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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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井奥成彦/谷本雅之編『豪農たちの近世・近代─19世紀南山城の社会と経済』・・・木村草弥
井奥_NEW

──新・読書ノート──

     井奥成彦/谷本雅之編『豪農たちの近世・近代─19世紀南山城の社会と経済』・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・東京大学出版会2018/09/25刊・・・・・・・

浅田周宏氏から、この本を恵贈された。厚さ3センチもある分厚い学術研究書である。定価9200円。
これには、いきさつがあるのである。
Wikipedia 『浅田家文書』という江戸時代からの豪農・浅田家に伝わってきた文書が、東京大学経済学部に保管されていて、学者たちが、それを読み込んでさまざまに研究し、その成果を発表してきた。
その続編の研究成果が、この本である。上の「赤字」になっている部分は「リンク」を意味します。アクセスして、ご覧ください。
この本の前編になる本を頂いて、私が執筆したのが、上に挙げたWikipedia なのである。

この本を読み込んで、当該部分に書き加えた。
それは、第2章 「豪農・浅田家の資本蓄積」(石井寛治) からの抜粋である。

<天明期に領主・津藩による苛酷な負担に苦しみ経営難に陥っていた西法花野村の豪農・浅田家が、
 堺屋・八木家からの金融により苦境を凌ぎ、在方肥料商人として地域への安価な肥料の導入に努めたことから、
 地全体の生産力向上をもたらし、浅田家の手作・小作経営の収益を押し上げて資産を蓄積した。>

この本自体は、他にも言及する膨大なものであるが、浅田家に該当するものに限定して採り上げた。
ここに書かれる「堺屋・八木家」は、木津川対岸の木津の街にあって、木津川舟便を束ねる問屋として、水運がらみで自己資本の蓄積を重ね、当該地域の「豪農の中の豪農」に成長した、と書かれている。
この本では、「豪農」と書かれているが、私は水運に関わる「商人」だというのが正しいと思う。
その蓄積した資金で、農地を取得して「地主」となっていたとしても「豪農」というのは、違うのではないか、というのが私の意見である。
浅田家のように「農地経営」に専念するのが「豪農」というのが正しい、と思うが、いかがだろうか。
この八木家だが、明治になって「鉄道貨物便」が発達してくると、雨や嵐などの天候に左右されないので、船便は廃れ、従事していた人々は廃業していった。
八木家も、木津を離れ、子孫の人は学者の道に進まれた、と書いてある。

私宅は分家なので直接の関係はないが、「本家」は小さいながらも木津川船便の問屋をやっていたが、鉄道便に負けて「離散」し、どこかへ行き、本家の墓は私宅が管理している。
時代の移り変わりというものは、かくも苛酷なものである。
この本を頂いた機会に、敢えて書いておく。
ご恵贈有難うございました。


かなしみのきわまるときしさまざまの物象顕ちて寒の虹ある・・・坪野哲久
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      かなしみのきわまるときしさまざまの
             物象顕(た)ちて寒の虹ある・・・・・・・・・・・・・・・・・坪野哲久


俳句の場合の季語としては「虹」は夏季のものとされる。
日本での気象条件からすると、高温多湿の夏に虹が多いのは当然である。
冬に虹を詠む場合には、季節の言葉をつけて「寒の虹」のようにして季語とする。

この坪野哲久の「寒の虹」の歌は、そういう点から見ても面白い。
雨と太陽光線とがあって虹が立つのが普通だが、哲久は「物象顕ちて寒の虹」が立つと詠っている。
これは上の句に「かなしみのきわまるとき」と書いているように、作者の心が空に立たせた幻の虹かとさえ思わせる。
「きわまるときし」の「し」は強調の助詞である。
このように上の句と下の句とが相まって、歌に独特の孤高性と浪漫性をもたらしている。『碧巌』所載。

加藤楸邨の句に

 Thou too Brutus ! 今も冬虹消えやすく

というのがあるのを思いだした。冬の虹というのは、そういう消えやすい「はかない」ものである。
坪野哲久の歌の「かなしみのきわまるとき」という把握の仕方と相通じるものがあるかと思う。
坪野哲久については前にも一度採り上げたことがあるが、昭和初期にプロレタリア短歌運動で活躍、昭和5年、第一歌集『九月一日』を刊行したが発禁処分を受ける。
昭和46年『碧巌』で読売文学賞受賞。石川県生まれ。昭和63年没。
哲久の歌は心象を詠いあげたものが多い。叙景だけの歌というものはない。
「物象」などという「漢語」の使い方が独特である。仏教用語も多用する。
以下、少し哲久の季節の歌を引いて終わりにする。

 母のくににかへり来しかなや炎々と冬涛圧(お)して太陽没(しづ)む

 母よ母よ息ふとぶととはきたまへ夜天は炎えて雪零(ふら)すなり

 天地(あめつち)にしまける雪かあはれかもははのほそ息絶えだえつづく

 牡丹雪ふりいでしかば母のいのち絶えなむとして燃えつぎにけり

 寒潮にひそめる巌(いはほ)生きをりとせぼねを彎(ま)げてわが見飽かなく

 死にゆくは醜悪(しうを)を超えてきびしけれ百花(びやくげ)を撒かん人の子われは

 もろもろのなげきわかつと子を生みき子の貌(かほ)いたしふる霜の花

 冬星のとがり青める光もてひとりうたげすいのちとげしめ

 冬なればあぐらのなかに子を入れて灰書きすなり灰の仮名書き

 曇天の海荒るるさまをゆめにみき没細部なる曇天あはれ
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はじめから8首までの歌は、ふるさと石川県に臨終の母を看取った時の歌であろうか。
時あたかも冬の時期であったようで、能登の怒涛の寄せる海の景物と相まって、母に寄せる心象を盛った歌群である。
歌集『百花』『桜』『留花門』から引いた。
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今日は、阪神大震災が起きてから二十四年である。
朝から追悼一色である。 打撃から、未だに立ち直れない人も多い。

その朝、私は京都南部の自宅で激しい揺れに見舞われたが、震源から外れていたので建物が壊れるなどの被害はなかった。
丁度、私はイタリアのシチリア島の旅に出かけていて、その前日に帰ったばかりで、厳しい「時差ボケ」で明け方まで眠れず、ようやくウトウトとしたところだった。
妻や子供たちは、友人、知人たちの救援にリュックをかついで出かけるなど大騒動だった。
交通機関も、阪急電鉄で言うと、「西宮北口」までしか行けなかった。 後はみな徒歩である。
「ボランティア」という言葉が日本に定着したのも、この時からである。
私は多くの「紀行文」を書いてきたが、この時の旅は、出鼻をくじかれて、今に至るまで執筆できていない。書く気になれなかったのである。

記念日に当り、一筆書き添えるものである。 合掌。





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