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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(3月)月次掲示板
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東日本大震災から八年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
kohakucyou02-1コハクチョウ飛翔

弥生三月になりました。 3.11の哀しみと鎮魂の日が巡ってきます。
寒暖を織りまぜながら春は一歩づつ深まり、白鳥の「北帰行」も始まっています。

 「ちゃんと除染していますから」お辞儀して拝観料のお釣りくれたり・・・・・・・・・・・・斎藤芳生
 ふくしまの雪が静かに地に沁みて辺野古のジュゴンの瞼を濡らす・・・・・・・・・・・・平山良明
 塚本邦雄いまさばいかに歌ひますや 苦艾は淡黄の花つけるとふ・・・・・・・・・・・・雨宮雅子
 <凍土壁>は凍らぬといふ ひそひそと血のごとく滲みうごく地下水・・・・・・・・ 米川千嘉子
 どこかには埋めねばならずどこかなるそのどこかとふ実存が要り・・・・・・・・・・・・梶原さい子
 乗りたくて後先みずにバスに乗るいづれこの世のどこかに着かむ・・・・・・・・・・ 蒔田さくら子
 米国と戦争したるを日本の若者三割知らざるといふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋葉四郎
 つくりだしちゃってしでかしちゃってにんげんが海に命を奪わせている・・・・・・・・・・・ 俵万智
 死はそこにあるかと思ふあかるさに菜の花咲けりその花を食ふ・・・・・・・・・・・・・・・・ 外塚喬
 いつまでも暮れない空にくたぶれて門鎖しにゆく草匂ふところ・・・・・・・・・・・・・・ 河野美砂子
 いつの間にか武器売る国となり居しか逃れなくここに塊として・・・・・・・・・・・・・・ 大河原惇行
 民主主義の数の力がつっぱしる係留杭を引き抜きながら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・永田紅
 噛むほどに干し烏賊の滋味しみわたりやがて上書きされゆく昨日・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 春はもうここに来てをり 七冊の文庫の枕雪崩れてしまふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 ひとが死にあきたる穴に嵌めらるるひとつのピース くちをつぐみな・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 春の旅はげしき海に出会ひけり・・・・・・・・・・・・・ 阿部みどり女
 一燭に春寧からむ伎芸天・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阿波野青畝
 蟇ないて唐招提寺春いづこ・・・・・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
 麗しき春の七曜またはじまる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
 偶数は必ず割れて春かもめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小川軽舟

 霾のグリエに春闇ジュレ添えて・・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 あの辺がどの辺になる蜃気楼・・・・・・・・・・・・・・・ ・・市堀玉宗
 初蝶に指紋のこさぬやうに触る・・・・・・・・・・・・・・・・・仮屋賢一
 挟まれていよいよ慎ましきレタス・・・・・・・・・・・・・・・・ 柏柳明子
 春を唄へば浅草の筈である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・堀下翔
 地母神や夜通し受くる春の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・江口明暗
 発掘は一つ隣りの春の山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ハードエッジ
 抜く腸もぷりぷりとして春鰯・・・・・・・・・・・・・・・・・ すずきみのる
 梅白し死者のログインパスワード・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 先輩の話に重み柳の芽・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野利行
 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 パンケーキの断面ましろ涅槃西風・・・・・・・・・・・・・・・青木ともじ
 春暁や水深を表す海図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・丸田洋海
 水蒸気上り寒天晒さるる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之 
 三月のひかりに壜の傷あらは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青本瑞季
 トラックの荷台広々桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・寺沢一雄
 黄水仙色鮮やかに独りなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 工藤定治
 草摘むや衣一枚薄くして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 片岡義順
 海女擲てば拳のなかの桜貝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青山青史
 花馬酔木ほそき煙となる手紙・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 滝川直広
 ずるいなあと母のつぶやく春の山・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高梨章
 桜咲く重たい歴史琉球弧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 豊里友行
 太陽より大きく描かれチューリップ・・・・・・・・・・・・・・・・・金子敦
 傲岸な仔猫の如くハイヒール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 吉川千早
 あるときは鴉を濡らし春の水・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 利普苑るな
 鶴帰るとき置いてゆきハルシオン・・・・・・・・・・・・・・・ 金原まさ子
 セーターに恋の話をしてをりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・篠塚雅世
 梅の花以外はすべて工事中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青島玄武
 蝌蚪の尾の泥を叩いてをりにけり・・・・・・・・・・・ クズウジュンイチ
 もてあます恋猫ぶらさがり健康器・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉山久子
 後れ毛を指から逃がす春の夢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中惣菜
 恐竜の卵見に行く春休み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・片山由美子
 うたた寝の夢の中へと落椿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥田隆夫
 春めくや五段活用したくなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 盛蓉子
 経師屋の作法で新月を磨く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月波与生
 大首絵寂しかったら寄っといで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子  
 仔牛の寒衣脱がせ裸と思ふ春・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木牛後


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 歌集 『茶の四季』(角川書店刊)
 歌集 『嘉木』 (角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『嬬恋』(角川書店刊)
 歌集 『昭和』(角川書店刊) 
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 詩集 『修学院幻視』(澪標刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

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久川康子歌集『桜回廊』・・・木村草弥
衣川_NEW

──新・読書ノート──

        久川康子歌集『桜回廊』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・短歌研究社2019/03/22刊・・・・・・・・・

久川康子さんは私には未見の人である。
巻末に載る略歴によると

1944年 新潟県南魚沼市生まれ
2007年 NHK文化センターの「短歌教室」に学ぶ
2011年 「塔」短歌会入会

ということである。短歌を学びはじめてから十年余りで歌集上梓にこぎつけられたのは、著者の熱心さによるものだろう。
この本には三井修氏の10ページにも及ぶ精細な「解説」文がついていて、そこに、すべてが要約されているので、私が改めて付け加えることは何もないのである。
そう言ってしまっては身も蓋も無いので、少し書いてみる。
掲出した画像でも読み取れると思うが、この「帯」文は、この歌集の本質を突いていると言えるだろう。

第一に、この歌集『桜回廊』という題名の付け方が、今の季節ぴったり、である。
今しも、日本列島は「桜回廊」真っ盛りというところである。
第一歌集という晴れがましい本の出版を、この時期に合わせたという、心憎いばかりの配慮に敬意を表したい。
それと共に、この本の大きな主題というべき「妹」さんの病気と死にまつわるのも「桜」と関係があるだろう。
  <桜見るこれが最後とおもふらし手をのべ花に触れる妹>
という歌に代表される一連の作品も「桜」に連なると思うからである。

三井修氏の「解説」の表題は──一枚の布としての歌集──と題されている。
< 久川康子さんとの出会いは、久川さんが、さいたま新都心にあるNHK文化センターの私の教室の受講生になった時だと思う。
 ・・・・・やがて教室は卒業され、特に私からお誘いしたわけでもないのに「塔」に入会され、現在は「塔」北さいたま歌会の中心となっている。 >

と三井氏は馴れ初めに触れている。
これを読んで感じるのは、久川さんが、熱心な歌人なのだな、ということである。
私自身の経験から言っても、この頃が「歌作り」が面白くて仕方がない時期であり、湧くように「歌」が出来る頃である。

   *かすかなるひかりと思ひ新薬を受くると癌病む妹は言ふ
   *死にたいと泣く妹におろおろと受話器をもちかへうんと答へる
   *母の着し小紋に顔をおしあててこれを棺に入れてと妹
   *桜見るこれが最後とおもふらし手をのべ花に触れる妹
   *寄りて来る猫三匹に声をかけ額を撫でやるいもうとの家に
   *ガーゼ交換手伝ひたれば妹の身巡りに立つ濃き臭ひあり
   *オキシコンチン二錠をのむととても楽キッチンに話す妹の声
   *痰をとりまた痰をとる 妹のそげたる頬の温きなり

この本の中で、圧倒的に多いのが、「肺がん」を病む妹さんの闘病と死にまつわる歌である。
ここに、その一端を引いてみた。
末尾から二番目の歌の「オキシコンチン」というのは、モルヒネ系の痛み止めの「麻薬」である。
こんなところに出して不躾とは思うが、私の亡妻もガンと闘病したし、その闘病に私は歌壇とも縁を切って「伴走」したので、よく判るのである。
その前の歌も切ない作品である。「がん臭」というものがあり、ガン末期患者特有の「臭い」である。これも体験した人でないと判らないことである。
まだまだ引くべき歌は多いが、妹さんに関する作品は、このくらいにしたい。

歌の作り方、歌集のまとめ方は人それぞれであって、自由にやったらいいのだが、久川さんは身の周り、眷属、夫のこと、子供たちの事、を積極的に詠っていて好ましいと私は思う。
この人は、一体どういう生活をしているのか、皆目わからない歌作りをする人が、ままあるが、久川さんは詠っている。

   *仕事から離れられずにパソコンと教材かかへ娘が帰り来る
   *生徒達へ賀状書く娘のねむらざるひと夜しんしん 珈琲香る
   *帰れぬと真夜の電話に仕事から解放されざる娘の声ひくし

娘さんは教員であるらしい。それらを詠んだ歌を引いてみた。
教員の身巡りも苛酷である。巷間よく聴くことである。

   *やはらかな三千グラムのみどりごを抱けばうつすらまなこをひらく
   *三日目の赤ちやんにまだ名前無く産まれる前のベビ子と呼ばる
   *あかちやんの目元息子にそつくりと言ふ人言はない人等姦し
   *柔らかき足裏に立ちたるみどり児の視界はふいに開けたるべし
   *幼きが座りたる椅子へそろそろとにほひをかぎに猫の寄り行く

子供さんは二人らしい。この一連は息子さんの子にまつわるものである。

   *まみえたる縄文杉のこと何も夫は語らず二日過ぎても   
   *屋久杉の霊やどるとふストラップ夫購ひきたり病む妹に
   *髪冷えて帰り来たれば明り見ゆ山より夫戻りたるらし
   *一行は八名と言ひ台風の進路へ向かひ夫は発ちたり
   *聖岳も強風圏内登頂はできただらうか ケータイ鳴らず
   *四日目に明日帰るとメールあり湿る道路に無数の落ち葉
   *夫のゐぬ一日はさまざま片づけを思ふのみにて一日過ぎゆく
   *耳遠きことまた忘れ話しかく 気配にふりむくことある夫に

旦那さんは「山登り」が好きらしい。他の歌に、夫との「諍い」のことを詠んだものもある。この程度のことに目くじらを立てることもないだろう。
末尾の二首など、老いゆく夫婦の日常の点景として、微笑ましい。

   *五男なる父五歳までを過ごしし家 仏壇に焚く香の眼にしむ
   *ほんたうの理誰も知らぬらし幼き父のもらはれゆきしを
   *亡き父の実母を知りし人もはやをらぬらしとふ謎めく系図

父にまつわる「系図」のことなどが詠われている。昔は、どこも子だくさんで、かつ、貧しかった。

この歌集の巻末は
   *忘るるといふも大事と内科医のことばは今日の滋養となれり
   *とりとめの無きこと話ししいもうとの声無き四年 夕顔の咲く

とりとめのない鑑賞に終始した。
これは、この本の編集の仕方にも関連すると思う。
こうして書き抜いて、まとめると、或る形になるが、この本を読み進めるだけでは散漫な印象である。
「項目」名の付け方、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ などの「章立て」に名前を付けくわえる、などの工夫が必要だろう。
そのためには今までに他人の出した歌集を眺めて勉強してみることも必要だろう。
つまり「起承転結」ということである。次の本では、そういう工夫を凝らしてもらいたい。
久川さんの作風は「平坦」である。時には感情の赴くままに、歌に吐露してもいいのではないか。
余計な放言に過ぎたかも知れない。お許しを得たい。
ご恵贈有難うございました。才能ある作者の、速やかな次の歌集の上梓をお祈りして、筆を置く。    (完)










椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ・・・池田澄子
t-syuzan周山椿

      椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ・・・・・・・・・・・・・・・池田澄子
 
今回は、そろそろ咲きはじめる「椿」を採り上げる。
椿には何百という栽培品種があるようだが、関西で産出された椿の写真を四つお目にかける。
トップ掲出の写真①は「周山」椿というもので、周山というのは京都市の北方にある町の名前である。そこで産出されたものだろう。

掲出句は、類句にはない前衛性がある。 「話し言葉」をさりげなく採り入れて、秀逸である。注目されている作家である。
詳しくは → Wikipedia─池田澄子

写真②は「谷風」という椿である。
t-tanikz谷風(関西)

写真③は「淡粧」という命名を持つピンク系の椿である。
t-tanso淡粧(関西)

椿と「さざんか」は同じツバキ科の木であり、この花は一見するとサザンカに似ているが、
椿とサザンカの違いは、サザンカは花びらが、ばらばらと落ちるの対して、ツバキは萼の付け根から花全体がぽろりと一度に落ちる、という違いがある。
だから昔の武士は首が落ちると言ってツバキを嫌ったという。
ツバキの名前だが、それぞれ趣向を凝らしてつけてある。花と名前を比べて見られよ。
写真④は「百合椿」という命名である。
t-yuri百合椿(関西)

先に書いたように、ここに挙げる4点のツバキは、みな関西で産出されたものである。
④のものは花びらの形が独特である。唇を尖がらしたような特異な形をしている。
育種に携わる人は根気のある人なのだろう。たくさんのツバキの中から突然変異で出て来たものを品種固定することもあろうし、
今ではバイオテクノロジーの技術を駆使することもあろうが、それにしても手間のかかることである。

写真⑤は「酒中花」という名前の「やぶ椿」である。
syucyuka00801やぶ椿

伝統的なやぶ椿の系統らしいが、縁取りに薄紅色の「ふくりん」というのかボカシが入っており、
これが何だか酔っ払っているようで「酒中花」という名がついたようである。

豊臣秀吉の椿好きは有名で、
俳人では石田波郷も、椿を好んだと言われている。

    一つ咲く酒中花はわが恋椿・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

この句から彼の句集『酒中花』の題名が採られている。

文芸では「万葉集」以来、詩歌に詠われてきた。「玉椿」はツバキの美称である。
「つらつら椿」は連なり生えた椿のことで「万葉集」巻1(歌番号54)につらつら椿の有名な歌がある。

   巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲ばな巨勢の春野を・・・・・・・坂門人足

咲いている椿よりも「落ち椿」を文人は好んで詠った。

   水入れて鉢に受けたる椿かな・・・・・・・・鬼貫

の古句なども、そういう詠みぶりのものである。

椿を詠んだ句は古来たいへん多いが、「落ち椿」を詠んだものを少し引いておく。

 落ちざまに虻を伏せたる椿かな・・・・・・・・・・夏目漱石

 掃くは惜し掃かぬは憂しや落椿・・・・・・・・阿波野青畝

 はなびらの肉やはらかに落椿・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 椿つなぐ子に父問へばウン死んだ・・・・・・・・・・渡辺水巴

 椿流るる行衛を遠くおもひけり・・・・・・・・・・杉田久女

 椿見る落ちよ落ちよと念じつつ・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 愛すとき水面を椿寝て流る・・・・・・・・・・秋元不死男

 椿落つおろかにものを想ふとき・・・・・・・・・・稲垣きくの

 いま一つ椿落ちなば立去らん・・・・・・・・・・松本たかし

 落椿美しければひざまづく・・・・・・・・・・田畑美穂女

 落ちる時椿に肉の重さあり・・・・・・・・・・能村登四郎

 海女の村昼の男に椿満つ・・・・・・・・・・飯田龍太

 犇きて椿が椿落としけり・・・・・・・・・・岡本眸

 落椿われならば急流へ落つ・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 はいてもはいても女人禁制の庭椿・・・・・・・・・・・仁平勝

 神が来し海上の道岬椿・・・・・・・・・・本井英

 椿千われ白骨と化する日も・・・・・・・・・・永島靖子



聞酒に誘はれ口にふふみたる此の旨酒の銘は「神奈備」・・・木村草弥
kikizake04利き酒茶碗

    聞酒(ききざけ)に誘はれ口にふふみたる
        此の旨酒(うまさけ)の銘は「神奈備」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


冬は日本酒の「仕込み」のシーズンであり、今はおいしい新酒が出来て来ている。今日は「利き酒」の話題を。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この「神奈備」という銘は私が勝手につけた名前で実在しない。
全国どこかにあるかも知れないが、この歌とは関係がない。
私が参加した「利き酒会」は平凡な名前の蔵で、歌に詠む時には乗り気になれなかったので、架空の名にした。

写真①の茶碗は「審査茶碗」と言って、利き酒をする場合に使用する独特の茶碗である。
「神奈備」というのは、大和の三輪山その他、全国各地に存在する地名で「神の坐(いま)す地」という意味で、古代から信仰の対象として崇められてきた。

写真②③は、私の住む所から木津川を隔てて対岸の丘にある「神奈備神社」である。

kannabi_shrine_2神奈備神社

kannabi_shrine神奈備神社

写真でも読み取れるが「式内」社の字が見え、この字のつく神社は古代はじめからの神社であることを示している。
この山一帯は甘南備山と呼ばれ、一帯には古代の古墳が多数存在する。継体天皇の「筒城宮」もこの一角にあったとされる。
ついでに言うと、この丘の一角に近年、同志社大学が「田辺校地」を構え、女子大学と工学部の全部と各学部の「教養課程」の2年間の学生が通学していた。
チャペルも設置され、丘の上の煉瓦づくりの校舎が遠望できる。
もっとも、全国的な傾向だが、大学発祥の地に回帰するのが風潮で、同志社も京都市内の「今出川」校地の周辺を買収して校地を広げて、
今では教養課程も今出川校地に戻ってしまった。だから田辺校地に残るのは女子大学と工学部だけとなる。
それと海外からの帰国子女のための「同志社国際高校」がある。
教養課程が此処にあった頃は、学生目当てのマンションが盛んに建てられたが、これらのマンションは「空室」に泣いているという。
また、この丘の麓には「一休禅師」が晩年隠れ住んで、森女と愛欲のかぎりを尽したという「一休寺」がある。
このいきさつについては私は第二歌集『嘉木』(角川書店)の中で「狂雲集」という一連で歌にしておいた。
そのうちの一首を抜き出すと

    一休が森手をみちびき一茎を萌えしめし朝 水仙かをる・・・・・・・木村草弥

というものである。
これはメタファーに仕立ててあるので、解説すると「森手」というのは「森女」の手ということであり、「一茎」というのはpenisのことであり、
「水仙」というのは文芸の世界ではvaginaのことを指す隠語として定着しているのである。

「利き酒」から話題が逸れたようだが、そういう「いわれ」のある名前を私は歌の中で使いたかったのである。
私が酒の蔵元だったら、この「神奈備」の名前を必ずつけるだろう。

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私の住む村にある「城陽酒造」も色々工夫して頑張っておられるので、遅くなったが書き添えておく。
 ↑ アクセスしてもらいたい。

詩「少年の日」・・・佐藤春夫
佐藤春夫記念館

   少年の日・・・・・・・・・・・・・・・佐藤春夫

     野ゆき山ゆき海辺ゆき

     真ひるの丘べ花を藉(し)き

     つぶら瞳の君ゆゑに

     うれひは青し空よりも


この「少年の日」という詩の全文は、下記の通りである。

      1.
     野ゆき山ゆき海辺ゆき
     真ひるの丘べ花を藉(し)き
     つぶら瞳の君ゆゑに
     うれひは青し空よりも。

      2.
     影おほき林をたどり
     夢ふかき瞳を恋ひ
     なやましき真昼の丘べ
     花を藉(し)き、あはれ若き日。

      3.
     君が瞳はつぶらにて
     君が心は知りがたし。
     君をはなれて唯ひとり
     月夜の海に石を投ぐ。

      4.
     君は夜な夜な毛糸編む
     銀の編み棒に編む糸は
     かぐろなる糸あかき糸
     そのラムプ敷き誰がものぞ。

佐藤春夫は小説家でもあったが、大正10年刊の第一詩集『殉情詩集』以来、大正、昭和の詩壇に特異な地位を占めた。
多く恋愛詩から成る、この詩集は、詩形においては古格を守りつつ、盛られた詩情の鮮烈さ、憂愁の情緒、鋭敏な神経のおののきによって、多くの人の心を捉えた。
掲出の詩は「少年の日」と題する四行詩四章の初期作品で、「四季」に分けられており、掲出のものは一番「春」である。
表現が古風な型を守っているため、却って少年の恋ごころを、よく歌い得て、愛唱された。

この詩は7、5調のリズムで作られており、日本の伝統的な音韻構造を採っていると言える。

掲出した写真は故郷の新宮市にある「佐藤春夫記念館」のパンフレットである。もう、随分前になるが車で、ここを訪れた時にもらったものである。
佐藤春夫は創作を止めた後は、多くの弟子をとり文筆指導で多額の指導料を得ていた。
今では見られない処世術であったと言える。文壇に絶大な影響力があり、文化勲章の受章にも至っている。



来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり・・・水原秋桜子
asebi3あせび

   来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

この句には前書きに「三月堂」と書いてある。
奈良の東大寺の境内にある三月堂である。
時しも、東大寺の二月堂では3月1日から14日まで「修二会」という、俗に「お水取り」という行事が進行中であった。

アセビ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

学名
Pieris japonica
和名
アセビ

アセビ(馬酔木、学名Pieris japonica (Thunb.) D. Don)とは、ツツジ科の植物である。あしび、あせぼともいわれる。

本州、四国、九州の山地に自生する常緑樹。やや乾燥した環境を好み、樹高は1.5mから4mほどである。
早春になると枝先に複総状の花序を垂らし、多くの白くつぼ状の花をつける。果実は扇球状になる。
有毒植物であり、葉を煎じて殺虫剤とする。 有毒成分はアセボトキシン。

馬酔木の名は、馬が葉を食べれば苦しむという所からついた名前であるという。 多くの草食ほ乳類は食べるのを避け、食べ残される。
そのため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多くなることがある。
たとえば、奈良公園では、鹿が他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多くなっている。
逆に、アセビがやたら多い地域は、草食獣による食害が多いことを疑うこともできる。

アセビは庭園樹、公園樹として好んで植栽される外、花もの盆栽等としても利用される。

asebi2あせび赤

 蟇(ひき)鳴いて唐招提寺春いづこ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 馬酔木咲く金堂の扉(と)にわが触れぬ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

少し秋桜子の馬酔木にかかわる句を抜き出してみた。

水原秋桜子について少し触れてみる。
産婦人科医で宮内省侍医などを務めた。東大俳句会を興す。「ホトトギス」で頭角をあらわし、四Sの一人として一時代を画す。
昭和六年「馬酔木」を主宰して独立、芸術性高い「主観俳句」を唱導。石田波郷、加藤楸邨らを育てた。
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馬酔木を詠んだ他の人の句を少し挙げて結びにする。

 花馬酔木春日の巫女の袖ふれぬ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 春日野や夕づけるみな花馬酔木・・・・・・・・・・・・日野草城

 馬酔木咲く星を小出しに繭の村・・・・・・・・・・・・田部井利夫

 花あしび昔女帝のおはしけり・・・・・・・・・・・・阿片瓢郎

 耶馬台の春ととのへり花あしび・・・・・・・・・・・・小原菁々子

 こころみに足袋ぬぎし日や花あしび・・・・・・・・・・・・林翔

 花あしびかづきて鹿の子くぐり出づ・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 花馬酔木小暗き奈良の骨董屋・・・・・・・・・・・・鎌田和子

 里坊の主は若し花馬酔木・・・・・・・・・・・・寺井谷子

 花馬酔木われ瞑想の椅子の欲し・・・・・・・・・・・・小宮山勇

 あせび野の落暉鹿呼ぶ声しぼる・・・・・・・・・・・・水谷岩雄



昨日今日比良八荒といふ寒さ・・・鈴木光紫朗
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     昨日今日比良八荒といふ寒さ・・・・・・・・・・・・・・・鈴木光紫朗

比良八講または八荒というのは関西だけに通用することで関東その他では意味が判らない行事ないしは言葉である。
「比良八講」というのは、本来は旧暦2月24日に比良大明神=白鬚神社で比叡山の僧が比良山中で行なっていた修法。
天台宗の僧侶が法華経全8巻を、それぞれ朝夕一巻づつ4日間読経する法会で、天台宗の試験を兼ねた大切な法会であったが、戦後に復活された、という。
今では日を固定して3月26日に行なわれる。

「源氏物語」には、この法会の場面が出てくるという。
この行事の頃、琵琶湖ないしは近畿地方では、寒気がぶり返し、突風が吹いたりするので「比良八講の荒れじまい」などと言われ、
季節の一つの目安とされているのである。
これが終ると湖国にも本格的な春が訪れるという。

行事の解説をしておくと、法会は日吉大社西本宮に集合して、志賀町の打見山頂で取水行事をし本福寺に至る。
3月26日午前9時、大津市長等3丁目の本福寺を出発した僧や修験者らが、ホラ貝を響かせながら大津港までお練りをし、
浜大津港から船に乗って、比良山系から取水した「法水」を湖面に注ぎ、物故者の供養や湖上安全を祈願する湖上修法と浄水祈願を行ないながら、堅田へと向かう。
堅田に到着後は「びわ湖タワー」で護摩供法要が営まれ、これで行事は終る。
ところが「船」で移動するという行事は桟橋の老朽化や経費が多くかかる、などの理由から、先年から廃止された。
この行事については、この記事に詳しい。

「琵琶湖哀歌」に歌われている昭和16年(1941年)の金沢の旧制四高ボート部遭難事件も比良八講(八荒とも書く)によるものと言われている。

極めて地域的な言葉、風習であるから、文芸作品にも詠んだものは多くない。

     比叡おろし今日もまた吹く舞姫の恋やぶれよと伝ふがごとく・・・・・・吉井勇

以下に「比良八講(または八荒)」を詠んだ句を引いて終わる。

 比良八荒沖へ押し出す雲厚し・・・・・・・・・羽田岳水

 八講や魞を流しし比良颪・・・・・・・・・・吉田冬葉

 八荒の雲とも見えて比良の方・・・・・・・・・・能村登四郎

 比良八荒波蓮殻を打ち上ぐる・・・・・・・・・・岡井省二

 伊賀に吹く比良八荒の余り風・・・・・・・・・・宮田正和

 比良八荒波濤にまさる山の音・・・・・・・・・・松本可南

 農鳥の身を削り飛ぶ比良八荒・・・・・・・・・・西村和子

 洗堰にも八講の荒れ及ぶ・・・・・・・・・・三村純也

 八荒や鵜の見え隠る波頭・・・・・・・・・・蟇目良雨

 竹生島比良八荒の浪に乗る・・・・・・・・・・大竹萌

 八講の比良山見ゆれ枯木原・・・・・・・・・・松瀬青々

 杉山の杉擲つ風や比良八講・・・・・・・・・・梶山千鶴子

 松籟も比良八講の荒びかな・・・・・・・・・・向田貴子

 法螺の音に比良八講の船出づる・・・・・・・・・・田中由子

 湖荒るる比良の八講春縮む・・・・・・・・・・岩本愛子

 比良八講らしさの湖の騒立ちに・・・・・・・・・・成宮紫水

春日野の飛火の野守出でて見よ今幾日ありて若葉摘みてむ・・・よみ人しらず
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↑ 「春の七草
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 ↑ 奈良・飛火野

   春日野の飛火の野守出でて見よ
        今幾日(いくか)ありて若葉摘みてむ・・・・・・・・・・・・・・・よみ人しらず


この歌は「古今集・春上巻」にある歌であるが、よみ人しらず、となっている。
奈良の春日野の飛火野の野守よ、外に出て野の様子を見ておくれ。あと何日したら若葉が摘めるだろうか。という歌である。
この歌は「古今集」に収められてはいるが、春日野周辺で暮らしている人々の実感が濃く出ている。
だから、古い時代の歌に属するだろう、と言われている。

ここで、若葉摘みに関する歌を、少しまとめて見てみよう。

 春日野に煙立つ見ゆをとめらし春野のうはぎ摘みて煮らしも・・・・・万葉集・巻10、作者不詳

この歌の「うはぎ」というのは「嫁菜」のことだという。
春の若草のいろいろを摘んで、煮て食べるのは、若々しい命を願い、長寿を祈る初春の大切な行事であったらしい。
奈良一帯に住んでいた万葉時代の人々にとっては、この歌の情景は、まことに親しみ深いものだった筈である。

 春日野の若菜摘みにや白妙の袖ふりはへて人の行くらむ・・・・・・・古今集・春上巻、紀貫之

「ふりはへて」は振り合う意と、わざと目立つようにの意とをかけて用いた言葉。
京都の都の生活者となっている平安貴族の一人たる貫之は、この歌を、すでに空想の中の美しい早春の情景として作っている。
古京奈良の春日野は、懐古の情をかきたてる地名となっていて、詩的空想の源泉としての「歌枕」になりつつあるのである。

 春日野に若菜つみつつ万代(よろづよ)を祝ふ心は神ぞしるらむ・・・・・古今集・賀、素性法師

これは素性の兄・藤原定国の40歳の賀宴にあたり、その邸の屏風絵を見て詠んだ作。
全くの空想の歌である。

このように見てくると、「若草」や「若菜」を詠んでも、時代、土地、人々の生活の違いによって、自然界との接し方、その表現方法にも、著しい違いがあるのが判る。
「古今集」の歌人たちも、京都盆地の自然を前にして、詠ったには違いないが、次第に、自然詠そのものよりも、自然の季節の推移から、「時の移ろい」という観念的なものを詩の主題にするようになったということである。

万葉の実景を重視する力強い歌が好きか、古今の観念的な、美意識の強い歌が好きか、人それぞれであろうが、あなたは、どう感じられるだろうか。

以下、季語「摘み草」の句を引いて終る。

 寝転んで若草摘める日南かな・・・・・・・・小林一茶

 摘草や嬋妍さして人の指・・・・・・・・山口青邨

 川上のむかうの岸に草摘める・・・・・・・・中村草田男

 さびしさに摘む芹なれば籠に満たず・・・・・・・・加倉井秋を

 蓬摘む一円光のなかにゐて・・・・・・・・桂信子

 蓬摘み摘み了えどきがわからない・・・・・・・・池田澄子

 万葉の風立つ蓬摘みにけり・・・・・・・・大嶽青児

 つくしんぼ遠(をち)の淡海にかざし摘む・・・・・・・・佐怒賀正美

 草摘めり蜂蜜いろの夕日浴び・・・・・・・・大関靖博

 車座のひとりが抜けて草を摘む・・・・・・・・古田紀一

 日の温みもろとも摘めり蓬籠・・・・・・・・永井芙美

 野洲川の一揆の跡や蓬摘む・・・・・・・・西村康子

 ひかり合ふまほろばと吾と蓬籠・・・・・・・・今井君江



倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし・・・古事記
hondenn大神神社

     倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣
         山隠(ごも)れる 倭しうるはし・・・・・・・・・・・・・・・・・・古事記


『古事記』に上のように詠われる大和盆地。その東の山裾に沿って、日本最古の道といわれる「山の辺の道」がある。
その道に沿って南の端に「大神神社」(おおみわじんじゃ)がある。
大和の国には古い社が多いが、日本最古の社としては、この神社をおいて他には、ない。
「三輪山」の麓にある大神神社は、三輪明神と呼ばれる。
大神と書いて「おおみわ」と読むのは、昔は神様と言えば、三輪さんのことだったのである。

記紀神話では、悠久の昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国家の政治に行き詰まり、祈念したところ、海を照らして神がやってきた。
「我は汝の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)である。我を祀れば平らかになるだろう。我を倭の青垣、東の山の上に斎(いつ)きまつれ」という託宣を受けた。
そこで、大和の東の青垣に、その神「大物主大神」(おおものぬしのおおかみ)を祀ったのである。その地が現在の三輪山だという。
この神社には本殿、すなわちご神体を鎮座させる建物がない。
古代の信仰そのままに、三輪山そのものをご神体とし、参拝者は「拝殿」から山を直接拝む。
熊野那智大社が「那智の滝」をご神体にするのと同じ扱いである。
写真①は拝殿である。拝殿の奥、神体山の「禁足地」の間に「三ッ鳥居」がある。
文字通り三つの鳥居が合体したもので、平安時代以前の創建とされるが、禁足地のため一般には見られないので、「摂社」の桧原神社の三ッ鳥居を写真②に掲げておく。

hibara1桧原神社三つ鳥居本命

なお桧原神社には拝殿も本殿もない。この三ッ鳥居があるのみである。
この三ッ鳥居を拝んで、その背後の三輪山を拝する、というものである。

miwa1三輪山

「三輪山」は、三輪の神奈備と呼ばれる円錐形の秀麗な山。
写真③は穴師というところから撮影。
山中には大岩が露出して、頂上の奥津磐座、中腹の中津磐座、麓の辺津磐座があり、それぞれ大物主大神、大巳貴神(おおなむちのかみ)、小彦名神(すくなひこなのかみ)が鎮まるという。
磐座(いわくら)は、神が降臨する神聖なところとされる古代祭事遺跡。
三輪山そのものを御神体として古くから信仰されている。
先に書いた「桧原神社」は、北へ1.5キロほど上がったところにある「摂社」だが、この桧原の地こそ、天照大神が祀られていた大和の笠縫邑(かさぬいのむら)だという。
ここから倭姫命(やまとひめのみこと)の伊勢への旅が始まったという。
ちなみに、三輪から、ほぼ真東、つまり日の出の方角に「伊勢神宮」があるのである。だから、「元伊勢」と別称されるのである。

ここで「三輪」の由来について書いておく。それは三輪の「環緒」(おだまき)塚の伝承である。
イクタマヨリ姫は、大変美しい乙女だった。
ある夜、姫のもとにこの世のものとも思われぬ立派な男が現われ、二人はたちまち恋に落ちて結ばれ姫は身ごもった。
不思議に思った両親が「床のまわりに赤土を撒き、巻いた麻糸(おだまき)の糸先に針をつけ、男の着物の裾にさしておくように」と言いつけ、姫が言いつけ通りにして、翌朝になってみると、糸は入口の戸のカギ穴から外に出ており、辿ってゆくと美和山の社まで来ていたので、男が神の御子であることが判った。
麻糸の残りが家の中に三勾(みわ)あったので、ここを三輪と呼んだ。
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「まほろば」については辞典にあたってみてもらいたい。
参考までにWeb上のフリー百科事典Wikipediaに載る英文の記事を引いてみる。

Mahoroba
From Wikipedia, the free encyclopedia

Mahoroba is an ancient japanese word describing a far-off land full of bliss and peace. It is roughly comparable to the western concepts of arcadia, a place surrounded by mountains full of harmony and quiet.

Mahoroba is now written only in hiragana as まほろば. The origins of the word are not clear; it is described in a poem in the ancient Kojiki (古事記) as being the perfect place in the mythical country of Yamato:

Poem from the Kojiki
Japanese Romanized version
大和 は
国のまほろば
たたなずく
あおかき山ごもれる
やまとしうるわし。

Yamato ha

Kuni no mahoroba

Tatanatsuku

Awo-kaki yama-gomoreru

Yamato shi uruhashi

(Note that the Kojiki itself did not use hiragana; the above is a modernized version)
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この英文の解説は「まほろば」を西欧でいう「アルカディア」と同じようなものと書いているのは、けだし名解説であろう。
なお、古事記についても、その頃にはまだ「ひらがな」は無かったことも明記されていて正確である。

 




セント・マイケルズ・マウントからグラストンベリー・トーへ・・・木村草弥
The_Death_of_King_Arthurアーサー王の死
 ↑ 「アーサー王の死」(アーサー王と三人の湖の乙女)
黒い頭巾を覆い包むモーガン・ル・フェイは魔導書を探り、アーサー王の命を救う方法を尋ねたことがあった。
その時、モーガン・ル・フェイはアーサー王の臨終の時の守護者のような役割でもある。
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 ↑ セント・マイケルズ・マウント島
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 ↑ セント・マイケルズ・マウント島

──巡礼の旅──(9)

     セント・マイケルズ・マウントからグラストンベリー・トーへ・・・・・・・・・・・・木村草弥

<古代遺跡群を地図上に結ぶと不思議な直線が現れる>
1921年アルフレッド・ワトキンスが唱えたこの説は、以来多くの論争を呼んでいるが、現にそれは存在する。
謎に満ちた英国最長の「レイライン」(牧草地・leyから来ている。イギリスでは牧草地をよぎって、ストーンサークル、塚、古墳、聖なる泉、スタンディンク・ストーンなどさまざまな宗教的事績が一直線上に並ぶこと)が、ここにある。

セント・マイケルズ・マウント島
普段は湾に浮かぶ島、そして干潮時には陸から一筋の道が伸びる不思議、聖ミカエルの為の壮麗な修道院が建つ聖地であり、現代では世界で最も人気のある世界遺産の一つに数えられる北フランスのモン・サン・ミッシェル・・・。
しかし、実はここはモン・サン・ミッシェルではない。ドーバー海峡を挟んで反対側にあるイギリスのセント・マイケルズ・マウントと呼ばれる場所なのだ。
モン・サン・ミッシェルとはフランス語で聖ミカエルの山という意味だが、セント・マイケルズ・マウントは英語では同様の意味である。
そしてこのイギリスのセント・マイケルズ・マウントは、モン・サン・ミッシェル同様に干潮時のみに渡る事が出来る島なのだ。

何故このような不思議な対称ができたのか。もちろん一緒に建てられた訳ではなく、フランスのモン・サン・ミッシェルの方が歴史が古い。
イギリスのセント・マイケルズ・マウントはモン・サン・ミッシェルの実質的な成立の約300年後に築かれた。
元々この地はキリスト教が至る前から聖地として信仰の対象になっていたようだが、12世紀頃に最初の修道院が建てられた。
海で分断されているが、フランスのブルターニュ地方とイギリスのコーンウォル地方はもともとケルト系住民が多かっためていたという共通点を持っており、
後の百年戦争に象徴される犬猿の中のライバル同士が競って建てたというより、恐らく文化が近い物同士が同じ流れを汲む建築と信仰を持ったという方が正しい。
規模ではフランスに少々劣るものの、イギリス側のセント・マイケルズ・マウントも神秘性では見劣りしない。
モン・サン・ミッシェルのように観光客で溢れかえるような事もなく、至って静かなのも良い。

アヴァロン(Avalon、おそらくケルト語でリンゴを意味する「abal」から)、またはアヴァロン島はイギリスのどこかにあるとされる伝説の島であり、美しいリンゴで名高い楽園であったとされる。このような「恵みの島(Isle of the Blessed)」、「リンゴ島」や「幸運の島」という概念は、インド=ヨーロッパ系の神話には同様の例が多くあり、たとえばアイルランド神話のティル・ナ・ノーグ(Tír na nÓg)やギリシア神話のヘスペリデスの園(Hesperides、同様に黄金のリンゴで知られる)などが有名である。

アヴァロンはまた、イエスがアリマタヤのヨセフとともにイギリスを訪れ、後にそこがイギリス最初のキリスト教会となったという伝説の場所としても語られる。
この場合のアヴァロン島の場所は、今日のグラストンベリーではないかと考えられている。

ここで、「アーサー王伝説」との関連について書いておく。

アヴァロンはアーサー王物語と特に強く結びついている。アヴァロンはアーサー王の遺体が眠る場所とされる。
モードレッドとの戦いで深い傷を負った彼は、アヴァロン島での癒しを求めて三人の湖の乙女(あるいは異父姉のモーガン・ル・フェイ)によって舟で運ばれ、この島で最期を迎えた。いくつかの異説によれば、アーサー王は未来のいつかに目覚めるため、ここで眠っているだけだという。

アーサー王とアヴァロン島は、12世紀の歴史著作家であるジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』において初めて結び付けられ、それによるとアーサーはモードレッドとの戦いで致命傷を負い、その傷を癒すためにアヴァロン島に運ばれたとある。

ジェフリー・オブ・モンマスの別の著作『マーリンの生涯』によれば、アヴァロンの地域を統治する九姉妹は:
1.モーガン・ル・フェイ(Morgan le Fay)
2.モロノエ(Moronoe)
3.マゾエ(Mazoe)
4.グリテン(Gliten)
5.グリトネア(Glitonea)
6.クリトン(Cliton)
7.ティロノエ(Tyronoe)
8.ディティス(Thitis)
9.モルゴース(Morgause)

であり、モーガンは九人姉妹の筆頭女性で、医術と変形術に長ける。そして、ディティスはシターンの演奏が上手、巧みである。

ほかにグラストンベリー・トー説というのがあるのだ。 ↓

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 ↑ グラストンベリー・トー
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 ↑ グラストンベリー修道院廃墟の「アーサー王の墓所」

リチャード獅子心王の治世の1191年、グラストンベリー修道院の墓地でアーサー王の古墓が発見されたとの発表がされた。
ギラルドゥス・カンブレンシス(「ウェールズのジェラルド」の同時代の著述(1193年頃)によれば、当時のグラストンベリー修道院長をつとめるヘンリー・ド・サリー)の指導のもとに墓の探索が行われ、5メートルの深さから樫の木でできた巨大な棺のようなものと二体の骸骨を発見。また、そこには通常の習慣どおりの石蓋ではなく敷石がおかれ、石の裏側に貼りつけるようになって密接した鉛製の十字架があり:
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 ↑ 墓碑銘十字架。(ウイリアム・キャムデン著『ブリタニア』挿絵より)

「ここにアヴァロンの島に有名なるアーサー王横たわる。第二の妻ウェネヴェレイアとともに」
(ラテン語: Hic jacet sepultus inclitus rex Arthurus cum Weneuereia vxore sua secunda in insula Auallonia)

と刻印されていた。
王墓の探索に着手したそもそもの理由については、リチャードの父ヘンリー2世がまだ存命の頃、年老いたブリトン人(ウェールズ人)の歌人から、墓がそのくらいの深さから発見されるはずだ、という暗示を受けたからだとギラルドゥスは釈明している。 しかし、ある僧侶が、とりわけその場所にこだわって埋葬されることを切に望み、その遺志の場所を掘り起す作業に当たっているとき、単なる偶然で発見されたものだという、やや後年のラドルフス(ラルフ・オヴ・コッゲスホール))の記述もある。ギラルドゥスもラドルフスも、発見された場所は、2基のピラミッド状建造物のあいだだとしている。 ウィリアム・オヴ・マームズベリ は、アーサーの墓には触れないが、修道院に建っていた高さの異なるピラミッドには詳述しており、それらには人物の立像があり、"Her Sexi"や"Bliserh"等々の刻名がされていたという。

アーサー王と王妃の遺骸は、1191年当時、立派な大理石の石棺に移していったん安置されているが、1278年にエドワード1世夫妻臨席の元、検分が行われ、グラストンベリー修道院の主祭壇の前の地下に、大掛かりな儀式とともに再埋葬された。宗教改革でこの修道院が破壊され廃墟と化す前は、主祭壇下の埋葬地は巡礼たちの目的地になっていたという。

しかし、グラストンベリーの伝説は有名ではあるが眉唾物だと受けとめられていることが多い。中でも、棺にあった刻印は、6世紀の出来事とされるアーサー王伝説より時代が後にずれていると見られており、棺を発見した修道院による秘められた動機があるものと考えられる。これは当時のグラストンベリー修道院長が、他の修道院と競い自分の修道院の格を上げるため、様々な伝説を利用したと見られている。その結果、アーサー、聖杯、ヨセフが一つの物語の中で結び付けられることとなった。

はじめに書いたように、このように、「レイライン」を成して、牧草地をよぎって、宗教的事績が一直線上に並ぶ不思議が出現するのであった。

その他、アヴァロンと考えられている場所はフランスのブルターニュ半島沿岸にあるリル・ダヴァル(l'Île d'Aval)またはダヴァル(Daval)という島だという説や、あるいはかつてハドリアヌスの長城沿いにアバラヴァ(Aballava)という砦のあったイングランド最北部カンブリア州の村、ブラフ・バイ・サンズ(Burgh by Sands)という説もある。


蝌蚪生れて白き窓もつ文学部・・・原田青児
img1098ヒキおたまじゃくし
 
       蝌蚪生(あ)れて白き窓もつ文学部・・・・・・・・・・・・・・原田青児 

「蝌蚪」(くわと)とは「おたまじゃくし」のことだが、以前にも書いたが、この字は中国の上代に、竹簡に漆の汁をつけて字を書き、その字の形が頭が大きく尾が小さい、おたまじゃくしに似ているので、そう名づけられ、それを明治以降、俳人たちが「音読」利用しているものである。
なお「生れて・ウマレテ」という言葉は、古来、「あれて」と読むようになっているので、念のため。「音数揃え」のためである。
類句はいくつもあるが、掲出句は「白き窓もつ文学部」と詠んでいて、かつて文学部に居たことのある私として、懐かしくて、頂いた。

私の歌にも
   
    春くれば田んぼの水に蝌蚪(おたまじゃくし)の語尾活用を君は見るだらう・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

私の歌は、「おたまじゃくし」の尻尾を、日本語の「語尾活用」と捉えて、いわば「比喩」的に表現したものである。一種のユーモアと受け取ってもらっても結構である。
歌としては、取り立てて、どうという歌ではないが、「比喩」表現を理解する人には好評だった。
歌作りでは、こういう「凝った」作り方を時としてやってみたくなるものである。
所詮は短歌も「歌遊び」「言葉遊び」であるから、さまざまの趣向を考えることが必要だろう。
こういう「言葉遊び」を理解しようとしない頭の固い人が往々にして存在するので、困るのである。
いかがだろうか。

「おたまじゃくし」は俳句の世界では「春」の季語で、歳時記には多く見られる。
先に引いたものと多少は重複するかも知れない。ご了承を。

 川底に蝌蚪の大国ありにけり・・・・・・・・・・村上鬼城

 蝌蚪の水わたれば仏居給へり・・・・・・・・・・水原秋桜子

 流れきて次の屯へ蝌蚪一つ・・・・・・・・・・高野素十

 枕べに蝌蚪やすみなき手術以後・・・・・・・・・・石田波郷

 蝌蚪に足少しいでたる月夜かな・・・・・・・・・・長谷川双魚

 蝌蚪つまむ指頭の力愛に似て・・・・・・・・・・金子兜太

 吾のため歌ふ子蝌蚪の水昏るる・・・・・・・・・・佐藤鬼房

 蝌蚪かくも群れて天日昏めたる・・・・・・・・・・桑田青虎

 蝌蚪沈みゆけり頭を真逆さま・・・・・・・・・・大橋敦子

 蝌蚪の水少年のなほ女声・・・・・・・・・・辻田克巳

 心ざし隆々たりし数珠子かな・・・・・・・・・・大石悦子

 散り散りの幼な馴染や蝌蚪の陣・・・・・・・・・・船平晩秋

 蝌蚪離合集散のたび数を増す・・・・・・・・・・長田等

 うたたねのはじめに蝌蚪の紐のいろ・・・・・・・・・・鴇田智哉

 紐を出て紐に縋れる蛙の子・・・・・・・・・・木場瑞子

 泡一つ置きに来て蝌蚪沈みけり・・・・・・・・・・江川虹村

 やはらかき泥にくすぐりあうて蝌蚪・・・・・・・・・・高田正子

 蝌蚪生(あ)れてまだよろこびのほかしらず・・・・・・・・・・和田知子

 尾を振つて蝌蚪と生れたる嬉しさよ・・・・・・・・・・井上松雄

 底深く動かぬ蝌蚪の生きくらべ・・・・・・・・・・谷口栄子



春雷やかの日の銀の耳飾り・・・坪内稔典
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       春雷やかの日の銀の耳飾り・・・・・・・・・・・・坪内稔典 

季節が冬から春に移ってゆく頃に「春雷」が鳴るものである。 夜明けなどに鳴ることが多い。
この句は「かの日の銀の耳飾り」とだけ詠んで、多くを語らないが、読者にさまざまに想像させて、秀逸である。
「春雷」は別名「虫起し」とも言い、そのことは3/6付けの「啓蟄」のところでも書いた。

私の歌にも

    春雷一閃あやとりの糸からみつつ迷路(ラビュリントス)をくぐりゆくらし・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌を発表したときも評判は良くなかった。やはり判り難いということである。
この歌は「春雷一閃」「あやとりの糸」「からみつつ」「ラビュリントス」などの言葉が日常生活の情景と、どう関わるのか、というわけである。
この一連は「神経叢」という標題のもので8首の歌から成るが、全体として「暗喩」を利かした歌作りになっている。
ここで、そのメタファーを解き明かすことは、しない。いいように鑑賞してもらえば有難い。
一つだけヒントを差し上げると、掲出した写真の春雷の「いなづま」が「あやとりの糸」に見えないだろうか。
要は「想像力」の問題である──「メタファー」というのは。

以下「春雷」を詠んだ句を引いて終わる。

 下町は雨になりけり春の雷・・・・・・・・・・・・正岡子規

 比良一帯の大雪となり春の雷・・・・・・・・・・・・大須賀乙字

 再びの春雷をきく湖舟かな・・・・・・・・・・・・富安風生

 春雷や俄に変る洋の色・・・・・・・・・・・・杉田久女

 春雷や刻来り去り遠ざかり・・・・・・・・・・・・星野立子

 春雷や三代にして芸は成る・・・・・・・・・・・・中村草田男

 春の雷焦土しづかにめざめたり・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 あえかなる薔薇撰りをれば春の雷・・・・・・・・・・・・石田波郷

 句縁ただ仮りそめならず春の雷・・・・・・・・・・・・石昌子

 三山の天心にして春の雷・・・・・・・・・・・・沢木欣一

 春雷の闇より椎のたちさわぐ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 春雷の七十歳はなまぐさき・・・・・・・・・・・・伊藤白湖

 春雷を殺し文句のやうに聴く・・・・・・・・・・・・鈴木栄子

 春雷の余喘のわたる野づらかな・・・・・・・・・・・・鈴木貞雄

 窯出しの壺がまづ遇ふ春の雷・・・・・・・・・・・・辺見京子

 鞭のごと女しなえり春の雷・・・・・・・・・・・・岸本マチ子

 鶸飛べり出雲平野の春の雷・・・・・・・・・・・・葛井早智子

 幸せも過ぎれば不安春の雷・・・・・・・・・・・・黒田達子



老いづけるこころの修羅か春泥の池の濁りにひるがへる紅絹・・・木村草弥
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    老いづけるこころの修羅か春泥の
        池の濁りにひるがへる紅絹(もみ)・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでも、ご覧いただける。

掲出した写真が「紅絹(もみ)」の裏地である。この紅色は「紅花」を揉みだした色素で染める。
この鮮やかな緋色の長襦袢もある。
これを着物の下着として身に着けたり裏地としたりして、歩くとか、あるいは身をくねらせるとかの時に着物の裾から、ちらりと、この紅絹の緋色がこぼれ見えるというのが、
和服の「色気」というものである。
こういうチラリの美学というのを古来、日本人は愛したのである。
あからさまに、大げさに見せるのではなく、つつましやかな所作のうちに「情(じょう)」を盛る、というのが美学なのである。
もちろん、愛する人のために着物を脱いで寛ぐ場合には、この紅絹の緋色が、もろに、愛し合う男女の情感をあくまでも刺激すると言うのは、野暮であろう。

この歌も「玄人」好みの歌作りに仕立ててある。
春になって池の水も何となく濁る、これを古来「春泥」と表現してきた。寒い間は池の底に潜んでいた鯉も水面に姿を見せるので、春泥である。
人間界もなんとなく「なまめかしい」雰囲気になる春であるから、私は、それを少し大げさだが「修羅」と表現してみた。
読者のご批評を賜りたい。

「春泥」というのは、季語では「春のぬかるみ」のことを指す。泥んこ道も指すが

    鴨の嘴(はし)よりたらたらと春の泥・・・・・・・・・・高浜虚子

という句があり、この句は類型的な「春泥」の句とは一線を画して、春の池の泥のことを詠んでいる。
この句は、掲出した私の歌に言う「春泥」に通じるものがあるので、一言つけ加えておく。

以下、「春泥」を詠んだ句を引く。

 春泥や石と思ひし雀とび・・・・・・・・佐野良太

 春泥や遠く来て買ふ花の種・・・・・・・・水原秋桜子

 春泥に押し合ひながらくる娘・・・・・・・・高野素十

 春泥にいゆきて人を訪はざりき・・・・・・・・三橋鷹女

 北の町の果てなく長し春の泥・・・・・・・・中村汀女

 月読の春泥やなど主を避くる・・・・・・・・中村草田男

 放吟や高校生に春の泥・・・・・・・・石橋秀野

 春泥の恋文横丁今いずこ・・・・・・・・戸板康二

 春泥に手押車の鳩かたかた・・・・・・・・横山房子

 春泥の靴脱ぐひまもほとけ恋ふ・・・・・・・・伊丹三樹彦

 踏み滑る泥や春こそめでたけれ・・・・・・・・三橋敏雄

 午前より午後をかがやく春の泥・・・・・・・・宇多喜代子

 春泥やお伽草子の碑にまゆみ・・・・・・・・高岡すみ子

 
詩「春のために」・・・大岡信
yun_596砂浜

         春のために・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

     砂浜にまどろむ春を掘りおこし
     おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う
     波紋のように空に散る笑いの泡立ち
     海は静かに草色の陽を温めている

     おまえの手をぼくの手に
     おまえのつぶてをぼくの空に ああ
     今日の空の底を流れる花びらの影

     ぼくらの腕に萌え出る新芽
     ぼくらの視野の中心に
     しぶきをあげて廻転する金の太陽
     ぼくら 湖であり樹木であり
     芝生の上の木洩れ日であり
     木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘である
     ぼくら

     新らしい風の中でドアが開かれ
     緑の影とぼくらとを呼ぶ夥しい手
     道は柔らかい地の肌の上になまなましく
     泉の中でおまえの腕は輝いている
     そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて
     静かに成熟しはじめる
     海と果実
---------------------------------------------------------------------
この詩は1986年8月刊学習研究社『うたの歳時記』恋のうた・人生のうた、に載るものである。
みづみづしい現代詩の息吹に触れてもらいたい。




ひとつ咲く酒中花はわが恋椿・・・石田波郷
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──再掲載──初出・2009/03/18

     ひとつ咲く酒中花はわが恋椿・・・・・・・・・・・石田波郷

今日3月18日は石田波郷の生れた日である。
この句は彼の晩年の昭和43年に出た句集『酒中花』の題名にもなった句である。
掲出した写真①が「酒中花」という名の伝統種のやぶ椿である。
「酒中花」という呼び名の由来は判らない。漢和辞典にも載っていないから、中国由来の漢語ではないらしい。
この花の花弁の縁取りが、ほんのり染まっている(ふくりん、と言うのか)様子が、何だか酔っ払っているようで、こんな名がついたのかも知れない。
なお「酒中花」についてはネット上で、下記のような説明がある。

酒中花(しゅちゅうか)
あんどんの灯は昔は普通、菜の花の油に山吹の茎の芯を浸してその先に火をつけましたが、その山吹などの髄芯を使った酒興の一つがあります。山吹などの茎の髄を花や鳥の形に作って押し縮めておきます。これを、盃に入れておいて酒を注ぐと、酒を吸って開くという趣向です。遊び心をたっぷり持った江戸人の考えそうなことですが、今私たちが粋がって行うほとんどのことは、100年以上前にすでに行われていたといって良いように思われます。>

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この説明にあるようなものが「玩具」として売られているようだが、私は見ていない。
ついでに申しあげておくと、酒中花というのは、写真②に挙げた花菖蒲にもあるのだ。
この花も椿と同じく花弁の縁が彩られている。

石田波郷は成人してからの大半を、持病の結核との闘病に費やした人である。
以下、事典に載る記事を先ず引いておく。

石田波郷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石田 波郷(いしだ はきょう、1913年3月18日~ 1969年11月21日)は、昭和期の俳人。本名哲大(てつお)。正岡子規、高浜虚子を生んだ近代俳句発祥の地、愛媛県温泉郡垣生村(はぶむら)(現・松山市西垣生)に生まれた。明治大学文芸科中退。戦後の俳壇を先導し、俳句文学に大きな功績を残した。
草弥注・この記事では「垣生」となっているが、ハブと発音する限りでは「埴生」が正しいと思われる)

早くから句作
愛媛県温泉郡垣生村大字西垣生980番地に、父惣五郎、母ユウの次男として生まれる。1919年4月、垣生尋常高等小学校に入学。小学生の頃から友人と俳句を作って遊んでいたが、本格的に句作を始めたのは県立松山中学(現・松山東高校)4年の時で、同級生の中富正三(後の俳優・大友柳太朗)に勧められたことによる。俳号は「山眠」、「二良」とつけた。ちなみに中富は「如煙」、「悠々」と号した。中学5年の頃、同級生と「木耳(きくらげ)会」を起こす。同村の村上霽月主宰の今出(いまづ)吟社に出入りし、句作に励む。

本格的に活動
1930年3月、松山中学を卒業した波郷は自宅で農業を手伝いながら、同年4月、近くに住む俳人、五十崎古郷(いかざきこきょう)に指導を受けた。「波郷」という俳号は古郷による命名。水原秋桜子の指導を受けたことのある古郷の勧めで秋桜子主宰の『馬酔木(あしび)』に投句を始める。高屋窓秋らとともに流麗清新な抒情俳句に新風を開き、水原秋桜子門の代表的俳人となった。1932年2月20日、単身上京。5月頃、東京市経営の深川一泊所に勤務。10月頃、秋桜子の下で『馬酔木』の事務を、後に編集を担当するようになる。石橋竹秋子、牛山一庭人らと親しく交わり、俳句以外の文芸の世界にも目を開く。1934年4月、明治大学に入学(第3期生)。1935年11月、第1句集『石田波郷句集』を刊行。1936年3月、大学を中退し、久保田万太郎を慕って句作に専念する。同年9月、馬酔木新人会『馬』創刊。同人として加わる。1937年9月、『馬』と『樹氷林』を合併し、句誌『鶴』を創刊、主宰となる。波郷24歳であった。秋桜子は波郷の句を「昭和時代を代表する秀句」と絶賛した。1938年6月末、目黒区駒場町761駒場会館アパートに転居する。1939年8月、『鶴の眼』を上梓。新興無季俳句運動の素材的・散文的傾向に同調せず、韻文精神に立脚した人間諷詠の道を辿り、中村草田男、加藤楸邨と共に「人間探求派」と呼ばれた。

戦争と病苦
第二次世界大戦中は、俳句固有の方法と格調を元禄俳句に探り、古典と競う俳句一途の決意を深めた。1942年3月、縁談の人、吉田安嬉子(本名せん)と初めて会い、同年6月27日九段軍人会館にて結婚挙式。1943年5月19日、長男修大(のぶお)が誕生し、同年6月、浦和市本太後原2145の岳父の家作に転居する。同月、未召集兵教育を受ける。波郷の禍福は9月23日、30歳で召集されたことに始まる。月末、千葉佐倉連隊に入隊し、10月初旬、華北へ渡り、山東省臨邑に駐留する。1944年、元旦を不寝番兵として迎える。同年3月、左湿性胸膜炎を発病、陸軍病院を転々とし、1945年1月22日夕刻に博多に帰還する。同年3月9日、安嬉子と修大を伴い北埼玉樋遺川村に疎開する。6月17日兵役免除となり、8月15日、盆休みの農家の庭先にて終戦の玉音放送を聞く。この頃より病気が再び悪化、以後、1969年に死去するまで、手術と入退院を繰り返す。

生をかみしめる秀句
しかし波郷は、病気との闘いを通して、生をかみしめ自分を見つめる数々の秀句を詠みついでいった。1946年1月、妻子を伴って上京、葛西の吉田勲司宅に仮寓。同年3月10日、江東区北砂町1-805に転居。3月15日、長女温子(はるこ)が誕生。9月、綜合雑誌『現代俳句』を創刊、編集に当たり、1947年11月には現代俳句協会の創立など、俳壇の再建に尽力する一方、焦土俳句を経て、1950年6月に刊行された『惜命(しゃくみょう)』は、子規を先駆とする闘病俳句の最高傑作と位置付けられている。「俳句は生活そのもの」とする波郷は、『ホトトギス』の「花鳥諷詠」に対する「人間探求の」俳句を深化させることに成功した。その後、病苦を乗り越え人生の日々を静かに凝視した句境を格調正しい表現によって詠み続けたが、1969年11月21日、肺結核で病没した。

作品リスト
1935/11 石田波郷句集
1939/08 鶴の眼
1940/03 行人裡
1941/01 俳句愛憎
1941/04 大足
1943/05 風切
1946/11 病鴈
1947/05 風切再刻版
1947/12 風切以後
1948/03 雨覆
1949/05 現代俳句大系第一巻 石田波郷集
1949/11 胸形変
1950/06 惜命
1952/03 石田波郷句集
1954/04 定本石田波郷全句集
1954/05 臥像
1954/12 自註石田波郷集上
1955/05 定稿惜命
1956/06 清瀬村
1957/03 春嵐
1957/04 現代俳句文学全集 石田波郷集
1957/05 俳句哀歓 俳句と鑑賞
1957/10 波郷自選句集
1966/07 江東歳時記
1967/11 定本石田波郷全句集
1968/04 酒中花
1970/05 酒中花以後
1970/11 石田波郷全集(1972年完結、全9巻、別巻1)
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上の記事にも書いてあるが「現代俳句協会」も彼が呼びかけて結成されたものである。参照されたい。
水原秋桜子門下からは彼の他にも加藤楸邨なども出ており、私も彼や楸邨は好きで何度も採り上げてきた。
季節の句として掲出句を挙げたが、改めて私の好きな句を引いて終る。

 プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ──昭和七年二月二十日上京

 あえかなる薔薇撰りをれば春の雷──銀座千疋屋にて

 女来と帯纏き出づる百日紅

 葛咲くや嬬恋村の字(あざ)いくつ

 雁や残るものみな美しき

 秋の風万の祷を汝一人に

 牡丹雪その夜の妻のにほふかな

 稲妻のほしいままなり明日あるなり

 妻が来し日の夜はかなしほととぎす

 桔梗や男も汚れてはならず

 たばしるや鵙叫喚す胸形変

 麻薬うてば十三夜月遁走す

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ

 接吻もて映画は閉ぢぬ咳満ち満つ──患者慰問映画

 為さざりしことのみ春の落葉焚

 柿食ふや命あまさず生きよの語

 寒菊や母のやうなる見舞妻

 春雪三日祭のごとく過ぎにけり

 安心(あんじん)の一日だになし稲妻す

 蛍籠われに安心あらしめよ

 萬両や癒えむためより生きむため

 息吐けと立春の咽喉切られけり

 わが死後へわが飲む梅酒遺したし

 今生は病む生(しやう)なりき鳥頭(とりかぶと)
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末尾の6句ほどは死の間際の「辞世」と言える作品である。
末尾の句の「とりかぶと」というのは、ご承知のように「麻酔薬」であるが、彼の死の間際には痛みなどを和らげるためにモルヒネなどの麻薬が使われたかも知れないので、私の独断による推察だが、「とりかぶと」という表現は、その麻薬治療を踏まえてあるのかも知れない。
いずれにしても、この末尾の句は死の間際に際して、「俺の一生というのは、本当に病気との付き合いに終始した人生だっな」という悲痛な述懐の句と言えよう。
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電気が到来する明治以前は「明り」には蝋燭や行灯などが唯一の照明だったが、仏壇の灯明などは、私の子供の頃も、菜種油のかわらけに「灯芯」を浸して火をつけていた。だから、仏壇も煤けていたものである。蝋燭や菜種油を求めてネズミが仏壇の中に入り込んだりした。上の「酒中花」の遊びの記事は、そういう実生活の「灯明」を遊びないしは玩具化したものである。

なお松岡正剛の「千夜千冊」というサイトは私の愛読するところだが、波郷句集『鶴の眼』の記事も面白いので参照されたい。波郷のご子息修大氏が日本経済新聞の論説委員だったことなど、私はこのサイトで知った。

googleの検索で「石田波郷」で探すと「風鶴山房」というご長男・修大氏の制作されるサイトがある。
ご覧になってみてもらったらよいが、目次のページに「あき子の部屋」というのがある。これは夫人の名だが、そのページのドアが「寒菊や母のやうなる見舞妻」という波郷の句になっている。上に私が引用した句である。
なお、夫人の名は安嬉子(本名せん)であり、ペンネームとしては「あき子」になつているらしい。この「あき子の部屋」には、波郷と妻との相聞の句のやりとりなど、私生活にわたって書かれているので、ほのぼのとした雰囲気にひたれる。ぜひアクセスされることをおすすめする。
「波郷語録・著作」のページのドアは「霜柱俳句は切字響きけり」という句になっているが、この句は、かの桑原武夫の「俳句第二芸術論」に反論した句として知られている。松岡正剛の記事にも書かれているが、これらのいきさつを読みすすむのも、私には、とても楽しい時間である。
それにしても、このご子息・修大氏のページの最終更新が2004年末以後ないのが気にかかる。他の記事で「腎臓癌の手術うんぬん」とあるので、それ以後、体調を壊しておられるのか。

角川書店刊「石田波郷読本」というのを買い求めた。これには全句集も入っているし、随筆もたくさん収録されている。つれづれに目を通すのに最適である。
先に「今生は病む生なりき鳥頭」という句の「解」を書いたが、これらを読んでいると「痛み止め」に麻薬を何度も使っているようで、私の「解」に自信を深めた。



小谷陽子歌集『ねむりの果て』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      小谷陽子歌集『ねむりの果て』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・本阿弥書店2019/03/16刊・・・・・・・


小谷陽子さんは「ヤママユ」所属の、大阪の人である。
歌集に『光の帯』 『ふたごもり』 ともに砂子屋書房刊があるが、私は未見である。
「ふたごもり」の刊行は2003年であるから、もう十六年も前のことである。
私は歌集を出すたびに贈呈してきたし、年賀状も交わしている仲であるが、親しくは交際していない。
ご病身であられるようで「あとがき」にも書かれている。
小谷さんについては、角川「短歌」2018年6月号の歌「月のぼり来む」12首を私のブログに載せたことがある。 ← リンクになっているので、ご覧いただきたい。

今回の本には2003年から2009年頃までの歌が収録されている、という。
長い間、歌集の上梓がなかったのは「あとがき」に書かれるように、仕方のないことだが、この本に載る歌の後に、もはや十年の歳月が経っているのである。
だから、われわれ読者は、十年前の小谷さんを「読む」ことになる。
ひところは、作品を温めるということで、年数を開けることが多かったが、今どきの「せちがらい」世の中にあっては、こういう編集態度は、いかがなものかと私などは思ってしまう。
事実、最近の歌集の上梓の様子を見ていると、直近の作品まで収めているのが多い。私なども、そういう態度である。
そういう意味でも、小谷さんの次回の歌集は早目の上梓をお願いしたい。
率直な物言いに過ぎたことを、お詫びします。

「月のぼり来む」12首の記事のところでも書いたが、小谷さんは、前登志夫の弟子として、前登志夫の「草木蟲魚」の心に沈潜した域を表白しようとしたように思われる。
ひらがなを多用した歌づくりが独特である。今回の本についても、そのことが言える。たくさんあるが、先ず一つだけ挙げておく。

   *たましひのひびきのままに生れいでしすずしきことば はる なつ あき ふゆ

和歌の伝統に照らして「かな」文字の美しさを強調したのが、身に沁むのである。 秀逸である。

この本の題名の「ねむりの果て」というのは、巻頭に収録されている18首の一連から採られているようである。少し引いてみよう。
   *たましひは舫ひ解かれてただよへりながくながく夕陽を見つむ
   *長月はふかきねむりの果ての朝いづくのだれとわれに問はずや
   *こんこんと雪ふる雪ふるいつのまに「夜色楼台図」の町あゆみしか  蕪村画
   *髻を残してたしか消えしわれあはゆき降ればルージュを引けり

この項目に載る歌から引いた。
「たましひは」の歌は「帯」にも引かれていて、作者にとっても愛着のある一首だろうと思われる。

「ねむりの果て」とは、何を意味するのだろうか。
「あとがき」に書かれている文章を「帯」に編集者が引いている。

       < 一日のねむりの果て、
         一生のねむりの果て、
   自身の底にある記憶や無意識のねむりの果て、
      ねむりの果てに新たなめざめがあり、
       未知の発見があればうれしい。    >

佳い言葉である。 ここに、この歌集一巻の要約が尽くされている、と言っても過言ではないだろう。

小谷さんの住む所は大阪市でも有数の高級住宅地である。
この辺り一帯は「帝塚山」と呼ばれる土地で、万代東のすぐ西には広大な「万代池」公園がある。
それは、さておき、「あとがき」のはじめに、
<子供の頃、私の家は、大阪の上町台地の縁にあった。家から少しばかり西へ歩くと、急な長い石段が下の町に続き・・・・・。
大昔、海はここまで迫っていたという。天気の良い日、よく石段の天辺に座って、眼下の町に沈みゆく夕日をうっとりと眺めた。>
と書かれている。
少し西に行くと「夕陽が丘」という地名のところがあったりする。
こんな歌がある。
   *天王寺西門前のバス停にほうと夕陽を見守る人ら   「ほう」には傍点が打たれている
   *そのかみはわたつみなりき見下ろせる街に今日を触れゆく夕陽
   *墨染めの尼僧ののぼる愛染坂その足首にさくら降るなり
   *くちなは坂われは雪降る天保の夜を逃るるをみないちにん
   *心中塚に礼せしのちを見上ぐれば空をせばめて立つラブホテル

ここにも、いくつかの「坂」の名が出てきたが、いよいよ「地名の喚起力」について書く。
   *ここ粉浜、玉出、姫松、岸ノ里茅渟の海より来る涅槃西風
   *あられうつ路面電車に住吉の弟日娘の末裔も乗らずや
   *姫松を過ぎて住吉鳥居前レールのひびきは潮のひびき
   *ふりむけば海みえしとぞ反橋の頂きに来てくちずさむ和歌
   *すつぽん屋の木札のゆれてうらがへる路地の入口「生血アリマス」
   *大腿筋、二頭膊筋盛りあげて谷町筋の春ゆく力士
   *はしきやし翁のうたの遠里小野へバスにゆらるる霞のなかを

これらの歌からは、私のいう「地名の喚起力」を感得できないだろうか。
大阪に住む人とか、この地を訪ねた人とかには、おなじみの土地であって、だから、これらの歌を読むと、ニヤリとするのである。
これらの歌は住吉大社かいわいの地名が、たくさん詠われている。南海電車に乗っていると、これらの駅名に出会う。
五首目の歌などからは、このかいわいの下町の風景が目に浮かぶようではないか。
今しも大相撲大阪場所の最中だが、谷町筋の辺りにも相撲部屋があったりする。相撲の「ひいき筋」を「タニマチ」などと言うのも、ここから来ているのである。
六首目の歌の「遠里小野おりおの」という堺市へかけての地名なども特異なもので、読者の心の中に長く残るだろう。

全部で426首という膨大な歌群なので多くを引くことが出来ないので、あとは私の心に留まる歌を引いてみたい。

  *病いくつはらむうつし身ぼろぼろの春のおぼろやさてもうつし身
   *全身でわれを見てゐる今日の犬かの夜のひとのまなざしに似て
   *よこたはる犬の脇腹ひとすぢのひかりをのせて低く上下す
   *なめくぢら踏みてしまへる前足の置きどころなく犬に降る雨
   *極月の月の夜犬よ耳立てていづくのこゑを聞かむとすらむ
   *この犬の余命みじかし告げられてひと日ひと日の心つつまし
   *寒の水すくふ舌なりわたくしの掌を舐めくれししなやかな舌
   *全身でわれを見てゐる今日の犬かの夜のひとのまなざしに似て
   *まなざしに恨みを込むる犬なりき雨の日「臭あ」と言ひしときなど
   *夜の扉をへだてて外は木枯らしの内は死にゆくものの息の音

飼っている紀州犬ミサキにまつわる歌を引いた。多く引きすぎたかも知れない。ただ作者の思いがこもっていると感じたからである。

   *平城京右京五条二坊あたりついとなかぞら鳥よこぎりぬ
   *あをぞらの剥がれてゆくよあきつしま盲の鑑真座す寺を出づ

唐招提寺を詠んだ一連の中の歌である。ここにも地名の喚起力を感じることが出来る。

   *むかしむかしあるところにと父の声とほくなりゆきまだ覚めぬ夢
   *おおははの母音のひびきゆるやかに蛇行してくる熊野川原
   *わたくしの生れる前の蒼き楽滝のほとりにめつむりゐたり
   *「行つてきます」「おはやうお帰り」玄関は道祖神のごとくははそはのゐて
   *「もみないなあ」と朝餉の卓にはは言へりそのかみ毛瀰は神の供物ぞ
   *禿頭に鳥の糞のせ歩み来るちちのみの父はた常世神
   *耳しひの父はひらたく眠りゐるこの世のふかき水甕の底
   *病む父にあがなふものは葛素麺葛湯葛切りわがくづのうた
   *ゆつくりと大鳥歩みのおほちちの棚田のほとりをあゆみゆくかな
   *おほははの手にて日に日によみがへる黄金色の糠床ありき
   *粘菌の写真見てゐて肩ごしにあなたのやうとささやかれたり

身近の人々を詠んだ歌を、まとめて引いた。

   *はつなつの四方にひびきてはれやかなうたびと登志夫のうたへる短歌や
   *うぐひすの鳴きそこなひも混じりつつ四月五日も過ぎてしまへり    前登志夫の忌日
   *玄関に履いたであらう大きなるスリッパありぬしづかに揃ふ
   *先生のつむりのかたちを知る帽子グレーのソフトの窪やはらかく
   *大空の干瀬にも差さむ夕あかりひとつしづかな海星を拾ふ   「大空の干瀬」前の本の題名

先師・前登志夫を詠った歌を拾ってみた。
雑駁な、不十分な鑑賞になったが、お許しを得たい。 ゆったりとした「かな」文字の起承転結にたゆたう心地がした。
巻末の歌は

   *「さくら咲く」うたひ出づればみづみづと立ち上がるなりこの世の時間

健康に留意されて、今後ますますのご健詠をお祈りいたします。 ご恵贈有難うございました。    (完)





唐国の壺を愛して梅を挿す妻の愁眉や未だ寒き日・・・木村草弥
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      唐国の壺を愛して梅を挿す
           妻の愁眉や未だ寒き日・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、妻の体調が悪くなりかけた頃のものである。
それは「妻の愁眉」という個所に表現してある。
自分の体調に愁眉の愁いを表わしながら、妻が唐国の壺に梅を活けている、という歌である。
この歌は自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。

梅の開花は、その年によって遅速があるが今年は季節の推移が早く梅の開花も早いようである。
何度も書いたことだが、私の住む「青谷村」は鎌倉時代以来、梅の名所として規模は大きくはないが、伝えられてきた。
「万葉集」では、「花」というと「梅」のことだった。今では俳句の世界では「花」と言えば「桜」を指すことになっている。
「和歌」「短歌」でも同じである。気候的にも桜の咲くころは春まっさかりという好時期であり、日本人は一斉に花見に繰り出すのである。
しかし、「梅」には、馥郁たる香りがあり、しかも花期が極めて長くて、長く楽しめる。
梅の産地生まれだからというわけではなく、どちらかというと、私は「梅」の方が好きである。

hana565_1_ume紅梅

梅の花については、先に姉・登志子のところでも挙げたが、私は梅の歌をいくつも詠んでいる。
掲出した歌の次に

     壺に挿す白梅の枝のにほふ夜西班牙(スペイン)語の辞書を娘に借りにゆく

という歌がある。実は、私の次女は外国語学部でスペイン語が専攻だった。

歳時記にも「梅」の句は多い。それらを引いて終りたい。

 梅が香にのつと日の出る山路かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 むめ一輪一りんほどのあたたかさ・・・・・・・・服部嵐雪

 二もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・与謝蕪村

 梅一枝つらぬく闇に雨はげし・・・・・・・・水原秋桜子

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・中村草田男

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・石田波郷

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・星野立子

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・西島麦南

 白梅のあと紅梅の深空あり・・・・・・・・飯田龍太

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・古賀まり子
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普通、紅梅は白梅よりも時期があとになることが多い。

猫の恋パリの月下でありにけり・・・山田弘子
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        猫の恋パリの月下でありにけり・・・・・・・・・・・・山田弘子 

猫の繁殖期は春と秋の二回あるが、春のものは、まだまだ寒い今の時期に始まる。
去勢手術をしてある猫ならいざ知らず、何もしていない猫は、このシーズンになると、狂気にとりつかれたように昼も夜も相手を求めて鳴きながら徘徊する。
夜など家の周りでギャーギャー鳴きたてられては安眠妨害である。
このような現象は、野良猫であろうと、由緒ただしい血統書つきの猫であろうと違いはない。
掲出写真は、いわゆる「ブランド猫」と呼ばれる由緒正しい、高価な猫の画像である。

掲出句は、猫の恋には東西の区別はなく、フランスはパリでも、同じ現象があることの句であり、微笑ましい。

私の歌にも
  
   いねがたき夜半にしあれば血統をかなぐり捨てて恋猫が鳴く・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

私の歌の趣旨は、先に書いたようなことである。

私は基本的に「猫嫌い」である。
というのは、わが家の庭は、放し飼いにされた猫たちの通り道に当り、臭い臭いウンチはされるわ被害甚大で、
通り道に忌避剤を撒いたり、灯油を撒いたりして対応しているが、じきに効力がなくなり困り果てているからである。
猫を飼っている人の言い草も気に入らない。
「犬は毎日、散歩に連れてゆかなければならないが、猫は一人で、どこかでしてきてくれるから楽だ」。
そのトバッチリが私の方に降りかかっているのである。
いつか散歩をしていたら、猫に手綱をつけて散歩させている飼い主さんに出会った。
「猫の散歩とは珍しいですね」と言ったら「猫のウンチも迷惑ですから」という返事があって感心したものである。
こんな人は滅多に居ない。

    大比叡の表月夜や猫の恋・・・・・・・・・・鈴木花蓑

という句があるが、これなどは猫の恋を美的に、大きな景物の中に捉えて成功している。
猫の交情というのは、観察した人の文章などを見ると、凄まじいらしい。
猫の交尾というのは何回も執拗に雄、雌を問わず求めるようで、お互いを挑発したりして延々とつづくらしい。私は見たこともない。
交尾期が終わって家に戻ってきた猫は毛は傷つき、精力を使い果たしたようになっているらしい。
ライオンの交尾というのをテレビで見たことがあるが、腹ばいの雌の上に、雄がかぶさるようにするらしい。
猫も同じ種らしいから交尾の姿勢も同じらしい。人目につかない夜などが多いそうである。
犬の交尾は人が居ようがお構いなしで、これはこれで凄まじいものであるが、犬の交尾と狐の交尾は、種が同じだから、そっくりだという。

歌に戻ると、うるさくて安眠妨害のときはバケツに水を用意しておいて、ぶっかけて追っ払ったりする。
野良猫でもボス的なものが居て、やはり強いものの遺伝子を受け取りたいという雌の本能があるのか、多くの雌に種付けするようだ。
私の他の歌にも「猫」を詠ったものもあるが、それらはあくまで「道具建て」として使ってあるに過ぎない。
それらの歌のいくつかを引いて終わりたい。

   三毛猫の蹠(あしうら)あかく天窓の玻璃に五弁の花捺しゆけり・・・・・・・・・・木村草弥

   入りつ陽のひととき赫と照るときし猛々しく樹にのぼる白猫

   菊の香のうごくと見えて白猫の音なくよぎる夕月夜なる

   黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む

歳時記の春を見ると季語「猫の恋」として、たくさん載っているので、それを引いて終わりたい。

 菜の花にまぶれて来たり猫の恋・・・・・・・・小林一茶

 おそろしや石垣崩す猫の恋・・・・・・・・正岡子規

 色町や真昼ひそかに猫の恋・・・・・・・・永井荷風

 恋猫の丹下左膳よ哭く勿れ・・・・・・・・阿波野青畝
 
 恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく・・・・・・・・加藤楸邨

 老残の恋猫として啼けるかな・・・・・・・・安住敦

 悪猫が舐めあふ春の猫の味・・・・・・・・三橋敏雄

 奈良町は宵庚申や猫の恋・・・・・・・・飴山実

 あらすぢも仔細もあらぬ猫の恋・・・・・・・・三田きえ子

 八車線渡り切ったる猫の恋・・・・・・・・出口善子

 エジプトの恋猫の闇青からむ・・・・・・・・布施伊夜子

 借りて来し猫なり恋も付いて来し・・・・・・・・中原道夫

 山形訛り恋猫をわしづかみ・・・・・・・・今井聖

 恋をしてわが家の猫と思はれず・・・・・・・・小圤健水

 よれよれになりたる恋のペルシャ猫・・・・・・・・藤井明子

 西鶴の墓にかしまし恋の猫・・・・・・・・倉持嘉博



妻消す灯わが点す灯のこもごもにいつしか春となりて来にけり・・・木村草弥
72279灯り
 
     妻消す灯わが点(とも)す灯のこもごもに
        いつしか春となりて来にけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
この歌については若干の思い出がある。
近藤英男先生と一緒に同道して出雲の「空外記念館」を訪ねたりしたことがあるが、先生は脚がお悪いので、往復の飛行機や乗物、ホテルなど、その面倒などを私がみたことがあり、
そのお礼にと何か「書」を先生が言われたので、いただけるなら前衛的な書ではなく、伝統的な「かな書」の水茎麗しいものを所望しておいたところ、
先生の旧知の後輩の奈良教育大学書道科の吉川美恵子 教授の書をお手配くださった。先年、定年で退官された。
吉川先生は日展書道部の現役作家として数々の賞に輝く逸材であられる。また読売書法展などでも活躍される。
その時に吉川先生が書いて下さった私の歌が、掲出したものである。
二つ書いていただいた、もう一つは

    かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫り深きゆふぐれ

というものである。この歌については先に、このBLOGで採り上げたことがある。
「灯り」(あかり)と言っても、その種類はさまざまである。
掲出の歌を作った頃は、妻が病気になりはじめた頃ではないか、
と思う。この歌の続きに

    丹精の甲斐もあらずて大根の花を咲かせて妻病んでをり

の歌が並んでいるからである。
わが家では一番遅くに寝るのが妻であり、「妻消す灯」である。
朝ないしは夕方に私が灯を点すこともある。
それが「わが点す灯」ということである。誰が消すか、誰が点すか、ということは逆でもいいのである。
そういう順序にこだわってもらっては困る。
そういう日々の何気ない繰り返しがわが家の日常であった。
妻も私も元気であった頃は、そんなことは考えもしなかったが、妻が病気がちになって、こういう日常の何気ない光景が、貴重なことに思えるようになったのである。

この「書」二つは奈良の有名な店で表装してもらい掛け軸にし、吉川先生には「箱書」をお願いした。
妻亡き今となっては、この歌と掛け軸は、深い思い出とともに、この時期になると床の間に掲げて、妻を偲ぶのである。

奈良東大寺二月堂の「お水取り」が終ると関西では春らしくなるという。
その修二会は3月1日から14日間行なわれるのであった。
この言葉通りに、とは行かずに最近は厳しい寒さのぶり返しであるが、そのうちに暖かい日も来るようである。
今年は「寒」に入ってから寒かったので、地虫が穴から出てくる「啓蟄」さながらに、戸外に出るのが愉しくなってきてほしいものである。
その「お水取り」も、いよいよ14日で終わる。いよいよ本格的な「春」の到来である。


3月14日未明から、FacebookとInstagramで不具合が出ている。

 3月14日未明から、FacebookとInstagramで不具合が出ている。
両サービスを運営する米Facebookは午前3時ごろ「Facebookファミリーのアプリに障害が出ている」と表明。
解消に向けて努力しているという。
障害の原因は「DDoS攻撃ではないことを確認した」としている。

 FacebookとInstagramでそれぞれ、投稿やログイン、画面の更新などに不具合が出ている。

 グローバルサービスの障害としては13日、米Googleが運営するGmailとGoogleドライブで大規模な不具合が起きたばかり。


私の記事もFBにはシェアできなくなっている。
この障碍は、昼前になって、ようやく解消した。




賞味期限切れた顔ねと言ひながら鏡の中の妻は紅ひく・・・木村草弥
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     賞味期限切れた顔ねと言ひながら
            鏡の中の妻は紅(べに)ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「賞味期限」とは食品に付けられている期限の数字であるが、今では、日常会話の中でも、よく言われるようになっている。
亡妻が実際に、この言葉を言ったのか、それとも私が作品化するときに採り入れたのか、今となっては判然としないが、いずれにしても面白い歌に仕上がっている。
掲出した写真は、もちろん妻のものではない。この写真の女の人などは、まさに「賞味期限」最中である。
化粧品会社のサイトから拝借したものである。

女の人が、お化粧しているのを、こっそり眺めるのは面白いものである。
私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)の中で「化粧」という一連10首を作ったことがある。その中に

   私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

   お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

   化粧はエロチックだ 女のナルシスムだと決めつけてはいけない

   化粧する女は淋しがりやだ。 化粧なしの素肌では不安なのだ

   素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

   化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

というような歌がある。この歌集は「自由律」のものなので定型をはみ出た自由なリズムで作っている。
いかがだろうか。
もっとも、この頃では男も化粧に精を出すような時代になった。
着るものも「ユニセックス」の時代と言われ、男性、女性という区別が明確ではなくなり、「中性」の時代とも言われている。
男性と女性とが「結婚」するという時代でもなくなり、同性同士の結婚が、法的に認められるところも出てくる、という時勢なのである。
私などは時代に取り残された「骨董品」的な価値しかないかも知れない。
それでも、私でも女の人に「まぁ、おしゃれね」と言われたら嬉しいのだから、何をか言わんやである。
この辺で、退散しよう。チャオ!
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この記事は2006/02/19に初出のもので、当時これをご覧になったChibisaruさまが、こんなコメントをお寄せになった。

   <私はコンタクトを入れるときは「ウロコをいれる」といい
    お化粧するときは「化ける」もしくは「変装する」といい
    着替えるときは「武装する」といいます
    家から一歩でると私にとっては戦場なのかな?(笑)>

とても面白くて、的確な表現なので、ここにご紹介しておく。
その人もDoblogの廃止騒動前後の頃から音信不通である。




東岸西岸の柳 遅速同じからず/南枝北枝の梅 開落已に異なり・・・慶滋保胤
2009022F252F462Fc0108146_234431887柳新芽

  東岸西岸の柳 遅速同じからず

  南枝北枝の梅 開落已(すで)に異なり・・・・・・・・・・・・・・・慶滋保胤


作者は慶滋保胤(よししげのやすたね)、平安中期の著名な文人で、その作『池亭記』は鋭く社会の変貌を捉えて鴨長明の『方丈記』に影響を与えた、とされる。
出典は『和漢朗詠集』巻上「早春」から。
保胤は白居易に傾倒し、この詩も白居易の詩句「北の軒 梅晩(ゆふべ)に白く 東の岸 柳先づ青みたり」や「大庾嶺上の梅 南枝落ち北枝開く」を踏まえているが、謡曲「東岸居士」その他に多く引かれ愛唱された。

同じ春とは言え、地形や場所によって季節の到来には遅速がある。
開く花あれば、散る花あり。
造化の妙は、そんな違いにも現れて、感興の源泉となる。

ume3白梅

なお、

   二(ふた)もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

の句は、この保胤の詩句を踏んだ句と言われている。

今しも、柳の新芽が芽吹く頃である。梅も、そろそろ咲き揃う頃である。
以下、柳の新芽を詠んだ句を引いて終わる。

 柳の芽雨またしろきものまじへ・・・・・・・・・・久保田万太郎

 芽柳に焦都やはらぎそめむとす・・・・・・・・・・阿波野青畝

 芽柳や成田にむかふ汽車汚れ・・・・・・・・・・石橋秀野

 芽柳の花のごとしや吾子あらず・・・・・・・・・・角川源義

 芽柳のおのれを包みはじめたる・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 風吹いてゐる綿菓子と柳の芽・・・・・・・・・・細川加賀

 芽柳を感じ深夜に米量る・・・・・・・・・・平畑静塔

 あれも駄目これも駄目な日柳の芽・・・・・・・・・・加藤覚範

 芽柳や銀座につかふ木の小匙・・・・・・・・・・伊藤敬子

 芽柳の揺るる影浴び似顔絵師・・・・・・・・・・太田嗟

 利根万里風の序曲に柳の芽・・・・・・・・・・三枝青雲

 芽柳のほか彩もなき遊行かな・・・・・・・・・・今村博子

 水色に昏るる湿原柳の芽・・・・・・・・・・神田長春


白木蓮の花おほどかにうち開き女体は闇に奪はれてゐる・・・木村草弥
hakumokuren2ハクモクレン
  
   白木蓮(はくれん)の花おほどかにうち開き
    女体は闇に奪はれてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌のつづきに

   情念の日ざかりばかり歩み来て闇の真白の残像恋ほし

という歌が載っているので、掲出した歌と一体として鑑賞してもらいたい。

青空を背景にしたハクモクレンもよいが、歌に合わせてバックが闇の写真にした。

450-20060321211401465白木蓮

ハクモクレンは、写真②の「こぶし」に似た花であり、事実、この両者は同じモクレン科の木である。
「こぶし」と「もくれん」は非常によく似ているのだが、その違いについて言うと、辛夷(こぶし)は早春に冬枯れの山野で咲き、遠くから目立つため、
かつては春の農作業の目安にしたという。
学名はmagnolia kobus と言い、我が国の固有種である。
「ハクモクレン」に比べて花がやや小さく、花びらが細くて、開き気味である。名前の由来は、果実が握りこぶしに似ているためという。
秋に実が熟すと、表面が割れて中から赤い実が糸でぶらさがる。
モクレン科モクレン属の落葉高木。

ただし、モクレンは中国原産の木である。
遠くから見ると見分けがつかないものである。

mokuren紫木蓮

モクレンというと「紫木蓮」という色違いの種類がある。これは濃艶な花である。
写真③に、それをお見せする。
日本へはかなり古くに渡来したらしいが、日本の文学に登場するようになったのは、江戸時代からである。
中国では15世紀には賞用された花で、仏教に関係があるらしく、日本では寺院に多く植えられている。
ヨーロッパへは1790年に渡り、欧米人にも好まれるようになったという。アメリカでも庭園木として広く植えている。
中国ではハクモクレンのことを玉蘭、シモクレンを木蘭の名で呼んでいる。シモクレンはデカダン的な美だという人もいる。
つまり妖艶な感じを受けるからであろう。

掲出した私の歌では「白木蓮」と漢字で書いて「はくれん」と読ませているが、これは音数揃えのためであって、
普通「ハクレン」と言えば「白蓮」(白いハスの花)を指すので紛らわしい。
私の歌は二つとも「メタファー」の体裁を採っているので、そのつもりで鑑賞してもらいたい。
この歌を作った時は三十年も前のことであり、その頃は私も若かったので、こういう「情念」に満ちた歌も作り得たのだが、
今となっては「枯れ切って」しまったので、こういう艶のある歌は作れない。
逆にいうと、だから、その時どきに歌はどんどん作っておくべきものである。
歌は、自分の年齢に応じた「表白」を反映するからである。
後になってからでは、その時どきの年齢を映した歌は、絶対に作れないということである。

hakumokuren3ハクモクレン②

紫木蓮ないしは白木蓮を詠んだ句で、私の歌に通ずると思う好きな句を引いて終りたい。

 木蓮の一枝を折りぬあとは散るとも・・・・・・・・橋本多佳子

 白木蓮の散るべく風にさからへる・・・・・・・・中村汀女

 葉がでて木蓮妻の齢もその頃ほひ・・・・・・・・森澄雄

 白木蓮純白といふ翳りあり・・・・・・・・能村登四郎

 木蓮の風のなげきはただ高く・・・・・・・・中村草田男

 戒名は真砂女でよろし紫木蓮・・・・・・・・鈴木真砂女

 白木蓮や胸に卍字の釈迦如来・・・・・・・・佐久間東城

 はくれんも煩悩の炎も闇に透く・・・・・・・・山上樹実雄

 白木蓮ひらきし夜が大事なり・・・・・・・・高島茂

 はくれんを手燭のごとく延べし枝・・・・・・・・轡田進

 はくれんの花ほむらだつ風の中・・・・・・・・下村梅子

 尖り立ち色めく蕾紫木蓮・・・・・・・・石川風女

 白木蓮を意中の花として老いぬ・・・・・・・・大森輝男



三月十一日の悲劇を忘れないために・・・木村草弥
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↑ 東電・福島第一原発3号機の爆発の写真。当初は余りの惨状に政府は非公開にしていたもの─アメリカの新聞が公開。

──再掲載──

       三月十一日の悲劇を忘れないために・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今日は東日本大震災が起こって、地震と大津波が襲来した日である。
地震の被害もさることながら、大津波によって大被害が起こり、あまつさえ「福島原発」が大爆発し、核燃料が溶けるメルトダウンを起こした悲劇は今に続いている。
この「メルトダウン」については、チェルノブイリ発電所での事故と同様であるが、日本では原発事故当初から、「影響は少ない」という「ウソ」の報道が政府などからなされている。
爆発した原子炉の片付けが進んできた昨今になって、メルトダウンの状況が予想以上に深刻であることが判ってきた。
チェルノブイリでは解けた燃料を取り出すのが不可能なので、建物全体をコンクリートで覆って、いわゆる「死の棺」として数十年経ったのだが、経年劣化でコンクリートが崩壊しだしたので、それを更に再び覆う工事が着手されようとしている。
溶けた原料の塊は「象の足」と呼ばれているが、フクシマの場合も、その象の足と同様の状態であるらしい。
放射線が強くてロボットのカメラも壊れて実情を写すことすら出来ない、ということである。
これらの真実に鑑みて、この悲劇を忘れないために、これに関連する過去記事を再掲載しておくので読んでみてください。  ↓

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佐藤

──新・読書ノート──

     いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め
            原子炉六基の白亜列(つら)なる・・・・・・・・・・・・・・・佐藤祐禎

         ・・・・・佐藤祐禎歌集『青白き光』2004年初版・短歌新聞社。2011年再版・文庫版いりの舎・・・・・・・・・

大熊町に在住され福島の原発を以前から告発し続けていた、歌集『青白き光』の佐藤祐禎(さとう・ゆうてい)さんは2013年3月12日に亡くなられた。 83歳であった。
初版の「あとがき」で
<七十五歳にして初めての歌集である>
と書いているように、遅くからの歌の出発であった。
「アララギ」から始まり、アララギ分裂後は宮地伸一の「新アララギ」に拠られた。序文も宮地氏が書いている。
「あとがき」にも書かれているが「先師」とあるように「未来短歌会」の近藤芳美の弟子を標榜されていて、桜井登世子さんと親しかったようである。
角川書店「短歌」六月号に、桜井さんが追悼文を書いておられる。

生前の佐藤さんのことは私は知らない。
原発の大事故のあと、事故前、それも十年ほども前に原発の事故を予測したような歌を発表されていると知って衝撃を受けた。
その歌集が『青白き光』である。
彼が短歌の道に入ったのは五十二歳のときで、遅い出発だった。
この歌集には昭和56年から平成14年までの歌511首が収録されている。
もちろん原発関連の歌ばかりではなく、羈旅の歌もあり、海外旅行の歌などもある。
ここでは、それらの歌には目をつぶり、原発関連の歌に集中する勝手を許されよ。

  いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる・・・・・・・佐藤祐禎

この歌は、この歌集の最後に置かれたものだが、題名も、この歌から採られているが、まるで「予言」のような歌ではないか。

彼・佐藤祐禎は再版に際して、別のところで、次のようなことを書いているので引いておく。 ↓      
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   『青白き光』を読んでくださる皆様へ    佐藤祐禎

私共の町は、新聞テレビで、充分世にまた世界にフクシマの名で知れ渡ってしまいましたが、福島県のチベットと蔑まれて来ました海岸の一寒村でした。
完全なる農村でして、一戸あたりの面積は比較的多かったのですが、殆ど米作りの純農村故に収入が少なく、農閑期には多くの農民が出稼ぎに出て、生活費を得た状態でした。

そこへ天から降って来たような感じで、原子力発電所が来ると知らされたのです。

この寒村に日本最大の大企業が来れば、一気に個人の収入も増え、当然町も豊かになるだろうと、多くの人は両手を挙げて賛成しました。
わずかに郡の教員組合などは反対したようですが、怒涛のような歓迎ムードの中では、表に出ることはありませんでした。
常識的に言って、これほどの大事業を興すには多くの問題が山積みするはずでしたが、ここでは全く問題は起きなかったのです。

先ず、用地ですが、ここには宇都宮航空隊の分教場があったのです。
敗戦となり、飛行場が撤収された跡には、面積92万坪つまり300ヘクタールの荒れ地が残っていました。
それが地元民の知らない内に、3分の2が、堤財閥の名義になっていました。
どのような経緯があったのかは未だわからないのですが、当時の衆議院の議長は西武財閥の祖、堤康次郎であったことを考えると、自ずから分かる気が致します。
あとの3分の1の殆どは、隣の双葉町7人の名義になっていました。

これらの土地は、全くの痩地で、生産性が殆どありませんでしたので、かつては、軍のために無償で提供した夫沢の地区の人らは顧みることもありませんでした。

当時、東京電力の社長・木川田は、福島県出身であり、建設省に絶大なる影響力を持っていた衆議院議員、天野は、ここ大熊町の隣の双葉町の出身だったのです。
そういう立場ですから、同県人として地元の為にと、木川田は考えたのだろうと思います。
そこに、天野は、俺の故郷には、うってつけの土地があると言いました。

立地条件として、第一に、相当広い土地。
第二に、1キロ以内に人家が全くないこと。
第三には、海水が充分確保できること。
第四に、土地取得に障害がないこと。
これらの条件が全て解決できるところが双葉郡大熊町夫沢地区だったのです。


東電の意志が県に伝えられ、双葉郡そして我が大熊町に伝えられ、トントン拍子に ことが運んだようです。
そんな訳で土地の価格が、驚くなかれ、一反歩「300坪」当時で5万円。
地上の樹木「矮小木」5万円。併せて10万円だったのです。
白河以北、一山百文といわれた東北でしたから、単に売買するとしたら一反歩5,000円か、1万円くらいにしか思っていませんでしたから、地権者は喜んで手放しました。
びっくりしたのは東電だったようで、後で聞きましたら、買収予算の4分の1で済んだとのことでした。
後に大きな増設問題が出ました7号炉、8号炉の建設予定地となった厖大な土地は、その余った予算で買った
ということです。

いよいよ工事が始まり、全てのものが大きく変わってゆきました。
数千人という作業員が入り、20キロ離れた山から岩石を切り出して、工事現場に骨材を運ぶトラックが延々と続きます。
労賃も飛躍的に上がりました。
今までは、小さい土木会社の手間賃が700~800円だったのが、数倍に跳ね上がったのです。
農家の人たちは早々と農事を済ませて、我がちに作業員として働き始めたのです。
年間の収入は飛躍的に増加したものですから、原発さまさまになって行きました。

それまでは収入が少なかったものですから、家を建てる時も村中総出で手伝い合い、屋根葺きなども「ゆい」という形で労力を出し合っていましたが、一日数千円の労賃が入るということで、助け合いなどすっかりなくなってしまったのです。
「町は富めども こころ貧しき」とも私は歌いました。

人口一万弱の町に、30軒以上の飲み屋、バーがあったといいます。
下戸の私などは一回か二回くらいしか行かなかったはずで、その実態などはよく分かりませんが大凡の見当はつきます。

原発に関する優遇税はどんと入りますし、原発に従事する人達の所得税は多くなりますし、何か箱物とか運動場とか施設を造る度に、原発からは協力費として多額の寄付金がありました。
いつの間にか県一の貧乏村が分配所得県一になってしまいました。

ここだけではありません。
となりの富岡町には、111万キロの原子炉が4基出来ましたし、そのとなりの楢葉町と広野町には、100万キロの火力発電所が4つ出来ました。
原発10基と火力4基から生み出される電力は、全て首都圏に送られ、地元ではすべて東北電力の電気を使ってまいりました。
東京の人達に、ここをよく理解してもらいたいと切に願うものです。

私の反原発の芽生えは、一号炉建設の頃、地区の仲間たちが皆そうであったように、どんな物だろうと好奇心を持って少しのあいだ働いた時です。
ある時、東芝の社員の方がこう言ったのを今でも覚えています。
「地元の皆さんは、こんな危険なものをよく認めましたね」という言葉でした。
その時は、変なことをいう人だなと思いましたが、だんだんと思い当たるようになったのです。

最初に気づいたのは、小さいけれども工事の杜撰さでした。
誤魔化しが方々にあったのです。
小さい傷も大きな災害にひろがることがあります。
それらは末端の下請け会社の利を生むためには、仕方がないというのが、この世界の常識だったらしいのですが、ただの工事ではないのです。
核という全く正体の分からない魔物を扱う施設としては、どんなに小さい傷でも大きな命取りになるはずです。
次第に疑念を持ち始めた私は、物理の本を本気になって読み始めました。
そして、それを短歌に詠みました。

   <この孫に未来のあれな抱きつつ窓より原発の夜の明り見す>・・・・・・・・・・佐藤祐禎
    
                                   (後略)
----------------------------------------------------------------------------
この文章を読むと、かの地に福島原発が、大した反発もなく建設し得たのかの疑問が氷解する。
上の文章の中のアンダーラインの部分は、私が引いたものである。

「資本の論理」と言われるが、まさに巨大財閥と巨大企業による「犯罪」とも言える行為である。
こんなことは、事前も事後も、日本のマスコミは一行も書かなかった。

さて、本論の佐藤さんの歌である。
多くの歌は引けないので、はじめに掲出した歌を含む巻末の平成十四年の歌の一連を引いておく。

     平成十四年    東電の組織的隠蔽

  三十六本の配管の罅(ひび)も運転には支障あらずと臆面もなし

  原発の商業主義も極まるか傷痕秘してつづくる稼働

  さし出されしマイクに原発の不信いふかつて見せざりし地元の人の

  破損また部品交換不要と言ひたるをいま原発のかくも脆弱

  原発などもはや要らぬとまで言へりマイクに向かひし地元の婦人

  原発の港の水の底深く巨大魚・奇形魚・魔魚らひそまむ

  「傷隠し」はすでにルール化してゐしと聞くのみにして言葉も出でず

  ひび割れを無修理に再開申請と言ふかかる傲慢の底にあるもの

  ひび割れを隠しつづくる果ての惨思ひ見ざるや飼はるる社員

  埋蔵量ウランは七十年分あるを十一兆かけるかプルサーマルに

  法令違反と知りつつ告発に踏み切れぬ保安院は同族と認識あらた

  面やつれ訪問つづくる原発の社員に言へりあはれと思へど

  組織的隠蔽工作といふ文字が紙面に踊る怖れしめつつ

  原発推進の国に一歩も引くことなき知事よ県民はひたすら推さむ

  いつ爆(は)ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列(つら)なる

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極めて不十分な鑑賞だが、この辺で終わりにする。 ぜひ取り寄せて読んでもらいたい。

この歌集の「初版」は短歌新聞社から刊行されたが、そのときに担当されたのが「玉城入野」氏であった。ちょうど、その頃、彼は短歌新聞社で編集者だった。
その後、短歌新聞社は社長の石黒氏の高齢のために解散されたので、初版本は絶版となった。
フクシマ原発事故の後、佐藤さんの「予言」のような歌を覚えていて、ぜひ再版をと働きかけて再版に至り、よく売れて、私が買ったものは第三刷である。
因みに、この玉城入野氏は、高名な玉城徹の息子さんであり、きょうだいに「塔」所属の歌人として有名な花山多佳子が居る。
玉城徹 ← については私の記事にあるので参照されたい。




鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・三橋鷹女
h-rno6ルノワールぶらんこ

       鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・・・・・・・・三橋鷹女     

鞦韆(しゅうせん)とは「ぶらんこ」のことである。
中国では、北方の蛮族のものが紀元前7世紀に輸入されたと言い、それほど古くから中国では行なわれていたという。
唐の玄宗皇帝は羽化登仙の感じがあるとして「半仙戯」の名を与えている。
唐詩などにもよく詠われ、それが日本にもたらされた。中国では古来、春の戯れとしたという。
和語では「ふらここ」ともいう。詩歌では、この言葉が愛用される。

掲出した写真はオーギュスト・ルノワール(1841-1919)の絵である。オルセー美術館蔵。
春になって暖かくなったので、若い女性が公園でブランコに乗っている図である。

先に書いたように「鞦韆」は漢字で書いて「しゅうせん」と音読みにする他に「ふらここ」と和語読みにすることもある。
以下、ブランコを詠んだ句を引いておきたい。

 鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す・・・・・・・・高浜虚子

 鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな・・・・・・・・松瀬青々

 鞦韆や春の山彦ほしいまま・・・・・・・・水原秋桜子

 ふらここを揺りものいはずいつてくれず・・・・・・・・・・中村汀女

 鞦韆やひとときレモンいろの空・・・・・・・・石田小坡

 鞦韆に腰かけて読む手紙かな・・・・・・・・星野立子

 鞦韆の十勝の子等に呼ばれ過ぐ・・・・・・・・加藤楸邨

 鞦韆や舞子の駅の汽車発ちぬ・・・・・・・・山口誓子

 鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・・・・三橋鷹女

 達治亡きあとはふらここ宙返り・・・・・・・・石原八束

 ふらここのきりこきりこときんぽうげ・・・・・・・・鈴木詮子

 鞦韆と雲一ひらと遊ぶなり・・・・・・・・加藤望子

 島の子のぶらんこ島を軋らせて・・・・・・・・谷野予志

 ブランコの子に帰らうと犬が啼く・・・・・・・・菅原独去

 鞦韆の綱垂る雨の糸に浴び・・・・・・・・堀葦男


かたまつて生くるさびしさ蝌蚪も人も・・・島谷征良
img1098ヒキおたまじゃくし

      かたまつて生くるさびしさ蝌蚪も人も・・・・・・・・・・・・・・島谷征良

一般に蛙は、まだ寒い頃に穴から出てきて、相手を見つけて抱接し、雌は田の水溜りに卵を産み、また土の中に戻って冬眠をつづけるという。
その間に水の中で卵は成長し、「おたまじゃくし」になって水中の微生物を食べて大きくなる。
親蛙たちはゆっくり冬眠して水温が、そこそこになるまで出て来ない。というのは蛙は「変温動物」であるから気温が低ければ活動できないからである。

私の歌に

    水底に動くものあり見つむれば蛙の卵(らん)の孵(かへ)りはじめぬ・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、「風二月」の一連の中にある。

写真②は卵嚢に入った蛙の卵。 ↓

img1035ヒキ卵

掲出した歌の前に

    田の水に映るものにも春兆し風は二月の光に触れ来(く)・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているのが、掲出した歌の舞台背景ということになる。

「おたまじゃくし」のことを漢字では「蝌蚪」(かと)と書くが、この字は中国の上代に、竹簡に漆の汁をつけて字を書き、
その字の形が頭が大きく、尾が小さい、おたまじゃくしに似ていたので、そう名づけられ、それを明治以降俳人たちが音読利用しているものという。

そんなことで俳句にも、よく詠まれているので少し引いて終りにする。

 天日のうつりて暗し蝌蚪の水・・・・・・・・高浜虚子

 川底に蝌蚪の大国ありにけり・・・・・・・・村上鬼城

 蝌蚪曇りなほ三月の日のごとき・・・・・・・・山口誓子

 蝌蚪の水山ふところにありにけり・・・・・・・・富安風生

 蝌蚪見れば孤児院思ふ性を棄てよ・・・・・・・・中村草田男

 蝌蚪の上キューンキューンと戦闘機・・・・・・・・西東三鬼

 税の数字よ小学生の日の蝌蚪よ・・・・・・・・加藤楸邨

 病みて長き指をぬらせり蝌蚪の水・・・・・・・・石田波郷

 蝌蚪を見る病後の杖を抱きかがみ・・・・・・・・皆吉爽雨

 蛙の子飼つて孤独の性(さが)子にも・・・・・・・・安住敦

 蝌蚪に打つ小石天変地異となる・・・・・・・・野見山朱鳥

 蝌蚪に肢不思議な平和充満し・・・・・・・・北登猛

 あるときはおたまじゃくしが雲の中・・・・・・・・飯田龍太

 蝌蚪の水少年のなほ女声・・・・・・・・辻田克己

 おたまじやくしにも青雲の志・・・・・・・・宮坂静生

 一つ出ておたまじやくしのどろけむり・・・・・・・・石田郷子

 かたまつて生くるさびしさ蝌蚪も人も・・・・・・・・島谷征良

 かたまれる蝌蚪に行末ひとつづつ・・・・・・・・まついひろこ

 うちみだれ蝌蚪の疑問符感嘆符・・・・・・・・新明紫明



菜の花の黄のひろごるにまかせけり・・・久保田万太郎
040207nanohana01菜の花

     菜の花の黄のひろごるにまかせけり・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

菜の花は早いところでは、もう一月はじめには咲きはじめて、遅いところでは満開は四月になる、という息の長いものである。
早春を告げる花として庶民的な親しみの持てる花である。
「菜の花」というのは、昔は「菜種油」を採るために栽培されていたのだった。
ずっと昔、電気のない頃は灯心に「菜種油」を注いで明りにしていた。
電気が来てからは、神棚や仏壇の灯明として終戦後も長く使われていたものだった。
菜種油を採る実を振い落したあとの「菜種柄」は、竈などの焚きつけに使われたが、蛍の出るシーズンになると、
それを持ち出して蛍をはたき落すのに使ったものである。
この頃ではエコロジー運動の一環として菜種油で軽油の代わりにディーゼル車を動かそうというような企てもある。

私の歌に

   春が来た春が来たよと菜の花よ生きるは愉(たの)し生きるは哀(かな)し・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
掲出した私の歌は、「生きる」ということは「愉しい」ことでもあり、また或る一面では「生きる」というのは「哀しい」ことでもある、
という哀歓を詠んだものである。
「菜の花」を詠んだ歌を、この歌集からまとめて引いておく。

    咲きほこる菜の花いつぽん切りとりて花瓶に挿せり危ふく挿さる・・・・・・・・・・・木村草弥

    春が来た春が来たよと菜の花よ生きるは愉し生きるは哀し

    菜の花を花瓶に挿せば風景が青き地図埋めたちまち展(ひら)く

    見ひらける瞳のかなた産土(うぶすな)のひろごる視野は黄なる菜の花

この頃では「菜の花漬」として蕾の花と茎の先端の部分を塩漬けにして芥子を少しあえて「菜の花漬」というものが季節の浅漬け、
あるいは「おひたし」としてスーパーなどでも盛んに売られている。あっさりしておいしいものである。
時代とともに、菜の花の利用法も変わってくるのである。

俳句の世界でも、芭蕉、蕪村の頃から「菜の花」は盛んに詠まれてきた。
以下、それらを引いて終りにしたい。

 菜畑に花見顔なる雀かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 菜の花や月は東に日は西に・・・・・・・・与謝蕪村

 菜の花やかすみの裾に少しづつ・・・・・・・・小林一茶

 菜の花の野末に低し天王寺・・・・・・・・正岡子規

 菜の花といふ平凡を愛しけり・・・・・・・・富安風生

 菜の花や夕映えの顔物を言ふ・・・・・・・・中村草田男

 菜が咲いて鳰も去りにき我も去る・・・・・・・・加藤楸邨

 菜の花に昔ながらの近江富士・・・・・・・・山口波津女

 三輪山の裾ひろがりや菜の花に・・・・・・・・滝井孝作

 家々や菜の花色の灯をともし・・・・・・・・木下夕爾

 菜の花の地平や父の肩車・・・・・・・・成田千空

 菜の花や西の遥かにぽるとがる・・・・・・・・有馬朗人

 一輌の電車浮き来る花菜中・・・・・・・・松本旭

 菜の花の怒涛のごとき黄なるかな・・・・・・・・辰巳あした



三毛猫の蹠あかく天窓の玻璃に五弁の花捺しゆけり・・・木村草弥
16810猫足裏

    三毛猫の蹠(あしうら)あかく天窓の
         玻璃に五弁の花捺(お)しゆけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

猫の足裏は「肉球」と呼ばれ、猫にとっては足裏の重要な感覚器官であるらしい。
足形は、ちょうど五弁の梅の花のような形をしており、これは梅鉢形と似ている。
私の歌は、別にとりたてて、どうという歌ではないが、明り取りの天窓のガラスを渡って行った三毛猫の足裏を五弁の梅の花と捉えて、即興的に詠んだものである。

世の中には「猫好き」の人が多くて、ネット上でもさまざまの記事や写真が出ている。
私自身は「猫嫌い」である。
というのは、私の家の庭は猫の通路になっていて、臭い臭い糞をしたり、小便をひっかけたりするので、被害甚大である。
家の中だけで飼い、下のものの始末も砂箱を用意したりする心がけのよい愛猫家なら私は何も言わないが、得てして、「犬は毎日散歩させなければならないから面倒だが、猫は自分で用を足してくるから楽だ」などとほざく手合いが大半なのである。
そのトバッチリが私の家に廻ってきているのだ。
農家も困っている。種などを蒔いて白い砂で表面をきれいにしてある畑を足でかき回したり、敷き藁の上に糞をしたりと、悪さをするばかりである。
おまけに犬の糞は固くて、そんなに臭くはないが、猫の糞はべちゃべちゃに緩い便で、しかも限りなく臭い。
私が「猫嫌い」になった理由である。
そんな私が猫を歌に詠んだというのだから、褒めてもらいたい気分である。
今しも当地は「梅の花」の咲くシーズンである。梅の花と似た足裏を持つゆえに、先ずは許しておこう。


水あふれゐて啓蟄の最上川・・・森澄雄
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     水あふれゐて啓蟄の最上川・・・・・・・・・・・・・・・森澄雄

今日3月6日は二十四節気の一つ「啓蟄」の日である。
啓とはひらく、蟄とは巣ごもりのこと。
つまり土中に冬眠していた爬虫類や虫が、この頃になると冬眠から覚めて、地上に姿を現すこと。
また「地虫」そのものを指すこともある。
啓蟄をさらに具体的に言った言葉に、地虫穴を出づ、蛇穴を出づ、蜥蜴穴を出づ、などがある。

私の歌に

    春雷が大地を打ちてめざめしむ啓蟄(けいちつ)の日よ昏(くら)き蛇穴・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この頃に鳴る雷を「虫出しの雷」などと言う。掲出の私の歌は、まさに、そういう光景を詠ったものである。
この「啓蟄」という言葉には、天地が春の躍動を示しはじめた喜びと活気を表わし、開放感がこめられていると言えよう。
ガマガエルなどは、まだ寒い時期に穴を出て交接し、雌は産卵して、また穴に潜って、もっと暖かくなった頃に本式に穴を出るという。
(注)動物の繁殖方法には一般的には「交尾」という言葉を使うが、厳密には区別される。
   つまり雄が生殖器を雌の体内に挿入して体内受精するものを「交尾」。
   抱きつくなどの姿勢で雌が放出した卵に雄が精子を放出して受精させるのを「交接」または「抱接」と区別される。
   魚などの抱き合うこともない水中などへ精子を放つのを「放精」という。
   こだわるようだが、これらは生殖にまつわる「概念」なので、意識して厳密に区別して使いたい。

寒い頃には餌になる生き物も少なく、また「変温動物」なので寒いと活動に支障をきたすからだろう。
掲出した写真は「ナミヘビ」である。地中で越冬するときも、こういうとぐろを巻いた姿勢だろうか。

俳句でも古くからさまざまに詠われてきた。それを少し引いておく。

 啓蟄の蟻が早引く地虫かな・・・・・・・・高浜虚子

 啓蟄のいとし児ひとりよちよちと・・・・・・・・飯田蛇笏

 香薬師啓蟄を知らで居賜へり・・・・・・・・水原秋桜子

 啓蟄の蚯蚓の紅のすきとほる・・・・・・・・山口青邨

 啓蟄の雲の奥より仏の目・・・・・・・・加藤楸邨

 啓蟄や四十の未知のかぎりなし・・・・・・・・能村登四郎

 啓蟄や解(ほぐ)すものなく縫ふものなく・・・・・・・・石川桂郎

 啓蟄の土洞然と開きけり・・・・・・・・阿波野青畝

 啓蟄を啣へて雀飛びにけり・・・・・・・・川端茅舎

この句などは、先に書いた「啓蟄=地虫」そのものを描いている。

 啓蟄の大地月下となりしかな・・・・・・・・大野林火



いづこにも貧しき道がよこたはり神の遊びのごとく白梅・・・玉城徹
ume3白梅

    いづこにも貧しき道がよこたはり
          神の遊びのごとく白梅・・・・・・・・・・・・・・玉城徹


玉城徹は大正末期の生まれで、東京大学美学科卒業という人である。
彼の私生活ないしは辿ってきた道程については知らないが、高校教師をしていたらしい。その頃、教員組合の幹部として政治活動にも携わったらしい。
歌人としては、専攻した学問の教養もあって優れた作品を残し、結社「うた」を主宰していたが、先年解散した。
後継の結社も、「うた」を継承するようなことは許さなかったらしい。彼の父親は玉城肇という高名な学者である。
今をときめく短歌結社「塔」の選者をしている花山多佳子が玉城の娘であり、「うた新聞」を発行しているいりの舎玉城入野は彼の息子であり、西欧文学の翻訳家でもある。
因みに、この人は2010/07/13に八十六歳で亡くなられた。
追悼記事で篠弘は言う

<論作の両面においてディレッタンティズムに徹したひとで、「ことば」をもって新たなる現実を構成しようとする志向は、後続する世代にすくなからぬ影響をもっていた。
まずディレッタントであった証左に、戦後短歌のリアリズムに反発する。
「既成の技法に近代的擬装をほどこし得たに過ぎない」と、果敢に批判視する。・・・・・・・>

この歌は、メタファーによって構成された歌である。
「貧しき道」というのも、いろいろに解釈は出来るが、本当のところは作者自身の自歌自注を聞かないと判らない。
「神の遊びのごとく」というフレーズが独特であり、かつ、この歌の眼目である。白梅が「神の遊びのごとく」咲いている、という表現によって、
漂う雰囲気から、すがすがしい白梅であることが推察される。
言葉を替えれば「神の造化」の力によって──つまり、それが「神の遊び」なのだが──この清らかな、すがすがしい「白梅」が作られた、というわけである。

先に言ったように玉城徹については私は何も知らないし、資料もないが、彼の作品を少し抄出しておきたい。
阿木津英のホームページにも彼のことが記事にしてあるので、参照されたし。
以下、彼の歌を少し引いておく。

宝石のごときがそらに巣を張りて犠牲(いけにへ)を待つ敢へて払はず

足羽川秋の終りのかがやきを越えて入りゆく曙覧の山へ

悄然とゐるにもあらず硝子戸にうつりてわれは李太白読む

夢に聴く箴言一つ棒を把らば棒の力に動かされなむ

おのれよりほつれ出でたる一筋の糸に爪さきのかかりてころぶ

ひばりの音(ね)そらに満つるを縫ふごとくセツカ鳴くなりひねもす浜に

語るべきことにあらねど焼跡の東京に日の沈みゆく見き

海の辺に三年住みつつ今朝われの松原歩む形容(かたち)老いたり

方代の歌碑の石見むと右左口の村に今日くれば桃の花照る

春雷の昨夜(よべ)わたりける朝空を鎮めて富士は雪あらたなり

椅子を起(た)つ。──図録取(と)う出てブラックが晩年作に鳥を見るべく

力なく信なき衆多(あまた)群れ集ひ塔造らむとはたらく見やる

海ばらは白波たてり双ぶごとあひ背くごと限りも知らに

第一次の大戦に出でモダニストのその幾人かいのちを殞(おと)す

軍歌一つ唱へとわれに要(もと)めて言ふカウンターの暗き隅より一人

吾れやこれいかなる手にも把(つか)まれず挙げられざりし觴(さかづき)のごと

今の世に既視感(デ・ジャ・ヴュ)といへることなども書きとどめたり兼好法師

香貫野は田は鋤きにけり日のひかり土くれに沁み午ちかづきぬ

侵略はつねに防衛の名によりきこの単純を言はざるべからず

ワカキヒニモオイタルヒニモイクタビモハゲマシクレキキミハイマナキカ
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いま手元にある資料から歌を抽出したが、さすがに深い教養に裏打ちされた歌群である。いくつかは解説が必要だが、今回は省略する。



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