


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
草弥の詩作品<草の領域>
poetic, or not poetic,
that is question. me free !
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
書評「自在なる詩 悲運の帝王ものがたり」・・・・・・・・・・・沢良木和生(小説家)
・・・・・詩誌「びーぐる」42号2019/01所載・・・・・・・
これは小説でもない、論文でもない、エッセイでもない、まさに詩としか名づけようがない、と詩人は言う。
が、この端正流麗な「詩」の流れの中に、評論あり伝記あり、ポルノグラフィあり簡略な性戯解説あり、貴種伝説もあったりして、
何でもありの表現を用いながら悲憤の帝王後水尾への想いをちりばめつつ、まさに闊達自在、これぞ帝王ぶりに語り続ける十五篇のものがたりである。
徳川秀忠の娘の和子入内を認めざるを得ず、寵妃およつの方とふたりの愛児を手放さざるを得なかった上、
紫衣事件その他、断固朝廷の無力化を図る幕府権力に屈せざるを得なかった英明豪邁の帝王は、悲憤して幕府への予告なく突如譲位、上皇となった。
以来、天皇四代五十一年、すべての我が皇子を帝位につけ、強力な院政を敷いた。
天皇であれば、古来の祭祀や煩雑な禁裏皇務に時間と労力を必要とするが、それらから自らを解き放った大王は、存分に詩と遊び、性を享楽し、
絢爛たる寛永文化の中心的存在となり、巨大な修学院殿を創建し、三十七人の皇子内親王を多数の女官たちに産ませ、鬱屈するわが懐いを存分に韜晦された。
詩人はそれを幻視する。
中でもその圧巻は、引き入れた四人の遊女たちそれぞれとの、各種喜悦のまぼろし物語である。例えば
花芯―お夏の巻
お上の舌が容赦なく花芯の先端を舐めつづけるのでお夏は恥ずかしげもなく嬌声を上げて
「入れて!入れて!」とお上の一物の挿入を求めた。
お上の温といお筆先がお夏の巾着に食い込んだ。
因みに巾着とはヴァギナのことである。この巾着はよく締まるなどという。お筆先とはペニスのことである(閑話休題)
のちに後水尾院は詠まれた
常夏のはかなき露に嵐吹く秋をうらみの袖やひがたき
尺八―お秋の巻
お秋も市井の遊女である。
「尺八」の名手として知られていたのをお上が連れて来られたのである。
尺八とは今風に言うと「フェラチオ」である。
語源はラテン語のfellare(吸うという意味の動詞)
古語では「吸茎」「口取り」「雁が音」「尺八」「千鳥の曲」ともいった。
また勃起した陰茎を横から咥えることを俗に「ハーモニカ」と言う。
のちに御水尾院は詠まれた
誰がなかの人目づつみの隔てとて立ち隠すらん秋の川霧
こう各章段の末尾に大王のお歌が匂いづけられているのである。
巻を覆って詩人の蘊蓄に感心するとともに大笑いしてしまった。詩とはかくも大らかに楽しいものであったか。
この巨象のような男を支えたのはまさに和子東福門院の大きさ、皇室全般への暖かい心配り、そして徳川家をバックとした大いなる財力であった。
昭和天皇までその長寿は最高位であったが晩年の仲睦まじさは前半生を想えば想像もできぬくらいだったそうな。
詩人はいう。
いまわの際に法皇は幻を視られた。
修学院山荘の大池に舟が浮かんでいて、
およつ御寮人、新広義門院と東福門院が
仲良くこちらを向いて微笑んでいる……。
こうして幕藩体制絶頂期のさなか、爛熟の元禄文化に突き進む先達となった悲運の大王を、詩人も幻視しまた涙するのである。
付記
そういえば「修学院幻視」の「幻視」。
昔のことだが、京都大学万葉学の泰斗沢潟久敬のもとに大浜厳比古という奇才がいた。
大酒飲みで、未完の論文「万葉幻視考」(一九七八・二(株)集英社)一巻を残して早世した。
五年後輩の梅原猛がこんな序を書いた。
「氏は天性の詩人であった。……氏はここで学者の方法ではなく詩人の方法で『万葉集』について語っている。
それは幻視という方法である。
……『万葉集』の編集者は怨みをもって死んでいった無数の人びとの幻を見てその霊を慰めるためにこのような歌語りの書を作った以上、
われわれもまたその幻を見ることによってそういう歌語りに参加できるというのである。
こういうことはふつう学者は言わないものである……」
博学の著者が、敢えてこの悲運の帝王について物語る以上、詩人として幻視という方法を取らざるを得なかったのではなかろうか。
---------------------------------------------------------------------------
「付記」の部分は、字数の関係から掲載誌には載らない筈だったが、この書評を書く「きっかけ」になった、と本人が言うので、敢えて掲載してもらって有難い。
敬愛する沢良木和生氏から、この書評を書いていただき感謝する。
彼には次のような著書がある。
『町人剣 たかとみ屋晃造』 (学研2002年刊)──元治元年の「禁門の変」の京都大火を扱った小説
『めおと剣 蝶の舞』 (発行・牧歌舎・発売・星雲社2009年刊)──「京・北白川物語」と銘うつ活劇剣の小説 (歴史群像大賞佳作受賞)
両方ともエンターテインメントに満ちた面白い作品である。
アマゾンで買えるし、それぞれ数件の書評が出ているから覗いてみられよ。
--------------------------------------------------------------------------------
この詩誌・季刊「びーぐる」は、掲出した図版でも読み取れると思うが、四人の編集同人によって発足してから今年で11年目になるという。
詩の商業誌がつぎつぎに廃刊していって、この「びーぐる」は今や詩壇の中に大きく地歩を築いた。
四人の編集同人たちも、詩人・評論家として、重きをなす存在として知られる。
そういう雑誌に、拙詩集の「書評」を載せていただき、感謝いたします。有難うございました。

──季節の一句鑑賞──「水鳥」3態──
■水底を見て来た顔の小鴨かな・・・・・・・・・・・・・・・内藤丈草
今日は「水鳥」を詠んだ句三題をオムニバス風に採り上げる。
丈草は芭蕉の高弟で、禅に学ぶところ深く、芭蕉とはとりわけ心の通じあう門弟だったと言われている。尾張犬山藩士だったが、病弱のため「遁世」した。
この句は、鴨が水に潜っては、ついと浮かぶ。そのけろりと澄ました表情に「水底を見て来た顔」を見てとったところが面白い。
丈草の俳諧作者としての天分は、芭蕉一門の数ある作者の中でも抜群だったという。
彼は芭蕉の「さび」の精神を最もよく伝えた弟子と言われるが「飄逸な俳味」においても抜きん出ていた。
その笑いには品格の高さと洒脱さがあるという。『丈草発句集』所載。
写真①は、マガモ雄の成鳥である。

■海暮れて鴨の声ほのかに白し・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉
気鋭の俳人として江戸で名を挙げつつあった芭蕉は、貞享元年41歳の時、門人千里を連れて『野ざらし紀行』の旅に出発した。
蕉風確立の基礎をなす撰集『冬の日』を尾張で生んだ記念碑的な旅であった。
上の句は、その滞在中のものである。海辺で一日を過ごした時の作と自注している。
とっぷりと暮れた海づらを、鴨の声が渡ってくる。「白し」は「顕(しる)し」を内に含んでおり、感覚の鋭さが、このような用語法に表れている。
その白く顕きものが、「ほのかに」海を渡って来るから余情が広がったのである。
中七は「鴨の声ほの」「かに白し」と句跨りになるが、これを5、5、7の破調と読むのもよいが、私は句跨りと捉えたい。『野ざらし紀行』所載。
写真②は、マガモの雌である。

■水鳥やむかふの岸へつういつい・・・・・・・・・・・・・・・広瀬惟然
放浪の俳人惟然は美濃の酒造業の家に生れたが、妻子を捨てて家出し、剃髪して芭蕉晩年の弟子となる。惟然坊と通称された。
天真爛漫に行動する風狂な人となりは、句作にもそのまま表れ、口語の擬声、擬態語を多用して、対象を活写する技法を開発した。
これは、つと口を出る心の動きをとらえる上で優れた技法だった。
「梅の花赤いは赤いは赤いはな」のような句が、よく知られている。
上の句でも水鳥の生態を「つういつい」に活写したが、常にこれが成功する訳ではない。
擬音語や擬態語は印象が強いだけに、惰性的に用いると、たちまち陳腐なものになってしまうからである。『惟然坊句集』所載。
私の住む辺りに一番近いところというと「琵琶湖」が水鳥の大棲息地だが、ここは、かなり前から「禁猟区」になっているので野鳥にとっては天国である。
ここは鴨肉の生産地でもあるが、養殖したり、他所からの移入鳥で仕事をこなしている。
「鴨」「水鳥」というのは冬の季語で、歳時記に載る例句も大変多い。少し引いて終る。
水鳥や氷の上の足紅く・・・・・・・・・・・・・野村喜舟
水鳥の沼が曇りて吾くもる・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
水鳥のしづかに己が身を流す・・・・・・・・・・・・柴田白葉女
寝るときはひたすら眠れ浮寝鳥・・・・・・・・・・・・吉田やまめ
小閑充実鴨くさきまで鴨の群・・・・・・・・・・・・中村草田男
幻の母来て 屈む 鴨の岸・・・・・・・・・・・・伊丹三樹彦
さみしさのいま声出さば鴨のこゑ・・・・・・・・・・・・岡本眸
抜け目なささうな鴨の目目目目目目・・・・・・・・・・・・川崎展宏
うたかたとなるまで鴨の漂へり・・・・・・・・・・・・小沢克己
寝化粧を長しと思ふ鴨の声・・・・・・・・・・・・星野石雀
見事なる腹が頭上を鴨返す・・・・・・・・・・・・市村究一郎
| ホーム |