・・・望月たかし

 檀の実まぶしき母に随へり・・・・・・・・岸田稚魚

 真弓の実華やぐ裏に湖さわぐ・・・・・・・・杉山岳陽

 檀の実割れて山脈ひかり出す・・・・・・・・福田甲子雄

 泣きべそのままの笑顔よ檀の実・・・・・・・・浜田正把




金子彩(金原まさ子)「十七枚の一筆箋」・・・・・木村草弥
金原_0001
 ↑ 第四句集『カルナヴァル』草思社2013/10/08第三刷

──新・読書ノート──

     十七枚の一筆箋  金子 彩 (金原まさ子)

   鶴に化りたい化りたいこのしらしら暁の

   なぜ紫の鬘なのか幸彦忌

   覗かせてもらえなくても納屋は罌粟

   山羊の匂いの白い毛糸のような性

   片腕の駆者をあらそい日と月よ

   いなびかり乞食(かたい)とねむる妃にて

   膝抱いて胎児出没銀河系

   満月のカリンに向きて五分と五分

   禁書購いたるカマキリを軟禁す

   精靈の家からきのこたちわあわあと

   筥いっぱいの櫛焼く父よ秋ま昼

   心電図直線木犀の香がそこらじゅう

   臈たけていたり次の間の草雲雀

   ちちと流れははと淀みて紅葉鮒

   猿のように抱かれ干しいちじくを欲る

   冬が来るとイヌキが云えり枕元

   あれは鶏頭の跫音時間切れ告げに

            「らん no.56」より転載

金原まさ子については ← ここで書いたので参照されたい。
彼女が2017年に亡くなって、はや一年余が経った。
「週刊俳句」の最近号に記事が載ったので「転載」させてもらった。
ここに引いたのは「週俳アーカイブス」に載るものである。
この作品は、2012-02-05に「らん no.56」に発表されたもの、だという。
前の記事にも書いたが、ずっと以前の作品は伝統的な俳句の音律に則っていたが、次第に自由奔放な作風になり、いわゆる破調が多くなった。
ここに引いた作品も多分に「破調」だが趣ふかい。
彼女はあちこちに作品を発表していて、名前も様々に変えているらしい。
ここに引いたものでは「金子彩」という名前になっている。
私は、こういう自由奔放な作り方が好きである。 ご鑑賞いただきたい。


十月二十六日午後十一時四十二分、私はなと書く。なの意味するところは・・・谷川俊太郎
h00021.gif


    な・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

十月二十六日午後十一時四十二分、私はなと書く。なの意味するところ

は、一、日本語中のなというひらがな文字。二、なという音によって指示

可能な事、及び物の幻影及びそこからの連想の一切。即ちなにはなに始ま

り全世界に至る可能性が含まれている。三、私がなと書いた行為の記録。

四、及びそれらのすべてに共通して内在している無意味。

十月二十六日午後十一時四十五分、私は書いたなを消しゴムで消す。なの

あとの空白の意味するところは、前述の四項の否定、及びその否定の不可

能なる事。即ちなを書いた事並びに消した事を記述しなければ、それらは

他人にとって存在せず従ってその行為は失われる。が、もし記述すれば既

に私はなを如何なる行為によっても否定し得ない。

なはかくして存在してしまった。十月二十六日午後十一時四十七分、私は

私の生存の形式を裏切る事ができない。言語を超える事ができない。ただ

一個のなによってすら。
-----------------------------------------------------------------------
日付と時間の入っている谷川俊太郎の詩なので、今日の日付で載せた。
これは『定義』という24篇の散文詩風の作品で構成される詩集で1975年思潮社刊に載るもの。
物事を「定義する」ということに拘って24もの詩をものした詩才に脱帽したい。
こういう詩の作り方は詩作りのトレーニングになる。


萩の花/尾花 葛花/瞿麦の花/女郎花/また 藤袴/朝貌の花・・・山上憶良
aaoohagi001萩大判

   萩の花/尾花 葛花/瞿麦(なでしこ)の花/
       女郎花/また 藤袴/朝貌(あさがほ)の花・・・・・・・・・・・・・山上憶良



憶良は奈良時代の歌人。遣唐使として渡唐、後に筑前守(ちくぜんのかみ)となった。
人生の苦悩、社会の階級的矛盾を多く詠った歌人であったが、稀には、この歌のように、ふと目にとまった懐かしい景物をも詠った。
この歌は577、577のリズムの旋頭歌(せどうか)形式で秋の七草を採り上げている。念のために区切りを入れておいた。
尾花はススキ、藤袴はキク科の多年草で、秋、淡紫色の小さな筒状の袴を思わせる花を多数散房状に開く。
朝貌はアサガオ、ムクゲ、キキョウ、ヒルガオなどの諸説がある。
『万葉集』巻8に載る歌。

fujiba1藤袴

藤袴というのが、どんな花か知らない人のために写真②にフジバカマを載せる。おおよそ、日本古来の「七草」というのは派手さのない地味な花である。
現代人は西洋や新大陸あるいは熱帯の派手な花に慣れているので、いかにも地味な感じを受けるのである。
写真③にナデシコの花を紹介しておく。
800px-E382ABE383AFE383A9E3838AE38387E382B7E382B3_Dianthus_superbus_var__longicalycinus.jpg

先に山上憶良は万葉集の中ではめずらしく、社会の階級的矛盾を詠った、と書いたが、以下、憶良について書いてみたい。
その歌の典型的なものは『万葉集』巻5(歌番号892、893)に載る有名な「貧窮問答の歌」1首(長歌)と反歌のことである。
この歌を作って上官に差し出した時、聖武天皇が即位してからもう10年以上が経つ天平という年号の時代のはじめの頃のことである。
伯耆、筑前の国守の経歴を踏んだ老いた官人・憶良にして、ようやく出来た歌である。長いのではじめのところのさわりの部分と反歌を引用するにとどめる。
問うのは冬の夜の貧者、つまり作者と、それに応える極貧者の隣人という問答の形を採る。

風雑(まじ)り 雨降る夜の 雨雑(まじ)り 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚かき撫でて ・・・・・・寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る・・・・・・・
(反歌)
世間(よのなか)を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

山上(山於)の家については、よくわからない。
憶良の名前が『続日本紀』に登場するのは701年(大宝1年)のことで、そこには「無位山於憶良」と書かれている。
没年から逆算すると、この時42歳。この頃は、臣(おみ)という姓(かばね)も有していなかったのではないかと言われている。
701年に文武天皇の政府は唐との通交を再開することを決め、粟田真人以下の遣唐使を任命した。
その随員の末席に「無位山於憶良」の名が見え、その役目は「少録」つまり書記であった。
随分おそすぎるとは言え「少録」に抜擢されたことは42歳にしてつかんだ幸運と言える。
彼は翌702年に渡航し、704年(慶雲1年)に帰朝したようである。研究者によると、これらにまつわる記述もあるが省略する。
帰朝後、彼は、せいぜい六位くらいになって、中央官庁の下っぱ官人の地位を得た筈である。
714年(和銅7年)1月に正六位下から従五位下に昇進し、ようやく716年(霊亀2年)4月に伯耆国守に任ぜられ山陰の地に赴いた。
こういう地方長官としての経験が「貧窮問答の歌」というような画期的な歌の制作の前提になっていると言えよう。
721年(養老5年)に呼び戻されて、東宮(のちの聖武天皇)に近侍するようになり、中国の学問などについて進講したようである。
東宮は724年(神亀1年)に即位して聖武天皇になる。
これらの間に長屋王や大伴旅人をはじめ当代の碩学たちとの交流によって、その学識を深めたと思われる。
彼には『類聚歌林』という編著があって、『万葉集』には同著からの引用があることで、そのことが判るが万葉集の編者が、それを活用したと言える。
726年(神亀3年)に筑前国守に任命されたが、もはや老年で栄転とも言えないが、かの地では上官として赴任してきた大伴旅人などと交流している。
彼の「沈痾自哀の文」という長い漢文の文章や、万葉集巻6の天平5年(733年)のところに配列されている「彼、口述」という次の歌(歌番号978)

        ・・・・・・・・・・山上臣憶良の沈(おも)き病の時の歌1首
     士(をのこ)やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして

の歌は辞世の歌として悲哀に満ちた響きを持っている。同年没の様子である。



菊の花の/この美しさを/「食べる?」/私はそれにあたいするかしら/花のまえに はじらうばかり・・・高田敏子
2a2cc7f032c71e077745e5d11f6a94ae.jpg

──高田敏子の詩──(18)再掲載・初出Doblog2005/10/25

        菊の花・・・・・・・・・・高田敏子

     菊の花の
     紅をふくんだうす紫が
     箱にいっぱい

     ──さっとゆがいて召し上がって──
     友のことばがそえられて

     こんなにたくさん
     菊畑がそのまま
     送られて来たような
     花のまぶしさ
     花の香り

     この美しさを
     「食べる?」
     私はそれにあたいするかしら
     花のまえに はじらうばかり

     お盆に盛って
     棚においでの観音様に
     まずお供えして
     ご近所にもおすそわけしましょう

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)
----------------------------------------------------------------------
掲出した画像は、食用菊「もってのほか」である。
普通の菊よりも苦味が少ない。 他にも、いろいろの品種があるようである。
この詩にも書かれているように、さっと茹でて「おひたし」のように食べるらしい。
「らしい」と言ったが、私は食べたことがない。




木村草弥第三詩集『修学院幻視』 (全)
修学院_0001_NEW
 ↑ カバー装「後水尾天皇像(宮内庁書陵部蔵 尾形光琳筆)」


木 村 草 弥 第 三 詩 集   『修 学 院 幻 視』 (全) 
                  ・・・・・・澪標2018/11/15刊・・・・・・・・・

     栞 文

     開き直りの現代詩
         ──『修学院幻視』に寄せて──
                        詩人・評論家、大阪芸術大学教授(フランス文学) 山田兼士

木村草弥さんは一九三〇年生まれ、今年米寿になられるが、大変お元気な方である。美学者として著名だった木村重信を兄にもち、文化的環境の中で生きてこられたと想像されるが、家業の宇治茶問屋を継ぎ、実業に精を出すかたわら、本格的に文筆を始めたのは還暦を越えてからであるらしい。以来、六冊の歌集と二冊の詩集を上梓し、本書は第三詩集ということになる。
 
木村さんと私の縁は比較的最近のことで、二〇一四年に亡くなった三井葉子さんが主宰していた詩誌「楽市」の同人のひとりとして、三井さんから紹介されたのがきっかけと記憶している。木村さんとの初対面は三井さんの告別式場でのことだった。その少し前(二〇一〇年)に上梓された詩集『愛の寓意』を読んで、 伝統的詩型と散文詩型を融合した独自のスタイルに瞠目したことをよく覚えている。この基本姿勢は本詩集でも貫かれていて、作者自身が「畢詩  あとがきに代えて」の中で「現代詩は何でもあり、だから「見てきたような」虚構で彩ってみた。」と断言している。良い意味での開き直りというべきだろう。事実、「虚構で彩」られた遊女がらみの作品群などは、詩集中最も自由奔放な想像力を発揮した秀作だ。
 
前詩集と比較すると、本書は散文形を含みつつ通常の行分けも用いながら、内容的には解説、説明、解題といった散文的要素が強く、そうした散文性を一挙に「詩」へと昇華させている要因として、おもに作品末尾に置かれた短詩や和歌(おもに後水尾院の作)、短歌(自作を含む)を挙げることができるだろう。むしろ、 これらの短詩や和歌、短歌から逆算して本文が綴られたような趣きで、そういう意味では、これらの作品を一種の〈詩論詩〉と見ることもできる。全体としては、 後半の後水尾院を主人公とする江戸時代初期の雅ぶりが中心にあり、同じ関西に 住みながら京都の文化歴史に疎い私などにも、大変興味深くまた楽しく読むことができた。懇切丁寧な解説的文章は詩としての欠点どころか、逆に、通常の詩の欠点を克服する一手段とさえ思えてくる。
 
これに比べて前半の詩群は、かなり通常の詩に近い書き方になっているが、ここでもやはり、作者の厳密さへのこだわりは十分に発揮されていて、その厳密さ、精緻さの中からこそ立ち上がるポエジーに注目すべきだろう。八十五歳という長寿を全うした後水尾院の享年をすでに越えた(とはいえ現代人の寿命ははるかに延びているが)米寿の詩歌人の今後から目を離すことはできない。


修学院幻視     目次

Ⅰ 春の修羅
柊の花
ガーラ湯沢
上と下
買春という言葉
原初の美
春の修羅
あなたの名前どう訓むの?
アンドロギュヌス
水馬
イグ・オリンピツク

Ⅱ 修学院幻視
序詩 後水尾天皇とは?
お車返しの桜
後水尾院の御放屁
およつ可愛いや
およつ御寮人
近衛信尋 吉野大夫を灰屋紹益と張り合う
花芯─お夏の巻
尺八─お秋の巻
なぜ修学院なのか
こたつがかり─お冬の巻
ひよどり越え─お春の巻
桂の月
昔の修学院山荘見学ツアー
後水尾院と後宮の女たち
『後水尾院葬送記』
畢詩 あとがきに代えて


  Ⅰ 春の修羅

(この扉の裏面)

    
      屈折率    宮沢賢治

   七つ森のこつちのひとつが
   水の中よりもつと明るく
   そしてたいへん巨きいのに
   わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
   このでこぼこの雪をふみ
   向ふの縮れた亜鉛の雲へ
   陰気な郵便脚夫のやうに
      (またアラツディン、洋燈(らんぷ)とり)
   急がなければならないのか
---------------------------------------------------------------------

     柊の花      

柊(ひいらぎ)は、悪魔を祓うとかいう言い伝えで、
家の玄関脇に植えられていたりする地味な木だが、
鋭いノコギリ状の葉を持っている。
この木は初冬に、その鋸歯の葉の蔭に小さな白花をつける。
季節が寒い冬であり、しかも皆いそがしい十二月だから、
この花に気づく人も少ないだろう。
今この花の花盛りで十一月下旬から咲きはじめた。
傍を通ると、すずやかな佳い香りがする。
人によってはスズランに似た香りだという。
花言葉は「用心」「歓迎」
雌雄異株で、
雄株の花は二本の雄蕊が発達し、
雌株の花は花柱が長く発達して結実する。
実は長さ十二~十五ミリになる核果で、
翌年六─七月に暗紫色に熟す。
その実が鳥に食べられることにより、
種が散布されることになるのである。

結構かわいらしい清楚な花である。
図鑑を見るとモクセイ科の常緑小高木と書いてある。
柊という名前の由来は疼(ひいらぐ)で「痛む」という意味である。
疒(やまいだれ)に旁(つくり)に冬と書く。
熟語に「疼痛(とうつう)」があるのをご存じだろう。
葉の棘に触れると疼痛を起こすことから言う。
「いら」とは「苛」で棘を意味する。
本来、この木は関西以西の山地に自生する暖地性の木らしい。
この頃に咲く花としては「枇杷」の花などもある。
さざんか、茶の花などは、よく知られているものである。
この頃に咲く花は初夏の頃に実をつける習性がある。
年が代って節分になると、
この木の小枝に鰯の頭を刺して、
魔除けの縁起かつぎをする木として、一般に知られているが、
この頃では家が小さくなって、
この木が植えられる家が見られなくなって、
この風習も廃れる一方であろう。

  ひひらぎの秘かにこぼす白花は
     鋭き鋸歯(きよし)の蔭なるゆふべ 木村草弥

----------------------------------------------------------------------------

ガーラ湯沢 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」
と川端康成は書いた。 
一九三五年『文学界』の編集者だった小林秀雄は、この
小説には、このフレーズの前に長い描写があったのだが、
編集者の権限で小林がばっさり削って、この有名な出だ
しになったらしい。こういうレトリックを「ポッと出」
手法という。(閑話休題)
トンネルばかりが多い上越新幹線だが
今ではトンネルを抜けると「越後湯沢」駅である。
冬季だけ開業の臨時駅「ガーラ湯沢」は
ゴールデンウイークの五月はじめまで春スキーを楽しむ
男女で混んでいる。
この駅はJR東日本の若手の思いつきから始まった。
そして成功してJR東日本の関連会社としては大成功し
た社内プロジェクトなのだ。
今ではシーズン中、一日に数千人が利用する。
ここは元々、上越新幹線・越後湯沢駅に隣接する保安基
地だった。
その裏山に開業したのがガーラ湯沢スキー場だ。
ここ新潟県南魚沼郡湯沢町は元々豪雪地帯だ。
今ではスキーだけでなく「スノボ」スノーボードで滑る
若者が多い。だから「スキー場」ではなく「スノーパー
ク」と称する施設が流行りだ。
首都圏から最速で七七分で着く「ガーラ湯沢駅」を出る
と、スキーセンター・カワバンガから八人乗りゴンドラ
が中央エリアのレストハウス・チアーズに動いている。
ここからは初心者用ゲレンデへフェートンというリフト
や中上級者用リフトが何本も連なっている。
エーデルワイスは滑走距離一六〇〇mを誇る。
標高一一八一mの高倉山頂からは上級者用の非圧雪コー
ス九〇〇mなどが連なる。パウダーと迫りくるこぶにチ
ャレンジだ。下まで滑り下りてもリフトが上まで送って
くれるから楽だ。
遊び疲れたら「下山コース・ファルコン」という二五〇
〇m、標高差五七三mを一気に駅前のスキーセンター・
カワバンガまで滑走できるルートもある。
スキーセンター・カワバンガにはSPAガーラの湯、レ
ストラン、更衣室などが完備している。レストハウス・
チアーズにもレストランがある。
山頂の下の尾根には「愛の鐘」というカップルには嬉し
いところもある。まさに至れり尽くせりである。
高倉山頂から勢いよくパウダースノーの斜面に
滑り出たのはいいが
ゲレンデの外れのブッシュに突っ込んで
男はそのまま帰って来なかった。
----------------------------------------------------------------------------

上と下    

タオダさんと仰(おつ)言(しや)いましたか。
どんな字を書きますか。
土(つち)偏に上下と書きます。
垰田です。
IMEの表外漢字にも出ています。
「訓」は「たお」で出ています。
もっとも、漢和中辞典あたりでは載っていません。
この苗字は極めて珍しく全国順位では一一五七三位。
全国人数はおよそ五八〇人と言われます。
「名字由来ネット」というサイトで調べますと、
私は広島県出身ですが、此処におよそ二六〇件が
数えられ、北隣の島根県が五〇件と次いでいます。
だから、ほぼ広島県近辺に発する苗字と考えられます。
私の苗字は「タオダ」と訓(よ)みますが、他には
同じ字を書いて「タカダ」と訓む姓もあるようです。
自分の苗字なので少し調べてみました。
Wiktionaryというところがあり、
〈会意的造字法による国字。
尾根が最も低くなった土地を上下で表す。
「たわ」「鞍部」。〉と記載されています。
垰野とか垰畑、垰谷、垰村など広島県、
山口県に見られる姓であるようです。
人名、地名には地域の特異性があるようですね。
私の知人に「小(こ)圷(あくつ)」という苗字の方が居られます。
この「圷」という字もIMEで出てきますが、
調べてみたら「圷」とは川沿いの低湿地のこと。
苗字としては茨城県に非常に多く分布しているらしい。
なるほど。私の知人も土浦市に居住しておられます。
この字も日本製の国字ということです。
この字の対義語は「塙」で、
山などの小高い場所を「塙(はなわ)」と言い、
逆に川沿いの低湿地を「圷(あくつ)」と言います。
「阿久津」「安久津」などの苗字も、
このような地形から派生したのでしょう。
「峠(とうげ)」という字がありますが、
これも地形から来た国字で、
よく知られているので漢和辞典にも出ておりますね。
偏(へん) を「山」「土」と付け替えて旁(つくり)の「上」「下」で、
様々に苗字が出来る面白さを体験いたしました。
有難うございました。
----------------------------------------------------------------------------

    買春(かいしゆん)という言葉   

もう二十数年も前のことになるが、私の旧制中学から大
学も同じ友人で、某一流会社の専務まで勤めて威張って
いた男が、放送局のアナウンサーが「買春」を「かいし
ゅん」と読み上げるのは、けしからんと、私あての手紙
で言ってきたことがある。
結論を先に言っておこう。
「買春」を「かいしゅん」と読むことは正しい。
日本語というのは「音(おん)」と「訓(くん)」の二本立てで成り立つ
言語である。
この友人の言ってきたことにも一理はある。「売買(ばいばい)」と
いう熟語があるように「音(おん)よみ」すれば「買(ばい)」と発音す
るが、事は、そう簡単ではないのだ。
(お断り)概念を正確にするために、「音(おん)よみ」は「カタ
カナ」で、「訓(くん)よみ」は「ひらがな」で表記する。 
「売春(バイシユン)」という音読みの言葉があるので「買春」を音読
みでしてしまうと、同じ発音になって紛らわしい。そこ
で考えられたのが「かい・シュン」という読み方である。
日本語の読み方には先に言ったように二通りある上に、
このような一つの熟語に「音(おん)よみ」と「訓(くん)よみ」を一緒
にして、「読み」を合成することがある。こういうのを
「湯桶」(ゆ・トウ)読み、あるいは「重箱」(ジュウ・
はこ)読み、と称するものである。
「湯」は訓よみでは「ゆ」であり、「桶」は音よみでは
「トウ」である。これが湯桶読み。重箱を読むときは
「ジュウ・はこ」と読む。これが重箱読みと称される。
太古、日本には文字が無かった。歴史時代になって中国、
朝鮮半島から渡来人によって、かの地の先進的な文明が
齎されるときに「漢字」という文字が一緒に渡来した。
しかし、文字は無くても、「言葉」はあった。それは
「やまとことば」と称され=訓よみ、の基礎となる。
一方、大陸から齎された漢字による「漢語」は音読みと
して成立し、以後、日本語は、この「読み」を使い分け
て今日に至る。「かな漢字混じり文」の成立である。
有名な「万葉集」は、原文は全部、漢字表記である。
このように「やまとことば」も「漢字に由来するもの」も、
すべて漢字で書かれ、その仕組みは複雑で、単に「音(おん)」
を表わすもの、漢文を読み下す時の上下かえり点式のも
の、などの組み合わせで表記される。 ここで一例を。
有名な柿本人麻呂の歌 (万葉集巻①歌番号48)
ひんがしの野にかぎろひのたつ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ
(原文)東 野炎 立所レ見而 反見為者 月西渡
の歌は後世に賀茂真淵が訓み下したとされるが、結句の
「月かたぶきぬ」の原文は「月西渡」の三文字である。
だから今の万葉学者の中には、人麻呂の言いたかったの
は、単純に「月西渡る」ではなかったのか、と言われる。
----------------------------------------------------------------------------

原初(もとつはじめ)の美        

バリ島
バリ──朝の露、昼の陽、
やがて来る濡れたような完璧な闇
バリ島に舞い下りた神々は贅沢だ
寺院は花と贈り物に満ちる
信仰ふかい人々と
蓮の花のゆっくりした開花と落花のテンポ
湧く水は渇きを知らず
大地は全てをつつんでふかぶかと呼吸する
花々は虫を遊ばせ
自らの肢体の美しさを見せつけて微笑(ほほえ)む
バリ──聖と俗との間を行き来する
原初(もとつはじめ)の美意識の島、花々満ちて
うねうねと棚田がつづく風景の
行きつく先はウブドゥの村
パンダワ王子コワラ王子の争いの
やるせない物語の影絵芝居(ワヤン・クリッ)
ガムランの楽に合せて操り師(ダラン)は
人形つかい語る叙事詩(マハー・バーラタ)を
人形は水牛の皮と骨でもって
精緻につくる心の影なのだ

仏伝図 ─ボロブドール─
摩耶夫人は不思議な夢を語った、
アショカの園の昼下りのこと
釈尊の誕生を予言するバラモン僧に
感謝の布施をする王と摩耶
苦行で痩せ細った太子に
乳粥をさしあげる娘スジャータが居た
この名に因んで「めいらく」という乳製品会社が
「スジャータ」コーヒー・フレッシュを売り出した
怒り、憂いは醜い顔に彫られた
「悪い顔」(ヴィルパ)の文字を添えて
禅定とは気を集中し思惟をこらし
真理を追求(ついぐ)する姿と言う
釈尊の初転法輪の力によって
バラモン僧は比丘(びく)になった
百二十一面目のレリーフの「仏伝図」
涅槃まで描かれずここにて終る
第一円壇ま東に向くストゥーパは
幸運を招くとみな像に手を伸ばす
たたなわる巨(おお)きな石塊のシルエット
平原に赤い夕陽が没してゆく
----------------------------------------------------------------------------

春の修羅    
─死者たちの 野に風車ひとつ からからから─
石牟礼道子

三・一一以降、なんとも重苦しい感覚がまとわりついて
離れない。
宮沢賢治生誕二ケ月前(一八九六・六・一五)に発生した
三陸地震津波が県内に多くの爪痕を残した中での生誕だった。
また誕生から五日目の八月三十一日には秋田県東部を震
源とする陸羽地震が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡
・稗貫郡地域に大きな被害をもたらした。
この一連の震災の際に、母イチは賢治を収めたえじこ(乳
幼児を入れる籠)を両手で抱えながら上体で蔽って念仏
を唱えていたという。
家業が質屋の息子である賢治は、農民がこの地域を繰返
し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに、
家財道具などを売って当座の生活費に充てる姿にたび
たび接し、この体験が賢治の人格形成に大きな影響を与
えたとされている。

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか

(まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる)
           *宮沢賢治「春と修羅」抄

生きものたちが冬の厳しい寒さをやりすごすために、
代謝を制限して眠ったような状態を冬眠という。
北国で太陽が遠ざかる冬に活動しているものは本当
に数えるほど少ない。
     大怪獣クラーケンのように
     無慈悲に襲いかかってくる
     大津波よ!
     修羅よ! 春の修羅よ!
----------------------------------------------------------------------------

 あなたの名前どう訓(よ)むの?  

  (先生) ご入学おめでとう!
皆さんの名前を読み上げるのに必要だから
「読み方」を教えてください
山川心桜さん
   (生徒) 「やまかわ こころ」です
   (先生)  ハイわかりました。
(ひとり言つぶやく)「桜」の字は読まないわけね。
読まないのなら余計な桜の字をつけるな。
   (先生②) この字は二〇一六年の女の子の名前
     トップです。「ここあ」と読ませる例もあります。
   (先生)  ほう。 では次。
佐藤奏人くん
(生徒)  「さとう たくと」です
   (先生)  ハイわかりました。
(ひとり言つぶやく)奏(かなで)るから「タクト」ですか。
  連想ゲームですな。
では次。
鈴木大和くん
   (生徒)  「すずき ひろと」です
   (先生)  ハイわかりました。
     (ひとり言つぶやく)昔は大和(やまと)だったのにな。
   (先生②) 「やまと」と読ませるのも多いですよ。
     この名前は二〇一六年ベストテンに入ってます。
   (先生)   では 横山杏さん
   (生徒)  「よこやま いちご」です
(先生) (ひとり言つぶやく)エッ。(絶句)
杏(あんず)を苺と訓(よ)むのか。似て非なる植物なのに。
         これもベストテン入りなのか。
では次。
片山柊希くん
   (生徒)  「かたやま しゅうき」です
(先生)  ハイわかりました。
     (ひとり言つぶやく)これは、まっとうだな。
これもベストテン入りの名前だというのか。
もっとも柊(ひいらぎ)なんて地味な植物を知ってるのか。
棘のある葉っぱの植物だが、
節分には鰯の頭を刺して戸口にかざす風習がある。
有名な歌人に宮柊二(みやしゆうじ)という人が居た。
北原白秋邸に住み込み門下生となったが復員して戦後、
短歌結社「コスモス」を主宰し大結社に育てた。
 目覚むれば露光るなりわが庭の
露団々の中に死にたし  宮柊二


あと先生はクラス全員の名前の訓(よ)みを覚えた。
そして珍妙な「宛て字」の名前の連続に疲れ果てた。
やれやれ。
---------------------------------------------------------------------------


アンドロギュヌス   

あの子は売られて行きましたよ。
もう少し早くいらつしゃればよかったのに。
あなたに貰った薬を大切にしまっていましたよ。
ちゃんと持って行きましたよ。
たっしゃな子だから、一生にあの薬の数ほど、
風邪をひくことはないでしょう。
会った時、私も彼女も風邪をひいていたのだった。
少女はその薬を風邪薬と信じていたのだろう。
    (川端康成『掌の小説』化粧の天使達)
少年の頃に亡長兄の蔵書で川端康成の本をむさぼり読んだ。
『掌の小説』や『浅草紅団』などである。
まだ子供だったので性的には深い読解が出来なかった。
『掌の小説』では堕胎しようと東京市電運転系統図を見なが
ら男の掛声に合せて窓敷居から飛び下りて、どしんと尻餅を
つく描写の「叩く子」や、「愛犬安産」という仔犬の産まれ
る描写などに瞠目した。
『浅草紅団』では主人公の弓子が時折、男に変装して「明公」
という若者に変装したりして、いわゆる「アンドロギュヌス」
(両性具有)の少女として設定されるなど「倒錯したエロチ
シズム」を描写するところなど大正末期から昭和初期の大都
会東京下町の風俗を活写したものだと今になって判るのだ。
「女であること」を必要以上に露出する舞踏団やカジノ・フ
ォーリー、売春など肉体の商品化は現代に続く風俗なのだ。
弓子が「私は地震の娘です」と言い切り、小学校五年生だっ
た関東大震災の混迷のさなかに姉の悲恋を見たのだ。
アンドロギュヌスの聖性を帯びた美少女や、彼女と同様に、
変装好きな紅団の面々。ポン引き、無頼の徒など、健全な市
民から疎外された者たちを存分に跳梁させる『浅草紅団』の
「アノミーそのものの世界」は、関東大震災に引続いて世界
恐慌の波に洗われることになる「一九二〇年代の東京を裏返
しにした陰画」を見る思いがする。
それはプロレタリア文学が夢想していた革命の設計図とは別
に、川端が垣間見た地下世界(アンダーワールド)の不逞な
活力を活写した、と言えるだろうか。
「地震の娘」の弓子に代わって、彼女よりも鮮明な輪郭で、
算術が得意で成熟した女になりきっている「春子」。
川端自身は後年『浅草紅団』を読み返すのに四日間もかかっ
たと「嘔吐を催すほど厭であった」と述べているが、後には
『浅草紅団』を好意的に捉え『伊豆の踊子』が人々を天城越
えの旅に誘ったように『浅草紅団』は昭和初年代の風俗が綴
られた都市文学として新しく評価されて来たのである。
二〇〇五年にはアメリカでも翻訳されて、浅草の観光案内書
として「浅草観光の上級あるいはマニア向けコース案内書」
と呼ばれ、平成の今も残っている浅草独特の怪しい雰囲気を
味わうことが可能だ、と解説されるに至っている。
------------------------------------------------------------------------

  水 馬
       ──ナルシスの鏡を磨く水馬───宮下恵美子
      

水馬─あめんぼう は小さな、体重の軽い水生昆虫だから、
細く長い脚の先で、巧みに水の表面張力を利用して、
六本の脚で立って、ひょいひょいと水面を移動する。
少年は、内向的な性格で、こんな虫や蟻などの生態を、
じっと眺めているのが好きだった。
と言って「昆虫少年」というのでもなかった。

歳時記を見てみると「みずすまし」という名前が、間違って、
この「あめんぼう」のこととして呼ばれていたらしい。
「みずすまし」というのは全然別の虫であって、
1センチほどの紡錘形の黒い虫である。「まいまい」という名前がある通り、
水面をくるくると輪をかいて廻っている。
水中に潜るときは、空気の玉を尻につけている。
『和漢三才図会』には<常に旋遊し、周二三尺輪の形をなす。
正黒色、蛍に似たり>と書かれている。
「あめんぼう」(水馬)については<長き脚あって、身は水につかず、
水上を駆くること馬のごとし。よりて水馬と名づく>
と書かれていて、なるほどと納得する。
「あめんぼう」という命名は、飴のような臭いがするので、この名があるという。

水馬がふんばつてゐるふうでもなく
     水の表面張力を凹ませてゐる   木村草弥

------------------------------------------------------------------------

 イグ・オリンピック   

先ごろ兄が死んだ。
兄は優等生でスポーツ万能
要領もよく、いつもトップを歩んでいた。

ボクは子供の頃から虚弱児だった。
しよっちゅう腹を壊し弱虫で
運動は苦手で頭も良くなかった。
「お前は俺の影だ」と兄は宣言した。
だからボクは、いつも兄の「影」だと自認していた。

オリンピックで表彰台に立つ優勝者。
勝ち誇って辺りを睥睨する。
彼には負けた選手の痛みが判るのだろうか。
ボクは負け犬だったから先ず敗者の心を考えちゃう。
「イグ・オリンピック」というのを考えついた。
なぜオリンピックは暑い暑い酷暑に開くのか。
テレビ放映権を持つマスコミの都合だけだろう。
今では録画技術もよくなって生放映と違わない。
時間帯が合わなければ「録画」で見せればいいのだ。
一九六四年の東京オリンピックは十月十日
この日は秋晴れの特異日ということで選ばれた。
真夏のマラソンなど苦行もいいところ。
選手寿命を縮めるだけだ。
一方、冬のオリンピックはいい。
氷や雪がなければ出来ないからだ。
「イグ・オリンピック」には国歌演奏は無い。
出走者は自腹で参加する。交通費も出ない。
メダルはあるがオモチャみたいにちゃちなものだ。
プラスチックにメッキをした類のもの。
区民運動会のトロフィーみたいなものだが
「イグ・オリンピック」というマークが凄い。
子供たちが原っぱでやる運動会とは、そこが違う。
「イグ・オリンピック世界記録」が発表される。
スポーツで世界をいかに平和にしたかが問われる。

数年後、兄が死んだ齢をボクが超えた。
「お前は俺の影だ」と兄は宣言した。
「影」が自立することは出来るだろうか。
「イグ・オリンピック」が開催される今日。
-----------------------------------------------------------------------------


Ⅱ 修学院幻視

(扉 裏面) 
    
ゆきゆきて思へばかなし末とほく
       みえしたか根も花のしら雲
    ─後水尾院 辞世の御歌─
------------------------------------------------------------------------

     序詩  後水尾天皇とは?

後水尾院
後陽成天皇の第三皇子。名は政仁(ただひと。即位後、ことひと、に改める)。
慶長十六年(一六一一)、十六歳で即位。
後陽成院は弟・八条宮智仁親王への譲位を望み、父子の間は不和が続いた。
元和三年(一六一七)、後陽成院は崩御。同六年、徳川秀忠の娘和子(まさこ)を中宮とする。
幕府より多大な財政援助を受ける一方、朝廷の無力化をはかる施策には反発し、
寛永四年の紫衣事件が直接の原因となって、
寛永六年(一六二九)、皇女である興(おき)子(こ)内親王に譲位(明正天皇)。
以後、四代五十一年にわたり院政をしいた。
和歌を重んじ、廃絶しかけていた宮中の行事を復活させるなど、朝廷の風儀の建て直しに努めた。
慶安四年(一六五一)、落飾し法皇となる。
延宝八年(一六八○)、老衰により崩御。八十五歳。
泉涌寺において葬礼が行われ、月輪陵に葬られた。
和歌約二千首を収める『後水尾院御集』(鴎巣集ともいう)がある。
二十一代集以下の諸歌集から一万二千余首を類題に排列した『類題和歌集』三十一巻、
後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた『千首和歌集』などを編集した。
叔父智仁親王から古今伝授を受けている。
和歌のほかにも立花・茶の湯・書道・古典研究など諸道に秀で、寛永文化の主宰者ともいうべき存在であった。
『玉露藁』『当時年中行事』『和歌作法』など著作も多い。
洛北に修学院離宮を造営したことは名高い。
女性関係は派手で、男女あわせて三十七人の子を産ませている。
禁中法度を無視して宮中に遊女を招き入れたり、遊郭にまでお忍びで出かけた、と
言われている。
退位して「上皇」になってからも中宮・和子以外の女性に三十人余の子を産ませ、
五十六歳で出家して法皇になった後でも直らず、五十八歳で後の霊元天皇を産ませた。

【仙洞御所】
京都御所の東南にある。
仙洞とは上皇の御所の意で、寛永六年(一六二九)後水尾上皇の御所として、
徳川幕府が桜町の地を相して造進した。
故に桜町宮または桜町の仙洞とも称した。
爾来、霊元・中御門・桜町・後桜町・光格各上皇の仙洞となった。
その間、数度の火災に焼亡し、寛文以後は再興されなかったから、
今は庭園だけが残っている。
-----------------------------------------------------------------------------

     み車返しの桜

京都の人々の憩いの場として、普段はひっそりとしている御所も、
春と秋の一般公開期間には沢山の観光客が訪れる。
東西七○○m、南北一三○○mの広大な敷地の中には、様々な樹木が植えられて、
どれも手入れが行き届いている。
三月になると、まず梅林が春の訪れを告げる。
続いて梅林の隣の桃林が満開になり、四月には桜が春の主役になる。
御所は枝垂れ桜が多数植えられていることでも有名で、北側にある枝垂れ桜はどれも枝振りが大きく、見ごたえがある。
芝生の上に腰を下ろして、ゆっくりと桜を楽しむことが出来る。
御所の中でもっとも有名な桜と言えば「御車返しの桜」だろう。
御所、宜秋門の斜め前にある、御(み)車(くるま)返(かえ)しの桜。

     一重と八重がまざって咲くめずらしい桜である
     そのあまりの美しさに 後水尾天皇が
     御車を引き返させて 再びご覧になったことから
     「御車返しの桜」と呼ばれるようになった

     後水尾院は 別に花見をしたかったわけではない
     「修学院山荘」の出来上がり具合を見届けに行きたいと
     思って輿に乗られたところだった
     院は 松の木に特別の関心を抱いておられた
     上御茶屋へ行く途中の松並木の刈込みの仕方にも
     あれこれと指図をなされた
     普通は松を低く刈込むというようなことはないのだが
     小(こ)径(みち)を歩いて上ってゆくときに
     周りの景色がよくみえるように との意図であった
     牛車は山荘の入口までしか乗っては行けないので
     後は歩くしかなかった

因みに、いま山荘と書いてみたが、当時は「修学院殿」と呼ばれていた。
ましてや「離宮」などと呼ばれるのは明治以後のことである。
樹木は毎年少しづつ大きくなる。刈り込んでも造営当初とは大きくなりすぎてしまった。
つづいて因みに、ここの池や樹木などの管理は佐野藤右衛門が請け負っている。
佐(さ)野(の)藤(と)右(う)衛門(えもん)は、庭師の名跡。
京都・嵯峨野にある造園業「植藤」の当主が襲名する。
藤右衛門は、天保三年(一八三二年)より代々、仁和寺御室御所の造園を担ってきた。
当代の第十六代 佐野藤右衛門(一九二八年(昭和三年) ~ )は、日本の造園家、作庭家。
祖父である第十四代藤右衛門が始めた日本全国のサクラの保存活動を継承し、
「桜守」としても知られる。
京都府立農林学校卒業。造園業「株式会社植藤造園」の会長。
桂離宮、修学院離宮の整備を手がける。
パリ・ユネスコ本部の日本庭園をイサム・ノグチに協力して造る。
一九九七年(平成九年)、ユネスコからピカソ・メダルを授与された。
一九九九年(平成十一年)には、勲五等双光旭日章を受章。
二○○五年(平成十七年)には、京都迎賓館の庭園を棟梁として造成。
豪放な振舞いで知られ、この迎賓館の造成中も宮内庁の役人の干渉がひどい、と
「さあ、休みや、休みや」と職人を引き揚げさせたエピソードが伝えられる。

 院は山荘に着かれ 隣雲亭で一休みして こんな歌を詠まれた

     やよひ山咲きおくれむもうらみじや花を卯月のぬさとたむけむ

     見し春のつつじをうつす山水のただ松青き夏になりゆく

---------------------------------------------------------------------------


        後水尾院の御放屁
            ──世の中は気楽に暮せ何事も
                 思へば思ふ思はねばこそ──後水尾院

     修学院村にも若葉の初夏が訪れた
     お忍びで後水尾院が供ぶれも少なくお越しになった
     時しも田植の時期で 山荘の周囲の棚田では
     早乙女が一心に稲の苗を植えていた
     水張田には蛙がころころと盛んに鳴いていた
     何人かが横一列になって こちらに丸い尻を向けて
     ひたすら苗を植えていた
     この頃 軽口の「笠句」というのが
     庶民の間で流行りはじめていて

         かしましや こらへかねてぞ田へつぶて

     という句を院は存じておられた
         ははあ、この光景は正にこの句そのものじゃな、と
         心の中で呟かれたものである

     刈り込まれた松並木の狭い道を辿って
     院は上御茶屋の隣雲亭にお着きになった
     眺望が開け 眼下に浴龍池 遠景に借景の山並が拡がった
     ここは眺望を目的とした簡素な作りで床も棚も無い
     六畳の一ノ間、三畳の二ノ間と六畳間の三室だけからなる
     院はうっすらと汗ばまれた肌を拭われた

     つい先日、八條宮のお招きで院は桂山荘に遊ばれた
     そこでご覧になった襖などの唐紙の紋様が
     陽の移ろいにつれて様々に変化するのを堪能されたのだった
     今日は、その唐紙を作った唐長(からちよう)の当主を呼んでおられて
     雲母(きらら)刷りの原料のことなどを聴かれた
        因みに唐長は創業寛永元(一六二四)年。今に続く本邦
        唯一現存する唐紙屋である。現当主・千田堅吉は十一代
        目にあたる。修学院に工房を構える。創業からのデザイ
        ンの板木が六五〇本も伝来するが、それらの伝統を受け
        つぐと共に、現代的なデザインも旺盛に取り入れて創作
        している。

     見はるかす池に張り出した木々の枝先には
     モリアオガエルの卵塊が いくつもほの白く点っていた
     院は胸をはだけて ごろりと横になられて寛がれ
        やよ唐長や、許せよ、
        貴(あて)は、ちと、おいど(・・・)の埃を払いとうなったわ、
     と仰せられて、ぷぉ~と
     豪快に御(ご)放(ほう)屁(ひ)あそばされた。   
----------------------------------------------------------------------------


     およつ可愛いや

     お上(かみ)のお筆下ろしがいつだったかは判らない
     お上は十六歳で即位された
     すでに れっきとした青年である
     三十七人もの子を産ませる後年の精力絶倫さをみると
     この頃 性欲にめざめても当然である

     下々であれば浮世絵春画の交合図などを見て覚えるのだが
     高貴な処にあっては
     男女の仲に手慣れた女官が手引きするなどがなされた

     典侍をつとめていた四辻与津子は
     公家の四辻公遠(きんとお)の娘で
     四辻の字を取って
     「およつ」と呼ばれていた
     お上のお手がつくように配置されたのだった

     お上──三宮政仁(ただひと)親王は
     慶長十六年(一六一一)四月十二日に即位された
     天皇は十六歳 父の後陽成上皇四十三歳である

     お上は「およつ」を可愛がられた
     やがて およつは第一皇子・賀茂宮を
     元和四年(一六一八)に出産する
     このとき お上は二十三歳である
     そして翌年に第一皇女・梅宮──のちの文智女王を産む

     元和六年(一六二〇)徳川和子入内
     元和九年(一六二三)十一月十九日
     和子が女一宮・興子内親王のちの明正天皇を産む

のちに後水尾院は詠まれた

     人にかく添ふ身ともがな見しままに夢も現もさらぬ面影
----------------------------------------------------------------------------
            

     およつ御寮人

「およつ」と呼ばれていた此の女性は、儚い数奇な人生を辿った。
禁中に上がって女官「典侍」という地位にいたが、若い後水尾帝の
寵愛を受けて二人の皇子と皇女を生んだ。
名は四辻与津子というので「およつ御寮人」と呼ばれていた。
生年は分かっていない。 一六三八年に歿している。
丁度この頃、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)入内の話が出て、
その最中に天皇に寵愛する女が居て、子を成していることが分かり、
徳川家が怒って一悶着あった。
近臣を罰するなどの詫びを入れて、元和六年(一六二〇)に和子が
女御として入内した。
「およつ」の生んだ第一皇子・賀茂宮は四歳で一六二二年に歿し、
第一皇女・梅宮・文智女王は、十三歳で鷹司教平に嫁したが、
三年足らずで離縁。
およつの死後は和子女御──後には中宮が育て、後水尾帝も可愛がった
ので「円照寺」住持として傍に置いていた。
円照寺は修学院山荘の敷地の一角にあったが、山荘の整備のために
大和に移されたが、寺領を幕府に寄進させるなど、和子は多大の援助
を注いだ。
文智女王は、後年にこんな詩を和子に贈っている。

   思碧潭
君在洛陽我嶺南  屢難飛錫侍清談
思看宮裡凭欄日  玉兎移輪浸碧潭

この自作の詩に詳細な自註を施しているのが知られている。
それは「女院様を慕うにつけて御所の碧潭の額を思うの詩」の意とある。
文智女王は文才があったので後水尾帝も可愛いくて仕方なかった。
かつて和子(東福門院)の入内によって母およつ御寮人は後水尾帝の側から
引き離され、兄・賀茂宮は皇統の一族から、その名を抹消された。
それらのことを見てきた梅宮・文智女王である。
東福門院その人に怨みはなくとも心うちとけぬ日々もあっただろう。
もはやあれから半世紀。
今では蔭となり日なたとなって文智女王を援ける東福門院のやさしさが
身に沁みるばかりであった。
その仲立ちの労を取ったのが、かつて東福門院の侍女であり、のちに
「円照寺」住持となった文智女王に帰依して尼僧として仕えた文海尼
であった。
文海尼は上賀茂の社家松下家の出身。母は梅宮の幼いころに乳母を務めて
いて、因縁は浅くはない。
寛永七年(一六三〇)生まれだから東福門院の侍女・相模(さがみ)として
仕えたが、東福門院は相模を大いに信用し、二十二歳で出家し文海と名を得て
仏道の学問に親しんだ後も、法談を聴いたこともあった。
文智女王が出京できないときは文海が替って京都と奈良を往復して仲介の役を
果たしたのである。
東福門院が歿するとき、文海尼だけを招いたことが、その最もよき証拠である。

梅宮・文智女王は、一六一九年生まれ。一六九七年に歿しているが長命だった。
---------------------------------------------------------------------------


   近衛信尋 吉野太夫を灰屋紹益と張り合う

後水尾院の生涯を語るとき、「近衛信尋」の名を欠くことは出来ない。
彼は一体どういう男なのか。

近衞 信尋(このえ のぶひろ、慶長四年五月二日(一五九九年六月二十四日)~ 慶安二年十月十一日(一六四九年十一月十五日))は、江戸時代前期の公家・藤氏長者。官位は従一位関白。
幼称は二宮。法号は応山。
慶長四年(一五九九年)五月二日、後陽成天皇の第四皇子。八條宮智仁親王の甥。幼称は二宮。
母は近衛前久の娘・前子。母方の伯父・近衛信尹の養子となる。
慶長十年年(一六○五年)、元服し正五位下に叙せられ、昇殿を許される。
慶長十一年(一六○六年)五月二十八日、従三位に叙せられ、公卿に列する。慶長十二年(一六○七年)に権中納言、慶長十六年(一六一一年)に権大納言、慶長十七年(一六一二年)には内大臣となる。
慶長十九年(一六一四年)、右大臣に進み、元和六年(一六二○年)に左大臣、
元和九年(一六二三年)には関白に補せられる。
和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、
桂にての交流は有名である。
正保二年(一六四五年)三月十一日、出家し応山と号する。
慶安二年(一六四九年)十月十一日、薨去。享年五十一。
近衛家の菩提寺・京都大徳寺に葬られた。法名は本源自性院応山大云。

近衛前久、信尹の文化人の資質を受け継ぎ、諸芸道に精通した文化人であった。
書道は、養父信尹の三藐院流を継承し、卓越した能書家であった。
茶道は古田重然に学び、連歌も巧みであった。実兄の後水尾天皇を中心とする宮廷文化・文芸活動を智仁親王、良恕法親王、一条昭良らとともに中心的人物として担った。
また、松花堂昭乗などの文人と宮廷の橋渡しも行っていた。
六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。
太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。

今に続く公家の筆頭の家柄である。      
いつも朝廷の中心に居座り続け、天皇家とともに運命を共にしてきた。
多大な日記や記録を保存する「陽明文庫」が有名である。
近衛家の陽明文庫に残る百数十通の院との勘返状(往復書簡)を見ると二人の頻繁な文のやり取りの繁きことが手にとるようにわかるという。
後水尾院とは、すぐ下の弟であり影になって院を支えてきた。
母方の近衛家に養子に入ったが、このような血の交流は、後にもしょっちゅうあった。

最高級の遊女と言われる「二代目 吉野太夫」との関係が史実として伝わっている。
吉野太夫というのは代々称された名前で、吉原の高尾太夫・大阪の夕霧太夫と並び、
「最高の遊女」であった。
吉野太夫は十代以上続いたと言われるが、特に有名なのが「二代目」。本名は松田徳子という。

京都で生まれた徳子は七歳の時に遊里へ売られた。
そして林弥という禿(かむろ)(遊女見習い)となった。
当時の遊里は、五条大橋畔から下流域にあった。六条三筋町(のち島原へ移転)に棲息する。

徳子は持ち前の美貌と、そして頭の良さでぐんぐんと美しく成長し、なんと十四歳にして「太夫」となった。
「太夫」というのは最高級の遊女、その中でも「吉野太夫」という名を貰った徳子はピカイチ。
茶の湯・和歌・舞などどれをとっても超一流、また思慮深く教養があり、
たちまち京都中の大評判になった。

そんな吉野太夫だが、この吉野を巡って二人の男が対立していた。
一人は豪商の跡取り息子・灰屋紹益。
もう一人は後水尾天皇の実弟で公家筆頭の近衛信尋。
彼は芸術家本阿弥の一族とも繋がりがある。
恋のさや当ての結末は、吉野が選んだのは灰屋のほうだった。吉野二十六歳・灰屋二十二歳だった。

が、灰屋にはちゃんとした妻がいた。
そのため父から勘当されてしまった。
でも妻が死んでしまったため、父は灰屋を許し、吉野太夫を正妻にすることを許したのだ。
因みにこの時のエピソードだが、吉野は所持品を売ったりしてけなげに夫に尽くした。
ある日のこと、ある老人が雨が降ってきたので吉野の家で雨宿りさせてもらった。
そこで心ある茶のもてなしを受け、感動した老人が後日吉野のもとへたずねたところ、
そこに息子がいたのでビックリ!
この老人は紹益の父だったのだ。こうして二人は勘当を解かれ、正式な妻となったのだった。
吉野を親戚に紹介する日、親戚の女房達は吉野なんかに負けるものか!と、
競ってゴージャスな着物を身にまといやってきたが、吉野は質素な着物で、
物腰柔らかに挨拶。女房達は恥かしくなったそうである。
だが吉野は病気になってしまい、三十八歳で死んでしまったのである。
灰屋は吉野の死をすごく悲しみ、吉野の骨を粉にして飲んだと言われている。

    後水尾院は、一夕、近衛信尋と雑談をしておられた

    吉野太夫の噂などが院の耳にも届いていたのである
    
        < 汝(なれ)は気ままでいいのう >

    信尋が答える

         < お上(かみ) 何を仰せられます
          お上こそ生殺与奪の権を
          手中にしておいでです >

    院は苦笑いして

         < 何が生殺与奪の権じゃ
          貴(あて)には何の力もないのじゃ
          幕府の食い扶持で生かされておるのみじゃ
          何を以て 生殺与奪の権などと言うか >

   と、改めて苦虫を噛みつぶしたような顔で仰せられた。

今も陽明文庫に残る近衛信尋の懐紙の歌

    うぐいすもこゑうららけき春日野の松に残らむ雪にならはば   
-----------------------------------------------------------------------

       花芯──お夏の巻

      お夏は市井の遊女である
      お上が遊里に遊ばれたときに 見つけて来られた
     「床上手」として知られていた

      お上は上皇として 直接には禁裏の公式行事にも縛られず
      学問と言っても いつもあるものではないし
      連歌の会も センスのある者が揃わないと面白くない
      と仰せられて ますます 色道に精を出された
      禁裏に詰める女は 氏素性を明らかにする者ばかりで
      色事には慣れておらず お上は専ら 自分の精を放つのみであった

      今しも院も熟年の齢になられて
      それも 市井の遊里に遊ばれて
      お相手をする遊女が 性の喜びを あからさまに発するのに驚かれた
      女が歓喜の声を発すると それがお上にも伝わって
      何とも言えぬ男女の性の一体感を味われたのだった
      お上は男女が共に果てる という性の秘め事の極致を求められた
      此処を愛撫すると女が喜ぶのだという秘処も お覚えになった

      口を吸われ 乳首を愛撫されて お夏は喘いだ
      さらに 花芯──豆へのお上の攻めはつづいた
          因みに 豆とはクリトリスのことをいう(閑話休題)

           早乙女の股ぐらを
           鳩がにらんだとな
           にらんだも道理かや
           股に豆を挟んだと、ナヨナ

         という民謡があったらしい、と
         当時流行り始めていた「笠句」の本に書かれている。お分かりかナ。 

     お上の舌が 容赦なく 花芯の尖端を舐めつづけるので
     お夏は 恥ずかしげもなく 嬌声を上げた
     「入れて!入れて!」と お上の一物の挿入を求めた
     お上の 温といお筆先が お夏の巾着に食い込み
          因みに 巾着とはヴァギナのことである
          この巾着は よく締まる などという
          お筆先とは ペニスのことである(閑話休題)
     二人は 獣のように つながりあった
     お夏の巾着の中で お上の筆先は ぬめぬめと動き
     挿入は 浅く 深く ぐるぐる廻って 変幻自在となり 
     二人は汗まみれになって 至福の境地へと高まってゆく
     まさに夢幻の時間が過ぎてゆくのであった

     途中で お上は挿入を止め 
     お夏を組み敷いて またもや 
     花芯へのクリニングスの攻撃を はじめるのであった
     お夏は耐えかねて 「行く!行く!」と息も絶え絶えになって絶叫する
     そして 「入れて!入れて!」と お上の一物の挿入を求める
     二人は ふたたび 獣のように番って 合体して 一つになる
     汗は 二人の顔や胸や腰や腹や背中やらを べとべとに濡らし
     いつしか 頂点に達して 「出る!行く!」と叫びあい
     お上のお筆先から シーメンが お夏の巾着に 放たれる
     遂に 二人は果てたのだ
     お上は 甘美な射精感と 
     お夏は 至福の受容感と に満たされて 
     遂に 二人は果てたのだ
     まさに 二人は合体の極致に達したのだった
     激しい息遣いと けだるい倦怠のうちに
     二人は布団に横たわり 高まった息遣いを 静めて
     けだるい眠りに落ちた

  のちに後水尾院は詠まれた

       常夏のはかなき露に嵐吹く秋をうらみの袖やひがたき

  「常夏の花」は撫子の異名である
---------------------------------------------------------------------------


       尺八──お秋の巻

      お秋も市井の遊女である 
      「尺八」の名手として知られていたのを
      お上が連れて来られたのである

      尺八とは今風に言うと「フェラチオ」である
      今どき風俗店では常識の遊びである
      昔の人は、優雅な言葉を隠語に使ったものだ
      フェラチオ (Fellatio) は オーラルセックスの一種であり
      パートナーが相手の一物を口に含んだり舌を使うなどして刺激する
      語源はラテン語の fellare(吸うという意味の動詞)
      英語の隠語ではBlow jobなどと言う
      フェラチオは短縮されて「フェラ」と呼ばれることが多い
      古語では「吸茎」「口取り」「雁が音」「尺八」「千鳥の曲」とも言った
      今どきの隠語では「F」「フェラーリ」などという
      また勃起した陰茎を横から咥えることを俗に「ハーモニカ」と言う。


      お上は 今や熟年の齢となられて
      さまざまのことをお試しになった
      下々の者がやっている性行為の体位に
      とても関心を持たれた

      <四十八手などというそうじゃのう>
      などと言われた

      世の中は戦国時代から太平の世になって
      世の中が落ち着くと
      性そのものを楽しむ機運になってきた
      浮世絵の隆盛になるのは もっと先だが
      その走りの肉筆描きの春画などが
      市井の巷には出回りはじめていた

      また院は旺盛な読書家であられたので
      平安時代初期に書かれ 伝承される
      最古の説話集『日本霊異記』のことも
      ご存じだった
      著者は奈良右京の薬師寺の僧・景戒
      上・中・下の三巻
      変則的な漢文で表記されている
      
      仏像と僧は尊いものである
      善行には施し 放生といったものに加え 写経や信心一般がある
      悪事には殺人や盗みなどの他 動物に対する殺生も含まれる
      狩りや漁を生業にするのもよくない
      とりわけ悪いこととされるのが僧に対する危害や侮辱である
      これらが『霊異記』の考え方である
      転生が主題となる説話も多い
      動物が人間的な感情や思考をもって振る舞うことが多く
      人間だった者が前世の悪のために牛になることもある。

      その中で天竺の話として息子にフェラチオをする母親の説話があるのも
      お上は ご存じで
      <母子の間でのう>などと
      お秋に語りかけられるのだった

      フェラチオというラテン語が近代世界に知られるようになったのは
      チャップリンの二番目の妻リタが怪文書「リタの不満」で
      「彼(=チャップリン)にフェラチオという倒錯行為を強要された」
      と明かしたためであると言われる。


         お上と お秋との 尺八の秘戯の様子を
         描くのは 長くなるので
         止めておこう

のちに後水尾院は詠まれた

     誰がなかの人目づつみの隔てとて立ち隠すらん秋の河霧
--------------------------------------------------------------------------


    なぜ修学院なのか

後水尾院を遡ること約八百年前、嵯峨天皇は在位中よりしばしば嵯峨山荘に行幸し、
譲位後は歿するまで嵯峨院で過ごすことが多かった。
そして詩を文人たちに作らせたという。
嵯峨上皇の歿後、その皇女で淳和天皇の皇后であった正子は貞観十八年(八七六年)、
嵯峨院を大覚寺と改め、嵯峨上皇の尊像、禅経文などを納めて礼拝する仏地としたいと望み、
その二宮恒寂法親王を開山として勅額を賜り、嵯峨院の山荘は仏祖をまつる霊地へと替り、
以来、禁中と深い結びつきをもつ寺として寺容を誇ってきたのである。
後水尾院の脳裏には、この嵯峨院のことが深く意識され続けてきたのだった。
嵯峨院は明らかに後水尾院の修学院のモデルであった。
後水尾院は、洛西の衣笠山なども候補地として調べさせたり、自らも洛北の岩倉や幡枝などに
山荘を設営させたり、御幸したりしたが、気に入らなかった。
後水尾院は大覚寺にあるような「大池」が欲しかった。

話は時代を飛ぶが、後水尾院が修学院に山荘を造営されてから約七十五年後、
近衛家熙は大覚寺門跡とともに修学院を訪れた記録が残っている。山科道安の『御記』である。
それによると、近衛家熙は山荘の作者を明快に断言している。
  <御亭をはじめ、御庭の一草一木に至るまで悉く後水尾院の御製なり。>
道安が尋ねる。
  <それは何とてあの遠き処を、遊ばしけるにや。>
家熙は、次のように語った。
  <ふと、あの山を御手に入てより、あの地勢山水を御考へにて雛形が出来て、
  草木をはじめ踏石捨石に至るまで、皆それぞれに土にて石形をこしらへ、その処に置いて見て、
  恰好よきやうにあそばし、其の七八分も出来たる時分に、ござつつみの輿にのせ、平松可心、
  非蔵人某などを付られて見分に遣はさるること度々なり。>
非蔵人某とは赤松芸庵かも知れないと言われる。
造営はかなり長期にわたった。
すでに明暦元年(一六五五)以前に隣雲亭が建っているのだから、万治三年(一六六〇)以後に茶屋が完成したのは確かだろう。
それが、上・中・下のどの茶屋なのかなどの資料はないし、この後にも工事は続いたであろう。

後水尾院が山荘造営の上で一番気になったのが八条宮の桂山荘である。
すでに智仁親王は亡くなっている。
かつて譲位や和子入内をめぐって朝幕間の仲介に努力した智仁親王は、元和年間(一六一五~二四)に桂の里に茶屋を設け、次第に山荘としての体裁を整えていた。
智仁親王は寛永六年(一六二九)に歿し、しばらく荒廃するが、二代目・智忠親王に至って
中書院が完成し、今日に至る姿が半ば出来上がった。
後水尾院は、ここを参考にしたいと考えたのであろう。
修学院の造営が進む明暦四年(一六五八)三月十二日、お忍びで桂へ出かけられた。
後水尾院は、
この忍びの御幸を含めて三回桂を訪ねている。

後水尾院が「大池」に拘られたことは先に述べたが、この地には水が無かったから、
今の「浴龍池」を作るために堰堤を築き、山麓に至る流れの水を引き、
さらに音羽川の水を引いて溜めた。
そのために山際の地形を造成した際の土を西側に盛って堤を築いた。
堤は四段の石垣で約八メートルの高さとし、さらにゆるいカーブで幅広い盛土をもって
約七メートルの高さを得て、あわせて十五メートルの高さをもつ堰堤としている。
当然、この堰堤は下の茶屋からみれば異様な姿を見せるので、ここに数メートルの高さの
植え込みを作り、さらにその間に楓などを植えた「大刈込」の独特の景観を工夫したのである。
記録によると盗賊が侵入して放火され、隣雲亭も燃え落ちているから、今に残る隣雲亭が
明暦以前のものと同じ位置かどうかは分からないが、少なくとも浴龍池が築かれてからの
位置はほとんど変わらないと言われている。
因みに、現在みられる上・中・下の茶屋を結ぶ松並木は「御馬車道」と言われる通り、明治期に
宮内庁の管理になり、天皇の離宮行幸のために整備されたものであり、もとはただの畦道だった。
離宮の周りに広がる水田なども昭和期に宮内庁が買上げ、付属農地にしたものである。
前の大池、西浜を越えて遠望される松ヶ崎より岩倉方面の山々の風景は、
後水尾院が眺めたのと余りかわらぬ姿をとどめていると思われる。

後水尾院は、嵯峨院が大覚寺として、嵯峨上皇の尊像、禅経文などを納めて礼拝する仏地となり、
その二宮恒寂法親王を開山として勅額を賜り、嵯峨院の山荘は仏祖をまつる霊地へと替った故事に
倣おうとなされたのは確かだった。

皇子の尊敬法親王に、この山荘を贈るべく寛文六年十月二十五日に「置文」(遺言)を書いて
おられるが、後水尾院より前に歿してしまわれ、この計画は実現せず、そのまま禁裏に所属するこ
とになった。

修学院山荘は後水尾院の<閑放の地>であった。
すでに落飾し、建前としては朝廷の実務を離れた法皇であり、念願通り、案外気楽に山荘へ出かけることが可能だった。
京都所司代も東福門院同伴のときは警備を厳重にしても、院一人であれば、お忍びとして殆ど放っておくことになっていた。

鳳林和尚が後水尾院に随行して山荘を訪れたのは万治二年(一六五九)四月十四日のことであった。
妙法院堯然法親王、照高院道晃法親王らと一緒だった。
床飾りの掛物は京極摂政良経の懐紙と日観のぶどうの絵であった。
このあと一同は山荘の南、雲母坂の方へ出かけて俳諧を楽しんだ。
鳳林和尚が

    卯の花や白きはげにも雲母坂
  
と禿(はげ)の字を隠して、それに「きらら」を利かせた発句を作ると、
後水尾院は

       絵にもおよばぬ夏山の隈

と「脇句」をお付けになった。
続いて「三句」をお命じになったが、ついに誰も出来なかった、と鳳林和尚は日記に書いている。
------------------------------------------------------------------------

    こたつがかり──お冬の巻

     寒くなってきた
     京の底冷えと言って
     盆地である上に
     都の三方を山に囲まれて
     冷気が溜まりやすく
     京の都の冬は とても寒い

     禁裏は
     北は今出川通から
     南は丸太町通までの間で
     極端に言えば 冬の間は
     比叡下ろしの風が 雪を呼んで
     いつも ちらちら 雪が舞う始末だった

     お上は
     馴染みの お冬を呼ばれたのだが
     寒くて 炬燵を出られなかった
     夜は しんしんと 更けていった

     < お上 よい知恵がありますのえ
     こたつがかり と言いますのえ >
     と言って お冬が お上を誘った

     炬燵に入ってのプレイである
     お冬は お上の膝の上に座り
     こたつ台に手をつきながら 挿入する
     座位の後背位である

     これは 炬燵を利用した冬限定の体位である
     お冬は 炬燵に手をつきながら
     一心に 腰を振った
     お上は お冬を抱きかかえながら
     お冬の乳首を もみしだいた

     二処責めの愛撫に
     お冬は よがり声を上げた
     それに刺激されて
     お上も 歓喜の声で 応じられた

     抱き合ったまま 横に倒れて
     なおも 激しく まぐわうのであった
     そして二人は 絶頂に達した

     泰平の世がつづいて 
     下々の庶民も 
     性の楽しみに 勤しむようになり
     四十八手 なんていう体位を
     編み出す 始末だった
     < 江戸四十八手 >という
     浮世絵の春画や 手拭に版刷りした
     体位一覧が 出回るような始末だった

       雪が 小止みなく降りつづき
       夜は しんしんと更けていった

のちに後水尾院は詠まれた

     手習ひのただ一筆も書き添へばいかで待ち見るかひもありなん
-------------------------------------------------------------------------


     ひよどり越え──お春の巻

     あたたかくなってきた
     お春は その名の通り 春が好きだった
     まして お上に呼ばれて いそいそとやってきた
     
     < ぬくうなってきたからナ
      お春の お得意の
      ひよどり越え を所望してみよう >

     と お上が呼ばれたのである

     ひよどり越え とは
     今どきの言葉で言えば 後背位である
     これは『平家物語』の一ノ谷の戦いで
     背後の山越しに後方から攻撃をかけたのに見立てたのだ
     因みに
     古代ギリシャの喜劇『女の平和』には
     「チーズ削りの上の雌ライオン式に立ち」というせりふがあり
     この体位だと 言われている

     もっとも お上は 繋がるまでに
     口吸い に始まり 
     豆なめ と続き
     お上の一物への 尺八などを
     お求めになって 徐々に
     ご気分を高めてゆかれた

     < 貴(あて)も もう齢じゃからのう >
     と仰言(おつしや)られたが
     秘め事では お元気そのものであった
     ただ いろいろと趣向が多いのである

     この体位では 
     乳房や乳首 尻なども 空いている手で
     思い通り 愛撫することも出来る

     お上は 知識旺盛であられたから
     お春を相手にしても
     寝物語りに こんな話をなさった

     <『日本書紀』という本にはのう
      イザナギとイザナミの神さんが
      鶺鴒(ニハクナブリ)が交尾する様をみて
      子を成す方法を知ったとあるのじゃ >
     と 薀蓄を披露されたりした

     こんな伝説のため 古来日本では
     結婚と鶺鴒の縁は深く
     セキレイは結婚と交接を象徴する鳥となっている

     古くは「枕を交わす」「情を交わす」といった奥ゆかしい言葉を使った
     「肌を合わせる」「体を重ねる」なども そうである

     お春のような 床上手な遊女は 
     お上にとっては 師匠のようなもので
     技(わざ)には疎い禁中の女たちを相手にしておられる お上には
     目からウロコのような 秘戯を たくさん覚えられた

     お上は あらためて 挿入され
     お春の きんちゃくの締めも
     ますます 具合が良くなり
     お春の腰を抱いて 
     獅子のように 咆哮して 精を放って
     果てられた

のちに後水尾院は詠まれた

   花よいかに身をまかすらんあひ思ふ中とも見えぬ風の心に
------------------------------------------------------------------------

     桂 の 月

桂川の水面に涼やかな秋風と月が巡って来た
桂川の川水を引いた池の水面に満月が映っている
古書院の縁側から張り出した竹箕子の<月見台>に
八條宮智忠親王たちの観月の宴が催されたのだ
ここ桂の地は古くから貴族の別荘地として知られ
古くは藤原道長の別業が営まれていた。
近くの松室には<月読神社>があり、
桂という地名も中国の<月桂>の故事から来ている。

八條宮家初代の智仁親王によって桂山荘の基礎が築かれ
<古書院>は一六一五年頃に竣(な)ったと言われる。
八條宮家二代の智忠親王は<新御殿> などを付加され、
今宵、後水尾院をお招きになったのだった。
回遊式庭園の桂川から水を引いた池には築山や洲浜、
橋、石灯籠が配され、茶屋の松琴亭、賞花亭、笑意軒、
月波楼が黒い影となって佇んでいる。

後水尾院は、すっかり寛がれ

   河波に月のかつらのさほさして
        明くるもしらずうたふ舟人

   明けぼのや山本くらく立ちこめて
          霧にこゑある秋の川水


と歌を詠まれた。
松琴亭の唐紙の刷りの紋様が光線の射し方によって
様々に変化するのにも興味を示され、職人は誰かなどと
お聞きあそばされた。
後水尾院は四代の帝にわたって絶大な院政を敷かれ、
また色好みとしても知られている。

    身にそへて又や寝なまし移り香も
          まださながらの今朝の袂を

    待ちいでてかへるこよひのつれなさは
            ひとり見はつる有明の月


などの恋の歌を残された。
この頃、徳川幕府は慶長二十年(一六一五年)に
「禁中並公家諸法度」を発するなど朝廷の行動全般を支
配するようになった。
それに対する怒りと諦めとが、
ないまぜになった御生涯であったろうか。

    芦原やしげらば繁れ荻薄
         とても道ある世にすまばこそ

    世の中はあしまの蟹のあしまとひ
         横にゆくこそ道のみちなれ

------------------------------------------------------------------------

 昔の修学院山荘見学ツアー

後水尾院は色々の人を招きながら、さらに山荘の充実に努められた。
万治三年正月には茶屋が完成しているし、これに合わせて「修学院八景」の詩歌を五山の僧や廷臣に命じている。
詩が作られたのは、寿月観、彎曲閣、蔵六庵(以上は現在の下の茶屋の建物)。窮𨗉亭、隣雲亭、洗詩台、止々斎(以上は上の茶屋の建物)。
菩提樹、浴龍池、万松塢(以上は上の茶屋の庭園・池)であった。
因みに、茶屋の建物の名称には仏典から採られているという。
「蔵六庵」は『阿含経』から。「止々斎」は後水尾院の好きな『法華経』の「止々不須説」から、
など。
後水尾院は深く仏に帰依していたから、嵯峨院の故事に倣って、将来、後水尾院自身と東福門院の尊像が修学院に於いて礼拝され、
後生菩提を弔ってくれることを密かに期待されていたのだろう、と言われている。
だが、結論的にいうと、この修学院に門跡寺院を建立する計画は実現しなかった。
詳しくは別段で書いた。

万治二年の五月から年末まで鳳林和尚の日記『隔蓂記』には、この八景詩のことが頻出する。
それだけ後水尾院も、この山荘の美を文芸の世界に残そうという意欲があったのだろう。
因みに、別の資料によると、この鳳林和尚というのは鹿苑寺(金閣寺)の僧侶だった人。
ちょうど嵯峨天皇が巨勢識人らに嵯峨院の詩を献じさせたのと同じ趣向である。

越えて寛文年間になると修学院を訪れる人の数も増えてきた。
それまでの公家や門跡などの限られた人ばかりではない。
何と、一般の僧侶や、寺に関係する町人など、あたかも今日の離宮見学と同じような団体の見学まで行われた。
これも寛永文化の名残りであって、公家・町人社会が未だ隔絶していなかったことの証左でもあろう。
『隔蓂記』寛文二年(一六六二)四月二十一日の条を見ると、どうやら前々から依頼しておいた見学の許可が下りたらしい。
「明日、修学院之御屋敷・仙洞離宮之御池、おのおの拝見、ないない申し上げ明日参らるべき旨、
予案内者として修学院へ赴く」。
こうした願いに対しては、許可証となるべき<見学之割符> が出されるシステムが出来上がっていたと見え、鳳林和尚も<割符>を受け取っている。
翌二十二日は相国寺衆は大体のこらず同伴、北野社家の日ごろ連歌などで顔見知りのメンバーも、鹿苑寺の寺侍などももちろん一緒である。
その他画家の父子や町の人々、総勢八十人ほどの大きな団体になった。
御殿・御茶屋・亭を見学して前もってことわってあったので池の舟も飾りつけてあって三隻に分乗し、持参の弁当を開いて一日の宴遊を楽しんでいる。
翌日見物の割符を無事に返上して、この見学行は終わった。
この日の記録に見えるように、見物には一応の型があった。御殿・御茶屋の見物、さらに浴龍池での舟遊び、さらに茶や食事の饗応というのが一般的であったようだ。
後水尾院の皇女で近衛基熙に嫁していた級宮常子内親王(旡上法院)は度々修学院山荘に遊んでいて、寛文七年(一六六七)閏二月六日の条には少し早い春を、ここで楽しんでいる様子が見える。
先ず下の茶屋の寿月観の庭の土筆採りがある。
今も寿月観の前に白砂を敷いた小さな庭がある。その向うにかつては彎曲閣が建てられていた。きっと、この渓流端の傾斜地に生えていた土筆でも採ったのだろう。
それより上の池に赴く。田の畦づたいに土筆を採りながらとあるから、今のような松の並木はまだ無かったであろうが、田の中を通って上の茶屋へ行った。
隣雲亭には上がらず、西浜を行って止々斎から舟に乗っている。
今も止々斎跡の近くに舟乗り場がある。
舟から窮𨗉亭、隣雲亭を眺めて堤にあがり寿月観に帰っている。
寿月観には基熙が居て平松可心らとともに夕食を摂った。
同じ『旡上法院殿御日記』の寛文十一年(一六七一)三月二日には後水尾院のお伴をして下の茶屋
より上の茶屋に行き、止々斎で昼食を摂っている。
「所々、葉まじりに桜咲き、山ぶきも少有り、山にはつつじ咲き、みごとのうつくしさ、いふばかりなし」という風情であった。
この時すでに中の茶屋にあたる朱宮の茶屋が完成しており、ここにも立ち寄っている。

このような山荘の遊びのパターンは修学院に限らず、後水尾院の好んだ風流の一つであった。
後水尾院は先にも書いたように前後三回にわたって八条宮の桂山荘を訪れているが、寛文三年(一六六三)三月六日の桂御幸を、これも鳳林和尚の記すところによると、和尚は早々に桂に到着し、玄関より書院に移り、あちこち見物し、やがて一同が揃ったところで庭に出ている。例によって鳳林和尚は讃嘆の辞を記す。
「処々之佳景、桜木奇石、方地百里絶言語佳境、御茶屋処々之飾、御菓子驚凡眼者也」。
書院で切麦(索麺)などを食べたのち、増水した桂川に舟を出している。
さすがに舟が自由にならないというので桂川の舟遊びは早めにきりあげて山荘の池に舟を浮かべることになった。
法皇、朱宮、級宮以下法親王たち。すなわち後水尾院は娘や息子たちに囲まれて舟遊びに興じ、舟の中では菓子がふるまわれ、たぶん舟を降り、茶屋に移ってからであろうが茶がたてられている。

これらの宴遊記録を見て気づくのは、宴遊の中で池の舟遊びと茶の湯が重要な役割を果たしている。
寛文二年(一六六二) 十月十八日の修学院での後水尾院の「口切りの茶」では、夕方から舟に乗り、開飛亭に移って、ここで後段と濃茶がふるまわれている。

浴龍池は平安時代以来の貴族庭園の伝統をよく伝えるものであった。
池泉舟遊式ともいうべき舟遊びに主眼のある庭園であった。
------------------------------------------------------------------------


     後水尾院と後宮の女たち

日本の禁中でも「後宮」という言葉が使われていたということを知った。この言葉も、もともとは中国由来のものである。
私のこの詩では、これらの女性たちとは別に、後水尾院が巷の遊郭に遊んだり、禁中にも引き入れたと言われる「遊女」がある。
遊女のことは別段で書くので、区別しておく。

後水尾院は生涯に三十七人の子を産ませたことで知られているが、さぞや十数人の女が居たのではないかと思うが、一統を見てみると、女の数は数人のみである。
その代り一人の女がたくさんの子を産んでいる。時系列的に挙げると、このようになる。
■典侍・四辻与津子(およつ御寮人)が二人。
■中宮・徳川和子(東福門院)が七人。
■典侍・園光子(壬生院)─後光明天皇の生母─が五人。
■典侍・櫛笥隆子(逢春門院)─後西天皇の生母─が十人。
■典侍・園国子(新広義門院)─霊元天皇の生母─が六人。
■典侍・四辻継子が三人。
■宮人・水無瀬氏子が二人。  などである。

院のお手のついたものは、もっと多く居ただろうが、子を成した人が記録に残っているだけだから、女の数は増えることはあっても、やはり特定の女との性交渉だったことが判る。
特に、院との相性もあるから、晩年の愛妃であった新広義門院のことが記録に残っているのも当然だろう。
しかも園家は、その後もずっと天皇家と深い関係が明治まで続いて、伯爵位を得ているのだから、
新広義門院の功績は大きかったというべきだろう。

これらの女の人を見ていると、五十くらいで死んだ人もあるが、いずれも七十、八十という長命であり、下々の庶民の寿命から考えると、とても長寿である。
やはり衣食住など特権的な地位のおかげであろう。
後水尾院の前後の天皇の記録を見ると、いずれも中宮、典侍、後宮など多い場合は十数人抱えており、子の数も二十数人から三十人に及ぶものがある。
だから後水尾院が特に色好みというわけではないようである。
宮中というところは、天皇の胤を宿して自家の出世繁栄を得たいと、公家の上下を問わず女を禁裏に差し出したようである。
------------------------------------------------------------------------


      『後水尾院葬送記』

洛北の山荘を訪ねる後水尾院のあとには、必ずといってよいほど東福門院の姿があった。
晩年のお二人の円満な様子は、前半生を思えば、想像も出来ないほどの仲の良さであった。
徳川秀忠の娘・和子(まさこ)としての入内から後水尾院の譲位に至る朝幕の確執は、
想像に絶する苦しみを東福門院にもたらしたのだろうが、
そうした困難をはねかえすだけの大きさが東福門院にはあった。
女御と呼ばれていた入内当時から、東福門院の難しさを支えていたのは、
化粧料一万石と言われる経済力であった。
入内当時、禁裏御領全体と殆ど同額の公式な収入が女御御所にはあったからである。
東福門院の派手好み、衣装好きは有名だったらしく、当時の京都有数の呉服商だった
雁金屋尾形家の資料に女院からの注文が残るという。
東福門院は三十七人にのぼる子供たちの良き母親でもあった。
ことに後光明天皇(一六四三~一六五四在位)、後西天皇(一六五四から一六六三在位)、
霊元天皇(一六六三~一六八七在位)三人の親王を自分の子として即位させたことは、
優れた配慮だった。
東福門院自身から生まれた二人の親王は早逝し、明正天皇(一六二九~一六四三在位)一人が
女帝として即位しただけで、その後に生まれた親王たちはすべて他の女房から生まれている。
後光明天皇は京極局、後西天皇は逢春門院、霊元天皇は新広義門院を実の母としているが、
これらの女房たちには全く経済力はない。
もし禁中最大の経済的実力者・東福門院と反発しあうことになったら無用の摩擦が起きるだけ
であり、そこで東福門院は、親王が即位するにあたって、わが子として扱い、経済的にバック
アップしたのである。
また内親王に対しても、その配慮は行き届いていた。
ことに東福門院入内に際して最大の難関となった「およつ」御寮人の娘・梅宮に対して深切な
るものがあった。
後水尾院が修学院山荘造営にあたり、可愛がっていた梅宮すなわち文智女王の円照寺を大和国
に移したが、その寺領として寄進するだけでなく、幕府に命じて寄進させている。

東福門院は、延宝六年六月十五日にわかに病状があらたまって臨終を迎えたが、
文智女王に従っていた文海尼ただ一人招いたのであった。
記録には

   法皇御愁傷、以ての外の躰也

と書かれている。 
時に、東福門院は七十二歳、後水尾院は八十三歳。 
この日、元和六年(一六二〇)の入内から、ほぼ六十年に及ぶ二人の生活が終わったのだ。

東福門院の死を悼んで、後水尾院は歌をお作りになった。

     東福門院崩御の時、弥陀の六字を句の上に置きてあそばしける

  南(な)に事も夢の外なる世はなしと思ひしこともかきまぎれつつ

  無(む)かひゐてたださながらの俤に一ことをだにかはさぬぞうき

  阿(あ)け暮れにありしながらのことわざも目の前さらに見る心地して

  弥(み)ぬ世まで思ひのこさずとばかりも此の一ことを何にかふべき

  陀(た)れに思ひ聞きてもみても驚かぬ世をばいつまで空たのみして

  仏(ふ)たたびはめぐりあはむもたのまれずこの世を夢の契りかなしも

八十の賀を過ぎてもなお元気だった後水尾院も、延宝五年(一六七七)に晩年の愛妃・新広義門院を亡くし、翌年東福門院を失ってからは、急に衰えを見せてきた。
後水尾院は、東福門院のあとを追うように、その二年後、延宝八年八月十九日早朝、崩御され、
泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。

納棺の際の様子について堯恕法親王の日記に詳しく書かれている。
『後水尾院御葬送記』によると、「上段に徽宗皇帝の三尊仏が掛けられ、
屏風には不動の像が掛けられた。
院の体は文智女王と朱宮の手で沐浴され、北首西面に安置され、枕元に酢を入れた鉢が置かれた。
暑気が激しいから臭気を取るためである。
屏風の絵を外にして引きまわし、中の机に本尊と香炉を置いた。翌日納棺である。・・・・・」

念のために、泉涌寺について書いておく。
ここには後水尾院をはじめとして孝明天皇までの二十五人が葬られている。
恐らく天皇には「戒名」も付けられていたと思われる。

なお京都市上京区の相国寺境内には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた、後水尾天皇髪歯塚が現存する。
八十五歳という長寿だった。
因みに、この長寿記録は、昭和天皇によって破られるまで、歴代天皇の中で長年、群を抜いて一位だった。
その最晩年は、却って長寿の淋しさが、後水尾院を襲ったであろう。
二十五人いた兄弟姉妹のうち存命者は二人のみ。四歳年下の弟で仲のよかった近衛信尋は、
すでに三十一年前に歿している。
近衛家の陽明文庫に残る百数十通の院との勘返状(往復書簡)を見ると二人の頻繁な文の
やり取りの繁きことが手にとるようにわかるという。
佐野紹益と島原の名妓・吉野太夫を争ったという粋な話は先にしたことが思い出される。

諡号は、遺詔により「後水尾院」とされた。
水尾帝とは清和天皇のことで、徳川家が清和源氏を祖とすると名乗っているので、
その徳川氏を上回るとの意思が見える。
数々の経緯のあった徳川氏とのことを思えば、うたた感慨を覚える心地だったのだろう。

辞世のお歌は

     ゆきゆきて思へばかなし末とほくみえしたか根も花のしら雲 

   いまわの際(きわ)に後水尾法皇は幻を視(み)られた
   修学院山荘の浴龍池の大池に舟が浮かんでいて
   およつ御尞人、新広義門院と東福門院が
   仲良くこちらを向いて微笑んでいる。
-----------------------------------------------------------------------------


畢詩  あとがきに代えて

それは突然のことだった。
宗政五十緒(龍谷大学文学部教授・近世文学専攻)が大学院生の女の子を連れて私の家を訪問された。
この頃、宗政は「都をどり」の台詞の作詞を担当していて、今年は宇治茶の茶摘み風景を取り入れたいので参考にと来訪されたものである。
今から三十年も前のことで平成に入ってすぐの頃か。
茶園や茶摘み道具の竹製の茶摘み籠を見せたりした。都をどりの場面では茶摘み籠に当家の屋号である○京の印が入っていたりした。
宗政は短歌結社「あけぼの社」という小さな会を主宰して弟子たちに歌や文章を執筆させていた。
その中に森川知史(現・京都文教短期大学教授・コミュニケーション論)という人がいて、この人が何と私たちの従姉の子なのだった。
都をどりの関連でいうと、猪熊兼繁(京都大学法学部教授・法制史専攻)先生に一般教養の法学概論の講義を受けたが京都弁丸出しの漫談のような講義だった。
この猪熊兼繁が先任の都をどりの作詞家だったのが亡くなられて、その後任が昭和五五年から宗政五十緒ということで因縁話のように繋がるのだった。
都をどりは「甲部歌舞練場」を本拠にする格式高いもの。祇園乙部というのはいわゆる遊郭であって、一口に祇園と言っても、いろいろあるのである。
宗政五十緒『江戸時代の和歌と歌人』(同朋社出版、平成三年刊)という本で後水尾院に触れたのが、
そもそもの始まりだった。
彼はハーバード大学研究員としてアメリカの大学に居たりして、その筋では名の知られた学者のようである。
彼は一九七七年に「江戸時代前期における宮廷の和歌」という論文で、いくつかの近世和歌史が近世初期の和歌の環境面について触れるところの少ない不満を述べ、後水尾・後西・霊元三院の文学活動の一端を明らかにしたのが発端となり各氏が研究を始めたらしい。
もっとも昭和五年には、すでに 吉沢義則『頭註後水尾院御集』(仙寿院刊)のような詳しい研究書が存在する。
だから近世和歌については、江戸時代から研究されていたことであり、宗政の論文は、軽視への一石を投じたものと理解できるのである。
彼は心筋梗塞で心臓バイパス手術を受けたことがあり、後に私の亡妻も同じ手術を受けたことで、
これも因縁めいている。その彼も二○○三年に心筋梗塞の再発で死んだ。
今でこそ龍谷大学は理科系の学部も揃った総合大学になっているが、私たちが学生の頃は龍谷大学は僧侶養成の学生数も数十人という文学部のみの学校だった。
西本願寺の敷地の一番南端のところが校舎だったらしい。
心臓バイパス手術というのは大手術で何時間もかかるので、その時に、彼は「臨死体験」をした、
と西本願寺の雑誌に書いていた。

後水尾院に関する記録は膨大なものがあり、近衛家に伝わる『陽明文庫』の文書などを基に、
よく研究されている。
『後水尾院御集』(久保田淳監修・鈴木健一著 明治書院刊「和歌大系68」平成十五年)
『後水尾天皇』(熊倉功夫 中公文庫2011年再版)
今回の私の本は、この二著に当該部分の引用、参照に多大の恩恵を受けている。
心より厚く御礼申し上げる。
以下の本は読んだけれども参考にしただけで、引用などはしていない。

『後水尾天皇 千年の坂も踏みわけて』(久保貴子 ミネルヴァ書房2003年)
『お公家さんの日本語』(堀井令以知 グラフ社2008年)
『御所ことば』(井之口有一・堀井令以知 雄山閣2011年)
小説『花と火の帝 上・下』(隆慶一郎 新潮社2010年)作者死亡のため未完

「御所ことば」については、ここに上げた本を読んだが、天皇自身の発言・お言葉については何も記載がないので参考にはならなかった。
「貴(あて)」という言葉を書いたが、これは私の独断による造語である。
今に伝わる下々の言葉に「わて」「あて」というのがあるが、これらは元々は御所言葉であったものが民間に伝承して使われているものである。それらの例としては「おみおつけ」などが、そうであると言われている。詳しくはお調べいただきたい。

御所ことばの件だが、その頃、宮中の一角に「お湯殿」という女官たちの溜り場のようなところがあり、そこで日常のことを記録した『お湯殿の上の日記』というのが残っていて、それらを堀井令以知らが調べたものなどが知られる。
堀井令以知は一九二五年生れだが、私の住む青谷村の中村という集落出身である。
もっとも先代のときに村を出ているから当地の学校には行っていないらしい。
彼は「御所ことば」の専門家としてテレビドラマなどの考証に名前が出ていたが二〇一三年歿。

後水尾院は五代四十年にわたって強力な「院政」を布いたことにも象徴されるように、江戸時代全般を通ずる先例を築かれたようである。
そういう、いわば巨象のような後水尾院を、盲人が体の一部分を撫でているようなのが、
私のこの詩である。
小説でもない、論文でもない、エッセイでもない、──まさに詩としか名づけようのない一片の木の葉である。
全くの虚構と言えば「お夏」「お秋」「お冬」「お春」の一連などだが、現代詩は何でもあり、だから「見てきたような」虚構で彩ってみた。

後水尾院の三十七人にのぼる皇子や内親王の数を見ていると、今の皇位継承者の断絶云々という騒ぎは何なんだという気がするが、明治天皇を最後として「後宮」「側室」制度というのが無くなり、
これも時代の移り変わりかと、うたた感慨深いものがある。
年長に生まれても「儲君」にもなれず「法親王」として寺院に追いやられた皇子たちの悲嘆も思いやられた。
後水尾院が『禁中並公家諸法度』によって統治や行動に厳しい枠をはめられ「学問・諸芸能」に役割を限定されたのを見ていると、今の「象徴天皇」そっくりなのに感心する心境になったものである。
一方は強制したのが徳川幕府であったが、他方はアメリカ占領軍であった。
歴史的に見て、この両者は、これで良かったのだという気がする。
明治維新の「皇国史観」の強制によって、天皇は「現(あら)人(ひと)神(かみ)」とされ、「天皇の名」によって悪いことが圧政として強いられた。
たとえば日清、日露戦争をはじめとして第二次世界大戦に至る、当時の世界列強の帝国主義に倣った侵略戦争への突入などがそれである。
その意味では、天皇には戦争責任があったと言えるが、アメリカ占領軍は天皇制を残すことによって占領政策を円滑に進める道を選んだのだった。
先に第五歌集『昭和』を出したが、その読後感の中に「昭和という時代へのノスタルジー」というようなものがあったが、私の中では、もっと「にがい」記憶として存在するのであった。
この詩とも言えないものを書きながら、脳裏にはさまざまなことが想起した。
これもいい勉強をさせてもらったと思っている。       (完)


   初出一覧
                 上梓にあたり大幅に加筆、削除した

原初の美                  『詩と思想』2013年8月号 2013/08/28
春の修羅                   『詩と思想詩人集2013』 2013/08/31
アンドロギュヌス              『詩と思想』2014年8月号 2014/08/28
ガーラ湯沢                 『 詩と思想詩人集2014』 2014/08/31
水馬                     『詩と思想詩人集2015』 2015/08/31
上と下                    『詩と思想』2016年7月号 2016/07/28
柊の花                    『詩と思想』2016年12月号 2016/12/28
あなたの名前どう訓むの?        『詩と思想詩人集2017』 2017/08/31
イグ・オリンピック              『詩と思想』2018年8月号 2018/08/28
買春という言葉               『詩と思想詩人集2018』 2018/08/31

後水尾院の御放屁            『詩と思想』2012年7月号 2012/06/28
序詩                     「草の領域」       2012/07/02
お車返しの桜                「草の領域」       2012/07/05
桂の月                    『詩と思想詩人集2012』  2012/08/20
およつ可愛いや               「草の領域」       2012/08/21
およつ御寮人                 「草の領域」       2012/08/23
近衛信尋 吉野太夫を灰屋紹益と張り合う    「草の領域」       2012/08/24
花芯─お夏の巻                「草の領域」       2012/08/30
なぜ修学院なのか               「草の領域」       2012/09/04
『後水尾院葬送記』              「草の領域」       2012/09/06
昔の修学院山荘見学ツアー         「草の領域」       2012/09/08
後水尾院と後宮の女たち           「草の領域」       2012/09/09
尺八─お秋の巻                「草の領域」       2012/09/23
こたつがかり─お冬の巻           「草の領域」       2012/12/07
ひよどり越え─お春の巻           「草の領域」       2012/12/15
畢詩 あとがきに代えて            「草の領域」       2012/12/15

露の世は露の世ながらさりながら・・・小林一茶
030811朝露本命②

     露の世は露の世ながらさりながら・・・・・・・・・・・・・小林一茶

江戸後期の代表的俳諧師の一茶は、信州柏原から15歳の時に江戸に出て、奉公生活にも俳諧修業にも辛酸をなめた。
異母弟との13年にも及ぶ遺産争いが解決し、51歳で帰郷、妻帯した。三男一女を得たが、長男、長女、それに次男と次々に幼くて死に、妻をも失った。
この句は溺愛していた長女・さと が、1歳余で天然痘のため死んだ時のもの。
この世ははかない露の世という。そんなことはよく知っている。よく知ってはいるが、知っていることが何になろう。
くりかえし、くりかえし、私は悲しくてたまらないよ。 ということであろうか。
『おらが春』所載だが、「露の世」というフレーズの繰り返しが秀逸であり、かつ痛切である。
「露」の句としては代表的な秀句として、よく知られている。
以下、「露」を詠んだ句を引いておく。

 露とくとく試みに浮世すすがばや・・・・・・・・松尾芭蕉

 甘からむ露を分かてよ草の虫・・・・・・・・石川桂郎

 白露や死んでゆく日も帯締めて・・・・・・・・三橋鷹女

 露なめて白猫いよよ白くなる・・・・・・・・能村登四郎

 われもまた露けきもののひとつにて・・・・・・・・森澄雄 

露今宵生るるものと死ぬものと・・・・・・・・岡本松浜

 芋の露連山影を正うす・・・・・・・・・飯田蛇笏

 蔓踏んで一山の露動きけり・・・・・・・・原石鼎

 露の道高野の僧と共に行く・・・・・・・・池内たけし

 露けさの弥撒のをはりはひざまづく・・・・・・・・水原秋桜子

 落ちかかる葉先の露の大いさよ・・・・・・・・星野立子

 金剛の露ひとつぶや石の上・・・・・・・・川端茅舎

 露燦々胸に手組めり祈るごと・・・・・・・・石田波郷

 露の中つむじ二つを子が戴く・・・・・・・・橋本多佳子

 露の夜の一つのことば待たれけり・・・・・・・・柴田白葉女

 露の戸を敲く風あり草木染・・・・・・・・桂信子

 草の露繁し柩を下ろすべく・・・・・・・・高橋睦郎

 「母」の字の点をきつちり露けしや・・・・・・・・片山由美子

 まるきものに乳房心根露の玉・・・・・・・・鳥居真里子


私の頭の中には、いつの頃からか、 薄命さうなピエロがひとり棲(す)んでゐて、月光を浴びてゐるのでした。・・・・中原中也
img_1505084_22192648_0.jpg

         幻 影・・・・・・・・・・・・・・・中原中也

     私の頭の中には、いつの頃からか、
     薄命さうなピエロがひとり棲(す)んでゐて、
     それは、紗(しや)の服かなんかを着込んで、
     そして、月光を浴びてゐるのでした。

     ともすると、弱々しげな手付をして、
     しきりと 手真似をするのでしたが、
     その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
     あはれげな 思ひをさせるばつかりでした。

     手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、
     古い影絵でも見てゐるやう───
     音はちつともしないのですし、
     何を言つてるのかは 分りませんでした。

     しろじろと身に月光を浴び、
     あやしくもあかるい霧の中で、
     かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
     眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

     ・・・・・・中原中也詩集『在りし日の歌』から・・・・・・・
---------------------------------------------------------------------
今日、10月22日は中原中也の忌日であるから、それを記念して、この詩を載せる。
山口市にある「中原中也記念館」のリンクを貼っておくのでアクセスされたい。

Wikipedia「中原中也」にも詳しい経歴などがある。今に至るも、よく読まれている詩人である。

→ 「山羊の歌」に載る詩をいくつか読める。

大正12年(1923年)3月 - 落第。京都の立命館中学第3学年に転入学。晩秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒するようになる。
冬、劇団表現座の女優で広島出身の長谷川泰子を知り、翌年より同棲。
大正13年(1924年)- 富永太郎と出会い、フランス詩への興味を抱く。
大正14年(1925年)- 小林秀雄と出会う。
3月 - 泰子とともに上京。早稲田大学予科を志すも果たさず。
11月 - 泰子が小林の元に去る。富永太郎病没。
大正15年(1926年)4月 - 日本大学予科文科へ入学するも9月に退学する。
11月頃、アテネ・フランセへ通う。『山繭』に『夭折した富永』を寄稿。
昭和2年(1927年)12月 - 作曲家諸井三郎と出会い、音楽団体「スルヤ」に出入りするようになる。
昭和3年(1928年)5月 - 「スルヤ」第2回発表会にて、諸井三郎が中也の詩に作曲した『朝の歌』『臨終』が歌われる。父謙助死去。葬儀に帰省参列しなかった。
昭和4年(1929年)4月 - 河上徹太郎、大岡昇平らとともに同人誌『白痴群』を創刊。翌年終刊するまでに6号を刊行。

ざっと若い頃の経歴を見ても、長谷川泰子をめぐる小林秀雄とのことなど、いかにも一頃の文学者の典型のような情景である。
一流の文化人、芸術家というのは「平凡」ではあってはならない、という気がする。



映画「日日是好日」鑑賞・・・木村草弥
640.jpg
p1.jpg
p2.jpg

──映画鑑賞──

     映画「日日是好日」鑑賞・・・・・・・・・・・・木村草弥

樹木希林がガンの体調と付き合いながら撮った映画として、感動的なので封切を待って、いつものイオンシネマ高の原で十月二十一日の日曜日に鑑賞した。
先ずは、このサイトを見てください。 → 映画「日日是好日」公式サイト

ここに配役やあらすじ、原作者のことなどが、すべて出ているので私がくどくど書く必要もない。
茶道の流派には色々あるが、この主人公は「表千家」に習っていることになっている。
この武田先生の家などは古屋を改装してセットに使ったようである。
黒木華(くろき・はる)は積極的に映画に出ていて若手の中では活躍頭と言えるだろう。
51-YDSdj6WL__SX298_BO1,204,203,200_
 ↑ この映画は森下典子の本が原作になっている。

9月15日に75歳で亡くなった女優の樹木希林さんが出演しており、そのセリフの数々に感動の声が相次いでいる。
 興行通信社が発表した週末の全国映画動員ランキングでは初登場2位、ぴあ映画初日満足度ランキングでは1位に輝くなど、興行面でも内容面でも好反応を得ている。
約25年にわたって茶道教室に通った日々をつづった森下典子さんのエッセイを『まほろ駅前』シリーズなどの大森立嗣監督が映画化し、
母親の勧めで茶道教室へ通うことになった大学生の典子が、茶道の奥深さに触れて成長していく姿を描き出す。
樹木さんは、典子のお茶の師匠となる武田先生役で出演。典子を温かく見守りながら、茶道だけでなく人生の師として彼女を導いていく大きな器の持ち主という役どころだ。
「私、最近思うんですよ。こうして毎年、同じことができることが幸せなんだって」というセリフなど、武田先生が発する胸に染み入る言葉の数々は本作の見どころの一つとなっており、「胸に響く言葉がいくつもあった」「心に刺さった」という感想が次々とあがっている。
 10月に行われたイベントでは、典子役の黒木華さんが「役を生きることを実感しました。自分もこういうふうになりたいと(思いながら)一緒にお芝居をさせていただきました」と樹木さんとの共演を回顧する一幕も。樹木さんが“役を生きる”姿は、スクリーンにしっかりと刻み込まれている。



ぶどう棚を渡る風に/実りを終えて/安堵の心をみせての/静かな落下・・・高田敏子
imgad205577xrm6tc.jpg

──高田敏子の詩──(16)再掲載・初出2005/10/23

       ぶどう棚の下・・・・・・・・・・高田敏子

     ぶどう棚を渡る風に
     葉は枝を離れて落ちる
     実りを終えて
     安堵の心をみせての
     静かな落下

     葉は落ちて
     地から見上げているよう
     光のよさを
     光を受けて紫の色増す
     実りのよさを

     ぶどう棚の下に座って
     落ち葉の一枚を
     ひざにのせている私

     風は少し冷たくても
     秋の深まりを素直に受けて
     落葉からまなぶ
     心の静けさ

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)


月刊「茶の間」連載「木村草弥の四季のうた」第十一回・・・・木村草弥
茶_NEW

茶_0001_NEW_0001

──月刊「茶の間」連載──(11)

     月刊「茶の間」連載「木村草弥の四季のうた」第十一回・・・・・・・・・木村草弥

        釜の湯のちんちんと鳴る頃あひの湯を注ぐとき茶の香り立つ

 秋から初冬の季節を迎えて、茶の美味(おい)しい季節になってきた。
 時しも菊の咲き誇る季節でもある。

     嵯峨菊が手花火のごと咲く庭に老年といふ早き日の昏(く)れ

     菊の香はたまゆら乳の香に似ると言ひし人はも母ぞ恋しき


 そんな季節は遠い昔の思い出や乳ごもる記憶の母に心を馳(は)せさせたりする。
 この季節になると茶の木に初霜が置くようになってくる。
 そして葉蔭には、ひっそりと清楚な茶の白い花が見え隠れして咲いている。
 茶業者は、この季節を待ち構えていたのである。これからが一年の中で茶の需要の最盛期なのだ。
 年間の売上げの半分以上をこれからの二か月ほどで占めるのだ。
 夏の間に加工して冷蔵倉庫に貯蔵しておいた茶が、次々と出荷されて行く。何とも喜ばしい季節だ。

 連載もあと一回となるので亡妻を詠んだ歌の抜書きを許されよ。

      賞味期限切れた顔ねと言ひながら鏡の中の妻は紅ひく
 
      コーラスのおさらひをする妻の声メゾ・ソプラノに冬の陽やさし


 亡妻は大学に居るときは教会の聖歌隊でコーラスを歌っていた。
 結婚してからも地元のコーラスでソプラノを歌っていたが声が出なくなりメゾ・ソプラノに替わった。
 私は妻の晩年の闘病に付き添て伴走したのが唯一の救いである。
 そんな妻との日々を後の歌集などに記録し得たのが嬉しかった。 

 この季節はさまざまなことを思い出させる。そんな心境の歌を引いて終わりたい。

      秋暮れて歯冠の中に疼(うず)くもの我がなせざりし宿題ひとつ
---------------------------------------------------------------------------
秋が深まってきて、お茶が美味しい季節になってきた。
今年の夏が異常に暑かったので、この思いが、ひとしお、である。
記事中にも書いたが、あと連載も十二月を残すのみになった。
連載の依頼を受けて取り組んだのが、丁度一年前の今頃である。
さまざまのことが去来するが、先ずは本文をお読みいただきたい。



                    
蔵書整理・図書館などに寄贈する・・・木村草弥
書棚_NEW

      蔵書整理・図書館などに寄贈する・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今年の春ごろから一万冊弱の蔵書を処分することに決めて、詩歌関係は北上市の日本現代詩歌文学館に梱包業者に頼んで段ボール10個分寄贈した。送料は15000円ほどで済んだ。
兄・木村重信の著書類は城陽市図書館に寄贈した。「木村重信著作集」全八巻「世界美術史」など大部の本が主である。
整理がつき次第「蔵書目録」の中で検索できる筈である。
他に地元の古書業者がハッチバック車に二台分持ち帰った。「浮世絵春画」復刻版など稀本など。売却代金は六万円余であった。
また「ブックオフ・オンライン」に二万円弱売却した。
おかげで書斎や廊下の書棚に一杯あった本は、ごっそり無くなり、海外旅行のアルバムなどが残るばかりである。
これも「終活」に備えた一環として理解してもらいたい。
掲出した画像は、その空いた書棚の一部に、海外旅行などで買い求めてきたものの、ほんの一部を飾りに並べてみた。
左端の時計下のものはトルコのメブラーナの「踊る宗派」の人形である。
中段の一番上は竹製の東南アジアの幌つき三輪車。真ん中は、ニュージーランドのキュウイの飾り額で光る貝殻を周囲に嵌め込んである。
その下はトルコの「トロイの木馬」の故事に因む置物である。
その下の段の左側のものはイスラエルのユダヤ教の「メノラァMenorahという祭器」である。
右側の三段目はアメリカで買ってきたインディアン・ナバホ族の彫り物である。
その下は鳥の名前は判らないがニュージーランドの木彫である。
リビングのコレクションボードには、ガラクタだがたくさんあるので整理がつき次第に並べてみたい。

これ以後にも九月以来、次々と歌集、詩集などが恵贈されてくるので、それらが、もう二十冊ほども増えた。


夕日の赤/あれは ほおずきの赤/柿の実の赤/糸につるした折鶴の赤の色・・・高田敏子
20081024-01.jpg

──高田敏子の詩──(15)再掲載・初出Doblog2005/10/22

         夕日・・・・・・・・・・高田敏子

     すすきの穂のまねく
     秋の道
     まねかれ
     歩みつづけて
     岬のはずれまで来てしまった

     もう先へは行きようもないけれど
     ひろがる海はおだやかで
     やさしい小舟を浮かばせている

     水平線もはっきり見えて
     海上近くに落ちかかる
     夕日の赤
     あれは ほおずきの赤
     風車の赤
     柿の実の赤
     糸につるした折鶴の赤の色

     夕日は刻々海に近づいて
     円のはしが
     水平線に接したと思うと
     刻々の 時の早さを見せて
     沈んでいった

     沈みきったあとも
     私はまだ 赤の色を追っている
     母が髪に結んでくれたリボンの
     赤の色も思い出され

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)




こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする・・・木村草弥
taiyou084夕日本命

    こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶(きよほうへん)
     かしましき日の暮れなむとする・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも採っているのでWeb上でもご覧いただける。
「うた作り」というのは、連作として、はじめから作るものもあるが、ある程度ばらばらに作った歌を、後から一定の小章名のもとにまとめる、ということもする。
この歌を含む一連を後で引用するが、その中では、掲出の歌は、どちらかと言うと異質かも知れない。
しかし、この歌の持っている雰囲気は、季節で言うと、やはり「秋」のもので、決して気分の浮き立つ春のものではないし、まして夏のものでもない。
私の、この歌は歌会で、私の他の歌のことで「的を射ていない」ような批評を小半日聴かされて、うんざりした気分の時の作品である。咄嗟に出来た歌かと思う。
以下、この歌を含む一連を引く。

     雌雄異株・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  なきがらを火の色つつむ頃ほひか盃を止めよ 声を絞れよ

  須勢理比売(すせりひめ)恋せし色かもみぢ散る明るむ森を遠ざかりきぬ

  いつか来る別れは覚悟なほ燃ゆる色を尽して蔦紅葉せる

  こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする

     ・・・・・・・・・・・聖武帝の皇子・安積王 17歳で744年歿
   わがおほきみ天知らさむと思はねばおほにそ見ける和豆香蘇麻山
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(大伴家持・万葉集第三・476)
   秋番茶刈りゆく段丘夭折の安積(あさか)親王葬られし地(つち)

   このあたり黄泉比良坂(よもつひらさか)といふならむ通夜のくだちに文旦を剥く

     ・・・・・・・・白鳳4年(676年)役行者42歳厄除けのため・・・・
   役小角(えんのをづぬ)の開きし鷲峰山金胎寺平城(なら)の都の鬼門を鎮めし

   無住寺に人来るけはひ紅葉に視界がよくなつたといふ声聞こゆ

   日おもてにあれば華やかもみぢ葉が御光の滝に揺るる夕光(ゆふかげ)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・正安2年(1300年)建立の文字・・
   宝篋印塔うするる文字のかなたより淡海の湖(うみ)の見ゆる蒼さや

   つくばひの底の夕焼けまたひとり農を離るる転居先不明

   いくたび病みいくたび癒えし妻なるか雌雄異株の青木の雌木

   古唐津で茶を飲むときにうら悲し妻が横向き涙を拭きぬ

   厨べの灯が万両の実を照らすつねのこころをたひらかにせよ

   億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
-------------------------------------------------------------------
この一連の舞台回しになっている金胎寺は京都府南部の山間部にあり、聖武天皇が一時造営された恭仁京のすぐ近くであり、平城京の鬼門にあたる北東に位置している。
だから、ここに役行者(えんのぎょうじゃ)が、この寺を建てたことになっている。
鷲峰山は高山というのではないが、この辺りでは最高峰ということになっている。
もっとも当地では「じゅうざん」と発音する。「じゅうぶざん」では言いにくいからである。
ここは昔、「行者」が修行したところで、今でも「行者道」と称するところがあり、このサイトでは写真入りで詳しく書いてあるから参考になる。「東海自然歩道」の一部になっているらしい。
ついでに言うと有名な「関が原」も地元では「せがら」と呼んでいるのと同様の扱いである。

この一連は、舞台回しにかかわらず、小章名の通り、私としては妻との間の心の揺れを描いたものが中心になっている。
歌というのは一連として鑑賞してもよいし、一首づつ単独で鑑賞してもらっても、よい。
この一連などは一首づつ、あるいは「一塊」の歌群を別々に鑑賞してもらっても、よい。



田中成彦第五歌集『瞑想曲』メディタション・・・木村草弥
田中_NEW

──新・読書ノート──

     田中成彦第五歌集『瞑想曲』メディタション・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・北斗書房2018/10/11刊・・・・・・

田中氏の歌集を今回も恵贈された。
前歌集『田園曲』については ← このブログに書いたので参照されたい。

田中氏は音楽に詳しいようで著書には、すべて題名に音楽用語が付けられている。
第一歌集『前奏曲』はプレリュード、第二歌集『喜遊曲』はディヴェルティメント、第三歌集『協奏曲』はコンチェルト、そして第四歌集『田園曲』はパストラーレ、である。
今回の題は『瞑想曲』メディタションである。
このラテン語のことだが、大学の時に、哲学の演習で使ったテキストがデカルトの「省察」メディタシオンだったことを思い出した。
前歌集が海外旅行詠のみの本だったので時期的には重なるもので2005年から2013までの総歌数435首と書かれている。

田中氏の経歴を書いておく。
「吻土短歌会」を主宰しておられ、進学校として名高いヴイアトール学園・洛星高校の元副校長であられた。キリスト者である。
もちろん先生は、この学校の出身で、茶道三千家のひとつ武者小路千家 家元 千宗守宗匠なども此処の出身であるという。
京都歌人協会評議員。日本歌人クラブ代表幹事(京都府)。現代歌人協会会員。読売新聞「京都よみうり文芸」選者。などを務めておられる。

田中_NEW


この本の口絵カラー写真として「長塚節 歌・岡麓 書」という歌碑の拓本が載っている。
歌は <うれしくも/分けこしものか/遥々に/松虫草の/さきつづく山> というものである。
岡麓の優しい筆跡が何とも言えない趣の書である。
この口絵が象徴するように、この本の雰囲気は平明そのものである。

先ず、先に書いた「口絵」の歌に因む個所から鑑賞に入りたい。
口絵に因む歌は2009年の「甲信紀行」という項目の中に収録されている。当該部分を引く。

*青紫の濃きと淡きが成すかたち松虫草よと沁みて頷く
*咲き続く山と詠み据ゑいかばかり充ち足りにけむ旅の節(たかし)は
*年長く会ふを願へる歌碑ありと湖畔の早き朝を起き出づ(諏訪湖)
*心ふかき刀自に給ひし拓本の歌碑恋ひ恋ひて幾年経たる
*紛れなく同じき揮毫よと見つつ確かむ「麓書」の二字
*わが旅も遥ばろにして今朝遂に諏訪の節の歌碑に対へり
*拓本に見し凹凸をなぞるがに歌碑の彫りあと指もて押さふ
*アララギの故地なる宿屋布半に旅の終りの歩みをとどむ(上諏訪)
*赤彦の私信の一節刷られある箸紙もまたこの宿の自負

多く引きすぎたかも知れない。口絵を掲げるという執着に応えて当該部分を引いてみた。

「斑鳩三塔」という項目の歌に

*「瓔珞をうごかす風」とは何ならむ八一の歌を尼僧と語る

というのがある。 その由来は次のようなものである。

・くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ・

 「山光集」所収。

 会津八一の短歌は「平仮名表記」「一字アケ」で知られる。
短歌が「和歌」と呼ばれた前近代から、和歌はカナ文字の連綿体で書かれるのが本来的なものであった。いわゆる「続け文字」である。
平仮名には独特の美しさやたおやかさがある。作者は奈良古美術の研究者だけに、そのあたりのことを考慮したのだろう。
 ところが、活字印刷が普及し識字率も上がってくるとカナ書きでは読みにくい。そこで一字アケとなったのである。単語を一つの単位として「一字アケ」を用いている。
現代では既に読みにくくなっているので、漢字仮名まじりの表記にしてみる。

・観音の白き額に瓔珞の影うごかして風渡る見ゆ・

となる。仏殿中の観音像を詠んだものだ。(「瓔珞・ようらく=仏像または天蓋の飾り」)

 風はもともと見えないものだ。しかし、観音像の白い額につるした飾りの影が動いて風が吹いてくるのがみえる。ここに詩的把握がある。

 「うごかして」と風を擬人化しているところが、その把握を確かなものにしている。

会津八一は1881年(明治14年)生まれ。斎藤茂吉の同世代である。5・7・5・7・7の詩形がようやく「短歌」と呼ばれるのが定着し、旧派和歌を乗り越えてきた時期である。
ものの見方、表現方法に工夫が見られる。
これも近代短歌の試みのひとつだったのだろう。

このようにして、作者の歌から想念が、さまざまに拡がってゆくのも楽しいものである。

作者・田中氏の歌は先にも述べたが、「平明」そのものである。 だから熟読玩味していると何とも言えない趣が出てくる。
多くの歌を引くことは出来ないので終りを急ぎたい。
巻末近くに「されどわが町」という項目がある。
2013年、結婚後の住まいであった亀岡を去り京都市下京区に転居された。現住所は十一歳まで過ごされた町内に隣接するという。

*しはぶきの軽き二つに注ぎくるる番茶謝すれば昼の明るむ
*手に取り味はひたしと不意にしも思ふ赤楽 銘「無一物」
*住むよりも長き時間をともにして勤めし町ぞやがて離れむ
*半世紀入る機会なく行き過ぎし場末のパチンコ衣笠会館閉ぢつ
*通ひ継ぎ何かにつけて老いゆくと思はるる町されどわが町
*黒松の枝ぶり眺め茶など喫むいとま得たれどやがて別るる

最後に引いた歌は、巻末に載るものである。
平明な歌の雰囲気に浸った安らぎの裡に、この鑑賞を終わりたい。
ご恵贈有難うございました。      (完)


猫と生れ人間と生れ露に歩す・・・・加藤楸邨
E99CB2E79083E99B86E59088.jpg

     猫と生れ人間と生れ露に歩す・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

「露」は、夜晴れていて風のないとき、放射冷却によって地面が冷えると、それに接する空気が冷えて、大気中に含まれる水蒸気が水滴になるものである。
秋に多いので秋の季題になっている。
一面に降り、しぐれのように見えるのを「露時雨」という。
「古今集」に

       啼き渡る雁の涙や落ちつらむ物思ふ宿の萩の上の露

という歌があるが、「涙の露」「白露」「露けき」などの「思い」にかかわる用例とともに、「消ゆる」「徒(アダ)なる」のような「はかなさ」の一面が強調されてきた。
情感の深さにひびくとともに、「むなしい」ところが詠われる。

    露とくとく試みに浮世すすがばや・・・・・・・・松尾芭蕉

    しら露やさつ男の胸毛ぬるるほど・・・・・・・・与謝蕪村

    露の世は露の世ながらさりながら・・・・・・・・小林一茶

などが古句の名句とされている。
因みに言うと、一茶の句は長女を乳児のうちに死なせたときの句である。
掲出の楸邨の句は現代俳句として、古句とは違った心象の世界を描いて秀逸である。

以下、明治以後の句を引いて終る。

 病牀の我に露ちる思ひあり・・・・・・・・正岡子規

 露今宵生るるものと死ぬものと・・・・・・・・岡本松浜

 疾くゆるく露流れ居る木膚かな・・・・・・・・西山泊雲

 露の道高野の僧と共に行く・・・・・・・・池内たけし

 露けさの弥撒のをはりはひざまづく・・・・・・・・水原秋桜子

 巨杉の露の日筋を十方に・・・・・・・・高野素十

 落ちかかる葉先の露の大いさよ・・・・・・・・星野立子

 金剛の露ひとつぶや石の上・・・・・・・・川端茅舎

 露の花圃天主(デウス)を祈るもの来る・・・・・・・・山口誓子

 ショパン弾き了へたるままの露万朶・・・・・・・・中村草田男

 露の野やふとかはせみを見失ふ・・・・・・・・五十崎古郷

 露燦々胸に手組めり祈るごと・・・・・・・・石田波郷

 露踏んで相聞の句をつくらばや・・・・・・・・京極杞陽

 露の中つむじ二つを子が戴く・・・・・・・・橋本多佳子

 露の夜の一つのことば待たれけり・・・・・・・・柴田白葉女

 露の土踏んで脚透くおもひあり・・・・・・・・飯田龍太

 幾万の露けき石とわれひとり・・・・・・・・白石蒼羽

 白露や死んでゆく日も帯締めて・・・・・・・・三橋鷹女

 白露の瞳はかなしみの鈴をふる・・・・・・・・石原八束

 露の戸を敲く風あり草木染・・・・・・・・桂信子

 白露の世尊寺道をつくりをり・・・・・・・・大峯あきら



かすがの に おしてる つき の ほがらか に  あき の ゆふべ と なり に ける かも・・・・会津八一
kogetudaitotuki月光

  かすがの に おしてる つき の ほがらか に
   あき の ゆふべ と なり に ける かも・・・・・・・・・・・・・・会津八一


今日十月十七日は暦によると「旧重陽の節句」─旧九月九日である。
それに因んで、有名な会津八一の歌を載せる。

明治14年新潟県に生れた作者は、歌人としてのみならず、書家として一世に名高かった。没後その名声はますます高い。号・秋艸道人。
元来は英文学者だが、東洋美術への関心が強く、とりわけ奈良美術史研究は第一人者として有名である。
早稲田大学教授。
上の歌は、初出の第一歌集『南京新唱』(大正13年刊)では漢字になっている部分も、歌の声調を重んじる立場から、後年、かな分かち書きに変えた。
奈良春日野一帯に照り輝く初秋の月。「ほがらかに」の働きひとつで風景は一挙に大きくふくらんだ。
『鹿鳴集』昭和15年刊所収。

掲出の写真は銀閣寺の光月台に照る月である。
会津八一については以前に採り上げたが重複しないように少し引く。

かすがの の みくさ をり しき ふす しか の つの さへ さやに てる つくよ かも

もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の ねむり しづけき はる の ゆき かも

からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を ひと に すはせし ほとけ あやし も

あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ

かすがの の しか ふす くさ の かたより に わが こふ らく は とほ つ よ の ひと

あまごもる やど の ひさし に ひとり きて てまり つく こ の こゑ の さやけさ

さをしか の みみ の わたげ に きこえ こぬ かね を さみしみ こひ つつ か あらむ

みほとけ の ひかり すがしき むね の へ に かげ つぶら なる たま の みすまる

いろづきし したば とぼしみ つゆじも に ぬれ たつ ばら の とげ あらは なり

あき ふかき みだう の のき に すごもる と かや に はね うつ はち の むれ みゆ
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

「会津八一」ならびに、「会津八一記念館」については ← を参照されたい。

なお「会津」の表記については「會津」の字が正字であり、こういうことには八一は煩かったので、念のために書いておく。

かきなぐる墨絵をかしく秋暮て・・・史邦/はきごころよきめりやすの足袋・・・凡兆
027toukei.s水墨画

  かきなぐる墨絵をかしく秋暮て・・・・・・・・・・・史邦

    はきごころよきめりやすの足袋・・・・・・・・・凡兆


これは発句と付句という連句遊びの一対である。
史邦の発句の575に対して、凡兆が付句で77と応じたもので、連句特有の約束事があり、簡単には説明できないが、見事な受答えと言える。

少し解説してみよう。
史邦の句の「墨絵」は15世紀なかば宋元画がわが国に流入して以来興った水墨画で、禅宗とも深いかかわりが生じた。
この句が詠まれた頃には、中国伝来という意味で、異国風な新鮮さがあった。
一方、凡兆の付け句の「メリヤス」は長崎などを通じて入ってきた紅毛の舶来品である。
つまり、この付け合いは、二様の異国情緒を取り合わせ、両句あいまって、晩秋ひとり心ゆくままに墨絵に没頭して楽しむ人物を描き出している。
風雅を解する豪商か、それとも脱俗の隠士か。
これは『芭蕉七部集』の『猿蓑』はつしぐれの巻、の一部である。

0414_57934b.jpg

写真に掲げたように「足袋」というのは日本の履物で二本指に分れ、「こはぜ」という独特の「留め金」で足首に留めるというものであるが、
その材質を西洋渡来の「メリヤス」の生地で仕立てると、何ともしっとりとした感じの足袋に仕上がり、足になじむのである。
こういう「言葉あそび」が歌仙などの「連句」遊びなのである。
芭蕉の頃から盛んに遊ばれたが、現代になって甦り、あちこちで歌人、俳人、詩人などが連句遊びをやっている。
私も一時期、誘われて「付け合せ」てみたことがある。これらは私のWebのHP「連句の巻」を参考に見てもらえば、多少はご理解いただけると思う。
ついでに説明すると「歌仙」というのは、ここに見るような一対が18対つまり合計36の句で出来ているのが、それである。時間の都合で「半歌仙」という18句の一連もある。
こういう連句は、基本的に「座の文芸」であるが、
今では「捌き手」を置いて、Web上で投稿を募り、捌き手が一番適当と思われるものを採用して、次に進むという催しも行なわれている。
連句に興味のある方には、新潮選書に入っている 高橋順子『連句のたのしみ』をおすすめする。もう10年も前の出版だが、在庫はあるはずである。高橋は詩人で、小説家の車谷長吉の夫人である。
-----------------------------------------------------------------------
掲出の写真に「メリヤス」の足袋のものが手に入らなかったのが残念である。


添水鳴る遠ざかり来てあきらかに・・・・清崎敏郎
492-shishiodoshi鹿おどし

     添水鳴る遠ざかり来てあきらかに・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎

「添水」(そうづ)はまたの名を「猪おどし」シシオドシとも言う。
竹筒の中央に支点を作り、一方を削って水が溜まるようにした装置である。
水が溜まって重くなると竹が下がり水が流れ出て軽くなり、はねあがる。
すると、他端が急に下がり、石や金属を打って、コンと音を発する。
この音により山田を荒らす鳥獣を驚かして追い払う、という仕掛けである。
それから派生して、庭園などに設けて、流水を利用して、音を楽しむようにしたものである。
写真は、庭園にしつらえたものである。
添水というのは、字義からいうと「走り水」に添う、つまり「水路」のことから派生したものであろう。
水を引いて来て、その水を利用して「威し」の仕掛けを作る。

玄賓僧都が

    山田守るそほづの身こそあはれなれ秋果てぬれば訪ふ人もなし

と詠んだのが本意と言われている。
九州では兎鼓とか左近太郎とか呼ばれ、山口では「さこんた」とも言い、また訛って「迫の太郎」とも言われていたという。
水による、しゃれた動物おどしだが、実用には、ほど遠い音だと言える。

こういう音の威しの他に、「添水唐臼」といって、杵を仕掛け、米や稗を搗くものがある。
「水車」の類と言えば判りやすいだろう。

以下、添水を詠んだ句を引いて終る。

 ぎいと鳴る三つの添水の遅速かな・・・・・・・・河東碧梧桐

 ばつたんこ水余さずに吐きにけり・・・・・・・・茨木和生

 ばつたんこまた山の水受け始む・・・・・・・・朝妻力 

 添水かけて木々からびゆく響かな・・・・・・・・大須賀乙字

 添水鳴ると気のつきしより添水鳴る・・・・・・・・西山誠

 闇ふかく添水は己が音を待つ・・・・・・・・有働亨

 京鹿の子咲くと添水のはずみけり・・・・・・・・佐野青陽人

 闇中に声あるものは添水かな・・・・・・・・山中北渚

 ふるさとや添水かけたる道の端・・・・・・・・吉田冬葉

 あれ聞けと尼のかけたる添水かな・・・・・・・・前川舟居

 詩仙堂花なき庭の添水かな・・・・・・・・貞永金市

 失ひし時の重さに添水鳴る・・・・・・・・高橋謙次郎

 手に掬ふ添水に音を生みし水・・・・・・・・大岳水一路

 ばつたんこ法鼓のごとくこだませり・・・・・・・・山本洋子

 次の音自づと待たるばつたんこ・・・・・・・・脇坂豊子

 落柿舎の静けさとまる添水かな・・・・・・・・荒木千都江


短歌に詠まれるものを見つけるのが難しいのだが、こんな歌をひとつ見つけた。

  竹叢に淡く日の射す寺の庭思はぬ方に添水の音す・・・・・・・・・・・・・・神作光一 『未来都市』02年より



山田兼士『ボードレール・小散文詩 パリの憂愁』・・・木村草弥
山田_NEW

──山田兼士の詩と詩論──(15)

      山田兼士『ボードレール小散文詩パリの憂愁』・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・思潮社2018/09/30刊・・・・・・・

敬愛する山田兼士先生が長年取り組んで来られた、この翻訳の本が完成し恵贈されてきた。
ネット上のサイトに保存して来られたものの完成形が、この本になっている。
今日「散文詩」というジャンルは定着したと言えるだろう。
私なども拙い散文詩まがいのものを書いたりしている。
西欧だけでなく、中国でいえば「漢詩」として起承転結や平仄で、日本も「詩」と言えば「韻文」として発足した。
西欧詩の場合は、フランス語でいうと「韻文 vers」(リズムと脚韻を伴う様式)のような形を取った。
日本語の場合には言語の特性上、頭韻や脚韻の効果が少ないというので、5 7 5 7 7のような「音数律」でリズムを踏むという詩歌の形式が発達してきた。
俳句、和歌、短歌しかりである。
そういう「形式」から離れて「散文 prose」で書かれる時代の要請があった、ということだろう。
近代から現代になると社会生活も複雑化して、いわば生活が「散文化」してきて、それは文学にも反映して「韻文」の枠に収まりきらないようになった。
ここに散文詩の発生するに至る社会的条件があった、と言えるだろう。

ボードレールは、この散文詩という形式の「提起」によって、文学史の上で、一つの、大きな「エポック」を画した人である。
このボードレールに、山田先生は長年にわたり取り組んでこられたのである。


もとより私は素人の一介の詩歌の製作者に過ぎないので大きなことは言えない。
ここに本書を恵贈されたので、ささやかながら紹介したいと思う。

この本の原題は「Le Spleen de Paris」というが、私の若い頃に目にした翻訳の題名は「憂鬱」であったが、先生は、これは正確ではないとおっしゃる。
「田園の憂鬱」というような文学作品があったり、した。
「Spleen」は「憂愁」という漢語が適当で、憂鬱=メランコリーは不適当、とされる。これは、まっとうな指摘である。
この本は五十篇の散文詩から成るが、一つひとつの作品の後に一段落とした級数の活字で「解説」が付けられる、という画期的な編集方法が採られている。
巻末の解説をつけるというのではなく、こうして一つひとつ掲げてもらうと読みやすく便利である。
スキャナが利かないので短い作品だけを書き写しておく。

 8 犬と香水壜

「──ぼくの美しい犬、善良な犬、可愛いわんちゃん、さあおいで、街で一番の香水屋で買ってきた上等の香水を嗅ぎにおいで。」
 すると犬は、この哀れな生き物たちにとって笑いや微笑に当たる仕種なのだろう、尻尾を振りながら、こちらにやって来て、栓を抜いた壜の上に、そのしめった鼻先を不思議そうに押し付けるのだが、それから、ぞっとしたように突然あとじさりし、私に向かって、非難するように吠えたてるのだ。
「ああ! なさけない犬め、ぼくはおまえに糞のかたまりでもやっていたなら、おまえは大喜びしてそれを嗅ぎ、たぶん貪り食っただろう。それほどまでに、ぼくの哀しい生活の不甲斐ない伴侶であるおまえというやつは、公衆というものに似ていて、微妙な芳香には憤慨するばかりだから与えてはならないし、念入りに選んだ汚物を与えなければならないのだ。」

詩人の民衆蔑視を露骨に表明した作品。微妙な芳香を感得できずにかえってこれに憤慨し、汚物を喜んで受け入れたがる愚かな民衆。  ・・・・・・
詩集巻末の「50 善良な犬たち」とベルギー滞在中に書かれた最晩年の十四行詩「ベルギー人と月」が、詩人最後の自己像であることを考え併せると、本作がこの位置に配されたことの意味は大きい。つまり、巻頭から間もない作品と巻末作品が「問い/答え」の対話(対位法)を構成しているのである。


掲出した画像でも読み取れるかと思うが、この本の「帯」に、編集者が書いた文章が、この本の「要約」として的確である、と言えるだろう。
ここに、ささやかな紹介の文を書いて、先生の長年の労作に報いたい、と思う次第である。
ご苦労さまでした。
ご恵贈に感謝して筆を置く。       (完)


父を詠みし歌が少なし秋われは案山子のやうに立ちてゐたりき・・・木村草弥
kakashi_060903_013.jpg

   父を詠みし歌が少なし秋われは
      案山子(かかし)のやうに立ちてゐたりき・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

この頃では、農民が鳥よけのために実用に立てるものは殆ど見かけなくなった。
昔は、写真のような素朴な案山子が立っていたのだが、今ではネットを張ったり、「爆音器」でプロパンガスを爆発させたりして鳥を威すようになり、メルヘンはなくなってしまった。
この頃では廃棄された古いマネキン人形を田んぼに立ててあるのを見ることがある。
変になまめかしいもので、スズメなどの鳥が、どう感じるかは判らない。

私の歌は、もちろん案山子を詠んだものではなく、「父を詠んだ歌」が少ないというのが主眼であるから、ここで案山子のことを、あれこれ書くのも語弊があるかも知れない。
私の父は厳しい人で、反抗しては、よく、こっぴどく叱られたものである。
そんなときは、歌のように私は「案山子」のように突っ立っていたものである。
そんな回想が、この歌には込められているのである。
「案山子」かかしというのは、田畑の収穫を鳥獣から守る仕掛けだが、「嗅がし」から出た言葉だという。
古名は「曾富騰」(そぼと)で、『古事記』に「少毘古那神を顕はし白(まを)せし謂はゆる久延毘古(くえびこ)は、今に山田の曾富騰といふぞ。この神は、足は行かねども、ことごとに天の下の事を知れる神なり」と書かれている。
この「そぼと」は「そぼつ」に変り、案山子と添水の二つに分かれて用いられてゆく。そめ、しめ、とぼし、がんおどし、鳥かがしなどと各地で使われている。

以下、案山子、鳥威しを詠った句を引いて終る。

 水落ちて細脛高きかがしかな・・・・・・・・与謝蕪村

 案山子たつれば群雀空にしづまらず・・・・・・・・飯田蛇笏

 倒れたる案山子の顔の上に空・・・・・・・・西東三鬼

 案山子運べば人を抱ける心あり・・・・・・・・篠原温亭

 案山子翁あち見こち見や芋嵐・・・・・・・・阿波野青畝

 夕空のなごみわたれる案山子かな・・・・・・・・富安風生

 胸うすき案山子舁がれゆきにけり・・・・・・・・只野柯舟

 案山子相知らず新顔ばかりにて・・・・・・・・天野莫秋子

 抱へゆく不出来の案山子見られけり・・・・・・・・・松藤夏山

 かの案山子もつとも睨みきかせをり・・・・・・・・・河野白村

 鳥おどしこれより秋のまことかな・・・・・・・・小杉余子

 鳥威し簡単にして旅に立つ・・・・・・・・高野素十

 鳥おどし動いてをるや谷戸淋し・・・・・・・・松本たかし

 母恋し赤き小切の鳥威・・・・・・・・秋元不死男

 山風にもまるる影や鳥おどし・・・・・・・・西島麦南

 結び目だらけにて鳥威しの糸・・・・・・・・加倉井秋を

 金銀紙炎のごとし鳥威し・・・・・・・・加納流笳

 威し銃たあんたあんと露の空・・・・・・・・田村木国

 強引に没日とどめて威し銃・・・・・・・・百合山羽公

 怺へゐしごとくに威し銃鳴れり・・・・・・・・古内一吐



牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさに見つ・・・木村草弥
Prelude-to-the-Afternoon-of-a-Faun-Flute.jpg
↑ ド・ヴュッシー「牧神の午後」楽譜

    牧神の午後ならねわがうたた寝は
        白蛾の情事をまつぶさに見つ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

秋の季節は生き物の世界でも越冬に備えて、卵の状態で冬を越すものが多いから交尾をして卵を産むのに忙しい繁殖期だと言えるだろう。
「白蛾の情事」というのも実景としても見られるものである。
しかし、この歌ではそれは添え物であって、私の詠いたかったのは「牧神の午後」というところにある。
演奏の曲を出したいところだが、この頃は厳しくて出せないので楽譜を掲出するのとどめる。

 シュテファヌ・マラルメについては ← が詳しい。
Mallarme.jpg
41DVSKR944L__SL500_AA300_.jpg
 ↑ポール・パレェ指揮による「ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲」CDのジャケット。
 
『牧神の午後』 L'Après-Midi d'un Faune はフランスの詩人シュテファヌ・マラルメの「長詩」である。
着想そのものはギリシァ神話に基づいている。
物語自体は非常に単純なものである。水辺でニンフたちが水浴びをしている。
そこへ彼女たちの美しさに目を奪われた牧神パンが仲間になりたいとやって来るが、ニンフたちはパンが半獣半人の姿なので驚いて逃げてしまう。
追っかける、逃げる、の繰り返しの中で、一人のニンフだけがパンに興味を示し、パンも求愛の踊りをする。
愛は受け入れられたかに見えたが、パンが彼女を抱きしめようとするとニンフは逃げてしまう。
パンは取り残されて悲しみにくれたが、彼女が落としていったスカーフを見つけ、それを岩の上に敷いて座り「自慰」(オナニー)する。
マラルメは、これを劇として上演したかったが無理と言われ、マネの挿絵付の本として自費出版した。
これに感動したドビュッシーが、マラルメへのオマージュとして『牧神の午後への前奏曲』を作曲する。
マラルメの夢のバレエ化が、20年後にニジンスキーによって実現されることになったのである。
初演は1912年5月29日、ディアギレフ・ロシア・バレエ団で、パリのシャトレ劇場において、ワスラフ・ニジンスキーの主演で催行された。
当時、このラストシーンで、ニジンスキーは舞台の上で恍惚の表情を見せ、しかも最後には「ハー」と力を抜く仕草までして見せたと言い、
彼の狙い通り「スキャンダル」の話題を引き起こしたという。

 ↓ 写真は牧神パンとニンフのイメージである。
pan_nymph牧神の午後イメージ

↓ 写真に「蚕蛾」を出しておく。
PICT7372.jpg
この蛾は、人間が改良したもので、飛ぶ力は、全く、ない。羽根は退化して体重に比べて極めて小さい。
蚕蛾の場合は、ここまで蛹から成虫になること自体が人工的であって、普通は繭から糸を取り出す段階で熱湯で茹でられてしまって死んでしまうのである。
蛾は雌雄が引き合うのに雌が出す「フェロモン」を雄が感知して、羽根を震わせながら狂ったように寄ってくる。
今では、こういう蛾の習性を利用して、「生物農薬」として、特有のフェロモンを合成して、特定の蛾の害虫の誘引に使っている。
蛾にとっては交尾は「本能」であって「情事」との認識はないのだが、この歌の中では「擬人化」して、情事と詠ってみた。擬人化は文芸の常套手段である。

香山雅代詩集『雁の使い』・・・木村草弥
香山_NEW

──新・読書ノート──

      香山雅代詩集『雁の使い』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・砂子屋書房2018/06/03刊・・・・・・・

香山さんは西宮市の在住で同人誌「Messier」を主宰されている。
詩作のほかに「日本歌曲振興波の会」所属で自作の詩に作曲されたものを発表されている。
また「能楽学会」会員としても活躍されているようである。
詩歴としては長いキャリアをお持ちで、今回の本は第十詩集ということになる。
同人誌「Messier」も発行の都度いただいており、今回の詩集は、これらに載せられたものが主になっている。
題名の「雁の使い」という詩はない。 今回この本を編まれるに際して、この題をおつけになった。
「雁の使い」で思い出されるのは、次のようなエピソードではないか。

《「漢書」蘇武伝の、匈奴(きょうど)に捕らえられた前漢の蘇武が、手紙を雁の足に結びつけて放ったという故事》である。
ここから、便り。手紙。かりのたまずさ。かりのたより。かりのふみ。雁書。雁信。雁使(がんし)などと言う。

   「春草を馬咋山(くひやま)ゆ越え来なる雁の使ひは宿り過ぐなり」〈万葉集・一七〇八〉

の歌が思い出されるのである。
香山氏の頭にも、このことがあって、今回の詩集の「題」にされたのではないか。

巻頭の詩「波動  風景と位置」には

    眩しく 眼を射る
    青陽

    非有の時空に 潜む
    現前(いま)を
    覆い尽くして 展がる・・・・(注・本文は「氵さんずい」に「展」の字だがIMEでも出ないので失礼する)
    白い静脈を 浮き立たせる
    富士
    白銀の 原野を
    わたる

    百とせの 血脈浮くもみじ葉を 銜え
    わたしの なかぞらをゆく
    雁の ひとむれ
      ・・・・・・

とあるので、題名は、ここから採られたとも考えられる。
なお「波動」という言葉も頻出するので、この言葉なども香山氏の作品をひもとくヒントになるのではないか。

同人誌「Mwssier」をいただいて、拝見した印象として「狷介」(けんかい)という印象だったが、現前(いま)というルビの振り方や、「氵さんずい」に「展」の字などの使い方なども「狷介」と言えるだろう。
IMEを参照しないと判らない難しい漢字の頻出などが、香山氏の詩の難解さを加速していると言えるだろう。
恐らく香山氏はIMEの「表外漢字」ではなく、大きな漢和辞典から、この字を引かれたのであろう。
いずれにしても、私が「狷介」と評する所以である。
また、「恬」を「しずか」と訓(よ)ませるルビや、「息」を「かぜ」と訓む、「綰」を「つなぐ」と訓ませる、「慥」を「たしかめる」と訓む、「放髪」を「はなり」と訓む、「鑕」を「きる」と訓む、「雲翳」を「かげ」と訓む、「現存在」を「にんげん」と訓ませる、など、かなり無理な訓みかたといわなければならない、と思う。
それらの字なり訓なりが、それぞれの作品の中で、その字を使わなければならない必然性があるのかどうか。
それらが常用漢字を使用することによっては「毀損」されるのか。
徒(いたずら)に難しい表外漢字を使うことが、これらの作品の鑑賞に当たって、逆に読者を引き離しているのではないか、作者の「一人よがり」ではないか、作者の自己満足ではないか、を危惧する。
確かに「表外漢字表」を見れば、その字の音(おん)訓(くん)を確認することが出来ても、何だか無理があるなあ、という感じのするものも多い。
漢字は「表意」文字であるから、字の成り立ちには、それぞれ意味があるのである。
例えば、私が突き止められなかった「氵さんずい」に「展」の字なども「氵さんずい」が付くからには「水」に関係するものであるが、当該詩の場合、その場面は「水」辺なのか。
「風景」は「富士」とある。
確かに詩の終章に「震える水に/青い花を 映す/ひとはけの/雲 と・・・」とあるから「水」に関係する場所なのか、とも思うが・・・・・。

始めから否定的な指摘をして申し訳ない。一つの躓き、疑念が尾を引く、と思っていただきたい。
私が作者の作品を「狷介」という理由である。
読者など居なくていい、と言うのならばいいが、それならば、なぜ十冊もの詩集を大金を費やして上梓するのか。
この矛盾を説明願いたい、と思うのである。

さすがに砂子屋書房の編集者は、鋭い。「帯」に引かれた詩は判りやすい佳い作品である。

   白雨が 過ぎる
   瞬時
   ひたむきな 夢を みつめる

       ・・・・・・・

   杓子の数だけ 地上で
    金環日食を 確かめ
   ときに 太陽の靨を愛でる
   蹠に つたわる
    それぞれの重みで
   水温を 分けて
   大気を 分けて
   旅立つ大地の 直下に 在る
      ・・・・・・・                「雲間」抄

判りやすい一連である。
いずれにしても、私は香山氏が、どんな学歴を持っておられるか知らないが、知識をひけらかすのではなく、なるべく分かりやすい字を使って作詩してほしいと願うものである。
いろいろ的外れのこをと書いたが、これらの難しい字の使用も、香山氏の独自性を際立たせるものと言えるだろう。
鑑賞にもなっていないが、今回は、この辺で、お許しいただきたい。
香山氏も若くはないので、これからも体調に留意されて、お励みいただくようお祈りして筆を置く。
有難うございました。      (完)



黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む・・・木村草弥
51jmQ40JdyL__SS500_.jpg

    黒猫が狭庭をよぎる夕べにて
      チベットの「死の書」を読み始む・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌自体は季節に関係はないが、「死の書」というので、ちょうど秋の彼岸も過ぎたことなので季節の歌と受け取ってもらっても構わない。

430976018X.09.LZZZZZZZエジプト死者の書

関連はないが、同じ「死者の書」(ウォリス・バッジ著)というのが古代エジプトにも存在した。
写真②が、それであるが、チベットにおける「死者の書」の扱いと同じようなことをしたらしい。

チベットの「死者の書」はいくつかのヴァージョンがあるらしいが、説くところは同じである。
チベットでは宗派を問わず、一般に「死者の書」という経典を臨終を迎えた人の枕元でラマ僧が読む習慣がある。
死者がこの世に執着しないように肉親、親類は遠ざけられる。
その経典には、死者が死後に出会う光景と、その対処法が書かれている。
この本の「曼荼羅」に現れる神々は男女交合の姿で描かれるという。(写真③)

yabマンダラ交合図

青い仏に抱きつくようにして交合している髪の長い、白い体の女の姿が見えるだろう。女は「口づけ」しているようだ。
これは歓喜仏(ヤブユム)と呼ばれているが、これは神々の合体の姿の中に、究極的な境地の至福の状態である「大楽」が保持されているからだという。
日本に伝えられた仏教の「理趣経」がそれに当るが、これこそ密教の最も密教的な部分である。
日本では「聖天」さんとして祀られているところで見られる。

死者は49日間バルドゥと呼ばれる生の中間的な状態に留まるが、その間に死者は、死の瞬間に眩しく輝く光を体験する。
最初の一週間で死者は平和の様相の神々の、次の一週間で怒り狂った神々の来迎や襲撃を受け、遂には閻魔大王の前に引き出され、人によっては灼熱地獄に投げ込まれたりする。
そして死者は、それぞれのカルマに従い、六つの世界のいずれかに再誕生してゆく。

今日、仏教(場合によっては「神道」も、これらの影響を受けているという)の色々の行事──たとえば、四十九日の忌明、満中陰の決まりなどは上に書いたバルドゥの考えそのものである。「生れ変り」「輪廻転生」などの考え方も、上に書いたことの表れである。また「地獄、極楽」あるいは「エンマ様」のことなど、われわれ仏教徒が子供の頃から親に言われてきたことを思い出せば、よくお判りいただけよう。
こういう俗事はわかり易いが、哲学的にいうと、深い思想を含んでいると言われている。
哲学者の浅田彰氏の本など、結構むつかしいものである。
写真④の歓喜仏は1900年頃チベットで作られたと思われる金銅製のもので高さ15センチくらいの小さいもの。
00892side1歓喜仏1900頃

このような「歓喜仏」はチベット特有のものではなく、ヒンドゥー教には古くからあるものである。
北インドのカジュラホに行くと、寺院の外壁一杯にレリーフが大小さまざまの交合スタイルで彫刻されている。ズームカメラがあれば鮮明な写真を撮ることが出来る。

kan9ガネーシャ歓喜仏宮城県

写真⑤はガネーシャという象の頭の格好をした神の歓喜仏である。
このようなスタイルは珍しいが、インドはヒンドゥー教が主流を占める国である。
ヒンドゥー教は多神教で、一神教のような「禁忌」は殆ど、ない。
ガネーシャというのは主神シヴァ神の子供だが、父親の言いつけに背いて罰をうけ、このような象の頭に首をすげ替えられた。
ガネーシャに組み敷かれた女の表情も、むしろ嬉しそうで、エクスタシーの境地にあり、ガネーシャの首に手を廻しているほどである。 
書き遅れたが、この像は宮城県のお寺にあるという。
こういう性に関する大らかさが特徴であると言えるだろう。
余談になるが、インドに行くと、このガネーシャ神を祀った寺院がある。
どうも、このガネーシャは金儲けの神様でもあるらしく、お金持ちの事業家が金ピカの大きな寺院を喜捨して建てているのである。


子がなくて白きもの干す鵙の下・・・桂信子
モズ雄

      子がなくて白きもの干す鵙の下・・・・・・・・・・・・・・・桂信子

「鵙」モズの高鳴きがひびく季節になってきた。
モズは燕雀目モズ科の猛禽。やや大きめものでも捕食する。生餌を食べる鳥である。
掲出の写真①はモズの雄で、眼のところに横に黒い筋(過眼線)がある。
写真②はモズの雌で、雄のような黒い筋がない。色も相対的に地味である。
mozu02-2モズ雌

モズは一年中いる「留鳥」だが、秋には先に書いたように「高鳴き」をするが、これは縄張り宣言のための警戒音と言われている。
モズは「百舌」とも書くが、これは他の鳥の鳴き真似をするからで、じっと聞いていると、さまざまの鳥の鳴き声を真似している。
繁殖期も含めて、高鳴きをすることがないから、目立たないので、気がつかないだけである。
「高鳴き」のシーズンは、人が近づくだけでも、けたたましく鳴きたてる。
秋には「モズの早贄(はやにえ)」と言って、捕らえた餌を尖った枝の先などに刺しておく習性がある。
これは蓄食のためだというが、乾燥してこちこちになったものは食べないのではないか。もともとモズは生餌を食べる鳥である。
写真③はトカゲを捕らえたところ。
mozu03モズはやにえ

↓ 木の枝に刺した早贄(はやにえ)の写真。
hayanie4モズはやにえ

餌は昆虫、トカゲ、蛇、魚、野ねずみ、蛙、小鳥など多岐にわたる。猛禽と呼ばれる所以である。
モズについては私の歌を掲出して昨年に書いたことがあるので、参照してもらいたい。
このようにモズの高鳴きが目立つのが秋なので、鵙の季語は秋になっている。
すでに「万葉集」にもモズを詠んだ歌があるほど文芸の世界では、古い付き合いである。
『本朝食鑑』に「およそ鵙、つねに小鳥を摯(と)りて食ふ。その声高く喧くして、好からず」とあり、猛く喧しい鳥と考えられてきたのも秋の「高鳴き」のイメージから定着したものであろう。
俳句に詠まれる句も多い。
掲出した桂信子の句は、早くに夫に先立たれて「子を産めなかった」女の哀しみをモズに寄せて情感ふかく詠まれている。
以下、モズの句を引いて終る。

 我が心今決しけり鵙高音・・・・・・・・高浜虚子

 大空のしぐれ匂ふや百舌の贄・・・・・・・・渡辺水巴

 われありと思ふ鵙啼き過ぐるたび・・・・・・・・山口誓子

 かなしめば鵙金色の日を負ひ来・・・・・・・・加藤楸邨

 御空より発止と鵙や菊日和・・・・・・・・川端茅舎

 百舌鳥に顔切られて今日が始まるか・・・・・・・西東三鬼

 たばしるや鵙叫喚す胸形変・・・・・・・・石田波郷

 逢はざるを忘ぜしとせむ雨の鵙・・・・・・・・安住敦

 鵙は嘴なほ血塗らねば命絶ゆ・・・・・・・・中島月笠

 鵙鳴けり日は昏るるよりほかなきか・・・・・・・・片山桃史

鵙の贄叫喚の口開きしまま・・・・・・・・佐野青陽人

 鵙の贄まだやわらかき日ざしかな・・・・・・・・塩尻青茄

 生きものの形ちぢみて鵙の贄・・・・・・・・山口速

 鵙鳴いて少年の日の空がある・・・・・・・・菊池麻風

 夕百舌やかがやくルオー観て来たり・・・・・・・・小池文子



copyright © 2019 Powered By FC2ブログ allrights reserved.